科研費共同研究
いのちとこころに関わる現代の諸問題の現場に臨む臨床人間学の方法論的構築
研究会(2001年9月1日)


報告:末期がん患者の精神医療のあり方をめぐって

〜ケアの人間学へむけて〜



 以下は、とりあえずの暫定的原稿です。「報告」が中心で、「考察」はまだまだ不十分です。どんどん改稿されますので、取り扱いにご注意ください。

はじめに

 筆者は、今年に入ってから、「臨床と哲学の研究会」の参加メンバーである精神科医の方々それぞれの職場を見学・調査に回っています。これまでに、A県のO病院、H病院、T高校を訪問しました。その続きとして、先日(8月2日)、A県A市にある、A病院に見学・調査に行って来ました。本日は、この病院訪問について、簡単に報告いたします。
 現在JR駅前に位置するこの病院は、建物が老朽化していることもあり、A市の郊外に移転計画があり、新築工事(来年完成予定)を進めておりますが、そこに別棟17床の緩和ケア病棟が開設されることになっております。現在は各診療科に分かれて対応をしている、がん末期患者について、この新棟では、固有の対応ができることになります。その準備のため、現在、担当各科から数人ずつが集まって、緩和ケア棟準備委員会が運営されていると聞きました。そこで、同病院の特に精神科の医師に、精神科医としての緩和ケア病棟での役割についてお話しを伺う、というのが今回の訪問の主旨でした。
 このような関心から訪問を行ったのは、昨年末にがんの告知を受けていた義父が、先日(7月20日)、Kセンター(F市)にて他界したという、筆者の私的な出来事も背景になっています。そこで、少しプライベートなことになりますが、この義父の場合について簡単に紹介するなかで、末期がん患者の精神医療のあり方について考えたことから話を始めたいと思います。



【T】義父の場合

(以下、義父についての話は、義父の付き添いをする義母を支えるために、介護休暇を取り、義父・義母の実家と病院の間を毎日のように往復していた長女=筆者の妻=から伝え聞いたことが多いことをお断りしておきます。)

 昨年12月29日、F県N市に住む義父は、隣のI市のI病院外科で、精密検査の結果、膵臓尾部の癌(4p×2.5p)が確認され、しかもそれは既に3カ所に転移しており、右肺に4pの影、左肺に2〜3カ所の小さい影が見られ、肝臓リンパ節にも転移の可能性大と診断されました。義母・義父の希望により、二人一緒の場で「告知」が行われました。年が明けて、1月12日、同病院にて検査結果についての詳しい説明が行われ、「膵臓癌、転移あり。手術しても何回かの大変難しいものとなり、年齢と体力からして有効ではない。抗がん剤治療をしても5〜12%の確率しかなく、膵臓癌には効きにくい。手がつけられない」という旨の説明がありました。本人は、「今のところ極端な痛みはなく、痛み止めの必要も感じない」状態にあったものの、2年ほど前から体調を崩し、体重が減り、何かおかしいという自覚症状があったにもかかわらず、検査の結果としては癌という診断はなかったため、この説明に「やはり、そうだったか」と納得するところもあり、その場で、「手術・抗がん剤ともに治療はせず、余生を楽しむことにする」という決断を述べました。疼痛緩和剤と免疫力増強剤を調合してもらって帰りましたが、その一週間後には、「痛み(鈍痛)が長くなってきた」という変化が見られ、2月に入ると体調がますます悪くなり、3月5・6日には血痰が出ました。3月12日、同病院にこの血痰を持っていったところ、「肺への転移が広がっており、もはや手のほどこしようはなく、余命6ヶ月くらいだろう」との宣告を受けました。
 初め「告知」を受けた時には「手術・抗がん剤ともに治療はしない」という決断をしたということを聞いて、私の方でも、そういうことならと、もっぱら緩和ケア・ホスピス・在宅ケアという選択肢についていろいろ調べて情報を提供したりしていました(1)。しかし、「治療はしない」という決断が果たして良かったのかどうか、心の底では実は義父も義母も迷っていました。一方では、人づてに得られた「驚異のきのこ・アガリクス」(2)といった情報に、藁をも掴みたいという気持ちで飛びつき、高価な錠剤を購入して服用しながらも、他方では、抗がん剤治療についてのいくつかの最新情報を得て、その可能性も探ってみたいということになりました。
 一つは、以前にたまたま見ていたテレビ番組NHKスペシャル「世紀を越えて がんと闘う−患者主役の治療へ」(2000年6月11日放映)のことを思い出し、それを調べて欲しいと依頼されました。これは、同番組に基づいて編集された本(3)にも紹介されていますが、H医師(東京都T病院、ただし非常勤)の行っている「副作用のない抗がん剤治療」のことで、「癌と共に生きる会」のHPでは、膵臓癌でこの治療を受けている或る患者のことが紹介されています。もう一つは、これもたまたま見ていた民放の番組「たけしの万物創世記」(2001年2月27日放映)で、O医師(横浜市Eクリニック)の行っている「痛みを伴わず副作用のない最新鋭のガン治療法血管内治療」が紹介されていました。しかし、H医師(東京)やO医師(横浜)のところまで治療を受けに行くかどうか、決心がつかず、迷っていました。ただその中で分かってきたのは、ゲムシタビン(製品名ジェムザール)という抗がん剤が、欧米では膵臓癌の第一選択薬として使われているが、日本ではまだ認可されていないということ、ところがH医師はこれを保険適用外で使っているということでした。しかも、ちょうどその頃、創刊されたばかりの雑誌『がん治療最前線』No.1(2001年3月1日)に、「膵がん:欧米で膵がんの第一選択肢になった新抗がん剤を検証」という記事が載り、まさにこのゲムシタビンについて紹介され、国立がんセンターでも使っていることが紹介されていました(4)。ところが、義父がかかっていたI病院に問い合わせたところ、同病院ではこのゲムシタビンは使っていないという返事でした。
 そんな時期、インターネットを使って医師達ががん治療の相談に乗り、セカンドオピニオンを提供している「キャンサーネットジャパン」というサイトの存在を知り、セカンドオピニオンを依頼することにし、メール(5)を送りました(3月12日)。すると、2日後に返事のメール(6)が来ました。この返事を義父・義母にも読んで考えてもらったところ、「できるだけのことをやってみたい。しかし、東京や横浜まで行って治療を受けるのは難しい。もっと近くでゲムシタビンを使った治療を受けられないだろうか」というので、国立がんセンターでも使っているようなら、F市にあるKセンターでもやっているかも知れないと考え、同センターのHPから、内科で膵臓癌を担当していると思われるF医師にメール(7)を送りました(3月15日)。このメールを送ったのが午後3時くらいでしたが、午後4時半頃には早くも、F医師から直接研究室に電話をいただきました。「ジェムザールは3月中には保険適用になる運び。ただし、使い方に慣れていないとすぐに使うのは難しい。Kセンターでは、すでに実験的に使ってきているので、充分対応できる。ただし、効果は3〜4割なので、誰にでも効くとは限らない。最初は1ヶ月ほど入院の必要がある。その後、調子がよければ、週一回の通院でもよい。入院の意志があれば、ベットが空き次第連絡する。1週間ほどでベットの手配はできると思う」という内容の返事でした。同日夜、義父・義母にこのことを伝えると、もうすぐにでも入院したいという話になり、翌日朝9時にその旨のメールを送ると、2時間後には病棟婦長から病室についての打ち合わせのため、電話をありました。そんな次第で、とんとん拍子に入院の手はずが整い、3月21日に入院の運びとなりました。F医師と病棟婦長の配慮のおかげか、初めから個室(差額ベット料あり)に入ることができました。
 数日間いくつかの検査が続き体調を整えた後、3月26日から、抗がん剤ゲムシタビンでの治療が始まりました(8)。治療の仕方は、週1回1〜2時間をかけて投与し、それを3週続けた後に、1週あいだを空けて検査をする、というのが1クール(Kur)という単位となります。1クールをしてみて、「その後、調子がよければ、週一回の通院でもよい」という話もありましたが、在宅ケアにするということについては義母(もともと腰が悪く、これまでも日常生活がやっとの状態だった)の方に自信がなく、車で片道2時間の通院も大変だということで、入院したまま4月下旬には2クール目に入りました。その間も、鎮痛剤(MSコンチン=モルヒネ)により疼痛は抑えられており、抗がん剤の効果か、検査でも肺の転移が広がっていないことは確認されたものの、決して元気になるという状態ではなく、急速に悪くなるということはありませんが、一歩一歩下り階段を下りていくように、身体能力が衰え、横になったり眠ったりしている時間が増えて行きました。退院して自宅ケアという話にはとてもならないまま、5月下旬には3クール目にはいりました。3クールが終わった時点で一度2〜3日だけでも帰宅したいという本人の希望もありましたが、その時点では、とても車に2時間揺られて移動できる状態ではありませんでした。6月下旬に予定されていた4クール目は、本人の希望もあり、医師も強くは勧めないということもあり、中止することになりました。
 この時点で、緩和ケア病棟ないしホスピスに、あるいは在宅ケアに移るということも考えました。Kセンターは、基本的にがん治療のためのセンターなので、緩和ケア病棟やホスピス病棟をもっていません。F市・K市近郊のいくつかの緩和ケアやホスピスの施設、義父の住むN市で在宅ケアをやっている医院などのことも調べてみました(9)。しかし、義父自身が、「必ずしもホスピスに移りたいという希望はない」と述べていましたし、義父・義母としてはKセンターの看護婦のケアにも満足していたようで、「いまから別の緩和ケア病棟ないしホスピスの新しい環境に移るより、もうこのままここで最後を迎えてもいい(迎えたい)」という希望を述べいました。それは、7月上旬のある日、義父・義母・長女(筆者の妻)・担当のF医師・看護婦長の5人が揃っていて、今後の方針についての話になった時でした。義父から、「できれば、ここで最後を迎えたいと思う。もう抗がん剤治療はやめたいが、緩和ケア・疼痛コントロールは続けていただきたい。ただし、最後の延命治療はしないで欲しい」という希望が表明され、F医師からも、「ここでは、抗がん剤治療だけでなく緩和医療もやっています。抗がん剤治療をしないからと追い出すことはありません。希望するだけ、入院してもらっていて構いません」と答えてくれました(10)。書面としてリビング・ウィルを書き残したわけではありませんが、実質上、この5人の集まりが「リビング・ウィル」を確認する場面になったと言ってよいでしょう。
 こうして、そのままKセンター滞在することになりました。そして、それから2週間ほど、入院してからちょうど4ヶ月経った7月20日、F医師や看護婦たちの心配りのあるケアを受け、最後は義母と長女(筆者の妻)の二人に看取られて、4ヶ月過ごした病室で(集中治療室ではなく)、好きな音楽を聴きながら、ゆっくりと息を引き取ることになりました(医師・看護婦は呼吸停止の連絡を受けてから、三兆候の確認のためにやって来ました)。入院している間ほとんど疼痛で苦しむことなく、好きな音楽をずっと聴き続けた義父を、22日、最後の生前の意志として、家族・兄弟だけの密葬で見送ることになりました。



【U】義父の場合から見た精神的なケアの問題

 さて、ここで以上のような義父の場合について、精神的なケアがどうだったか、そして、およそ末期がん患者について、精神的ケアがどうあるべきか、について考えてみたいと思います。 
 義父は基本的には、「告知」を受け、その事実を受け止め、残り少ない命を覚悟していたと言えますが、そのなかに迷いや動揺がなかったわけではありません。「余命6ヶ月の告知」を受けた後、まだ自宅にいた時に一度、そして、入院して意識が次第に混濁してきた頃に一度、あわせて二度だけ、義母に対して「死にたくない」と言って涙を流したことがあると聞いています。「生への執着」と「死の受容」の間で揺れながら、次第に「死の受容」が行われていくというプロセスは、ほとんど義母とのあいだでのみ担われたようです。また、入院期間の後半頃、ほとんど毎日義母が泊まり込んでいた頃ですが、一度、ささいなことで二人が喧嘩をして、義母が帰宅してしまったことがありました。翌日にはすぐまた病院に戻ったそうですが、戻ってみると、病室内が散らかっており、看護婦さんに聞くと、「奥さんに捨てられたと言っていましたよ」とのことで、どうやら自由に動かない体ながら病室内で暴れたようだったとのことでした。長年ともに過ごしてきた夫婦でも、介護する側・介護される側(やがては、看取る側・看取られる側)という一方的な関係の重圧のなかで、二人きりではやり切れないことがあるのではないかと思います。しかし、そんなこともそれが最後で、そのあとますます状態は悪くなり、意識レベルが下がって行きました。
 最新の抗がん剤ゲムシタビンは、「余命3ヶ月が1年10ヶ月の延命」というケースも紹介されていましたが、義父の場合、延命という点ではそれほどの効果がなかったようです。しかし、抗がん剤の副作用として言われるような症状(嘔気、嘔吐、脱毛、など)はほとんどなく(強いて言えば、眠る時間が多くなったのが「副作用」と言うべきか)、肺への転移を抑制する効果はあったようで、何よりも、最先端の医療を受けられたということが、義父・義母にとっては、「それで駄目なら、あきらめがつく」という意味での満足感となっていたと思われます。また、疼痛・身体的な苦痛については、十分に緩和コントロールされ、痛みで苦しむということはほとんどなかったようです(11)。こうした点での身体的ケアについては、義父・義母ともに満足していたと言ってよいでしょう。
 しかし、排泄にまつわる身体的苦痛はいろいろとあったようです。入院当初は、自分で歩いてトイレに行っていたのが、歩行器につかまりながらになり、介護者に支えられながらになり、やがて寝たきりで排尿管とおむつになり、という過程を辿っていきました。センターの理念としては「完全看護」という体制とは言いながら、夜中に排泄のためにナースコールをするのは心理的ストレスとなりますし、早い時期から、抗がん剤の影響か(副作用?)意識レベルが下がったため、自分でナースコールできないことがありました。幸い入院当初から個室に入ることができましたが、そこでも付き添いが寝泊まりするように基本的にはなっていません。にもかかわらず、自分でナースコールできないこともあったため、看護婦からは、特に夜間は手薄になる(緩和ケア病棟に比べると、治療が主体のがんセンターでは、看護婦一人当たりが担当する患者の数は多い)ので、できれば付き添ってもらった方がいいと言われ、義母からの希望もあって、簡易ベッドを用意してもらって寝泊まりすることになりました。結局、そういう意味での身体的ケアの多くは、義母が面倒みることになりました。
 義父はもともと、絵を描くことと音楽を聴くことを趣味にしていました。長年絵を習ってきた先生が今年の1月に亡くなり、入院する前から絵を描く機会も少なくなり、気力も薄れてしまっていたようですが、入院してからは、道具を持ち込むことも難しく、絵を描くことは不可能になりました。もっぱら、小型のステレオを病室に持ち込んで、寝ている間も好きな音楽を聴いていることになりました。義母は、義父が息をひきとってからも、家に帰ってお棺に入れられた後も、葬儀の日に読経のお坊さんが来る直前まで、義父が好きだった音楽を鳴らし続けました。最後まで残る感覚は聴覚だと言いますが、それが義父には幸いだったでしょう。好きな音楽を最後まで聴きながら旅立つことができた、という点では、精神的に満足していたと思われます。
 入院する前も、体調を崩すようになってから、人づきあいを自ら制限するようになっていました。入院したことも、限られた2〜3人の親しい友人と、子供・兄弟関係にしか知らせず、お見舞いも自ら最低限にしてもらうよう、希望していました。60歳で退職し、委嘱で会計監査を引き受けていたのも65歳頃には止め、社会参加から身を引き、もっぱら趣味に生きていた義父(享年79歳)は、古くからの数人の友人のほかには、もっぱら、子供(私の妻とその妹)や孫達(5人)と会うのを一番の楽しみにしていました。年末に告知を受けたことを聞き、正月には、子供・孫達が全員(9人)、義父・義母の家(N市)に集まりました。そして、6月30日、ほとんど意識のある時間が短くなってきた時、義父に孫達をおそらく最後になるであろうが会わせてやりたいということで、ふたたび急遽、全員がKセンターに集まりました。義父は、不思議とその時だけはっきりと意識を取り戻し、一人一人手をにぎりながら笑顔を示しました(目はもう見えていませんでしたし、はっきりした言葉を話せる状態でもありませんでした)。その日を境に、もうはっきりとした反応を示すことはなくなりました。孫達を連れていったのは、いいタイミングだったと思います。社会とのつながりとは言えないかも知れませんが、決して孤独感を味わうことはなく、家族に囲まれ、人とのつながりについても、満足していたと思います。
 しかし、初めから個室に入ることができたのは、メリットもありましたが、デメリットもあったように思います。ずっと音楽を聴くことができたり、義母が付き添いできたりしたのは、個室だからこそできたメリットだったでしょうが、他の患者、同じ病院で同じように苦しんでいる、言わば「仲間」と話をしたりする機会がなかったのはデメリットだったかも知れません。初め4人部屋に入っていても、義父のような末期段階になると個室に移るようですが、同じ病に苦しんでいる「仲間」との交流がまったくなく、夫婦だけの閉じられた空間になってしまい、接点と言えば医師と看護婦のみという状態がいいことだったかどうか。ほんの少し日常的な挨拶をするだけだったとしても、同じ病に苦しんでいる「仲間」と接する機会があれば、それで癒されることもあるのではないでしょうか。義父・義母が閉じられた関係に入り込んでしまったことが、前述のような、末期状態のなかでの喧嘩をもたらしたようにも思います。この点、人とのつながりについては、疑問の残るところもあります。
 この点は置くとして、基本的には以上のように、義父の場合、基本的には、がんセンターの医師・看護婦の良心的な対応と家族の努力によって、身体的にも精神的にも満足できるケアを受けたと言えるでしょう。しかし、それでも先に述べたように、「死にたくない」と涙を流したこと、「妻に捨てられた」と暴れたことがあったのです。医師・看護婦ができる精神的ケアがあり、家族ができる精神的ケアもあるでしょうが、そのどちらによってもなお満たされない何かがあるような気がします。それは、「死の受容」に関わることでしょうが、それは私には、単なる「こころのもちよう」という心理的な問題というより、もっと深い問題、「生きることの意味」あるいは「死ぬことの意味」といった、何か「たましい」とか「スピリチュアル」とでも呼ばれるような問題に関わっているように思われます。
 WHO(世界保健機構)は、「緩和ケア」を定義するにあたって、それを「全体的なケア」であるとして、そのうちに「身体的痛み」のコントロールだけでなく、「心理的」問題、「社会的」問題、さらには「スピリチュアル」な問題を緩和することも含めています。
    「緩和ケアとは、治癒を目的とした治療に反応しなくなった疾患をもつ患者に対して行われる積極的で全体的なケアであり、痛みとそれ以外の諸症状のコントロール、心理的、社会的、霊的(スピリチュアル)な問題の解決がもっとも重要な課題となる。」(12)
この「スピリチュアル」という語を日本語でどう訳すかも含め、それをどう理解するかは難しいところです。『ケアの倫理』の著者・森村修は、それを「霊的」と訳して何か宗教的なものと考えることは、この語を狭くしてしまうのではないかと考えています。むしろ、「自分の将来や死後を考え、自分の来し方行く末に思いを馳せて、「自分の存在意味」や「死の意味」に悩むとき、「魂(spirit)」が悲鳴を上げることがある」と言って、そこから、「私たちの<人間としての統合的全体性>は、身体的・心理的・社会的・スピリチュアルという四つの側面をもつというよりも、それらを包括する<スピリチュアリティ>という観点から、<からだ>と<心>と人間関係の有機的な連関が見えてくると考えた方が適切である。それゆえ、私は、<スピリチュアリティ>を四つのカテゴリーの一部として考えるのではなくて、人間の持つ統合的全体性という意味と、同義的に用いることにしたい」と提案しています(13)
 私もこの理解に基本的には賛同していいと思いますが、このような包括的に理解された「緩和ケア」の理念は、どれだけ実現しているのでしょうか。そして、それを担うのは誰なのでしょうか。とりわけ、「スピリチュアルなケア」とか「たましいのケア」(14)とか呼ぶべきものがあるのか。それを担うのは、医師なのか、看護婦なのか、それとも家族なのか。それとも、それは本人自身の課題であって、周りの人には手をさしのべることができない(周りの人が「ケア」できることではない)課題なのか。それが問題だと思います。おそらく、最終的には本人自身の課題と言わざるをえないとしても、それを誰かがサポートしてあげられるのではないでしょうか。それをサポートできるのは、誰なのでしょうか。医師、看護婦、家族、それとも周りの「仲間」なのか。ここに、もう一つの可能性として、精神科医あるいは臨床心理士の役割もあるのではないでしょうか。ここで、少し、末期がん患者と精神科医の関わりについて見てみましょう。
 Kセンターの場合、前述のように、緩和ケア病棟ないしホスピス病棟はありません。また、精神科の医師も臨床心理士もおりません。ということは、基本的には治療を仕事にしている各科の医師(義父の場合、内科のF医師)、およびそのための病棟に勤務している看護婦(緩和ケアないしホスピスについて特別な教育を受けて来たわけではない)(15)が、末期患者の精神的ケアも、できる限りでする、という体制でしかないということです。確かに、義父・義母たち自身が、特別のホスピス的対応・精神的ケアを求めはしなかったし、だからこそ最後の時期を緩和ケア病棟ないしホスピスに移りたいという希望ももたなかったわけです。また、精神的ケアができるのは誰よりも家族であって、医師や看護婦も、また精神科医がいたとしても、できることは家族のサポートくらいしかないのかも知れません。しかし、家族もどう対応していいか分からないという時、単に医療的な問題より、患者の精神的な問題について相談に乗ってくれるような医師(精神科医)があってもよかったのではないか、という気はします。Kセンターに、そのようなサポートは望めなかったわけです。
 いま全国的な流れとしては(Kセンターの対応にも窺われることですが)、「がんセンターは治療をするところ、治療をしないで緩和ケアやホスピスを求める患者は、専用の病院・施設に」という従来の体制から、次第に、がんセンターでも緩和ケアやホスピスにも対応できるように、治療と緩和医療とを連続して考えていこうという動きになっているようにも見えます(16)。このような緩和医療・緩和ケアの動きと連動して、がんセンターにも、ただ身体各部位のがん患部だけを見る各科の医師だけでなく、患者の精神的な問題に対応する精神科医も必要だ、という考えも進んできていると思われます。また、精神医学の一分野として、あるいは心身医学(17)の一分野として、さらには精神免疫学(18)の発展としての精神腫瘍学(サイコオンコロジー)(19)という学問についての研究も一部で進んできています。ただ、こうした動きはまだまだ進んでいないというのが現状だと思います。
 がんセンターというのは、インターネットのホームページを調べてみる限り(実際には、もう少し変わってきているのかも知れませんが)、全国的に見ても、精神科を備えているところは多くありません。国立がんセンターには、中央病院と東病院とで併任の精神科医が一人いるだけで、研究所支所(柏市)に「精神腫瘍学研究部」が設置されてはいますが、その研究がまだ臨床の現場で十分生かされるには至っていないようです。A県がんセンター、C県がんセンター、M県立がんセンター、そしてKセンターには、精神科はありません。N県立がんセンターには、HPで見る限り、精神科は看板のみで、スタッフの名が挙がっていません。I県地域がんセンターでは、平成8年に精神科が開設(スタッフ数不明)されて、平成7年より地域がんセンターを開設し、ホスピス病室を設置しているようです。T県立がんセンターには、緩和ケア病棟があり、精神腫瘍研究室もあります。そういう状況のなかで、群を抜いて充実しているのは、C地方がんセンターで、ここには、4名の精神科医と3名のレジデント(実習生)からなるスタッフがおり、積極的に、リエゾン(=連携)精神医療(20)とサイコオンコロジー(がん医療における心の医学=精神腫瘍学)に取り組んでいます。これは、がんセンターとしては稀な例と言うべきでしょう。
 やはり、緩和ケアやホスピスは、がんセンターではなく、医療法人系、財団法人系、社会福祉法人系、そしてキリスト教系の病院・クリニックが中心になっているというのが現状のようです(21)。A県では、A病院/緩和ケア病棟(ホスピス)(Ni市)、K病院/緩和ケア病棟(Na市)、M病院/緩和ケア病棟(Na市)についで、四つ目の緩和ケア病棟が計画されています。それが、今回筆者が訪問したA病院なのです。



【V】A病院の場合

 さて、そういう全国的な状況のなかで、今回筆者が訪問見学させていただいたA病院の話に戻ります。同病院では現在、精神科のスタッフは、2名の精神科医、2名の臨床心理士から成っています(心理の先生はたいてい一人で、同病院のように二人いるのは珍しいそうです)。私が訪問した時には、2名の精神科医、1名の臨床心理士、という3人の先生が対応してくれました。そのうちの一人の精神科医が、前述の緩和ケア病棟準備委員会に参加しているとのことでした。
 一般に、精神医学とがん患者との関わりは、
  1. 精神科医キュブラー・ロス(22)以来の死生学による関わり
  2. 精神腫瘍学(サイコオンコロジー)による関わり
  3. リエゾン(連携)医療の一環としてのリエゾン精神医学としての関わり
という三つが考えられますが、A病院のスタッフとしては、第三の「リエゾン医療の一環」として考えているようです。
 緩和ケア病棟がない現在の状態でも、一般総合病院である同病院の各科(内科、消化器科、呼吸器科、循環器科、婦人科など)にがん患者が受診しており、入院患者もおり、入院したまま末期を迎える患者もいます。そういう患者のうち、精神科的な問題を抱えた患者のみが、それぞれの科から紹介を受けて精神科にやって来ることになります。したがって、がん患者一般の問題(不安や焦りなど)ではなく、あくまでも、精神科的な病(分裂病、神経症など)を併発しているような患者のみが、訪れることになります。私が特に詳しく話を伺った精神科医の一人が担当した患者では、ここ6年くらいで、10数人ほど、そのようなケースで最後になるまで診た患者があるとのことでした。
 したがって、今度、緩和ケア病棟ができて、末期がん患者のリエゾン医療が盛んになっていった場合、精神科のスタッフとしては、精神科的な病を併発している患者というだけでなく、特に精神科的な病とは言えなくとも、末期患者特有の不安・焦りのような精神的苦痛を緩和ケアするようなことも要請されて来るだろうと考えられます。しかし、そういう要請に精神科のスタッフとしてどれだけ応えることができるか、「余り自信はない」とのことでした。「そういう点で患者を支えることができるのはやはり家族であって、精神科医としてできることは余りないのではないか」「今のところ考えているのは、せいぜい、各患者に週一回くらいの面接カウンセリングの時間を持つことと、緩和ケア病棟のスタッフ(医師・看護婦)の方の精神的バックアップ(ケア)をすること、くらいではないだろうか」ということでした(23)
 緩和ケア病棟の末期がん患者に対して、精神科医がどのような精神医療を提供することができるのか。A病院では、まだ模索の段階のようです(24)




【注】

(1)義父が住んでいるのがK市近郊であることもあり、F県の具体的な情報もまとめられている本、ファイナルステージを考える会・編『末期がん情報 余命6ヶ月から読む本』(海鳥社、1998年10月)を参照しました。
(2)新聞にもよく商業ベースの広告が載っていますが、比較的信頼できそうな参考文献を挙げれば、静岡大学名誉教授・水野卓『奇跡の茸「アガリクス」のすべて ガンと闘う免疫療法』(旬報社、1999年3月)、同『ガン特効の真実 アガリクス茸全書』(青萠堂、2001年5月)。
(3)NHKスペシャル『世紀を越えて』・安斎尚志・松本康男『がんとの闘い方は自分が決める』(KAWADE夢新書、2000年11月)
(4)「膵がん:欧米で膵がんの第一選択肢になった新抗がん剤を検証」(『がん治療最前線』No.1株式会社エマンダール、2001年3月1日)。
(5)キャンサーネトットジャパン宛のメール(3月12日)。
(6)キャンサーネトットジャパンからの返事メール(3月14日)
(7)F医師宛のメール(3月15日)
(8)同薬は、「遠い遠い“特効薬”」という記事(『朝日新聞』2001年3月4日朝刊)に見られるように、前述の「癌と共に生きる会」の人々の努力もあり、「3月中には保険適用になる運び」とF医師から聞いていましたが、その後、いろいろと手間取ったようで、4月終わりになってから認可され、保険適用となりました(『朝日新聞』2001年5月2日朝刊)。また、『がん治療最前線』No.3(2001年7月1日)でも、「膵臓がん=難治性がんという常識をうち破る放射線化学療法の新しい試み」という記事で「ゲムシタビンを中心にした化学療法」が取り上げられていました。
(9)全国ホスピス・緩和ケア病棟連絡協議会の資料を参照。
(10)基本的にがん治療のためのセンターですから、治療の方法がなくなったら、病室の空きを待っている患者もいるので、あとは緩和ケア病棟やホスピスのある施設に移ってもらうよう、センター側から言われるのが普通だという話も聞きます。F医師も、「そういう希望があるなら紹介します」と、具体的にいくつかの候補も挙げられたが、「ここで最後を迎えたいという希望があるようなら、緩和ケアもいたします」と言ってくれたわけです。これは、F医師の裁量で行われた特例なのか、Kセンターが、緩和ケア病棟を持たなくとも、がん治療の枠内に緩和ケアをも組み込んでいこうとしている傾向にあるのか、あるいは、全国的にがんセンターがそういう動きにあるのか、そこのあたりは筆者には分からない。
(11)モルヒネ(MSコンチン)の効果とともに、ゲムシタビンも、「がんを直接やっつけるというよりも、痛みなどの症状を和らげる効果がある」(『朝日新聞』2001年5月2日朝刊)とも言われています。
(12)"Palliative care is the active total care of patients whose disease is not responsive to curative treatment. Control of pain, of other symptoms, and of psychological, social and spiritual problems is paramount."(「WHOによる緩和ケアの定義」より)
(13)森村 修『ケアの倫理』(大修館書店、2000年4月)を参照。
(14)これは、広井良典『ケアを問いなおす』(ちくま新書、1997年11月)で使われている言い方。小論では、まだ「ケア」の問題について、突っ込んだ考察を行うに至っていません。この問題をもう少し掘り下げるには、同書ならびに、同『ケア学−越境するケアへ』(医学書院、2000年9月)から多くを学ばねばならないと考えています。
(15)にもかかわらず、Kセンターの看護婦たちは、十分に緩和ケア・ホスピス的な看護をしてくれたようです。ここにも、Kセンターが、緩和ケア病棟を持たなくとも、がん治療の枠内に緩和ケアをも組み込んでいこうとしている傾向にある、ことを感じさせるものがありました。
(16)因みに、緩和医療、緩和ケア、ホスピスという三つの言い方は、ほとんど同じことの言い換えとして使われることが多いのですが、少しずつ微妙な意味のずれがあり、患者や看護婦が中心になり市民運動として展開されてきたホスピスに対して、緩和医療というのは、むしろ医師の側が医療の一環として緩和の問題に取り組もうという側面が強いと言えましょうか。「緩和医療と緩和ケアとホスピスケアは、ほぼ同義であるものの、ニュアンスとして「緩和医療」は、より科学的な近代医療の見地からという意味合いが強まる」(高橋ユリカ『医療はよみがえるか−−ホスピス・緩和ケア病棟から』岩波書店、2001年5月)。
(17)「心身医学」とは、「身体医学的アプローチによって得られるデータと治療効果をしっかりふまえた上で、身体的諸条件と複雑にからみあい、それらとの微妙な交互作用をとおして、人間的な存在をあらしめている、心理社会的な因子の役割をも正しく評価し、心身を統合した立場からの診療を実践しようとする」医学で、主に、「身体症状を主とするが、その診断や治療に、心理的因子についての配慮が、とくに重要な意味をもつ病態」である「心身症」を治療研究対象として考えている(加藤正明ほか編『増補版 精神医学事典』弘文堂、1975年)。
(18)「こころと体の関係を、脳と免疫系を中心とした生体防御機構に焦点をあてて研究する学問を精神免疫学、あるいは精神神経免疫学、精神神経内分泌免疫学などと呼ぶ。・・・脳と免疫系がネットワークを形成しており、相互に情報をやり取りしていることが明らかになってきたのは、じつに過去20数年間のことである。すなわち、免疫学の進歩に遅れながらも、脳科学は独自の発展を遂げ、やがて両者は思わぬ邂逅を迎えた。ここに精神免疫学が誕生したのである。・・・がんの患者の治療にこころの支えが重要であることは論を待たないが、これは単に心理的、社会的な支援にとどまらず、がんそれ自体の医学的治療の上でも重要であることがわかり、腫瘍学と精神医学の交流が、新たな学問領域として、さかんに研究されるようになった。」(神庭重信『こころと体の対話−精神免疫学の世界−』文春新書、1999年5月)
(19)「精神神経免疫学」を特にがんの予防・治療へと適用して、ストレスや心理状態とガンとは免疫系を媒介にして関連すると考え、その関連仕方を研究する「精神腫瘍学(サイコオンコロジー)」という学問もある(頼藤和寛『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記』文春新書、2001年4月)。
(20)「コンサルテーション・リエゾン精神医学」とは、「総合病院において精神科以外の領域で精神科医の行う診断、治療、教育、研究のすべての活動を含む臨床精神医学の分野」(リポウスキー)であり、また、「医学の専門・細分化と身体科学への偏重により病める人間全体に対する理解が希薄になった反省から、total patient careをめざし、患者に対するbio-psycho-socialな理解を総合して診断と治療に役立てようという領域であるともいえよう」(前掲『増補版 精神医学事典』)。
(21)前述の全国ホスピス・緩和ケア病棟連絡協議会を参照。
(22)「1969年に出版されて以来、現在にいたるまで全世界で広く読みつがれており、ターミナルケア(末期医療)に関心を寄せる人びとにとっての「聖書」とすら呼ばれている」という、E・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』は、最近(2001年1月)文庫版も出版された。
(23)この回答は、恐らく正直なところであろう。次のような例もあるくらいなので。「地方都市の、ある緩和ケア病棟を訪れたときのことである。・・・「死に逝く人とどんな話をしていいかわからない、今でも逃げたいくらい」と率直な若い医師は、緩和医療の研修を受ける予定もないという。」(前掲『医療はよみがえるか−−ホスピス・緩和ケア病棟から』
(24)9月9日の朝日新聞の「ともに歩む」というコーナーで、「がん患者の精神的ケア」の問題が取り上げられ、東京で「毎週の患者同士のつどいをはじめ、精神的にリラックスする方法の指導、専門医によるセカンドオピニオン相談など」をしている「ジャパン・ウェルネス」(代表:竹中文良)が紹介されている(『朝日新聞』2001年9月9日朝刊)。


※ なお、本文中などで利用されているインターネット上のサイトについては、すべて、筆者の編集した「がん治療・緩和ケア・ホスピス関係のサイトへ」 を参照してください。