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【揺らぐ沖縄 すり込まれた「反基地」】(下)「政治闘争」からの脱却が課題 (1/2ページ)
慰霊の日の6月23日、沖縄県糸満市役所前から平和祈念公園(同市摩文仁)まで、毎年恒例の平和祈願慰霊大行進が行われた。千人を超える参加者の中に埼玉県桶川市から駆けつけた女性がいた。
臼田智子さん(67)だった。父の伍井(いつい)芳夫中佐=当時(32)=は昭和20年4月1日、米軍の沖縄侵攻を阻止するため、妻と3人の子供を埼玉県に残し、鹿児島県の陸軍特攻基地「知覧」から第23振武隊長として出撃、沖縄近海で散華した。
当時2歳だった智子さんには父の面影は薄いが、平成4年から欠かさず慰霊の日には沖縄を訪れている。
「最近ようやく沖縄の一部の人たちも父がなぜ戦死したのか分かってくれるようになった」。智子さんはそう語る。
大戦末期の昭和20年3月下旬から、多くの陸軍特攻隊員が沖縄に向け飛び立ち、1036人の命が散った。石垣島出身の伊舎堂用久(いしゃどう・ようきゅう)中佐=当時(24)=もその一人だった。3月26日、沖縄県民として初めて石垣島の白保飛行場から部下4人と出撃し、慶良間(けらま)諸島近海で特攻を敢行した。
だが今、多くの沖縄県民には、特攻隊の話はおろか同郷の伊舎堂中佐の出撃の事実さえ知られていない。
「戦艦大和は沖縄を攻撃するのが目的だった」「特攻隊の任務は沖縄を守ることではなかった」−。そう信じている若者も少なくないという。
47年の本土復帰後、沖縄県教職員組合(沖教組)と同県高等学校障害児学校教職員組合(高教組)が進めた「日本軍=悪」とする教育の影響にほかならない。
「学校では生徒に尊ぶべき史実が封印され続け、国家のために命を捧げた英霊の思いを後世に伝えることはなかった」
沖教組に所属した元高校教員はこう打ち明ける。
◆「自衛隊の存在認めぬ」
本土復帰後、沖教組が影響力を強めるとともに、沖縄での教育は加速をつけて「親日本」から逸脱、変節していった。
保守系の元県議によると、沖縄で本土復帰運動が一段と高まった38年ごろ、「沖縄を階級闘争の拠点に」と本土でイデオロギー闘争を繰り広げていたグループが参入し始めた。「祖国愛」教育を実践していた沖縄教職員会もその余波で徐々に左傾化していった。