今、拉致監禁されている人たちがいらっしゃると言うのは事実。
K・Y氏は「拉致監禁は是か非か?」でブログで議論をしている。
K・Y氏の理論は「拉致監禁は無くすべき!」と言う観点ではない。
「拉致監禁は是か非か?」というような理論は極端に言えば、反対派の人と同じ理論を持っている人物である。
反対派も「拉致監禁してでも、考え方を改めてもらわなければ困る。」という正当化に値する理由をもっているのであるから、「拉致監禁は是か非か?」と問われたら「是」と答えて実行しているだけのことである。
K・Y氏は「拉致監禁は是か非か?」と統一教会員に問う。教会員は「非」と答える。非と答えてもどういう活動をしたら良いのかわからず、「拉致監禁は是か非か?」と問うK・Y氏の書物を漠然と購入し、いかにも解決を図ろうとしているつもりの「言われたら実行する情けない教会員」が多数。
K・Y氏の理論が発展し「拉致監禁は無くすべき!」と言う観点にまで到達したらよいのだが、彼の理論は、はここでストップするのであります。
いつまででも、永遠にソクラテスのように思い悩むのが最終結論のようだ。
おまけに、彼はいつも統一教会員と接点を持つ。
献金をしたり、断食をしたり、苦しんだ教会員は人間であるから、彼の前で吐き出す言葉に弱音や批判めいた発言が何気なく出てしまう。その言葉をブログにして書くと、いかにも真実に思えるからそのままブログで活字にしてしまう。大量に統一教会の情報が入るからそのまま書く。彼の独善的理論はその弱音や批判こそが拉致監禁が起こる要因として教会批判にしてしまう。
「俺様が内密に入手した統一教会の内部情報にこそ大きな一因である。」と結論付ける。『統一教会がこう変われば、拉致監禁はなくなる。」と言う結論だ。反対派の論理と寸分と違わない理論だ。
これは「統一教会は宗教として切磋琢磨してはいけない。」と宗教活動そのものの批判にまで及ぶ理論だ。
そういう、安易なK・Y氏のような行動は決して「拉致監禁事件解決」に結びつかないことは明白である。理論が同じなのだから。
なぜなら、裁判になったときに裁判官はさまざまな資料に目を通すはずであるから当然、彼のブログも読破するはずである。「統一教会は内部でもこんなに批判されることをしているのだから回りの人間が力づくで、説得しようとしてもそれはそれで仕方がないことではないのか?」と思ったら裁判に勝てるどころか、拉致監禁する牧師や関係者をたいした犯罪者じゃないとして扱わないだろうか?Y氏の考え方は反対派と同じ考えではないか?と思うだろう。
ましてや、行政や、公安等の社会の不公平な仕組みなどわからないから、ハナから書かない、独善に満ち溢れたブログであれば、なおさら説得力があるかもしれない。
教会員たちの弱音やシステムを批判する言葉はあまり大きな要因ではない。むしろ、ほとんど関係ない。
「暴力をしてでも自分の価値観を押し付ける、強制監禁そのものが犯罪!」という人道的ルールが徹底されていない今の日本の状況を作り出している環境が大きな要因なのだ。宗教的な人を思いやる心や、行政、公安に潜む不公平な思想と怠慢行為に対して解析するのが賢い人間がすることだ。K・Y氏は多分そのようなことはほとんど考えてこなかったのだろう。そのようなことに対しての観点がまったくない理論は独善的といわれても仕方がない。
教会員の中でも真剣に考えている人は、後藤さんが一生懸命、検察に再審請求をしても、K・Y氏のような人物と一緒に運動していたら、絶対に勝つことが出来ないし、その努力も水の泡と化す可能性が高い、ということをよくご理解していただきたい。教会用語で言えばカイン圏(社会)に対するアベル圏(教会)の考え方を普及する理論ではなく、カインがアベルを打つ歴史をそのまま相続した理論で構成し、完成させようとしているのがK・Y理論である。カイン圏の方なので仕方がないとも思うがそのような従来の歴史で溢れかえってきた理論はむしろ必要ないし、邪魔である。
「後藤さんの痩せこけた写真を撮った功労」に対しての謝礼金だけ支払い、拉致監禁を無くす運動は、絶対に合同でしてはならない結論を出さなければ、拉致監禁を無くす会は本望を遂げることが出来ない局面をとうとう迎えてしまった。今は大きな転換点だと思う。
K・Y氏は「拉致監禁は是か非か?」でブログで議論をしている。
K・Y氏の理論は「拉致監禁は無くすべき!」と言う観点ではない。
「拉致監禁は是か非か?」というような理論は極端に言えば、反対派の人と同じ理論を持っている人物である。
反対派も「拉致監禁してでも、考え方を改めてもらわなければ困る。」という正当化に値する理由をもっているのであるから、「拉致監禁は是か非か?」と問われたら「是」と答えて実行しているだけのことである。
K・Y氏は「拉致監禁は是か非か?」と統一教会員に問う。教会員は「非」と答える。非と答えてもどういう活動をしたら良いのかわからず、「拉致監禁は是か非か?」と問うK・Y氏の書物を漠然と購入し、いかにも解決を図ろうとしているつもりの「言われたら実行する情けない教会員」が多数。
K・Y氏の理論が発展し「拉致監禁は無くすべき!」と言う観点にまで到達したらよいのだが、彼の理論は、はここでストップするのであります。
いつまででも、永遠にソクラテスのように思い悩むのが最終結論のようだ。
おまけに、彼はいつも統一教会員と接点を持つ。
献金をしたり、断食をしたり、苦しんだ教会員は人間であるから、彼の前で吐き出す言葉に弱音や批判めいた発言が何気なく出てしまう。その言葉をブログにして書くと、いかにも真実に思えるからそのままブログで活字にしてしまう。大量に統一教会の情報が入るからそのまま書く。彼の独善的理論はその弱音や批判こそが拉致監禁が起こる要因として教会批判にしてしまう。
「俺様が内密に入手した統一教会の内部情報にこそ大きな一因である。」と結論付ける。『統一教会がこう変われば、拉致監禁はなくなる。」と言う結論だ。反対派の論理と寸分と違わない理論だ。
これは「統一教会は宗教として切磋琢磨してはいけない。」と宗教活動そのものの批判にまで及ぶ理論だ。
そういう、安易なK・Y氏のような行動は決して「拉致監禁事件解決」に結びつかないことは明白である。理論が同じなのだから。
なぜなら、裁判になったときに裁判官はさまざまな資料に目を通すはずであるから当然、彼のブログも読破するはずである。「統一教会は内部でもこんなに批判されることをしているのだから回りの人間が力づくで、説得しようとしてもそれはそれで仕方がないことではないのか?」と思ったら裁判に勝てるどころか、拉致監禁する牧師や関係者をたいした犯罪者じゃないとして扱わないだろうか?Y氏の考え方は反対派と同じ考えではないか?と思うだろう。
ましてや、行政や、公安等の社会の不公平な仕組みなどわからないから、ハナから書かない、独善に満ち溢れたブログであれば、なおさら説得力があるかもしれない。
教会員たちの弱音やシステムを批判する言葉はあまり大きな要因ではない。むしろ、ほとんど関係ない。
「暴力をしてでも自分の価値観を押し付ける、強制監禁そのものが犯罪!」という人道的ルールが徹底されていない今の日本の状況を作り出している環境が大きな要因なのだ。宗教的な人を思いやる心や、行政、公安に潜む不公平な思想と怠慢行為に対して解析するのが賢い人間がすることだ。K・Y氏は多分そのようなことはほとんど考えてこなかったのだろう。そのようなことに対しての観点がまったくない理論は独善的といわれても仕方がない。
教会員の中でも真剣に考えている人は、後藤さんが一生懸命、検察に再審請求をしても、K・Y氏のような人物と一緒に運動していたら、絶対に勝つことが出来ないし、その努力も水の泡と化す可能性が高い、ということをよくご理解していただきたい。教会用語で言えばカイン圏(社会)に対するアベル圏(教会)の考え方を普及する理論ではなく、カインがアベルを打つ歴史をそのまま相続した理論で構成し、完成させようとしているのがK・Y理論である。カイン圏の方なので仕方がないとも思うがそのような従来の歴史で溢れかえってきた理論はむしろ必要ないし、邪魔である。
「後藤さんの痩せこけた写真を撮った功労」に対しての謝礼金だけ支払い、拉致監禁を無くす運動は、絶対に合同でしてはならない結論を出さなければ、拉致監禁を無くす会は本望を遂げることが出来ない局面をとうとう迎えてしまった。今は大きな転換点だと思う。