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『諸君!』2002年2月号秦郁彦氏の文章を嗤う 榎原雅治(歴史学研究会事務局長[当時]) 2002年4月19日 すでにご覧になった本会会員、本誌読者も多いと思うが、『諸君!』2002年2月号に「宮地正人とその一派」と題する文章が掲載されている。執筆者は秦郁彦氏である。
このHPでも紹介済みのことであるが、扶桑社版『中学社会 新しい教科書』の176ページに「ペリーが渡した白旗」と題するコラムがある。宮地氏は、このコラムは明白な偽文書にもとづいたものである、という見解を下記の論考で明らかにしている。
「ペリーの白旗書簡は明白な偽文書である」(『UP』2001年8月号)
「極めて興味深い偽文書」(『歴史評論』2001年10月号)
「Problematic Account in a Japanese History Textbook based on an Alleged Letter by Perry」(『歴史学研究』2001年10月号)『諸君!』に掲載された秦氏の文章は、上記の宮地氏の論考に対する「批判」を意図したものである。
1 まず秦稿の中に、本会に関する誤謬を含んだ言及がなされている点があるので、これを会として正しておきたい。
昨年6月20日、本会は歴史科学協議会、歴史教育者協議会、地方史研究協議会、史学会など21学会の連名で「『新しい歴史教科書』が教育現場に持ちこまれることに反対する緊急アピール」を発表した。またこのアピールとあわせ、『新しい歴史教科書』に含まれる初歩的な誤り56ヶ所を指摘した一覧も公表した。秦氏は、21学会のうち、本会、歴史科学協議会、歴史教育者協議会の3者だけをとりあげ、「左翼系歴史学会の御三家」と呼んだうえで、宮地氏のことを「御三家を束ねる形のボスである」(p111)と表現している。21もある連名学会のうちから、3つの学会だけを取り出すのも、他の18学会に対して失礼なことこのうえないが、それにもまして、宮地氏を「御三家を束ねる形のボスである」と呼ぶのは、いかなる根拠もない中傷である。本会の運営、研究活動はすべて35名の現任委員の合議によって進められており、委員会外からのいかなる圧力も誘導もうけてはいない。宮地氏は10年ほど前に本会の編集長を勤めたことはあるが、現在は会員の一人にすぎない。また宮地氏と歴史教育者協議会の間には何の関係もなく、3つの学会それぞれの運営との関係でいえば、せいぜい昨年9月まで歴史科学協議会の代表委員を勤めていたことが指摘できるぐらいである(それも昨年9月に退任しているので、秦稿115ページに「今も宮地氏が代表をつとめる歴科協」とあるのは誤り)。そもそも6月21日のアピール発表、および『新しい歴史教科書』の誤りの指摘一覧を作成することを発案したのは歴史学研究会の現委員会であり、宮地氏には、同教科書の明治維新部分の検討を分担していただいたのである。どこをどう押しても「御三家を束ねるボス」という評価にはならない。「御三家を束ねる形のボスである」とは、現委員会のほかに本会を指揮している人物があるかのような、きわめて悪質な中傷である。
2 本会が指摘した『新しい歴史教科書』の初歩的誤りは「難くせぞろい」であり、「文部省が無視して、返事もしなかったのは当然だろう」とした下りがある。
秦氏は、本会が指摘した箇所はいずれも誤りというほどものではない、といいたいのであろうが、とんでもないことである。詳しくは『歴史家がよむ「つくる会」教科書』(歴史学研究会編、青木書店刊、定価1200円)をお読みいただきたいが、何しろ、この教科書は、ひらがなの成立を奈良時代の文化として扱い、「今昔物語」を鎌倉時代の文学としているようなレベルの教科書なのである。それどころか、第一次大戦時の地中海で、日本海軍は我が身を犠牲にして連合国船舶を守っただのという、ありもしない国際貢献談を創作さえしている教科書のである。秦氏はそのことを正しく見つめるべきである。
なお、本会は、『新しい歴史教科書』の誤りを指摘するにあたり、この教科書の歴史観を象徴する箇所をとりあげることを基本とした。単純に間違い箇所を並べたわけではない。日本史上における天皇のプレゼンス、日本文化の優秀性、大日本帝国の「民主」性、中国や朝鮮の停滞性などを強調しようとして犯された誤りに重点をおいているのはそのためである。
また一見細かいと思われるかもしれない指摘を行った箇所もあるが、それは執筆者の主張と直接かかわらない記述では「手抜き」を行っている、というのも、この教科書の大きな特徴だからである。比較的細かい箇所の1ヶ所や2ヶ所だけを取り上げて示せば「難くせぞろい」に見えるかもしれないが、それは読者に本会の指摘の全体をおとしめてみせるためのレトリックにすぎない。
また「文部省が無視して、返事をしなかった」とあるが、そもそも、本会はこの誤り一覧を文部(科学)省に送ってはいない。何も送られていない文科省が返事もしなかったのは当然だろう。文科省に送る意思がないことは6月20日の記者会見でも明言している。この点には本会会員の中にも異論があるかもしれないが、現委員会としては、教科書は基本的に自由発行であるべきであり、記述についての評価・批判は国家機関ではなく、学界や市民によって行われるべきであると考えたので、誤り一覧を文科省に送ることはしなかった。
3 宮地氏の論文の内容にかかわる批判は、いずれ宮地氏自身からなされるであろうから、深くは立ち入らないが、秦稿の中には、秦氏の研究者としての基礎的能力を疑わせる部分があるので、五点ほど指摘しておきたい。なお、秦稿からの引用文中にある[ ]内の部分は、筆者のつけた説明注である。
その1
秦稿112ページに次のような部分がある。
松本(健一)、三輪(公忠)の両氏はいずれも右の著書(『白旗伝説』・『隠されたペリーの「白旗」』)で出典は、前記の『幕末外国関係文書之一』(東大史料編さん所)という公文書であると明記し、宮地氏もそう書いているので、この点についての争いはありえないはずだ。そうだとすれば、宮地氏は所属し、所管する機関の発行した公文書が偽文書であるゆえんを、「中学生にもわかる」ように立証する義務がある。 まったく驚いたものである。『幕末外国関係文書』が公文書であるとは、およそ歴史の研究者の言葉とは思われない発言である。「公文書」とは公的機関が、その機関自身の意志を伝達、もしくは記録しておくために作成した書類のことである。『幕末外国関係文書』というのは、幕末の対外関係に関するさまざま史料を、東京大学史料編纂所が集成して刊行した史料集であって、刊行は明治43年に開始され、現在もなお継続中である。その中には幕府が発給したまさに公文書も掲載されていれば、個人の私的な日記でも、対外関係に関する記事があればそこの部分が掲載されている。当然、そこに掲載された史料だからといって、すべてがその時代の事実関係を誤りなく表現しているとは限らない。掲載されている史料をどこまで信用し、どこから疑ってかかるか、という点にこそ研究の研究たるゆえんがある。研究者の力量は、まさにそこでこそ試されている。史料集をさして公文書といい、公文書に書かれているのだから間違っているはずがない、などというのは、まともに歴史学を研究した経験のある人の言葉とは思われない。要するに、秦氏は史料集というものの性格がわかってないのである。
その2
秦稿117ページに次のようにある。
白旗書簡の出典はいくつかあるのに、一つしかないと見せかけたレトリック。(中略)問題の史料一一九[『幕末外国関係文書』巻1所収119号文書を指す]は、実は三つの出典から構成されている。第一は「町奉行書類所収事件書」、第二は「高麗環雑記」で、(中略)第三の出典は「嘉永癸丑浦賀数条」に載っているもので、「参考ノ為メ茲ニ収ム」と編さん者の注がついている。(中略)宮地氏は偽文書だと論じるさいに、もっぱらこの第三の出典文を引用しつつ、次の2のように集中攻撃する手法をとっているのだ。 宮地論文では、これら三つのソース、及びそれ以外の多種の情報についても比較検討をおこなっており(歴評論文,pp.115-8)、諸点からみてトータルに偽文書であると論証している。秦氏の主張は宮地氏の論文の内容を正確に理解したうえでの主張ではない。
その3
秦稿118ページに次のようにある。
宮地氏は各地に伝わっている風説書を列挙し、史料一一九[『幕末外国関係文書』巻1所収119号文書を指す]に似ているが変造したものが少なくないことから、そう[白旗関連の情報はすべて風説書にのみ現れると]推測しているようだが、逆もまた成り立つのではないか。つまり老中や海防掛を仰せつかった水戸斉昭などの高官を除き内密にされた白旗書簡が少しずつ洩れ、脚色されていったとも考えられるのである。
それに斉昭が嘉永六年七月十日付で幕府へ提出した「海防愚存」という意見書にも白旗の話題が出てくるが、これまた風説書として片づけるわけにはいくまい。宮地氏は「海防愚存」については公式の幕政史料として分析し、「白旗書簡」実在論者たちの行った史料読解の誤りを指摘している(歴評論文,114頁)。すなわち、「海防愚存」に出てくる「白旗」とは、『新しい歴史教科書』に書かれているような性格のものではなく、ペリーたち自身に武力行使の意志がないことを表明するためのものだったというのである。「海防愚存」を白旗実在の証拠としようとするのならば、宮地氏のこの指摘に反論しなければならない。また、「強硬派の斉昭であれば、あらゆるところで利用して然るべきこの白旗書簡に、いかなるところでも全然言及していないのである」と、そもそも斉昭の政治的立場からして、仮にそのような事実があったとするならば本「書簡」の内容が「内密にされ」るべき必然性がないことも宮地氏は明確にしている。つまり、秦氏は宮地論文の主張を正しく読みとることができていないのである。史料どころか、現代文を読解する能力にも欠けているようである。
その4
秦稿117ページに次のようにある。
[所謂「白旗書簡」の中に、この書簡の翻訳者として現れるが、宮地氏が存在しない人物であると断定した]前田肥前守は加賀百万石の当主で、将軍家斉の娘を妻にしたとき東大の赤門を建てたとされる人で、何種類もの大名辞典に収録されている。「存在してはいない」どころではない。 赤門を建てた前田斉泰は、隠居した際に肥前守を名乗っているが、これは1866年のことで、それまでは加賀守だった。斉泰の父斉広も隠居したのち肥前守を名乗っているが、これは1824年、赤門が建つより前に没している。したがってペリーの来航した1853年においては、「前田肥前守」なる大名は存在しない。これは『国史大辞典』を引けばすぐにわかることである。どんな大名辞典を調べたか知らないが、ずいぶんとずさんな調べをしたものである。
そもそも加賀藩主ならば、実際の文書上には「加賀宰相」なり「松平肥前守」といった呼称で現れるはずだし、加賀藩主が「白旗書簡」の翻訳者として現れるのも不自然である。また宮地氏の歴評論文では、数ある風説書の転写過程において、この偽文書に登場する「筒井肥前守」(=政憲)の名前書が誤写されたものであることが明らかにされている(p.118)。したがって秦氏のこの指摘は、全く無意味な論難であるといえよう。
その5
秦稿119〜120ページに次のようにある。
ついでに維新史料編纂官、つまり藤井の同僚だった丸山国雄著の『ハリス、ペリー侵略外交始末』(龍吟社、一九四四)という珍本にぶちあたった。そのなかに既出の[浦賀奉行所]与力が書いた日記体の記録(幕府への報告書)が長々と記載してあった。六月四日の項に「白旗を建て参り呉れ候得ば、鉄砲は打掛け申間敷段……異人一同殺気面に相顕れ……彼れ武威を以て強ひて相渡候を受取り候……」とある。
丸山もまたこの日から始まったペリーによる東京湾[ママ]の測量ぶりを詳しく記し、「傲慢無礼にして威圧的なることは、まことに言語道断」とも書いている。長くなるが、秦氏の史料の利用方法とはこのようなものなのか、と妙に納得させられる箇所なので、以下のことを指摘しておきたい。
丸山著書で引用されている史料の典拠は、外務省編『続通信全覧』類輯之部・修好門所収「米使ペルリ初テ渡来浦賀栗浜ニ於テ国書進呈一件 十二」。これはペリー来航当時浦賀奉行所与力であった幕臣の香山永孝が、ペリー側との交渉について「応接手続書」という筆録に記し、ペリー来航から数年後の時点で幕府に提出したものであると考えられる。秦氏の恣意的な引用では誤解を招きやすいので、やや煩瑣ではあるが典拠とされた部分を以下に示しておく(解説の便宜のため幾つかの段落に分けておく。傍線部が秦氏の引用箇所)。
「…(1)船中之形勢・人気之様子非常之体を相備候に付、迚も此儘書簡御受取無之而は平穏之取計相成兼候段見切候ニ付、
(2)何れ受取方之儀は江戸表へ相伺候様可致、左候得は往返日数彼是急速之事には不参段申聞候所、
(3)此儀、政府にては存知居可申事に付、往返三・四日を限、否承知致し度、且当所にて御受取に不相成候ハヽ江戸へ罷越相渡可申、江戸表へ相伺候而も当所にて御受取に不相成候ハヽ使命をあやまり候恥辱雪くへきなし、然れは於浦賀無余儀場合に至可申、其節に至り候とも用向有之候は、白旗を建参り呉候得は、鉄砲は打掛申間敷段存切申聞、
(4)相貌将官は勿論、一座居合之異人一同殺気面々相顕れ、心中是非本願之趣意相貫き度心底、得と被察候に付、
(5)彼れ武威を以て強て相渡候を受取候様相成候而は、御国体に拘り不容易事共に付、
(6)万里之波濤を凌き、国命を受使節として罷越候切意空敷可致様之御不仁之御処置は有之間敷、穏に都府之下知を待へしと申諭、引取、…」本史料の前提を説明すると、嘉永六年六月四日(陽暦1853.7.8)、与力香山は通詞を引き連れて米艦へ赴き、ブキャナン中佐・アダムス中佐らと交渉をおこなった。香山は米艦隊の長崎廻航を促すも、使節一行は当然聞き入れない。(1)はその際の米海軍将兵たちの態度を香山が観察して述べている部分である。米艦隊は「非常」=有事即応の警戒体制となっている。使節が差し出す国書をこのまま受け取らずにいたならば、とても平穏にはすまない。そう判断した香山は、(2)書簡の受取り方について、江戸の幕政担当者まで伺いを立てたいが、それには時間がかかり急速には対応できない、と先方に対し申し入れる。(3)この申し入れに対して米国側は以下のように回答する。「江戸までの往復に時間がかかるのは承知しているが、3〜4日以内で済むのかはっきりさせてもらいたい。この浦賀において国書を受け取らないというのであれば、我々が江戸まで出向いて日本政府に国書を渡す。あるいは、貴官が江戸の意向を伺った上で、浦賀では国書を受け取れないと回答するのなら、使節一行の使命を果たすことができず、これは我々にとっての恥辱となる。そうなった場合、浦賀においては余儀なき事態となろうが、その場合であっても、交渉の用向きがあるのなら、白旗を立ててこちらまで出向いてくるのであれば、こちらから発砲するようなことはしない。」このように述べるのである。(4)では、以上(3)のように述べる米軍人の態度について、殺気を顕わにしており、何としてでも目標を達成せずにはおかないといった心中であるようにみえた、と香山が評している。(5)そこで、米国側が軍事力にものをいわせ、幕府に対し国書の受取りを強要するような事態が起きたならば、日本の「御国体」にかかわり大変な事態となる。このように香山は判断したので、(6)「国命を受け、万里の波濤をこえてやってきた使節に対しては、その本意を空しくさせるといったような、仁にそむく対応はとらないであろうから、江戸の幕閣からの指示を待ってほしい」、といった回答をおこない(主観的には「申諭し」)、交渉の場から引き取った。
この史料の文意は以上の通りである。秦氏による飛び飛びの引用からでは、あたかもアメリカ側が脅迫の末に香山らに白旗ないし白旗書簡を受け取らせたかのように読めてしまうが、普通に史料を解釈すれば、事実として到底そのように捉えられないことは、上に説明した通りである。上記の交渉内容を記した応接書(『幕末外国関係文書』巻1,20号)について宮地論文で検討されている(歴評,pp.120-1)が、本史料の内容もこの応接書と同様の内容が記されているのであり、白旗書簡論の立証根拠たり得ない。やはり白旗及び書簡の授受が史料に現れることはないのであって、「白旗の授受を立証する史料は存在しない」(歴評,p.112)といえる。秦氏の乱暴な引用の仕方が史実を歪曲しているのである。
また、丸山の著書にあっても、白旗及び白旗書簡については、文部省『維新史』と同じく何らふれられることがない(当然、前掲引用史料についても白旗説のような解釈が示されることはない)。従って、秦氏の作成した別表「白旗書簡を記述した文献」からも除かれるべきであろう。
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