統合サイト るいネット
掲示板
最新の記事
PROFILE
LINKS
注目記事一覧

2008年08月16日

古代日本史は、氏族集団間の闘争史

大和朝廷以降、日本の政治を仕切ってきたのは、氏族集団(同じ姓を持った血縁集団)であった。史上、長く実権を持ち続けていたのは平安時代の藤原氏である。

氏族集団が勢力争いを繰り広げ、実権を握った氏族集団が政治を動かすというこの体制は、ヤマト朝廷誕生以前から続いている。この氏族集団が、朝鮮半島からの渡来人だと考え、日本の歴史を見ていくと、日本史の意外な側面が見えてくる。
ブログランキング・人気ブログランキングへ
にほんブログ村 政治ブログへ


http://wiki.wowkorea.jp/?word=%E5%B8%AF%E6%96%B9%E9%83%A1

邪馬台国が成立した時の朝鮮半島は、北部を高句麗が支配し、半島南部を馬韓・弁韓・辰韓という部族集団が存在していた。この部族同士の争いの結果、勝ち残った部族が国家を作っていく。(馬韓→百天照済、弁韓→任那(みまな)、辰韓→新羅) この部族間闘争の結果、負けた部族が日本に渡り、クニを作っていく。邪馬台国、狗奴国など、百国以上のクニが成立した。

天照大神は、日本書紀では最初「大日巫女貴(おほひるめのむち)」という名前で登場しており、太陽神を祭る巫女(=日の巫女)を示していることから卑弥呼(ひみこ)と同一人物だと考えられている。

女シャーマンであった卑弥呼が統治する邪馬台国の南に、男子の王を立てる狗奴国(くなこく)が大きな勢力を誇っていた。邪馬台国と狗奴国は何度も領土争いを繰り広げていたようだが、両者の和合により大連合政権が九州にできたと考えられる。

この狗奴国の男子王が、古事記・日本書紀で言うところのスサノオで、卑弥呼(天照大神)と狗奴国男子王(スサノオ)との大和合の様子を天岩戸伝説として、古事記に記述されている。任那系渡来人と、新羅系渡来人の連合国家が九州に誕生したことになる。

九州に誕生した王権は、その後、奈良へと移動し、大和朝廷が誕生する。この九州から奈良への遷都を描いたのが、「神武天皇の東征」である。神武天皇以降、大和朝廷は基盤を固めていくが、西暦550年前後に、高句麗から蘇我一族が日本に渡り、朝廷内で勢力を拡大していく。推古天皇の時代には当時の諸氏族の中でも最大の勢力をほこり、十七条憲法や冠位十二階制など中央集権国家としての体制を固めていった。

当時、朝鮮半島は北部を高句麗が、南部を百済、任那(伽耶諸国)、新羅が統治していたが、562年には、任那(伽耶諸国)が新羅に吸収される。その後、唐と手を組んだ新羅は、百済、高句麗を滅ぼし、朝鮮半島に統一国家が成立する。

この朝鮮半島の混乱期に、日本に百済系渡来人が渡ってくる。中臣氏(→藤原氏)一族である。天智天皇と組んだ中臣鎌足は、蘇我一族を滅ぼし、土地制度、戸籍制度の改革を実行する。(大化の改新

しかし、天智天皇は制度改革の途上で、滅亡した百済王家の願いを聞き入れ、百済奪還のため朝鮮半島に出兵する(白村江の戦い)。改革途上の出兵は、古代史上でも謎だとされているが、天智天皇の最大の後ろ盾であった藤原氏が百済の王族であり、彼らが一貫して朝鮮半島での国家復活を求めていたと考えれば、辻褄が合う。

天智天皇の死後、天智天皇の太子(大友皇子)と皇弟(大海人皇子)との間で後継者争いが起こる。結果、大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位する(壬申の乱)。天武天皇は、それまでの親百済政策を一転させ、親新羅政策へと舵を切っていく。

おそらく、天武天皇は新羅系王族の末裔で、壬申の乱とは、新羅系渡来人が百済系渡来人に勝利したという出来事だったのではなかろうか。実際、天武天皇の時代には、百済系渡来人・藤原氏(中臣氏)は衰亡の危機を迎えている。

この天武天皇の命により、古事記と日本書紀の編纂が開始される。

天武天皇の死後は、天武天皇の皇后が即位し、持統天皇となる。持統天皇となってからは、対朝鮮外交政策は天智天皇時代に近いものとなり、藤原氏一族が再び勢力を拡大し続ける。これは、持統天皇が、天智天皇の娘、つまり百済系であったこととが関係していると考えられる。この後、持統天皇系→天智天皇系が即位する時代が続いていく。


このように、朝鮮半島からの血縁集団が朝廷内に勢力を作り、氏族集団を形成した。大和朝廷成立以降、誰が天皇となり、どのような政策を取るかは、この有力氏族間の勢力図によって決まっていた。
ブログランキング・人気ブログランキングへ
にほんブログ村 政治ブログへ

コメント

いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸に四隅突出墳丘墓が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。

  • 島根考古学ファン 2008年10月26日 16:26

縄文ー古代ブログより来ました
当ブログでも現在、氏族闘争史を連載中です。

神武天皇がスサノオ系と書かれている部分が非常に興味があります。
こちらの記事はわかりやすくまとめてあるので、当ブログでも紹介させていただきます。

コメントする

comment form

この記事のトラックバックURL

trackbackURL:

トラックバック

【露×グ】ロシアの現在の行動はどうにも腑に落ちません。 from 帝国ブログ

※ただ今IEだと右側の表示がおかしいです。 ブログタイトルの下にも載せましたがウラジーミル・ウラジーミロビッチ・プーチンと言えば、 「ソ連が恋...