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2008年08月15日

朝鮮半島からの流入民との融和をもたらした古代日本人の縄文的性質 ~8/12なんでや劇場「日本人の起源」より~

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現在の世界情勢を見ると、アメリカドルを基軸通貨とする経済システムの限界が露呈しつつある。
そのような情勢下で、国際金融資本家たちの中でも覇権の延命を画策する勢力や、多極化への移行によって新たな経済支配体制を確立しようとする勢力が熾烈な争いを繰り広げている。
 
しかし、現在の市場経済システムの存続にせよ、新しい市場経済システムの確立にせよ、市場原理の弊害は残り続ける。
多くの人々が活力を持って過ごせる社会の基盤を発掘するためには、現状を捉えつつ、過去の歴史を深く追求することが欠かせないのではないだろうか。
 
その基盤発掘の糸口が、2008年8月12日のなんでや劇場で扱われた「日本人の起源」に示されていた。
今回の記事では、その中の朝鮮半島からの流入民と融和して集団⇒社会を形成していった、古代日本の縄文的体質について紹介していきたい。

◆日本人の起源 ~縄文人~
 
現在の日本人の基盤は、最古は約3~3.5万年前にスンダランドから黒潮にのって流れ着いた南方モンゴロイド(旧モンゴロイド)と、約1.5~1万年前に陸続きだったシベリア~北海道経由の北周りルートで移動して来た北方モンゴロイド(新モンゴロイド)が融合・混血して形成された。
 
【参考】「縄文と古代文明を探求しよう!」より
<縄文人の故郷、スンダランド>
<新旧モンゴロイドの混血による縄文人の形成>
 
ちなみに、北方ルートは陸地の水没により往来は途絶えたが、南方ルート(黒潮で漂流)では、天災等が原因で一定数はポリネシアや中国の河南地域から漂着したと考えられ、南方モンゴロイドの性質が優性であった可能性が高い。
 
 
◆アジア大陸(朝鮮半島)からの流入民
 
日本列島へは、旧くからアジア大陸での争いに伴って、アジア大陸(主に朝鮮半島)からの流入民が多くいた。その流入によって、何が変化して、何が変化しなかったのかが重要なポイントとなる。
ここでは、大きく3回に分けて大陸からの流入について整理していく。
 
★流入第一波 ~紀元前4世紀頃 楚からの難民流入~
約2400年前(紀元前4世紀頃)、中国は戦国時代と呼ばれる時代で、諸国(燕・斉・趙・魏・秦・韓・楚)が争っており、燕・秦・楚からの難民が南朝鮮へ流入し、日本列島へも海洋ルートで楚からの難民が流入していた。
彼らが「弥生人」の起源である。
DNA的には旧くから日本列島にいた縄文人とは異なるが、精神構造は縄文人に同化し融合していった。
 
★流入第二波 ~2世紀頃 朝鮮半島からの亡命部族(侵略部族)の流入~
紀元後146年~189年(桓帝・霊帝の治世)の間に「倭国大乱」が起こったと「後漢書」(東夷伝)に記されており、「三国志」(魏志倭人伝)他の書物にも2世紀後半に「倭国大乱」があったことを記述している。
 
一般には「倭国」=「日本」と解されていることが多いが、戦国時代~前漢時代にかけて編纂された「山海経」の記述からは、朝鮮半島中部にあった国であると読み解け、「倭国」の範囲は倭人たちの領有地域に規定されており、前漢以前の時代はむしろ朝鮮半島中部~南部が「倭国」の主要領土で、倭人の一部が日本列島にも上陸していたとみなせる。
 
よって、「倭国大乱」とは、日本列島だけでの出来事ではなく、2世紀頃に朝鮮半島南部にあった3つの部族連合「馬韓(→4世紀に百済によって統一)」「弁韓(→4世紀に部族連合のまま伽耶連合)」「辰韓(→4世紀に新羅によって統一)」の争いであり、その争いによって追いやられた部族が、日本列島へ流入したと考えられる。
 
「倭国大乱」期に朝鮮半島からの流入民は、数的に第一波より多いのはもちろん、亡命部族であると同時に武装した侵略部族であり、彼らによって縄文人たちは制圧されたであろう。
 
この大乱は最終的に女王(卑弥呼)を共立して収まったとされているが、これは女首長をおく母系集団的な治め方であり、この時期でも縄文的性質が失われておらず、むしろ統治のためには縄文的性質への同化が不可欠であったと言える。
 
★流入第三波 ~6世紀の任那滅亡、7世紀の百済滅亡と流入民~
朝鮮半島では、新羅によって562年に任那が、新羅-唐連合軍によって660年に百済が滅ぼされた。
「倭国」がもともとは現在の「日本」だけではなく、南朝鮮と日本列島の一部を占めていたことを考えると、これは単なる朝鮮半島という地域の出来事ではない。
 
これは、日本列島にいた(伽耶を出身地とする)「倭人」にとっては、故地(伽耶・任那)を奪われ、同盟国(百済)を滅ぼされたことを意味する。
滅亡した百済の遺臣達からの要請に応じて、「倭国」が大軍を派遣して白村江の戦い(663年/百済・倭国軍敗戦)に挑んだのは、このような事情があったからに他ならない。
 
そして伽耶・任那滅亡から百済滅亡、白村江の戦いまで、大量に伽耶人、百済人の流入が続き、これらの中には社会的に高位の者も少なからずいた。
 
このような大量流入が起これば、使用言語が大きく変化したり、あるいは流入者の母語に取って代わられかねないが、この流入第三波によってもそのような事態にならず、縄文的性質が継承されていった。
 
【参考】
「渡来人の氏神様②…分化の融合-⑤渡来人」韓郷神社社誌
 
 
◆流入民との融和を実現してきた古代日本人の性質
 
ここまで見てきたように、日本列島ではアジア大陸(朝鮮半島)からの流入(≒侵略)、混血を繰り返されてきた。
しかし、集団統合において重要な意味を持つ婚姻様式をみても、一部の地域では戦後までよばい婚のような母系の婚姻様式が存続していたし(大陸は父系制が主)、用いる言語においても大量流入によって大変化は起こらなかった。
 
このことから、南方モンゴロイドに起源を持つ縄文的な受入れ体質や本源性は、異なる精神性を持つ民が(支配者層として)流入してきても、友好的に受け入れながら当事者として集団統合を担っていったことがわかる。
 
この縄文人を起源として日本人が備えていた精神性や、築いていた社会構造を解明していくことは、新たな社会の基盤を創っていく上で重要な意義があるのではないだろうか。
 
【参考】るいネットより
縄文人の本源性と当事者論
 
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コメント

天皇そのものが、もはや旧い観念という事ですね。

日本人という定義に拘る事そのものが、
ナンセンスなんだと。

  • 崩壊天皇 2008年08月21日 22:24

>崩壊天皇さま
コメントありがとうございます☆

おっしゃる通り、“定義”にこだわる必要はないと思います。

重要なのは、現在の社会が曝されている外圧をしっかり捉えて、突破していく可能性を発掘していくことですね。

その意識のもとに、日本人の性質が備えている可能性を事実に基づいて解明していくことが、必要かつ有意義だと捉えています。

ぜひ一緒に追求していきましょう☆

  • lived104 2008年08月23日 00:06

>ちなみに、北方ルートは陸地の水没により往来は途絶えたが、南方ルート(黒潮で漂流)では、天災等が原因で一定数はポリネシアや中国の河南地域から漂着したと考えられ、南方モンゴロイドの性質が優性であった可能性が高い。

河南地域ではなく、江南地域ではないでしょうか?河南は黄河の南で、江南は長江の南を指します。

  • モンゴロイド800 2008年08月30日 23:42

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