【新潟日報 平成16年(2004年)5月19日より】
きっと会える 中村さん(県内関係未認定者)証言編
二〇〇四年五月七日、新潟市の新潟西港。北朝鮮の貨客船「万景峰号」入港の抗議運動を行う市民団体の中に、六年前、突然姿を消した長岡市の中村三奈子さん=当時(一八)=の母クニさん(六一)の姿があった。
「拉致被害者を返せ」。繰り返される声を聞きながら、クニさんの胸のうちは複雑だった。三奈子さんの失踪が北朝鮮による拉致かどうか、直接的に結び付く手掛かりがないからだ。「拉致ではないかもしれない」という思いは常にある。
だが、この日初めて港を訪れた。「あの子がいないのは事実。一歩でも二歩でも行動することで何か新しい情報を得られるかもしれないから」
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謎の韓国行き 足取りに第三者の影
三奈子さんが姿を消したのは、長岡高校卒業後の一九九八年四月六日。同市の大学受験予備校に入学金を納めにいくはずだった。
当時、小学校教員のクニさんは朝、出がけに、布団に入ったままの娘に声を掛けた。「今日はお金を納めにいく日だよ」。「うん」。これが最後の会話となった。三奈子さんは入学金の五十万円から三万円だけを持って姿を消した。
後に判明した足取りで、謎はさらに深まった。三奈子さんは三月二十五日、家族に内緒でパスポートを申請。そしていなくなった翌日、新潟空港から韓国に出国していた。「決して活発ではないあの子が一人で、しかも外国へ行くだろうか」
疑問は尽きない。航空券を取り扱った旅行代理店の担当者に会うと「電話で往復航空券を頼んできたのはハスキーな声の女性。ホテルの手配を断るなど、旅慣れた感じだった」と証言した。
「あの子は一度も海外旅行の経験がない。だいたい往復航空券代四万八千円を払えないはず。手引きをした第三者がいたとしか思えないんです」
一人で悩みを抱えていたのだろうか。在学中「学校に行きたくない」と言い出したことがある。後悔の念とともにそのときのことを思い出す。
「せっかく三年生になったのだから、もう少し頑張ってみたらと励ました。高校を卒業してほしかったから、つい理由を聞いてあげなかった。何に悩んでいたのか分かったかもしれないのに」
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自分を責める毎日の中、少しでも手掛かりを得ようと、飛行機の搭乗者名簿を手に入れ、近くに座っていた人を訪ねるなど、クニさんは一人足取りを追った。だが、何も分からないまま時が流れ、三奈子さんのパスポートの有効期限も切れた。
クニさんは決断した。〇三年四月、「特定失踪者問題調査会」に相談、七月には公表に踏み切った。
ただ、迷いはあった。「公表したら帰ってきたときに注目されて戸惑ってしまうのではないか。女の子だし、就職や結婚を考えると・・。それに家出かもしれない」
しかし、同じような悩みを持つほかの家族の頑張りを知るにつれ、クニさんは声を上げ続けていくことが大切だと思えるようになった。
三奈子さんの捜索を支援する輪も広がりつつある。「中村三奈子さんをさがす会」代表の金井英雄さん(六〇)=同市=は「私にも同じ年の娘がいて、ほっておけなかった。三奈子さんに家出をする理由はなく、事件に巻きこまれたとしか考えられない。親子が再会できるまで支援し続けたい」と話す。
クニさんは力を込める。「今、声を出さなければいつ出すんだということに気付かされました。どこで、どんなに苦しい状況であっても三奈子は必ず生きている。そう信じています」
終わり
*特定失踪者 中村三奈子さん 平成10(1998)年4月6日失踪
調査会公開リストより
http://www.listserver.sakura.ne.jp/cgi-bin/list/list3.cgi?word3=173&mode=search3
*中村三奈子さんをさがしています
http://www2.nct9.ne.jp/murasaki-tuyukus/