日蓮正宗・冨士門流(富士門流)と仏教及び総称日蓮宗の研究
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黒川和雄君の邪見・魔説を破す

 黒川和雄君が日蓮正宗本山日知屋山定善寺を邪宗呼ばわりしているとの連絡を頂いた。黒川和雄君もいよいよ御宗門・御僧侶蔑視の本性を現し、日蓮正宗寺院の誹謗発言を行っている、との報告であった。日蓮正宗檀信徒として之は絶対に看過してはならない許されざる暴言である。仍ってここに黒川和雄君の邪見・魔説を破折するものである。

オホホ、(^−^) 投稿者:れいな 投稿日:2010年 7月 7日(水)00時16分26秒

日向定善寺とはホームページにあるように、

「昭和31年8月30日吉辰日向郷(現在の日向市)定善寺において日蓮正宗帰一奉告法要が第六十五世日淳上人猊下大導師のもと奉修された」とある。

すなわちその前までは邪宗・日蓮系の寺院だったということだ。


【黒川和雄君の邪見・魔説を破す】

 「すなわちその前までは邪宗・日蓮系の寺院だったということだ」と断定するなどは黒川和雄君が如何に宗学に暗いかを自ら暴露しているようなものである。

 「すなわちその前」とは昭和十六年の三派合同を指す。確かに一見すると定善寺は本門宗の一員として単称日蓮宗に合同しており、「邪宗・日蓮系の寺院」に見えるが、現実は違うのである。三派合同とは当局と旧本門宗の中では北山本門寺の強圧の中で行われたものであり、定善寺の意図とは異なるのである。

 江戸時代から戦後まで讃岐高永山本門寺は北山本門寺の策略によって末寺に組み込まれ、「法華寺」と改称を強制されて心ならずも三派合同を余儀なくされた。しかしそれでも讃州法華講衆は祖山大石寺に登山参詣していた。定善寺の日向法華講衆においてもまた然りである。

 更に述べれば、血脈と法脈は必ずしも同義語ではない。血脈は法脈の類義語ではあるが、法脈イコール血脈ではない。血脈は唯授一人であるが、「冨士年表」(冨士学林版)の法系図が示すように法脈は唯授一人ではないのである。

 日向門中定善寺外六箇寺の日蓮正宗帰一奉告法要で房州妙本寺の冨士日照(光明院日照)上人は定善寺御寶前への「奉告文」の最後に「日蓮正宗本山妙本寺第五十世嗣法日照和南」と述べられている。日蓮正宗において「嗣法」と云えば唯授一人血脈相承の御法主上人を指すのが一般的であるが、この奉告文にある「嗣法」とは宰相阿闍梨日郷上人已来の法脈を指すのである。同じく定善寺においても郷師の学頭寺院として由緒があり、薩摩阿闍梨日叡上人已来の法脈と伝統があるのである。

 心ならずも強制的になされた三派合同を表面的に見て、「その前までは邪宗・日蓮系の寺院だった」と断言するなどは、光明院日照上人や小原日悦(觀解院日悦)贈上人、日向法華講衆を愚弄する大暴言であり、黒川和雄君は宗史に暗く、宗門・僧侶蔑視の考え方があることを垣間見るものである。(戦後に帰一を果たされた下條妙蓮寺への誹謗でもある)

 表面的に見れば、加賀法華講衆も心ならずも単称日蓮宗妙成寺などの「邪宗・日蓮系の寺院」の檀家である。しかし心の中では加州法華講衆は冨士門流祖山大石寺の信仰を貫いていたのである。謂わば黒川和雄君の大暴言は先師先達や内得信仰者をも愚弄する、正に十四誹謗を犯しているのである。

 千葉県松戸市に所在する金龍山一月寺は元来は普化宗の総本山であり、鎌倉時代に開闢された古刹である。しかし総本山冨士大石寺第六十六世日達上人の御教化で一月寺は日蓮正宗に改宗したことにより、金先古山禅師已来の一月寺歴代住職は除歴されたのである。

 しかし日向定善寺は開山薩摩阿日叡上人已来、第三十一世日護師及び第三十二世觀解院日悦贈上人は除歴されていない。黒川和雄君の暴言の如く定善寺が仮に「邪宗の寺」であったならば除歴になっていなければならないではないか。

 黒川和雄君のこの暴言、邪見邪論には大変危険な魔説が含まれている。何故ならば、黒川和雄君のこの邪見に従えば祖山大石寺ですら、「邪宗・日蓮系の寺院だった」と云っているのに等しいからである。

 明治初年から明治三十三年まで、冨士門流祖山大石寺は行政的には日蓮宗興門派なる組織に組み込まれていた。これは江戸時代の日蓮宗勝劣派と同じく現代で云うところの宗団・教団ではなく、幕府・政府との連絡組織であり、行政組織に過ぎない。勝劣派と雖も、大石寺、什門、隆門、真門、陣門はそれぞれ個別の宗団(僧制と講中)であった。明治初年の日蓮宗興門派もまた然りである。

 しかし江戸時代の日蓮宗勝劣派と明治初年の日蓮宗興門派の異なる点は、宗教行政当局の力強い要請(強要)によって管長制度が施行され、興門派においては八箇本山からなる管長輪番制を採用せざるを得なかったことである。この為、冨士門流祖山大石寺、北山本門寺、京洛要法寺等の八箇本山の貫主が順番で管長となり、心ならずも行政上では「邪宗・日蓮系の寺院」の山主を管長と認めなければならなかったのである。

 冨士門流祖山大石寺は明治三十三年に単独宗制が公許となり、「日蓮宗冨士派」と公称した。冨士門流内にあって宗祖本佛論を奉ずる下條妙蓮寺、房州妙本寺・日向定善寺、西山本門寺も釋尊本佛主義の北山本門寺とは袂を別ちたかっただろう。しかしそれが出来なかった心ならずもの事情があったのである。

 祖山大石寺が単独宗制を公許された理由は、第五十五世日布上人や第五十六世日應上人の教部(文部)当局への嘆願及び陳情活動があったこと、之第一。大石寺は七百年来独自の宗法山規があり、独自の宗団・教団であること、殊に旧幕時代には幕府公認であったこと、之第二。大石寺教団は冨士門流最大の教団であること、之第三。大石寺有力信徒の中に政治力(人脈)のある人物がいたこと、之第四である。

 この政治力のある人物とは法華講大講頭にして大阪蓮華寺法華講講頭(同寺檀家総代を兼任)であった荒木清勇氏である。荒木氏は御法主上人の御指南に従い、政治力(人脈)を活かされたのである。教部当局への単独宗制の嘆願及び陳情の多くは荒木氏が当局にセッティングしたものである。更に荒木氏は現在の自民党の前身の一つである立憲政友会に陳情して、漸くにして明治三十三年に単独宗制が公許され、明治四十五年に第五十七世日正上人によって「日蓮正宗」に改称されたのである。

 黒川和雄君の「すなわちその前までは邪宗・日蓮系の寺院だった」なる暴言は、こうした宗史を無視する邪見であり、単独宗制公許の為に尽力された日布上人や日應上人及び御僧侶方、そして法華講の大先輩である荒木清勇氏を愚弄する魔説である。

 単独宗制となった祖山大石寺が離脱した日蓮宗興門派は本門宗と改称され、当局の圧力と北山主導によって昭和十六年に三派合同がなされたのである。抗う術のない定善寺等々の政治力(人脈)のなさを、「邪宗・日蓮系の寺院だった」と誰か批難できようか。

 「結社の自由」が無制限である現代に生きるは我々は歴史を表面的に捉えるのではなく、心ならずものがある時代にあった事象を冷静に見詰め、立体的に捉えなければならない。
  1. 2010/07/07(水) 07:33:33|
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