池田信夫 blog

Part 2

2010年07月05日 00:43
経済

マルクスの疎外論

経済学・哲学草稿 (光文社古典新訳文庫)本書のテキストはマルクスが26歳のとき書いた未定稿だが、1930年代に発見され、60年代後半の学生運動の時代に注目を集めた。従来の階級闘争を中心としたマルクスではなく、「労働者が資本主義によって疎外される」という人間論が共感を集めたのだ。長谷川宏氏の新訳は、その若々しい雰囲気をよく伝えている。本書を読むと、マルクスの疎外論が当節流行の「蟹工船」とか「プレカリアート」の類の「人間疎外論」とはまったく違うことがわかる。

疎外(Entfremdung)とは「世の中から疎外される」といった日本語とは無関係のヘーゲル的な概念で、「労働の生産物が、労働にとって疎遠な存在として、生産者から独立した力として登場してくる」(p.92)という意味だ。これは人間の能力が労働によって商品に対象化(外化)された結果であり、マルクスは疎外そのものを否定しているわけではない。

問題は疎外された労働の対象が、外的な「必然」として労働者を支配することだ。それはなぜかという問題をマルクスは追求し、その答を分業に求めた。そして交換(市場)を分業の結果生まれたシステムとしてとらえ、両者の基礎に私有財産があるとした。そして「類的存在」としての人間が、エゴイズムによって個人に分裂し、分業と交換という疎遠な形で「交通」する形態として市民社会をとらえたのである。

しかし疎外という言葉は、『資本論』などの後期の著作からは姿を消す。これをどう解釈するかで何十年も論争が続いたが、『経済学批判要綱』などの草稿にはヘーゲルの言葉がたくさん使われており、マルクスがヘーゲルの影響を清算しようとしたものの、基本的にはヘーゲルを脱却していなかったことがわかる。『資本論』にみられる「商品の物神化」というのは、疎外論の言い換えである。

この初期の草稿から『資本論』に至るまで、マルクスには「平等に所得を分配する」という発想はまったくない。彼の最終目標は、労働者がみずからの主人となって私有財産や国家を廃絶することであり、そこでは所得を再分配する必要もなく、分配を行なう国家も存在しないからだ。民主党の温情主義は、むしろ欧州の社民主義の系統である。菅氏も仙谷氏も、イタリア起源の「構造改革」派だった。

マルクスが批判した近代市民社会の本質は、『ドイツ・イデオロギー』で彼が発見した(意識的に制御されない)自然発生的な分業であり、それを支える私有財産(所有権)である。ヘーゲルが観念的に「近代的自我の自己疎外」ととらえた市民社会の矛盾を、マルクスは分業や交換という具体的な形で分析したのだ。この発想は、最新の企業理論とほとんど同じである。
わたしたちはのちに、まず資本家が資本を通じていかに労働への統治権を行使するかを観察し、ついで資本の統治権がいかに資本家を統治するかを観察するつもりだ。(p.41 強調は引用者)
これは企業を「資本家が物的資本の所有権によって労働者をコントロールする装置」と考える所有権理論と同じであり、オリバー・ハートはマルクスが「権力の配分」を考える彼の理論の先駆者だと認めている。労働価値説とか階級闘争とかいうノイズを除いて読みなおせば、マルクスから学ぶべきことはまだまだ多い。

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コメント一覧

  1. 1.
    • pluralist
    • 2010年07月07日 11:21


    学生時代に『経哲草稿』の訳を読みかなり影響は残ってますね。頭を冷やして考えると、英国の経済学の勉強をしてスミスから〈分業〉の重大な問題性を受け継ぎ、フランスのユートピア社会主義と接ぎ木して(もちろんヘーゲルが接着剤)なったのがこの草稿かもしれません。当時は実存主義が世の中を風靡しており、マルクス主義の文脈では疎外論と実存主義とは同じことをいっているように思えたのです。私的な回想のひとこまを呼び起されました。

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