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[11310] 暴風少女ブッ殺!スバル(エア・ギア×魔法少女リリカルなのはStrikerS)
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/01/04 02:50
とらハの皆様、はじめまして。
現在その他板でssを一本連載させて頂いているさむそんと申します。
もう一本の方の執筆が行き詰まり、息抜きに新しくssを書いていたのですが、この度御板に移動することにしました。

本ssは「魔法少女リリカルなのはStrikerS」と、講談社週刊少年マガジンで連載中の漫画「エア・ギア」のクロスオーバーとなります。
世界観は「エア・ギア」がメインとなり、また物語の都合上「リリカルなのは」側の登場人物は一部しか登場しません。

あと、タイトルは他に語呂の良いものが思いつかなかっただけで、何か悪意がある訳ではありません。

以上の点をご了承の上で、どうぞお楽しみ下さい。



[11310] Trick:01
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/01/06 11:41
 あたし達に翼はない。
 でも……、
 翼がなくても空は飛べるって、教えてくれた人達がいる。




 ――ィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイインッ!

 甲高いモーター音を響かせながら、宵闇に染まる街の中を白い影が駆け抜ける。
 幽霊? 否、人間だった。長い銀色の髪を風になびかせ、ロングブーツ状の二輪型A.T.を履いた若い女である。
 ホイールで地面を蹴りつけた瞬間、内蔵された超小型強力モーターが高速回転。ビルの壁面を垂直に駆け登り、彼女は無限の夜空へ飛び出した。

 エアトレック、略してA.T.。インラインスケートにモーターとマイクロコンピューターを搭載したこのイカレた大発明は、人を一瞬だけ鳥に変える。
 それ故にA.T.はエア・ギア――“自由への道具”とも呼ばれ、暴風族(ストーム・ライダー)を名乗る若者達を中心に一大ブームを巻き起こした。
 彼女の名前はシムカ。「渡り鳥」の異名を持ち、この界隈では少しだけ有名なライダーである。

 家屋の屋根、電信柱の頂。点在する足場を飛び石のように伝い、シムカは虚空を駆ける。否、吹きつける風をも踏み締めながら宙を走るその姿は、寧ろ“翔ける”と称しても良い。
 だがシムカの表情は暗い。どんなに速く走っても、どれだけ高く遠くまで飛んでも、まるで胸の中に雨雲があるかのように彼女の心は晴れなかった。
 月は赤く、風は強い。昔の苦い記憶を思い出させる嫌な夜だった。
 こんな日には風が予期せぬ来訪者を連れてくる、と誰かが昔言っていたが、まさにその通り。
 今宵の風が運ぶのは鼻孔を刺すような焦げ臭さと、けたたましく鳴り響く無粋なサイレン音。気分は憂鬱と通り越して最悪だった。
 上から見下ろせばよく分かる。まるで星を落としたように電気仕掛けの光に満ちる街の一点に、他の人工の明かりとは明らかに違う輝きが見える。
 篝火を焚いたように赤々と輝き、闇よりも更に黒々とした煙を立ち昇らせるその異質な光は、紛れもなく火災による炎である。

 青学女子中学校、東雲市の海沿いに位置するミッション系のお嬢様学園である。そのシンボルとも言える大時計塔が、燃えていた。

「なんてこと……」

 シムカは愕然と声を上げた。
 現場には既に無数の暴風族が押し掛けていた。ある者はただの野次馬に、またある者は消防隊に交じって消火活動を行っている。
 その中に見知った顔を見つけ、シムカはその傍に降り立つ。

「やぁシムカ、君も来たのか」

 バケツリレーの指揮を執りながら親しげな調子でシムカに声をかける青年の名は、スピット・ファイア。
「炎の王」の称号を持ち、三チームの連合からなる暴風族グループ<ボルケーノ>を束ねる男である。

「……まるで悪い夢でも見てるみたいよ、スピット」

 炎上する眼前の大時計塔を険しい顔で睨みつけたまま、シムカはスピット・ファイアの挨拶に応えた。
 表向きは名門女子校として名高いこの学園だが、その裏の顔は「絶対中立」を貫くA.T.専門のメンテナンスチーム、道具屋こと<トゥール・トゥール・トゥ>の本拠地である。
 シムカもかつては<道具屋>に身を置いていた時期がある、いわばここは彼女の“古巣”であると言える。
 だがこのような形で“古巣”に戻ってくることになるとは思わなかった。二度とこの地を踏むつもりも無かったというのに。
 ここは絶対中立の<トゥール・トゥール・トゥ>の本拠地であると同時に、シムカ達とは絶対に相容れることのない“敵”の縄張り(エリア)でもあるのだから。

「……“敵”かしら?」

 シムカの問いに、スピット・ファイアは首を振って否定を返す。

「いや、“彼ら”じゃないだろう。ここまで露骨な攻撃はあまりにリスクが大きい。ただの事故か、放火だったとしても無関係な第三者の仕業だと思うよ」

 スピット・ファイアの見解にシムカも「そうね」と同意を示す。エリアが隣接しているというだけで“敵”の関与を疑うのは確かに浅薄だった。
 今のA.T.界は微妙なバランスの上に成り立っている、その均衡が崩れるような事態は誰も望んではいない。少なくとも、今はまだ。
 駄目だなぁ、とシムカは自嘲した。今の私はきっと冷静ではない、“古巣”の無惨な姿を目の当たりにして気が動転しているのかもしれない。

 或いは「塔」が燃えているからこそ、自分はこれほどまで心を乱しているのだろうか?
 不意にシムカの脳裏に、自分と全く同じ顔の男――今は“道”を違えた双児の兄の姿が蘇った。
 七年前、兄はその心だけが「塔」に閉じ込められていた。少なくとも当時のシムカはそう感じ、その思いは今でも変わらない。
 だがそれは果たして兄だけに言えることだろうか。シムカもまたあのとき、心を「塔」の奥に置き去りにしてしまったのではないか?
 落ち着いて見てみれば燃えているのは大時計塔そのものではなく、その足元の校舎であることが分かる。それに消火活動により火の勢いも目に見えて衰えている。
 それに何より――この程度の炎であの「塔」が焼け落ちるなどあり得ない。表面こそ無惨に焼け焦げているが、内部の“本体”に大きな影響は無いだろう。
 それでも胸騒ぎが止まらないのは、私の心が未だ「塔」に囚われている証拠ではないか?

 そんな自己分析と自己嫌悪に沈むシムカの頭の中に、その時――、

(助けて……!)

 助けを求める悲痛な声が、突如響いた。

(痛いよ、痛いよぉ……。お父さん、お姉ちゃん……)

 まるで頭の中に直接送り込まれたように脳内に響く、幼く弱々しい声。恐らくはまだ小さな子供だろう。
 シムカは思わず周囲を見回した。隣で怪訝そうな顔をしたスピット・ファイアと、目が合う。

「ねぇ、スピット。あの中に取り残された子って……いる?」

 シムカの突然な問いにスピット・ファイアは一瞬考え込むように眉を寄せ、しかし「いや」と首を横に振った。

「それは無いだろう。要救助者がいるなんて話は聞いてないし、この学園は全寮制だ。こんな時間に校舎をうろつく生徒はいないよ」
「……<トゥール・トゥ>の娘達は?」
「イネはそこまで迂闊じゃないよ。その教え子達もね」

 スピット・ファイアの科白にシムカは納得したように「そうね」と頷いた。
 二人の昔馴染みでもある<道具屋>の「王」は、ある種の完璧主義者とも言える女性だった。その彼女が教え子の危機を放置するとは確かに思えない。
 それに冷静に考えてみれば、幾らこの場所が火災現場の目の前とはいえ、この喧騒である。建物の中の声が外まで聞こえる筈がない。

 ではあれはただの空耳か。シムカがそう自己完結しようとした、その時――――頭の中に再びあの“声”が響いた。

(誰か……助けてっ!)

 先刻よりも更に明瞭な“声”が、シムカの心を大きく揺さぶる。今度は聞き間違いなどとは断じて言えないだろう。
 まいったなぁ、とシムカは胸中で吐息を零す。熱血は私のキャラではないが、かと言ってこのまま無視するのも寝覚めが悪い。
 スピット・ファイアは気づいていない、他のライダー達も反応していない。恐らくこの“声”が聞こえているのは、この場では私ただ一人なのだろう。

 ならば私が征くしかないではないか。シムカは腹を括った。
 頭の帽子を「預かってて」とスピット・ファイアに押しつけ、引ったくるように取り上げたバケツの水を頭から被る。
 動揺の声を上げるライダー達の頭上を飛び越え、シムカは炎の中へ飛び込んだ。
 熱い。想像はしていたが、炎を閉じ込めた屋内はまるで煉獄のような熱気に包まれていた。燃え立つ廊下をA.T.で疾走しながら、シムカは早速後悔に駆られる。
 立ち昇る黒煙が眼球を容赦なく刺激し、吹きつける灼熱の風は僅かでも吸い込めば瞬く間に肺を焼き尽くすだろう。このままでは呼吸もままならない。
 制限時間は10分間、それがシムカの生命線だった。10分程度ならば呼吸なしでも動ける。その間に“声”の主を見つけ出し、この建物から脱出する。

 久し振りに本気の本気で走ろう。シムカは薄く笑いながら顔面を掌で覆い、眼球に貼りつくカラーコンタクトを指先で剥がした。
 露わになった黒い瞳に輝く十字紋様。重力子(グラビティ・チルドレン)と呼ばれる異能者の証、眼十輝(トゥインクル・アイ)である。
 目に映る景色が三次元に変わり、“走り”の地図(パース)が頭の中に浮かぶ。走るべきルートさえイメージできれば、あとは自然と身体が動いた。
 崩れた瓦礫を足場にして飛び、炎が生む気流に乗り、目に映る全てを最大限に利用しながら、シムカはまるで踊るように走る。
 全ての(トリック)が流れるように出てきて、その全てが無駄なく繋がる。それが一流の暴風族の“走り”である。
 その点から見れば、シムカは間違いなく超一流のトップライダーだった。

 壊れた扉を蹴破り、シムカは遂に目的地(ゴール)に辿り着いた。校舎の中央部に位置する礼拝堂、そこはちょうど大時計塔の真下でもある。
 突入から約5分、シムカはこの教室を目指して一直線に進んできた。“声”の主はここから私を呼んでいる、そんな根拠のない確信があった。
 果たして、その直感は正しかった。炎に包まれた教室の奥から、すすり泣くような幼い子供の声が聞こえる。

 それにしても……と、シムカはA.T.を走らせながら剣呑な目つきで周囲を見渡した。
 この教室だけ壊れ方が半端ない。階段状に設置された長机は瓦礫に無惨に押し潰され、破片が壁や天井にまで突き刺さっている。まるで竜巻でも起こったかのようである。
 違和感は他にもある。半壊した礼拝堂に無造作に散乱する瓦礫の量が、教室の破損よりも明らかに多いのだ。
 不審な瓦礫の中にはどう見てもこの部屋の一部とは思えない代物も多く転がっている。例えば床に突き立つ、何かの像の一部らしき翼の形をした巨大な金属の塊など。
 それはまるで、どこか別の場所から瓦礫だけを魔法か何かで送り込んだような――、

「……馬鹿馬鹿しい」

 脳裏をよぎる荒唐無稽な考えを一笑に伏し、シムカは“声”の主の捜索を続ける。
 そして、見つけた。瓦礫の傍、膝を抱えた小さな影。“道”を見失って泣いている、迷子の雛鳥がそこにいた。

「私をずっと呼んでたのは、貴女かな?」

 明るい口調で声をかけるシムカに、その子供は顔を上げた。青いショートカットの髪の女の子だった。

念話(テレパシー)……お姉ちゃんに教えてもらった、魔法なの」

 涙と煙で咳き込みながら、少女がたどたどしい口調で言葉を返した。
 この学園の生徒ではないだろう。制服を着ていないし、見た目も中学生にしてはあまりに幼い。顔立ちも日本人とは少し違った。
 暴飛靴新法が成立する以前、玉璽(レガリア)という“餌”に釣られて多くの外国マフィアがこの国に雪崩れ込んだ。という話を、シムカは唐突に思い出した。
 当時のこの国は激増するA.T.犯罪に法律が追いついておらず、ある種の無法地帯と言えた。暴飛靴新法――A.T.を規制する法律が成立した現在も、その本質は変わっていない。
 この娘もそうなのだろうか、少女を見下ろすシムカの心境は複雑だった。この娘もまた「塔」の秘密を盗むために送り込まれたスパイなのだろうか?

 いや、こんなことはやめよう。シムカは頭を振って自らの考えを打ち消した。
 少女の疑いが晴れた訳ではない。こんなところで下手な憶測を巡らせても詮無いことに気づいただけである。
 大切なことを忘れていた。今、この場ですべきことは一つではないか。シムカは床に膝をついて少女と目線を合わせ、その小さな身体を抱きしめた。

「よく頑張ったね、偉いよ」

 シムカの言葉に少女は小さく嗚咽を漏らし、そしてせきを切ったように声を上げて泣き出した。胸の中で泣きじゃくる少女を両腕で抱え上げ、シムカは立ち上がる。
 あまり時間はない。呼吸を止めていられるのもあと僅かだし、なによりこの娘の体力が心配だった。
 顔を上げると、天井の一部が崩れ落ち、その風穴の向こうから覗く星空を見つけた。あの穴から脱出できるかもしれない。
 懸念事項があるとすれば、高さか。シムカは無意識に眉を寄せた。
 この礼拝堂の天井は高い、ただのジャンプであの高さまで飛ぶのは難しいだろう。ましてや今のシムカは一人ではない、少女という“お荷物”まで抱えているのだ。

 だが一人でないからこそキメられるトリックもある。シムカは腕の中の少女へ視線を落とした。

「私、シムカって言うの。貴女の名前は?」
「……スバル」

 シムカの突然な問いに、少女は戸惑いながらも答えてくれた。スバルと名乗った少女に「いい名前ね」と返し、シムカは再び“空”を見た。
 目的地に至るために最適なトリックをイメージ。角度やタイミング、必要なスピードを瞬時に計算する。

“空”とは、一体どこからが“空”なのだろうか? あるのはただ、空気とほんの少しの水蒸気の塊。それは百メートル上も千メートル上も変わらない。
 畢竟、地面から上は全て“空”なのだ。屋内だろうが屋外だろうが、関係ない。
 この空間の“空”は特殊だ。炎によって“空”の密度は絶えず変わり、その密度差を埋めるために空気の移動――つまり“風”が生まれている。
“風”はやってくる前に様々な前兆を持つ。まずは「音」、内耳で感じる「気圧差」、空気の壁が迫る「圧力」、変化し続ける「湿度」、そして「光」。
 普通なら誰も気づかない僅かな兆し。しかし稀に、“風”の兆しを天性の勘とも言うべき鋭敏さで感じ取る人間がいる。
 例えば、かつて「空の王」に最も近づいたと言われる男、武内 空。その後継者と目される少年、暴風族<小烏丸>の南 イッキ。
 そして「そうである」ように創られた存在、シムカ達グラビティ・チルドレン。

「……見えた」

 シムカは微笑と共に呟いた。風、フィールド、そしてスバル。それら全ての要素が彼女の頭の中で、まるでA.T.のパーツのように一つに組み合った瞬間だった。
 足裏のホイールが再び猛回転を始める。シムカは動かない。まだだ、まだスタートダッシュには“速さ”が足りない。
 空転するホイールがガリガリと床を削り――次の瞬間、シムカの足元から火柱が立ち昇った。
炎の道(フレイムロード)」、超光速回転するホイールの摩擦熱が魅せる幻の炎。「炎の王」スピット・ファイアが極める八本の「王の道」の一つだった。

「Here we Go!!」

 自らの生み出した“炎”に背中を押されるような形で、シムカは遂に走り始めた。
 まずは大きく円を描くように壁に沿って、スピードを上げながら礼拝堂を一周。これで次のトリックへの“助走”を稼ぐ。
 続いてA.T.のクッション機構を軋ませ、軽く跳躍。身体を水平に傾け、シムカは壁面に“着地”した。壁走り(ウォールライド)、ジャンプと並ぶ“走り”の基礎技能である。
 まるで重力を無視するように壁面を走りながら、シムカは肺の中に残る最後の空気を吐き出した。天井の風穴に一瞥を送る、ここからが真の正念場だった。

「スバルちゃん、あの空へ飛ぶために貴女の力も貸してね?」

 そう言ってシムカはスバルの返事を待つことなく、次の瞬間、スバルを抱きしめる腕を放した。
 まるで重い荷物を下ろしたような一瞬の解放感、しかし安堵の息は吐けない。
 空中に放り出され、小さく悲鳴を上げるスバルの手首を右手で掴まえ、シムカは壁面に密着する両足を踏ん張った。

 ――技・Spinning Wallride Overbank 1800°Simca&Subaru Special!!

 まるでプロレス技のジャイアント・スイングのようにスバルの身体を振り回しながら、シムカは壁面を垂直に駆け登る。
 本来ならば腕の回転力を軸に壁を登るトリックだが、スバルを錘代わりに振り回すことでより大きな遠心力、更なる加速を得ることが出来た。
 だが良いことばかりではない。まるで絶叫マシン――しかも安全装置も命綱もない――に乗る恐怖に晒され、スバルが今度こそ悲鳴を上げる。
 泣き叫ぶスバルに良心が痛むが、しかしそれ以上にシムカは「物理的な痛み」に泣きそうになっていた。
 想像してみて欲しい。子供とはいえ人間一人を腕一本で支えようとするとどうなるか?
 脱臼、筋肉断裂、下手をすれば骨折や、最悪の場合腕が千切れるかもしれない。
 そんな地獄の痛みと闘いながら、しかしシムカは手を離さない、トリックも中断しない。意地があるのだ、女の子にも。

 天井がぐんぐんと迫ってくる。否、壁を登るシムカ達が猛スピードで天井へ接近しているのだ。
 ぶつかる! 思わず目を閉じるスバルを再び抱き寄せ、シムカが跳んだ。加速は十分、角度、タイミングも完璧。イメージから寸分の狂いもない、最高のジャンプだった。
 風の壁を突き破り、まるで撃鉄に打ち出された弾丸のように天井の“銃口”から外へ飛び出す。清涼な風を顔面で受け止め、シムカはやっと息を吸い込んだ。

「もう大丈夫だよ。あとは安全な場所まで一直線だからね」

 腕の中のスバルに優しく声をかけ、シムカは校舎の屋根を蹴り、空中へ身を躍らせた。壁も天井も限界もない、本当の「無限の空」へ。
 月は赤く、風は強い。こんな日には風が予期せぬ来訪者を連れてくる、と言っていたのは、そう言えばスピット・ファイアだった気がする。
 血に塗れたようで好きではなかった真っ赤な月。こんな夜の来訪者など碌なものではないと思っていたが、存外いい出会いもあるではないか。
 そんな柄にもない感傷に浸り、「渡り鳥」が魅せた奇跡の救出劇に湧き立つ暴風族達の歓声を聞きながら、シムカは静かに瞼を閉じる。
 胸の中の雨雲は、いつの間にかどこかへ消え去っていた。



 ――To be continued



[11310] Trick:02
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2009/10/30 00:28
 青学女子中学校の火災騒ぎは、一晩明けた現在、東雲市各所で話題の種となっていた。
 それは東雲東中学校二年一組も例外ではなく、ホームルーム前の朝の教室では娯楽に飢えた生徒達が昨夜の火災をネタに雑談や噂話に花を咲かせている。
 元「東中ガンズ」の一人、カズこと美鞍 葛馬もその一人だった。始業ベルと同時に教室に滑り込むや、カズは声を張り上げる。

「おいイッキ! 聞いたかよ昨日の青学女子の火災騒ぎ?」

 興奮した口調で喋り始めるカズを、窓際最後列の席にたむろしていた少年達が振り向く。まず反応したのは小太りの少年、元「ガンズ」仲間のオニギリだった。

「ああ、俺達も今そのことを話してたんだぜ? 現場捜査のために青学女子、今日は休校なんだと。いいよなぁ学校休みで」
「けどその代わり、向こうはきっと春休みに補講だよ? 世の中そんなに甘くはないさ」

 僻むようなオニギリの科白に茶々を入れるのは、身長二メートルを超える力士のような体格の巨漢。元暴風族<夜王>の総長、ブッチャもとい御仏 一茶である。
 本来ならば隣のクラスの生徒の筈のブッチャだが、最近は頻繁にこちらの教室へ顔を出している。

「現場には暴風族の有志が駆けつけて、消防隊と一緒に消火活動をしたらしいよ。スピット・ファイアの<ボルケーノ>とか。同じライダーとして誇らしいね」
「知ってたら、もしかしたらわたし達も何かお手伝いできたかもしれないけど……火事のことを聞いたのは今朝起きてからだったんだよね。ちょっと情けない」

 ブッチャの言葉に同意しながら、同時に残念そうに溜息を吐く眼鏡の少女、野山野 リンゴ。この集団の中では唯一の女子だった。

「まぁ今回は仕方なかったんじゃない? 夜遅かったし、イッキ君も爆睡してたよ?」

 気落ちするリンゴに、右目に眼帯を着けた小柄な少年が慰めるように声をかけた。鰐島 亜紀人、数週間前にこのクラスに来た転校生で、「牙の王」を名乗るトップライダーである。

「ちょっと、亜紀人君! 何でイッキが爆睡してたって知ってるの!?」
「だって僕、昨夜イッキ君の部屋に夜這いしたもん」
「よ、夜這っ!?」
「うん。それで一晩同じベッドで一緒に寝て、「おはよう」のチューまでしたんだから」

 前言撤回。慰めるのではなく、恋敵の牽制が亜紀人の真の狙いだったらしい。
 勝ち誇るような亜紀人の科白に、リンゴは名前の通り顔を赤く染め、聞き耳を立てていたクラス中の女子生徒が黄色い悲鳴を上げる。
 リンゴと亜紀人。イッキを巡るこの二人の対立は、このクラスでは周知の事実だった。

 ひと通りの――勿論リンゴと亜紀人のいがみ合いは無視して――情報が既に出揃っていることに、カズは落胆の表情を隠せなかった。
 しかし一つだけ、ブッチャ達の話に欠片も出ていなかった事柄を思い出し、カズは意気揚々と口を開いた。

「そういやさぁ、お前ら「渡り鳥」のことは知ってるか?」
「シムカさん?」

 カズが口にしたシムカの異名に、真っ先に反応した男がいる。オニギリやリンゴ達に周りを囲まれる中、机に両足を投げ出す形で一人だけ席に座る男子生徒。
 鳥の巣のような――本当にカラスを飼っているのだが――ボサボサ頭に、まるで鷲のように鋭い目つきの少年。リンゴと亜紀人の話題の中心、南 イッキその人である。
 イッキの応答に「そう、それ」と相槌を打ち、カズは水を得た魚のように嬉々とした表情で語り始める。

「それがさぁ、ネットの最新情報なんだけど、消火作業中に「渡り鳥」のシムカってライダーが炎の中に一人で突っ込んで、子供を一人助け出したらしい」
「それマジかよ!?」

 カズの話に、イッキが興奮したように身を乗り出す。傍でリンゴや亜紀人がむっとしたような表情を浮かべるが、気づいていない。
 脳細胞の全てがA.T.で構成されているとも言える今のイッキが唯一夢中な異性、それが「渡り鳥」のシムカだった。
 イッキの剣幕に気圧されながらカズは「ああ」と頷く。だが直後、どことなく沈んだ表情でカズは「ただな」と続けた。

「まぁ、そいつもかなり無理したみたいでな? 子供抱えて炎の中から脱出したところでブッ倒れたそうだ。救出したガキともども救急車で運ばれたんだとさ」

 カズの言葉に、イッキは「何ぃ!?」と目を剥いた。リンゴ達も驚いたような表情を浮かべてカズの顔を見る。

「その子のこと、きっと命懸けで救い出したんだね。……ちょっと見直しちゃった、あの人のこと」

 感慨深そうに呟くリンゴに、イッキも「そうだな」と首肯した。凄い人だと皮肉抜きに思う、だから自分は憧れたのだ。
 イッキはシムカに憧れて暴風族になった。シムカと走りたかったからA.T.を始め、彼女と肩を並べたくてチームを作った。
 暴風族<小烏丸>、それがイッキのチームの名前である。カズやオニギリも、ブッチャも、そして亜紀人に“もう一人”も、全員<小烏丸>のメンバーである。
 リンゴは<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>という別のチームの所属だが、先輩ライダーとして色々と世話を焼いてくれている。
 仲間達のおかげでイッキは自分の“道”を走り始めた。だが本当の“はじまり”をくれたのはシムカなのだ。

「やっぱ凄ぇよ、シムカさんは」

 改めてそう口にし、イッキは窓の外を振り仰いだ。透明なガラスの向こうに「無限の空」が広がっている。シムカもどこかで、あの空を見ているだろうか?
 その時、教壇の方から「あのぉ」という気弱そうな声が聞こえてきた。振り返ると、担任の富田教諭が泣きそうな顔でイッキ達を見ている。

「そろそろ授業、始めていいかなぁ……?」




 その頃、シムカは市街地に建つ総合病院の診療室で、院長直々による診察を受けていた。
 右腕を三角巾で吊り、頬にはガーゼが貼られている。入院衣の袖や裾から覗く他の手足にも包帯が巻かれ、見るからに痛々しい姿だった。
 既に新しいカラーコンタクトを着けたのか、眼十輝(トゥインクル・アイ)の消えた空色の瞳で、シムカはこの病院の院長、巻上 イネの診断を待つ。

「全治三週間ってところかしら」

 巻上の診断にシムカは「えー?」と不平の声を上げた。こんな姿ではカラス君――南 イッキに逢いに行けない。
 三週間も彼との逢瀬に“おあずけ”を食うなど、「渡り鳥」としては耐え難い拷問に等しかった。

「右肩の脱臼に腕の筋肉断裂、左足首の捻挫、それに火傷に打撲に切り傷も少々。上位クラスの(バトル)なら珍しくないけど、あの「渡り鳥」がよくもここまで無茶したものね?」

 貴女そんなにマゾっ気あったかしら、と呆れたような目を向ける巻上に、シムカは「あはは」と愛想笑いを返す。

「今回はちょっとはしゃぎすぎたわ、反省してる」
「これを機会に少しは自重を覚えることね。あまりにも高く飛ぶ鳥は、空を飛びながら死ぬのよ?」

 巻上の忠告に「肝に銘じとくわ」と神妙な顔で返し、不意に視線を落とした。包帯だらけの身体、まるで自分のものではないかのようだった。
 恐怖が無い訳ではない。寧ろ昨夜の一件は、思い出しただけで今でも身体が震える。あのときはよくもあそこまで馬鹿な真似ができたものだ。

 シムカは武闘派のライダーではない。他の暴風族チームにちょっかいを出したり、抗争に横槍を入れたりはするが、彼女自身が矢面に立ったことは皆無である。
 A.T.は無限の可能性を秘めている。「王」と呼ばれるトップライダーの中には、小規模の自然災害を生身で起こす化け物のような人間が当たり前のように存在するのだ。
 そして真に暴風族の恐ろしいところは、彼らはそんな“人間災害”達に真正面から立ち向かい、そして時には勝利すらもぎ取ってしまうことである。
 その蛮勇さ、羨ましいまでの馬鹿さ加減! あの程度の綱渡りで震えあがる臆病者の自分とは訳が違う。今更ながら己の器の小ささに気づき、シムカは吐息を零した。
 瞼の裏に浮かぶのは、カラスを彷彿とさせる生意気そうな眼をした年下の少年。つい先日、自らのチームを結成し、その初陣を勝利で飾った期待の新人ライダーである。
 彼もまた、「王」となり得る資質の持ち主である。自分とは違い、“嵐”に臆することなく立ち向かうだけの勇気と力を持つ、「王」の卵なのだ。

「やっぱり凄いなぁ、カラス君は」

 シムカの呟きに、巻上が怪訝そうな目を向ける。「空の王」の最有力候補、南 イッキの名は彼女も知っている。だが何故、今その名前が出てくるのだろうか?
 首を傾げる巻上に、シムカはただ微笑を返す。分からないならばそれでいい、この気持ちを私一人で独占できる。

「……まぁいいわ。ところでシムカ、貴女が拾ってきたあの子供のことなんだけど」
「ああ、スバルちゃんね。あの娘の様子は如何なの?」

 深く詮索することなく、早々に話題を切り替える巻上の言葉に、シムカは興味を持ったように顔を上げた。
 目を覚ますや、看護師の問診もそこそこに超特急で巻上のもとまで引っ張ってこられたのだ。正直なところ、自分が助けたあの少女のことが気になって仕方がない。
 期待に満ちた目で続きを促すシムカに、巻上は「まずはこれを見て」と言いながら手元の封筒から三枚のレントゲン写真を取り出す。
 マグネットでボードに貼りつけられたレントゲン写真を見遣り、シムカは眉をひそめた。医者の心得など欠片も持たない彼女の目から見ても、この三枚の写真は異質だった。
 ボード上に等間隔で並べられた三枚のレントゲン写真は、それぞれ確かに巻上の言う通り、子供の手と足、そして胸を写したものだった。
 だがX線によって鮮明に映し出されたその骨格は、明らかに人間のものではない。否、そもそもこれは生物の骨格ですらないではないか。

 機械、ロボットの骨組み。それがシムカの率直な感想だった。金属かセラミックか、とにかく人工的な何かによって構成される、作り物じみた骨格。

「あの女の子、スバル・ナカジマさんのレントゲン写真よ。これは手と足、そして胸の写真ね」

 巻上の言葉に、シムカの眉間に寄ったしわが更に深くなる。

「実はあの子はロボットだったとか、そんなこと言うつもり?」

 冗談じゃない、とシムカは吐き捨てた。炎の中で抱き上げたスバルの身体は温かく、息づかいだって聞いた。人間と人形を間違えるほど私の肌センサーは鈍っていない。
 しかしシムカの科白に巻上は首を振り、睨むような目つきでボード上の写真を一瞥する。

「そんな簡単なものじゃないわよ。鋼鉄の骨格に人工筋肉、敢えて言うならばサイボーグかしら? 現行の科学水準を凌駕する、あり得ない技術の産物よ」
「……何よそれ。まさか“ファクトリー”の新製品だとか言うつもりじゃないでしょうね?」

 剣呑な顔で尋ねるシムカに、巻上は「馬鹿言いなさんな」と鼻を鳴らす。

 ファクトリー、青学女子中学校の地下にある超巨大設備。正式には「大撥条ファクトリー」と呼ばれ、<トゥール・トゥ・トゥ>の真の本拠地である。
 元々は「塔」の一部であり、あまりにも巨大なため管理する<トゥール・トゥール・トゥ>のメンバーすらもその全容は知らない。
 否、正確には「巧く秘匿されている」と言うべきか。ファクトリーに君臨する真の主、<道具屋>を従え「閃律の道(リイーンロード)」を統べる女帝、「契の王」巻上 イネによって。

 無言の追及を続けるシムカに、巻上は「あたしじゃないわよ」と改めて否定した。

「言ったでしょ? 現行の科学力を凌駕してるって。それは「塔」の技術も例外じゃないわ、こんなの創れって言われても無理よ」

 巻上の弁明に、シムカは漸く矛先を収めた。科学者としての自分に嘘は吐かない、巻上がそういう女であることはよく知っている。
 昔の仲間を疑った後ろめたさからか、「ごめん」という科白が自然と口から零れる。シムカの謝罪に、巻上は笑って「いいわよ」と返した。

「それじゃあスバルちゃんって、一体どこから来たのかしら?」

 緊張の糸が切れたのか、脱力したように大きく息を吐き出し、シムカは何気ない調子でそう口にした。シムカの疑問に、巻上は「さぁね」と肩を竦める。
「塔」の技術では無理、と巻上は言った。自分達の中で一番「塔」に詳しい人間の言葉である、彼女がそう言うのならばそうなのだろう。
 だが――この言い方は多少傲慢かもしれないが――この世界で最高峰の技術力を誇るのが他ならぬ「塔」なのだ。A.T.も、重力子(グラビティ・チルドレン)も、全て「塔」の技術の産物である。
 その「塔」で創れないのであれば、一体誰が創れるというのか。スバルはどこで生まれ、どこから来たのだろうか?

「案外、別の世界からでも迷い込んできたんじゃないの?」

 巻上の冗談をシムカは「まさか」と笑い飛ばし――――入口の隙間からこちらを窺うスバルと目が合った。

「スバルちゃん!?」

 一体いつから聞いていたのか。驚愕の声を上げるシムカに、スバルは怯えたように身体を震わせ、二人に背を向けて脱兎の如く逃げ出した。

「待って、スバルちゃん!」

 シムカは思わず立ち上がった。が、怪我をした左足に鈍痛が走り、バランスを崩して床の上に無様に倒れ伏す。
 廊下に足音を響かせながら走り去る小さな背中が、遠い。どんなに必死に手をのばしても、指先は虚しく空を切る。

「厄介なことになったわね」

 こんなときでも冷静さを失わない巻上が、頼もしいと思う反面、今は堪らなく憎らしく感じる。
 ずっと昔、飼っていたツバメを籠から逃がしてしまったことを、シムカは不意に思い出した。




 病院から逃げ出し、スバルは喧騒とした街の中を彷徨い歩く。目に入るのは知らない文字、周りに広がる見知らぬ世界。心細さに泣きたくなる。
 あてがある訳ではなかった。あそこにいてはいけない、と思って、気がつけばこうして飛び出してしまったのだ。

 知られてしまった。シムカともう一人の女性――確か巻貝と呼ばれていた――の会話を思い出し、スバルは暗い表情で吐息を零す。
 絶対に内緒にしなければならない。と、父にも姉にも、そして今は亡き母にも厳しく言われてきたのに、皆との約束を破ってしまった。
 戦闘機人、人の身体と機械を融合させた「生きる兵器」。それがスバルの抱える秘密の一つである。
 どこかの違法研究所で創られ、生前「管理局」の捜査官だった母に保護された。そして普通の子供として生きてきたに、どうしてこんなことになってしまったのだろう?
 そう、本当に普通の子供としてずっと暮らしてきたのだ。
 痛いことも怖いことも、他人を痛くすることも嫌いだから、母や姉が修める格闘技も真面目には学ばなかったし、魔法学校にも通っていない。
 その罰が、見知らぬ世界にたった独りで放り出されたことだとすれば、神様はどれだけ残酷な存在なのだろう。

 否、言い訳するのはやめよう。スバルは沈痛な表情のまま頭を振った。
 自分は戦闘機人として創られたが、両親は普通の子供と同じように自分達を育ててくれた。他人と違うことへのコンプレックスとは無縁の環境でスバルは生きてきた。
 約束を守れなかった後ろめたさはあるが、身体の秘密を知られたことに関しては特に気にしていない。気にする理由がないのだから。
 スバルが逃げた理由はただ一つ、シムカである。身体中に怪我をしていた、時折痛そうな顔も見せていた。
 あたしのせいだ、あたしのせいでシムカさんはあんなに痛そうにしているのだ。スバルの心を罪悪感が抉る。
 スバルは自分が痛い思いをすることも嫌いだが、他人に痛みを与えることはもっと嫌いだった。
 だが、シムカを傷つけてしまった。自分のちっぽけな命と引き換えに痛い思いをさせてしまった。傷だらけのシムカの姿はスバルの罪の証である。
 だからスバルは逃げ出した。シムカの前から。謝ることも、お礼を言うこともできずに。そのことがスバルの心を余計に重くしていた。

 歩き疲れ、スバルは街の片隅に設けられた小さな児童公園に立ち寄った。ブランコに腰を下ろし、少し休憩する。
 太陽は空のてっぺんで燦々と照り輝いている。腹の虫が鳴った、そう言えば昨夜から何も食べていない。
 財布は荷物と一緒に病院に置き去りにしてしまった。否、そもそもこの世界で「向こうの世界」の通貨が使えるとは思えない。
 スバルが抱えるもう一つの秘密。それは彼女が、この世界とは次元を異にする別の世界、ミッドチルダの人間であることだった。
 ミッドチルダでは別次元にある周辺異世界との接触、及び交流が盛んに行われ、また幾つもの世界を統治する時空管理局という組織の本部も置かれている。
 だが次元世界は広い、全ての世界が管理局の統治下にある訳ではない。また管理局が把握していない未発見の世界も次元の海には多々存在する。
 この世界もそういった管理外世界の一つだろう。管理局と連絡が取れない、つまり……帰れない。
 どうしよう。一晩かけて辿り着いた絶望的な結論を再認識し、スバルは顔を掌で覆った。
 元の世界へ帰れない以上、この世界で生きていくしかない。だが、どうやって? 家、仕事、問題は山積みである。

 シムカさんに会おう。まるで現実逃避でもするかのように唐突に思い立ち、スバルは顔を上げた。
 あの人に会って、謝って、お礼も言って、それから――また迷惑をかけてしまうが――これからの相談に乗って貰おう。それがベストな選択の筈である。
 だが一体どんな顔で会えばいいのだろう? 思い立ったはいいが、スバルは早速、最初の難関にぶつかった。
 一度逃げ出した手前、このまま何事もなかったような顔で戻るのはばつが悪い。その上“お願い”までしようなどとは、あまりに厚かましいとは思わないか?
 更に根本的な問題にスバルは気づいた。何も考えずにここまで歩いてきたため、そもそも帰り方が分からない。
 詰んだ、スバルは再び頭を抱えた。見事なまでの八方塞がり、あまりにも隙が無さすぎて窒息してしまいそうだ。

 その時、どこからか聞き覚えのあるモーター音が響き、スバルの耳を打った。エアトレック、この世界に広く普及しているらしい電動式のローラーシューズ。
 街の中でもA.T.を履いている人はたくさん見かけたし、シムカさんも使っていた。
 聞こえてくるモーター音は徐々に大きさを増し、音の主がだんだんと近づいていることをスバルに知らせる。
 一瞬、スバルの脳裏にシムカの顔がよぎった。が、すぐに「そんな訳ないか」と頭を振る。
 都合のいい夢に逃げずに現実を見なければならない。そんな決意とともにブランコから立ち上がる、その刹那――――スバルの足元を黒い影が横切った。
 鳥? 思わず頭上を見上げたスバルのすぐ傍で、とん、と軽やかな着地音が響く。

「見ーつけたっ」

 風に乗り、鼓膜を振るわせる朗らかな声に、スバルはぎょっと目を見開いた。
 ブランコをコの字型に囲む衝突防止用の柵の上から、白い人影がスバルを見下ろしている。シムカだ。
 初めて会ったときと同じ服、セーラー服に似た白い大きめのシャツと黒いエナメルのホットパンツに、今はゴーグルを着けた黒い大きな帽子を頭に被っている。

「探したんだよ?」と悪戯っぽく笑うシムカに、スバルは反射的に口を開いた。だが声が出ない。言いたいことはたくさんあるのに、そのどれもが言葉にならないのだ。

 辛うじて「シムカさん」とだけ口にしたスバルの正面に降り立ち、シムカはおもむろに口を開いた。

「お腹空いたよね。どこかでお昼にしよっか?」

 ついでにちょっとお話もしよう、と言外に告げるシムカに、スバルが逆らえる筈もなかった。




 商店街の片隅に店を構える小さなラーメン屋、満珍楼。お世辞にも広いとは言えない店の中は昼食時のためかそこそこに客で賑わい、注文の声がひっきりなしに飛び交う。
「木を隠すなら森の中」と言うように、ちょっとやそっとの話し声は容易に掻き消すこの喧騒は、内緒話をするには確かに好都合かもしれない。
 奥のテーブルにつき、注文したラーメンを二人で啜る。
 スバルは何も喋らない、シムカも一向に口を開こうとしない。ただひたすらに無言の時間が続く。
 そして沈黙に耐えかね、スバルが遂に「あの」と口を開いた。

「ごめんなさい、シムカさん」

 唐突に謝罪の言葉を口にしたスバルに、シムカが「ん?」と首を傾げる。

「逃げたこと、それに……その怪我のこと」

 続けられたスバルの科白に、シムカは合点がいったように「ああ」と頷いた。

「見た目ほど大した怪我じゃないから、そんなに気に病まなくていいわ。病院から脱走したのは、あまり褒められたことじゃないけどね」

 まるで気にしていないような口ぶりでそう言いながら、シムカは箸を動かす手を止めない。あまりにもあっさりとしたシムカの科白に、スバルもそれ以上は何も言えなかった。
 再び訪れる無言の時間、咀嚼音だけが二人の間を支配する。業を煮やし、再び口を開いたのは、やはりスバルの方だった。
 どんぶりを傾けてスープを飲み干し、スバルは意を決したようにシムカへ問いかける。

「……訊かないんですか?」
「訊いて欲しいの?」

 意地の悪い顔でそう切り返すシムカに、スバルは「う」と言葉に詰まった。
 本音を言えば、勿論何も訊かれない方がありがたい。だが訊いて貰わなければ話が進まない。ジレンマだった。
 葛藤するスバルを、シムカはただ無言で見つめる。待っているのだろうか? スバルが自分から話し出すその時を。

「……聞いて、欲しいです」

 逡巡の果てに、スバルはしぼり出すようにそう口にした。きっと自分は交渉や駆け引きには絶対に向いていないだろう。と、頭の片隅で自嘲しながら。

「じゃあ、聞いてあげる」

 話してごらん。と、まるで全てを受け入れる慈母のような表情で促すシムカに言われるまま、スバルは自分の全てをぶち撒けるように喋り始めた。
 次元世界のこと、魔法のこと、家族のこと。そして自分が巻き込まれたのであろう、異世界へ飛ばされる事故、次元漂流という現象について。
 何を話していいのか、何を黙っているべきなのか。言わなければならないこと、どうでもいいこと。そんなものを選り分ける余裕などない。
 ただ思いつくままに言葉を紡ぎ、思いを吐き出す。そうすることで、独りぼっちであるという不安が少しでも軽くなると信じて。

 理路整然という言葉には程遠いようなスバルの話を、しかしシムカは根気よく聞き続けた。
 目の前の小さな少女が一生懸命に語る荒唐無稽な「御伽噺」を、時に質問を挟み、時に自分なりの解釈を加えながら。
 正直なところ、スバルの話はあまりにも突飛すぎて、シムカの理解力を完全に超えていた。
 異世界だの魔法だの、ただ話を聞いている分には面白いが、それが現実であるという根拠はどこにも無いのだ。
 想像力豊かな子供の戯言、それが世間一般的な尺度から見たスバルの話の評価だろう。

 だがシムカは、その「戯言」を信じてみることにした。たとえ話の大半が解らなくとも、この少女を信じてやろうと決めたのだ。
 理由は……特にない。強いて挙げるならば“眼”だろうか。
 自分をまっすぐに見返すスバルの眼は嘘を吐いているようには見えなかった。それだけで、シムカにとっては信用に足るのだ。
 しかし半分以上理解が追いついていないことは事実なので、細かい事情は一旦丸投げして、取り敢えず現実的に一番切迫した問題の対処をシムカは選択した。
 それは合理的かつ当然の決断であり、決して現実逃避とか思考放棄などでは断じてない。と、理由も無く自分に言い訳をしながら。

「つまり貴女は今、帰る場所が無いってことね?」

 確認するように問うシムカに、スバルはしゅんとした表情で頷いた。さて、どうしたものか。スバルの処遇を考え、シムカは頭を悩ませる。
 異世界とやらではどうかは知らないが、この国では戸籍の無い子供が独りで生きていくのは難しい。シムカ自身、昔は兄とともにそれなりに苦労した経験がある。
 一番手っ取り早いのは行政に委ねることだが、スバルの出自を考えればこの選択肢は論外だろう。ならば自分達で匿うしかない。
 巻上からは「拾ったんだからアンタが面倒見なさい」と許可を貰っている。釘を刺されているとも言うが、今は気にしない。
 だがシムカ自身に子供一人を世話するだけの生活能力があるかと言えば、情けないことだが答えは「NO」である。よって誰か信頼できる人間に預けなければならない。
 事情(ワケ)有りの子供を、何も言わずに預かってくれる下宿先。そんなところが果たしてあるのだろうか? 悩むシムカの脳裏を、ある家族の顔ぶれが天啓の如くよぎった。
 そう言えばつい最近、似たような例が身近であったではないか。シムカは勢いよく椅子から立ち上がり、向かいの席できょとんとした顔をするスバルの手を握る。

「行きましょう! 最高の下宿先を紹介してあげるわ」

 そう言って善は急げとばかりに歩き出すシムカに手を引かれながら、スバルは「あの」と声を張り上げた。

「どうしてそこまでしてくれるんですか? あたし達言ってみればただの他人なのに。それにあたし、シムカさんに怪我させたり、逃げ出したり……迷惑ばかりかけてるのに」

 スバルの発した至極当然な疑問に、シムカは虚を衝かれたような顔で振り返り、考え込むように「んー」と口元に指先を当てながら視線を宙空に彷徨わせる。
 言われてみればその通りである。私は何故、この娘にこんなにも拘っているのだろう?
 問われて初めて気づいた己の不可解な行動。その理由を探して思考を巡らせ、シムカはあっさりと答えを見つけた。何だ、そんなことか。
 スバルは自分の正体を明かしたときと同じまっすぐな眼でシムカを見上げている。シムカはその視線を真っ向から受け止め、

「貴女が昔のあたしに、ちょっとだけ似てたからかな?」

 そう言って、悪戯っぽく笑った。




 そして――――、




「今日からこの家でお世話になるスバル・ナカジマです! よろしくお願いします!!」

 そう言って元気よく頭を下げる知らないお子様に、リンゴは思わずお辞儀を返し、亜紀人は「よろしくー」と片手を上げ、そしてイッキは鼻をほじる。
 こうしてその日、野山野家に新しい住人が増えた。



 ――To be continued



[11310] Trick:03
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2009/11/15 21:41
 満珍楼の暖簾を潜り、スバルは岡持を片手に外へ出た。

「それじゃあ、出前行ってきます!」

 店内を振り返り、元気よく挨拶するスバルに、カウンターの店主が「おう」と声を返す。引き戸をぴしゃりと閉め、スバルは滑るように地面を駆け出した。
 絶え間なく耳を打つモーター音、足裏で光る白いホイール。野山野家の末っ子、ウメに借りたA.T.シューズである。
 余り物のパーツで組んだとは彼女の談だが、調子は良好だ。バイト生活、三日目。今日も一日、全力全開で頑張っていこう。




 話は四日前に遡る。ちゃぶ台を囲む朝食の席で、スバルの発した一言が始まりだった。

「仕事がしたい?」

 昔馴染みのシムカから先日預かった、この新しい居候の突然の相談に、野山野家の長女、リカは眉を寄せて訊き返した。

「スバルちゃん……貴女、歳幾つだったっけ?」
「11歳です」

 何故か自信満々に胸を張って答えるスバルに、リカは思わず天を仰いだ。一体この子はどんな環境で生きてきたのだろうか。
 11歳? 小学生ではないか。他の国では如何かは知らないが、少なくともこの国では、小学生に労働を強いるようなことはしない。
 常識的に考えて、スバルの申し出は論外である。
 だがスバルの方は大真面目だった。リカは知らないことだが、スバルの出身世界、ミッドチルダでは子供の社会進出が広く認められているのだ。
 そのため就労年齢も低く設定されており、スバルのような――或いはもっと年下の――子供が普通に職を手にしている。
 つまり「スバルの常識」においては、自らの主張は妥当かつ当然のものであったのだ。

「せめて食費くらいは、自分で働いて収めたいです」

 居候なのに衣食住の全てを世話して貰うのは心苦しいから、と零すスバルに心動かされた者が二人いた。野山野家次女のミカンと、四女のウメである。

「な、何て健気なちびっ子なんだ……」
「どっかのゴクツブシどもにも見習わせたいでし」

 スバルの殊勝な言葉にミカンは目元を袖口で拭い、ウメは感心したように賞賛の言葉を口にする。
 その一方で、ウメから「穀潰し」と称された野郎二人が面白くなさそうに「けっ」と悪態を吐いていたのは、この話に関係のない完全な余談である。

「……まぁ、心意気は立派だと思います」

 手の中の湯呑を卓上に置き、リカがおもむろに口を開いた。スバルは固唾を呑み、一家の最高権力者の裁定を待つ。
 リカの視線がスバルを射抜いた。かつて「荊の女王」と呼ばれ、今は現役のプロレスラーとして名を馳せる女の眼光である。その鋭さは言うまでもない。

「認められません。貴女みたいな子供がアルバイトなんて。お金のことならシムカからちゃんと貰ってるから、貴女が心配する必要はありません」
「いや、あの、バイトじゃなくて就職……」

 それにシムカさんがお金払ってるって、ますます心苦しいんですケド。というスバルの抗議を黙殺し、リカは「話は終わり」とばかりに食事を再開する。

「ま、考えてみりゃ当然だよな。そんなに働きたきゃ家事でもやれよ家事」
「自宅警備員も立派な仕事でし」

 まるで掌を返したようなミカンやウメの態度に、スバルは「むぅ」と恨めしそうに睨む。
 そんな中、リカの決定に真っ向から異議を唱えたのがイッキだった。スバルの皿の上からおかずを横獲りしながら、「ちょっと待てよ」と口を挟む。

「そんな頭ごなしに否定することねぇだろ? こいつがやりたいって言ってんだ、やらせてやればいいじゃん」
「僕もスバルちゃんぐらいのときには、もうお兄ちゃんの下で戦ってたよ?」

 イッキの言葉に賛同するように、亜紀人もまた口を開く。意外な連中からの思わぬ援護射撃に、スバルは驚いたようにイッキ達を見た。
 スバルにとって、イッキは自分やウメのおかずを奪う嫌な奴、亜紀人はその嫌な奴にゾッコンのホモ野郎という認識だったが、少し評価を上方修正してもいいかもしれない。
 その後、イッキは屁理屈に屁理屈を重ね、その不屈のワガママぶりにリカが根負けする形で、遂にスバルのバイトの許可を勝ち取ってしまったのだ。
 そしてイッキがバイト先としてスバルに紹介したのが、満珍楼だった。チーム仲間の父親が経営する店で、イッキ自身もバイトをした経験があるのだという。
 あれよあれよと言う間に話が進み、その日の夕方、スバルは以前シムカと食べたラーメン屋のカウンター席に、今度はイッキと座っていた。
 奢りだというイッキの言葉に調子に乗り、日頃の報復も兼ねてラーメンを三杯もおかわりするスバルの隣で、イッキと店主の交渉が始まる。

 以下、二人の会話を抜粋するのだが……、

「俺という優秀な労働力が抜けて、おじさんも経営苦労してんじゃない?」
「おじさんがどーしてもって言うんなら、新戦力としてそこのちびっ子に口利きしてやってもいいっスよ?」
「こいつの時給はそっちに任せるけど、看板娘の仲介料としてこの俺様に1万――」
「使ってやろうと思ったがやめた。何様のつもりだ!」

 と、交渉は見事に決裂。慌てて二人で土下座して頼むことで、漸くスバルの雇用を了承して貰えたのだ。
 ちなみに店主曰く、雇用の決め手はスバルの「惚れ惚れするような食いっぷり」だったらしい。
 イッキとしては、新入りにいいところを見せて尊敬を得ようという魂胆だったのだろうが、結果はスバルの胃袋に消えたラーメンの分だけ懐を削られるのみに終わった。

 こうして、スバルの満珍楼看板娘としての日々が始まった次第である。
 バイト契約の翌日からすぐに仕事が始まり、初日は皿洗い、二日目は接客と徐々に手順を踏んでいき、そして三日目の今日は初めて出前を任された。

 商店街を抜け、住宅街を横切り、アパートが立ち並ぶ団地の中へと足を踏み入れる。地図とメモを交互に睨み、スバルは届け先の家を探す。
 確かこの辺りの筈なのだが……あった。目的地であるアパートを見つけ、スバルはA.T.を走らせた。
 建物の前で一旦止まり、ホイールをロック。慎重な足取りで階段を登る。出前先の「武内さん」の部屋はアパートの最上階らしい、道のりは遠い。
 漸く階段を登り終え、スバルは思わず息を吐いた。表札に「武内」と書かれた扉の前に立ち、ブザーを押しながら声を張り上げる。

「こんにちはぁ、満珍楼でーすっ!」

 スバルの挨拶に、家の中からの返答は沈黙。

「武内さーん? 満珍楼ですけどーっ!」

 再度大声で家主を呼ぶスバルに、返事は天井の向こうから響いた。

「おーう、ごくろうさーん! 上に持ってきたってやぁーっ!」

 上? スバルは一瞬首を傾げた。ここはアパートの最上階である、その上というのは……屋上か。指示の意図を理解し、スバルは再び階段を登る。
 屋上へ上がった瞬間、冷たい風がスバルの頬を打った。まだ冬の名残のある三月の風。四季が曖昧なミッドチルダのものと似ているようで少し違う。
 ちょっとした子供の遊び場程度の広さはある屋上の片隅、転落防止用の金網の傍に、車椅子に座った人影と数匹の犬が見える。
 車椅子の人影がスバルを振り返った。帽子を被り、柔和な笑みを浮かべた若い男である。彼が「武内さん」だろうか?

「満珍楼です、出前のお届けに来ました。貴方がスイカラーメンをご注文の武内さんですか?」
「おう、ワイが武内 空や。おおきに、嬢ちゃん」

 スバルの問いに、空と名乗った青年は人懐っこい笑顔で頷く。
 車椅子から両腕をのばし、片手で代金を渡しながらもう片方の手でどんぶりを受け取り、空はスバルのA.T.に気づいた。指先で帽子のつばを持ち上げ、「お」と声を上げる。

「何や嬢ちゃん、A.T.やっとるんか?」

 興味津々といった様子で問う空に、スバルは渋々と首を縦に振る。しかし空はスバルの返答に、どんぶりのラップを剥がしながら怪訝そうに首を傾げた。

「A.T.やっとるんやったらこないなビルの壁、ウォールライドで登ったらええやん? さっきもホイール全ロックして歩いとったし、嬢ちゃんFクラスの初心者か?」
「あ、あたしはただ出前のときとかに便利だからA.T.使ってるだけで! 別に暴風族とかそんなんじゃないです」

 不思議そうな目で尋ねる空に、スバルはむきになったように早口で言い返す。言ってから、「しまった」と後悔した。今のは失礼だったかもしれない。
 しかし恐縮するスバルの予想に反して、空は気分を害した様子もなく平然とした顔でラーメンを啜っている。
 が、「のびとるなぁこの麺。もっと速ぅ走れるように要精進やな」とあからさまに呟いている辺り、実は怒っているのかもしれない。
 それとも空の言葉は、“先輩”としてのアドバイスのつもりだろうか? 好奇心を抑えきれず、スバルは思いきって尋ねてみることにした。

「武内さんも、その……ストーム・ライダーなんですか?」

 おずおずとしたスバルの問いに「空でええよ」と前置きし、空はどこか遠くを眺めながら言葉を返す。

「正確にはストーム・ライダーやった(・・・)、やな」

 この足見てみぃ、と笑いながら腿を叩く空に、スバルは今度こそ失敗を悟った。考えてみれば当然ではないか、何故彼が車椅子だと思っている。
 しかし「ごめんなさい」とスバルが頭を下げる前に、空は再び口を開いていた。

「旧<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>の「風の王」、武内 空ゆーたら暴風族界では知らんモンはおらん有名人やで? 嬢ちゃん、ひょっとしてモグリか?」

 そう言って茶化すように笑う空に「だから暴風族じゃないです!」と真っ赤な顔で返し、スバルは脱力するように息を吐いた。何だか、何もかもが馬鹿らしくなってきた。

「それじゃあ、どんぶりは後で取りにきますから!」

 そう言って逃げるように歩き出すスバルの背中に、不意に空が声をかけた。

「ワイは大抵この屋上におるから、次に出前頼んだときは壁登り(ウォールライド)でここまで届けたってや」

 空の言葉に、スバルは振り返りも返事もしなかった。ただ立ち止まってホイールのロックを解除し、今度はA.T.で走り始める。
 そして――――派手に足を滑らせ、悲鳴とともに階段を転げ落ちていった。

 半泣きの表情で帰途につくスバルを屋上から見下ろし、空は楽しそうに笑みを浮かべる。カラスの坊主に続いて、また面白い奴が現れたものだ。




 その夜、一日の勤労を終えたスバルはちゃぶ台の上にまるでへばりつくように突っ伏していた。
 リカは台所で夕飯の支度中。ミカンやリンゴ、イッキ達はまだ帰っていない。
 現時点で唯一の話し相手とも言えるウメを相手に、スバルはちゃぶ台に顔を伏せたまま昼間の出来事をつらつらと語る。

「――という訳でさぁ、その空って人の挑発に乗っちゃったおかげで踏んだり蹴ったりだよ全く」
「半分以上スバルちゃんの自業自得のように思えるのは、ウメの気のせいでしか?」

 というか屋上から転げ落ちて殆ど無傷ってどれだけ頑丈な身体なんでし? と、ウメは呆れ混じりに吐息を漏らす。

「空さんの言う通り、練習あるのみでしね。ウメと朝練でもしてみるでしか?」

 ウメが零した何気ない言葉に、スバルは「むぅ」と唸りながら顔を上げる。

「あたしはただ普通に走れればそれでいいよ。壁走ったりとかジャンプしたりとか、そーいうのは怖いし危なそうだからパス」

 スバルの言い訳じみた科白に、ウメは今度こそ呆れたように冷ややかな視線を向ける。

「スバルちゃん。A.T.はランとウォールライドとエア、その全部ができて初めて一人前なんでしよ?」

 スバルちゃんの言う「普通」はただの駄目駄目でし、と続けるウメに、スバルは「う」と呻いた。
 ウメは再び嘆息を零し、暇を持て余すように手元の人形を弄り始めた。スバルも再び顔を伏せ、気まずい静寂が居間に満ちる。

「ウメはスバルちゃんと一緒に走りたいでし」

 沈黙の中、ぽつりと紡がれたウメの呟きに、スバルは一瞬返答に窮した。
 一緒に走る、それは果たして言葉通りの意味なのか、それとも遠回しに「チームに入れ」と言っているのか。

「あたしは……暴風族にはならないよ?」

 返された言葉は曖昧で、しかし明確に込められた拒絶の意思。ウメが暴風族である限り一緒には走らない、それがスバルの答えだった。
 スバルの返答にウメは「解ってるでし」と頷き、そして淋しそうに微笑した。少しだけ光明が見えた気がする。
 暴風族としてのウメとは走らないとスバルは言った。だがそれは「暴風族じゃないウメとなら走れる」とも言い換えられないか?
 別にチームを――<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>を裏切るつもりはない。言ってみれば、これはただの言葉遊びである。
 スバルにとってウメは何だろう? 同居人、どこかのチームの暴風族。大方そんなところだろう。だが……“それ以上”になれる可能性も、決してゼロではない筈なのだ。

 ウメは野山野家にやってきたスバルが最初に打ち解けた人間だった。歳が一番近かったからか、スバルは何かあるたびにウメを頼り、そしてウメもまた満更でもなかった。
 末っ子のウメはこの家では一番幼い。年齢がそのまま家庭内の力関係に当て嵌まる訳ではないが、家族の全員から子供扱いされる事実はウメにとってはコンプレックスだった。
 そんな中で、スバルはやってきた。驚くほどに物を知らないこの新しい同居人の相手は、時に堪らなくじれったく、もどかしく、まるで大きな妹ができたような気分になる。
 そう。スバルの前であるという限り、末っ子である筈のウメは疑似的に「姉」としての自分を体感できるのだ。それは絶対的な優越感と言い換えてもいい。

 しかし不思議なことに、一度優位な立場を得てしまうと、今度は相手と対等でありたいと望むようになる。それもどちらか一方ではなく、その両方を。
 ウメはスバルの「小さな姉」であると同時に、彼女と対等な「友達」としての自分も欲しているのだ。たとえその願いが矛盾していると気づいていても。

 スバルにA.T.を渡したのも、そのささやかな欲望に起因していた。リンゴ達には「一人だけ仲間外れは可哀想」と言い訳しているが、その本音は別のところにある。
 ウメには友達がいない。幼い頃から「掟」に縛られた生き方を強いられてきたために、友達をつくるのが怖いのだ。
 学校では頑なに自分の殻に閉じこもり、プライベートは家に引きこもり。家族や“仲間”がいるから淋しくないと自分に言い訳して、慰めに作った人形達に囲まれながら。
 だが本当は、ウメは友達が欲しかった。“仲間”でも“敵”でもなく、使命も宿命も関係なくただ一緒に走る友達が欲しかったのだ。
 そしてウメはスバルにその「役目」を期待した。自分とともに走る「友達」となってくれることを期待したのだ。
「暴風族としてのウメ」とは走らないとスバルは言った。だが「友達としてのウメ」とも走らないとは、彼女は一言も言っていない。

 だからウメはスバルと「友達」になりたかった。「友達」としての自分を手に入れて、スバルと一緒に走って……そして胸の奥の空洞を埋めたかった。




 それは思わず目を疑ってしまうような、あまりに現実離れした光景だった。
 夜の東雲東中学校。その校庭グラウンドで、戦車と戦闘機が熾烈なデッドヒートを繰り広げている。
 まるで夢か幻のような――否。事実、それは幻に過ぎなかった。
 目を凝らしてみれば分かる。トラックを爆走しているのはただの人間、暴風族<小烏丸>のカズとブッチャだ。
 技影(シャドウ)。暴風族が(トリック)を見る者に伝える、そのライダーの“走り”のイメージである。カズは戦闘機、ブッチャは戦車の技影を発現している。

 カズが閃光のようにゴール地点を通過し、続いてタッチの差でブッチャがゴールラインを通過。そして遅れてオニギリが、更に遅れてイッキがゴールインする。
<小烏丸>各メンバーの走行タイムを計測していたリンゴは、液晶画面に映る結果に思わず感嘆の声を上げた。
 凄い、全員が走るたびにタイムが上がっている。特にカズに至っては、完全にFクラスを超越してしまっている!

「これなら明日の試合(パーツ・ウォウ)もバッチリだね」

 激励の言葉を贈るリンゴに、イッキ達も自信満々に親指を立てる。

 パーツ・ウォウ。それは暴風族同士の間で行われる賭け試合のことであり、元々はネット上の部品交換サイトがその始まりだと言われている。
 チ-ムの登録や(バトル)の申し込みはネット上で行われ、試合は挑戦者が相手エリア内のエンブレム・ステッカーに自分達のエンブレムを上貼りすることで開始される。
 賭け物はA.T.のパーツだけでなく、エンブレムやユニフォーム、支配エリアなども賭けの対象となる。
 パーツ・ウォウはFから特Aまでの階層(ヒエラルキー)に分かれており、どのチームも最初はFクラスからスタートする。
 同ランクを相手に三連勝するか、上位ランクを相手に一勝することで上のクラスへ上がれる。

 イッキ達<小烏丸>は現在Fクラス。同じFクラスの暴風族を相手に明日、支配エリアを賭けた戦に臨む予定である。
 本当はもっと早くに挑戦するつもりだったのだが、以前ステッカーを上貼りする際にイッキが転落事故を起こしてしまい、ほとぼりが冷めるのを待たざるを得なかったのだ。
 銭湯「万亀の湯」周辺エリア、それが<小烏丸>の今回の獲物である。オニギリの分析によれば、このポイントはA.T.があれば男のパラダイスであるという。
 イッキ達も思春期の健全な男子中学生である。異性の肉体への興味が無いといえば嘘になる。

 不幸なことに、チームとしての<小烏丸>の成長を純粋に応援するリンゴは、野郎どもの秘める下心に気づいてはいなかった。

「おーし! ラスト一本いってみよーかぁ!!」

 イッキの号令にブッチャ達メンバーが続々とスタートラインに立つ。
 放課後からぶっ通しで続けた練習に、誰もが疲労のピークに達していた。これでラストだ、最後に相応しい最高の数値を叩き出してやろうではないか。
 亜紀人がコインを指先で弾き、くるくると回転しながら落下するコインが地面に触れようとした、その瞬間――――事故は起きた。




 時計の長針が文字盤を一周する。リカの料理ができあがった、ミカンが高校から帰ってきた。
 だがイッキ達は戻らない。帰らぬ三人を待ち続け、食卓を無言の時間が過ぎていく。

「遅いねー」
「ひもじいでしー」

 スバルとウメが堪らず泣き言を口にした。

「ったく! いい加減にしろよな、あのガキども」

 ミカンが痺れを切らしたように悪態を吐き、「ちょっと出かけてシメてくるか」と腰を上げる。

「あ、ちょっと待って! あたしが行きます」

 唐突に名乗りを上げながら立ちあがるスバルを、ミカンは腰を浮かせたまま怪訝そうな顔で見る。

「いやあの、あたしもちょっとA.T.の練習したいなぁって……」

 しどろもどろな口調で続けるスバルに、ミカンは「そういうことか」と納得したように再び腰を下ろした。
 どいつもこいつもA.T.馬鹿が伝染してしまって嘆かわしいが、ミカンは詮無いとばかりに大仰に息を吐く。

「他の暴風族に気をつけてね」

 リカの注意に「はーい」と気負わぬ調子で返事し、A.T.を履いて玄関から飛び出す。宵闇の染まる住宅街を、スバルはモーター音を響かせながら流れるように駆け抜けた。
 イッキ達の学校、東雲東中学校の校舎は、住宅街を抜けた先、小高い丘の中腹に立っている。
 切り立った急斜面を登れば近道になるだろうが、今のスバルに壁走りのスキルはない。大人しく舗装道路に沿って丘を登る。
 坂道の上から誰かが降りてきた。暗くてよく見えないが、どうやら集団らしい。

「あれ、スバルちゃん?」

 集団の一人が驚いたようにスバルの名を呼ぶ。リンゴの声だった。

「リンゴちゃん!」と呼び返し、スバルは集団に駆け寄った。どうやらこの集団がイッキのチームらしい。
「カラス、この娘は?」

 まるで岩山のような巨漢、ブッチャがスバルを見下ろしながらイッキに尋ねる。
 ブッチャの問いに「野山野家(ウチ)の新入りのスバル」とおざなりに返し、イッキはスバルへ向き直った。

「で? どうしたんだよ。こんなところまでリカ姉のおつかいか?」

 茶化すようなイッキの科白に、スバルは直感的に違和感を覚えた。様子がおかしい、イッキの声に普段のキレがない。それにリンゴの表情も暗い。
 社交辞令的に「おつかいです」と言葉を返し、スバルは単刀直入にイッキに尋ねた。

「あまりにイッキ達の帰りが遅いから様子を見にきたんだけど……イッキ達の方こそ、何かあったの?」

 スバルの問いにイッキは苦々しそうに表情を歪め、傍らのブッチャを肩越しに振り返る。否、イッキが見たのはブッチャではない、その肩に担がれるもう一人の人間だった。
 丸太のようなブッチャの腕が、ぐったりとしたニット帽の少年を抱えていることに、スバルは今更ながらに気がついた。

「ちょっ、それ大丈夫なんですか!?」

 全然気づかなかった、あまりに影が薄くて!
 思わず狼狽の声を上げるスバルに、「それ」扱いされ、あまつさえ「影が薄い」と称されたニット帽の少年、カズが額に脂汗を浮かべながら苦笑した。

「平気平気、ちょっと足を挫いただけだから」
「でも、明日の試合(パーツ・ウォウ)には出場(でら)れないよ」

 強がるように笑うカズに、しかしブッチャは非情に現実を突きつける。カズは悔しそうに下唇を噛んでそっぽを向いた。
 パーツ・ウォウ。と口の中で転がすスバルに、リンゴが悲しそうな表情で口を開いた。

「カズ君ね、明日のパーツ・ウォウの要だったの。チームで一番速くて、一番努力家で……ううん、頑張ってるのは皆同じ。皆みんな、明日の(バトル)のために頑張って練習してた」

 それがこんなことになっちゃうなんて……。リンゴは泣きそうな顔で顔を俯かせる。
 リンゴやイッキだけでな<小烏丸>の誰もがカズの負傷にショックを受けている様子だった。沈痛な雰囲気が場を支配する。
 しかしどこにでも空気を読まない奴というのはいるものである。<.小烏丸>においては“この男”がそうだった。

「ただの大馬鹿野郎さ」

 突如放たれた冷ややかは声に、全員が声の主を振り返った。片目を眼帯で隠した小柄な少年に、である。

「アキ……っ!」

 喉元まで出かかったその名前を、スバルは辛うじて呑みこんだ。違う、眼帯が右目から左目にずれている。亜紀人ではない。

「――咢」

 改めてスバルが口にした自らの名に、亜紀人の中の“もう一人の亜紀人”、咢が酷薄に嗤う。

「そのウスィ~のはテメエの身の程も弁えず、限界も考えず、無駄で無謀なハードワークを重ねて自滅した。ミジンコが戦のために悪足掻きして、戦の前に潰れてりゃ世話ねぇな」
「ちょっと、咢君! そんな言い方はないんじゃないの!?」

 あまりに悪辣な言い回しに、リンゴが責めるように咢を睨んだ。だがカズは「いいんだ」と自嘲した。

「咢の言う通りだよ。俺、才能無いからさ。他の奴より練習して、巧くなって、それでチームの力になれるって思ってたのに。こんな怪我して、逆にイッキ達の足引っ張っちまって」

 馬鹿だよなぁ、俺。本当に大馬鹿だ。と、自嘲はやがて自責に変わり、「ごめん、ごめん」とカズは仲間達に泣きながら謝罪する。

「……明日のパーツ・ウォウ、どうしよっか?」

 暗い表情で尋ねるリンゴに、一同は再び沈黙する。“走り”の要のカズがいないのだ、<小烏丸>の作戦は根底から瓦解していた。
 こんなとき、慎重派のブッチャと突撃主義者のイッキは必ずと言っていいほど意見が衝突する。今回もまた例外ではなかった。

「悔しいけどカズ君がいない以上、勝ちは難しいよ。人数も足りないし、今回は棄権して機を待つべきだと僕は思うね」
「ふざけろブッチャ、逃げてりゃ何も掴めねぇだろうが。カズがいないなら俺達がカズの分まで走ればいいだけだろ」

 やはりと言うべきか。万全の状態で挑むべきと主張するブッチャに対し、イッキはあくまで現在の戦力での決戦に拘る。水と油だった。

 頭上で繰り広げられる二人の口論を聞きながら、スバルは考える。
 自分は怖いことも痛いことも、他人を痛くさせることも嫌いだ。喧嘩も嫌いだし、戦と称して互いに傷つけ合う暴風族も苦手だ。
 だがたとえ無法者の抗争とはいえ、そのために積み重ねてきた努力が本番の直前で無駄になるというのは、一体どれほど辛いことだろう、どれだけ“心が痛い”だろう。
 スバルは“痛い”ことが嫌いだった。自分が痛いことも、他人を痛くさせることも、そして……痛がる誰かを黙って見ていることも。

「あの……!」

 気がつけばスバルは口を開いていた。怖い、心臓が早鐘のように鳴っている。
 痛みを自ら背負い込もうとすることへの恐怖がある、無法者の世界へ足を踏み込む嫌悪がある。
 しかしそれ以上に、イッキ達の力になりたいと、スバルはそう思ったのだ。
 故にスバルは告げる、告げなければいけない。自らの思いを、全身全霊を懸けてイッキ達に届かせなければならない。

「あの……あたしに、あたしに走らせて下さい! イッキ達と一緒に走らせて下さいっ!!」

 そのとき、確かに新しい風は吹いた。そして泣いてばかりだった雛鳥が、初めて自らの意思で羽ばたいた瞬間でもある。
 異世界に少しだけ似ていて、しかしやはりどこか違う風が吹く夜。二つの“道”は噛み合った。



 ――To be continued



[11310] Trick:04
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2009/10/30 00:31
 夜が明ける。時刻は大体午前5時前後、朝焼けに染まる空が眩しい。スバルは目を瞬かせた。
 両足のA.T.には真新しい傷があちこちに刻まれ、スバルの身体も土と埃と汗で全身が汚れている。バイトへ行く前に一度シャワーでも浴びなければならない。
 一晩中練習した。リカ達が寝静まるのを見計らって家から抜け出し、朝までずっとA.T.で走り続けた。
 それがどれだけの意味を持つかは分からない。もしかすれば物凄い進歩があるかもしれないし、ただの付け焼刃で終わるかもしれない。
 だが走らずにはいられなかった。“勝負”まで既に12時間を切っている、残された時間で自分は巧くなれるだけ巧くならなければならないのだ。

 思い出すのは約9時間前、丘の上の学校へ続く坂道でイッキ達と交わした会話の続き。
 あのとき、胸の中に湧き上がる衝動に流されるように助っ人を申し出たスバルに、まず咢が真っ先に噛みついた。

「ファック! ゴミクズが一人前に調子こいてんじゃねぇ。A.T.初めて二、三日かそこらのクソが勝ち抜けるほど、パーツ・ウォウは甘かねぇんだよ」

 いっぺん生まれ変わって死ね、と吐き捨てる咢に、イッキも同調するように憮然と口を開く。

「この俺様の前に自ら跪くその下僕としての心意気は褒めてやらんでもないが、これは満珍楼(オニギリんち)のバイトとは違うんだよ。大人しくウメとママゴトでもしてろ」

 更にリンゴも二人と同意見なのか、申し訳なさそうな表情を浮かべながらスバルと同じ目線まで屈み、まるで言い聞かせるような調子で話しかけてきた。

「気持ちは嬉しいけど、スバルちゃんにパーツ・ウォウはまだ無理だよ。イッキ達ならきっと大丈夫だから、貴女は何も心配しないで」

 野山野家で一緒に暮らすイッキ達三人、この場で最も近しい三人全員に反対され、スバルは泣きそうな顔で俯く。無力な自分が悔しかった。
 あからさまに非歓迎的な雰囲気が周囲に漂う中、そんな空気を一蹴するように口を開いた男がいた。ブッチャである。

「まぁまぁ、そんな頭ごなしに否定することもないんじゃないかな? やる気のある子で頼もしいじゃないか」

 広い大きな掌であやすようにスバルの頭を撫でながら、ブッチャは穏やかな口調で仲間達に語りかける。
 スバルは期待の眼差しでブッチャを見上げ――――戦慄した。冷たい、まるで猛禽のように鋭い二つの眼が、スバルを射抜くように見下ろしていた。
 穏和な声で、しなし全く笑っていない眼で、ブッチャは「ただね」と言葉を続ける。

「……咢達が言い分も確かに間違ってはいないんだよ。スバルちゃん、<小烏丸(ぼくたち)>に役立たずの助っ人は必要ない。足手纏いはカラスだけで充分だからね」

 ブッチャの科白にイッキが「誰が足手纏いだ!」と怒鳴り返し、そして怪訝そうに眉を寄せた。

「何が言いたい? ブッチャ」
「一つテストしてみたらどうだろう、ってことだよ」

 イッキの問いに、ブッチャは含むような笑みを浮かべてそう口にした。

「パーツ・ウォウ本番の前に、この子が本当に<小烏丸>の戦力になるのか確かめてみたらどうかな。納得できる“走り”ならよし、もし駄目なら潔く諦めて貰うってことで」

 どうかな、リーダー? ブッチャの提案にイッキは考え込むように顎に手を当て、そしてスバルへ一瞥を向けた。

「スバル、それでいいか?」

 イッキの問いに、スバルは力強く「うん」と頷いた。
 お前らはどうだ、と視線で問うイッキに、他のメンバーからの返答は無言。だが誰もが了承の表情を浮かべている。

「決まりだな」

 イッキは大きく頷き、スバルの方へ向き直った。スバルもまっすぐな眼でイッキを見上げる。
 テストは明日の放課後、午後5時、東雲東中学校グラウンドで行われることに決まった。詳しい内容はそのときまでに考えるという。

「<小烏丸(おれたち)>はこの(バトル)誇り(エンブレム)を賭けてんだ。お前も覚悟を魅せてみろ」

 今まで見たこともないほど真剣な顔で告げるイッキを挑むような眼で見返し、スバルは黙然と頷いた。




 コックを捻り、熱いシャワーを頭から浴びる。9時間前の回想から現実へ立ち返り、スバルは小さく吐息を零した。
 見下ろすと、白い裸身のあちこちに赤い擦り傷が見える。リカや店主に見つかったら心配をかけるかもしれない、パーカーでも着て隠しておこう。
 浴槽に身体を沈め、天井を見上げながら全身の力を抜く。何気なく見下ろしたタイルの上に無造作に転がる石鹸を見つけ、スバルは片手で拾い上げた。
 浴槽の縁に石鹸を置き、指先でとん、と弾く。縁の上のなめらかに滑る小さな石鹸に、スバルはA.T.で走る自分自身を幻視した。

 あたしは少しでも巧くなっただろうか、あたしの走りは少しでも“上”に近づいただろうか? 一夜漬けの猛練習を反芻し、スバルは自問する。
 全然そんな気がしない、とスバルは物憂げに溜息を零した。どれだけ走っても空回りしているだけな気がする、こんな練習に意味があるのかとすら思えてくる。
 ウメちゃんにつき合って貰えばよかった。「一緒に走りたい」と言ってくれた友達の顔が、不意にスバルの脳裏をよぎる。
 朝練習の提案を断るべきではなかった。否、今から土下座して頼み込めば間に合うだろうか?
 思い立つや、スバルは勢いよく浴槽から立ち上がり、石鹸を蹴飛ばしながら脱衣所へ急いだ。濡れた身体を申し訳程度に拭き、大急ぎで服を着る。生乾きの髪も気にしない。

 廊下を進み、居間の前を横切ろうとしたそのとき、スバルはふすまの内側から聞こえるリズミカルな音に気づいた。ポップ系の音楽、テレビだろうか?
 ふすまをそっと開け、居間の中を覗き込む。案の定、音の正体はテレビだった。部屋の隅に置かれた箱型テレビの前に、誰かが胡坐をかいて陣取っている。

「イッキ?」

 スバルは思わず声を上げた。まるで鳥の巣のようなボサボサ頭は、まさしくイッキの後頭部である。名前を呼ばれ、イッキがスバルを振り返った。

「どうしたの? こんな朝早くに」

 まだ6時前なのに、と驚いた顔で尋ねるスバルに、イッキは欠伸を噛み殺しながらテレビの画面を指差す。ブラウン管の向こうでポップに乗って踊るのは……A.T.ライダー?

「これ……A.T.のプロモーション・ビデオ?」

 スバルの呟きにイッキは頷き、大きく背伸びをしながら立ち上がる。

「ミカンの秘蔵品。トリックはイメージが肝心だからな、見て覚えるのも大切だ」

 お前にやるよ、と言って歩き去るイッキの背中を、スバルは無言で見送った。何かを言う暇すらなかった。
 スバルはテレビへ向き直り、ビデオデッキに手をのばした。テープを巻き戻し、ビデオをもう一度再生する。
 お礼は朝食のときにでも言うことにして、今はイッキの言葉に甘えよう。
 ウメに練習の手伝いを頼みにいく件は、このときには既にスバルの頭からすっかり抜け落ちていた。

 目を皿のようにして画面を凝視し、映像が終わったらテープを巻き戻してまた再生する。気になる個所はコマ送りでじっくり鑑賞し、テープを微妙に巻き戻してまた再生。
 巻き戻し、再生。巻き戻し、再生。僅か5分前後のプロモーション・ビデオを、スバルは何度も、何度も、何度も何度も繰り返し目に焼きつける。
 それは普段通りの時間に居間へ降りてきたミカンが、新入りの分際でテレビを占領するスバルに蹴りを入れるまで続いた。
 その後、他人のビデオを横流しした罪でイッキともどもミカンから制裁を受けながら、スバルが世の中の理不尽さを学んだのは全くの余談である。




 満珍楼の店内にジリジリと耳障りな音が響き渡る。店の電話が鳴っているのだ。
「おい」と声を上げる店主にスバルは皿洗いの手を止めて頷き、レジ台の上に置かれた昔ながらの黒電話の受話器を取る。

「はい! 満珍楼です」
『お、その声は昨日の嬢ちゃんやな? ワイやワイ』

 ワイワイ詐欺ですか? という科白が喉まで出かかるが、スバルは何とか自重して「空さん?」と返した。
 電話の向こうの空も期待していたのか「何やノリの悪い奴っちゃの~」と文句を垂れる。ある意味でミカン以上の理不尽だった。

『風の噂で聞いたで? 嬢ちゃん、暴風族になったんやってな。昨日の今日でどないな気まぐれがあったか知らへんが、信念(ポリシー)は大切にせなアカンで? (ケツ)の軽い女は――』
「ご注文はお決まりでしょうか、お客様?」

 偉そうに語る空の話を遮るように、スバルはマニュアル通りの応答を返す。後で店主に聞いた話だが、このときの自分は物凄く“イイ”笑顔だったらしい。

『おお、そうや。注文、ワイのご注文はやなぁ……南国ラーメン大盛り一丁、超特急で頼むで!』

 空の注文に「かしこまりました」と返し、スバルは受話器を置いて声を張り上げた。

「南国ラーメン大盛り1、出前入りまーす!」

 店主の「おう」という返事を聞きながらスバルは洗い場へ戻り、皿洗いを再開した。料理ができあがるまでに皿を洗い終え、岡持を掴んで店を飛び出す。
 出前行ってきまーす、と店の中に元気よく声をかけ、スバルはA.T.を駆り、喧騒とした昼の商店街を春風とともに走り出した。
 空のアパートまでの道順は昨日の出前で把握している、分かれ道のたびに地図を確認する手間が省け、スバルの心に余裕が生まれる。
 余裕ができると、それまで見えなかったものが見えてくることがある。商店街を横切りながら、スバルは周囲の景色を見渡した。
 昨日まで気にもしなかったが、この道はどんな風に走れるだろう。思い出すのはビデオの中のライダー達、彼らはどんな風にこのフィールドを走るだろう。
 店舗の看板、路上のポール、路地裏の排気ダクト。それらちょっとした風景の欠片(オブジェクト)が、真っ白だった頭の中の走りの地図(トリック・パース)に書き込まれる。
 商店街を自由に駆け回る自分を想像し、スバルは少しだけ、A.T.が“楽しい”と思った。A.T.や暴風族に熱中するイッキやウメ達の気持が、少しだけ解ったような気がした。

 商店街を抜け、住宅街を過ぎ、スバルは団地にある空のアパートまでやってきた。昨日と動揺、建物の前でホイールをロックし、今回は屋上まで階段を登る。
 空は昨日と同じように、屋上を囲む転落防止用の金網の傍で犬達と戯れていた。階段からかってきたスバルに気づき、空は帽子のつばを持ち上げながら「お」と声を上げる。

「こんにちは空さん、満珍楼です。ご注文の南国ラーメン大盛りを超特急でお届けにきました」
「ごくろーさん。何や、まだ壁登り(ウォールライド)はできんのか?」

 ラーメンのどんぶりを受け取り、代わりに昨日の空のどんぶりを渡しながらからかう空に、スバルは「やりませんよ」と口を尖らす。

「そんなことしたらラーメンがひっくり返っちゃうじゃないですか」
「ええやん、ひっくり返っても。ライダーを飛ばすんはA.T.やない、ホンマモンの翼はそいつの度胸と情熱や。小っこいことにビビっとったら暴風族失格やで?」
「でも……お昼ごはんが台無しになったら、空さん怒りますよね?」
「当たり前やろ、ワイの怒りは雷さんより恐ろしいでぇ? 何せ“空”やからな、雲ん中にパラサイトしとるパーマ野郎には負けへんよ」

 岡持の中身をひっくり返さんように上手く壁を登るんや、と平然とした顔で非常識なことをほざく空に、スバルは思わず溜息を吐いた。
 自称「風の王」武内 空。今は引退したらしいが、元・暴風族ならA.T.の走り方のコツなどを知っているだろうか?
 目の前で「お? 今日はのびとらんな」とか言いながらラーメンを啜る車椅子の男を見ながら、スバルはふと考えを巡らせる。

「あの、空さん。A.T.で速く走るコツとか、巧く走れるような秘訣って、その……あったりしますか?」

 駄目もとで訊いてみたスバルの問いに、空は箸を止めて顔を上げた。

「A.T.のコツ、なぁ……んなモンない! と言いたいトコやけどな、嬢ちゃんはまだまだ素人やからな。ちょっとした“走り”のアドバイスならできるかもしれへん」

 せやからほれ、ちょいとそこで走ってみぃ。屋上の床を箸で指しながらいきなりそんなことを言い出す空に、スバルは「ええっ」と狼狽の声を漏らす。
 だが願ってもないチャンスかもしれない。そう思い直し、スバルは岡持を置いてホイールのロックを解除した。シャッ、とA.T.を滑らせ、屋上のフィールドを走り始める。
 ビデオの映像を思い出しながら床をジグザグに走り、時折ターンや簡単な壁走り(ウォールライド)をキメる。走行スピードが徐々に上がるたびに、スバルのテンションもだんだんと上がってきた。
 けたたましいブレーキ音を轟かせながらターンをキメて、摩擦で床面から煙を立ち昇らせながら壁と向かい合う。ホイールを猛回転させ、スバルは壁へ突進した。
 蹴り足で床を思いきり蹴りつけ、運動エネルギーをホイールに伝達。蹴る力に反応して内蔵モーターが唸りを上げ、スバルの“走り”が加速する。
 コンクリートの壁がぐんぐん迫る。衝突の刹那、スバルは床を蹴って小さくジャンプ。空中で三角座りをするように身体を丸め、足裏のホイールで壁面に“着地”した。
 瞬間、再び高速回転する両足のホイールで、スバルは壁面を思いきり蹴りつける。スバルの身体が壁から離れ、緩やかな放物線を描いて宙を舞った。

 ――技・SUBARU Backward Somersault with Spinning like a Windmill!!

 バック宙返りを打ちながら両足を前後に開き、腕を回し、腰を捻ることで横向きの回転を得る。
 前後に開いた足を勢いよく入れ替えことで回転力を増し、まるで竹トンボのようにくるくると回りながら飛ぶ。
 即興で思いついた、スバルのオリジナル(トリック)である。
 片手でばん、と地面を叩き、その反動で再びくるりと回転して地面に着地。初めてのトリックの成功に誇らしそうな笑みを浮かべ、スバルは空を見た。
 こんなものでどうでしょうか? と、期待の眼差しで見つめるスバルを見返し、空がおもむろに口を開く。その顔に浮かぶのは笑み。否……笑い?

「何や、ヘッタクソな“走り”やのぉ。ニワトリがドジョウすくいしとるみたいや!」

 そう言って腹を抱えて爆笑する空に、スバルは怒りと羞恥に顔を赤らめた。非道い。自分の“走り”が下手であるのは分かっているが、もっと他に言い方があるだろうに。
 相手を間違った、と肩を怒らせて背を向けるスバルに、空が再び声をかけた。

「ところで嬢ちゃん、ラーメン代を受け取んの忘れとるで?」

 そう言って五百円玉を見せびらかす空を、スバルは「しまった」と振り返った。すっかり忘れていた。
 憮然とした顔でのろのろとA.T.を滑らせるスバルを眺め、空はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべた。五百円玉を指先で弄び、まるで遊び飽きたように不意に床へ放り捨てる。
 自分で拾えということだろうか? ますます嫌な奴だ。スバルは歯軋りしながら空を睨み、床の五百円へ手をのばす。
 瞬間、まるで空気の壁のような突風がスバルの顔を突如襲った。足元の五百円玉が逃げるように背中の向こうへ消え去り――――気がつけばスバルは金網にめり込んでいた。

 何が起こった? スバルは呆然と目を瞬かせた。空は相変わらずにやにやと笑っている。五百円玉も相変わらず床の上にある。
 あの時、あたしは床に転がる五百円玉を拾おうと前のめりになり、爪先に体重をかけた。
 その瞬間、ホイールがかつてない勢いで猛回転し、気がつけばあたしの身体は金網に叩きつけられていたのだ。
 そういうことか。と、スバルは漸く何が起きたのかを把握した。動いたのは五百円玉ではなく、このあたしの方だったのか。
 今の、前輪に思いきり体重を傾けたあの姿勢。あそこに何かの“鍵”があるのだろう。空が言葉の代わりに教えてくれたヒント、あとは自力で答えに辿り着けということか。

「理解したみたいやな?」

 ひしゃげた金網の中からスバルを引っ張り出し、空は口の端をにやりと歪めた。

「今の感覚を忘れるんやないで? それが“走り(・・)のコツ(・・・)や」

 床の上の五百円玉を拾い上げ、スバルの掌に握らせながら、空はそう言って悪戯っぽく笑う。先刻までとは違う、嫌みのない子供のような笑顔だった。
 空の科白に、スバルは手の中の五百円玉を握りしめながら頷いた。釈然としないし、上手く言葉にできないが、「何か」が掴めたような気はする。
 スバルの反応に空は満足そうに頷き、「ああ、もう一つ」と思い出したように再度口を開く。

「ライダーはな、技を“見せる”やのーて“魅せる”言うねん。技はキメるためにキメるんやない、己の技術やら集中力やらとにかく全部出し切ったときに勝手に出てくるもんや」

 考えるな、感じるんや。と、またも無茶苦茶を言い出す空の顔を毅然と見つめ、スバルは「はい」と頷いた。
 頭の中のピースが一つに組み合わさり、今、最後のひと欠片が填め込まれた。そんな気分だった。

「あれ。そういえば空さん、ラーメンは?」

 空がどんぶりを持っていないことに気づき、スバルは首を傾げながら空に尋ねた。

「ああ、それならホレ」

 そう言って空が指差す先を見ると、確かに――――ひっくり返されたどんぶりと、床にぶち撒けられたラーメンに尻尾を振って群がる犬達の姿があった。

「……………………」

 空の指先がぷるぷると震えている。額や目元、顎先には血管がくっきりと浮き上がり、激怒(マジギレ)しているのは間違いない。
 イッキに似ている、とスバルは思った。ミカンにおかずを強奪されたときのイッキの顔に、今の空はよく似ている。
 空の殺気に気づいたのか、犬達がぎくりとした様子で頭を上げ、食い物の恨みに燃える飼い主と目が合った。
 惨劇が始まる、スバルは直感的に悟った。その予感は見事に的中し、次の瞬間、空の怒号が屋上に轟いた。

「この犬コロどもがぁっ! ご主人様の昼飯を横獲りたぁええ度胸しとるやないか!? 今夜は貴様らの肉で狗鍋じゃあっ!!」

 怒髪天を衝く。鬼のような形相を顔に貼りつけ、空が犬達に襲いかかる。今まさに、アパートの屋上で種族を生存競争に則った地獄の鬼ごっこが幕を開けた。
 逃げる犬、追う空。車椅子というハンデをものともせず、空は犬達と互角のデットヒートを繰り広げる。その鋭さはまさに疾風、その俊敏さはまるで狼。

疾風の狼(ウルブス・ガーレ)……」

 スバルは思わず呟いた。なるほど確かに「王」と自称するだけのことはある。車椅子を手足のように扱うテクニック、犬の足に追いつくほどのスピード。凄まじい戦いである。
 ただ、一つだけ残念なことがあるとすれば……この戦いが堪らなくアホらしい理由の下に行われているということだろう。追う者も追われる者も必死なところが尚更痛々しい。

 そう言えば出前の途中だった。スバルは現実逃避するように空達から目を逸らし、床の上の岡持を拾い上げた。
 偉い人は行っていた、「遠足は家に帰るまでが遠足だ」と。それは出前も同じであるとスバルは思う。
 手の中の五百円玉をポケットにねじ込み、A.T.を滑らせて階段を目指す。早く帰ろう、出前も店に戻るまでが出前なのだ。

「空さん」

 階段の手すりに手をかけ、スバルは空を振り返った。空はいまだ犬達と追いかけっこを続けている、恐らくここから何を言っても聞こえはしないだろう。
 だが聞こえないことを承知しながら、スバルは敢えて口を開いた。空が聞いているかどうかは問題ではない、これは単なる自分のけじめだ。
 ありがとう、とは言わない。結果はどうあれ、空のやり方が癪に障ったことには変わりない。絶対お礼など言ってやるものか。

 ただ、その代わり――、

「次は……ちゃんと壁、登って出前にきますから」

 独り言のような小さな声でそう口にし、スバルは階段を下り始める。出前の途中だ、早く店に戻ろう。早く戻って……今日のバイトは早退しよう。
 空やイッキから羽根は貰った。あとは自分で翼を広げるだけなのだから。

 スバルは気づいていなかった。誓約の言葉を呟き、階段へ向き直るその刹那、空が車椅子を止めてうっすらと笑っていたことを。




 買い物客を避けながら商店街を駆け抜け、スバルは満珍楼の戸を勢いよく開けた。

「おじさん! 今日のバイト早退させてください!!」

 暖簾を潜るや、店中に響き渡るような大声でそう言い放つスバルを、店主がぎろりと睨みつける。
 スバルも負けじと見つめ返し、ぶつかり合う両者の視線が虚空に火花を散らした。
 睨み合いの末、店主は「好きにしな」と言って鼻を鳴らした。数日前、バイトで雇った小娘の眼。あれは戦いに臨む男の眼だ、そんな眼をした奴は嫌いではない。

「ありがとうございますっ」

 スバルは満面の笑顔で頭を下げた。岡持を返すや身を翻し、脱兎の如く店から飛び出す。
 店の時計は午後2時を指していた。約束の時間まで三時間の猶予がある、それまでにどれだけ“走り”を進化させられるかが勝負の分かれ目となるだろう。
 絶対に勝つ、スバルは決意を固めた。絶対にイッキ達のテストに合格して、あたしを「いらない」と言ったあいつらを見返してやる!

「魅てなさいよぉ、馬鹿イッキ!!」

 商店街に高らかに響くスバルの雄叫びは、店のカウンターで新聞を広げる満珍楼店主の耳にも届いていた。

「いいのかい、あんた。子供だからって甘やかすのはあの娘のためになりませんよ?」

 妻の諌言に、店主は不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「テメエは黙ってろ。男には戦わなきゃならねぇ時ってモンあるんだよ」
「あの子は女の子でしょうに……」

 妻は呆れたように嘆息を零し、しかしそれ以上は何も言わなかった。十数年も連れ添ってきたのだ、夫の気性はよく知っている。
 気難しく、一度こうと決めたらテコでも動かない頑固者。だからこそ自分はこの男に惚れたのだから。




 午後4時58分、東雲東中学校。空は夕焼けで赤く染まり、下校する生徒が列をなして坂道を下る。
 部活中の陸上部などを無理矢理追い出した校庭グラウンドで、暴風族<小烏丸>のメンバーは各自ウォーミングアップを行っていた。
 これから行われるのは非公式な、しかしこの数時間後に控える公式戦(パーツ・ウォウ)を左右する重要な(バトル)。瞳にギラギラと闘志を光らせ、イッキ達は“挑戦者”の到着を待つ。

「――来たな」

 朝礼台の上に寝転がる咢が、グラウンドに新たに響いたA.T.の走行音に上体を起こす。校庭の入口にのびる小さな影。パーカーを着た幼い少女が立っていた。
 スバル、と誰かが彼女の名を呼ぶ。イッキだ。スバルはイッキの呼び声に小さく頷き、シャッ、とA.T.を滑らせてイッキ達の元まで足を進める。
 イッキはふと首を傾げた。気のせいだろうか、朝見てたとき(・・・・・・)とスバルの走り方が違う気がする。
 だがすぐに「今は些細なことだ」と思い直し、イッキはスバルを見下ろして口を開いた。

「手早く済ませようぜ? スバル。グラウンドを奪われて陸上部その他の連中が困ってるし、俺達だって暇じゃねぇ」

 不遜の見下しながら言い放つイッキに、スバルは大きく目を見開いた。一瞬で頭に血が昇るが、堪える。

「イッキが他人に気を遣った!?」
「待て! あれはただの嫌味だ」
「というか自分が追い出しといてよく言うよ」
「うるせぇ黙ってろ愚民どもが!」

 後ろで騒ぎ立てるカズ達を威喝し、イッキは再びスバルへと向き直る。

「ルールは簡単だ。<小烏丸(おれたち)>全員と競走(レース)して、誰か一人にでも勝てたら合格にしてやる。コースはグラウンドのトラックを一周だ」

 解ったか、と威圧するように見下ろすイッキに、スバルは挑戦的な笑みを浮かべて右手の親指を立て――――手首をくるりとひっくり返した。

「上等っ」

 スバルの返答にイッキも「いい度胸だ」と笑い、待ちくたびれた<小烏丸>メンバーが続々とスタートラインに立つ。走るのはイッキ、スバル、ブッチャ、オニギリ、そして……咢。

「Get set! Here we go!!」

 カズが合図とともにコインを弾き、運命の勝負(バトル)が始まった。



 ――To be continued



[11310] Trick:05(R15)
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/02/11 00:40
 夜。眠りに沈む住宅街にモーター音を木霊させながら、ウメは我武者羅にA.T.を駆る。
 酷い“走り”だった。キレがなく、ミスも多い。トリックに集中できず、動きに余計な力が入っている証拠である。

「どうしてでし……」

 ウメは無意識に呟いた。自分の無様な“走り”に憤っているのではない、そんなものは今の彼女にとってはどうでもいいのだ。
 頭の中を占めるのは一人の少女。身寄りがなく、知り合いの伝手で野山野家に預けられた新しい同居人の女の子である。
 ウメ達とよく似た(・・・・・・・・)境遇であるその少女は、争いごとが苦手でおかずの奪い合いのときも一方的に奪われてばかり。
 暴風族やパーツ・ウォウとは無縁な気性で、A.T.自体にも消極的な姿勢。だからこそ自分も安心していたといいうのに。
 なのに……! ウメは下唇を噛みしめた。

 きっかけはミカンのノートパソコンだった。ネットのパーツ・ウォウ公式サイト、その動画投稿ページの片隅で、<小烏丸>の試合の実況映像が公開されていた。
 暴風族<小烏丸>vs暴風族<漆黒の胡桃割人形(ブラック・ナッツ・クラッカーズ)>、パーツ・ウォウFクラス「ダッシュ」。試合開始を直前に控えた両陣営の顔ぶれの中に、ウメは偶然、その少女の顔を見つけた。

「何で……っ!」

 ウメは再び言葉を紡ぐ。

 あのとき、最初は自分の目を疑った。しかし<小烏丸>の公開情報を検索し、登録メンバーの末席に名前を見つけてしまっては、ウメも現実を認めざるを得ない。
 サイトに名前を登録しているということは、助っ人ではなく正式メンバーということである。“彼女”はもう暴風族<小烏丸>の一員なのだ。
 だがウメは信じられなかった、信じたくなかった。パーツ・ウォウが行われているであろうエリアを睨み、ウメは「何で」と問いかける。
 二、三日前までA.T.にも無関心だったのに、「暴風族とは走らない」とはっきり言っていたのに。
 だから「掟」や暴風族のしがらみとは関係なく、ただ純粋に一緒に走れると思っていたのに!

 なのに、何で――、

「何で“そこ”にいるんでしか……? スバルちゃんっ!」

 泣きそうな声でしぼり出されたウメの問いに、答えるものは誰もいない。




 暴風族<漆黒の胡桃割人形(ブラック・ナッツ・クラッカーズ)>は、銭湯「万亀の湯」一帯の住宅街を縄張り(エリア)とするFクラスチームである。その特徴を一言で表せば……黒かった。真っ黒だ。
 全員が黒を基調としたA.T.に黒のライダースーツを着用し、頭には黒いフルフェイスのヘルメットを装着している。
 対するイッキ達<小烏丸>のユニフォームは、背中に族章(エンブレム)が刺繍された黒いジャケットに黒のパンツ。こちらも真っ黒である。
 今、「暴風族とは“黒い”ものである」という間違った認識が、何も知らないスバルの中に芽生えつつあった。

 パーツ・ウォウFクラス「ダッシュ」。七つの階層(ヒエラルキー)に分かれたパーツ・ウォウの入口であり、A.T.の基本中の基本である走行技能を競うランクである。
 今回の(バトル)は通常の「ダッシュ」とは少し形式が異なり、五つの区間(ゾーン)に分かれたコースをリレー形式で走る変則的なルールで行われる。
 バトンに見立てたステッカーを繋ぎながらエリアを横断し、ゴールである銭湯「万亀の湯」の煙突へ先にステッカーを貼ったチームが勝利となる。
 区画の配置はそれぞれ、第一区画:イッキ・黒井、第二区画:オニギリ・黒沢、第三区画:咢・黒田、第四区画:スバル・黒木、そして第五区画:ブッチャ・黒野となっている。

「スバルちゃん!」

 対戦相手である黒木とともに担当する区画へ向かおうとするスバルを、カズが大声で呼び止めた。振り返るスバルに、カズは黒い布状の何かを投げ渡す。
 咄嗟に右手で受け取ったそれは、使い込まれた黒いエナメルのジャケット。背中には<小烏丸>のエンブレムが刺繍されている。

「これ……!」
「一人だけ私服じゃ恰好つかないだろ?」

 狼狽えたようにジャケットとカズの顔を交互に見るスバルに、カズはニット帽を引っ張りながらそう口にする。

「俺の誇り(エンブレム)、君に預けたぜ?」

 カズの言葉に、スバルは思わず息を呑み――、

「――はいっ、預かりました!」

 そう言って力強い笑顔で頷き、預かったジャケットに袖を通した。
 余った袖を折り返し、カズに背を向けて走り始める。闇に溶けるように走り去るスバルの背中を、カズは拳を握りながら見送った。
 頑張れよ、スバルちゃん。遠ざかる小さな背中に、カズはもう一度声をかける。堅く握り込まれた拳から血の雫が滴り落ち、アスファルトの地面に赤い染みをつくっていた。




 各ライダーが定位置に到着し、パーツ・ウォウ<小烏丸>vs<漆黒の胡桃割人形(ブラック・ナッツ・クラッカーズ)>戦が遂に始まる。戦開始を告げるコインが弾かれ、地面にぶつかりキン、と音を立てる。

「おっしゃぁあああっ! キメるぜぇえええーーーっ!!」

 荒々しい雄叫びを響かせながら、イッキが豪快に走り始める。ホイールがガリガリと地面を削り、爆ぜる火花、轟く走行音。まるで嵐のような豪快な“走り”である。
 何者だこいつは!? イッキの対戦相手、黒井は顔を覆うヘルメットの下で愕然と目を見開いた。何という……何という遅さ!
 スタートダッシュから圧倒的な差をつけ、黒井はぐんぐんとイッキを引き離す。

 実はイッキの全身には今、リカに合計30kg以上もあるハンディ・アンカーをつけさせられているのだ。
 イッキが<小烏丸(チーム)>を創った当初、リカは彼の暴風族入りを頑なに反対していた。イッキにA.T.をやらせないために、リンゴ達の活動も、自身の過去も秘密にしてきた。
 一度消滅し、今はリンゴ達へと世代交代した伝説のチーム、<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>。壊滅した初代<眠りの森>の最期を、リカは「王」の一人として目の当たりにしている。
 陥落した拠点、傷つき倒れた仲間達。そして……飛べない身体にされた空。今でも夢に魘される、過去の忌まわしい悪夢だった。
 リカは、イッキが空のようになることを恐れていた。イッキは風の神様に愛されている、誰よりも大きな翼を持っている。その才能はかつての空に匹敵する。
 だからこそ、リカはイッキを“空”から遠ざけようとした。荊の檻で囲い、地上に縛りつけようとした。あのときの悪夢を繰り返さないために、イッキを守るために。
 結局リカはパーツ・ウォウでイッキに敗れ、暴風族としての活動を容認することになったのだが、ハンディ・アンカーはその最後の“重し”である。
 そんなリカからの“愛の重し(ハンディ・アンカー)”だが、スピードが命の「ダッシュ」においては文字通りの“重荷”でしかない。
 結局イッキは黒井に20秒以上も差をつけられながら、第二走者のオニギリへステッカーを渡した。

 ところで、オニギリの対戦相手である<漆黒の胡桃割人形(ブラック・ナッツ・クラッカーズ)>側の第二走者、黒沢は女性ライダーである。
 フルフェイスのヘルメットで顔を隠しているが、形のよい豊かな胸、くびれた腰、そして引き締まった美しい尻は、ライダースーツの上からでもよく分かる。
 A.T.シューズを頭に乗せ、逆立ちした体勢で黒沢の背中を追いながら、オニギリはカッと目を見開いた。
 五百メートル先の女性のパンチラも見逃さない驚異的な視力で、先行する黒沢の尻を捕捉。獲物を見定め、オニギリは妄想を加速させる。
 イメージせよ。透けるライダースーツ、消え去る白い下着、そして美しい裸体が! 女体の神秘が! 俺のハートにcome on get you!!

「イッメ~~~ーーージっ!!」

 爆発する妄想と溢れる性欲をパワーに変え、オニギリはコースを爆走。驚異的なスピードで黒沢の尻を追いかける。

 ――技・Amazing Forward Special ONIGIRI

 それはまさに限界を超越した……そう、己の限界どころか人間の限界すらも超えた“走り”と言えるかもしれない。
 三百メートル以上も開いた黒沢との距離を瞬く間に詰め、その背中にぴたりと肉薄。絶妙な距離を維持したまま、オニギリは――――黒沢の尻を視姦した。
 それはまさしく視線の暴力だった。抜こうともしない、攻撃もしない。ただ張りつくように黒沢の背後を走行しながら尻を凝視する。
 オニギリの顔はだらしなく緩み、半開きの口からよだれが垂れる。視線は黒沢の尻に釘づけ、寧ろ尻しか見ていない。
 舐めるようなオニギリの不快な視線に、黒沢が「ひ」と悲鳴を上げる。必死に引き離そうと試みるが、オニギリは黒沢の背後にコバンザメの如くぴったり食いついて離れない。
 スリップストリーム。相手の対流圏に身を置くことで逆に引っ張って貰う、“走り”の中級テクニックである。オニギリが意識してやっていた訳ではないが。
 黒沢は姿勢を変え、軌道を変えることで気流を変化させ、オニギリをスリップストリームから弾き出そうと試みる。
 だがオニギリは、眼前で黒沢の尻に締まりのない顔でよだれを垂らしながら、その片手間で気流の変化に対応していた。恐ろしきはそのエロ本能である。

 そうこうしているうちに、両者は第三区間に突入。後任の仲間が進路の前方に見えてきた。
<漆黒の胡桃割人形(ブラック・ナッツ・クラッカーズ)>側の第三走者、黒田へステッカーを手渡し、黒沢は安堵の息を吐いた。これでもう、あの不快な視線に晒されずに済む。
 オニギリも残念そうな表情を浮かべながら、<小烏丸>側の走者である咢を探すが……あれ? 姿どころか気配すら見えない、まるで誰もいないかのようだ。

「さ、サボりやがったな!? あの野郎ぉ!!」

 オニギリの怒号が閑散とした夜の住宅街に虚しく響き渡った。




「スバルちゃん、本当に大丈夫かよ……?」

 (レース)のスタート地点に独り佇み、住宅街(エリア)の彼方に小さく見える「万亀の湯」の煙突を眺めながら、カズは不安そうに呟いた。
 走れない自分が情けない。足首に包帯の巻かれた、今はA.T.を履いていない己の両足を見下ろしながら、カズは奥歯を噛みしめる。

「ハッ! カスの分際でくだらねぇ心配してんんじゃねぇよ」
「咢?」

 唐突に背後から聞こえてきた、嘲笑するようなその声に、カズは驚いた顔で背中を振り返る。第三走者として走っている筈の咢が、そこにいた。

「何だよ咢、もう終わったのか?」

 レースはどんな感じなんだ、と興味津々に尋ねるカズに、咢は「ファック」と吐き捨てる。

「んなモン、抜けてきたに決まってるだろ? <サーベルタイガー>のときに言った筈だ、俺はあんなカスライダーどもと戦うつもりはねぇ。俺の「道」が穢れちまう」
「なっ!?」

 いけしゃあしゃあと述べる咢に、カズは絶句した。あまりの身勝手さに全身の血が沸騰するような怒りを覚えた。

 暴風族<.サーベルタイガー>は先日エンブレムを賭けて対戦した、<小烏丸>のパーツ・ウォウ初陣の相手である。
 東雲東中学校を取り巻くフェンスを一周する戦で、相次いで醜態を晒すブッチャとオニギリに咢はマジギレ。レース不参加を宣言したのだ。
 結局その戦は「クロワッサン仮面」を名乗る謎の助っ人の登場によって事なきを得たが、今回はあの戦とは状況が違う。
「短距離走」形式で行われた<サーベルタイガー>戦とは違い、今回のレースは「リレー」。誰か一人でも抜けたら成り立たないのだ。

「どーすんだよ、咢! このままじゃステッカーが繋げられなくて<小烏丸>は足止め、俺達の負けが確定じゃねぇか!?」

 咢の胸倉を掴み上げて怒鳴るカズに、咢は嘲笑を浮かべたまま口を開く。

「狼狽えてんじゃねぇよ、ミソッカスが。俺は単に任せてきた(・・・・・)だけだ。あとは“アイツ”が何とかする」
「……アイツ?」

 咢の科白に、カズは胸倉を掴む手を緩めながら胡散そうに訊き返す。アイツとは誰だ。と、視線で問うカズに、咢は答えない。
 ただ歪んだ笑みを顔に貼りつけたまま、カズを無視するように空を見上げる。まるで語りかけるように、咢の唇が動いた。
 俺が警戒されていることは、とうの昔から気づいている。だから俺が身勝手(スタンドプレー)に走り、<小烏丸>の窮地(ピンチ)を演出してやれば……“アイツ”は動く。博打(ギャンブル)だが分は悪くない。
 なぁ、変態仮面? 咢の呟きの答えるように、そのとき、天上に浮かぶ月の中を何かの影が横切った。




 第四区間の入口で待機しながら、スバルは暇を持て余していた。遅い、自分達はいつまでここで待ちぼうけを食えばいいのだろう。というか寧ろレースは始まっているのか?
 暇だー退屈だーと愚痴を零すスバルに、対戦相手である黒木が辟易した様子で頭を振る。嘆きたいのはこちらの方だ、何故自分が子供の「お守」などしなければならない。
 互いにテンションが目下急降下中なスバル達の耳に、そのとき、コースの彼方からA.T.の走行音が聞こえてきた。どうやら漸く出番がやってきたらしい。
 初めに見えてきたのは<.漆黒の胡桃割人形(ブラック・ナッツ・クラッカーズ)>側の第三走者、黒田だった。続いてその後方から怒涛の勢いで追い上げる影。咢だろうか。否……あれは!?

「天知る地知るお味噌汁、お前は誰だと人が呼ぶ!」

 芝居がかった調子で高らかに口上を並べながら、“それ”は夜の闇を風とともに切り裂き、閃光のようにコースを疾走する。
 身に纏うのはスクール水着、頭に被るシルクハット。パピヨンマスクで顔を隠し、風になびくマントを翼のように広げた彼女の名は――、

「やってきましたお助けライダー。謎の助っ人、クロワッサン仮面ただ今参上っ!」

 変態だ、変態がいる! 「クロワッサン仮面」と名乗る謎の痴女を前に、一瞬、スバルの思考は凍りついた。
 脳が目の前の現実を認識することを拒絶する。これは夢だ、幻だ。スク水シルクハットに仮面でマントな変態などいない、いる筈がない。

 しかしそんな悪足掻きも虚しく、痴女は黒田との距離を瞬く間に詰め、そして遂に抜き去り、そのまま弾丸のような勢いでこちらへ迫り、迫り……あたしに迫ってる!?
 まるで獲物に襲い掛かる肉食獣のように自らへ接近する変態スク水仮面を再認識し、スバルの理性は遂に限界を突破した。

「いぃぃぃやぁあああああああああああああああっ!?」

 その夜、戦場と化した住宅街に二度目の絶叫が響き渡った。



 ――To be continued



[11310] Trick:06
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/02/11 00:40
 前回までのあらすじ:
 遂に始まった<小烏丸>と<漆黒の胡桃割人形(ブラック・ナッツ・クラッカーズ)>のパーツ・ウォウ。そこに突如現れた謎の怪人、スク水仮面。
 彼女の目的は? その正体とは?
 謎が謎を呼ぶ激動のパーツ・ウォウ。そして今、変態スク水仮面の魔の手が薄幸の美少女スバルちゃんに襲いかかる!

 暴風少女ブッ殺!スバル、はじまります。




 その瞬間、スバルは「はっ」と我に返った。危ない危ない、レースの最中だというのにうっかり居眠りしていたらしい。
 丸一日以上寝ていないのが意外に堪えているのだろう。スバルはそう自己分析した。
 昨日は一晩中A.T.を練習し、一睡もせずに朝からバイト、午後はまたA.T.の猛特訓に費やし、そして今……ここにいる。
 理論上(カタログスペック)では五日間程度なら寝なくても問題ないように設計(・・)されているが、流石に疲れが溜まっているらしい。おかげで変な夢まで見てしまった。
 そう、あれは夢だったのだ。スバルは自分にそう言い聞かせた。スク水シルクハットに仮面でマントな痴女など夢だ、それもとびっきりの悪夢に決まっている。
 そうやって自分を奮い立たせながら、スバルは毅然と前を見て――――自分にまっすぐ迫るスク水シルクハットに仮面でマントな痴女と目が合った。

「いぃぃぃやぁあああああああああああああああっ!?」

 スバルは腹の底から悲鳴を上げ、迫りくる変態スク水仮面に背を向けて恥も外聞も気にせず脱兎の如く一目散に逃げ出した。

「あっ!? こら、ちょっと待ちなさい!」

 予想外のスバルの反応に変態スク水仮面ことクロワッサン仮面は思わず狼狽の声を上げ、走行スピードを上げて逃げるスバルに追いすがる。

「いやぁああっ! 来ないで変態!!」
「助っ人だって言ってんでしょうがっ!」

 パニックを起こしたように泣き喚きながら逃げるスバルに、クロワッサン仮面も逆上したように怒鳴り返した。
 全身を鞭のようにしならせ、先行するスバルの前に回り込む。「ひ」と怯んで立ち止まるスバルの鼻先へ、クロワッサン仮面は<小烏丸>のステッカーを突きつけた。

「はい、これ。忘れ物ですよ? お嬢さん」

 そう言ってステッカーを差し出すクロワッサン仮面に、スバルは「あ」と声を上げた。変態出現の衝撃(インパクト)で忘れていたが、そう言えばパーツ・ウォウの途中だったのだ。
 ステッカーを受け取り、A.T.の靴ひもを締め直す。<漆黒の胡桃割人形(ブラック・ナッツ・クラッカーズ)>側は既にバトンパスを終え、スバルの対戦相手である第四走者、黒木が走り始めている。
 クロワッサン仮面を振り返り、スバルは小さく会釈した。そしてコースへと向き直り、黒木を追ってA.T.で駆け出す。

 遠ざかるスバルの背中を見送り、クロワッサン仮面は――リンゴは「がんばれ」とエールを送る。自分が手助けできるのはここまでだ、あとはスバル達を信じるしかない。
 しっかり、とリンゴは再び激励の言葉を呟く。数時間前、グラウンドでのスバルの.<小烏丸>加入テストの光景が、不意に脳裏に蘇った。

 あのとき、コインが地面に落ちた瞬間、真っ先にスタートラインから飛び出したのはスバルだった。
「何ぃ!?」と驚愕するイッキ達を引き離し、コースを独走。イッキやオニギリはおろかブッチャでも追いつけないスピード。カズには劣るが、完全にFクラスを超越した走り。
 結局最後は咢が“本気”を出して逆転されたが、順位は堂々の第二位。A.T.を始めて二、三日の初心者とは思えない大健闘だと言えるだろう。

 リンゴの見立てでは、スバルは最初から“走り”の基礎はできていた。A.T.を履くのは初めてらしいが、それに通じる“何か”――格闘技か何かの経験はあるのではないか。
 しかしやはり初心者は初心者、パーツ・ウォウで戦えるだけのレベルではない。それが昨日までのスバルの評価だった。
 だが今日、そのたった一日で評価は一変した。<小烏丸>のテストのとき、スバルはぎこちなくはあるがフォームを取り、いつの間にか“走り方”まで覚えていた。
 たった24時間も経たないうちに、スバルの“走り”は大化けしたのだ。まだまだ荒削りに変わりはないが、パーツ・ウォウでも通用すると思わせるほどに。
 まるでイッキを見ているようだ。イッキもA.T.初心者の身で数々の強敵と戦い、勝利してきた。スバルの成長は、イッキが魅せつけるワクワクした“走り”に似ているのだ。

「がんばれ」

 リンゴは三度、応援の言葉を紡ぐ。もう一人のイッキに祝福あれ、<小烏丸>の皆に幸運あれ。
 たとえ……たとえわたしが全部潰すことになったとしても(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。クレイジー・アップルの名を冠する<眠りの森>の「王」は、そう言って切なそうに瞼を伏せた。

「それにしても……咢君は何を考えてるのかしら!」

 本来第三区画を走る筈だった隻眼のライダーを思い出し、リンゴは憤りの声を漏らした。あの子ザメめ、勝手に持ち場を離れて。たまたま(・・・・)自分が来ていたからよかったものの、そうでなかったら一体どうするつもりだったのか?

「一度彼とはきっちり“お話”しなきゃいけないよね」

 最悪“走り”を交えてでも、うん。と、リンゴは拳を握りながらひとり頷く。
 ちなみにその頃、リンゴの殺気を敏感に感じ取ったのか、「牙の王」を名乗る一人の少年がくしゃみをしながら獰猛な笑みを浮かべていたのは全くの余談である。




 夜の住宅街にモーター音を響かせながら、スバルは黒木(てき)の背中を追いかける。思わぬアクシデント(・・・・・・・・・)出だし(スタート)こそ遅れたが、この距離ならばまだ追いつける。
 前のめりに身体を傾け、軸足の前輪に体重をかける。ホイールが唸りを上げて猛回転し、吹きつける逆風がまるで壁のようにスバルの顔面を打ちつけた。

「あははっ」

 スバルは思わず笑い声を漏らした。凄い、周りの景色が……世界が物凄い勢いであたしの後ろへ流されていく! ちょっと工夫するだけで、A.T.はこんなにも速く走れるのか。

 A.T.のホイールは蹴る力が強いほど大きな出力を出す。そのためA.T.初心者の多くはスピードを出すために、蹴り足で地面を思いきり蹴りつけて加速しようとする。
 だが……スピードを出すのに一番重要なのは蹴り足ではない。蹴り足が生み出す出力エネルギーの殆どは、実は垂直に地面に消えていくだけなのだ。
 大切なのは軸足、それも前輪が最も重要になる。A.T.で出力を地面に伝えているホイールは、実はこの一つだけなのだ。
 A.T.は基本的に前後二つのホイールで、前輪が出力、後輪が操舵のために使われる。軸足の前輪に体重を傾けて走る、それが空さんの言っていた“走り”のコツなのだ。

 宙返りを打ちながら曲がり角をターン、イッキのビデオで観たトリックの一つだった。
 最初は恰好つけているとしか思えなかったポーズも、いざ真似して走ってみれば、空気の抵抗を減らす合理的な姿勢だと実感する。
「トリックはキメるためにキメるのではない」 空がくれたもう一つのアドバイスである。今ならその言葉の意味が少しだけスバルにも理解できた。
 ライダーが全ての技術と集中力と自分にできるあらゆることを「勝つ」という一点に凝縮したとき、必然として生まれる“動き”。それがトリックなのだ。

 黒木の背中がどんどん近づいてくる。否、接近しているのはスバルの方だ。敵は既に射程に捉えた。スバルの小さな肩が黒木の隣に並ぶ。
 馬鹿な! スバルの怒涛の追い上げに、黒木は驚愕を隠せなかった。俺はチームの中で最も速いライダーだ。その俺の“走り”についてくるというのか、この子供は!?
 あり得ない。黒木は頭を振って否定した。この子供の実力はデータとして知っている、こんなことが起こりえる訳がない。
「リード」というものがある。その名の通りA.T.の踵部に搭載されたメモリーカードのデータを読み取るソフトウェアで、主にネットから携帯電話にダウンロードして使用される。
 リードから読み取ったデータによると、スバルのA.T.稼働時間は20時間弱、A.T.を始めて一週間も経っていないだろう。
 キメたEクラス以上のトリック数はゼロで、戦レベルはたったの2である。初心者も初心者、負ける要素などどこにもない。

 なのに、これは何だ? 黒木は目の前の現実に思わず我が目を疑う。
 何故こんな初心者に俺は並ばれている、どうしてこいつを振りきれない。そして何で、この子供は……俺の前に出ようとしているのだ!?

「調子に乗るなよ、ガキがぁ!!」

 黒木は怒号とともに拳を振り上げ、スバルの横面を殴り飛ばした。攻撃、妨害。パーツ・ウォウのルールにおいて、この行為は――――有効だった。
 バランスを崩し、スバルは走行コースを外れてブロック塀に激突した。時速60km以上でコンクリートの塊に激突したのだ、そのダメージは半端ではない。

「チッ! 後味悪いぜ」

 気絶したのか、ぐったりと地面に倒れ伏すスバルを一瞥し、黒木は苦々しそうに吐き捨てながら走り去った。




「おぉーい、イッキ!」

 背後から聞こえる自分を呼ぶ声に、イッキは背中を振り返った。オニギリだ、いつものように逆立ちした頭にA.T.シューズを乗せた体勢でこちらへ走ってきている。

「大変だぜ、イッキ! 咢の奴、逃げやがった!!」

 焦燥の表情で叫ぶオニギリに、イッキは「何?」と眉を寄せる。が、

「大丈夫だろ? ちょっと、つーかかなり前にスク水仮面が頭の上を飛んでったし。お前がステッカー持ってないってことは、彼女が代わりに走ってるってことじゃねぇの?」

 イッキの的確な指摘に、オニギリは「それは」と言い淀む。

「それは……確かにそうなんだけどよ。うん、あれは相変わらずいい尻だった」

 何を妄想しているのかだらしなく表情を緩めるオニギリに、イッキは「だろ?」と相槌を打つ。

「スバルは意外と速いし、最終走者(アンカー)はブッチャだ。何も心配はねぇよ」

 残りの二人に絶大な信頼を寄せたような口ぶりで嘯くイッキに、オニギリは妄想を中断し、思わず懐疑の視線を向けた。

「本当かよ? ブッチャはともかく、スバルちゃんは初心者だぜ?」
「その初心者相手にコテンパンにボロ負けした癖に何言ってやがる」

 お前だって最下位だったじゃねぇかよ! とがなり立てるオニギリを無視して、イッキはどこか遠くを見る

「俺はな、オニギリ。昨夜、あいつがA.T.で練習すんのを隠れてずっと見てた。一晩中、傷だらけになりながら走り続けるあいつの背中を、ずっとな」

 あいつは俺が見張ってんのに全然気づいてなかったけどな、と笑うイッキに、オニギリは「ああ」と納得したように頷いた。
 そう言えば昼間、こいつは授業中にいつも以上に爆睡していたが、そういうことだったのか。徹夜でスバルの練習を見守っていれば、それは昼間は眠いだろう。

 あいつはな、とイッキは続ける。

「スバルは確かに、走り方もまだまだ未熟で荒削りだし、この天才の俺様には百億年かけても追いつけないほどの才能の差があるただの凡人だが……根性はあるぜ?」

 そう言って犬歯を剥き出して笑うイッキに、オニギリも腹を括った。イッキは<小烏丸>のリーダーだ、リーダーを信じられなくて何が仲間か。
 そしてスバルも今や<小烏丸>の仲間である。仲間が仲間を信じるのは、思えば当たり前のことではないか。




 まどろみの底から意識が浮上する。全身に鈍い痛みが走り、スバルは「う」と小さく呻いた。
 一体どれだけ気を失っていたのだろう。黒木の姿は既に影も形も見えない。

 ああ、終わった。ブロック塀を支えにして立ち上がり、スバルは絶望に顔を俯かせた。もう駄目だ、追いつける筈がない。
 悔しさに目から涙が溢れ、口からは嗚咽が零れ出る。心が折れていた。
 昔から自分はそうだった、スバルは泣きながら己の情けなさに歯噛みする。昔から弱くて、泣き虫で、悲しいことや辛いことにすぐ蹲って、ただ泣くことしかできない。

 皆に何て言おう? イッキ達の顔を頭に思い浮かべ、スバルは胸が締めつけられる思いがした。
 結局役に立てなかった。あれだけ大きなことを言ったのに、カズにジャケットまで貸して貰ったというのに。
 脳裏をよぎるカズの顔に、スバルはジャケットを見下ろした。「俺のエンブレム」を預けるとカズは言った、このジャケットにはカズの誇りが乗っているのだ。
 否、カズだけではない。背中に刺繍された族章は、イッキの、咢の、ブッチャの、<小烏丸>全員の誇りであり、彼らの魂だ。
 それをあたしは穢してしまった。スバルは再び涙を流す。イッキ達の誇りを、魂を、あたしは無遠慮に踏み躙ったのだ。

 いや、まだだ。スバルは涙を拭い、顔を上げた。あたしはまだジャケットを着ている、カズの、<小烏丸>の皆の誇りを背負っている。
 負けられない、負けたくない。もう泣いてばかりの自分でいたくない。終わった? 冗談じゃない。(レース)はまだ……続いている!

 足裏のホイールが唸りを上げ、けたたましい摩擦音を轟かせながら地面を削る。足元から飛び散る火花の残滓を「道」のように背中に残しながら、スバルは再び走り始めた。
 どうする。荒々しい走行音とともにコースを爆走しながら、スバルは思考を巡らせた。このまま走っているだけではきっと追いつけない、敵に勝てない。
 焦るスバルの目に、不意にそのとき、頭上に張り巡らされる配電線が飛び込んできた。スバルの頭の中で、最後のピースがカチリと填まった瞬間だった。




 甲高いモーター音が闇を引き裂き、第五区間の入口で待機するブッチャ達の耳を打つ。姿を現したのは<漆黒の胡桃割人形(ブラック・ナッツ・クラッカーズ)>側の第四走者、黒木だった。
 スバルの姿は見えない。仲間の到着に歓声を上げる対戦相手、黒野の横で、ブッチャは小さく息を吐いた。分かり切っていた結果だ、あんな初心者に何ができる。
 諦観の表情で宙を仰ぐブッチャの目に、そのとき、断続的に闇の中に走る奇妙な閃光が映り込んだ。雷か? 怪訝そうに眉間にしわを寄せながら、ブッチャはじっと目を凝らす。
 雷ではない。宵闇に紛れて分かりづらいが、配電線からスパークが散っているのだ。それがだんだんとこちらへ近づいているように見えるのは、果たしてブッチャの気のせいか。
 あれは! ブッチャは驚愕に目を見開いた。配電線の上に小さな人影が見える、足元からスパークを放ち、ジャケットの裾を風になびかせて走るその少女は……スバル!

「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 両足で二本の配電線の上を跨いで滑走しながら、スバルは雄々しく咆哮を上げた。配電線から流れ込む電流がホイールのモーターを過剰駆動させ、限界を超えたスピードを生む。

 配電線の上にとまっている鳥が何故感電しないのか、疑問に思ったことはないだろうか?
 電気は水と同じように電圧が高い方から低い方へと流れる。つまり電圧差がなければ電流は流れないのだ。
 鳥は一本の電線の上に足を揃えてとまっているが、配電線の電気抵抗はとても小さく、鳥の両足の間隔は狭いので、両足間の電圧は事実上0ボルトとなるため感電しない。
 イッキは以前、一本の配電線の上を綱渡りのように走ってA.T.を加速させたことがある。そのときイッキが感電しなかったのも、これと同じ原理である。
 しかし、二本の配電線に同時に触れる、例えば大きな鳥が二本の配電線を跨ぐような格好でとまると、二電線の間には電圧差があるので体内に電流が流れて感電してしまう。
 逆に言えば、二本の配電線を跨ぐように走ればとてつもない電気エネルギーを手に入れることができるのだ。

 今、スバルの体内では六千ボルトもの電流の化け物が暴れ狂っている。普通の人間ならば即死は間違いないほどの電気量だが……スバルは普通の人間ではない(・・・・・・・・・・・・・)
 ドン、とスバルが足場を蹴るたびに、その衝撃で配電線が大きくたゆむ。足元から流れ込む大量の電気エネルギーは、A.T.だけでなくスバル自身にも力を与えていた。
 ホイールから火花が散り、煙が立ち昇る。摩擦によるものではない、限界を超えた無茶な駆動にA.T.が悲鳴を上げているのだ。
 がんばれ、とスバルは心の中で激励の声をかけながら走り続ける。辛いのはあたしも一緒だ、だからもう少しだけ頑張ってくれ。

 地上を走る黒木と、頭上を走るスバルが並び――――そして遂に、スバルが抜いた。

「ブッチャ君!」

 スバルは叫びながら配電線から飛び降りた。弾丸のような勢いで落下するスバルを、ブッチャの巨体がクッションのように受け止める。

「無茶をするなぁ、君は」

 ブッチャは呆れたように苦笑を漏らし、腕の中のスバルからステッカーを受け取る。

「よく頑張ったね。あとは僕に任せてくれ」

 ブッチャの言葉にスバルは満面の笑みを浮かべて頷き、そして力尽きたように目を閉じた。これまでの疲労とダメージが一度にやってきたのだろう。
 腕の中で静かに寝息を立てるスバルをブロック塀に寄り掛からせ、ブッチャは走り始めた。あんなに小さな子供があそこまで頑張ったのだ。この戦、必ず勝つ!

 最終区間を走るブッチャと黒野の戦いは、互いに一歩の退かぬ拮抗状態で展開された。
 スピードはほぼ互角。基本的に横並びのままコースを疾走し、時折ブッチャが背後に回り込んで攻撃しては黒野が躱し、黒野が攻撃してはブッチャの肉の装甲に阻まれる。
 一進一退の膠着状態が続いたままレースは続くが、黒野は密かに勝利を確信していた。
 コースの終着地点である銭湯「万亀の湯」、そこは同時に最大最後の関門でもある。ゴールに辿り着くには煙突を登らなければならないが、そのためには壁登り(ウォールライド)のスキルが必須だ。
 ウォールライドは本来Eクラスの技能である。この男が元<夜王>のブッチャであることは知っているが、あの巨体で煙突を登ることなど不可能だ。屋根をぶち抜いて終わりだ。
 銭湯「万亀の湯」が見えてきた。黒野はラストスパートとばかりにA.T.を加速させた。

「あばよ。超デブ!」

 後方のブッチャを振り返りながら勝ち誇ったように黒野は叫び――――次の瞬間、ヘルメットの中で黒野の笑顔は凍りついた。
 黒野の背後にいたのは、運動会の大玉転がし用のボールの如く肥え太ったコーヒー色の黒ブタではなく、引き締まった腹筋、鍛え抜かれた四肢を持つ褐色の巨漢だった。
 誰、こいつ? 呆然とする黒野に謎の巨人――否、ブッチャは意地の悪い笑みを浮かべる。

「ん~? 何か言ったかな」

 ブッチャはそう言って黒野を追い抜き、四駆の特別製A.T.を軋ませて大きく跳躍。屋根瓦を踏み砕きながら爆走を続け、「万亀の湯」の煙突に迫る。

 一見、超極度の肥満体のような体型をしているブッチャだが、実はその体脂肪率は10パーセントにも満たない。
 たるんだ腹の中身は脂肪ではなく、常人離れした大食が生んだ大量の血液。
 鍛え上げられた全身の筋肉でその血を任意の部位へ大量に送り込み、一時的に凄まじい筋力を生み出すブッチャの絶技がある。その名も――バンプ・アップ!

「SWEEEEEEEEEEEEEEEET!!」

 三度目の奇声を夜の住宅街に轟かせ、キャタピラのような轍を刻みながら、ブッチャは煙突を垂直に駆け登る。
 煙突の頂上にステッカーを貼りつけ、この瞬間、<小烏丸>の勝利が決定した。

 そして次の瞬間、屋根の上での騒ぎに気づいた番台によって黒野と二人揃って叩き出されたのは、戦の結末とは何の関係もない余談である。




「――バルちゃん、スバルちゃん」

 誰からあたしを呼んでいる。……そうだ、レースの途中なんだ、起きなきゃ、起きて走らなきゃ。

「……んにゃあ?」

 寝ぼけたような声を上げながら目を開けるスバルに、ブッチャが「おはよう」と声をかける。

「パーツ・ウォウは?」
「勝ったよ。さぁ、帰ろう。カラス達も待ってる」

 ブッチャの言葉に促され、スバルは寝ぼけ眼を擦りながら「うん」と頷く。
 立ち上がろうと両足に力を入れるが、上手く立てない。足元を見るとA.T.の足裏部から紫電が散っていた。ホイールも割れている、

「完全に壊れてるね」
「じゃ、脱ぐ」

 ブッチャの言葉にスバルはそう言って裸足になり、脱いだA.T.を抱えて立ち上がった。足裏に伝わる地面の冷たい感触が心地よい。
 乗せてあげようか? と、その広い肩を叩きながら問うブッチャに、スバルは首を振って裸足のまま歩き出した。
 今日は本当に色々あった。怒涛の如く過ぎ去った一日を振り返り、スバルは歩きながら吐息を零す。
 練習、イッキのビデオ、バイト、空さんのアドバイス、また練習、イッキ達のテスト、またまた練習、そしてパーツ・ウォウ。本当に盛りだくさんな一日だ。
 帰ったらウメちゃんに話してあげよう。家で待っている筈の友達の顔を思い出し、スバルは顔をほころばせた。
 話したいことはたくさんある。A.T.で巧く走れるようになったこと。イッキ達と「勝利のポーズ」ばかり練習したこと。パーツ・ウォウで勝ったこと。
 あまりにもたくさん話したいことがありすぎて、もしかしたら今日も寝られないかもしれない。困ったなぁ、とスバルは上機嫌で笑う。

 その時、背中から「スバルちゃん!」という甲高い声がスバルの耳を打った。ウメの声だ。振り返ると、息を切らせたウメがスバルの前に立っていた。

「ウメちゃん!」

 スバルは嬉しそうな顔でウメの名を呼んだ。何故ウメがここにいるのかは知らないが、ちょうどいい。歩きながら早速話し始めよう。

「ウメちゃん! あのね、あのね――」

 興奮した顔で喋り始めるスバルを、ウメはムッとした表情で鋭く睨みつけ――――瞬間、ウメの右手が閃いた。ボグ、と鈍い音がその場に響き、スバルの頬に鈍痛が走る。
 殴られた、とスバルが気づいたのは、振り抜かれた状態で静止したウメの拳を認識したあとだった。「パー」ではなく「グー」である。

「いきなり何すんの!?」

 反射的に怒鳴りながらウメを睨みつけ、しかし次の瞬間、スバルは息を呑んだ。ウメの顔が……泣いている?

「スバルちゃんの馬鹿っ!!」

 泣きながらスバルに罵声を飛ばし、ウメは逃げるようにその場から駆け出した。
 スバルは咄嗟に追いかけようとするが、思うように走れず躓いて転ぶ。そう言えばA.T.は壊れているのだった。
 スバルが起き上がったとき、もうウメの背中はどこにもなかった。




 同時刻、海鳴市藤見町。
 彼女が“それ”を見つけたのは、偶然に偶然の積み重ね、本当に奇跡と呼べることだっただろう。
 宿題を終え、寝る前にネットで贔屓のサイトを巡回する中、彼女は何気なくそのページを開いたのだ。
 パーツ・ウォウ公式サイト。動画投稿ページにある、最新の戦の実況動画。彼女自身はA.T.をやらないが、ここの動画は時たまチェックしている。
 白熱するレースや、手に汗握る迫力のバトルは観ているだけで興奮する。異世界を行き来する(・・・・・・・・・)疲れを忘れるには最高の娯楽であると言えるだろう。
 この日もそうやって彼女は動画を開き――――その少女を見つけた。

「あれ? この子……」

 パソコンの画面にフルスクリーンで映るその少女に、彼女はふと首を傾げた。どこかで見たことがあるような気がする。
 袖を折り返した黒い大きめのジャケットを羽織り、子供用のA.T.を履いた10歳前後の青髪の少女。珍しい髪色だ、まるで向こうの世界(・・・・・・)の人間のようである。
 その瞬間、彼女は「あ」と声を上げた。この少女をどこで見たのかを思い出したのだ。
 ブラウザを一つ前のページに戻し、この戦の対戦チームを確認。<小烏丸>と<漆黒の胡桃割人形>というチーム名から、チームの詳細情報を検索する。

「やっぱり……」

 暴風族<小烏丸>の登録メンバーの中にその名前を見つけ、彼女は驚愕の表情で小さく呟く。スバル・ナカジマ、一週間前にミッドチルダで行方不明になった11歳の女の子だ。

 彼女の名前は高町なのは、時空管理局の魔導師である。



 ――To be continued



[11310] Trick:07
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2009/10/30 00:34
 轟々と、劫々と。炎は勢いを上げて燃え盛る。そこはまさに灼熱の世界。生きとし生けるもの、あらゆるものを焼き尽くす地上の煉獄がそこにあった。
 ドン、ドンッ! と、空間圧縮魔法によって超々圧縮された水の砲弾が放水銃から撃ち出される。
 ちょっとしたプール一杯分もの水を超圧縮した水弾は、しかし射出・解放とともに瞬時に蒸発。行く手を阻む炎の壁を消し去るには至らない。

「駄目だ駄目だ、こっちは駄目だ!」

 勢い衰えぬ炎を前に、耐火服に身を包んだ男達の一人、消火活動を行う管理局の災害担当部隊員が悲鳴にも似た叫び声を上げる。

「この先に子供が取り残されてるんだ! 何とかならないのか!?」
「さっき本局の魔導師が突入した! 救助は彼女がしてくれる!」

 苛立ったような仲間の怒号に、男も逆上したように怒鳴り返す。
 火の手は既に建物どころか敷地全体に及んでいた。この程度の炎一つ満足に消せず、入口付近で足止めされている自分達の無力が歯痒かった。
 放水銃を構え直し、トリガーを引く。銃口からは何も出ない、カチリと乾いた音が虚しく響く。弾切れだ。男は「くそっ」と悪態を吐いた。やるせなさに死にたくなった。

 その頃、救助活動の応援に駆けつけた魔導師、高町なのは二等空尉は、火の海と化した施設内部を飛び回りながら要救助者を捜索していた。
 広域探査魔法(ワイドエリアサーチ)で建物全体をスキャン、生体反応を捜索する。地下エントランスホールに該当反応1、かなり弱っている。なのはは飛行魔法(アクセルフィン)を加速させて現場へ急いだ。

 魔法。それは自然摂理や物理作用をプログラム化し、大気中にある「魔力素」と呼ばれる物質を媒介することでその作用を自由に操作する技術である。
 管理局管理下の殆どの世界に存在する魔力素だが、一部の人間はこれを自らの体内で生成し、「デバイス」と呼ばれる機器を用いて魔法を行使することができる。
 そうした特殊な人間のことを、人は畏敬を込めて「魔導師」と呼ぶ。

 行く手を塞ぐ瓦礫を砲撃魔法で吹き飛ばし、地下への扉を開く。反応が近い、急ごう。気を引き締め直し、なのはが突入しようとしたそのとき――――空間が激震した。
 刹那、轟く轟音が建物全体を揺るがし、地下から噴き出した閃光と衝撃波がなのはを弾き飛ばす。これは! 空中で体勢を立て直しながら、なのはは瞠目した。
 この光、この衝撃。覚えがある、まさか……次元震!? なのはが驚愕の声を上げようとしたまさにその瞬間、二度目の衝撃が建物を襲った。
 荒れ狂う膨大な魔力の奔流が床面を食い破り、天井を突き崩し、その全てを呑み込んでいく。光はますます膨張を続け――――爆ぜた。




『――かまち二等空尉! なのはちゃん応答して!!』
「う……っ。はやてちゃん?」

 通信機から聞こえてくるノイズ混じりの声に、なのはの意識は覚醒した。背中に被さる瓦礫を押し退けながら起き上がり、身に纏うボロボロの防護服(バリアジャケット)を見下ろす。
 次元震に至近距離から巻き込まれたのだ、バリアジャケットがなければ即死だった。咄嗟に防御魔法(プロテクション)を幾重にも発動したとはいえ、生きていることが奇跡に思える。
 周囲を見渡すと、一面の瓦礫の山がなのはの視界に飛び込んできた。酷い有様だ、まるで地獄のような光景である。
 そうだ、あの子はどうしているだろう? 自分が救うべき要救助者を思い出し、なのはは再び探査魔法を走らせる。
 該当反応は……ゼロ。間に合わなかった。なのはは絶望に顔を覆った。自らの無力に涙が出てくる。

「ごめんね、ごめんね……っ!」

 無力感に打ちのめされながら、なのはは泣いた。静寂の支配する瓦礫の山の中に、嗚咽と謝罪の声が虚しく響き続けた。

 新暦0071年4月29日。ミッドチルダ北部、臨海第8空港にて大規模な空港火災事故が発生した。
 密輸入された古代遺失物(ロストロギア)が原因と思われ、局地的な小規模次元振を伴ったこの事故は、数百名の死傷者と多数の行方不明者を出し、関係者の心に大きな傷を残した。
 行方不明者の多くは次元震に巻き込まれたと推測され、生還は絶望的と言われている。そのリストの片隅に、スバル・ナカジマの名前はあった。

 そして、一週間後。

 未だ現場検証と瓦礫の撤去作業が続く臨海第8空港。その焼跡の前に、管理局の制服を着た一人の中年の男が佇んでいた。
 男の名前はゲンヤ・ナカジマ。時空管理局陸上警備部隊の三等陸佐であり、一週間前の火災事故では初動部隊の指揮を執っていた。
 そして事故の行方不明者の一人、スバルの父親でもある。

「今日も来てらっしゃったんですね、ナカジマ三佐」

 バリケード・テープの向こうで行われる現場検証をぼんやり眺めながら煙草をくゆらせるゲンヤの背後から、幼さの残るおっとりした声が響く。
 煙草を踏み消しながら「ヤガミか」と振り返るゲンヤの視線の先には、同じく管理局の制服に身を包んだ十代半ばの少女が立っていた。
 八神はやて一等陸尉。陸士部隊で研修中の本局特別捜査官であり、今はこの現場検証の責任者でもある。彼女とは、件の事故の現場処理の際に知り合った。
 朝っぱらから堂々とサボりですか、と茶化すように尋ねるはやてに、ゲンヤは「うるせぇ」と鼻を鳴らす。

「俺はこれから出勤だよ。お前の方こそ、指揮官様がこんなところで油売ってていいのかよ?」

 逆に訊き返すゲンヤに、はやては「あはは」と空笑いを浮かべる。

「わたし思うんですよ、ナカジマ三佐。責任者ちゅうんは責任を取るのが仕事であって、部下の仕事にあれこれ横槍入れるのはちょい違うんやないかと。皆もそう言うとるし」
「馬鹿野郎、そりゃ体よく追っ払われてるだけだ」
「ですよねー」

 あっけらかんとした顔で笑うはやてに、ゲンヤは「ちび狸め」と小さく毒吐く。少女の空元気が見ていて痛々しかった。

「で、その部下の仕事の成果はどんな塩梅なんだ?」
「酷いの一言ですよ。今日も遺体がぎょーさん見つかってます」
「ウチの娘は?」
「それは、まだ……」

 言葉を濁すはやてにゲンヤは落胆したような顔で「そうか」と返し、懐から再び煙草を取り出し火を点ける。

「……ウチの、上の娘がな」

 紫煙を吐き出しながら物憂げな顔で口を開くゲンヤに、はやても表情を引き締めて拝聴した。

「妹が帰ってくんのを、ずっと待ってんだよ。あの次元震だ、身体が丸々戻ってくるなんて贅沢なことは言わねぇ。せめて服の欠片か持ち物でも見つかりゃ――」
「ナカジマ三佐」

 ゲンヤの科白を遮るように、はやてが硬い声音で口を開いた。

「娘さんの捜索は、現在もなお、全力で行われとります。それに遺体が見つからんちゅうことは……スバルちゃんはきっとどこかで生きとるって、わたしは信じとります」

 たとえそれが次元の狭間でも。と、凛とした表情で告げるはやてに、ゲンヤも「ああ」と首肯する。小娘に説教される自分が恥ずかしかった。

「……そうだな。スマン、少し弱気になってた」

 自嘲するようにそう口にして、ゲンヤは改めてはやてへと向き直る。「ヤガミ一尉」と真摯な表情ではやてを呼び、ゲンヤは深々と頭を下げた。

「娘を、よろしく頼みます」

 ゲンヤの切実な言葉に、はやても真剣な表情で「はい」と頷こうとした、そのとき――――はやての懐から通信のコール音が高らかに鳴り響いた。
 一体どこのKY馬鹿だ。シリアスな雰囲気を台無しにされたことに苛立ちを募らせながら、はやては「失礼」とゲンヤに断りを入れ、懐からペンダント型のデバイスを取り出した。
 剣十字を模ったペンダント中央部の宝玉が煌めき、頭の中に情報が流れ込む。次元間通信、それも緊急用の特別回線(ライン)からの呼び出しである。相手は……なのはちゃん?
 はやては怪訝そうに首を傾げた。はやてやなのはの出身世界、それも彼女達の出身国は、時差の関係で今は深夜だろう。そんな夜更けに、しかも緊急回線で一体何の用なのか。
 もっともこちらと向こうでは暦の上でも一ヶ月以上のズレがあるのだが、と詮無いことを分割思考(マルチタスク)の一部で思い描きながら、はやては回線を開いた。
 宙空に魔方陣が出現し、半透明のモニターが表示される。そして栗色の髪を今は下ろしたはやてと同年代の少女、なのはの顔が画面の中に映し出された。

「こんばんは、なのはちゃん。一体どうしたん?」

 はやては人当たりのいい笑みを浮かべてなのはに尋ね――――そして十数秒後、なのはからもたらされた意外な情報に絶句した。




 暴風族<漆黒の胡桃割人形(ブラック・ナッツ・クラッカーズ)>とのパーツ・ウォウから三日が経った。スバルがこの世界に迷い込んでから、これで十日目になる。
 暴風族<小烏丸>の一員となって以来、スバルは日中は満珍楼でバイト、放課後時間帯はイッキ達と合流して練習、そして夕食後も深夜まで自主練習という生活を送っている。
 イッキ達の学校、東雲東中学校。そこがスバルの主な練習場所である。スバルはその学校の生徒ではないが、<小烏丸>加入によって彼らの縄張り(エリア)の使用許可を貰ったのだ。
 睡眠時間は一日平均四時間前後。スバルにとっては充分な休養だが、イッキ達に言ったら「お前はナポレオンか」と呆れられた。
 ちなみに壊れたスバルのA.T.は、ブッチャが<夜王>時代に巻き上げたパーツによって新しく生まれ変わった。幸いメモリーカードは無事だったが、他は総取り換えである。
 バイトもA.T.も軌道に乗り、この新しい世界におけるスバルの生活は順風満帆であると言えるだろう。ただ一つ……ウメのことを除いて。

 三日前の一件以来、スバルは一度もウメと口を利いていない。ウメは逃げるようにスバルと顔を合わせようとしないし、スバル自身もウメを無意識に忌避していた。
 否、「忌避する」というのは多少語弊があるかもしれない。スバルはただ、ウメが分からないだけなのだから。
 あの夜、ウメは何かに怒っていた。しかし「何」に怒っていたのかまではスバルには分からない。
 理由を訊こうにも、ウメはスバルと話をしようとさえしない。怒りの理由が分からないままだから、スバルも何を話せばいいのかが分からない。分からないこと尽くしである。
 夜の練習も、ウメと会いたくないから始めたのかもしれない。イッキ達の学校へ続く坂道を登りながら、スバルは自虐的にそう自己分析する。
 できるだけ彼女と会いたくないから、練習と言い訳して野山野家から逃げているのだとしたら、自分はどこまで女々しいのだろう。

 坂の上に校舎が見えてきた。スバルは思考を無理矢理切り替える。ネガティブに浸るのはひとまず忘れて、今は練習に集中しよう。
 校門に飛び乗り、まずは敷地を囲むフェンスの上を一周。以前パーツ・ウォウでも用いられたこのコースは、金網がところどころ潰れたり変形したりしており、難易度は高い。
 落ちることなく無事にコースを完走し、スバルは敷地の中へ足を踏み入れた。今のはほんの“ならし運転”、ここからが練習の本番である。
 校門の正面、コの字型の第一校舎と向かい合い、スバルはA.T.を走らせる。手にはビニール袋、その中には蓋を開けた缶ジュース。出前の岡持とラーメンの代用である。
 ホイールを猛回転させ、敷地内を爆走。加速しながら校舎へ突進する。地面との摩擦で火花が無数に散り、スバルの背中に「道」のように残る。
 スバルの新しいA.T.は余り物のパーツの寄せ集めのため、前後のホイール径が微妙に違う。後輪の方が少しだけ大きく、その分、爪先のホイールに力を入れやすい。

 校舎の壁が近づいてきた。スバルは両足に力を入れて地面を蹴り、足裏のホイールで壁面に着地。片手のビニール袋を揺らしながら、壁を垂直に駆け登る。
 そのとき、不意にウメの顔がスバルの脳裏をよぎった。泣いている。ウメちゃん、と思わず声を上げようとしたその刹那、スバルは自分の身体がずるりと傾くのを感じた。
 足裏から消える壁の感触、全身を包み込む浮遊感。落ちている、スバルは瞬間的に理解した。トリックの失敗。雑念が入ることで集中力が途切れ、足を滑らせたのだ。
 ホイールが壁面から離れ、重力に引かれて真っ逆さまに落下する。遠ざかる空、それと反比例するように加速度的に迫る地面。この高さから叩きつけられたら……痛い。
 スバルは己の迂闊さに歯噛みしながら身体を捻り、ホイールを再び壁面に接触させた。校舎の頂を横目で睨み、失敗の挽回(リカバリー)を試みる。

 ――技・Spinning Wallride Overbank 1800°!!

 腕の回転力を軸に壁を駆け上がる、あの炎の中でシムカが魅せた高等スキル。ブッチャも得意とするこのトリックに、スバルは墜落直前の土壇場で挑戦したのだ。
 腰を捻り、腕を振り回して身体を独楽のように回転させる。
 その運動によって生じた遠心力を利用し、まるで車のボディにワックスがけするように、スバルは円を描きながら壁を登る――――筈だった。
 だが現実には、スバルの身体は地面への激突こそ免れたものの、その高度は依然として緩やかながらも下降を続けている。
 回転力が足りていないのか、それとも他の要因が別にあるのか。スバルには分からない。ただ一つだけはっきりしているものは、このトリックが失敗したということである。
 スバルは舌打ちし、回転を中断して姿勢を立て直した。身体を壁面と平行に傾け、ホイールを斜めに押し当てながら滑り降りる。

 ラウンドトラクション・ヒル。ホイールの回転数を前後で変えることで高い摩擦係数を生み出し、壁を垂直に駆け下りるテクニックである。
 スバルのA.T.は前後のホイール径が違うため、回転数に差が生じてラウンドトラクション・ヒルと同じ効果が発生しているのだ。
 これは昔、イッキがカズとオニギリの三人分のA.T.を寄せ集め、当時はまだ<夜王>の総長だったブッチャにパーツ・ウォウを挑んだ際に偶然発見したものだという。
 その経験を参考にして、敢えて異なる径のホイールでスバルのA.T.を組んだのだとブッチャは語っていた。

 無事に地面の上に降り立ち、スバルはふと、片手に握ったままのビニール袋へ視線を落とした。中を覗いてみると、缶ジュースがひっくり返り、袋の内側は水浸しだった。
 派手に振り回しもしたし、これがラーメンのどんぶりだったならば大惨事は間違いないだろう。自らの未熟を改めて痛感し、スバルはしゅんと肩を落とす。
 そのとき、校舎の一室から明かりが灯り、どたどたと騒々しい音が建物の中から聞こえてきた。やばい、見つかった。慌てて身を翻すスバルの背中に、鋭い怒声が突き刺さる。

「コラァ! 貴様ぁ、どこのガキだ!? さっさと家に帰れ!!」

 鬼気迫る顔で怒鳴る宿直の男性教諭、折原の声を背中で聞きながら、スバルはフェンスを飛び越えて敷地から逃げ出した。




 その頃、ウメは野山野家の二階にある自室で、趣味の人形作りに勤しんでいた。

「あなたの端切れをたくさん詰めて、わたしの針で縫い合わせ、お肉の代わりに綿詰めて、あなたの代わりをたくさん作りましょう……」

 部屋の中に歌声を淡々と響かせながら、ウメは一心不乱に針を動かす。
 ゴーゴン人形、その名の通り、ギリシャ神話の怪物(ゴーゴン)をモチーフにした布の人形である。リンゴを始めとする家族には不人気だが、ウメにとっては大切な友達である。
 そう、友達なのだ。あんな奴とは違う、本当のウメの友達なのだ。ウメの脳裏を、スバルの顔が不意によぎった。直後、人形を縫う手元が狂い、針の先端が指先に刺さる。
 ウメは思わず「痛っ」と声を漏らした。これも全部スバルのせいだ。今は外出中の同居人に逆恨みにも似た感情を向けながら、ウメは鈍く痛む指先を口に咥える。
 白い小さな手には他にも無数に絆創膏が巻かれている。どれもこの三日以内につくった傷である。それは奇しくも、スバルと口を利かなくなってからの日数と一致していた。

「人間の友達なんて……いらないでし」

 未完成な人形を床の上にぽいと投げ出し、ウメは泣きそうな顔で独り言を漏らす。部屋の中心で膝を抱えるウメを、部屋中に置かれた無数の人形達が無言で見守っていた。

 人形はどうして作られるのだろうか?
 例えば古代社会では、人形は他人に呪いをかけるための呪詛の道具や、逆に人間の身代わりに厄災を引き受ける対象物として使われていた。
 他にはデパートのショーウィンドウなどにモデルの代用として飾られるマネキン、あれも人形である。
 また田畑に立てられるカカシは人間の代わりに害獣、害鳥から農作物を守る見張りであり、自動車の安全試験などに使われるダミー人形というものもある。
 これら人形の多くに共通する要素として、「人間の代用品として作られた」ということが挙げられる。

 ウメもまた、人形を代用品として作り続けている。ウメが人間ではなく人形に求めるもの、それは……「友達」だった。
 旧約聖書によれば、神は自らの友人として最初の人間を創ったとある。ウメもまた同じである。人間の友達がいないウメは、自らが作りだす人形の中に友達を求めたのだ。
 ほんの少し前、スバルがやってくる以前までは、ウメはそれで満足していた。
 家族以外の誰かと話す楽しさを知らなかったから、一方通行に愛情を向けるだけの自己満足的な親愛関係でウメの心は充分に幸せになれたのだ。

 だがスバルがやってきてから、ウメは変わった。自分だけが送るのではない、相手からも返してくれる双方向的な親愛感情。ウメに初めてそれを与えたのがスバルだった。
 スバルはウメにとって初めての「人間の友達」だった。そしていつか「本当の友達」にもなってくれると、ウメは欠片も疑っていなかった。
 だからこそ、三日前、<小烏丸(イッキたち)>のエンブレムを背負いパーツ・ウォウで走るスバルを見つけたとき、ウメは「裏切られた」と思った。心が痛かった。
 人間の友達なんていらない。ウメは胸の中で再び呟く。こんな痛みを感じるくらいならば、人間の友達なんていらない。人形だけが友達でいい。
 無数の物言わぬ「友達」に囲まれながら、ウメは声を殺して泣いた。

 ミカンがやってきたのは、ちょうどそのときだった。「ウメ、入るぞ」と言いながら入口の戸を開け、ミカンはウメの部屋の中へ上がり込む。その背後にはリンゴもいた。
 二人とも部屋着から服を着替えていた。ミカンはツナギ、リンゴはジャケットとジーンズ。そして二人とも帽子を被り、ゴーグルを着けている。<眠りの森>の正装だった。
 ウメの服装もまた普段着のワンピースではなく、パーカーとハーフパンツを身につけている。「出撃」の準備は万全だった。

「ウメ、焼肉(ステーキ)の時間だ」

 ミカンの冷徹な声にウメは涙を拭い、ゴーグルを首にかけながら立ち上がる。ステーキ。それはこの日の夕食の献立であると同時に、彼女達が「狩り」に出かける合図でもある。
 凛とした目つきでミカン達を見返すウメの顔に、一人ぼっちで泣いていた少女の面影はどこにもなかった。




「あーあ、追い出されちゃった」

 夜の住宅街をA.T.で疾走しながら、スバルは残念そうな表情でぼやいた。予想外のタイミングで予定に空白ができてしまった、これからどうしよう。
 野山野家に帰るのも気が引け、かと言って公園に行けば他の暴風族と鉢合わせしそうで恐ろしい。結局あてもなくスバルは街の中を走り続ける。

「学校かぁ」

 追い出された練習場、イッキ達の学び舎を未練がましく思い起こし、スバルは呟きとともに吐息を零す。故郷、ミッドチルダのことを少しだけ思い出してしまった。
 この世界とミッドチルダでは暦に一ヶ月以上のズレがあるらしく、こちらの世界は三月の下旬だが、向こうは既に五月に入っている。
 イッキ達はこれから春休みに入るが、スバルはこちらの世界へ来る前、ミッドチルダの学校では新学期が始まっていた。

「……行きたいなぁ」

 スバルは無意識のうちにそう呟いていた。
<小烏丸>の活動中、イッキ達はよく学校の話をする。授業中にどんな話をした、学年主任の折原にどんな悪戯を仕掛けた、校長室は今日も見つからなかった。他にも色々である。
 そんなとき、スバルは堪らなく悔しくなるのだ。イッキ達がスバルの知らない、自分達だけの共有の時間を過ごしてきたのを実感してしまうから。
 そしてイッキ達だけではない、ウメやミカンもそれぞれの学校で似たような時間を過ごし、リカもかつてはそのような時間を生きてきたと想像してしまうから。
 そんな風に考えてしまうと、まるで自分だけが仲間外れになっているように思えて悲しくなる。自分も学校に行きたい、イッキ達やウメと同じ時間を過ごしたい。
 無論、スバルの年齢を考えればイッキ達と同じ学校に編入するのは無理だろう。入るとすればウメと同じ小学校。しかしそれはそれでスバルは構わなかった。
 もっとも、幾ら都合のいい想像を膨らませたところで、それが現実になる筈もない。スバルはこの世界で戸籍がない、そんな人間が学校に通うなど不可能である。
 だがひとつだけ、その不可能を可能にする(・・・・・・・・・・・)方法がある。スバルは数時間前、そのための選択肢をリカから提示された。

 それは数時間前、夕食を食べ終わったすぐ後のことだった。夜の自主練習へ出かけようとするスバルを、リカが突然呼び止めたのだ。

「スバル」

 背中にかけられたリカの神妙な声に、スバルはふと違和感を覚えた。しかしその違和感の正体が頭の中で形になる前に、リカが手招きしてスバルを呼び寄せる。

「ちょっと話したいことがあるんだけど、今から時間いいかしら」

 有無を言わさぬ口調で尋ねるリカにスバルは気後れしながら頷き、促されるままに食器の片付けられたちゃぶ台の前に腰を下ろす。
 緊張の面持ちでリカを見つめるスバルに、リカはこう切り出した――――私の養子にならないか、と。

「貴女に戸籍がないのはシムカから聞いてます。それにこの国は学歴社会ですから、最低限の学歴は生きていくのに必要よ?」

 だから私の養子になって、野山野スバル(・・・・・・)として四月からウメと一緒に小学校に通う気はないか。リカはそのような提案を持ちかけたのだ。
 そのときスバルは漸く、先刻の違和感の正体に気がついた。リカは自分を「スバル」と呼び捨てにしていた、それまでは「スバルちゃん」だったというのに。

「養子かぁ。いきなりそんなこと言われてもなぁ……」

 リカとの会話を思い出し、スバルは深く溜息を吐く。
「無理に今すぐ答えを出す必要はない」というリカの言葉に甘えて、敢えて考えないようにしていたが、こうしてやることがなくなってしまうと、やはりどうしても考えてしまう。
 リカの申し出は、スバルにとっては歓迎すべきことではあるだろう。戸籍が手に入り、学校に通え、言うことなしである。
 しかしその分、リカの負担はどれだけのものになるか想像もできない。
 ただでさえ女手一つでイッキやリンゴ達を養い、最近は自分や亜紀人という食い扶持も増え、リカの負担は計り知れないというのに。その上、更に迷惑をかけていいのか?

 それにリカの養子になるということは、スバルが完全にこの世界の人間(・・・・・・・)になるということでもある。それは自分の本当の世界(・・・・・)を捨てることと同義ではないか。
 こちらの世界に確固とした足場が生まれる反面、向こうの世界との繋がりは途切れてしまう。あたしは本当にそれでいいのか? スバルは苦悩する。
 ミッドチルダに残してきた父や姉、死んだ母、それに向こうでの友人達の顔が、葛藤するスバルの脳裏を走馬灯のようによぎる。彼らとの繋がりを失うのは、怖かった。

「はぁ……」

 スバルは再び嘆息を零し、まるで目の前の選択から逃げるように夜空を見上げた。空は薄雲に覆われ、星は見えない。
 どれだけ悩んでも答えが出る気がしない、まるで出口のない迷宮に迷い込んだような気分である。
 だがいつかは選ばなければならない、それもできるだけ早くに。スバルは憂鬱を胸に抱えたまま空から目を逸らし、視線を落とした。

 そのとき、どこからか歌うような声が風に乗って響き渡り、スバルの鼓膜を振るわせた。

 ――……木々ハ腕ヲカラメ天ヘト伸バス

「え?」

 耳を打つ歌声にスバルは思わず周囲を見渡し、まるで引き寄せられるかのように風上へとA.T.を走らせた。
 路地を抜け、塀を飛び越え、電信柱を垂直に登って民家の上へ飛び移り、屋根を飛び石のように伝う。
 歌声の発生源を目指し、スバルは最短ルートで住宅街を駆け抜けた。

 ――……群ガル葉々ハ光ヲ喰ライ、森ノ闇ヲイヨイヨ深クスル

 歌声がだんだんと大きくなってきた。それだけこちらが近づいているということだろう。
 スバルは屋根瓦を蹴って再び路上へと降り立ち、ホイールに体重をかけながら舗装道路を疾走する。
 地面との摩擦で火花を飛ばしながらターンをキメて、T字路を直角に曲がったそのとき――――闇の中に響く鋭い悲鳴がスバルの耳に飛び込んできた。

 ――……狩人ハ気付カナイ。闇ニ潜ムけだもの達ノ双眸モ牙モ

 突如として聞こえた悲鳴にスバルは息を呑み、A.T.を更に加速させて悲鳴の発生源へと急いだ。気のせいか、例の歌声も同じ方向から聞こえてくる。
 そして辿り着いたのは小さな自然公園。緊張と不安で早鐘のように鳴る胸を押さえつけ、スバルは意を決して公園の中に足を踏み入れる。
 地獄が広がっていた。薙ぎ倒された木々、粉砕されたベンチ、吹き飛ばされた花壇。そして石ころのように転がる、人、人、人。手足があり得ない方向に曲がっている。
 戦慄するスバルの足元から、ぴちゃりと水音が響いた。水溜り? 思わず視線を落とすスバルが見たものは、赤い水滴に塗れたA.T.シューズ。血だ。

「ひっ!?」

 スバルは小さく悲鳴を上げた。何だこれは、何なんだこれは!? あまりに凄惨な光景に声が出ない。
 公園の奥に幾つかの人影が見える。彼らがこの惨状をつくり出した犯人だろうか。
 外灯に照らし出された影は八つ。その中の一人、一番小柄な人影を見て、スバルは今度こそ言葉を失った。
 パーカーとハーフパンツに身を包み、首には無骨なゴーグルをネックレスのように装着。普段見慣れたワンピース姿とは全く印象が違うが、フードの下から見えるその顔は――、

「ウメ、ちゃん……?」

 愕然と呟くスバルの声が、夜の自然公園にやけに大きく響いた。

 ――……今日ハ狩人ガ狩ラレル夜。ココハ眠リノ森(スリーピング・フォレスト)……!



 ――To be continued



[11310] Trick:08
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2009/10/30 00:35
 この街の風は強い。それが、東雲市に降り立った彼女が最初に抱いた感想だった。
 地上高324メートル。電波塔の頂から見下ろした夜の街は、人工の光が無数に煌めき、まるで宝石箱の中身をひっくり返したか、天の星々を地上へ落としたかのように思える。

「行こうか、レイジングハート」

 あたかも他の誰かが傍にいるような口調で彼女は独り言を呟き、電波塔の頂から一歩、足を前へと踏み出した。
 下は空、そして人間の肉体は空を飛べるようには創られていない。彼女の華奢な身体は重力に引かれ、栗色の髪を揺らしながら落ちていく。下へ、地上へ、闇の中へ。




 木々は腕をからめ天へと伸ばす
 狩人は気付かない闇に潜むケダモノ達の双眸も牙も
 今日は狩人が狩られる夜……

「ウメ、ちゃん……?」

 スバルは呆然とした表情を浮かべ、その名前を呼んだ。
 何もかもが信じられなかった。まるで局地的に嵐に襲われたかのような公園の惨状も、血溜まりの海に転がる無数の怪我人も。
 そしてこの地獄のような世界に平然と佇む、スバルが友達だと思っていた同年代の少女も。
 何もかもが、スバルは現実だと信じたくなかった。夢だと思いたかった、嘘だと言って欲しかった。
 一方ウメもまた愕然とした顔で「スバルちゃん」と呟いていた。見られた。最も知られたくなかった人に、自分達の本当の姿(・・・・)を知られてしまった。
 ウメの頭の中が真っ白に染まる。砂の丘の頂に辛うじて踏みとどまっていた何かが、土台ごと音を立てて崩れ落ちたような気分だった。

「ったく、面倒なことになりやがった」

 呆然と固まるウメの傍で、ツナギを着た女――ミカンが頭を掻きながら溜息を吐く。その瞬間、スバルは漸く、ウメだけでなくリンゴやミカンもこの場にいることに気づいた。

「おい、スバル! 今、ここで見たことは他言無用だ。絶対誰にも話すんじゃねーぞ?」

 ミカンの高圧的な物言いに、スバルは衝動的に「ちょっと」と反発の声を上げた。

「何なんですか、それ。訳分かんないですよ!?」

 憤慨の表情でミカンを睨みつけ、スバルは叫ぶ。
 本当に、何もかも訳が分からない。痛めつけられたライダー達も、ウメ達が何故こんなことをしたのかも。そしてどうして、自分に口止めなどするのかも。
 分からないからこそ、スバルは知りたかった。彼女達の凶行の理由を、その真意を、彼女達自身の口から説明して欲しかった。

「一方的にそんなこと言われて、納得できる筈ないじゃないですか!?」
「納得なんて必要ねぇよ。言ったら殺す、それだけだ」
「だったらあたしだって、あんた(ミカンさん)の言うことに従ってやる義理なんてないです」

 冷徹な口調でにべもなく言い捨てるミカンに、スバルはそう言って憮然と鼻を鳴らす。
 挑発するようなスバルの科白に「このガキ」と青筋を浮かべるミカンを制して、そのときウメが口を開いた。

「トロパイオンの掟でし」
「ウメ!」

 ミカンが咎めるように声を上げるが、ウメは無視して言葉を続ける。

「ウメ達<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>には「トロパイオンの掟」という厳格な掟があるでし。鉄の掟でし。ウメ達は「掟」で、ウメ達の正体を秘密にしなきゃいけないんでし」

 だからスバルが<眠りの森>の秘密を口外すれば、自分達は「掟」に従ってスバルを殺す。淡々とそう語るウメの顔は、正真正銘、どこまでも“本気の本気”だった。
 スバルは悔しそうに口を閉じた。ウメ達が抱える、自分には想像もできないような途方もなく深い“闇”を垣間見たような気がした。
 だが……それで納得できるかというと、そうでもない。頭も心も、ウメ達の科白に反発している。
 苦渋の表情で沈黙するスバルに、今度はリンゴが「スバルちゃん」と声をかけた。

「スバルちゃんはどうしてA.T.をやってるの?」
「え?」

 リンゴの質問の意味が分からず、スバルは思わず首を傾げた。自分がA.T.で走る理由。そういえばどうして、自分はA.T.を始めたのだろう?
 最初のきっかけはウメに誘われたからだろう。だが、今は……走りたいから走っている。走るのが楽しいから、自分はA.T.を続けているのだ。そしていつか、空へ……!
 スバルの表情から答えを察したのか、リンゴは微笑とともに首肯し、そして諭すような口調で言葉を続けた。

「貴女がただ普通にA.T.で走りたいだけなら、これ以上深入りしちゃ駄目。今夜ここで見たことは忘れて、あっち(・・・)へ……イッキ達のところへ帰還(かえ)って」

 もうこれ以上、空の青を血で染めたくないから。自嘲するような笑みでそう口にするリンゴに、スバルは無意識に歯噛みしていた。
 まるで自分達が別世界の人間でもあるようなかのリンゴの言い草、まるで「誰も自分達を理解できない」と言わんばかりに悲壮感溢れるその顔。
 それら全てに、スバルは――――堪らなく苛立っ(ムカつい)ていた。

「ふざけんな!!」

 我慢の限界を超え、スバルは腹の底から怒号を上げた。

「一方的に上から目線で、脅したり、訳分かんないこと言って煙に巻こうとしたり。それで都合が悪くなったら悲劇の主人公(ヒロイン)気取り? 理解して貰おうと努力すらしてない癖に!」

 青筋を浮かべた顔で癇癪を起こしたように喚き散らすスバルに、リンゴが気圧されたように「う」と呻く。
 そのとき、リンゴ達の背中から成り行きを傍観していた影の一つ、髑髏の仮面を着ける長身の男が動いた。その足にはA.T.、爪先部を無数の髑髏で覆う悪趣味な意匠である。

「……ウゼェ」

 億劫そうな呟きを漏らしながら、男はまるで蹴りを放つように片足を振り上げる。爪先の髑髏がゆらりと不気味に輝き――――瞬間、スバルは弾かれるように横へ跳んでいた。
 それは生物としての本能が働いたのかもしれない。思考する間もなく、気がつけば身体が勝手に動いていたのだ。
 直後、まるで砲弾が炸裂したかのような轟音とともに地面が吹き飛び、スバルの足元にクレーター状の大穴が穿たれた。
 スバルの頬を冷や汗が伝う。あと一瞬避ける(・・・)のが遅ければ、吹き飛ばされていたのは自分の身体だっただろう。

「蛾媚刺、テメエ!」

 怒声を上げるミカンに、蛾媚刺と呼ばれた男は憮然と鼻を鳴らし、青ざめた顔で固まるスバルを指差しながら口を開いた。

「あのガキを黙らせりゃいいんだろ? なら“こっち”の方が手っ取り早い」

 蛾媚刺はそう言ってスバルを一瞥する。髑髏面の奥から覗く二つの目に睨まれた瞬間、スバルの背筋を悪寒が走った。
 まるで巨大なバッタのような姿の死神(シャドウ)が蛾媚刺の背後に見える。人喰いバッタだ。その瞬間、死神に貪り食われる自らの最期をスバルは幻視した。
 濃厚に漂う“死”の気配がスバルを呑み込む。殺される、殺される、殺される……!

「う、ぁあああああああああああああああああああっ!!」

 スバルは絶叫し、襲いくる死の恐怖から逃げ出すようにA.T.を走らせた。
 蛾媚刺の爪先が再び光る。またあの“見えない砲弾”が来る、とスバルは直感した。地面を蹴る足に力が入る。もっと速く、少しでも“前”へ……!




 そして――、




「はぁっ、はふっ、は……、はっ……!」

 ひび割れたコンクリートの壁に背中を預け、ウメは荒く乱れた呼吸を整えた。その足元にはスバルも座り込んでいる。どちらの顔にも憔悴の表情を色濃く浮かんていた。
 東雲市中央を貫く闇雲川、その下流に広がるのは、バブル華やかなりし頃の名残を思わせる再開発地区。建設途中で放棄された廃ビル群の一角に、二人は身を隠していた。

「ばっ……! ば、馬鹿じゃないでしか!?」

 ウメの怒号が廃ビルの壁に反響する。

「蛾媚刺ちゃん相手に正面から立ち向かう(・・・・・・・・・)なんて、一体何考えてやがるんでしか! A.T.始めて一週間ちょっとの初心者の癖に。ウメには度し難いアホさ加減でし!」

 怒りのままに喚き散らすウメに、スバルは気落ちしたような顔で「ごめん」と呟く。

「ウメちゃん。……何で助けてくれたの?」

 スバルの問いに、ウメは一瞬、言葉に詰まった。
 冷静に考えれば、スバルを救う理由などなかった。寧ろスバルは<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>の秘密を脅かす“敵”である、あの場で終わらせて(・・・・・)いた方が賢明だったかもしれない。
「掟」を破ってまで、“仲間”に逆らってまで生かしてやる義理など、ウメには本来、欠片も存在しない筈なのだ。
 だけど仕方がないではないか。気がつけば、身体が勝手に動いてしまっていたのだから。

「……別に。ただあまりのアホさに見てられなかった(・・・・・・・・)だけでし」

 憮然とした表情で答えるウメに、スバルは「そっか」と吐息混じりに声を返した。

 思い出しても呆れる話だった。足を蹴り出し、今まさに“見えない砲弾”を撃ち出そうとする蛾媚刺に、スバルは正面からの突撃を仕掛けたのだ。
 それは“戦闘機人”というスバルの本質、兵器としての本能(・・・・・・・・)だったのかもしれない。自らに迫る圧倒的な脅威を前に、スバルは逃避ではなく迎撃(・・)を選んだのだ。
 だがその選択はあまりに無謀、まさに自殺に等しい暴挙だった。敵の脅威も自らの力量も省みぬ考えなしの特攻。その果てに待つものは、玉砕だけである。
 いけない! ウメは咄嗟に走り出していた。渾身の当て身を蛾媚刺の軸足に叩きつけ、“見えない砲弾”の射線をスバルからずらす。
 そして唖然とするスバルの襟首を掴み、蛾媚刺の追撃を躱しながらこの廃ビル群に逃げ込んだのだ。

「ウメちゃん」

 背中のコンクリート壁を支えに立ち上がりながら、スバルが不意に口を開いた。

「――ありがと」

 恥ずかしそうにそっぽを向きながら続けられたスバルの言葉に、ウメは「うん」と小さく頷く。
 そろそろ蛾媚刺に居場所を嗅ぎつけ(・・・・)られていてもおかしくはない。体力も多少は回復した、移動しよう。ウメがそう口にしようとした、そのとき――、

「見つけたぜ? ガキども」

 低く押し殺したような蛾媚刺の声が、ウメとスバルの耳を打った。
 瞬間、コンクリート壁が轟音とともに砕け散り、まるで1トントラックと正面衝突したかのような衝撃が二人の背中を襲った。
 崩れた天井の破片が雨のように頭上から降り注ぐなか、髑髏面を着けた長髪の男が悠然と姿を現わす。蛾媚刺だ。フードを脱ぎ、足首までのびた長い癖毛を晒している。

「うわっ、もう追いついてきた!?」

 動揺の声を上げるスバルの手首を掴み、ウメは再び蛾媚刺からの逃走を開始した。ガラスの填められていない窓を飛び越え、廃ビルの外へと脱出する。
 ウメは<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>の中で一番戦闘力が低い、蛾媚刺と正面から戦うのは無謀である。このまま逃げ回り、向こうが追跡を諦めるのを待つのが得策だろう。
 蛾媚刺が“走り”を加速させ、ウメとスバルへ肉薄した。接近戦で一気に仕留めるつもりか! ウメは思わず息を呑んだ。
 戦慄に表情を凍らせるウメの傍らから、スバルが手の中のビニール袋を咄嗟に投擲した。蛾媚刺は煩わしそうに片足を蹴り出し、足裏のホイールで飛来するビニール袋を引き裂く。
 瞬間、引き裂かれたビニール袋から何かの液体が噴き出し、蛾媚刺の顔を汚した。ジュースだ。遅れて袋から零れ出た空き缶が、蛾媚刺の額にぶつかりコツリと音を立てる。

「今だよ、ウメちゃん!」

 蛾媚刺が怯んだ一瞬の隙を見逃さず、今度はスバルが逆にウメの手を引いて走り出す。今の内に少しでも遠くへ逃げなければならない。次に追いつかれたら……終わりだ!

「あのガキ……!」

 遠ざかるスバルとウメの背中を忌々しそうに睨み、蛾媚刺は低く呻いた。今の小細工は癇に障った。好みの(ツラ)ではないが、顔の皮(・・・)の一枚でも貰わないと気が済まない。

 ――“角”の玉璽(レガリア)・「無限の空(インフィニティ・アトモスフィア)」発動!

 A.T.によって加速された蹴りが目にもとまらぬスピードで何発も繰り出され、その都度、蹴り足の前輪が急加速・急停止を繰り返す。
 そのブレーキ熱によりホイールが真っ白に光り輝き、不可視の砲弾が撃ち出される。今度は単発ではない、連弾である。
 超々高速で撃ち出された無数の“見えない砲弾”がスバルとウメを追い越し、廃ビルを直撃。建設途中のまま老朽化した建物はその衝撃に耐えられず、轟音とともに倒壊した。

「「――っ!?」」

 進路を塞ぐように崩れ落ちた廃ビルを前に、スバルとウメは愕然と目を見開いた。
 けたたましいブレーキ音を立てながら思わずA.T.を急停止。動きを止めた二人の背後に、蛾媚刺が迫る。
 ウメがスバルを庇うように蛾媚刺の前へ出た。「ウメちゃん!」と悲痛な声を上げるスバルを制し、ウメは蛾媚刺と睨み合う。

「一応訊いておいてやるよ。どういうつもりだ、白梅?」

 腹の内の読めない淡々とした口調で蛾媚刺が尋ねる。白梅、それはウメの本名だった。蛾媚刺の問いに、ウメの返答は無言。
 沈黙を続けるウメに蛾媚刺は「まぁいい」と鼻を鳴らす。その瞬間、髑髏面の奥から覗く蛾媚刺の視線が重さと鋭さを増した。

「お前が何を考えてんのかは知らねぇが……野山野 白梅、「トロパイオンの掟」に従いテメエを粛清する」

 まるで引導を渡すかのような蛾媚刺の科白に、ウメは相変わらず沈黙を貫く。既に覚悟はできていた。あまりにもあっけなく訪れた自らの終わりに、何の感慨も浮かばない。
 一つだけ心残りがあるとすれば、スバルだった。ウメは背中に庇う「友達」のことを思う。自分がスバルにA.T.を与えなければ、こんなことにはならなかった。
 A.T.さえ無ければ、スバルは“こちら側”を知らず、あんな喧嘩をすることもなく、明日も、明後日も、変わらない“向こう側”の毎日がずっと続いていた筈なのに。
 自分のせいだ。ウメの心を後悔と自責感が抉る。自分がスバルにA.T.を渡したから、「友達」と一緒に走りたいなどと思ってしまったから、こんなことになったのだ。
 自分の身勝手な願いがスバルを死なせる、自分の利己的な望みがスバルから空と未来を奪う。スバルを殺したのは……自分だ。

「……ごめん、ごめんでし。スバルちゃん」

 嗚咽を漏らしながら謝罪の言葉を口にするウメに、スバルは困ったように頬を指先で掻きながら口を開いた。

「こんなことになっちゃったけどさ……あたしは結構楽しかったんだよ? ウメちゃんと一緒に走る(・・・・・・・・・・・)の」

 スバルの言葉に、ウメは「はっ」と目を見開いた。そうだ、どうして気がつかなかったのだろう。経緯や理由はどうあれ、自分とスバルは一緒に走っていたではないか。
 形はどうあれ、自分の願いは叶ったのだ。もう思い残すことは何もない。ウメは満足したように微笑し、目を閉じた。
 たとえこの場で命を絶たれたとしても、最後の最期で自分の望みは叶ったのだ。最期に笑って死ねるなら、こんな終わりも悪くはない。ウメはそうやって自分を納得させ――、

「――嫌でし」

 納得できなかった。

「嫌でし、嫌でしっ、嫌でし!」

 まるで駄々をこねる子供のように、ウメは拒絶の言葉を繰り返す。
 最期に走れたから満足? 笑って死ねるなら本望? ふざけるな。こんなものが回数(カウント)に入る筈がないだろうが!
 死にたくない。ウメは胸の中で必死に叫んだ。こんなところで終わりたくない、自分はスバルともっと走りたいのだ。こんな血生臭い逃亡劇ではなく、もっとちゃんとした形で!

 だがウメの思いも虚しく、蹴り出された蛾媚刺の足から不可視の“死神”が摩擦熱の光とともに解き放たれ――、

 ――Protection!!

 その瞬間、ウメは思わず我が目を疑った。壁だ、壁がある。
 円と四角を組み合わせて幾何学文字を並べたような、不可思議な桜色の光の壁が宙に浮かび、蛾媚刺の攻撃からウメとスバルを守ったのだ。

「防御魔法!?」

 スバルが驚愕の表情でそう口にした。魔法? スバルの言葉に、ウメは思わず首を傾げる。
 言われてみれば、目の前に浮かぶこの光の壁はファンタジー系の漫画やアニメに登場する魔方陣のようにも見える。
 しかし……と、ウメは冷めた目でスバルを振り返る。それは例えるなら、身近なイタい一面を目の当たりにしたときの視線に似ている。
 この壁がどんな手品(トリック)の産物かは分からないが、いきなり真顔で「魔法」はないだろう? ウメの顔は、雄弁にそう語っていた。

 光の壁の前に誰かが立っている。女性だった。ウメとスバルに背を向け、右手を前に突き出した体勢で蛾媚刺と壁越しに睨み合っている。
 背丈はリンゴより高くミカンよりは低い。どこかの学校の制服と思しきブラウンのブレザーに身を包み、長い栗色の髪をサイドポニーにまとめている。

「……誰だ、お前?」

 警戒するような蛾媚刺の問いに、女はおもむろに口を開いた。

「高町なのは。通りすがりの魔法少女です」

 このとき、ウメは素直にこう思った――――イタい奴が増えた、と。



 ――To be continued



[11310] Trick:09
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2009/11/15 21:44
「高町なのは。通りすがりの魔法少女です」

 凛とした表情で高らかに名乗りを上げるその少女、高町なのはの登場に、周囲は沈黙に包まれた。
 蛾媚刺は動かない。ウメもまた、突然乱入した「魔法少女」を自称する謎の女を警戒するような目つきで睨んでいる。
 そんな中、スバルは「あ」と声を上げた。この人を知っている、雑誌で見たことがある。タカマチ・ナノハ、時空管理局のエース・オブ・エースだ。

「……エース・オブ・エースの人?」

 思わず尋ねるスバルを、なのはは前方に展開していた防御魔方陣を解呪して振り返った。雑誌の表紙と同じ顔が、スバルを正面からまっすぐ見下ろす。

「こんばんは。スバル・ナカジマちゃん、かな?」

 膝を折り、スバル達と同じ高さに目線を合わせて、なのはは微笑しながら口を開いた。なのはの言葉に、スバルは呆然としながらも「はい」と頷く。
 ミッドチルダの有名人が何故この世界にいるのか、どうして自分の前に、しかもこのタイミングで現れたのか。スバルには分からない。
 色々なことが一度に起こりすぎて、頭の中はただでさえ飽和状態なのだ。これ以上何かを考えるなど、スバルの頭ではできそうになかった。
 ただ、もう二度と見ることはないと諦めていた“魔法”を再び目にしたことで、スバルの心に少しだけ余裕と安心を生んだ。
 自分の世界(ミッドチルダ)に、父や姉や皆の元に帰還(かえ)ることができるかもしれない。そんな希望が生まれた、希望を抱くことを許されたのだ。

 まるで自分達だけの世界に入り込んだかのように、なのはとスバルは無言で見つめ合う。事実、二人の間には共有の理解があり、その意味では“二人の世界”と言ってもよい。
 だが、たとえどれだけ自分達の間で理解(わか)り合っていたとしても、周りから見ればなのはの言動は――、

「……イタいでし」

 ぽつりと紡ぎ出されたウメの呟きが、まるで刃物のようにグサリとなのはの胸に突き刺さる。

「何だこいつ。電波か?」
「厨二病乙でし」

 グサ、グサリ。前後から容赦なく突き刺さる痛々しそうな視線と言葉に、なのはは思わず地面に膝をついた。
 咄嗟に片手をついて杖代わりにし、倒れそうになる身体を辛うじて支える。耐えろ、耐えるんだなのは。折れそうになる心を奮い立たせ、なのははぐっと歯を食いしばった。

 管理局法というものがある。その名の通り、時空管理局によって定められた、管理局管理下の次元世界において遵守されるべき法律である。
 管理局法によると、この世界のような管理外世界では魔法は秘匿されるべきものであり、その存在や技術の漏洩は原則的に禁止されている。
 つまり現地住民の前で魔法を行使するなど以ての外であり、ついいつものノリ(・・・・・・)で防御魔法を発動したなのはの行動は当然ながら違法行為である。
 そのこと自体については、なのはは既に開き直っていた。ヤってしまったものは仕方がない、後で潔く始末書を書こう。
 だが自分がお叱りを受けるのは確定として、魔法の存在だけは何とか誤魔化し通さなければならない。そう……どんな手段を使ってでも(・・・・・・・・・・・)
 余裕の表情の裏で(テンパ)るなのはが考え出した策は、逆に自分が魔導師であることを堂々と晒す(・・・・・)ことだった。
 人間の頭とは不思議なもので、たとえ1パーセントでも矛盾があれば地の果てまで追及する一方、逆に胸を張ってその存在をアピールされると途端に胡散臭く感じてしまう。
 目の前にどれだけ証拠を並べられても、最終的に信じなければそれらは全て“なかったこと”に等しいのである。
 そんな詭弁とも言えるなのはの苦肉の策は見事に功を奏し、今やウメや蛾媚刺がなのはを見る目は完全に「イタイい人」扱いである。
 全てわたしの計算通り! 自棄になったように肩を震わせながら嗤うなのはの姿は、やはり見ていて痛々しかった。

「あのっ、なのはさん!」

 スバルが見かねたように口を開いた。慰めてくれるのだろうか? 期待の眼差しを向けるなのはに、スバルは言い辛そうに視線を逸らしながらこう続ける。

「あたしも、その、流石にその歳で魔法少女(・・)はちょっと……」
「……………………」

 最後の敵は身内(?)にいた。しかも変化球である。申し訳なさそうな顔で容赦なく放たれたトドメの科白に、ウメと蛾媚刺の視線が同情に変わる。
 こうして、不屈のエース・オブ・エースと謳われるなのはの心は遂に折れた。ライフポイントは尽き、物悲しげなファンファーレとともにエンドロールが流れる。

 なのは の めのまえ は まっくら に なった……。
 ――GAME OVER




「――で、何事もなかったように話を戻しますが」

 コホンとわざとらしく咳払いし、なのはは立ち上がりながら蛾媚刺を振り返った。

「一つ確認します。詳しい事情は存じませんが、この状況から、貴方はいたいけな子供達を襲う不審者だと判断していいですか?」

 なのはの問いに、蛾媚刺は無言。しかし髑髏面の下から覗く二つの目が、「不審者はお前だ」と雄弁に語っていた。
 蛾媚刺の鬱陶しそうな視線を無視して、なのはは「沈黙は肯定と判断します」と言葉を続ける。

「もう一つ。わたしはちょっとこの娘にお話があるんですが、この場は見逃してあげますから大人しくお引き取り願えませんか?」

 背中のスバルを親指で指しながらそう告げるなのはに、髑髏面から露出した蛾媚刺の口元が歪み――――瞬間、蛾媚刺の右足が残像とともに閃いた。
 直後、突風がなのはの耳元を轟音とともに過ぎ去り、栗色の塊が宙を舞う。見ると、サイドポニーに纏められたなのはの髪が、半ばからばっさりと斬り落とされていた。

「次は首を狙う」

 殺気を押し殺したような蛾媚刺の声は、いつの間に移動したのか、なのはの背中から聞こえてきた。

「テメエの科白、そっくりそのまま返すぜ。女、見逃してやるからさっさと失せろ」

 倒壊した廃ビル、その瓦礫の上から悠然となのは達を見下ろし、蛾媚刺はそう言いながら嗤笑を浮かべる。
 なのははスバル達を庇うように背中へ押し退け、頭上の蛾媚刺を睨みつける。あくまで退くつもりはないらしい。蛾媚刺の口元が不愉快そうに歪む。
 瓦礫を蹴り、蛾媚刺はなのはの眼前へと降り立った。至近距離で睨み合う両者、どちらも目を逸らさない。壮絶なガンのくれ合いである。否――――戦いはもう、始まっていた。
 目にもとまらぬスピードで蛾媚刺が繰り出す拳の乱打を、なのは平然とした顔では逸らし、捌き、いなしていく。時折指先が髪や頬を掠めるが、決定打には至らない。
 身体強化魔法。その名の通り、自身の身体能力を一時的に上昇させる魔法である。なのはの戦闘スタイルは遠距離射撃魔法が主体だが、この程度の“小細工”ならばできる。
 近接格闘スキルも、管理局で地獄のような訓練を受けてきたのだ。多少喧嘩慣れしただけの素人(・・・・・・・・・・・・・)に後れを取りはしない。
 雨の如く放たれる攻撃の手を掻い潜り、なのはは拳を垂直に突き上げた。繰り出されたアッパーカットが蛾媚刺の顎を打ち抜く。一発は一発、切られた髪の報復はこれで済んだ。

「ちぃっ!」

 蛾媚刺は苛立たしげに舌打ちしながら回し蹴りを繰り出した。爪先の髑髏は光らない、ただの蹴りである
 鳩尾を狙い放たれた蛾媚刺を、なのははバックステップを踏んで後方へ避ける。瞬間、完全に伸びきった筈の蛾媚刺の足が、まるで喰らいつくかのように更に前へと突き出た。
 足が伸びた!? 瞠目するなのはの鳩尾に、蛾媚刺の爪先が狙い澄ましたように鋭く迫る。なのはの両足は未だ地面に届いていない、避けられない――――普通なら(・・・・)

 ――魔法・Flash Move(フラッシュ・ムーブ)!!

 刹那、なのはの身体が突如として消え去り、蛾媚刺の足は虚空を蹴った。消えた!? 瞠目する蛾媚刺の背後から、とん、と軽やかな着地音が響く。なのはだった。

「野郎ぉ!」

 逆上したような怒号とともに、蛾媚刺が再び蹴りを放つ。先刻と同じ、避ければ足の長さ以上に伸びて(・・・・・・・・・・)襲ってくる、あの不可思議な蹴りである。
 怒涛の如く繰り出される蹴りの嵐から高速移動魔法(フラッシュ・ムーブ)で逃げ回りながら、なのはは目を凝らして蛾媚刺の動きを観察する。敵の奇妙な攻撃の秘密を探り――――見つけた。
 気がついてみれば単純なことであった。攻撃を避けられた瞬間、蛾媚刺は目にもとまらぬスピードで一歩前進し、もう一度蹴りを放っていたのだ。
 言葉にすれば簡単だが、それを実際にやってのけるのは至難と言える。それだけ蛾媚刺が常識離れした身体能力の持ち主ということでもある。

「……信じられないでし。あの人、A.T.もないのに蛾媚刺ちゃんと互角の“走り”でし」

 蛾媚刺となのはの熾烈な攻防を傍観しながら、ウメが呆然とした声を漏らす。
 蛾媚刺は<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>の中でも古参であり、「トロパイオンの塔」の頂に君臨する「王」の一人である。スピード系のライダーではないとはいえ、その“走り”は尋常ではない。
 その蛾媚刺と、あの女はあろうことかA.T.もなしに渡り合っているのだ。言動はイタいがその実力は紛れもなく本物、寧ろ人間であるかどうかすら疑わしい。
 驚愕の表情で二人の戦いに魅入るウメの呟きに、しかしそのとき、傍のスバルが「違うよ」と首を振った。

走ってる(・・・・)んじゃない、飛んでる(・・・・)んだよ」

 そう言ってスバルはなのはの足元を指差した。何の変哲もないスニーカーを履くなのはの足首から、桜色の羽のようなものが生えている。あんなもの、最初からあっただろうか?
 そのとき、ウメは「あれ?」と首を傾げた。あの人の足、地面に触れていない? ウメの疑問に答えるように、スバルが再び口を開く。

「飛行魔法。地面すれすれの超々低空を飛んで、あの蛾媚刺って奴の攻撃を躱してるんだ」

 魔法。スバルの口から再び出たその言葉に、ウメは思わず眉をひそめた。まだそんなことを言っているのか。そんなものが本当に存在すると、“本気の本気”で思っているのか。

「スバルちゃんは本当に信じてるんでしか? その……魔法なんて」

 呆れを通り越して困惑したような顔で問うウメに、スバルはどこか淋しげな微笑を浮かべて首を振る。

「魔法はあるよ。ただ、秘密にしてるだけ」

 その一点の曇りも無い、自信に満ちたスバルの返答に、ウメは思わず反論の言葉を呑み込んだ。沈黙するウメに、スバルは「それに」と言葉を続ける。

「互角なんかじゃないよ。だってなのはさん、全然本気出してない(・・・・・・・・・)もん」

 そう、スバルは気づいていた。なのはは全く“本気”など見せていない。魔導師の象徴である“魔法の杖”、「デバイス」を使わないまま、なのはは戦っているのだ。
 デバイスを使わなくとも魔法の行使そのものは可能である。しかし術式の構成や複雑な演算処理を身体一つで行わなければならず、使える魔法は少なく、その効率も最悪である。
 つまりなのはは今、自身が行使し得る手札(カード)の殆どを封印された状態で蛾媚刺とやり合っているということになる。

「どうしてそんな不利なことしてるでし?」
「だってデバイス振り回してガンガン攻撃魔法とか撃っちゃったりしたら、魔法のことがウメちゃん達にバレちゃうじゃん?」

 当然とも言えるウメの疑問に、スバルは何でもないことのようにそう答えた。

「管理局法とか何とか、その辺の難しいルールがあって、魔法の存在は秘密にしなきゃいけないの。だからなのはさんも、バレにくい、地味な魔法ばっか使ってるんじゃないかな」

 得意そうな口ぶりでそう語るスバルに、ウメは「ふーん」と生返事を返す。

「でもスバルちゃん」

 どこか冷めたような視線を送りながら口を開くウメに、スバルは「ん?」と耳を傾ける。

「あの人がどれだけ頑張って隠そうとしても、スバルちゃんがそうやってベラベラ喋ってたら意味ないんじゃないでしか?」

 ウメの指摘に、スバルの表情が凍りついた。

「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………ああっ!?」

 しまった、と愕然とした表情を浮かべて叫ぶスバルに、ウメは「アホでし」と呆れたように息を吐く。

「おのれ謀ったなウメちゃん! 何という狡猾な誘導尋問!!」
「人聞きの悪いこと言うなでし!?」

 まるで漫才じみたグダグダな会話をスバルとウメが繰り広げる一方、膠着状態が続くなのはと蛾媚刺の戦いに新たな動きが見られた。

「うぜぇっ!」

 業を煮やしたように蛾媚刺が怒号を上げ、なのはの顔面を狙い渾身の上段回し蹴りを放った。足裏のホイールが唸りを上げて猛回転し、爪先の髑髏が不気味に光る。
 あの“見えない砲弾”が来る! スバルは反射的に口を開いていた。マズい、あの技だけは駄目だ!

「なのはさん! それ(・・)……危ないっ!!」

 要領を得ないスバルの叫びに、しかし何かを感じ取ったのか、なのはは顔面を庇うように咄嗟に掌をかざす。
 瞬間、蛾媚刺の足先が顔の前を覆う掌に突き刺さり、零距離から撃ち出された“見えない砲弾”がなのはを直撃した。轟音が轟き、なのはの身体が後方へ吹き飛ばされる。

「なのはさん!?」

 スバルの絶叫がその場に響く。その声に反応したように、なのはは靴底をガリガリとすり減らしながら二本の足で地面を踏み締め、大きくのけ反った上体を起こした。
 顔の前にかざされたままの掌の上で、小さな桜色の魔方陣が円盤のようにくるくると回っている。防御魔法が間に合ったのだ。

「テメエ、マジで何者だ……?」

 自らの“見えない砲弾(インフィニティ・アトモスフィア)”を二度も防がれ、蛾媚刺は屈辱に歯噛みしながらなのはを睨んだ。こいつは何だ、一体どんな手品(トリック)で俺の“角”を防いでいる?
 蛾媚刺が再び蹴りを繰り出し、“真空の砲弾”を連続して撃ち出す。瞬間、空気が破裂するような乾いた音が無数に響き、虚空に桜色の粒子が霞のように広がった。
 なのはは無傷である。あの不可思議な障壁(バリア)も展開していない。この女は何らかの手段で“角”を撃ち落とした(・・・・・・)のだと、蛾媚刺は直感した。

「軌道が直線的な分、迎撃もたやすいの。“蹴り出し”の角度とタイミングさえ見切れば。弾道を先読みするのは簡単です」

 蛾媚刺の推測を裏づけるように、なのはが平然とそう口にする。悪魔(ばけもの)め! 蛾媚刺は胸中で毒吐いた。
 警戒を深める蛾媚刺の挙動に気を配りながら、なのはは分割した思考の一部で敵の攻撃のを分析する。何となくだが、“見えない砲弾”の正体が掴めてきた。

「大気を突ら抜く、真空の砲弾。蹴りで高速回転させたホイールを急停止させたときに生まれる制動エネルギーを撃ち出してるのかな?」

 A.T.ってそんなこともできるんだ、と感心したように呟くなのはに、蛾媚刺の気配が変った。どうやら図星らしい。
 たとえば時速何百kmものスピードで走っている車がフルブレーキングを行ったとする。
 そのとき、ブレーキには何百トンもの負荷がかかり、その一部は熱エネルギーに変換。二千度もの高温がディスクを真っ白に光り輝かせる。
 A.T.も同じだ。ホイールの急回転・急停止の摩擦によるブレーキ熱、それが爪先の髑髏を光らせている。当然、蛾媚刺の足には途轍もない負荷がかかっているだろう。
 その膨大なエネルギーをA.T.内で圧縮し、蛾媚刺の尋常でない脚力によって撃ち出されたものが、“見えない砲弾”、彼が“角”と呼ぶ「無限の空(インフィニティ・アトモスフィア)」の正体である。

「インフィニティ・アトモスフィア?」

 なのはと蛾媚刺の睨み合いを傍観しながら、淡々とした調子で解説するウメに、スバルは怪訝そうな顔で首を傾げる。知らない言葉だった。

「普通のライダーにはあんなことできないでし。あれは玉璽(レガリア)の力、「王」にのみ許された最終奥義。それが「無限の空(インフィニティ・アトモスフィア)」でし」
「レガリア? 王?」

 更なる知らない言葉の連発に、スバルの思考回路はパンク寸前だった。今にも頭から蒸気でも噴き出しそうな様子のスバルに一瞥を向け、ウメは歌うように語り始める。

 かつて八本の「道」と八人の「王」、そして「王」の証である八個の玉璽(レガリア)は、七つの階層に分かれたパーツ・ウォウが形づくる「トロパイオンの塔」の頂にあった。
「王」の道を象徴し、またその力を飛躍的に高める、世界に一つしかな特別なパーツ。それが玉璽である。
 やがて時とともに「王」も玉璽も飛散したが、全ては未だ謎とともに「塔」の中に隠され、「王」の帰還を待ち続けている。
 そして「塔」の頂に再び八本の「道」と八人の「王」が集うとき、全てを支配する伝説の「空の王」が降臨するという。

「ライダーに伝わる伝説でし。でも伝説というのは……必ず何らかの“真実”を孕んで生まれるものでし」

 語り終え、疲れたように瞼を伏せるウメに、スバルは小さく吐息を零した。話が大きすぎる、自分のポンコツ頭では理解できそうにない。

「……でもいいの? ウメちゃん。そんな如何にも秘密っぽいことあたしなんかに話しちゃって」

「掟」とやらはどうした、と視線で問うスバルに、ウメは憮然と鼻を鳴らす。

「この程度ならちょっとした事情通なら誰でも知ってるでし。ウメはスバルちゃんほど迂闊じゃないでしよ」

 皮肉めいたウメの科白に、スバルは「う」と呻き声を漏らす。何も言い返せない自分が恨めしかった。

 それにしても、とスバルは蛾媚刺に視線を向ける。別に言い負かされて話を逸らそうとした訳ではない。
 ウメの話は半分以上理解できなかったが、あのふざけた「か○はめ波」もどきは、蛾媚刺のA.T.にその秘密があることだけは分かった。
 ならばあのA.T.さえ壊してしてしまえば、あいつには打つ手がなくなるのではないか? そう思いつくや、スバルの行動は迅速(はや)かった。
 地面を蹴り、ホイールを猛回転させて急発進。未だなのはと睨み合いを続ける蛾媚刺に横合いから突進する。突然のことで、ウメの制止の声は間に合わなかった。
 それまで視野の外にいた雑魚(スバル)のの奇襲。強敵(なのは)との一騎打ちに全神経を集中していたために、蛾媚刺の反応が一瞬遅れる――――が、

「……うぜぇ」

 鬱陶しそうな呟きとともに、蛾媚刺は右足を横薙ぎに振り抜いた。玉璽を使うまでもない。カウンターで放たれた回し蹴りの直撃を受け、スバルの身体が地面に倒れ伏す。
 苦痛に呻きながら足元に転がるスバルを、蛾媚刺が髑髏面越しに冷たく見下ろす。そう言えば元々の目標(ターゲット)はこいつだった。蛾媚刺の口元が愉悦に歪む。
「角の王」蛾媚刺には、ある猟奇的な趣味があった。それは敵の顔の皮(・・・)の収集。高速回転させたホイールをカミソリのように押し当て、顔面の皮膚を剥ぎ()るのだ。

「好みのツラじゃねぇが、貰っといてやるよ」

 まるでご馳走を前にしたかのように舌舐めずりをしながら、蛾媚刺はそう言って右足を首斬り鎌のようにスバルの横面へ振り下ろす。
 瞬間、スバルが動いた。身体を捻り、顔面へ迫る蛾媚刺のA.T.を右手で受け止める。凶器と化したホイールが掌の皮膚を食い破り、噴き出た血が爪先の髑髏を赤く染める。
 激痛に顔を歪めながら、スバルは猛回転するホイールを手の中に握り込んだ。痛い、熱い。摩擦で皮膚が焼ける感触を認識しながら、スバルは指先に力を込める。
 側面から押さえ込まれたホイールがだんだんと回転速度を落とし、そして遂に動きを止める。ホイール内部で空回りするモーター音を聞きながら、蛾媚刺は驚愕に目を見開いた。

「貰うのは……あたしの方だ(・・・・・・)!」

 スバルはそう言って凄絶に嗤った。金色(・・)に煌めくスバルの双眸が、蛾媚刺を足元から見上げる。

 ――IS発動、振動破砕!

 瞬間、まるで足裏から太い杭でも打ち込まれたかのような激痛と衝撃が蛾媚刺の足を貫いた。この感覚は、恐らく骨にヒビが入っているだろう。
 ホイールに亀裂が入り、爪先を飾る髑髏の装飾が幾つか零れ落ちる。玉璽が! 髑髏面の下で、蛾媚刺の顔に鬼相が走った。

「ちぇ、失敗しちゃった」

 蛾媚刺の右足を頭上から退かし、地面からゆっくりと起き上がりながら、スバルは残念そうに舌打ちした。力加減を誤った、もっと完膚なきまでに叩き壊すつもりだったのに(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
 先天固有技能(インヒューレント・スキル)、略してIS。人間と機械の融合体(ハイブリッド)である「生きる兵器」、戦闘機人に搭載された特殊能力である。
 スバルのISは「振動破砕」、手足の末端部から振動波を放出する能力だった。撃ち出された振動波は接触する目標内部で共振現象を引き起こし、対象を粉砕する。

「このクソがぁ!!」

 蛾媚刺が激昂したように怒号を上げ、スバルを力任せに蹴り飛ばした。もう容赦はしない。ツラの皮など関係ない、このガキは跡形も無く消し飛ばしてやる!
 左足のホイールが唸りを上げて猛回転し、ホイール熱で爪先の髑髏が不気味に光る。憎悪の眼でスバルを睨みつけ、蛾媚刺が“角”を撃ち放とうとした、そのとき――――、

 ――デバイス起動(レイジングハート セットアップ)! 魔法・Accel Shooter(アクセル・シューター)!!

 桜色の閃光が闇を貫き、蛾媚刺の足元に轟音とともに“着弾”した。アスファルトを粉砕し、まるで小さなクレーターのように地面を抉る。

「今のは威嚇です。次は当てます」

 宵闇に響く凛とした声が、蛾媚刺の神経を逆撫でする。なのはだ。いつの間にかその手には一本の鋼鉄の杖が握られ、まるで銃を構えるように先端を蛾媚刺へと向けている。
 そのとき、ブチ! という音が蛾媚刺から響いた。少なくともスバルの耳には確かに聞こえた。
 それはあまりの憤怒と殺意に食いしばりすぎた歯が折れた音かもしれないし、堪忍袋の緒とやらが切れた音かもしれない。

「ふ、ざ、け、ん、じゃ! ねぇぞ! テメエらぁあああああああああああああああっ!!」

 蛾媚刺の咆哮が大気を揺るがし、黒いバッタのような技影(シャドウ)が闇の中にはっきりと浮かび上がる。

 そのとき――――、

「そこまでだ。全員動くな」

 まるで“石”のように硬い声が、夜の戦場に響き渡った。



 ――To be continued



[11310] Trick:10
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2009/10/30 00:37
 その瞬間、まるで全てが“石”になったかのようにスバルは感じた。
 カツリ、カツリと響く靴音。一面を包み込む暗闇の奥から、まるで幽霊のように白い影が浮かび上がる。
 白い男だった。まるで御伽噺の中の魔術師のような純白のローブに身を包み、白いマフラーを風になびかせた白髪の青年である。
 しかし何よりスバルを驚かせたのは、その男の顔だった。見覚えのある十字架紋様が浮かぶ二つの瞳。それに彼の面立ちは、まるで――、

「……シムカさん?」

 スバルは思わずその名を呼んだ。しかし白い男はスバルの呟きに一瞥も返すことなく、一触即発な空気で対峙するなのはと蛾媚刺へ歩を進めながら口を開く。

「そこまでだ。全員動くな」

 厳かに響き渡るのは、まるで“石”のように硬く冷たい声。中性的で、シムカの声によく似ていた。震える声で「キリク」と口にしたのは、果たしてウメか、蛾媚刺か。
 なのはも、蛾媚刺も微動だにしない。スバルとウメも同様である。動かない? 否、動けないのだ。まるで金縛りに掛けられたように身体の自由が利かない。
 キリクと呼ばれた男の革靴側面に装着されたパーツ、まるで潰れた花のつぼみのような形のホイールが脈打つように発光している。
 それこそが金縛りの正体――「石の王」キリクを象徴する八個の玉璽(レガリア)の一つ、“石の玉璽”の能力(ちから)だった。

「……どういうつもりだ? キリクさん」

 憤りを押し殺した声で問う蛾媚刺に、キリクは無言で一瞥を向ける。その視線は氷のように冷たく、刃のように鋭い。思わず身震いする蛾媚刺を睨み、キリクが口を開いた。

「それは私の科白だ、蛾媚刺。今回の独断専行(スタンドプレー)はあまりに度が過ぎる。「塔」の守護者としての自覚と連帯意識の欠如……20点減点(マイナス)だ」

 淡々とした口調で紡がれるキリクの小言に、蛾媚刺は舌打ちとともに視線を逸らした。多少なりとも自覚があるのか、それとも単純にキリクを恐れている(・・・・・・・・・)のか。
“石の玉璽”の発光が鎮まり、スバル達の身体に自由が戻る。しかしスバルは動こうとは思えなかった。生き物としての本能が、キリクとの絶対的な力の差を伝えているのだ。
 キリクは蛾媚刺に背を向け、今度はウメへと視線を移す。ウメの顔から血の気が引いた。震える声で「キリクっち」と呟くウメの前へ、キリクは靴音を響かせながら歩み寄る、

「蛾媚刺と同じく極めて軽率な独断専行(スタンドプレー)、20点減点(マイナス)。状況把握能力と判断力の著しい欠如、20点減点(マイナス)。更に反逆とも受け取れる数々の行為、60点減点(マイナス)。結果、お前の採点は0点だ」

 淡々と告げられるキリクの言葉、それは事実上の死刑宣告に等しかった。ウメの表情が絶望に染まる。
 キリクには他人の行動に点数をつける癖がある。あらかじめ100点の持ち点を与え、それがゼロになったとき……これは敢えて言うまでもない。
 息を呑むウメの頬を、瞬間、キリクの平手がしたたかに打った。パン、と乾いた音が虚空に響き、よろめいたウメが地面に尻餅をつく。

「……今回は特例だ。お前の暴走はこれで手打ちとする」

 やはり淡々とした声でそう口にするキリクを、ウメはぶたれた頬を押さえながら驚愕の表情で見上げた。一瞬、キリクの言葉の意味が理解できなかった。

「おいおい、随分と甘いんだな? キリクさんよ」

 お前らしくもない、と非難するように口を挟む蛾媚刺に、キリクは「同感だ」と言いながら憮然と鼻を鳴らす。
 蛾媚刺は思わず「あ?」と疑問の声を上げた。おかしい、会話が繋がっていない。髑髏面の奥から覗く蛾媚刺の怪訝そうな視線に、キリクは自嘲するように口元を歪める。

「私の一存ではない。“眠りの森の女王(クレイジー・アップル)”の決定だ」

 キリクの言葉に、蛾媚刺は納得したように「ああ」と頷く。なるほど、あの“甘ちゃん”らしい命令(わがまま)だった。
 蛾媚刺もキリクも口を閉ざし、二人の会話に一応の区切りがついた。そのタイミングを待っていたかのように、そのとき、新たな人影がスバル達の前に現れた。
 グレーのジャケットとジーンズに身を包む少女、リンゴだった。しかし眼鏡は外し、代わりにゴーグルを帽子の上から装着した今の彼女は、普段とはまるで別人だった。

「キリクさんが話した通り、今回の一件は不問にします。ただし、今後このようなことを二度と起こさぬように肝に銘じておいて下さい」

 二度目はない。と、まるで普段とは別人のような抑揚のない声でウメにそう釘を刺し、リンゴはスバルへと視線を向ける。冷たく研ぎ澄まされた、まるで刃物のような瞳だった。

「まだ貴女の答えを聞いてなかったね? スバルちゃん」

 声だけは優しげに、しかし目元も口元も全く笑っていない、まるで能面のような表情でリンゴがスバルに話しかけた。

「警告します。今夜、貴女が見たこと、聞いたこと、知ってしまったことの全てを忘れ、これ以上深入りしないことを誓うのであれば、わたし達も貴女を傷つけたりはしません」

 一言一句を噛みしめるように、リンゴはゆっくりとした口調で言葉を紡ぐ。それは最後の警告であり、同時に誘惑のようにもスバルは感じた。
 自分が目を瞑り、耳を塞ぎ、自らの口を閉ざして何もかもをなかったこと(・・・・・・)にしてしまえば、明日からはまたいつも通り(・・・・・)の日常が続く。リンゴはそう言っているのだ。
 しかし……それでいいのか? スバルは自問する。そんな脅しに屈して手に入れる平穏に一体何の意味があるのか。そんなものはただリンゴ達が装ってくれている(・・・・・・・・)だけだろうに。
 それに何より、訳も解らぬまま襲われた挙句、その全てを赦せ、水に流せというのは都合がよすぎる。理解や納得以前に腹の虫が治まらない、これは意地の問題だった。

「あたしは――」

 苦渋の表情を浮かべるスバルの科白を遮るように、そのとき、リンゴが「しかし」と再び口を開いた。

「警告に従わないのであれば、貴女達――そちらの女性も――を<眠りの森(わたしたち)>の存在を脅かす“敵”と判断し、我々の全戦力を以てこの場で始末します」

 リンゴがそう言い終わった瞬間、廃ビルの陰からスバル達を取り囲むように四つの人影が新たに姿を現した。<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>、その中にはミカンの姿もある。
 スバルは思わず身震いした。完全に逃げ場を失くしたからではない。敵意。蛾媚刺と同等かそれ以上の敵意が、周囲から自分に突きつけられていることに気づいたのだ。
 今やリンゴも、ウメも、自分を“敵”として見ているのだと、スバルは改めて思い知らされた。そして癪なことに、自分やなのはの生死は完全にリンゴの手中にあることも。

「スバルちゃん」

 硬い表情で近寄ろうとするなのはを、スバルは咄嗟に「来ないで!」と強い口調で拒絶した。
 心配してくれるのは嬉しいが、これは自分達の――暴風族(・・・)の問題なのだ。横槍は入れて欲しくなかった。

「<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>って何?」

 リンゴの顔を見返し、スバルは尋ねた。それはリンゴの問いへの返答でもある。素直に警告に従い、真実に背を向けたのだとすれば、これは意味のない問いなのだから。
 スバルの問いにリンゴは答えず、ただ「交渉は決裂ですね」と吐息混じりに呟く。
 もう少し利口な子だと思っていたのに。失望に満ちたリンゴの表情からは、そんな心の副音声が容易に読み取れる。それもまたスバルの癪に障った。

「もう一度だけ警告します。全てを忘れて、貴女のいるべき場所へ帰りなさい(副音声:言うこと聞きなさいよ、このクソガキ)」
「あたしはあたしがいたい場所にいます(副音声:うるさい暴力魔、偉そうに恰好つけてんじゃないわよ)」

 慈母のような笑顔で威圧するリンゴに、スバルも無邪気な笑顔で毒を吐く。どちらも意固地になっていた。
 スバルは子供らしい反骨精神から、リンゴは<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>総長としての責任感から、互いに引くに引かれぬまま時間だけが過ぎていく。重苦しい沈黙が続いた。

「……いい加減にしろ」

 埒の明かない二人の睨み合いに業を煮やしたのか、キリクが苛立ったような表情で口を挟んだ。

「こんな取るに足らない小物のために、どれだけ時間を浪費するつもりだ? 我々(チーム)はお前の玩具(おもちゃ)ではない」

 キリクの諫言に、リンゴはばつの悪そうな表情で俯く。己の未熟をこれでもかと思い知らされた気分だった。
 キリクは息を吐き、他の<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>メンバーを見渡しながら「撤退だ」と口にした。総長(リンゴ)は未だ沈黙している、誰かがこの場を収めなければならなかった。

「撤退ぃ? おいおいキリク、こいつはどうするつもりなんだよ」
「警告はした。その返答を聞く必要性はない」

 スバルを指差しながら問うミカンに、キリクの返答は簡潔だった。その無愛想な態度と不十分な説明にミカンが不服そうな視線で睨むが、キリクは無視したように踵を返す。
 用は済んだとばかりにスバルから外れたキリクの視線が、そのとき、不意になのはの前でぴたりと止まった。眼十輝(トゥインクル・アイ)の浮かぶ双眸が細められ、なのはの一点を凝視する。

「……デバイス(・・・・)ミッドチルダの魔導師か(・・・・・・・・・・・)
「え!?」

 独り言のようなキリクの呟きに、スバルが瞠目したように声を上げた。それはなのはも同じだった。声こそ出さなかったが、その顔には驚愕の表情がありありと浮かんでいる。
 デバイス、ミッドチルダ、そして魔導師。どれも“この世界”の人間が知る筈のない言葉である。一体どうして……?
 動揺するなのはを剣呑な目つきで睨み、キリクは「去れ」と言い放った。“石”のように硬いその声は殺気を孕み、キリクが“本気”でなのはを敵視していることが窺える。

「ここは我々の世界だ。異世界の人間がこの世界の“空”を荒らすことは私が赦さない」

 次に会ったときは容赦しない。棘のある口調でそう言い捨て、キリクはローブの裾をマントのように翻した。革靴の踵がスライドし、収納されていたホイールが露出する。

「待って!」

 用は済んだとばかりに踵を返すキリクの背中に、なのはが咄嗟に呼びかけた。スバルを襲った理由、魔法や異世界のことを知る理由、訊きたいことはたくさんある。
 しかしなのはの叫びも虚しく、キリクの両足に装着された“石の玉璽”が再び発光。足元から巻き上げられた砂塵がなのはの視界を遮った。
 煙幕代わりの砂嵐が去ったとき、その場には既に、キリクも、リンゴやウメ達の姿もなかった。

「ウメちゃん……」

 スバルが呆然とした顔で呟いた。せっかくウメと仲直りできそうだったのに、あと一歩のところで何もかもが台無しにされたような気分だった。

「スバルちゃん」

 泣きそうな表情で佇むスバルに、なのはが背後から声をかけた。なのはを振り返り、スバルは思わず息を呑んだ。管理局のエースが自分の前に現れた意味に気づいたのだ。

「どうして、なのはさんがこの世界に……?」

 半ば答えを確信しながら、スバルは尋ねた。高町なのは(エース・オブ・エース)が何の理由もなく管理外世界に来る筈がない。実は彼女がこの世界の人間だった、などという偶然もあり得ないだろう。

「ああ、わたし実はこの世界の出身なの。もう卒業しちゃったけど、ちょっと前まで学校にも通ってたんだよ?」
「…………そう、なんですか?」

 どこか気恥ずかしそうな表情で答えるなのはに、スバルは顔を引き攣らせた。この世界にあり得ないことなどあり得ない(・・・・・・・・・・・・・・)ということを知った瞬間だった。
 そのとき、不意になのはの表情が変わった。それまでとは打って変わったような真剣な目つきでスバルを見下ろし、なのはは口を開く。

「スバルちゃん、わたしは貴女を迎えにきたの。時空管理局は貴女を今すぐにでも元の世界へ送還する用意があります」

 なのはの言葉に、スバルは思わず溜息を零した。あるべき世界(ミッドチルダ)帰還(かえ)る時がきたのだ。だがそれは同時に、ウメやイッキ達との生活の終焉(おわり)も意味していた。
 その事実に気づいたとき、スバルの脳裏を最初によぎった感情は。元の世界へ帰れることへの安堵でも家族に会える喜びでもなく――――落胆だった。
 管理外世界への渡航や滞在は管理局法で厳しく規制されている。もしも今、なのはの手を取ってしまえば、二度とウメ達に会うことはできない。
 自分はどうしようもない薄情者だ、ずっと一緒に暮らしてきた家族よりも会ったばかりの他人を選ぶなんて。スバルは自己嫌悪に顔を歪めた。

 なのはは無言でスバルの返答を待っている。その大人びた表情もスバルの癇に障った。行き場のない怒りがスバルの胸中で膨らむ。
 どうしてもっと早く見つけてくれなかったのだろう。そうすれば、自分は潔くウメ達の世界から立ち去れたのに。
 どうしてもっと遅く見つけてくれなかったのだろう。そうすれば、自分は迷いなく家族への未練を断ち切れたのに。
 どちらかを選ぶにはあまりにも中途半端で、それ故にどちらを選んでも自分は切り捨てる痛みから逃げられない。
 或いはなのはが有無を言わさぬ強硬手段に訴えてくれたならば、スバルも幾分か諦めがついたことだろう。
 しかし彼女は何も言わない。ただ選択肢を提示するだけで、最後の判断はスバル自身に委ねているのだ。その残酷な“優しさ”にもスバルは憤りを感じずにはいられなかった。
 そもそもこの人さえ現れなければ、自分は何も考えずにこの世界で生きていられたのに。そしてもしかすれば、ウメ達と新しい“家族”になる未来を選べたかもしれないのに。
 それは子供じみた理不尽な怒り(わがまま)と言えるだろう。スバル自身もそのようなことは十二分に理解していた。だがそれでも、スバルはなのはを恨まずにはいられなかった。

「あたしは……!」
「とは言っても、いきなりそんなこと言われてもスバルちゃんも困っちゃうよね?」

 苦渋の表情で口を開いたスバルの科白を遮るように、そのとき、なのはが再び言葉を紡いだ。
 まるで不意討ちのようななのはの突然の言葉に、スバルは「え」と狼狽の声を漏らす。動揺するスバルに小さく笑みを漏らし、なのはは言葉を続けた。

「だから――」






「だから間違ってるっつってんだろ!? 小学生かよテメエら!!」

 閑散とした校庭を校舎の屋上から見下ろし、イッキは怒号を飛ばした。その足元では咢がすやすやと寝息を立てている。
 この日から東雲東中学校は春休みに入り、暴風族(チーム)<小烏丸>の本格的な強化練習が始まろうとしていた。
 校庭にはカズ達<小烏丸>メンバーの手により、春休みを祝う喜びの叫びがグラウンドの一面に刻まれている。『 ワ ー イ 春 体 み だ 』と。間違っている。線が一本多い。

 連休に浮かれるイッキ達を横目で見遣り、スバルは重い溜息を吐いた。彼らの能天気さが今はどうしようもなく恨めしかった。
 <眠りの森(スリーピング・フォレスト)>との遭遇、そして高町なのはとの邂逅からこの日で三日が経つ。激動の一夜を越え、スバルの周囲は一応の平穏を取り戻していた。
 リンゴもミカンも、スバルにはそれまでと同様に接している。まるで何事もなかったかのような二人の姿に、あの夜の出来事が全て嘘だったのではないかとすら思えてしまう。
 ウメとの関係も相変わらずだった。話をするきっかけが見つからず、顔を合わせるたびに思わず互いに目を逸らしてしまう。寧ろ以前よりも関係が悪化したかもしれない。

「はぁ……」

 スバルは再び嘆息を零した。世界はどうしてこんなにも「こんな筈じゃなかった」ことばかりなのだろう、現実の不条理さに溜息しか出ない。

「何だよ。スバルの奴、元気ねぇなぁ」
「アレだよ、いきなりオニギリん()のバイト解雇(クビ)になったからじゃね?」
「不況の波がこんなところまで……」
「非正規雇用者の哀しい実態だね」

 陰鬱な表情で俯くスバルを遠巻きに眺めながら、イッキ達がこそこそと囁き合う。

「……聞こえてるよ、アンタ達?」

 好き勝手にのたなうイッキ達を半眼で睨み、スバルは唸った。IS全開で「道」にしてやろうか? スバルの不穏な思考を本能的に感じ取ったのか、イッキ達が背筋を震わせる。
 満珍楼を解雇されたのは事実である。<小烏丸>が始める春休みのA.T.強化練習の話を息子(オニギリ)から聞き、スバルも参加できるように店主が気を利かせたのだ。
子供(ガキ)は元気に遊べ」と言って余分なお小遣い(ボーナス)まで与えてくれた店主の心遣いに、スバルは色々な意味で泣きたくなった。
 だが当然ながら、スバルはリストラに落ち込んでいる訳ではない。それはそれでショックな出来事に違いはないが、その程度の些事(・・・・・・・)を気にかけるほど今のスバルに余裕はない。
 目下のところ、スバルの憂いの一番の原因はウメとの関係だった。そしてもう一つ、なのはのことだった。
 スバルはジャケットのポケットから一枚の紙片を取り出した。紙片の表面には電話番号らしき数字が羅列されている、三日前になのはから貰った、彼女の連絡先である。

 あの夜、なのははスバルに猶予を与えると言い出した。自分の心や身の回りの問題に決着をつけ、その上でスバルがどうしたいかを決めればいいと提案したのだ。
 なのはが何故そんなことを言い出したのかは解らない。これも彼女なりの“優しさ”だったのかもしれない。だがスバルには寧ろ生殺しにされているようにしか思えなかった。
 手の中の紙片を握り潰し、スバルは拳をポケットに突っ込んだ。苛々する。まるで見下されているような不快感と、決断を迫られる焦りが、スバルを無性に苛立たせていた。

 そのとき、聞き覚えのあるモーター音がスバルの耳を打った。A.T.の走行音、しかもこの走り方は……。思わず顔を上げたスバルの前に、上空から人影が降ってきた。

「みーつけたっ! カラス君の顔を見るのも随分久しぶりだね」

 軽やかな着地音をグラウンドに響かせながら、その人物は朗らかにイッキへ笑いかける。

「「シムカさん!?」」

 スバルとイッキの声が重なった。スバルは純粋な驚きに、そしてイッキの声は歓喜に溢れている。だらしなく表情を緩めるイッキを、リンゴと亜紀人が不機嫌そうに睨む。
 イッキから視線を外し、シムカはスバルを振り返った。頬のガーゼが消え、傷痕らしきものも見当たらない。スバルは思わず安堵の息を吐いた。

「スバルちゃんも久しぶり。<小烏丸(カラスくんのチーム)>に入ったんだね、ネットの実況を観てびっくりしちゃったよ?」

 そう言って屈託なく笑いかけるシムカを見上げ、スバルは顔を赤らめた。褒められて照れただけではない。シムカの美貌は、同性のスバルから見ても魅力的だったのだ。
 そのとき、不意にスバルは気がついた。シムカはスバルがこの世界で初めて出会った人間で、魔法や次元世界のことも含めて全ての事情を知る唯一の人物でもある。
 今の自分が抱える諸々の悩みを相談するのに、彼女以上に適任な人はいないのではないか? そう思い至るや、スバルの行動は速かった。

「あ、あの……シムカさん! あたしと、ちょっとデートしてくれませんか!?」

 赤い顔でどもりながらそう口にするスバルに、その場の“時”が止まった。

「スゥゥゥバァルゥゥゥゥゥッ! やはり貴様とは一度決着をつけなければならんようだな!!」

 真っ先に再起動を果たしたのはイッキだった。嫉妬の炎をその瞳に灯し、憤怒の形相で怒号を上げる。

「そんな、まさかスバルちゃんに“そっち”の趣味があったなんて! じゃ、じゃあまさか……ウ、ウメちゃんともそんな関係に!?」

 続いて動き出したのはリンゴだった、何を妄想したのか、赤面した顔を両手で覆い、まるで錯乱したように頭を振りながら絶叫する。
 スバルも漸く頭が冷えてきた。そして自分が何を口走ったかを改めて反芻し、スバルの顔から血の気が引いた。

「いや、あの、ちょっと! 違う、誤解なんです!! そーゆー意味じゃなくてですね!?」

 狼狽えたように上ずった声で必死に弁明を試みるスバルに、亜紀人やカズ達の視線は限りなく生ぬるかった。

「んー、スバルちゃんの気持ちは嬉しいよ?」

 シムカが困ったような笑顔で口を開いた。瞬間、彼女の周囲から音が消えた。その場の誰もが固唾を呑み、シムカの言葉の続きを待つ。

「――でも私は身も心もカラス君に捧げるって決めてるから……ごめんね?」

 まさに一刀両断。こうしてスバル一世一代の大告白は玉砕に終わった。

「だから違うんですぅぅぅーーーっ!!」

 スバルの絶叫が幾分か賑やかになった校庭に虚しく木霊した。



 ――To be continued



[11310] Trick:11
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/01/06 11:40
「――そう、元の世界に帰れることになったんだ」

 スバルの話を聞き終え、シムカはそう言って手元のコーヒーを口に含んだ。シムカの言葉にスバルは無言で頷く。

「リカ達にそのことはもう話した?」

 シムカの問いに、スバルは陰りを帯びた表情で首を振る。

「いえ、それはまだ……」
「そっか」

 消え入りそうな声で紡がれたスバルの返答に相槌を打ち、シムカはこっそりと吐息を零した。
 街角の小洒落たコーヒーチェーン店、スターボックス・コーヒー。オープンカフェ形式のテーブルを囲み、シムカはスバルと一対一で対峙していた。
 自らの不用意な発言によって混沌(カオス)と化した周囲を何とか収め、スバルは「人生相談」と言い換えて再びシムカに助力を頼み込んだ
 スバルの依頼をシムカは快諾。他人(イッキたち)には聞かれたくない話だろうということでスバルを学校から連れ出し、このコーヒーチェーン店で話を聞くことにしたのだ。
 だが実際に話を聞いてみると、その内容の非常識さに思わず天を仰ぎたくなる。以前の魔法や異世界の話とは違い、なまじ理解できるだけに余計に頭が痛い。
 空との出会い、<小烏丸>への加入、そして<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>との遭遇。いずれもこの二週間以内にスバルが経験した出来事だった。
 どうやら自分が知らないうちに、この「魔法の国」生まれの少女はかなり波乱に満ちた日常を送っていたらしい。

 リカの家に、というよりもイッキ(カラスくん)の近くにこの子(スバル)を預けたのは失敗だったかもしれない。シムカは己の見通しの甘さを呪った。
 ある意味において、現在の野山野家はA.T.界の“火薬庫”であると言える。今でこそ危うい均衡を保ち続けているが、何がきっかけで爆発するか想像もできない。
 旧<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>の生き残り、現<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>の構成員、()「牙の王」、そして「風の王」の最有力候補。一つ屋根の下に暮らす家族の全員が「王」の資質を秘めているのだ。
 そして“火薬庫”の中心に立つ者こそ、シムカが推進する「新・風の王育成計画」の中核を担う男、A.T.界期待の新人(ルーキー)、南 イッキだった。
 イッキの周囲に「王」が揃っていることが偶然であるとは思えない、「王」と「王」は引かれ合う運命にあるのだ。
 そしてスバルもまた、きっとイッキに引き寄せられた「王」の一人なのだ。シムカの一番の失敗は、スバルの中に眠る「王」の資質に気がつかなかったことである。

 何にせよ、厄介なことになってしまった。シムカは思考を巡らせる。スバルはA.T.界の“裏側”を垣間見た。だがそれは今、イッキ達が知る必要のない真実である。
“自分達”にとって一番都合がいいのは、スバルが全ての秘密を胸の内に秘めたまま元の世界へ帰還することだろう。そのように誘導することも、今のシムカには容易だった。
 だがそれは……フェアなやり方ではない。この時点で世界の裏側を知られたことは拙いが、<小烏丸>が“空の玉璽(レガリア・オブ・レガリアス)”を狙う限り、いずれは彼らも避けて通れない道である。
 それに「王」の候補者をこの世界から失うことは、A.T.界全体の甚大な損失となる。そして何より、シムカ自身が見てみたいのだ。この小さなライダーの行く末を。

「まぁ……貴女が向こうの世界へ戻るかこっちの世界に残るかは私が口出しするべきことじゃないけど、でもどっちにしろ話はする必要はあると思うわよ」

 何も言わずにサヨナラは寂しいしね。と言いながら、シムカは再びコーヒーカップに口をつける。

「やっぱり、そうですよね……」

 スバルの返答は歯切れが悪い、まだ何かを悩んでいるようである。シムカは思わず嘆息を漏らした。
 こんなとき、自分はやはりライダーなのだと再認識する。言葉では上手く伝えられない。だが言葉でなければ伝わらない(・・・・・・・・・・・・)こともあるのだ。

「スバルちゃん。私ね、双児のお兄ちゃんがいるんだ」

 シムカの突然の言葉に、スバルはハッとしたように顔を上げた。

「それって……あのキリクって人のことですか?」

 スバルの問いにシムカは頷き、まるで“ここではないどこか別の場所”を見るように視線を宙空に彷徨わせる。

「彼は普段から“説明”というものをしない人だった。それが戦中となれば尚更で、チームの人達が時々「キリクの指示が理解できない」って嘆いてたわ」

 シムカの科白に、スバルは先日のキリクとリンゴ達の会話を思い出す。確かにキリクは多くを語るような男ではなかった気がする。
 でもね、とシムカは言葉を続けた。他の誰も理解できなかったキリクの言葉を、一人だけ正確に把握できる男がいた。
 彼らはまるで一対の翼のように、互いが互いに相手を唯一の“対等の存在”だと認め合い、たとえ自分が倒れてもその先の戦い(みらい)を相手に託せる勇気を互いに持っていた。

「その人の名前は、空。<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>の総長(リーダー)だった人……」

 その言葉に、スバルは思わず息を呑んだ。アパートの屋上で犬達と戯れる車椅子の青年の姿が、スバルの脳裏をよぎった。

「<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>はね、元々空さんが創ったチームだったの。キリク(にいさん)やリカ、あと病院の巻貝先生とかも、皆その初代メンバー」
「そんな……」

 スバルは呆然と呟いた。怒涛の如く次々と明かされる衝撃の事実の数々に、スバルの頭の中はパンク寸前だった。
 シムカの昔話は更に続く。かつて全ての「王」と玉璽(レガリア)を集めた伝説のチーム、<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>。無敵を誇った彼らの終焉は、あまりにもあっけなく訪れた。
 きっかけは空とキリクの些細な行き違いだった。しかし二人の間に走った亀裂は瞬く間にとりかえしのつかないほどに拡がり、チームの分裂という最大の悲劇をもたらした。
 激闘の末、空は二度と飛べない身体にされ、暴風族引退を余儀なくされた。今の空が車椅子で生活しているのは、そのときの戦いの後遺症である。
 一方戦いに勝利したキリクは他のメンバー全員を追放し、今の<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>へとチームを創り変えた。全ては七年前、<眠りの森>の結成から僅か一年後の話だった。

「もしもあのとき、二人がもっとちゃんと話し合っていれば、兄さんは今でも私達と同じ道を歩いてくれていたかもしれないし、空さんだってきっとあんなこと(・・・・・)にはならなかった」

 淡々と語るシムカの声からは深い後悔と悲しみがにじみ、スバルの心を抉った。スバルは何も言い返せなかった。今の話が自分達の未来だと想像しただけで背筋が寒くなる。

「スバルちゃん。エアトレックって凄く便利な道具よね?」
「え?」

 突然話題を変えたシムカの意図が解らず、スバルは戸惑ったように声を上げた。慌てるスバルに「ちょっといきなりすぎたか」と苦笑し、シムカは自嘲とともに言葉を続ける。

「A.T.はただ走って飛ぶためだけの道具(ツール)じゃないわ。私達暴風族(ストーム・ライダー)(トリック)に思いを込めて、“走り”で会話することができる。でも言葉じゃないと伝わらないものも、いっぱいあるの」
「……はい」

 シムカの忠告を噛みしめ、スバルは膝の上で拳を握りしめた。まるで冷や水を頭から浴びせかけられたような気分だった。
 自分は増長していたのかもしれない。A.T.があれば何でもできると、まるで「魔法の道具」でも手に入れたように思い上がっていたのかもしれない。
 そんなものなどある筈がないのに。目の前に見える表面的な“自由”に夢中になって、自分は大切なことを見失ってしまっていた。

「私が言えるのはこれぐらいかな? ごめんね、何の力にもなってあげられなくて」

 気落ちしたような表情で俯くスバルに、シムカが申し訳なさそうな顔で声をかけた。シムカの謝罪に、スバルは慌てて顔を上げる。

「あ、いえ! とっても参考になったです! ありがとうございました」
「そう? だったらよかったわ」

 スバルの言葉に、シムカはそう言って微笑する。

「……あの、シムカさん。あたし、今からウメちゃんと話してきます!」

 意を決したような表情でシムカを見上げ、スバルはそう口にした。スバルの唐突な言葉に、シムカは思わず目を瞬かせる。

「えっと……今から?」
「はい、今から!」

 一応確認のために訊き返してみたが、スバルの返答は変わらない。シムカは閉口した。幾らなんでも急展開すぎるのではないか?
 だがシムカを見つめるスバルの目に揺るぎはない、テコでも動きそうにない顔だった。これは何を言っても無駄だろう。

「……そう。頑張ってね」

 シムカにはそれだけしか言える言葉がなかった。おざなりにかけられた激励の言葉に、しかしスバルは満面の笑顔で「はい!」と答える。シムカの良心が少しだけ疼いた。
 スバルが椅子から立ち上がり、「それじゃあ」とシムカに挨拶しながらA.T.を走らせる。繁華街の雑踏へ消えるスバルの背中を見送り、シムカはふと気づいた。
 ちゃんと<小烏丸>の皆に一言断ってから帰るつもりだろうか? きっとすっかり忘れている気がする。
 シムカは溜息を吐きながら椅子から立ち上がった。連れ出した手前、自分がイッキ達に報せるのが筋というものだった。
 だがイッキは携帯電話を持っていない、直接会いに行くしかないだろう。またあの坂道を登るのか? 面倒だ。今度カラス君に携帯電話の購入を勧めてみよう。
 そんなとりとめもない思考を脳裏に巡らせながら、シムカは風を切って走り始めた。



 シムカの危惧は見事に的中し、スバルはウメが待つ野山野家にまっすぐ帰宅していた。スバルの頭の中はウメ一色で埋め尽くされ、<小烏丸(イッキたち)>のことなど今や忘却の彼方である。
 玄関口でA.T.を乱雑に脱ぎ捨て、階段を駆け登って二階に上がる。階下からリカの怒声が聞こえてくるが、スバルは気にしない。
 ドタドタと足音をやかましく響かせながら廊下を一直線に走り抜け、スバルはウメの部屋を目指す。

「ウメちゃん!」

 部屋の前に立ち、スバルは声を張り上げた。堅く閉ざされた扉の向こうから、ウメの返事はない。分かりきっていたことだ、スバルは気にせず言葉を続ける。

「ウメちゃん、あのね……あたし、この家を出ていくから!」

 そう口にした瞬間、部屋の中から息を呑む気配が扉越しに伝わってきた。スバルは安堵の息を吐いた。驚いたということは、ウメはまだ自分のことを気にしてくれている証拠だ。

「……どういう、ことでしか?」

 扉の奥から、ウメが震える声で訊き返す。スバルは扉に背中を預け、天井を見上げながら口を開いた。ゆっくりと一つ一つ言葉を選びながら、スバルは思いをウメに伝える。

「言葉の通りだよ。今すぐって訳じゃないけど、近いうちにあたしはこの家を出ていく。出ていって、あたしがいるべき世界(ばしょ)に帰る。もう決めたんだ」

 ウメちゃんには一番最初に聞いて貰いたかったから。そう言って口を閉ざしたスバルに、ウメは何も答えない。
 スバルは小さく嘆息を零した。本当に言いたいことが上手く言葉で伝えられない、それがこんなにも歯痒いものだとはこれまで思いもしなかった。
 言葉の代わりに“走り”で思いを伝え合おうとする暴風族の気持ちが、今なら少しだけ解る気がする。
 しかしA.T.にばかり頼っていては、自分達(にんげん)は一歩も前には進めない。シムカがそのことを教えてくれたのだ。

 そのとき、部屋の中からゴトゴトと不審な物音が聞こえてきた。スバルは背中の扉を振り返り、「ウメちゃん?」と遠慮がちに声をかける。
 扉が勢いよく開け放たれ、部屋の中からウメが顔を出した。スバルは思わず息を呑んだ。ウメの目元は真っ赤に腫れ、涙の跡が頬に残っている。泣いていたのだ。
 だがそれ以上にスバルが目を奪われたものは、ウメが肩に担いだ巨大な鋼鉄の塊だった。
“それ”は一言で言えば巨大な筒状の何かだった。ところどころを黒光りした装甲(カウル)で覆い、露出した部分には無数の配線(コード)が血管のように張り巡らされている。
 まるで肥満体のようにぽっこりと盛り上がったボディの下部からは重厚な駆動音が響き、背部のノズルからは蒸気がまるで呼吸のように断続的に噴き出している。
 そしてまるで引き金(トリガー)のような側面のレバーにはウメの手が添えられ、銃口らしき先端の孔の奥では危険な光が甲高い充填(チャージ)音とともにその輝きを増している。

 ――どう見ても質量兵器です本当にありがとうございました。

「スバルちゃんの……っ、スバルちゃんの馬鹿ぁああああああっ!!」

 ウメの絶叫とともに、肩に担いだ対人用大出力光学兵器「グランドミューオン超ウメちゃん砲」が火を噴いた。
 スバルの視界が真っ白に染まり、次の瞬間、撃ち放たれた破壊光線が野山野家の屋根を半壊させた。

 その後、二人が怒り狂ったリカから身の毛もよだつような制裁(おしおき)を受けたことは言うまでもない。





 それは人智を超越した激闘だった。

『空ぁああああああっ!!』
『キリクぅうううううっ!!』

 互いに憎悪と殺意を(トリック)に込め、二人の男がぶつかり合う。ただの(バトル)ではない、これは殺し合いだった。互いが互いを否定し合い、相手(てき)の存在を消し去るために戦っているのだ。
 一人は頭に飛行帽を被った黒髪の青年、「風の王」武内 空。もう一人はローブを身に纏った白髪の青年、「石の王」キリク。
 ともにA.T.界の頂点に君臨する八人の「王」の一人であり、幼少の頃からの親友同士でもある。
 そんな二人が何故憎しみをぶつけ合い、殺し合わなければならないのか? 否、寧ろ特別な絆で繋がった親友同士であるがために、二人は戦いの「道」しか選べなかったのだ。

 空が虚空を蹴るように片脚を振り上げた。瞬間、荒れ狂う風がまとわりつくように空の周囲に渦巻き、足裏のホイールから紫電が迸る。
 A.T.の後輪がほつれるように展開し、まるで鳥の爪のような姿へ形を変えた。八個の玉璽の一つ、“風の玉璽”の真の姿である。

『往生せいや! このボケ!!』

 ――技・Pile Tornado(パイル・トルネード)!!

 怒号とともに蹴り出された空の足先から竜巻が発生し、まるで砲弾のようにキリクへ一直線に撃ち出された。
 迫りくる竜巻の砲弾を正面から待ち構え、キリクはA.T.の足甲部に装着された第三のホイール、“石の玉璽”に神経を集中する。

 ――“石の玉璽”「無限の空(インフィニティ・アトモスフィア)」発動! 「無限の地層(インフィニティ・ストラタム)」!!

 瞬間、両足の玉璽が激烈に輝き、迎え撃つように蹴り出されたキリクの右足が竜巻の砲弾を粉砕(・・)した。散り散りに掻き消された風の残滓がキリクの髪を揺らす。

『滅ぶのは貴様の方だ。疾風の狼(ウルブズ・ガーレ)!!』

 キリクが叫びながら空に接近し、走行の勢いをそのままに渾身の回し蹴りを叩き込んだ。瞬間、足甲の玉璽が発光し、零距離から撃ち出された振動波が空の内臓を直撃する。

『が……っ!?』

 苦悶の声を漏らしながら、空の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。が、倒れない。文字通り血反吐を吐きながらも両足を踏ん張り、空は憎悪の目でキリクを睨みつける。

『調子に乗んなや、このド腐れがっ!!』

 空は怒号を上げながら両手を打ち鳴らした。瞬間、高密度の風の塊がまるでプレス機のようにキリクを頭上から押し潰す。

 ――“風の玉璽”「無限の空(インフィニティ・アトモスフィア)」発動! 「無限の風(インフィニティ・エアード)」!!

 足元に残留する大気の塊を踏みつけ、空は空中を駆け上った(・・・・・)。空気の境界面を捉え、文字通り風に乗って空を駆ける。それこそが“風の玉璽”の真骨頂なのである。
 風の専用道路(サーキット)を疾走し、空は遥かな上空(たかみ)からキリクを見下ろした。吹き荒れる暴風が瓦礫を無数に巻き上げ、おぞましい死神の技影(シャドウ)とともに天空を覆い隠す。
 頭上を埋め尽くす死神(がれき)の群れを見上げ、キリクも玉璽の力を最大出力(ほんきのほんき)で解放した。膨れ上がる二人の闘気と殺意が空中でせめぎ合い――――爆発した。

Moon struck(名もなき) Numberless(狂躁の) Grappler(格闘士ども)!!』
『グラビト・サフォカーテ!!』

 同時に轟いた二人の絶叫が「塔」を大きく震撼させ、撃ち放たれた二つの「無限の空」が激突する。そして、次の瞬間――、



 ―――ブツン、と音を立てて空間展開モニターが暗転した。



「……非道いじゃないか。何をするんだね、ウーノ?」

 不機嫌そうな口調で非難の声を上げ、男は背後を振り返った。男の抗議に、ウーノと呼ばれた女性が「すみません」と言いながら頭を下げる。

「何度声をかけてもドクターが気づいて下さらなかったので、仕方なくこのような手段を取らせて頂きました」

 まるで機械のように淡々と反論するウーノに、ドクターと呼ばれた男は「むぅ」と唸った。そのような言い方をされては、自分の非を認めない訳にはいかない。
 天井の照明が点灯し、部屋の中を包み込む薄闇が晴れる。異様な空間がそこに広がっていた。
 何かの研究室らしきその部屋の床面には無数の紙飛行機が散乱し、壁際には人体標本と思われるシリンダーや得体の知れない機材が無秩序に並べられている。

「ところで知っているかい、ウーノ? “彼ら”の世界では、人は揚力を発見するずっと以前から空を飛んでいたんだそうだ」
「「ライト兄弟」ですね? ドクターがその話題を口にするのは今回で27度目です」

 足元に転がる紙飛行機を拾い上げ、まるで鼻歌でも歌い出しそうな声で問う男に、ウーノは顔色一つ変えずに即答した。
 ウーノの返答に、男は「そうだったかな?」と首を傾げる。

「偉大な挑戦だとは思わないか? 航空魔導力学も重力制御も識らない生身の人間が、ただの体当たり(・・・・)で空と格闘し続けたんだ。私は彼らに尊敬の念を禁じ得ないよ」

 まるで子供のような笑顔でそう語りながら、男は紙飛行機を飛ばした。白い紙の翼が空中を舞い、やがて力尽きたように床に墜落()ちる。

「「戦いこそが世界を変える」……名言だよ」

 満ち足りた表情で男は呟き、ふと我に返ったようにウーノへ視線を戻した。

「ところで、何の用だい? ウーノ」

 今更とも言える男の質問に、ウーノは姿勢を正して口を開く。

戦闘機人(ナンバーズ)一番機、ウーノが報告します。行方不明になっていたタイプゼロ・セカンドの所在が判明しました」

 ウーノの報告に、男は「ほぅ」と興味深そうに目を細めた。金色の瞳が不気味に煌めき、青白い顔には喜悦の笑みが浮かぶ。

「もう少し詳しく話してくれるかい?」
「了解しました。先日管理局本局の航空魔導師が第97管理外世界においてタイプゼロ・セカンドらしき少女を発見、実際に接触したところ本人であることが確認されたそうです」

 淀みない口調で告げられたウーノの報告に、気がつけば男は哄笑していた。

「そうか、あの世界か! これは何という面白い偶然だ!! いや……或いは全てが必然なのか? 何にせよ、やはりこの案件は興味深い」

 狂ったように笑う男に、ウーノはさらに言葉を続ける。

「タイプゼロ・セカンドの確保のため、僭越ながら私の方で一つ“策”を打たせて頂きました。報告が遅れて申し訳ありません」
「いや、構わないよ。君の“策”とやらをじっくり見物させて貰おう」

 謝罪するウーノに男はそう言って掌を振り、長く垂れた前髪を片手で掻き上げながら上機嫌な笑顔で天井を見上げた。

 男の名前はジェイル・スカリエッティ、「無限の欲望(アンリミテッド・デザイア)」の異名を持つ狂気の天才科学者である。



 ――To be continued



[11310] Trick:00(前編)
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/01/08 15:50
 まるで血で染め上げたように、月が赤い夜だった。風が哭いている。巨大な(メガ・ストームの到来に怯えるかのように。或いはこれから始まる戦いに、世界が悲しんでいるのか。
 青学女子中学校の広大な敷地の一角に位置する巨大な廃墟、「トロパイオンの塔」と呼ばれるその場所に、最強と謳われる暴風族、<眠りの森(スリーピング・フォレスト>は集結していた。
「風の王」武内 空。「炎の王」スピット・ファイア。「牙の王」ファルコ。「雷の王」ブラック・バーン。そして「轟の王」ドントレス。
 臨戦態勢で構える五人の「王」、かつての(・・・・仲間達を廃墟の頂から冷ややかに見下ろし、「石の王」キリクはおもむろに口を開いた。

「天に唾する愚か者どもに、「石の王」キリクがここに宣言する」

 ローブの裾を風になびかせ、血の色に染め上げられた月光を背に朗々と声を響かせるキリクの姿は、さながら神罰を下す天上の使者だった。
 キリクの背後には、他にも四人の人影が佇んでいる。懐かしい顔ぶれだった。<眠りの森>の結成の際、空の勧誘に応じなかった重力子(グラビティ・チルドレン達である。

「今、ここで全てを忘れ、立ち去るのならば私も追いはしない。しかし一度“空の玉璽(レガリア”を狙うと判った重力子には容赦はしない。手加減などしないし、手段を選ぶつもりもない」

 キリクの警告に、空が嘲笑を浮かべて口を開く。

「えっらそーに……神の使徒にでもなったつもりか?」

 空の軽口に、キリクは「神などいない」と首を振る。“石”のように硬い声だった。

「空。お前はただ一個の欲望のためだけに、全ての者達から大空を――自由を奪い去ろうとしている。私は真の自由を渇望する全ての者達の使徒だ!」

 キリクの言葉とともに、青学女子中学校の時計塔が鐘を鳴らした。九ツ首の鐘(ナイン・フォールと呼ばれるその鐘の音は、暴風族にとって特別な意味を持つ。開戦の合図にはうってつけである。
 全ての始まりの聖地、トロパイオンの塔。今、この場所で全てを終わらせる戦い、<眠りの森(スリーピング・フォレスト>最後の戦いが幕を開けた。





 全ては十日前、キリクのラップトップPC(パソコンに一通のメールが届いたことから始まった。
 差出人は不明。試合(パーツ・ウォウ挑戦状(もうしこみでも、広告(スパムメールでもウィルスでもない。極秘の筈のキリクの個人用(プライベートアドレスに届いた不審なメール。
 メールの文面に目を通し、キリクは思わず眉を寄せた。これは自分だけでは判断できない。キリクは顔を上げ、談話室の奥で昼寝する同志(なかまに声をかけた。

「空、空! ちょっとこっちに来てくれ」

 キリクの呼びかけに、安楽椅子(リクライニング・チェアに腰かける飛行帽の男、武内 空が目を覚ました。アイマスク代わりに顔に被せた雑誌を外し、空は欠伸(あくびをしながらキリクを振り返る。

「何やウルサイなぁ、キリク。ワイが低血圧なん知っとるやろ?」
「君の安眠を妨げたことは謝罪するよ。だけどそんなことより、ちょっとこれを見てくれないか?」

 そう言ってラップトップPCの液晶画面(ディスプレイを指差すキリクに、空が怪訝そうな顔で安楽椅子から立ち上がった。A.T.を滑らせてキリクへ近寄り、画面を覗き込む。

『拝啓、眠りの森に棲まう重力の申し子の諸君。
 突然このようなメールを受け取り、君達はさぞかし困惑していることだろう。何分(なにぶん誰かに宛てて手紙を書くなど初めてのことなので、多少の無礼には目を瞑って欲しい。
 はじめまして。私はとある井戸の底(・・・・に生きる、しがない科学者だ。名前は……Jとでも名乗っておこうか。別に隠す必要などないが、その方が格好いいだろう?
 単刀直入に言おう、私は君達<眠りの森(スリーピング・フォレスト>の信奉者(ファンだ。否、君達に恋していると言うべきか。君達という存在を知ったその瞬間から、私は君達の虜となったのだ。
 君達の存在を知ったとき、私は理屈(ロジックではない“ときめき”のようなものを感じた。君達という存在自体に、そして君達のその生き様に、私は魅せられた。こんな経験は初めてだ。
 地の底に眠る空の遺産を守護(まもり続け、君達は孤独な戦いに身を置いている。世界中の自由と希望を守護(まもるために、自分自身の夢や自由すら(なげうって。
 その気高さが、君達が世界に捧げる無限の愛(インフィニティ・ラヴアフェアが私は堪らなく愛おしい。私は君達に恋している、私は君達を愛している。私は君達に思い焦がれている。
 そして君達の力になりたいと思った。君達が背負う重荷を私も分かち合い、ともに背負っていきたいと強く思う。これは私の純粋な欲望だ。
 この想いは言葉などでは到底言い表すことはできない。しかしたとえこの身を焦がすほどの思慕を抱いても、今は私の思いは一方通行でしかない。私はそれが堪らなく切ない。
 君達と直接(じかに会って話がしたい。私の研究はA.T.とは全く関係のない分野を専門にしているが、それでも充分に君達の助けとなれる自負がある。
 そう、例えば……君達を“大空”の守護者としての宿命から解き放ち、真の自由に満ちた新しい世界を創造することもできる。
 もしも興味を持って頂けたのであれば、下のアドレスに連絡をくれたまえ。何か質問や要望があればいつでも何でも受け付けよう。君達からの返事を心からお待ちしている。
                                                                            ――ジェイル・スカリエッティ 魔法の国より愛を込めて』

「ぶはっ!!」

 空は思わず噴き出した。何だこのイタいラブレターは。厨二病やらナルシストやらの次元ではない、もっと恐ろしいものの片鱗を味わった気分である。
 あと名前が隠せていない、偽名を名乗っておきながら最後の最後に本名を明記している! 色々な意味でツッコミどころが満載な文書だった。

「笑っている場合か、空!」

 爆笑する空をキリクが一喝した。この男は事態の重要性を理解していない、この文章が何を意味しているのか解っていないのだろうか。
 憤慨するキリクから顔を背け、空は「おーい」と声を張り上げた。その声に、談話室のあちこちで寛ぐ仲間達――<眠りの森(スリーピング・フォレスト>が二人に視線を向ける。

「お前ら! キリクのムッツリが男からラブレターなんぞ貰いおったで!?」

 ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて叫ぶ空に、部屋の中はまるで時が止まったかのように静まり返る。そして、次の瞬間――、

「「「「「「な、何だってーーーっ!?」」」」」」

 まさに阿鼻叫喚。まるでこの世の終わりのような絶叫が「塔」を震撼させた。

「……驚天動地だね。まさかキリクにそっちの趣味があったなんて」

 唖然とした顔で呟くのは、赤いジャケットを着たバンダナの青年――「炎の王」スピット・ファイア。傍らでは恋人である「契の王」、巻上 イネが同意するように頷いている。

「そうか、遂にキリクにも春が来たんだね。おめでとう」
「うぬぬ……不覚だわ! 私が二次元にうつつを抜かしているうちに、まさかキリクまで三次元で青春を謳歌しているとは。たとえ相手が男でも!!」

 黒い鎧を纏った男、「雷の王」ブラック・バーンが祝福の言葉をかける。反対に悔しそうに歯噛みしているのは、縦縞模様のタキシードを着た男――「牙の王」ファルコ。

「な、ちょ……お前達、一体何を言ってるんだ!?」

 予想外の方向へ暴走する話の流れに、キリクが狼狽の声を上げた。当然のことながら、キリクに男色の趣味はない。仲間達の言葉は濡れ衣以外の何物でもなかった。
 それに、とキリクは視線を動かした。眼十輝(トゥインクル・アイが宙を泳ぎ、背中が大きく開いたジャケットを羽織る一人の少女の姿を捉える。「荊の王」野山野 リカである。
 キリクはリカに恋していた。一年前、彼女と初めて出会ったときから、その感情はキリクの胸の中でずっと燻っている。一目惚れだった。
 リカに空という恋人がいる以上、キリクの恋が報われることはない。それはキリク自身もよく解っている。理解していてもなお、キリクはリカへの想いを捨てきれないのだ。
 たとえ報われぬ恋だと解っていても、せめて彼女の良き友人でありたい。そんなキリクの淡い願望も虚しく、話の暴走は更に加速する。

「安心するでごわす、キリク。リカはオイが必ず幸せにしちゃるけん」
「色々待てや、このゴリラ! リカ(そいつはワイの女や!!」
「もう、空ったら……」

 ミニコンポを肩に担いだ巨漢、「轟の王」ドントレスの科白に、空が青筋を浮かべて怒号を飛ばした。犬歯を剥き出して威嚇する空の姿に、リカが頬を染める。

「おめでとうございます、キリク。その……幸せになれるといいわね」

 躊躇いながらも精一杯の笑顔を浮かべて、リカはキリクを祝福する。この瞬間、キリクの初恋は終わった。
 真っ白の燃え尽きたキリクの手から、空がラップトップPCを引ったくった。側面の端子にケーブルを繋ぎ、天井部に設置した投影装置(プロジェクターを起動させる。
 談話室の壁面をスクリーン代わりに、キリクのPCの画面が映し出される。Jと名乗る差出人からの痛々しいメールが、その場の全員の目に晒された。
 長い付き合いである。キリクがリカに惚れていることも、今のキリクの気持ちさえも、空には手に取るように理解できた。
 しかし傷心の親友(キリクを慰めるのではなく逆にトドメを刺しにかかる辺りに、空の性格の悪さの片鱗が見て取れた。
 次の瞬間、局地的(だんわしつに発生した爆笑の嵐が「塔」を呑み込み、キリクの心に消えない傷(トラウマが刻まれたことは言うまでもない。

「まぁキリクを弄るのはこれぐらいにしておくとして……どう思う? 「王」の諸君」

 柔和な微笑を浮かべながら、しかし猛禽のように鋭い目つきで、スピット・ファイアは仲間達に問う。その言葉に、空達の表情が引き締まった。
 一流の人間は頭の中にON/OFF切り替えレバーがついている。如何な状況においても即座に戦闘体勢に自分を切り替えられることが、トップライダーの条件なのだ。

「少なくともただの悪戯ってことはあり得ないよ。この文書は明らかに“アレ”や重力子(ぼくたちの正体を意識して書かれている」
「だわ。ある程度以上に事情に通じている人間……かつての「塔」の生き残りか、その関係者ってとこだわね」

 口火を切ったブラック・バーンに続き、ファルコが首肯とともに言葉を継ぐ。しかし二人の推測に待ったをかける者がいた。ドントレスである。

「そう決めつけるのは早計でごわすよ。この文面からは、寧ろ余計な真実を嗅ぎつけて鼻高々になっている第三者のような印象を受けるでごわす」

 重々しい口調で紡がれたドントレスの科白に、ファルコとブラック・バーンは同時に唸った。
 ロックミュージックを趣味にするドントレスは、その厳つい風貌に反して繊細な感性の持ち主である。
 ライブで歌う曲の作詞や作曲も全て自ら手がける彼の言葉は、説得力があった。

「……何にせよ、無視する訳にもいかないでしょうね」

 イネがそう言いながら辟易したように肩を竦める。

「このスカリエッティとかいう奴の狙いが“空の玉璽”だとすれば、このまま何事もなく終わるとは考えにくいわ」
「“敵”が何か仕掛けてくる……ってこと?」

 吐息混じりに紡がれるイネの科白に、リカが険呑な表情で問い返した。敵――メールの差出人、ジェイル・スカリエッティを、リカは明確な敵意を抱いてそう評した。
 仲間達の中で唯一、一般のライダーから<眠りの森>に入ったリカは、“空の玉璽”の正体を知らない。だが、それが空達にとって大事な何かであることは、よく解っている。
 その宝物を奪おうとする不埒な輩に、リカは一切の情けをかけない。容赦もしない。奴らは空の笑顔を曇らせる。リカにとって、戦う理由はそれだけで充分だった。

「……上等やないか」

 空が不機嫌そうに鼻を鳴らした。瞬間、周囲は水を打ったように静まり返る。
 <眠りの森(スリーピング・フォレスト>初代総長の名は伊達ではない。“本気”になった「風の王」武内 空の声には、曲者揃いの猛禽どもを一瞬で黙らせるだけの凄みがあった。

「向こうさんが何考えとっても、どないな“策”を使(つこうてきても関係あらへん。まとめて叩き潰してやればええだけや」

 有無を言わさぬ空の言葉に、スピット・ファイア達は誰も異議を唱えない。寧ろその顔にはまるで獣のように獰猛な笑みが浮かんでいる。狩人の眼だった。
 文句などあろう筈がない、それでこそ「王者(じぶんたち」に相応しい(バトルではないか。結局のところ、<眠りの森(かれら>も他の暴風族(ストーム・ライダーと同様に、血に飢えた猛禽の集まりでしかないのだ。
 そのとき、それまで唯一人(ゆいいつ沈黙を保ち続けていたキリクが、満を持して口を開いた。

「明後日は週末だったな、その日に会談の席を設けよう。場所は無重力エレベーター内だ」
「な……!?」

 突然のキリクの言葉に、部屋の中を動揺が走った。今、この男は何と言った? スピット・ファイアは思わず耳を疑った。他の仲間達も驚愕の表情でキリクを凝視している。
 キリクは普段から“説明”をしない男だった。(バトル中となれば尚更その傾向が強くなり、彼の不可解な言動に仲間達は時折混乱することがある――――唯一人、空を除いて。

「ま、それが妥当なトコやろな」

 まるで当然のことのような口ぶりでキリクの言葉を支持する空に、スピット・ファイア達は再度絶句した。

「ちょ、ちょっと待ってくれ! 君達は自分が何を言っているのか解っているのか!?」

 スピット・ファイアが狼狽の声で二人に問う。<眠りの森(スリーピング・フォレスト>の頭脳(ブレインであるキリクの提案を、総長(リーダーである空が許可する。この時点でチームの方針は確定したようなものだった。
 それでもスピット・ファイアは一言物申さずにはいられなかった。二人で理解し合っていることは大いに結構。しかしそれだけでは、他の者は納得できない。

「君達はこんな訳の分からない輩を――“敵”をこの「塔」の中に招くつもりか!?」

 激昂したように声を荒げるスピット・ファイアに、空は面倒臭そうに後頭部を掻いた。

「落ち着いて考えろや、スピ? どの道このJとかいう奴を放っとく訳にはいかん。せやったら早いうちにカタつけるのが一番やろ? “森”の中やったら、<眠りの森(ワイら>は無敵や」

 諭すような空の言葉に、スピット・ファイアは唸った。正論である、反論の糸口すらも見つけられない。
 沈黙するスピット・ファイアから視線を外し、空は手を叩いた。部屋の中に乾いた音がパン、と響き渡る。

「んじゃー時間も時間やし、今日ところはこれで解散しよか。週末の“集会”の詳細については追って連絡するさかい、頭の端っこにでも留めといてや?」

 空の号令に、仲間達は蜘蛛の子を散らすように次々と談話室から退出していく。その中の一人、リカの背中に、キリクが不意に声をかけた。

「―――リカ、ちょっといいか?」

 キリクの呼びかけに振り返りながら、リカは「はい?」と可愛らしく首を傾げた。



 二日後、キリク達暴風族<眠りの森(スリーピング・フォレスト>の面々は、「トロパイオンの塔」の最深部、「無重力エレベーター」と呼ばれる部屋に集結していた。
 まるで巨大なボールのような球体型の装置の内部、円柱状にくり抜かれた部屋の中には、キリク達の他にもう一人、見慣れぬ男の姿があった。
 ジェイル・スカリエッティ。二日前のメールの差出人である。

「まずはこの会談の場を設けてくれたことに「ありがとう」とでも言うべきかな? だが今の私の感動は言葉などでは到底言い表せないほどだ。そこは誤解しないでくれたまえ」

 薄っぺらな作り物めいた笑顔とともに馴れ馴れしい口調でキリク達に話しかける招かれざる客人、スカリエッティに対するキリク達の第一印象は、満場一致で「変態」だった。
 のばし放題な髪、青白い肌、隈が色濃く浮いた目元、痩けた頬、しわの入った白衣。まるで物語(フィクションの世界からやってきたような狂科学者(マッドサイエンティストがそこにいた。

「ああ、そうだ忘れていた。恐らく私の名前だけは既に知ってくれているとは思うが、改めてはじめまして。ジェイル・スカリエッティだ」

 やはりこの男は変人だ。思い出したように付け加えられた自己紹介に、キリク達はそう再認識した。

「ところで<眠りの森(きみたち>は全員で八人のチームだと聞いているのだが……、一人足りないようだね?」
「貴方には関係のないことだ」

 スカリエッティの指摘を、キリクは“石”のような声でにべもなく切り捨てる。
 今、この部屋の中にいる「王」の数は七人である。スカリエッティが指摘する通り、確かに一人足りない。リカである。
 リカは今、キリクの指示で彼の双児の妹、シムカの護衛に就いている。
 (キリクと同じく、シムカも重力子である。しかし彼女に戦闘能力はない、もしも“敵”に狙われればひとたまりもない。
 しかしだからと言って、この会談の場にシムカを連れてくる訳にもいかない。もしも戦闘になった場合、彼女の存在は足手纏い以外の何物でもない。
 そこでリカの登場である。彼女が走る「道」、「荊蕀の道(ソニアロード」は“守り”のエキスパートである。シムカの護衛としてリカほどの適任者はいない。
 そしてもう一つ、リカは<眠りの森(チーム>の中で唯一、「塔」とも重力子とも関係のない一般人である。彼女を重力子(じぶんたちの諍いに巻き込みたくないという気遣いも少なからずあった。

 キリクの科白に、スカリエッティは「確かに」と納得したように頷き、口を開いた。

商談(ほんだいに入る前に、まずは“予備知識”の確認をしても構わないかね? 情報に何か重大な齟齬があれば目も当てられないからね」

 スカリエッティの言葉に、キリクが双眸を鋭く細めた。この男は「塔」の人間ではない。「塔」の研究者であればそんな回りくどいことなどする必要もない。
 問題なのは、この男がどこまで(・・・・知っているのかということである。スカリエッティがどこから(・・・・情報を手に入れたかも知りたいところだが、それは後回しでも構わないだろう。
 キリクは「ああ」と頷き、スカリエッティの提案を了承した。総長(じぶんを無視して話を進められたことに空が横から文句を言っているが、キリクは無視した。
 スカリエッティは満足そうに頷き、大仰な身振り手振りを交えながら楽しそうな表情で語り始めた。

「ここは元々30年以上前に造られた「深層地熱発電」の研究施設だった。死火山の地下に眠る安定したマグマ溜まりを利用した“永久機関”の研究が、ここでは行われていた」

 大量の火山ガスが噴き出た跡の縦状洞穴にシャフトを通して水を流し込む。水はマグマ溜まりで水蒸気(ガスとなって地表まで上昇し、そこで冷えて再び地の底へ戻る。
 その上昇・下降の両方のエネルギーでタービンを回せば、ランニングコストほぼゼロの夢の“永久機関”が生まれる。それが深層地熱発電の概略である。

「だが……それはあくまで表向きの理由、言うなればただの“建前”だ。この「塔」の研究の真の目的、それはロストエネルギー問題の解決だ」

 スカリエッティの言葉に、キリクや空達の表情が険を帯びる。どうやらこの男は余計なこと(・・・・・まで知ってしまっているらしい。
 キリク達の表情の変化に気づきながら、しかしスカリエッティは敢えて無視して言葉を続ける。
 人間のエネルギーの“無駄遣い”は半端ないものがある。例えば火力発電の場合、電気が生まれるまでの間に石油の燃焼カロリーの六割以上が無駄に失われている。
 さらに送電線や変圧器、各家電製品の負荷を考えると、実際に使われるエネルギーは元々の僅か一割程度でしかない。しかも余ったエネルギーは捨てられてしまう。
 この損失(ロストエネルギーを回収――コジェネレーションという――する技術が全世界に普及し、もしもロストエネルギーを0(ゼロにすることができればどうなるか?
 その思想に基づいて開発されたのが、超高能率エネルギー回路とロストエネルギー回収機構――即ち“A.T.(エアトレック”なのである。

「そしてA.T.を最大限に効率的に活用するために創られた特殊能力者が、君達重力子(グラビティ・チルドレンだ」

 まるで黒板に書かれた問題の正解を言い当てた子供のように、スカリエッティは誇らしげな顔で断言する。そのとき、空がパチパチと手を叩きながら口を開いた。

「いやぁ、中々オモロイ話やったわ。よー勉強しとるで、アンタ。ホンマ感心するわ」

 人懐っこい笑顔を浮かべて、空は拍手とともに賞賛の言葉を贈る。そして空に続くように、キリクも口を開いた。

「――だがそれだけでは50点だ」

 瞬間、スカリエッティの身体が宙に浮き上がった。空を飛んでいる? 否、この部屋自体が“下”へ落ちているのだ。

「自由落下による人工無重力……成程、この部屋は言うなれば“無重力エレベーター”なのか」

 スカリエッティが感嘆の声を上げた。発電用シャフトを利用したこの大掛かりな仕掛けに、ではない。彼の視線は無重力の中をA.T.で縦横無尽に駆ける空達に釘づけだった。

「A.T.が何故インラインスケートの形で開発されたのかがよく解ったよ。無重力空間――例えば宇宙空間施設内――での移動を想定していたのか」
「中々の洞察力だ。10点を追加(プラスしよう」

 キリクが賛辞を呈した。自らの足で立って歩くことすらままならない「究極の不自由」の中にありながら、スカリエッティは全く動じていない。その点もまた評価に値する。

「しかし貴方は理解していない、無重力の中で重力子(われわれと対峙するその意味を。致命的なまでの状況判断能力と危機感の欠如……40点減点(マイナスだ」

 まるで獲物を狙う猛禽のように両目を細め、キリクは嘲笑を浮かべる。いつの間にか、空達が部屋中に散開し、全方位からスカリエッティを取り囲んでいた。
 空達の両目にはキリクと同じく、白い十字紋様が瞳の中に浮かんでいる。重力子の証、眼十輝である。
 キリクを除く重力子は、1G(ちじょうの世界ではその能力(スペックの殆どを封印されてしまう。しかし無重力の中では、本来の力の全てを発揮して戦うことができるのである。
 しかし本調子(フルスペック重力子(ケダモノ達に完全包囲されながらも、スカリエッティは余裕の表情を崩さない。

「では次に、私のことについて聞いて貰えるだろうか?」

 そう言ってキリク達の返答を待たずに、スカリエッティは言葉を続ける。

「私はね……実は“魔法使い”なのだよ」

 その瞬間、無重力エレベーター内の空気が固まった。

「えーと……それはアレか? 童貞的な意味(・・・・・・で言うとんのか? オッサン」
「失敬な奴だね、君は」

 珍しく戸惑ったような表情を浮かべて尋ねる空に、スカリエッティは心外そうに眉をひそめる。

「無論、言葉通りの意味(・・・・・・・に決まってるじゃないか」

 スカリエッティはそう言って指を鳴らした。瞬間、部屋の中の照明が暗転(ブラックアウトし、無数の映像(イメージがまるで映画館のように暗闇の中に浮かび上がる。
 馬鹿な、この部屋にこんな装置(ギミックなどつけた覚えはない! キリクは驚愕に目を見開いた。呆然と立ち竦むキリクを満足そうに一瞥し、スカリエッティは言葉を続ける。

「正直、魔法という言葉はあまり適切な表現ではない。だがそれ以外に我々の世界(・・・・・の技術を上手く言い表す言葉がなくてね。……全く、言葉とは不便なものだよ」

 やれやれと肩を竦めるスカリエッティの科白に、空が飢えた野良犬のように食いついた。

「……我々の世界(・・・・・? まるでアンタがこの世界の人間やない(・・・・・・・・・・ような言い方やないか?」

 空の問いに、スカリエッティは口の端を歪に吊り上げて嗤笑する。

「如何にも、如何にもその通りだよミスター空。私はこの世界とは異なる次元にあり、異なる進化を遂げた文字通りの異世界――魔法世界ミッドチルダの人間さ」

 そう言いながらスカリエッティは白衣のポケットをまさぐり、ビー玉のような青いガラス球を取り出した。ガラス球を掌の上で転がし、スカリエッティは魔法の呪文(・・・・・を唱える。

「――セットアップ」
『Stand by Ready』

 瞬間、ガラス球が眩く輝き、一本の鋼鉄の杖がスカリエッティの手の中に顕現する。二又に分かれた黄金色の杖頭には、蒼く光る宝玉が填め込まれていた。

「デバイスという……まぁ言ってみれば魔法の杖だね、これは。こいつ(デバイスを用いることで我々“魔導師”は、森羅万象を操る秘術――魔法を使うことができる」

 例えばこんな風に、とスカリエッティはデバイスを振った。瞬間、閃光の弾丸が虚空に走り、壁面にぶつかって泡のように弾ける。

「それで? まさかそないな手品(・・を自慢するためだけに、わざわざ異世界くんだりからやって来た……なんて言わんやろな?」
「勿論。ここからが本題だとも」

 胡散そうな視線で問う空に、スカリエッティは自信に満ちた表情で頷く。

「我々が使う魔法技術は、簡単に言えば世界を書き換えるプログラムだ。魔法の行使そのものは特殊な資質を必要とするが、理論自体はこの世界の技術にも応用できる」
「……それで?」

 先を促す空に首肯を返し、スカリエッティは言葉を続ける。

「魔法も所詮は技術の一つだ、万能ではない。しかし“可能性”を拡げることはできる。閉塞状態に陥った現状を打破し、新たな未来を掴むことも夢ではない」
「一体何が言いたいんだ!?」

 勿体ぶるようなスカリエッティの言い回しに、キリクが苛立ったように声を荒げる。存外堪え性のない男だ。スカリエッティは失望したように肩を竦めた。

「では単刀直入に言おう、私は君達に二つの選択肢(ちからを与えられる――――君達が“空の玉璽(レガリア”と呼ぶモノを解き放つ力、そして逆にそれを滅ぼす力だ」

 何でもないことのような口ぶりで紡がれたスカリエッティの科白に、キリクは息を呑んだ。今、この男は何と言った?

「“空の玉璽”、その正体は世界中のあらゆるA.T.によって形成された巨大電脳空間“Sky-Link”を介し、この世界に浸透するA.T.技術の全てを掌握するシステムの総称だ」

 淡々と紡ぎ出されるスカリエッティの言葉に、キリクは戦慄に身を震わせる。この男は一体どこまで知っている? 沈黙するキリクに構わず、スカリエッティは言葉を続けた。

「一歩間違えれば世界を滅ぼすこのシステムを封印するために、<眠りの森(きみたち>は存在している。しかし君達は封印するだけで、“空の玉璽(システム”を破壊しようとはしない。それは何故か?」

 スカリエッティの問いに答えるように、無重力エレベーターが轟音を立てながら停止した。
 強化ガラス製の窓の向こうに広がる灼熱の世界、その片隅に人影のようなものが見える。ミイラだった。無数のコードに絡めとられ、煮えたぎるマグマの上に宙吊りになっている。
 窓の外を眺めながら、スカリエッティは目を細めた。その視線はミイラ男が抱えるトランクケースを射抜いている。

「――君達も迂闊には手を出せないからだ。下手にハッキングすれば量子暗号化された情報は破壊され、Sky-Link自体も消滅(システムダウンしてしまう。そうなれば別の意味で世界の終わりだ」
「しかし“空の玉璽”への接続鍵(アクセスキーはあのトランクケースの中だ。「塔」の頂点部は摂氏五百度、人間が行ける世界じゃない。“空の玉璽”は誰にも取り出せない」

 スカリエッティの言葉にキリクは頷き、苦渋の表情でそう口にした。

「魔法ならできる」

 スカリエッティは力強く断言した。

「我々の技術を使えばあの灼熱の世界に降りてケースを回収することも、システムを書き換えて“空の玉璽”を無力化することもできる。君達も使命から解放されるんだ」

 諭すようなスカリエッティの言葉に、キリクの心は揺らいだ。“空の玉璽”を滅ぼす。<眠りの森>を使命から解き放つ。自由を得る。それは堪らなく甘美な響きのように聞こえた。

「……本当に?」

 キリクは自然と口を開いていた。

「本当に、“アレ”を葬り去ることができるのか……?」

 躊躇いながら、しかし期待の眼差しで尋ねるキリクに、スカリエッティは亀裂のような禍々しい笑みを返す。だがそれすらも、今のキリクには頼もしく見えた。
 異世界から来た“悪魔”の囁きに、「石の王(キリク」の心は揺れていた。



 ――To be continued



[11310] Trick:00(後編)
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/03/31 15:05
 生まれてからずっと、憧れ(みあげ続けてきたものがあった。
 まるで水の底のように体を縛り上げる、重苦しい森の中しか知らない子供(ケダモノ達は、だからこそ目指した世界があった。
 力尽きて落ちるかもしれない、目指した先に何があるのかすらも知らない。
 それでも彼らは目指したのだ。ここではないどこかを―――“(そら”を。
 数年後。暗く重苦しい水の底から飛び立った雛鳥達は、天空の頂に君臨する王者として再び「塔」に舞い戻った。
空の玉璽(レガリア・オブ・レガリアス”の封印を至上の目的として結成された最強の暴風族(ストーム・ライダー、「トロパイオンの塔」に君臨する八人の守護者。人は彼らを、<眠りの森(スリーピング・フォレスト>と呼ぶ。
 だが、彼らはまだ気づいていなかった。
 この<眠りの森>というチームは、その始まりから既に滅びる運命にあったことを。崩壊の足音はすぐそこまで迫っているということに……。



「本当に、本当に“アレ”を葬り去ることができるのか……?」

 期待に満ちた眼差しでスカリエッティに問うキリクを、空は苦々しそうな顔で睨みつけた。
 あの馬鹿が、あんな詐欺紛いの口車に簡単に乗せられて! 柄にもなく浮かれる親友(キリクの不甲斐ない姿に、空は思わず舌打ちする。

「どーも胡散臭いのぉ、話がうますぎて怪しさプンプンや」

 二人の会話に割り込むように、空は剣呑な表情で口を挟んだ。

「……目的は何や?」
「怖いなぁ。まるで私が何か良からぬことを企んでいるような言い方じゃないか」

 空の詰問に、スカリエッティは大仰な動作で肩を竦める。

「技術は使われてこそ意味がある。だが物の価値も解らぬ愚物どもの妄執に利用されるよりも、君達のような若者の夢のために役立ててやる方が余程有意義だとは思わないか?」
「生憎とワイは物の価値も解らん愚物やからのぉ、学者サンの理屈は難しすぎてかなわんわ。そないな建前(・・やのーて、ちゃんと本音(・・を聞かせてくれんと理解できへん」
「本音? 本音ねぇ……」

 スカリエッティの表情が変わった。それまでの仮面じみた軽薄な笑みが消え、金色の双眸に真摯な光を湛えて空を見つめる。

「私もね、実は君達重力子(グラビティ・チルドレン同じ(・・なんだよ。試験官の中で生まれ、培養液の中で育った人造の生命(いのちだ。だがたとえ造られた生命でも、夢を見ることはできる。その権利はある」

 淡々と語られるスカリエッティの生い立ちを聞き、キリクや空達に少なからぬ動揺が走った。自分達と同じ業を背負う者が存在するなど、それまで考えもしていなかった。
 スカリエッティの言葉は更に続く。その声には熱がこもり、まるで演説のような様相を呈してきた。

「夢は目に見えないし形もない、言わば幻のようなものだ。だが人間は、その幻から未来を創ることができる。そしてその権利は誰にでもある。私はその手助けがしたいだけだ」

 熱弁を振るうスカリエッティの気迫に呑まれ、誰も言葉を発することができなかった。その中でも特にスカリエッティの演説に聞き入っていたのは、キリクだった。
 キリクは嬉しかった。自分達と同じ、暗闇の底で生を受けながら、それでも気高さを忘れずに生きている者がいる。スカリエッティの言葉が、その顔が、キリクには眩しかった。

「一つだけ聞かせてくれ」

 キリクはスカリエッティに問いかけた。

「夢を見る権利は誰にでもあると、貴方は言った。それは試験官の中で生まれた重力子(われわれや貴方自身も同じであるとも。では……貴方の夢は何だ?」

 キリクの問いに、スカリエッティは初めて返答に窮したように口を噤んだ。沈黙するスカリエッティを真摯に見つめ、キリクは返答を待ち続ける。
 キリクは知りたかった。自分達と同じく造られた存在であり、また研究者でもあるこの男は、何を目指してその「道」を生きるのか。何が欲しくて異世界までやってきたのか。
 沈黙を破り、スカリエッティが遂に口を開いた。キリクは期待に胸を高鳴らせる。だがその期待は、最悪な形で打ち破られることになる。スカリエッティはこう口にした。

「――完全な生命の創造」

 スカリエッティの返答に、キリクは愕然と目を見開いた。

「何、だと……?」

 掠れた声でキリクが訊き返す。まるで夢から醒めたような気分だった。否、寧ろ今、この瞬間こそが悪い夢であって欲しかった。
 打ちひしがれるキリクを余所に、無情にもスカリエッティの言葉は続く。

「私は自らが不完全な存在であることを自覚している。だからこそ私自身の手で完全な生命を創り上げたい。それが私の夢、私の願い。刷り込まれた夢だとしても、構うものか」

 現在は生体と機械の融合を主な研究テーマにしているがね、と楽しそうな笑顔で語るスカリエッティの目に、キリクは不気味に蠢く狂気の光を見た。
 キリクは漸く理解した。この男(スカリエッティは暗闇の底から光へと這い上がったのではない。逆に闇よりもなお深い深淵に堕ちたのだ。

「……目的は何だ?」

 キリクは空と同じことをスカリエッティに問った。先刻までとは打って代わり、まるで“石”のように硬い声音だった。

「貴様が欲しいのは「塔」の技術か? 生憎と研究所時代のデータや未発表の成果は、既にその殆どを公開した。我々も金が必要なのでな」

「確かにA.T.関連の技術も興味がないと言えば嘘になるが、私の興味はもっと別のところにある」

 露骨に拒絶の態度を示すキリクに、スカリエッティは酷薄な微笑を浮かべてそう口にする。その言葉は愛の囁きにも、悪魔の誘惑にも似ていた。

「――私が欲しいのは重力子(きみたちのデータだよ」
「もういい! 帰ってくれっ!!」

 キリクは絶叫した。スカリエッティの顔をこれ以上視界に留めることすら不愉快だった。無重力エレベーターが上昇を始め、一時的にまるで重力が増したような錯覚を受ける。

「残念やったなぁ、オッサン。これが<眠りの森(ワイら>の総意(こたえや」

 空がニヤニヤと微笑を浮かべてスカリエッティに話しかけた。しかしその目は全く笑っていない。

「この世界の“空”はワイらのもんや。よその世界のモンに好き勝手させるかい!」

 空の怒号が部屋の中に轟くと同時に、赤い影がスカリエッティの前に躍り出た。スピット・ファイアである。

 ――(トリック・「炎の道(フレイムロード」縛の章!!

「時よ!!」

 スピット・ファイアの怒号とともに、怒涛の如き超々高速連打がスカリエッティを襲った。
 あらゆる方向から放たれる蹴りや平手の嵐が、動作の基点となる“動き出し”を止め、顎や後頭部、首筋の神経節を撃ち抜き、運動中枢の自由を完全に奪う。

「終わりや」

 まるで“時”を止められたようにただ立ちつくすスカリエッティに、空が嘲笑とともに蹴りを放った。
 何の技でもない、ただの蹴り。しかしそのとき生じた気流は“風の玉璽”によって増幅され、不可視の刃となってスカリエッティの身体を切り刻む。
 次の瞬間、まるでタマネギの皮を剥くように、スカリエッティの化けの皮(・・・・)が剥ぎ取られた。飛散する魔力光の粒子の中から見たこともないボディスーツ姿の女が姿を現す。

「女……!?」
「何者や!?」

 警戒するように身構える空達を金色の瞳で見渡し、正体不明の女は長い金髪を片手で掻き上げながら妖艶に微笑する。
 そのとき、虚空に空間展開モニターが出現した。画面に映し出されたのは、つい今し方までこの場にいた筈のジェイル・スカリエッティだった。

『ごきげんよう、<眠りの森(スリーピング・フォレスト>の諸君。どうやら商談は決裂に終わってしまったようだね。私としては残念で仕方がないよ』
「ジェイル・スカリエッティ……!」

 憤怒の表情で唸るキリクに、スカリエッティは画面の中で酷薄に笑う。

『その通り、私が本物の(・・・ジェイル・スカリエッティだ。彼女は影武者だよ。本来ならば私自身が出向きたかったのだが、これでも追われる身でね。彼女に代理を頼んだんだよ』
「改めて自己紹介させて頂きますわ。戦闘機人(ナンバーズ二番機、ドゥーエです。以後お見知りおきを」

 そう言って端正な顔を嘲笑に歪める女――ドゥーエを、空は苦々しそうに睨みつける。

『今回、君達の理解を得られなかったことは残念だが……まぁ、気が変わったら連絡してくれたまえ。この素晴らしき技術と力が必要ならば、私はいつでも協力を惜しまないよ』

 スカリエッティの哄笑を最後に空間展開モニターが消失し、ドゥーエが優雅な動作で一礼する。

「ごきげんよう。井戸の底の王様達」

 そう言って踵を返すドゥーエの背中に、空が怒鳴った。

「待たんかい! このままワイらが黙って逃がす思うとんのかい!?」

 空の怒号とともにファルコが無数のカミソリ状のカマイタチを放つ。同時にスピット・ファイアが“炎”を生み出し、火の鳥の技影(シャドウとともに“炎の牙”がドゥーエに襲いかかる。

 ――技・FALKON×SPIT-FIRE Grand Fang Fire Birds!!

 次の瞬間、火の鳥の群れがドゥーエを直撃し、無数の燃え立つ牙がその身体を引き裂いた――――かに思われた。
 しかしバラバラに切り刻まれたドゥーエの身体は霞のように消え去り、まるで何事もなかったように無傷なドゥーエの姿が空の背後に出現した。

「ごめんなさい。そこにあったの、私が魔法で創った虚像(フェイク・シルエットですの」

 背中合わせに空に寄り掛かり、ドゥーエは事もなげにそう口にする。

「ねぇ、風の王様? 一つ訊いてもいいかしら」

 ドゥーエの問いに、空は答えない。構わずドゥーエは言葉を続けた。

「あなたはさっき、この世界の“空”は異世界人(わたしたちの好きにはさせないって格好よく啖呵切ってたけど……本当は“空の玉璽(せかい”が欲しいのはあなたの方なんじゃないの?」
「……何の話や?」

 憮然とした声音で問い返す空に、ドゥーエは「あら?」と首を傾げる。

「じゃああなたの恋人である荊の女王様に血の繋がらない妹が三人いて、その全員が重力子(グラビティ・チルドレンであることは、彼女が<眠りの森(このチーム>にいることと全くの無関係、ただの偶然なのかしら?」
「な……!?」

 空は驚愕の表情でドゥーエを振り返った。その顔に、ドゥーエが自分自身の顔を近づけ、二人の唇と唇が一瞬だけ触れ合う。

「あなたみたいに野心がある人、嫌いじゃないわ」

 金色の瞳で空の顔を覗き込み、ドゥーエは嘲笑するように酷薄に微笑む。

See you(またね. Zero boy(チンカスくん

 別れの言葉とともにドゥーエの身体が光に包まれ、空の前から忽然と姿を消した。空間転移魔法である。そのような魔法もあることを、空は初めて知った。
 空は悪態とともに壁を殴りつけた。何から何まで向こう(スカリエッティの掌の中で回っていた、それが空は腹立たしかった。
 しかもあの女(ドゥーエは最後の最後で、特大の“爆弾”まで落としていった。最悪のタイミングで、あの確信犯め! 再び壁を殴る空に、キリクが背後から声をかける。

「……どういうことだ? 空」

 まるで“敵”を見るかのような冷たい眼で、まるで“石”のように感情の籠もらぬ声で尋ねるキリクに、空は何も答えられなかった。



 リカとのウィンドウショッピングを満喫し、「塔」に戻ったシムカを待っていたのは、まるで雷のように轟く(キリクの怒号だった。

「どういうことだと訊いているんだ、空!!」
「ひゃん!?」

 談話室に入るや、いきなり不意討ちのように耳に飛び込んだ兄の怒声に、シムカは思わず悲鳴を漏らす。
 室内は異様な雰囲気に包まれていた。その場はまるで(バトル開始の直前のように殺伐とした緊張感と、息の詰まるような重苦しい沈黙にに支配されていた。
 この一触即発とした空気の中心にいるのは、安楽椅子(リクライニング・チェアに寝そべる飛行帽の男と、その男に食ってかかる白髪の青年。言わずもがな、空とキリクである。
 シムカは溜息混じりに室内を見渡した。とりあえず事情を把握したい。ちょうど手の届く位置で寛ぐスピット・ファイアの肩を叩き、シムカは尋ねた。

「あの二人、今度はどうして喧嘩してるの?」

 シムカの問いに、スピット・ファイアは狼狽したように視線を泳がせた。その露骨な態度に、シムカは不愉快そうに眉を寄せる。そんなに私と話すのが嫌なのだろうか?

「それは、だね……?」
「空がまた浮気したんだわ」

 言葉を濁すスピット・ファイアに助け船を出すように、ファルコがソファ越しに声をかけた。ファルコの科白に、シムカは「またぁ?」と呆れた表情で空を見る。

「もぉ、いい加減にしないと彼女(リカに愛想尽かされちゃうわよ? 空さん」

 厳しい口調で空を諌め、シムカはファルコへ顔を向けた。

「それでそれで? 今度は空さん、どんな人に手を出したの?」

 責めるような表情から一転し、シムカは興味津々な様子でファルコに尋ねる。その顔は身近なゴシップに飛びつく年頃の少女そのものだった。
 シムカの問いに、ファルコは勿体ぶるように重々しく頷きながら口を開いた。

「うむ。小意気でチョイ悪なセクシー金髪美女、女スパイとかが激ハマり役のクールビューティーだっただわ。<眠りの森(わたしたち>には今までいなかったタイプだわね」
「へぇ、空さんってそーゆー女性(ひと好み(タイプだったんだぁ?」
「堂々と仲間(わたしたちの前で熱いキスなんかも魅せつけてくれちゃって、まったく羨ましいことこの上ないだわ」
「きゃーっ! 空さんってばだいた~ん! キリク(おにいちゃんが焼き餅焼いちゃうのも無理ないかも」
「なぬ!? やはりキリクは“そっち”の趣味があっただわか!」

「違う! お前達の分析は0点だ!!」

 好き勝手に盛り上がる二人の会話に割り込むように、キリクがヒステリックな怒号を轟かせた。

「僕が問題にしているのは、あのドゥーエとかいう女の言っていたことが―――リカの妹達が重力子(グラビティ・チルドレンだという話が真実(ほんとうなのかということだ!!」

 キリクの言葉に、談話室は一瞬にして静まり返った。シムカが、スピット・ファイアが、部屋の中に集う重力子(グラビティ・チルドレン達が一斉にキリクへ顔を向ける。
 キリクは全国に散らばる<眠りの森(じぶんたち>以外の重力子の所在を完全に把握している。東雲市(このまちには自分達以外に重力子はいない。その筈だった。
 それ以前に、数年前、この「塔」から脱走した空やキリクを始めとする重力子は、その全員が同時期に製造された、つまり同年代の少年少女達だった。
 キリクの知る重力子(なかまたちの中で、ドゥーエが言った「血の繋がらないリカの妹」に該当する者はいない。
 それが意味するものは何か? 第二世代とも言える重力子の存在、つまり―――「塔」の研究がいまだどこかで継続させている!

「何故こんな重要なことを今まで黙っていた?」

 空を見下ろし、キリクは硬い表情で詰問した。ことの重要性が理解できない男ではあるまい。だからこそ、空が自分に何も言わなかったことがキリクには理解できなかった。

「君は全て承知の上でリカをこのチームに入れたのか? それとも君も何も知らなかったのか? いや、そもそもあの女の言葉は事実なのか? 我々を陥れる敵の讒言ではないのか?」

 次々と質問を浴びせるキリクに、しかし空は何も答えない。安楽椅子(リクライニング・チェアに身体を預けたまま、空はただ沈黙を貫く。

「答えろ、武内 空!!」

 声を荒げるキリクに、空は漸く口を開いた。

「……仮にや、仮にワイが「違う」言うたとしたら、キリク(おまえはワイの言葉を信じるか?」
「信じよう。(きみがそう言うのならば」

 空の問いに、キリクは何の迷いもなくそう答えた。自分達二人は比翼の鳥。(シムカとは違った意味で、空と自分は二人で一つ。それが相棒なのだ。何を疑う必要があるか。
 心なしか口調を和らげたキリクの返答に、空は苦笑交じりに「そうか」と返す。相変わらずに馬鹿がつくほど愚直な奴だ、この石頭は。

「失望させるようで悪いけどな、あのアマ(ドゥーエの言うとったことは事実や。リカには義理の妹が、重力子の妹が三人おる。いつも「南のおじさん」ゆー奴が預けにくるそうや」
「……そうか」

 空の告白に、相槌を打つキリクの声に動揺は見られない。漸く真実を話して貰えたという安堵が、空への信頼が、盤石な礎となってキリクの心を支えていた。

「何故黙っていた?」
「別に隠しとった訳ではあらへんよ。いつかはキリクにも話そう思うとった」

 同じ問いを繰り返すキリクに、空はそう言って肩を竦める。そう、無用な混乱を避けるために今まで秘密にしてきたが、時機がきたらキリクにも話すつもりだった。
 空にとっては、キリクも、スピット・ファイア達も、全員が等しく自らの「計画」実行のために必要な「仲間」なのだから。

「現に―――お前以外のここにいる全員には。とっくに話しとるしな」

 何気ない口調でそう続ける空に、しかしその瞬間、キリクの表情は凍りついた。今、この男は何と言った?

「なん、だと……?」

 思いも寄らない空の科白に、キリクは愕然と、まるで裏切られたような表情で周囲を見渡した。
 スピット・ファイアは「あちゃあ」と天を仰いだ。ファルコはあからさまに視線を逸らし、ドントレスやブラック・バーンなどは無視を決め込んでいる。

「どういう、ことだ? 空……?」
「ん? 何がや?」

 呆然とした表情で問うキリクに、空は惚けたように首を傾げる。否、この男は本当に何も分かっていない。

「空……君は一体何を考えている?」

 重ねて尋ねるキリクに、やはり空は怪訝そうな表情で唸るだけだった。要領を得ない二人の会話に割り込むように、そのときスピット・ファイアが口を開いた。

「……キリク。いつかは話そうと思っていたんだが、僕らは最初から空の「計画」に―――“空の玉璽(レガリア”の解放に賛成の立場で集まった」

 スピット・ファイアの科白にキリクは息を呑んだ。しかし絶句するキリクに構わず、スピット・ファイアは言葉を続ける。

「アレも、この「塔」も君の所有物ではない。寧ろ一日も早くアレを地の底から解放し世のために役立てるのが<眠りの森(われわれ>の使命だ。少なくとも、僕達はそう考えるが?」
「お前は……お前達は、自分は何を言っているのか理解しているのか!?」

 キリクは激昂したように怒号を上げた。

「アレが! “空の玉璽”が世に出れば世界が混乱する! たくさんの人が不幸になる……!! そんなことが赦される筈がない、お前達は自ら災いを解き放とうというのか!?」
「やっかましいわ! 神か、おのれは!?」

 キリクの言葉に真っ向から立ち向かうかのように、空が怒鳴り返した。安楽椅子(リクライニング・チェアから立ち上がり、空は憤怒に顔を歪めてキリクを睨む。

「世の中っちゅうんはぱんぱんに張った水バケツみたいなもんやろ、そこに新しいモン入ってくりゃさざ波も立つし波紋もできる! そらこぼれ落ちるもんかて出てくるわな!!」

 堰を切ったようにまくし立てる空の剣幕に気圧され、キリクは二の句が継げない。こんなにも感情を露わにする空の姿は初めて見た。

「……そんな落ちこぼれたクズの面倒なんぞ、人間様がいちいちみきれるかいっ! ボケッ!!」

 両目に浮かぶ眼十輝(トゥインクル・アイに憎悪の光を宿し、空は不愉快そうに吐き捨てた。その言葉に、キリクは哀しそうに顔を伏せた。

「君が、君がそれを言うのか? 空……」

 切り捨てられる痛みを、落ちこぼれた者の気持ちを誰よりも理解している筈なのに。しかしキリクの悲痛な呼びかけは、空の逆鱗に触れた。

「……何やと? 今、何て言った?」

 底冷えするような声を上げながら、空が突如キリクの胸倉を掴み上げた。

「キリク! お前! 今、ワイを憐れんだな? ワイを蔑んだな!? 見下したな? 同情したな? 所詮落ちこぼれの癖に思うて、お前、ワイを嗤ったな!?」

 キリクの襟首を締め上げながら、空は狂ったように罵声を飛ばす。

「いけない!」

 スピット・ファイアがソファから飛び出し、空を背中から羽交い絞めにした。「離せ!」と暴れる空をキリクから引き剥がし、床の上に組み伏せる。

「キリク! おのれ、ワイをそんな目で見てたんか!? お前だけは信じとったのに、本当の友達や思うとったのに!!」
「……それは僕の科白だよ、空」

 喚く空を哀しそうに見下ろし、キリクはぽつりとそう呟いた。

「やめて! こんなの私、見たくないよ!?」

 二人の間に身を割り込ませ、シムカが泣きそうな表情で叫んだ。シムカの悲痛な声に、空も、キリクも、一瞬言葉を失った。

「お兄ちゃんも、空さんも……ううん、私たち重力子は皆、きっと“心”はまだあの塔に閉じ込められているんだと思う」

 淡々とした声で語るシムカの科白に、談話室は再び静まり返った。誰もが口を閉ざして沈黙する中、シムカは「でも」と言葉を続ける。

「でもアレを、玉璽(レガリアの重さを背負って飛べる“翼”を持つ人が、この広い空の下なら必ずいると(シムカは信じる!」
「……そんな存在するかどうかも分からない人間(だれかをアテにして、アレを世に放つと言うのか?」

 キリクが低い声でシムカに問う。まるで“石”のように硬く冷たい声だった。

「笑い話にもならない。お前達は全員0点だ!」

 怒りを押し殺した声でそう吐き捨て、キリクは踵を返して談話室から退出した。まるで見放したように、見限ったように。
 その日を境に、キリクが「塔」に戻ることはなかった。



 夢を見ていた。暗い暗い井戸の底の夢、深く重苦しい森の中の夢。
 忘れたい、だが忘れられない、記憶の底に焼きつけられた忌まわしい悪夢を見ていた。
 ずっと昔、まだ「塔」の研究所にいた頃、重力子(グラビティ・チルドレンの中でも特に能力の高い者を“選別”して、その選にもれた者はまとめて“処分”するという話が出たことがある。

 ―――当方としてもこれ以上結果の出ない研究に対して資金は出せないのでね……。

 ―――そろそろ何らかの成果をだね。

 見知った研究員と見知らぬ大人達が交わすおぞましいやり取りを、子供達は機材の陰から息を殺して聞いていた。
 大人達の話は小難しく、まだ幼い彼らには半分も理解することはできなかったが、自分達の中の何人かが「落ちこぼれ」として捨てられることだけは分かった。
 そのときの「処分」が具体的に何を指すかは、結局最後まで分からなかった。
 それは「塔」の崩壊から数年が経った現在でも同様であり、真相は「塔」の最深部に眠る<空の玉璽>と呼ばれる秘宝とともに闇の中にである。
 何故ならば―――、

 ―――なっ!? おい、君っ!

 ―――やめなさい、キリク!!

 ―――ふざけるなっ! 勝手に創っておいて、いらなくなったら捨てるのか!?

 重力子No.1の能力を持つキリクが身を張って、“選別”は結局阻止されたのだから。
 ちなみに、その“処分者リスト”の中には、SA-503B――後に「武内 空」と名乗る少年の名前も記されていた。

 ―――Hey!(よう Zero boy(チンカス.



「うわぁあああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 自分自身の絶叫によって、空は浅い眠りから叩き起こされた。その隣ではリカが眠そうに眼を擦りながら上体を起こしている。

「ぅん……空、一体どうしたの?」

 心配そうな顔で声をかけてくる恋人に、空は「悪ぃ」と謝罪する。

「ちぃと夢見が悪かっただけや。キリクのアホと喧嘩したんが堪えとるんやろか」
「キリクさんと? 珍しい……」

 空の意外な言葉に、リカは目を瞬かせた。ちょっとした口論ならば日常茶飯事な空とキリクであるが、ここまで尾を引いているケースは本当に珍しい。寧ろ初めてではないか。

「そらそうや。初めてやもん、あいつと“本気”で喧嘩したんは」

 そう言って自嘲する空の顔に、普段の余裕はない。

「なぁ、リカ。俺どないすればええんやろ……?」

 今まで見たこともないような弱々しい顔で尋ねる空に、リカは思わず息を呑んだ。
 リカの知る空は常に飄々として、超然として、決して己の“弱さ”を他人に見せるような男ではなかった。こんなにも無防備に己をさらけ出す姿は、初めてである。
 無理も無いことかもしれない。リカは愛おしむような目で空を見た。
 戦でこそ「王」と呼ばれ、その圧倒的な力と無慈悲な戦い方で数多の敵を葬ってきたが、空も生身の人間である。寧ろ誰よりも繊細で、心優しいことをリカは知っている。
 きっと空は戸惑っているのだろう。初めて経験する親友との、己の半身とも呼べる存在との仲違いに。
 今の空の姿は――このような例えは心外かもしれないが――(イッキと喧嘩した(リンゴに似ている。リカは思わず噴き出した。愛おしくて、可愛らしくて。

「大丈夫よ、空。キリクさんはいい人だもの、話の通じない人ではないわ」

 元気づけるように明るく声をかけ、リカは空を抱きしめた。

「ちゃんと話し合えばきっと分かり合える、分かり合えたらまたやり直せる。何度だって。だって、それが仲間なんだから」
「……そうやなぁ、きっとそうや」

 リカの胸に抱かれ、空はそう言って安心したように目を閉じた。



 だが結局、二人が分かり合えることはなかった。そして一度分かたれた道を進めば、次に出会うときは―――ぶつかり合うしかない。
 空がキリクから宣戦布告を受けたのは、“異世界人”ジェイル・スカリエッティとの会談から一週間後のことだった。

「空、いい加減に目を覚ませ!」

 まるで血のように真っ赤な月明かりに照らされながら、キリクは怒号とともに空に殴りかかった。襲いくる暴風の壁に抗いながら空に肉薄、その横面を殴り飛ばす。

「お前は誤解している……! トロパイオンの塔は天国への階段でも、空へ至る「道」でもない!!」

 悲痛な表情で叫ぶキリクの鼻先に、今度は空が、報復とばかりに頭突きを炸裂させる。

「いい加減にすんのはオノレの方や、キリク!」

 鼻血とともに仰け反るキリクを睨みつけ、空は口元から血を滴らせながら吐き捨てた。

「ワイは必ずこの“空”を手に入れる、そんでワイらを失敗作(おちこぼれ扱いしたこの世界を見返す! そのためだけにワイは今まで生きてきたんや、今更その夢を手放せるかい!!」
「そんなものは本物の夢じゃない! 今の君が見ているのは、夢は夢でも世界を滅ぼす悪夢だ!!」

 二人の憎悪が、殺意が、欲望が、信念が、複雑に入り乱れながら(トリックとともにぶつかり合う。殺し合う。破壊し合う。

「空ぁああああああっ!!」
「キリクぅうううううっ!!」

 二人の絶叫に呼応するように両足の玉璽(レガリアが覚醒、共鳴しながらその力を解放する。
 それはまるで地獄のような死闘だった。たとえどちらが勝利を手にしたとしても、得られるものは何もない。
 それでも二人は戦い続ける。救いのない終わり(ゴールに向かって真っすぐに堕ち続ける。いつの日か、この悲惨な戦いも、誰かのためには必要だったと言われることを信じて……。





 この戦いで空は両足の腱の切断、全身十数ヶ所の複雑骨折、内蔵破裂などの重傷を負い、二度とライダーとして戦えない身体になった。
 玉璽(レガリアを失い、ライダーとしての生命も絶たれた空は、しかしそれまで以上に「塔」の征服と“空の玉璽(レガリア”の奪取へ執念を燃やすようになる。
 一方戦いに勝利したキリクは野山野家に預けられた幼い第二世代重力子(グラビティ・チルドレン達を仲間に引き込み、「塔」と“空の玉璽(レガリア”の守護者として<眠りの森(スリーピング・フォレスト>を再構成した。
 空とキリク。かつて重力子(グラビティ・チルドレンの中でも特に深い絆で結ばれ、互いが互いの片翼として生きてきた親友同士が、再び同じ「道」を歩むことは二度とあり得ない。
 一度は分かたれた二人「道」が再び交錯するのは、七年後―――とある少年が失われた筈の“風の玉璽”を手に入れたとき。だがそれは、まだまだずっと先の話である。



 ――The END



[11310] Trick:12
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/01/06 16:14
 月の明るい夜だった。静寂の支配する街の中、冴え冴えとした月明かりの下を、彼らは風とともに駆け抜ける。
 お揃いのパーカーとジーンズ、そしてA.T.(エアトレックに身を包み、亀――どう見ても蛙にしか見えないが――を模した仮面(ヘルメットを被る男達。
 彼らの名は<ミュータント・タートルズ>。住宅街の北側を縄張り(エリアとする暴風族(ストーム・ライダーである。
 ストーム・ライダー、嵐を駆る者達。陽が沈み、月と闇と静寂が支配する夜の街は彼らの世界だった。

 A.T.の駆動音を響かせながら、民家の屋根から屋根へと飛び石のように伝い、<ミュータント・タートルズ>のライダー達は息を切らして夜の住宅街を疾走する。
 (バトルの練習? 縄張り(エリアの見回り? どれも違う。彼らはただ逃げている(・・・・・のだ。自分達を喰い殺そうとする恐るべき“化け物”から。
 屋根瓦に躓き、ライダーの一人が体勢を崩した。瞬間、彼の背中に得体の知れない巨大な(シャドウが―――“化け物”が(あぎとを広げて襲いかかる。
 鋭い“牙”が肉を引き裂き、噴き出た鮮血がまるで「道」のように虚空を染める。“食いカス(ライダー”を屋根の上に無造作に叩きつけ、“化け物”は次の獲物に狙いを定める。
 周囲の大気が不気味に揺らめき―――瞬間、緩慢に持ち上げられた“化け物”の指先から鋭い閃光が放たれた。
 撃ち出された閃光の弾丸はまるで生き物のようにうねるながら虚空を切り裂き、逃げ惑う獲物(ライダー達の背中を正確無比に射抜く。
 力尽き、まるで糸の切れた人形のように次々と倒れ伏す<ミュータント・タートルズ>のライダー達を眺めながら、“化け物”はまるで子供のように愉しそうに笑った。
 甲高く響く哄笑に合わせて、黒いジャケットの背中に刺繍された族章(エンブレムが風にはためく。洗練された、まるで羽を広げた意匠(デザインのエンブレムだった。

「……テメエか。最近このへんのチームを根こそぎ刈り取ってるふざけた野郎は、この俺の獲物を横奪りしやがる馬鹿は」

 背中に突如かけられた不機嫌そうな声に、“化け物”は顔を上げながら背後を振り返った。全身を覆う技影(シャドウが消え去り、小さな少女の姿が露わになる。
 ビルの屋上から彼女を見下ろすのは、左目に眼帯を着けた小柄な少年だった。上半身には少女と同じ黒いジャケット、暴風族<小烏丸>のユニフォームを羽織っている。咢である。

「どういうことかキッチリ説明して貰おうか。ええ? スバル!!」

 怒気を孕んだ声で問う咢に、少女は金色の(・・・瞳を細めて嗤った。





 ジンジャエール、コーヒー牛乳、栗ジュースの素、梅こぶ茶。それらを絶妙な配合でミックスした基本(ベースに、生卵、焼肉のタレ、マヨネーズなどを混入(トッピングしていく。

「……何それ?」

 げんなりとした表情で尋ねるスバルに、イッキは「ああ」と得心したように頷いた。そう言えばこいつは昨日は途中撤退したから知らないのか。

「ふっふっふ、謹んで聞きやがれ小娘! 今から行う校庭一周仁義なきタイムアタック、最下位(ドベの奴はこの特製ウルトラデンジャースペシャルブレンド飲料一気飲みだゴルァ!!」

 悪魔のように凶悪な笑顔で脅すイッキに、スバルは「ふーん」と緊張感のない声で生返事を返す。この時点で誰が飲むかは大体予想がついた。

「それじゃーあたしも便乗しよっかなー?」

 そう言ってスバルがおもむろに取り出したのは、バニラ味のカップ入りアイスクリーム。紙製の使い捨てスプーンで掬い、コップの中で波立つ液体にぽちゃりと落とす。

「ちょ、おまっ! 固形物はまだ解禁してねーぞこの野郎!?」
「つーかそれハーゲン○ッツじゃねーか! このガキ惜しげも無く入れやがったぞ!?」
「スバル……恐ろしい子っ!」

 戦慄するイッキ達を余所に、スバルはふと周囲を見渡し、普段の面子には一人足りないことに気づいた。
 咢がいない。いつもは練習に参加しないにしても、一応顔だけは出している筈なのに。

「ねぇリンゴちゃん。アギトは?」

 スバルの問いに、リンゴは「あー」と返答に困ったように視線を逸らした。

「何かさぁ……いきなり「東京に行ってくる」とか言って、今朝一番に出かけちゃった」
「東京?」

 リンゴの返答に、スバルは怪訝そうに首を傾げた。



 同時刻、咢は東京行きの新幹線に揺られていた。窓枠に肘をつき、ガラスの向こうを流れる景色をぼんやりと眺める。

「……どう思う? 亜紀人」

 窓の外を眺めたまま、まるで独り言を言うように問う咢に、咢の中から(・・・亜紀人が答える。

(あれはどう見てもスバルちゃんだった。でも……)

 言葉を濁す亜紀人に同意するように、咢も「そうだな」と頷く。見た目は確かにスバルと瓜二つだった。だが“アレ”は何かが違う。
 座席の背もたれに身体を預け、咢は昨夜の邂逅(であいを反芻する。思い出すのも苛立たしい、屈辱的な(バトルだった。



「どういうことかキッチリ説明して貰おうか。ええ? スバル!!」

 咢の問いに、“スバル”は無言で嘲笑し、屋根瓦を蹴って獣のようにビルの上の咢へ跳びかかった。
 まるで弾丸のような“スバル”の突進を躱し、咢は獰猛に嗤う。面白い、この俺に牙を剥くか。
 向こうがその気(・・・ならばこちらも手加減はしない。口が利ける程度に切り刻ん(あそんでから、ゆっくりと吐かせてやる。

「いい夜だなぁ、スバル! けどガキに夜遊びはまだ早ぇ、帰ってママのおっぱいでも吸ってな!!」

 挑発する咢に、“スバル”は依然として沈黙を貫く。代わりに拳銃のように突き出された細い指先に光が集束し、撃ち出された閃光の弾丸が咢に迫る。
 咢は舌打ちして身体を捻った。左右の太腿と両足首から垂れ下がる鉤爪(フックのついた(ベルト、そのうちの一本が鞭のように振るわれ、飛来する光弾を叩き落とす―――筈だった。
 しかし光弾は帯を貫通し、咢の右肩を撃ち抜いた。肉も皮膚すらも裂けていない筈なのに、まるで焼いた鉄棒でも捻じ込まれたような激痛が走る。咢は声を殺して呻いた。

「――ファック!」

 撃たれた右肩を庇うように左手で押さえ、咢は怒号とともに両足を振り回した。今は三本に減った両脚の帯が“スバル”に絡みつき、先端の鉤爪が肌に突き刺さる。
 獲った! 咢は床を踏み締めて急停止した。その反動で帯に拘束された“スバル”が引き寄せられる。咢自身も再び床を蹴って“スバル”に接近し、右足を水平に蹴り上げた。

 ――(トリック・AGITO Ride fall Bloody roll. soul 1800°!!

 まるで独楽のように回転しながら、咢は足裏のノコギリ状のホイールで“スバル”を切りつける。だが次の瞬間、まるで霞のように“スバル”の身体が忽然と消え去った。

「何!?」

 咢は驚愕に目を見開いた。支えを失った帯が次々と落下し、鉤爪が甲高い音を立てて床上を跳ねる。
 手応えは確かにあった、蜃気楼を利用した幻影ではない。では今のは何だ? まさか、これが噂の―――、

「質量を持った分身だと……!?」

 愕然と叫ぶ咢の背後に、まるで闇の中から這い出るように“スバル”が音もなく出現。咢の後頭部を鷲掴みし、床上に力任せに叩きつける。

「がっ!?」

 小さく悲鳴を上げる咢の襟首を掴み直し、“スバル”は右腕で高々と咢を持ち上げた。あり得ない! 端正な顔を苦悶に歪めながら、咢は驚愕の目で“スバル”を見下ろす。
 咢の体格は平均的な中学生に比べて遥かに小柄であるが、それでも小学生(スバルよりは大きい。その咢を片手で持ち上げるとは、この子供(ガキはどんな腕力をしているのだ。
 戦慄する咢を上目遣いに見上げ、初めて“スバル”が口を開いた。

「躾のなってない小鮫ちゃんね。あたしが調教してやろうかしら?」

 外見とは不相応(ミスマッチな妖艶な声で囁きながら、“スバル”は咢の頬を左手で撫でる。まるで氷のように冷たい掌だった。
 大気が揺らめき、“スバル”の周囲に幾つもの光球が顕現する。つい先刻、<ミュータント・タートルズ>の(ライダー達を撃墜し、咢の右肩を撃ち抜いたものと同種の魔力弾(・・・である。
“スバル”の顔が嘲笑に歪む。直後、至近距離から射出された無数の魔力弾が咢の身体を撃ち抜いた。

「ぐぅゎぁああああああああああああっ!!」

 全身に走る激痛に絶叫しながらも、咢は毅然とした瞳で“スバル”を睨みつける。“スバル”は意外そうに目を見開いた。

「へぇ、これだけ撃ってもまだ気絶し(おちないんだ? 玉璽持ってないから(・・・・・・・大したことないって思ってたけど、その精神力(タフネスは驚異的ね」

 じゃあこれはどうかしら? まるで新しい玩具を見つけた子供のように無邪気に笑う“スバル”の背後に、再び無数の魔力弾が顕現する。今度は先刻よりも数が多い。

「こ、の……ド腐れファッキン野郎がっ!」

 悪態を吐きながら咢は最後の力を振り絞り、“スバル”の鳩尾を狙って渾身の蹴りを放った。
 しかし咢の爪先は“スバル”の腹に突き刺さる刹那、硬い“壁”のような何かに受け止められた。

「バリア、だと……っ!?」
「その通り。それにしても驚いたわ、まだこんな悪足掻きができるほどの力が残ってたなんて」

 愉しそうに嗤いながら“スバル”は右手に力を籠め、咢の首筋に爪を突き立てる。浮遊する魔力弾が輝きを増し、満身創痍の咢へ無慈悲に撃ち放たれる―――そのとき、

 ――「荊棘の道(ソニアロード」!!

 どこからともなく響く凛とした声とともに、高速で飛来した無数の不可視の弾丸が“スバル”を背中から撃ち抜く。
 不意討ちに驚き、“スバル”は思わず咢を取り落とした。呼吸困難から解放され、咢は大きく咳き込みながら顔を上げる。
 貯水塔の上に人影が見える。漆黒のマントを風になびかせる、スク水シルクハットの変態仮面である。

「謎の助っ人! スク水――じゃなくてっ――もといクロワッサン仮面、参上!!」

 ポーズをキメる仮面の痴女を胡散そうな顔で見上げ、“スバル”は興味が失せたようにくるりと身を翻した。

「おいっ! 待ちやがれ!!」

 叫ぶ咢を背中越しに振り返り、“スバル”は晴れやかな笑顔で口を開いた。

「邪魔が入ったし、何かもう飽きたからあたし今夜は帰るね。またいつか遊びましょう? 小鮫ちゃん」

 そう言って“スバル”は床を蹴り、夜の闇の中へと飛び去った。その場に残されたのは咢と、状況が呑み込めないスク水仮面の二人だけである。咢は屈辱に絶叫した。



(――ギト、アギト!)

 頭の中に木霊する亜紀人の声に、咢は目を覚ました。どうやらいつの間にか寝てしまっていたらしい。

(着いたよ、咢)

 亜紀人の言葉の通り、窓の向こうには「東京駅」という文字が確認できる。そうか、東京に着いたのか。
 眠気眼をこすりながら新幹線を降り、プラットホームを横切り、自動改札口を潜り、そこで咢は大きく背伸びをする。休眠(スリープ状態の頭が漸く回転を始めた。
 東京駅(ここから“目的地”まではまだ何本か列車を乗り換える必要があるが、面倒くさい。咢は人ごみでごった返す構内を抜け、駅の外へと飛び出した。
 A.T.を駆り、迷宮のように複雑に立ち並ぶビル群の中を疾走する。不味い風だった。窮屈で埃臭い大都会(コンクリート・ジャングルの空気が、咢はどうしても好きになれない。
 10分ほど走り続け、咢は遂に目的地へと到着した。眼前にそびえ建つのは18階建ての巨大な建物(ビル、そのの入り口には「警視庁」と堂々と記されている。

「帰ってきたんだな、俺達……」
(うん、咢……)

 古巣(・・を前に感慨深そうに呟く咢に、亜紀人も同意の声を返す。警視庁特殊飛行靴暴走対策室、通称マル風Gメン。二人がこの部隊を脱走してから、一ヶ月が経とうとしていた。
 かつて咢は“マル風”専属のライダーとして、全国を飛び回りながら各地で頻発するA.T.犯罪の解決に奔走していた。
 その活動歴は数年にも渡り、暴飛新法が成立する以前、“マル風”の前身である対A.T. 特殊部隊(スペシャルチームの時代から在籍する古参(ベテランである。
 とある経緯から、今でこそ野山野家に身を寄せることになったが、やはり(じぶんにとって「仲間」とは<小烏丸(イッキたち>ではなく“マル風”の隊員達の方であるらしい。
 その証拠に脱走から一ヶ月近くが経った今もなお、咢は古巣への―――家族(・・への未練を捨てきれていない。親がいない咢にとって、部隊の仲間達は家族も同然だった。

「よぉ、咢! 元気だったか?」

 庁舎に入った咢を、トレンチコートとソフト帽を身につけた初老の男が気さくな挨拶とともに出迎えた。“マル風”の隊員(なかまの刑事である。

「まぁ、ボチボチってとこかな」

 刑事の問いに、咢ははにかんだような表情で答える。イッキ達の前では一度も見せたことのない顔だった。
 咢はふと、顔なじみの刑事の傍に見慣れない人影が立っていることに気づいた。長身の若い女である。

「そっちは?」

 咢の問いに、刑事は「ああ」と思い出したように傍らの女性を振り返った。

「補充要員として先日(このまえ配属になった新人だ。名前は――」
「峰 不二子です。よろしくお願いします」

 刑事の科白を引き継ぎ、女――峰 不二子と名乗った――はにこりともせずに会釈した。峰 不二子、あからさまな偽名である。冗談(ジョークのつもりだろうか?

「ははっ、随分と筋肉質(ガチムチな峰 不二子もいたもんだなぁ!」

 咢はわざとらしく笑い声を上げ―――気がつけば床の上に羽交い絞めにされていた。床面に押し当てられた頬がひりひりと痛い。

「気ぃつけろよ? こいつ口より先に手が出る性格(タチだから。室長(ボスの奴もこの前同じこと言って殴り合いになったからなぁ」
「さ、先に言いやがれ! そーゆーのは……」

 組伏せられたまま恨めしそうに睨む咢に、刑事は「悪ぃ悪ぃ」と言いながら笑う。

「こいつの本名は(トオルだ。ま、よろしくしてやってくれや」

 刑事のその科白を合図に、峰 不二子改め透は漸く咢を拘束する手を放した。やはり偽名だったらしい。では何故こんな目に遭う? 全く訳が解らない。

「今日は厄日だ……」

 咢は力なく呟きながらよろよろと起き上がった。最早悪態を吐く気力すらも枯れ果てていた。



「――それで? 今日はどうした。わざわざ警視庁(こんなトコまで足を運ぶのは余程のことがあったからだろ?」

 咢を応接室に案内し、刑事はソファに腰掛けながら話を切り出した。刑事に促され、咢も向かい側のソファに座る。テーブルの上に出された緑茶を啜り、咢は口を開いた。

「最近、東雲市の暴風族(チームが根こそぎ消滅(ゲットアウトする事件が起きてる。それも<小烏丸(おれたち>のエリア周辺の連中が、集中的に」
「ああ、“マル風(こっち”でも把握してる。(おまえが派手にやってるって室長が嘆いてたぞ?」

 刑事の相槌に「俺じゃねぇよ」と憮然と返し、咢は話を続ける。

「……その犯人と思しきライダーと、昨夜(きのう戦った」

 咢の言葉に、刑事の眉がぴくりと動いた。

「そいつは本当か!? 一体どんな奴だった?」
「年齢は十歳前後、性別は女。只者じゃねーぞ、この俺がかなり苦戦した(・・・・・・・相手だからな」

 刑事の問いに、咢は淡々と情報を口にする。仲間(スバルかもしれないという情報を明かさなかったのは、彼女を庇ったからではない。咢が確信を持てなかったためである。
 ちなみに「負けそうになった」とは言わず「かなり苦戦した」と表現をぼかしたのは、単なる咢の矜持(プライドの問題だった。
 咢の言葉に、刑事は「そこまでか」と苦々しそうな表情で唸った。
 咢は“マル風”の切り札(エースである。その彼をして「只者ではない」と言わしめるとは、その敵の実力は一体どれほどのものだというのか。

「それに奇妙な――――妖術じみた(トリックを使いやがる。下手に接触するのは自殺行為(いのちとりだ、(るならA.T.戦車でも持ち出して徹底的に(れ。一応忠告したからな?」

 大袈裟とも言える咢の忠告に、刑事はしばし絶句した。咢はこんなところで冗談を言う男ではない。それに数多の死線を乗り越えてきた彼の観察眼は本物である。
 ならばその忠告も真実であると受け止めるべきか、そんな化け物がいると受け入れるべきか。刑事はふと、先日上司から聞かされた話を思い出した。

「……なぁ咢。お前、“魔導師”って知ってるか?」
「魔導師?」

 刑事の問いに、咢は胡散そうに眉を寄せる。噂に聞いたことはある。機械仕掛けの“魔法の杖”を片手に、空を飛び、奇跡を起こす現代の魔法使い。
 五、六年前にも海鳴とかいう街で目撃されたと聞いているが、都市伝説か新手の暴風族だろうと真面目には相手にしなかった。それが今更どうしたと言うのか?

「つい二、三日前の話なんだがよ……出た(・・んだそうだ。魔導師が、東雲市に。室長の知人が見たらしいぜ?」
「はぁ?」

 続けられた刑事の言葉に、咢は思わず素っ頓狂な声を上げた。

「何だそりゃ。まさかそいつがその“魔導師”だって言うのか?」
「かもしれねぇ」

 茶化すような咢の科白に、しかし刑事は真面目な表情で頷く。咢は今度こそ絶句した。何だそれは。まさかこいつも室長(あいつも、そんな都市伝説(よたばなしを真に受けているのか?

 咢が口を開こうとしたそのとき、応接室の扉が乱暴に開け放たれ、血相を変えた警官が室内に飛び込んできた。

「部長、緊急事態です! 間垣が……暴飛靴新法違反容疑で先日逮捕した間垣が、拘置所から脱走しました!!」
「何だと……!?」

 警官の報告に、刑事は驚愕の表情で訊き返す。咢も思わず間を見開いた。<髑髏十字軍(スカル・セイダーズ)>の間垣 浩二。一ヶ月前、咢が最後に逮捕した暴風族である。
 咢は弾かれたようにソファから立ち上がった。間垣がどうやって拘置所から脱走したかは定かではないが、どこへ向かうかは察しがつく。東雲市、イッキのところである。
 間垣はイッキとの勝負(パーツ・ウォウ)の敗北によってチーム解散に追い込まれ、そのことでイッキを恨んでいる。復讐に向かうと考えるのが妥当だろう。

「帰るのか? 咢」

 (でぐち)へ急ぐ咢の背中に、刑事が声をかけた。刑事の問いに、咢は肩越しに振り返る。まるで血に飢えた牙のようにギラギラとした鋭い眼光だった。

「咢 戻ってくる気はないか?」

 俺も、部隊の仲間達も、お前達(・・・)の帰りを待っている。重ねてそう口にする刑事に、咢はゆっくりと首を振る。

「……俺は、俺達はもう、“マル風(あんたら)”のためにも、兄貴(あいつ)のためにも走らない」

 咢の返答に、刑事は「そうか」と笑う。親離れする我が子を惜しむような、寂しそうな笑顔だった。咢は何かを振り払うように一瞬目を伏せ、そして「でも」と言葉を続けた。

「でも一般市民(・・・・)としてなら、市民(おれたち)の安全を護るお巡りさんに捜査協力するのもやぶさかじゃねぇ……かもな?」

 そう言い残して立ち去る咢の背中を、刑事は無言で見送った。どうやらフられてしまったらしい、だが脈はまだあるだろうか? 刑事は煙草に火を点けた。

「よろしかったのですか?」

 傍に控える透の問いに「いいんだよ」とおざなりに答え、刑事は紫煙を吐き出す。白い煙が部屋の中を漂い、やがて消えた。



 ファック! 大都会(コンクリート・ジャングル)をA.T.で疾走しながら、咢は行き場のない苛立ちに悪態を吐いた。

(咢。僕何だか胸騒ぎがするよ)

 不安そうな亜紀人の問いに、咢も「ああ」と首肯する。胸騒ぎがするのは彼も同じだった。最近、周囲でおかしなことばかりが起きている。
 もう一人のスバル、間垣の脱走、それに魔導師……。ファック! 一体何がどうなっている、俺達の周りで何が起きているんだ。
 胸の中で蠢く不愉快な予感を振り払い、咢は駅へ急ぐ。帰ろう。東雲市へ、<小烏丸>へ。“目的”を果たすために、あのチームはまだ必要(・・)なのだ。
 頼むから、これ以上厄介事(もんだいごと)なんて起きてくれるなよ? 不味い都会の空気を噛みしめながら、咢は生まれて初めて神に祈った。

 しかし咢の祈りも虚しく――――新たな事件は既に起きていた。
 東雲東中学校の屋上、<小烏丸>のエリアを示すエンブレム・エンブレムに上貼りされた一枚のステッカー。獣の顔を模したそのエンブレムは宣戦布告の証だった。
 総勢千人以上とも言われる日本最大の広域暴風族<ベヒーモス>が、遂に<小烏丸(イッキたち)>に牙を剥いたのである。



 ――To be continued



[11310] Trick:13
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/01/06 13:39
 その奇妙な面会者が間垣 浩二のもとを訪れたのは、彼がマル風Gメンに逮捕され、拘置所に収容されてから一ヶ月が経とうとするある日のことだった。
 存在しない筈の間垣の妹を名乗るその少女は、面会室を二つに区切るガラス壁越しに、まるで値踏みするような目で間垣を眺め回しながら、まるで機械のように淡々と尋ねた。

「間垣 浩二ですか?」
「そうだよ」
「暴風族<髑髏十字軍(スカル・セイダース)>元総長の間垣 浩二ですか?」
「そうだっつってんだろ」
「<小烏丸>の南 イッキに敗れ、“マル風”室長の鰐島 海人によってこの拘置所に放り込まれた間垣 浩二ですか?」
「……テメエ、喧嘩売ってんのか!?」

 剃り上げた頭に青筋を浮かべ、間垣は怒号を上げながらスチールの机を殴りつけた。憤怒の形相でガラス壁越しに睨む間垣を見返し、少女は金色の眼(・・・・)を細めて笑う。

「ねぇ……もしも今すぐ拘置所(ここ)から出られるとしたら、貴方は何がしたいですか?」
「ああ?」

 何の脈絡もない少女の問いに、間垣は怪訝そうな顔で思わず訊き返す。少女は無邪気な笑みを浮かべ、重ねて尋ねる。

「南 イッキに復讐したいですか?」
「―――っ!?」

 その瞬間、間垣の表情が明らかに変わった。少女は酷薄に微笑しながら言葉を続ける。

「私、実は魔法使いなの」

 その声は、間垣のすぐ背後から囁くように聞こえてきた。いつの間にか、ガラス壁の向こうの少女は姿を消している。間垣は驚愕の表情で背中を振り返った。
 少女はそこにいた。禍々しい悪魔のような笑みを顔に貼りつけ、慈母のような声で間垣に語りかける。

「貴方の願いを叶えてあげる、貴方に“力”を与えてあげる。その代わり……貴方も一つだけ、私のお願いを聞いてくれますか?」

 歌うように言葉を紡ぎ、少女は何かを間垣の前に差し出した。一足のA.T.である。尋常でない“(オーラ)”を感じる、まるで伝説の玉璽(レガリア)のように。
 間垣はごくりと生唾を呑み込み、少女が差し出すA.T.を手に取った。こうして“悪魔”との契約はなされたのである。

 それは間垣 浩二が拘置所を脱走する、僅か十数分前の出来事だった。





「――超獣(ベヒーモス)?」
「この辺りで……いや、恐らく日本最大の広域暴風族だよ」

 怪訝そうな顔で尋ねるスバルに、ブッチャは硬い表情でそう答えた。

「傘下のチームは大小合わせて百五十以上。その構成人は千人を超え、<ベヒーモス>が身を揺すれば弱小(カス)暴風族(チーム)が十匹潰れると渾名されるほど、他チームに強大な影響力を持つ怪物さ」
「そんなに……?」

 脅すようなブッチャの科白に、スバルは思わず身を震わせる。圧倒的な戦力差である。千人もの大人数に一度に襲われたら、<小烏丸>などひとたまりもない!

「それがどうした?」

 先頭を走るイッキが振り返り、凄みのある声でスバル達に言った。

たかが千人ぽっち(・・・・・・・・)、返り討ちにしてやる」

 イッキの言葉に、カズやオニギリが同意するように頷く。

「そうだな」
「襲ってくる奴は即ブッ殺! エリアを侵す奴は誰であろうと血祭りだぜ」

 ある意味では頼もしく聞こえるカズ達の科白に、しかしスバルは悲しそうな顔で溜息を吐く。
<小烏丸(このチーム)>に入ったのは、彼らの努力を無駄にさせたくないからだった。しかし(バトル)や喧嘩は、相変わらず自分は好きになれない。
 しょげ返ったように俯くスバルの頭を、ブッチャの大きな掌が撫でた。スバルは顔を上げ、ブッチャを見上げる。

「心配することはないよ、これは暴風族同士の(バトル)だからね。<ベヒーモス(かれら)>はパーツ・ウォウのルールに則って試合(バトル)を申し込み、<小烏丸(ぼくら)>は挑戦(それ)を受けた。別に喧嘩する訳じゃない」
「ブッチャ君……」

 なおも不安を拭えないスバルに、カズやオニギリも横から声をかける。

「そうそう! それにステッカーを上貼りしてきたのは<超獣(むこう)>なんだから、(バトル)って言ってもどうせFクラス(ダッシュ)だしな」
「負けて当然、勝ったら一気に英雄(スター)に! こんな美味しいチャンスはねぇぞ?」

 浮かれたように笑うカズ達の背中を、リンゴは不安そうに見つめていた。いけない、<小烏丸(かれら)>は<ベヒーモス>と戦う本当の意味を理解していない。
 暴風族<ベヒーモス>。Dクラス暴風族でありながら、そのメンバーは一人一人が千人もの中から厳選された精鋭、全員がAクラス級の実力を持つ一騎当千の猛者達である。
 そしてその全ての頂点に君臨する男こそが“超獣”宇童アキラ、「史上最強のDクラス」と呼ばれる男である。
 三連勝しなければ“上”へ上がれないというパーツ・ウォウのルールを逆用し、三回に一回は負ける(・・・・・・・・・)ことでDクラスに留まり続ける狂人。正真正銘の怪物(バケモノ)である。
 結成して一ヶ月足らずの<小烏丸(イッキたち)>が太刀打ちできる相手ではない。リンゴの不安は増すばかりであった。

「でもそんな凄い人達と戦うのに……こんなこと(・・・・・)してていいの?」

 リンゴと同じ結論に至った――のかは定かではないが――スバルが不安そうな顔でイッキに尋ねる。<小烏丸>は今、何故か商店街へ遊びに来ていた。

「ねーねー、イッキぃ? もっとこう……地獄の特訓とか、新技の開発とか、勝利のポーズのバージョンアップとかしないでいいの?」
「ん、あるぞ? 新必殺技」
「ホント!? 魅せて魅せて!」
「んー、そのうちな」
「イッキのケチー」

 二人の会話は、いつしか特訓の是非からイッキの新技へと話題が移り、<ベヒーモス>など関係ない和気藹々としたものと化していた。駄目だこりゃ、リンゴは思わず嘆息した。



 カズ達が違和感の正体に気づいたのは、商店街に入ってすぐ、アーケードを歩き始めたときのことだった。
 目に映る周囲の至るところ、例えば看板の隅や電信柱、空き店舗のシャッターなどには、<小烏丸>のエリアを示すエンブレム・ステッカーが貼られている。
 学校(ホーム)から商店街までの道程にも、標識や歩道橋などにステッカーが貼られていた。試合(パーツ。ウォウ)でエリアを勝ち取った記憶がないにも拘らず、である。

「どうなってんだよ、こりゃ……?」
「一体誰が……?」
「……いや、寧ろ問題はそんなことじゃねぇぞ?」

 困惑したように周囲を見渡すカズとオニギリを肩越しに振り返り、イッキが低い声で話しかけた。まるで鷹のように鋭く細められたイッキの真剣な眼に、カズ達は息を呑む。
 イッキは自分を落ち着かせるように息を吐き出し、おもむろに「つまり」と言葉を続けた。

「―――俺達は労せずして、この(へん)の「(ボス)」になっちゃったってことだ!!」
「あはは、そうかぁ!!」
「ハーレム! この俺様の夢のハーレム建国の野望にまた一歩近づいた!!」

 有頂天になってはしゃぐイッキに便乗するように、カズやオニギリも高笑いする。

「やったのは恐らく咢だろうな。最近昼間は寝てるばかりだし」
「咢が? んー、GJ(グッジョブ)!」

 ブッチャの推測に、イッキはこの場にはいない咢へ賛辞を送る。

「そうか、ついに奴も我が下僕としての自覚が芽生えたか」
「可愛いトコあんな、(あいつ)!」
「褒美に我が愛を与えよう!!」

 盛り上がるイッキ達を遠目に眺めながら、スバルはリンゴを見上げた。

「リンゴちゃん。エリアが広くなるって、そんなにいいことなの? 何だか逆に大変そうって思うんだけど……」

 スバルの疑問に、リンゴは困ったように苦笑しながら答える。

「うーん……確かに大変って言えば大変かな? エリアが大きくなるってことは、それだけ防衛ラインも長くなるから守りにくくなるってことだし。それに―――」

 それにこんな強引な方法(やりかた)では、遺恨(ゆがみ)もできるし敵も増える。喉元まで出かかったその言葉を、リンゴは辛うじて呑み込んだ。スバルにはまだ早い話である。
 どうしたの、と首を傾げるスバルに「何でもない」と返し、リンゴは憂いを帯びた眼で周囲を眺めた。
 数えきれないほどの暴風族の誇り(エンブレム)と引き換えに手に入れた、広大な<小烏丸>の新領地(エリア)。そこはまるで血に塗れているようにリンゴには見えた。
 ブッチャと同じく、リンゴも最近の暴風族大量消滅事件は咢の仕業であると考えていた。彼にはそれだけのことを行う実力と、そして動機(・・)がある。
 咢と<ベヒーモス>の総長、宇童アキラとの間には浅からぬ因縁がある。咢は宇童と戦うために<小烏丸(イッキたち)>を利用している、リンゴはそう推測していた―――つい昨夜までは(・・・・・・・)
 だがこの局面に至り、新たな候補が意外なところから現れた。スバルである。信じられないことに咢を圧倒し、リンゴが割って入らなければ殺してすらいたかもしれない。
 普段の彼女とはまるで別人のような、圧倒的な戦闘能力と残忍な性格。闇の中で不気味に光る金色の瞳。昨夜のスバルを思い出すだけで、リンゴの背筋に悪寒が走った。
 スバルに一体何が起きたのか。否、そもそも……アレ(・・)は本当にスバルだったのか? 隣でいつも通りに過ごすスバルを見ていると、まるで全てが(うそ)だったように思えてくる。

 そのとき、先頭を走るイッキが突如足を止めた。「T・ゴンゾー」という真新しい看板を店先に掲げた、アーケード隅の小さなスポーツ用品店の前である。

「この店がどうかしたの?」

 怪訝そうに尋ねるスバルに、イッキは「おう」と大きく頷く。

「スバル、今からお前のジャケット作るぞ!」

 イッキの唐突な言葉に、スバルは思わず「え?」と訊き返す。しかしカズやオニギリ達はそれだけで納得したのか、首肯とともに同意の言葉を口にする。

「そっか。そーいやスバルちゃんのジャケットって、まだ作ってなかったよな。強敵との戦も控えてるし、ちょうどいいんじゃねーの?」
「うん。スバルちゃんも立派な<小烏丸(ぼくたち)>の一員(なかま)だしね」
「よーし! ここは一つ、スバルちゃんのジャケット代はお兄さん達がカンパで出してやるぞー!」
「え? え? ええ!?」

 困惑するスバルの手を引き、イッキは店の扉を潜る。スバルは咄嗟にリンゴを見た。助けを求めるようなスバルの顔を見下ろし、リンゴは優しく笑いかける。

「よかったね? スバルちゃん」

 リンゴの科白に、スバルは悟った。味方はどこにもいなかったのだ。

 店の主人(オーナー)は、頭に牛を模ったバンダナを巻く若い髭の男だった。名前はT・ゴンゾー、店の名前と同じである。
 Aクラス暴風族の元総長で、イッキ達には以前、ちょっとした危機を救って貰ったことがあるらしい。そのことに恩義を感じ、<小烏丸>相手には多少融通を利かせてくれるという。

「しっかし、こいつはまた随分とちっこい子をメンバーに選んだなぁ?」
「チビだけど立派な<小烏丸(おれたち)>の戦力だぜ? すばしっこくて、練習では毎回カズと(しのぎ)を削ってるからな」
「むー、チビとかちっこいとか言うなー!」

 頭上で失礼なことを言い合うT・ゴンゾーとイッキを見上げ、スバルは不機嫌そうに頬を膨らませる。

「……ねぇイッキ、どういうつもり?」

 沈んだ声で尋ねるスバルに、イッキは「ん?」と首を傾げる。

「あたし言ったよね? もうすぐ野山野家(リカさんトコ)から出ていくって、イッキ達ともお別れするって話したよね? なのに……どうしてこんなことするの? 無駄なのに、意味なんてないのに」

 泣きそうな顔で、堰を切ったように問いを浴びせるスバルに、イッキは面倒臭そうな表情で頭を掻いた。

「スバル、お前……何か勘違いしてないか?」
「へ?」

 全く予想外なイッキの言葉に、スバルは目を瞬かせた。

「家を出て行く? この街から離れる? その程度でこの俺様から逃げられると思ってんのか? 貴様は未来永劫、我がイッキ帝国の栄光ある奴隷六号って確定してんだよ」

 イッキはスバルの頭に掌を乗せ、乱暴に髪を掻き回しながら言葉を続ける。

「たとえ地球の裏側だろうと、別の世界だろうと(・・・・・・・・)、どこにいたとしてもスバル(おまえ)は俺達の仲間だ。<小烏丸>の一員だ。それが宇宙の真理だ、よく憶えておけ」
「……うん」

 イッキの力強い言葉にスバルは安堵したように瞼を伏せ、そしてゆっくりと頷いた。



 T・ゴンゾーによると、スバルのジャケットは一週間もあれば仕上がるだろうとのことだった。子供服(SSサイズ)は専門外のため、特注する必要があるらしい。
 客の需要に完璧に応えられなければ店は流行らないのと忠告するスバルに、T・ゴンゾーは苦笑いを返した。何でも以前、ブッチャにも似たようなことを言われたそうである。
 清算を済ませ、店の外に出たときには、空は茜色に染まっていた。昼と夜の狭間、逢魔ヶ時と呼ばれるその時間帯には、薄暗闇に紛れて物の怪が現れるという。
 しかしこの科学全盛の世界に生きる典型的な現代っ子のイッキ達にとっては、そんな古ぼけた迷信よりも夕食の献立や帰宅するまでの時間の潰し方の方が余程関心があった。
 今日の夕食はきっとカレーだろう、向かいのゲームセンターに新しい筺体が入った。そんな他愛も無い雑談に興じながら、彼らは商店街の人ごみを避けながら帰途につく。

 そのとき、スバルはどこからともなく視線を感じた。足を止め、そわそわと落ち着きなく周囲を見渡す。雑踏のどこかから確かに感じる気配、自分を見つめる誰かを探して。
 そして見つけた。絶え間なく行き交う人ごみの波の中で、まるでそこだけが時間が止まったように佇む小さな人影。射抜くような鋭い眼光。金色の瞳、自分と同じ(・・・・・)

「あれは……!?」

 呆然とその場に立ち尽くすスバルを、イッキが怪訝そうな顔で振り返った。

「どうした? スバル」

 まるで石像のように佇むスバルに声をかけながら、イッキが一歩踏み出したそのとき―――“それ”は現れた。

「南ぃぃぃ! イッキィイイイイイイイッ!!」

 憎悪に満ちた怒号が商店街に轟き、次の瞬間、アーケードの屋根の一部が砕け散った。ぽっかりと開いた穴の向こうから、光の雨(・・・)が地上に降り注ぐ。
 破片とともに降り注ぐ閃光に射抜かれた通行人が、まるで糸の切れた人形のように次々と倒れ伏す。商店街ははパニックと化した。
 逃げ惑う通行人を薙ぎ倒し、黒い影がイッキに襲いかかる。イッキは驚愕に目を見開いた。よく知っている男、もうここにいない筈の(・・・・・・・・・・)男がいた。
 剃り上げた頭に髑髏の刺青を刻み、死神のような黒いマントに身を包む長身の男。イッキが潰したCクラス暴風族の元総長(ヘッド)、イッキの最初の“敵”。

「<髑髏十字軍(スカル・セイダース)>、間垣 浩二!!」

 イッキの叫びに、間垣は血走った眼で獰猛に嗤った。

「どういうことだよ! “マル風”に逮捕さ(パクら)れたんじゃなかったのか!?」
「戻ってきたんだよぉ。テメエらに復讐するために、地獄の底からなぁ!!」

 狼狽したように喚くカズの問いに、間垣は狂ったように哄笑しながら答える。

「聞いたぜぇ、南 イッキ(ベビー・フェイス)。この俺が拘置所にブチ込まれてる間に、チームを創ったんだってなぁ?」

 身構えるスバル達を舐めるような目で見渡し、間垣はゆっくりと右腕を持ち上げる。両足に履いたA.T.の足甲部にある宝石状の装飾が、一瞬、煌めいた。

「お前が苦労して創ったそのチーム、滅茶苦茶にぶっ壊してやるよ! お前が俺にやった(・・・・・・・・)みたいになぁ!!」

 絶叫する間垣の右手に、光の粒子が集束する。あれは! スバルは愕然と目を見開いた。間違いない、あれは魔力光の輝きである。まさかあの男は魔導師だというのか!?

「消え去れぇえええええっ!!」

 間垣の怒号とともに、撃ち放たれた無数の魔力弾がスバル達に殺到する。

「散って!!」

 スバルは咄嗟に叫んでいた。その声に弾かれるように、カズ達が蜘蛛の子を散らすように散開する。標的を見失った魔力弾が地面に着弾し、路上のタイルを抉った。

「しゃあああああああああああああああああああっ!!」

 獣じみた奇声を上げながら、間垣は今度は左手を突き出した。両足の宝石が明滅し、掌から光の鎖が突出。蛇のようにうねりながら虚空を泳ぎ、スバルの身体に絡みつく。

「きゃあっ!?」

 絡みつく捕縛魔法(チェーン・バインド)に身体の自由を奪われ、スバルは悲鳴とともに地面に叩きつけられた。拘束したスバルを肩に担ぎ上げ、間垣は下卑た目でイッキを見る。

「こいつは人質だ。ベビー・フェイス、このガキの命が惜しければエンブレムを持って「ハッピーボウル」まで一人で来い」

 そう言い残し、間垣はスバルを抱えたまま夕闇へ飛び去った。A.T.とは思えない、まるで本当に空を飛ぶ(・・・・・・・)ような異常な動きだった。

「イッキ……」

 残されたイッキの背中に、リンゴが気遣うように声をかけた。イッキは答えない。だが固く握りしめられたイッキの拳は、震えていた。



 夕暮れの商店街で突如起きた惨劇の一部始終を、金色の眼の少女はアーケードの梁の陰から見物していた。

「さてさて、楽しい舞台(ショー)幕開け(はじまり)だ。期待してるからね、空の王様?」

 眼下で立ち尽くすイッキに声援(エール)を送り、少女は背伸びしながら立ち上がる。
 少女の顔は、間垣に連れ去られた筈のスバルと瓜二つだった。



 そしてもう一人、事件のなりゆきを遠目から眺める男がいた。
 赤い髪が特徴的なその青年は、愛用のオートバイの上から全てを見守り、しかし最後まで介入することなく傍観者に徹していた。
 全てを見終わり、青年は用が済んだとばかりにイッキ達から視線を逸らし、ヘルメットを被り直した。両手首に巻きつけられた(チェーン)が擦れ合い、小さく音を立てる。

「アキラ……?」

 座席(シート)の後部に座る少女が、片言の日本語でたとたどしく青年の背中に呼びかけた。青年は答えず、無言で愛車(オートバイ)のエンジンをかける。
 夕闇に染まる商店街に、まるで獣の咆哮のようなエンジン音が荒々しく響き渡った。



 ――To be continued



[11310] Trick:14(R15)
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/01/10 16:08
 繁華街の中心部に建つ()複合娯楽施設「ハッピーボウル」。かつてはボウリングやスケート、カラオケ、映画などが楽しめる市内有数の娯楽施設として賑わった場所である。
 不況の煽りを受けて惜しまれつつも数年前に閉鎖したが、買い手がつかず、現在でも廃墟が野ざらしとなっている。
 暴風族<髑髏十字軍(スカル・セイダース)>がこの建物に目をつけたのは、チーム結成から半年が経ち、彼らがそれなりの大世帯に成長した頃のことであった。
 元々建物一帯を縄張り(エリア)としていたチームを追い出し、エリアの「(ボス)」に君臨して二年半。彼らの天下は、新人暴風族(ルーキー)・南 イッキの出現(デビュー)とともに終わったのである。

「あれからもう二ヶ月か。まるで百年くらいご無沙汰してた気分だぜ」

 荒れ果てたボウリング場を見渡し、間垣は感慨深そうに呟いた。割れた窓も、崩れた床や天井も、壁に描いたエンブレムも、全てが記憶の中の姿そのままである。
 鎖で縛り上げた人質(スバル)を床の上に乱暴に投げ出し、間垣はベンチに腰を下ろす。ぎしりとベンチの軋む音が、驚くほど大きく屋内に響いた。
 静かだ。照明の落ちた薄暗い天井を見上げ、間垣は吐息を零す。何もかもが昔と同じ“(ホーム)”の中で、しかし一つだけ変わってしまったものがある。

「……おい、ガキ。見えるか? ここには俺の夢があった。同じ夢見て、“頂上(てっぺん)”目指そうって誓い合った仲間がいた」

 足元に転がるスバルを見下ろし、間垣は凪いだ声で尋ねた。

「そのためにかけた月日が、勝ち取ってきた誇り(エンブレム)が。ここには俺の全てがあったんだ。お前にそれが見えるか?」

 間垣の声にはだんだんと熱が籠もり、表情は徐々に憎悪に歪んでいく。間垣はスバルの胸倉を掴み上げた。

「見える訳がねぇ、何も見える筈がねぇよなぁ? 今やここには何もねぇ、何もねぇんだよ。夢も、仲間も、誇り(エンブレム)も! 俺は全てを失った、全てを奪われた! 南 イッキ(ベビー・フェイス)に、お前達に!!」
「嘘だ! イッキはそんなことしない!!」

 鼻の先が触れ合うほどに顔を近づけ、唾を撒き散らしながら怒鳴る間垣に、スバルも負けじと声を張り上げた。
 短い間だが、同じ屋根の下で暮らし、一緒に練習してきたから解る。イッキはそんな非道いことはしない。

「イッキはあんたみたいなクズ野郎じゃない!」

 毅然とした表情で言い放つスバルに、間垣は大口を開けて哄笑した。スバル(このガキ)は現実を見ていない、暴風族(じぶんじしん)の本質を理解しようとしていない。それが堪らなく滑稽だった。

「いいやお嬢さん、奴は俺と同類さ」

 一瞬前までとは打って変わった猫撫で声で、間垣はスバルの耳元で囁きかける。

「俺も、奴も、そしてお前も! 暴風族って生き物は等しく同じ穴のムジナさ。策謀、暴力、裏切り上等! “上”に行くためなら手段を選ばねぇクズ野郎なんだよ」

 間垣の科白に、スバルは思わず歯噛みした。反論の言葉が見つからない、という訳ではない。寧ろ言いたいことがありすぎて(・・・・・・・・・・・・)言葉が出ないのである。
 確かにイッキは馬鹿で、傲慢で、卑怯で、スケベで、無神経で、ゴキブリのように意地汚くて、そのゴキブリを非常食と言って憚らない最低野郎だが、決して心は腐っていない。
 触れられた掌が温かかった、「仲間だ」と言ってくれた声が優しかった。間垣とは全然違う。こんな血も涙もないような冷たい手の人間が、イッキと“同じ”である筈がない。
 それに、イッキだけではない。スバルの脳裏をよぎったのは、彼女のパーツ・ウォウ(デビュー)戦の相手、暴風族<漆黒の胡桃割人形(ブラック・ナッツ・クラッカーズ)>の面々だった。
 戦に決着がついた後、彼らはヘルメットを脱ぎ、イッキ達と互いに健闘を讃え合った。戦に負けたのに、エリアを奪われたのに、その遺恨を感じさせない晴れやかな笑顔で。
 その姿は最早勝者と敗者や、敵味方の関係を超越した戦友であるようにスバルには思えた。
 否、きっと<小烏丸(イッキたち)>にとっても、彼らはともに暴風族として“上”を目指す戦友となったに違いない。未来での再戦を誓い、握手を交わしたあの瞬間に。
 だからこそスバルは赦せなかった。大切な仲間が、戦友が、こんな奴と同列に扱われたことが。こんな奴に皆が侮辱されたことが我慢ならなかった。

「あんたは暴風族(ライダー)なんかじゃない。あんたは……ただのチンピラだ」

 軽蔑するような眼で吐き捨てるスバルに、間垣の顔に鬼相が走った。胸倉を掴む指先に力が籠もり、スバルの呼吸を圧迫する。スバルは苦しそうに呻いた。
 気に入らない、実に気に入らない子供(ガキ)だ。スバルを首を締め上げながら間垣は憤りを募らせる。綺麗事ばかり並べる子供の戯言に虫唾が走る思いだった。
 大切な商品(・・)ということで少しは丁重に扱ってやるつもりだったが、気が変わった。こいつは生贄だ。(レイプ)して、壊して、イッキ(ベビー・フェイス)への見せしめにしてやる!
 間垣がスバルの服に手をかけたそのとき、屋内にA.T.の駆動音が響き渡った。だんだんと近づくその甲高い音に、間垣は鼻を鳴らしてスバルから手を離す。

「命拾いしたな。クソガキ」

 間垣はそう言ってベンチから立ち上がり、後方の出入り口を振り返った。扉が破れ、丸見えの通路の奥に人影が見える。ベビー・フェイス、南 イッキだった。

「スバルは返して貰うぜ、このタコ頭!」

 不敵な笑みを浮かべて挑発するイッキに、間垣も残忍に嗤う。他に人影らしきものは見当たらない、どうやら指示通り一人で来たらしい。

「交渉といこうか、ベビー・フェイス。エンブレムを渡せ。でないとこのガキがどうなっても知らないぞ?」

 足元のスバルを指差しながら、間垣は嘲笑を浮かべて恫喝する。イッキは観念したように肩を竦め、ジャケットの襟を弄った。
 上着の襟の内側、そこは秘密の隠し場所である。首元から引き抜いたイッキの指先で、<小烏丸>の族章(エンブレム)を象った小さな銀製のバッジが光る。チームの象徴、エンブレムである。

「駄目! イッキ!!」

 スバルは血の気の引いた顔でイッキに叫んだ。エンブレムは暴風族(チーム)の魂そのものである。エンブレムを失うということは、そのチームの消滅(かいさん)を意味するのだ。
 必死に制止を呼びかけるスバルに、イッキは「いいんだよ」と何の未練もない顔で笑った。

「確かにコレ(エンブレム)も大切だけどよ、お前はもっと大切だからな。チームはまた創ればいい。仲間の命には代えられねーよ」

 そう言ってイッキはエンブレムを放り投げた。薄暗闇の中に銀色の放物線を描いて飛ぶエンブレムに、間垣は下卑た笑顔で手をのばす。そのとき、イッキが嘲笑を浮かべた。

「―――バーカ」

 まるで見下すようなイッキの呟きに、間垣の意識が一瞬エンブレムから逸れる。瞬間、窓を突き破って現れた黒い影が間垣の前に割り込み、空中のエンブレムを横から攫った。

「テメエは!?」

 驚愕の表情で叫ぶ間垣を無視して、乱入者はそのままスバルへ手をのばした。鎖で縛られた小さな身体を両腕で抱え上げ、イッキの傍まで高速で離脱する。一瞬の出来事だった。

「イッキ帝国庶務雑務五号、美鞍数馬。只今推参!」

 スバルを両腕で抱いたまま、その男は格好つけるように名乗りを上げる。
 パーカーの上から<小烏丸>のジャケットを羽織り、頭にニット帽を被った金髪碧眼の少年。「ステルス」の異名を持つチーム最速の(ライダー)がそこにいた。

「カズ君!!」

 カズの腕に抱かれたまま、スバルは嬉しそうに声を弾ませる。

「遅くなってごめんな、スバルちゃん。俺達が来るまでよく頑張った」

 スバルを床に下ろし、厳重に巻かれた鎖を解きながら、カズは元気づけるように話しかける。カズの言葉に、スバルは「うん」と頷いた。

「ベビー・フェイス、テメエ……これは一体何のつもりだ!?」
「何って、“別働隊(ふくへい)”に決まってんだろ?」

 憤怒の形相で問う間垣に、イッキは不敵な笑みを浮かべて切り返す。

「俺は仲間もチームも両方大事だ、どっちか片方なんて選べる訳がねぇ。だからどっちとも奪り還すんだ。テメエをこれからぶちのめしてな!」

 勇ましく啖呵を切るイッキに、間垣は腹を抱えて爆笑した。

「ぶちのめす? テメエらが? この俺を? こいつは傑作だ! たった二人で(・・・・・・)何ができる!?」
二人じゃねぇよ(・・・・・・・)

 イッキはそう言って頭上を指差した。瞬間、天井が轟音を立てて崩れ落ち、瓦礫とともに巨大な影が間垣の背後に降り立った。ブッチャである。

「はじめまして。元<夜王>総長、今は<小烏丸>特攻隊長兼食料大臣のブッチャだ。君とは一度話をしたいと思ってたんだよね」
「そうそう! お前がイッキを恨んでる以上に、俺達だってお前をぶん殴りたくて仕方ねぇんだからよ」

 仏のような笑顔と鬼のように凶悪な目つきで名乗るブッチャに、どこからか現れたオニギリが便乗する。これで咢を除く<小烏丸>の全員が集結したことになる。
 イッキ達と間垣との因縁は、二ヶ月前、イッキがA.T.を始める直前にまで遡る。
 当時のイッキは東雲東中学の生徒で構成された不良グループ「東中ガンズ」の26代目総長であり、カズとオニギリの二人も「ガンズ」のメンバーだった。
 そしてブッチャは、東雲東中学の敷地をエリアとするEクラス暴風族<夜王>の総長として君臨し、両組織は一応の共生関係を保ってきた――――そのときまでは。
 全ては「ガンズ」と敵対関係にある東雲西中学の不良グループが、間垣率いる武闘派暴風族<髑髏十字軍(スカルセイダース)>と手を組んだことからややこしくなった。
 間垣達の襲撃により「ガンズ」は壊滅し、イッキ自身も屈辱的な敗北を味わった。「ガンズ」の敗北と弱体化は二つの勢力の均衡を崩し、学校は一種の無法地帯と化したのである。
 その後紆余曲折を経て「ガンズ」も<夜王>も解散し、イッキはそれらに代わる自分自身の居場所(チーム)、暴風族<小烏丸>を結成した。
 いわば間垣は全ての始まりであり、一時期とはいえ学校を混乱に陥れた忌まわしい宿敵なのである。そして今、その因縁に一つの終止符が打たれようとしていた。

「どうするよ? これでスバルも入れて五対一だ。降伏した方が身のためじゃねーの?」

 勝ち誇ったような顔で勧告するイッキに、間垣は歯を剥きだして凄絶に笑う。

「降伏? 生意気言ってんじゃねぇよ。格の違いも分からんFクラス(ゴミクズ)のくせに、人数揃えりゃ勝てるとでも思ってんのか!?」

 狂ったように哄笑する間垣の足元で、A.T.足甲部の宝石が明滅し、床上に光の魔方陣が浮かび上がる。

「魅せてやるよ、俺がテメエらとは根っこから違うってことを。俺は選ばれたんだよ、この“魔導の玉璽(レガリア)”の「王」になぁ!!」

 怒号とともに突き出された間垣の掌から魔力弾が撃ち出され、矢のように一直線にイッキへ迫る。

「へっ!」

 襲いくる魔力弾をイッキは鼻で笑い、ステップを踏んで躱す。そこそこ速いが動きは直線的、軌道を読むのは容易い。

「愚か者め! そんな虚仮脅しの豆鉄砲が当たるとでも思っているのか!?」
「馬鹿はテメエだよ」

 野次を飛ばすイッキに嘲笑を返し、間垣は手首をくいと捻る。両足のA.T.が足甲部の宝石を明滅させ、無機質な電子音声で喋った。

『――Homing(追尾)

 次の瞬間、虚空を直進する魔力弾がUターンし、イッキの肩甲骨を撃ち抜いた。激痛が肩に走り、思わずイッキの口から悲鳴が漏れる。

「どうしたぁ、ベビー・フェイス? まだまだお楽しみはこれからだぜぇ!?」

 間垣は哄笑しながら再び射撃魔法を、今度は四発同時に放った。四発の魔力弾はうねるような軌道でイッキに殺到し、四肢を撃ち抜く。イッキは再び絶叫した。

「気持ちいいぜぇ、圧倒的な力を振るって一方的に敵を嬲るのはよぉ。非殺傷(ころせない)っていう不便な仕様らしいが、安心しろ。トドメは俺の手で刺してやるよ」

 悦に浸るような笑みを浮かべ、間垣は射撃魔法を放ち続ける。雨あられと撃ち出される魔力弾の直撃に晒され続け、イッキの身体がサンドバッグのように揺れた。

「おい、あれマジでやべえんじゃねぇの!?」
「何だかよく分かんねーけど、俺達もイッキに加勢するぞ!!」

 あまりに一方的な戦いに狼狽しながらも、カズとオニギリが漸く動き出した。A.T.を駆り、雄叫びを上げながら間垣の背中に飛びかかる。

「邪魔してんじゃねぇよ、雑魚(ゴミクズ)がっ!!」

 背後に迫るカズ達を振り返り、間垣は射撃魔法を放った。その一瞬、執拗とも言える間垣の猛攻が止まり、イッキの身体が床に崩れ落ちる。
 襲いくる間垣の魔力弾をカズは危なげなく回避する。その傍はで、股間に魔力弾が直撃したオニギリが泡を吹いて転がっていた。
 標的(エモノ)を仕留め損なった魔力弾が旋回し、カズを狙って再び牙を剥く。カズは尻尾を巻いて逃げ出した。その背中を魔力弾が追う。地獄の鬼ごっこが始まった。

「ふん、無駄な足掻きを」

 ボウリング場内を縦横無尽に逃げ回るカズを侮蔑の眼差しで一瞥し、間垣は片手を持ち上げた。放っておいても構わないが、些か目障りだ。早々に引導を渡してやろう。
 両足の“魔導の玉璽”が宝石を明滅させ、足元に魔方陣が顕現する。掌に魔力を集中し、追撃の魔法を放とうとしてそのとき、巨大なコーヒー色の塊が間垣の前に突如躍り出た。

 ――FIRE!!

 荒々しい雄叫びを轟かせ、ブッチャの巨体が戦車のように間垣へ突進する。間垣は射撃魔法で迎撃した。だがどれだけ魔力弾を身体に撃ち込まれても、ブッチャは止まらない。

「かゆいね。そんな虚仮脅しの豆鉄砲で僕の“装甲”を突き破れるとでも思ってるの!?」

 イッキの言い回しを真似した揶揄とともに、ブッチャは間垣に肉薄する。間垣はA.T.を走らせた。戦闘開始以降一歩もその場を動かなかった間垣が、初めて動いた瞬間だった。
 戦車のようなブッチャの突進を躱し、すれ違いざまに拳を叩き込む。しかし射撃魔法すら効かない堅牢な肉の“装甲”に、生身の拳が通用する道理がなかった。

「くそっ! この超鈍感恐竜野郎め!!」

 間垣は悪態を吐きながらブッチャの真横に回り込む。攻撃は一直線で小回りも利かない、(サイド)は隙の塊である。暴風族らしい思考(・・・・・・・・・)で間垣は(ブッチャ)の戦力を分析する。
 だが次の瞬間、間垣は己の見通しの甘さを思い知らされた。

 ――二段式FIRE!!

 直角に方向転換し、ブッチャは再び間垣に突進を仕掛けた。予想外の敵の攻撃に、間垣の反応が一瞬遅れる。だが魔導師(もちぬし)無能(やくたたず)でも“魔導の玉璽(デバイス)”は優秀だった。
 自動的に魔法を構成し、不足分の魔力を持ち主から引き出す。足甲部の宝石が明滅し、間垣の足元に新たな魔方陣が顕現した。

『Protection』

 無機質な電子音声が響き渡り、次の瞬間、発生した魔法障壁(バリア)がブッチャの突進を受け止める。

「このデブ、ふざけやがって!!」

 間垣は怒号を上げながら捕縛魔法を繰り出した。掌から突出した魔力の鎖がブッチャに絡みつき、まるでボンレス・ハムのように身体を締め上げる。

「生まれ変わってこいや」

 間垣は嘲笑しながらブッチャの足元に魔力弾を撃ち込んだ。腐った床板に無数の穴が穿たれ、200kg以上もの重量を支えきれずに崩落。ブッチャを奈落の底へ叩き落とした。

 その頃、カズは自慢の俊足を惜しみなく発揮し、追いすがる魔力弾から未だ逃げ続けていた。しかし魔力弾は猟犬のようにカズの背中に食らいつき、遂に標的(カズ)の足を撃ち抜く。

「ぐぁっ!」

 激痛に悶えるカズに掌をかざし、間垣は追い討ちをかけるように再び射撃魔法を撃った。容赦なく撃たれる嵐に晒され、カズは絶叫とともに意識を手放した。

「そんな……」

 目の前の現実が信じられず、スバルは呆然と呟いた。力尽きて倒れるイッキやカズやオニギリ、生死すらも判らないブッチャ。まるで悪夢のような光景だった。

「ははははは! 見たかベビー・フェイス、これが格の違いだ!! 俺は最強の(レガリア)を手に入れた! 伝説の「空の王」をも超える究極の魔王となったのだ!!」

 足元に転がるイッキを見下ろし、間垣は勝ち誇るように高笑いした。イッキは床上に倒れ伏したまま首だけを持ち上げ、憎悪の表情で間垣を睨む。
 身体が動けない、起き上がれない。敵の馬鹿面が目の前にあるのに、一発殴り飛ばすことすらできない。悔しかった、もどかしかった。
 毅然としたイッキの顔は、しかし間垣の癇に障った。イッキの頭をA.T.(デバイス)で踏みつけ、間垣は口汚く罵声を飛ばす。

「おい、何だよその顔は? 目ん玉抉り抜いてやろうかションベンガラスが、オラァ!」

 罵倒の言葉を浴びせながら、間垣はイッキに蹴りを放った。爪先が鳩尾を抉り、イッキは苦悶の声を漏らす。

「やめて……」

 スバルは目に涙を溜め、震える声で懇願した。やめて、勝負はもうついたでしょう? これ以上イッキを辱めないで。
 しかしスバルの願いも虚しく、間垣の暴力は続く。それどころか更に苛烈さを増していく。まるで嬲るように執拗に、間垣はイッキを蹴りつけた、蹴り続けた。

「<小烏丸>? <眠りの森>? 雑魚が群れて粋がってんじゃねぇよ! お前に翼なんかねぇ。お前ら弱者(ゴミクズ)は、強者(おれ)には永遠に勝てねぇ運命なんだよ!!」

 優越感に酔い痴れるように、間垣はイッキをいたぶり続ける。その姿はとても、人間であるとは思えなかった。人間であると認められる筈がなかった(・・・・・・・・・・・)





 そのとき、スバルは自分の中で“何か”が切れる音を聞いた。





 最初に“それ”を感じ取ったのは、まるでゴミクズのように小さな小さな破片だった。
 割れた窓の破片、破れた天井の破片。床上に散乱する様々な破片が、突如小刻みに震え始めたのである。カタカタと、カタカタと。まるで何かに怯えるかのように。
 破片達が感じ取った“それ”はやがて伝染し、より大きな瓦礫の欠片が、備えつけの棚やベンチが、揺れる、震える、怯え始める。カタカタと、カタカタと。

「な、何だ? 何が起こっている……?」

 周囲で突如始まった不可解な現象に、間垣は困惑の表情で周囲を見渡した。地震か? だがそれにしては様子がおかしい。
 思わず一歩踏み出そうとして、間垣は新たな自身を襲う新たな異常に気づいた。
 足が動かない。否、足だけではない。身体中がまるで“石”になったかのようにぴくりとも動かないのである。

「どうなってんだ、こりゃあ!?」

 狼狽したように叫ぶ間垣の耳に、A.T.のモーター音がキュンと聞こえる。間垣は見た。暗闇の中で爛々と輝く、二つの金色の眼(・・・・)を。

「……あたしは、あんたを人間だとは認めない」

 金色に輝く瞳で間垣を見ながら、スバルは淡々と言葉を紡ぐ。“鉄”のように冷たい声だった、まるで人形のように感情のない表情だった。
 今のスバルの姿は、人間というよりも寧ろ“機械”――――何の躊躇もなく敵を“破壊”する殺人兵器(キラー・マシン)そのものだった。

 スバルの戦闘機人としての先天固有技能(インヒューレント・スキル)、「振動破砕」。共振によって対象を内部から粉砕する波動の“死神”である。
 精密機器の塊であるA.T.に対して絶大な威力を発揮し、生身の人間に対しても一撃必殺。
 まさに「暴風族(ライダー)殺し」と呼ぶに相応しい能力であるが、この力にはもう一つの“使い方”があることにスバルは気づいた。
 物質は全て固有の振動を持っている。特定の「石」の持つ振動周波は特に正確で、時計などにも応用されている。
 例えばマッサージ機のような振動を続ける物体に触れると、手が離れなくなることがある。手と振動体が共振して一体化するために起きる現象である。
 四日前にスバルを襲った謎の暴風族、<眠りの森>のリーダー格であるキリクは、この“石”の原理を応用し、その場のあらゆる“動き”を止めてみせた。
 同じ(・・)力を持つからこそ、スバルはキリクの(てじな)正体(タネ)看破(りかい)し、自らの(トリック)として吸収した。
 生まれながらに「振動」を操り、キリクの玉璽と同じ力を持つスバルの体質は、まさに“人間玉璽”と呼ぶに相応しい。今この瞬間、スバルは「石の道」に目覚めたのである。

「あんたは人間なんかじゃない、生あるものじゃない。だから“壊す”の。石でガラスを叩き割るように!」

 A.T.で床面を蹴り、スバルは怒号を上げて間垣に殴りかかった。自らの意思で拳を握り、生まれて初めて抱いた憎しみを胸に、スバルは走る。
 尋常でない気迫で突進するスバルに、間垣は「ひぃ」と怯んだように悲鳴を上げる。しかし魔導師(もちぬし)無能(やくたたず)でも、やはり“魔導の玉璽(デバイス)”は優秀だった。

『――Ring Bind』

 無機質な電子音声とともに足甲部の宝石が明滅し、虚空の出現した魔力の(リング)がスバルを拘束する。バランスを崩し、スバルは床に転倒した。

「は、はははは! 畜生。ビビらせやがって、このクソガキが!」

 間垣は乾いた笑い声を漏らしながらスバルの前に屈みこんだ。上着の襟首を掴み上げ、間垣は下卑た笑みを浮かべてスバルに囁く。

「あんまりおイタしてんじゃねぇよ。テメエだって、なるべく綺麗な姿で売っ払われたいだろ?」
「……売っ払う?」

 信じられないような間垣の科白に、スバルは金色の双眸を愕然と見開いた。間垣は唇の端を吊り上げて言葉を続ける。

「そうとも! お前を売ってくれって言ってる奴がいるんだよ。“魔導の玉璽(こいつ)”はその前払いさ」

 残忍に嗤う間垣の脳裏に、数時間前、彼に“魔導の玉璽”を与えた“魔法使い”、金色の眼の少女の顔が蘇る。
 あのとき、彼女は間垣に一つの依頼をした。“魔導の玉璽”を渡す見返りとして、<小烏丸>に同行する一人の少女を引き渡して欲しい。成功すれば追加の報酬を出すとまで言った。

「どんな女の子か、ですって? きっと会えば一目で解りますよ」

 依頼品(・・・)の特徴を尋ねる間垣に、少女は金色の眼を細めて微笑する。

「――だってその娘、私と同じ顔(・・・・・)をしてるんだもの」

 妖艶に笑う“魔法使い”の言葉通り、このスバルとかいう子娘は彼女と瓜二つだった。しかも金色の瞳まで同じである。まるで双児のようだった。

「俺は“魔導の玉璽(こいつ)”でA.T.界の頂点(てっぺん)に登り詰める! だがそれには先立つもの(・・・・・)が必要だ。高値で買い取って貰うぜぇ、お嬢ちゃん?」

 猫撫で声で耳元に囁きかけ、間垣はスバルの首筋に舌を這わせた。首筋を撫で上げる気色悪い感触に、スバルの背筋に怖気が走る。
 だがそれ以上に、スバルの全身を支配するものがあった。怒りである。まるで煮えたぎるマグマのような怒りが、スバルの全身を駆け廻っていた。
 間垣は最初から約束を守る気などなかったのだ。人質(じぶん)を盾にエンブレムを奪い、<小烏丸(チーム)>を滅茶苦茶にすることが目的だったのだ! その卑劣なやり方が、スバルは赦せなかった。

「卑怯者! アンタは魔導師でも暴風族でもない、ただのクズよ!!」

 毅然とした表情で間垣を睨みつけ、スバルは叫んだ。

「やっぱりアンタはイッキとは違う! イッキは絶対にA.T.を裏切らない、魔法なんか(・・・・・)に逃げたりしない!!」

 震える身体を叱咤し、スバルは全身全霊で間垣に非難の声を浴びせる。その態度が癇に障ったのか、間垣の額に青筋が浮かんだ。

「……黙れよ、クソガキ」

 ドスの利いた声で脅す間垣に、それでもスバルは止まらない。口を閉ざせば“心”まで負けてしまう、それだけは絶対に嫌だった。

「アンタみたいな奴をあたしは認めない! ましてや「王」だなんて絶対認めてやらない!!」

「黙れっつってんだろうが!!」

 間垣は怒号とともにスバルを床に叩きつけた。硬い床面に受け身も取れずに背中から叩きつけられ、スバルは苦悶の声を漏らす。
 間垣はスバルの上に覆い被さった。服の襟首をを乱暴に掴み、下着ごと力任せに引き裂く。透けるような白い肌が露わになり、スバルは声にならない悲鳴を上げた。

「テメエにはちぃとばかし“おしおき”が必要みてぇだなぁ?」

 半裸のスバルを床上に組み伏せ、間垣は悪魔のように残忍に嗤う。これから行われるであろう“おぞましい行為”を想像し、スバルは思わず目を閉じた。
 誰か助けて! スバルはすがるように天に祈る。そのときだった、まるで“獣”の咆哮のような轟音が廃墟に響き渡ったのは。
 スバルの願いを聞き届けたかのように、救世主(ヒーロー)は遅れてやってきた。



 ――To be continued



[11310] Trick:15
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/02/16 00:10
 まるで獣の咆哮のような轟音が木霊し、建物自体をビリビリと震撼させる。ひび割れた壁を突き破り、それは突如現れた。
 唸るエンジン、暗闇を眩しく照らすライト、ぼんやりと浮かび上がる大小二つの人影。二人乗りした大型のオートバイだった。
 前輪を持ち上げ、ウィリー走行をしながら屋内を疾走。スバルに覆い被さる間垣を狙い、ノーブレーキで襲いかかる。

『――Round Shield』

 間垣(もちぬし)の危機を察知し、“魔導の玉璽(デバイス)”が自動的に防御魔法を発動。虚空に顕現した円盤状の魔力障壁(シールド)がオートバイの突撃(タックル)を阻んだ。
 魔力障壁に乗り上げ、オートバイが宙を舞う。そのまま間垣の頭上を飛び越え、床面を揺らしながら着地する。
 耳障りなブレーキ音とともに停車するオートバイから小さい方の影が飛び出した。フルフェイスのヘルメットで顔を隠しているが、体格から女だと分かる。

「何だテメエらは!?」

 威嚇するように怒鳴る間垣の鼻面に、ヘルメットの女が回し蹴りを叩き込んだ。硬い、まるで鉄の塊で殴られたような感触とともに、間垣の身体が宙を舞う。
 もんどり打って床面を転がる間垣に一瞥を向け、女はヘルメットを脱いだ。長い絹糸のような髪を背中へ垂らし、あどけない少女が顔を出した。

「ふざけやがって……! テメエ、俺を誰だと思ってやがる!?」

 間垣が鼻血を垂らしながら起き上がり、憤怒の表情で少女に怒鳴った。

「俺は<髑髏十字軍(スカル・セイダース)>の間垣 浩二だ! “魔導の玉璽(レガリア)”を手に入れ、この世の魔王となる男だ!! その俺にこんなふざけた真似しやがって、ただで済むと思うなよ!?」

 喚き散らす間垣を無視して、少女はスバルへ顔を向けた。上着を脱ぎ、スバルの肩に羽織らせる。少女を見上げ、スバルは戸惑いながら「ありがと」と言った。

「このアマ! 俺を無視してんじゃ――」
「黙れ虫ケラ。見苦しい」

 怒り狂う間垣の怒鳴り声を遮るように、くぐもった低い声がその場に響く。少女を庇うように長身の影が間垣の前に立ち塞がる。
 ―――“象”がいた。顔から垂れ下がる長い鼻、肩口まで届く大きな耳。象の特徴を忠実に再現した仮面を被る変態。怪人エレファント仮面だった。

「ベ、超獣(ベヒーモス)!?」

 間垣が狼狽の声を上げて後ずさる。スバルは驚愕の表情で眼前の怪人を見上げた。<ベヒーモス>、<小烏丸(じぶんたち)>が戦う“敵”ではないか。

「な、なめんじゃねぇぞ!? 日本最大勢力(メガストーム)といっても所詮はDクラス、今の俺に挑む無謀と愚かしさを思い知るがいい!!」

 虚勢を張るように叫びながら、間垣は腕を突き出す。足元に魔方陣が浮かび上がり、放たれた射撃魔法がエレファント仮面(仮称)に襲いかかった。
 容赦のない魔力弾の集中砲火がエレファント仮面を呑み込み、飛び散る魔力の粒子が霧のように周囲に拡がる。弾き飛ばされた象の仮面が宙を舞い、ぽとりと床上に落ちた。

「……この程度か?」

 立ち籠める魔力の霧の奥から声が響き、“獣”のような眼光が間垣を射抜く。霧を払い、まるで「王者」のように姿を現したのは、一人の赤い髪の青年だった。

「テメエは!」

 青年の素顔を目の当たりにし、間垣は愕然と目を見開いた。

「超獣……宇童アキラ!!」

 間垣の叫びに、青年――宇童はにこりともせずに淡々と言葉を紡ぐ。

「この程度の力で「王」を名乗るとは、思い上がりも甚だしい。魅せてやろう、本当の“王者”の(バトル)というものを」

 宇童の科白に、間垣は青ざめた顔で凄絶に笑う。

「上等じゃねえか、<ベヒーモス>の「超獣」宇童アキラを――「牙の王(・・・)」を倒したとなりゃあ俺様の名にも箔がつく! テメエの「最強」の称号、この俺が貰うぜ!!」

 荒々しい雄叫びを轟かせながら、間垣は拳を振り上げて宇童に襲いかかる。



 次の瞬間、間垣を視えない牙(・・・・・)が引き裂いた。



「ぐはぁ!?」

 血反吐を吐きながらよろめく間垣に、まるで追い討ちをかけるように宇童が肉薄する。
 両手首の鎖を絡ませて動きを封じ、鳩尾に膝蹴りを炸裂させる。A.T.によって加速された膝爆弾は、まさに肉の凶器だった。
 崩れ落ちる間垣の身体を、巻きついた鎖が容赦なく締め上げる。宇童はもう一度、今度は間垣の横面に膝を叩き込んだ。
 宇童の猛攻は止まらない。呻く間垣の顔面を片手で鷲掴みし、頭から床面に容赦なく叩きつける。更に顔面を掴んだまま頭上まで持ち上げ、まるで物でも捨てるかのように無造作に放り投げた。
 それは最早“(バトル)”とは呼べない、一方的な蹂躙だった。ライダー以前に生き物としての基本的な戦闘能力で、宇童と間垣の間には絶対的な格差があった。

「畜生! こんな筈じゃねぇ、こんなことあっていい筈がねぇんだよ!!」

 床上に無様に這いつくばり、間垣は文字通り血を吐く声で絶叫した。
 最強の(レガリア)を手に入れた筈なのに、誰にも負けない至高の存在になった筈なのに。何故自分は地べたを這っている、何故こんなただの人間(・・・・・)を相手に手も足も出ない?
 茶番だ、こんな茶番はすぐに終わらせてやる。間垣はゆらりと立ち上がり、奇声を上げて床面を蹴った。宇童の横を素通りし、スバルの傍に佇む長髪の少女へ跳びかかる。

「蓮っ!?」

 宇童が驚愕の表情で振り返ったときには、間垣は蓮と呼ばれた少女を背後から押さえつけていた。間垣の片手には鈍く光る何かが握られている、ナイフだ。

「動くなぁ! この女の命が惜しけりゃ動くんじゃねえぇ!!」

 連の首筋にナイフを押し当て、間垣は錯乱したような声で恫喝する。人質を取られ、宇童は苦々しそうに歯噛みする。そのとき、蓮がくすりと笑った。嘲笑だった。

第愚人(マヌケめ)

 紡がれた侮蔑の言葉とともに、蓮の裏拳が間垣の鼻面に突き刺さる。怯む間垣の腕の中から抜け出し、蓮は振り向きざまに回し蹴りを繰り出した。

「このアマぁ!!」

 間垣は怒り狂った顔でナイフを振るった。振り下ろされた間垣のナイフと、蹴り上げられた蓮の右足が空中で衝突し、金属が擦れ合うような耳障りな音が響き渡る。
 間垣は思わず「何!?」と目を剥いた。ばっくりと切り裂かれた蓮のジーンズ、その隙間から覗いていたのは鈍い金属の輝きだった。鋼鉄の脚、A.T.義足である。
 蹴り上げた右足を垂直にのばし、蓮は鋼鉄の踵を間垣の頭に叩き込んだ。衝撃とともに視界で火花が散り、間垣の身体が崩れ落ちる。

「テメエ、一体何者だ……!?」

 暗転する意識の中で、間垣は最後の力を振り絞り蓮に問った。倒れゆく間垣を冷然とした目で見下ろし、蓮は口を開く。

我是(わたしは)<超獣(ベヒーモス)>四聖獣()一人、「麒麟の蹄(ユニコーン・ギャロップ)」李 蓮花」

 次の瞬間、力尽きた間垣の身体が、まるでゴミクズのように床上を転がっていた。

「済まない蓮、油断していた。怪我はないか?」

 心配そうな表情で駆け寄る宇童に、蓮は安心させるように微笑して頷く。蓮の返答に、宇童は安堵したように息を吐く。
 宇童は背後を振り返った。床上に呆然とへたりこむスバルを、そして倒れ伏すイッキを順に見渡し、宇童は口を開く。

暴風族(チーム)<小烏丸>、そして南 イッキか。踏み潰す手間が省けたな。虫ケラに相応しい無様な姿だ」
「なっ……!?」

 宇童の科白に、スバルは怒りに目を見開いた。昂然と宇童を睨みつけ、反論しようと口を開きかける。だができなかった。

「……羽根も生え揃わぬうちに飛び立とうとするから、地に墜ちる(そうなる)んだ」

 そう言ってイッキを見下ろす宇童の眼は、スバルが言葉を失ってしまうほどの、あまりにも深い哀しみに満ちていた。





「あーあ、間垣クンは負けちゃったかぁ」

 全ての顛末を見届け、金色の眼の少女は呟いた。悲劇の少女(ヒロイン)の前に颯爽と現れる正義の味方(ヒーロー)。何という王道(テンプレート)、何というご都合主義(デウス・エクス・マキナ)だろう。
 だが自身の“策”が失敗したにも拘らず、少女の表情に残念さは微塵も感じられない。最後の最後で逆転されてしまったが、噛ませ犬(・・・・)としては上出来だろう。所詮は余興だった。
 それに比べて……。少女は無様に這いつくばるイッキを見た。飛び入りの宇童が演じた“役”を、少女はイッキに期待していた。だが結果は見ての通り、肩透かしも甚だしい。
 魔法を使えない一般人が魔導師を相手に勝つ確率など1%にも満たない。だが彼ならば、圧倒的に不利な状況を覆し、勝利を手にするのではないかと期待していたのだが。

「<小烏丸>の南 イッキ、所詮はFクラス(チンカス)か」

 失望したように呟く少女の背後に、空中から(・・・・)長身の影が音もなく降り立った。

「ここにいましたか。姉様」

 背中にかけられた見知った声に、少女は背後を振り返る。ラフな服装に身を包んだ短髪(ショートカット)の女性が少女を見下ろしていた。マル風Gメンの新人、透である。

「あ、透ちゃんだ!」

 透を見上げ、少女は見た目相応の(・・・・・・)笑顔で声をかける。

「峰 不二子ってバレバレな偽名を何も考えずに採用した透ちゃんだ、名前つっつかれてキレて墓穴掘った透ちゃんだ、即興で別の偽名考える羽目になった透ちゃんだ」

 無邪気な笑顔で毒を吐く“姉”を、透は冷たい“機械”のような眼で見下ろす。次の瞬間、透は少女の背中に回り込んでいた。同時に少女の首筋に冷たい感触が走る、刃物だ。

「ところで警察(おしごと)の方はどうしたの? 新米刑事さん」
「今日はもう定時(アガり)です」

 首筋に刃物を突きつけられたまま平然とした表情で尋ねる少女に、透は淡々とした声で答える。彼女の“能力”を使えば東京(むこう)東雲市(ここ)など、十数分もあれば往復(ゆきき)できるのだ。

「間垣 浩二の脱走を手引きしたのは貴女ですね、姉様? 拘置所の監視カメラに映像(ログ)が残ってましたよ?」

 少女の首筋に押し当てていた刃物を納め、透は本題を切り出した。透の問いに、少女は悪びれる様子もなく「ええ」と頷く。

「Cランク程度だけど魔力資質も持ってたし、使える(・・・・)かなーって思ってちょっかいかけてみたの。余興(ひまつぶし)としては上々の出来だったわ」
「余興……そんなことのためにデバイスまで渡したんですか?」
「だって私には“このコ”がいるし」

 呆れたような透の問いに、少女はそう言って首に架けたネックレスを指差す。ネックレスの先端では、まるでビー玉のような青い宝玉が揺れていた。

余興(あそび)は終わり、次の段階(ステージ)へ進みましょうか」

 少女はそう言って透を振り返り、金色の双眸を細めて笑いかけた。

「期待してるわよ? トーレ」

 少女の激励に、透は「はい」とうやうやしく頭を下げる。その瞳は、少女と同じく金色に輝いていた。



 ――To be continued



[11310] Trick:16
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/01/10 11:17
 暴風族<ベヒーモス>、「パーツ・ウォウ史上最強のDクラス」宇童アキラと四人の高弟“四聖獣”。Dクラスを完全に超越する実力を持ちながら、Dクラスに居座り続ける狂人達。
 常識的に考えて、駆け出し(ルーキー)暴風族の<小烏丸(イッキたち)>が太刀打ちできる相手ではない。だが万に一つの勝利の可能性も無いかと言えば、そうでもないというのが咢の見解だった。
 ステッカーの上貼りをしてきたのは<ベヒーモス>の方であるため、戦は<小烏丸>側のエリアで、<小烏丸>側に合わせた戦方式で行われることになる。
 パーツ・ウォウFクラス「ダッシュ」、そこに唯一にして絶対の勝機があった。
<小烏丸>にはFクラスでありながらFクラスを超越するスピードのライダーが三人いる。咢、カズ、そしてスバル。神出鬼没の助っ人、変態スク水仮面を入れれば四人である。
<ベヒーモス>が「最強のDクラス」であるならば、<小烏丸>は「最強のFクラス」と言える。Fクラスの弱小チームであることが、イッキ達にとって最大の武器となり得た(・・・・)のだ。

 ――――そう、その筈だったのだ。少なくともほんの一時間ほど前までは。

「それなのに……何がどうトチ狂ってそんなことになってんだよ、ええ!?」

 当事者二人を畳の上に正座させ、咢は般若の如き形相で怒鳴り散らす。咢の怒号にスバルが身を竦ませ、対照的にイッキはどうでもいいとばかりに鼻をほじる。
 その夜、東京の“野暮用”から戻った咢達を待っていたものは、<小烏丸(・・・)>()<ベヒーモス(・・・・・)>に宣戦布告した(・・・・・・・)という信じがたい報せだった。





 話は一時間前に遡る。間垣の警察への受け渡しを含む一連の面倒事(ゴタゴタ)が解決した後、スバルはイッキの自転車を借り、(ベヒーモス)の姿を探して市内を走り回っていた。
 助けて貰ったことは感謝している。だが<小烏丸>を「虫ケラ」と侮られたことはどうしても許せない。宇童を探し出し、暴言を撤回させる。方法や勝率などは二の次だった。
 それに、とスバルは自転車の(バスケット)を見下ろした。籠の中には一足のA.T.――間垣が“魔導の玉璽”と呼ぶデバイスが乱雑に詰め込まれていた。宇童から預かった(・・・・)ものである。
 間垣を拘束する際、宇童は間垣のA.T.を没収した。抵抗の術を奪うという意味でば、その判断は妥当と言える。
 だが宇童は、取り上げた間垣のA.T.をスバルへ渡したのだ。「君が預かっていてくれ」と、さも当然のことであるかのように。それがスバルには解らなかった。
 宇童に会い、その真意を問い質すとともに<小烏丸(イッキたち)>への暴言を撤回させる。スバルはそのために夜の街を駆けずり回っていた。

 そして遂に手掛かりを掴んだ。東雲市郊外のとある工事現場、そこが四聖獣の会合(ミーティング)場所になっているという情報を掴んだのである。スバルは早速現場へ急行した。
 積み上げられた資材、そびえ建つような建設機械。その奥に彼らはいた。<ベヒーモス>四聖獣、その中には蓮の姿もある。
 スバルは逸る気持ちに駆り立てられながら自転車(ペダル)を漕いだ。四聖獣(かれら)と接触すれば、宇童に会うこともできるかもしれない。
 そのとき、自転車が何かに躓いた。スバルが「あ」と声を上げるが、既に遅い。制御を失い、自転車は猛スピードで暴走する。その先に見えるのは四台のデコチャリ。
 デコチャリ、それは80年代に流行した改造自転車の最終形態である。主に免許のない中高生がデコトラ(デコレーション・トラック)を模して製作し、現在でも愛好家が一県に数人程度存在すると言われる。
 そんな蘊蓄(うんちく)も、実は四聖獣が揃いも揃って「一県に数人」のデコチャリ愛好家であったという衝撃の事実も、今のスバルにとってはどうでもいいことであった。
 今の彼女にとって重要なことはただ一つ、このままでは確実に“アレ”に激突するというただ一点のみである。そしてそれは、既に逃れられない未来になりつつあった。

「うそぉおおおおおおおおおおおおおおおっ!?」

 半泣きの顔で情けない悲鳴を上げながら、スバルは自転車ごとデコチャリの群れに突っ込んだ。激突音がちゅどーんと轟き、土煙がもくもくと立ち昇る。
 え、アレもしかして死んだ? 呆然とした表情で立ち尽くす四聖獣の背後から、そのとき不敵な声が響き渡った。

「――イッキ殺法、人間爆弾(スバル・ミサイル)

 蓮達は弾かれたように背後を振り向いた。スバルもデコチャリの残骸の下から這い出しながら頭上を見上げる。
 月明かりを背中に背負い、クレーン車の上に腕組みして立つ黒い人影。身に纏う<小烏丸>のジャケット、鳥の巣のようなボサボサ頭。紛うことなくイッキだった。

「イッキ!?」

 スバルは驚愕に目を見開いた。何故だ、どうしてイッキがこんなところにいる? 混乱するスバルを見下ろし、イッキがふてぶてしい顔で声をかけた。

「よぉスバル。見事な特攻(カチコミ)、そして天晴れな自爆だったぞ。主のために命を捨てる下僕としての忠誠心、褒めてつかわす」
「はぁ? ふざけないでよヘッポコガラス!」

 あまりにも不遜なイッキの物言いに、スバルは青筋を浮かべて怒鳴り返す。野山野家に来てからおよそ二週間。暴力(バイオレンス)に満ちた家庭環境の中で、スバルは順調に染まって(・・・・)いた。
 イッキは蓮達に視線を移した。鷹のように鋭い眼差しが四聖獣(ケダモノたち)を見下ろす。蓮はごくりと喉を鳴らした。

「テメエらか、俺達を虫ケラだのヘッポコだの言いやがるふざけた連中は?」

 憮然とした言葉とともに、イッキは懐から何かを取り出す。<小烏丸>のエンブレム・ステッカーだった。まさか、とスバルは目を見開いた。

「史上最強? 最大? ふざけろよ。テメエらがノコノコ攻め込んでくるのを、のんびり待ってやるほど俺達は暇人じゃねぇ!」

 いつの間にかイッキの周囲には、カズが、オニギリが、そしてブッチャが―――咢を除く<小烏丸>の全員が集結していた。
 イッキは手元のステッカーを見せつけるように高々と持ち上げ、傍に張られた<ベヒーモス>のステッカーの上に上貼りした。宣戦布告の合図である。

戦争(ガチンコ)だぜ、Dクラス! 蝿や蟻にも怒りあり(The fly has her spleen and the ant has her gall.)。魅せてやるよ、虫ケラの意地って奴をな!!」

 不敵な笑みとともに啖呵を切るイッキの背中を、突如尋常でない圧迫感(プレッシャー)が襲った。

「分かった。お前達の宣戦布告、この「超獣」が確かに聞き入れた」

 耳を打つ男の声。イッキは背後を振り返った。ショベルカーのアームの先端、ショベルの上に人影が見える。赤い髪の青年だった。

「宇童 アキラ!」
「何、こいつが!?」

 瞠目するスバルの叫びに、イッキは驚愕の表情で宇童を見上げた。イッキ達を見下ろし、宇童は言葉を続ける。

「勝負は十日後、満月の夜だ」
「上等だぜ。吼え面かくなよ?」

 宇童の通告に、イッキは歯を剥き出して獰猛に笑う。両雄はこうして相(まみ)えたのである。





「――つー訳なんで、十日後に<ベヒーモス>と(バトル)することになった」
「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、ここまで考えなしの大馬鹿野郎どもだったとは……」

 何の気負いもなくのたまうイッキに、咢は思わず天を仰ぐ。戦方式がFクラス(ダッシュ)からDクラス(キューブ)へ変わり、<小烏丸>の勝利は最早絶望的だった。勝率は限りなく0(ゼロ)である。
 パーツ・ウォウDクラス「キューブ」、それはパーツ・ウォウの中で最も過激で最もポピュラーで、そして最も危険な戦である。
 戦方式は四角い密室内での一対一の潰し合い。戦場は「四角い密室」という条件さえ満たせば、ありとあらゆる場所が戦場となる。まさにコンクリート・デスマッチである。
 そして,.<ベヒーモス>は「キューブ」に特化したチームだった。宇童はもとより、四聖獣も全員がAクラス級の戦闘能力の持ち主である。
 百の手(ハンドレット)と呼ばれる必殺技を持つ「ヘカトンケイル・ボム」五所瓦 風明、日本屈指の女性ライダーである「石化の盾(ゴーゴン・シェル)」美作 涼。
 走・攻・守全く隙のない究極超人(アルテミット・ライダー)時の支配者(アイオーン・クロック)」左 安良、そして最近四聖獣入りした「麒麟(ユニコーン)」。その誰もが、何らかの「王」を名乗る資格のある逸材だった。

「はっきり言ってやる。今の<小烏丸>じゃDクラス(キューブ)で<ベヒーモス(あのバケモノども)>には絶対に勝てねぇ!」

 強い口調で言いきる咢に、イッキとスバルは一瞬言葉を失う。しかし二人が口を開く前に、咢は「だから」と話を続ける。

「お前らにはこの十日間で是が非でも強くなって貰わなきゃならない。いや、この俺がお前らを強くする! カスからミジンコくらいまでには引き上げてやるよ」

 そのためには特訓が必要だ。いつになく真剣な表情で力説する咢に、スバルは目を丸くした。

「アギト……あなた本当に本物のアギト? 東京で謎の宇宙人とか未来人とか異世界人とかに誘拐(アブダプション)されて、実は偽者(ダミー)と入れ替わてったりなんかしてないよね!?」
「漫画の読み過ぎだ、この馬鹿ガキ」

 尋常でない剣幕で詰め寄るスバルの問いを、咢は呆れたような顔で両断する。流石に調子に乗りすぎたか、スバルは「あはは」と笑いながら頭を掻いた。

「でも今日はやけに乗り気じゃねぇか。本当にどうしたんだよ?」

 にやにやと笑いながら尋ねるイッキに、咢は素っ気なく「別に」と答える。

「ただ<ベヒーモス(あいつら)>には俺もちょっとばかし(・・・・・・・)“貸し”がある。それだけだ」

 咢の答えにイッキは「そっか」と相槌を打ち、それ以上詮索することはなかった。



 翌日から、<小烏丸>の強化合宿が始まった。学校に無断で泊まり込み、朝早くから夜遅くまで過酷(ハード)な特訓の毎日。咢の罵声が飛び、反発するカズ達の怒号が轟く。
 カズとオニギリ、そしてブッチャの三人は、「キューブ」の生命線である壁走り(ウォールライド)の技術を基礎から叩きこまれた。壁に引いた(ライン)に沿って、教室内をグルグルと回り続ける。
 カズが線の上から僅かにはみ出た。すかさず咢の罵声が飛ぶ。

「それじゃ駄目だってんだろが、ウスィ~の! 線からはみ出てるぞボケッ!!」

 咢の罵声に、カズは慌てたように線の上に乗った。だが今度はオニギリが線からずれる。

「何だその醜い“走り”は!?」

 ブッチャが足を滑らせる。

「空気の無駄だ! 死ね黒豚!!」

 容赦なく飛ぶ咢の罵声に、ブッチャが遂に我慢の限界を迎えた。

「煩いね! 僕は元々壁走り(ウォールライド)は得意なんだよ!!」
「これでか!? もう一度ミジンコからやり直せ!!」
「大体何なんだテメーはよ!? この間までは全然やる気なかった癖に!!」

 ブッチャと咢の口論に更にオニギリが参戦し、ぎゃーすぎゃーすと喚き合う。合宿開始から既に一週間、特訓はグダグダだった。

「皆! 晩ご飯できたよ」

 教室の入り口ががらりと開き、引き戸の向こうからリンゴが顔を出した。リンゴの言葉に男達の顔つきが飢えた獣のそれに変わる。
 合宿にはイッキ達<小烏丸>のメンバーも他に、数人の有志によるサポーター達も一緒に参加していた。リンゴもサポーターの一人であり、主に食事面でイッキ達を支援している。

「イッキ達は?」
「今ウメちゃんが呼びに行ってる」

 カズの問いに、リンゴが廊下を歩きながら簡潔に答えた。イッキとスバルは現在、カズ達とは別メニューでの特訓を行っているのである。

 その特訓とは――――、



 その頃、イッキとスバルは壮絶な殴り合いを繰り広げていた。
 大振りで繰り出されたイッキの拳がスバルの横頬を掠める。スバルはそのまま一歩踏み込み、イッキの懐に身体を捻じ込みながら怒号とともにイッキの腹を殴りつけた。
 鳩尾に走る鈍痛に顔を歪めながらイッキは自らも一歩前進し、スバルの額に頭突きをぶつけた。衝撃とともに視界で火花が散り、スバルは悲鳴を上げて大きく仰け反る。
 イッキは追い討ちをかけるように拳を振り被り、スバルの顔面を狙って打ち放った。しかしスバルは素早く身を引いて躱し、イッキの横面へ飛び蹴りを繰り出す。
 だがイッキは身を捻ってスバルの飛び蹴りを躱し、逆にスバルの脇腹に回し蹴りを叩き込んだ。スバルの身体が鞠のように吹き飛び、生徒机をひっくり返しながら床上を転がる。

 二人の特訓内容とは、ずばり実際の「キューブ」を想定した一対一(タイマン)模擬戦(スパーリング)。密室空間内で本番さながらに二人で殴り合うのである。
 今のイッキの弱点は“動きの緩慢(のろ)さ”である。総重量30kgものハンディ・アンカーにより、イッキは素早く動くことができない。
 敏捷性の欠落は「キューブ」では致命的だった。俊敏に動けないということは、自分の攻撃を当てられず、敵の攻撃を避けられないということでもある。
 そこでイッキの練習は壁の技術よりも格闘戦の技能向上を優先して組まれた。スバルの役割は、言わばイッキのための“動くサンドバッグ”である。
 一方スバルの欠点は戦闘経験の圧倒的な不足である。加えて戦いそのものを忌避する彼女の気性は「キューブ」では役に立たない。
 そこで咢はスバルをイッキと組ませた。イッキと戦わせることでスバルに戦闘経験を積ませ、ついでに彼女の“甘え”を消し去ることが咢の目的である。
 イッキはフェミニストではない、それどころか女子供でも容赦なく狩る鬼畜である。極限状態に置かれればどんな甘ちゃんでも生き残るために変わらざるを得ない。
 仮に“甘え”を克服することができなくても、(サンドバッグ)としてならば役に立つ。そういった意味でもスバルはイッキの相手として最適だった。
 そして幸か不幸か、咢の目論見通りスバルは見事に頭のネジが吹っ飛び(・・・・・・・・・)、今では――ハンデがあるとはいえ――イッキと互角な殴り合いを繰り広げるまでに成長し(ぶっこわれ)たのである。

「ゼェ、ゼェ……ま、まだまだだな雑魚一号! 全知全能たるこの俺様にそんなヘッピリ腰のヘナチョコパンチが効くとでも思ったか?」
「ハァ、ハァ……な、何を寝惚けたこと言ってるのかなこのカラス頭は? こんなガキ一人にそんなボロボロにされてる癖に!」

 荒い呼吸を繰り返しながら減らず口を叩くイッキに、スバルも息切れしながら強がりをほざく。
 生徒机を支えにして立ち上がり、スバルは拳を握りしめた。イッキも受けて立つように身構える。次の瞬間、二人は同時に床面を蹴った。

「スバルゥゥ! 俺の必殺技が見たいとか言ってたよなぁ!? 魅せてやるぜ、これが俺の新必殺技その1ぃぃぃっ!!」

 悪魔のように凶悪な顔で叫びながら、イッキは拳を振り上げてスバルに踊りかかった。

「呼べよ風、吹き荒れろ嵐! 今! 超必殺のおおおおおおっ!!」

 雄叫びとともに振り抜かれたイッキ渾身の拳を、しかしスバルは身を捻って軽々と避ける。空振りしたイッキの拳が虚しく空を切った。
 しかも勢いあまり、イッキの身体は独楽のようにぐるぐると回転する。イッキの回転は止まらない。否、寧ろ加速すらしていた。これは―――!?

「我が必殺技はここからだ愚か者め! 来たれ風の神! A.T.タイフーン!!」
「そんな……まさか遠心力をパンチに上乗せするつもり!?」

 イッキの狙いを悟り、スバルは戦慄に声を震わせた。A.T.によって加速したイッキの回転んは今やまるで竜巻、そこから放たれる攻撃の威力は計り知れない。
 しかし如何に強力な必殺技であろうと、それを撃たせなければどうということはない。そしてスバルは、(イッキ)にむざむざ撃たせてやるほど甘くない。
 スバルは「とう!」と叫びながら飛び上がった。一見強力そうなイッキの技には、実は一つだけ弱点がある。それは“上”―――回転の軸の中心である。
 例えば扇風機を想像して欲しい。高速で回転する扇風機の羽は、触れれば指が飛ぶほどの殺傷力を秘めている。だが軸の中心を正確に押さえつけてしまえば、回転は止まる。

 ――――と、以前イッキの部屋で読んだ漫画に書いてあった。

「あの漫画をあたしに読ませたのが失敗だったわね! 扇風機の止め方を魅せてやる!!」

 勝利を確信した顔で雄叫びを轟かせながら、スバルはイッキの頭上で宙返りし、真上から渾身の飛び蹴りを放った。

「なめるなあああああっ!!」

 イッキは怒号を上げながらスバルを見上げ、拳をロケットのように垂直に突き上げる。スバルの右足が、イッキの拳が、空中で激突しようとしたまさにその瞬間――――、

「スバルちゃん、イッキちゃん! ご飯でしよ~っ」

 教室の入り口ががらりと開き、引き戸の向こうからウメが暢気な声とともに顔を出した。

「「何、ご飯!?」」

 ウメの呼びかけに反応し、スバルとイッキの声が重なる。次の瞬間、スバルの踵がイッキの頬に突き刺さり、同時にイッキの拳がスバルの顎を打ち抜いた。
 まるでダイナマイトのような轟音が教室内に木霊する。それは壮絶な“相討ち(ダブル・ノックアウト)”だった。

「……取り敢えず、スバルちゃん達はご飯の前に治療(てあて)でしね」

 派手な音を立てて倒れ伏す二人を見下ろし、ウメはやれやれと息を吐いた。



 ――To be continued



[11310] Trick:17
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/01/28 23:05
「痛たたっ! もっと優しくしてよぉ」
「我慢するでし」

 スバルの泣き言には一切耳を貸さず、ウメは消毒液で濡れた脱脂綿を押しつける。夜の保健室で、スバルは怪我の治療を受けていた。
 消毒した傷口に絆創膏を貼り、そこで漸くひと通りの手当てが終わった。ウメが疲れたようにふぅと息を吐く。
 酷い有様だった。上着を脱ぎ、タンクトップ姿となったスバルの顔や手足には、至るところにガーゼや絆創膏が貼られている。服の下も痣だらけだった。

「……変わったでしね。スバルちゃん」

 傷だらけなスバルの身体を眺めながら、ウメは寂しそうな顔で口を開いた。たった三週間の間で、スバルはまるで別人のように変わってしまった。
 三週間前、初めて会った頃のスバルは、(バトル)暴風族(ライダー)も嫌う普通の少女だった。しかしA.T.を始め、<小烏丸>に入り、戦を経験し、今やスバルは立派な暴風族である。

 ウメの言葉に、スバルは「そうだね」と小さく笑う。痛みを怖れ、戦いを何よりも嫌っていた筈の自分が、三日後には檻の中で命懸けの潰し合いをしようとしている。
 今の自分を見て、異世界(ミッドチルダ)の家族はどう思うだろうか? スバルの脳裏を父や姉、そして死んでしまった母の顔が走馬灯のようによぎる。
 姉はきっと喜んでくれるだろう。母の“技”をともに受け継ぐことを、一緒に戦うことを誰よりも望んでいたあの姉ならば。
 父は逆に渋い顔をすると思う。娘達が戦いの道を歩むことをよしとせず、姉の管理局入りにも難色を示していたあの父だから。
 母は……分からない。母と過ごした時間はほんの僅かでしかない。だが何となく、(じぶん)の好きにさせてくれる気がする。
 会いたいなぁ。家族の顔を思い出し、スバルは郷愁に胸を焦がした。故郷に帰りたい、父や姉の顔が見たい。だがその一方でウメ達とも別れたくない。我侭だった。

「ウメちゃん、今から星を観に行こう」

 上着に袖を通し、スバルはウメにそう声をかけた。理由は自分でも解らない。だが今は無性に星が見たかった、空を見上げたかった。故郷(ミッドチルダ)と同じ、どこまでも広がるあの大空を。
 窓から外へ飛び出し、壁走り(ウォールライド)で屋上まで登る。顔を上げれば、煌めく無限の星々が「道」のように連なり、スバルの頭上にどこまでも広がっていた。

「綺麗……」

 気がつけばスバルはそう口にしていた。この世界に来てから幾つもの夜が過ぎたが、こうして夜空を眺めるのは初めてだった。無限に続く星の光、それはまるで――――、

「まるで星明かりの道(スターライトロード)……」

 星空を見上げたまま魅せられたような顔で呟くスバルに、ウメが隣で苦笑する。

「スバルちゃんはセンスないでしねー。それより銀河の道(ギャラクシーロード)なんてどうでしか?」

 ウメの言葉に、スバルは頬を膨らませて言い返した。

「ウメちゃんこそ、そのネーミングはどうかと思うよ? 凄い安直じゃん」
「何でしって?」

 スバルの反論にウメは眉を吊り上げた。剣呑な空気が周囲に漂い、二人の間で見えない火花が散る。たが次の瞬間、二人は声を上げて笑っていた。

「ねぇ、スバルちゃん。あの星の海のどれかが、スバルちゃんの故郷なんでしね」
「ちょっと、(あたし)宇宙人(エイリアン)みたいに言わないでよ。あたしは宇宙人じゃなくて異世界人、涼宮ハ○ヒも会ってない超稀少動物よ?」
「……それ自分で言ってて虚しくないでしか?」
「べ、別にそんなことないんだからねっ!?」
「何故にツンデレでしか」

 まるで普通の子供のようにふざけあい、スバルとウメは無邪気に笑う。そこには何の確執も存在しなかった。
 一週間前、スバルはウメに全てを打ち明けた。自分出身も、正体も、そして近いうちに元の世界へ帰らなければならないことも。
 リカ達には最低限のことしか話していないが、ウメにだけは全ての秘密を打ち明けた。友達だからこそ、スバルはウメには全てを知って貰いたかったのである。
 スバルの秘密を知り、それでもウメがスバルを拒絶することはなかった。寧ろ嬉しかった。スバルが自分を信頼してくれていたことが、友達だと言ってくれたことが。
 長い長い遠回りの果てに、別れの日が刻々と近づくこのときになって、二人は漸く本当の友達になったのである。

「スバルちゃん、本当に帰っちゃうんでしか? その……ミッドチルダに」

 寂しそうな声で尋ねるウメに、スバルは表情を曇った。溜息を吐きながら瞼を伏せ、悄然とした顔で「うん」と頷く。

「……うん。取り敢えず今度の(バトル)が終わったらなのはさんに連絡して、管理局(むこう)の準備が整い次第帰還(かえ)ることになると思う」

 スバルの返答に、ウメは気落ちした顔で「そう」と呟く。世界はどうしてこんなにも残酷なのだろう、どうして全てを奪っていくのだろう。
 重力子(グラビティ・チルドレン)として生まれ、普通の子供として生きる“未来”を奪われた。「トロパイオンの掟」に縛られ、普通の暴風族(ライダー)として走る“自由”を奪われた。
 その上たった一人の友達まで、神様は自分から奪い去ろうというのか。ウメは運命の理不尽さを呪った。

 そのとき、見渡す限りの星空の一角で光が落ちた。流れ星? 二人は弾かれたように空を見上げた。
 光は徐々に大きさを増し、まるで狙い澄ましたかのようにスバル達へ一直線に迫る。隕石―――否、“あれ”は人間である。白い服を着た、長い栗色の髪の少女だった。

「なのはさん……?」

 スバルは呆然と呟いた。髪をツインテールに纏め、白い防護服(バリアジャケット)に身を包む今のなのはは、メディアで最も有名なエース・オブ・エースの姿である。見違える筈はない。

「こんばんは、スバルちゃん」

 屋上に音もなく降り立ち、なのははスバルに声をかけた。だが親しげな挨拶とは裏腹に、その姿はデバイスと防護服で完全武装した物々しいいでたちである。

「あの……今日はどうしたんですか? なのはさん」

 戸惑いがちに尋ねるスバルに、なのはは困ったような微笑を浮かべて口を開く。

「スバルちゃん。いきなりで申し訳ないんだけど、猶予期間(モラトリアム)はこれでおしまい。貴女にはこれからすぐに元の世界(ミッドチルダ)へ帰って貰うわ」

 本当はもう少し待つつもりだったんだけど、と申し訳なさそうに告げられたなのはの言葉を、スバルは一瞬理解できなかった。

「……どういうことなんでしか?」

 放心した顔で固まるスバルに代わり、ウメが険呑な表情でなのはに尋ねた。なのはは一瞬の逡巡の後、硬い表情で語り始めた。

「最近東雲市一帯で不可解な魔力反応が確認されているの。原因は目下調査中、でも違法魔導師が潜伏してるって可能性が一番有力かな」
「違法魔導師……」

 スバルの顔から血の気が引いた。違法魔導師、その名の通り魔法で悪事を働く犯罪者である。次元世界の人間にとって、違法魔導師は古代遺失物(ロスト・ロギア)と並ぶ最大の脅威だった。

「とにかくこの街で何かの事件が起きていることは確かなの。安全のため、現時刻をもって貴女の身柄は時空管理局(わたしたち)が保護します」

 なのはが有無を言わさぬ口調でスバルに告げる。スバルは思わず一歩後ずさった。嫌だった。こんなところで、こんな中途半端な形で皆と別れたくなかった。

「あの、なのはさん……あと少しだけ、せめてあと三日だけ待ってくれませんか?」

 気がつけば、スバルはそう口にしていた。

「三日後にパーツ・ウォウの試合があるんです。その(バトル)をあたしの、この世界の皆との最後の思い出にしたいんです! それまであたし……この世界にいたいんです!!」

 毅然とした表情でなのはを見上げ、スバルは必死な声で訴える。我侭であることは自分でも理解している。だが我侭を押し通してでも、スバルはこの世界に残りたかった。
 そのとき、不意にスバルの頭の中に間垣の顔が蘇った。思い出すのも忌々しい最低の記憶を噛みしめ、スバルは苦々しく顔を歪める。
 元<髑髏十字軍(スカル・セイダース)>の間垣 浩二。まるで違法魔導師のように(・・・・・・・・・)魔法を悪用する、魔導師としても暴風族としても最低の男。
 違法魔導師? スバルの脳裏に電流が走った。もしも管理局が追う違法魔導師が間垣のことであるならば、なのはの説得に利用できるかもしれない。

「なのはさん! なのはさん達が捜してる違法魔導師、多分もう捕まってます!!」
「……え?」

 スバルが口走った聞き捨てならない科白に、なのはの顔色が変わる。食いついた! スバルは畳みかけるように言葉を続けた。

「一週間前にそれっぽい魔導師に襲われたんですけど、そいつはもう警察に連れて行かれて檻の中ですし、デバイスだって取り上げました! だから―――」
「それどういうことかな? スバルちゃん」

 スバルの言葉を遮るように、なのはが問った。出鼻を挫かれ、スバルは「う」と言葉を詰まらせる。しまった、藪蛇だった。

「そんな大事なこと、どうして今まで黙ってたの?」

 淡々とした声で問うなのはの顔は、責めるでも怒るでもなく、どこか泣きそうな表情でスバルを見下ろしている。スバルは気圧されたように黙り込んだ。
 沈黙するスバルを見下ろし、なのはは「まぁいいわ」と言いながら溜息を零した。そして硬い表情を浮かべ、言葉を続ける。

「そういうことなら、スバルちゃんには尚更管理局まだ来て貰わなきゃ。重要参考人として詳しい話を聞かせて貰わないと」

 そう言いながら、なのははスバルに手を差しのべた。スバルは困惑の表情を浮かべ、差し出された掌と、なのはの顔を交互に見る。
 スバルは直感的に理解していた。今、自分は一つの分水嶺に立っている。一度この手を取ってしまえば、もう二度とウメ達には会えない。
 なのはが再び「スバルちゃん」と声をかけた。有無を言わさぬ、まるで“命令”するような強い口調だった。

「こんなこと本当は言いたくないんだけど……ここは貴女がいるべき場所じゃないでしょう?」

 諭すようななのはの科白に、スバルは思わず目を剥いた。今、この女(なのはさん)は何と言った? 憤怒の表情で睨むスバルに、なのはは構わず言葉を続ける。

「ミッドチルダではお父さんやお姉さんが貴女の帰りをずっと待ってるの。貴女が今やるべきことは、元の世界に帰って、家族に元気な顔を見せてあげることじゃないの?」

 淡々と説くなのはを見上げ、スバルは思わず歯噛みした。なのはの言葉は正論である。ここは自分がいるべき場所ではない。それは以前、スバル自身も口にした言葉である。
 しかし他人の口から指摘されると、無性に腹が立った。この世界で過ごした三週間を、自分の中のかけがえのない時間を否定されてしまった気がして。
 スバルは無意識に拳を握りしめた。掌の皮膚に爪が食い込み、指の隙間から血が滴る。そのとき、ウメがスバルの上着を掴んだ。

「……駄目でし」

 スバルの上着を握りしめたまま、ウメはそう言って首を振る。次の瞬間、堰を切ったようにウメの目から涙が溢れ出した。

「行っちゃ駄目でし! ここにいるでし! やっと友達になれたのに、こんなお別れなんて絶対に嫌でし! もっと一緒にいたい、ずっとスバルちゃんと一緒にいたいんでし!!」
「ウメちゃん……」

 涙ながらに訴えるウメに、スバルはかける言葉が見つからなかった。ウメの泣き顔を見たのは今回で三度目である。また泣かせてしまった、罪悪感がスバルの胸を抉る。
 スバルはウメの背中に腕を回し、壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。スバルにできることは、それだけだった。スバルの胸に顔を埋め、ウメは小さく嗚咽を漏らす。

「ずるいよ、ウメちゃん……」

 胸の中で泣きじゃくるウメを見下ろし、スバルは責めるように口を開いた。ウメは卑怯だ。そんな顔で、そんな言い方をされてしまっては、選択の余地などないではないか。
 だが、おかげで吹っ切れた(・・・・・)。スバルは憑き物が落ちたように顔を上げ――――物陰から覗くイッキ達と目が合った。

「……え?」
「「「「「あ」」」」」

 呆けたようなスバルの声と、狼狽えるようなイッキ達の声が重なった。気まずい沈黙がその場に漂う。そのとき、イッキが勢いよくスバルに飛びかかった。

 ――イッキA.T.殺法・ホイルスピンドロップ!!

「でぇええええええりゃあああああああああああああああっ!!」
「へぶっ!?」

 A.T.によって加速し、身体の捻りも加えたイッキ渾身のドロップキックが炸裂。スバルは悲鳴とともに蹴り飛ばされた。

「ったく、こっそり覗いてればいつまでもウジウジ悩みやがって。お前には修羅場もラブコメも似合わねーんだよ、この優柔不断娘が」

 尻餅をつくスバルを見下ろし、イッキは不遜な顔で言い放す。

「―――でも腹は括ったみたいだな」
「え……?」

 イッキの科白に、スバルは思わず訊き返した。呆然とした顔のスバルに尊大な笑みを返し、イッキは言葉を続ける。

「ぶつけてやれよ、お前の気持ち。ウメは“本気の本気”でお前にぶつかってきたんだ、半端な答えで逃げんじゃねぇぞ?」

 そう言いながら、イッキはスバルに手を差しのべる。ズルいなぁ、とスバルは苦笑しながら、差し出された掌を躊躇なく掴んだ。
 出歯亀していた癖に、普段は傍若無人な悪魔みたいな奴なのに、いざというときには格好よくキメてみせる。それがイッキという男だった。

「リンゴちゃんが惚れるのも解るかも」

 カズ達とともに物陰から見守るリンゴを一瞥し、スバルは呟いた。その言葉を偶然聞き取り、ウメが殺気立った目でイッキを睨むが、イッキもスバルも気づかなかった。

「なのはさん」

 スバルは再びなのはへ向き直った。

「あたし、やっぱりまだ帰りません」

 怯えも迷いも消えた真っ直ぐな眼差しでなのはを見据え、スバルが口にしたのは拒絶に言葉だった。ウメが弾かれたようにスバルを振り向く。

「あたしも、もっとウメちゃんと一緒にいたいから。皆と一緒に走りたから。だから……代わりに謝っといてくれませんか? お父さんとお姉ちゃんに、もう少しだけ待っててって」

 そう言ってばつが悪そうな顔で笑うスバルを見ながら、ウメは再び泣いた。悲しくて、でも嬉しくて。
 自分は何という罪深い人間だろう。友達に辛い選択を迫り、結果的に彼女に家族を切り捨てさせたのだから。
 それでもスバルが自分を選んでくれたことが、ウメはどうしようもなく嬉しかった。

「……スバル。お前は今、自ら苦難の道を征くことを選んだ」

 イッキが唐突に口を開いた。

「お前の道は、例えるならば果てしなく遠い男坂を登り続ける旅に等しい。過酷な旅だ」

 いつになく真面目な声で語るイッキに、スバルも真剣な表情で耳を傾ける。一部意味の解らない言葉もあるが、イッキが何か大切なことを伝えようとしていることは理解できた。

「旅をするなら、馬が必要だ。……馬には優しくするんだぞ? お前の旅を支える相棒(パートナー)なんだからな」
「う、うん……?」

 本格的に話の意味が分からなくなり、スバルは曖昧に相槌を打った。しかし困惑するスバルに構わず、イッキは言葉を続ける。その肩は、震えていた。

「水はしっかり与えろよ? 鞭ばっかり振るうんじゃねぇぞ? 健やかなる時も病める時も助け合って、そして……」

 イッキの言葉が途切れた。スバルが不安そうに「イッキ」と呼びかける。次の瞬間、イッキの顔から赤い飛沫が突如噴き出した。血だ。スバルの顔から血の気が引いた。
 ぐらり、とイッキの身体が傾いた。床面へ頭から倒れ込むイッキの身体を、スバルが慌てて支える。

「イッキ!? イッキ!!」

 ぐったりとしたイッキの肩を抱きかかえ、スバルは必死に呼びかけた。イッキが目を開け、鼻から血を流しながら、掠れた声で言葉を紡ぐ。

「い……妹を幸せにしてやってくれよ、スバル。泣かしやがったら承知しねぇぞ……!?」
「…………はい?」

 スバルは思わず訊き返した。こいつは一体何を言っているんだ? イッキが口にした言葉の意味を、スバルは理解できなかった。否、理解したくなかった(・・・・・・・・・)
 およそ一週間前の話である。とある些細な失言から、スバルは同性愛者であるとイッキ達に勘違いされたことがある。
 その時は辛うじて誤解を解くことができたが、まさかそのネタをまだ引っ張るとは! スバルは怒りに顔を紅潮させた。

「とゆーかイッキ! あんた鼻血なんか流して何想像した? ナニ想像した!?」

 イッキの肩を揺さぶりながら声を荒げるスバルの周囲に、いつの間にかリンゴやカズ達が生温かい笑顔とともに集結していた。

「いやぁ前々から怪しいとは思ってたけど、君ってやっぱり“そっち”の趣味だったんだな。スバルちゃん」
「お、恐れていたことが現実に……! ウメちゃん考え直して! 今ならまだ引き返せるよ!?」
「まぁ恋愛は人それぞれだから別にいいんじゃないかな? たとえ君がそういう(・・・・)性癖だったとしても差別はしないよ、僕は。非生産的だとは思うけどね」
「大丈夫だよ二人とも、僕とイッキくんも同じだから! 困ったことがあれば何でも相談していいからねっ」
「チックショー! イッキだけじゃなくスバルちゃんにまで先を越されるなんて! やっぱ同棲か? 一つ屋根の下ってのが決め手なのか!? ……で、初体験の感想は?」

 思い思いに妄想を膨らませ、好き勝手にのたまうカズ達に、スバルは我慢の限界に達した。

「……あんた達、遺言はそれだけかしら?」

 凍てつくような声で問うスバルに、カズ達は思わず口を閉ざした。からかいすぎたか? 後悔の念に苛まれるが、既に遅い。
 金色に変わった双眸でカズ達を見渡しながら、スバルはまるで天使のように無邪気に笑い――――、

「いっぺん死ね」

 そして惨劇は起きた。
 余談だが、この時の惨劇から奇跡的に生還したオニギリは、当時を振り返りこう語ったという。あの時、スバルの背後にナイスバディな鬼婆の技影(シャドウ)を見た―――と。






「―――つまりスバルちゃんはこの世界とは違う“魔法の国”の人間で、アンタはスバルちゃんを連れ戻しにやって来た魔法使いってことか?」

 大まかな事情を聞き終え、カズは青痣の浮いた顔で胡散そうになのはを見た。それはその場の全員に共通した表情だったと言える。
 なのはの話はあまりにも荒唐無稽で、まるで御伽噺でも聞いているかのように現実味のない内容だった。
 一介の中学生にすぎない自分達の理解など及びもしない、まさに異次元の話。それがその場の全員の感想だった。

「この子を今まで保護してくれたことは感謝しています。でもスバルちゃんには帰るべき世界と、この子の帰りを待っている家族がいるの。それは理解して」

 真摯な表情で語るなのはを前に、誰も口を開こうとしない。完全に呑まれていた。自分達とさほど年齢も変わらない、たった一人の少女の言葉に。
 なのはの要求は正当なもので、したがってスバルとの別離は仕方のないことである。そう思われた。特に養子として野山野家に預けられ、親を知らないリンゴにとっては。

「そうだね……寂しいけど、その人の言う通りかもしれないね」

 淡々と紡がれたリンゴの科白に、亜紀人が気落ちしたように俯き、オニギリやブッチャは憮然と鼻を鳴らす。納得はできないが、反論の言葉が見つからなかった。しかし―――、

「本当にそうか? 俺はそうは思わない」

 一人だけ、なのはの説得に真正面から異議を唱える者がいた。カズだった。

「いきなりやって来て、耳障りのいい綺麗事ばっか並べて、そんな胡散臭い奴に仲間を預けられるかよ。怪しすぎるぜ、アンタ」

 剣呑な眼差しでなのはを見据え、カズは歯に衣着せぬ口調でなのはに噛みつく。

「ちょっと、カズ君……!」

 言いがかりに近いカズの科白に、リンゴが諌めるように口を挟んだ。しかしカズは止まらない。

「一週間前、俺達はアンタの言う“魔導師”って奴と戦った。俺は攻撃を喰らって動けなかったけど、そいつの言ってたことは憶えてる。スバルちゃんを狙ってる奴がいるってな!」

 カズの科白に、なのはは息を呑んだ。そんな話はスバルから聞いていない。

「間垣に“魔導の玉璽(レガリア)”を渡し、スバルちゃんを攫わせようとした黒幕がいる。アンタがその黒幕かもしれないじゃないか。それとも「違う」って照明できるのか?」
「だったら……ますますスバルちゃんはここにいたら危険じゃない! この子はわたしが責任を持って保護します」
「だから信用できないって言ってるだろ。アンタがスバルちゃんを狙う悪人じゃないって保証はない」

 容赦のないカズの糾弾に、なのはは思わず歯噛みした。どうして理解(わか)ってくれないのだろう。焦りと苛立ちがなのはの胸に募る。

「……そうやって意地を張って、もし取り返しのつかないことになったらどうするの?」

 低い声でかけられたなのはの問いに、カズ達が思わず息を呑む。なのはは畳みかけるように言葉を続けた。

「もしもスバルちゃんがまた事件に巻き込まれて、そして例えば二度と走れないような大怪我をして、そのとき貴方達はどうするの? 彼女や家族の人達にどうやって償うの?」

 なのははスバルを一瞥した。湿布や絆創膏が貼られた顔、傷だらけの手足。見るからに痛々しい姿である。

「スバルちゃん、ちょっと見ない間に傷だらけになってる。それに初めて合ったときも、この子は襲われてて、危うく殺されかけてた。貴方達と同じ暴風族(ストーム・ライダー)に」

 そう言いながら、なのはは責めるような目でリンゴを見た。あの夜、スバルを襲う一団の中にリンゴの姿もあったことを、なのはは憶えていたのである。
 なのははパーツ・ウォウを観ることは好きである。しかし暴風族自体にはあまり良い感情は持っていない。
 毎日のように報道される暴風族同士の抗争、A.T.を使った凶悪犯罪、事件に巻き込まれて傷つく無関係な人達。
 一見華やかな英雄のように思われるが、畢竟暴風族は闘争と暴力が渦巻く裏社会を生きる無法者。“表”の世界の住人であるなのはと相容れる筈がなかった。

「もう暴風族(あなたたち)にスバルちゃんを任せられない。この子はわたしが無理矢理にでも元の世界へ連れ帰ります」

 一方的に告げられたなのはの宣告に、カズ達が一斉に殺気立った。拳を握って身構えるカズ達を威嚇するように、なのはも(デバイス)を構える。状況はまさに一触即発だった。
 そのとき、それまで沈黙していた――というより寝ていた――イッキが唐突に口を開いた。

「ったく。どいつもこいつも面倒臭い奴だな」

 溜息混じりに零しながら億劫そうに上体を起こすイッキに、なのはやカズ達が注目する。
 それまでなのはの話にも、カズ達との口論にも興味がないかのように狸寝入りを決め込み、挙句本当に寝ていた男が、一体何を言おうというのか。
 周囲の視線をものともせず、イッキは尊大な表情を浮かべてなのはへ食指を突きつけた。

「おい小娘! 貴様は三つの大罪を犯した。俺様を侮辱した罪、小者扱いした罪、無視して勝手に話を進めやがった罪!」
「三つともあんま変わんねぇよ」
「というか最後のはイッキが話聞いてなかっただけじゃん」

 カズとスバルの指摘(ツッコミ)を無視して、イッキは言葉を続ける。

「どうせこのまま口論してても埒が明かねぇ。だったら俺達らしいやり方で決着つけようぜ? 暴風族(おれたち)は“走り”で語るみたいに、あんたも魔法で魅せてみろよ」

 そう言ってイッキが懐から取り出したのは、<小烏丸>のエンブレム・ステッカーだった。暴風族流の宣戦布告である。

「賭け――」
「ストップ! ちょっと待って、イッキ」

 イッキの科白を遮るように、スバルが口を開いた。イッキ流に言うならば、彼もまた一つの大罪を犯した。一番の当事者である自分を差し置いて話を進めようとした罪である。
 これだけは絶対に譲れない、これは自分の(・・・)戦いなのだ。スバルはイッキの手からステッカーを受け取り、なのはの眼前に突きつけた。

「賭けてよ、なのはさん。誇り(エンブレム)を」

 毅然とした眼でなのはを射抜き、スバルは凛とした声で言い放つ。

「あたしが負けたら、あたし、大人しく元の世界(ミッドチルダ)へ帰ります。その代わり……あたしが勝ったら二度とあたし達の問題に口を挟まないで」

 威勢よく啖呵を切るスバルの姿に、なのはは失望したように溜息を吐いた。

「どうして解ってくれないの、そんなに間違ってるのかな? わたしが言ってること」

 なのはは悲しそうな声でスバルに問った。それとも自分が愚かだったのだろうか。無法者でも真剣に向き合って話をすればきっと理解してくれると、そんな期待を抱いたことが。

「……あんまり分からず屋さんだとわたしも怒るよ? スバルちゃん」

 低い声で脅すなのはに、スバルは気圧されたように思わず後ずさる。自分は時空管理局のエース・オブ・エースの逆鱗に触れたのだ。
 怯えたように震えるスバルの背中を、イッキとカズが左右から支える。スバルは反射的に二人を振り返った。身体の震えが、止まった。

「おーおー、おっかねぇ」
「本性出てきたってか?」

 引き攣った顔でカズとともに軽口を叩き、イッキはスバルを見下ろした。

「スバル、何度も言わせんな。お前は俺の奴隷で俺の物、お前の物も俺の物。つまりお前の戦いもこの俺の、ひいては俺様の所有物(チーム)たる<小烏丸>全員の戦いなんだよ」
「そうそう。仲間(チーム)だろ? 俺達」

 イッキの科白にカズが便乗する。見渡すと、オニギリやブッチャも同意するように首肯していた。気持ちは皆同じだった。
 咢は頷きこそしなかったが、そっぽを向いて「ファック」と悪態を吐くその背中からは、濃厚な闘気が水蒸気のように立ち昇っていた。ヤる気は充分のようである。

 なのはは再び嘆息した。結局こうなってしまったか。落胆の表情でスバルを一瞥し、なのはは不意に既視感を感じた。彼女と同じ(・・)顔を、どこかで見たことがある。
 ああ、そうか。スバルに重なる“誰か”の正体に気づき、なのはは納得の声を漏らした。
 今のスバルの顔は、昔の自分自身とそっくりなのだ。ならば正論を言って止まる筈がない。なのはは思わず自嘲した。
 向こうが“そういう気”ならば仕方がない、彼らの気が済むまでつき合ってやろう。なのはの瞳が鋭く光った。

「気合いを入れろ、野郎ども! 魔女狩りじゃ!!」
「魔女でいいよ。魔女らしいやり方で、貴方達の力を見極めてあげる」

 かくして戦いの火蓋は切って落とされた。



 ――To be continued



[11310] Trick:18(R15)
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/02/03 00:40
 街は異様な静寂に包まれていた。建物の明かりは消え、道路には通行人の姿一つ見当たらない。
 小高い丘の上、東雲東学校の校庭からフェンス越しに見下ろす繁華街は、まるで別世界のように静まり返っていた。
 否。まるで(・・・)などではなく、そこはまさしく(・・・・)別世界だった。現実世界から隔絶された異空間、“封時結界”と呼ばれる結界魔法の内側である。

「これでもう、何が起きても誰にも気づかれないし、ここから出ることも入ることもできない。わたしが魔法を解除しない限りね」

 淡々とした口調で言葉を紡ぎ、なのはは(デバイス)を槍のように構える。今まさに、スバルの身柄を賭けた対決(バトル)が始まろうとしていた。

「――覚悟はいい?」

 威圧するように低い声で問うなのはに、イッキ達は不遜な笑みとともに答える。

「ファック! 死ね」
「ふん、エラソーに!」
「ブヒ」
「ハッ! 冗談」
「そのコスプレみたいな格好恥ずかしくない?」
「えーと……その乳揉むぞオッパイ魔人!」

 答えになっていなかった。
 なのはは咳払いとともに再度戦のルールを確認した。模擬戦は六対一の総力戦。なのはを撃墜すればイッキ達の勝利、逆に全滅した場合は敗北となる。
 当初は一発でもなのはに有効打(クリーンヒットを当てれば<小烏丸>の勝ちにすると提案されたが、イッキ達はその条件を認めなかった。他人から与えられた「道」など、何の意味もない。
 イッキがおもむろに息を吸い込んだ。緊張の面持ちで佇むスバルやカズ達を見渡し、イッキは声を張り上げる。

「コ・ガ・ラ・ス・マルゥウウウウウウウウウウウウッ!!」

 静寂を引き裂き木霊するイッキの雄叫びに合わせて、カズが、オニギリが、ブッチャが、咢が、そしてスバルが――――<小烏丸>のライダー達が猛々しく吼える。

「「「「「「ブッ殺!!」」」」」」

 それが戦闘開始の合図だった。
 最初に動いたのはスバルだった。先手必勝。戦闘機人の能力を解放し、金色に変わった瞳を爛々と煌めかせながら、スバルは雄叫びとともに拳を地面に叩きつける。

 ――IS発動、振動破砕!!

 拳から放出された振動波が波紋を広げるように地面を伝わり、巻き上げられた砂塵が霧のように周囲に漂う。
 なのはは感嘆の声を漏らした。なるほど、まずは戦場構築(ステージづくり)からか。恐らく砂嵐に紛れて仲間(イッキたち)が死角から奇襲、上に逃げても別働隊の迎撃がする作戦だろう。
 粗は多いが中々良い策だった。振り切るのも索敵(エリアサーチ)するのも容易いが、それも野暮というものか。
 さぁ、どう魅せる? なのはは微笑した。それは<小烏丸>の存在を“敵”として多少なりとも認めたことに他ならない。

 しかし実のところ、なのはの考察は全くの的外れだった。
 スバルの狙いはもっと単純に、飛行魔法を使われる前に“石”の能力でなのはを文字通り足止め(・・・)しようとしただけである。
 振動の余波で砂嵐が起きるなど予想外もいいところ、全くの偶然の産物だった。したがって予想外の砂嵐(ふいうち)に晒されたスバル達は―――、

「うぇ、げほっ! 何これぇ……!?」
「何やってんだよ、この馬鹿!」
「目が、目がぁっ!?」
「衛生兵、衛生兵を呼べぇ!!」

 当然、こうなる。「策士、策に溺れる」以前の、いっそ見事と言えるような自滅だった。

「……話になりませんね」

 醜態を晒すスバル達に落胆の息を吐き、なのはは飛行魔法を発動した。防護服(バリアジャケット)を纏った白い肢体が一瞬光を放ち、重力を無視してふわりと空中へ浮かび上がる。
 しまった! スバルは砂と涙にまみれた顔を拭い、空中を浮遊するなのはを愕然と見上げた。魔導師(なのは)とは違い、暴風族(じぶんたち)に空を飛ぶ術はない。このままでは一方的な戦いになる。
 しかし戦慄するスバルとは対照的に、イッキ達の表情に危機感はない。それどころかなのはのスカートの中を下から覗き込み、鼻の下を伸ばしてすらいる。

「うーむ、白とピンクの縞模様(ストライプ)か」
「中々スポーティーな下着だな」
「ぼ、僕は別に……」
眼福(パラダイス)だぁ」
「はにゃっ!?」

 真顔でのたまうイッキ達の科白に、なのはは赤面しながらスカートを押さえた。露骨に反応するなのはを見上げ、イッキ達が厭らしそうにケタケタと笑う。悪ガキ丸出しだった。
 なのはが無言で杖を構えた。足元の虚空に魔方陣が出現し、なのはの周囲に魔力の光球(スフィア)が発生する。通常の魔力弾とは違う、連射型の大型光球だった。
 一つ、二つ、三つ……光球は瞬く間にその数を増し、十を越え、そして二十を越えた辺りでスバルは数えるのをやめた。
 無数にひしめく光球が激烈な輝きを放ち――――爆ぜる。

 ――魔法・Accel Shooter Phalanx Shift(アクセルシューター・ファランクスシフト)!!

 それは“射撃”などという生易しいものではない、例えるならば“爆撃”だった。桜色の閃光が暗闇を貫き、無数に撃ち出された魔力弾が雨の如く地上へ降り注ぐ。
 集中砲火(ファランクスシフト)。その名の通り、二十個以上もの砲台による一斉射撃魔法である。各砲台の連射速度はおよそ秒間五発、四秒間で合計四百発以上にもなる。
 この魔法の本来の使い手は、四十(にばい)近い砲台から、秒間七発以上の超高速連射を放つ。しかしたとえ本家本元(オリジナル)には多少劣るとしても、脅威的な攻撃であることに変わりはない。

「ちっくしょーっ! 洒落になってねーぞ!?」

 雨あられと降り注ぐ魔力弾から必死に逃げ回りながら、イッキは絶叫した。ちょっとからかっただけでこの報復は、あまりに大人気ないのではないか。
 気に入らない女だった。冗談の通じない頭の硬さも、高いところから見下ろす態度も、手の届かない位置からチマチマと撃ってくる性根も、何もかもがイッキの癇に障る。
 撃ち墜としてやる! イッキは頭頂部を挟み込むように両手を添え、そして―――、

「喰らえっ! 必殺、クゥ・ミサイル!!」

 瞬間、イッキの頭から黒い何かが弾丸のように放たれた。羽ばたく翼、鋭い眼、そして尖ったクチバシ。カラスである。名前はクゥ。
 説明しよう、実はイッキの頭にはこんな生物が巣食っているのである。
 猛烈な勢いで迫る生物兵器(クゥ・ミサイル)を、なのはは身体をずらしてあっさりと避けた。イッキが「あ」と声を漏らす。痛々しい沈黙が流れた。
 だがクゥの攻撃(ターン)はまだ終わっていなかった。翼をはためかせて方向転換し、喧しく鳴き喚きながらなのはの頭をつつく。

「わっ!? ちょ、やだ、つつかないでっ!」

 纏わりつくクゥを杖で振り払いながら、なのはは悲鳴を上げた。同時に怒涛の如き弾幕が途絶える。隙が生まれた。スバルがすかさず「ブッチャ君!」と叫ぶ。
 ブッチャはスバルに手をのばした。差し出された大きな掌の上にスバルが飛び乗る。スバルを掌に乗せたまま、ブッチャは「うおお」と叫びながら腕を振り被り、そして投げた。

 ――A.T.殺法、スバル・ミサイル!!

 唸る筋肉、轟く雄叫び。なのはは瞠目した。ブッチャは自らの肉体を射出台(カタパルト)に見立て、スバルをなのは目掛けて投擲したのである。

「でええええええええええええええええええいっ!!」

 怒号を轟かせながら空中をかっ飛び、スバルはなのはに飛び蹴りを放つ。なのはは咄嗟に防御魔法を発動した。虚空に顕現した防御陣(シールド)に弾かれ、スバルは地面へ落下する。
 スバルは戦慄した。この高さから落ちれば命はない。これで終わりなのか、このまま地面に頭を打ちつけて死んでしまうのか? 暗闇の中に幻影が見える、死神が嗤っていた。
 頭上(うえ)からなのはが息を呑む気配を感じる、足下(した)でイッキ達が何かを叫んでいる。その全てが、今のスバルにはどこか遠い世界の出来事のように思えた。
 そのとき、細長い革のような何かが突如スバルの身体に絡みついた。咢の両足の(ベルト)だった。先端の鉤爪(フック)が肌を傷つける。その痛みが、スバルを現実に引き戻した。

「手間かけさせんじゃねーよ、馬鹿が!」

 巻きつけた帯ごとスバルを手元に引き寄せながら、咢が罵声を飛ばす。空中でスバルを危なげなく受け止め、咢は砂煙を立てながら着地した。

「ナイス手助け(アシスト)、流石「牙の王(アギト)」だね」
「調子いいこと言ってんじゃねーよ」

 にべもなく吐き捨てる咢を見上げ、スバルは「あはは」と笑った。咢は憮然と鼻を鳴らし、腕の中のスバルを無造作に放り出した。
 なのはが再び(デバイス)を構えた。先端に桜色の光が集束し、魔力弾が撃ち放たれる。その数、十数発。ファランクスシフトではない、通常の射撃魔法である。

「<小烏丸(テメエら)>、フォーメーション・Aだ!」

 迫る魔力弾を待ち構え、イッキが声を張り上げた。イッキの指示に、スバル達は声を揃えて答える。

「「「「「フォーメーション・Aって何!?」」」」」

 次の瞬間、降り注ぐ魔力弾がイッキやスバル達を直撃した。夜の校庭に六つの悲鳴が木霊した。

「アホかテメエら!? AっつったらエスケープのAに決まってんだろーが、この愚民ども!!」
「アホはテメエだ! エスケープの頭文字はAじゃねぇ、Eだ!! ミジンコからやり直せ鳥頭(クソガラス)!!」
「んだとコラァ! あの魔法少女野郎より先にお前を血祭りにしてやろうか!?」
「ちょっと、喧嘩やめてぇーっ!!」

 喧しく喚き合うイッキ達の頭上から、なのはが再び射撃魔法を浴びせる。轟く爆発音、響き渡る怒号と悲鳴。そして再び勃発する仲間割れ。その無限連鎖。グダグダだった。

「スバル! お前あいつと同じ魔女っ娘なんだろ!? 何か必殺の大魔法とかねーのかよっ!?」

 頭をぷすぷすと燻らせながらイッキが叫んだ。その無茶苦茶な要求に、スバルは思わず「ええっ」と困惑の声を上げる。何だその超理論。

「そんなこと言ったって! あたしが使える魔法なんて、念話とあと…………あ」

 中途半端に言葉を切ったスバルに、イッキ達が注目する。何だ、何かあるのか。突き刺さる期待の眼差しにたじろぎながら、スバルは言葉を続けた。

「――あと、精々皆の活路(みち)を創るくらいかな」

 誰に似たのか、ふてぶてしい笑顔でイッキ達を見渡し、スバルは力強く断言した。
 スバルの足元に魔方陣が顕現する。なのはの円盤のような魔方陣とは形が違う、三角形の各頂点に円を組み合わせたような形状だった。

 今は亡きスバルの母は近接特化型の陸戦魔導師だった。空を飛ぶことも、遠距離への攻撃も苦手な人だった。それは母親の遺伝子と技を受け継ぐスバルも同様である。
 しかしだからと言って、空戦魔導師に勝てないという道理はない。
 敵に手が届かない? ならば届かせれば(・・・・・)いい。道がなければ道を創る、母はそんな人だった。そのための特別な魔法も、スバルは受け継いでいた。
 スバルは魔方陣に拳を叩きつけた。魔方陣が光り輝き、母親譲りの先天系固有魔法(インヒューレント・スキル)が発動する。

 ――魔法・Wing Road(ウイングロード)!!

「いっけぇえええええええええええええええええええええっ!!」

 スバルの怒号とともに魔方陣から光の帯が空へのびた。否、これは「道」である。魔力で編まれた光の道路(サーキット)だった。
 空中にのびた光の道(ウイングロード)はなのはの横を通り過ぎ、Uの字を描くように大きく旋回(カーブ)する。そして地響きを立てながら再び地面へ突き刺さった。

「こ、こんなもんでどうかな? 大将(イッキ)

 魔力を消費し、疲労をにじませた顔で問うスバルに、イッキは満足そうに親指を立てる。上出来だった。

「よーやくこっからが本番だ。高いトコから見下ろしやがって、今から引きずり下ろしに行ってやるから覚悟しろ!」

 頭上のなのはに指を突きつけながら啖呵を切り、イッキはウイングロードを駆け登った。イッキに続くように、カズやブッチャ、咢も走り出す。
 なのはが威嚇するように射撃魔法を放った。高速で飛来する無数の魔力弾を、イッキ達は余裕の表情で避ける。地上を逃げ回っていた時とは動きのキレが明らかに違った。
 イッキが正面からなのはに殴りかかった。同時にブッチャがなのはの背中に迫る。前後からの同時攻撃を、なのはは上へ飛んで避けた。次の瞬間、イッキとブッチャが衝突――、

「――すると思ったか? 馬鹿め!」

 イッキが高笑いしながら跳躍した。仲間(ブッチャ)を何の躊躇もなく踏み台にして、より高く、なのはの眼前まで飛び上がる。

「ブッ殺!!」

 イッキが怒号を上げながら回し蹴りを放った。なのはは片手を突き出し、防御魔法を発動した。掌の前方に顕現した魔法障壁(バリア)がイッキの攻撃を受け止める。
 しかし安堵する暇はなかった。イッキに続いて咢が跳躍し、嘲笑を浮かべてなのはの無防備な背中に迫る。

「イカした「道」刻んでやるぜ、お姉ちゃんよぉ!」

 哄笑とともに繰り出された咢の蹴りを、なのははもう一方の手にも障壁を展開して受け止める。イッキと咢は同時に笑った。全て計算通り(・・・・)である。
 ウイングロードを黒い影が駆け抜ける。カズだった。限界まで助走をつけ、カズは弾丸のような勢いで空中へ飛び出した。

「キメろよ、カズ!!」
「ぶちかませ、ウスィ~の!!」

 イッキと咢は同時に叫んだ。二人の攻撃を受け止めているため、なのはの両手は塞がっている。今のなのはに、カズの攻撃を防ぐ術はない。
 次の瞬間、カズ渾身の体当たり(タックル)がなのはを吹き飛ばした。なのはは苦悶に顔を歪めながら姿勢を立て直し、ウイングロードの上に着地する。

「待っていたよ。可愛い子ちゃん(マイハニー)

 耳元で突如囁かれた猫撫で声に、なのはの背筋を悪寒が走った。直後、背後から何者かがなのはの尻を鷲掴みする。なのはの口から「ひゃん」と嬌声が漏れた。

「な、何者っ!?」

 裏返った声で叫びながら、なのはは背後を振り返った。オニギリがいた。いつの間にかなのはのすぐ傍まで接近し、逆立ちした体勢でスカートの中を覗いている。

「この……変態っ!」

 羞恥と憤怒に顔を紅潮させ、なのはは怒号とともに魔力弾を撃った。しかし至近距離から放たれたなのはの射撃魔法を、オニギリは恐るべき俊敏さで悉く回避する。

「わはははは、遅い遅い遅いぃ! まるでハエが止まるかのようにスローリィ!!」

 増長したように高笑いしながら、オニギリはそのブタ離れした驚異的な“走り”でなのはの攻撃を躱し続ける。そして隙を見つけては、オニギリはなのはに攻撃(セクハラ)を仕掛けた。
 時に胸を揉み、時に尻を掴み、そして時には冒険してスカートの中に顔を突っ込む。欲望に忠実なオニギリの“走り”に、なのはは完全に翻弄されていた。
 オニギリの身体からオーラのようなものが立ち昇る。否、これは汗である。全身から噴き出す大量の汗の水蒸気が、まるで技影(シャドウ)のようにオニギリの背後にブタの姿を象った。
 悪臭が周囲に漂い、込み上げる吐き気になのはは口元を押さえた。悪寒が止まらない、杖を握る手が震える。だんだんと感覚も麻痺し、なのははその場に膝をついた。
 遠ざかる意識を必死に繋ぎとめ、なのはは歯を食いしばる。今やなのはを支えているのは気力だけだった。

「大丈夫。怖がることは何もないんだ」

 なのはの心を見透かしたように、オニギリが優しく語りかける。否、心だけではない。まるで何もかもを、裸の自分を見透かされているような感覚がなのはを襲った。

「俺には解る。本当の君はこんな戦いなんか望まない心優しい娘だ。僕達がしなければならなかったのは戦うことじゃない、愛し合うことだったんだ」

 オニギリの言葉の一つ一つが、猛毒のようになのはの心を侵食する。ああ、そうか。そうかもしれない。朦朧とする意識の中、なのはは確実に洗脳されていた。

「さぁ、今こそ解き放つんだ。本当の君自身を」
「わたしは……」

 なのはの手から杖が滑り落ち、甲高い音を立てて転がった。堕ちたな。焦点の合わない目つきでぶつぶつと呟くなのはを見遣り、オニギリは邪悪に笑った。
 オニギリはイッキ達へ一瞥を向けた。悪いな童貞ども(チェリーボーイズ)、俺は一足先に男になる。刹那の目配せ(アイコンタクト)の中で勝ち誇ったように告げるオニギリに、イッキ達も視線で答える。逝ってよし。
 一斉に中指を立てるイッキ達の反応を、オニギリはGOサインであると都合よく解釈し、生唾を呑み込みながらなのはへ近寄る。
 なのはは動かない。光を失った瞳で虚空を見上げ、まるで人形のように沈黙していた。オニギリの手が防護服のリボンに触れる。そのとき、スバルが叫んだ。

「なのはさん! 目を覚まして!!」

 絹を裂くようなスバルの必死の叫びに、なのはの瞳に光が戻った。瞬間、なのはの防護服が突如爆発した。至近距離から爆発に巻き込まれ、オニギリが悲鳴とともに宙を舞う。
 もくもくと立ち籠める煙の奥から、防護服の上着と腰布を分離し、幾分か軽装になったなのはが姿を現わす。オニギリは驚愕に目を見開いた。

「馬鹿な!? ただの人間が我が「腐臭の道(スメルロード)」の呪縛から抜け出せる筈がない!!」
「確かにわたし一人じゃ無理だったよ。でも、スバルちゃんが呼んでくれたから。だから現実(こっち)に戻ってこれたの」

 狼狽したように叫ぶオニギリに、なのははそう言って吹っ切れたように笑う。杖を竹刀のように両手で握り、なのはは言葉を続けた。

「それにわたし、ただの人間(・・・・・)じゃなくて魔法少女(・・・・)ですから」

 どこか冗談めいたその科白にオニギリが異論を挟む間を与えず、なのはは動いた。高速移動魔法で瞬時に間合いを詰め、杖を斜めに振り下ろす。
 魔力弾は飛ばない。その代わりに、鈍い打撃音がその場に響き、オニギリの視界で火花が散った。あろうことか、なのははデバイスを鈍器代わりに使ったのである。
 なのはの攻撃はまだ終わらない。手首を返し、今度は横薙ぎに杖で殴りつける。そのまま回し蹴りを繰り出し、おまけとばかりに刺突を叩き込んだ。
 なのはの足元に魔方陣が出現した。三日月型の杖頭がU字状に変形し、先端に魔力が集束する。全力全壊! 満身創痍(ライフはゼロ)のオニギリに杖を押し当て、なのはは魔法を解放した。

 ――魔法・Divine Buster(ディバインバスター)!!

 撃ち放たれた膨大な魔力が光の奔流となって零距離からオニギリを呑み込み、夜の闇を一直線に突き抜けた。

「おいビーム出たぞビーム! 一体どこの格ゲーだよ」
「つーかアレ、オニギリ生きてんのか? 塵一つ残さず消滅したんじゃねーのか?」
「君の犠牲は無駄にしないよ。だから成仏したまえ」
「ファック!」

 以上、なのはの砲撃魔法(ディバインバスター)を見たイッキ達の反応である。尊い犠牲となったオニギリに黙祷を捧げ、これからの戦いへと頭を切り替える。

「そーいやスバルちゃん。君一体どっちの味方な訳?」

 カズの問いに、その場の全員がスバルを注目した。なのはをオニギリの魔の手から救ったのはスバルの声援だった。しかしそれは同時に、<小烏丸>への裏切りなのではないか?
 スバルは「んー」と考え込むようにしばし視線を彷徨わせ、そしてあっけらかんとした顔でこう答えた。

「暴風族としては<小烏丸(みんな)>の仲間。でも女の子としてはなのはさんの味方」

 迷いなく断言したスバルに、イッキ達は思わず拍手を送った。






 その頃、虚空を貫く砲撃魔法の残滓を、丘の中腹から見ている者がいた。

「ほぉ? 何やオモロイことになっとるよーやなぁ」

 楽しそうな笑みを浮かべて呟きながら、男は車椅子を押して坂道を登る。東雲東中学校は、男のすぐ傍まで近づいていた。



 ――To be continued



[11310] Trick:19
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/02/11 00:41
 暴風族<小烏丸>と「魔導師」高町 なのはの戦いは激化していた。

「<小烏丸>! フォーメーション・B!!」

 声を張り上げながら光の道(ウイングロード)を駆け登るイッキに、スバル達は一斉に「応」と答えた。フォーメーション・B、やはり知らない作戦名だった。しかし推測することはできる。
 フォーメーション・Aは“逃げ(エスケープ)”のAだった。イッキの性格や知能指数(アタマのわるさ)を計算に入れれば、答えは一つだった。フォーメーション・B、その意味は―――、

「――ブッ殺のB!!」

 スバルは怒号を上げながら再び魔法(ウイングロード)を発動した。魔方陣から新たにのびる光の道が、なのはへ向かって一直線に空中を走る。
 なのはは(デバイス)をバットのように振り被り、槍のように迫るスバルの魔法(ウイングロード)を気合いとともに打ち返した。弾かれたウイングロードが校舎に突き刺さり、外壁がボロボロと崩れ落ちる。

「カラス! あの砲撃(デカいの)を撃たれる前にケリをつけるぞ!!」
「俺に命令すんじゃねぇ! ……だが俺様もちょうど同じことを考えていたっ!!」

 咢の指示に怒号で答え、イッキは拳を振り上げてなのはに殴りかかった。咢も反対方向から技影(シャドウ)とともに攻撃を仕掛け、カズとブッチャも二人に続く。
 四方向からの同時攻撃、なのはに逃げ場も防ぐ術もないない――――筈だった。

 ――魔法・Oval Protection(オーバルプロテクション), Barrier Burst(バリアバースト)!!

 杖頭の宝玉が明滅し、なのはの全方位を球体状の魔法障壁(バリア)が覆う。かと思えば、発生した障壁が突如爆発。爆風がイッキ達を吹き飛ばす。

「ちっくしょーっ! 小賢しい真似しやがって!!」

 ふらつきながらウイングロードの上に降り立ち、イッキは苦々しそうな表情でなのはを見上げた。強力な攻撃、堅牢な防御。まさに難攻不落な空中要塞である。
 そのとき、ウイングロード全体が陽炎のように一瞬揺らめいた。イッキ達は気づかない、しかしなのはは確かに見た。なのはの表情が陰を帯びた。
 魔法が不安定になってきている。あと十分……否、五分保てばいい方だろう。スバルを見ると、疲労の色濃く浮いた眼で睨み返された。慣れない魔法行使でかなり消耗している。
 潮時(タイムリミット)か、なのはは小さく吐息を漏らした。これ以上戦闘を長引かせればスバルが危ない。それだけではない。飛べないイッキ達にとって足場(ウイングロード)の消失は大事故に繋がる。

「そろそろ遊び(・・)は終わりにしようか」

 なのはは杖を構え直しながらそう口にした。U字型の杖頭の先端に魔力の光が集束する、砲撃魔法(ディバインバスター)である。

「奇遇だな、俺もそろそろこの(バトル)に飽きてきたところだ」

 なのはの決着宣言に、イッキはそう言って鼻を鳴らす。自分を差し置いて場を仕切られたのは気に入らないが、戦いを長引かせたくないのはイッキの同感だった。
 杖を握るなのはの手に力が籠もる、A.T.を履いたイッキの足に力が籠もる。風が止んだ。イッキは口を開かない、なのはも何も言わない。静寂が二人の間に横たわる。
 この一撃で全てが決まる、その場の誰もが一瞬で理解した。イッキが動く、なのはが動く。甲高いモーター音が耳をつんざき、激烈な閃光が網膜を焼く。そして次の瞬間―――、

「何や楽しそうやなぁ。ワイも混ぜてんか?」

 横合いから突如割り込んだ暢気な声が、張り詰めた緊張感を台無しにした。イッキが弾かれたように振り向いた。スバルも思わず振り返る。知っている声だった。
 校庭の入口から一本の影がのびている。<小烏丸(イッキたち)>の誰かではない、なのかの影でもない。車椅子に乗った一人の青年が、そこにいた。

「空さん?」
「空の(あん)ちゃん?」

 スバルとイッキは同時に口を開いた。二人の呼びかけに、車椅子の青年――武内 空が片手を挙げて答える。

「ほれ、嬢ちゃん! <ブルズ>のT・ゴンゾーからの届け物や!」

 空はそう言いながら何かの包みを投げ渡した。放物線を描いて飛ぶ包みを、スバルが慌てて受け取った。
 紙の包みの中に柔らかな手応えを感じる。封を切り、紙包みを開いたスバルは、中身を目にした瞬間「あ」と声を上げた。
 背中に族章(エンブレム)が刺繍された黒いエナメルの上着(ジャケット)、同じ材質の指貫手袋(グローブ)とハーフパンツ。色々あってすっかり忘れていた、スバルのユニフォーム一式である。

「空さん、これをあたしに届けるために……?」

 呆然とした顔で尋ねるスバルに、空は柔和な笑みを浮かべて頷く。

「リカに聞いたら、お前ら学校に泊まり込みで特訓しとる言うからな。何やごっつい戦も控えとるみたいやし、ついでに先輩として一言激励してやろ思ぉてな」

 そのためにわざわざやって来たのだと。車椅子で坂道を登る苦労を厭わずに。スバルは胸が熱くなった。ユニフォームの包みを胸に抱きしめ、泣き笑いを浮かべて「ありがとう」と礼を言う。

「それじゃあ早速……」
「「「待て待て待て待て!!」」」

 その場で服を脱ぎ始めたスバルを、カズ達常識人が慌てて止めた。スバルは「何よ?」と不機嫌そうな目でカズ達を睨んだ。

「あたしは今すぐこの(ジャケット)に袖を通したいの! でも今は(バトル)中で着替えどころかまばたきする間も惜しいのっ!!」
「君はもうちょっと女の子としての自覚を持て!」
「あ、言っとくけど欲情して襲ってくるよーな変態(ロリコン)はリアル北斗○拳で殺すから」
「自覚持ってた!?」
「暴君だ、女イッキがここにいる……!」

 ぎゃーぎゃーと騒ぐスバル達を見下ろし、なのはは思わず天を仰ぐ。何、この混沌(カオス)? 緊張感もへったくれもなかった。






「――という訳で着替えました、<小烏丸>のユニフォーム」
「おい、どこ見て喋ってんだよスバル?」
「てゆーか結局野外露出敢行しやがったよこのお子様」

 何故か説明口調で語るスバルに、イッキ達の横槍(ツッコミ)が殺到する。瞬間、スバルの拳が光って唸った。無粋な外野を物理的に黙らせ、スバルは言葉を続ける。

「これからあたし達<小烏丸>はA.T.界の英雄・旧<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>の「風の王」こと空さんを助っ人に加え、今まさに反撃しようとしてます。とゆー訳で覚悟しろこの野郎―っ!」
「そういうこっちゃ。ま、よろしゅうな」

 拳を振り上げて叫ぶスバルの横で、空が照れたような笑みを浮かべて首肯する。なのはは困惑の表情で二人を見下ろした。

「助っ人って……何言ってるの、スバルちゃん。その人どう見ても怪我人じゃない!?」

 空を指差し、なのはは激昂したように声を荒げた。一体どれだけこの世界の人間を巻き込めば気が済むのか。それ以前に、車椅子に乗るような人間が戦えるとは思えない。

「これは遊びじゃないんだよ?」

 責めるようななのはの科白に、スバルの横で成り行きを静観する空の雰囲気が変わった。

「――おい小娘。あんま生意気(ナマ)言うんやないで?」

 人のよさそうな笑みを浮かべ、しかし眼だけは全く笑わない顔で、空はなのはに声をかけた。野球帽の下から覗く、まるで狼のような鋭い眼光がなのはを射抜く。
 直後、空の姿が忽然と消えた。つんざくような摩擦音がウイングロードを駆け登り、次の瞬間、再び空が姿を現わす。なのはは愕然とした。迅い、動きが全く見えなかった。
 空の車椅子にはA.T.技術を応用した改造が施されている。だがそれでも尋常な速度ではない。それは現役を引退した今なお、空が並のトップライダー以上の実力を持つ証だった。

「遊びやない? んなモン言われんでも解っとるわい。暴風族(ワイら)はいつだって“本気の本気”で戦っとるんや」

 そう言いながら、空は車椅子の側面をなのはに向けた。長くしなやかな指先が踊るようにハンドルの上を滑り、車輪があたかも風車の如く回転する。
 戦う時はいつだって“本気の本気”、なのはに告げた言葉に偽りはない。だからこそ空は元「王」としての誇りを賭け、“本気の本気”で――――本能(エロス)に走った。

 ――技・神風の術!!

 高速回転する車輪が風を呼び込み、扇風機のようになのはに吹きつける。捲れ上がるスカートを慌てて押さえつけ、なのはは赤い顔で空を睨んだ。

「あの逆立ちした子といい……ふざけるのもいい加減にして下さいよね!」
お前がな(・・・・)

 なのはの非難に飄々とうそぶき、空はなのはの前で両手を打ち鳴らした。瞬間、まるで解体用の鉄球(ハンマー)でもぶつけられたかのような重い衝撃がなのはを襲う。

「がっ!?」

 為す術もなくウイングロードに叩きつけられ、なのはは苦しそうに呻き声を漏らした。途轍もない圧力がなのはを背中から押し潰し、衝撃でウイングロードが大きくたわむ。

「凄ぇ……」

 イッキが感嘆の声を漏らした。空は周囲の気流を操り、巨大な風の塊をなのはに叩きつけたのである。人間業ではない。だが、魅せられた。イッキの身体が興奮に震える。

「凄ぇ、凄ぇよ! 空の兄ちゃん!!」

 子供のようにはしゃぐイッキの賛辞に空は素っ気ない口調で「アホウ」と返す。しかしその顔は満更でもなさそうだった。

「もっとも、今のワイはこんな小細工(・・・)しかできへんのやけどな」

 波打つように揺れるウイングロードの上に着地し、空は自嘲するように呟いた。イッキは訝しそうな目で空を見遣り、思わず口を噤んだ。
 空の視線は不自由な自らの両足に固定されている。それだけでイッキは全てを察してしまった。
 どれだけ卓越した技術を持っていたとしても、自由に走る足がない限り“上”へは進めない。それが空のA.T.使い(ライダー)としての限界なのである。

「せやからな、ボウズ」

 空はイッキに声をかけた。車椅子から身を乗り出し、励ますようにイッキの肩を叩く。

「――お前がワイの“足”になれ(・・・・・・ ・ ・・・)南 イッキ(・ ・・・)

 何の気負いもなく告げられた空の言葉に、イッキの身体は震えた。怖気づいたのではない、これは武者震いである。
 認めて貰った、初めて名前を呼んで貰えた。尊敬する先輩ライダーに、本当の兄のように信頼するこの男に! 歓喜に震える身体を抑えつけ、イッキは「ウス」と答えた。
 いい返事だ。空は満足そうな顔で頷き、身体の前で円を描くように両腕を動かした。空気と空気の隙間の“面”を認識し、そして制御する――!

「蹴れ、ボウズ!」

 イッキは言われるままに虚空を蹴った。まるで見えない壁があるような反発感が足裏から伝わる。だがイッキは構わず蹴り抜く。
 瞬間、空間が爆ぜた(・・・・・・)――――としか言い様のないような、衝撃と轟音。風が渦巻き、発生した小型の竜巻が砲弾のように撃ち出される。
 スバルやカズ達が唖然とした顔で「何ぃ!?」と叫んだ。なのはもあまりの驚愕に言葉を失う。しかし一番驚いていたのは、他ならぬイッキだった。

Pile Tornado(パイルトルネード)、ワイの十八番(とっておき)(トリック)や」

 呆然とするイッキの肩を再び叩き、空は悪戯が成功した子供のような顔で無邪気に笑った。
 放たれた竜巻の砲弾は標的(なのは)から大きく外れ、明後日の方角へ消えた。しかしそれでも構わない。ぶっつけ本番で技が成功しただけでも僥倖と言えた。
 その一方で、「このくらいはできて当然」という思いも空の中にあった。そのためにわざわざ濃いめ(・・・)の“面”をつくって蹴りやすくしてやったのである。
 イッキは「風の王」の後継者となるべき男である。そのための“力”――「風の道」の走り方も、いつか機会を設けて教えてやるつもりだった。
 しかしその“いつか”は早ければ早いほどいい。今のイッキの力量(レベル)この技(パイルトルネード)は時期尚早かとも思ったが、撃てるのならば問題ない。なのははそのための練習台だった。

「次は命中(あて)るで。よー狙えや!」
「ウス!!」

 空が再び風の“面”をつくり、イッキが蹴って(トリック)を放った。迫る竜巻の砲弾(パイルトルネード)になのはは杖の先端を向け、抜き撃ち(クイック・ドロー)砲撃魔法(ディバインバスター)を放つ。
 なのはの魔法とイッキ達の技が空中で衝突し、激しいせめぎ合いの果てに爆発した。凄まじい爆発音が大気を震撼させ、爆風と衝撃波が両者を打ち据える。

「おいおいおいおい、この漫画はいつから『ドラ○ンボール』や『J○JO』の世界になった!?」
「いやカズ君、ここは『ネ○ま!』って言っとこうよ。ネタ的にも出版社的にも」
「何つーデタラメな超展開だよ……」

 頭上で展開されるあまりに現実離れした戦いに、カズは取り乱し、ブッチャもテンパり、咢の顔を冷や汗が伝う。

「もう……情けないなぁ、皆」

 混乱の極みにある仲間達を見渡し、スバルが呆れたように息を吐いた。

「――元々原作からしてこんなもんじゃない」

 いずれにせよ、メタ発言も甚だしい。

「ちぃっ、運のいい奴や! ボウズ、もう一度や!」
「ウス! あんにゃろう、今度こそ撃ち落としてやるぜ!!」

 空とイッキが再び竜巻を放った。襲いくる竜巻の砲弾を前に、なのはも杖を構え直す。
 杖頭の付け根のカバーがスライドし、ガシャンという音とともに薬莢のようなものが内部から排出される。あれは! スバルは愕然と目を見開いた。

「イッキ、空さん! 逃げてぇ!!」

 スバルは金切り声でイッキ達に叫んだ。同時になのはが砲撃魔法を放つ。撃ち放たれた光の奔流が竜巻の砲弾と激突し――――突き破った。

「「何ぃ!?」」

 あっさりと必殺技を破られ、イッキと空は揃って驚愕の声を上げた。しかし次の瞬間、文字通り鼻先まで迫る命の危機(ディバインバスター)に気づき、二人は慌ててその場から退避する。
 桜色の閃光がウイングロードを貫いて地面に着弾し、まるで隕石が落ちたようなクレーターを作り出す。イッキ達は戦慄した。先刻までとは明らかに破壊力が違う。

「カートリッジ……!」

 スバルが青ざめた顔で呟いた。カートリッジシステム。それは圧縮魔力を込めた弾丸(カートリッジ)装填(ロード)することで魔法の威力を爆発的に跳ね上げる、戦闘魔導師の“奥の手”である。

「おいおい、そんな反則アリかよ……?」
「そうだね、ちょっとズルいかもね」

 震える声で呟くイッキに、なのはは同意するように頷き―――、

「でもこれが、わたしの全力全開(ほんきのほんき)だから」

 そう言って無慈悲に射撃魔法(アクセルシューター)を放った。






 それから先は一方的な展開だった。降り注ぐ射撃魔法、時折放たれる砲撃魔法。一人また一人と力尽きる仲間達。頼みの綱のウイングロードも砕け散り、最早反撃の術はない。
 気がつけば地上に立っているのはスバル一人だった。しかし両足のA.T.からは火花が飛び、新品のジャケットは既にボロボロである。とても戦える姿ではない。
 右を見る。空が倒れた車椅子の下敷きになっていた。左を見る。咢とブッチャが背中合わせで座り込んでいた。
 前を見る。倒れたまま死体のようにぴくりとも動かないイッキとカズの姿があった。オニギリもどこかに転がっているだろう。

「ちっくしょぉ、こっちは七人がかりだぜ……?」

 掠れた声で呟きながら、カズがゆっくりと上体を起こした。しかしそれ以上身体が動かない。肉体的なダメージ以上に、カズの心が悲鳴を上げていた。

「なのに、こんなの……どうしろってんだよ、こんな化け物相手に……!!」

 頭上に君臨する(なのは)を見上げることすらできす、震えながら地面に蹲り、カズは絶望の声で慟哭した。
 アカン。車椅子の下から這い出しながら周囲を見渡し、空は敗北を悟った。自分も含めて、最早<小烏丸>に戦える(ライダー)はいない。立ち上がるだけの力はない。

「ごめん、皆……。あたしのワガママに巻き込んじゃって……」

 スバルは謝罪の言葉を口にした。イッキ達は何も答えない、スバルも返事は期待していなかった。構わず淡々と言葉を続ける。

「でも、ありがとう。こんなになるまでつき合ってくれて。本当に……今までありがとう」

 次に紡がれたのは感謝の気持ち、そして永遠の別れの言葉だった。スバルはなのはを見上げる。勝敗は決した、もう終わりにしよう。この戦いに幕を引こう。

「なのはさん。あたしの、あたし達の――」

 ――グランドミューオン超ウメちゃん砲、発射(ファイヤー)!!

 スバルの科白を遮るように凛とした声が響き渡り、一筋の閃光が闇を切り裂きなのはへ迫る。なのはは咄嗟に防御魔法を発動した。展開された障壁(バリア)に弾かれ、光は霧散する。

「ピンチな味方を黙って見守り、ここぞのタイミングで助けに乱入。人、それを正義の味方(ヒーロー)と呼ぶ!」

 どこからともなく声が響く。なのはは警戒するように周囲を見渡した。どうでもいいが、最低な名乗りである。
 油断なく周囲に視線を走らせ、なのはは見つけた。月の光を背中に背負い、校舎の屋上――貯水タンクの上に立つ小さな人影を。

「何者なの?」
「貴様に名乗る名前はないっ!」

 なのはの問いにぴしゃりと言い返したその少女は、シルクハットを被っていた。蝶々仮面(パピヨンマスク)を着けていた。スクール水着を見に纏っていた。まるでいつぞやの痴女のように。
 しかしその時のスク水シルクハットに仮面でマフラーな痴女とは違い、彼女はニーソックスを履き、マントの代わりに白衣をマントのように肩に羽織っている。
 そして何より、彼女は記憶の中の姿よりも遥かに小さい。恐らくスバルと同年代だろう。スク水シルクハットに仮面でニーソな白衣のロリっ子痴女、無駄に属性が増えている。

「謎の助っ人、クロワッサン仮面二号推参でし!」

 結局名乗るのかよ。貯水タンクの上でポーズをキメるスク水シルクハットに仮面でニーソな白衣のロリっ子痴女こと自称クロワッサン仮面二号を見上げ、スバルは呆然と呟く。

「何やってんの、ウメちゃん……?」

 スクール水着のゼッケンにでかでかと書かれた「のやまの」の四文字が、スバルには妙に眩しく見えた。



 ――To be continued



[11310] Trick:20
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/03/09 15:52
 激化の一途を辿るなのはと<小烏丸(スバルたち)>の戦いを、彼女は神に祈る気持ちで見守っていた。
 この戦に負ければスバルは別の世界へ連れて行かれてしまう。そんな結末(みらい)は絶対に嫌だった。イッキ達もきっと同じ気持ちだからこそ、あんなに必死に戦っているのだろう。
 では自分は? 彼女は自問した。イッキ達は戦っている、スバルも自らの運命に全力で抗っている。なのに自分は何をしている? 気持ちだけは誰にも負けない自信があるのに。
 できるならば、今すぐこの場から飛び出したい。戦場へ、スバルの助けに駆けつけたい。だが、できない。忌々しい「トロパイオンの掟」が彼女を鎖のように縛りつけるのだ。
 空中に架かる光の道、スバルの魔法が砕け散った。スバル自身も無茶な“走り”を重ね、両足のA.T.が悲鳴を上げている。もう観ていられない! 彼女は両手で顔を覆った。

「ウメちゃん」

 名前を呼ばれ、彼女は――ウメは顔を上げてリンゴを見た。リンゴは柔らかな微笑を浮かべ、ウメの前に鞄を差し出す。
 鞄を開けてみると、カツラにシルクハット、蝶々仮面(パピヨンマスク)やスクール水着などが詰め込まれていた。リンゴが変装する怪人・クロワッサン仮面の衣装である。

「クロワッサン仮面は<小烏丸>の味方(サポーター)、でその正体は誰も知らないの。だから征ってらっしゃい、二号(・・)
「リンゴちゃん……」

 ウメは感極まった表情でリンゴを見上げた。本当は自分が一番征きたい筈なのに、リンゴは敢えて妹に「道」を譲ったのである。
 目元に浮かぶ涙を拭い、ウメは鞄を受け取った。かくして第二のスク水痴女ことクロワッサン仮面二号は誕生したのである。






「何やってんの、ウメちゃん……?」

 変態的な格好で校舎の屋上に立つ親友を見上げ、スバルは遠慮がちに声をかけた。次の瞬間、クロワッサン仮面二号は「とうっ」と掛け声を上げて貯水タンクから飛び降りた。
 そのまま壁を垂直に駆け降り、校庭を一直線に横切り、瞬く間にスバルとの距離を詰める。仮面で隠した顔をぐいと近づけ、クロワッサン仮面二号は「ノンノン」指を振る。

「私は<小烏丸(スバルちゃんたち)>の頼れる助っ人、クロワッサン仮面二号でし。どこぞの天才美少女ウメちゃんとは全くの別人なんでし」
「いやでも、その喋り方とかまんまウメちゃんじゃん」
「気のせいでし」
「じゃあせめて……略してスク水Mk(マーク)-Ⅱって呼んでいい?」
頭カチ割ら(ブッコロさ)れたいでしかポンコツ娘? 略してとゆーかもうそれ全く別物でし!」

 光学兵器(グランドミューオン超ウメちゃん砲)を鈍器のように振り上げながら脅すクロワッサン仮面二号の迫力に、スバルは即座に「ゴメンナサイ」と土下座した。

「そんなことより、今更何しに出てきたの? (バトル)はもう終わっちゃったのに」

 どこか投げやりな口調で尋ねるスバルに、クロワッサン仮面二号は蝶々仮面の奥で眉を寄せた。

「終わった?」

 怪訝そうな表情で訊き返すクロワッサン仮面二号に、スバルは「だってそうでしょう」と自嘲する。

「 魔法が解けて、A.T.も壊れて、今のあたしはただの子供だよ。あたしはもう飛べない、イッキ達だって戦える状態じゃない。あたし達は――<小烏丸>は負けたの」
それだけ(・・・・)でしか?」

 クロワッサン仮面二号は静かな声で尋ねた。言葉の意図が解らずに首を傾げるスバルに、クロワッサン仮面二号は再び問う。

たったそれだけのことで(・・・・・・・・・・・)、スバルちゃんは諦めちゃうんでしか?」
「何、言ってるの? ウメちゃん……?」

 絶体絶命の窮地を何てもないことのように扱うクロワッサン仮面二号に、スバルは思わず困惑の声を上げる。
 クロワッサン仮面二号は「やれやれ」と溜息を吐き、諭すような口調でスバルに語りかけた。

「スバルちゃん、A.T.使い(ライダー)はA.T.で飛んでるんじゃないでし。本当の翼は胸の中(・・・)――飛ぼうとする“勇気(きもち)”こそがライダーの本当の力なんでし」

 そう言いながら指先で胸を小突くクロワッサン仮面二号に、スバルは何も言い返せない。

「三分でし」

 沈黙するスバルの目の前に指を三本突き出し、クロワッサン仮面二号は言った。白衣の袖口から一足のA.T.を取り出し、スバルに差し出す。スバルは「あ」と息を呑んだ。

「それ、“魔導の玉璽(レガリア)”! 何でウメちゃんが持ってんの!?」
「こんなこともあろうかと、こっそり持ってきておいたんでし」

 唖然とした顔で尋ねるスバルに、クロワッサン仮面二号はそう言って胸を張る。

「調律の時間を三分くれでし! それまでにこのクロワッサン仮面二号が、スバルちゃんのA.T.(つばさ)を蘇らせてみせる、もう一度飛べるようにしてみせるでし」

 力強い声で言い放つクロワッサン仮面二号に、スバルが口を開こうとした刹那――、

「三分だな?」

 風が吹き、何者かの声が二人の会話に突如割り込む。スバル達は周囲を見渡し、目を見張った。まるで地獄から蘇った亡者の如く地面から起き上がる人影を見つけたのである。

「イッキ……」

 スバルは呆然と呟いた。射撃魔法の直撃を受けて撃墜された筈のイッキが、ふらつきながら立ち上がっていた。否―――イッキだけではない。

「ったく、しょうがねぇなぁ……」
「オチオチ寝てもいられないってか?」
「もうひと頑張りってことだね」
「ファック」

 カズが、オニギリが、ブッチャが、そして咢が。力尽き、倒れた筈の<小烏丸>の男達が、イッキに呼応したように次々と立ち上がる。

「……っはは。大した連中(チーム)やで、ホンマ」

 復活したイッキ達を眺めながら、空は愉快そうに笑った。この絶望的状況で再び立ち上がるとは思わなかった。巨大な敵に――“運命”に立ち向かう勇気。空にはない(わかさ)である。
 自分も負けてはいられないな、空は両腕に力を込めた。小僧(ガキ)どもに気合いで負ける訳にはいかない、元「王」としての意地があるのだ。
 上体を起こし、両脚を踏ん張り、車椅子を支えにしながらゆっくりと立ち上がる。イッキ達は瞠目した。空が立った。左右の足で大地を踏み締め、自らの力で立っている!
 七年前、空はキリクとの死闘で両踵の腱を断たれた。他の傷は七年間で完治したが、踵だけはどうしようもない。空は玉璽とともに「王」の資格をも失ったのである。
 だが、それがどうした(・・・・・・・)? スピット・ファイアもあの時の戦で同様に踵の腱を失っていながら、四年で「炎の王」に返り咲いてみせた。あの男にできて、己にできない筈がない。

「今この時だけワイは現役に戻る! <眠りの森(スリーピング・フォレスト)>初代総長、元「風の王」武内 空。一夜限りの復活や!!」

 威風堂々と宣言する空の姿に、イッキ達から歓声が上がる。なのはは呆れたように溜息を吐いた。

「まだ続ける気なの? もう勝負はついてるでしょう?」
「当たり前やろ。自分の「道」を阻もうとする敵が目の前におるんや、戦わん訳にはいかんわ」

 なのはの説得もどこ吹く風といった様子で、空は足元の車椅子を弄った。座席(シート)の裏にある収納(ボックス)を開け、中から何かを取り出す。飾り気のないシンプルな意匠(デザイン)のA.T.だった。

「ワイらは暴風族(ストーム・ライダー)なんやで?」

 スニーカーからA.T.に履き替え、空は再び立ち上がった。身体の調子を確かめるように、その場で屈伸や背伸び、柔軟運動などを行い――――虚空を無造作に蹴りつける。

 ――技・Pile Tornado(パイルトルネード)!!

 風が轟き、空の足先から竜巻の砲弾が撃ち放たれる。なのははカートリッジを装填(ロード)し、砲撃魔法(ディバインバスター)を放った。荒れ狂う暴風と魔力の奔流が激突し、せめぎ合う。
 なのはは驚愕に目を見開いた。空の竜巻は、イッキの技とは明らかに威力の桁が違う。抜き撃ちとはいえカートリッジを使った“本気”の砲撃と拮抗――否、押し切られる!?
 空は地面を蹴って跳躍し、自らが撃ち出した竜巻に飛び乗った(・・・・・)。竜巻の内壁をレールのように伝い、走りながら再び(トリック)を放つ。
 二重に放たれた竜巻がなのはの砲撃を突き破り、行き場を失った魔力(エネルギー)が大爆発を起こした。爆風が地面の砂塵を巻き上げ、衝撃波が校舎の窓ガラスを粉砕する。その時―――、

「見えたぜ、風のA.T.――「翼の道(ウイングロード)」!!」

 イッキが雄叫びとともに空中に身を躍らせた。虚空を踏み締め、爆風に乗って空を駆け上がる。その場の誰もが絶句した。比喩でも例えでもない。イッキは今、空を飛んでいる!
 A.T.(エアトレック)がスケートボードや他のインラインと決定的に違うところは何か。それは“空”を飛べることである。“空”を走る、それこそがA.T.がA.T.たる所以だった。
 翼の道(ウイングロード)。奇しくもスバルの魔法と同じ名を与えられた「風の道」である。
 A.T.の道は数あれど、天空(トロパイオン)の塔の頂のさらに“上”――“空”にまで至る「道」を持つ者「王」と玉璽(レガリア)は、今のところ八本しか見つかっていない。
 その八本の中でも王道の王道、“空”に最も近い「道」――それこそが「風の道」なのである。
 風に乗ってなのはに接近し、イッキは蹴りを繰り出した。反対側からは空が同じように蹴りを放つ。
 強いなぁ。なのはは思わず感嘆の声を漏らした。圧倒的に不利な状況を覆し、二人の(ライダー)は遂に自分まで辿り着いたのである。
 その力も、覚悟も、紛れもない“本物”だった。認めない訳にはいかない。だが――――それでも負ける訳にはいかない。

「レイジングハート、モードリリース」
『All right』

 なのはの呟きに電子音声が答え、手の中の杖がビー玉のような赤い宝玉に姿を変える。なのはは両腕を交差させ、左右から迫るイッキ達の攻撃をそれぞれの掌で受け止めた。

 ――エクシードモード発動!!

 なのはの全身から紫電(スパーク)が迸り、防護服(バリアジャケット)が発光しながら形を変えた。ミニスカートはロングスカートへ変わり、上着(ジャケット)はリボンが消えて前開きとなり、他にも細部が変化する。
 エクシードモード、空戦魔導師としての能力を最大限に活かすために組み上げられた戦闘形態である。その姿はなのはが“全力全開”を超えた“超全力全開”になった証だった。

「でぇいっ!!」

 気合いとともに両腕を振り被り、なのははイッキと空を地上へ投げつけた。二人は空中で姿勢を立て直し、よろめきながらも着地に成功する。
 なのはは再びデバイスを起動した。手の中の宝玉が長杖に変わるが、その姿は先刻までとは大きく異なり、まるで槍のような形状をしていた。

「あの野郎、まだ変身を残してやがったのかよ」
「ラスボスのお約束って奴やな。追い詰められとる証拠やで」

 姿を変えたなのはを見上げて唸るイッキに、空が隣から励ますように声をかける。イッキは空を振り向き、そして「む」と眉を寄せた。
 空の両脚が震えている。この男に限って怖気づいたなどということはないだろう、ならば考えられる可能性は一つだった。
 長年の車椅子生活によって空の足腰は弱体化している。否、恐らくは下半身だけではない。大技の連発は衰えた空の肉体にかなりの負担をかけているだろう。

「空さん……」

 気遣うように声をかけるイッキに、空は「分かっとる」とぶっきらぼうに返した。

「あと一発や。次の一撃でキメるで」
「……ウス」

 決意を秘めた空の言葉に、イッキは神妙に頷いた。この一撃に全てを賭ける。二人の(ライダー)の心は今、一つになった。
 させない! なのはが杖を構えて射撃魔法(アクセルシューター)を放った。攻撃する暇など与えない、自分はそこまで甘くない。
 先刻までの攻防で気づいたことがある。「風の道」は距離的にも時間的にも“間合い”を必要とする。風を集める時間を与えなければ、竜巻(パイルトルネード)は撃てない!
 闇を切り裂き、無数の魔力弾が空とイッキに殺到する。避けたり防いだりすれ“面”は最初から作り直し、当たればダメージで攻撃どころではなくなる。万事休すだった。
 そのとき、イッキ達の前に二つの人影が突如躍り出た。カズとオニギリだった。盾になるようにイッキ達の前に立ち塞がり、カズとオニギリは魔力弾を身体で受け止める。

「ぐぁっ」
「ぎゃ!」

 激痛が全身を貫き、カズとオニギリが悲鳴を上げる。しかし二人は歯を食いしばり、足を踏ん張った。倒れない、倒れる訳にはいかないのである。

「カズ、オニギリ!?」
「「動くな!!」」

 思わず駆け寄ろうとするイッキを振り返り、カズとオニギリが怒号を上げた。

「ここは俺達が何とかする。イッキはイッキの為すべきことだけを考えてろ!」
「そうそう。たまには俺達にもいい格好させろよな」
「カズ、オニギリ……」

 二人の言葉にイッキは呆けたように目を見開き、そして「分かった」と力強く頷いた。イッキの返事を確認し、カズとオニギリは背中を向ける。頼もしい背中だった。
 なのはが再び射撃魔法を放った。無数の魔力弾が高速でカズとオニギリに迫る。容赦ねぇ、二人の顔を冷や汗が流れた。非殺傷と分かっていても、痛いものは痛いし、怖いものは怖い。
 だが、逃げる訳にはいかない。自分達はイッキのように高く飛ぶこともとんでもない技を撃つこともできない。できることと言えば、こうして身体を張って盾になるのが精々だろう。
 だからこそ、カズもオニギリも、その“役割”から逃げたくなかった。たとえ一人一人は小さくても、バラバラな個が合わされば大きな“力”になる。そう信じているから。

「それが仲間(チーム)ってモンだろうが! キバれよ、ダチ公(オニギリ)!!」
「応よ、親友(カズ)!!」

 互いを奮い立たせるように声をかけ合いカズとオニギリは全身に力を入れる。そのとき、カズ達を更に庇うように巨大な影が立ち塞がった。ブッチャである。
 褐色の巨体に魔力弾が次々と突き刺さる。だがブッチャは揺るがない。その風格はまる“岩”、風や水に削られても尚そびえ立つ岩の壁――山塊の王である。

「くぅ……効くねぇ、間垣(どっか)の豆鉄砲とは大違いだよ」

 激痛に顔を歪めながら軽口を叩き、ブッチャは肩越しにイッキを振り返った。ぶちかませ、カラス。ブッチャの無言の激励(メッセージ)を受け取り、イッキは頷いた。

「カズ、オニギリ、ブッチャ……お前らの誇り(エンブレム)は受け取った!」

 イッキの双眸が鷲のように鋭く細まり、身に纏う空気が研ぎ澄まされる。“本気の本気”になった証拠である。イッキの変化に、空は「ほぉ」と感嘆の声を漏らした。

「征くぜ、空さん」

 静かな声で呼びかけるイッキに、空は頷く。

「その言葉、待っとったで」

 空が左右の腕をぐるぐると回転させ、二つの――自分とイッキの二人分の――風の“面”を形成した。イッキも腰を落とし、いつでも渾身の蹴りが放てるように身構える。
 なのはも杖を構え、カートリッジを装填(ロード)した。一瞬の睨み合い、沈黙が戦場に舞い降りる。そして次の瞬間―――、

 ――技・SORA×IKKI Dual Pile Tornado(デュアル・パイルトルネード)!!
 ――魔法・Excellion Buster(エクセリオンバスター

 空とイッキが竜巻を撃ち、なのはが砲撃魔法を放つ。渦巻く二つの暴風と魔力の奔流が空中で激突し、火花と紫電を飛ばしながらせめぎ合う。
 威力は互角――否、なのはの砲撃魔法(エクセリオンバスター)の方が僅かに優勢だった。桜色の閃光が二つの竜巻を徐々に押し返し、じりじりとイッキ達へ迫る。

「くそっ、力が足りねぇ……」
「あと一歩、届かんかったか」

 頭上に迫る破壊の光を見上げ、イッキと空は達観したような顔で呟いた。逃げようとはしない。否、逃げたくても逃げられない。力を使い果たし、足がぴくりとも動かなかった。
 絶体絶命の危機に陥るイッキ達を、咢は一人、離れた場所から傍観していた。馬鹿な奴らだ。侮蔑と憐憫の視線でイッキ達を遠巻きに眺め、咢は嘲笑する。
 雑魚(ミジンコ)が引き際を弁えずに粋がって、無謀な戦いを挑んで敗れた愚か者達。仲間、チーム、エンブレム。そんなものにばかり縛られているから、肝心な時に「道」を間違うのだ。
 咢にとって、A.T.とは“牙”である。自分達を取り巻くあらゆる敵を食い散らし、亜紀人を守るための刃。それこそが「血痕の道(ブラッディロード)」であり、咢の存在意義そのものだった。
 亜紀人さえ守れればそれでいい、そのためなら何を捨てても構わない。だから俺の選択は正しいのだ。咢はそうやって自分を正当化する、自分に言い訳する。
 そうだ、俺は何も間違っていない。亜紀人を守るために仲間を見捨てることも、亜紀人の居場所を守るために戦うことも(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)! 気がつけば咢は走り出していた。
 悪いな、亜紀人。咢は亜紀人に謝罪する。この“技”は三日後の戦の切り札だった。なのにこんな意味のない戦いで浪費しようとしている。だが、咢に後悔はなかった。
 風と、重力と、そして敵。その全てを食い散らす。それこそが「血痕の道(ブラッディロード)」、A.T.の真の道。我が道は―――牙!

「“コイツ”はアキラとの戦までとっときたかったんだけどな。テメエにくれてやるよ、ありがたく喰らっとけ!!」

 咢は怒号とともに右足を蹴り上げた。トップスピードからの急停止によって生じた膨大な制動エネルギーが、咢の“走り”のキレと合わさり―――大気が裂ける。

 ――技・AGITO Bloody fang Ride fall “Leviathan(リヴァイアサン)”!!

 かつてスバルやなのはを襲った蛾媚刺の“角”が「点」だとするならば、“それ”は「線」だった。大気を切り裂く巨大な衝撃波、まさに風の“牙”である。
 馬鹿な! 空は驚愕に目を見開いた。蘇ったというのか。海の王(リヴァイアサン)の“牙”が、玉璽(レガリア)もなしで!?
 放たれた衝撃波がイッキ達の竜巻と合わさり、風の勢いが爆発的に増す。形成は逆転した。重なり合う三つの暴風が砲撃魔法(エクセリオンバスター)を押し返し、遂になのはまで到達した。
 激しい爆発がなのはを呑み込み、黒煙が雲のように天空に広がる。なのはは―――無事だった。

「気は済んだ?」

 もくもくと立ち籠める煙の中から、なのはが冷たい声とともに姿を現わす。球体状の魔法障壁に守られ、純白の防護服には焦げ目一つ見当たらない。

「無傷かよ……」
「何つーデタラメ」

 なのはを見上げ、カズとオニギリが怯んだような声を漏らした。

「万事休すだね」
「ファック」

 ブッチャが弱気になったように呟き、咢が忌々しそうに舌打ちする。

「終わったみたいやな」

 空が溜息混じりに肩を竦めた。まるで全てを投げ出したような空の科白に、イッキは「ああ」と同意するように頷き―――、

「そうだな。もう―――三分経った(・・・・・)

 瞬間、空色の閃光がイッキの頭上を駆け抜け、まるで弾丸のようになのはに襲いかかる。なのはは咄嗟に防御魔法を発動、迫りくる魔力弾を防御陣で弾いた。

「射撃魔法!? 一体誰が……」

 なのはは地上へ視線を走らせた。校庭(グラウンド)の一角に魔力光の輝きが見える。足元に空色の魔方陣を展開し、金色の瞳で毅然となのはを見上げる少女がいた。

「スバルちゃん……」

 なのはは小さく呟いた。スバルの魔方陣が眩く輝き、光の道(ウイングロード)が空へのびる。

「お前の出番だ、スバル。蹴散らしてこい」

 イッキの言葉を合図にしたように、スバルは雄叫びを上げて走り始めた。



 ――To be continued



[11310] Trick:21
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/02/16 00:09
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 雄々しい叫び声を轟かせながら、スバルは光の道を一直線に駆け上がった。両足に装着した新しいA.T.――“魔導の玉璽(レガリア)”ホイールが唸る。
 凄い、スバルは走りながら感嘆の声を漏らした。加速もグリップコントロールもこれまでのA.T.とは全然違う。それにA.T.が生まれ持った己の足のように動いてくれる。
“魔導の玉璽”。宇童 アキラから預かったこのA.T.型デバイスは、ウメの手で一度バラバラに分解され、スバルの新たなA.T.として再構成された。
 だがそれだけでは、巷に溢れる高性能(ちょっとスゴい)A.T.と何も変わらない。驚くべきはその後、スバルとA.T.(レガリア)の“音”を正確に合わせたウメの調律(チューニング)である。
 パーツ・ウォウでは、ライダーとA.T.の能力は1:1が理想と言われる。どちらが上でも下でも本来の力は発揮できない、時には互いに傷つけ合ってしまうことさえある。
 そのライダーとA.T.の差を埋めるのが、「調律者(リンク・チューナー)」と呼ばれる技師(メカニック)の存在である。彼らはライダーの生体(リズム)を聞き取り、最適な調律をA.T.に施す。
 スバルも服を脱がされ、ぺたぺたと身体中を触られて気持ちいいような気持ち悪いような思いをしながらウメの調律を受け入れた。
 その結果が、この“走り”なのである。今やスバルとA.T.は一心同体、このA.T.ならばどこまでも飛べる気がした。なのはが相手でも、負ける気がしない。

「うりゃああっ!!」

 スバルは怒号とともに拳を振り被り、なのはに正拳突きを放った。しかし繰り出された拳は魔法障壁に阻まれ、なのはには届かない。
 直後、障壁が光とともに破裂(バースト)し、爆発の衝撃でスバルを吹き飛ばした。慌てて空中で姿勢を立て直すスバルに、追撃で放たれたなのはの射撃魔法(アクセルシューター)が殺到する。
 スバルは思わず息を呑んだ。何の足場もない空中では避けられない。そのとき、A.T.の足甲部にある宝石が煌めいた。

『――Round Scield』

 電子音声が響き渡り、スバルの足元に防御用の魔方陣が出現する。発生した防御陣(シールド)を蹴って方向転換し、スバルは魔力弾を躱した。しかしその動きは、スバル自身の意思ではない(・・・・・・・・・・・・)

A.T.(デバイス)が勝手に……!?」

 困惑の声を上げるスバルの足甲部で、宝石(デバイスコア)が再び明滅する。

『Drive Ignition』

 瞬間、スバルの産毛がぞわりと逆立った。得体の知れない何かに身体を中から侵食されるような感覚、だがその感覚すらもすぐに消え失せる。何も見えない、何も聞こえない。

「スバルちゃん?」

 動きを止め、まるで彫像のように沈黙するスバルに、なのはが訝しそうに声をかけた。スバルは顔を上げ、虚ろな瞳でなのはを見る。
 直後、スバルが再び動き始めた。弾丸のようにウイングロードを疾走し、無言でなのはに殴りかかる。右手、展開された魔法障壁に阻まれる。左手、障壁は揺るぎもしない。

「そんな力任せのパンチじゃ、この障壁はどうにもならないよ?」

 忠告するなのはを無視するようにスバルは無言を貫き、障壁を蹴って反動で距離をとった。足元に魔方陣が浮かび上がり、スバルの周囲に魔力の光球が出現する。魔力弾だった。

 ――魔法・Cross Fire Shoot(クロスファイヤーシュート)!!

 電子音声とともに魔力弾が一斉に放たれ、不規則な軌道を描きながらなのはへ殺到した。障壁の横を素通りし、Uターンしてなのはの背中に襲いかかる。誘導型の射撃魔法である。
 なのはは振り返りながら射撃魔法を放ち、背後から迫るスバルの魔力弾を迎撃した。二色の魔力弾が空中でぶつかり合い、まるで花火のように魔力光が弾ける。
 スバルが再び走り始めた。なのはの注意が逸れた一瞬の不意を衝き、無防備な背中へ突進を仕掛ける。
 しかしその程度の小細工が通じるほど、なのはは甘くはない。突き出した掌の前方に再び障壁を展開し、スバルの攻撃に備える。
 スバルは加速しながらぐんぐんとなのはへ接近し、障壁と衝突する刹那、サスペンションを軋ませながら大きく跳躍。なのはの頭上を飛び越えた。
 宙を舞うスバルの左右の掌に小さな防御陣(シールド)が出現する。何をするつもりだ? 首を傾げるなのはを眼下に見下ろし、スバルは両手の防御陣を手裏剣のように投げつけた。

「なっ!?」

 なのはは驚愕の声を漏らした。防御魔法に射撃の性質を付加した複合術式(コンプレックス)、そんなデタラメな魔法など初めて見た。魔法初心者にできる芸当ではない。
 靴底で虚空を蹴り、なのははその場から飛び退いた。標的を見失った“空飛ぶ防御陣”がウイングロードに垂直に突き刺さり、ガラスが割れるような音とともに砕け散る。
 スバルが再び防御魔法を発動した。足元に展開した防御陣を蹴って空中で方向転換し、なのはに鋭い飛び蹴りを放つ。
 斧のように振り下ろされるスバルの右足を、なのはは(デバイス)の柄で受け止めた。高速回転するホイールが杖と擦れ合い、摩擦で激しい火花が飛ぶ。
 なのははスバルの顔を覗き込んだ。虚ろな瞳、感情が剥げ落ちたような顔。今のスバルに人間としての意思は感じられない、まるで人形(マリオネット)と向かい合っているかのようである。
 やはり自立行動型(インテリジェント)デバイスか、なのはは苦々しそうにスバルのA.T.(デバイス)を一瞥した。インテリジェントデバイス。人工知能を搭載し、自立行動し思考能力を持つ高性能デバイスである。
 使い方次第では無詠唱での魔法発動や魔導師との同時魔法行使など、使用者の能力を何倍にも引き上げるが、反面力量が足りなければデバイスに振り回されてしまうことになる。
 スバルの初心者らしからぬ高度な魔法行使といい、動きの異常なキレといい、デバイスに操られているのだとしたら全て説明がつく。

「スバルちゃん、目を覚まして! 貴女の意思(こころ)はこんなものなの?」

 なのはの呼びかけに、やはりスバルは何も答えない。無言で拳を振り被るスバルの足元に魔方陣が展開、周囲に空色の光球(スフィア)が発生する。魔力弾、しかしすぐに撃たれる気配はない。
 発生した魔力弾がスバルの腕に絡みつき、手首の周りでぐるぐると回転する。拳に乗せて魔力弾を撃ち込むつもりか! スバルの狙いを察し、なのはは息を呑んだ。
 打撃と射撃の一点集中攻撃、その威力は計り知れない。だがそれは諸刃の剣、そんな無茶をすればスバル自身もただでは済まない。
 撃っただけで腕に多大な負担がかかり、もしも防がれれば攻撃の反動が拳に直接跳ね返ってくることになる。暴発した時の可能性など考えたくもない。
 回転はだんだんと速度を増し、魔力弾同士が干渉して火花と紫電が散る。ぐるぐる、ぐるぐる。いつしか魔力弾は重なり合い、混ざり合い、一つの魔力の塊となった。

「リ・ボ・ル・バァ……―――」

 スバルが淡々と呟きながら足を踏み出し、なのはに鋭い右ストレートを放った。体重が乗り、魔力を纏った拳がなのはの顔面に迫る。
 なのはは動かない。下手に迎撃すれば暴発の危険があり、障壁で防げばスバルが傷ついてしまう。ギリギリまで攻撃を引きつけ、紙一重で躱すのが最善の策だった。
 スバルの拳がぐんぐんと迫る。まだまだ、もう少し―――今! なのはは身を捻りながら虚空を蹴る。だが、身体が動かない。なのはは愕然と足元を見下ろした。
 ウイングロードから光の鎖が生え、なのはの足首に巻きついている。捕縛魔法(チェーンバインド)である。術式(プログラム)が甘い、この程度の魔法など一瞬で解除できる。だがその一瞬が致命的(いのちとり)だった。
 スバルの拳はなのはの目前にまで迫っていた。空色の魔力光がなのはの視界を埋め尽くす。防御も回避も間に合わない。そのままスバルの拳はなのはの顔面に吸い込まれ―――、






 夢を見ていた。昔の夢、まだ母が生きていた頃の夢。一番楽しかった時間、過ぎ去ってしまった思い出、もう二度と戻らない優しい世界。
 夢の中の自分は弱くて、泣き虫で、自分の力で立ち上がろうとも戦おうともせず、いつも母や姉に守って貰ってばかりだった。
 だが心のどこかで、「それでもいい」と思っている自分がいた。守ってくれる家族がいる、だから自分は強くなくていいと思い込んでいた。
 何かを壊してしまうような強さなんていらない。そうやって自分自身に言い訳して、自分の中の力と向き合うことから逃げていた。それでいいと思っていた。

 だけど……―――、

 ―――そんな風にビビってばっかだと、壊す壊さない以前に何も掴めねぇぞ?

 逃げてばかりだった弱い自分を、そう言って戒めてくれた人がいた。守るのではなく、一緒に戦う仲間として対等に接してくれる人達がいた。
 知らない声、知らない顔、知らない人達。貴方達は誰?
 否、自分は彼らを知っている。自分は彼らとともに戦ってきた。でも、どこで? 思い出せ。思い出せ。思い出せ。彼らは何者だ? 自分は……誰だ?
 夢が終わる。強くて優しかった母も、楽しかった子供の頃の日々も、心も体も弱かった自分自身も、仮初の世界とともに音を立てて崩れていく。
 それでいいと思った。夢は醒めても、思い出はずっと心の中に生きているのだから。もう見失わない。自分の弱さも、強さも、全部背負って生きていくと決めたのだから。

 そして―――彼女は目覚める。






 スバルの拳は、なのはの鼻先でぴたりと止まっていた。スバルは歯を食いしばり、荒い息を吐き出しながらゆっくりと拳を下ろす。

「……好き勝手するのもいい加減にしなさいよね、このじゃじゃ馬デバイス!!」

 金色の双眸に憤怒の炎を燃やし、スバルは両足のA.T.(デバイス)を怒鳴りつけた。確かな意思の宿った瞳、豊かな表情。デバイスの呪縛(コントロール)から抜け出し、スバルは我を取り戻したのである。

But I'm your sword. My master(しかし私は貴女の剣です。マスター)

 足甲の宝石が明滅し、無機質な電子音声が響き渡った。

I exist to protect you and fight with your enemy. That is because I am here now(私は貴女を守り、貴女の敵と戦うために存在します。それが私が今ここにいる理由です)
「それは違うよ」

 デバイスの言葉にスバルは首を振り、穏やかな笑顔で語りかける。

「お前はね……あたしと一緒に戦う(・・・・・)ために、今ここにいるんだ」
I feel it the same way. Doesn’t it?(同じ意味に感じますが?)
「違うの、色々と!」

 意固地(ムキ)になったようになったように反論する主人(スバル)に、“魔導の玉璽(レガリア)”と呼ばれるインテリジェントデバイスは当惑したように口を閉ざす。
 分からない。スバルの言葉をどれだけ解析しても、彼はその意味を理解することはできなかった。
 道具として生み出された彼にとって、主人の剣としてともに戦うことは当然の役目である。しかしそれは違うのだと新しい主人は言う。
 一体何が違うのか? 彼は分からない、分からないから考える。思考する、計算する、解析する、検索する。それでも答えが出ない。だから―――、

『……I'll think about it(考えておきます)

 彼は考え続けることにした。答えが出るその日まで、主人とともに戦い続けながら。相棒(デバイス)の返答に、スバルは満足そうに「うん」と頷いた。

「あ、それとご主人様(マスター)って呼ぶの禁止! あたしとあんたは1;1(たいとう)なんだから」
All right. Buddy(了解。相棒)

 A.T.(デバイス)の返答にスバルは再び頷き、顔を上げてなのはへ向き直った。

「お待たせです、なのはさん。今度こそ決着(ケリ)つけましょう」

 後方へ飛んで間合いを開け、スバルは不敵に笑いかける。

「よかったの? あのまま撃ち込んでいれば、もしかしたら勝てたかもしれないんだよ?」

 静かな声で尋ねるなのはに、スバルは「だって」と口を開いた。

「そんなズルい勝ち方しても意味ないですから。あたしはあたしの力で、あたしの意思で、あんたのほっぺたをぶっ飛ばします」

 そう言って拳を構えるスバルの背中を、そのとき一陣の風が吹き抜けた。
 なのはは戦慄に身を震わせた。刮目せよ、高町 なのは。彼女は最早今までのただの子供(スバル・ナカジマ)ではない。わたしは今―――新たな魔法少女の誕生を目撃している!

 ――超全力全開(ギア・エクセリオン)!!

 スバルの足元に巨大な魔方陣が出現し、全身から魔力が炎のように噴き出す。爆発するスバルの魔力に反応したように、A.T.(デバイス)が変形を始めた。
 ホイールやシューズ表面の継ぎ目が割れ、スライドしたカバーの下から黒光りする金属のフレームが露出。全体的にひと回り大きなシルエットになる。
 くるぶしの辺りにある突起が引き出され、内側から魔力が噴出。空色に輝く“光の翼”を形成した。
 スバルは大きく深呼吸し、昂る自らの心を落ち着かせた。噴き上がる魔力の火柱が治まり、魔力光の残滓が湯気のように身体から立ち昇る。
 腰を落とし、拳を引き、神経を集中して感覚を研ぎ澄ます。イメージするのは一本の矢。見えない弓に番えられ、極限まで引き絞られる―――!
 スバルは“光の翼”を羽撃(はばた)かせ、雄叫びとともに走り始めた。飛び散る火花が足場(ウイングロード)(みち)を刻み、舞い散る魔力光が星明かりのように闇に煌めく。
 なのはは迎え撃つように(デバイス)を構え、射撃魔法(アクセルシューター)を撃ち放った。不規則な軌道で迫る無数の魔力弾を、スバルは避け、躱し、掻い潜りながら、まるで弾丸のようになのはへ迫る。
 否。今のスバルはただ直進するだけではない。鋭く研ぎ澄まされた“走り”のキレはまさに“剣”――ひと振りの“疾風の剣(マッハ・キャリバー)”である。
 化けやがった! 疾走するスバルを見上げ、空は背筋を震わせた。今ならばはっきりと見える(・・・)。スバルの小さな背中が背負う、大きな技影(シャドウ)が。

「うりゃああああああああっ!」

 スバルは怒号を上げながら拳を振り被った。なのはは魔法障壁を展開し、槍のように迫るスバルの打撃に備える。

「何度やっても同じことだよ?」
「どうかな?」

 なのはの忠告にスバルは不敵に笑い返し、障壁を思いきり殴りつける。瞬間、障壁が悲鳴を上げるようにビリビリと震えた。
 障壁を震わせるスバルの打撃、その正体は“振動”だった。打撃の瞬間、スバルはISを発動し、障壁に振動波を撃ち込んだのである。
 スバルはもう片方の拳も障壁に叩きつけた。再び障壁が大きく震撼する。このままでは破られる。なのはは舌打ちとともに障壁を破裂(バースト)させ、爆風に乗って後方へ飛び退いた。
 スバルの方も障壁が発光した瞬間に爆発を察知、咄嗟に拳を引いてその場から退避した。これで三度目である。概ねなのはの攻撃パターンが“読めて”きた。
 立ち籠める煙の向こうからなのはがうっすらと姿を現わす。直後、スバルは戦慄した。なのはは杖を構え、砲撃魔法に体勢に入っていた。

 ――魔法・Excellion Buster(エクセリオンバスター)!!

 杖の先端で輝く光球が弾け、膨大な光の奔流がスバルへ撃ち放たれる。桜色の閃光が空を貫き、闇夜を明るく染め上げた。
 終わった。その瞬間、誰もがそう思った。地上で戦いを見守っていたイッキ達も、砲撃魔法を撃ったなのはも。だが―――、

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 砲撃の轟音を掻き消すように、雄々しい叫び声が闇の中に木霊する。スバルの声だった。力強さを失わないスバルの怒号が、砲撃の“上”から響き渡る。
 馬鹿な! なのはは瞠目した。スバルは足元に展開した防御陣をサーフボードのように操り、砲撃の“波”に乗ってなのはへ接近していた。
 スバルの周囲に魔力弾が発生し、ぐるぐると回転しながら腕に絡みつく。防御陣の“ボード”を蹴り、スバルはなのはに飛びかかった。

「なのはさん。あたしずっと、自分の力が怖かったんです」

 魔力を纏う拳を振り上げながら、スバルはなのはに話しかけた。

「あたしの手の中にあるのは誰かの傷つける力ばかりだって思って、怖くて、不安で、こんなの本当のあたしじゃないって拒絶して、ずっと目を逸らしてきたんです」

 戦闘機人の力、魔法の力、ライダーとしての力。手の中にあるのは何かを壊す力ばかりで、いつか大切な物まで壊してしまいそうで恐ろしかった。
 だが、そうではないと教えてくれた人がいた。何かを壊してしまうことに怯える自分に、何かを掴もうとする勇気を分けてくれた人がいた。

「もう逃げるのはやめたんです。戦闘機人としてのあたしも、暴風族としてのあたしも、魔導師としてのあたしも、全部本当のあたしだから。全部あたしの「道」だから!」

 今なら分かる。この手の力は何かを壊すだけの力ではない。大切な何かを守り、新しい何かを掴む翼にもなるのだと。

「征きます、なのはさん。これがあたしの“全力全開(ほんきのほんき)”!!」

 ――魔法×技・Revolver Shoot(リボルバーシュート)!!

 魔導師の“魔法(ちから)”、ライダーの“走り(ちから)”、そして戦闘機人の“IS(ちから)”。その全てを(ひとつ)に集め、スバルは渾身の打撃を放つ。
 なのはは魔法障壁を展開し、スバルの拳を受け止めた。拳と障壁の境界面で二人の魔力が反発し合い、激しく火花を散らしてせめぎ合う。
 そのとき、なのはの障壁に亀裂が入った。亀裂は瞬く間に障壁全体に広がり、やがてガラスを落としたように砕け散る。驚愕するなのはの横面に、スバルの拳が突き刺さった。
 だが、そこまでだった。スバルの拳を顔面で受け止めていながら、なのはは微動だにしない。障壁を打ち破った時点で、スバルは力を使い果たしていたのである。

「敢闘賞かな」

 糸が切れた人形のように倒れかかるスバルの身体を両手で抱きとめ、なのはは優しく微笑する。長い戦いは終わった―――かに思われた。
 だが、これで終わらせるほど<小烏丸>は潔くはなかった。障壁が消え、無防備な姿を晒す敵にとどめの一撃を叩き込むべく、男達は最後の力を振り絞る。

「どけっ、スバル!」

 ウイングロードを駆け上がり、咢が叫んだ。スバルはなのはの腕を振りほどき、ウイングロードから飛び降りる。落下するスバルの身体を、地上でブッチャが受け止めた。
 咢が怒号とともに“牙”を撃った。放たれた衝撃波がなのはを直撃し、防護服に僅かな裂け目が入る。
 バランスを崩したなのはに追い討ちをかけるように、空が竜巻を放った。瞬間、脚の筋繊維が遂に破裂し、染み出した血が空のジーンズを真っ赤に汚す。
 轟音とともに迫る竜巻の砲弾(パイルトルネード)を躱し、なのはは歯噛みしながら空中で(デバイス)を構えた。やはり完全に叩き潰さなければ駄目なのか、なのはの口の中に苦い味が広がる。
 そのとき、地上の空達の姿がなのはの視界から消えた。否、隠されていく(・・・・・・)。スバルのISによって大量の砂塵が巻き上げられ、<小烏丸>の姿を覆い隠しているのである。

「これが正真正銘(ホントにホント)の最後の一撃だよ、なのはさん?」

 疲労困憊した顔で無理矢理笑みを作り、スバルはそう言ってなのはを見上げる。否、スバルはなのはを見ていない(・・・・・・・・・)
 スバルの視線を追い、なのはは頭上を見上げる。次の瞬間、なのはは愕然と目を見開いた。イッキがいた。月の光を背中に背負い、“上”から悠然となのはを見下ろしている。

「何で……? どうして君がわたしの“上”にいるの!?」

 思わず困惑の声を上げるなのはの脳裏を、空が撃った竜巻が不意によぎった。まさかあの竜巻は攻撃のためではなく、(イッキ)を打ち上げるための射出台(カタパルト)だったのか!?

「風の面を相手に叩きつけるよーに」

 イッキが呟きながら両腕を回転させ、気流を一点に集めて風の“面”を形成する。

「IS全開!!」

 スバルが怒号を上げながら地面に拳を叩き込み、撃ち出した振動波によって砂塵を巻き上げる。
 イッキが風の“面”を蹴りつけた。撃ち出された竜巻が砂塵を巻き込み、砂嵐となる。

 ――技・IKKI×SUBARU Crystal Sand Wind!!

 砂を孕んだ風の渦がなのはを呑み込み、高速研磨機のように容赦なく削り取る。砂嵐が去り、再び姿を見せたなのはの頭に、イッキが追い討ちをかけるように踵を叩き込んだ。

「だらっしゃああああああああっ!!」
「きゃあっ!?」

 怒号とともに振り下ろされたイッキの踵に蹴り飛ばされ、なのはは悲鳴とともに地面(グラウンド)に叩きつけられる。イッキもA.T.のサスペンションを軋ませながら着地した。

「どうだ。引きずり下ろしてやったぜ?」

 撃ち墜としたなのはに指を突きつけ、イッキは誇らしげにそう口にした。



 ――To be continued



[11310] Trick:22
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/02/17 09:11
「――どうだ。引きずり下ろしてやったぜ?」

 イッキは高らかに勝ち名乗りを上げる。戦いは終わった。地べたに這いつくばる魔導師(なのは)、ボロボロになりながらも立っている暴風族(イッキたち)。誰の目にも勝敗は明らかだった。
 なのはがゆっくりと起き上がった。酷い姿だった。防護服はズタズタに引き裂かれ、顔や髪は砂と埃で真っ黒に汚れている。
 イッキは「ほぉ」と感嘆の声を漏らした。まだ立ち上がるのか、敵ながら大した根性(ガッツ)だ。こいつにも譲れない誇り(おもい)があるということなろう。ならば……その誇りごと叩き潰す!

「征けぇい、者ども!!」

 イッキの号令で、カズ、オニギリ、ブッチャ、そして咢が一斉に動いた。四方からなのはを取り囲み、同時に襲いかかる。
 イッキもホイールを軋ませながら大きく跳躍し、(うえ)からなのはへ攻撃を仕掛けた。正真正銘、全方位からの一斉攻撃。なのはに逃げ場はない―――筈だった。

 ――魔法・Sonic Move(ソニックムーブ)!!

 その瞬間、スバルは何が起きたのか全く解らなかった。
 突然金色の閃光が走ったかと思えば、なのはを袋叩きにしようとしていたイッキ達が、何故か自分達で互いに殴り合っている。一体何があったというのか。

「痛ってぇ!? テメエいきなり何しやがる!?」
「うっせぇ! テメエこそよくもやりやがったなこん畜生!!」
「裏切りか、裏切りなのかこの野郎!?」
「落ち着けこれは孔明の罠だ!!」
「ファァァァック!!」

 怒号を飛ばし合いながら乱闘を始めるイッキ達を遠目に眺め、空が「あちゃあ」と天を仰ぐ。こいつら全然成長しねぇ。
 スバルは警戒するように周囲を見渡した。視界を一瞬走った金色の閃光(ひかり)、あれは恐らく魔力光の輝きである。なのはの魔力光は桜色、彼女の魔法ではない(・・・・・・・・・)
 長い絹糸のような髪が風に揺れ、白い外套(マント)が夜空にはためく。ぐったりしたなのはを両手に抱きかかえ、その女は地上(スバルたち)を見下ろしていた。
 金色の髪、ルビーのような紅い双眸、人形のように端正な顔、そして闇に溶け込む漆黒の防護服。まるで重力を操るように緩やかに高度を落とし、黒い魔女は地上へ降り立つ。

「何者だ?」

 イッキが威嚇するように低い声で尋ねた。黒い魔導師は真紅の瞳でイッキを一瞥し、鈴のような澄んだ声で答える。

「時空管理局執務官、フェイト・T(テスタロッサ)・ハラオウン」

 イッキ達に緊張が走った。「執務官」というのは分からないが、魔導師、しかもなのはと同等の強敵であることだけは本能的に理解できた。
 一方、スバルはフェイトと名乗る魔導師の言葉を正確に理解し、戦慄に身を震わせていた。執務官、事件捜査や法の執行などの権限を持つ対次元犯罪の専門家(エキスパート)である。
 一騎当千の戦闘能力を持つ高ランク魔導師。その上、今の<小烏丸(じぶんたい)>はなのはとの戦闘で限界まで疲弊している。相手が悪すぎた。

「だったら、もう一度超全力全開モードで……!」

 魔力を集中するスバルを無言で見遣り、フェイトが目を細める。瞬間、金色の魔力光が霧のようにスバルを包み込み、円環(リング)の形に凝縮されて実体化(マテリアライズ)。スバルの身体を締めつけた。
 発動したフェイトの捕縛魔法(リング・バインド)に身体の自由を奪われ、スバルは「うわ」と悲鳴を漏らしながら地面に倒れ込んだ。

「ありがとう、フェイトちゃん……」

 フェイトの腕の中で、なのはが掠れた声で感謝の言葉を口にした。

「でも……邪魔しないでくれるかな? これは彼らとわたしの問題(たたかい)だから」

 そう言いながらフェイトの腕を振りほどき、なのははふらつきながら、しかし自らの両足で地面に立つ。
 杖を地面に突き立てて体重を支えるなのはを見つめ、フェイトは険しい表情を浮かべる。次の瞬間、フェイトの平手がなのはの頬を打った。乾いた音が校庭(グラウンド)に響き渡る。

「頭は冷えた? 今のなのはは冷静じゃない」

 ぶたれた頬に手を当て、呆然とした表情を浮かべるなのはに、フェイトは硬い声で話しかけた。

「どんな理由があろうとも、一般人を魔法で傷つけるのは許されざる罪。魔法は暴力(そんなこと)に使いものじゃないって、貴女が一番よく知ってる筈でしょう?」

 淡々と放たれるフェイトの糾弾の声に、なのはは無言で下を向く。間違っていることは解っていた。だが……他に方法はなかった。自分には魔法(これ)しかないのだから。
 フェイトは金色の宝石を取り出した。掌の中で宝石が眩く輝き、黒い鋼鉄の戦斧へと姿を変える。

「高町 なのは二等空尉。執務官の権限により、管理外世界での魔法使用、並びに現地住民への魔法攻撃の現行犯で……貴女を逮捕します」

 俯くなのはの喉元に戦斧(デバイス)を突きつけ、フェイトは感情を押し殺したような声でそう口にした。

「おいおい、ちょっと待て。何勝手に二人で話進めてんだよ?」

 フェイトとなのはの間に身体を割り込ませながら、イッキが口を開いた。

「こいつはただ俺達と喧嘩(バトル)してただけだよ。逮捕とか管理外世界の何たらとか、何でいきなりそんな小難しい話になってんだよ!?」
「その喧嘩に魔法を使うこと自体が罪なの」

 激しい剣幕で詰め寄るイッキに、フェイトは静かな声で諭す。

「なのははその禁忌を破った。罪を犯せば、罰を受けなければいけない。当たり前のことだよ」
「でもよぉ、そんなの……納得できねぇよ」

 イッキの声がだんだんと小さくなる。反論の言葉が見からない。イッキは悔しかった。突然(いきなり)現れ、(バトル)を邪魔した(バカ)に言い返すことさえできない。イッキは屈辱に歯噛みする。
 フェイトはスバルへ視線を移した。捕縛魔法を解除し、フェイトはスバルに話しかける。

「君も同行してくれるかな? 詳しい事情と、あとそのデバイスについても話を聞かせて欲しいんだけど」

 フェイトの言葉に、スバルの顔から血の気が引いた。なのはとは違い、見ず知らずの執務官相手では何の説得も通用する気がしない。
 怯えたように後ずさるスバルの前に、カズ達が盾になるように立ち塞がる。イッキも険呑な空気を纏い、フェイトを睨んだ。

「何だよ。アンタもスバルちゃんを連れて行こうとすんのか?」
「上等だ。テメエも返り討ちにしてやるよ!」

 カズとイッキの科白に同調したように、他の男達も殺気立つ。暴風族の誇り(エンブレム)に賭けて、仲間(スバル)を渡すつもりは毛頭なかった。
 イッキ達の威嚇に、フェイトは負けじと睨み返した。執務官の誇り(プライド)に賭けて、職務は遂行しなければならない。
 無言の睨み合いが続き、険悪な空気がその場を支配する。そのとき、なのはが不意に口を開いた。

「ファイトちゃん……二股(・・)はよくないと思うんだ」

 場違いなほど緊張感のないなのはの科白に、イッキ達のフェイトを見る目が一変する。

「え、あらやだ奥さん聞きました?」
「スバルちゃんと同じ人種かよ。美人なのにもったいねぇ……」
「僕は性癖で人を判断したりはしないよ、うん。非生産的だとは思うけどね」
「こうなったら俺が“男”って奴を教えてやるぜ」

 好き勝手に言い合うイッキ達に、次の瞬間、空色の魔力弾(クロスファイヤーシュート)が容赦なく撃ち込まれた。

「な、なのは!? いきなり何を言ってるの!?」

 フェイトは顔を紅潮させながらなのはに詰め寄った。

「しないよっ、私浮気なんか絶対しないよ!?」
「あー、うん。予想以上に直球(ストレート)な反応をどうもありがとう」

 赤い顔で慌て(テンパっ)たようにまくし立てるフェイトに、なのはは困ったように「にゃはは」と苦笑する。

「そうじゃなくて……これから犯罪者(わたし)を連行しなきゃいけないのに、この子(スバルちゃん)まで連れて行く余裕なんて、フェイトちゃんにあるの?」

 何気ない調子で問うなのはに、フェイトの表情が変わった。

「……どういう意味?」
「どうって、そのままの意味(・・・・・・・)だよ」

 険を帯びた目つきで訊き返すフェイトに、なのははそう言って酷薄に微笑する。

「連行中にもしも(・・・)わたしが暴れ出したら、フェイトちゃんはどうする? 戦って勝つ? スバルちゃんを守りながら? 不可能(むり)だね。わたしはそこまで甘くないよ」
「……口を慎んで下さい、高町二尉。そのような発言は処罰の対象になりますよ?」
ご自由にどうぞ(・・・・・・・)。フェイト執務官」

 なのはの不遜な科白に、フェイトは内心で舌打ちした。下手な芝居だ、なのはがそんな暴挙をしでかす人間でないことは自分が一番よく知っている。
 なのはは明らかにあの少女を庇っている、彼女らしからぬ挑発的な態度や言動はそのための芝居(フェイク)だろう。そこまでして守りたいのか。
 この辺りが落とし所か、フェイトは溜息を吐いた。理屈自体は間違っていないし、これ以上難癖をつければ本当に暴れ出しかねない。
 長いつき合いである。なのはの魔導師としての戦闘能力も、我を貫き通す意思の強さも、フェイトは身を以てよく知っていた。

「君達の勝ちだよ。カラス君」

 宝玉の姿に戻したデバイスをイッキに預け、なのははイッキを振り返った。

「約束通り、貴方達の(つよさ)を信じてみるよ。スバルちゃんをよろしくね」

 校舎の上空に亀裂が入り、蜘蛛の巣状の亀裂が瞬く間に空全体に広がっていく。ドーム状に街を覆う封時結界、その魔法が解けようとしていた。
 亀裂は地上にまで広がり、校舎が、校庭が、まるで網を被せたように細かい亀裂に覆われる。眩い光が亀裂の奥から迸り、次の瞬間、溢れ出た光の洪水が全てを呑み込み―――、






 気がつけばイッキ達だけが校庭に残されていた。なのはも、フェイトの姿もどこにも見当たらない。
 丘の麓では街中に明かりが灯り、自動車のヘッドライトが生き物のように地面を蠢いている。
 全てが夢だったのか? 思わずそう疑ってしまうほどに、世界は何もかもが元通りだった。唯一イッキ達の身体に残る“傷”だけが、なのはとの戦いが現実であると教えてくれる。

「ちっ、まんまと逃げられたか」

 イッキが悪態を吐きながら大袈裟に肩を竦めた。だがその声には覇気がない。その場の全員が理解していた。自分達は勝った(・・・)のではない、ただ見逃して貰った(・・・・・・・)だけだ。
 なのはとの戦いで、既に全員が力を使い果たしていた。あのままフェイトとも戦闘になっていれば、今度こそ全滅は必至だっただろう。事実上の<小烏丸>の敗北である。

「なーに辛気臭い顔しとんのや? ボーズども」

 敗北感に打ちひしがれるイッキ達を見渡しながら、空が明るい調子で声をかけた。

「確かにちぃと実感薄いかもしれへんけど、結局嬢ちゃんは連れてかれへんかったし、お前らだってピンピンしとる。大勝利やないか」

 空が何を言っているのか、イッキ達は一瞬分からなかった。しかしその言葉の意味をだんだんと理解するにつれ、イッキ達の顔に喜色が浮かぶ。

 一拍遅れて、盛大な歓声が校庭に響き渡った。

 男達は拳をぶつけて健闘を讃え合い、女達は抱き合って勝利を喜ぶ。スバルも満面の笑みを浮かべてウメに駆け寄り、その胸の中へ勢いよく飛び込んだ。
 じゃれ合うスバル達の腹の中から、そのとき「ぐぅ」と音が鳴った。二人は思わず顔を見合わせる。そう言えば夕食がまだだった。

「ねぇ、イッキ。そう言えばあたし達の晩御飯は?」
「ん? 俺が全部喰った」

 スバルの問いに、イッキは悪びれもせずに平然とのたまった。その瞬間、スバルとウメの顔に鬼相が走る。
 イッキは許されざる罪を犯した。スバルとウメは顔を見合わせ、何かを分かり合ったように互いに頷く。
 ウメがスバルの身体から手を離し、そろそろと後ずさって距離を開ける。ウメが充分離れたことを確認し、スバルは魔力を爆発させた。

 ――超全力全壊モード発動(ギア・エクセリオン)!!

 スバルの全身から魔力の火柱が噴き出し、A.T.(デバイス)が変形。両足首に空色に輝く“光の翼”を形成する。
 金色の瞳を爛々と輝かせ、拳を構えるスバルの姿に、イッキは漸く己が彼女の逆鱗に触れたことを悟った。

「ま、待てスバル! 話せば分かる!!」
「問答無用! 死ねクソガラス!!」

 命乞いにも耳を貸さず、スバルはイッキに殴りかかった。“魔法”と“走り”と“IS”と“食い物の恨み”。四つの“力”を拳に集め、渾身の一撃(リボルバーシュート)が放たれる。
 次の瞬間、東雲東中学校の上空へ空色の花火が打ち上がり、かくして長い長い夜は終わった。



 ――To be continued



[11310] 【嘘予告】魔法少女リリカルなのはONIGIRI
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/02/17 13:39
(注)この物語はフィクションです。実在の人物、団体、事件、および本今後のss執筆予定とは全く関係ありません。



 目指した野望(ゆめ)は遥か遠く、長い長い時間を経ても、未だ入り口すらも見えはしない。
 だがそれでも、男は走り続ける。理想をその手に掴むために戦い続ける。
 憧れたのは漢の浪漫(ロマン)、夢に見たのは真実(まこと)の楽園。そして辿り着いたのは魔法の世界。



 魔法少女リリカルなのはONIGIRI はじまります……。



 月の明るい夜だった。皓々(こうこう)と照りつける二つの月明かりを窓越しに見遣り、男は決意の表情で身を翻す。
 小太りの男だった。150cmにも満たない小柄な体躯は肉団子のように丸々と肥え、身に着けた制服が今にもはちきれそうである。
 タラコ唇にブタのような鼻の顔は、お世辞にも整った造作とは言い難い。否、はっきり言って不細工だった。
 男は防護服(バリアジャケット)を装着した。そして右足に履いたA.T.(エアトレック)シューズを脱ぎ、角刈りにキメた頭の上へ被せる。彼は今―――戦いに赴こうとしていた。
 男の名前はオニギリ。機動六課交替部隊の突撃前衛(フロントアタッカー)であり、第97管理外世界極東に伝わる古流武術「流派鬼斬拳」の継承者である。

「征くの?」

 倒立した姿勢で通路を走るオニギリの背中に、柱の陰から声をかける者がいた。若い女だった。長い赤みがかった金髪をツインテールに纏め、同じ機動六課の制服を着ている。

「ティアナか」

 オニギリは足を止め、背後の女を振り返った。オニギリの呼びかけに、ティアナと呼ばれた少女が「ふん」と鼻を鳴らす。

「あんたを心配してる訳じゃないけど、正直今回の作戦(ヤマ)はかなり分が悪いわよ? 本当にやるつもりなの?」

 勝ち気そうな瞳でオニギリを見下ろし、ティアナは剣呑な声で尋ねた。彼の実力は疑っていない。だが今回は相手が悪すぎるのだ。

「勇気と無謀は違うわ。なのはさんだって言ってたじゃない? 今からでも遅くないから、もう一度考え直してみたら?」

 ティアナの説得に、しかしオニギリは静かに首を振る。

「それで征かなきゃなんねぇんだよ。ティアナちゃん、男には逃げちゃいけねぇ戦いって奴があるんだ。そして今がその時なのさ」
「……馬鹿。格好つけちゃって」

 ティアナは呆れたように溜息を吐いた。もっとも、こうなることは最初から解っていた。彼は管理局員である前に、暴風族(ストーム・ライダー)―――何者にも囚われずに走り続ける者なのだから。
 オニギリはティアナに背を向け、ホイールを回して再び通路を走り始めた。遠ざかる小さな背中をティアナは無言で見送る。本当に馬鹿な奴、とティアナはもう一度だけ呟いた。

 A.T.独特の甲高いモーター音を響かせながら通路を進むオニギリの前に、四つの人影が立ち塞がった。オニギリは立ち止り、逆立ちした姿勢のまま彼らを見上げる。
 一人はツナギを身につけ、ライフルを持っていた。
 一人はしわ一つない制服をぴしっと着こなし、眼鏡をかけていた。
 一人は槍を携えたあどけない顔の少年だった。
 そして最後の一人はオニギリと同様にA.T.を両足に履き、額にハチマキを巻いた若い娘だった。

「よぉ大将。抜け駆けなんてズルいんじゃねぇかい?」

 ツナギの男、ヴァイスがライフルの銃身で肩を叩きながらオニギリに声をかけた。

「ぼ、僕は別にどうでもいいんだけど……どうしてもって言うんだったら、君達とツルむのもやぶさかじゃない」

 眼鏡の青年が、グリフィスが落ち着きなく視線を彷徨わせながら口を開く。

「逃げちゃいけない男の戦いって聞いてきました。僕にも手伝わせて下さい!」

 槍の少年、エリオが緊張したように顔を強張らせながら、しかし毅然とした声で名乗りを上げる。

 そして―――、

「オニギリ君。あたし達、仲間でしょ?」

 一同を代表するようにA.T.を履いたハチマキの少女、スバルがそう言って笑いかけた。
 オニギリは破顔した。まったく、揃いも揃って大馬鹿(おひとよし)どもめ。自分の馬鹿につき合ってくれる仲間がこんなにもいたことが、オニギリは嬉しくて堪らなかった。
 ついてくるか? オニギリは無言で同志達へ尋ねた。その問いにヴァイス達も無言で答える。愚問だ兄弟、と。
 目指すは大浴場。今の時間帯はなのはやフェイトを始めとする、機動六課の隊長陣が入浴している筈である。そう、彼らは―――覗きに征こうとしていた。
 能力限定(リミッター)がかけられているとはいえ、敵が一騎当千の猛者達であることに変わりはない。失敗は即、死を意味する。それでも彼らは止まらない。何故ならば―――、

 ―――いやぁ~だってホラ、男のロマンですからっ!

「行くぞ猿ども!!」
「「「「ウキーッ!」」」」

 オニギリの号令を合図に、五人の戦士(ケダモノ)達が奇声を上げながら大浴場へ突撃する。



 数分後、響き渡る悲鳴と怒号が隊舎を揺るがし、色とりどりの魔力光が大浴場から迸った。

「ほんっと、馬鹿ばっか」

 遠くから聞こえてくる馬鹿どもの悲鳴をBGMに、ティアナは呆れたように溜息を吐いた。
 どっとはらい。






 これは夢と使命を背負って戦う魔法少女達と、一人の暴風族との交流の物語である。






 彼らはともに学び―――、

「じゃあ午前中のまとめ、二対一で模擬戦の模擬戦をやろうか。まずはスターズ分隊(スバルとティアナ)から、相手は―――」
「よろしい。私が全霊を以てお相手進ぜよう」
「「ハイッ! 棄権しますっ! キケン危険!!」」






 ともに戦いながら―――、

「そーいやさぁ、昔読んだ本の中にナヴィエ・ストークスの方程式ってのがあってよぉ。それによると時速200kmで空気を掴むとJカップ級の揉み心地に……」
「うおおおおっ! ヴァイス陸曹ハッチ開けてええっ!!」
「乳が! 空気のおっぱいがウチを呼んどる!!」
「ちょっ、コラやめなさいよ馬鹿スバル! 今任務中なのよっ!?」
「はやてちゃんも落ち着いてええっ!!」






 少しずつ絆を深めてゆく……。






 明らかになる強大な(てき)

「広域次元犯罪者ジェイル・スカリエッティと、彼に創られた十二人の戦闘機人(ナンバーズ)。そいつらが機動六課(ウチら)の本当の敵や」
「許さねぇ……!」
「オニギリ君?」
「そうだよね。人の生命を玩具のように弄ぶ……そんな非道が許せる筈がない」
「そうじゃねぇ! このスカリエッティって奴、こんなカワイ子ちゃん達を侍らせやがって。ハーレムを、漢の夢をっ、この俺様を差し置いて! 絶対ただじゃ済まさねぇ!!」
「「「「「「「「…………」」」」」」」」






 そして始まる最後の戦い。
 次々と襲いくる敵の量産兵器、天空を昇る巨大な“戦船(ゆりかご)”。味方の戦力は地上と空に分断され、状況は最悪と言っても過言ではない。
 絶体絶命の窮地の中、「王」は遂に覚醒する―――!






「ちぇ~っ、ツイてないッスねぇ」
「よりにもよって一番のはずれ(・・・)かよ!」
「……最悪」

 不満の声を漏らす戦闘機人達に、オニギリは鼻の下を伸ばしながら「いやいや」と首を振った。

「それは大いなる間違いというものだよ、お嬢さん方。機動六課の中でこのオニギリほど女性の扱いを心得ている者はいない」

 廃ビルの中に追い込まれ、三人もの戦闘機人に囲まれていながら、オニギリは余裕の表情を崩さない。
 彼女達は俺を追い詰めたと思っているのだろうが、それは違う。まんまと相手の“策”に嵌り、自ら墓穴を掘ったのは寧ろ彼女達の方なのだ。
 彼女達の一番の墓穴(あやまち)、それはこの戦場(バトルフィールド)そのものだった。閉鎖された屋内空間、つまり密室。この場所でこそ、オニギリはその真の「(ちから)」を魅せることができるのである。
 オニギリの身体から尋常でない威圧感(プレッシャー)が放たれ、ブタのような幻影(シャドウ)が背後に浮かび上がる。否、これは汗である。噴き出す大量の汗の水蒸気がブタの幻影を映し出しているのだ。
 この世のものとは思えぬ悪臭が屋内に立ち籠め、戦闘機人達の鼻を容赦なく刺激する。
 ニオイは人間の精神を最も揺さぶる感覚である。特に兵器として鋭敏な五感を持つ戦闘機人にとって、オニギリの汗が放つ悪臭は猛毒に等しかった。
 それこそがオニギリが誇る最凶最悪の「道」―――「腐臭の道(スメルロード)」である!

「我、勝利を確信せり!!」

 ブタの技影を背中に背負い、オニギリは高らかに啖呵を切った。
 悪臭によって感覚が麻痺し、戦闘機人達の動きが鈍っている。オニギリは下卑た笑みを浮かべた。



 一方的な凌辱が始まろうとしていた。



 ――以下xxx板へ続く(嘘)



[11310] Trick:23
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/02/17 13:41
 十日間は瞬く間に過ぎ去り、遂に決戦(パーツ・ウォウ)の日がやって来た。強化合宿を終え、<小烏丸(イッキたち)>は一時解散。半日後に再集合を約束してそれぞれの家へ帰った。
 つかの間の自由時間、スバルは巻上の病院を訪れた。だが別に身体の調子が悪いのではない。スバルが病院にやって来た理由は一つ―――空の見舞いである。

「空さん。元気にしてる?」
「おお嬢ちゃん、見舞いに来てくれたんか? おおきに」

 病室に顔を覗かせるスバルの声に、空がベッドの上から手を振って答えた。

「さっきボウズも顔見せに来てくれてんねん。嬢ちゃん、あいつと会わへんかったか?」
「イッキが? ううん。入れ違いになっちゃったのかな?」

 空の言葉にスバルは意外そうに目を瞬かせ、見舞い品として持参した果物の詰め合わせを差し出す。

「空さん……脚は?」

 籠の中から取り出した林檎をかじりながら、スバルはギブスと包帯で固められた空の両脚を一瞥した。スバルの問いに、空は無言で肩を竦める。
 三日前に起きたスバル達となのはの(バトル)。その戦いで空は<小烏丸>側の助っ人として参戦し、後遺症の残る脚で、身体に負担のかかる過酷な(トリック)を何発も撃ち続けた。
 その無茶の代償で空の両脚は中からズタズタに引き裂かれ、もう二度と使い物にならないと医者から診断された。“疾風の狼”が再び空を翔けることは、ない。

「なーに辛気臭い顔しとるんや。別に嬢ちゃんのせいやあらへんやろ?」

 暗い表情で黙り込むスバルに、空が明るい調子で声をかけた。

「ただ元々イカれとったモンがもっとブッ壊れただけや。嬢ちゃんが今ここにおる。それと天秤にかけたらこんなモン、安い代償や。後悔はしてへんよ」

 慰めるような空の科白に、しかしスバルは俯いたまま沈黙を続ける。完全に自己嫌悪(ネガティブモード)に陥っている。空はベッドから身を乗り出し、スバルの額を指先で弾いた。

「アホウ! こないなアホらしいことに胸痛めとる暇があんのやったら、もっと別のことに頭使わんかい! 今夜なんやろ? <ベヒーモス>との(バトル)

 叱るような空の言葉に、スバルは額を押さえながら「う」と呻いた。敢えて考えないようにしていたのに。恨みがましそうな目で睨むスバルに、空は溜息混じりに続ける。

「宇童は強いで? あいつはかつてのワイやキリクと同じ「王」なんやからな。悩み抱えたまま勝てる相手とは思わんことや」
「……肝に銘じときます。先生」

 スバルは神妙な表情で空の忠告に頷いた。






「宇童 アキラかぁ……」

 見舞いからの帰り道、スバルは空の言葉を反芻しながら繁華街を走っていた。確かにこの十日間でやれることはやった、強くなれるだけ強くなった。だが不安は消えない。
 ブッチャに聞いたのだが、Fクラスの暴風族が格上の(ライダー)に勝つ可能性は1%にも満たないという。それだけ絶望的な戦いに<小烏丸(じぶんたち)>は挑もうとしているのである。
 スバルはかつて宇童の戦いを目撃した。尋常でない“走り”のキレ、化け物じみた筋力、そして必殺の“牙”。まさに「王」の名に相応しい圧倒的な戦いぶりだった。
 勝てる気がしない、それがスバルの素直な感想だった。戦闘能力(スペック)の差だけではない。背負っているものの重さすらも、自分達は圧倒的に宇童に負けている気がする。

「どうしよう……」

 スバルはその場に立ち止まり、溜息を吐く。足を止めた瞬間、不安と緊張が津波のように胸にせり上がってきた。スバルの胃がキリリと痛む。
 宇童 アキラと言えば、もう一つ頭の痛い問題があった。スバルは両足のA.T.に視線を落とした。
 黒光りするボディ、足甲を飾る青い宝石(デバイスコア)。紆余曲折の果てに宇童から預かることになったA.T.型デバイス、“魔導の玉璽(レガリア)”のなれの果て(・・・・・)である。
 分解され、組み換えられ、今や完全にスバルのA.T.として調律されたこの玉璽(デバイス)に、最早以前の面影はない。緊急事態(しかたなかった)とはいえ、預かり物に手を加えたのは(まず)いのではないか。

「……本当に、どうしよう」

 スバルは再び嘆息を漏らした。謝れば許してくれるだろうか? 否、それ以前にそもそもどうやって謝ろう。

No problem. I don’t mind(大丈夫です。私は気にしてません)

 スバルの心情を察したのか、A.T.が気遣うように宝石を明滅させた。こいつ本当にデバイスか? 相棒(デバイス)のお気楽な科白にスバルは思わず苦笑する。だが少しだけ心が楽になった。
 そのとき、視界の端に見覚えのある金色の色彩が映り込んだ。スバルは思わず息を呑む。
 スバルの周囲から音が消えた。繁華街の喧騒も、すれ違う通行人の声や車の音も、身の周りを取り巻くあらゆるものが、まるでどこか遠い世界の出来事のように感じる。
 それほどまでにスバルは魅せられて(・・・・・)いた。金色の髪を風に遊ばせ、宝石(ルビー)のような真紅の双眸で自分を射抜くその女に。
 美しい女だった、それもまるで人形のように完成された。男も女も、すれ違う通行人の誰もが彼女の美貌を一度は振り返る。まるで死神に魅入られたかのような魂の抜けた顔で。

「こんにちは。スバル・ナカジマさん」

 人外じみた美貌に柔らかな微笑を浮かべ、死神はスバルに声をかける。

ガチレズ執務官(フェイトさん)……!」

 スバルは血の気の引いた顔で小さく呟いた。自分は彼女を知っている。フェイト・T(テスタロッサ)・ハラオウン、管理局の執務官である。
 三日前、彼女は<小烏丸>(スバルたち)の前に突如現れた。まるで雷光(ひかり)のように素早い魔法、なのはと同等と思われる戦闘能力。まともに戦って勝てる魔導師(あいて)ではない。
 そしてもう一つ、フェイトに関して<小烏丸>の中でまことしやかに流れる一つの噂があった。曰く―――彼女は真性(ほんもの)同性愛者(ガチレズ)であると。
 スバルは反射的に身を翻した。フェイトから逃げるように全力で駆け出し―――気がつけばいつの間にか回り込んでいたフェイトの胸に顔をうずめていた。と言うかめり込んでいだ。

「いきなり逃げるなんてちょっと酷くない? まぁいいや、それより今からちょっとお話いいかな? お昼ご飯くらいなら奢るから」
「いえ結構です! あたしノーマル、ノーサンキューですっ!!」

 果実のようにたわわなフェイトの胸の中から抜け出し、スバルは全力で首を振った。食事の誘いは魅力的だが、自分は百合(レズ)ではない。これ以上あらぬ噂が立つのは御免だった。
 が、そんなスバルの都合や心情などフェイトにとっては関係(しったこっちゃ)なかった。
 上着の後ろ襟をむんずと掴み、問答無用でフェイトはスバルを引きずる。その細腕からは考えられないような物凄い剛力(パワー)だった。

「まーそう言わずに。大事な話もあるから」
「いやーっ! お願いフェイトさん話聞いてーっ!?」

 フェイトに引きずられながら情けない悲鳴を上げるスバルを、すれ違う通行人が微笑ましそうな顔で見送る。真昼の繁華街は今日も平和だった。






「――で、適当なファミレスに場所を移した訳だけど……」

 何故か説明口調で語るフェイトを、スバルがテーブルの反対側から睨んでいる。手負いの獣のように歯を剥き出して威嚇するスバルに、フェイトは引き攣った笑みを浮かべた。

「そんなに睨まなくても……別に取って食べたりとかしないから」
「睨んでねーです。元々こんな顔なんですっ」

 苦笑交じりにかけられたフェイトの科白に、スバルはお子様ランチをつつきながら憮然と口を尖らす。

「なのはさんだって何だかんだ言いながら、結局無理矢理連れて帰ろうとしてたじゃないですか。見ず知らずの執務官(ひと)なんて信用できないですよ。カレーライス大盛りで!」
「じゃあ私はパスタを追加―――そのなのはから頼まれたんだ。自分の代わりに君のことをお願い、って」
「なのはさんに?」

 スバルは箸を止めた。頭の中を白い防護服の背中がよぎる。高町 なのは。色々と気遣ってくれて、でもすれ違って、そしてぶつかり合って、最後には「道」を譲ってくれた人。

「チーズハンバーグ定食も一つ、ライス特盛りで―――フェイト執務官は、なのはさんと?」
「うん、友達。六年来の親友なんだ。マカロニグラタン」
「……その割には容赦なくしょっぴいて行きましたよね? 友達なのに。シーザーサラダ山盛り追加で」

 軽蔑したような顔で尋ねるスバルに、フェイトは「だからだよ」と小さく笑った。悲しそうな笑顔だった。

「大切に思っているからこそ、間違ったことをしてたら“本気”で叱ってあげないと。なのはのためにも、私自身のためにも。それが本当の友達なんじゃないかな?」
「……そうですね。そうかもしれない」

 スバルは納得の表情で頷いた。この執務官のことが好きになれるかもしれない、ほんの少しだがそう思った。
 フェイトの話では、なのはは今、謹慎中なのだという。他にも降格や減給、謹慎明けには懲罰任務まであるらしい。だがそれでも処分はかなり軽い方だそうだ。
 執務官の権限を使えばなのはの処分を軽くすることも―――否、フェイトが口を噤めば揉み消すことすらできた筈である。だがフェイトも、なのはもそれを望まなかった。
 誰にも知られなくとも、罪を犯したこと自体に変わりはない。ならば償わなければならないのだ。穢してしまった誇りを取り戻すために、明日の自分自身に胸を張れるように。

彼女(なのは)ね、きっと君のことを昔の自分と重ねてるんだと思うの」

 オムライスをスプーンで掬いながらそう口にするフェイトに、スバルはカツ丼を食べる手を止め、不思議そうに首を傾げた。

「どういう意味ですか?」

 続きを促すスバルに、フェイトは懐かしい記憶を思い出すような顔で語り始めた。彼女の知る、不屈の心を持った魔法少女の話を。
 高町 なのはが魔法と出会ったのは彼女が九歳の頃。古代遺失物(ロストロギア)を巡るある事件に巻き込まれ、なのはは魔導師となった。
 魔法の才能と高い魔力資質に恵まれたなのはは、魔導師として覚醒してがら瞬く間に成長し、仲間をつくり、様々な事件を解決した。世界だって救ってみせた。
 しかし度重なる無茶が祟り、任務中の事故で彼女は墜ちた。管理局入局二年目、ちょうど今のスバルと同じ年齢(とし)だったという。
 なのはは重傷を負い、管理局への復帰はおろか、まともに歩くことすらできなくなるかもしれないほどの状態になってしまった。

「幸いにもリハビリが上手くいって今では完治してるけど、一時期は本当に大変だったんだから」

 痛ましそうに語られるフェイトの話を聞きながら、スバルは一人の男のことを思い出していた。空である。空も弱った肉体で無茶な戦いを続け、翼が折れたのだ。

「でもね、なのは言ってたんだ……たとえあのまま歩けなくなっても、空が飛べなくなっても後悔はしなかった。でも一つだけ後悔してることがある、って。何だと思う?」

 スバルは首を振った。フェイトは頷き、答えを明かす。

「家族を泣かせたこと、友達を心配させたこと。かつて自分が経験した悲しい思いを、大好きな人達にまで味わわせてしまったことだけは、今でも後悔してるそうだよ?」

 なのはが物心ついて間もない頃、彼女の父親が事故に遭った。重傷を負い、入院する父親。彼の看病と仕事の両立に奔走する母親と、その手伝いで忙しい兄と姉。
 独りぼっちの幼いなのはは、そのとき子供ながらに思ったのだという。自分はあのようになってはならない、大好きな人達に寂しい思いも辛い思いもさせてはならないと。
 しかし結果はこの有様。自分も父親と同じように失敗してしまい、大勢の人達に迷惑をかけた。泣かせたくない人達を泣かせてしまった。それがなのはの一番の後悔だという。

「パーツ・ウォウには防御魔法も非殺傷設定もないからね。いつ(バトル)中に大怪我して自分と同じようになるか分からない。だから無理矢理にでも連れ帰ろうとしたんだよ」

 フェイトの言葉に、スバルは苦々しそうな表情で黙り込んだ。料理を口に運んでも美味しくない。スバルは自棄になったように炒飯を口の中へ流し込んだ。
 自分にもしも“何か”があったら、そんなことは一度も考えていなかった。なまじ強靭な肉体に生まれたため、A.T.戦で重傷を負うなど、ましてや死ぬなど想像してもいなかった。

「―――三日後、三日後にまた迎えにくるね。それが本当のタイムリミット。そして管理局で精密検査を受けて、今度こそ家族のところ(ミッドチルダ)帰還(かえ)って貰うよ」

 フェイトの言葉に、スバルは戸惑ったように「え」と声を上げた。三日後にこの世界を離れることが、ではない。元々今夜の試合(パーツ・ウォウ)が終わったらなのはに連絡するつもりだった。
 スバルが驚いたのは、寧ろ管理局で精密検査云々のくだりである。そんな話は聞いていない。狼狽の表情を浮かべるスバルに、フェイトは溜息を吐いた。

「あのね、スバルちゃん? 君だって色々と無茶してるでしょう? 身体に負担がかかるような戦い方をしたり、フル・ドライブまで使ったってなのはから聞いてるよ?」

 ケーキの刺さったフォークを突きつけながら諭すフェイトに、スバルは「う」と呻きながらアイスクリームを舐める。

 フル・ドライブ――スバルは超全力全開モードと呼んでいるが――とはデバイスの最大出力形態である。
 限界を超えた出力を引き出す代わりにデバイス・使用者ともに絶大な負担をかける“最後の切り札”、それがフル・ドライブだった。

 ぐうの音も出ないスバルに「分かった?」と念を押し、フェイトは伝票を片手に立ち上がった。スバルも慌てて椅子から飛び降り、フェイトを追う。
 清算に向かう二人の背中の向こうでは、高々と積み上げられた皿の塔が二つ、無人のテーブルの上にそびえていた。ちなみに金額は合計で六桁を超えていたという。
 メニューに記載されたあらゆる料理を食べ尽くし、悠々と去る二人の(バケモノ)は、その後都市伝説として東雲市内の飲食店の間で長く語り継がれたという。







「やー、喰った喰った。久々に満腹だぁ」

 フェイトと別れ、スバルは膨れた腹をさすりながら幸せそうな顔でひとりごちた。
 野山野家では他の家族のことも考えていつも遠慮していたのだが、今回は奢りという言葉に甘えて心おきなく食べまくった。
 意外なのはフェイトも自分に負けず劣らずの健啖家だったことである。宇宙の胃袋を自称するスバルにとって、フェイトは姉と亡き母に次ぐ三人目の好敵手(ライバル)となった。
 よく食べる人に悪い奴はいない、これからは敬意と親愛を込めて腹ペコ執務官と呼ぶことにしよう。そんなどうでもいい決意を固めながら、スバルは商店街へ足を踏み入れる。
 アーケードの下をA.T.で走っていると、前方に黒い人だかりが見えてきた。何か催し物(イベント)か? スバルは首を傾げながら近寄り、適当な通行人に声をかける。

「あのー、何かあったんですか?」
「ん? ああ、喧嘩だよ。この先で殴り合いしてる奴らがいるんだ」

 スバルの問いに、通行人の男はそう言って人だかりの奥を指差した。両足にA.T.を履いている、この人も暴風族だろうか?

「一人は、ありゃあ<ベヒーモス>の「ハンマー」だな。間違いねぇ。もう一人は見慣れない顔だったけど……そうそう、君と同じ黒いジャケットを着てたぜ?」
「えっ!?」

 男の言葉に、スバルは驚愕に目を見開いた。同じジャケット、ということは<小烏丸>の誰かだろう。大事な(バトル)の前なのに一体何をやっているんだ!?
 スバルは野次馬を掻き分け、ドーナツ状に広がる人だかりの中心を目指した。いた! 目的の人物を見つけ、その壮絶な戦いぶりに思わず息を呑む。
 商店街の中央、ちょうどゲームセンターの前で殴り合う二人の男。一人は縞模様のセーターを身につけ、拳にナックル・ダスターを装着していた。
 そしてもう一人は、飢えた猛禽のような三白眼、まるで鳥の巣のようなボサボサ頭、そして髪の中から本当に顔を覗かせる小さなカラス。
 ジャケットの背中に<小烏丸>のエンブレムを背負うその姿は、どう見てもイッキです本当にありがとうございました。

「何やってんのよ? 馬鹿イッキ……」

 呆然と呟くスバルの目の前で二人の拳が交差し、壮絶なクロスカウンターが炸裂した。



 ――To be continued



[11310] Trick:24
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/02/26 00:15
 イッキは極限まで疲弊していた。目が霞む、腕が上がらない。全身の骨という骨、肉という肉が悲鳴を上げているの。最早長くは戦えないだろう。
 だがそれは相手(やつ)も同じ条件だろう。頑丈(タフ)な奴だ。俺の拳をここまで受け続けても倒れなかった男は、こいつが初めてだった。

「おい、ウル目。俺はそろそろこの戦(バトル)に飽きてきた! そろそろ決着つけようぜ?」

 指先をピシッと突きつけながら尊大な口調で提案するイッキに、ウル目と呼ばれた少年が「上等」と同意の言葉を返す。彼も戦いの終焉が近いことを悟っていたのである。
 イッキが拳を雄叫びとともに拳を振るい、まるで竜巻の如く自ら回転しながらもう一人の少年へ迫る。
 少年もナックル・ダスターが歪むほど拳を強く握りしめ、捻りを加えながらロケットのように打ち出した。
 二人とも本能的に理解していた。相手より一歩でも、一秒でも早く“前”へ出た者が……勝つ!

 ――A.T.殺法・A.T.タイフーン!!

 ――A.T.殺法・トルネードハンマー!!

 二人の拳が同時に放たれ、空中で交差。互いに相手を打ち抜いた。イッキの拳が少年の頬に、少年の拳がイッキの鳩尾にそれぞれ突き刺さる。

「……へっ」

 イッキは脂汗を垂らしながら不敵に笑った。次の瞬間、少年の身体がぐらりと傾き、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
 少年の拳はイッキの服の下、鉛製のハンディ・アンカーによって受け止められていた。鉛の衝撃吸収力は半端ではないそれが勝負の分かれ目だった。

「やるじゃねぇか、アンタ。こいつ(アンカー)がなかったら即死だったぜ?」

 地べたに手をついた少年を見下ろし、イッキが称賛の声をかける。次の瞬間、イッキは少年へ掌を差し出した。少年は微笑し、差しのべられたイッキの手を掴んで立ち上がる。

「自己紹介がまだだったな。俺は<小烏丸>の総長、南 イッキ。「空の王」になる男だ」
「{サイクロプス・ハンマー」の坂東 ミツル。よろしく」

 殴り合い、名乗り合い、そして理解(わか)り合い、二人の男は固い握手を交わす。互いに全力を出し切った死闘の果てに、熱い男の友情を生まれたのである。だが、そのとき―――、

「だから何やってんのって訊いてんのよ! このボケガラス!!」

 怒号とともに放たれたスバルのドロップキックが、横合いからイッキを蹴り飛ばした。



 話は一時間ほど前に遡る。空の見舞いからの帰り道、イッキは行きつけのゲームセンターへ立ち寄り、特訓の成果を試すべくパンチングマシーンに挑戦した。
 結果は501kg。イッキは元々地元(このあたり)のパンチングマシーンの記録保持者(レコードホルダー)なのだが、今回は自己新記録だった。
 とうとう夢の500kg台を叩き出した。自らの確かな成長を実感して浮かれるイッキの前に、彼はふらりと現れた。その少年は画面に表示されたイッキの新記録を見るや、一言。

「――ふっ、チンケな数字だな」

 次の瞬間、まるでダイナマイトが爆発したような轟音が店内に響き渡った。
 パンチングマシーンが筺体ごと宙を舞い、グシャッと音を立てて壁にぶつかる。破壊された筺体に表示された数字は999kg。人類(ホモサピエンス)が出せるような数字ではない。
 唖然とするイッキを少年が振り返り、嘲笑するように唇を歪める。彼こそは()四聖獣、「サイクロプス・ハンマー」の坂東 ミツル。<ベヒーモス>が誇る剛腕ストライカーだった。
 ミツルの挑発にイッキは憮然と鼻を鳴らした。おもむろに隣のパンチングマシーンの前へ移動し、まるでクラウチング・スタートのように床に両手をつく。そして―――、

「フンガッ!!」

 瞬間、A.T.で加速されたイッキのドロップキックが別のパンチングマシーンに炸裂。衝撃でサンドバッグが根元からへし折れ、画面に突き刺さった。

「どうだっ!? アンタのパンチはサンドバッグ一つへし折れなかったけど、俺はこの通り。この勝負、俺の勝ちだ!」

 壊したパンチングマシーンを指差しながら勝ち誇るイッキに、ミツルの額に青筋が浮かぶ。
 その瞬間、二人の間で見えない火花が散った。互いが互いを“敵”と認識し、イッキとミツルの周囲に不穏な空気が漂い―――二人揃ってゲームセンターから叩き出された。
 ゲームセンターから追い出され、イッキとミツルは互いに苦虫を噛みしめたような表情を浮かべて睨み合った。興が殺がれた。これ以上戦う気にはなれない。
 ミツルがくるりと踵を返し、アーケードの脇に停められた一台の自転車へと足を進める。デコチャリだった。名前は「マンモス號」、ミツル自慢の愛車(デコチャリ)である。
 その名の通りマンモスを象った車体のデコレーションはミツルの暴風族(ベヒーモス)としての誇りを表現しており、洗練されたその造形は最早一つの芸術と言える。だが―――、

「……ぬるいな」

 まるでガラクタでも見るような目つきでミツルの自信作(デコチャリ)を一瞥し、イッキが冷たく言い放つ。ぬるい、それがイッキの偽らざる感想だった。
 デコチャリは怪しさと笑いが最優先、それがイッキの持論である。見た目の良さに走ったミツルのデコチャリからは何の信念も哲学も感じられない。故に、ぬるい。
 愛車を酷評され、ミツルがゆっくりとイッキを振り返る。無表情だった。しかしガラス球のような瞳の奥では、憤怒の炎が赤々と燃えている。
 ミツルは怒っていた。彼にとって、素人から愛車(デコチャリ)を馬鹿にされることは許しがたい屈辱だった。

「撤回しろ」

 ミツルは低い声でそう口にした。

「僕の(ハンマー)の頑固な汚れになりたくなければ、その愚かな暴言を今すぐに撤回しろ!」

 拳を握りしめながら脅すミツルに、イッキは中指を立てて答える。

宇宙開闢(ビッグ・バン)からやり直しやがれ! この似非デコチャリストめ」

 この瞬間、二人の確執は決定的なものとなった。ミツルは憤怒の表情で両手にナックル・ダスターを装着し、イッキも挑発的な笑みを浮かべて拳を構える。
 風が吹いた。不気味な静寂が二人の間に舞い降りる。イッキは動かない、ミツルも動かない――否、動けない(・・・・)。どちらかが動いた瞬間、それが開戦の合図(ゴング)となるのだ。
 二人の周囲から音が消えた。極限まで張り詰めた緊張感が不要な情報を感覚から遮断(シャットアウト)する。最早イッキの目にはミツルしか映っていない、ミツルもイッキしか見ていない。
 睨み合いは続いた。静寂が続く、沈黙が続く。だが―――危うい均衡は何の前触れもなく崩れ去った。
 イッキが雄叫びとともに走り出す、ミツルが怒号を上げながら拳を振り上げる。次の瞬間、二人のデコチャリマニアは激突した。



「――あんた達、アホでしょ?」

 話を聞き終え、スバルは呆れた表情でイッキとミツルを見た。その無遠慮な物言いに、イッキが激昂したようにカッと目を見開く。

「スバル。お前は今この瞬間、全国百二十万のデコチャリストを敵に回した! ちょっとそこに正座しろ。今からこの俺様が直々にデコチャリ道の真髄というものをだな―――」

 何か妙なスイッチでも入ったのか、据わった目つきで地面を指差すイッキに、隣のミツルも便乗した。

「そうか君か、アイオーン達のデコチャリを破壊した<小烏丸>の少女というのは。まったく嘆かわしい。この「マンモス號」ほどではないが、あれらもいい物だったというのに」
廃棄(すて)ちまえ、あんなガラクタ!」
「何だと貴様!? ……やはり君とは一度決着をつける必要があるようだな」
「お、第二ラウンドってか? また返り討ちにしてやるぜヘタレ野郎!」
「あーもう! だから喧嘩すんなっての、このウルトラ脳筋馬鹿ども!!」

 再び険悪な空気を漂わせるイッキとミツルに、スバルがうんざりしたような顔で叫んだ。

「――しっかし、お前(ミツル)四聖獣(それ)ならそうと早く言えよな。まぁ敵にこんなこと言うのも変だけど……今夜はお互い全力(ベスト)を尽くそうぜ?」

 それまでの遺恨や確執などまるで何もなかったかのように、イッキは友好的な笑顔でミツルに右手を差し出す。しかし握手を求めるイッキに、ミツルは首を振った

「カラス。君はどうやら今夜のパーツ・ウォウで僕と再戦するのを期待しているようだが、生憎とそれは無理だ。僕は今夜の戦には出ない――いや、出れない(・・・・)からね」
「はぁ? 何だよそれ?」
「今の僕は()四聖獣だ―――つまり、そういうことさ」

 怪訝そうな顔で尋ねるイッキに、ミツルはそう言って寂しげに笑う。そのとき、スバルはミツルの瞳の奥に、悔しさや悲しさとは違う何か別の感情を見たような気がした。
 かつて<ベヒーモス>―――否、暴風族No.1(さいきょう)のハードパンチャーと謳われた男、「サイクロプス・ハンマー」の坂東 ミツル。
 常人の七倍の筋密度を持つ「ミオスタチン関連筋肉肥大」という特異体質であり、“天からの贈り物(ギフト)”とも称されるその人間離れした打撃(パンチ)は一撃でコンクリートをも粉砕する。
 彼の筋肉を破れるのは同じ体質である宇童 アキラただ一人だけ、誰もがそう信じて疑わなかった。二ヶ月前、ミツルに替わる新たな四聖獣が誕生するまでは。
 ミツルを倒し、新しく<ベヒーモス>四強に選ばれたのは屈強な大男―――ではない。寧ろその逆、宇童の傍らに立つ新たな獣は、まだあどけない華奢な少女だった。

彼女(・・)は強い、心も体もね。彼女と宇童さんは言わば比翼の鳥、最強の“矛”と“盾”なのさ。僕と相討った程度であまり調子に乗らないことだな」
「その人って……」

 スバルの脳裏を一人の少女がよぎった。宇童の傍らに寄り添う、儚げで、しかし苛烈なる本性を秘めた一匹の麒麟(ケダモノ)。ミツルはゆっくりと口を開き、その名を口にした。

「「麒麟の蹄(ユニコーン・ギャロップ)」の李 蓮花。<.ベヒーモス>1035人の中で最も宇童さんに近しく、そして唯一、あの人を倒せる(・・・)“天敵”だ」

 その瞬間、一陣の風が三人の間を吹き抜けた。イッキも、スバルも何も言わない。ミツルも口を閉ざし、静寂の中をただ時間だけが過ぎていく。

「……どうした。怖気づいたか?」

 沈黙を破り、最初に口を開いたのはミツルだった。挑発めいたミツルの問いに、スバルは「まさか」と鼻で笑う。
 イッキがそんな臆病者(タマ)ではないことは、直接拳を交えた(ミツル)自身が一番よく分かっているだろうに。

「きっと興奮(ワクワク)して言葉も忘れちゃったのよ、こいつ(イッキ)。一体どんな凄い化け物(ライダー)なんだろう、って」

 言いながら、スバルはイッキの表情を横目で窺い―――即刻、後悔した。ギラギラと光る双眸、獰猛に吊り上がった口元。まるで悪魔のように凶悪な顔が、そこにあった。
 思わず身震いするスバルとは対照的に、ミツルは満足そうに微笑しながらイッキを見る。それでこそ自分(このボク)が認めた宿命のライバルというものだ。

「カラス、君は僕の筋肉を破った三人目の男だ。こんなことを頼める立場じゃないことは承知しているが、聞いて欲しい頼み(こと)がある」
「何だ? 八百長試合(イカサマ)しろなんて言ったらぶっ飛ばすぞ?」
「いや、寧ろその逆だ。<ベヒーモス>を―――宇童さん達を徹底的に叩き潰して(・・・・・)欲しい」

 ミツルの言葉に、イッキ達は虚を衝かれたように目を瞬かせた。元四聖獣の科白とは思えない。困惑するイッキとスバルを眺めながら、ミツルは過去の記憶を振り返る。
 今でこそ千人以上の規模を誇る<ベヒーモス>だが、最初は<小烏丸>と同じ、たった五人だけのチームだった。ミツルはその最初期のメンバーの一人である。
 今では伝説とまで言われている二年前の宇童と咢の戦。当時「牙の王」として地下闘技場(アンダー・コロッセオ)の主として君臨していた咢を、無名のライダーに過ぎない宇童が倒した。
 その瞬間を、ミツルは地下闘技場に集った観衆の一人として目撃した。そして憧れた、自分もあのように強く気高くありたいと。
 時が経ち、宇童が“ある目的”のために自らのチームを創ることを決意した時、ミツルは真っ先にその一員として名乗りを上げた。「サイクロプス・ハンマー」の誕生である。
 それからずっと、ミツルは「(キューブ)」の中で宇童とともに戦い続けてきた。「エア(Cクラス)」には行ったことがないし、行く必要もないと思っていた。
 しかし(ユニコーン)に敗れ、「檻」の中から追放されたとき、初めて見えたものがあった。だからこそミツルは探し続けるのだ、宇童を「檻」から救い出して(・・・・・)くれる“誰か”の存在を。

「あの人を―――」

 そこでミツルの言葉が唐突に途切れた。口が――否、身体中がまるで金縛りにでもかかったようにぴくりとも動かない。それはイッキやスバルも同様だった。
 コツリ、とアーケードに足音が響き渡った。一歩ずつイッキ達へ近づく足音に合わせて、A.T.特有のモーター音がキュンキュンと聞こえてくる。

「余計なことは言わないでいいね、「ハンマー」。どうせ<小烏丸(かれら)>が我々(ベヒーモス)に勝つなんてあり得ない。」

 冷たい、冴え冴えとした声がイッキ達の耳朶を打つ。甲高い足音をアーケードに響かせ、人垣の中から一人の少女が三人の前に姿を現わした。
 一見どこにでもいる普通の少女のように思える。ただ一箇所だけ、ジーンズの裾の下から覗く彼女の右足が、鈍色に輝く鋼鉄の義足であることを除けば。

「「麒麟の蹄(ユニコーン・ギャロップ)」、李 蓮花……!」

 ミツルが苦々しそうな声で唸る。今、理解した。自分達はこの女の殺気に()てられて身体の動きを封じられていたのだ。
 人形のように立ち尽くすイッキとスバルを一瞥し、蓮は無言で踵を返す。遠ざかる蓮の背中に、スバルが「待って」と呼びかけようとした。だが声が出ない、身体も動かない。
 スバルは歯噛みしながら両足のA.T.を見下ろし、精神を集中した。A.T.の足甲部にある宝石が煌めき、宙空に空色の光球が出現する。
 次の瞬間、発生した魔力弾がスバルの胸を撃ち抜いた。死にそうなほどの激痛が全身を走り、スバルは思わず呻き声を漏らす。だが、そのショックで動けるようになった(・・・・・・・・・)

「待って!」

 スバルは今度は声に出して叫んだ。A.T.を走らせ、人垣を飛び越えて蓮の正面に回り込む。

「何か用?」

 蓮は冷ややかな声でスバルに尋ねた。威圧するような蓮の眼光に、スバルは思わず「う」とたじろぐ。

「いや、その、そう言えばまだちゃんとお礼を言ってなかったなぁ~って思って。この間は助けてくれてありがとうございましたっ」

 そう言って頭を下げるスバルを見下ろし、蓮は「あ」と声を漏らした。正確には蓮の視線はスバル本人ではなく、その両足のA.T.に固定されている。

「……それ、貴女が使うことにしたんだ?」

 蓮の言葉に、スバルは「え」と呟きながら足元を見下ろした。宇童から預かった“魔導の玉璽(レガリア)”、蓮はこのことを言っているのだろう。

「あの……やっぱり着服しちゃうのは拙かったですか?」
「それ当たり前のことだって、自分で言ってて気づかない?」

 容赦のない蓮の科白(ツッコミ)にスバルは「う」と言葉を詰まらせる。あまりにも正論すぎてぐぅの音も出ない。蓮は呆れたように嘆息を漏らし、淡々とした声でスバルに話しかけた。

以前(まえ)にアキラが言ってた。玉璽(レガリア)はただの部品(パーツ)じゃない、その持ち主を自ら選ぶって……その玉璽は、貴女によく似合ってるよ」

 スバルは思わず目を瞬かせた。実は“これ”は「魔法の靴(デバイス)」でA.T.とは別物だという些細な指摘(ツッコミ)は置いておくとして―――要するに認めて貰えたということだろうか?
 蓮が再びA.T.を走らせ、スバルの横を通り過ぎた。遠ざかる蓮の背中を振り返り、スバルは「あの」と声を張り上げる。

「あたし達、絶対に負けませんから! 今夜の(バトル)、<小烏丸>は全力で、<ベヒーモス(あなたたち)>をブッ殺させて頂きます!!」

 アーケード中に響き渡るスバルの宣戦布告に、蓮は一瞬足を止め、しかし結局振り返ることなく走り去った。






 そして遂に、満月の夜はやって来た。暴風族<ベヒーモス>の本拠地(メイン・バトルフィールド)地下闘技場(アンダー・コロッセオ)には無数の観客が集まり、(バトル)の開始を今か今かと待ちわびている。

「な、何だよこりゃ……!?」
「ざっと五百、いや六百人はいるね……!」

 きょろきょろと落ち着きなく周囲を見渡すカズやブッチャ達の姿に、咢は忌々しそうに舌打ちする。馬鹿どもが、始める前から呑まれて(・・・・)やがる。
 そのとき、六百人以上もの群衆を前にただ一人だけ平然としていたイッキが、おもむろに声を張り上げた。

「コ・ガ・ラ・ス・マルゥウウウウウウウウウウウウッ!!」

 地下闘技場全体に響き渡るイッキの怒号に、カズ達が「はっ」と我に返る。鼓膜が破れそうなほどの馬鹿声に、恐怖や緊張などどこかへ吹っ飛んでしまった。
 イッキが雄叫びとともに走り出した。先陣を切って疾走するイッキに、カズ、オニギリ、ブッチャ、そして咢が続く。

「「「「「ブッ殺!!」」」」」

 勇ましく響くイッキ達の声を、スバルは一人、観客席にぽつんと座って聞いていた。

「……あれ?」



 ――To be continued



[11310] Trick:25
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/04/01 18:20
 地下闘技場(アンダー・コロッセオ)最深部、第五戦場(キューブ)。四方をコンクリートの壁で囲まれた「(キューブ)」の中で、二人は静かに対峙していた。

「……よぉ、アキラ。決着つけようぜ?」

 どこか親しげな調子で声をかける咢に、壁に寄り掛かって目を瞑っていた赤髪の青年、宇童 アキラがゆっくりと瞼を開く。

「賭けろよ、二年もテメエに預けてた(・・・・)物を……返して貰うぜ」

 そう言いながら、まるで獣のように身構える咢に、宇童も壁から背中を離して受けて立つ。

「――その八人の「王」の証、“牙の玉璽(レガリア)”をな!!」

 冷たい「檻」の中に咢の怒号が反響し、「牙の王(ブラッディ・ロード)」の名を賭けた運命の(バトル)が始まった。



 地下闘技場(アンダー・コロッセオ)――元は下水処理場だったこの巨大施設は、枝分かれした水路の奥に(バトル)用の個室(キューブ)を持つという一種の“あみだくじ”のような構造になっている。
 途中の分岐で別れたカズ、オニギリ、ブッチャも、それぞれの戦場で既に自分の戦いを始めていた。そして、この男も……。
 第四戦場、宇童と咢が戦う第五ステージのちょうど真下にあたるこの戦場で、イッキは“彼女(てき)”と対峙していた。
 壁に背を預け、ヘッドホンに繋いだ携帯音楽プレイヤーで音楽を聴く一人の少女。左足にはハイヒール型のA.T.を履き、右足は太腿から下に義足を装着している。
 四聖獣の一人、「麒麟の蹄(ユニコーン・ギャロップ)」の李 蓮花。それが彼女の名前だった。

「……よぉ、テメエが俺の相手か」

 馴れ馴れしい口調で話しかけるイッキに、蓮はヘッドホンを外し、刃物のように鋭い眼差しを向ける。
 蓮の眼光を受け、イッキは再認識した。この女はただの小娘ではない、<ベヒーモス>1034人の頂点に立つ四聖獣の一人なのだ―――だが相手にとって不足はない。
 蓮が緩慢な動作で拳を持ち上げ、まるで中国拳法のような構えをとる。来るか、と身構えるイッキの予想通り、蓮は動いた。
 床を踏みしめ、ホイールを唸らせて急加速。トップスピードでイッキの懐に潜り込み、蓮は拳を突き出した。
 鋭い。矢のように迫る蓮の拳を見下ろし、イッキは素直にそう思った。急所を狙う速く正確な一撃、スバルの“拳法モドキ”とは大違いである―――が、それだけ(・・・・)だ。
 イッキは身を捻って蓮の拳を躱し、すれ違い際に反撃(カウンター)の肘鉄を放った。動きが正直すぎて簡単に読める、自分(このオレ)の敵ではない。
 蓮はイッキの肘鉄を掌で捌き、流れるような動きで回し蹴りを繰り出した。イッキ両腕を交差して蓮の蹴りを受け止める。
 イッキは受け止めた蓮の片足を押し返しながら、交差した両腕を左右に開いた。そしてバランスを崩した蓮の懐に一歩踏み込み、間髪いれずに正拳突きを繰り出す。
 放たれたイッキの拳を蓮は片手でいなし、その反動でイッキから離れた。最初の衝突は互いに決定打を欠いたまま終わり、重なり合った二人の影が再び分かれる。
 甲高いブレーキ音を響かせながら方向転換し、イッキは舌打ちした。最強の“盾”か、ミツルの言葉がイッキの脳裏に蘇る。確かに“守り”だけは一流(ピカイチ)らしい。
 蓮が右足を引きずりながらゆっくりと振り向いた。まるで井戸の底のような暗い瞳がイッキを見返す。胸糞悪い、イッキは不愉快そうに唾を吐き捨てた。

「アンタさぁ、もしかして“空”飛んだことねぇんじゃねぇの?」

 油断なく拳を構えたまま、イッキは蓮に尋ねた。今の彼女と同じ眼を何度か見たことがある、宇童 アキラと―――昔の咢である。
 咢は強い、“走り”の速さも技の鋭さも自分達とは次元が違う。「王」の名は伊達ではないということだろう。
 だが初めて会った頃から、イッキは咢が楽しそうに(・・・・・)走る姿を見たことがなかった。
 手当たり次第に牙を突き立てるばかりで、咢は決して笑わない。時折浮かべる嗜虐的な笑顔は、イッキには泣き顔にしか見えなかった。
 ひきこもりの井戸ガエル、かつて初対面の咢をイッキはそう評した。宇童や蓮はあの頃の咢と同じ顔をしている。“空”を知らない、辛気臭い井戸ガエルの顔を。

「……わたしが飛んでない? そんなことない、わたしはちゃんと飛んでる」

 イッキの問いに、蓮は不愉快そうに顔を歪めながら答えた。

「この鳥籠(キューブ)こそがわたしの“空”。それ以外、何もいらない。自由? 道? そんなもの全部、どうでもいい」

 蓮の言葉に、イッキは面倒くさそうに溜息を吐く。どうやらこいつは想像以上に重症らしい。

「――ったくよぉ、どいつもこいつも……せっかく“翼”を持ってんのに、何でまたわざわざ穴蔵に閉じ籠ろうとするかね?」

 呆れ交じりに呟くイッキに、蓮が怪訝そうに首を傾げる。その様子に、イッキは大仰に肩を竦めた。まったくもって度し難い。
 イッキには理解できなかった。ブッチャも、咢も、今まで出会った強敵達は揃いも揃って、暗い井戸の底に自ら引きこもろうとする。
 ここはもう井戸の底ではないというのに。ほんの少し顔を上げれば、そこには無限の空(じゆう)が拡がっているというのに。

「創ってやるぜ。俺が、このカビ臭ぇ檻の中(キューブ)に“空”をな!」

 そう言いながら、イッキは身体の前で円を描くようにゆっくりと腕を回した。思い出すのは三日前の(バトル)。風を操り、人の手で竜巻を起こしてみせた空の姿。

「魅せてやるぜ、「風の道」!!」

 イッキは怒号とともに虚空を蹴った。だが、何も起こらない。「あれ?」と首を傾げるイッキの横面に、隙を衝いて放たれた蓮の掌打が突き刺さった。
 よろめくイッキに蓮が肉薄し、追い討ちをかけるように乱打を繰り出す。雨のように放たれる蓮の拳を避けながら、イッキは再び風の技を試みた。だが、やはり何も起こらない。

「何でだよ、どうして何も起きないんだよ!?」

 イッキは逆上したように喚き散らした。何故だ、どうして竜巻を撃てない。三日前(あのとき)は確かに撃てたのに、空と同じように“奇跡”を起こしたのに!
 あれ? 不意にイッキは首を傾げた。そもそもあの時、自分(オレ)どうやって(・・・・・)あの竜巻を撃った?
 思い出せない。風を掴む感触も、その時の興奮も。まるで全てが夢の中の出来事だったかのように今では全く実感が湧かない。

「……奇跡なんて、起きない」

 蓮は冷たい声で呟きながら腰を落とした。右の太腿から下に装着した機械仕掛けの義足がキィと耳障りな音を立てて軋む。
 末端神経に接続し、生身とほぼ同じ動きを実現する新発想のA.T.義足。蓮はある(・・)伝手(コネ)からその試作品(プロトタイプ)の被験者になった。強くなりたかった、そのために脚まで切り落としたのだ。
 新しい足を手に入れたことで、蓮はただ守られるだけの無力な存在から、自らも何かを守るために戦う戦士へと生まれ変わった。
 A.T.と中国拳法を組み合わせた独特の戦闘スタイルは、蓮が血のにじむ努力の果てに手に入れた強さ(つばさ)である。奇跡などという曖昧なものにすがる弱い(・・)輩に、負ける筈がない。
 蓮は右足を引き、踵を軽く浮かせた。その動作を合図(トリガー)に、ハイヒール型のA.T.義足、その踵の(ニードル)が内部へ引っ込む。
 蓮の背後に技影(シャドウ)が顕現した。神々しい一本角の獣、麒麟(ユニコーン)の技影を背負い、一本の矢のようにイッキへ突進する。
 イッキも自ら前に踏み出し、先手必勝とばかりに拳を繰り出した。イッキの先制攻撃を躱し、蓮は床面を踏みしめて中段突きを放つ。
 パワーがどうとか、間合いや速度や防御能力がどうとか、自分と相手のどちらが強かろうか、そんなものは全部関係ない。ただ一点を―――貫く!

 ――A.T.殺法・麒麟蹄崩拳!!

 瞬間、義足に収納されていた(ニードル)が再び外へ撃ち出され、コンクリートの床を砕いた。「パイルバンカー」と呼ばれる近接武装、蓮自身は“蹄”と呼ぶ奥の手(・・・)である。
 A.T.機構によって高速射出された杭が床面を打ち、その反動で蓮は瞬間的に加速。限界を超えたスピードでイッキに身体ごとぶつかる。
 直後、これまで感じたことのない、まるで身体が内側から爆発したような衝撃がイッキを襲う。真っ赤な血が苦悶の声とともに口から零れ、イッキの身体が床へ崩れ落ちる。
 浸透勁――衝撃を体内(なか)に浸透させ、内臓を直接撃ち抜く打撃。それが蓮が撃った技の正体である。如何に強靭な筋肉に覆われていても、この技の前には無意味だった。
 寧ろ常人の数倍もの密度の筋肉を持つ宇童やミツルは、人間離れした“硬い”肉体であるが故に衝撃もより内部へ伝わりやすい。
 その身を波に削られいずれ砕け散る岩のように、人間も硬い時ほど、硬い肉体ほど壊れやすい。彼らにとって、蓮はまさに“天敵”なのである。
 蓮はイッキを見下ろした。床に倒れ伏したまま起き上がる気配がない――否、起き上がれる筈がない。
 鍛えようがない内臓を直接撃ち抜いたのだ。故に一撃必倒、この技を受けて立ち上がれる者などいる筈がない。これまでも、そしてこれからも。
 蓮は興味が失せたようにイッキから顔を背け、くるりと踵を返した。決着はついた、蓮の胸には絶対の確信があった。だが次の瞬間、蓮の確信は覆された。

「……待てよ」

 背中にかけられた低い声に、蓮は驚愕の表情で背後を振り返る。イッキが立ち上がっていた。
 撃たれた腹部を片手で押さえ、苦しそうに顔を歪めながら、しかし眼だけは毅然として蓮を睨みつけている。
 本人は自覚していないが、蓮に撃たれた瞬間、イッキは全身の筋肉全てを弛緩させ、関節の全てを開く(・・)ことで、打撃の衝撃を全身で吸収・分散したのである。

「ちょっとだけ驚いた。麒麟(わたし)の“蹄”は一撃必倒、立ち上がったのは貴方が初めて」

 素直に称賛の言葉を口にしながら、蓮は再び構え直した。イッキも迎え撃つように拳を構える。(バトル)はまだ、終わりそうになかった。






「よしっ、そこだ、やっちゃえカズ君! 頑張れブッチャ君超頑張れ、君ならきっとできる! オイこら、そこのエロブタ! もっと真面目に試合しやがれ!!」

 観客席から身を乗り出し、スバルは画面(モニター)に映し出された中継映像を見ながら力の限りに檄を飛ばしていた。
 地下闘技場を埋め尽くす観衆の殆どは<ベヒーモス>の構成員(メンバー)かその熱狂的な信奉者(ファン)、いわば敵陣のど真ん中にいるというにも、スバルは全く遠慮しない。
 戦直前の最終選考で、スバルは試合(パーツ・ウォウ)のメンバーから外されてしまった。だからこそ、イッキ達が自分の分まで戦っているからこそ、スバルは全力で<小烏丸(かれら)>を応援するのである。
 そのとき、見知った誰かの気配を背中に感じ、スバルは背後を振り返った。長い銀色の髪に空色の瞳の美女、シムカがすぐ傍まで来ていた。

「シムカさんっ!」

 満面の笑みで声をかけるスバルに、シムカも微笑しながら掌を振る。

「スバルちゃん、今回は見学なんだ?」
「はい、まぁ……じゃんけんに負けちゃって」

 何気ない口調で尋ねるスバルに、スバルは恥ずかしそうに頭を掻く。そのとき、スバルはシムカの左右は別の二つの人影があることに気づいた。
 一人はまるで燃え上がる炎のような髪型をした長身の青年である。もう一人は仮面で顔を隠し、男か女かも分からない。どちらも見覚えのないライダーだった。

「紹介するわね。こっちのでっかいのは私の昔からの友達で「炎の王」のスピット・ファイア」
「君のことは彼女(シムカ)や空からよく聞いてるよ。よろしく、スバルちゃん」

 シムカの紹介を受け、“燃え頭”の青年――スピット・ファイアがにこやかに笑いかけながらスバルに握手を求める。
 差し出されたスピット・ファイアの大きな掌を、スバルは訳も分からぬまま取り敢えず握り返した。

「そしてこっちのちっこいのは「雷の王」の鵺君」
「どーも」

 仮面の男。鵺が気だるげな挨拶とともに仮面を外す。黒光りする仮面の下から現れた顔は、スバルよりも少し年上――ちょうど姉と同年代だろうか――の少年だった。

「私達もカラス君達の試合を観に来たんだけど、もうどこの席も空いてなくて困ってたところなの。ここで一緒に観戦してもいいかな?」

 シムカの問いに「どうぞ」と頷き、スバルは画面(モニター)に視線を戻す。そう言えば一緒に観戦していたリンゴの姿が見当たらない。しかし今のスバルにはどうでもいいことだった。
 画面の中で戦うイッキ達の状況は芳しくない。カズが戦う第二戦場、ブッチャが戦う第三戦場では、それぞれ<小烏丸>側の敗北という形で既に決着がついている。
 五対五の戦形式であるパーツ・ウォウでは、あと一人、誰か一人でも負ければ<小烏丸>の敗北が確定してしまう。だが残るイッキも咢も苦戦し、オニギリなど論外である。

「やはり苦戦してるようだね、ベビーフェイス。大番狂わせは難しいか」

 イッキと蓮の戦の実況映像を見上げ、スピット・ファイアが顎先を撫でながら口を開いた。スピット・ファイアの呟きに、鵺が同意するように首肯する。

「ま、当然の展開だろうな。宇童は言わずもがな、四聖獣の面々だってそれぞれが一騎当千の精鋭だ。Fクラスのコガラスどもが敵う相手じゃねーよ」

 歯に衣着せぬ鵺の物言いに、スバルの頭に一瞬で血が昇る。そんなことない、彼らがこれで終わる筈がない! 激情に駆られるまま、スバルが反論しようと口を開きかけた刹那―――、

「――そんなことない。いい戦だと思うよ?」

 スバルよりも一瞬早く、鵺の言葉を否定する声があった。シムカである。スバルは弾かれたようにシムカを振り返った。

「確かにカラス君達はまだまだ雛鳥(みじゅく)で、力も技も“超獣”には全然及ばないわ。でも、そんな彼らがあの四聖獣を“本気”にさせた。それって凄いことだと思わない?」

 シムカの問いかけにスピット・ファイアは微笑しながら頷き、逆に鵺は憮然と鼻を鳴らした。
 ヘカトンケイルも、アイオーンも、己の実力を誇示するために“本気”を魅せたのではない。出さざるを得なかった(・・・・・・・・・・)のである。
 全力で殺らなければ自分が殺られる、それほどまでに四聖獣は追い詰められていた。<小烏丸>の底力は確かに驚嘆に値するだろう。
 それに、とシムカは言葉を続けた。だがそのとき、シムカの声を遮るように凛とした声が地下闘技場(アンダー・コロッセオ)に響き渡った。

「その戦、待って下さい!!」

 瞬間、スバルの頭上を黒い影が鳥のように横切り、軽やかな着地音とともに何者かが観衆の前に降り立つ。
 スバルは思わず息を呑んだ。いつか見たスク水シルクハットに仮面でマントな変態女、ウメが扮した偽者ではない。彼女の名は―――、

「<小烏丸>の助っ人、クロワッサン仮面参上!」

 黒いマントを大きく翻し、スク水痴女ことクロワッサン仮面は高らかに名乗りを上げた。

「見ての通り、オニギリ君はA.T.を片方履いていません! よってパーツ・ウォウ共通規約に従い今までの(バトル)を無効、わたしとの交替を申請します!!」

 オニギリとゴーゴンの戦を映す画面を指差しながら叫ぶクロワッサン仮面の言葉に、観客席にどよめきが起こった。
 パーツ・ウォウ共通規約による選手交替。もしも実現したとすれば、それは半裸女(ゴーゴン)スク水女(クロワッサン仮面)、二大裸女による直接対決の始まりを意味する。
 次の瞬間、地下闘技場は野太い歓声に包まれた。性欲を持て余す男達が世紀の痴女対決を期待し、雄叫びを上げているのである。

「……何それ?」

 スバルは愕然と呟いた。パーツ・ウォウ共通規約? 戦が無効? そんな横暴が許されていいのか、そんなもの(・・・・・)のために今までの戦い(がんばり)が全部無駄になっていいのか?

「駄目、そんなの許さない」
「……スバルちゃん?」

 低い声で呟くスバルに、シムカが戸惑いがちに声をかける。だがスバルは気づかない。まるで“敵”を見るような刺々しい眼差しで、スバルはクロワッサン仮面を睨みつける。
 否――今のスバルにとって、クロワッサン仮面は紛れもない“敵”だった。突然現われ、訳の分からない言いがかりをつけてイッキ達の戦を台無しにしようとする“敵”である。
 スバルは<小烏丸>のジャケットを羽織った。イッキ達は自分の分まで今も戦っている。ならば自分は、彼らの戦いを守るために戦う義務がある。

「イッキ帝国奴隷六号、スバル・ナカジマ。イッキ達の戦いの邪魔はさせない!」

 勇ましい名乗りを地下闘技場に響かせながら、スバルが鉄砲玉のように観客席から飛び出す。試合開始から17分53秒。<小烏丸>最後の一人、スバルの戦いが始まった。



 ――To be continued



[11310] Trick:26
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/03/05 22:18
 リンゴは鞄を小脇に抱え、薄暗い通路を走っていた。トイレの個室に駆け込んで鍵をかけ、鞄を床に置いておもむろにジッパーを下ろす。
 もしかすれば、と思って黙って戦を観ていたが、やはり<小烏丸>と<ベヒーモス>の実力差は歴然としていた。
 第三戦場(ステージ)、「ヘカトンケイル・ボム」五所瓦 風明と戦うブッチャは、「(キューブ)」入口の下水管(パイプ)内で待ち伏せする敵の奇襲を力技で返し、続く必殺の「殺人蜂百の手(キラービー・ハンドレッド)」をも凌いだ。
 しかしヘカトンケイルの関節技(サブミッション)によってブッチャは空中に吊り上げられ、200kg以上もの自らの体重が仇となって締め落とされた、
 一方「時の支配者(アイオーン・クロック)」左 安良を相手にするカズは、熱による光の屈折を利用して姿を消す敵の手品(トリック)を見破るも、本気を出したアイオーンの超高速の“走り”の前に敗れた。
 残るはイッキと咢、そしてオニギリの三人だけである。この中の一人が負けた瞬間、<小烏丸>の敗北が確定してしまう。
 しかし「石化の盾(ゴーゴン・シェル)」美作 涼も、とてもオニギリが太刀打ちできる相手ではない。<小烏丸>が勝つためには、やはり―――自分(わたし)が戦うしかない。
 リンゴは服を全て脱ぎ、鞄の中から取り出したスクール水着を身に着けた。蝶々仮面(パピヨンマスク)とカツラを被り、マントを羽織り、A.T.の踵からメモリースティックを抜き取る。
 仕上げにシルクハットを頭に被り、“変身”は完了した。今や彼女は野山野 リンゴではない。神出鬼没な<小烏丸>の助っ人、クロワッサン仮面である。

「その戦、待って下さい!!」

 再び観客席に戻り、リンゴ――クロワッサン仮面は声を張り上げた。第一戦場、オニギリとゴーゴンの戦の実況映像を指差しながら、クロワッサン仮面は叫ぶ。

「見ての通り、オニギリ君はA.T.を片方履いていません! よってパーツ・ウォウ共通規約に従い今までの(バトル)を無効、わたしとの交替を申請します!!」

 ――パーツ・ウォウ共通規約(ルール):不慮の事故や攻撃以外のダメージによりA.T.が破損または消失し、A.T.の装着が不可能になった者に限り、補充員らとの交替を認める。

 オニギリはいつも片方のA.T.を頭に乗せて走っている、それは強引に言い換えれば「A.T. の片方を履いていない」とも主張できるのではないか。
 その瞬間、地下闘技場にどよめきが起こった。クロワッサン仮面、<小烏丸>に味方する謎の凄腕ライダーの噂は、少しでも<小烏丸>を知る者なら誰でも知っている。
 美女と野獣の一方的な“狩り”よりも、女同士の戦いの方が見応えがある。それも両方とも一流の実力者(トップライダー)であるならば、尚更だった。

「「「「「「スク水仮面! スク水仮面! スク水仮面!!」」」」」」

 困惑の声はいつしか歓声に変わり、会場全体がクロワッサン仮面コールで包まれる。彼女の参戦に異議を唱える者など、この場には誰もいない―――かに思われた。

「ちょっと待ったぁっ!!」

 湧き立つ歓声を切り裂くように甲高い怒号が地下闘技場(アンダー・コロッセオ)に響き渡り、小さな黒い影がクロワッサン仮面の前に躍り出た。<小烏丸>最後の一人、スバルである。

「イッキ帝国奴隷六号、スバル・ナカジマ。イッキ達の戦いの邪魔はさせない!」

 驚愕を表情で佇むクロワッサン仮面に指を突きつけ、スバルは勇ましく啖呵を切る。次の瞬間、凄まじい野次(ブーイング)の嵐がスバルを襲った。

「引っ込め、クソガキ!」
「ここは子供(ガキ)の遊び場じゃねぇぞ!?」
「クソして寝ろ!!」

 好き勝手に野次を飛ばす観衆を見渡し、スバルは一喝した。

「うっさい! 黙ってろ外野!!」

 スバルの怒声に、会場はしんと静まり返った。驚くべきことに、地下闘技場に集った千人以上の暴風族を、スバルはたった一人で、ただの一声で圧倒してみせたのである。
 満足そうな顔で頷くスバルを見下ろし、クロワッサン仮面は苦々しそうに表情を歪めた。
 あの忌々しい“渡り鳥”のシムカや、他の<ベヒーモス>側のライダーからの妨害は覚悟していたが、よりにもよってスバルが邪魔してくるとは思わなかった。

「……どういうつもり? スバルちゃん」

 硬い声音で問うクロワッサン仮面に、スバルは憮然と鼻を鳴らす。

「別に? 寧ろあたしの方が訊きたいくらいよ。下らない言いがかりをつけて(バトル)に横槍入れようとして、あんた一体何様のつもり?」

 威嚇するような刺々しい声で問い返すスバルに、クロワッサン仮面は思わず息を呑んだ。馬鹿な、自分(このわたし)がこんな少女一人に気圧されている?

「わ、わたしは<小烏丸>の助っ人、クロワッサン仮面。彼らの危機を見過ごす訳にはいきません!」
「そんな手助け(おせっかい)、一回でも一言でもイッキ達があんたに頼んだの? (バトル)を引っ掻き回すのもいい加減にして。<小烏丸(あたしたち)>はあんたの所有物(おもちゃ)じゃない!」

 毅然とした表情で言い放つスバルに、クロワッサン仮面は歯噛みする。どうして解ってくれないのだろう。自分はただ、イッキを勝たせてやりたいだけなのに。

「じゃあ貴女は、<小烏丸(かれら)>がこのまま負けてもいいの?」
「――何ですって?」

 棘のある声で尋ねるクロワッサン仮面に、スバルは思わず訊き返した。今、この女は何と言った? 剣呑な目つきで睨むスバルを負けじと見つめ返し、クロワッサン仮面は続ける。

「このままでは<小烏丸>は確実に敗北します。今、彼らが本当に必要としているのは、貴女が檻の外(こんなところ)で下らない意地を張ることじゃなくて確実な“一勝”でしょう?」

 畳みかけるように続くクロワッサン仮面の科白に、スバルの顔に鬼相が走る。怒りのあまりに声も出なかった。
 確かに自分もイッキ達に勝って欲しい。しかし他人の力を借りて手に入れた勝利に果たして意味があるのか? そこに暴風族としての“誇り”はあるのか?
 押しつけられた善意(しょうり)など害悪(めいわく)と変わらない。そうまでして、イッキ達は勝ちたいと思うだろうか。少なくともスバルには思えなかった。
 憤悶とするスバルの神経を逆撫でするように、そのときクロワッサン仮面が“決定的な一言”を口にした。

「貴女も<小烏丸>の一員なら、イッキ達に勝って欲しいなら、わたしを信じてそこをどいて!」

 その瞬間、スバルの中で何かが切れた。言うに事欠いて「信じてくれ」? ふざけるな、自分はイッキ達のことを欠片も信じていないくせに!
 クロワッサン仮面の言葉は、スバルの中の超弩級(とびっきり)の地雷を踏み抜いた。感情の昂りでスバルの瞳が金色に変わり、背後に技影(シャドウ)が顕現する。

「……これ以上の話し合いは無意味みたいですね」

 クロワッサン仮面は落胆の息を吐いた。その背後には神々しい戦乙女(ヴァルキュリア)の技影、「荊の女王(クレイジー・アップル)」が顕現している。
 ここは戦の聖地、アンダー・コロッセオ。この地で求める物があるのならば、戦って手に入れるしかない。
 それは信念の相違による悲しいすれ違いだった。勝たなければ意味がないと考えるクロワッサン仮面と、他人の力で勝っても意味がないと考えるスバル。
 二人の主張はどちらも正しく、それ故に二人とも自らの信念(みち)を曲げる訳にはいかなかった。譲れない思いと思いがぶつかり合い、今、壮絶な戦いが始まる。

 スバルが腰を落とし、拳をゆっくりと持ち上げた。無駄のない、敵に打ち込むために最適なその構えは、彼女に武道の心得があることを窺わせる。
 シューティング・アーツ、生前の母から基礎だけ習った格闘技である。如何なる魔法も攻撃も潜り抜け、敵の急所に必倒の一撃を叩き込む。それがS.A.(シューティング・アーツ)の極意だった。
 最低限の動きしか教わっていないスバルは、S.A.の技も基礎の基礎しか使えない。それでも母の教えはよく憶えている。幼い頃は意味が解らなかったが、今なら解る。
 S.A.は活人拳。この拳は何かを壊したり、誰かを傷つけたりするためにあるものではない。大切な何かを守るために戦う時、S.A.は無敵なのだ。

 油断なく構えるスバルと対峙し、クロワッサン仮面は大きく深呼吸した。尋常でない、大量の空気が肺の中に取り込まれ、途轍もない圧力をかける。
 気圧が高まると空気は急速に体内に溶けていき、その量は地上の三倍以上にもなる。
 体内に取り込まれた大量の酸素は脳や筋肉を活性化して関節を柔らかくし、限界まで体内に吸収された窒素はほんの少しの減圧で一気に結合。身体中に窒素の泡が発生する。
 それは想像を絶する激痛だった。全身に、特に泡ができやすい関節(すきま)に走る死にそうなほどの激痛に、クロワッサン仮面の口から呻き声が漏れる。
 しかし窒素でできた天然のエア・クッションを挟んだ関節群は、その限界可動域をやすやすと越え、“人”の動きをすらも超える。
 そのしなやかな肉体と、股関節を基点とする独特の体術が組み合わさった時、彼女は一本の“鞭”になる。それが―――、

 ――「荊棘の道(ソニアロード)」!!

 最初に動いたのはクロワッサン仮面だった。股関節の可動域の限界を超えて放たれた回し蹴りが大気密度を変え、局所的に真空状態を作り出す。
 宙空に穿たれた真空の穴に風が入り込み、音速を超えて衝撃波(ソニック・ブーム)を生み出す。蛾媚刺の「無限の空(インフィニティ・アトモスフィア)」を“角”、咢の技を“牙”と呼ぶならば、それは“棘”だった。
 放たれた無数の“棘”が真横を掠め、スバルの頬に一本の赤い筋が走った。白い肌はまるでカミソリで切りつけられたようにぱっくりと裂け、傷口から血の雫が滴り落ちる。

「今のは警告です。次は手加減なしで撃ちます」

 呆然と佇むスバルを冷然と見据え、クロワッサン仮面が威圧するように言い放った。
 何だかんだと言いながら、一ヶ月近い時間を同じ屋根の下で過ごした“家族”である。むやみに痛めつけるような真似は避けたかった。
 しかしクロワッサン仮面の淡い期待を打ち砕くように、スバルは「べー」と舌を出した。相手の思惑がどこにあろうと、彼女にとってはただの“敵”の脅しに過ぎないのだ。

「い、いいんですか!? 今度は本当に当てますよ!?」
「やれるものならやってみれば? その技は既に見切った!」

 再度警告するクロワッサン仮面に、スバルは挑発するように中指を立てた。その不遜な態度に、クロワッサン仮面は苛立たしげに顔を歪めた。その傲慢(おもいあがり)、後悔させてやる!
 クロワッサン仮面が再び“棘”を放った。刹那、スバルが右手を突き出しながらISを発動、掌から振動波を撃ち出した。
 放たれた振動波が空気の密度を変え、不可視の壁を形成する。掌の前方に広がる空気の壁に阻まれ、“棘”はスバルまで届かない。
 スバルは勢いよく床を蹴り、A.T.を走らせて弾丸のようにクロワッサン仮面へ突進した。“棘”を撃った直後で、クロワッサン仮面は足を振り上げたままである。隙だらけだった。
 がら空きな敵の懐に飛び込み、スバルは鋭い正拳突きを放つ。瞬間、クロワッサン仮面は軸足を踏ん張り、空中の蹴り足をスバルの脳天めがけて斧のように振り下ろした。
 頭上から迫る敵の踵落としに、スバルは反射的に攻撃を中断(キャンセル)。両手を交差させてクロワッサン仮面の踵を受け止める。
 片足をスバルに受け止められたまま、クロワッサン仮面は軸足を蹴り上げ、空中で車輪のように回転した。宙返りとともに放たれた敵の蹴りを、スバルは上体を逸らして躱す。

「このっ!」

 スバルは悪態を吐きながら姿勢を立て直し、間髪入れずに上段回し蹴りを繰り出した。
 迎え撃つようにクロワッサン仮面は床に手をついて腰を捻り、逆立ちしたままカポエラのように回し蹴りを放つ。
 二人の蹴りが空中で激突し、まるで同じ極同士の磁石のように双方ともに弾き飛ばされた。
 スバルが歯を食いしばりながら足を踏ん張り、再び蹴りを放った。顔面に迫るスバルの蹴りをクロワッサン仮面は片手で受け止め、もう片方の手で正拳突きを繰り出す。
 迫りくる拳の下を潜るように敵の攻撃を躱し、スバルは軸足で床を蹴った。同時に受け止められた蹴り足を前方へ押し込み、壁走りの要領でクロワッサン仮面の掌を足場に飛ぶ。

 ――技・SUBARU Backward Somersault with Spinning like a Windmill改!!

 宙返りしながら両足を前後に開き、全身を回転させて竹トンボのように飛ぶ、かつて空に酷評されたスバルのオリジナル技。しかしスバルは諦めず、その後も改良を重ねていた。
 腰の捻りによる“横”の回転に加えて、足の入れ替えによって生じる勢いを利用した“縦”の回転。
 その両方を組み合わせ、空中で複雑に乱回転する。その姿は最早竹トンボというよりも地球独楽(ジャイロ)である。
 更に自らの回転力を軸にして無理矢理自分の重心を後ろに引っこ抜き、重力に逆らってより遠くへ、より向こうへ、より“上”へ飛ぶ。イッキ直伝の重力制御(グラビティ・ロール)という高等技術(スキル)である。
 回転しながら宙を舞うスバルを追いかけ、クロワッサン仮面も床を蹴って軽やかに空中へ飛び上がった。
 猟犬のように迫る敵の姿を確認し、スバルは天井を走る下水管を蹴って方向転換。クロワッサン仮面めがけて飛び蹴りを放つ。
 二度目の激突。クロワッサン仮面がくるりと宙返りし、突き出されたスバルの足を踏み台にして方向転換。スバルの頭上で再び宙返りを打ち、両足を揃えて勢いよく蹴りつける。
 繰り出された敵の飛び蹴り(ドロップキック)を、スバルは腕を交差させて受け止める。しかし何の足場もない空中では足の踏ん張りようがなく、そのままサッカーボールのように蹴り飛ばされた。
 スバルは歯噛みしながら空中で姿勢を立て直し、壁を踏みしめてその場で一瞬静止する。乱れた呼吸を整え、スバルは壁を蹴って再び空中へ躍り出た。
 激突、激突、また激突。壁で、天井で、舞台で、観客席で。会場を縦横無尽に飛び回り、二人は激突を繰り返す。最早地下闘技場自体が、二人のための巨大な戦場(キューブ)となっていた。
 いつの間にか会場は静寂に包まれていた。次元が違う、住んでいる世界が違う。観衆の誰もが言葉を失い、目の前で繰り広げられる凄まじい戦に魅せられていた。

 スバルの攻撃を捌きながら、クロワッサン仮面は内心で舌を巻いていた。一撃ごとに攻撃がどんどん重く、鋭くなっている。この戦いの中で、スバルは急速に成長しているのだ。
 忌々しい小娘だった。自分はただイッキの助けになりたいだけなのに、いつもいつも邪魔ばかりしてくる。
 しかし一番腹立たしいのは、彼女との戦に興奮している自分がいることだった。一刻も早くイッキを助けに行かなければならないのに、自分は今、この戦いに悦びを感じている。

「はぁっ!」

 クロワッサン仮面が気合いとともに足を蹴り上げた。“棘”を撃つつもりである。

「無駄無駄無駄ぁっ!」

 スバルは怒号とともに掌を突き出し、ISを発動して空気の障壁を形成する。



 次の瞬間、クロワッサン仮面のA.Tの後輪(ホイール)がほどけた。



「――え?」

 予想外の事態に頭が機能停止(フリーズ)し、スバルの口から間の抜けた声が漏れた。
 鞭状に変形したクロワッサン仮面のA.T.――“棘の玉璽(レガリア)”が空気の壁を切り裂き、まるで荊のように無数についた突起の一つ一つから“棘”を撃ち出す。
 放たれた無数の“棘”がスバルを撃ち抜き、流れ弾が周囲の壁や天井に突き刺さった。破壊された照明や砕かれたコンクリートの破片が降り注ぎ、観衆の中から悲鳴が上がる。

「何が無駄ですって?」

 苦悶の表情で膝をつくスバルを見下ろし、クロワッサン仮面は勝ち誇ったように口を開いた。

「これで解ったでしょう? 貴女ではわたしに勝てない。同じように、今のイッキ君達だけではこの戦に勝つのは絶望的なの。「牙の王」宇童 アキラは、わたしと同じ次元にいる」

 淡々と告げられるクロワッサン仮面の言葉に、スバルは苦痛と憤怒に顔を歪める。

獅子(ライオン)を狩れる鷲はいない、<小烏丸>に<ベヒーモス>との戦は早すぎたの。それが彼らの限界。貴女もいい加減に現実を受け入れなさい」
「……それはあんたの限界でしょう?」

 クロワッサン仮面の科白に、スバルは低い声で反論した。蝶々仮面(パピヨンマスク)の下で、クロワッサン仮面の眉間にしわが寄る。この期に及んで何を言い出すのか。
 スバルはゆっくりと立ち上がり、未だ闘志を失わぬ金色の瞳でクロワッサン仮面を睨みながら言葉を続ける。

「そんなのはイッキ達の限界じゃない。味方とか助っ人とか言いながら結局イッキ達を信じきれないあんた自身の限界よ!」

 そう叫びながら、スバルは弾丸のように走り出した。無謀な突撃を仕掛けるスバルに、クロワッサン仮面は容赦なく“棘”を撃ち放つ。
 無数に迫る風の“棘”を、スバルは避けようとも防ごうともしない。否、避けることも防ぐこともできる筈がない。
 終わった。その場の誰もがそう思った。戦を見守る観衆も、技を撃ったクロワッサン自身も。ただ一人、未だ諦めないスバルを除いて。
 そうだ。現実とか、限界とか、いつだってイッキ達はぶっ壊してきた。翼もないのに空を飛び、魔法もないのに奇跡を起こす。それが暴風族―――否!

「それが男の子ってもんでしょうが!!」

 スバルは怒号を上げながら跳躍した。迫りくる“棘”を足場に空中を走り、クロワッサン仮面へ接近する。
 クロワッサン仮面は瞠目した。“棘”を足場にするなど、A.T.を始めて一ヶ月足らずの素人にできる筈がない。まさか彼女も見えているのか? イッキと同じように、「翼の道(ウイングロード)」が!
 実のところ、スバルは未だクロワッサン仮面が推測するような境地に達している訳ではない。しかしスバルは見えていなくても、彼女の“相棒”は確かに捉えていた。
 両足に装着する“魔導の玉璽”が、(デバイスコア)に搭載された高性能センサーで飛来する“棘”を感知。軌道を計算して主人(スバル)に的確な指示を出す。
 そしてスバルは自らのデバイスを全面的に信頼し、その指示通りの動きで走る。それはまさに、A.T.(デバイス)魔導師(ライダー)が一心同体となって生まれた“走り”だった。

「うおおおおおおおおおおおっ!!」

 遂にクロワッサン仮面の前まで辿り着き、スバルは雄叫びとともに拳を突き出した。迫りくるスバルの拳を掌で受け止め、“クロワッサン仮面”が口を開く。

「ま、その意気込みだけは認めてやるけどよ……お前らちょっとはっちゃけ過ぎだ」

 次の瞬間、“クロワッサン仮面”の化けの皮が剥がれ、黒いマントの下に重厚な鎧を纏う少年の姿に変わった。

「鵺君!?」

 驚愕の声を上げるスバルに、鵺は悪戯が成功した子供のように得意げに笑う。

「脳内α電磁波っつってな、お前に俺のことをスク水仮面だと勘違いさせたんだよ」

 本物はあそこ、と鵺が指差す先には、スピット・ファイアに組み伏せられたクロワッサン仮面の姿があった。
 鵺の鎧から鋼鉄の(ワイヤー)がのび、スバルに絡みついて身体の自由を奪う。この糸を通して特殊な電磁波を流すことで、鵺は他人に幻覚を魅せることができるのである。
 だが糸で流せるのは磁波だけではない、そして鵺は「紫電の道(ライジングロード)」を走る「雷の王」である。鵺は残忍に笑いながらスバルに話しかけた。

「さて悪ガキ、おしおきの時間だ。好き勝手に暴れやがって、少し頭冷やしやがれ」

 ――「紫電の道(ライジングロード)」!!

 瞬間、巻きついた糸から流れる高圧電流がスバルを容赦なく襲った。鵺の電流と戦のダメージでぐったりするスバルの前に、シムカが硬い表情で姿を現わす。

「“渡り鳥”のシムカ……!」

 スピット・ファイアに組み伏せられたまま憎悪の表情で睨むクロワッサン・仮面を振り向き、シムカは冷たい声で話しかけた。

「いい加減にするのは貴女の方よ、荊の女王(クレイジー・アップル)。戦の聖地、この地下闘技場(アンダー・コロッセオ)でこれ以上の狼藉は許しません。私達は試合(パーツ・ウォウ)を観に来たの、貴女達の乱闘(キャット・ファイト)が見たい訳じゃないわ」

 容赦のないシムカの糾弾に、クロワッサン仮面は悔しそうに唇を噛む。紛れもない正論を、よりにもよってこの女(シムカ)に諭されたことが堪らなく屈辱だった。
 シムカはスバルを振り返った。気まずそうな表情で俯くスバルに、シムカは表情を和らげて口を開く。

「ちょっと張り切りすぎちゃったわね、スバルちゃん。今度からはもうちょっと他の人のことも考えて走ろっか?」
「ごめんなさい、シムカさん……」

 泣きそうな顔で謝罪するスバルの頭を、シムカは「よしよし」と撫でた。きちんと反省できる子はいい。

「今回はやり方を間違えちゃったけど、でもね……スバルちゃんが言ってること、私は間違ってないと思うな」
「…………え?」

 優しくかけられたシムカの言葉に、スバルは弾かれたように顔を上げた。シムカは微笑し、試合の中継を続ける巨大モニターを指差す。
 画面の中では、いつの間にか逆転勝利していたオニギリがカメラの前でガッツポーズをしていた。

「嘘……」

 信じられないといった表情で呟くクロワッサン仮面を一瞥し、シムカが口を開いた。

「今がどんなに弱くて馬鹿でスケベでも、どこかに必ず“牙”を持ってて、そしてそれは戦の中でこそ磨かれる。それが男の子――ってもんよ」

 そうでしょう、スバルちゃん? 無言で同意を求めるシムカに、スバルは満面の笑顔で頷いた。
 オニギリが勝利し、これで戦績は一対二。残る戦はイッキと咢のみ、この二人が勝利すれば―――<小烏丸>の逆転勝利である。

「イッキーッ! アギトーッ! がんばれーっ!!」

 画面の向こうで戦う二人まで届かせるように、スバルは“本気の本気”で、力の限りに声援を送った。






「――聞こえたかよ? 小ザメ」
「ああ。ったく、恥ずい真似しやがって」

 肩越しに振り向きながら尋ねるイッキに、咢がそう言って溜息を漏らす。
 第四戦場(ステージ)。イッキと蓮を閉じ込めていたこの「(キューブ)」は、しかし今は天井が崩落し、真上の第五戦場と繋がっていた。

「で、どうするよ? 俺様としては、この天才を崇め奉る一途な下僕にちょっと格好いいところを魅せてやりたい気分なんだが?」
「……ちっ、しょうがねぇな」

 イッキの問いに咢は面倒くさそうに頭を掻き、鮫のように鋭い目つきで顔を上げた。

「勘違いすんなよ? あくまでも玉璽のためだからな、このファッキンガラス」
「おう。足引っ張んなよ? 鮫野郎」

 念を押す咢にイッキが満足そうに首肯し、互いに掌を打ち合ってポーズをキメる。

「「――ブッ殺!!」」

 息を揃えて啖呵を切るイッキと咢に、相手と同様に合流した宇童と蓮が身構える。今、パーツ・ウォウ史上初、前代未聞の「キューブ」のタッグ戦が始まろうとしていた。



 ――To be continued



[11310] Trick:27
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/03/08 23:42
 トリック・パースというものがある。簡単に言えば戦場の見取り図であり、この地図から様々な情報を読み取り戦術を立てるのが一流のA.T.使い(ライダー)の必須条件となっている。
 パーツ・ウォウの公式HP(ホームページ)では登録している全チームの全ての縄張り(エリア)のトリック・パースが公開され、誰でも自由に閲覧できる。それはこの地下闘技場(アンダー・コロッセオ)も例外ではない。
 優れた資質を持つA.T.使いは、平面の地図から戦場を立体的に捉えることができる。イッキもその能力、“鷲の眼(イーグル・アイ)”の持ち主だった。
 戦前に印刷したトリック・パースを読み、イッキは第四戦場と第五戦場の個室(キューブ)が上下で繋がっていることに気づいた。
 老朽化した地下競技場の施設は度重なる過酷な戦のダメージが蓄積して、いつ壊れてもおかしくない。
 イッキは蓮と戦いながら、「檻」が壊れるこの瞬間を狙っていた―――ということはなく、実際は紛うことなき“ただの偶然”にすぎなかった。
 蓮との戦の中で、イッキは「風の道」を撃つために試行錯誤を繰り返した。そして遂にその努力が実り、イッキは竜巻(パイルトルネード)を撃つことに成功する。そこまではいい。
 しかし加減を誤り、竜巻は「檻」の中で暴発。真上の第五戦場を巻き込んで第四戦場の壁や天井を根こそぎ吹き飛ばしたのである。

「ま、結果オーライだろ?」

 悪びれもせずにのたまうイッキに、崩落に巻き込まれて危うく生き埋めになりかけた咢の怒りの足技(けり)が炸裂したことは言うまでもない。



「よくもこんな舐めた真似を……」

 無惨に荒れ果てた「檻」を見渡し、蓮が憤怒の表情で口を開いた。地下闘技場は、「キューブ」は神に与えられた(アキラ)世界(すみか)。その棲み家を土足で踏み荒らされるのは許せなかった。
 蓮は拳を構え、瓦礫を蹴飛ばしながら走り出した。しかしイッキめがけて突進する蓮の行く手を、宇童の大きな掌が遮る。

「落ち着け、蓮。戦は冷静さを欠いた者から死ぬ」

 宇童に諭され、蓮は渋々と拳を下ろした。

対不起(ごめん)、アキラ」

 蓮の謝罪に宇童は頷き、顔を上げて咢とイッキを振り仰いだ。宇童の背後に巨大な怪物の姿が顕現する。まるで現実(ほんとう)にそこにいるかのように濃厚な技影(シャドウ)だった。

「来るぞ」

 咢が硬い声でイッキに警告する。その直後、宇童が走り出した。巨大な怪物の技影を背負い、獣のように二人に襲いかかる。
 拳を振り上げて迫る宇童を、イッキと咢は飛び蹴りで迎撃した。二人の同時攻撃を宇童は腕で防御し、間髪入れずに拳を振り被る。
 咢を狙って放たれた宇童の拳は、しかし次の瞬間、獲物を見失って虚しく空を切った。空振り。だが咢の回避が間に合ったのではない、イッキが後ろから引き上げたのである。
 宇宙の拳が瓦礫に突き刺さり、コンクリートの塊が粉微塵に砕け散る。恐るべきパンチ力だった。坂東 ミツル(サイクロプス・ハンマー)の打撃も常識外れだったが、宇宙はその更に“上”をゆく。

「けど当たんなきゃどーってことはねぇんだよ、バーカ!」
「馬鹿は貴方の方ね」

 空中から宇童を見下ろして挑発するイッキに、横合いから冷ややかな声がかかる。次の瞬間、いつの間にか回り込んでいた蓮がイッキの横面を殴り飛ばした。

「ゴミ漁りのカラスめ。二人がかりなら勝てる夢でも見た?」

 地上に叩きつけられ、無様に手をつくイッキを見下ろし、蓮は氷のように冷たい声で問った。イッキは歯噛みする、この女(ユニコーン)の存在をすっかり忘れていた。

「ファック!」

 咢が悪態を吐きながら蓮に飛びかかった。超獣(アキラ)に比べれば麒麟(ユニコーン)は小物。先に叩いて、この(バトル)の流れを掴む!
 かつて“鮫の牙”と恐れられた咢の蹴りが蓮に迫る。しかしそのとき、宇童が二人の間に突如割り込み、咢の攻撃を受け止めた。
 咢の動きが一瞬止まる。どんな達人でも攻撃した瞬間だけは必ず動きが止まり、隙が生まれる。その刹那の隙を、蓮は見逃さなかった。
 蓮が地を踏みしめながら咢に拳を叩き込んだ。攻撃と同時に右踵の鉄杭が地面を打ち、その反動で蓮の動きが加速。打撃の衝撃そのものを咢の体内へ撃ち込む。浸透勁である。
 咢の身体が派手に吹き飛ぶ。しかし蓮の表情は険しい。手応えがまるでなかった、“蹄”は不発だ。打撃の瞬間、咢は自ら後ろへ飛んでダメージを最小限に抑えたのだ。
 小賢しい――否、流石は元「牙の王」といったところか。舌打ちする蓮の背中に、イッキが拳を振り上げて襲いかかった。

「うおおおおりゃああああああああああっ!!」

 雄叫びとともに迫るイッキを振り返り、蓮はカウンターで中段突きを叩き込んだ。仰け反るイッキに蓮は更に二、三度、打撃を撃ち込み、気合いとともに投げ飛ばす。
 投げられたイッキが咢に激突し、そのまま押し潰すように地面に倒れ込んだ。下敷きになった咢が潰れた蛙のように呻く。

「このファッキンガラス! 何が「足引っ張んなよ」だぁ? 足引っ張ってんのはテメエの方じゃねぇか! <小烏丸(チーム)>一番の下手クソが、囮にでもなって俺の役に立ってから死ね!!」
「んだと、この貧弱小ザメが! テメエの方こそ「牙の王」とか名乗っときながら全然駄目じゃねーか! 無能な凡人の分際で神たるこの俺様に偉そうに指図すんじゃねぇ!!」
「殺す! アキラの前にテメエを焼き鳥にしてやる!!」
「上等だこの野郎! 返り討ちにして今日の夜食はフカヒレラーメンだ!!」

 逆上し、見苦しい仲間割れを始めるイッキと咢に追い討ちをかけるように、宇童と蓮は同時にA.T.を走らせた。

「蓮!」
(はい)!」

 宇童の合図(よびかけ)に蓮が頷き、まるで恋人同士のように互いの手を握り合う。瞬間、宇童が怒号とともに腕を水平に振るった。超人的な筋肉が唸り、蓮を野球バットの如く振り回す。
 遠心力で蓮の身体が浮き上がり、宇童を軸にして回転する。ジャイアント・スイングのように振り回されながら、蓮は腰を捻り、右足を跳ね馬のように蹴り上げた。

 ――技・AKIRA×RENG Backward Cross Ridefall Upper Unguis "TWINCAM" !!

 宇童が地を踏みしめてが足場を安定させ、垂直に突き上げられた蓮の踵がイッキの顎を打ち抜く。
 蓮は更に腰を捻り、今度は左足を蹴り上げた。右踵が地面に突き刺さって蓮の身体を固定し、振り下ろされた左の踵落としが咢の脳天を直撃した。

「「ぐぁっ!?」」

 流れるような敵の連続攻撃に、イッキと咢は為す術もなく地面に叩き伏せられた。強い。ただでさえ強力な宇童と蓮の攻撃力が、連携することで三倍にも四倍にも高められている。

「憶えておけ。タッグ戦とは“足し算”じゃない、“掛け算”だ。互いが互いを補い合い、高め合うことで、その力を乗数的に引き上げる。それが連携(コンビネーション)というものだ」

 地に伏せるイッキと咢を冷然と見下ろし、宇童は口を開いた。確かにこの二人は強い。単純な戦闘能力で考えれば、FクラスどころかこのDクラスにも敵はいないだろう。
 しかしその“強すぎる力”こそが、この二人の最大の弱点だった。一騎当千の実力を持つが故に、イッキも咢も個人戦(スタンドプレー)に走りがちになる。そこがつけいる隙となるのだ。

「ファック! こうなりゃ二人まとめて「道」にしてやるぜ!!」

 咢が怒号を上げながら地面から跳ね起き、「海の王」の技影を魅せながら猛烈な勢いで宇童と蓮へ突進した。
 静止状態から瞬時にトップスピードまで加速し、再び静止状態まで急停止。0―100―0(ゼロ―マックス―ゼロ)の“走り”が生む膨大な制動エネルギーを、蹴りに乗せて一気に放出する。

 ――技・AGITO Bloody fang Ride fall “Leviathan”!!

 咢の必殺技(おくのて)、大気を切り裂く衝撃波の“牙”が宇童と蓮に襲いかかる。宇童は咄嗟に前へ出た。蓮を庇うように立ち塞がり、我が身を盾にして迫りくる“牙”を受け止めた。
 凄まじい轟音が戦場に木霊し、巻き上げられた塵埃が宇童の姿を覆い隠す。やった! 確かな手応えを感じ、咢は思わず拳を握る。絶対的な勝利を確信していた。
 だが次の瞬間、咢の表情が凍りついた。徐々に晴れる煙の奥から、宇童が悠然と姿を現わす。ほぼ無傷な姿だった。

「んな、馬鹿な……」

 咢は愕然と呟いた。自分の切り札を、“全力の牙”の直撃を受けたにも拘らず宇童は平然としている。とても人間とは思えなかった。
 ズキ、と咢の足が疼いた。“牙”を出すための走りは太腿に途轍もない負荷をかける。しかも今の咢に玉璽(レガリア)はない、ダメージは尚更深刻だった。
 なのはとの戦いで二度、そして今、咢は合計三度、玉璽なしで“牙”を撃った。今や咢の両足はボロボロだった。

「……これで終わりか? 咢」

 痛みに顔を歪める咢を冷徹に見下し、宇童が問った。その声に、“牙”のダメージらしきものは感じられない。

「最強の“矛”と“盾”、か……」

 イッキが納得したような表情で唐突に呟いた。最強の“矛”と“盾”、ミツルが口にした宇童と蓮の比喩(たとえ)である。

「俺はよぉ、宇童が“矛”で麒麟(ユニコーン)が“盾”だと思ってたんだ―――でも違った。“盾”は宇童の方だったんだ」

 宇童 アキラ。その真骨頂はミオスタチン関連筋肉肥大症による超人的な“腕力”でも、玉璽の力を駆使した“牙”でもない。
 射撃魔法を受けても、“牙”の直撃を喰らっても平然としている、異常なまでの打たれ強さ(タフネス)。それこそが、この男の“力”の源なのである。

「蓮! 流れはこちらに来ている、一気に畳みかけるぞ!!」
「分かったね、アキラ!」

 宇童の指示に蓮が首肯し、二人は同時にA.T.を走らせた。二人の技影が一つに重なる。その姿はまさに比翼の鳥、一心同体の“走り”だった。
 だがこのとき、宇童も蓮も気づいていなかった。まるで蓮の“走り”に悲鳴を上げるかのように、右脚のA.T.義足が関節部から紫電を飛ばしていたことに。






 地下闘技場は熱狂的な歓声に包まれていた。画面の中で宇童と蓮が魅せる抜群の連携(コンビネーション)が、イッキと咢(チャレンジャー)を一方的に蹂躙する。それでこそ超獣、それでこそ四聖獣!
 今まで観たことのない極限の(バトル)、まさに「究極のキューブ」と呼べる戦いに、観衆の興奮は最高潮に達していた。

「こりゃあ勝負はもう見えたな」

 画面を眺めながら、鵺が達観したようにそう口にした。個々の戦闘能力も然ることながら、連携したときの破壊力は<小烏丸>の比ではない。負ける要素が全く見当たらない。
 しかし鵺の科白に、スピット・ファイアは「どうかな」と首を傾げる。見えてきたのは寧ろ、宇童達(かれら)の突くべき“穴”ではないか。
 画面の中で、蓮がイッキに“蹄”を撃った。右踵の杭が地面を打ち抜き、反動で加速した拳がイッキに迫り―――次の瞬間、突如出現したコンクリートの塊に突き刺さった。
 グシャッ、と嫌な音が会場に響いた。その凄惨な光景に観衆の誰もが痛々しそうに表情を歪め、中には目を逸らす者、吐き気を我慢するように口元を押さえる者もいる。

『ふはは、かかったな愚か者め! これぞイッキA.T.殺法・うつし身の術!!』

 砕けた拳から血を流し、苦痛に顔を歪める蓮を、物陰から飛び出したイッキが容赦なく蹴り飛ばした。打撃の瞬間、イッキは咄嗟に瓦礫の塊と入れ替わったのである。

『貴っ様ぁあああっ!!』

 宇童が憤怒の表情でイッキに殴りかかった。しかし怒号とともに放たれた宇童の拳を、イッキは上空へ跳躍して躱す。
 獲物を見失った宇童の拳が瓦礫に突き刺さり、コンクリートの塊を粉微塵に粉砕する。恐るべき破壊力だった―――だが当たらなければ意味はない。
 宇童の弱点、それは“飛べない”ことだった。彼のA.T.“牙の玉璽(レガリア)”はその構造上、“空”を飛ぶことができない。如何に強力で長い牙でも、“空”にまでは届かないのである。
 蓮はシャツの袖を噛み千切り、傷口に巻きつけて止血した。砕けた拳を無理矢理握りしめ、今度は咢に殴りかかる。
 そのとき、蓮の右脚から紫電が散った。バランスを崩す蓮の顎先に、咢がアッパーカットを叩き込む。
 仰け反る蓮に追い討ちをかけるように、イッキのフライング・クロスチョップが炸裂。十字に交差した両腕が蓮の首筋に突き刺さり、身体ごと紙きれのように吹き飛ばした。
 最早形成は完全に逆転した。完成された宇童と蓮の連携は、しかしその完璧さ故に、たった一つの歯車のズレが全てを破綻させてしまったのである。

「――麒麟(ユニコーン)の嬢ちゃんが“前”に出すぎたんが失敗やったな」

 画面上の戦を眺めながら、車椅子に乗る帽子の青年が呟いた。空である。本来であれば絶対安静の身なのだが、巻上に無理を言って試合を観に来たのだ。

「麒麟の“蹄”は一撃必倒、せやけどそれは「当たれば死ぬ必殺技」ちゅう意味だけやない、一発で倒さな自分が死ぬ諸刃の剣でもあるんや」

 浸透勁。その正体は漫画のように「体内の氣を云々」という荒唐無稽(デタラメ)なものではなく、単純な「殴り方」の技術(テクニック)だった。
 人間の肉体には弾力がある。しかし殴られる―――つまり拳で「押し潰される」されることで弾力を失い、“硬く”なって力を伝えやすくなる。
 その“硬く”なった部分に更に攻撃を撃ち込むことで衝撃を内部に伝える、それこそが浸透勁の原理なのである。
 実のところ、蓮はその領域まで中国拳法を極めている訳ではない。しかしA.T.パイルバンカーの反動を利用することで、疑似的に浸透勁を再現しているのである。
 本物の浸透勁とは違い、蓮の “蹄”(まがいもの)は技を撃った彼女自身にもダメージを与える。空の言う通り、まさに諸刃の剣だった。
 それに加えて、そもそもパイルバンカー自体が本来想定外の武装である。“蹄”の連発は試作品の義足と蓮自身に途轍もない負荷をかけ、そして今、遂に限界に達したのである。

「ま、小動物(ネズミ)にはデカすぎる“牙”やったっちゅうことやな」

 おどけたように肩を竦める空を見下ろし、傍らの女が口を開く。リカではない、付き添いで地下闘技場まで来た巻上だった。

「……非道い人。そもそも貴方が彼女を唆したんでしょうに」
「義足を創ったんは巻貝(おまえ)やろ? ワイはただ、空も飛べん可哀想な小娘に“翼”を与えてやっただけや」

 非難するような巻上の科白に、空は悪びれもせずにいけしゃあしゃあと嘯く。
 末端神経に接続し、生身の脚と同様に動かせる新型のA.T.義足。その完成品を自らに宛がい、「風の王」として復活するのが空の狙いだった。蓮はそのための実験体(すてごま)である。
 しかし蓮の義足を見遣り、空は「アカン」と首を振る。あの程度で壊れるようでは、「風の王(じぶん)」の“風”にも、「石の王(キリク)」の“振動”にも耐えられはしない。

「……あないな貧弱(ヤワ)な脚なんぞいらへんわ」

 そう口にする空の顔は、スバルやイッキが見たこともない、まるで飢えた“狼”のような表情を浮かべていた。






 蓮は思い通りに動かない己の身体に歯噛みした。強くなったのに、彼と同じ戦場に立てるだけの“力”を手に入れたのに、何故自分はこんなにも弱い?
 二年前の“事件”以来、蓮はずっと宇童に守られてきた―――否、彼が守っていたのは蓮一人だけではない。
 今や千人を超える、<ベヒーモス>傘下の弱小ライダー。その全てを、宇童は身を張って守り続けているのだ。
 A.T.使いには多くの“敵”がいる。敵対する他のチーム、警察、裏社会の人間。Dクラス以下の弱小ライダーには、そのような“敵”に対抗する力はない。
 そのために宇童は<ベヒーモス>という「(チーム)」を創ったのだ。飛べない雛鳥達を自らの身体で創った「檻」で囲い、外の敵から守り続けるために。
 自分も彼の力になりたかった、彼とともに戦いたかった。傷だらけの身体と飛べない玉璽で自分達を守ってくれる宇童を、今度は自分が守りたかったのである。

 蓮は歯を食いしばって拳を構え直した。砕けた拳は力を籠めただけで激痛が走る、しかし気にしている余裕はなかった。
 既に壊れかけた身体である、これ以上壊れたとしても問題はない。そんなことよりも、この戦にだけは負けたくない。そんな意地だけが、今の蓮を支えていた。
 蓮が雄叫びを上げて走り出す。狙いは咢だった。鋼鉄の義足が地面を踏みしめ、踵のA.T.パイルバンカーがコンクリートを砕く。
 瞬間、蓮の義足がバラバラに崩壊した。しかし蓮は構わず前進し、最後の力を振り絞って咢に崩拳を放った。
 蓮と咢の影が重なり、二人の身体が交差する。直後、咢の背後で蓮が全身から血を噴き出しながら倒れ伏した。

「蓮ーーーーーーーーっ!?」

 宇童が絶叫し、青ざめた顔で蓮に駆け寄った。蓮は身体中を咢の「血痕の道(ブラッディロード)」で切り刻まれ、宇童の腕の中で力尽きたようにぐったりと脱力する。

「……まず、一人」

 満足そうな笑顔で勝ち誇る咢を、宇童が憎悪の瞳で睨みつける。この瞬間、宇童の中の“超獣(ケダモノ)”が目覚めた。



 ――To be continued



[11310] Trick:28
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/03/10 09:45
 華奢な身体から血飛沫が噴き出し、地面へ倒れ込む蓮の緩慢な動きとともに、虚空に真っ赤な「道」が生まれる。その瞬間、宇童の絶叫が戦場(キューブ)に響き渡った。

「蓮ーーーーーーーーっ!?」

 宇童は蓮に駆け寄り、傷ついたその身体を抱き起こした。軽い、まるで羽根のように蓮の体重を感じない。
 蓮の身体は無惨に切り刻まれ、顔は血の気が引いて真っ白である。僅かに聞こえてくる息遣いと、不規則に上下する胸の動きだけが、彼女が生きていることを教えてくれた。

「アキ、ラ……ごめ……」
「喋るな蓮! 傷に障る」

 掠れた声で謝罪する蓮に宇童は首を振り、その華奢な身体を両腕で掻き抱いた。

「……まず、一人」

 咢が蓮を振り返り、勝ち誇るような表情でそう口にした。獰猛に嗤う咢を憎悪の瞳で睨み、宇童は吼えた。

「あ、ア…あァああああああああああああああああっ!!」

 宇童の咆哮が、慟哭が、大気を震撼させて「檻」の中に響き渡る。またなのか。また俺は、彼女を守ることができなかったのか? また俺は全てを失くしてしまうのか?
 否、と宇童は首を振った。否、否、否否否否否否否―――断じて否! もう何も失くしはしない。彼女も、< ベヒーモス(チーム)>も、全てを俺の“牙”で守ってみせる。今度こそ!

「蓮、こんなになるまでよく戦ってくれた。後は俺に任せろ」

 腕の中の蓮を優しく地面に横たえ、宇童は立ち上がった。「超獣(ベヒーモス)」の技影(シャドウ)が宇童の背後に顕現し―――玉璽(レガリア)が目覚める。

 ――技・Bloody armor fang on gigaers!!

 宇童が“牙”を撃った。蹴り上げられた右足から放たれた衝撃波が瓦礫を吹き飛ばし、咢とイッキを切り裂く。
 朦朧とする意識の中、敵を蹂躙する宇童の“牙”を見つめながら蓮は思う。ああ、それでこそ貴方は我々(ケダモノども)の「王」なのだ。
 宇童のA.T.は大きく変貌していた。剥げた塗装の下から銀色の光沢が出現し、ホイールが回転ノコギリのような形状に展開する。
 前輪周りのカバーが爪先を包み込むようにせり上がり、“牙の玉璽”がその真の姿を魅せた。
 牙の玉璽、それは部品(パーツ)単体の名前ではない。ブレーキングや着地で生まれる慣性エネルギーを回収して再放出する機構(システム)の総称なのである。
 それ以外のあらゆる機能を捨て、ただ“牙”を撃つためだけに特化した玉璽。そこから放たれる“本物の牙”は、咢の技とは比較にならないほど鋭く、長く、そして強力だった。
 ファック、と咢が舌打ちした。 “牙”(こいつ)が出てくる前に勝負をキメたかったが、最後の最後で計算を誤った。
 咢は周囲を見渡してイッキを探した。宇童の“牙”の直撃を受けたのだ、もしかしたらもう終わった(・・・・)かもしれない。咢の脳裏を絶望がよぎる。イッキは―――、

「か……格好(カッチョ)いいぃいいいいいいっ! 凄ぇよそれ、俺はそれが欲しくて堪んねぇよおおおおっく!!」

 ピンピンしていた。“牙”を正面から喰らったにも拘らず、まるで何事もなかったかのように宇童の傍ではしゃぎ回っている。

「つー訳で、玉璽(それ)くれっ!」

 イッキはそう言って宇童に掌を突き出した。その図々しい姿に咢は思う。黙れアホガラス、と。
 宇童が嘲笑するように口元を歪めた。釣られるようにイッキも不敵に微笑し、言葉を続ける。

「――つっても、タダでくれる訳ないよな? だから、俺が奪うぜ!」
「どうやらまだ理解(わか)ってないようだな、カラス」

 イッキの科白を遮るように、宇童が口を開いた。

「ならば教えてやる。“檻”は再び閉ざされた、ここからは獣の世界だ」

 宇童が獣のように疾走し、再び“牙”を放った。撃ち出された衝撃波が大地を砕き、イッキと咢(エモノ)を嬲る。
 イッキは歯噛みした。少し――否、かなり状況は最悪だ。このままでは自分はともかく、この貧弱な小ザメ(アギト)が保たない。
 咢の後ろ襟をむんずと掴み、イッキは空中へ退避した。“空”に逃げていれば宇童は追ってこれない。取り敢えず空中を飛び回りながら体勢を立て直し、打開策を考えよう。
 しかしイッキの目論見は、次の瞬間脆くも崩れ去った。“牙”の衝撃が上空から突如襲いかかり、イッキ達を地上へ叩き落とす。

「言っただろう? お前達は既に“檻”に囚われている、もはやこの地に“空”はない」

 愕然と頭上を見上げるイッキを一瞥し、宇童が口を開く。その背中の向こうでは、放たれた“牙”が格子のように無数に組み合い、空を切り裂いていた。
 イッキは歯噛みした。どうする、どうすればこの化け物に勝てる? 頭をフル回転させるイッキに咢が近づき、「見ろ」と言いながら宇童を指差した。

「アキラの奴、あの技を出す前は必ず走ってるだろ? “牙”は制動エネルギーでつくる。つまり速く長く走れば走るほど、それだけデケェ“牙”がつくられて威力も増す!」
「逆に言えば、あの矢印頭に走らせず距離を詰めちまえば“牙”は出せねぇ―――ってか? 何でそれを早く言わねーんだよ、このボケ!」

 咢の言わんとすることを理解し、イッキは罵声を飛ばしながら走り出した。そうと分かれば話は早い、肉弾戦で一気にキメる!
 しかしイッキは失念していた。宇童 アキラは、あの坂東 ミツルと同じ体質の“超人”であることを。次の瞬間、カウンターで繰り出された宇童の拳がイッキを殴り飛ばした。

「ボケはお前だ」

 地面に叩き伏せられるイッキを見下し、宇童は冷徹に言い捨てた。

「ちっくしょぉ……!」

 イッキは屈辱に顔を歪めた。離れれば“牙”、近づけば(ハンマー)、この怪物に死角はない。何の活路も見つけられない無力な自分自身が、イッキは堪らなく苛立たしかった。
 こうなれば最後の手段だ。イッキは立ち上がり、毅然とした瞳で宇童を睨みつけた。
 撃ちたければ好きなだけ撃てばいい。“牙”は技を撃つ宇童自身にも絶大な負担をかける。宇童か、自分達か、どちらが先に潰れるか―――我慢比べだ!






「この勝負、もう見えたな」

 膠着状態に入った戦から顔を逸らし、シムカと鵺はスピット・ファイアを振り返った。
 肉体的な能力(スペック)はもとより、宇童は精神力(メンタル)も尋常ではない。スタミナ勝負でも彼の負けはあり得ないだろう。
 シムカの表情は暗い。しかし贔屓にしている南 イッキ(カラス)があの様では、彼女の憂鬱顔(ブルー・フェイス)も仕方ないかもしれない。

「不服そうだね?」
「……いい試合だと思うよ? カラス君達、初めて超獣を“本気”にさせた」

 気遣うように声をかけるスピット・ファイアに、シムカは溜息混じりに口を開いた。

「でも(あのコ)が、その宇童君がちっとも楽しそうじゃない。(シムカ)はそれがつまんないの」

 相手が強ければ強いほど戦い甲斐がある、本気になれた悦びが電気のように全身をビリビリと駆け巡る。それが―――男の子ってものだろう?

「……そういう“強さ”もあるのさ、男には」

 シムカの主張に、スピット・ファイアはそう言ってポケットから携帯電話を取り出した。ボタンを弄り、液晶画面に一枚の写真を表示させる。
 液晶画面に映し出されたのは、まるで無二の親友のように肩を組んで笑う二人の少年だった。昔の宇童と咢である。

「彼が“牙”を手に入れて失くしたものは“羽”だけじゃない。強くなればなるほどに、彼は全てを失ってきたんだ。戦う悦びも、唯一の親友(とも)までもね」

 手の中の携帯電話を折り畳み、スピット・ファイアは静かに言葉を締め括った。






「ケッ……スカした面しやがって、この矢印頭が! 必殺技出しても所詮この程度かよ!?」

 イッキは歪な笑みを浮かべて宇童を挑発した。完全な虚仮脅し(ハッタリ)である。疲労と“牙”を受け続けたダメージで膝が震え、今や走ることさえままならない。

「もう二度と、お前達が“空”を見ることはない。腐り果てろ……この檻の中で」

 イッキの虚勢を見透かしたように宇童は冷たく吐き捨て、腰を落として走り出し(スタートダッシュ)に備える。“牙”を撃つ構えである。

「アキラァアアアアアアアアアッ!!」

 咢が雄叫びを上げながら宇童へ突進した。宇童も迎え撃つように走り出す。二つの「血痕の道(ブラッディロード)」による真っ向勝負である。
 愚かな男だ、宇童は胸中で落胆の息を吐いた。二年前の咢は全てを兼ね備えた完璧な戦士だった。あの頃の彼ならば、こんな無謀な戦は決してしなかっただろう。
 宇童が地面を踏みしめ、右足で“牙”を放った。だが短い、これならば凌げる! 助走不足による弱い“牙”に勝機を見出だし、咢は賭けに打って出た。
 迫りくる“牙”を防ごうとも避けようともせず、咢は宇童への突撃を続ける。しかし次の瞬間、宇童は更に一歩前進し、今度は左足で“牙”を撃った。
 咢は愕然と目を見開いた。二発同時に“牙”を撃つだと? まさかこれが、こいつ(アキラ)の“進化した牙”だというのか!?
 宇童の猛攻は止まらない。グルグルと咢の周囲をイタチのように回りながら、三発目、四発目と、次々と“牙”を撃ち続けた。

 ――「血痕の道(ブラッディロード)無限の空(インフィニティ・アトモスフィア)・「無限の牢獄(インフィニティ・ジェイル)」!!

 無数に放たれた“牙”が咢の全方位を檻のように取り囲み、前後左右、そして上下から同時に迫る。咢は息を呑んだ。今や自分に、逃げ場はない。



 あれは、いつからだろうか……? あの“夢”を見るようになったのは、この身体が思うように動かなくなってきたのは。
 夢の中で、亜紀人と咢は一緒に走っていた。しかしいつも突然、亜紀人の両足が粉々に砕け散るのだ。
 咢は必死に亜紀人の手を握るが、崩壊は瞬く間に進行し、下半身が、胸が、顔が、咢の目の前でどんどん消えていく。そして最後には、咢の手の中には何も残っていなかった。

 この日がくるのは、生まれた時から知っていた。一つの肉体(からだ)に二つの人格(こころ)、そんな無茶がいつまでも続く筈がない。(オレ)の存在が、亜紀人の身体を蝕んでいるのである。
 亜紀人のために、咢はこの戦を最後に消滅しようと決めていた。イッキ達と出会い、亜紀人は自分の居場所を手に入れた。最早咢が存在する意味はない。
 それに咢が消えることで、亜紀人が再び走れるようになるかもしれないという期待もあった。咢の“走り”の技術も、「牙の王」の名も、元々は亜紀人のものだったのだから。
 しかし消滅する前に、咢は一つだけ亜紀人に贈り物を残したかった。自分という存在がここにいたという証を、この世界に残したかった。
 それが“牙の玉璽”だった。宇童を倒して玉璽を奪還し、この身体も、「王」の名も、亜紀人から奪った全てを返して消える―――それこそが咢の望む、最高の幕引き(ドロウ・ザ・カーテン)なのだ。
 しかし、その最後の“夢”もどうやらここまでのようだった。情けないことに、玉璽どころかこの身体すら満足に返せそうにない。

 悪いな、亜紀人。咢は心の中で亜紀人に謝罪した。役立たずな弟で本当にごめん。そして……ありがとう。



「――閉じろ、“牙”」

 その瞬間、宇童の呟きとともに“牙”の檻が全方位から咢を切り刻み、断末魔の絶叫が戦場に木霊した。






 証明が落とされた真っ暗な室内で、机の上に置かれたラップトップPC(パソコン)の液晶画面だけが、まるで場違いのように明るく光っていた。
 画面に映し出されるのは、今この瞬間、世界で最も注目されている世紀の大(バトル)―――ネットを通じて全世界に同時生中継される、<ベヒーモス>と<小烏丸>の最終決戦だった。

室長(ボス)、急がなければ試合(パーツ・ウォウ)が終わってしまいますよ?」
 入口から顔を覗かせた部下の言葉に、室長と呼ばれた男が「分かってる」とぞんざいに答える。
 液晶画面は、ちょうど宇童の“牙の檻”が咢をズタズタに引き裂く瞬間を映し出していた。男は僅かに眉を動かし、ラップトップPCの画面を折り畳んだ。

「――状況は?」
2083(ニーマルハチサン)、ポイントゼロ集合。現在ゲンとサブが待機中、所轄応援済みです」

 早足で階段を登りながら尋ねる男に、傍らを歩く長身の女性、透が淀みない口調で報告する。

「<ベヒーモス>か……久しぶりの大捕り物だ」

 嬉しそうな声で呟きながら突き当たりの扉を開け、男は透とともに屋上のヘリポートへ出る。
 ヘリポートでは発進準備を終えた武装ヘリが待機し、銃器で武装した男達が二人の到着を待ち構えていた。警視庁特殊飛行靴暴走対策室、通称マル風Gメンの精鋭達(メンバー)である。

「待ってろよ、暴風族(ウンコクズ)ども」

 獰猛な笑みを浮かべて武装ヘリに乗り込む男の名は、鰐島 海人。マル風Gメンの室長であり、亜紀人の兄だった。



 ――To be continued



[11310] Trick:28.5(序)
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/03/12 10:59
 それは暴飛靴新法が成立する以前、特別編成された対A.T.特殊部隊(スペシャルチーム)が、各地でA.T.を使った凶悪犯相手に奔走していた頃のことだった。
 当時、政府の対応は後手に回り続け、全国各地で頻発するA.T.を使った犯罪や暴力団同士の抗争が大きな社会問題となっていた。

「相手は不法滞在者だ。躊躇わず撃て!」

 貧民街(スラム)の一角で、無線機を片手に指示を飛ばす一人の男がいた。対A.T.特殊部隊の隊長、鰐島 海人である。
 この貧民街を拠点とする香港系の密入国外国人窃盗団、その摘発が今回の任務だった。
 海人の指揮で、武装した特殊部隊員達が次々と配置につく。しかし彼らの動きは、既に窃盗団の凶悪犯達に気づかれていた。
 物陰や雑居ビルの屋上から窃盗団の構成員が銃器を持って飛び出し、銃弾をばら撒きながら蜘蛛の子を散らしたように四方へ逃走する。海人は舌打ちし、無線機に怒鳴った。

「逃がすんじゃねぇぞ、アキラ!」

 海人の怒声を無線機越しに聞きながら、左眼に眼帯を着けた小柄な少年、咢が足元を見下ろして口を開いた。

「ヘマすんなよ、アキラ!」

 A.T.で頭上を掠めながら声をかける咢に、地上を走るアキラと呼ばれた少年が軽口を叩く。

「誰に言ってんだよ? 咢!」

 彼の名前は宇童 アキラ。対A.T.特殊部隊の切り札(エース)の一人であり、咢と同じ、“新宿の鰐”鰐島 海人によって創られた“牙”だった。

「うおおおおおおおっ!!」

 アキラは雄叫びとともに加速し、逃げ惑う窃盗団の一人に接近した。地面を蹴って跳躍し、飢えた獣のように(エモノ)の背中に襲いかかる。
 薄汚い路地に鈍い殴打音が響き、窃盗団員の身体が糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。まず、一人。アキラが満足そうに口元を緩めた。

(このやろう)!」

 別の男がアキラを振り返り、怒号を上げながら拳銃を構えた。しかしアキラは怯むことなく男に飛びかかり、腕に組みついて身体を捻じる。

哇呀呀呀(ぐあああ)……!!」

 肉と骨が捻じ切られて絶叫する男の顔面に、アキラは拳を叩き込んだ。ミオスタチン関連筋肉肥大症による剛腕から放たれる超人的な打撃が、男の意識を容赦なく刈り取る。
 倒れ伏す男には目もくれず、アキラはA.T.を走らせて次の獲物へ襲いかかった。その様は最早“戦い”とは呼べない、圧倒的強者による一方的な“狩り”だった。

「ははは……!」

 アキラの口から笑い声が漏れる。彼はこの“狩り”を心の底から愉しんでいた。風と重力と敵、その全てを自らの“牙”で引き裂く快感に酔い痴れているのだ。

「ふん。アキラの奴、嬉しそうに踊ってやがるぜ」

 地上で暴れるアキラを眼下に見下ろし、咢が鼻を鳴らす。だがその表情は穏やかだった。“同じ”だからこそ解る。彼は今、自分自身の存在を――“生”を実感しているのだろう。
 生と死の境界線を走り抜けた時の、逝くってしまいそうなほどの快感。ゾクゾクする。今日も自分は生き残った、また一つ強くなった。
 その瞬間だけが、自分達の存在を証明してくれる。自分達に“生”を実感させてくれる。そのささやかな幸福を親友(アキラ)から奪うほど、咢は無粋ではない。
 咢は「海の王(リヴァイアサン)」の技影(シャドウ)を魅せながら自分の獲物に襲いかかった。「血痕の道(ブラッディロード)」が敵の一人一人を確実に切り刻み、返り血にまみれたホイールが真っ赤な(みち)を刻む。

「あらかた片付いた……か?」

 銃声が止み、静寂を取り戻した貧民街を空中から見渡しながら咢は呟く。そのとき、咢の視界の隅を三人の男の姿が掠めた。まだ生き残りがいたのだ。

「そっちに三匹行ったぞ、アキラ!」
「おう、任せろ!」

 叫ぶ咢にアキラが頷き、喰い残しの獲物を屠るべくA.T.を走らせて追跡を開始した。迷路のように入り組んだ路地を、男達が逃げ、アキラが飢えた獣のように追う。
 男の一人がアキラを振り返り、中国語で何かをまくし立てた。しかしアキラはよく聞き取れず、そもそも中国語自体理解できない。
 そのためアキラは敵の命乞いだろうと勝手に解釈し、さして気にすることもなく追跡を続行した。その判断が、後に大きな悲劇を生むとも知らずに。

 アキラの執拗な追跡に追い詰められ、男達は遂に袋小路(いきどまり)へと誘い込まれた。追い込んだ! アキラの顔に喜色が浮かぶ。
 だがそのとき、アキラは袋小路の奥に一人の少女がいることに気づいた。男達はその少女へ一直線(まっすぐ)に向かっている。
 まずい! アキラの顔色が変わった。(あいつら)はあの娘を人質にするつもりか!? もっと早く連中を始末しておけばよかった、アキラは己の不甲斐なさに歯噛みする。
 アスファルトを砕くほどに強く地面を踏みしめ、自らの傲慢と怠慢から巻き込んでしまった名も知らぬ少女を救うために、アキラは走る。加速する。
 間に合え、間に合え、間に合え! しかしアキラの祈りも虚しく、敵の手の方が僅かに早い。男達の一人、鞄を抱えた男が少女へ手をのばした。
 アキラは自らのA.T.へ視線を落とした。できるか? 否、やるしかない! アキラは急ブレーキとともに右足を蹴り上げ―――瞬間、不可視の“牙”が鞄の男を切り裂いた。

「うおおおおおっ!!」

 アキラは雄叫びとともに再び走り出し、残る二人の男も一瞬で叩きのめした。A.T.で加速した拳はそれだけで凶器になる。今やその場に立っているのはアキラと少女の二人だけだった。

「だ、大丈夫!? 怪我はない?」

 状況が呑み込めず、呆然とした表情で佇む少女を振り返り、アキラは気遣うように声をかける。

「こいつら、あちこちで暴れてる窃盗団でさ――」
哥哥(おにいちゃん)……!」
「え?」

 アキラの言葉を遮るように少女が金切り声を上げ、血溜まりの中で倒れ伏す鞄の男――彼女の兄へ駆け寄った。

「哥哥、哥哥! 哥……鳴啊!! 啊、啊啊、哇啊、啊啊啊……!!」
「い、いや俺は……だってっ、だってこいつらは……!」

 動かない兄の身体を揺さぶりながら号泣する少女を見下ろし、アキラは言い訳するように声を上げる。
 この連中は凶悪な窃盗団で、自分はただ彼女を助けようとしただけで、こいつらが取引していた(ブツ)の中身は―――!

「……アキラ、これを見ろ」

 アキラ達に追いつき、少女の兄の持ち物を漁っていた咢が、鞄の中から取り出した小さな箱を片手に声をかけた。
 箱の中身は、麻薬でも武器でもなく―――箱の中いっぱいに敷き詰められた大鋸屑(おがくず)の中で鳴く一羽の小鳥の雛だった。
 アキラは絶句した。何だこれは、自分はこんなものは知らない! 狼狽するアキラを泣き腫らした顔で見上げ、少女は叫んだ。

「今日、わたしお誕生日! わたし、足動かない! だからこれ、プレゼント……空飛べる小鳥、プレゼント!!」

 怯えが混じる、しかし毅然とした眼でアキラを見上げ、少女はたどたどしい日本語で非難する。アキラはただ、謝ることしかできなかった。






 そして一ヶ月の月日が流れた。あの日アキラが出会った少女、蓮――李 蓮花の兄は、やはり窃盗団の一員であり、異国の地に妹を残して香港へ強制送還された。

「ごめん。本当に……」

 沈痛な表情で謝罪するアキラに、蓮は「もういいね」と首を振る。それはこの一ヶ月間で幾度となく繰り返された会話(やりとり)だった。
 あの事件の後、アキラは毎日のように蓮の元へ足を運び、こうして謝罪を繰り返していた。
 窃盗団を逮捕したことに後悔はないが、そのせいで何も知らない少女を独りぼっちにしてしまったこともまた事実なのだ。

哥哥(おにいちゃん)、A.T.使って悪いことしてたの、本当。香港(くに)帰らされたけど……それ仕方ない。命助かった、よかった。わたし、貴方にお礼言いたい」
「礼!? そんなっ、何で……」

 困惑の表情で尋ねるアキラに、蓮は夕焼け空を見上げながら答える。

「わたし……足、こんなです。だから空飛ぶの、憧れる。A.T.はそれ叶える凄い靴。貴方、A.T.使って悪い人捕まえる。それ、とても凄いこと。わたし、とても尊敬する」

 そう言って振り向いた蓮の微笑みに、アキラは魅せられた。彼女の笑顔をずっと守ってやりたいと、素直にそう思った。
 それは、ただ自らの享楽のためだけに戦う少年が、生まれて初めて“戦う理由”を見つけた瞬間だった。



 そして二人はまるで何かに導かれるように、そこに自分の居場所を見つけたかのように逢瀬を重ね、急速に接近していった。
 ずっと一人で生きていくのが当たり前だったアキラにとって、蓮との出会いは、彼女と過ごす時間は、まるでそれまでの自分が嘘のように満ち足りていて、幸福だった。
 しかし蓮には、いつもどこかに暗い影があった。常に何かに追い詰められているような、悲愴な切迫感があった。そしてそれらは時として、蓮の瞳を通してアキラの前に現れた。

 それは例えば、初めて蓮の部屋(アパート)に招待されたアキラが、鳥籠の中で飼われる彼女の小鳥(ペット)に羽がないことに気づいた時。
 驚いて問い質すアキラに、蓮は平然と「自分が切った」と答えた。羽が生えていたら逃げられてしまうから、もう置いていかれるのは嫌だからと、暗い瞳でそう口にして。

 そして例えば、デートで浜辺に遊びに行って、アキラと手を繋いで無邪気に砂浜を走る蓮が、不意に立ち止った時。
 振り返るアキラに、蓮は顔を逸らして「足が痛い」と非難する。彼女は右の足首から下が欠損し、いつも粗末な義足を装着している。あまり速く走ると砂を挟んでしまうのだ。
 頑張れば飛べる、などというのはただの欺瞞(ウソっぱち)。飛べば落ちて死んでしまう鳥もいる。ただ、地べたに置いていかれたくないから、必死に飛びたい演技(フリ)をしているだけだ。
 目尻に涙を浮かべて語る蓮の姿は、あまりに儚く、痛々しく、そして堪らなく愛おしく感じられた。




 そんな、ある日のことだった。任務中、海人の指示を待って待機するアキラの元へ、咢が一枚の紙切れを持って現れた。

「……これは?」
招待状(ラブレター)だよ」

 怪訝そうな顔で手渡された紙切れを見るアキラに、咢はそう言ってひらひらと手を振りながら立ち去った。
 咢の言う通り、それはパーツ・ウォウの招待状だった。ただし咢が持つ“牙の玉璽(レガリア)”と地下闘技場(アンダー・コロッセオ)を賭けたA級(バトル)の。
 アキラは思わず眉を寄せた。「牙の王」咢の名はA.T.界全土に轟き、最近では挑戦者など殆どいない。その無謀な挑戦者(おろかもの)の名前を見た瞬間、アキラの表情は凍りついた。

「――蓮!!」

 試合の夜、息を切らせて地下闘技場へ駆け込んだアキラは、何百という観衆に囲まれて咢と対峙する蓮の姿を見つけた。
 やはり自分の見間違いなどではなかった。招待状に記された挑戦者の名前も、今、あそこで「牙の王(アギト)」と対峙する彼女の姿も。

「どういうことなんだ、蓮!? 何でこんなことに……!」

 観客席から飛び出し、アキラは蓮に詰め寄った。しかし蓮は「邪魔しないで」と冷たくあしらい、再び咢へ向き直る。

「これ、わたしが言い出したこと。咢が受けてくれた」

 強い口調で言い放つ蓮に、アキラは怯んだように口を閉ざす。こんな姿の彼女を見るのは初めてだった。

「アキラ……そいつの色仕掛けで脳味噌まで溶けちまったか? テメエは単に利用されてるだけだって何で気がつかねぇ?」

 困惑するアキラを侮蔑の眼差しで一瞥し、咢が冷然と吐き捨てた。思わず目を剥くアキラに、蓮は淡々と語り始めた。

「……わたしの哥哥(おにいちゃん)、A.T.パーツの闇ブローカーね。日本に“牙の玉璽”盗みにきてたけど、失敗して、香港(くに)の仲間に脅されてる」

 だから自分はアキラに近づいた。「牙の王」の弱点を探るために、兄の代わりに自分が玉璽を奪うために。利用したことを謝罪する蓮に、アキラは何も答えない。
 そういうことだ、と咢が嗤った。この底抜けのお人好しめが、自分の愚かさに呆れるがいい。そこの女狐さえ血達磨にすれば、アキラ(このバカ)も目が覚めるだろう。

「わたし勝つね! 勝って……飛んで帰るね! 玉璽を()って、困ってる哥哥、わたしが助け出してみせるね!!」

 悲痛な表情で叫ぶ蓮を、アキラは無言で抱きしめた。

「飛ばなくていい」

 蓮の背中を両腕で掻き抱き、その耳元でアキラが囁く。

「涙を枯らして、血まみれの羽を背負って、自分まで殺さなければ飛べない“空”なんか……飛ばなくていい。俺は、俺だけは君を置いて飛んでいったりはしないから」

 だから一緒に、この檻の中で生きよう。アキラの突然の告白(プロポーズ)に、蓮は一瞬呆然と目を見開き、やがて安心したような笑顔でアキラの大きく逞しい胸に顔を埋めた。
 咢は愕然と目を見開いた。何だそれは。それでいいのか、お前はそんなことで満足するのか? 裏切られたような絶望感が憎悪の炎となって、咢の胸の中で燃え上がる。

「アキラァアアアアアッ!!」

 絶叫する咢をアキラが振り返り、拳を握りしめて宣戦布告する。

「“牙の玉璽”は、俺が奪る!!」

 その夜、無敗を誇った「海の王(リヴァイアサン)」の牙は折れ、新たな「牙の王」が地下闘技場(アンダー・コロッセオ)に誕生した。






 翌朝、アキラは海人の部屋まで足を運んだ。その手の中には辞表が握られている。
 善良な市民の守るべき警察官が私闘を行い、部隊の財産(きりふだ)である玉璽まで奪ってしまったのだ。最早この部隊にはいられないだろう。
 そしてアキラ自身も、部隊に留まるつもりは毛頭なかった。蓮と二人で生きると約束したのだ。こんな居心地のいい“巣”は足枷以外の何物でもない。

「随分と派手に暴れたらしいな、アキラ?」
「すいません、海人さん」

 アキラの姿を見るや、開口一番に嫌味を飛ばす海人に、アキラは素直に頭を下げる。

「海人さん。今日は俺、貴方に言いたいことがあって来ました」
「ほぉ? 奇遇だな、ちょうど俺もお前に言いたいことがあったんだ」

 真剣な表情で口火を切ったアキラに、海人はそう言って机の引き出しから一枚の紙を取り出す。出向命令書。海人から手渡された紙の表面には、太字でそのように記されていた。

「好き勝手しやがった(ペナルティ)だ。アキラ、お前ちょっと「香港警防」まで出向してこい」

 まるで煙草の買い出しでも頼むように軽い口調で告げられた海人の命令に、アキラは絶句した。



 ――To be continued



[11310] Trick:28.5(破)
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/03/12 11:02
 香港国際警防隊。その名の通り香港に本部を置き、世界中で活動するこの組織は、一言でいえば“最悪で最強の正義”である。
 法を守るためならば如何なる法をも打ち砕き、悪を裁くためにならどんな悪にでもなる。最悪な代わりに最強の、世界でも屈指の司法集団。その本部(オフィス)に、宇童 アキラはいた。

「本日付で警視庁より出向してきました、宇童 アキラ巡査であります」
「六番隊隊長、陣内 啓吾だ。香港警防へようこそ、アキラ君」

 背筋をのばして敬礼するアキラに、(デスク)につく壮年の男――陣内が柔和な笑みを浮かべて頷く。

「君のことは海人からよく聞いているよ。自慢の最高傑作(おしえご)なんだってね?」
「いえ、そんな……」

 陣内の賛辞に、アキラは謙遜したように首を振る。数ヶ月前ならば天狗になっていたことだろう。しかし今の彼にとって、陣内の言葉はあまりにも重かった。
 陣内 啓吾、通称(コードネーム)“樺一号”。実力主義である香港警防において隊長にまでのし上がるほどの実力者と、特殊部隊の隊長とはいえ一介(ただ)の警察官にすぎない海人の関係は分からない。
 本人は「ちょっとした知り合い」としか言わなかったが、実は海人が香港警防出身で陣内とは同僚だった―――などと言われても別段驚きはしない。寧ろあの人ならあり得る。
 だが幸運にも、アキラは海人の過去を訊き出すような度胸がなかった。もしも実行していれば、きっと今頃は香港ではなく東雲湾(うみ)の底に沈んでいただろう。

「さて……アキラ君、到着早々で申し訳ないんだが、君にはやって貰いたいことがある」

 改まったように居住まいを正し、陣内が真面目な表情で口を開いた。

「知っての通り、香港警防(ここ)は完全な実力主義だ。互いの戦力把握も兼ねて、君には六番隊(ウチ)の誰かと模擬戦をして欲しいんだが―――」

 陣内は傍らの女性を横目で見遣り、しかし「いやいや」と即座に首を振った。幾らなんでも彼女が相手ではイジメが過ぎる。
 そのとき、陣内の脳裏を一人の女性の顔がよぎった。傍らに立つこの副官に顔も戦闘スタイルもよく似た娘である。彼女ならば新入りの相手として妥当(ちょうどいい)かもしれない。
 美沙斗、と陣内が再び傍らの女性を振り向いた。陣内の呼びかけに副官の女性――御神 美沙斗が「はい」と反応する。

「彼女の仕上がりはどんな感じだ?」
「……上々かと」

 美沙斗の返答に陣内は満足そうに頷き、アキラを振り返って口を開いた。

「じゃあアキラ君、早速演習場へ行こうか」



 陣内が「演習場」としてアキラを案内した場所は、市街地の外れにある雑居ビルだった。聞けばこの建物は香港警防の所有する物件で、主に屋内戦の訓練などに使うのだという。
 建物の前には先に出発した美沙斗の他にもう一人、眼鏡をかけ、長い栗色の髪を三つ編みにした二十歳前後の女性が佇み、二人の到着を待っていた。

「彼女は知人の娘さんでね、ここ数年は夏休みなんかを利用して鍛えてやってるんだ」
「高町 美由希です。よろしくね、アキラ君」

 陣内の紹介を受け、美由希と名乗った女性がアキラに会釈する。その両手には円筒状のケースが大事そうに抱えられているが、銃は持っておらず、A.T.すら履いていない。

「貴女が俺の相手なんですか?」

 戸惑いながら尋ねるアキラに美由希は頷き、ケースの中から細長い棒状の何かを二つ取り出す。小太刀だった。

「陣内さん……アンタ俺を舐めてんですか?」
 アキラは剣呑な表情で陣内に尋ねた。日本ではA.T.と銃器で武装した凶悪犯を相手に戦ってきた自負がある。それが何故、A.T.も履いていない女性と戦わなければならない?
 美由希の武器が小太刀であるという事実もアキラは引っかかった。銃や近代兵器が主流である現代の戦闘において、刀を使うなど時代錯誤(ナンセンス)も甚だしい。

「地の利はあるでしょうが、銃も近代兵器も、ましてやA.T.も使わない戦闘には限界があります。刀だけではA.T.使い(ライダー)には勝てません」
「確かに限界はあるわね。刀だけでは近代兵器には勝てない、そんな限界が」

 強い口調で主張するアキラに、美由希が同意するように頷く。しかし直後、美由希は「でもね」と言葉を続けた。

「その限界は―――“ここ”じゃないの」

 眼鏡を外し、美由希は不敵に微笑しながら言い放つ。その言葉の意味を、アキラは十数分後、身をもって思い知ることになった。







 迫る迫る迫る迫る迫る―――息つく暇もなく放たれる美由希の斬撃の嵐を、アキラは躱し、逸らしながら必死に逃げ続ける。
 しかし逃げ惑うアキラを嘲笑うかのように、美由希はいとも容易くアキラに追いつき、回り込み、逃げ道を塞いで苛烈な攻撃を繰り出す。
 今やアキラは獣ではない。眼前に迫る圧倒的な脅威に翻弄され、為す術もなく追い詰められる哀れな獲物だった。
 化け物め! アキラは歯噛みしながら自動小銃(アサルトライフル)を撃ち放った。だがその直後、美由希の姿が突如として視界から消え、ほぼ同時に鋭い斬撃が死角(うしろ)からアキラに迫る。
 アキラは背後を振り向きながら自動小銃を構えた。だが次の瞬間、足裏のホイールが何かに躓き、アキラの体勢が大きく崩れる。
 急降下する視界の端に、アキラは鈍色の輝きを見た。地面に突き刺さる小さな刃物、美由希が投擲した投げナイフである。
 アキラは咄嗟に身を捻り、両足を踏ん張って転倒を回避。再び自動小銃構え直すアキラの手の甲に、しかし次の瞬間、美由希が投擲した投げナイフが突き刺さった。
 思わず自動小銃を取り落とすアキラの顔面に、閃光のように鋭く突き出された美由希の小太刀の柄が迫る。
 今だ! アキラは小太刀の柄を額で受け止め、アキラは拳を握って美由希に殴りかかった。どんな達人でも攻撃した瞬間だけは動きが止まる。その一瞬が、唯一の勝機(チャンス)となる。
 しかし隙を衝いて放たれたアキラの決死の一撃も、この化け物には通用しなかった。アキラの拳は鋼鉄の糸に絡め取られ、美由希まで届かない。
 美由希の双眸が鋭く煌めく。次の瞬間、横薙ぎに振り抜かれた小太刀の峰がアキラの鳩尾にめり込んだ。苦痛に呻きながら膝をつくアキラを見下ろし、美由希は口を開いた。

「……まだやるの? これでもう七度目だよ?」

 美由希の科白に、アキラは痛みとは違う意味で顔を歪める。彼女の言う通り、アキラは既に七度も致命的な攻撃を受け、こうして地べたに手をついている。
 投げナイフで何度も刺された手の甲は血で真っ赤に染まり、もしも美由希が“本気”で殺しにきていたならば、アキラが死んだ回数は七回どころではない。
 手加減されている。だがそれでも、自分は彼女にただの一度も攻撃を当てられずにいる。そんな屈辱を許容できるほど、アキラは寛大(おとな)ではなかった。

「まだだ、まだ俺は終わってない!!」

 アキラは怒号を上げながら再び立ち上がった。自動小銃(アサルトライフル)を捨て、兵士ではなく一人のライダーとして―――「牙の王」として美由希に最後の戦いを挑む。
 アキラの背後に技影()が顕現した。鍛え抜かれた筋肉が唸り、A.T.に組み込まれた“牙の玉璽(レガリア)”が吼える。
 静止状態からトップスピードまで急加速、そして再び静止状態へ急停止。0―100―0(ゼロ―マックス―ゼロ)の“走り”が生む膨大な制動エネルギーが蹴りとともに放たれ、全てを引き裂く“牙”となる。

 ――技・AKIRA Bloody armor fang on gigaers!!

 大気を切り裂きながら迫る巨大な衝撃波を、美由希は地面スレスレまでしゃがみ込むことで躱した。美由希の頭上を“牙”が掠め、三つ編みの髪を根元から切り裂く。
 直後、美由希は全身のバネを利用して跳躍し、アキラの懐へ飛び込んだ。そこっ! 美由希の怒号が鋭く轟き、小太刀の切っ先が煌めく。

 ――小太刀二刀御神流奥義・射抜!!

 次の瞬間、突き出された美由希の小太刀がアキラの脇腹を貫いた。咳き込んだ口から血反吐が飛び散り、アキラの身体がぐらりと傾く。
 暗転する意識の中で、アキラは自分を呼ぶ誰かの声を聞いた。霞む視界の片隅を見知った少女の泣き顔がよぎる。あれは―――、







 気がつけば、アキラは本部の医務室に寝かされていた。刺された手の甲も脇腹も既に処置(てあて)が施されている。

「おお、アキラ君。目が覚めたのか」

 医務室に入って来た陣内が、ベッドの上で起き上がるアキラを見て安堵の表情で声をかけた。その両脇には美沙斗や美由希の姿もある。

「いや、済まないね。出向初日からこんなことになってしまって」
「ごめんなさい……」

 深々と頭を下げる陣内と美由希に、アキラは「いえ」と首を振った。

「俺もいい教訓になりました。「超獣」とか「牙の王」とか呼ばれてても、俺も所詮は井戸の底の蛙だったんだなって」
「ほぉ? それは僥倖。つまり君はそれだけ“空”に近づいた訳だ」

 陣内の意味深な言葉に、アキラは怪訝そうに「空?」と訊き返す。首を傾げるアキラに、美由希が微笑しながら補足した。

「井戸の底の蛙の故事(はなし)には、実は続きがあって、一般に知られてる意味とは少し違うの。井蛙不可以語於海者(井の中のカワズ大海を知らず)而知空深(されど空の深さを知る)―――ってね」

 井戸の底に閉じ込められた蛙がずっと憧れ見上げ続けるもの、それは海ではなく大空だった。不自由な囚われの身だからこそ、蛙は誰よりも自由の意味を知っているのだ。

「アキラ君は自分で創った狭い井戸の中から飛び出した、それだけ“空”へ近づいたってことだよ。まだまだ強くなれるよ、君は」

 そう言ってアキラを元気づける美由希の頭を、陣内が横から小突いた。「痛っ」と言いながら頭を押さえる美由希を半眼で睨み、陣内は厳しい口調で叱る。

「偉そうに講釈垂れてんじゃねーよ。誰がこの即戦力をここまでズタボロにしたと思ってんだ?」
「うう、本当にごめんなさい……」

 意気消沈する美由希の姿に溜息を吐き、陣内はアキラへ向き直った。

「アキラ君。今日は仕事の方はもういいから、この後は街へ買い物にでも行くどいい。香港に来たばかりで、生活必需品もまだ買い揃えていないだろう?」
「あ、それなら私が案内するよ」

 陣内の提案に美由希が便乗し、アキラを置き去りにしてとんとん拍子に今後の予定が決まっていく。アキラは「あの」と口を挟んだ。

「だったらもう一人、一緒に連れて行きたい子がいるんですけど……」

 アキラの思わぬ言葉に、陣内達は思わず顔を見合わせた。






「――アキラ、美由希! こっちね、そこの福建炒飯と焼豚飯が絶品よっ」

 アキラの手を引っ張りながら、蓮が屋台の一つを指差して叫ぶ。まるで子供のようにはしゃぐ二人の姿を眺め、美由希はくすりと微笑を零した。
 買い物客でごった返す夕暮れの市場(マーケット)を、三人は蓮の先導で、人ごみを縫うように進んでいく。
 香港で生まれ育った蓮は美由希以上に周辺の地理に詳しく、いつの間にか案内役は彼女に取って代わられていた。

 何故、蓮がアキラとともに香港に来ているのか。それは出向の際に海人から彼女の身柄を預けられたからに他ならない。
 海人曰く、「一度抱え込んだのなら最後までお前(アキラ)が面倒を見ろ」とのことである。言われるまでもなく最初からそのつもりだったアキラにとっては好都合だった。
 ちなみに蓮を迎えに行く際、美由希や陣内から「彼女持ち」だの「両手に華」だのと散々からかわれたのは完全な余談である。

「アキラ君、傷の方は痛まない?」

 心配そうに尋ねる美由希に、アキラは「大丈夫です」と頷いた。ずっと特殊部隊員として凶悪犯と戦ってきたのだ、この程度の怪我は慣れっこだった。
 それに脇腹を小太刀が貫通したとはいえ、背骨や内臓には傷一つついていない。彼女の剣の腕前には舌を巻いてしまう。
 アキラの返答に、美由希は「そう」と安堵の息を吐く。やり過ぎてしまったのではないかと心配していたが、元気そうで何よりである。彼の身体の頑丈さに救われる気分だった。

「美由希さんは、やっぱり将来は香港警防に?」
「将来の一つの道筋だとは思ってるけど、私はまだ大学生だし、それに家業もあるから……」

 アキラの問いに、美由希は首を振って答えた。家業、とアキラは首を傾げる。やはり剣道の道場だろうか、それとももしや必殺仕事人(ヒットマン)
 頭の中に浮かぶ可能性を如実に表情に出すアキラに、美由希は苦笑しながら答えを口にする。

「喫茶店だよ。喫茶「翠屋」って言う小さなお店で、地元ではちょっとした人気店なんだから」

 あまりにも予想外な美由希の答えに、アキラと蓮は同時に「ええっ」と驚愕の声を上げた。二人の反応に美由希は笑う。
 そのとき、不意に美由希の表情が曇った。どこか寂しげな表情で空を見上げ、美由希は静かに言葉を続ける。

「私、三人兄妹の長女(まんなか)なんだけど、兄は婿入り(けっこん)しちゃったし、妹も中学を卒業したら自分の道に進むって言ってる。私まで出て行ったら、翠屋(みせ)を継ぐ人が誰もいなくなっちゃうよ」
「美由希さん……」

 淡々とした口調で独白する美由希に、アキラも蓮もかける言葉が見つからない。沈黙する二人に、美由希は「あはは」と明るく笑いかけた。

「――なんてね。別に可能性が皆無(ゼロ)って訳じゃないよ? 翠屋の店員(バイト)には筋がいい娘が多いから後継者は彼女達の誰かになるかもしれないし、私も剣には誇りを持ってるしね」

 美由希はそう言ってこの話題を打ち切り、蓮お勧めの屋台に入って炒飯と焼豚飯を注文する。

「あ……そう言えばアキラ君、陣内さんから伝言を一つ預かってたんだった」

 不意に美由希がアキラを振り返り、思い出したように口を開いた。怪訝そうに眉を寄せるアキラに、美由希は言葉を続ける。

「香港警防は三日後、この辺りで幅を利かせるA.T.パーツの密売組織の摘発を行う予定なんだけど、作戦にはアキラ君にも参加して欲しいんだって」

 美由希から伝えられた陣内の命令に、アキラの表情が一変した。その顔からは笑みが消え、まるで獲物を狙う獣のように双眸が細まる。

「詳しいことは明日の朝にでも陣内さん本人に訊いてみて」
「了解しました」

 狩人の表情で美由希の言葉に頷くアキラは、このとき気づいていなかった。蓮が硬い表情を浮かべ、二人の会話を一字一句聞き逃すまいと集中していたことを。
 その夜のことだった。蓮は“牙の玉璽(レガリア)”とともに、アキラの前から姿を消したのは……。



 ――To be continued



[11310] Trick:28.5(急)
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/05/02 23:28
 蓮が“牙の玉璽(レガリア)”を持って失踪したという報せは、事件発生後すぐに香港警防を駆け巡った。報告を受け、陣内は動ける隊員を緊急招集。全力で蓮の捜索に当たらせている。

「すいません、陣内さん。こんなことになってしまって……」
「いや別にどうってことないよ。レガリアって言っても所詮は君の私物だし、俺はそんなものに興味なんてないしね」

 隊員達が慌ただしくオフィスを動き回る中、申し訳なさそうに頭を下げるアキラに、陣内は笑って掌を振る。

「問題なのは、“敵”にこちらの計画がバレたことだな。このままでは香港警防(おれたち)が踏み込む頃には、連中とっくに雲隠れしてるだろう」
「“敵”……ですか?」

 怪訝そうに首を傾げるアキラに、陣内達が呆れたような表情を浮かべる。もしかして、本当に気づいていないのか?

「……近々摘発する予定だったA.T.パーツ専門の密売組織「麒麟」、彼女はそこのスパイだったのよ」

 淡々と告げられる美沙斗の言葉に、アキラは愕然と目を見開いた。

「アキラ達帰った後、我々すぐ調べて裏取りマシタ。蓮ちゃんの哥哥(おにいさん)、「麒麟」の下っ端構成員(メンバー)ネ。今彼女、きっと組織の本拠地(アジト)向かってマス」

 癖のある片言の日本語で喋る女性隊員、莵 弓華の科白に、アキラは再び瞠目する。それでは香港警防は、最初から彼女を疑っていたということか?

「じゃあ……だったらそのアジトに先回りして、蓮を保護することができれば―――」
「無理だね」

 興奮したように語気を荒げながら主張するアキラに、陣内はそう言って首を振る。

「だって俺達、まだ「麒麟」のアジトを特定できてないんだぜ?」

 だから今必死で彼女を捜索(さが)してんだろ―――と、さも当然のように告げられた陣内の科白に、アキラは漸く全てを理解した。

「……利用したんですね? 蓮を。彼女がこうするって分かっていたから、組織をあぶり出すための捨て駒に使ったんですね!?」

 息巻くアキラに、陣内は沈黙を返す。それは無言の肯定を意味していた。アキラは歯噛みに、デスクに背を向けて歩き出した。

「どこへ行く? アキラ君」

 遠ざかるアキラの背中に陣内が声をかけた。アキラは振り返り、陣内を睨みながら「決まっている」と口にする。

「蓮を追います。必ず見つけ出して、俺が彼女を止めてみせます。捨て駒になんか絶対にさせない!」
「却下だ。宇童 アキラ隊員、今は動くべき時じゃない。これは命令だ!」
「そんな命令には従えません!」

 陣内の制止を振り切り、アキラはオフィスの出口へ――“外”へ走る。何が最強最悪の正義だ、女の子一人守れない正義などクソ喰らえだ!
 走り去るアキラの背中を無言で見送り、陣内は小さく吐息を漏らす。やれやれ、やっと行ったか(・・・・・・・)

「……これでよかったんですか?」

 美沙斗の問いに、陣内は「いいんだよ」とぶっきらぼうに返す。その口元は、僅かに笑っていた。



 激情のままに香港警防を飛び出し、アキラは蓮を捜して見知らぬ夜の街を我武者羅に駆け回る。
 生身の足で走るのは一体いつ以来だろうか? A.T.(つばさ)のない今の身体は鉛のように重く、まるで自分の肉体でないように感じる。何という鈍重さ、俺はこんなにものろまだったのか。
 アキラの脇腹がズキリと疼く、美由希に刺された傷口が開いたのだ。痛みに顔を歪めながら、しかしアキラは足を止めない。立ち止っている暇などない。

「アキラ君!」

 疾走するアキラの背中に、誰かが甲高い声で呼びかけた。美由希である。追ってきたのか、美由希は走るスピードを上げてアキラの隣に並び、息を切らせながら話しかける。

「私も、蓮ちゃん捜すの手伝うよ!」
「美由希さん!?」

 アキラは瞠目したように美由希を見た。自分はともかく、彼女まで命令違反の咎を負うというのか?
 困惑を隠せないアキラに美由希は苦笑し、眼鏡の奥から真摯な視線を覗かせて言葉を続けた。

「私の妹、ちょうどあの娘と同じぐらいだから……放っとけない!」

 そう言って美由希はアキラを追い越し、夜の闇の中へ消える。速い。美由希もA.T.を履かない生身の足、条件はアキラと同じ筈なのに、まるで羽のように軽やかに駆けていく。
 鍛え方が違うということか、アキラは悔しさに歯噛みした。自分も特殊部隊員としてもA.T.使い(ライダー)としても鍛錬を怠ったつもりはないが、彼女のそれは次元が違う。
 言い様のない焦燥感がアキラの胸を焦がす。強くなりたい。美由希よりも、誰よりも太く長い“牙”になりたい。アキラは心の底から渇望した。






 繁華街に隣接する巨大な廃墟群(ゴーストタウン)。かつての再開発ブームの残骸であり、A.T.技術の普及による世界的な経済変革とともに忘れ去られたこの無人の街に、蓮は一人、やって来ていた。
 周囲を取り巻くのは未完成のまま放置された無数の建物。その中の一つに、蓮は鞄を片手に近づく。
 何の変哲もない朽ちた廃墟。しかしその建物こそが、香港だけでなく大陸や日本にまで根を張る違法組織「麒麟」の本拠地である。
 建物の前には数人の男の姿があり、蓮の到着を待ち構えていた。見覚えのある顔ばかりである。兄の仲間――「麒麟」の構成員である。

物品呢(ブツは)?」

 男達の一人が横柄な口調で蓮に尋ねる。蓮は頷き、鞄の中から一足のA.T.を取り出した。アキラから盗んだ“牙の玉璽(レガリア)”である。

我拿来玉璽(わたし、レガリアもってきた)請還我的哥哥(お兄ちゃんをかえして)!」

 蓮が玉璽を手に叫んだ。兄の身柄と“牙の玉璽”の交換、それが組織に提示された取引だった。しかし蓮の要求に、男は首を振って口を開く。

先交付玉璽(まずはレガリアだ)

 男の言葉に蓮は歯噛みした。先に玉璽を渡したところで兄が解放される保証はない、しかし玉璽を渡さなければ兄は絶対に返ってこないのだ。蓮に選択肢はなかった。
 一歩、また一歩と、蓮は引き寄せられるように男へ近づく。そのとき、闇を切り裂くような怒声が突如蓮の背中にかけられた。

「蓮!!」

 蓮は思わず息を呑んだ。アキラの声だ。幻聴(ききまちがい)か? 胸に渦巻く期待と困惑に心を掻き乱されながら、蓮は背後を振り返る。
 幻聴ではなかった。アキラは月の光を背負い、肩を上下させながら蓮の背後に佇んでいた。激情に燃える双眸が蓮を射抜く。蓮は怯えたように一歩後ずさった。

「何で……どうしてなんだ、蓮!?」

 アキラが悲痛な表情で蓮に尋ねる。感情ばかりが先走り、質問どころか言葉にすらなっていない問いだった。しかし蓮には、アキラの言いたいことが手に取るように解った。
 何故“牙の玉璽”を持ち去ったのか、どうして自分を裏切ったのか。聞こえる。アキラの呪詛が、怨嗟の声が、まるで刃物のように蓮の胸を抉る。

「来ないで!」

 蓮は絶叫とともにアキラへ片腕を突き出した。その手には拳銃が握られている。思わず動きを止めるアキラに、蓮は激しい口調で続ける。

「組織言った、“牙の玉璽”持ってこないと哥哥殺すって! これが最後のチャンスって! わたし、絶対に哥哥死なせるの嫌……たった一人の家族だから!!」

 両親は蒸発し、幼い弟や妹は病気で死んでしまい、残った家族は歳の離れた兄ただ一人なのだ。もう誰も失いたくない、もう誰にも置いていかれたくない。
 地下闘技場でアキラに言われた言葉は嬉しかった。しかし、やはりアキラと生きることはできない。裏社会で生きてきた蓮にとって、アキラは眩しすぎるのだ。

「馬鹿な男ね! こんな小娘の色仕掛けに騙されて、仲間も玉璽も全部失って、凄く無様ね! でもわたし謝らない、後悔もしない。哥哥助けるためなら悪魔にだって魂売るね!!」

 喚き散らす蓮を静かに見つめ、アキラは「だったら」と口を開いた。

「だったら何故、君は泣いてるんだ? 蓮」

 アキラの問いに、蓮はハッとしたように指先で頬をなぞった。濡れている、涙だ。アキラの言う通り、自分は泣いているのだ。
 何故? とどめなく頬を伝う涙に困惑しながら蓮は自問する。覚悟などとうに済ませた筈なのに、後悔などしないと決めた筈なのに。なのに何故、こんなにも胸が痛い?

「わたしは……」

 震える声で蓮が呟く。だが、その言葉の続きが形になることはなかった。パン、と乾いた音が周囲に響く。銃の発砲音だ。硝煙のつんとする臭いが蓮の鼻孔を刺激する。
 アキラの身体がぐらりと傾く。蓮は愕然と目を見開いた。自分は撃っていない、拳銃の引き金にかけた指先は1mmも動かしていないのだ。では誰が撃った?

這個第小人(このガキめ)!」

 アキラを見下ろして忌々しそうに吐き捨てたのは、蓮が取引をしていた「麒麟」の構成員だった。その手には拳銃が握られている。アキラを撃ったのはこの男だった。
 蓮は絶叫し、血溜まりの中に倒れ伏すアキラの元へ駆け寄った。しかし蓮が呼びかけても、身体を揺さぶっても、アキラは全く反応しない。

為何殺死完他(なんでアキラをころしたの)!?」

 蓮は男を見上げて叫んだ。憎悪の瞳で睨む蓮に、男は冷然と答える。

知道了這個地方的人弄活不能放(このアジトを知った者を生かしておくつもりない)当然你也(もちろんキサマもな)

 蔑むような口調でそう言いながら、男は蓮の額に銃口を押し当てた。

那個不有用引見(あの役立たずに会わせてやる)你的如願(キサマの望み通りにな)

 男の言葉に、蓮は全てを悟った。兄は既に殺されていたのだ。そして今、用済みになった自分も殺されようとしている。何もかもを失い、捨てられたのは蓮の方だったのである。

「……第愚人(バカみたい)

 空虚な表情で自嘲する蓮に男は酷薄に嗤い、拳銃を握る指先に力を籠める。だが、その引き金が引かれることはなかった。
 横合いから突如現れた血まみれの掌が男の手首を掴み、まるで万力のように締めつける。思わず悲鳴を上げる男の顔面を、振り抜かれた鉄拳が容赦なく打ち据えた。
 昏倒した男が糸の切れた人形のように倒れ伏す。次の瞬間、獣のように荒々しい怒号が轟いた。

「蓮に……彼女に手を出すなっ!」

 蓮は思わず「アキラ」と呟いた。アキラだ、アキラが立っている。血を流しながら、しかしそれでも誇りを失わない力強い瞳とともに、生きて自分の前に君臨している!

「俺は決めたんだ。蓮を守るって、彼女と一緒に生きるって、俺が俺自身に誓ったんだ! そのためなら俺は悪魔すら殺してみせる! 我が「道」は……“牙”!!」

 爛々と輝く瞳で周囲を見渡しながらアキラが叫ぶ。そのとき、聞き覚えのある声が突如その場に響き渡った。

「よく言った、少年!」

 闇を裂くように鋭く響いたその声に、アキラと蓮は「え?」と同時に振り返った。瞬間、まるで地上に星が現れたように無数の眩い光が二人を照らす。
 サーチライトの明かりを背に浴びながら一人の男がアキラ達に歩み寄る。陣内だった。だがこの場にいるのは彼だけではない。
 見渡す限りの人、人、人。廃墟の周囲をぐるりと包囲し、まるで一つの巨大な生き物のように蠢く人の群れがあった。
 ただの群衆ではない。全員が強力な銃器で武装し、全員が同じ黒の制服に身を包み、全員が一つの隊章(エンブレム)の下に結束している。

「香港警防!? いつの間に……」
「いやね、アキラ君が来る前からずーっと待機してたんだよ、俺達。「麒麟(こいつら)」のアジトに先回りして待ち伏せするっていう君の策を採用してね」

 瞠目するアキラに、陣内が人を食ったような笑顔で答える。
 実のところ、蓮を利用するまでもなく、香港警防は既に「麒麟」のアジトを特定していた。この程度の小物がまんまと逃げおおせるほど彼らは甘くない。
 もしもアキラが間に合わなければ、あるいは撃たれた時に再び立ち上がることがなければ、陣内は即座に部隊を動かしていた。
 このタイミングまで手を出さなかったのは、単純にアキラの男としての意地を尊重した結果だった。
 惚れた女の窮地に駆けつけ、格好よく啖呵を切る。そんな男として人生最大とも言える見せ場を邪魔するほど、陣内は無粋ではない。

「……さて」

 陣内はアキラから視線を外し、狼狽する「麒麟」構成員の男達を一瞥した。隠れていた他の構成員が次々と廃墟から姿を現し、銃を構えて部隊を威嚇している。
 陣内は鼻を鳴らし、左右の手に握る短棍――これが陣内の武器だろう――を弄びながら口を開いた。

「俺は別にレガリアなんて興味ねぇし、あんたら売人が鉄砲売ろうが大砲売ろうが知ったこっちゃねぇ」

 淡々とした口調で言葉を紡ぎ、陣内は声の調子を落として「だがな」と続ける。アキラは思わず身震いした。何という冷たく恐ろしい表情を浮かべるのだ、この男は。

「……どんな理由だろうと、下らねぇエゴに子供を利用する奴ぁ許せねぇ」

 陣内はそう言って短棍を団扇のように持ち上げた。その瞬間、香港警防の隊員達に緊張が走る。
 六番隊隊長樺一号が、自分達の「王」が遂に動く! 命令(オーダー)を待ちわびる部下の期待に答えるように、陣内は短棍を振り下ろしながら再び口を開いた。

進軍せよ(ゴー・アヘッド)!」

 陣内の号令とともに香港警防の精鋭達が自動小銃構え、隊列を組んで一斉掃射する。「麒麟」の構成員達も発砲して応戦、壮絶な銃撃戦が幕を開けた。
 銃声が轟き、ガラスが割れ、コンクリートが抉れ、肉片が飛び散り、血飛沫が舞い、そして断末魔の絶叫が響き渡る。まさに修羅場、まさに地獄絵図である。
 混迷を極める戦場で、一際異彩を放つ者達がいた。一人は部隊の指揮官、陣内 啓吾その人である。両手の短棍で次々と敵を屠る彼の姿は、まさに闇に潜む「死神」だった。
 陣内が「死神」ならば、残りの二人は「鬼」である。両手に握る小太刀を振るい、飛び交う銃弾の雨の中を駆け抜ける二人の女。美沙斗と美由希だった。

 御神の剣。それを極めた者の前では間合いも距離も武器の差も、その全てが無意味(ゼロ)になると謳われる秘剣。それが二人の流派だった。
 人間の脳は300コマ/毎秒以上、時間にして0.003秒という凄まじいスピードで物体を捉えているが、実際に脳が知覚しているのは80コマ/毎秒でしかない。
 ところがある種の緊張状態や生命の危機に瀕すると、脳は視覚以外の全ての情報を遮断し、300コマ以上全ての情報を知覚するようになる。「知覚加速」という現象である。
 通常の人間が「知覚加速」に陥った場合、加速した知覚に肉体が全く追いつけず、まるで己の時が止まってしまったかのような錯覚する。
 しかし御神流には、己の肉体の(リミッター)を外すことで凍りついた時の中を自在に動く奥義がある。その境地を、彼らは「神速」と呼ぶ。

 美由希の視界が白黒に変わり、自分も周りも、全ての動きがスローモーションになる。神速の領域に入ったのだ。
 一瞬が十秒にも一分にも引きのばされ、周囲を取り巻く敵の挙動も、迫りくる銃弾の軌道も、今の美由希は手に取るように知覚できた。
 銃弾を躱し、小太刀を鞘に納めながら(ターゲット)に肉薄。そして間髪入れずに抜刀。横薙ぎに振り抜かれた刃が敵の脇腹を直撃し、肋骨を粉砕した。峰打ちである。
 悶絶する敵に追い討ちをかけるように、美由希は再び斬撃を放った。肺と横隔膜に衝撃を与え、敵の意識を完全に刈り取る。

 ――ここまでの時間、僅か5秒。

 倒れ伏す敵に一瞥を向け、美由希は僅かに表情を曇らせた。悪人とはいえ、やはり人を傷つけるのは気分が悪い。
 剣は凶器、剣術は殺人術。そしてそれらを扱う剣士という人間は――たとえどれだけ理想(きれいごと)を並べようとも――殺人鬼でしかない。畢竟、それが事実、変えられない現実なのだ。
 だが、それでも譲れない誇りがある。護るべき人達がいる。それらのために剣を振るうことに、美由希は何の迷いもない。両手の小太刀を握り直し、美由希は再び戦場へ駆けた。

「デタラメだな……」

 圧倒的とも言える香港警防の猛攻に――特に美由希達の超人的な戦いぶりに――アキラが呆れ混じりに呟いた。その声にはどこか他人事のように達観している。
 否。事実として、戦場の混乱はアキラを置き去りにしたまま激化していた。最早この戦いはアキラにとって他人事に等しい。
 陣内達が介入した瞬間、戦いの構図は蓮と“牙の玉璽”を巡るアキラと裏組織の対立から、司法集団香港警防と非合法組織「麒麟」の対立へと置き換わった。
 今やこの場にアキラも蓮も必要ない。引き金を引いたのは彼らだったかもしれないが、戦いは既に二人の手を離れているのだ。
 アキラにできることは何もない、彼の役目はもう終わったのだ。だが、このまま何もできずに見ているだけというのは……何となく悔しい。アキラは拳を握りしめた。
 そのとき、廃墟の壁が爆破されたように突如吹き飛んだ。爆音が轟き、粉砕されたコンクリートの破片が雹のように頭上から降り注ぐ。
 もくもくと立ち昇る塵煙の奥から巨大な人型の影が姿を現わす。地を揺らす駆動音、迷彩色に塗装された装甲、そして黒光りする無骨な砲身。二本足で歩く戦車がそこにいた。

「A.T.歩行戦車……あんな隠し玉(おくのて)まで用意してやがったのか」

 陣内が苦々しそうな表情で唸る。歩行戦車の武装はどれも対物火器(アンチマテリアル・ウェポン)である、あんなものに撃たれれば人間などひとたまりもない。今や形勢は完全に逆転した。
 鋼鉄の砲身に紫電が走る。ただの大砲ではない、A.T.技術を応用した電磁加速砲(レールガン)だ。超音速で射出される弾丸は、直撃すれば人間を瞬く間に肉塊(ミンチ)に変える。

「……俺がやりますよ、陣内さん」

 部隊に退避命令を飛ばす陣内に、アキラが静かに声をかけた。その両足にはいつの間にか“牙の玉璽”が装着されている。陣内はアキラを振り返り、呆れたように首を振った。

「気持ちは嬉しいがね。アキラ君、幾ら君でもアレの相手は無理だ」

 アキラの“牙”は陣内も見た。しかし “牙”では歩行戦車の頑強な装甲を貫くには威力が足りない、とても太刀打ちできるとは思えない。
 第一、今のアキラは重傷を負っているのだ。“牙”を撃つどころか、まともに走れるかすら怪しい。

「獣はね、進化するんですよ」

 陣内の懸念を何でもないことのように笑い飛ばし、アキラは淡々と言葉を紡いだ。

「魅せてあげますよ、俺の“進化した牙”を」

 そう言ってアキラはA.T.を走らせ、歩行戦車へ突進した。陣内が咄嗟に制止の声をかける。瞬間、アキラの身体がぴたりと止まった。だが陣内の呼びかけに反応した訳ではない。
 アキラが右足を鋭く蹴り上げた。ホイール内部で制動エネルギー回収機構が唸りを上げ、足先から衝撃波の“牙”が放たれる。だが短い。助走が足りていないのだ。
 直後、アキラは“牙”を撃った右足で地面を踏みしめ、続けざまに左足を蹴り上げた。“牙”の二蓮撃。美由希の二刀流をヒントに生み出した、アキラの新たな必殺技である。

 ――技・AKIRA Bloody armor over skill GIgaers Cross!!

 二つの衝撃波が空中で十字に交差し、互いに威力を高め合いながら歩行戦車を直撃した。鋼鉄の巨体がびりびりと震撼する。
 一瞬の静寂。何も起きない? 否。A.T.電磁加速砲の砲身が耳障りな音を立てながらアームから滑り落ち、ごとりと地面に落ちる。
 次の瞬間、歩行戦車の両脚が根元から引きちぎられ、支えを失った本体が前倒しになるように地上へ叩きつけられた。

「確かに戦車の装甲は硬い、俺の“牙”でも歯が立たないだろう。だが……ならば歯が立つ場所(・・・・・・)に牙を突き立てればいい」

 それは例えば装甲の隙間、例えば関節部。そういった構造上どうしても脆くなる部分をピンポイントで狙い、アキラは“牙”を撃ったのである。

「人型に進化したのが運の尽きだったな」

 憐れむようなアキラの呟きとともに、バラバラに解体された歩行戦車が爆発。赤々と燃え立つ巨大な火の玉に変わった。

「凄い……」

 美由希は思わず感嘆の声を漏らした。御神の剣士(じぶんたち)は、相手が人間であれば――たとえ銃を持っていたとしても――百人程度ならば単独で制圧できる。
 しかし流石に戦車には対抗できない。鍛え抜いた己の肉体と、その延長として使える刀を武器に戦う御神の剣士にとって、それが限界なのだ。
 美由希は御神流が最強とも万能とも思っていない。できないことは素直に認め、自分達にできないことができる人間は称賛する。
 だからこそ――方向性(ベクトル)は若干違うものの――自分達と同じように己の力と技を極限まで高め、自分達にできないことをやってのけたアキラを、美由希は純粋に尊敬した。

 虎の子(おくのて)の歩行戦車まで破壊され、「麒麟」側の士気はガタ落ちだった。多くの構成員が武器を捨て、香港警防へ投降する。だが、中には往生際(あきらめ)の悪い者も僅かながら存在した。

這個第死没死了(この死にぞこないめ)!!」

 抵抗を続ける構成員の一人が怒号を飛ばしながらアキラへ銃を構える。響き渡る発砲音。しかし次の瞬間、倒れたのは構成員の方だった。

「……もう誰も失くしたくないね」

 震える声で蓮が呟く。その手に握られる拳銃は熱を孕み、銃口からはゆらゆらと硝煙が立ち昇っている。銃を撃ったのは彼女だった。
 蓮は拳銃を持ち上げ、自らの額に銃口を向けた。自殺するつもりだ! 陣内の怒号が轟き、美由希が神速を発動させて蓮に迫る。だが、間に合わない。蓮の指先に力が籠もる。
 次の瞬間、闇の中に銃声が響いた。しかし撃ち出された弾丸は、蓮の頭を貫いてはいなかった。銃弾が掠めたこめかみから血を流しながら、蓮は愕然と目を見開いた。
 いつの間にか、蓮の眼前にアキラが立ち塞がり、怒りの瞳で彼女を見下ろしていた。発砲の瞬間、アキラは蓮の手首を掴み、銃口を無理矢理ずらしたのである。

「……手、痛いね。放して、アキラ」

 アキラから眼を逸らし、蓮は憮然と口を開いた。しかしアキラは黙したまま、蓮の手を放そうとしない。

「放してよ!」

 蓮は苛立ったように叫び、もう片方の手でアキラの胸板を殴りつけた。どん、と硬い音がその場に響く。しかしアキラは微動だにしない。蓮の目から涙が溢れる。

「何で……何で死なせてくれなかったの!? わたしにはもう何も、何もないのに! もう生きてる意味も、理由すらもないのに!!」
「俺がいる!!」

 泣き喚く蓮にアキラも叫んだ。

地下闘技場(アンダー・コロッセオ<)で君に誓った筈だ、蓮。俺が、俺だけはずっと君の傍にいる! 生きる理由がないのなら、俺のために生きてくれ!!」

 激情のままに叫ぶアキラを、蓮は呆然とした顔で見上げた。手首を掴むアキラの手が震えている。
 アキラは泣いていた。嗚咽も涙すらも見せていないが、それでも蓮には理解できた。彼は今、心の中で泣いているのだ。
 蓮の手首を握るアキラの手が緩む。だらりと腕を下ろした蓮の手の中から拳銃が滑り落ち、ゴトリと重い音を立てて地面に転がった。

「……もう、何も俺から奪わないでくれ」

 絞り出すようなアキラの言葉に、蓮はその場に泣き崩れた。号泣する蓮の背中に腕を回し、アキラは無言で彼女を抱きしめる。
 A.T.は「空を飛ぶ」という人の夢を叶える。しかしA.T.は決して魔法の靴でも万能の道具でもない。アキラは初めてそのことを思い知った。
 どれだけ強大な敵を倒せたとしても、泣いている女の子ひとり救うことができない。そんな「魔法」に、果たしてどれだけの意味があるというのか。
 アキラの胸の中で蓮はいつまでも泣き続けた。彼女の涙を止める術をアキラは知らない。アキラはどうしようもなく無力だった。
 ならばせめて、彼女の涙は俺が全て受け止めよう。泣きじゃくる蓮の肩を抱き、アキラは己に誓った。
 蓮が光の中で生きられないなら、俺が彼女と同じ場所まで堕ちよう。暗い井戸の底で、彼女と一緒に生きよう。それは悲愴な決意だった。






 三ヶ月後。香港警防への出向を終えて帰国したアキラは、そのまま海人の部隊を除隊。蓮とともにその行方をくらませた。



 ――The END



[11310] Trick:29
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:a9d217f5
Date: 2010/05/03 23:33
 地下闘技場(アンダー・コロッセオ)は沈黙に包まれていた。会場の誰もが言葉を忘れ、画面の中で展開される激闘を見守っている。
 傷つき、倒れ、それでも戦い続ける男達。こんなにも苛烈な戦を魅たことがなかった。こんなにも凄惨な戦を見たことがなかった。

「やめて、もうやめてよ!」

 スバルが泣きそうな表情で叫んだ。目を逸らしたい、なのに目を離せないのがもどかしい。

「何でそこまでしなきゃいけないの? 何でそんなになるまで戦わなきゃならないの!? こんな悲しい戦、あたしもう魅たくないよ!!」

 当たり散らすように叫ぶスバルに、シムカが隣から諭すように声をかける。

「それが“上”を目指す者の宿命だからよ」

 ハッとした表情で振り向くスバルに、シムカは続けた。

「カラス君達は“上”へ征く道を選んだわ。そして宇童君は“上”に立つ者として、彼らを迎え撃つ義務があるの。この戦いは必然、逃れられない宿命なのよ」

 嘘だ。欺瞞に満ちた己の言葉にシムカは自嘲した。たとえこの戦いが宿命だったとしても、その宿命に宇童を巻き込んだのは他ならぬ私ではないか。

 シムカが宇童と接触したのは十数ヶ月前、彼がまだ「超獣」と呼ばれる以前のことだった。彼らとの邂逅は今でもはっきりと憶えている。
 その時はちょうど換羽の時期と重なり、待ち合わせ場所だった自然公園は抜け落ちた鳩の羽根で一面が白く覆われていた。
 その一角で、宇童 アキラは愛車の大型バイクに体重を預け、無数の鳩と戯れていた―――ように見えた。だが実際は違った。彼は折っていたのだ。鳩の羽を、一心不乱に。
 結果として、宇童との交渉は軌道に乗り、彼はシムカの依頼を承諾してくれた。“雨”の中の交渉だった。降り注ぐのは真っ赤な雨、羽が折れたまま空を飛ぶ鳩の血だった。
 未熟な羽は折れやすく、中に太い血管がある。そして羽が折れたまま飛ぶと遠心力で血が噴き出し、いつまでも止まらない。それを知った上で、宇童は羽を折ったのである。

 ―――鳥は嫌いだよ。無用に俺の頭上を掠める無遠慮さも、羽を折られれば地をのたうつしかない惰弱さもね。

 別れ際、宇童が漏らしたその一言が、あれから一年以上が経った今でもシムカの頭から離れない。
 彼は飛べない自分に誇りを持っている。だがその一途な思いは同時に、羽を広げて飛ぶ者への憎悪でもある。
 もしもイッキが真に“上”へ征く者ならば、越えなければならない。「王」の使命を、玉璽の重さを。その全てを背負って飛ぶだけの“強さ”がなければならない。

「だからスバルちゃん、貴女も眼を逸らしちゃ駄目。彼らの戦いを見届けること、あの子たちが選んだ「道」をその眼に焼きつけること。それが貴女の果たすべき役目だから」

 シムカの言葉に、スバルは沈黙。迷っていた、悩んでいた。シムカの理屈を受け入れるべきか、それとも自分の感情を優先するべきか。悩んで、迷って、それでも答えは出ない。

「……やっぱり納得できないよ、シムカさん」

 逡巡の果てに、スバル弱々しい声でぽつりと零した。

「レガリアとか「王」の使命とか、そんなものが足を地面に縛りつけるなら、そんなもののせいで空が飛べないなら……そんなの全部、棄てちゃえばいい」

 淡々と紡がれるスバルの科白に、鵺が「お前なぁ」と呆れたように口を挟む。その声は怒気すらも孕んでいた。だがスバルは止まらない、畳みかけるように言葉を続ける。

「だってそうでしょう!? レガリアなんて、結局ただの“ちょっと凄いA.T.”じゃない!!」

 スバルの剣幕に気圧され、シムカも鵺も、一瞬言葉を失う。その時、スピット・ファイアが不意に口を開いた。

「……同感だな」

 スピット・ファイアの口から紡がれたのは同意の言葉。シムカと鵺が瞠目したような表情でスピット・ファイアを見る。

「全くもって同感(そのとおり)だよ」

 スピット・ファイアは再び呟いた。極論だった、世界の理も知らない子供の理屈だった。だが無知だからこそ、極論だからこそ、スバルの言葉は真理を衝いているのだ。






 激闘は続く。A.T.を走らせ、雄叫びとともに宇童へ飛びかかるイッキ。しかし直後、宇童の足先から放たれた衝撃波の“牙”がイッキを引き裂いた。
 背中から地面に打ちつけられ、苦痛に呻くイッキを見下ろし、宇童が冷然と口を開く。

「何度やっても同じだ。貴様はもはや、俺の「檻」から逃れられない」

 侮蔑の眼差し、失望に満ちた声。イッキは屈辱に歯噛みした。どうすればいい、どうやったらこの化け物に勝てる?
 容赦なく繰り出される“牙”の猛攻に晒され、今やイッキは満身創痍だった。ジャケットは無惨に引き裂かれ、身体中に裂傷が刻まれている。
 もういいだろう? 頭の中でもう一人の自分(イッキ)が囁きかける。(おまえ)はもう充分戦った、「王」を相手によくやった方だ。もう諦めて、楽になってもいいだろう?
 ふざけるな、とイッキは頭の中の自分に反発した。このまま勝負を諦めろだと? おめおめと負け犬に成り下がれだと? この俺が? ……冗談じゃない!

「諦めちまったらそこで試合終了なんだよ、安西先生ぇえええええええええええっ!!」

 イッキは雄叫びを上げながら勢いよく立ち上がった。轟く怒声が戦場(キューブ)の大気をビリビリと震撼させる。風が生まれた。
 円を描くように腕を動かし、両手で虚空を掴む。「風の道(ウイングロード)」は自ら動いて風を起こす。イッキの前に巨大な風の“面”が形成された。

「はっ! いぃ~感じに“追い風(フォロー・ウインド)”が吹いてきたじゃねーか。このまま一気にキメてやるぜ!!」

 イッキが不敵な笑みを浮かべ、前方に渦巻く風の中心を蹴りつけた。大気が爆ぜ、轟音とともに竜巻が砲弾のように宇童へ撃ち放たれる。

 ――(トリック)・Pile tornado!! 

 コンクリートを抉りながら迫る竜巻の砲弾に、宇童は雄叫びを上げながら自ら突進した。
 宇童は舌打ちした。“牙”を出すための走りは太腿に尋常でない負荷をかける。筋細胞がそれに耐えきれずに破裂して、内出血が外まで染み出しているのだ。
 まだだ、まだ壊れるな! 宇童は悲鳴を上げる己の肉体を叱咤した。あと一歩――否、二歩だけでいい。せめてこの一撃を撃つまで持ち堪えてくれ。
 宇童は地面を踏みしめ、右足を鋭く蹴り上げた。足先が大気を切り裂き、衝撃波の“牙”を撃ち出す。直後、宇童は左足を蹴り上げた。“牙”の二連撃である。

 ――技・AKIRA Bloody armor over skill GIgaers Cross!!

 二発同時に放たれた“牙”と竜巻の砲弾が空中で激突し、せめぎ合う巨大なエネルギーが「檻」の崩壊を加速させる。
 壁が砕け、天井が崩れ、破片や瓦礫が雨のように降り注ぐ。だが、イッキも宇童も逃げようとしない。当然である。戦いはまだ終わっていないもだから。
 技の威力は全くの互角。仮にも「王」と呼ばれる男を相手に、A.T.を始めて三ヶ月前後の新人(ルーキー)がここまで食らいついているという時点で脅威である。
 だがこの戦いに“引き分け”などあり得ない。力が互角ならば、最後の一歩の踏み込みが勝敗を分ける。
 どっちだ? この瞬間、地下闘技場が――否、世界中のライダーが固唾を呑んで戦の行方を見守っていた。この一撃で全てが決まる。どっちだ、一体どっちが勝つ!?
 戦場に設置された中継用カメラが唸りを上げ、搭載された「リード」機能が両者の戦闘力を計測する。70、80、90……両者の数値は瞬く間に上昇し―――、

「カラス―――いや、南 イッキ。いい戦だった」

 宇童が称賛の言葉をイッキにかける。同時に空中でぶつかり合う二人の技の均衡が崩れた。雌雄は決した。最終的な戦レベルはイッキが「99」、そして宇童が……「100」。
 ほんの僅かな、しかし絶対的な二人の差。これまで積み上げてきた時間が、経験が、越えがたい“一歩”の差となって二人の勝敗を分けたのである。

「だが、お前にはまだ……「王」は早いな」

 次の瞬間、宇童の“牙”がイッキの竜巻を押し返し、巨大な風の壁となってイッキを呑み込んだ。







 嗷々と吹きつける風の音が、亜紀人の意識を揺り起こした。戦はどうなった? イッキは? 宇童は!? ズキズキと痛む身体を起こし、亜紀人は周囲を見渡す。
 そして見つけた。イッキに迫る巨大な風の塊、あんなものを喰らったら人間などひとたまりもない。まさに絶体絶命である。
 イッキ君、と亜紀人は思わず叫んだ。しかしどれだけ声を張り上げても、足はぴくりとも動かない。思い通りに動かない己の身体に亜紀人は歯噛みした。
 その時、亜紀人はある違和感に気づいた。視界がやけに広い、普段の二倍以上の範囲を見渡せている。
 亜紀人の困惑は、しかしすぐに納得へ変わった。いつも身につけている眼帯が地面に落ちている、今の自分は両眼で世界を見ているのだ。
 両眼? 最初の疑問が氷解した刹那、新たな疑問が亜紀人の胸中に湧き上がる。両眼で物を見るなどあり得ない。何故ならこの肉体は二人で一つの身体なのだから。
 亜紀人の眼は左眼、右眼はもう一人の自分―――咢のものだ。そうだ、咢。咢はどこにいる?

「アギト……?」

 亜紀人は恐る恐る“自分の中の自分”へ呼びかけた。しかし答えは返ってこない、まるで胸の中にぽっかりと空洞ができたような気分だった。

「咢? 咢!? ねぇ、答えてよ! 咢!!」

 左眼を押さえ、半狂乱になったように亜紀人は叫び続ける。しかしやはり、何も聞こえない。亜紀人の“中”には、もう誰もいないのだ。
 亜紀人は哭いた。信じたくなかった、現実を認めたくなかった。咢が消えてしまったなど、もう二度と会えないなど、そんなことがある筈ないと思いたかった。
 返せ! 天を仰ぎ、亜紀人は涙を流しながら叫んだ。玉璽などいらない、巧く走れなくていい。このまま身体が動かなくなっても構わない。だから咢を―――僕の“弟”を返せ!!

 その瞬間、奇跡は起きた。ガシャン、とまるで檻が開くような音が頭の奥から響き渡る。そして―――、

(……うるせぇなぁ。おちおち死んでもいられないってか?)

 亜紀人の中に、聞き覚えのある“声”が生まれた。






 その頃、イッキは足腰を踏ん張りながら両腕を突き出し、迫りくる風の“壁”を真正面から受け止めていた。

「フンガァアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 雄叫びとともに足裏のホイールを猛回転させ、押し寄せる風の壁を両手で押し返し、イッキは吹き飛ばされまいと必死に耐える。

「ハッ! やっぱ大したことないヘタレ野郎だな、アンタ!!」

 歯を食いしばる口元を不敵に歪め、イッキは笑った。風の壁を受け止めたまま足を踏み出し、一歩前進。それはほんの僅かだが、イッキが風の壁を押し返したことに他ならない。
 馬鹿な、と宇童は瞠目した。あの男は既に気力も体力も尽き果てていた筈、あの満身創痍の身体のどこにそんな力が残っている?
 驚愕に固まる宇童の方へ、一歩、また一歩とイッキは近づく。その背後に、宇童は黒い翼を広げた巨大な技影(シャドウ)を魅た。

「このカビ臭ぇ檻ん中で、アンタの“羽”はとっくに腐ってんぜ!? 俺ならその檻ごと、全部担いで飛んでやらぁ!!」

 雄々しい怒号を戦場に轟かせ、イッキが更に一歩踏み出そうとした刹那、「ファック」という馴染みのある声が二人の間に割って入った。

「そんなヘッピリ腰で啖呵切ってんじゃねーよ、このファッキンガラス」

 まるで寝起きのように不機嫌そうな声で現れた咢―――否、亜紀人か? トレードマークの眼帯が外れた今の彼を判別することは、イッキにも、そして宇童にもできなかった。
 イッキを一瞥し、咢は視線で語りかける。よく俺が戻るまで持ち堪えたな、カラス。誉めてやる。
 咢の目配せの意図を正確に読み取り、イッキは「ケッ」と鼻を鳴らした。似合わねーこと考えてんじゃねぇよ、コザメが。
 一瞬の目配せ(アイコンタクト)で意思疎通を図り、二人は同時に宇童を見た。反撃の時は来た、今までの“借り”をまとめて返してやる。
 イッキが円を描くように両手を回し、風の壁を―――否、巨大な風の“面”を回転させる。渦巻状に収束した風の中心、全ての圧力が集まるその一点を、咢の蹴りが撃ち抜いた。
 大気が裂け、巨大な衝撃波が轟音とともに撃ち出される。“牙”である。否、ただの“牙”ではない。
 イッキ、咢、そして亜紀人。三人の力が一つに合わさり、宇童の技をも取り込んだ“必殺の牙”。その名も―――、

 ――技・AGITO&AKITO×IKKI Bloody Blade Fang!!

 空も大地もまとめて切り裂く“牙の刃”が宇童を直撃、その巨体を吹き飛ばした。背中から地面に叩きつけられ、宇童が血反吐とともに呻き声を漏らす。
 宇童の身体には巨大な裂傷が斜めに走り、太腿では皮膚を突き破るように血が噴き出している。最早戦えるような状態ではない。
 この瞬間、長い戦いに本当の意味で決着がついた。誰もが予想し得なかった結末、<小烏丸>の逆転勝利という形で。
 咢がイッキと腕を組み、満面の笑みを浮かべて勝利の笑みを分かち合う。今まで見たこともないような無邪気で晴れやかな笑顔だった。
 カズやオニギリ、ブッチャも二人に合流し、族章(エンブレム)を表現した「勝利のポーズ」を全員でキメる。この時、かつてない大勝利にイッキ達の誰もが浮かれていた。

 だからこそ反応が遅れてしまった、気づくのが遅れてしまった。自分達の背後でゆっくりと起き上がる、手負いの「超獣」の存在に。
 逸早く気づいた咢が弾かれたように背後を振り返る。が、既に遅かった。
 直後、斧のように振り下ろされた宇童の踵が咢を直撃。肩の骨を叩き折る。悲鳴とともに崩れ落ちる咢の頭上を跨ぎ、宇童はイッキに飛びかかった。

「俺自身の戦いは終わった。だが俺の「王」としての使命は、終わっていない……!」

 その瞬間、気がつけばイッキは後方へ大きく飛び退いていた。一瞬の不意を衝かれただけかもしれない。戦の定石として、一度体勢を立て直す必要があったことも事実である。
 だがそれだけではない“何か”、トップライダーのみが持つ“何か”が、イッキの身体を後ろへ押し下げたのである。
 本来、“空”は「翼の道(ウイングロード)」の独壇場(ステージ)である。しかし“前”に出ない者に勝利の女神は決して微笑まない。
 上空へ逃げるイッキを追い、宇童が大きく跳躍した。大きい。“飛ぶ”機能がない筈のA.T.で瞬く間にイッキに追いつき、その頭を鷲掴みする。

 最後にイッキが見たのは、自分を見下ろす宇童の穏やかな笑顔だった。それは彼がこのコロッセオの「王」になって初めて見せた、一人のライダーとしての素顔だった。
 何だよ、矢印頭の兄ちゃん。薄れゆく意識の中で、イッキは何故か笑っていた。アンタも大概女々しいヘタレの癖に、滅茶苦茶強ぇじゃん。格好いいぜ。

 次の瞬間、イッキは宇童に掴まえられたまま地面に頭から叩きつけられた。轟音が「檻」に木霊する。それは戦い抜き、誇り高く倒れた超獣の最期の咆哮だったのかもしれない。



 ――To be continued



[11310] Trick:30
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:a9d217f5
Date: 2010/07/07 14:11
 戦いは終わった。前代未聞の「キューブ」でのタッグ戦。誰もが死力を尽くして戦い抜き、傷つき、倒れ、最早誰が勝者で誰が敗者なのかすら分からない。
 この(バトル)の判定は難しい。最後まで立っていたのは咢一人だった。しかし他の<小烏丸>の白星はオニギリの一勝のみ。見方によっては如何にでも解釈できる。
 だがそれでも、勝敗は決したのだ。それも議論の余地がないほど明確な形で。超獣の牙は折れた。<ベヒーモス>にとって、そのたった一つの事実は何よりも重い。

 カズ達が勝利の歓声を上げた。その一方で、男泣きする五所瓦(ヘカトンケイル)美作(ゴーゴン)(ユニコーン)も、四聖獣の誰もが涙を流し、慟哭の声が戦場に木霊する。
 唯一の例外はアイオーンだった。号泣する仲間達に背を向け、彼は一人、随分と風通しのよくなった「檻」の天井を無言で見上げる。
 眼鏡に隠れ、アイオーンの表情を窺うことはできない。しかし何故か、カズには彼が笑っているように見えた。
 否、アイオーンだけではない。五所瓦も美作も、そして蓮も笑っている。誰もが泣きながら笑っていた。

「やっと解放されたんだな。宇童さん」

 しんと静まり返った観客席の片隅で、坂東 ミツル(サイクロプス・ハンマー)が涙を拭いながらそっと呟く。蓮の腕の中で眠る宇童の顔は、まるで呪縛から解き放たれたように安らかだった。
 敗北と同時に、宇童は玉璽(レガリア)縄張り(エリア)も、この二年間で積み上げてきた全てを失った。しかし何もかも失くしたからこそ、彼はやっと、何の重荷も背負わず“空”を飛べるのだ。

 咢が宇童の肩を担いで立ち上がった。しかし体重を支えきれずよろめく咢を、いつの間に移動したのか、アイオーンが横から紳士的に支えた。
 蓮も仲間(ゴーゴン)の肩を借りて立ち上がり、ブッチャがイッキを背中に背負って歩き出す。(バトル)は終わったのだ。これ以上戦場にとどまる理由はない。
 帰還(かえ)ろう。井戸の外へ、大空が待つ広い世界へ皆で帰ろう。傷ついた身体を互いに支え合い、戦い疲れた戦士達は帰途につく。もう敵も味方も、関係ない。
 そしてエントランスへ帰還した一同を迎えたのは、割れるような拍手喝采と祝福の声―――ではなかった。

 地下闘技場(アンダー・コロッセオ)を包み込むのはブーイングの嵐、轟く怒号と罵声。会場の誰もが怒り、憤っていた。<ベヒーモス>の敗北を、<小烏丸>の勝利を認める者など、誰もいない。
 史上最大最強の広域暴風族<ベヒーモス>。大小様々なチ-ムを傘下に置き、短期間で人数が膨れ上がったそのチームは、言うなれば“檻”に囲われた獣の集まりである。
 しかし宇童の敗北とともに、その“檻”は消滅してしまった。今や彼らを止められる者は誰もいない。際限なく膨れ上がる狂気と殺意。そして遂に限界を超え、爆発した。
 観客の一人が柵を飛び越え、A.T.のホイールを唸らせながら空中へ躍り出る。その背中にもう一人、また一人と続き、理性の鎖から解き放たれた千人もの獣が暴走を始めた。
 それは例えるならば、押し寄せる黒い津波だった。殺せ、殺せ、殺せ! 呪詛と怨嗟の声を轟かせながら、血に飢えた暴徒達が<小烏丸>へ襲いかかる。

「うーん、これはもう僕の力ではどうにもならないね」
「怒りに我を忘れてるね。もう光玉も虫笛も効かないよ」

 雪崩のように迫る群衆を目上げ、アイオーンと蓮が諦観の息を漏らす。瞬間、カズやオニギリ達の顔から血の気が引いた。
 あらあらまぁまぁ、イッキさん。貴方いつまで寝ていらっしゃるの? こんな時こそ貴方の出番でしょうに。てゆうかとっとと起きやがれこん畜生!
 未だ気絶から目覚めぬイッキの肩をガクガクと揺さぶり、カズとオニギリが錯乱したように叫ぶ。最早ちょっとした恐慌状態だった。

 その時、観客席から小さな影が突如飛び出し、<小烏丸>を庇うように群衆の前に立ち塞がった。スバルである。
 固く握りしめた拳を振り上げ、「うおお」と雄叫びを上げながら地面を殴りつける。金色の双眸を煌めかせ、スバルはIS(ちから)を解き放った。

 ――IS発動、「石の道」!!

 瞬間、スバルの拳から振動波が発生し、地面を伝って波紋のように周囲へ広がった。固有振動を応用した“石の結界”である。
 共振によって暴徒達の足が地面に縫いつけられ、まるで魔法にでもかかったかのようにぴたりと動きを止める。

「ここはあたしが足止めしとくから、今の内にカズ君達は逃げて! そこの馬鹿(イッキ)忘れないでよ!?」

 背中に庇うカズ達を振り返り、スバルは凛々しく叫んだ―――が、

「いやだから俺達も動けないんだって!」
「テメエ無差別攻撃もいい加減にしろ!!」

 返されたのは罵詈雑言。“石の結界”は敵の群衆だけでなく、仲間であるカズ達の動きをも封じてしまったのである。まさに自爆、スバルは落ち込んだ。穴があったら入りたい。
 その時、何人かのライダーが群衆の頭上を飛び越え、上空からスバル達に飛びかかった。しまった! スバルに戦慄が走る。“石の結界”は空を飛ぶ敵にまでは届かない。

「死ねやぁあああああああっ!!」

 奇声を上げながら敵がスバル達に迫る。が、突如響いた銃声とともに、スバルの目の前で撃ち落とされた。スバルは絶句した。何、この急展開?
 いつの間にか、地下闘技場は異様な風体の男達に取り囲まれていた。顔を覆う防護マスク、黒光りする銃器、そして左肩で光る旭日章。警察である。
 しかもただの警察ではない。対A.T.犯罪専門の特殊部隊、暴風族の天敵。新宿の鰐―――マル風Gメン。

「流石は元下水処理場だ。クズどもがたっぷり集まってやがる」

 騒然とする会場を見下ろし、一人の男が嘲笑混じりに呟いた。愛用の大型拳銃を片手に握り、嗜虐的に嗤う長身の男。マル風Gメンの室長、鰐島 海人である。

幕引き(ドロウ・ザ・カーテン)だ、ガキども! ここにいる全員、暴飛靴新法12条4項の現行犯で逮捕する!!」

 海人の怒声とともに、会場を包囲する隊員達が一斉に動き出した。放たれる催涙弾、襲いくる警棒やゴム弾、響き渡る悲鳴と怒号、轟く爆発音。会場は一瞬で修羅場と化した。
 しかし暴風族側も、ただやられるだけではなかった。殺られたら殺り返せ、寧ろ殺られる前に殺れ、とばかりに反撃する。乱闘が始まった。

「……ったく、来るのが遅ぇんだよ」

 混沌とする周囲を見渡しながら、咢が苛立たしげに舌打ちした。カズがハッとした表情で咢を見る。まさか咢が警察を呼び込んだのか? 初めからこうなることを見越して?

「こんだけ混乱してりゃ、誰も俺らに見向きもしねぇだろ。今の内だ、さっさと逃げるぞ」
「……<ベヒーモス(わたしたち)>を警察に売ったの? アギト」

 肩の傷を庇いながら踵を返す咢に、蓮が硬い表情で声をかけた。非難するような声で尋ねる蓮を振り返り、咢は「何の話だ?」と惚けたように訊き返す。

「<ベヒーモス(おまえら)>ほどの広域暴風族をマル風(あいつら)が放っておく訳がねーだろ? 遅かれ早かれ、いつかは摘発(こう)なっていたさ。それがたまたま(・・・・)今夜だっただけの話だ」

 そう言って、咢は嘲笑するように口元を歪めた。蓮の主張には明確な証拠が何一つない。たとえ彼女の“読み”が正鵠(まと)を射ていたとしても、証明する手立てがないのだ。

「……最低ね」

 咢の詭弁に、蓮は嫌悪の表情で吐き捨てる。咢は鼻を鳴らし、再び蓮に背を向けて尋ねた。

「お前らこそ、いつまでアキラをこの狭苦しい「檻」ん中に閉じ込めとくつもりだ?」

 そいつはたった千人ぽっちを守るような器じゃないだろ、言外に告げる咢に、蓮は何も言い返すことができなかった。






「……グダグダだな」

 騒然とする会場を見下ろし、白い青年は鼻を鳴らした。サングラスに隠された眼十輝(トゥインクル・アイ)からは何の感情も読み取れない。ただ“石”のように硬く冷たい光だけがそこにあった。
 それにしても、とキリクは<小烏丸>の背中を一瞥した。否、正確にはブッチャに背負われたイッキを、である。南 イッキ。彼の話はリンゴ達からよく聞いている。
 思っていたより悪くない、というのがキリクの感想だった。今はまだ荒削りだが、鍛えればいいA.T.使い(ライダー)になるだろう―――が。

「大したことはないな」

 そう、それが最終判定。武内 空と接触したと聞いて警戒していたが、あの程度ならば<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>の脅威になりはしないだろう。
 A.T.を始めて三ヶ月足らずで「風の道(ウイングロード)」に目覚めつつあるのは驚いたが、イッキの技は全て空の劣化コピーでしかない。彼がその檻を破らない限り、キリクの敵ではない。

 寧ろ―――キリクはスバルを睨んだ。厄介なのは、あの“石”の少女の方だ。蛾媚刺と戦った頃から兆候はあったが、今や彼女は完全に「石の道(ガイアロード)」を使いこなしている。
 しかも総長(リンゴ)との戦いを見るに、彼女は「風の道」の適性をも持ち合わせているかもしれない。放置すれば、とんでもない怪物(バケモノ)になる可能性もある。

 どうする? キリクは自問した。警察の突入で会場は混乱している。仕掛ける(・・・・)ならば今が好機(チャンス)だろう。
 しかし下手を打てば、自分だけでなく<眠りの森>の存在そのものを危険に晒してしまう。キリクは中々決断できずにいた。

「何やぁ? 随分と(おっかな)い顔しとるやないか、キリク」

 不意に背後からかけられた声に、キリクの背筋は凍りついた。聞き覚えのある、というより忘れたくとも忘れられない男の声だ。
 キリクは弾かれたように背後を振り返る。両脚をギプスで固めた車椅子の青年が、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべてキリクを見ていた。

「空……!」

 キリクの表情が憎悪に歪む。七年ぶりの再会だった。言いたいことは色々ある。が、あまりにも多すぎて逆に言葉にならない。

「何の用だ? まさかその首でも捧げに来たか?」

 沈黙を破り、キリクが硬い声でそう口にした。サングラス越しに突き刺さるキリクの視線を受け流し、空は「アホ抜かせ」と鼻を鳴らす。

「どこぞの石頭(ボケ)が、何やろくでもないこと企んでそーな顔しとったからな。ちぃとばかし釘刺しに来ただけや」

 そう言って「やれやれ」と小馬鹿にしたように肩を竦め、空は頭の野球帽を指先で弄る。キリクを見返す切れ長の双眸は、今は微塵も笑っていない。

「まぁ、もっとも――――お前が戦りたい(・・・・)言うんやったら相手になるで? ええ機会や。七年前(あのとき)につかずじまいやった(バトル)決着(ケリ)、今ここでつけたろか」
「その必要性を感じないな。両脚(つばさ)を失った今の君に興味などない。せいぜい地の底から永遠に“空”を眺めているがいいさ」

 空の挑発を鼻で笑い、キリクは再び地下闘技場を見下ろした。しかしスバル達の姿は、既に会場のどこにもない。
 キリクは舌打ちした。今の自分は赤点だ。余計なことに気を取られて、むざむざ標的を見失うなんて! 慌ててA.T.を走らせるキリクの背中に、不意に空が声をかけた。

「お前、いつまで“殻”ん中に引きこもっとるつもりや? 眠りの森の使命だの重力子(グラチル)の宿命だの、そんなカビ臭い“重し”にいつまですがれば気が済むんや」

 空の言葉に、キリクは憤怒の表情で振り返った。それが使命を忘れ、仲間を裏切り、欲望のままに暴走した男の言葉か。射殺すようなキリクの視線を受け止め、空は続ける。

「ボウズや譲ちゃんの(バトル)を魅て、お前は何も感じなかったんか? 新しい“風”はもう吹き始めとる。この流れは誰にも止められへん。お前もいい加減、目ぇ覚ましたらどうや?」

 空の科白に、キリクは思わず顔をしかめた。空の言っていることは確かに正しい。それでも素直に受け入れられないのは、それが“空の言葉”であるからに他ならない。

「それは宣戦布告のつもりか? 空」
「忠告や。友達として、最後の―――な」

 空の返答に「そうかよ」と吐き捨て、キリクはくるりと身を翻した。胸の奥がズキリと痛む。“石”のように固く閉ざされたキリクの心に、僅かな迷いが生じていた。
 しかし胸に走る痛みを無視して、キリクはそのまま走り去る。遠ざかる宿敵(しんゆう)の背中を、空は無言で見送った。いつまでも、いつもでも、目を逸らすことなく。






 その頃、咢は宇童を背負い、足を引きずりながら薄暗い通路を進んでいた。その隣にはスバルが付き添い、同じように宇童の身体を支えている。
 カズやリンゴ、<小烏丸>の他の仲間達とは、途中でいつの間にかはぐれてしまった。だが心配はしていない。しぶとい連中だ、向こうは向こうで何とか逃げ延びているだろう。
 迷路のように入り組んだ通路を進み、咢とスバルは地上(うえ)を目指す。頭上を覆う天井が途切れ、満天の星明かりが二人へ降り注ぐ。外に出たのだ。
 咢は口から安堵の息が漏れる。だが次の瞬間、それは絶望に変わった。二人の進む先に道はない。行き止まりである。咢は舌打ちし、スバルに「引き返すぞ」と目配せ(アイコンタクト)する。

 そのとき、二人の背中で突如銃声が響いた。直後、炸裂音とともに咢の足元で火花が散る。追っ手か? 咢が狼狽の表情で背後を振り返った。
 咢達の退路を塞ぐように、一人の男が拳銃を構えて立っている。警察ではない、だが一般人でもないだろう。日系でない顔立ちから、どこかの外国人マフィアだと咢は推測した。

別動(うごくな)! その男を渡セ!!」

 男が荒々しく恫喝した。

「テメエが欲しいのはアキラじゃなくてレガリアじゃないのか?」
「その男のせいで我々の組織は壊滅しタ。その報いを受けて貰ウ。この機会(チャンス)をずっと窺っていたのダ」

 咢の指摘に、男は暗い笑みを浮かべて答える。

「二年ダ、我々は二年もの間待ち続けタ。レガリアさえあれば我々の組織はすぐに立て直せル。あとはその男と、あの忌々しい裏切り者さえ始末できれば説没有事(いうことなし)ダ!」

 咢は舌打ちした。この先は行き止まり、逃げ場はない。体調が万全ならば雑魚の一匹や二匹など物の数ではないが、今は走ることさえできない。絶体絶命だった。

「う……っ」

 咢の背中で宇童の呻き声を漏らした。目を覚ましたのか、と視線を向ける咢の耳元で、宇童が囁いた。

「咢、俺が囮になる。お前はレガリアを持ってその娘と逃げろ」
「な……!?」

 咢は驚愕の表情で宇童を見た。犠牲になるというのか、こいつは。自分達を逃がすために? 冗談じゃない、一体何のためにここまで来たと思っている。

「寝惚けたこと言ってんじゃねぇぞ、アキラ! んなことできる訳ねぇだろ!!」
「“牙の玉璽”はお前の! いや―――A.T.界全体のかけがえのない至宝なんだぞ!? こんなところで失っていいものじゃない!!」

 激昂する咢をそれ以上の剣幕で黙らせ、宇童は悲痛に顔を歪めて続ける。

「やっと見つけたんだ。新時代の風、その先頭を担って飛ぶ“翼”……たが彼がより高く自由に飛ぶためには、お前の“(ちから)”が絶対に必要になる!」
「アキラ……」

 咢は愕然とした顔で宇童の名を呼んだ。長いつき合いだからこそ解る、この男は絶対に自分の言葉を曲げたりはしない。
 たとえ自分が何を言おうと、宇童は決して無日を縦に振らないだろう。咢は無力感に打ちのめされた。そのとき―――、

「……盛り上がってるトコ悪いんだけどさぁ、やっぱりあたし分かんないよ」

 まるで真冬の風のように冷めきった声が、不意に二人の耳を打った。スバルだった。ぎょっとする宇童、「空気読めよ」と睨む咢を半眼で交互に一瞥し、スバルは大仰に嘆息する。

「ったく……レガリアだか何だか知らないけど、たかがA.T.一個のために命まで投げ出すとか馬鹿じゃないの? 死んだら何にもならないじゃん」

 スバルはそう言って宇童を咢に押しつけ、二人を背中に庇うように男の前に立ち塞がった。体重を支えきれず、宇童の下敷きになった咢を見下ろし、スバルは続ける。

「安心しなって。こんな奴、あたしがチャチャッとやっつけちゃうから」

 瞬間、スバルが動いた。けたたましいホイール音を響かせながら弾丸のように男へ接近する。
 一拍遅れて、男が発砲した。轟く銃声。スバルは避けない。否、避けられない。距離が近すぎて逃げる暇がない。
 宇童が絶叫した。咢も思わず顔を逸らす。まるで吸い寄せられるように弾丸がぐんぐんとスバルへ迫る。そのとき、無機質な電子音声が淡々と響いた。

 ――防御魔法(プロテクション)!!

 瞬間、スバルの眼前で火花が散った。虚空に出現した“何か”に弾かれ、銃弾がコロコロと地面を転がる。
 男は錯乱したように拳銃を乱射した。しかし弾丸はどれ一つとしてスバルまで届かない。まるで見えない壁があるかのようだった。

「残念賞。死ねっ!」

 男に肉薄し、スバルはそう言って拳を振り被った。空色の魔力光が拳を包み込み、不可視の力場が形成される。
 守りたい人達がいる、守るための力がある。大切なものを守るために戦うことに、今のスバルに躊躇いはなかった。それがたとえ管理局法を破ることになっても、構わない。
 それにまぁ、バレなければいいことだし。色々と台無しなことを考えながら、スバルは男を思いきり殴り飛ばした。

 ――超必殺! ピンポイントバリア・パンチ!!

 垂直に突き上げられたスバルの拳が男の顎に突き刺さり、まるで漫画のように空高く打ち上げる。男の身体は放物線を描いて宙を舞い、地面に背中から叩きつけられた。

「今時の魔法少女は武闘派なのよ。ファンタジーなめんなっ」

 昏倒した男を悠然と見下ろし、スバルは高らかに勝ち名乗りを上げた。



 ――To be continued.



[11310] Extra Tricks(超短編集)
Name: さむそん◆de8d36e0 ID:e60f1310
Date: 2010/02/16 15:10
Trick:7.5 ~汝、右の頬をぶたれたら……?~

 満珍楼の看板娘、スバルには一人の友達がいる。下宿している野山野家の末っ子、同い年のウメである。
 だが最近、スバルはウメと喧嘩している。というより、ウメが一方的にスバルを怒っているのだ。しかも理由が全く分からない。そんな訳で、スバルは最近落ち込み(ダウナー)気味だった。
 しかしたとえスバルが落ち込んでいても、バイトの仕事が減る訳ではない。皿洗い、接客、そして出前。看板娘は多忙なのである。
 今日もスバルは出前に出かける。身長したばかりのA.T.を履き、岡持を片手にいざ出発。今日の出前は奈戯(ナザレ)さんのお宅だった。
 商店街を抜け、住宅街を横切り、アパートが立ち並ぶ団地の中へと足を踏み入れる。地図とメモを交互に睨み、スバルは届け先の家を探す。
 確かこの辺りの筈なのだが……あった。目的地であるアパートを見つけ、スバルはA.T.を走らせた。
 壁走り(ウォールライド<)で二階まで近道し、目的の名前を探しながら通路を滑る。表札に「奈戯」と書かれた扉の前で立ち止まり、スバルはインターホンを押しながら声を張り上げた。

「こんにちはぁ、満珍楼でーすっ!」

 スバルの呼びかけに数秒ほど沈黙した後、扉が開き、部屋の中から長身の男が顔を出した。のばし放題の髪の上から金冠を着けた髭の男、彼が「奈戯さん」だろうか?

「満珍楼です。ご注文のガラリヤ風クリームラーメンをお届けに伺いました」
「ご苦労様です」

 スバルの挨拶に穏やかな笑みを返し、奈戯はラーメンの丼を受け取った。そのとき、丼を持つスバルの手と奈戯の指先が触れ合った。奈戯の表情が変わる。

「……お嬢さん。貴女は今何か悩んでいますね?」

 神妙な顔で尋ねる奈戯に、スバルの心臓が大きく跳ねた。まさか見透かされている? 動揺し、「その」と言葉を濁すスバルの頬を、奈戯の平手が打った。

「痛っ!?」

 スバルはぶたれた頬を片手で押さえた。いきなり何をするのか、今は亡き母親にもぶたれたことはないのに。呆然とするスバルを見下ろし、奈戯は穏やかな口調で諭す。

「汝、右の頬をぶたれたら左の頬へクロスカウンター」
「……はいぃ?」

 奈戯の言葉に、スバルは思わず訊き返した。全く意味が分からない、というか何故殴られなければならない? 困惑するスバルに、奈戯は微笑しながら言葉を続ける。

「痛いからこそ分かり合えることもあるということですよ。知ってましたか? 人を殴ると、殴った自分の拳も痛いんですよ?」
「そういうものなんですか……?」

 疑念に満ちた表情で尋ねるスバルに、「そういうものなんです」と奈戯は頷く。

「誠実でありなさい。神は貴女の罪を赦すでしょう」

 そう言い残して扉の奥へ消える奈戯を、スバルは呆然と見送った。ぶたれた頬がヒリヒリと痛い。指先で頬をなぞり、スバルは思わず呟いた。

「あんた殴ったの左頬じゃん……」

 色々な意味で意味不明な人だった。
 そのとき、スバルは重要なことを思い出した。そう言えば、まだ奈戯さんからラーメンの代金を貰っていない。
 慌ててインターホンを押すスバルに、部屋の中からの返答は沈黙。無視しているのだろうか? スバルは扉を叩いた。

「あのー、奈戯さん?奈戯さーん!!」

 静かな昼下がりの団地に、スバルの声が響き続けた。






Trick:11.5 ~仲直り~

 野山野家の居間に、屍が二つ転がっていた。

「――ぁ、うぅ……ウメちゃん、生きてる……?」
「お、お花畑の向こうでジ○バ・ザ・○ットみたいなお婆ちゃんが手を振ってたでし……」

 否、屍ではなかった。畳の上に二人揃って大の字に横たわり、スバルとウメは生の喜びを噛みしめていた。
 とある諍いから家の屋根に大穴を開けてしまった二人は、そのことで激怒したリカから身の毛もよだつような折檻を受け、つい今し方解放されたばかりなのである。

「もう……ウメちゃんがビーム兵器なんか持ち出すから、こんな目に遭っちゃったんだよ?」
「元はといえばスバルちゃんがあんなこと言うから悪いんでし」

 恨めしそうに愚痴を零すスバルに、ウメが負けじと言い返す。虚しい責任のなすりつけ合いだった。

「あんな……この家を出て行くなんて、そんなこと言うから……!」

 非難するようなウメの科白に、スバルは一瞬言葉に詰まる。確かにあの言い方は配慮に欠けていたかもしれない。

「ごめん……」

 気がつけば、スバルは謝罪の言葉を口にしていた。しかしウメは憮然と鼻を鳴らす。別に謝って欲しい訳ではないのだ。

「……謝るぐらいなら、出て行くなんて言うなでし」
「それは無理だよ。あたしは帰らなきゃいけないから」

 拗ねたようにそっぽを向くウメの言葉に、スバルは寂しそうに笑いながら首を振る。
 ウメはちらりと横目でスバルを見遣った。帰るべき場所、スバルが本当にいるべき世界。彼女は先刻もそんなことを言っていた。だが、それは一体“どこ”なのか。

「……スバルちゃんは、“どこ”へ帰るつもりなんでしか?」

 ウメの問いかけに、スバルは考え込むように口を閉ざし――――、

「“魔法の国”、かな……?」

 と、どこか困ったように首を傾げながら答えた。唖然とした顔で思わず「は?」と訊き返すウメに、スバルは真剣な声で言葉を続ける。

「ウメちゃん。ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど」



 数分後、二人は二階にあるウメの自室へと場所を移していた。「なるべく他の人には聞かれたくない話」だと言うスバルに、ウメが気を利かせたのである。
 人形や工具や得体の知れない機材が雑然と散らばる畳部屋に、スバルはウメと向かい合うように腰を下ろす。

「ウメちゃん、あのね……あたし、実はこの世界の人間じゃないの」

 一世一代の覚悟で秘密を明かすスバルに、ウメは「ふぅん」と相槌を打つ。スバルは拍子抜けしたような顔で「あれ?」と首を傾げた。

「あんまり驚かないんだね?」
「何となく予想はしてたでしから」

 どこか不満そうな表情で尋ねるスバルに、ウメは何でもないことのように平然と答える。
 未知なる“魔法”という力には妙に詳しく、逆に常識にはどこか疎い。流石に異世界という答えには驚いたが、スバルがどこか特殊な環境で育ったことは容易に推測できた。
 ウメの返答に、スバルは釈然としないような顔で唸り、そして溜息とともに話を再開した。

「なのはさん――この前ウメちゃんも会った自称魔法少女の人ね――あたしと同じミッドチルダって世界の人なんだけど……あたしを元の世界に返してくれるって、言ってた」

 スバルの言葉に、ウメの表情が陰りを帯びた。しかしスバルは敢えて気づかぬふりをして、言葉を続ける。

向こう(ミッドチルダ)にはお父さんとかお姉ちゃんとか、あたしの大切な人達がいて、きっと皆あたしの帰りを待っててくれてる。心配してくれてる」

 だから帰らなければいけない、待っていてくれている人達を早く安心させるために。決意を秘めた瞳で語るスバルに、ウメは何も言えなかった。

「でも、よく考えたらそれでいいんじゃないかな? あたしは家に帰れるし、ウメちゃん達だって<眠りの森(スリーピング・フォレスト)>の秘密を知る人間はいなくなった方が都合がいいでしょ?」

 そう言って空笑いするスバルの姿は、あまりに痛々しく、とても見るに堪えなかった。ウメは思わず目を逸らした。

「……どうして、今更そんなことをウメに話したんでしか?」

 ウメの問いに、スバルは思わず押し黙った。確かに今頃そんな話をされても、ウメにとっては重荷にしかならないだろう。
 何も言わずに立ち去った方が、或いはウメにとっても自分にとっても楽だったかもしれない。
 では何故、自分が傷ついてまで、そしてウメを傷つけてまで真実を明かしたのか? スバルは自問し、そして気づいた。簡単な答えだった。

「知ってて欲しかったから。本当のことを、本当のあたしを、ウメちゃんにだけは知ってて貰いたかったから。ウメちゃん、あたしの一番の友達だから……」

 どこか照れくさそうに頬を染めて答えるスバルに、ウメは思わず目を見開いた。

「友達……?」

 呆然とした表情を浮かべ、ウメはスバルに訊き返す。友達、スバルは本当にそう言ったのか? 辛いことばかりしてきたのに、酷いことばかり言ってきたのに。
 こんな自分を、スバルは本当に友達だと思ってくれているのか? そしてそんなスバルを、自分は本当に信じていいのか?

「友達だって、ウメは本当に思っていいんでしか? 本当に友達だってスバルちゃんは思ってくれてるんでしか?」
「あ、酷い! ウメちゃん、今まであたしのこと友達って思ってくれてなかったの?」
「そ、そそそそんなことないでしよ!?」

 不貞腐れたように口を尖らせるスバルに、ウメは慌てて取り繕う。バレバレだ、スバルは思わず苦笑した。スバルに釣られるように、ウメも小さく笑い始める。

「ねぇ、スバルちゃん。スバルちゃんの世界のこと、もっと教えて欲しいでし」

 期待に目を輝かせながらせがむウメに、スバルは笑顔で「うん」と頷く。

「えっとねぇ、あたしのお父さんは管理局っていう警察と軍隊と裁判所をごちゃ混ぜにしたよーなトコの部隊長さんで、お姉ちゃんは管理局の訓練校に通ってるの。それでね――」

 身振り手振りを交えて語られるスバルの話に、ウメは笑って耳を傾ける。その夜、野山野家では久しぶりに戻った子供達の笑い声が、夜遅くまで響き続けた。
 そして翌日、寝不足のミカンやイッキから袋叩きに遭ったことも、二人にとっては大事な思い出となったのだった。






Trick:12.5 ~ある日の野山野家~

「ただいまーっ」

<小烏丸>での練習を終え、イッキは帰宅の挨拶とともに野山野家の門を潜った。その傍には亜紀人と、珍しくスバルの姿もある。
 普段はチームでの練習の後、一人学校に残って自主練に励むスバルが、こうしてイッキ達と一緒に帰るのは本当に珍しい。初めてのことかもしれない。

「うぃー、風呂風呂! 汗まみれだっつーの」

 独り言とともに風呂場へ向かうイッキの背中に、まるでカルガモのように亜紀人とスバルが追従する。
 廊下を渡り、脱衣所で服を脱ぎ、そして風呂場の戸を開ける。そのとき、イッキは漸く二人の存在に気づいた。

「何のつもりだテメエら?」

 鬼のような形相で怒鳴るイッキに、亜紀人とスバルは目を逸らしながら答える。

「お風呂場でイッキ君と飛ばしっことかしたいなー、なんて」
「あたし一人じゃ頭洗えないから……」
「出・て・け!!」

 取りつく島もなかった。

「いーじゃん、ちょっと頭洗ってくれるくらい!」
「うっせぇ馬鹿! リンゴにでも洗って貰え!」
「でもリンゴちゃんやリカさんと一緒に入ると、イッキ絶対にお風呂覗いてくるじゃん!?」
「その理屈はおかしいだろどう考えても!?」

 しつこく食い下がるスバルを、イッキは頑なに振り払う。いつの間にか二人とも意地になっていた。

「あたし美少女だよ? ロリだよ? 一緒にお風呂入るなんて、イッキのつまんない人生の中で滅多にない幸運なんだよ!?」
「鏡見て出直してきやがれ洗濯板!! あと誰だ! このガキに変な知識植え込んだ馬鹿は!?」
「あーっ! イッキ今全人類の八割は敵に回したね! 明日オニギリ君に言いつけてやる!!」
「汚染源はあのブタかぁああああっ!!」

 全裸で喚き合う二人を洗い場から眺めながら、亜紀人は「仲いいなぁ」と羨ましそうに呟く。一方入口から覗くリンゴは、嫉妬に顔を膨らませていた。
 その後、風呂から上がったイッキとスバルが、二人揃って仲よく風邪をひいていたことは言うまでもない。
 しかし一晩明けた翌朝には二人とも全快しており、「馬鹿は風邪をひかない」という格言の一つの答えを見せつけたのだった。






Trick:16.5 ~そのころの四聖獣~

 スバルが暴風族<ベヒーモス>の「超獣」と遭遇した夜、東雲市の郊外のとある工事現場に四聖獣の四人は集結していた。

「南 イッキ? 「空の王」に最も近い男? あんな中坊がかよ?」

 そう言って呆れたように肩を竦めるのは、長い手足を持つバンダナの青年、「ヘカトンケイル・ボム」五所瓦 風明である。

「つーか最悪! 何でFクラス如きにあたし達がぁ?」

 辟易したような顔でぼやくポニーテールの少女、「石化の盾(ゴーゴン・シェル)」美作 涼の問いに、蓮が神妙な表情で口を開いた。

「……アキラの狙いは咢ね」

 蓮の言葉に、周りの仲間達はハッと息を呑んだ。

「今では伝説言われてる二年前(あのとき)(バトル)。結果としてあんな形(・・・・)で終わったけど、アキラだってきっと納得いってないトコあったと思うね」
「因縁との決着、か……」

 ヘカトンケイルが感慨深そうに呟き、ゴーゴンもくすりと微笑する。唯一沈黙を保つ長身の青年、「時の支配者(アイオーン・クロック)」左 安良が、指先で眼鏡をくいと持ち上げた。

「――で? どうなんだ、(サメ)イッキ(カラス)以外のメンバーは」

 話題を切り替え、ヘカトンケイルは蓮に尋ねた。他の面々も興味深そうな表情で蓮を見る。

「噂じゃ最近新入りが加わったらしいが……」
关系没有(関係ないね)

 続けられたヘカトンケイルの科白を遮るように、蓮は口を開く。

「……たとえどんなライダーだろうと、超獣(われら)の前では虫ケラも同然。踏み潰すだけね、グシャッと」

 そう言って拳を握る蓮に同意するように、ヘカトンケイル達は不敵な笑みを浮かべて頷く。違いない、全くもってその通りだった。
 ちなみにその直後、鉄砲玉のように突っ込んできたスバルによって、彼ら自慢の愛車(デコチャリ)が「グシャッ」どころか「ちゅどーん」と無惨に薙ぎ払われたのは、また別の話。






Trick:16.5 ~空っぽの掌~

 夢を見ていた。昔の夢、まだ母が生きていた頃の夢。一番楽しかった時間、過ぎ去ってしまった思い出、もう二度と戻らない優しい世界。
 夢の中のスバルは弱くて、泣き虫で、いつも母や姉を困らせたり、心配させてばかりだった。

 ―――スバルも本当は強いんだよ? お母さんの娘で、ギンガ(おねえちゃんの妹なんだから。

 転んで泣きべそをかいたとき、母はそう言って励ましてくれた。

 ―――スバルは強くなくてもいいのかな? お父さんやお母さんがいるし、私もいるから。

 格闘技の練習を嫌がったとき、姉はそう言って慰めてくれた。
 そんな家族の優しさに甘えてばかりで、スバルは自分の力で立ち上がろうとも、戦おうともしなかった。いつまでも守られてばかりで、心も体も弱いままだった。
 だが心のどこかで、「それでもいい」と思っている自分がいた。自分のIS(ちからは何もかも壊してしまう怖い力。壊したくない物まで壊してしまうのは、嫌だった。
 そんな力は、いらない。痛いことも怖いことも嫌いだから。そうやって自分自身に言い訳して、スバルは力と向き合うことから逃げていた。それでいいと思っていた。



「――バル、スバル」

 遠くから自分を呼ぶ誰かの声に気づき、スバルは重い瞼を持ち上げた。身体中を走る鈍い痛みに、思わず「う」と呻き声を漏らす。
 目を開けると、蛍光灯の吊るされた白い天井が視界いっぱいに飛び込んでいた。イッキ達の学校の教室である。一体何故、自分はこんな場所で寝ていたのだろう?

「どうしたスバル、もう終わりか?」

 再び誰かがスバルに声をかける。イッキだった。

「カモン! サンドバッグ」

 挑発するようなイッキの言葉で、スバルは漸く全てを思い出した。何故自分がここにいるのか、イッキと何をしていたのかを。
 特訓である。一週間後に控えた暴風族<ベヒーモス>との公式戦(パーツ・ウォウに向けて、イッキの特訓につき合っていたのである。
 宣戦布告から既に三日が経っていた。きたるべき強敵との戦を前に、イッキ達<小烏丸>は春休み中の学校に密かに泊まり込み、過酷な強化合宿の真っ最中だった。
 カズとオニギリ、そしてブッチャの三人は、咢の指導の下に別の教室で壁走り(ウォールライドの基礎練習を続けている。
 スバルも昨日までその中に交じって練習していたのだが、咢の指示で今日からはイッキの模擬戦(スパーリング相手(パートナーを務めていた。
 しかし模擬戦とは言うものの、スバルがイッキを殴れる筈がない。スバルは自分が傷つくことも、他人を傷つけることも極端に嫌うのである。戦いに向いた性格ではない。
 しかし咢はその気性を理解した上で、スバルにイッキの相手を命じた。つまるところ、スバルの役目はイッキの言う通り、相手とは名ばかりの動く標的(サンドバッグということである。

「ねぇ、まだやるの……?」

 半泣きになりながら尋ねるスバルに、イッキは呆れたように溜息を吐く。

「何言ってんだよ、こんなの準備運動(ウォーミングアップにもなりゃしねーって。もっとガンガンいくから覚悟しろよ」
「そんなぁ……」

 容赦の欠片もないイッキの科白に、スバルは情けない悲鳴を漏らす。イッキは再び嘆息した。

「スバルも逃げ回ってばっかじゃなくて、ちゃんとお前の方からも向かってこいって。そっちの方が俺も張り合いがあるし、お前だって楽しいだろ?」

 中々いい線行ってると思うし、と褒めるイッキから、しかしスバルは不快そうに顔を逸らす。

「あたし、そういうの嫌いだから……」

 淡々とした声で呟くスバルを、イッキは思わず眉を寄せる。スバルは再びイッキを振り向き、淡々と言葉を続けた。

「戦うのとか、誰かを傷つけるのとか……そういうの嫌だよ。喧嘩なんて絶対無理。何かを壊す力がなきゃ“上”に行けないなら、あたしは別に行かなくていい」

 遠慮がちな、しかしどこか頑なな声でスバルは語る。スバルの言葉を聞きながら、イッキは面倒くさそうにがしがしと頭を掻いた。

「まぁ、お前がそれでいいんなら別にいいけどよ……でもこれだけは言っとくぞ? スバル」
「何? イッキ」
「そんな風にビビってばっかだと、壊す壊さない以前に何も掴めねぇぞ?」

 ぽつりと紡がれたイッキの科白に、スバルは思わず「え?」と訊き返した。イッキはスバルの傍に座り込み、天井を見上げる。

「スバル、虹を見たことあるか?」

 天井を見上げたまま、イッキは何気ない口調でスバルに尋ねた。唐突に話題を変えたイッキに戸惑いの表情を浮かべながら、スバルは「ううん」と首を振る。

「俺はいつも追っかけてた。雨上がりの夕暮れ空に、宝石みたいにキラキラしたでっけえ“橋”が架かってんだよ」

 そう言いながら、イッキはまるでその時の景色をそこに見ているかのように虚空へ手をのばす。

「ついこの間まで、ソレは自分の拳の中にあるってずっと思ってた。だからいつもブン回してたんだ。誰よりも強く輝けるように」

 だがいつも何かが違っていた、イッキはどこか寂しげな顔で語る。宝石のような輝きはあっという間に色あせて、虚しさだけを残して闇に消えてしまう。
 イッキはずっと探し続けた。自分の目の前から失くなってしまわないように、本物の宝石(にじをいつも追いかけていた。A.T.を始めて、イッキはやっと宝石の在り処を見つけた。

「……どこに?」
「そりゃあ“空”に決まってんだろ」

 スバルの問いに、イッキは当然のようにそう言って“上”を指差した。

「俺はそのためにA.T.やってんだ。空っぽの掌に本物の宝石を掴むために、虹の“上”まで飛ぶためにな」

 イッキはそう言って背伸びをし、首の骨を鳴らしながら立ち上がった。

「つー訳で、お前が戦いたくないってんなら俺はもう知らん。遠慮なくお前を置き去りにして“上”に行く」

 イッキの言葉を聞きながら、スバルは両手を見下ろした。空っぽの手。イッキの言う通り、この掌には何もない。壊したくない物も、守りたい物も。
 スバルは両手で拳を握った。壊してしまう物が何もないことに安堵する一方で、今度は空っぽの手の中に寂しさを感じてしまう。
 掌に何かを掴んでみたいと思うこの欲求は、果たして傲慢なのだろうか。分不相応な願いなのだろうか。

「イッキ」

 スバルは顔を上げてイッキに声をかけた。

「あたしって結構不器用なんだけどさ……こんなあたしでも、壊してばっかの掌でも、頑張れば何か掴めるのかな?」
「んなもん俺が知るか。やってみなきゃ分かんねーんじゃねぇの?」
「そっか。そうだよね……」

 ぶっきらぼうなイッキの返答に、スバルは神妙な表情で重々しく頷き―――、

「ねぇイッキ。あたしに喧嘩の仕方、教えてよ」

 そんな“お願い”をイッキに投げかけたのだった。
 イッキの言う通り、何事もやってみなければ分からない。この鋼鉄の拳は“壊す”力なのか“守る”力なのか、自分は本当に何かを掴めるのか否か。
 取り敢えず「壊さない」ようにする練習から始めてみよう、スバルはそう決意した。イッキはかなり頑丈だから、多少無茶してもきっと大丈夫だろう。
 空っぽの掌で拳を握り、スバルは晴れやかな顔で立ち上がった。


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