2008年
1318号(4月14日〜4月20日)
チャンネル32
ハプニング連続の24時間テレビ


 昭和53年、『24時間テレビ〜愛は地球を救う』がスタートした。

 まだ福祉という意識が薄い時代のことだ。募金が集まるかどうか不安はあったが、放送が近づくとそうしたことに意識は行かなくなった。とにかく、日本テレビ開局25周年を記念した、前代未聞の特番を何とか乗り切ることだけが目標だった。

 8月26日夜7時。いよいよ生放送がスタート。この時まで筆者たち中心メンバーはもう2日間以上完徹状態。でも、さらにあと24時間の生放送。体がもつかどうか自信があるものはいなかった。

 日本テレビのGスタジオをはじめ、局内の各所に視聴者からのメッセージを受け付けるために数百台の電話が用意され、社員、ボランティアが6時間交代で対応するよう人員を配置した。ところが……。

 番組がスタートするなり、すべての電話が一斉に鳴り出した。すぐに回線がパンク。半数近い電話が受けられなくなった。当時の郵便貯金ホールでグランドオープニングが始まって、チャリティーパーソナリティーのピンクレディーの歌が終わるかどうかというころだった。

 Gスタジオの大橋巨泉さんらが陣取る司会席に面して設置された電話コーナーは、てんやわんやの大騒ぎとなった。使えるのが半分とはなっても電話が鳴り止むことはなかった。今のような軽やかな呼び出し音のない時代。ジリリリ〜という音が鳴り止まない。電話を切るとすぐ次の電話が鳴る。受話器を取ると視聴者がそれぞれの熱いメッセージを伝えてくる。1人につき2分と予想していた対応が、5分になるのは当たり前。数十分になるものもあった。

 放送開始から2時間ほどして、Gスタジオで電話対応をしていたボランティアの1人が突然椅子から崩れ落ちた。するとあちらこちらで同様に机に突っ伏すものや体調不良を訴えるものが続出した。ひっきりなしに鳴る呼び出し音と、視聴者からのメッセージの対応で疲労の限界に達したのだ。思いもかけない出来事だった。

 そんな予想外のハプニングに対応することもままならないとき、一人の男性がスタジオに入ってきた。黒い毛糸の帽子にサングラスという、一見怪しげなスタイルの人だった。ボランティアとして電話対応をさせて欲しいという。尾崎紀世彦さんだった。

 

筆者紹介 小俣匡彦(おまた・ただひこ)

元日本テレビエンタープライズのチーフディレクター。数々のテレビ番組やイベントの制作・演出に携わる。現在はセカンドエフォート代表として、タイの文化を伝えるため各種物産品を日本に紹介。このコラムへのご意見・ご感想は webmail@2eft.comまで。