応援クリック宜しくお願いします。
☆ご報告 警察官の発砲支持行動 7・6 IN東京高裁
NPO外国人犯罪追放運動 主権回復を目指す会 主催
写真:演説する筆者
写真:西村修平・主権回復を目指す会代表
真の「強さ」「優しさ」とは何かを問え!
さる平成22年7月6日、東京高裁前にて栃木県警巡査長が支那人(中国人)凶悪犯に発砲し、逆にこの支那人凶悪犯の遺族から5千万円の賠償請求訴訟を起こされた裁判の控訴審第5回目口頭弁論が行なわれ、断固として発砲した巡査長の職務遂行と栃木県を支持する街頭行動および裁判傍聴を行なった。
:関連エントリー 戦うという美徳の証明
http://blog.livedoor.jp/samuraiari/archives/51548708.html
本来的には表彰され、大きな社会的評価を受けて然るべき警察官の発砲が民事上の責任を問われているわけだが、この発砲をめぐっては「特別公務員暴行陵虐致死罪」で刑事告発も為されており、一度は宇都宮地検で不起訴とされた判断が遺族らによる「不審判請求」が宇都宮地裁で認められ、事態は一気に暗転して刑事罰に問われることに。
刑事裁判の初公判は今年10月21日に宇都宮地裁で開かれることが決定しており、今年12月頃までに計4回の審理を経た後に判決が下される見通し。
通常の裁判とは異なり、一旦は地方検察庁の判断で不起訴とされた公務員の犯罪(?)を裁くとあって、裁判所が指定した弁護士が「検察官役」となって罪を問う(求刑する)という。
検察官役に指定されたのは弁護士・太田うるおう。
「不審判は市民が権利を侵害された時の特別な手続き。責任をしっかりと果たしたい」とは、これまた最初に国家権力イコール悪であるとの発想だ。
秋より開かれる刑事裁判では撃たれて死亡した支那人凶悪犯の妻が「被害者参加制度」を利用して出廷することも明らかにしているが、夫が日本で犯罪を起こしておきながら身内の蛮行を恥じるどころか民事訴訟を起こして刑事告発まで行ない、民事裁判に続き刑事裁判でも被害者ヅラして出廷するとは何とも盗っ人猛々しい。
この支那人凶悪犯の妻による法廷(宇都宮地裁)での身勝手な証言については当ブログの過去エントリーにまとめているのでご参照頂きたい。
夫の死を利するシナ人遺族と中共政府の狡猾さ!
http://blog.livedoor.jp/samuraiari/archives/51263179.html
http://blog.livedoor.jp/samuraiari/archives/51263640.html
こうして着々と進められる刑事裁判手続きの一方で、このほど東京で開かれた控訴審第5回目の口頭弁論では然して争うべき新たな争点・証拠はあがっていないものの、原告(支那人凶悪犯の遺族)側訴訟代理人を務める鬼束忠則と日隅一男(映画「ザ・コーヴ」上映にも賛成派として連名)らは「刑事裁判の進展に併せて新たな証拠類を提出したい」旨を裁判官に要求した。
東京高裁側としては刑事裁判の進展に関係なく民事裁判の控訴審を進めたい意向だが、支那人凶悪犯遺族を弁護する人権派弁護士らの卑劣な「裁判引き延ばし戦術」によって控訴審は余計に長引く見通しだ。
ここで今回は、警察官の発砲を民事上の責任に問おうとする、あるいは刑事罰に処そうとする者らの思惑と言うよりはそうした者らを生み出す土壌について考えてみたい。
警察官が拳銃使用に至る際、無抵抗の状態になったり完全に抵抗をやめてもなおも容疑者を撃ったとするなら分からんでもないが、この栃木県のケースにせよ、東京都や神奈川県、奈良県で起こされた同様の訴えはいずれも支那人容疑者が凶器を振りかざして抵抗し、警察官の拳銃を奪おうとまでしたため、また、在日朝鮮人や麻薬中毒の容疑者が車を猛スピードで走らせて逃走したためやむなく発砲に至ったケースだ。
これまでが行き過ぎた暴力とするなら、誰かが眼前で殺されてからでなければ発砲してはいけないということか?
人権派弁護士にとって百〇(ひゃくぜろ)で国家権力による実力行使が正しい−とされているものを引っくり返せば、これほど人権派弁護士として名誉なことはない。
これ以降、警察官は言うに及ばず一般人であろうと自宅に侵入してきた賊に、実力行使でこれを撃退または制圧しようとも正当防衛とは見做されず、全て「過剰防衛」と断定され行き過ぎた暴力として断罪されてしまうだろう。
その一方でいかに凶悪犯罪が横行しようとも、警察官は拳銃使用を極力控えるようになり、ますます外国人らの犯罪天国となってやりたい放題になることが憂慮される。
それでも人権派弁護士を取り巻く社会的評価というのはまったく正反対なのである。
国家権力による行き過ぎた暴力を正すことに成功させた正義の弁護士、日本人による外国人蔑視や偏見、差別を根絶することに尽力した法律家などなど、前述の状況とはまったく異なった評価を社会的に許してしまう。
警察官の発砲は確かにそれだけを見れば暴力という有形力の行使に違いないが、警察官による拳銃使用は誰かに危害を加えることを目的として法律で定められているわけではなく、誰かの生命・財産を守る為に法律で認められた有形力の行使である。
この大前提を無視して、単に「発砲」という一事を拡大解釈すれば撃った警察官は殺人犯で、撃たれた犯人は被害者とされてしまうだろう。たとえいかに人々の生命・財産を危険に晒した支那人凶悪犯と言えども。
この「弱さ」と「甘え」こそが現在の日本社会が抱える最大の問題点で、ただ表層的に暴力を取り除いただけで好き勝手な解釈を並べ立てる法律家が社会的に評価される時代を終わりにしなければいけない。
先にも述べたように、本来的に評価されるべきは弱い者はじめ全ての人々の生命・財産を守る為に果然と凶悪犯罪に立ち向かい、拳銃使用というおよそ一般人には到底出来ない職務遂行に至った警察官の「強さ」と「優しさ」である!
この凶悪犯に立ち向かう強さと、市井の人々を守る優しさが評価される社会になってくれば、警察官の発砲を裁判で以って何としても封じようとする者らの意図、さらにはその背後に潜む支那・中共(中国)の思惑(人口侵略と軍事侵略)が自ずと透けて見えてくるだろう。
☆動画ご紹介
Dailymotion版
(1/2)栃木県警の発砲を断固支持する!
http://www.dailymotion.com/video/xdxsov_y1-2yyyyyyyyyyyyyyyy_news
(2/2)栃木県警の発砲を断固支持する!
http://www.dailymotion.com/video/xdxt1h_y2-2yyyyyyyyyyyyyyyy_news
プレイリスト
http://www.dailymotion.com/playlist/x1cx6s_shukenkaifuku_22-07-06yyyyyyyyyyyyy