へぼ哲学者による勇気ある思索

へぼ哲学者が社会に対して物申す!!物申しすぎて、保守系ブロガーの間では、私は在日コリアンということになっています(笑)
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言葉にした時点で嘘  ケータイ投稿記事

自分の思っていることを表現しようとしても、テレパシーを使えるわけでもなく、言葉という媒体に頼らざるをえない。そして言葉は実は多様な意味を含んでおり、それを用いても、自分の意図する内容がそのまま相手に伝わるわけでもない。また、言葉にした時点で、振り返って読み直してみても、やはり本来的に自分の意図した内容とは齟齬がある。
私のブログも同じである。かなり自己満足のためのものではあるが、そうは言っても一応他人が読むことも想定している。しかしやはり自分の言いたいことの半分も表現仕切れていない。言葉の方向も若干違う。

以下は中島義道の言葉。
「作家も編集者も、ある意味ではウソを商品にして生きているのである。ウソばかり書いているのであり、ウソばかり書かせているのである。しかし、そのウソはとてもほんとうらしいウソである。このあたりの妙味がおもしろい。」

おそらく、人が本当らしいことを言っても、その全てが「ほんとうらしいウソ」なのだろう。

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「正当化」という言葉  ケータイ投稿記事

「 自分のこと正当化してんじゃねーよ 」とかいう言葉について。

まず、議論もせず始めから弁解する側を正しくないと決め付けている。鈍感であり卑劣である。

そして、正当化したという時、その時点で「正当」なのだから、批判される筋合いはない。
もし「正当」と言えなければ、そこを指摘すればいいだけの話である。

また正当化を「行動」として見ても、自分のことは自分が一番よく知っているもので、他の誰が行うよりも、判断資料が豊富なことから、正当であることを論証しやすい有効なものである。だからこそ民事訴訟では弁論主義が採用され、刑事訴訟では当事者主義によっているのである。この有効性を無視するのは全く比較衡量のセンスに欠ける。

保守的な教師に多い言葉。
保守(馬鹿)さんたち、分かりましたか?

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二大政党制を批判する思考

イギリスで小選挙区制にもかかわらず、保守党、労働党双方が過半数を取得できなかった。これをもってメディアは「二大政党制の危機!二大政党制の正当性が問題として浮かび上がってきた」などとのたまう。
 
民主主義とは政権交代可能な独裁制と位置付けるのが望ましい。政権交代可能な時点で厳密には「独裁」とは言えないのではあるが。私の投稿した「政権交代とは何か」という記事を参照してもらいたいが、批判的民主主義の見地からはそのように解するのが適切であり、かつ、それを円滑に促進するには二大政党制が望ましい。
 
メディアが安易に二大政党制それ自体に問題が生じたとみなすことの愚かさは甚だしい。二本歩きをしていたところ、石につまづいた、「だから」二本歩きは正しくないのだ。これと同じである。
 
保守と呼ばれる人間と思考過程が極めて似ている。まあ、メディアの方がだいぶマシではあるが。
 
保守(馬鹿)さんたち、分かりましたか?

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なぜXJAPANは「神」なのか  ケータイ投稿記事

これほど一般大衆とファンとの間で温度差があるアーティストは珍しいだろう。

まず、関数を想定してみてほしい。X軸は「法則の普遍度」を測る。零より右へ行くほど、当該法則の普遍性の程度
は高くなる。当為の側面では正義を意味し、分析の側面では真理を意味する。逆に、零より左へ行くほど、それは不正ないし誤りを意味する。

次に、Y軸だが、ここには「法則の整合度」を置いてみる。多様な法則が統一し、整合し、調和することにより止揚しているほど上に行き、いわゆる美を意味する。逆(零より下)は不整合を表し、いわゆる醜である。

一般的な絵画はX軸は零の周辺と言ってよいだろう。音楽もそうである。一方、Y軸は極めて高いところかに位置する。
ところがXJAPANはその音楽が表現する法則が生死にかかるもので、人間の営みの基盤であり始まりであるところを扱うものであるから、その普遍性の程度が著しく高い(X軸)。そして作曲者YOSHIKIのもたらすクラシックを基礎とした洗練されたメロディと和音の調和。つまり、高い美をも備える(Y軸)。
このX軸及びY軸双方を修めているところに(つまり、関数の右上に位置しているところに)、XJAPANが他のアーティストを凌駕している所以を見出だせるのである。

XJAPAN。
その普遍的で美しい旋律は神の子イエスさえも平伏させるであろう。

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国際関係と正義の要請

※以下は私見である。なお、私は哲学科出身ではない。また、すべての考えは暫定的である。
 
正義とは、それが説得の場面において必要となるときに用いられることについてはこれまで述べてきた。正義は普遍主義的要請を意味するため、それを用いることにより、物事の(高度の)解決可能性到達可能性を有するからである。これは、逆にいえば(一応の)納得の原理である。
 
もっとも、説得の場面としての度合いが小さいと、正義の要請の程度は低くなる。
 
現在においては、特に国際関係がそれである。国際関係においては、少数の国家が物理的(軍事的)パワーを独占しており、それにより(一応の納得とまではいかないが)一応の解決可能性があるからである。
軍事的パワーを独占するアメリカのイスラム国家に対する態度、日欧に対する態度、イスラム世界であっても親米国家に対する態度、それぞれが(合理的理由なく)異なる原理によっており、いわばダブルスタンダードならぬトリプルスタンダードの状況にある。そして時に強弁を用いる。これは断じて正義という普遍主義的要請に即した態度ではない。しかしながら、これにより一応の解決がこれまでなされてきた。
 
かつては国内関係においても、現在では先進国とされている国々において、パワーがある者による、そのパワーを背景とした強弁により、一応の解決がなされてきた。しかし、国内においては力関係の流動性が高いからであろうか、徐々にそのような「一応」の解決可能性では収まらなくなる。そして普遍的原理を根拠とする正義による解決、「一応の納得」が必要となったわけである。
 
国際関係においても、正義による解決を不可欠なものとさせて、納得の原理による支配を達成できないだろうか。この点、軍事的パワーの流動性は世界秩序においてはさほど望めない。
ではどうするか。
一つとしては、小国でも核を作ってしまえというのがある。あらゆる国が事実上対等の軍事力を持つことにより、むしろ軍事パワーによる解決では一応の解決可能性すらない事態にさせるのである。しかしながら、暴走した場合における被害が大きすぎる。俗っぽい言い方であるが。不利益の大きさを無視することはできない。これはかつての国内関係におけるパワーの流動性の話に収まらない。本末転倒の事態に陥りかねない。
 
核軍縮を期待することもできるが、限度がある。現在のところ、まだ答えは見えない。というか、実はさほど興味はない。

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