※以下は私見である。なお、私は哲学科出身ではない。また、すべての考えは暫定的である。
正義とは、それが説得の場面において必要となるときに用いられることについてはこれまで述べてきた。正義は普遍主義的要請を意味するため、それを用いることにより、物事の(高度の)解決可能性、到達可能性を有するからである。これは、逆にいえば(一応の)納得の原理である。
もっとも、説得の場面としての度合いが小さいと、正義の要請の程度は低くなる。
現在においては、特に国際関係がそれである。国際関係においては、少数の国家が物理的(軍事的)パワーを独占しており、それにより(一応の納得とまではいかないが)一応の解決可能性があるからである。
軍事的パワーを独占するアメリカのイスラム国家に対する態度、日欧に対する態度、イスラム世界であっても親米国家に対する態度、それぞれが(合理的理由なく)異なる原理によっており、いわばダブルスタンダードならぬトリプルスタンダードの状況にある。そして時に強弁を用いる。これは断じて正義という普遍主義的要請に即した態度ではない。しかしながら、これにより一応の解決がこれまでなされてきた。
かつては国内関係においても、現在では先進国とされている国々において、パワーがある者による、そのパワーを背景とした強弁により、一応の解決がなされてきた。しかし、国内においては力関係の流動性が高いからであろうか、徐々にそのような「一応」の解決可能性では収まらなくなる。そして普遍的原理を根拠とする正義による解決、「一応の納得」が必要となったわけである。
国際関係においても、正義による解決を不可欠なものとさせて、納得の原理による支配を達成できないだろうか。この点、軍事的パワーの流動性は世界秩序においてはさほど望めない。
ではどうするか。
一つとしては、小国でも核を作ってしまえというのがある。あらゆる国が事実上対等の軍事力を持つことにより、むしろ軍事パワーによる解決では一応の解決可能性すらない事態にさせるのである。しかしながら、暴走した場合における被害が大きすぎる。俗っぽい言い方であるが。不利益の大きさを無視することはできない。これはかつての国内関係におけるパワーの流動性の話に収まらない。本末転倒の事態に陥りかねない。
核軍縮を期待することもできるが、限度がある。現在のところ、まだ答えは見えない。というか、実はさほど興味はない。
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