今から一週間ほど前、山本は交通事故に巻き込まれた。
Missing 01
下校中、いつも通りの道をいつも通りに歩いていると、いきなり脇から車が飛び出してきて僕達を襲った。
一瞬のことだった。急ブレーキのつんざくような音がしたと思ったら、僕は地面に倒れていた。しかし大して身体への痛みは感じなくて、山本に押されたのだということはすぐに分かった。そう、山本は僕を庇ったのだ。
少しの衝撃をやり過ごし、うっすら目を開けると、広がるコンクリートの上に力なく横たわる山本の姿があった。
車の中から運転手が降りてきて、山本に向かって仕切りに何かを叫んでいる。山本は動かない。
運転手がうつ伏せの山本の身体を動かすと、山本のワイシャツや顔が真っ赤に染まっていて、地面までもを赤に染めていることが分かり。それを現実だと認識した瞬間、目の前がぐわんと揺れて、背中に気持ち悪い感覚が広がった。
山本は、右腕に軽い打撲と、至るところに傷を作った上に、両目を負傷した。特に右目がかなりの重症で、網膜に傷が付いているとかで失明の恐れすらあったのだという。
しばらく、身体を動かすのは難しいだろうという医師の言葉が僕の中で何回も反復される。その言葉の意味なんて考えなくても分かる。思わず「野球は、」と言葉にした僕に医師が「え?」と返すから、僕はそのまま何も言わなかった。不思議そうな医師の顔なんて気にしてられない。あの馬鹿のことで頭の中は若干混乱していた。
そう、あいつは馬鹿だ。どうして僕を庇ったんだ。前に腕を骨折したとかで自殺しようとしたのはどこのどいつだ。僕ならあの程度、避けられた。突然のことだったから、無傷では難しいかもしれないが、山本のような大怪我はしなかっただろう。僕を助けるなんて救いようの無い馬鹿だ。
せめて、一瞬だけでも迷ってくれればよかった。そうすれば、ここまで大怪我することはなかったかもしれないのに。
ノックもせずに病室に入ると、足音で気付いたのか、山本がこちらを向いた。それでも僕の名を呼ばないのは、その両目を覆うように巻かれている包帯の所為で誰が訪れたのかわからないからだろう。
白い部屋に白いベッド。消毒液の匂いでむせ返りそうなこの部屋は山本には似合わない。せめてこの空間を明るく見せようとしてか淡い色の花が供えられている。よく彼と群れている草食動物達が用意したのだろうか。
「ええっと、看護婦さん?」
「……」
「あ、掃除のおばちゃん?」
「……」
「……雲雀?」
「うん」
山本は口と声だけで笑ってみせた。
いつまでも入り口付近で突っ立て居る僕に手招きをする。その仕種に僕は動物じゃない、と自然に眉と目元に力が入ったのだけど。違和感を感じた。今までならここで必ず「まーまー」というフォローになっていないフォローが入っていたことに気付いたのだ。しかし今ベッドに身体を預けてこちらに顔を向けている山本はただ僕を待っている。
見えていない、という事実を遠まわしに突きつけられているようだった。僕はゆっくりと山本に近付くと椅子に腰掛ける。すると、待ってましたといわんばかりに山本は身体を起こした。
僕が「どう?」と一言声を掛けると、すぐに身体のことを指しているのだと気付いた山本は「だいぶ良くなった」とはっきりした口調で言った。
しかし僕はその言葉を鵜呑みにするほど鈍くはない。事故の後の、赤や紫に腫れ上がっていた頬や唇の裂傷も、今はだいぶ綺麗になってきたとはいえ、痛々しさは拭えなかった。
僕の沈黙に気付いたのか山本は、「まったく痛くないって言ったら嘘になるけどさ、でも本当、良くなったんだって」と僕に言い聞かすように話す。
首をあまり動かせない山本の動きは少しぎこちない。眼球もあまり動かしてはいけないと医師は言っていた。山本がいくら「平気だ」と言ったって、僕にはどうしてもそうとは思えない。
山本は、いつもそうだった。山本の口から「痛い」とか「怖い」とか、そういう類の言葉を聞いたことがない。
いつも笑っていて、飄々としていて、時には余裕さえ感じられて。今もそうだ。本当は、痛いくせに。本当は、野球ができなくて悔しいくせに、平気なふりをする。平気なわけ、ないのに。
なぜ、僕を責めないの。
「お前なんかを庇った所為で、」と、なぜ、責めないの。
僕を庇ったことに後悔は無いの。
詰まるところ、僕はそれが気になって仕方無い。
以前自殺未遂を起こしたほどに山本は野球に身を置いている。
僕には理解できないのだけど、山本の中で、野球というものは本当に特別な存在なのだと思う。それなのに、何故。
そのことばかりが頭の中を回っている。違う、こんなの僕らしくない、そう思うのだけど、こればかりはどうしようもなかった。
気になるのなら、聞けばいい。後悔しているのなら、そう言えばいい。「お前なんか助けなければ良かった」と喚けばいい。
そう、思うのに。
「なーあのさ、」
「なに」
「すげぇこまめに来てくれて嬉しいんだけどさ、雲雀、本当に身体大丈夫なのか?」
「…平気って言ってるでしょ」
山本は僕の身体ばかり心配する。自分のほうが重症のくせに、どこまでも他人である僕のことを一番に考えている。
そんな山本を僕は、良くできた奴だなんて決して思わない。自分が怪我してまで他人を守るなんてどうかしている。今回は命があったからいいものの、最悪の場合死ぬことだってありえる。
他人を守って死ぬなんて、馬鹿馬鹿しいだけだ。
「でもさ、俺、結構強めに突き飛ばしちまった気がする」
「君もしつこいね」
僕は山本の手を取り、右頬にその大きな手を押し当てた。山本は驚いたみたいに口をぽかんと開けている。
「ほら、傷一つ無いでしょ」
「う、うん」
「気になるなら好きなだけ確かめれば?」
「わ、っちょ…」
次に山本の手を右腕に押し当てた。すると山本は少し慌てたように手を離したが、すぐにまた触れてくる。
僕の腕を手探りにゆっくりと丁寧に辿って、手のひらにたどり着く。山本の指が僕の手のひらに触れて、少しくすぐったい。
「雲雀の、手?」
「うん」
「……」
「なに、」
山本は僕の手をその大きな両手で包んでしまった。
「あったかいのな」
良かった、と山本が呟くように言った。きっと、独り言のようなものだったのだろう。僕の返事は待っていないようだった。
だから僕は何も言わなかった。いや、言えなかった。喉の奥が熱くなって、声が出せなかったのだ。
こんな時に山本の目が見えなくてほっとしている自分が厭わしかった。
なぜ、僕を責めないの。
後悔は、ないの。
今日もそれを聞けないでいる。
僕は実のところ、山本に本心を吐露されるのが怖くてたまらないのだ。
back