雲雀は、コチコチと動く長針と短針を前に、じっと座っていた。
丁度、午後十時を回ったところである。
At sacred night
クリスマスイブには帰れると思う
そう言った山本は、その日を最後に一度も連絡を寄越さなかった。
ほとんど毎日、どんなに忙しくても三日に一度は必ずかけてきていたのに。
雲雀は、ソファの上で読みかけの本と共に並んでいる携帯に目をやると、緩慢な動きでそれを手に取り、意味も無く見つめた。
昨日から、山本が此方に戻ってきているということは、哲からの報告で分かっている。正直、哲の口から山本の名前が出てきたことが面白くない。雲雀自身、山本のことなど気に留めていないつもりでいるが、なんだか見透かされているような気がして落ち着かなくなるのだ。「そんなこと調べなくていいよ」という雲雀の言葉に「すいません」と頭を下げた哲に反省の色はまったく見えなかったが、これ以上咎めるのも面倒なので放っておくことにする。
とにかく、哲の情報から、帰ってくると言っていたクリスマスイブには一日早いが、山本のことだから真っ先に家に帰ってくるだろうと踏んだ雲雀は二人分の食事を用意して待っていた。
香港へ飛び立つ前の日の夜。
山本はまるで子供のように、行きたくないと駄々を捏ねた。
まるでこの世の終わりのような情け無い顔で、何度も何度もキスをねだり、手を繋ぎたがり、少しの隙間も許さないようにぴったりと肌を触れ合わせて。
雲雀の側を離れたくない、と少し大袈裟なのではないかと思うほどぎゅうぎゅうと強く抱き締められ、囁かれたそんな言葉。
耳を噛まれるのではないかと思うほど近くで囁くものだから、耳たぶを掠めた唇の、少し乾き気味の熱を帯びたその感触がまだはっきりと思い出せるほどで。
雲雀は知らずに自分の耳を指先で辿っていることに気付く。そんな自分の行動に羞恥を感じたが、指を離す気にはなれない。山本の唇がそこに触れていると思うと、身体が勝手に熱くなる。
それも無理はない。山本が香港に行ってからすでに三ヶ月経っているのだ。その間、もちろん山本と触れ合っていない。こんなにも長く体温を共用できないのは滅多にないことで。
雲雀は、行きたくない、と零す山本を「君も少しは大人になれ」と嗜めた。そんな言葉に「雲雀はさみしくねーのかよ」と少し拗ねた表情を浮かべていて。雲雀は、尊大な態度で溜息を吐いたのだった。
さみしい、のだろうか。さみしいなんて感情は、雲雀がもっとも理解できないとする感情だった。
山本は頻繁にその言葉を使う。たった一日会えないだけでも、時には受話器越しから、時には抱き締めながら、「さみしい」とその感情を露わにする。
そんな山本の行動が雲雀には理解できなくて、知らず首を傾げると、山本は決まって困ったように柔らかく笑うのだ。そして頭にぽんと手を置いて、大事なものを扱うかのように優しく撫でる。
そうされるのは決して嫌いじゃなくて。むしろ心地良くて。すっかり機嫌が良くなった雲雀は、やはり何をさみしがる必要があるのか、と思案する。それがいつものパターンだった。
身体の奥を燻ぶる熱に焦れ、雲雀は我慢するのを忘れたかのように、下半身に手を伸ばす。
何故こんなに身体が熱くなるのか分からない。何故こんなに山本のことばかり考えているのか分からない。
自分で慰めることなんて滅多にない雲雀は、すっかり成長してしまった熱に途方に暮れる。瞳を閉じると、暗闇に浮かぶのはやはり山本の顔で。
欲望を滲ませたいつもより少し低い声や、荒んだ息遣い、触れてくる指先の熱さ。その記憶達が、雲雀の身体に熱を与えていく。
下着の中から取り出したそれに指を這わす。いつも山本がしてくれるのを思い出し、その通りに自ら追い詰めていく。
気付くと自分の呼吸音が煩いくらい室内で響いていて、それを認識したときには頭の中が真っ白になっていた。
コチコチと時計の音が耳につく。
雲雀は、すっかり冷めてしまっている料理を、片付けるべきか思案した。
被せたサランラップの内側には水滴が付いていて、キャベツの千切りの上に乗っている上手く揚がったはずのコロッケもとてもじゃないが美味しそうには見えない。
それに、目の前の時計は十一時をいくらか過ぎてしまっていて、もう今から帰ってきたとしても、夕飯をそれから食べるというのは考えにくい。
雲雀はそう決断すると、ゆっくりと立ち上がり、テーブルの上を片付け始めた。自分もまだ夕飯を食べていなかったのだけど、不思議と食欲が出てこない。
用意していたそれらを、ゴミ箱に捨てる。今の雲雀の行動を山本が見たら怒るだろう。山本は食べ物のことに関しては口煩いのだ。ご飯を残すなとか、好き嫌いするな、とか。
しかし、だからといって雲雀が行動を改めることは絶対にない。何故なら、山本が悪いから。山本さえ帰ってくれば、捨てることはなかった。帰ってこなかった山本が悪い。
山本が聞いたら理不尽極まりないと嘆くだろうが、雲雀にとってそんなことは明日の天気よりどうでもいい。
そんなことより、今、自分の中を占めるどこか落ち着かない感情の方が問題だった。
それが、「クリスマスイブ」の一日前のこと。
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