10年後設定
低体温を思わせる白い手のひらは、触ってみると案外温かい。
指に少し力をこめて、その温かい手を握り締めると、同じように少しだけ力を入れて握り返してくれた。
心臓が、ぎゅう、と音をたてるような、幸福感。
そんな優しい感情だけで雲雀に触れることができたなら、どれほど。
後朝
「そろそろ時間だろ」
二人だけの部屋に、雲雀の声が静かに響く。山本は閉じていた瞳を開いた。雲雀はいつものように感情の見えない表情でこちらを見ている。
その時間はいつでも唐突に訪れる。いや、本当は会った瞬間からその時間までカウントダウンが始まっていたのだけれども。
だからこそ、なるべく時計に目を向けないように、なんて子供染みた行動を取るから、いつでも、唐突にその時間は訪れるのだ。
「…行きたくねー」
山本はそう言って、雲雀の髪の毛に埋めていた鼻先を更に深く潜り込ませる。こんなことしても抵抗しない雲雀のせいで、余計離れがたくなるのを、雲雀は分かっていない。
山本はゆっくりと息を吸った。
柔らかく香るシャンプーの匂いと、先程までの行為のせいか、少しだけ汗の匂い。全部が混ざり合った、その人の匂いが好き。
髪の先まで愛おしくて、その毛先に触れてみると、ふわりと音をたてるような感触。自分とは似ても似つかない髪の感触に、思わず関心してしまう。
そんな風に、柔らかい髪の感触を楽しんでいるのに、雲雀の身体はそんなことにはお構いなしと言わんばかりに動き始めた。
握っていた左手をあっさりと振り解かれ、右手で弄っていた柔らかな髪も離れていく。ぴったりと寄り添っていた体温は惜しげもなく山本の腕からすり抜けてしまって、山本は思わず眉を寄せた。
「何してるの、早く準備しなよ。仕事が入ってるんだろ?」
脱ぎ捨てたせいで少し皺の付いたワイシャツを着込みながら雲雀は、ベッドの上で雲雀の代わりとでもいうように毛布を抱き寄せたまま動こうとしない山本に視線を向ける。
「なんか、行きたくねーの」
不貞腐れているわけではないのだが、なんだか今はそういう気分だった。雲雀を困らせてしまう、と分かっていても、子供染みた行動を取らずにはいられない。年だけ取って、頭の中はまだ雲雀を好きになったばかりの頃のまま止まっているようだった。
「今日は、ずっと、雲雀と一緒にいる」
雲雀が小さく肩をすくめ、呆れたように息を吐き出したのを気配だけで感じ取る。
山本はなんだか情け無い気持ちになった。だけど、意志は固かった。
離れなくない。側に居たい。常々そう思っているが、こうして肌を重ねた後ほど、その体温が恋しくて堪らなくなる。
そんな思いで、抱き寄せた毛布に顔を埋めると、突然毛布が乱暴ともいえる勢いで剥ぎ取られた。
「駄々をこねるな。困るのは君だろ」
わかっている。
マフィアの幹部ともあろう者が、簡単に仕事を休めないことくらい。部下への示しがつかないし、場合によってはツナの顔を潰してしまう恐れだってある。
だから、口では行きたくない、なんて言うけど、本当は行かなくてはならないことくらいわかっている。
そして、雲雀もわかっている。あと一分もしたら、大慌てで身支度を整え始めることも。
だから雲雀は、山本の言葉を無視して床に散らばっている服を拾い集めると、ずいと差し出す。
「そんなの、いらねー」
完全に子供染みた我侭なのだけど、半分だけ本気なのだ。そこのところを雲雀はわかってくれているのだろうか。
しかし、結局は理性に負けてしまう自分がいることを、残りの半分で認めている。
そうして、五分後には、二人は慌ただしく玄関にいた。
ドアを開けると、朝の陽射しが思ったよりも強くて、思わず目を細める。
それは雲雀も同じようで、目を細めた仕種が猫のようだと言ったら馬鹿にしたように睨まれた。
「次はいつ会える?」
尚もぐずる山本の背中を、ぐいと玄関から追い出すように押す。
「さあね、そのうち」
そんな素っ気無い台詞もいつものことだし、早く行けと言わんばかりに手で振り払う仕種をするのもいつものこと。
まだ眠そうな顔をしている雲雀は、さっさと山本を追い出して一人で優雅にベッドで眠りたいのだろう。それを少しだけ面白く思っていない自分に思わず苦笑してしまう。
「なあ、雲雀」
名前を呼ぶと、不機嫌そうな顔が律儀にも此方を向いてくれる。
「キスしたい」
こんなところで?、そう言いたげな表情を一瞬したけれども。
少し顔を傾けて近づけると、鋭い眼光は白い瞼によって隠れてしまった。本当に、雲雀は可愛い。
掠めるような、一瞬だけのキス。
山本は唇を離すと、丸い頭にぽんと手を置き、軽く撫でる。そして、今度こそ仕事に行くべく玄関を後にした。
ほんの数十分前まで、誰よりも何よりも側に居たのに、あっという間に遠ざかってしまう。
重ねた手の温もりも、触れ合った肌の熱も、すべて幻だったのではないかと思う瞬間。
胸が痛くなるほど、息ができなくなるほど、雲雀が好きだと思う、瞬間。
玄関の閉まる音は、まだ聞こえない。
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