10年後設定
僕は結局のところ、君に負けてばかり。
例えばこんな朝の話
頬に温かいものが触れて、意識が浮上する。
眠りを妨げられたことに苛立ちを感じたが、すぐに瞼を持ち上げることができない。
しばらくするとガタガタと音が聞こえて、うっすらと瞼を開く。そこには玄関で靴を履いている山本が居た。きっとこれから仕事なのだろう。
僕はもう一度瞼を閉じた。眠っている僕に気を使ってか、パタン、と扉の閉まる遠慮がちな音が聞こえる。
そんな気を使ったって、僕は葉の落ちる音でさえ目を覚ましてしまうのだから、意味ないのに。
もう一度眠ってしまおうと思ったが、妙に冴えてしまった頭になかなか眠気が訪れてこない。
仕方なく身体を起こし、ベッドの横に畳んであったシャツに腕を通した。確か昨夜は脱ぎ捨てたまま放置したはずだから、山本が畳んだのだろう。
時計を確認すると、仕事へ行くにはまだ早い時間だった。シャワーでも浴びようと、だるい腰を持ち上げる。
ふと、テーブルの上に何か紙切れが置いてあることに気付いた。
緩慢な動きでテーブルに近付き、紙切れを手にする。そこには。
『飯は冷蔵庫の中 ちゃんと食えよ』
そう、なんとも読みにくく汚い字で書かれていた。
ちゃんと食えよ、の部分は後から付け足したらしく、更に読みにくい。あいつは文字の練習をした方がいいと思う。
シャワーを浴びると、頭も身体もスッキリして、続いて胃袋が空腹を訴える。
濡れた頭をそのままにリビングに戻り、冷蔵庫を覗く。そこにあったものに、僕は思わず目を見開いた。
山本が作ったと思われるベーコンエッグ、それとウインナー。これはいいのだけど、お皿ごと包んだラップにまた小さな紙切れがくっ付いていた。
『残すなよ』
書き殴られた文字はやっぱり読みにくい。それにしても、こんな紙切れを残して、あいつは何がしたいのだろう。
疑問を感じつつも空腹を満たすために、冷蔵庫から取り出したおかずをレンジで温める。次にテーブルの上に用意されていた茶碗としゃもじを手に取り、炊飯器を開ける。と、その前に。今度は炊飯器に小さな紙切れがくっ付いていた。
『髪乾かしたか?風邪ひくぞ』
思わず濡れた髪に手をやる。一体何なんだ。
自分の行動がすべて見破られている気がして、奇妙な感覚に陥る。落ち着かない。それでも腹は空くので、とりあえず炊飯器を開けてつやつやなご飯を茶碗に取る。甘く白い湯気が臭覚をくすぐった。
丁度良くレンジが電子音を鳴らす。そこから温まったおかずを取り出して、テーブルの上に並べていく。
隅に置いてあった新聞紙に手を伸ばしかけて、やはりやめた。
朝食を摂る時に新聞を読んでしまうのは最早僕の癖のようなものだったのだけど。ある日山本が行儀が悪いと僕を嗜めた。それだけならまだいい。あいつは僕に親父みたいだと言ってのけたのだ。
それ以降、朝食中に新聞は読まないようにしている。山本の言葉を気にしているようで面白くないが、一度読まないようにしてみると、確かに食事中にまで読む必要は無いなと思えてくるから不思議だ。
僕は結局、テレビもつけずに静かな部屋でもくもくと朝食を摂った。料理とも言えない簡単な出来合わせだが、素直においしいと思えた。
朝食を食べ終わり、食器を片す。
歯を磨こうと洗面台に向かうが、まだ何か貼ってあるのではないか、と思った僕は不意打ちを喰らわないように、周囲を見回す。
何もない。少しだけ拍子抜けして、今度こそ洗面台を目指す。
しかし今度は、洗面台に置かれたコップに例の小さな紙切れがくっ付けられていた。
『二度寝すんなよ』
確かに、前にあまりの眠さに二度寝して哲に小言を言われたことがある。まさか山本が知っていたなんて。きっと哲が告げ口したのだろう。有能な部下だが、躾け直す必要があるかもしれない。
しかし、いちいちこんなことを紙に書いて、どういうつもりなのだろう。山本のことだからちょっとした悪戯のつもりなのかもしれないが。本当に、いつまで経っても脳内は子供のままで、付き合ってられない。
部屋に戻り、身支度を整える。そこでもやはりあの紙切れは出没した。
ソファの上に。バックの上に。僕の愛用の腕時計の上に。
至るところに貼り付けられた紙切れに、ほとほと呆れる。そのほとんどが余計なお世話というか、僕を幾つだと思っているんだと疑いたくなるような内容で。
僕はネクタイを締め、今度あいつに会ったら文句を言ってやろうと決心する。くだらない遊びに巻き込むなと。
そろそろ時間なので玄関で靴を履く。すると、何かが足の裏に当たった。まさか。靴を脱いで中を探ると、やはり。
『次に会えるのは来週くらいだと思う 風邪ひかないようにな』
少しくしゃくしゃになった小さな紙に、そう書かれている。
なんとなく違和感を感じて裏側を見てみると。
『早く会いたい』
シンプルな文字。汚くて、少し斜めになっている。
だけど、僕の心臓を驚かすには充分で。そしてすぐ、じわりと脳に伝達される。
こんなこと、紙に書いて、それも靴の中に忍ばせるなんて、とんだ恥知らず。本当にあいつは馬鹿だ。
だけど。
認めたくないけど、この汚い文字を愛しいと思う僕も、大概馬鹿なのだろう。
僕は、なんともすっきりした気分で玄関のドアを開ける。
恥知らずな紙切れをくちゃりと丸めて、ポケットの中に押し込んだ。
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