10年後設定
不意に、寒さを感じて意識が浮上する。
目を開くと、山本が何かをしている。どうやら、雲雀が脱ぎ捨てたスーツを畳んでいるようだった。
暫らくその様子を眺めて、再び目を閉じる。
ソファの上で寝てしまったので少し寒かったのだが、まるで心を読まれたかのようなタイミングで毛布を掛けられる。
身体はすぐに温かさを取り戻し、再び訪れた眠気に抗うことなく、意識を手放した。
良い子
「君って、やさしいよね」
食事の後、丁度食べごろである真っ赤な林檎を剥いてやっていると、それを黙って眺めていた雲雀がしみじみとした口調で言った。
「どうしたんだよ、急に」
珍しい雲雀の言動に、多少目を見張りながらもいつものように笑ってみせる。
リクエストに応えて剥いたうさぎの形をした林檎を皿に並べると、間を置くことなく細い指がうさぎを摘んだ。
しゃくしゃくと雲雀がうさぎを齧るたびに林檎の甘い香りが漂う。山本は残りの林檎も手早くうさぎに変化させると、自分も小さなそれを口に運んだ。
空になった皿を片付けようと席を立つと、雲雀が林檎の水滴で濡れた指をこれ見よがしに見せ付けてくる。それに山本はひとつ頷くとティッシュ箱から数枚ティッシュを抜き取り、白い指先を軽く拭ってやった。
山本は用の済んだティッシュと空になった皿を持ってキッチンに向かう。それらを片付けつつ「何か飲むか?」と問うと間を置かず「お茶」と返ってきたので、山本は二つ湯のみを用意し、急須に入れたお茶っ葉にポットでお湯を注ぐ。雲雀の好みは熟知しているから山本の動きに迷いはない。用意ができると、雲雀の居るリビングへと戻った。
ソファに座って寛ぐ雲雀の隣を陣取り、お茶の入った湯のみを渡す。
すると珍しく「ありがとう」なんて言葉が返ってきて、少なからず動揺する。
しかしそんな動揺は少しも表に出さぬよう努めて、山本は自分もお茶を啜った。自分のお茶と雲雀のお茶の温度の差は、湯気の量からして歴然としているが、これは暗黙の了解みたいなもの。機嫌を損ねる要因になりえることには蓋をするのが一番。
それに、今日の雲雀は機嫌が良いのだ。この貴重な時間をみすみす手放すつもりは毛頭ない。
数回お茶を啜った雲雀は、満足したのかテーブルに湯のみを置いた。
もしかしたらこの流れは、そう考えていた山本の勘は正しかったようで、雲雀はもともと短かった山本との距離を更に詰めるとぴったりと身体を寄せた。そして形の良い頭は山本の肩を定位置にし、動かなくなる。
とんでもなく可愛い雲雀の行動に弛みそうになる頬をそのままに、山本は自分に寄りかかるその人の腰に手を回してみる。しかし雲雀は眉をぴくりと動かしただけだった。大変珍しい。きっと、そういう気分なのだろう。
ときどきこんな風に露骨に甘えてくることがある。理由は分からない。そもそも、理由なんて無いのかもしれないけど。
「だって、」
突然話を切り出した雲雀に一瞬何のことだか分かりかねた山本だったが、すぐに理解する。
どうやら、先程の話の続きらしい。
「僕のためだったらなんだってするだろ?」
雲雀らしい傲慢な言葉だが、間違いでは無いので、山本は苦笑する。
確かに、雲雀のためだったらなんだってできるかもしれない。多少無謀なことでも、努力はするだろう。だけど。
「別にそれは、俺がやさしいっていう理由にはなんねえよ」
山本の言葉に、雲雀は顔を上げた。
交わった視線は鋭いもので、甘えたいくせに、分かりにくい奴だなあ、と思う。
「雲雀は、放っておくと何しでかすかわかんねえし」
とてもじゃねえけど目が離せねえよ、そこまで言葉を繋げてから、はっと雲雀の表情を伺う。
しかし、普段なら機嫌を悪くしそうな台詞も今なら受け入れてもらえるらしく、雲雀は話を聞く姿勢を崩さなかった。益々珍しい気がするが、山本は安心して言葉を繋げていく。
「そもそも、雲雀のため、って言い方はちょっと違うな」
雲雀の周辺に疑問符が見える。自然、微笑んでしまいそうになるが、ぐっと堪える。
「俺がしたいからしてるだけで、雲雀のため、なんて思ったこと一度もねえからさ」
雲雀はぽかんとした様子で此方を見ている。ちゃんと伝わったか不安はあるが、別に、どうしても分かって欲しいと思っているわけではない。
「だから、俺がやさしいってのは、ちょっと違うのな」
そうまとめた山本の言葉に、雲雀は盛大に眉を顰めると「よく分からないよ」と言った。
どことなく拗ねた様子の雲雀が可愛くて、思わず頭を撫で、「うん、雲雀には難しいかも」と軽口を叩いてみると、低気圧が浮上する。
調子に乗りすぎたのを悟った山本は、被害を被る前に退散を決意し、「さてと風呂でも入るか!」なんてわざとらしい言葉でその場をしのぎながら空になった自分の湯のみを持って席を立った。
本当に、雲雀の機嫌は変わりやすい。だけど、浮かんでくるのは溜息ではなくて、どこまでも広がる甘い感情と、隠しきれない笑みだけだった。
リビングに残った雲雀は、一人でぬるくなったお茶を啜っていた。
バスルームからシャワーを使う音が聞こえてくる。雲雀は湯のみの中を空にし、そのままソファの上に仰向けで寝転んだ。
天井を眺めながら先程の山本の言葉を思い出し、なんだか可笑しくなってくる。知ってはいたけど、自分は、山本に、こんなにも。
「…いいこになれないじゃないか」
呟やかれた言葉は、シャワーの音にそっと掻き消されていった。
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