あと、どれくらいだろう。
まだ先かもしれないし、明日かもしれない。
いや、もしかしたら今この瞬間にも応接室の扉を開き、「雲雀なんていらない」と、無邪気な顔で言うのだろう。
頭の中で何度も描いたその光景に、胸の当たりがツキリと痛む。
手に入らない世界
野球部の強化合宿が終わったようです、と草壁から報告を受けたのが昨日の夜。そして今日、山本が三日ぶりに応接室を訪れた。
たった三日だ、もちろんどこも変わった様子は無く、いつも通りの山本だった。敢えて言うなら、少し日に焼けたかもしれない。
山本は遠慮という言葉を生まれる時に母親の腹の中に忘れてきたらしく、ソファに寝転がる僕をまじまじと覗き込んでいる。
それが心底不快だったため、「なに」とできるだけ冷たい音を出したのだけど。山本は特に気にした様子もなく、情けなく眉を歪めると「会いたかった」と言った。
変な顔、そう思っていたらどんどんその顔が近付いてきてキスされる。
合わさった唇はすぐに離れ、山本は少し照れた様に「帰んねぇの?」と言う。外を見るともう薄暗かった。
「でさ、寝ぼけて母ちゃん!、とか言ってる奴もいてさ〜面白かったんだぜぇ?」
「そう」
山本と僕は時々こうして二人で帰る。山本は毎日でも一緒に帰りたい、と言うが僕の気分で眠い日などは山本を置いて一人で帰ったりする。
しかし今日、応接室でうたた寝をしてしまった。
別に帰っても良かったのだけど、窓から野球部の部活に勤しむ声が聞こえ、昨日まで合宿だったくせによくやるな、なんて考えていたらなんとなく帰る気が遠のいてしまい、そして気付いたらそのまま寝てしまったようなのだ。山本を待っていたわけでは、決して無い。
「そういえば今日、ツナがさ、」
「うん」
いつものように山本が一方的に話す形になる。僕はそれに短く相槌を打つことしかできない。野球部の連中にも、沢田達にも興味なんて無いから。相槌打っているだけでもありがたいと思って欲しい。
ホントあれ、傑作だったよなー、と山本は本当に楽しそうに笑った。きっと、その時のことを思い出しているのだろうけど、僕には何も伝わってこない。知りたいとも思わない。
気付けば僕と山本は割りと大きい家の前に立っていた。僕の家だ。
山本は、二人で帰る時は必ずこうして僕を家まで送る。女子じゃないんだから必要無い、と最初のうちは抵抗したが、諦めの悪い男だということは身を持って知っているため今は好きにさせている。
そのまま何度か家の中に入るのを許したこともある。いや、無理矢理入ってきたと言っても過言ではないけれど。
だから今日も、きっと山本は「いいじゃん、すぐ帰るから」とか言いながら押し入ってくるのだろうと高を括っていたのだが、その様子は見受けられない。むしろ、このまま帰ってしまうような空気が伝わってきた。
三日間、顔すら合わせなかったのだからきっとしつこいくらい構ってくるに違いない、そう思っていたのに。
「…寄ってけば」
気付いたら僕の口は勝手に動いていた。
言ってすぐ、後悔する。
僕は一体何を言ってるんだろう。
「えっ?」
山本の驚いた顔が目に入り、僕はすかさず「別に、帰りたいなら帰ればいい」と言葉を繋ぐ。
しかし山本が帰るはずもなく、感極まったみたいに「寄る!寄ります!」と言って強く抱き付いてくる。
人通りの少ない場所とはいえ、外での行き過ぎた行動に僕のトンファーが唸った。
山本を家の中に初めて自ら招き入れたからといって、何があるわけでもない。
やはり山本が一方的に喋るだけの会話とも言えない会話が淡々と続けられ、相変わらず僕は短く相槌を打つだけだ。しかしそれも、疲れてしまった。
どうして楽しそうに笑う山本を見てこんなに胸が痛むのか。今日はそれが特に酷くて、辛い、と思った。辛い、ってこういうことを言うのか…なんて妙に納得さえしてしまう。
「そしたらさ、そいつが石鹸で滑って転んじまってさ」
「……」
「雲雀?」
僕は相槌さえ打てなくなっていた。心臓の周りらへんが痛くて、じくじくして、堪らなかった。
「お、わ!」
山本の顔を僕が見下ろしている。
「…しないで」
無意識に山本を突き飛ばすように押し倒していた。
山本が、さっきと比にならないくらい驚いてる。
「今はその話、しないで」
こんなの変、だ。
こんなの、僕じゃない。
僕の知らない世界をたくさん紡ぎ出すその唇が嫌いだ。もうこれ以上僕の心臓が痛くならないようによく動く唇を塞ぐ。君は「ひ、ば!苦し、」って足掻くけど、僕だって苦しいんだ。文句言うな、と咎める代わりに舌根を思いっきり吸う。
僕以外の物を写すその目が嫌いだ。見たくないから僕から瞳を閉ざしたのに、視線がちくちくと突き刺さる。もう本当に、いい加減にして欲しい。
僕以外を触るその手も、僕から離れていくその足も、全部全部、大嫌いなのに、どうして僕は彼を求めているの。
熱く汗ばんだ手がシャツの中を這って、僕の身体を開いて、僕は声を上げてそれを受け入れて。声がまともに出なくなってしまったようで、「もっと」なんて情けなく掠れた音で強請ったりして。
山本の熱が欲しいと思った。早く僕の中に入ってきて。そう、思った。自分から動いたのも初めてだった。山本の気持ち良さそうな顔を見て、僕の体内を巡る血液がドコドコ煩く鳴り、ほとんど無意識に激しく腰を揺すり、はしたない声を上げる。本当、どうかしてる。
上手く働かなくなった僕の思考はすぐに真っ白になった。
山本の声がした。
ひばりー、ごめんな
俺、ひばりが辛そうなのに、嬉しいんだ
ひばりが、寂しいって思ってくれて、すげぇ嬉しい
俺もすっげぇ寂しかったんだぜ?
ぜってぇ、離さないから
山本の手が僕の頭を数回撫でた後、髪の感触を楽しんでいるかのように優しく動いた。
そこからは確かに、愛情のようなものを感じなくもないのだけど、しかし。
彼は、行ってしまう。僕を置いて、行ってしまう。
そんなこと言ったら「そんなわけないだろ!」なんて言ってムキになるのが目に見えているけど、間違いない、と僕は思っている。
山本はいつだって新しい世界を見ていて、新しい人間に会って、新しい経験をして、そして全てを受け入れる。
こんな関係になった時から、いつまでも彼が僕の元に留まっているなんて思っていなかった。彼が僕の元から離れる時が来ても、僕なら平気だと思っていた。
なのになぜ、今になって訳のわからない胸の痛みに襲われるのか。
僕はそっと、山本の胸に頬を寄せてみた。
すると、山本の腕が僕を手放すまいと必死に抱きしめてくる。
胸がまた痛くなって、痛みのあまり目の奥がジンと痺れる。
視界がぼやけたのも初めての体験だった。
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