きっかけは些細なことで。
たまたま、夕飯時に親父と見ていたテレビ番組で出産の特集をしていて、それを見て「女ってすげえのな」なんて親父に言ったりして。
でも、生まれた子を抱く女の人の幸せそうな顔を見て、本当にそう思ったのだ。
そしてすぐに、雲雀のことを考える。
なぜだか急に寂しさを感じて、無性に会いたくなった。
望まれる世界
数回鳴った呼び出し音の後に、「なに」と篭もった声が聞こえた。
「あ、もしもし、俺!ごめん、寝てたか?」
問いかけに雲雀は「寝てない」と簡潔に答える。声から気だるさが伝わってくる。相当具合悪いのだろう。何て言ったって、あの雲雀が学校を二日も休んでいるのだ。
いつものように入院しないのかと聞いたところ、病院まで行くのが面倒くさいそうだ。だったら俺が送るけど、と山本が言っても頑なに首を振る。雲雀は頑固だ。
雲雀が一人で家に居たって、ろくに薬も飲まないことなんて分かりきったことだ。それではいつまで経っても治らないから、こうして雲雀の家を訪れることにした。心配で部活どころじゃない。
「もうすぐ着くからな、温かくしてろよ」
そう言うと「うん」と雲雀にしては大変素直な言葉が返ってくる。
風邪を引いて弱っているからだろうか。雲雀が凄く可愛い。具合の悪い雲雀には悪いが、なんだか胸がぽかぽかと温かくなるのを感じた。
適当なところで電話を切り、左手に持っていたビニール袋を持ち直す。中には先程スーパーで買った林檎が入っている。
どうせ何も食べていないのだろうから、早くこいつを切って食べさせてやろう、そう思うと、自然に早足になり、雲雀の家に着くのもすぐだった。
マンションの明かりが見えてきたところで、ポケットの中を探る。こつりと指に当たる感触を確認すると、それをポケットから取り出し、銀色の鍵穴に差し込む。
滅多に使わないけど、合鍵のようなものだ。前に冗談で合鍵が欲しいと言ったところ、雲雀は思ったほど嫌がる素振りも見せずに小さな鍵をくれた。
あまり家に帰っていないみたいだから、雲雀にとって自分の家はそんなに大事なものではないのかもしれない。
玄関を開けると、水の流れる音が部屋の奥から聞こえてくる。
「雲雀?」
おじゃまします、と一声掛けて家の中に入ると、音のするほうへと急ぐ。
すると、青白い顔の雲雀が洗面台で口元を押さえて立っていた。
「おい、大丈夫か?」
「…う」
雲雀はこくりと頷くと小さく嘔吐く。全然平気そうには見えない。
思わず背中に伸ばした山本の手を振り払わないのが何よりもの証拠だ。
「気持ち悪いのか?」
「うん」
「薬は飲んだ?」
「…多分吐いた」
山本は持っていた荷物を床に置くと、雲雀の背中を擦る。服越しの体温は、いつもと比べ物にならないくらい熱い。
落ち着きを取り戻してきたのを見計らって、山本は雲雀を連れて寝室に入った。乱れの少ないベッドはさらさらしている。雲雀は汗を掻いていない。つまりはこれから更に熱が上がるかもしれないということで。
山本は思わず眉を寄せると、雲雀の身体を支えてやりながら慎重にベッドに寝かせてやった。
荒い息を吐く雲雀の頬は赤く火照っている。こんな状況じゃなければ素直に可愛いと思えるのに、今は心配で堪らない。
とにかく寝かせなければと思い、布団を雲雀の身体に掛けてやると、横たわった細い身体はもぞりと動いた後安心したみたいに大人しくなった。
暫らくすると細い寝息が聞こえてくる。山本は息を吐くと、廊下に置いたままだった荷物を片付けにいった。
なんだか先程から落ち着かない。雲雀の弱っている姿を初めて見て戸惑っているのだろうか。
再び雲雀に視線を向けると、だんだんと心臓の音が収まっていくのを感じた。
「水飲むか?」
目を覚ましてぼんやりとしている雲雀に、冷たすぎない水を入れたコップを渡してやると、緩慢な動作でそれを受け取った。
ゆっくり上下する喉を見て、山本はベッドの縁に腰掛ける。
「何か食う?おかゆくらいなら作れるけど」
山本の言葉に雲雀は小さく首を振ると、気持ち悪い、と呟く。
「そっか、無理することねえけど、どっちにしてもおかゆは作ってから帰るから、後で食えよ」
あ、でも水分は無理してでも摂れよ?、と言う山本の顔を、雲雀のいつもより迫力の無い眼光が捕らえる。
「…帰るの?」
山本は幻聴ではないのかと耳を疑った。
都合の良い捕らえ方かもしれないが、なんだか雲雀が名残惜しんでいるように聞こえて。思わず頬が弛みそうになるのをぐっと堪える。
「すぐには帰んねえよ、雲雀が寝るまでここに居る」
「ふうん」
雲雀は興味の無い素振りでごろりと布団に包まると、顔を伏せた。その様子が子供のようで、可愛くて思わず雲雀の丸い頭を撫でる。
ふかふかとした感触を楽しんでいても、雲雀は睨みをきかせるだけで殴り掛かってこないので、やはり具合悪いのだろうと思い、手を離した。
雲雀は更に深く布団を被ると、そのまま動かなくなる。山本は困ったように笑うと、おかゆを作るためにベッドから立ち上がる。思い出したように「デザートはりんごな」と付け足しても雲雀は顔を覗かせなかった。
キッチンに向かうと、そこには雲雀が飲んだと思われる風邪薬が置いてあった。そういえば薬も吐いたかもしれないと言っていたことを思い出す。もう一度飲ませた方がいいのかと考え、何気なくその薬を手に取った。
洗面台で突っ伏す雲雀を見た時、心臓が妙な動きを見せたのを、山本は否定できない。
先日見たテレビ番組の、妊娠していた女性を思い出す。あの女性も気持ち悪くてご飯が食べられないと言っていた。だからなのだろうか。妙に落ち着かないのは。
御伽話のようだが、もしもこの風邪薬が性別を変えてしまう薬だったら。
そしてその薬を、もしも雲雀が飲みたいと言ったら。
その時自分は何て言うのだろうか。
雲雀が女になって、セックスして、子供ができて、生まれて、幸せな家庭を築き上げて。そうして幸せだと笑うのだろうか。それだけが幸せなのだろうか。
考えても仕方無いことなのだけど、そのことばかりが頭の中を巡る。
山本は布団に包まっている小さな塊をつつく。すると雲雀がもそりと顔を出す。頬が赤い。
手にした風邪薬と、水の入ったコップを雲雀に差し出す。雲雀は面倒臭そうにそれらを受け取ると、風邪薬の封を切り、苦い粉薬に眉を顰めながら、コップを傾ける。
薬を飲み終えたのを見計らって、空になったコップと薬の入っていた小さな袋を受け取り、もう一度雲雀の体を横にさせた。
はあ、と熱っぽい息を吐く雲雀はとても辛そうで、やはり今日は泊りがけで看病しようかとも思う。けれど、それでは逆に雲雀が疲れてしまいそうなので、却下だ。
山本は雲雀の邪魔にならないようにベッドの縁に座ると、無防備な白い手を己の手のひらで包み込む。いつも冷たい指先は、今はとても熱い。
雲雀は閉じていた瞳を薄く開き、山本を見た。
「嫌か?」
山本の問いかけに雲雀は答えない。やがて再び目を瞑ってしまった。
山本は嬉しさを隠しきれない顔で笑うと、熱い手をぎゅうと握りなおした。
こうして雲雀の側に居て、雲雀の手を握って。溢れ出しそうになる、泣きたくなるような感情を堪えるように、山本は静かに目を閉じた。
子を成せる身体、偏見の無い世界。そんなもの、雲雀と比べたら何の価値も無い。
平らな胸も、少し骨張った身体も、雲雀ということだけで、こんなにもいとおしくて、山本の心を満たしてくれる。
これ以上の世界なんて、いらない。
back