冷たかった風が、少しだけ暖かさをを帯びて頬に当たる。
見上げた応接室の窓は開いていて、淡い色のカーテンが揺れていた。

見慣れた風景。当たり前のようにそこにあると思っていたその場所に。
雲雀は、明日から、いない。






理想郷







断られることしか想像していなかった山本が、嬉しさのあまり華奢な身体に抱き付いたのが三日前の話。
式が終わった後、デートでもしませんか、と誘ったのはもちろん山本で。
それに珍しい気まぐれを起こしたのか、小さな頭がこくりと頷いた。
雲雀が山本の提案に頷くことなんて滅多にないから、一瞬幻覚かと己の目を疑うが、不機嫌そうに顰められた眉はどことなく拗ねていて、雲雀は優しいな、と素直に思えた。
最後のデートだから、どこか遠くへ行きたい。そう言った山本の言葉を、やはり雲雀は抗議の言葉を漏らすこともなく、黙って聞いていた。
最後だなんて、どこか大袈裟かもしれない。だけど、気分的にはそれくらいで。山本にとって今日という日はとても大事な日だった。

待ち合わせ場所は、雲雀の家の最寄り駅。
どこへ行こうかと散々迷った結果、山本は電車で一時間くらいの、デートスポットで有名な水族館を選んだ。
それでも、山本にとっては精一杯遠くを選んだつもりで。別に、雲雀と二人だったら近場でも構わないのだけど、今日は、なんとなく。

だけど実際は、移動の時間が長いだけで、いつもとたいして変わらない二人の距離。
ほとんど一方的に喋っている他愛の無い山本の話を、雲雀は聞いているのかいないのか、稀に目で反応するくらいだ。
それもいつものことなので、山本は雲雀の態度を気にすることもなく、昨日のテレビの話や、野球の話や、友達の話をする。
つまらなそうな雲雀だけど、それでも自分の後を付いてきてくれるから、つまらないわけではないのだろう。そう思うと、胸の中が喜色で満たされていく。
卒業の話が出なかったのは単なる偶然か。それとも、意識して避けているのか。
にこにこと笑顔を絶やさない山本から、きっと雲雀は、その気持ちを量ることはできない。

楽しい一日。
だけど、いつもと何が違うのだろう、と雲雀は思うかもしれない。
場所が応接室から外に変わっただけで、山本がいつも以上にはしゃぐ理由だって、きっと分かっていない。
水族館の中は混雑していて、いかにも雲雀が嫌いそうな場所だったけど。嫌がる素振りは見せても帰ってしまうことはなかったから、少しは楽しんでいるのだと思う。
意外と広いそこは、人で溢れている場所ばかりかと思いきや、ふと人通りが無くなる場所もあったりして、その一瞬を見つけては、こめかみに唇を寄せたり、頬にキスしたり。
なんだか、部屋の中でする味わうような長いキスと同じくらいの感覚に、少しだけ笑った。雲雀は相変わらずむす、としていたけど、軽くこずかれる程度で済む。今日の雲雀は怖いくらい優しい。


いくら風が暖かくなり始めたからといって、まだ日が落ちるのが早い季節だ。
気付いたら、空は暗くなっていて、少し肌寒い。
こんな時間まで、並盛から離れた場所にいるのは、確かに珍しいことで、雲雀が問いかけてくる。水族館のペンギンショーが思ったよりも気に入ったらしく、少し機嫌がいい。

「門限はいいの」

それでも短い問いかけは、予想できたことで。
山本は曖昧に笑ってみせる。それは、山本が困った時や、はぐらかしたりする時に多く見られる表情だと記憶していた雲雀だが、それ以上は問いたださなかった。


そして。どんなに楽しい一日でも、終わりはきてしまう。
駅の時計を見ると、もうすぐ日付けが変わるところだった。
山本は無言のまま、雲雀の手を強く引いて、帰る方向とは反対の電車に飛び乗った。
少しだけ驚いたように目を見開いた雲雀は、閉まったばかりの電車に押し付けられるように抱き締められながら、山本が雲雀にお土産と言って買ったペンギンの人形をつぶされないように持ち変える。

案外早く着いた終点で降りると、再び山本は雲雀の手を引いて電車を降りる。
いくつもの線が通るその駅。滅多に電車を利用しない雲雀だけど、随分遠くまで来たことくらいは分かる。
更に山本は違う電車に乗り換える。できるだけ遠くに行くつもりなのかもしれない。
雲雀は、どこへ行くの、とは訊かなかった。
訊いても、また曖昧に笑ってみせるのが分かっていたから。
乗り込んだ電車が出発してしばらくすると、山本がぽつりと言葉を囁いた。
山本らしくなく、静かな響き。

「…遠くに、行きてえんだ。雲雀と、二人っきりでさ」

誰にも邪魔されないで、ずっと一緒に居られる場所に行きたい。
そう言う山本の言葉を、雲雀は黙って聞いている。肯定の言葉も、否定の言葉も、口にしない。じっと、ただ山本を見つめていた。
でもそれは、その視線は、なんだか許してくれている気がして。
そんな場所、あるわけない。
本来の雲雀なら、そう一言で山本の言葉など切り捨てるのに。どうしてこういう時に優しいのだろう。
ただ山本を見つめるその視線は、叶えられっこない我侭な望みを、それでも許してくれているのだと思いたかった。

山本達の乗り込んだ電車は、夜中であることも手伝ってか、ほとんど人は乗っていなかった。
近くに座っているサラリーマンは酒でも飲んだのか顔を赤くして眠っているし、そこにいるほとんどの人が俯いて眠気と格闘している。
誰も自分達を気にも留めていない。そう思うと、突如発生した雲雀に触れたいと思う気持ちがむくむくと膨れ上がり、堪らなくなる。
そっと大人しく自分の隣に座る雲雀の前髪に触れ、指先で弄ぶ。さすがに近くに人がいるという現状が許せないのか、雲雀の白い手が一回り大きな山本の手を問答無用に払いのける。
今日は久しぶりのデートで、とてもとても楽しい一日だった。だけど。
どこか物足りなさを感じるのは、まだ充分に雲雀に触れていないからで。
そっと掠めるように頬に唇で触れ、そのまま雲雀の耳元に「次の駅で降りような」と告げると、強気な眼差しと視線が間近で合い、もう一度頬にキスをした。

この電車を降りたら、始発まで電車が無いとか、次がどこの駅で、ここが一体どこなのか、とか。
そんなことはどうでもいいことなのだ。ただ、二人きりで居られる今が驚くほど満足感を与えてくれて。
二人が一緒に居られるなら、それで。それだけで、良いから。

山本達は、乗り降りする客がほとんどいないその駅で、下車する。
家路に急ぐ人々に紛れて改札を出ると、当たり前だがまったく知らない道が広がっていた。見慣れない町並みに、空気まで違う匂いな気がするのは何故だろう。そんなに遠くまで来たのだろうか。
だけど、不思議と不安などは感じない。隣を歩くその人の手を、しっかりと握って歩くと、どこまでも行けそうな気さえしてくる。
そうして当ても無く歩いていると、外灯が数本立っているだけの小さな公園を見つけた。歩き疲れたことも手伝い、自然にその公園へと脚が向かう。
植え込みの間に丁度良いスペースを見つけると、山本は芝生の上に脱いだ上着を広げ、雲雀に座るように促す。

「雲雀、寒くない?」
「君のほうが寒そうだけど」

確かに、どちらかと言えば上着を脱いだ山本の方が寒いかもしれない。
呆れた顔の雲雀に山本はにこりと笑うと、ゆっくりとその身体を押し倒す。抵抗もなく、簡単に倒れた身体に覆いかぶさり、今日一日我慢していた唇へのキスを許される。そっと舌先を入れると、熱すぎる口内に少しだけ驚いた。

「今から温かくなることするから、平気」

暑くなって全部脱ぎたくなっちまうかも、そう悪戯っぽく言う山本の顔を、雲雀はそっと引き寄せた。
珍しいその人からのキスに、山本は一瞬されるがままになる。だけど、雲雀の舌が入ってくると、もう駄目だった。まともな思考は働かなくなり、本能のまま雲雀を求めてしまう自分を、止めることなんてできなかった。


宣言通り。辺りがうっすらと明るくなるまで「温かくなること」をした山本は、まだ少しだけ汗ばんでいる身体もそのままに、雲雀を腕の中に閉じ込めたまま眠ろうとしていた。

「服くらい着て寝なよ」

掠れた声でそう忠告する雲雀の頭を抱き寄せる。

「…いい。あちーもん」
「君馬鹿?風邪ひいても知らないから」
「はは、雲雀も喉、大丈夫か?」

くすくすと笑って、まるで掠れた声に刺激されてしまったかのように、眠そうに微睡んでいた山本が身体を少しだけ起こし、不満気な唇を唇で塞ぐ。
そして再びその唇を下方にずらし、首筋に吸い付こうとしたところで、薄情な白い手に阻まれた。
雲雀は自分を閉じ込める山本の腕を退かすと、起き上がる。もしかして怒らせたかも、という山本の心配を余所に、雲雀は上着を脱ぐと、自分と山本の身体を上手く覆うように上着の位置を定め、再び山本の腕の中に戻ってきた。

「えっと、雲雀?」
「…僕も暑いんだよ」

どうしよう雲雀が優しい。こんなに好きにさせて、雲雀は、ずるい。
沁み入るような温かさを胸に感じる。
ずっとこうしていられますように。そう願いながら、山本は今度こそ目を閉じた。

本当は。
本当は少しだけ怖いと、そう思っていることは、言えなかった。
こうして一緒にいるのは、本当は全部夢で。現実では、デートが終わって、駅に戻ってきて真っ直ぐ家に帰る道を選んでいたのではないか。そんな不安が時々頭を過ぎる。
目覚めたら、そこはいつもの自分の部屋で。そしてそのまま、雲雀に会えなくなってしまうのではないか、なんて。
眠るのが怖い。だけど、そんなことを口にしたら、なんだか本当にそうなってしまう気がして。もし、本当にそんなことになったら、自分はどうなってしまうのか分からなくて。
このまま側に居れるなら、野球さえ捨てても構わないと思ってしまうほど。雲雀以外、何もいらないと思ってしまうほど。
腕の中の温度が愛しくて堪らない。




その日も、ひたすら電車に乗って遠くを目指した。
行く当てなんて無かったし、目的地ももちろん無かった。
それで良かった。
ただボックス席に並んで座って、こっそり繋いだ手を離すもんかとばかりにぎゅうと握って、寄り添うみたいに凭れかかって。それだけで、何をしたわけでもないのに楽しくて幸せで。
だけど、やはり風邪をひいたらしく、電車の中でけほけほと山本の咳が響いた。

「だから言ったんだ」
「なんで雲雀はなんともねえの?」
「鍛え方が違うからね」

雲雀の言葉に、えー、雲雀だってよく風邪ひいて入院してただろ、なんてふざけて反論する山本の手は、とても熱い。
風邪薬を買えという雲雀の提案にも、山本は大丈夫と首を横に振った。

夜になって、ますます咳が悪化した山本を見兼ねて、雲雀は持っていたクレジットカードを山本にやった。
そのカードで適当に宿を見つけて、今夜はそこで休もうと提案する雲雀の言葉に、山本は困ったように眉を下げて笑う。
曰く、そのカードを使ったら誰かに見つかるかもしれないだろ、ということだった。

「ほんと、大丈夫だって、風邪くらい」

心配してくれてありがとな、という言葉に「別に心配なんてしてない」という素っ気無い言葉が返ってくるのはいつものことなので、にこにこと笑顔の耐えない顔が曇る要因にはならない。
幸せな時間。風邪なんかで雲雀と引き離されては堪らない。離れたく、ない。

だからその夜も公園の死角で。
性懲りもなく上着を脱いで地面に敷こうとする山本の行動を、雲雀が押しとめる。

「敷かなくていい。そんなの無くても寝れる」
「だって、背中擦れちゃうだろ」

昨日みたいに何度もしたらさ。
そう囁く山本に雲雀は心底呆れたみたいに息を吐く。

「今日はしないよ。大人しく寝ろ」

時間が経つにつれて、山本の頬の赤みが増していることくらい、雲雀だって気付いている。
具合悪いくせいに、へらへらと。風邪だって、甘くみてると拗らせたとき大変なのに。

「それは無理」

なのに、山本がいきなり雲雀に飛びつくから、二人してバランスを崩し地面に倒れ込む。
身体が痛くないのは山本の腕が雲雀の身体を庇ったからで。

「我慢なんてできねえよ…雲雀がこんな近くに居んのに」
「やま…っ」

山本はそれだけ言うと、雲雀の言葉を遮るようにキスをする。
こんなことしては、雲雀に風邪が移ってしまうかもしれない。頭では分かっていても身体は止まらなかった。
早く雲雀の中に入りたくて、急性に事を進める。
寒くないよう、必要以上に服を脱がさないようにして、指を下半身の奥へ潜り込ませる。
昨日散々堪能したそこは、すでにきつくなっていて、すぐには入れられない。山本は何度も己の唾液で指を湿らせ、奥を解すように何度も何度も指を挿し込む。
そして雲雀が根を上げたころにようやく、ひとつになる。すると雲雀がうわ言のように「熱い」なんて言うから、育ちきった欲望に自制できなくなって、目の前が白く霞む。
気付いたら全速力した後みたいに息を荒げて腰を打ち付けていた。身体も頭の中も熱くなって、このままどろどろに溶けてしまいそうになる。
雲雀の息も乱れきっていて、それでも無理矢理キスをする。お互いにそれしかしらない馬鹿みたいに舌を絡ませ合う。
出しても出しても収まらない欲に、山本がもう一回と白い脚を広げさせても、雲雀は何も言わずに付き合ってくれた。
雲雀はまるで麻薬のようで、欲しくて欲しくて堪らなくて、その熱を知れば知るほど、溺れてしまいそうになる。
自分はどこか狂っているのかもしれない、なんて。そんなこと、とうの昔から気付いてた。

結局、明け方までそうして身体を重ねて。
風邪っぴきの山本はそのまま気絶するように眠ってしまった。
急に圧し掛かってきた熱い身体の重みに眉を顰めた雲雀は、少しだけ考えて、山本を起こさないようにそっとその身体の下から抜け出す。
溜息をひとつ吐くと、脱ぎ捨てられた山本の上着を掴み、ポケットの中を探る。
そこから携帯電話を取り出し、ずっと切られたままだった電源を入れた。







山本は、目を開いた。
ぼんやりとする視界のまま辺りを見渡すと、ここが見慣れた自分の部屋であることが分かった。
冷やりと背中に嫌な汗が伝う。やっぱり。やっぱり、全て夢だったのか。
だけど、身体を起こした時に額からぽとりと濡れたタオルが落ちてきて、全てが夢だったわけではないことを悟る。
しかし、ならばなぜ自分はここにいるのだろう。雲雀はどこに行ってしまったのだろう。なぜ、雲雀が側に居ないのだろう。心臓の音がやけに近くで聞こえる。

布団から身体を起こしたところで、がちゃりと部屋のドアが開いた。
縋る思いで部屋を訪れた人物を見やるけど。

「武、起きたのか!」

その声は、山本が求めた声ではなく。軽く失望すら覚えてしまう。
驚いたような父親の声を聞きつけたのか、複数の廊下を走る足音が聞こえてくる。父親の次に顔を見せたのは、ツナと獄寺だった。

「山本!大丈夫?!」

必死な声でそう叫ぶツナの横で、獄寺は呆れたように息を吐いていた。
何やら真剣な形相で近付いてくる父親に、歯を食いしばると予想通りに横っ面を殴られる。その後、聞こえた「心配させやがって」という父親らしくない小さな声に、自分のしたことの重大さを知る。
素直に「ごめん」と謝ると、何も言わずに父親は部屋から出て行った。その様子をはらはらとした様子で見ていたツナが、遠慮がちに部屋に入ってくる。その後に続いて獄寺も。
二人が自分の傍らに腰を下ろしたところで、山本は一番気になっていることを訊く。

「なあ、雲雀は?どこ行っちまったんだ?」
「雲雀さんは…いないよ」

予想していたが、あまりの衝撃に息ができなくなる。

「いないって、どういう…」
「どこにいるのか、誰も分からないんだよ」

ごめんね、とツナは言い辛そうに言葉を繋げた。
ツナが謝ること無い。無いけど。ずっと恐れていた現実が今ここにあって。震えそうになる身体を必死に押しとめる。
ツナが言うには、山本の携帯電話から父親に連絡が入ったらしく。その声の主は雲雀だったそうで。
指定された場所に向かうと、倒れた山本と、雲雀がそこに居て。雲雀は何かを父親に渡すと、一緒に帰ろうという父親の声を無視して、そのまま何処かへ行ってしまったらしい。

「その時渡されたのが、これだって」

ツナは黄色い袋を差し出してくる。これは。あの、水族館の。
震える指で中のものを取り出すと、中にはやはりペンギンが入っていた。
水族館を一頻り見た後、付属のお土産屋で雲雀がペンギンをじっと見ているから。
その様子が可愛くて、お土産に買おうと言った。首を横に振る雲雀を押し切って、「このペンギン雲雀に似ててすげえ可愛い」と強引にレジまで持っていったのだ。

「テメェ、一体どういうつもりなんだよ」

獄寺の声がどこか遠くに聞こえる。

「一生の別れってわけじゃねえだろ。たかが卒業で」

たかが卒業。
それが山本にとって、どれだけのことなのか。なんて、誰にも分かってもらおうとなんて思っていない。
山本は、ペンギンを抱き締めると、少しだけ泣いた。

雲雀だけが、分かってくれた。
叶うことのない我侭を、雲雀だけは許してくれた。
山本の望む世界は理想郷で、現実には有り得ないと誰よりも一番分かっていながら。

それでも、雲雀だけが分かってくれたのだ。





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