言いたいことは山ほどあったけど、家に入って雲雀と二人きりになった途端、そんなのはどうでもよくなった。
玄関先で冷えた身体を抱き締めて、じんと熱を持ったその人の存在を確かめる。
もしかしたら、雲雀も、同じ気持ちなのだろうか。
そうだったらいい、なんて、身勝手な思考を、俺は平気で繰り返してる。






雨の匂い






さようなら、最後にそう言って別れたのは、まだ春が訪れる前のことだった。
それから一度だけ、俺の携帯は雲雀からの着信で短く揺れた。まさか雲雀から連絡がくるなんて思いもしなかったから、俺の心臓は一生分の力を使い果たすかのようにどくどくと煩く鳴ったのだけど、俺がその携帯を取ることはなかった。
近頃、壊れたみたいに動かない携帯を見て、思うことがある。雲雀が雲雀で良かった。
例えば、そんなこと有り得ないって分かっているけど、もしも雲雀が、俺の家まで会いに来てくれたら、俺はどうなっていたか分からない。言い出したのは自分のくせに、みっともなく縋りつくなんて、どうしてもそんな姿は見せられない。
だけど雲雀は、頭がいいから、きっと察してくれている。俺が本気で、別れよう、と言ったことを。


卒業する雲雀の姿を見送ることもなく、俺は馬鹿みたいにぼう、としたまま春を迎えた。
新学期が始まり、新しい環境の中に放り込まれ、周囲はめまぐるしく変わっていくけど、部活をしていても、友達と遊んでいても、考えていることはいつも同じようなことだった。
どうしてここにいるんだろうとか、なぜ自分は笑っているのだろう、とか。今まで気にも留めていなかったことが急に気になって、自分のことなのに違和感しか感じない。
そんなことばかり考えて、最後には必ず雲雀の顔を思い出した。
どうやら俺は、自分のしたことの意味をよく分かっていなかったみたいで。ふとした時に、もう雲雀とは会うこともないんだろうな、と思うと、胸が潰れる気がした。
だけど、あれが間違いではなかったことだけは分かるから、俺は自分の中に深く深く飢え付けられた雲雀の記憶を消さなければいけなかった。何よりも困難なのが、これだ。
雲雀を思い出さないために、応接室はもちろん、屋上だって避けている。だけどそれだけじゃやっぱり効果なんか無くて、こうなったら雲雀と行ったことない場所に逃げればいいんだと我ながら名案を思いついたのだけど。
雲雀と行ったことのない場所、それはあまりにも多すぎて、結局逃げ場所なんてないことに愕然とする。
行き場所がない。まるで知らない土地に置いてけぼりをくらったみたいに不安な気持ちに駆られる。思えば、俺と雲雀なんて、せいぜい互いの家とか、学校とか。そういう狭い世界でしか繋がっていなかった。
優しくて温かかったその世界は、本当はちっぽけで、ありふれていて。それなのに、雲雀がいる、それだけでどうしようもなく輝いて見えたんだ。
そんなことを考えると、何度だって叫び出したくなる。
考えたってどうしようもないと分かっていながら、何度もその思考を繰り返す。
そして結局、俺の思考は始めに戻る。自分がここに居る意味を考えては、見つからない答えを探している。




だから。部活からの帰り道、雲雀に偶然会った時には呼吸が止まるかと思った。いや、実際止まった。
見たことのない制服に身を包んでいる雲雀は、どこか大人びていて。だけど、間違いなく、雲雀。
信じられないものを見て、身体が動かなかった。まず第一に何を言えばいいか分からなかったし、声を出せば何を叫んでしまうか自分でも分からなかった。そんなのは怖すぎる。
俺と雲雀は暫らく道の真ん中で突っ立ったまま向かい合っていた。春特有の生温い風が吹いて、雲雀の前髪を柔らかく揺らす。そんな些細なことにさえ、俺の頭は何も考えられなくなる。

「…変な顔してる」

記憶の中のそれと、少しも変わらない声が鼓膜を揺らす。
俺はどんな顔をすればいいのか分からなくて、思わず地面を見てしまった。視界に入ったのは汚れた靴だけで、別に助けを求めたわけではないけど、落胆する。
多分百面相になってる俺なんかに構わず、雲雀の表情からは何も読めない。付き合っている頃も、随分とこれには苦労したのだけど、でも嫌だと思ったことは一度も無かった。
雲雀は表情を変えることなく、俺の方へと歩いてくる。心臓が煩い。これで何事も無かったかのように通り過ぎてしまったら、多分立ち直れない。
だけど、そんな心配をよそに、雲雀は俺の目の前で立ち止まった。少し下がる視線。なんて、久しぶり。

「何してんだ、こんなとこで」

できるかぎり、明るい声を出した。自分でもこれはないな、と思うほど不自然な声。
それに気付いたのか、雲雀は俺の目を睨むように見つめたまま、沈黙を守った。その目が、俺を責めているように感じるのは、多分自惚れなのだろう。

「元気、だったか?」

思わず頬に触れそうになった手を理性で押し止める。
雲雀は小さな顔を縦に動かすことで、俺の質問に答えた。
再び沈黙が流れる。どうすればいいのか分からない。雲雀だって、自分からここまで来たのに、何も言わない。
早く帰らないと、まずい。何がまずいのかよく分からないけど、雲雀を目の前にして平然としていられるわけがなかった。これではなぜ、こんな思いをしてまで雲雀を突き放したのか分からない。
そう考えて、足を踏み出しかけたとき、ポツリと冷たい感覚が頬に走った。空を見上げてみると、目許にもその感覚は走る。そしてそれは徐々に勢いを増し始めた。

「うわ、降ってきたな」

雲雀を見やると、いつもふわふわと柔らかそうな黒髪が水分を含んでぺたりと顔に張り付いていた。
風邪を引きやすい雲雀が、こんなところに居ていいはずがない。自分も雲雀もとにかく早く帰ったほうがいいのに、うまい言葉が見つからない。
途方に暮れていると、雲雀が本当に小さな声で何かを呟いた。雨の音で聞き取れない。

「…え?」
「君、帰らないの?」

雲雀は幾分大きな声でそれだけ言うと、また押し黙ってしまう。

「帰る、よ」

雨の匂いが、むっと鼻をついた。帰ると言ったくせに俺の足はまったく動こうとしない。
そんな俺に焦れたのか、雲雀はぱしゃりと足音を立たせ俺の横を通りすぎる。いっそ清々しいほどその歩みには迷いがなかった。
胸が苦しい。その時になってようやく、俺はこの状況に期待していたのだということを、思い知った。
あまりの情けなさに拳を強く握り締める。
情け無いことに、俺は雲雀に未練ばかり残していて、今この瞬間にも抱き締めたくて堪らなくなっている。自分から別れを切り出したくせに、いざ雲雀が居なくなると、俺は全然駄目で、毎日死んだように生きている。
待ってくれなんて、そんなこと言えるわけない。
そう思ったはずなのに、意思に反して身体が動いてしまっていた。気付いたときには雲雀の腕を掴んでいて。

「…なに」

雲雀は少しだけ目を見開いていた。

「あの、さ」

掴んだ腕はすっぽりと俺の手のひらに包まれてしまう。少し痩せたのかもしれない。

「…うち、来ねえ?」

出した声はみっともなく震えていたかもしれない。

「ほら、こっからだったらうちのほうが近いし」

そう捲くし立てる俺の顔を、雲雀は見つめていた。その表情からはやっぱり何も分からないけど。こうして腕を掴んでも得物でぶっ飛ばされないということが俺に少しの希望を与える。

俺はそれ以上何も言わず、できるだけ優しく掴んだ腕を引っ張った。雨に濡れたせいか、雲雀の体温がやけに熱く感じる。もう一度この肌に触れられるのなら、何をしてもいいとさえ思った。





家に着くまでの間、自分が何を考えていたのかなんて正直覚えていない。
どうして雲雀は何も言わず付いてきてくれるんだとか、自分は一体何がしたいんだとか、いろんな思考がぐちゃぐちゃになって訳が分からない。
混乱した頭では先のことなんてろくに考えられなくて、玄関に入った途端噛み付くように雲雀の唇を奪う。俺の身体を引き離すように突っ張る腕を壁に押し付けて、雲雀の息継ぎのことも考えず舌を絡めた。
雲雀が何を言いたいのかはなんとなく想像ついたので、それを言わせないためにも、早急に雲雀を求める。俺は、なんてずるいのだろう。最低で、最悪だ。
それでも、雨の匂いのする肌を前に、俺はみっともなく興奮していた。濡れて張り付いたシャツから白い肌が透けて、どうしようもなく俺を誘う。
吸い寄せられるように首筋を舌で辿ると、雲雀の熱い息が俺の耳にかかって、堪らなくなる。どうしてこの肌から離れようと思ったのか。今はあの頃の自分への不信感でいっぱいだった。
雲雀が羽織っていたブレザーを脱がすと、それはばさりと重たい音で床に落ちる。俺も雨を吸って色濃くなったブレザーを脱いで、同じように床に落とす。
しかしこんなところで全て脱がすわけにはいかないので、次から次へと募る欲を紛らわすように再び熱い唇に口付けた。
唇の中を舌で探ると、冷え切った身体が温かくなっていく。それが嬉しくてなかなかキスを止められない。そうして何度も鼻先を交わし、互いの唾液を啜りあった頃に顔を離すと、突然がくんと視界が揺れた。
雲雀が、俺の首にしがみ付いてきたのだ。そして自ら俺の唇に吸い付いてくる。ついには立っていられなくなったのか、俺にしがみ付いたままずるずると座り込むので俺も一緒に体勢を低くした。
必死に俺の舌を探ろうとする雲雀が、愛しい。この事態に驚愕を隠せないけど、喜びの方が勝る。
雲雀が満足するまでキスに応じる。互いの口周りが唾液でべとべとに濡れ、上がりきった呼吸に息ができなくなるんじゃないかという不安が頭を過ぎっても、まるで焦がれたものを与えられた子供のように、雲雀は素直に求めた。
そしてとりあえずは満足したらしい雲雀の舌がくちゅりという小さな音を残して俺の口内から出て行ってしまう。
途端に寂しくなるが、俺は雲雀の胸元に吸い付くことでその寂しさを紛らわした。
そうしながら、雲雀を驚かせないようにそっと雲雀のベルトに手を掛け、手際良く前を寛げる。すでに反応しているそれを手のひらで包み込むと、雲雀の身体がびくりと揺れた。
思わず雲雀の顔を覗きみると、眉を寄せて固く目を瞑っていた。頬や耳だけじゃなく鎖骨の辺りまでもを赤く染め上げる雲雀は何よりも綺麗で。
俺は早く雲雀と繋がってしまいたくなって、触れただけで充分に成長をみせたそこへの愛撫を程々に、もっと奥へと指を忍び込ませた。
しかし、久しぶりの行為の上にもともと受け入れる器官でないそこは簡単に俺の指を受け入れてくれない。俺は何度も指を唾液で濡らし、指先を少しずつではあるが侵入させる。
緊張で固くなる身体を安心させるために時々キスしてやると、雲雀の身体から力が抜けるのが潜り込ませた指先からよく分かる。
何か濡らすものを持っていればと思わなくもないけど、熱心に続けてみると案外いけるもので、すでにそこは俺の指を三本受け入れていた。

「ひばり」

呼ぶと、ぎゅうと抱き付いてくる。もう我慢できなかった。
ゆっくりと指を引き抜くと、雲雀はそれだけで堪らないとでもいうように息を詰める。
先程脱ぎ捨てたブレザーの上に雲雀を寝かせると、俺は急いで自分のベルトを緩め、触れたわけでもないのに充分に熱くなっているものを取り出す。そして今しがた散々弄っていた場所にそっと宛がった。
「入れるから」と告げ、少しずつ腰を進める。雲雀も少しずつ息を吐いて衝撃に耐えているようだった。
時間をかけて全てをおさめ、俺は雲雀の身体を抱き締めた。余計なことは考えられない。とにかく、この身体を抱き締めたくて、堪らなかった。
雲雀の息遣いが耳元で聞こえる。息も絶え絶えといった感じだ。きっと過ぎる熱が苦しいのだろう。そう思い、辛くさせないために緩く腰を動かす。
雲雀が声を出さないように必死に息を詰めている。それだけのことに、どうしようもなく興奮してしまう。それに、久しぶりすぎる雲雀の中はやっぱり熱くて、気持ち良くて、早々に思考を放棄してしまいたくなる。
慣れてきた頃を見計らって少し大胆に自身を深く突き入れると、快感からか白い身体が跳ねる。

「…や」

その声は快すぎる快感を非難してのものか、俺を呼ぼうとしてうまくいかなかったのか。判断は付け難いが、後者なら堪らなく幸せな気持ちになれるだろう。
そんな都合の良いことばかりを思いながら、雲雀の足を更に割り開いて、もっと深く繋がろうとする。聞こえてくる雲雀の呼吸も、声も、全てが耳に心地良い。
俺は雲雀の頬に唇を寄せて、涙の溜まった赤い目尻をそっと拭ってやった。すると同じように俺の目尻も雲雀の指に拭われて、余計に俺の胸を切なくさせた。




眩暈を伴なう熱が過ぎ去ると、ただ愛しいという感情だけが残る。
汗の浮いた額に口付けて、抱き締める。絶対に、離れたくない。離したくない。

ごめん、気付いたらそんな言葉を、俺の唇は紡いでいた。
なんて意味の為さない、ちっぽけな言葉だろう。自分のとった行動に後悔しかなくて、馬鹿みたいに謝って。こんな男、雲雀だって嫌に決まってる。
だけど。雲雀は俺の背中に白い腕を伸ばして、温かくなった手のひらで数度撫でた。

「僕はいなくならないよ」

驚愕して、雲雀の顔を見る。やはり表情から雲雀の感情を読むのは至難の業で。
だけど俺はやっぱり、「ごめん」と言って、それから「好きだ」と告げた。
情け無い告白だと分かっている。それでも、好きだと、何度も告げた。

そんな言葉しか、今は思いつかなかった。



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