そいつの、震えた声が、いつまでも耳に残った。
hazy
「あ、いたいた」
間の抜けた声に振り向くと、そこにはへらりと笑っている馴れ馴れしい後輩が居た。
雲雀は面倒臭さを微塵も隠さないように溜息を吐いて、本棚に伸ばしていた手の動きを再開させる。自分の背後に立つ後輩が小さく笑っている様に感じたが、今更気にすることでは無い。
無視を決め込んで、お目当ての本を探していると、気配が近付いてくる。そいつにしては、緩慢な動作だった。少しだけ珍しく思い、大変不本意ではあるが、再び向き直ってやる。
「君、部活は?」
「ちょっと遅刻」
何が嬉しいのか、そいつはにこにこと笑顔を絶やさなかった。いつも笑っているように思える。しかし、雲雀の前で堂々と「遅刻」という単語を出したのは間違いだった。雲雀が山本へとにじり寄ると、さすがにご自慢の笑顔も保つのが難しいらしく、焦ったような顔付きになる。それを少しだけ可笑しく思い、雲雀はトンファーの先ででかい図体の胸の辺りを小突いた。お咎めがこれだけで済むなんて他の生徒が見たら理不尽だと喚きそうなところだが、本人に自覚は無い。
「さっさとグラウンドに行きなよ」
「せっかく雲雀見つけたのに?」
「今から行けば間に合うだろ」
「えー、もうちょっと構ってくれよ」
「うるさい。図書室では静かにして」
「図書室じゃなくてもだろー。ちょっとくらいなら平気だって。誰もいねえし」
山本の胸に突きつけていたトンファーが、武骨な手に捕まる。しかし、特に気を張っていたわけでは無いので機嫌が急降下することは無かったが、聞き分けの悪い後輩に、苛立ちを通り越して呆れてしまう。
とりあえずトンファーをぐっと引くと、容易く手が離れる。雲雀はトンファーをしまい込むと、付き合ってられないとばかりに山本に背を向けた。気になる本があってこの教室を訪れたのだ。こんな馬鹿に構っている暇は無い。
やっとのことでお目当てを見付け、腕を伸ばす。しかしすぐに下ろした。この高さだと些か危ない。指先は届くが、分厚い本なので取りこぼしたらそれはもう情け無い目に合うだろう。そんなことを頭の隅で考えていると、背後の気配が動いた。お目当てが本棚からす、っと顔を出す。それを目で追うと、当然の如く機嫌の良さそうな顔と搗ち合う。雲雀は目許をきつくした。
「余計なことしないで」
「まーまー」
本を手渡され、拒否するのも馬鹿らしいので素直に受け取った。山本は意外そうに目を見張ったが、すぐに笑う。
あまりにもにこにこしているので、前に一度何故そんなに笑っているのか聞いたことがある。確かあの時はそれなりに酷い言葉を並べたはずなのだけど、それでも山本はとてもじゃないが理解し難いことを言って、やっぱり笑っていた。
雲雀は山本に厳しい視線だけ返し、渡された本をぱらぱらと捲る。どれ程の年月を経てきたのか、日に焼けて紙の色が変わっている。そんなことに気を逸らしていると、山本の気配が動く。もちろん気付いたが、構える理由にはならない。本人も気付かない間に、これくらいのことは当たり前になっていた。
逞しく育った腕が二本、雲雀を包み込んだ。遠慮がちにぎゅう、と抱き付かれる。雲雀は息を吐くと、開いていた本をばしんと閉じ、自分をすっぽりと包んでしまった身体を押す。形だけの抵抗は、それでも雲雀には必要なもので。
「ねえ、殺されたい?」
「しー。図書室では静かに、だろ?」
ぶつかりそうな距離で色素の薄い瞳が笑う。なんとなく面白くなく感じたので「誰も居ないから少しくらい平気なんだろ」と返すと至極楽しそうに広い背中が揺れた。何度目の溜息になるのか数えるのも煩わしい。山本の行動に一つ一つリアクションしていては身が持たない。終わりが見えないのだ。
尚も控えめな笑い声が耳元をくすぐる。一応場所を考慮しているのか、それとも誰かに見つかったら面倒になる様なことをしようとしているのか。雲雀は中途半端に開いた窓に目をやった。グラウンド側では無いので、一般道しか見えない。とても、静かだった。
二人が居るのは、歴史ある並盛中学校の中でも最も古い和書ばかり並んでいる一角で。中学生の見る様な内容では無いためか、この場所を訪れる者は少ない。そこはひんやりとした冷たい空気に包まれて、もう夏はすぐそこまで迫ってきているというのに、そんな気配は感じさせない、どこか薄暗さがあった。
広々と設けられた実習スペースやカウンターを使う者も、今は居ない。それはいつものことなのか、それともここに雲雀が居るからなのか、滅多に図書室など訪れない山本には判断出来なかった。
そんな空間の中、林立する本棚の間で二人分の声だけがひそひそと響く。
「それ、楽しいのか?」
「べつに」
「字しかねえように見えたけど」
「うるさい」
「そんなに怒るなよー」
「だったら離れたら?」
「いやです」
「暑いし苦しいし最悪」
「うそ、今日結構涼しくね?」
山本の見当違いな答えに苛立ったところで、いかにも自然な仕種で山本の指が雲雀のこめかみの辺りに散らばる黒髪を摘み、弄ぶ。こんなに近いくせに、これ以上近付いてこない顔面を睨み上げると、にこ、と再び破願される。それを見て、声には出さず嫌いだと罵る。
こんなに静かな場所で、それも図書室でこうして抱き合っているなんて、一体自分は何をしているのだろう、なんて思わなくも無い。だけど、そんな考えを上回る何かがあるのも、無自覚ではあるが、事実なのだ。
雲雀が大人しくしているため調子に乗った山本の手が、丸い後頭部を支える。ぐっと、顔が近付いてきたので条件反射のように瞳を閉じるが、柔らかい感触を感じたのは額だった。目を開くと間近に山本の首筋が見える。こんなところまで逞しく育つなんて、ずるい。
続けて、今度は目許を唇で辿られる。再び瞳を閉じると、今度は耳たぶやら頬やら鼻先やら、山本は至るところを唇で辿った。さすがに、これには羞恥を覚える。唇同士でするそれよりも、よっぽど。それ故、まだ顔中へのキスを楽しんでいる山本には構わず、雲雀は顔を逸らした。
「楽しい?」
「んー?」
「何がしたいわけ」
「なんだ、唇が良かったか?」
はい、と軽い声が聞こえたかと思うと、唇に柔らかな感触が当たる。途端に頬が熱くなった気がして、避ければ良かったと心から思っても、もう遅かった。
ばこん、と音を立てて振り下ろした厚い短編集は、見事山本の頭に命中する。
「いって!」
「調子に乗るな」
角じゃないだけ有難く思え、と吐き捨てるように言うと、雲雀は持っていた本を棚に戻した。高さ的に戻し難いが、まったく届かないわけではない。山本はしゃがみこんで頭を両手で押さえながら激痛に耐えている様なので好都合だ。
山本が大人しくなると、途端、元の静けさが辺りに忍び寄ってくる。清々した気持ちで本棚に並んだ背表紙を辿る。最早山本が付いてきているかなんてどうでもいいことだ。
「ひばりー」
情け無い声が聞こえたが、それには応えず、適当な本を取る。やはりこれも古いようで、変色している。
「おーい」
「…さっさと部活行ったら」
「あと五分だけ」
「駄目」
「五分だぜ?たったの」
その声が、何だか山本らしくなかったので、仕方なく本から山本へと視線を移すと、そいつはしゃがみ込んだままだった。
やっぱり山本は、ずるい。
果たして山本に非があるのか知らないが、雲雀はそう思っている。
先程まで滅茶苦茶なことを言っていたかと思うと、急に大人しくなったり、しおらしくなったりする。明るく快活な笑い声を響かせたその喉が、次の瞬間には脆さを隠しきれないまま震えたりする。その度に、僅かではあれど動揺してしまうのを、雲雀は自覚してしまう。
「一秒でも過ぎたら咬み殺すから」
時計を確認しながら言う。一体いつから、自分はこの後輩にここまで甘くなったのだろう。
雲雀の言葉を理解した途端、山本はぱっと顔を上げた。表情は喜色で満ちている。雲雀はそれをどこか苦々しく思いながら、今度こそ本に視線を移した。山本が近付いてきて、後ろからべったりと引っ付かれても、本当に今更だ。
雲雀は、背後から抱き付いてくる山本の存在など気にしていないかの様な素振りで本棚を物色する。雲雀が本を開く度に「それ何て読むんだ?」とか「文字ちっせえのな」などと聞こえてくる声に、適当に相槌を打つ。それだけで、強くて脆いそいつは、簡単に安心するのだ。
どこかふわふわしたような幸せさを隠しもせずに「ずっとこのままがいいなあ」なんて声が聞こえてくるので、「終わりのないものなんてないよ」と返すと、「知ってる」と思ったより明瞭な音で言葉が返ってくる。
逃がすまいとしてか、雲雀を閉じ込める腕に力がぎゅ、と加わる。「だから、あと少しだけでいいから、雲雀と居たいんだよ」と、耳元で紡がれた言葉を、雲雀はただ聞いていた。
あと少しだけ。
山本の言葉を反芻しながら、雲雀は薄い紙を捲った。ぱらり、と乾いた音が響く。
指針は、タイムリミットを告げようとしていた。
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