前史の最終章。新しい自分のために。
誹謗中傷されていると告白記事をあげてから、
先日の謝罪要請記事を書くに至るまで、
たくさんの方に迷惑をかけ心配させたこと申し訳ありませんでした。
ごめんなさい。
そして、たくさんの励ましの言葉ありがとうございました。
私は子どもの頃から、
自分の身に起こる災い事を仕方の無いことだと受け止めて生きてきました。
理由もわからず虐待されることも、
子どもながらに信頼していた大人の男の人に性的虐待されたことも、
学校での虐めも、全ては自分の気付かない落ち度があるからなのだ、
そう思って受け入れてきました。
そう思うほかに心の置きどころがなかったのかも知れません。
理由もわからないことに腹を立てたり哀しむよりも、
自分を責めるほうが私の中では理屈が通っていたんです。
そして身についたのが「謝って生きる」ことです。
私は争い事が苦手です。得意な人もいるようですが。
今まで闘うことができませんでした。
嫌なことを嫌だと言えない自分がいました。
自分が我慢すればいいことなんだ、
いや、もしかしたら、本当に自分がいけなかったのかも知れない、
いつも最後にはそう考えて、たくさん謝って生きてきました。
だから、揉め事に巻き込まれたときは、何故かわからなくても
自分が悪いんだ、そう思ってたくさん謝ってきました。 被虐待児の私には、言われのないどんな酷いことでも、 自然に、たぶん私が悪いんだ、そう自分を洗脳することができたし、 そうすることが自分にとって1番の平和だと思っていたのです。 本当は現実から逃げてばかりだったことにも気付かずにいたのです。
ただ辛いのは私の中でどんどん自分の価値が無くなっていくことでした。
だから、
私は自分が大嫌いで、自分を見下し、軽蔑し、見捨ててきたのです。
このトラブルが起きるずっと前に、精神的に苦しかった日々が続き、
「最近、どうしてる?」とある人に聞かれ、
「辛くて泣いてばかりいる。」と言いました。
そんな私に、その方は、
「どんなに洪水のような涙を流しても誰も救われない。
声が枯れるほど泣いたってなんの解決にもならない。」
と、答えたのです。
私は戸惑い、またたくさん泣きました。
そうして生きてきた私には、
泣いてやり過ごす以外どんな方法があるのかわからなかったのです。
そのときはその言葉の意味を身を持って知る日がくるとは思ってもいませんでした。
そして今回のことが起きた時に、私は教えてもらったんです。
嫌なことは「嫌だ」と言っていいこと。 傷付けられたときは怒ってもいいこと。 人の顔色を伺って自分を殺さなくていいこと。
それは、私が私であるために「本来の人間らしさ」を取り戻すこと。 そういうことを私は知らなかった。 いいえ、 私は怒ったりしちゃいけないんだと思ってた。
何か起きても、自分が悪いって受け止めて謝ることが正しい。 そう思ってきたから。 だけど。
私のプライドも、
私の「思い」も私だけのもの。
誰が操れるものでもなかったということを初めて知りました。
私がされたこと。
嫌だった。
それを記事にして告白することが大きな1歩でした。
大切な仲間を侮辱すること。
許せなかった。
私はそれを怒ることができた。
いままでされてきたことに対して、
キチンと公開で謝罪を求めることはとても意味のあることでした。
それは、私にとってとても勇気のいることでした。
思った通り、この行為に対して非難の声もありました。
私のしてることは相手のしたことと同じなんだ、そう言う人もいました。
「何のために謝罪を求めているの?」
「目には目を、歯には歯を、ではないか。」
「プライドを守るためと言うけどそうは思えない。」
等、色々な意見がありました。
「今までの優しいりすこさんはどこへ行ったのですか?」
「もとのりすこさんに戻ってください。」
私は優しかったんじゃないの。
ただただ弱かっただけ。
自分を守っているつもりで、
自分を殺していたことにも気付かなかったの。
私にとって大きな意味があったのは、
嫌なことを「嫌だ」と言えたこと、
私はそのことを謝って欲しいと望んだこと、
侮辱した仲間に謝って欲しいと願ったこと、
そして、どんなことをされてきたのか公開すること、
それは、
私はもう黙って生きて行かない、という意思表示をすること。
私にとってこれらは全てとても大切なことだったのです。
きっと誰もが感じたこと。 それは私も充分すぎるくらいわかっていたこと。
彼女は謝罪しないだろう、ということ。
2カ月近く彼女と関わりを持ってきて、彼女の性格上それはあり得ないだろう、
と、思っています。
だけど、ここで私は、
仕方の無いことだったと黙ってやり過ごすことはもうしたくなかった。
キョウコたんさんに彼女自身のしてきたことをちゃんと伝えたかった。
みなさんにも知ってもらいたかった。
そして、ケジメとして最後に謝罪要請をしたかったのです。
もしかしたら、彼女の誠意ある言葉があるかも知れない。
心の隅っこにそう期待して。
キョウコたんさんは、謝罪要請の記事を読んでいると思います。
きっとこの記事も読むでしょう。
私が今回教えてもらったこと。
それは自分の「意見」は鍵をかけずに堂々としなさい、ということ。
限定記事を書いたのは、
私の「思い」に対してつけ込まれ上げ足を取られないためでした。
私は公開で謝罪要請文として
全てを告白し、みなさんに報告することができました。
たくさんの傷は負ったけど、無駄な闘いではなかったと思っています。 失ったものはあるけれど、一つも後悔していません。
いま、私は自分を主張できたことに胸を張れる。 そんな私を愚かで哀しいという人がまだいるかも知れません。 それでもこれでよかったと思っています。
攻撃する相手を許しなさい、とアドバイスくれた方たち。 心配いただいたこと、その思いやり痛いほど届いています。
心から感謝します。
自分を責めて生きてきた私には、
争うことより、相手を許し静かにやり過ごすこと、
そちらのほうが自分に合っていると思ったに違いないでしょう。
そして私はいつものように自分を殺し、
これからは人に怒られないように更に気を付けなければ、
そう用心することを今以上に慎重に心がけたと思います。 なんの迷いもなく、 いままでどおりの自分に納得していたと思います。 許す自分は人として尊いんだと思ったでしょう。 怒りは何も生まない、そう疑いもせずに 相手を憐れんで哀しんであげたことでしょう。
そういう弱い自分を正当化していたと思います。 キョウコたんさんが謝罪をすることはないかも知れません。
だけど、私は書いた。
それが私の気持ちを主張することでした。
私は今までの弱い自分と決別します。
嫌な事は「嫌だ」と言える、
「自己主張できる私」になれたこと誇りに思いたい。
この記事は弱かった自分の前史の最終章とします。
新しい自分を始めるために、この件は終わりにしたいと考えています。
弱い私を支え、
ここまで引っ張り上げてくれたみなさんに感謝します。
こんな私を見捨てず見守り続けてくださったみなさん。
たくさんの思いやりの気持ちを私は忘れません。
キョウコたんさんの記事は
このまま書庫の中に残しておきます。
彼女の誠意あるコメントを待ち続ける意味でも。
そして同じように自分を殺してしまう人のために。 |