路傍の詩 清水 凡平
(筆者Profile)

第135回
        (題 字    大楽華雪 書
 旬替わり:今回06.12.16 次回07.01.01予定 
「ドラマ」〜 微妙に揺れ動く心情
孫の彌有ちゃんと長谷川彌生さん
孫の彌有ちゃんと長谷川彌生さん
=善徳寺で
 
 
 「3月24日に負傷し本部壕に。25日に三中隊が迎えに来た」。「27日戦死」。「第三中隊壕で戦死」「25日夜は決別の宴にいた」(生存兵達)や、「友軍の壕に送り届けた」との地元女性証言など、さまざまな長谷川少尉関係資料を持ち福塩線塩町駅(三次市)へ。長谷川彌生さん(63)の車で善徳寺訪問は5月10日。彌生さんは長谷川修少尉の姪である。「修の母・千里が保存していた写真や遺書」を拝見した。学生時代の写真は若々しい活気に満ちた笑顔、軍隊時代は強張った表情。自由闊達な青春を国家が軍隊の檻に閉じ込めた。新京の舞台から広島に転属した当時、母へあてた手紙がある。「(略)広島はずいぶん暖かくなり勉学にも窓を開く季節と相成りました。
 (略)今日の餅は焦って作られた事と涙を流して戴きました(略)」(1944・2・26)。この手紙には学生時代の面影がしのばれ「死」の切迫感はない。だが、同年8月15日付遺書には人間と青春を切り捨てた悲愴感、硬直した時代相。
 「(略)思はるゝは部下となりし者なり。無能なる小官にしたがひよく訓練に従事するも御家族様の心中察するに餘りあり。厚くお詫び申し伝えられ度(略)」の文章が、微妙に揺れ動く心情を窺わせる。「人それぞれドラマがあるんですねえ」と彌生さん。だが、遺骨すら帰郷できぬ長谷川修という若者のドラマに終わりはない。無能な権力と醜欲が書いたシナリオのどこかに埋もれたまま・・・。
                     写真〜孫の彌有ちゃんと長谷川彌生さん=善徳寺で
                                                                          

毎日新聞 2001.6.15
「戦力差」〜 全員玉砕ヲ期ス
玩具のような特攻舟艇と隊員
玩具のような特攻舟艇と隊員
(高橋文雄さん提供)
 「米軍は座間味攻撃以前に詳細な地図と11回もの偵察対潜入で、舟艇秘匿壕の位置や日本軍陣地と兵員配置場所など知っていた。偵察隊は潜水艦からユヒナ海岸に上陸、日本軍将校1人もスパイだったと、米軍に保護されたとき通訳が教えてくれた。『なぜ敵の砲爆撃が正確なんだ』と梅沢隊長は不思議がっていたがね」と宮平さん。
 慶良間諸島攻撃の米軍は艦船約80隻、上陸舟艇22隻、航空機100機、兵員約2万名。3月23日から作戦終了の28日までに使用した爆弾と砲弾は約20万d。座間味島へは水陸両用戦車30台とともに約4000名が上陸。
 応戦する日本軍は、舟艇を失った第1戦隊104名がそれぞれ旧式拳銃と弾丸3〜6発に旧騎兵用サーベル(軍刀)。他の勤務隊170名、整備隊60名、工兵隊50名、水上勤務隊40名が重機関銃2挺、軽機関銃4挺、小銃約100挺余に弾丸は1挺につき15〜30発。てきだん筒2と各自が手榴弾1〜4発。「衛生兵の僕は手榴弾2発しかもらえぬほど武器が少なかった」と関根清さん(福島県在住)。
 25日夕方、座間味の通信隊は各方面へ最後の電報を暗号でなく普通文で打電。
 「敵上陸ノ公算大。全員玉砕ヲ期ス。本部ノ文長久ヲ祈ル。コレヲモッテ通信機ヲ破壊スル。サヨウナラ、サヨウナラ」(長島義男手記より。漢字と句読点は筆者)。
 
                                    写真〜玩具のような特攻舟艇と隊員(高橋文雄さん提供)                                          
毎日新聞 2001.6.21
上陸前夜」〜 自決の手助けを頼む
忠魂碑前広場
集団自決の場とした忠魂碑前広場
 山々を焦がす猛炎、家々を焼き尽くす業火、耳膜を破る炸裂音、地軸をゆるがす爆発、なぎ倒す爆風、なぎ払う灼熱の破片、着弾予測不能の恐怖・・・。「艦砲射撃ほど恐ろしいものはない」とは旧海軍で聞いた体験談だが、80隻余りの艦船が間断なく打ち込む砲弾の下でなすすべもない光景は、生々しい臨場感を伴って僕の脳裏に展開する。
 3月25日早朝から座間味島は戦争のもっとも苛烈なルツボに投げ込まれた。
 戦争という悲劇のクライマックスの幕が一挙に開いたのだ。夜9時頃、本部壕前で梅沢少佐と村長らの話を聞いた。村長らは『軍の足手まといや捕虜になるより住民一同自決したい。爆弾か手榴弾を』と要求したが、『弾丸一発でも敵を倒すためにある。住民に渡すことはできぬ』と梅沢少佐はきっぱり断った。
 「僕は少佐らの近くに居た」と宮平さん。軍命令のよる住民集団惨死ではなかったとの証言である。
 夜中近く、「忠魂碑前の広場で自決するので集合」と役場から各避難壕に通報。だが集合は少なく、集まった人々も砲弾飛来で逃げ散ったという。死装束として晴れ着を着た住民たちもいたが、「殺される事」への本能的恐怖心が強かったのだろう。
 この通報は座間味集落のみで阿真、阿佐の集落へは届いていない。宮平さんが家族を連れて整備中隊壕へ向かったのは26日未明。自決の手助けを頼むためであった。   
                
               
                               写真〜集団自決の場とした忠魂碑前広場
                                                      
毎日新聞 2001.6.28
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