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今考える、51年前の米軍機墜落事故
普天間問題が注目される中、アメリカ軍基地の過重な負担を訴える沖縄では、半世紀前のある悲惨な事故の意味を問い直そうという取り組みがある。那覇支局・田頭祥記者と佐藤拓記者が取材した。
6月22日、アメリカ軍普天間基地とフェンス1枚で隣りあう宜野湾市の普天間第二小学校で、ある訓練が行われた。基地の島・沖縄以外では例を見ない、アメリカ軍の飛行機の墜落を想定した避難訓練だ。
この日、小学校には元教諭・豊濱光輝さん(76)が招かれた。59年6月30日、嘉手納基地を飛び立ったアメリカ軍の戦闘機がうるま市の宮森小学校に墜落し、児童11人と付近の住民6人の命を奪った。児童を前に、豊濱さんは51年前の壮絶な事故の記憶を語った。
豊濱さん「煙が、火が、校庭に走ってくるんです。太陽が落ちてきたんじゃないかと」
当時25歳の教諭だった豊濱さんは、当時のことを鮮明に覚えている。
豊濱さん「ヤシの木がありますね。もう明らかに死んでいるという子供たちをそこに集めたんです」
機体が突っ込んで燃えさかる教室から、3人の児童が火に包まれて出てきたという。豊濱さんは「『先生助けて!』と出てきたそうです。そして、ここで倒れるわけですよ。パタッと」と話す。
追悼集会事故から51年となった6月30日、宮森小学校では遺族も参列して追悼集会が開かれた。
子供を後遺症で亡くした新垣ハルさん(82)「(この51年間)死ぬかと思うくらいつらかったですよ」
母親と同級生を亡くした金城秀康さん(62)「基地がある故に起こった事故なんです。沖縄から基地を全部なくしてほしい」
犠牲者こそ出なかったが、アメリカ軍のヘリコプターは04年にも、普天間基地に隣りあう沖縄国際大学に墜落した。豊濱さんは「いつ起きてもおかしくない。宮森小学校みたいなことは二度とあってはならない」と話す。
宮森小学校の悲劇を知る人々の願いは51年届かぬまま、今日も沖縄の空をアメリカ軍の飛行機が飛び交っている。
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