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[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 【第二部】
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/04 15:57
 その地には、元々、許という街があった。
 河南郡、すなわち中華帝国の要たる中原に位置する許は、しかし人口は万に満たず、申し訳程度の城壁に囲まれただけの小さな街に過ぎなかった。
 そんなありふれた小都市が、一躍、中華にその名を知られるようになったのは、先の洛陽の大乱以後のことである。


 後漢の帝都は、建国以来、洛陽から動くことはなかったが、董卓、そして朝廷の高官たちが引き起こした先の大乱により、洛陽は炎上、そこに住んでいた多くの民が都から焼け出されることになった。
 その数、数十万。董卓打倒に集った諸侯も、これだけの数の難民を領地に受け入れることは出来ず、また遠征軍を長期に渡って維持してきた彼らに、洛陽を再建するほどの財政的余裕があるはずもなかった。結果、諸侯は洛陽の難民を半ばうち捨てて帰国の途につかざるを得なかったのである。


 住むところを失い、食べる物もなく、明日を生きる術を見つけることも出来ない。洛陽の住民は呆然と立ちすくむしかなかった。もし、この状況がずっと続いていたならば、洛陽とその周辺では、戦時に優るとも劣らぬ凄惨な光景が展開されることになっていたであろう。事実、一部では難民同士の小競り合いがすでに頻発しており、賊徒と化して他領へ流れる者もかなりの数、出ていたのである。


 数十万の棄民が押し寄せれば、千や万の守備兵で止められるはずもない。阻む者がなくなれば、難民は賊徒に変じ、中原の城や街を押しつぶす海嘯となっていたであろう。
 だが、幸いにも、そんな地獄絵図が現実になることはなかった。一人の人物が、地獄の現出に待ったをかけたからである。


 姓を曹、名を操、字を孟徳。


 反董卓連合の発起人にして、朝廷の高官による一連の陰謀を粉微塵にしてのけた若き英才。
 曹操は陳留の大富豪である衛弘の全面的な協力の下、許の街を大拡張し、食料を山と積んだ上で洛陽の難民を許へと誘ったのである。
 住むところを失った人々が、この誘いを拒む理由がどこにあろう。数十万とも言われていた難民は、そのほとんどが許への移住を望み、受け入れられた。
 当時、衛弘の財――つまりは曹操の金蔵は、先の董卓の乱の軍備と、その後の許拡張、難民の誘引と続く一連の行動によって、ほとんど底をついたと言われている。


 一時的に庫を空にした曹操は、その代償として数えれば百万にも達しようかという難民の、絶大な支持を得ることになった。彼らは許の民となり、さらに漢帝を奉戴した曹操が、皇帝を迎えて、街の名を許昌と改めて後も、漢ではなく曹操を支持する態度をかえることはなく、後の三国争乱において、曹魏陣営を支える巨大な柱となるのである。


 青州黄巾党を傘下に加えたことが、魏武の強の魁であるとするならば。
 洛陽の難民を許昌へと迎えたことは、曹魏の世の礎を開いたと言えるだろう。


 この許昌建設に加え、青州黄巾党の討伐、呂布、張超との兌州争奪戦、陶謙領徐州への侵攻といった大規模な軍事行動のことごとくを成功させた曹操は、いまや衰亡した漢朝に並ぶ者とてない実力者として、一日ごと、一刻ごとにその影響力を増大させていた。
 この状況に危機感を抱く者は朝廷の内外に少なくなかったが、朝廷内の反曹操派は、先の張超の乱鎮圧後、曹操麾下の荀彧によって一掃されており、その声が大きなものになることはなかったのである。


 ただ、その処罰された者たちの中に、三公の最後の一人、司空張温が含まれていた。このことが、朝廷にもたらした影響は軽視できるものではなかった。
 現帝劉協が即位した際、三公の座に就いたのは太尉董卓、司徒王允、そして司空張温。
 うち続く混乱によって、董卓と王允の後任はいまだ定められておらず、最後の三公であった張温が処罰された今、朝廷を主導する高官は不在となった。
 無論、新たな三公の選任は幾度も提議されたのだが、現状、その任に耐え得るだけの能力と識見を持つ人材はごくごく限られており、そしてその中でも雄なる候補は朝廷の存在を脅かすと目されている人物であったことから、結局、新たな三公が任命されることはなかったのである。これまでは。


 だが、徐州戦の勝利後、停滞していた朝廷の人事は思わぬ形で刷新されることになる。
 それは皇帝自身が群臣に示した新たな形。すなわち三公の廃止と、それに代わる丞相職の復活であった。
 それは単純に言ってしまえば、三公に分散されていた権限を一つに束ね、丞相に委ねるということで、文字通りの意味で人臣の最高位として丞相という職を復活させることをさす。
 そして皇帝がその職に任命した人物こそ、曹孟徳だったのである。


 皇帝自身の口から出た人事とはいえ、影でそれを画策した人物がいることは誰の目にも明らかであった。
 廷臣の中には、憤激のあまり冠を投げ捨てる者が多数おり、一時、朝廷は騒然とした空気に包まれる。
 しかし、曹操の武威と影響力はもはや一介の廷臣のそれを大きく越えていた。智勇双び備えた配下を数多く抱え、強大な兵力と巨大な武勲を有し、民衆の人望を一身に集める曹操に対し、正面から異を唱えることが出来る廷臣はいなかった。
 また漢に叛旗を翻した偽帝の勢力が淮南を席巻し、中原に及ぼうとしている今、その脅威に対抗できる者もまた曹操しかいないであろうことは誰の目にも明らかであったのだ。


 かくて漢の丞相曹孟徳が誕生する。
 ほんの数年前まで、宦官の子と侮られ、私兵すら持ち得なかった一介の廷臣が、今や丞相となって朝廷を主導し、天下に臨もうとしている。鴻が羽ばたくにも似たその飛躍がいつまで続くのか、そしてどこまで続くのか。それを見通せる者は、誰一人としていなかったのである。ただ、本人を除いては……




◆◆◆




 許昌の中心部にほど近い豪壮な邸宅。
 関羽が曹操から与えられたその屋敷の一室で、俺は許昌の現況を関羽の口から聞いていた。
 淮南での死戦によって傷ついた身体は全快にはほど遠く、俺は寝台に横になりながら、何かに急かされるように、次から次へと言葉を紡いでいく関羽の様子を、半ば呆気にとられて見やっていた。
 関羽の手元には、曹純と許緒が見舞いに持ってきてくれた林檎が握られており、先刻から壮絶な音と共に皮を剥かれていた。ざしゅ、とか、ぐしゃ、とか。どう考えても皮を剥いている音ではない音が響く都度、俺はなにやら居たたまれない気分になっていった。
 食べ物を粗末にしているという実感ゆえ。もちろんそれもあったが、それ以上に関羽の様子を見ていると、数日前に目覚めた時の状況を思い浮かべてしまうのである。


 ――いや、つまり関羽に抱きしめられて、その胸で窒息しそうになった時のことを。あの軟らかさと心地良さと良い匂いを、どうやって忘れろというのだろう。
 肩と脚の怪我? 戦の疲労? そんなものは一瞬で空の彼方まで吹き飛びましたとも、ええ。
 ついでに、はっと正気づいて己の行動を認識した後、顔を真っ赤にして慌てふためく関雲長の可愛らしさといったら、黄河の氾濫並の破壊力で、俺の心の堤防は一瞬で破却されてしまったのである。


 いつの間にか頬がにやけてしまっていたらしい。目ざとくそれに気付いた関羽が、口元に険をあらわしつつ口を開く。
「な、何をにやにやと笑っているのだ、一刀」
「あ、いや、別に何でもございませ――ではない、なんでもないですよ、雲長殿」
 敬語を口にしようとして、俺は慌てて言いなおす。「雲長殿」などという慣れない言い回しに舌がもつれそうになるが、これは関羽たっての希望なので従わざるを得ない。
 関羽曰く「もう同格の将軍なのだから、要らざる遠慮は不要」とのこと。
 確かに俺は玄徳様に長史に任じられ、太史慈が意識を失った後は半ば強引に高家堰砦の将として指揮を執った。劉家軍の将になったと言って、あながち間違いではないだろう。もっとも、だからといって中華に名を知られた美髪公と同格になったなどとは決して思っていないが。
 まあ、関羽の言うところは互いへの言葉遣いや態度を、僚将のものに改めるくらいの意味だと思ったので、頷くことにしたのである。
 が、正直、今は違和感だらけだ。関羽自身も「一刀」と俺に呼びかける際の違和感を拭えずにいるのが傍目にも明らかだった。多分、趙雲に準じているのだろうが、別に呼び方は今までどおり「北郷殿」でも構わないと思うのだがなあ。
 まあ、時が経てばどちらも慣れていくのだろうけれど。


 そんなことを考えていると、関羽は「ならば良いが」などとぶつぶつ言いつつ、果肉を削ぐ作業に戻っていく――残念ながら誤字ではない。
 そのうち、ギャグ漫画みたいに芯だけ残った林檎を食べないといけなくなるのだろうか。そんないやーな予感を振り払いつつ、俺は関羽や曹純から聞いたことを反芻する。
 それは高家堰砦において、俺が意識を失った後の経過であった。



◆◆



 結果から言えば、高家堰砦は守られた。
 迫り来る李豊の刃は、予期せぬ高順の行動によって防ぎとめられ、湖面を焼いた火計と、駆けつけた曹操軍――曹純、曹仁、曹洪らの奮戦によって、仲軍は砦への攻撃を諦めざるを得なくなり、内城にいた陳羣と孫乾、そして広陵から逃れた人たちは無事に曹操軍に保護されたという。
 いや、伝聞形式で記す必要はなかった。目覚めた当日、その話を聞いて息をきらせて駆けつけた陳羣と孫乾に、俺は深甚な感謝を示されたのだから。
 一番の気がかりが去り、俺は心底ほっとして、安堵の息を吐いたのである。


 もちろん、それ以外にも気がかりはあった。玄徳様たちは無事に長江へ逃げられたのか。太史慈と廖化は。俺をかばったという高順は。関羽と一緒にいたはずの張飛と趙雲はどこへ行ったのか。
 そんな矢継ぎ早の質問に、関羽と曹純はかわるがわる答えてくれた。
 まず、玄徳様たちは、どうやら無事に長江へ逃げられたらしい。何故「どうやら」「らしい」などという言葉がつくかというと、江都の県令である趙昱が害され、代わりに立った窄融なる人物が仲に従ったため、そのあたりの詳細が掴めなくなってしまったのである。
 ただ長江に浮かぶ多数の軍船は多くの人々に目撃されており、その船団が長江を遡っていく光景は誰に隠しようもない。この情報は、後に江都から脱出してきた者が淮河を渡って来たことで確報となり、玄徳様と劉家軍は荊州へ逃れたことが明らかとなったのである。


 一方、太史慈と廖化の行方に関しては、はかばかしい成果を得られなかった。少なくとも曹操軍の陣門に二人が姿をあらわすことはなく、おそらくは南の方向――江南か、あるいは玄徳様の後を慕って荊州へと逃げ延びたものと思われた。月毛がいるから、袁術に捕まる心配はいらないが、太史慈の体調だけが気がかりであった。


 高順に関しては、なおも複雑な話となる。
 俺自身はまったく覚えていないのだが、許緒と曹純によって討ち取られる寸前だった高順は、俺が身を挺してかばったためにあやうく戦死を免れたという。
 その際、あやうく俺を刺しそうになった曹純が思わず俺の名を口にしたことで、高順は俺と曹純が知己であることを知ったらしい。そして、高順は曹純に対し、自分たちと戦うつもりがあるか否かを問いかけてきたのだそうだ。
 本来であれば、頷く必要もない言葉である。だが、高順の短い言葉の中に、主である呂布と、仲との関わりに思うところがあることを悟った曹純は、あえてそれ以上高順らと戦うことを避け、城外への離脱を見逃すことにした。
 無論、あえて戦えば、飛将軍と陥陣営、この二人とまともにぶつかり合わねばならないということを鑑みた上での決断であった。策略である可能性は無論あったのだが、高順の直ぐな眼差しを見た曹純は、その可能性は極めて低いと瞬時に判断したらしい。
 事実、城外に出た呂布らは曹操軍との対決を避けるように南へと逃れ、結局、そのまま一矢も交えることなく退却していったのである。
 しかし、この呂布と高順の一連の行動は、明らかに仲への異志を感じさせるもので、南へ逃れた彼女らに対し、仲帝袁術がどのような態度をとったかはいまだ明らかになっていなかった。


 そして張飛と趙雲に関してだが、これは関羽の進退とも関わりあう。
「結論から言えば、二人はもうここにはいない。一刀が守った牙門旗をもって桃香様の下へと赴いた」
 関羽はそう言って、曹操との間に交わした約束を口にした。
 今回の劉家軍の行動が、皇帝に逆らうものではないことを釈明するため、関羽が許昌に赴くこと。そしてそれが嘘偽りでないことを示すために漢の旗の下で戦うこと。言葉こそ違え、それは関羽が曹操の麾下につくことを意味する。俺は瞬時にそのことに思い到り、愕然とした。
 関羽がその決断に到った理由の中に、俺の存在があったことが明らかだったからだ。関羽は一言もそんなことは言わなかったが、今回の戦の経緯を振り返れば、その程度のことは俺にも理解できた。


 関羽の玄徳様への忠節、玄徳様の関羽への親愛。二人の互いへの気持ちの深さを、一端なりと知る身であってみれば、その二人を引き裂く原因となった我が身を責めずにはいられない。
 だが、そんな俺のひきつった顔を見て、関羽はむしろ穏やかに笑ってこう言ったのである。
「別に一刀のためにやったわけではない。自分のために、などと思う必要はないぞ。それに――」
 関羽の視線に含まれる感謝と信頼。真っ向からそれを受け止め、俺は知らず顔を赤らめていた。それは目覚めたばかりの俺を胸にかき抱いた時の関羽の顔とそっくりだったからである。


「飛将軍率いる精鋭を寡勢にて退け。偽帝の大軍から孤軍よく砦を守り、ついに陳太守らを守り抜いた。陶太守の亡骸は彭城にて盛大に弔われることになっている。それもこれも、すべては桃香様の牙門旗の下で戦い抜いた子義と一刀、そして兵たちの勲だ。そのことを桃香様と私が、どれだけ誇りに思っていることか……」
 一瞬、関羽の声が震えたように聞こえたのは、俺の気のせいではなかったであろう。
「たとえ今回の私の決断に、おぬしのことが含まれていたとしても。そのために一時、桃香様と離れることになったのだとしても。この決断に悔いなど欠片もない。むしろ、逆の決断を下した時こそ、私は千載に残る悔いを避け得なかっただろうよ」
 そこまで言った後、関羽は少し慌てた様子で「無論、今のは例え話だが」ともごもごと呟き、俺は反応に困って俯くしかなかったのである。 



◆◆



 以来、数日。
 俺は関羽に与えられた屋敷で傷を癒す日々を送っていた。
 呂布に射抜かれた肩の傷と、李豊の剣で刺された太腿の傷はもちろん、それ以外にも俺の全身には到るところに傷があった。
 それらの傷にくわえて、あの攻防戦から今日に到るまで、意識を失っていた俺は物を食べることもできず、身体の衰えは隠せるものではなかったのだ。
 今は日に三度の医者の手当てを受けつつ、消耗し、萎縮してしまった胃が食事を摂れるよう四苦八苦している最中であった。


 こういう時は胃に優しく、水分も摂れる果物が良いというのはわかっている。わかっているのだが、はたしてほとんど芯だけになった林檎は果物と呼べるのだろうか?
「……まあ、あれだ。誰にでも得手不得手はあるってことで、うん」
 俺はしゃくしゃくと林檎、というか林檎の果肉を削ぎとったものを食べつつ、笑いをおさえることが出来ずにいた。うむ、関羽は実に期待を裏切らない人だ。まさか実際にこんな芯だけ林檎を目にする日が来ようとは。
 当の本人は「ちょ、ちょっと待っていてくれッ」の一言を残して何処かに消えてしまった。まさかとは思うが、市にでも行ったのだろうか。いや、これで十分美味いのだが、と思いつつ、俺は皿の上に並べられたものを食べていく。関羽が目の前にいれば、あざとくて食べたり出来なかったが、本人がいない以上、別に気にする必要もないだろう。


 そうして、俺が皿の上のものをほとんど平らげた頃。
 屋敷で働く侍女の一人から、俺への来客が告げられた。
 関羽ならばともかく、今の俺に会いに来る人はごくごく限られている。まして男とくれば思い当たるのは曹純か孫乾だけだ。そして、告げられた名前は、予想に違わず曹純のものであった。当然のように俺は曹純を案内してくれるように頼んだのだが、侍女に案内されて室内に入ってきたのは、曹純一人ではなかった。



 そして。
 曹純に続いて入ってきた人物に目を向けた瞬間、俺は全身を硬直させて凍りつく。
 それも仕方ないことだろう、と俺は半ば呆然としながら考える。訪れた人の顔を知らなかったわけではない。むしろ知っていたからこそ、言葉が出てこなかったのである。


 ――なんで、ここに丞相がいるんだ、と。


「あら、自己紹介が必要かしら。一度は顔を合わせたことがあると記憶しているのだけれど」
 黄金色の髪をかきあげつつ、その少女はかすかに目を細めて俺をみやる。
 別に威迫されているわけでもないのに、言葉が詰まりそうになったのは、その身に纏う覇気に、俺が勝手に気圧されたからなのだろう。
 俺は慌てて寝台に横たえていた身体を起き上がらせる。全身に鋭い痛みがはしるが、今は無視。
「いえ、必要ございません。お久しゅうございます、曹将ぐ――い、いえ、丞相閣下」
 思わず将軍と呼びそうになり、慌てて訂正する。丞相への敬称は閣下で良かっただろうかなどと不安になりながら。


 曹操はそんな俺の様子を皮肉っぽい笑みを湛えながら見ていたが、すぐにそれにも飽きたのだろう。あっさりとした口調で俺の動きを制してきた。
「そのままで結構よ。今日、ここに来たのは漢の丞相としてではなく、一人の娘として、我が母の恩人に礼を言うため。病状の恩人に朝臣としての礼を強いるつもりはないわ」
「は、はい」
 とはいえ、はいそうですかと言って寝台に横になれるほど図太くない俺は、寝台の上で不器用にかしこまりながら、さて何を言えば良いのかと途方に暮れる。
 曹操が口にした恩という言葉は、徐州襲撃の際、俺が結果として曹家一行を救ったことを指しているのだろう。しかし、あれも元はといえば身内の不始末によって起きたこと。恩を売れるような行為ではないだろうと思うのだ。


 そんな俺の戸惑いを察したか、曹操の後ろに控えていた曹純が曹操に向かって口を開く。
「華琳様、突然のお越しに北郷殿も戸惑われておられる様子です。丞相のお出でとあれば、それも無理からぬこと。早めに用件を済ませるべきと考えますが」
「そうね、子和。恩人殿の様子を見るに、確かにその方が良いようね――流琉、支度を」
「は、はいッ」
 そう言って曹操が視線を向けたのは、傍らで控えていた女の子であった。見たところ、張飛とさしてかわらぬ背格好で、澄んだ双眸が印象的な子である。
 侍女なのか、とはじめは思ったのだが、考えてみれば曹操の傍らに侍る者がただの侍女であるとは思えない。許緒だって、あんなちっこい女の子だしなあ、と俺は内心で戦々恐々としつつ、その少女を見やった。
 すると、何故か相手も俺の方をまじまじと見つめていた。必然的にぶつかる二つの視線。照れたように頬を赤らめるこの子が、実はあの勇名な悪来典韋だったとしても驚くまい、と心密かに決意する俺であった。



 ――実は本当にそうだった、と知って俺がひっくりかえるのは、このすぐ後のことである。
 


◆◆



 典韋の手になる菓子を口にした途端、濃厚でいながら、決してしつこくない甘みに俺は思わず賛嘆の言葉をもらす。
「これはすごい。めちゃくちゃ美味いですね」
 疲労した心身にほどよい甘みが染み渡っていくのが体感できる。
 許昌で目を覚ましてまだ数日。戦で萎えた身体は全快にはほど遠く、食事もあまり口に出来ていなかった俺だが、この菓子ならばいくらでも口に出来そうな気がした。
「当然よ、流琉は私が認めた料理人でもあるのだもの」
 言いつつ、曹操も目の前の菓子をつまんで頬張る。かすかに綻ぶその顔は、今や天下にその名を知られた曹孟徳とは信じられないほど穏やかなものであった。


 俺や、主である曹操からの率直な賛辞を受け、典韋は嬉しそうににこにこと笑いながら、いそいそと給仕に精を出す。あらかじめ用意でもしてきたのか、卓の上には次々と新しい菓子や料理が並び、俺はそのすべてを舌鼓をうって堪能させてもらった。
 いつのまにやら、俺は丞相閣下を前にしていることも忘れ、無心に眼前の食事に集中していた。並べられた料理は、肉を避け、野菜や果物を主として作られており、内容自体は、ここ数日の食事と似ていると思われたが、その味は、屋敷の料理人には申し訳ないがくらべものにならないと言って良い。
 量自体は多くなかったため、間もなく卓上の皿は全て空になる。満足の息を吐き出し、俺は典韋に礼を述べた。深々と頭を下げながら。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした。お口にあったようで、嬉しいです」
 皿を見れば、一目瞭然である事実を口にしながら、典韋は嬉しそうに笑う。
 曹操が認めたと口にするだけあって、典韋の料理の腕は、長年、その道で生きてきた熟練者に優るとも劣らぬ。そんなことを考えつつ、久方ぶりの満腹感に幸せを感じていた俺は、曹操が典韋を連れてこの部屋を訪れた真意に、ようやく思い至った気がした。





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 鴻漸之翼(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/04 15:57

 名実ともに漢王朝の主導者となった曹操は多忙を極める日々を送っていた。
 かつては中華全土を統べる強大な国家であった漢も、現在は各地への影響力こそ残しているものの、実質的な支配権を握っているのは、中原とその周辺――すなわち、曹操が実力で切り取った領土に限られる。
 河北の袁紹、荊州の劉表といった朝廷の威光に従わない大諸侯の存在、中でも淮南の袁術などは自ら帝号を名乗って堂々と漢朝に叛旗を翻す有様であり、のみならず虎視眈々と許昌への侵攻の機会を窺う気配すら示している。
 それらの外憂にあたるのは漢の丞相たる曹操の責務であり、それに併行して戦乱で荒れた都市の復興、農地の開拓を行い、盗賊を討って街道の治安を守り、商人らの陳情に対処して経済基盤を整え――時間などいくらあっても足りないほどの責務を、その両の肩で背負う曹操は、その日も精力的に政務をこなし、配下の報告を聞き、指示を下し、不明なところは再度の調査を命じるなどしていたのだが。


 ふと曹操は思いついたように傍らに立つ夏侯淵に問いかける。
「そういえば、関羽は最近どうしているのかしら?」
「は。これまでどおり、晴耕雨読の日を送っていると流琉が申しておりました。霞(しあ 張遼の真名)も三日とあけず、屋敷に通いつめていると」
「そう、霞も関羽にほれ込んだものね。それともまだ、徐州でのことを気にかけているのかしら」
「おそらく、両方かと。副将の手綱を握れなかったこと、かなり気にしていたようですからね」
 徐州侵攻の際、張遼は小沛から南に逃げる劉家軍を追い、関羽と一騎打ちを演じた。結果として張遼は敗れるのだが、その際、副将である魏続、侯成らが、張遼が口にした約定を破って劉家軍に追撃をかけた。曹操たちが口にしているのは、その一件である。


 その追撃が関羽らの渡河を阻んだことを考えれば、今、曹操が関羽を麾下に迎えることが出来た要因の一つは、その追撃であることになる。結果だけを見れば、手柄とさえ言えるのだが、副将たちに面目を丸つぶれにされた張遼は烈火の如く怒り、あやうく副将たちに斬り捨てるところだったのである。
 よほど、そのことを気にしていたのだろう。張遼は関羽が降伏した時も、また劉家軍の張飛、趙雲の二将の処遇で意見が分かれた際も、一貫して約定の遵守を主張し、関羽が許昌に来てからは、ほぼ毎日のように屋敷に顔を出していたのである。
 軍務が忙しくなった最近では、さすがに毎日というのは無理であったが、それでも時間をとっては関羽を訊ね、武芸を競い、用兵や軍略を語りあうなどして時を過ごしているらしい。


「その様は、あたかも恋する乙女のようだ、と黒華(張莫の真名)様などは申されておられました」
 親友の言に、曹操はそれとわからないくらい、かすかに頬を膨らませる。
「まったく、この私を差し置いて。かなうなら私がそうしたいくらいだというのに」
「華琳様がそれをなされば、朝廷の仕事が軒並み止まってしまいますよ。関羽を丞相府に呼び出すのも一つの手だと思いますが?」
 曹操のすねた態度に、夏侯淵が頬を綻ばせながら助言すると、この場にいたもう一人、荀彧が口を開いた。
「関羽が丞相府に来たところで、何もできないでしょう。あれは戦に関わらないことには、たいした役には立たないわ。それに、劉備の下に帰ることを宣言している者を、朝廷の枢機に触れさせるなんて百害あって一利なしよ」
「さて、関羽が政務に役立たない、というところは疑問の余地が残ると私は思うがな。だが、確かに桂花の言うとおり、丞相府に招くのは差し障りがあるかもしれん」
 それは、関羽に情報を盗まれるから――というわけではなかった。
「……関羽と姉者が顔を合わせでもしたら、部屋の一つ二つは吹き飛んでしまいそうだからな」
 夏侯淵がそう言うと、全く同じ表情で、荀彧は頷いた。
「猪二人、人間の働く場所で暴れられては迷惑よ。だから、関羽はつれてこないでちょうだい、本気で。ただでさえ猫の手をかりたいくらい忙しいのに、これ以上無用の騒動を起こされてはたまらないわ」


 曹操は部下二人の話を苦笑しながら聞いていた。
 関羽の武名の高さと、曹操の執心を知る夏侯惇が、関羽を毛嫌いしているのは周知の事実であった。
 だが、実のところ、それは荀彧も似たようなものであった。その証拠に、荀彧はまだ言い足りないことがあるようで、なおもぶつぶつと言葉を続ける。
「仲徳(程昱の字)も奉孝(郭嘉の字)も、おまけに藍花(らんふぁ 荀攸の真名)までいないし。関羽にしろ北郷にしろ、いるだけで迷惑よほんとに」
 その言葉に、さすがに夏侯淵は眉をひそめる。
「皆、各々の職分を果たした上でのことだろう。桂花、さすがにそれは誹謗というべきではないのか」
「わかってるわよ、秋蘭! だからこうやって小声で言うだけでとどめてるでしょ」
 きー、という感じで噛み付いてくる荀彧に、夏侯淵は小さく肩をすくめる。程昱と郭嘉はともかく、荀攸まで自分を置いていなくなってしまったのが、お気に召さないらしい。
(まあ、男嫌いの桂花に、北郷のところに行って来ると声をかけられなかった藍花の気持ちもわかるのだが)
 ならばせめて、行き先を伏せるくらいの配慮は示してほしいと思う夏侯淵であった。もっとも、荀攸は頻繁に関羽邸に足を運んでいるので、伏せたところで荀彧に看破されてしまうに違いないのだが。


 腹立ちをおさえきれない荀彧の胸元に、曹操の手が伸びる。
 そして。
「きゃッ?!」
 次の瞬間、曹操は強い力で荀彧を引き寄せていた。不意のことで、体勢を崩した荀彧は曹操の膝の上に倒れる格好となる。
 眼前にある荀彧の髪に手をうずめながら、曹操は囁くように呟いた。
「桂花」
「は、はい、華琳様」
 それだけで、すでに蕩けるような表情を浮かべた荀彧に、曹操はゆっくりと言葉を向ける。
「桂花は私と政務を執るのが窮屈なのかしら?」
「え、と、とんでもありませんッ!! そんな、華琳様と共にいられるだけで望外の幸福だというのに、窮屈だなんて、天地がひっくりかえってもありえませんッ!」
「なら、むしろ今の状況は喜びをおぼえても良いくらいだと思うけど」
 曹操の指先が、荀彧の髪から頬へ、頬から唇へ、順々に触れていく。
「あ……あ、は、はい……」
 愛する主君の指が顔を撫でる感触に、荀彧は先刻までの不満などかけらもなくなった表情で何度も頷いてみせる。
「そう、可愛い子。ご褒美をあげないといけないわね」
「ああ……華琳様」
 彼方で響く扉の音は、夏侯淵がそっと退出したことを示すものであったが、すでに荀彧の脳裏に夏侯淵の存在はなく、曹操もまた、あえて気に留める様子を示すことはなかったのである。



◆◆◆



 淮南での戦いの後、思いもかけず許昌で日々を送ることになって数月。俺は事前の想像などおよびもつかない厚遇を受けていた。
 無論、金銀珠玉に囲まれた生活という意味ではなく、日々の糧と戸外を歩く自由、その二つを保障されたということである。くわえて、傷が治るまでの間、毎日、都の名医の診療を受けさせてもらっているのだから、これを厚遇と言わずして何といえばよいのだろう。
 さらに言えば、丞相である曹操推薦の料理の達人が、三日に一度はたずねてきて、腕を振るってくれるのだから、文句のつけようがなかった。


 関羽のように名が知られ、曹操自身が望んだ将であればともかく、俺程度の相手にどうして曹操がここまで礼を尽くすのか。確かに俺は徐州の危難において、結果として曹凛様をお救いしたが、劉家軍の一員として曹操軍に――ひいては朝廷の軍に刃向かったこともまた事実。牢に入れられないだけでもありがたいくらいだというのに……などと考えていると。
「まったくもう。おにーさんは相変わらず、自分への評価だけは適正にできないのですね」
「それに関しては風に同意せざるを得ませんね。北郷殿は、今少し自分を客観視なさるべきです」
「――と、言われてもなあ。淮南での戦は綱渡りの連続だったし、要になったのは子義だったし。言われるほど活躍したとは到底思えないんだけど」
 そういって、俺は卓をはさんで向かいあう程昱と郭嘉の二人、そしてもう一人の人物に肩をすくめて見せたのである。



 許昌に吹く風は冷たく乾いているが、そこには確かな春の兆しが感じられる。
 高家堰砦で被った戦傷も大分癒え、俺は外を歩く程度なら支障ないまでに回復していた。それでも、少し歩くと息が切れてしまうあたり、失った体力を完全に取り戻すまでには、まだしばらくかかりそうではあったが。
 もっとも、この街で特にやることがない俺には、時間は余るほどあり、のんびりと怪我からの回復を待っても問題はない。ないのだが。
「無為徒食に甘んじるのは心苦しいからなあ」
 衣食住の心配がなく、すべきこともないという状況は気楽ではあったが、この安逸にひたろうという気にはなかなかなれない。かといって、積極的に曹操軍に協力できる立場でもない。
 どうしたものかと考えている時、俺はとある人物の訪問を受けたのである。


 それが、今、程昱、郭嘉と共に俺の前にいる人物である。
 亜麻色の髪を腰まで伸ばし、微笑む姿は清楚そのもの。薄緑色の瞳に宿る深い思慮は郭嘉や程昱に優るとも劣らず、その発する言葉は穏やかでありながら、的確に真理を衝く。
 この人物こそが、漢の丞相曹孟徳の股肱、荀攸、字は公達その人であった。



◆◆◆



 俺ははじめて荀攸と会ったのは、許昌に来てから一月ほど経ってからのこと。
 当初、荀攸が俺を訊ねてきたのは、淮南における戦いの詳細を知るためであった。これは荀攸自身の口から聞かされたことであり、俺にはそれを拒む自由も、また理由もなかった。
 高家堰砦における一連の攻防、その詳細を出来る範囲で教え、荀攸はそれを熱心に聞き取り、時に質問を挟んで、すべてを語り終えた時には中天にあった陽が地平の彼方に沈みかけていた。
 そのことに気付き、荀攸は慌てて俺に謝罪した。荀攸としては、あそこまで長居をするつもりはなかったらしい。俺としては体力的に少しきつかったくらいで、ちょうど良い時間つぶしになったので、気にしていない旨を告げ、その日はそれで終わった。


 荀攸の姉(正確には違うらしいが)である荀彧は、一度だけ顔をあわせたことがあるが、俺や関羽に敵意を隠そうとしない狷介な人柄であると、俺の目には映った。だから正直、荀攸と相対する時、すこし身構えていたのだが、思ったよりもはるかに友好的な人物だったので、俺は逆に拍子抜けしたほどであった。
 そして、もう滅多に会うことはないだろうなどと思っていたのだが――あにはからんや、荀攸はその後、何度も屋敷に足を運んできたのである。
 その問うところは、主に淮南の戦いに集中していたが、時に徐州時代の俺の行動にまで及ぶ時もあって、俺としてはそれに答えながらも、荀攸が何を知ろうとしているのかがさっぱりわからなかった。
 荀攸の口からその真意を聞いたのは、それほど前のことではない。
 奇妙なまでに真摯な眼差しで、荀攸は俺にこう言ったのである。すなわち――


 高家堰砦に攻め寄せた袁術軍の狙いは、俺だったのではないか、と。




 ぽかん、と。開いた口が塞がらなかった。
 それはそうだろう。なにも自分が、誰の恨みもかっていない聖人君子である、などと主張するつもりはないが、善悪は別にして一国に叛旗を翻すほどの者たちに命をねらわれる理由など、あるはずがないではないか。
 ただ、そう反論しようとはしなかった。率直にいって、反論する価値もない暴論、というより妄想だとしか思えなかったからだ。
 荀攸も、自分の言っていることが荒唐無稽であるという自覚はあったらしい。俺の呆れたような眼差しに、やや恥らうように顔を伏せた。だが、その顔が再びあげられた時、その瞳には先刻と同じ真摯な輝きが宿ったままであった。


「妄言を、と思われても仕方ないと思います。でも、淮南での仲軍の動き――とくに、広陵に達してからのそれは、明らかに戦理に反していると私には見えるのです。いえ、これは私だけではなく、姉様や仲徳殿、奉孝殿も同じ意見を持っておられます。あの時点で、あなたが篭っていた高家堰砦は、戦略上捨て置いても問題はない砦だった。仲の将軍がたとえ排除の必要を感じたにせよ、淮南侵攻の全軍を挙げて潰すべき必要などあろうはずもありません。でも、仲軍はそれをした。どうしてでしょうか?」
 戦略上、その土地も、砦も、必要ではない。もし、それでもどうしても攻め落とさなければならない理由があるのだとしたら。
 荀攸はそう言って、じっと俺の目を見つめる。
「それは、あの時、あの場所に、なんとしても殺さなければならない人がいたから。そう考えれば、あの時の仲軍の奇妙な動きに、ある程度の理由が見出せるんです」


 俺はそれに対し、当然のように反論する。
「しかし、あの時、砦にいたのは私だけではないでしょう。砦の守将は子義――太史将軍でしたし、広陵の陳太守、それに陶州牧の亡骸も高家堰砦に安置されていた。私は、それに太史将軍もですが、あの戦に先立って急遽任命された将軍とその長史に過ぎません。淮南を制圧しつつあった仲軍が、全軍を挙げて抹殺を望むほどの理由がどこにあります?」
 言いながら、俺はいまだ行方が知れない太史慈のことを思って、胸を痛めていた。すでにあの戦からかなりの時が経過しているが、太史慈の行方は杳として知れなかったからだ。
 廖化と月毛がいるから、仲に捕らえられることはないとは思うが、太史慈の傷は決して浅くなかった。俺とちがって、至れり尽くせりの治療を受けられたはずもなく、不慮の事態が起こる可能性は低くないのである。
 曹純を通じて、諜報に通じているという曹洪殿に捜索を頼んではいるのだが、淮南は広陵をのぞいて仲の支配下にある。情報は遅々として集まっていなかった。


 一方、荀攸は俺の言葉を受け、ゆっくりとかぶりを振る。
「陳長文殿、あるいは陶州牧が目的であるのなら、広陵を陥とした際、あえて解き放つ理由がありません。しかし、仲は長文殿を一族もろとも解き放ち、陶州牧の亡骸を委ねさえした。老人、女子供を抱えた長文殿が、もっとも近くの砦に向かうのは必然です。私は、あれは砦の劉家軍の方々に対する楔ではないかと考えているのです。事実、あなた方は、長文殿らを守るため、砦に篭らざるを得なくなりました」
「それは確かにその通りですが、それは結果論ではありませんか。私たちが彼らを捨てて逃げ出す可能性だとて無いわけでは……」
 と、俺が口にしかけると、荀攸は小さく首を傾げてみせる。その口元には、どこか優しげな笑みが浮かんでいるようにも思えた。
「本当に、その可能性はありましたか? 見ず知らずの曹家一行を助けるために、ただ一人、百の賊徒の前に姿を晒したあなたが、顔を知り、言葉をかわし、恩義さえある人たちに背を向ける可能性が」
「う……それはもちろん」
 言葉を詰まらせつつ、俺はそう口にする。
 事実、俺はその手段を考えはしたのである――まあ、即座に却下したのだが。


 荀攸はそんな俺の葛藤を見て、なにやらくすくすと笑っていた。なまじ綺麗な顔をしているものだから、そんな仕草を眼前で見せられると照れやらなにやらで頬が赤くなってしまう。
 荀攸は笑いをおさめると、すぐに頭を下げて謝罪してきた。
「すみません、笑ってしまって。私も、自分が荒唐無稽なことを言っているとは思うんです。けれど、あの時の仲の動きに説明をつけられるとしたら、この考えしかないとも思っています。一国の軍が、ただ一人を討つために戦略目標さえ無視して軍を動かす――そんなことはありえない。ありえないですが、それが実際に起こったのならば、それこそが事実であり、真実。そこに相応の理由があると考えるべきです」
 そういって、荀攸はじっと俺を見つめ、囁くように言った。



「北郷一刀。あなたは何者ですか?」



◆◆


「お人よしで、からかい甲斐のある奴じゃないか?」
 あっさり言ったのは張莫、字は孟卓。
「母者と仲康(許緒の字)、子和(曹純の字)の恩人だな」
 肩をすくめ、興味なさげに言ったのは曹仁、字を子綱。
「くわえて、今では寡兵にて飛将軍を退け、偽帝軍から長文殿や陶恭祖さまの亡骸を守りぬいた勇将でもありますね」
 好意を湛えた口調で言ったのは曹洪、字を子廉。


 北郷は知らなかったが、それはある時、荀攸が丞相府にいた面々に、同じ問いを向けた際の答えであった。
 その場に同席しながら、一人、首を傾げていた曹純は怪訝そうに荀攸に問いかける。
「公達殿は、北郷殿が何か秘めておられるとお考えなのか?」
「はい。ただ……」
 曹純の問いを肯定しながら、ややためらいがちな荀攸に、今度は張莫が口を開く。
「ただ、それが何なのかはわからない、といったところか」
「は、黒華さまの仰るとおりです」
 荀攸の言葉に、張莫は腕組みしながら首をひねる。
「正直、藍花の考えすぎとも思えるんだけどな。ただ、鐙の件といい、曹凛様のことといい、そして今回の淮南での戦といい、北郷の行動が、少なからず中華の歴史に関わっていることは確かだな」
 陳留の太守である張莫は、常に許昌にいるわけではない。そのため、さほど北郷と関わりがあるわけではなかった。曹家襲撃の件でたずねたのが一度。そして、北郷が関羽と共に丞相府に赴いた折、たまたま顔を合わせたことが一度。その二度だけである。
 ただ、その人柄は不快を感じる類のものではないと認めている。否、飛将軍を退けた智勇が本物であるのなら、配下にほしいとさえ思っていた。


 その張莫の考えは、曹仁や曹洪と半ば重なる。
 かつて、劉家軍と行動を共にしていた程昱や郭嘉から、その陣容の為人については聞き知っている。
 彼女らは、北郷に関して、実質的に鐙を開発した人物として、その稀有な発想に感嘆こそしたが、それだけだ。関羽や張飛、趙雲ら劉家軍が誇る勇将や、諸葛亮、鳳統らの軍師とは比べるべくもないと考えていた。
 だが、今回の偽帝の淮南侵攻における太史慈と北郷の活躍は傑出したものであり、その詳細を知るにつれて、高家堰砦を守り抜いた二人への評価は曹操軍内では急激に高まっていた。
 ことに先の徐州での一件とあわさって、北郷への関心が高まるのは致し方ないことであったろう。あの働きがなければ、曹純らが高家堰砦へと赴くことはありえず、結果として高家堰砦は陥落していたのだから、すべては北郷あってこその勲であるとさえ言えた。



 実のところ、それは荀攸も同様であった。今回の戦いにおける高家堰砦の奇跡的な奮戦を、結果論、の一言で済ませることが出来ない何かを感じ、その焦点に北郷がいることを知った。
 その時、思ったのである。
 あるいは、仲軍はこれをこそ恐れていたのではないか、と。




◆◆◆




 めずらしく、なにやらぼんやりしている荀攸に、俺は小首を傾げて声をかける。
「公達殿、いかがなさいました?」
「……え? あ、いえ、何でもありましぇ……せん。失礼しました」
 いたそうに口元を押さえる荀攸に、程昱が俺と同じ仕草で話しかける。
「どうしました、ついに公達ちゃんもおにーさんの毒がまわってきたのです?」
「ど、毒?」
「そうです。女性限定、可愛い子限定の局地的暴風雨たるおにーさんの最後の切り札。それに感染した子は、朝と夕とを問わず、おにーさんのことしか考えられなくなり、ついにはその言うことに逆らえなくなり、どんな言葉も頷いてしまうという恐怖の毒なのですよ」
「ひ、ひぃッ?!」
 がたがたがた、と音を立てて俺から遠ざかる荀攸。


「……北郷殿、何も反論なさらないのですか?」
「……突っ込みどころが多すぎて、どこから反論すれば良いのやらわからないんです、奉孝殿」
 というか、なんだ、可愛い子限定の局地的暴風雨って?! 自慢ではないが、自分から女の子をくどきにいったことなんて一度もないぞ、おれは。
 などと憤慨すると、そんな俺を見て郭嘉はぼそっと一言呟いた。 
「それは本当に自慢になりませんね」
「う……い、いや、まあそれはともかく。仲徳殿! 妙なことを公達殿に吹き込まないでください!」
「感染者たる風が言っているのです。とっても真実味があるですよ?」
「……ほほう。それはつまり、仲徳殿は俺の言うことなら何でも聞く状態である、ということですね?」
「見ましたか、公達ちゃん。この欲望と扇情に満ちたおにーさんの顔を。きっと風はこの後、一糸まとわぬ姿で、おにーさんの部屋に呼びつけられることでしょう」
「そ、そんなッ?! 北郷殿、いかに相手が言うことに逆らえないとはいえ、相手の意思を無視して、その、えーと、その、そのような行為に及ぼうとは、なんと非道なッ?!」
「仲徳殿の戯言を真に受けないでください、公達殿ッ!」
「お気遣い痛み入ります、公達ちゃん。でも、風は慣れているから大丈夫。それより、公達ちゃんは早く毒を抜かないと、風と同じ目に遭ってしまうのですよ?」
「ひッ?!」
「……あの、そんな恐怖に震える目で見られると、すごい切なくなるんですけど……」
 もしかして、本気でそういうことをやる人間だと思われてるんだろうか。
 俺はがっくりと頭を垂れた。


 俺が本気で落ち込んでいることに気付いたのだろう。それとも、さすがに妙だと思ったのか。荀攸が、首を傾げて問いかけてきた。
「あの、ど、毒、というのは嘘なのですか?」
「当たり前ですッ」
 そんな毒があったら、恋に悩む人間なんぞ一人もいなくなるだろう。
「とすると、仲徳様の意思を無視して、閨に呼ぶというのも?」
「当然ですッ! というかそんなことして何が楽しいんですか」
「し、しかし、男というものは、皆、飢えた獣。皮一枚をはがせば、そこには常に女体をつけねらう眼光が迸る、と姉様が……」
 姉様、というのは荀彧のことか。なんか男に恨みでもあるんだろうか。まあ、まったく見当違いだとも言い切れないところが少し悲しいのだが。
「まあ、多少はそういう面もありますが……」
 がたがたがた、とまた俺から遠ざかる荀攸。いや、もうそれはいいですから。
「真っ当な男なら、きちんと手順を踏んで、相手の同意を得た上で行動します。皆が皆、そこらの野盗のような真似をするわけではありませんよ」
 それを聞いた荀攸は、まるで新たな戦術理論を耳にした、とでも言わんばかりに目を見開く。
「そ、そうなのですか?」
「そうなんですッ!」
 というか、今まで男をそんな目で見ていたんですか、あなたは。
 呆れた口調でそう言った俺を見て、荀攸はなにやらしゅんとしょげ返ってしまった。


「公達ちゃんは、桂花ちゃんの男嫌いの影響をもろに受けてしまってますからねー」
「確かに。それに華琳様の周囲に、それを是正してくれる方は見当たりませんし」
 言われてみれば、曹操軍の高官は、軒並み女性ばかりだった。
「だから、これは良い機会だと思ったわけです。ご協力感謝です、おにーさん」
「……いや、協力はまあ良いんだけど、毒云々のたわけた設定は必要あったのか?」 
「一切合切、欠片もありませんですよ」
「…………なら、なんで使った?」
「その方が面白いからに決まってるだろ、にーちゃん」
「宝慧、久しぶり……じゃなくてッ!」
「つまりは面白ければすべて良し、ということですね♪」
「『ね♪』じゃないだろッ?! それに、それを言うなら終わり良ければ、だッ!」
「はい。ほら、公達ちゃんの男性への誤解も解けたし、終わりよければ、ですよ」
「ぐ……」
「北郷殿の負け、ですね」
 澄ました顔で言う郭嘉の言葉に、俺はがっくりと肩を落とすのだった。




 余談だが。
「ところで、公達殿は、男が獣だと思いながら、俺に話を聞きにきてたんですか?」
 荀攸は特に護衛も連れていなかったし、向かい合って話をしたことは一度や二度ではない。
 危険だとは思わなかったんだろうか。
 そんな俺の疑問に、荀攸はやや頬を赤らめながら、懐から筒のような物を取り出してみせた。
 笛、いや、まさか、とは思うが。
 俺は冷や汗を流しながら、確認してみた。
「吹き矢、ですか?」
「はい。私は非力ですから、剣や槍は使えません。でも、身を守る手段は持っておくべきだと華琳様に言われまして。今ではそれなりに使えるんですよ」
「な、なるほど……ちなみに、矢には何を塗っておられるんでしょうか?」
「姉様からもらったものを。たしか、その――」
 と、そこで荀攸はなぜか再度頬を赤らめ。
「男の方の場合、三日三晩、七転八倒して苦しんだ上、身体の一部が二度と使えないようになる薬、だと」


 ……それ、普通は毒っていいませんか?
 俺は内心でそんなことを呟きつつ、虚ろに笑うことしか出来なかった。 





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 鴻漸之翼(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/06/10 02:12
 風を裂いて迫り来る剣撃を、俺は息もたえだえになりながら、かろうじて迎え撃つ。反応自体は良かったのだが、眼前の相手の膂力は、俺の形だけの迎撃などものともせず、構えた剣ごと俺を後方に吹き飛ばす。
 こうして、ごろごろと地面を転がるのは、今日、何度目のことか。咄嗟の受身の取り方だけは間違いなく上手くなったと思います、はい。


「どうした。もう終わりか、一刀?」
 俺とは対照的に息一つ乱さず、そう語りかけてくるのは劉家軍の鬼軍曹、関雲長殿である。
 その手に持っているのは俺と同じ木剣だ。俺にはちょうど良い重さなのだが、重さ八十二斤の青竜偃月刀を苦もなく振り回す関羽にとっては、はなはだ頼りない得物に映っていることだろう。
 当然ながら、木剣を縦横無尽に繰り出してくる関羽の剣尖の鋭さは俺の比ではない。先刻から、実力の半分どころか、半分の半分も出していないであろう関羽に対し、俺はただの一撃も加えることが出来ないでいた。


 とはいえ。
「なんの。この程度で、ばてるほどやわではないですよ」
 俺はそう言いつつ、軋む身体に鞭打って、何とか立ち上がる。肩と太腿から鈍い痛みが伝わってくるが、我慢できないほどではない。
 あの冬の戦から、すでに数月。季節は春を過ぎて、夏にさしかかりつつある。許昌での手厚い治療の甲斐あって、俺の身体はこんな荒稽古も可能なくらいに回復していたのだ。


 ――ただ、実のところ、この展開はまったくの偶然の産物であった。
 怪我が癒えた春先から、少しずつ身体を動かす訓練はしていたのだが、俺が木剣を振り回せるようになったのは最近だった。なので、身体の感触と怪我の影響を確かめつつ、屋敷の中庭で、一人、素振りをしていたところを折悪しく――げふんげふん――折り良く関羽が通りがかり、何故かわからないが稽古をつけてやろうという流れになってしまったのである。


 立ち上がって木剣を構える俺を見て、関羽が小さく笑う。
「……なんだか楽しそうですね、雲長殿?」
 問いかける声が、天下に名高い美髪公に稽古をつけてもらえる喜びにうち震えていたとは決して言うまい。
 おれのじとっとした視線を受け、関羽が頷く。
「うむ。聞いてはいたが、実際に受けてみるとまた違う。一刀の剣は面白いな」
「……先刻から、雲長殿には一向に通用していないような気がするんですが?」
「面白いと言っただけだ。一刀がまだまだ未熟であることにかわりはない。その程度の腕では、私には通じぬよ」
 ばっさりと斬り捨てられ、俺は肩を落とす。
 俺が爺ちゃんたちから教え込まれた剣は、止まらないことを本義とする。常に先手を取り、相手に主導権を渡さない――と、言葉にすれば簡単だが、それを実践するのがどれだけ難しいかは言うまでもないだろう。まして、相手はあの関雲長。主導権を握ることさえ容易ではなかった。


「とはいうものの」
 関羽は再び笑みを浮かべ、俺に向かって口を開いた。
「並の兵士としてなら、十分に及第だ――強くなったな、一刀」
 唐突に、率直な賛辞を受け、俺は戸惑って目を瞬かせた。
「は、はあ、ありがとうございます……?」
「む、なんだ、そのめずらしいものでも見るような眼差しは?」
「関将軍に褒められるのは、十分にめずらしいことのように思えるんですけど」
「そ、そんなことはないだろう。褒めるべき時は褒めているはずだ、淮南での戦功もちゃんと称えたではないかッ」
「……あ、そ、そうでしたね」
 言いつつ、その時のことを思い出して、俺は自分の頬が紅潮するのを自覚した。
 許昌で再会し、関羽に抱きしめられた感触を思い出したからであった。


 多分、関羽も俺がいつのことを思い出したのか悟ったのだろう。俺に劣らず、頬を紅潮させている。
 もう何ヶ月も前のこととはいえ、俺はあの時のことを昨日のことのように思い出せるのだが、それは関羽も同じなのかしら、などと考えていると。
「えい、そんなことはどうでもいい! 稽古を続けるぞ、一刀!」
「は、はい、わかりまし……って、なんで青竜刀を構えてるんです、雲長殿?!」
 いつのまに?! そしてどこから取り出した、それ?!
「武人たるもの、己の得物を常に手元にとどめておくのは当然のこと」
「それは見上げた心構えだと思いますが、その長大な武器をどうやって隠し持っていたんですか?! そして、何より……!」
 どうして稽古に青竜刀を用いるのかを聞きたいんですが?! こちらは木剣なんですけどッ。


 そんな俺の叫びに、関羽は意外に冷静に答えを返してきた。
「戦場で、常に敵が自分と対等の条件であらわれるわけではあるまい。自分より優れた力量を持つ者が、優れた得物をもってあらわれるなどめずらしいことではない。その時、お前はそれは卑怯だと敵を詰るのか?」
 その言辞はかなりこじつけめいていたが、言わんとするところは理解できないわけではなかった。
「む、なるほど、仰りたいことは理解しました。これはそんな急場を凌ぐための稽古ということですね?」
「その通りだ。決して照れ隠しなどではない!」
「自分から白状してるよ、この人?!」
「えーい、問答無用!」
「前後の文脈を無視しないでくださいッ?!」


 叫びながら、俺はすばやく身を翻す。
「逃げるか、一刀?!」
「当然ですッ。勝てない敵から逃げるのも、策のうち! 孫子曰く、三十六計、逃げるが上策なり!」
「孫子にそんな文言はないッ!」
「なら俺の信条ということで!」


 脱兎の如く、走り出す俺。
 その後を、猛然と鬼軍曹が追いかけてくる。 
「男児たる者、そんな軟弱な信条を持つな、ばか者! えーい、待てィ!」
「お断りします!」
 追う関羽、逃げる俺という状況にどこか懐かしいものを感じつつ、俺は懸命に両の手足を動かして、中華の誇る武神の攻撃から逃げ続けるのであった。



◆◆



 俺の許昌での滞在は冬から初夏におよび、その間、一部の事柄を除いては平穏そのものといってよかった。まあ、その一部のせいで、何度か死にそうな思いをしたりもしたのだが――ついでに言うと、そのほとんどは黒髪の女将軍に由来するものだったのだが……まあ、それは後述しよう。
 俺は、この際だからと程昱や郭嘉に頼んで兵書を読ませてもらったり、あるいは過去の春秋戦国時代や楚漢の争いを記した史書を借りたりして、貪るようにそれを読んだ。
 元の時代でも読んでいなかったわけではないが、この時代――というより、この世界にあって戦乱を潜り抜けた身には、どんな形であれ、知識を吸収できる機会は逃すべきではないと実感させられている。
 付け加えれば、元の世界での歴史と、この世界の歴史が同じであるとは限らない。玄徳様や関羽らの年齢、性別のことを踏まえれば、別物と考えた方が間違いがないだろう。
 であれば、知識の齟齬が命に関わる事態がこないとも限らない。何より――ぶっちゃけ暇だったのである。
 

 晴耕雨読、なんて言葉をしみじみと実感しつつ、俺の上に春は過ぎ去っていった。
 幸いというべきか、この時期、大きな動きを示す諸侯は存在せず、河北でも淮南でも、あるいはそれ以外の地域でも小競り合い以上の戦は起きていない。
 その結果、曹操は内治に力を注ぐ時を得て、国力を急速に充実させていた。許昌に暮らしていると、人と物の出入りの激しさに唖然としてしまいそうになる。人々は気忙しげに立ち働きながら、しかし笑顔を絶やすことはなく、平和というものの価値を無言で物語っているように感じられてならなかった。


 そんな情勢であったから、関羽が戦に連れ出されることはなく、その屋敷も静かなものであった。
 もっとも静かといっても、世俗的な意味での話。客人は結構頻繁に訪れる。
 たとえばあの高名な張遼、字を文遠などは頻繁に関羽に会いに屋敷にやってきては矛を交えたり、酒を飲んだりと大騒ぎしていくし、程昱、郭嘉、荀攸といった軍師たちも時折、訪ねてきてくれた。
 あるいはこちらから他者の屋敷に出向く時もある。曹凛様(曹操の母君である)のお招きにあずかったり、曹純の屋敷でお茶をご馳走になったり、といった具合である。


 ちなみに、もっとも会う回数が多いのは、上の誰でもなく典韋と許緒だったりする。
 典韋は曹操の内命を受けて、俺と関羽に料理を振舞うために来るのだが、許緒はどうしてそれにくっついてくるのだろうか。
「も、もちろん、にーちゃんのお見舞いに決まってるじゃないかッ!」
 とは許緒の言である。その隣で典韋が苦笑しているところを見るに、多少は料理の相伴に預かりたいという意図もありそうだが、それを口にしないのが大人の気配りというやつである。違うかもしんない。
  

 もう一つ付け加えれば。
「あの、兄様、どうかしました?」
 俺の視線に気付いたのか、典韋が不思議そうに首を傾げる。
 ある意味で、曹家陣営の中で、俺ともっとも親睦を深めたのはこの典韋かもしれなかった。
 その料理の才能に俺が魂を奪われた、というのもあるのだが、それ以上に長きにわたる死闘を共にしたという同志的連帯感が、俺の中では一際強い。
 ――何を言ってるかわからない? それはもっともだが、あの苦難の日々の記憶を甦らせるのは、俺に死ねと言っているようなもの。ゆえに一つの事実を口にするので、後は察してください。


 ――関羽の料理技能Lvがあがりました。
 

 ………………………………食べる物を食べられなくする技能を、料理技能と呼ぶべきか否かは、なお議論の余地があると思うが、とりあえずその域は脱したのだから、それは成長と言って差し支えないであろう。
 そこに持っていくまで、関羽に料理を教えたのが典韋で、そこに到るまでに出来上がった数々の料理を美味しくいただいたのが俺である。その苦難と力闘は、涙なくしては語れない。


 当然といえば当然だが、指導上、典韋も関羽の料理の味見はしていた。水で何倍にも薄めたものをちろっと舐めるだけにとどめていたにせよ(そうしないと、舌が狂いかねなかったらしい。料理人にとって舌の大切さは言うまでもない)あの破壊力を知るのは許昌では俺以外に典韋しかいない――ちなみに許緒も関羽の料理の味見をしたことはしたのだが、最初の味見の後、二度と関羽の料理教室には姿を見せなかったから除外。その時のことを持ち出すと、今でもだらだらとあぶら汗をかきはじめる許仲康であった


 ともあれ、そんな関羽の料理を一度ならず食するのが、どれだけの意思と覚悟を必要とすることか。典韋が尊敬の念をこめて俺を『兄様』と呼ぶようになったのは、それからであった。
 そして、関羽の壊滅的な料理の腕を上達させるという、独力で虎牢関を陥とすにも似た難事に敢然と立ち向かった典韋の勇敢さを知るのも俺以外にいない。
 俺と典韋の間に、戦友にも似た連帯感が育まれるのは必然であったといえよう――何かが致命的にずれているような気がしないでもないが、気にしてはいけないのである。




 穏やかなんだか物騒なんだかよくわからない、しかし間違いなく平和な許昌での日々。だが、その日々が長く続かないことを俺は承知していた。
 冬が終われば、春が来る。兵を動かすのに適した季節が訪れるのだ。どこで誰が動くにせよ、漢朝を擁し、中原を支配する曹操は兵乱と無関係ではいられない。
 それに、他者に主導権を渡すことをよしとする曹孟徳ではないだろうから、曹操自身が動く可能性も高いだろう。河北で勢力を拡げている袁紹、あるいは淮南で帝を僭称する袁術、いずれもこのまま放っておいては漢朝と曹操の威光に傷が付く。遠からず、許昌に兵馬の音が響き渡るであろう。


 そうなれば、いよいよ関羽も出陣せざるを得なくなる。その相手が袁紹であれ、袁術であれ、天下を揺るがす大戦になることは疑いなかった。
 そして、俺もまたその争乱と無関係ではいられない。都での厚遇の恩には報いなければならないし、なにより淮南の袁術には高家堰砦の借りを返さねばならない。
 太史慈と俺の麾下として砦で戦い、散っていった劉家軍数百の将兵の命の重み、忘れることが出来ようはずもなかった。


 その時が訪れるのは、そう遠い先の話ではない、とこの時の俺は考えていた。繰り返すが、曹操が偽帝をいつまでも野放しにしておくとは考えにくいからだ。
 だが、その考えは甘いといわざるを得なかった。この時、事態はすでに動き始めていたからである。
 中原を揺るがす動乱の足音は、大きく――そして奇妙に虚ろな響きを帯びながら、ゆっくりと中華の地に拡がっていこうとしていた。
 ひたひた、ひたひたと……

 

◆◆◆



 許昌、丞相府。
 漢の丞相として、日々、山と積まれる政務を片付けていた曹操の下に、その報告がもたらされたのは、地平線の彼方に日が没しようとしている時刻のことであった。
 曹操の口から怪訝そうな声が発される。
「……討伐の官軍が、消えた? 敗れたのではなく、消えたといったの、秋蘭?」
「はい」
 曹操の問いに、夏侯淵は小さく、しかしはっきりと頷いてみせた。
「華琳様もご存知のとおり、先日、皇甫義真(皇甫嵩)将軍が、勅命を受けて黄巾党の一派である白波賊討伐に赴かれました。その皇甫将軍と、将軍率いる二千の部隊が河東郡(司州)と西河郡(并州)の境で、忽然と姿を消したとのこと。河東郡、西河郡双方の太守が兵を出して確認しており、ただの誤報とも思えず、ご報告した次第です」


 曹操は手に持っていた報告書から視線をはずし、夏侯淵に問いを向けた。
「白波賊、か。たしか、すでに一度、討伐軍を追い払った輩ね」
「は。母体は河北から逃れてきた黄巾賊の残党と思われます。しかし、敗残の賊徒とは思えぬ精強さを示し、現地の太守らの軍を退けており、此度、皇甫将軍が征伐に出ることになったのですが……」
「その将軍が行方知れず、か。状況を見れば賊徒に敗れたと考えるのが妥当か。しかし、あの皇甫嵩が、そこらの賊徒に遅れをとるとは思えないわね」
「御意。この件、早急に手を打たねば、あるいは厄介なことになるかもしれません」
 主君の言葉に、夏侯淵は即座に同意を示す。


 二人が口にした皇甫嵩、字を義真という人物は、まもなく五十の齢を数える漢朝の名臣である。
 若年の頃から文武に通じ、清廉な人柄と、実直な為人で信望を集めた。ただ真面目一徹というわけではなく、賄賂を受け取った部下に対し、あえて自らも金品を送るという辛辣な対応をとったこともある。その部下は大いに恥じ、職を辞して野に下っていったという。
 民を安んじ、将兵を大切にする皇甫嵩の令名は年を経るごとに高まっていったが、その名声が先の霊帝や側近たちから疎まれ、中央からは長いこと遠ざけられていた。しかし、皇甫嵩は不満の声をあげることなく、与えられた職務に精励し、かえってその名声はいや増した。
 やがて霊帝が没し、その後の混乱の末に今上帝が曹操の保護の下で許昌へと移ると、皇甫嵩も召しだされ、将軍の一人として復権するに到る。
 この人事は朝廷の内外に好評を博したのだが、実のところ、その背後には功績著しい曹操に対抗できる人材を確保しようという司空張温の思惑が秘められていた。


 だが、追放同然に都を追い出されても霊帝やその側近に逆らわなかったこと、あるいは霊帝が没した後、その高い名声にも関わらず、大きな動きを見せなかったことからも察せられるように、皇甫嵩は乱世に野心を燃やす型の人物ではなかった。
 その望むところは漢朝へ忠誠を尽くし、国と民を安んじることであり、皇甫嵩は曹操にも、また張温ら反曹操派とも一定の距離を保ち、あくまで漢朝の臣として行動することを選んだのである。このため、皇甫嵩を反曹操勢力の核にしようという張温らの目論見はもろくも瓦解することになる。


 張温はほどなく兌州の乱における責任を追及されて朝廷から放逐され、漢朝における曹操の威権は確立されるのだが、皇甫嵩はそれまでと態度を変えることなく曹操と一定の距離を保ち続けた。
 その態度は、曹操陣営からすれば面憎いところがないわけではなかったが、人臣としてあるべき姿を考えた時、皇甫嵩のそれは、強者に対し、美辞を呈してすりよってくる小人たちとは比べるべくもない。
 己の意にそわぬからと皇甫嵩を退けようとすれば、曹操らは先の皇帝や、その側近と同類とみなされてしまうであろう。それは曹操の矜持の耐えられるところではなかった。


 結果、皇甫嵩は張温失脚後も将軍として朝廷に仕えることとなる。皇甫嵩に対し、曹操が一目置いていることは誰の目にも明らかとなり、皇甫嵩の周囲には曹操陣営、反曹操陣営に属さない人々が集まるようになっていった。彼らは丞相である曹操を介さずに漢朝に忠誠を尽くす、いわば非曹操陣営とでも言うべき新しい勢力として、次第にその数を増やしつつあったのだが――
「その矢先にこの事態、ね。今回の件、幾つかの思惑が感じられるのだけど、秋蘭はどう思う?」
「はい、私も華琳様と同意見でございます。皇甫将軍は華琳様と敵対していたわけではないにせよ、異なる立場に立っていたことは確かです。その将軍が不可解な形で姿を消したとなると、朝臣の疑いが華琳様に及ぶのは必然でしょう」
「ええ、問題はその不可解な事態に、皇甫嵩自身の意思が関与していたか否かというところね。もし皇甫嵩が策略のためにみずから姿を消したというのなら、かえって始末が良いわ。そのような愚策を弄する輩、恐れるに足りない。厄介なのは皇甫嵩が関わっていない場合よ」
 それはつまり、討伐に赴いた皇甫嵩を、実力をもって排除するだけの大物が背後に潜んでいることを意味する。
 夏侯淵が危惧するところも、正にそこにあった。断じて黄巾党の残党ごときがなせる仕業ではない。


「――いかがなさいますか、華琳様?」
「これだけの大事となれば、ほどなく朝廷から呼び出しが来るでしょう。裏面の事情はどうあれ、一度ならず二度までも官軍が野盗にしてやられたとあっては諸侯に示しがつかないわ。次は今回にまさる規模の大軍が派遣されることになるわね」
「御意。そして、許昌の防備はその分、薄くならざるを得ません」
「――あるいは、それが狙いかしら。それとも、それすら策の一環か。いずれにせよ、姿の見えない相手の掌で踊らされるのは良い気分ではないわね」
 曹操の唇の両端がつりあがる。それは笑みの形をとった刃の煌きであった。
 夏侯淵は、曹操の総身から立ち上る濃厚な怒りの気配を感じ取り、そっと面差しを伏せる。この策を弄した相手は、遠からず思い知るだろう。小手調べにと突き出した刃が、はからずも竜の逆鱗に触れてしまったことを。
 もっとも、と夏侯淵は思う。
 気付いた時には、すでに首と胴が離れているやもしれないが、と。



 無言で主君の言葉を待つ夏侯淵の耳に、やや興がる曹操の声が飛び込んできた。
「ふふ、そうね。この際、いきなり奥の手を使うのも一興か。どこの誰だか知らないけれど、この曹孟徳を相手に、あえて虎尾春氷をなさんとするその心意気だけは買ってあげましょう」
「では、華琳様」
「ええ、秋蘭、虎豹騎を動かすわ。子和(曹純の字)を呼んできて頂戴」
 虎豹騎は、曹家の軍の最精鋭として、曹操が最も育成に力を入れている部隊である。先の徐州侵攻においても、その実力は遺憾なく発揮されていた。ことに寡兵にて淮河を渡り、広陵の太守である陳羣と、先の徐州牧であった陶謙の亡骸を偽帝から奪回した勲功は、今なお人々の口の端にのぼるほどである。


 あれから数月。部隊の特徴から増員は容易ではないものの、それでも虎豹騎の総数はすでに千を越えていた。
 虎豹騎一騎は、並の兵十人に優るとの評は、曹操が意図的に撒いた噂ではあるが、決して誇張ではない。白波賊とその陰に潜む者たちは、間もなくその事実を身をもって思い知ることになるだろう。
「我が往くは天道。小賢しい策謀で、天へと到る我が歩みを阻むことはかなわない。そのことを思い知らせてあげるわ――骨の髄までね」
 昂然と言い切ると、曹操は眼差しをあげてはるか北の彼方へと視線を投じる。覇気に満ちたその双眸に、夏侯淵は半ば恍惚としながら見蕩れるのであった。





◆◆◆





 その頃、并州西河郡。
 その南方の原野の一角に、今、悲痛な叫びが響き渡る。
 予期せぬ奇襲を受け、全滅寸前まで追い込まれながら、それでもかろうじて軍を支えていた官軍の将の首が、血煙と共に宙を舞ったからであった。
「あ、ああ、将軍様が、義真様がッ?!」
「おのれ、賊めがァッ!!」
 絶望と悲哀の声をあげる官軍の生き残りに対し、白波賊の陣営からは凄まじい喊声が湧き上がった。
 それは勝利の確信と同時に、散々彼らをてこずらせた官軍への報復を望むものであった。
「殺せ、殺せェ、皆殺しだッ!」
「威張りくさるしか能のない兵隊どもめ。俺たちに勝てるとでも思ったかよ!」
「おうよ、名高い皇甫嵩だって俺たちの前じゃあごみみたいなもんだ、たとえ曹操が来たって恐れるにたりねえッ」
 口々にわめきたてながら、白波賊は徐々に官軍への包囲を縮めていく。目の前で将軍を討たれた官軍は恐怖と動揺を鎮めることが出来ず、迫り来る賊徒に対して陣形を整えることさえできずにいる。勝敗は、すでに誰の目にも明らかであった。


 そんな戦場のただ中で、一人、殺戮への渇望に溺れることも、死への恐怖に怖じることもなく、静かに佇む者がいた。
 その手に名将皇甫嵩の首を刎ねた武骨な斧を持つ人物は、長い亜麻色の髪を頭の後ろで一つに束ねた女性であった。どこか幼さの残る容貌を見れば少女といった方がいいかもしれない。
 戦場に似つかわしくない落ち着いた色を浮かべる双眸は琥珀色に輝き、その立ち姿からは猫科の猛獣を思わせるしなやかさと、歴戦の将軍を屠った力強さが同時に感じ取れた。その身に浴びた返り血さえなければ、人としての気品さえ感じ取れたかもしれない。


 少女は、大の大人でも持つのが難しいと思われる大斧を苦もなく操り、官軍の将兵に相対する。
 今また、皇甫嵩の仇討ちを望む兵士が斬りかかってきた。
「おのれ、将軍様の、義真様の仇だッ!」
「……ッ!」
 相手に応えることなく、鋭く呼気を吐き出した少女は、恐るべき速さで大斧を一閃させる。大斧は大きさと重さに相応しい破壊力を見せ、その刃が通り過ぎる途上にあった敵兵の首は、半ばもぎ取られるように宙に飛んでいた。


 容姿や体格にまるでそぐわない少女の武威に、官軍の将兵は怯んだように一歩二歩とあとずさる。
 その隙を他の賊徒が逃すはずもなく、あたりはたちまち乱戦――否、賊徒による一方的な虐殺の場へと変じていった。
 悲惨なはずのその情景を、しかし少女はどこか無感動に見やりながら、自らが果たすべき役割を求めて視線を転じる。


 すると少女の耳に、自らへの呼びかけが飛び込んできた。
「公明様!」
「……なにか、ご用ですか?」
「頭目からの命令です」
 使いの声を聞いた途端、それまでの感情を抑えた様子が嘘のように、少女の声と顔に生気が満ちた。
「母さんからッ?」
「はい。敵将を討ち取ったら、すぐに本城へ戻るように、と。すぐに次の戦が始まるとのことです」
「わかりました。すぐに命令どおりにしますッ」
 喜びを押さえきれないのか、語尾がわずかに跳ねる。
 少女が素直に喜びをあらわにする様は、これが街中であれば笑みを誘われる光景になったかもしれないが、血潮にそまる甲冑をまとう身では、どこか異質なものが感じられてならなかった。使者の口元がわずかに引きつったのは、その証左であったろう。


 しかし、少女はそれに気付くことなく、踵を返して母の待つ本城への道を歩き始める。
 その足取りは、確かに軽やかであった……




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 鴻漸之翼(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/06/14 22:03

 ぱちり、と小気味良い音と共に、俺は槍を模した形の駒を動かし、自陣に突進してきた馬形の駒の後背を塞ぐ形で配置する。
 こちらの攻撃を凌ぎ、満を持して攻勢に出たであろう眼前の敵手の口が、への字に結ばれた。
「――む、そうきたか」
 そう言いながら、曹純は腕を組んで首を傾げる。黄金を梳かしたような鮮麗な髪が小さく揺れ、湖水色の双眸が思慮深げに瞬いた。
「……ならば」
 そうして、曹純が今度は弓を模した形の駒を、自軍の本陣前に配置する。攻撃の援護と本陣の防御、両方に用いることの出来る遊撃隊というところか。バランスを心がけている曹純らしい手だと思うが、しかし残念、次の一手でこちらの布陣は完了するのでありました。


「ぱちり、とな」
「ええッ?!」
 俺の打った手を見て、曹純の口からなんだか女の子みたいな悲鳴が漏れる。
 普段はなるべく男らしい所作を心がけているらしい曹純だが、こんな咄嗟の場合の挙動はどこか軟らかく、女性的なものが感じられる――口にすれば本気で怒られるので、決して口には出さないけれども。
 

 挽回の策を探して、曹純はしばしの間、うんうんと唸っていたが、ほどなく自分が罠にはまったことを悟ったのだろう。ため息まじりに投了を口にした。
「……参りました」
 その言葉を聞き、俺は小さく息を吐いた。
「これで昨日の借りは返せたかな」
 俺がそう言うと、意外に負けず嫌いの面がある曹純はむすっとしたまま、今の戦戯盤の取り組みを振り返り始めた。最初のこちらの攻勢をうまく凌いだ末に攻勢に転じたのに、それをあっさりひっくり返されたのがよほど納得いかないらしい。


 種を明かせば、最初の攻勢を凌がれたのも策の一環。あえて先手を敗走させ、追撃部隊を包囲撃滅する薩摩島津のお家芸、釣り野伏(偽)は、この戦戯にも有効でした。ま、ここまで綺麗に決まるのは、初見の時だけだろうけど。
 ちなみにこの戦戯盤、簡単に言えば将棋の親戚みたいなものである。将棋よりも駒の数は少なく、動きも複雑ではないため、覚えることはたいして難しくない。
 だが、単純である分、その結果は指し手の力量が如実に反映される。たとえば俺が荀攸や程昱と対局すると、四半刻で決着がついてしまうことも少なくない。一方で優れた指し手同士が相対すると千日手になることもあり、互いの力量が明瞭になるという意味でかなりシビアなゲームなのである。
 ちなみに俺と曹純の対局記録はほとんど五分、実力伯仲というやつで、二人ともに是が非でも勝ち越さんと、時折こうやって勝負しているのだ。


 曹純がふむふむと頷きながら口を開いた。 
「……なるほど、故意に敗北して敵を罠まで誘い込む戦術か。これは劉家軍の得意とするものなのか?」
「いや、これは盤面だから出来るんであって、実際の戦でやるのは並大抵のことじゃないと思うぞ。失敗すれば各個撃破されておしまいだしなあ」
 劉家軍は、偽りの退却で敵軍を誘い込む、という戦術は幾度か用いていたが、囮部隊も待ち伏せ部隊も、釣り野伏ほど徹底した役割分担をしていたわけではない。
 そもそも、ほとんどの戦いで相手より劣る兵力で戦ってきた劉家軍にとって、危険を冒してまで敵を包囲殲滅する戦術を用いる必要がなかったということもある。


「確かに、これをやるとなると各隊に相当な錬度が要求されるな。将同士の理解と連携も必須、一朝一夕にやれるものではない、か」
 なにやら残念そうに呟く曹純。自分の部隊でやれないものかと考えていたのかもしれない。曹純の言うとおり、これをやるには将兵共にかなりの錬度が要求され、しかもそれを満たしてなお成功する確率は高くない。盤面の駒を動かすようには、実際に将兵を指揮することは出来ないだろう……まあ、曹操軍ならなんか出来てしまうような気がしないでもないが、それは言わずにおこう。虎豹騎が釣り野伏とか、本気で勘弁してください。



◆◆



「白波賊?」
 対局を終え、互いにずずずっとお茶をすすっていると、曹純の口から聞きなれない言葉が発された。ただ、聞きなれないが、聞き覚えがないわけではない。白波賊というと、たしか――
「中原の外れで暴れている黄巾党の一派だ。元々、朝廷の混乱に乗じて、あのあたりで暴威を振るっていた連中だが、河北で袁紹や一刀たちに敗れた残党が合流して以来、さらに勢いを増していてな。討伐に出た河東郡の太守の軍勢を退けてからは白昼堂々、略奪行を繰り返すほどに猖獗を極めていたとか。このままでは新たな皇帝の威信に関わると、先日、重臣である皇甫将軍が討伐に赴いたのだが……」
 皇甫将軍、というとあの皇甫嵩のことだろう。言われてみれば、いつぞや遊びに来た許緒がそんなことを口にしていた気がする。
 その時のことを思い出しながら、俺は小首を傾げて曹純に問いかけた。
「その口ぶりからすると、皇甫将軍も敗れた?」
「うむ。おそらくはな」


 曹純の答えに、俺は戸惑って目を瞬かせる。
「おそらくは? 報告はきていないのか?」
 勝利をおさめたにせよ、敗北を喫したにせよ、報告の義務があるのは当然ではなかろうか。
 そんな俺の疑問に、曹純はかぶりを振って応じる。
「報告どころか、将軍はおろか、配下の兵一人戻ってきてはいないそうだ。河東郡と、あとは并州の西河郡の太守も兵を出して将軍らを捜索しているが、手掛かり一つ見つからないらしい」
「……討伐、というからには百や二百の兵ではないだろうに。それが手掛かり一つなく消えた、と?」
「皇甫将軍が率いた兵は二千。無事であれば、あの将軍が連絡一つ寄越さないはずはなし、おそらくは敵に敗れたのだろう。だが、戦いの痕跡一つ残っていないというのは明らかにおかしいからな。すでに優琳(曹洪の真名)姉上が動いているのだが――」
 朝廷としては、その結果が出るまで待っていることは出来ない、ということらしい。
 たしかに黄巾党の残党に、官軍が二度までも敗れたとあっては、許昌の朝廷が鼎の軽重を問われるところだ。
 今度こそ、万全を期して賊徒を討伐せねばならないところであるが――


「しかし、今の時期、大きな兵力を動かせば許昌の防備が手薄になる。河北や淮南に付け入る隙を与えたくないというのが華琳様のお考えでな」
「そうすると、少数精鋭の部隊を派遣するしか……なるほど、それで子和の出番というわけか」
「さすがは一刀、話が早くて助かる」
 納得したように頷く俺を見て、曹純はにこりと微笑む。それを見て、知らず頬が熱くなるのを感じる俺であった。


 ――曹家の血統の為せる業か、曹操自身はもとより、曹凛様も、曹仁も曹洪も、いずれおとらぬ美人ばかり。当然のように曹純も美青年である。
 顔の造作だけではない。厳しい訓練と幾度もの実戦を経ているというのに、白玉の肌には傷ひとつなく、引き締まった身体つきから感じられるのは武骨さではなく凛々しさである。その凛とした美貌――男に使いたい言葉ではないが、そうとしか言えないのである――を見て、初見で男性だと見抜ける者がはたしてどれだけいることか。


 それでも普段は本人が女性と間違われることを嫌ってか、仕草や声音、言葉遣い等を意図的に荒っぽくしているから意識しないですむのだが、ふとした拍子に出てくる生来の軟らかい反応(今の微笑とか)を垣間見ると、どうしても意識せずにはいられないのだ。
 ……一応断っておくが、俺にそっちの気はない。それはもう断じてない――ないのだが、ほんと、どこの美人モデルかと言いたくなる人なのだ、この曹純、字を子和という人物は。
 繰り返すが、本人に言うと素で存在を抹消されかねないので、口にはしないけれども、面と向かい合って照れずに済むようになったのは、そう昔の話ではない。


 ささっと視線をそらせる俺を見て、曹純は不思議そうに首を傾げた。
「――? どうした、いきなりあさっての方向を見て? それに、なんか頬が赤いようだが」
「はっは気のせい気のせいで白波賊の情報を俺に聞きに来たというわけかなるほど劉家軍は河北で黄巾党と戦ったしそもそも俺は昔黄巾党の中にいたからな何か知らないかと思ったわけだおーけーおーけー知る限りの情報は吐き出そう」
「…………そ、それは助かるが……い、いや、なんでもない」
 息継ぐ間もなく話し続ける俺を見て、曹純は微妙に引いていた。その視線は痛かったが、まあ俺の内心には気付かれなかったみたいなのでよしとしよう。




 とはいえ、実のところ、白波賊に関して俺が知っている情報はほとんどなかった。
 俺が黄巾党にいたのは、初期の奴隷時代を除くと、張家の姉妹の傍仕えとして仕えていた期間が大半である。波才や張曼成ら主力部隊の将に関する情報はともかく、地方の連中にまで気を配っている暇はなかった。
 白波という呼称自体、ほとんど聞いた記憶はなく、その頭目が誰であるかすら知らないのだ。
 ただ、同じ地方の勢力といっても、青州黄巾党のような大規模な勢力の情報はそれなりに耳にしていたから、逆に言えば俺の耳に入らなかったということで、白波賊の規模を推し量ることは出来るかもしれない。


 しかし、あれからもう年単位で時が過ぎている。白波賊が以前のままとは限らず、むしろ曹純から伝え聞いた情報からすれば、連中が俺がいた頃よりもはるかに勢力を伸張させているのは明らかで「昔は大したことなかった」なんて情報には一文の価値もないだろう。
 俺は腕組みして考え込む。曹純には様々に世話になっているので、頼ってきてくれた以上、期待に応えたいところなのだが……


 そんなことを考えながら唸っている俺を見て、曹純は表情を改めてかぶりを振った。
「いや、すまない、張家の姉妹と親しい一刀には言いにくいこともあると思う。だから、言えないなら言えないで構わないんだ」
「あ、いや、そういうわけじゃない。伯姫様たちに遠慮してたんじゃなくて、ただ白波なんて名前、ほとんど聞いた記憶がなくてな。何かなかったかと思い出していただけだよ」
 歌を本業と考える伯姫様たちと、黄巾党の関係をここで口にしても仕方ないので、俺はそう言うだけにとどめた。まあ黄巾党の一派である以上、白波賊にも伯姫様たちのファンがいるだろうから、これを破ることに思うところがないわけではないが、今そんなこと言っても、それこそ詮無いことである。


 しかし、やはりどれだけ頭をひねっても有益な情報は出てきそうになかった。俺は天を仰ぎつつ、曹純に謝罪する。
「……やっぱり、覚えがないなあ。せめて頭目の名前でもわかれば、少しは何か思い出す切っ掛けになるかもしれないんだが」
 元の世界的な知識も含めて俺がそう口にすると、曹純が目をぱちくりとさせる――だからそういう仕草をするなというに。また頬が熱くなるだろうが。


 そんな俺の内心に気付くことなく、曹純は照れたように頬をかきながら口を開く。
「すまない、まだ言ってなかったか。敵の頭目は二人いてな。一人は韓暹(かんせん)、もう一人は楊奉(ようほう)だ。韓暹が頭目、楊奉が副頭目という形になっているようだが、実権を握っているのは楊奉らしい。華琳様によれば、楊奉は以前、朝廷に仕え、それなりの地位にいたらしいな」
「韓暹に楊奉、か。黄巾党にいた頃に聞いた記憶はないなあ」
 俺は首をひねりつつそう言った。少なくとも波才らと並び称されるような人物ではなかったはずだ。
 しかし。


「楊奉が……」
「ん?」
 俺の呟きを聞き取って、曹純が怪訝そうにこちらを見やる。
「楊奉が副頭目といったけど、いつ頃、白波賊に加わったかはわかっているのか?」
「詳しい時期は不明だが、何年も前というわけではないようだな。そもそも、はじめは韓暹の情婦だったそうだから、正確にいつ頃、頭だった地位に就いたかもよくわからないんだ」
 そうか、と一度頷いた俺は、ん、と首を傾げる。
「……韓暹の、何だって?」
「情婦」
 端麗な顔の美青年が、眉一つ動かさず情婦と口にする光景は、なんだかとってもシュールでした。それはともかく。
「……つまりあれか、楊奉って女なの?」
「ああ、そうだが……って、一刀。なんでそこでため息を吐く?」
「いや、まあ色々と」
 久々に現実と脳内知識の乖離を実感している俺を、曹純は不思議そうに見つめるばかりであった。




「ま、まあそれはともかく。つまり楊奉は頭目の妾から成り上がって、実権を手にしたというわけだよな。俺がいた頃にそんな話があれば、耳に入ったはず――」
 仲姫(張宝の字)様が好きそうな話題だし。
「とすると、楊奉が頭角をあらわしたのはここ一、二年の間ってことになる。その短期間で烏合の衆であったはずの白波賊を、討伐の官軍を撃ち破るほどに鍛え上げたというのなら、その力量は恐るべきといっていいんじゃないかな」
「確かに。注意すべきは韓暹ではなく、楊奉の方か」
 その曹純の言葉に、しかし俺は首を横に振った。


 戸惑ったようにこちらを見る曹純に、俺は人差し指を立てて説明してみせる。
「確かに楊奉は恐るべきだけど、韓暹だってこの乱世で賊徒の頭目として何年も立ち回ってるんだから、十分に警戒すべき相手だろう。子和が曹操軍の最精鋭を率いているといっても、侮っていい相手じゃないと思うぞ」
 曹純が穏やかな気性の中にまけず嫌いの面を持っていることは前述した。互いに気安い口調で話せるくらいに曹純と親しくなった俺は、すぐにそのことを知ったわけだが、その時、もう一つ気付いたことがある。


 実は曹純、意外にも直情的な為人なのである。


 一本気とでも言おうか、思い立ったら一直線とでも言おうか、とにかく穏やかで思慮深そうに見えて、そんな一面を曹純は確かに持っていた。
 もちろんそれ自体は悪いことでも何でもない。むしろ俺から見れば好ましいとさえ言える。曹純がそれだけ情に厚い人物だからこそ、俺は淮南で命を拾うことが出来たのだから。
 だが、曹純のそれは、時としてあまりに真っ直ぐすぎる、と俺は密かに危惧していた。
 一つのことしか見えないゆえに、その視野の狭さを逆手にとられ、相手に足を掬われかねないのである。


 今の言葉もそうだった。
 確かに楊奉が恐るべきだと俺はいったが、だからといって韓暹とて海千山千の将、取るに足らない相手というわけでは決してないのだ。
 まあ常の曹純なら、その程度のことは自分で気付くことが出来ただろうとは思う。しかし、今回曹純に与えられたのは、皇甫嵩というれっきとした将軍の後任という重役である。
 曹純をこの任に充てたのは間違いなく曹操であろうが、周囲がこの人事を黙って見ていたとも思えず、紆余曲折があったはずだ。それは朝廷内に限った話ではなく、曹操軍の中であっても例外ではあるまい。


 それでもなお曹操が皇甫嵩の後任に曹純を擬したのは、それだけ曹純に期待するところが大であったということ。それに気付かない曹純ではなく、何としても今回の任を完遂させ、曹操の期待と信任に応えねばならないと気負っているのは明らかであった。
 その気負いが、敵への軽視に繋がらないように。俺はそういった意味で曹純に注意を促したのである。



「む、む。それは確かに」
 その自覚が皆無ではなかったのか、曹純は難しい顔で頷いてみせる。 
 聞けば、曹純は長らく曹嵩(曹操の父)や曹凛様の傍近くで仕えていたため、実戦の経験では他の諸将の足元にも及ばないという。当然、功績の面でも同様であろう。
 にも関わらず、曹操は曹純を虎豹騎の長に据えた。それは曹操の期待を示すものであろうが、同時に他者の嫉視を呼ぶものでもあることは容易に想像できる。
 今回の任務で、そのあたりの諸々を払拭したいと曹純が考えるのは当然であったのだろう。何とか重圧をはねのけて討伐を成功させてほしいと、思わずにはいられない俺であった。


 そんなことを考えている自分に気付き、浅からぬ感慨にとらわれる。
 つい先ごろまでは敵――それも尋常でなく巨大な敵であった曹家に連なる人を心配する時が来ようとは、と。
 曹純に限らず、曹操に仕える人たちは、いずれ必ず敵になるとわかってはいる。しかし、だからといって、負けてしまえ、なんて思うような器の小さい人間にはなりたくないし、なにより、その程度の人間が劉家軍に――玄徳様にお仕えするなど許せるはずがないではないか。たとえそれが自分であっても。否、自分であるから尚更に。

 
 
 それゆえに。
「それと、気をつけてほしいことがある」
「気をつけてほしいこと?」
「ああ、敵に楊奉がいるってことは……」



◆◆◆



 并州と司州、その境にある白波賊の砦。
 彼方に長城を望むこの砦は、塞外民族の侵入を阻むために前漢の時代に建設されたものと考えられていた。
 時の流れと度重なる戦乱の果て、忘れられていたこの砦に手を入れて本拠として利用したのが白波賊の頭目、韓暹である。
 韓暹は付近の農民や、各地から攫ってきた奴隷を用いて、この砦を拡張させ、今では砦というよりも城といった方が相応しい規模になっていた。その主である韓暹の勢威が、この付近でどれだけ大きなものであるかは言うまでもあるまい。


 ことに太守の軍勢を退けてからというもの、韓暹の自尊心は天井知らずの増長ぶりを見せた。太守気取りで税と称して略奪を繰り返すのはいつものこと、付近の住民のみならず、時に他郡にまで出向いて人や物を奪い取る様は、往時、中原や河北で暴れまわっていた黄巾賊そのものであったといえる。
 その暴虐が、名将である皇甫嵩の討伐軍を引き出す結果となったのは当然すぎるほど当然のことであった――少女はそう考える。
 しかし、韓暹をはじめとする白波賊は上下を問わず混乱した。一時は砦を捨てる案も出されたほどの狼狽ぶりであり、その醜態を目の当たりにした少女は眉をひそめたものであった。
 しかし、その混乱も、副頭目である楊奉の策略によって討伐軍を壊滅せしめたことで鎮まり、砦は今、歓喜と興奮の坩堝と化していた。


 そして、それもまた白波勢力の短慮を示すものだ、と少女には思われてならなかった。
 少女――漢朝の重臣である皇甫嵩を討ち取った勇武の持ち主であるその少女の姓を徐、名を晃、字を公明、真名を鵠(こく)という。
「この次は、今回にまさる大軍が派遣されるはず。喜んでいる場合じゃないのに……」
 今回の戦いで第一ともいえる功績をあげた徐晃は、しかし浮かれる様子を見せず、その表情はむしろ沈痛と言っても良いほどであった。
 その点、徐晃は白波賊の中でも異端であったが、徐晃からすれば、今この時、浮かれ騒ぐ韓暹らの方が理解に苦しむ。
 一介の太守の軍勢を退けたのとはわけが違う。朝廷が派遣してきた名将を撃ち破った以上、許昌の朝廷は、その威信をかけて白波賊を滅ぼしに来るだろう。
 その程度のこと、自分でさえわかるのに、と徐晃は唇を噛む。この砦にいる者たちの大半が、略奪に味をしめただけの賊徒に過ぎないということはわかっていたことなのだが……


 表情を曇らせながら、なおも徐晃は廊下を歩き続けた。その歩みは、砦の奥深くに位置する一つの扉の前まで続く。
 徐晃がやや緊張した面持ちで来訪を告げると、内側から歌うような響きを帯びた声が応じた。
 その声の主は部屋の中央で徐晃を待っていた。
 神経質なまでにまっすぐに伸ばされた黒髪は濡れたような光沢を放ち、その眼差しは穏やかそうに見えて、室内に入ってきた徐晃を見据える視線には確かな棘が感じられた。すぐにその険しい光は消えてしまったが。
 年の頃は三十半ばから後半、あるいは顔を覆う化粧をとればもっと上かもしれぬ。徐晃を見る表情は優しげ笑みの形をとっていたが、見る者が見れば、そこにはどこか造花めいた不自然さを見て取ることが出来たかもしれない。
 この人物こそ白波賊の首領である韓暹の片腕、その策をもって名将皇甫嵩の軍を壊滅に追い込んだ副頭目、楊奉その人であった。




「母様、鵠、ただいま戻りました」
 その権限は頭目すら越えると噂される楊奉を前に、徐晃は畏まって頭を下げる。
 自らを母と呼ぶ少女に対し、楊奉は艶を感じさせる声で応じた。
「ええ、ご苦労様、公明。報告は聞いています。討伐の将軍を討ち取ったのはあなただと――本当なの?」
「は、はい、皇甫将軍を討ち取ったのは私ですッ」
「そう……おいで、公明」
 どこか憂いを帯びた声で、楊奉は徐晃を手招いた。
 その声を聞いた徐晃は一瞬びくりと身体を硬直させる。その声音が母の不快を示すものであることを経験として知っていたからだった。


 しかし、徐晃に否やはない。おずおずとした様子で、楊奉のすぐ近くまで歩み寄った。その様は、戦場で幾多の官兵を大斧の錆びとした英武の武人とは似ても似つかないものであったろう。
 楊奉の手がゆるやかに徐晃の頭に乗せられる。
 無意識のうちに徐晃は身体を震わせるが、予想に反して楊奉は打擲を行おうとはせず、徐晃の亜麻色の髪を梳くように撫でるだけであった。
「か、母様?」
「漢朝の名臣として知られるあの皇甫嵩を撃ち破る――誰にでも出来ることではないわ。よくやってくれたわね、公明。これで朝廷はますます退けなくなった。次は更なる大兵を催して攻め寄せてくるでしょう。こちらの思惑通りに、ね」
「あ、あ、ありがとうございます」
「ええ、本当によくやってくれたわ。あなたのような娘を持てて、私も鼻が高い……」
 そう言った途端、楊奉の手の動きがぴたりと止まった。


 うっとりと母の手の感触に頬をほころばせていた徐晃が、それに気付いて不安げに母を見上げた。
「母様?」
「でもね、公明。私はあなたに言ったわよね。皇甫嵩は生かして捕らえるように、と」
 その楊奉の言葉に、徐晃はびくりと背を震わせる。すぐにその口から陳謝の言葉が発された。
「す、すみません、母様。皇甫将軍の武威は老いたりといえども衰えがなくて……全力で戦わなければ、勝つことが出来なかったんです」
 実際、皇甫嵩の戦いぶりは、五十に手が届こうかという人物とは思えない苛烈なもので、手加減する余裕はほとんどなかった。
 それでも一対一であれば老将に遅れをとるようなことはなかったであろうし、生け捕りにすることも出来たであろう。しかし、皇甫嵩の配下は圧倒的に不利な戦況にあって、主君を逃すために、文字通り命を捨てて徐晃に斬りかかってきたのだ。
 そんな彼らを撃ち払いつつ、皇甫嵩と戦うことを余儀なくされた少女は、手加減どころか、自身が討たれないために全力を出さざるを得ず、結果として皇甫嵩の首級をあげてしまったのである。


 だが、徐晃の言葉を聞いても楊奉の顔色に変化はない。徐晃ではなく、部屋の壁に視線を向けながら口を開いた。
「母の言いつけに背き、さらには言い訳を口にするの、公明?」
「あ、ご、ごめんなさい母様。次はきちんと言いつけどおりに――あ、あッ?!」
 しますから、と続きかけた徐晃の口から苦痛の声がこぼれでる。楊奉が不意に、力任せに少女の髪をつかみあげたからであった。
「あ……か、母様……ッ」
「私の言いつけに従い、私のために戦い、私の望む戦果を挙げる――公明、それが私の娘としての、あなたの役割でしょう。それが出来ないなら、私があなたを愛する理由もなくなってしまう。そうではなくて?」
「は、はい、ごめんなさい、母様ッ」
「口先だけの謝罪など、あなたの弟妹たちでも出来ることよ。それとも、次はあの子たちの誰かをあなたの代わりに戦場に出せば良いのかしら。それがあなたの望み?」
「ち、違いま、す。そんな必要は、ないです。わ、私、母様のために戦いますから、相手が誰でも、絶対、絶対勝ちますから。だから……!」
 楊奉の手に、幾十もの髪が抜ける感触が伝わってくるが、その顔にはわずかの感情の揺らぎも浮かばない。


 ――否、それを言えば。
 ――少女が部屋に入ってからこちら、その顔に感情が動いたことが一度でもあっただろうか。


「口では何とでも言えるわ。次は成果で示しなさい」
 その言葉と共に、ようやく楊奉の手から力が抜け、徐晃の身体は崩れるように床に投げ出された。
 しかし、それだけの目に遭いながら、徐晃は顔にも声にも一片の恨みも浮かべず、母の膝下に跪き、従順に頭を垂れた。
「はい、母様。次こそ、かならずご命令どおりにいたします」
「当然よ……下がって良いわ」
「は、はい、失礼いたしま……」
 と徐晃が口にしようとした時だった。
 慌しく扉を開く音が、室内にいた二人の耳朶を撃った。木の扉が軋む音がそれに続く。


 副頭目である楊奉の許可を得ずに室内に入ることが出来る者は、この砦には一人しかいない。そのことを徐晃は承知していた。そして不快感を禁じえなかった。その人物がこの部屋に入るたびに、まごうことなき殺意を覚える徐晃は、険しい視線で部屋に入ってきた人物を見据える。
 すなわち、白波砦の総帥、韓暹の姿を。


「よ、楊奉、許昌の曹操めが我らの討伐に動いたという知らせが来たぞッ!」
 徐晃の視線など気にもとめず――というより、動転して気付いていないのかもしれない。白波賊の頭目である韓暹は、それほどに慌てた様子をあらわにしていた。
「落ち着かれませ、旦那様。討伐の官軍を撃ち破ったのです、許昌の小娘が動くのは当然でございましょう。いかほどの大軍を動員したのですか?」
「一千だッ!」
「……なんですって?」
 問いかけに応じて韓暹の口から出た答えは、明らかに楊奉の予測と異なっていた。
「わずか一千? まことですか?」
「ま、間違いない。つい先刻、都から連絡が来たわ。丞相曹孟徳は、白波討伐のために、麾下の兵一千を動かしたという。そ、それもただの一千ではなく、精鋭と名高い丞相の親衛隊であるというぞ」


 その韓暹の言葉に楊奉は思い当たるものがあった。
「虎豹騎……忌々しい小娘め。こちらの思惑を読んだか。いかに精鋭とはいえ、一千程度が都から離れただけでは、奴らは動かぬ」
 そう言うや、楊奉はようやく傍らに立ったままの娘に視線を向けた。
 その視線に気付き、徐晃は直立不動の姿勢をとる。
「公明、幸運でしたね。こうも早く挽回の機が来るとは」
「はい、母様。此度こそ、必ず……」
「ええ、もちろんよ。いかに曹家の精鋭といえど、例の策を使えば、再び血祭りにあげることは容易いでしょう。旦那様もお気を平らかに。皇甫嵩ひきいる二千の軍勢さえ撃ち破った我らです。今度の敵はその半分、恐れるべき何物がございましょうか。塩賊の陰助と朔北の兵力、この二つがあるかぎり、曹操など恐れるに足りませぬ」
「う、うむ、そうであったな」
 楊奉の言葉に、韓暹はようやく落ち着きを取り戻したように見えた。


 その韓暹の姿を、どこか冷ややかな眼差しで見据えていた徐晃に、楊奉は再び声をかける。
「公明」
「は、はい、母様ッ!」
「今度の敵将は生け捕りにする必要もない。その生首を許昌に送りつければ、丞相を騙る小娘も自身で動かざるを得ないでしょう」
 楊奉は嫣然とした笑みを我が娘に向け、いかにも楽しげに――言った。



「――皆殺しになさい。その屍山血河をもって、許昌の大軍をこの地に招き寄せるのよ」



 中華の覇権を巡り、中原に再び吹き荒れようとする戦乱の嵐。白波砦に陰々と響き渡る宣告は、その荒天を告げる前兆として、聞く者の耳朶を撃つ。
 韓暹はどこかうそ寒そうに首をすくめた。
 一方、母の令に応じて深々と頭を垂れた徐晃は、韓暹と異なり、今度こそ母の求めに応じようとの気概で全身を満たす。母の令に応じることが、己が身にどのような結末を招くかを半ば以上察しながら、その意思は少しも揺らぐことなく、少女の心身を衝き動かすのであった……





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/03 18:34

 塩賊、と呼ばれる者たちがいる。
 国家の専売品である塩を独自に製造、販売し、利益を得る者たちである。
 言うまでもなく、塩は人間が生きるために必要不可欠なもの。武勇に優れた豪傑であろうと、智略に優れた策士であろうと、塩なくしては生きていけない。塩にどれだけ高い税をかけても、庶民はそれを買わざるを得ず、国家が塩を専売することで得られる利益は計り知れないものがあった。


 
 そうやって国家が売る塩を官塩と呼ぶ。
 そもそも国が塩を専売品とするのは、それによって利益を得るためであり、官塩はそのための高い税が設けられている。
 無論、税を高くすれば民の不満もそれに比例して高まり、ついには王朝からの離反を招くことになる。安易な増税は、それを実行した権力者が自分の首をしめるに等しい、それは当然とも言える認識――であるはずなのだが。
 だが、往々にして権力者はそんな当然の認識を持ち得ない。たとえば、国家の要職を金銭でもって購わせた先の霊帝の時代、官塩は一時的に原価の二十倍近くに跳ね上がったのである。


 そういった官塩に対し、塩賊が扱う塩を私塩と呼ぶ。
 塩賊の中には官の横暴に対抗しようとする義心を持つ者もいたが、その大半は自分たちの利益のために塩を売りさばいているに過ぎない。当然、塩の値段も原価よりはかなり割高である。
 くわえて言えば、塩賊とは言葉のとおり賊――すなわち王朝に叛逆する者たちであり、討捕の役人に捕まれば処罰を免れない。それを匿う者、また塩賊と知りながら取引を行う者も厳罰に処されてしまう。
 それは塩賊という言葉がうまれた前漢の時代から、一時の中断はあったにせよ、変わることなく定められている漢の国法であった。


 しかし、それでも人々は争うように私塩を買い求めた。そういった諸々の事柄を考慮してなお、私塩は官塩よりはるかに廉かったからである。
 税収目当てで塩を専売品とした権力者たちがこの事態を座視するはずもなく、かくて朝廷と塩賊との長い対立は幕を開けたのである……



◆◆◆



 許昌。
 幾重にも伸びた街路の一つを、俺は典韋と共に歩いていた。
 俺が手に持っているのは料理の材料やらなにやらを詰め込んだ買い物袋である。
 典韋と二人、料理の話をしていたはずが、いつのまにか話題が塩賊とかいう物騒なものになっていました。とある姫君の名言「一番美味しいのは塩、一番まずいのも塩」という逸話を話してしまったことが原因らしい。
 廉い方の塩を買うだけで処罰されるとは、と俺はわざとらしく身体を慄かせる。
「むう、塩一つ買うにも命がけとは。おそるべし、許昌」
「あはは、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。最近は華琳様のおかげで塩の値段も安定してきてますから、あの人たちも大人しくしているみたいです」
 典韋はくすくすと笑って言った。もちろん俺が冗談で言ったことは、典韋も承知しているだろう。俺が許昌に来てから随分経つ。塩を買い求めるのは初めてのことではなかった。


「塩賊、ねえ」
 俺はわずかに首を傾げながら、その単語に関する知識を引っ張り出す。
 民衆の支持を得た賊。塩賊が凡百の野盗とは異なる理由の最たるはその事実。
 元の世界のことになるが、あの唐帝国を事実上滅亡させた黄巣の乱は、その指導者である黄巣を筆頭とし、塩賊を中心として起きた叛乱であった。つまるところ、情勢によっては一国を倒壊しうる力さえ有しているのだ、塩賊という連中は。
 かなう限り関わり合いになってはならない手合いであることは間違いない――間違いないのだが、同時に別の側面も存在する。


 典韋は手持ち無沙汰な様子で腕をぶらぶらさせながら、口を開いた。
「賊といっても、時にはありがたい存在なんですけどね。人は塩がなければ生きていけません。だからどんなに高くてもお塩は買わないといけませんが、前の皇帝陛下の時なんか、塩の値段が通常の十倍以上になったりしていましたから」
 典韋は曹操に仕える以前、青州黄巾党の山砦にいたが、必要に応じて付近の城市に買い物に行っていた。山砦では得られない食材などを買い求めるためである。そこで塩の値段を見ては、あまりの高さに眩暈を覚える日々であったとのことだった。
 もっとも典韋の買い物項目の中に、塩は入っていない。というのも、青州黄巾党は塩賊との関わりが深く、そちらからの援助を受けることが出来ていたからだった。典韋が「塩賊」という言葉を使わないのはそういう理由があってのことらしい。
 

 とはいえ、青州黄巾党と塩賊は、別に蜜月の仲というわけでもなかったようだ。
 典韋の顔に浮かぶ表情は、俺や関羽、あるいは曹純や許緒と一緒の時には見たことのない類のものであった。
「確かにあの人たちがくれる塩は、私たちには欠かせないものでした。でも、あの人たちは代償として私たちの武力を求めて、砦の皆はたくさん傷つきました。お爺様は関係を絶ちたかったようですが、そうすれば何万という人たちが暮らす山砦での生活が成り立たなくなってしまいます。だから――」
 だから、ずるずると塩賊との共生を続けていかざるをえなかった、というところらしい。



 どことなく元気のない典韋の様子を見て、俺は困ったように頬を掻こうとして――両手が塞がっているのに気がつき、無言で空を見上げた。
 雨続きだった昨日までの天気が嘘のように、雲一つなく晴れ渡った空。照りつける日差しは春の息吹を宿して暖かく、思わず顔がほころびそうになる。
 こんなうららかな陽気の中、典韋の表情が優れないのは、今の話題のせいばかりではないのだろう。
「やっぱり仲康がいないと寂しいか」
「え?! は、あ、いえ、あのその……」
 唐突な俺の問いかけに、典韋は目を見開いて、なにやらあたふたと慌てていたが、ほどなく観念したように、はぅ、と息を吐き、上目遣いで俺の顔を窺ってきた。
「……わかっちゃいます?」
 わからいでか。
「それはもう」
 俺が頷くと、典韋は恥ずかしそうに頬を掻いた。
「うう……あ、でも寂しいというよりは心配なんです。季衣、子和様にご迷惑をおかけしてるんじゃないかと」
「うーむ、仲康が敵兵相手に暴れすぎて、子和が後始末にてんてこ舞い、という意味でなら有り得そうだなあ」
「やっぱりそうですよね。季衣は手加減を知らないからなあ……」
 期せずして視線をあわせる俺と典韋。俺たちは北の方角に視線を向けると、同時にため息を吐くのだった。




 丞相曹孟徳からの命令を受け、虎豹騎を率いる曹純と、その配下である許緒が都を発ってから、はや十日。今のところ、これといった情勢の変化は起きていないらしい。
 虎豹騎は曹操軍の最精鋭、数は一千に及ぶ。これを率いる曹純は、戦の経験や武勲の数こそ僚将に劣るが、統率、武勇、さらには智略に到るまで、いずれも水準を越えた能力の持ち主である。この麾下に、膂力では曹操軍一、二を争うであろう許緒が付き従っているのだから、本来なら彼らの心配をするだけ損だと言えたであろう。


 しかし、今回、并州で待ち受けている相手は、賊徒とはいえ、皇甫嵩率いる二千の軍を、おそらくは全滅させた相手である。決して油断して良い相手ではない。
 白波賊という名のその敵は、黄巾党の一派であるという。それはすなわち、典韋たち青州黄巾党とも繋がりのある相手であることを意味する。
 俺と同じく、典韋も色々と白波賊について聞かれたらしいが、群小の一党派以上でも以下でもなかった、というのが白波に対する青州の認識であったとか。この点、曹純に述べた俺の見解と大きな隔たりはなかったことになる。


 曹純にも言ったが、やはり、白波賊はここ数年で急激に力をつけて来たとしか思われない。その裏に何かがある、と考えるのは、それほど的外れではないだろう。
 無論、曹純には俺の知らない情報もまわっているだろうから、俺の心配なぞ杞憂に過ぎないとは思うのだが、相手の得体が知れない分、戦地にある者たちを案ずる気持ちは消しようがなかった。


 俺がそんなことを考えて、眉間に皺を寄せていると、すぐ近くからなにやら楽しげな笑い声が。
 見れば、いつのまにかいつもの笑顔に戻っていた典韋が、にこにこと俺を見上げていた。
「ん、どうしたの?」
「あ、いえ」
 不思議に思って問いかけると、やっぱり笑顔のまま典韋が応えた。
「兄様が、子和様や季衣のことを本当に心配してくれてるんだなって思って、嬉しかったんです。兄様は、本当なら私たちとは敵同士のはずなのに」
「ああ、そういうことか」
 典韋の言葉に、俺は困ったように頭を掻こう――として、手が塞がっているのに気付き、首を傾げた。
 確かに典韋の言うとおり、玄徳様を主と仰ぐ以上、曹操軍は必然的に敵になる。その俺が曹純や許緒を案ずるのは、他の人から見れば、確かに妙に映ることだろう。


 とはいえ、今の俺の中に矛盾した感情はない。
「力のない人たちの笑顔のために戦う。それが玄徳様の戦う理由だからな。たとえ曹丞相が玄徳様にとって敵だとしても、今回の白波討伐が失敗に終われば、たくさんの人たちが苦しむことになる。その成功を願うことは、劉家軍の一員として恥ずべきことじゃないさ」
 だから、出来るかぎり曹純の力になるよう努めたのである。結果として曹家の力を増すことになるとしても、それを理由として協力を拒むことなど出来なかった。玄徳様にとって、自領であれ他領であれ、民は民。それを守るために動くことに、どうしてためらう必要があるのだろう。
 それに。
「許昌のみんなには本当に良くしてもらってるからな。相手が玄徳様でもないかぎり、協力は惜しまないし、その無事を願うのは当然だよ」


 たとえ、いつか必ずぶつかり合う相手だとしても。
 今この時、憎しみあわねばならない理由にはならないだろう。


 口にはしなかったその考えを、聡い典韋は敏感に察したようだった。俺の心に添うように、典韋はゆっくりと頷いた。
 その眼差しは真摯に輝き、幼い顔立ちには凛とした表情が刻まれていた。



◆◆◆
 


 同じ頃。
 司州河東郡。


 虎豹騎を率いて河東郡に踏み込んだ曹純は、すぐさま物慣れた兵士を斥候として四方に放った。すでに大方のことは河東郡の太守から報告を受けているが、相変わらず皇甫嵩と二千に及ぶ官軍の行方は杳として知れないという。
 であれば、みずから情報を集めるまでのこと、と曹純は考えたのである。
「随分と寂しいところですね、子和様」
 隣の許緒の言葉に、曹純は頷く。
「県城や解池のあたりならともかく、このあたりは中原とは名ばかりの辺境だからな。白波の賊徒どもにとって、格好の根拠地だったんだろう」
「そっかー、盗賊たちが巣食う場所に、好き好んで暮らす人はいないですよね。だからこんなに寂れてるんだ。でも、太守さんたちは何で賊を放っておいたんでしょう? みんなが迷惑してるってわかってるのに」


 許緒の言葉に、曹純は渋面をつくる。
「放っておいたというわけではないようだな。幾度か討伐隊も出したようだ。だが――」
 それは形だけのものではなかったのか、と河東郡の太守に会った曹純は睨んでいた。
 はっきりといってしまえば、朝廷に対し、これこのとおり賊徒の対策はとっています、という体裁を整えているだけの出兵であろうと考えていた。
 官軍は出征の都度、いくらかの賊徒は討ち取っているようだが、現在の状況を見れば、それが白波賊にとって、いささかの痛手にもなっていないことは明らかである。白波賊は自分たちにとって痛手にならない程度に、官軍に功績を稼がせていたのではないか。下手に大破して、より有能な太守や精強な軍を率いた将軍を呼び込んでは、彼ら自身が破滅してしまうからだ。


 しかし、そうだとすると、ここ最近の賊徒の活発な行動に不審が残る。曹純はそう考える。
 これまで、言ってしまえば無能な太守を飼って勢力を拡げていた白波賊が、どうして突然豹変し、官軍に対して挑発にも似た行為を行ったのか。皇甫嵩の行方が知れないという事実の裏面には、あるいは曹純が考えているよりも、もっと性質の悪い真実が潜んでいるのかもしれない――
「子和様? どうしたんですか?」
 考え込む曹純を見て、戸惑ったように許緒が問いかけた。
 その声に、はっと我に返った曹純は小さくかぶりを振った。今の段階で、これ以上考えても答えは出ないだろう。思考の泥沼にはまる愚を冒すべきではなかった。今、思い浮かべたことは、一つの可能性として胸にとどめておこう。
「……いや、なんでもない」
「そうですか?」
 なら良いんですけど、と許緒は不思議そうに首を傾げた。
 その仕草に、曹純が思わず笑みを誘われた、その時だった。
 

 慌しい馬蹄の轟きと共に、曹純の下に報告がもたらされる。 
「曹将軍、斥候が戻って参りました! 北西の方角より、こちらに向かう兵団を確認したとのことッ。数、およそ二千、黄巾党の旗印です!」
「……ふん、早速のお出ましか」
 瞬時に意識を将帥としてのそれに切り替えた曹純は、報告してきた兵士に確認をとる。
「敵将の旗は確認できたか?」
「中央に『韓』の牙門旗が見えたとのことです。おそらくは敵将は韓暹かと思われます」
「楊奉は出ず、か。あるいは別働隊を率いているか。北西以外の斥候は戻っていないな?」
「は、未だ」
「――よし」
 曹純は束の間、瞑目すると、次の瞬間、戦意に滾った目を見開き、麾下の将兵に号令を下す。


「賊徒とはいえ、一軍の将みずからの出迎えだ。座して待つは礼に失しよう。これより全軍、討って出るッ!」
 青を基調とした戦袍を纏い、佩剣を振り上げて吼える曹純の姿に、麾下の将兵から爆ぜるような喊声が湧き上がる。
 実績こそ少ないが、曹純の将としての器量に疑問を抱く者は、少なくとも徐州、淮南での戦役を共にした兵士たちの中には存在しない。将と兵の信頼関係はすでに十二分に築かれている虎豹騎であった。
 さらに付け加えれば、女性と見紛う曹純の凛然とした容貌も、虎豹騎の士気高揚には大いに役立っていた。黙っていれば深窓の令嬢といっても通じるような人物が、覇気もあらわに陣頭に立ち、刀槍を振るうのである。これに血潮を沸き立たせない者がいようはずもない。
 一部、将兵の間では曹純のことを「戦姫」と呼び、崇拝に近い感情を抱く者もいるほどなのだ――当人にとっては甚だ不本意なことであるのだが。




 ちなみにそのことも皆、承知しているため、決して曹純の耳にはいるところでは、その言葉を口にしない。ゆえに、曹純はそのことを知らなかったが、許緒はしっかりと知っていた。
 出征前、そのことを漏れ聞いた許昌のとある人物は、ため息まじりにこう呟いたものだった。
「世界は、こんなはずじゃないことばっかりだなあ……いや、本気で」
「うーん、子和様、女に見られるの、本気で嫌がってるから……こんなこと、聞かれたらどうなっちゃうだろう……?」
「想像したくもないわ。まあ、それはともかく――」
「あ、にーちゃん、話そらそうとしてるッ?!」
「はっはっは、なんのことですかな、許仲康殿?」
「うー」
 許緒が唸るような声をあげると、相手は困ったように頬を掻く。
「う、すまん。すまんが、実際俺に出来ることは何もないと思うんだけど」
「それはそうかもしれないけどー」
「わかった、わかった。仲康たちが帰るまでに何か考えておくから、それで勘弁して」
「うん、わかった。よろしくね、にーちゃんッ」
 半ば以上、本気でそう口にする許緒を見て、相手は苦笑ともとれる表情を浮かべる。そして――
「その代わりといってはなんだけど、仲康に一つ頼みがある」
 その言葉とともに、相手は表情を改めた。その表情に押されるように、許緒も口を噤む。そうせざるを得ないほどに、相手の顔は真剣そのものだったから。


「子和の身辺に、気をつけてあげてくれ。白波賊は、ただの野盗じゃない。戦場の外で、子和を狙ってこないとも限らないんだ。子和にも言っておいたけど、子和は責任感が強いし、あれで直情的だから、自分のことを軽く見てしまいそうだしな。だから、仲康が子和のことをみていてあげてほしい」
「――うん、にーちゃんの言いたいこと、なんとなくわかった。大丈夫だよ、子和様はボクがしっかりお守りするから」
「ああ、頼む。それと、もしこれから言う名前の人が敵にいたら、本当に気をつけてくれ。多分、曹家の陣営の中でも、その人とまともにやりあえる人はほとんどいないと思うから」


「えッ?! それって、春蘭様や秋蘭様でも勝てないってこと?」
「む、いや、どうだろう?」
「どうだろうって、にーちゃん、その人のこと知ってるんじゃないの? 知ってたら大体のことはわかるでしょ?」
「知ってるというよりは、噂を聞いたことがあるって感じなんだ」
 正確に言えば違うんだけど、と呟くように言ってから、さらに相手は言葉を続けた……




 曹純の号令に従って動き出す虎豹騎の軍勢。
 その指揮官の傍らで馬を駆けさせながら、許緒はこっそりと呟いた。
「姓は徐、名を晃、字を公明――だったよね。うん、ちゃんと覚えてる覚えてる。でも、にーちゃんもおっかしな人だよねー。男か女か、年はいくつか、何にもわかんない人に、どうやって注意しろって言うんだろ?」
 それを指摘した時の相手の困りきった顔を思い出した許緒の顔に、戦いの前とは思えない和やかな笑みが浮かぶ。
 だが、馬蹄の轟きの中、すぐさまその表情は引き締められ、虎豹騎随一とも噂される小さな武人は、さらに馬脚を速めるのであった。





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/03 18:33

  
 司州河東郡。
 その北方に広がる平野は、時折、野生動物の姿を見かける他は、代わり映えのしない景色が広がる索莫とした土地であった。
 しかし今、荒涼とした大地は、千をはるかに越える人馬を迎え入れ、かつてない賑わいを呈していた――刀槍の響きに血泥が混じり飛ぶ、殺伐きわまりないものではあったが。




「曹将軍、賊軍は陣形を円形にかえ、周囲に大盾を配置してこちらの騎射に対抗する構えと見えます。その中央に敵将韓暹の旗を確認!」
 配下の報告を、肉眼でも確認した曹純は、わずかに目を細めて口を開く。
「――円陣を組んで防備をかため、こちらの消耗を待つか。正解だ、わずか一度の激突でこの判断を下すとは、賊将とはいえ千を越える将兵を統べるだけはあるということか。しかし――」
 実のところ、曹純が気にしているのはそこではなかった。
 視界に映る白波賊の陣の外周には、大人の身長ほどもありそうな大盾がずらりと並び、こちらの弓撃を阻んでいる。その背後に控える賊兵たちは、おそらく白波賊の名前の由来なのであろうが、統一された白衣白甲の軍装をまとって曹純率いる虎豹騎に対していた。


 敵の出鼻を挫こうとした曹純は、長躯、部隊を進出させると、韓暹率いる白波賊が予期できない速さで接敵、これに攻撃を加えた。
 虎豹騎の神速ぶりに白波賊は目論みどおり動揺するが、それも長くは続かなかった。当初、曹純が想定していたよりも、敵に与える打撃が少なかったからである。
 その理由は、敵軍の、賊徒とは思えない兵備の充実ぶりにあった。その軍容を見渡せば、どこの正規軍と戦っているのかと唖然とさせられるほどである。


 剣や槍、戟、あるいは弓矢といった武器はもちろん、甲冑であれ盾であれ、金銭さえあれば十や二十の数を揃えるのは誰でも出来るだろう。しかし、それが百、あるいは千の数に至れば、個人で揃えられるものではない。
 ましてそれが統一された軍装ということになれば、相当数の資材と職人、そして時間が必要になる。当然、そんな動きがあれば、官軍が気付かないはずはないのだ。白波賊がそれを可能としたのであれば、それは――


「……まあいい。今は賊軍を討ち破ることが先決だ」
 曹純はひとりごちると、再び敵陣に目を向ける。
 騎馬を用いるの利は機動力にある。だが、賊軍が堅陣の中に貝のごとく閉じこもってしまえば、その利が大きく削がれてしまう。
 それでも遠巻きに騎射を続けていれば、一定の効果は得られるだろうが、賊軍の防備を見るに、遠巻きに矢を射掛けているだけでは痛打を与えるのは難しい。くわえていえば、虎豹騎とて無限の矢を持っているわけではない。矢の無駄うちは可能な限り避けたかった。


 わずかに黙考した後、曹純は新たな作戦行動を指示する。
 これに従って動き出した虎豹騎は、なおしばらく円陣の内に篭る白波賊に騎射を浴びせ続けた。当然、白波側からも猛然と矢が応射される。単純な数だけ見れば、賊軍は官軍の倍である。雨のような矢にさらされ、騎馬で駆け回る虎豹騎の将兵からも被害が出始めてきた。
 すると、虎豹騎は馬上、弓を下げ、武器を刀槍に持ち替える。矢数が少なくなってきたか、動かない戦況に業を煮やしたか、あるいはその両方か。いずれにせよ、この作戦の変更はほとんど時をおかず、賊軍の知るところとなる。





 白波賊を率いる韓暹にとって、これは思う壺であったといえる。
 元々、白波は数で勝っているのだ。くわえて、装備の面でいっても官軍に見劣りするものではない。そのことは短いながらも、虎豹騎とぶつかりあった時間が証明してくれた。


 であれば。
 別に楊奉の策に乗らずとも、敵を討ち破ることは出来るのではないだろうか。  
 

 ふと、脳裏をよぎったその考えに、韓暹は強く魅かれる。
 見れば、攻勢を仕掛けてきた官軍の騎馬隊に対し、白波軍は持っていた盾を捨て、長槍を手にとって、槍先を揃えてつきかかっていく。官軍の作戦はこちらの予測を越えるものではなく、こちらの素早い対応に相手の部隊から動揺の気配が立ち上る。
 再度の衝突。
 先刻は押し負けてしまったが、それは奇襲であったからこそ。正面からの攻防であれば、おさおさ敵に後れをとる白波軍ではない。事実、官軍はこちらの堅陣を突き崩すことが出来ず、いたずらに死傷者を増やすばかりであった。


 その戦況を見て、韓暹は決断を下す。
「李、胡の両将に伝令。両翼を前進させ、官軍を包囲しろと伝えろ」
「は、かしこまりました!」 
 韓暹は周囲が考えているほど底の浅い人物ではない。白波陣営にあって、自らの影響力の減退に気付いていないわけではなかった。
 楊奉の存在と、その智略によって勢力を拡げていることを認めつつも、自分の働きも捨てたものではないと考えている韓暹にとって、中華全土にその名を知られる丞相曹孟徳の子飼の精鋭を独力で討ち破るという武勲は、強い輝きを放って見えたのだ。


 中央の部隊で敵の攻勢を受け止めている間に、両翼の部隊で敵の左右と後方を塞ぐ。敵を包囲してしまえば、騎馬の機動力を活かしようもない。敵がその状態を嫌って包囲網を突破しようとすれば、そちらの方面を故意に開け、左右と後方から追い討てば、労せずして勝利を得ることが出来るだろう。
 その想念を。
「頭目、官軍の連中、退いていきますぜ。追撃しますかい?!」
 眼前の光景が肯定する。


「さすがに易々と包囲させてはくれんか。だが、もう遅いわ!」
 韓暹は高々と愛槍を振り上げると、声もかれよとばかりに号令を下した。
「全軍、突撃せよ! 都でぬくぬくと戦ごっこをしている若造どもを皆殺しにしてやれィッ!!」
 湧き上がる喊声。
 刀槍の光が日を反射して煌き、千を越える甲冑の鳴る音が木霊して、あたりは先刻にもまして騒然たる雰囲気に包まれる。
 統制がとれているとはいえ、白波軍は賊徒の集団であり、守りの戦より攻めの戦を好むのは当然のこと。作戦で押さえつけられていた闘争本能をむき出しにして、白の荒波は官軍を飲み干さんと侵攻を開始するのであった。 





 自ら本隊を率い、殿軍をつとめていた曹純は、鋭気に満ちた賊軍の突進を余裕をもって受け止める。否、それどころか、その顔には苦笑さえ浮かんでいた。敵指揮官の豪語が風にのって、かすかに届いてきたからであった。
「動いたか――しかし、戦ごっことは言ってくれる。一度、模擬戦で元譲様(夏侯惇の字)の相手をしてみてほしいものだ。あるいは姉上(曹仁)でも構わない。間違っても、ごっこなどと言える代物ではないのだが」
 その曹純の言葉に、傍らに控えていた許緒がうんうんと頷いて同意を示す。
「春蘭様たち、手加減知りませんからねー……まあ、それは子和様もなんだけど」
 後半はごにょごにょと口の中だけで呟く許緒であった。


 訓練や統率の厳しさで言えば、曹純は何気に先の二人に続く。それが曹操軍内部での認識である。もっとも、曹純自身にその自覚は薄かった。
 というのも、曹純麾下の虎豹騎は、長の命令ならばとどんな猛訓練でも喜んでこなしてしまうので、実際の内容に比して、配下の消耗が目立たないのだ。曹純はそんな配下の優秀さを見て、さすがは曹家の最精鋭だ、と自分に預けられた部隊に感嘆こそしても、そこに自身の指揮官としての適性を見ることはなかった。
 しかし、傍から見れば、虎豹騎の猛訓練は、それを課す将軍も、それをこなす兵士も、とてもとても尋常とは思われない。曹家の最精鋭『虎豹騎』という言葉は、ただ優れた将兵を集めただけの部隊に冠せられる称号ではないのである。


「ん、何か言ったか、仲康?」
「いッ? な、なんにも言ってないですよ」
 あははー、と笑う許緒を見て、曹純は首を傾げる。そんな曹純を見ながら、許緒はつとめてさりげなく――けれど、内心ではかなり必死になって敵軍を指差した。
「ほ、ほら、子和様、のんびりしてられないですよ、もうすぐあいつらここまで来ちゃいます!」
「あ、ああ、そうだな?」
 違和感に気付いたのか、なおも不思議そうに自分を見つめる曹純から、許緒は懸命に視線をそらす。今の指揮官の適性云々の話をすると、最終的に一つの事実に言及せざるを得なくなるのだ。


 すなわち、曹純の外見も、適性の一つだという事実を。しかも、結構重要な。


 言えない、絶対言えない。
 内心でそう呟く許緒であった。



 一方の曹純はなおも何か聞きたげな様子であったが、賊軍がせまり来るのは事実である。曹純は意識を切り替え、将帥としての声で配下に命令を下した。
「本隊は二射した後、ゆっくりと後退。つかず離れず戦い、敵の本隊をさらに釣りだすのだ。続けて先行している部隊に伝令。指示どおり二隊に分かれ、一隊は斜陣を形成し、待機。我らが敵本隊を誘導した後は、共にこれにあたり、賊の勢いをそぎ落とす。もう一隊は斜陣後方でこれも待機、敵の動きが止まった後、その横腹を食い破るべく、準備を怠るなと伝えよ」
「承知! 伝令、出ます!」


 蹄と甲冑の音が交錯する激しい戦いの最中にあって、整然とした秩序を保って戦場に屹立する虎豹騎。
 その指揮官は、眼前の戦いの勝利を確信しつつも、胸中に湧き出る黒雲の存在を意識せずにはいられなかった。今回の戦いで受けた被害は、曹純の考えよりも大分大きかったのだ。
「戦の進退はともかく、やはり兵備の充実ぶりが尋常ではないな。一介の賊軍がなせることではない。黄巾党の蜂起の裏には朔北の蠢動があったと聞くが、今回も同じなのか……?」
 その呟きは、間近に迫った賊軍の喊声に圧され、傍らにいた許緒の耳に、わずかに届くのみであった。 
 


◆◆◆



 司州河南郡、許昌。
 漢王朝の首府たるこの地にあって、北原で繰り広げられるの刀槍の響きも遠いものである。
 許昌で暮らす人々の多くは白波賊の名を知らず、あるいは知っていても気にしてはいなかった。天下国家を運営し、治安を守るのは役人たちの仕事であり、そのために高い税を払っているのだ。
 自分たちは日々の営みに精を出す権利があるし、実際、発展著しい都は繁忙のただ中にあって、生きる糧を得るために、皆、休む暇も惜しんで立ち働いていた。血が流れることこそないが、これも一つの戦いの形といえるであろう。



 大量の物資を運搬する際、便利なのは陸路よりも水路である。中華帝国における主要な都市の多くが水利に恵まれた土地に存在するのも、これによるところが大きい。
 実質的に許昌建設を取り仕切った荀彧も、当然、そのことに留意している。許昌の内外には大小の水路が張り巡らされ、物資の流通が滞らないように配慮されていた。


 その水路の脇を、日もまだ昇らぬ時刻から、幾人かの男たちが歩いていた。彼らの雇い主が、水路を用いて届く荷物の受け取りを命じたからである。
「今度の荷は洛陽からだっけか?」
「ああ、雇い主はそういってたな。結構な量だってことだ」
「そらまあ、これだけの人数に声をかけてるのを見りゃわかるけどよ。しかし、洛陽からの荷って何だろうな。あそこは城も街も焼けちまって、もうほとんど人がいないって聞いたが」
「そうかあ? 俺はまだ十万やそこらは残ってるって聞いたぞ。もっとも、行くあても財産もないようなのばっかりらしいけど……」
 そう言う男の口から、大きなあくびが漏れる。たちまちそれは周囲に伝染していき、男たちは互いに目をみかわして肩をすくめた。


「……眠い」
「同感だが、荷を運ぶ時はしゃっきりしろよ? うっかり手をすべらせて、中のものを壊してしまったなんていったら、洒落にならんぞ」
「へいへい。じゃあちょっくら顔を洗ってくらあ」
 そう言って、男は上体を左右に揺らしながら、水路に近づいていく。その姿を見た同僚は、あれは眠気というより酒気のせいじゃないか、と呆れ気味に考えたが、いずれにせよ冷たい水で顔を洗えばすっきりすることは間違いあるまい。
 そう思いつつ歩いていたのだが、当の本人がいつまでたっても戻ってこない。何をぐずぐずしてるんだ、と呆れて振り返れば、先刻と同じ位置でなにやらぼんやりと水面を見つめている。
「おい、何してんだ。時間もそんなに余裕はないぞ?」
 立ち止まって声をかけても、答える素振りも見せない同僚に、さすがに男たちが苛立ちを見せ始めた、その時だった。


「おいッ?!!」
 ようやく振り返った男から放たれた、短い声。だがそれは異様な響きをともなって先を歩いていた男たちの耳朶を撃つ。
 何かに促されるように、その場にいた者たちの視線が一斉に水路に向けられ、そして彼らは。


 水路の流れの中に力なく浮かびあがる、人身大の『何か』を、視界の中に捉えていた。
 


◆◆ 


 その日、政務を執るために丞相府の執務室にはいった曹操のもとに、夏侯淵が訪れる。その訪れ自体は曹操も望むところであったが、夏侯淵が携えてきた報告は、先刻食した朝の美食を台無しにする類のものであった。


「――知らせを受けた官吏が急行し、ただちに引き上げて身元を確認しようとしたのですが……」
 そこで夏侯淵は束の間、言葉をとめた。
 報告を聞いていた曹操は怪訝そうに配下を見やる。
「秋蘭、言いよどむなんてあなたらしくないわね?」
「……は、申し訳ありません。ご報告すべきと考え、お時間を割いていただいたというのに、いまだ華琳様のお耳にいれるべきか確信が持てずにおります」
「……秋蘭がそこまで言うからには、ただの刃傷沙汰、というわけではなかったようね」
 それは確認というより、夏侯淵に話の続きを催促する言葉であった。
 その言葉に、夏侯淵は頷く。元々、ここまで来て報告しないという選択肢はありえないのだから、と自身のためらいを半ば無理やり押しつぶす。


「引き上げられたのは、やはり遺体でした。そしてその身体には拷問をうけたと思しき傷痕があったのです――文字通りの意味で、身体中に」
 その報告に、曹操は眉一つ動かさなかった、少なくとも表面上は。
 しかし夏侯淵は、息のつまるような重圧を総身に感じていた。主の双眸から放たれる凍土のごとき視線が、自分に向けられたものではないことを承知してはいても、奥歯をかみしめて耐えなければならなかったのだ。
 しかも、まだ報告は終わったわけではなかった。


「くわえて、顔は完全に潰され、元の人相を確認することも出来ない有様でした。判明したのは、殺された者が男性であるということ。年齢は、遺体をあらためた医師によれば、おそらくは五十代、あるいは六十に達しているかもしれないと」
「……そう。秋蘭はその遺体、もう見たの?」
「は。ただの怨恨とも思えない節があるとのことで、衛兵の長から私のもとまで報告があがってきた時に一度、この目で確認いたしました」
「その上で私のもとに来たということは、秋蘭も衛兵の意見に同意と見て良いのね」
 曹操の言葉に、夏侯淵はゆっくりと頷く。


 武将、それも曹孟徳の片腕とも言われる夏侯淵である。戦塵に臨んだ経験は数え切れず、敵味方を問わず他者の死屍は見慣れたものと言って良い。
 当然ながら、件の遺体を見た時も取り乱したりはしなかった。ただ眉をひそめただけだ。凄惨な遺体の状況と、それを与えた相手に対する嫌悪ゆえに。
「傷口を改めましたところ、命に関わるほどの深さのものはありませんでした。おそらく、死因は血を失いすぎたことでしょう。医師によれば、全身の傷から、おそらく、相当の長時間にわたって痛めつけられたものと思われる、と。くわえて、おそらく途中からはほとんど意識がなかったはずだとも申しておりました。それがまことであれば、意識を失った相手を、それでも拷問し続けたことになります」
 秘密を聞きだすためなら、意識を失った相手をそこまで痛めつける必要はない。殺してしまっては元も子もないからだ。
 恨みを晴らすため、という可能性はないでもないが、ここまで相手を痛めつけるほどの憎しみは、一体どれだけの年月があれば醸成されるのだろうか。


 それよりはもう一つの可能性の方が、はるかに説得力がある。夏侯淵はそう考える。すなわち――
 と、それを口にしかけた夏侯淵に先んじて、曹操が口を開く。
「みせしめ、か」
「御意」
「みせしめであれば、誰が死んだのかを明らかにする必要があるわ。けれど、この遺体は顔を潰されていた。逆に言えば、これだけ念入りに痛めつけておけば、顔はわからずとも、相手に意図は伝わるという確信があったことになるわね、この残暴をなした輩は」
「は、仰るとおりです。付け加えて申し上げれば、殺すまでの過程を見ても、殺してからの処理を見ても、一個人が出来ることではなく、冷徹に――人を、殺すために殺すことができる集団が、この許昌に潜んでいることになります」
 そして。
 あえて夏侯淵は口にしなかったが、もう一つの事実がある。この虐殺をなした連中が曹操の膝元というべき許昌でこの挙に及んだ以上、それはすなわち、漢王朝の主宰者である曹操など眼中になしと公言したに等しいということである。


 丞相府の一室に沈黙が満ちる。
 静穏とは無縁の、音なき怒気の滞留に、夏侯淵の鼓動は知らず早まっていく。
 窓に歩み寄り、此方に背を向ける主の背。窓から外を見れば、先刻までの晴天は一変し、にわかに沸き起こった雷雲が街路を暗く覆っていく。
 それはあたかも主の胸中をあらわすかのようだ、と内心で夏侯淵が呟いた時。
 彼方で遠雷の轟く音がした。


 
◆◆




「さっきまで晴れてたのになあ……ついてない」
 一天にわかにかき曇り、遠くから雷鳴が轟いている。
 屋敷を出る時は、燦燦とした陽光が降り注いでいた許昌の街路は、今、時ならぬ荒天に暗く沈みこんでいた。
 この地の天候に詳しいわけではないが、これはまず間違いなく、すぐに大雨が来るだろうと思われた。
「そうですね……あ、兄様はここで戻ってください。私なら一人で大丈夫ですから」
「いえいえ、そういうわけにはいきませんのことよ」
 あえて珍妙な言葉を使って、典韋の申し出を速やかに却下する。
「でも……」
「ふ、子供は大人の言うことを聞くものだ」
 今度はふわりと前髪をかきあげながら言ってみる。我が事ながら、死ぬほど似合ってねえです。
「私と兄様、三、四歳くらいしか違わないんじゃ……?」
 あえて見なかった振りをしてくれる典韋の優しさに、心の中で涙する。
 まあ、それはともかく。
「ここで帰ると雲長殿にしこたま怒られるんで送らせてください」
「……なんで送ってもらう側の私が、頭を下げられているんでしょうか」
 典韋の顔に苦笑が浮かぶ。ただ、そこにはほんのわずかに安堵の色があるように思えたのは、多分、俺の気のせいではないだろう。





 事の起こりは今朝にまでさかのぼる。
 早朝、水路から引き上げられた惨殺死体の噂は、日が沖天に輝く頃には、許昌中に知れ渡っていた。
 許昌は百万に達しようかという人々が住まう都市である。朝廷の尽力によって治安は良く保たれているが、それでもこれだけの数の人々が生活しているのだ、喧嘩や盗み、刃傷沙汰が絶えることはなかった。
 そして、それらが高じた挙句、人死が出る事態も決してめずらしいものではない。


 だが、それが全身を切り刻まれ、顔まで潰された死体であるとなれば話はかわってくる。その陰惨な殺し方と、そこに至った裏面の事情に思いを及ばせた人々は、うそ寒そうに首をすくめ、心当たりがない者も、なんとなく周囲を見渡してしまうのであった。
 何で俺がそんなに詳しいかというと、討捕の役人が屋敷にやってきて教えてくれたからである。無論、親切心で、というわけではない。はっきり言えばアリバイを調べるためだ。
 といっても、いきなり犯人扱いされたわけではなく、参考までにと、ごく簡単に昨日から今日の未明にかけての行動を問われたに過ぎない。どこぞの刑事ドラマでも見ている気分だったが、もし俺が関羽の屋敷に居住する身でなければ、この程度ではすまなかっただろう。
 朝廷の軍に刃向かったという前歴から、役所に連行され、厳しい尋問を受けていたであろうことは想像に難くない……などと俺が考えていると。


「んなことさせるわけないやろ。一刀や雲長がそんなことできるわけあらへんもん」
 そう口にしたのは屋敷を訪れていた張遼で。
「そうですよ、それは、えっと杞憂というものです、兄様」
 同意の頷きを示してくれたのは典韋であった。
 ちなみに典韋が来ていたのは、いつもどおり料理をつくるためである。一応、怪我は治ったのだが、典韋はかわらず来てくれているのだ。ありがたいことである。ただ、典韋のことだから、朝の一件を伝え聞いて、関羽や俺を気遣ってくれたという理由も皆無ではないだろう。
 一方の張遼は、いつものごとく関羽と稽古するために来ただけだ、とのことだったが。
「明らかに雲長殿を気遣ってお越しになっておられるのがみえみえの張将軍でありましたとさ」
「めでたしめでたし♪」
「ち、違うっちゅーに! べ、別にうち、雲長のこと心配なんてしとらんもん。悪来(あくらい)も悪乗りするんやない!」
 頬を染めていっても説得力がありませんですよ、張将軍。
 俺はにやにやと、典韋はにこにこと、あの張文遠の慌てぶりを愉しむのであった。


 ちなみに悪来というのは、典韋のあだ名である。古く殷の時代に剛力をもって知られた豪傑であり、その小さな身体で曹孟徳の牙門旗を支える典韋に、曹操みずからが与えた栄誉ある名であった。
 典韋はいまだ字を定めておらず、悪来をもって字にしようかと考え中だと、感激おさまらぬ表情で以前俺に語ってくれたことがあった。


 それはさておき。
 劉家軍に属するとはいえ、今の関羽は漢帝の臣として曹操に従う立場にある。俺はそのおまけに過ぎないが、それでも立場としては似たようなものであり、前歴が怪しいからとて役人が独断で捕えられるものではない、というのが張遼と典韋の言い分であった。
 曹操の麾下として勇名高き張文遠と、丞相直属の親衛隊である典韋のお墨付きである。なるほど、俺の心配は典韋の言うとおり杞憂に過ぎなかったらしい。 


 その後、関羽と張遼は軍務のために官衙に出向くことになった。
 河北と淮南の脅威に加え、白波賊までが跳梁しはじめたことで、関羽が前線に出る日も近いのかもしれない。
 そのため、関羽は俺に典韋を送るように命じたのである。
 いまさら言うまでもないが、武の面で俺は典韋に遠く及ばない。ならば護衛など不要なのかといえば、そんなことはない。どれだけ強かろうと、典韋もまた一人の女の子なのであり、朝の凄惨な事件を伝え聞いて、何も思わないはずがないのだから――とは俺の考えではなく、出掛けの関羽の言葉である。


 それを聞いて、俺はただ頷くしかなかった。
 なるほど、典韋は曹操の親衛隊の一員として戦場に出て、敵味方を問わず多くの死を見てきたに違いないが、だからといって怖いもの知らずなわけではない。戦場にあって互いに生死を賭した戦いの末に命を奪うならばともかく、抵抗のできない人間を切り刻んで殺すという行為を平然と受け止められるはずもない。
 その程度のことに、関羽に言われるまで気付かないとは。もし関羽が言ってくれなければ、平然と典韋を一人で帰らせていただろう。あまりの不覚に、頭を抱える俺であった。









 瞬く間に黒雲に覆われていく許昌の街並み。
 本格的に天気が崩れる前に典韋を送り届けねば、と足を速めようとした俺の目に奇妙な人だかりが飛び込んできた。
「なんだろうな、あれ」
「なんでしょうね?」
 典韋も首を傾げている。 
 何やら騒然とした雰囲気が伝わってくるのだが、俺は立場が立場なだけに厄介事には極力かかわりたくない。俺が問題を起こせば、それは必然的に関羽にまで及んでしまうからである。


 許昌で過ごしたこの数月の間、関羽は典韋に料理を習ったり、張遼と稽古をしたりと、一見落ち着いて暮らしているように見えた。
 しかし、その実、焦がれるように玄徳様を思っていることは明らかで、同じ屋敷で暮らしている俺は、哀しげに南の方角を見やる関羽の姿を幾度も目撃している。
 かなうなら、すぐにでも玄徳様の下へと戻りたい関羽が、この地に留まっている理由はいまさら語るまでもないだろう。その一因となってしまった俺が、ここで問題を引き起こそうものならば、それは関羽を縛る鎖の数を更に増すことにつながりかねないのである。


 そんなわけで、触らぬ神にたたりなし、とその場を通り抜けようとした俺だったが、どうやらこの地の神様は、触らなくてもたたってくるらしい。
 悲鳴と共に人だかりが割れ、一人の若者が俺たちの行く手に倒れこんできたのだ。そして、若者を案じる声をあげながら、その傍らに駆け寄る女性。何故か服装が少し乱れているように見える。


 そんな二人を見て、驚きの声をあげたのは、俺ではなく、隣にいる典韋であった。
 どうやら典韋は若者の方と知り合いであったらしい。俺といくらも違わないであろう若者の名を呼ぶ典韋。しかし、若者は苦痛にうめくだけで答えられず、隣にいる女性も驚き慌てるばかりで説明どころではない。
 すると、彼らに続いて人だかりを割って、数名の男たちが姿を現した。


「なんだ、おまえら。邪魔をするなッ」
 姿を現したのは許昌の治安を司る衛兵であった。数は四人。いずれも筋骨たくましい身体つきをしており、居丈高にこちらを睨みつけてくる。
 見るからに剣呑な雰囲気をかもし出す衛兵たちを見て、俺は内心でため息を吐いた。さっさと立ち去りたいところだが、典韋の知り合いが関わっているとなれば、そうも言っていられない。


 一体、何事が起こったのか。
 そう問いかける俺に、長と思しき兵が答えを返してきた。
「先ごろ、この都で奇怪な事件が起こったことは知っていよう。あのような残虐をなす者を放置しておくわけにはいかず、糾明のため、そして同様の惨劇が起きぬよう警戒を続けていたところ、不審な者たちを見つけたのでな。問いただしたところ、反抗しおったので捕縛しているところだ」
 その侯成の言葉に、典韋は慌てたようにかぶりを振った。
「不審な者って……この人は青州兵、華琳様の配下ですよ。そんな、捕まるようなことをするはずがありません」
「青州兵……つまり元は黄巾賊であった輩だろう。その事実をもって潔白の証明にはならん。それにこやつがわしらに反抗したのは事実、わしは役儀によって行動しておる。丞相閣下の寵愛篤しとはいえ、一介の親衛兵が口をさしはさむことではないッ!」
 衛兵は典韋のことを知っているようだが、遠慮するつもりはないようだ。
 その語気に、典韋は息をのむ。そして、問いかけるように若者に視線を向けると、若者は苦痛に表情を歪めながらも、必死に首を横に振った。


「違う、こいつらが、俺と、俺の連れに難癖をつけてきたんだ……」
 その声に応じるように、傍らの女性が何度も首を縦に振る。
 目鼻立ちの整った綺麗な人だ。女性らしい優美な曲線を描く胸と腰あたりに目を向けてしまうのは男のサガというものか……って、そんなことを考えている場合ではなかった。
 若者の物言いに、衛兵たちから怒気が立ち上る。
「盗賊上がりがなめた口を。その性根、詰所で叩きなおしてやる」
「おうよ、青州兵といえば誰もが遠慮すると思っているなら、思い違いも甚だしいわ」
「その女も捕縛しろ。何か知っているかもしれんからな」
 そういって下卑た視線を女性に向ける衛兵たち。女性は嫌悪の表情を浮かべ、その視線から逃れようとするが、そうはさせじと衛兵の一人が手を伸ばし、女性を引き寄せようとする。


 その手を――
「はい、それまで」
 すすっと身体を割り込ませ、俺が遮る。
 一瞬、衛兵の顔に驚きの表情が浮かびあがり、それはすぐに険悪な視線となってこちらに叩きつけられた。
「なんだ、邪魔立てすれば、貴様もただではおかんぞ?!」
 その問いに、俺は小さく肩をすくめることで応えた。目線で典韋を促し、二人を衛兵たちから引き離す。
 それを見て、こちらの意図を悟ったのだろう。たちまち、俺たちの周囲を衛兵が取り囲んだ。
「お前も、奴と同じ青州兵か。やはり貴様ら、何かたくらんでいたのだな」
「いやいや、私は劉家軍の一員。青州兵とは関係ないですよ」
「なに……劉家軍?」
 その言葉に、何か思い当たることがあったのだろう。衛兵の顔に当惑の色が浮かぶ。
 だが、すぐにその当惑も居丈高な表情に塗りつぶされた。
「劉家軍といえば、朝廷に叛した逆賊ではないか。都にいられることさえ僥倖というべきだろう。職務の邪魔をするというなら、貴様をひっとらえることも、わしらには出来るのだぞ?」


 その威迫に直接返答することはせず、俺はにこやかに口を開く。
「職務の邪魔をするつもりはありません。ただ、確たる証拠もなく、以前は賊であったという理由でこの若者を犯人扱いするのであれば、再考をお願いしたい。それは民の目には横暴と映り、すべての青州兵に要らぬ不安を撒き散らすことになる。曹丞相の恩威を損なう行いではありますまいか」
 権威を笠に着て横暴を働く者を目にするのは、これがはじめてではない。許昌でも、あるいは許昌以外でも、そういった者は幾度となく見かけたものだ。
 そういった者たちは、理で説き伏せるよりも、上位者の威で押さえつける方が良い、というのが俺の見解だった。
 無論、それでは根本的な解決にはつながらないが、まあ俺がそこまで世話を焼く理由はないだろう。そのあたりは曹操陣営で何とかしてもらうとして、今はこの場をやり過ごすことを第一としなければ。
 しかし、許昌でこんなわかりやすい横暴を見るとは思わなかった。本当に曹操の麾下か、こいつら。


 俺の言葉に、衛兵たちが明らかに怯んだ様子を見せた。
 これがただの庶民であれば俺の言い分は一笑に付されただろうが、俺は劉家軍の一員、すなわち関羽と深いつながりがある。俺から関羽へ、関羽から曹操へ報告を伝えることは不可能ではない、と衛兵たちは考えたのだろう。まして、この場には親衛隊の一員である典韋がいるのだから尚更だ。
 実際に取り調べられた時、自分たちが正しいと主張しえる根拠を持っていれば慌てる必要もないのだが――まあ、そういうことだった。


 とはいえ、ここで引き下がれば物笑いの種になるのも事実。さて、どうくるか、と考えていると、衛兵の一人が急き込んで口を開いた。
「その男が、我らの取調べに抵抗したのは事実。それを捕えることに問題などあるまい」
「見に覚えのない罪で捕えられようとしたのなら、抵抗してしまうのは致し方のないことではありませんか? ましてこの場にいるのは自分だけではないのですから」
 俺は女性の方に視線を向け、すこしだけ間を置いてから、意味ありげに衛兵たちを振り返った――言いたいことは伝わっただろう。その証拠に、衛兵たちの顔に忌々しげな顔をしているし。


 それでも、まだ衛兵たちは矛をおさめようとはしなかった。
「しかし、そやつらが抵抗した事実は事実。それを等閑にするわけにはいくまい」
「謝罪せよ、ということですか?」
「官兵に刃向かったのだぞ、ただの詫びで済むはずがあるまい。ふん、そうだな……」
 次の瞬間、衛兵の顔には、良いことでも思いついたと言いたげな、どこか嗜虐的な表情が浮かぶ。
「二人そろって、地面に頭をこすりつけるくらいのことはしてもらおうか。それとも三遍回ってわんとでも吼えるか? そこまですれば、先の抵抗に他意がなかったと認めてやっても良いぞ」



 その言葉を聞き、俺は知らず顔をしかめた。小人というのはどこにでもいるものだが、これは座視しえるものではなかった。
 だが、俺が反論しようと口を開きかけた途端、別の人間が割って入ってきた。青州兵の若者である。
「……俺がそうすれば、この場を去ってくれるのか?」
「無論だ。貴様があの件と何も関わりがないのであれば、出来ぬとは言わぬよな?」
「……わかった」
 そう言うと、若者はゆっくりと跪く。その動作が鈍いのは、身体の痛みか、心の痛みか。
 俺と典韋は咄嗟に止めようとしたが、若者はかぶりを振って答えた。
「これ以上、君たちに迷惑を……ぐ、かけるわけにはいかないだろう」
 そう言うや、誇り高き青州兵の一員である若者は頭を垂れた。深く、深く。決して地面に付けはしなかったが、傍目にはほとんどわからないほどに深く。 



 周囲の者たちは、どこか痛ましげにその光景を見やっている。
 後味が悪いが、これで終わりか。この場にいるほとんどの人間がそう考えたに違いない。
 だからこそ。
「どうした、次だ。わんと吼えてみせよ――言ったであろう、二人揃って、と」
 そういって、衛兵が催促するように女性に視線を向けた時。
 咄嗟にその前に立てたのは俺だけだった。



 若者が激昂するより早く。
 典韋が憤激するより早く。
「おお、これは失礼した。確かに私もあなたがたに反抗したと言える。謝罪をするのは当然ですね」
 俺はさっさと衆人環視の中に進み出て、若者の隣に並んだ。
「あんた……」
 事態がつかめず、戸惑ったような声を向けてくる若者に、ぱちりと右目を閉じてみせる。
 そして、衛兵たちが何か言うよりも早く、くるりとその場で回って見せた。


 一回目。ゆっくりと、見せ付けるように。
 二回目。さらにゆっくりと、丹田に力を込める時を稼ぐ。
 三回目。終わると同時に、面差しを伏せ、頭を垂れる。 


 あたりがしんと静まりかえる。
 何が起こったのかと、きつねにつままれたような顔をする人々。
 その中には先の下卑た要求をした衛兵も含まれていた。俺の行動に理解が追いつかなかったのだろう、その手は所在なさげに宙を漂い、本人は戸惑いもあらわに一歩、俺に近づいてきた。



 ――その眼前に、叩きつけるように。
 ――俺の口から勁烈な響きが迸った。



「ひィッ?!」
 悲鳴じみた叫びと共に、眼前の衛兵が地面に崩れ落ちる。
 さすがは母さん直伝の必殺技、控えめにしても十分な威力である――まあ「わん」と叫ぶのに、必殺技を使うのもどうかと思うが、それは気にしないことにしよう、うん。



◆◆



 直後、その場に広まった笑いは嘲笑の類ではなかった。
 事態を把握して笑ったのではなく、地面にしりもちをついた衛兵の格好が、ただ単純に可笑しかったのだろう。
 だが、その事実は、笑いを向けられた当の本人にとって、いささかの慰めにもならなかった。
「貴様ッ!」
 眼前の相手は、立ち上がりざま、佩剣を抜いて俺に突きつける。
 そして慌てたようにそれにならう周囲の衛兵たち。
 今度、周囲からあがったのは笑いではなく悲鳴であった。


「ふざけた真似をしおってッ!」
「さて、私は言われたとおりのことをしただけですが、何がお気に召さなかったのでしょうか」
 言いながら、周囲に視線を向ける。衛兵の数は四人。いずれもすでに剣を抜いていた。
 一方の俺は剣など持っていない。当然のように勝ち目はなかったが、それでも落ち着いている自分を知って、俺は小さく肩をすくめる。淮南での戦いで、俺は多くのものを失ったが、代わりに得たものも少なくなかったようだ。


 ともあれ、これで衛兵たちの注意は完全に俺に向けられた。あとは典韋に女性を逃がしてもらい、俺はこちらの若者を、と考えた途端、眼前に剣光が舞った。
 踏み込みの浅い一撃を、俺は半歩、後退することで避ける。
「っと。わんと吼えれば許してくれるのではなかったですか?」
「やかましいッ! このわしにここまで恥をかかせておいて、無事で済むと思うなよ、小僧!」
「恥をかかせるつもりはなかったんですけどね」
 自覚もなく、官への信頼を削ぎ続ける小物に灸をすえてやろうとは思ったが。
「そのよくさえずる口、すぐに封じてやる! こいつから叩きのめすぞ。他の奴はほうっておけ!」
 そう仲間に呼びかける衛兵。その呼びかけにこたえ、二人の衛兵が俺を囲むように動き出す。
 そうはさせじと動こうとした俺は、ふと違和感を感じた。


 ……ん? 二人?
 

 俺の前に一人。周囲に二人。もう一人はどこにいった?
 だが、その疑問に答えを得るよりもはやく、眼前の衛兵が再び剣を振るう。
 咄嗟に身をのけぞらせるようにして、その一撃をかわす。が、一瞬とはいえ、他のことに気をとられていたせいだろう。踏ん張りきれず後方にたたらを踏んでしまった。
 それを見て取ったのだろう。俺の視界で、衛兵の口元が勝利の確信を映して歪むのが見て取れた。
 即座に振るわれた次撃。弧を描いて迫り来るそれを避け切れないと悟った俺は、逆に一歩踏み込もうとする。そうすれば、傷は負っても致命傷にはならないだろうと考えたからだ。


 しかし、それを実行に移そうとした途端であった。
 黒い影が、俺と衛兵の間に割って入り、衛兵の剣を受け止めてしまったのだ。
 剣撃の音さえほとんどしなかった。あっさりと、包み込むような剣の動き。


「え……?」
 俺はぽかんと口を開けた。
 いつの間に近づいていたのだろう。黒い外套に全身を包んだその人物は、俺の目には、まるで宙から唐突に現れたかのようにしか見えなかった。
「な、何だ、貴様はッ?!」
 誰何の声を発する衛兵に、しかし黒衣の人物は応えず、手首を翻す。
 ――ただそれだけの動作で、衛兵は剣をからめとられ、剣は持ち主の手を離れ、澄んだ音をたてて宙に舞い上がった。
「……な……?」
 瞬く間に武器を奪われた衛兵は、何が起こったのかと呆然と立ちすくむ。


 その首筋に、黒衣の人物の剣がぴたりと擬された。
「ひッ?!」
「……そこまで」
 その声を耳にした時、俺は咄嗟にそれが黒衣の人物の声だとは気付かなかった。
 何故といって、銀の鈴が鳴るかのような澄んだ響きを持つその声は、明らかに女性のものだったからだ。
「お、女、か? 貴様、官にたてついて、ただで済むとでも……」
 その言葉に、黒衣の人物はかすかに首を傾げたようだ。頭巾のように頭を覆う黒布が揺れた。
「恥とは心の痛み」
「……な、なに?」
 黒布の隙間からこぼれ出た声に、衛兵が戸惑いをあらわにする。だが、黒衣の人物は構わず言葉を続けた。
「あなたはそれを他者に強い、この方はあえて己で受けとめた。朝廷に――皇帝陛下に仕える身として、いずれに与するかは語るまでもないでしょう。官を名乗るのならば、これ以上の醜態をさらす前に立ち去りなさい」


 内容こそ痛烈であったが、それは激語ではなかった。
 むしろ穏やかに、諭すような口調であった。それでも、そこに逆らい難い威を感じたのは、多分、俺だけではなかったのだろう。人の上に立つことに慣れた――否、それを当然とする者の声音。
「お前……い、いや、あなたは」
 俺と同じことを、衛兵も感じ取ったのだろう。明らかに戸惑いながら、黒衣の人物を誰何する。
「ん……」
 束の間、何かを考えるように頭の黒布が揺れる。そして、その手が黒布にかけられて――




 周囲に響くは、驚愕のうめきか。賛嘆の呟きか。
 取り払われた黒布からあらわになった髪は、黒絹のごとき光沢をもって背に流れ、その容姿は名工の手になる彫刻を見るように人が理想とする造形を形作っている。
 髪と同色の瞳は、少女の深い思慮を宿して鮮やかに煌き、晴れ渡った夜空を見るよう。
 白磁の頬が薄く赤らむのは、たった今の立ち回りのせいだろう。その朱が少女に人としての温かみを添えていた。
 この少女を絵にするならば、多分場所はどこでも構うまい。窓辺で佇んでも、冠をつけて朝廷に出る姿でも、あるいは剣を持って戦場に立つところであっても問題ない。そのいずれもが、一幅の絵画として千載に残る輝きを放つに違いない、そう見る者に確信させる少女であった。



 そんな少女を前に、俺は内心でパニックに陥っていた。
 なんだなんだ、この壮絶なまでの美人は。
 傾国の美というのは、あるいはこういう人のことを指すのだろうか。その顔を見ていると、寒気すら感じてしまいそうだ。
 こんな人を、たとえ一度でも見ていれば忘れるはずがない。間違いなく初対面であるが、しかし誰だろうこの人。どこぞの高官のお嬢様――というより、実は漢朝のお姫様でしたと聞いても、俺は決して驚かないだろう。
 まあ、お姫様が真剣もって、卓越した剣技を揮うものか、という疑問は残るに違いないが。いや、お姫様と決まったわけではないから、そんな疑問を覚える必要はないのか、おーけー、落ち着け俺、落ち着け。こんな時は素数を数えよう、ところで素数って何だっけ?!



 などと俺が内心で一人慌てふためいていると。
 衛兵が驚愕もあらわに大きく口を開いた。
「仲達、様?! な、なぜこのようなところにッ?!」
「あなた方と同じ目的……のはずですよ?」
 それはつまり、件の惨殺事件を調べていた、ということなのだろう。黒衣で全身を覆っていた理由もわかった。たしかに、こんな美人が素顔を晒して歩いていたら、周囲が騒ぎたてて事件を調べることは難しいだろう。 
 いや、今はそれよりも、だ。


「仲達様?」
 俺のぽつりとした呟きを聞き取ったのだろう。衛兵に対していた女性は、俺の方を振り向くと、こくりと頷いてみせた。その顔に笑みはなかったが、真摯な眼差しは、まっすぐに俺に向けられている。
「お初にお目にかかります。わたしは先の京兆尹(けいちょういん 長安統治の要職)司馬防の子。許昌北部尉(許昌の治安を司る四尉の一)司馬朗の妹。姓は司馬、名は懿、字は仲達と申します」
 これ以上ないほどに丁寧な挨拶を受け、俺は慌てて姿勢を正す。
「お助けいただき、感謝いたします。私は――」
「先の淮南戦役において、孤軍、仲帝の侵略を退けた劉家の驍将……存じております」
「え?」
 女性の言葉に、俺は思わずぽかんとしてしまう。劉家の驍将って誰?
 だが、眼前の女性は、そんな俺を見ても苦笑一つ浮かべるでもなく、かすかに首を傾げるのみ。
 そして、相も変らぬ真摯な眼差しで、俺にこう告げたのである。 


「貴殿の偉功を耳にして以来、機会あればお会いしたいと思っておりました――北郷一刀殿」





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/05 18:14


 徐晃、字を公明という少女は、彼方で行われる戦闘の帰趨を見て取り、小さく、しかしはっきりと呟いた。
「強い……」
 その視線の先では官軍――虎豹騎につり出された挙句、無様に叩きのめされている自軍の姿が映し出されている。
 韓暹の敗北、それ自体は徐晃の予測の内にあった。だが、こうも早く、またこうも容易くそれが現実のものになるとは、さすがに徐晃も考えてはいなかったのだ。


 韓暹が不用意に自軍を突出させていたとはいえ、間髪入れずにそこを衝いた機動力、彼我の兵力差を巧みな戦術でおぎなった将の智略、そしてその策に完璧に追随してのけた兵の錬度、いずれも精鋭の名に相応しい。
「虎豹騎……曹家の最精鋭という評に偽りなし、ということですか」
 その言葉に応じるように強い風が吹きつけ、徐晃の髪をなびかせる。そっと前髪を押さえながら、徐晃は琥珀色の双眸に強い光を浮かべて、彼方の戦況を脳裏に刻み付ける。


 同じ官軍とはいえ、虎豹騎はかつて撃ち破った皇甫嵩の軍勢とは明らかに異なる。皇甫嵩の軍は、直属の将兵こそ精兵揃いであったが、錬度の低い新兵も少なくなかった。
 だが虎豹騎には、そのムラがない。すべて騎兵で編成され、そのいずれもが騎射をこなす――恐るべき錬度であるといえた。報告によれば、曹操は先年から鐙という新しい馬具を取り入れ、騎馬部隊の拡充をはかっているとのことだった。おそらく、あの虎豹騎というのは、その精華であるのだろう。これを撃ち破るのは容易なことではない、と徐晃は考えざるをえなかった。


 くわえて、それを率いる将も尋常な相手ではないようだった。
 今、叩きのめされている韓暹などは、虎豹騎の指揮官が曹操の一門に連なる若者であると知ってはじめから侮りをあらわにしていたが――噂に聞くあの曹孟徳が血縁のみを理由に将帥の人事を定めるはずもない、と徐晃は考えていた。
 若いとはいえ、敵将は丞相子飼の精鋭を預けられるにたる力量を有しているのだろう、とも。
 そして、今回の攻防を見て、徐晃は自らの考えが間違っていないことを確信する。否、それでもまだ敵を過小に評価していたかもしれない、とひそかに韓暹に感謝の念さえ覚えた。
 何も知らず、あの曹純という名の敵将を相手にしていれば、徐晃も思わぬ不覚をとっていたかもしれないから。


 例の策を用いれば、負けることはあるまいが、こちらにも甚大な被害が出てしまう可能性があった。たとえ敵を全滅に追い込んでも、それ以上の被害を受けてしまえば、その分、母の望みが遠ざかってしまう。それでは戦う意味がない、と徐晃は思う。
 であれば、虎豹騎と正面から戦うのは避けるべきであった。
 だが、単純な奇襲や待ち伏せを行っても見抜かれる可能性が高い。策を仕掛けるのならより巧妙に、そして大胆にすべきであろう。
 たとえば、我が身を犠牲にすることも厭わぬほどに……



「――決めた」
 わずかの沈思の後、徐晃は馬首を返す。
「あの人たちに連絡して……使者は私、後は……」
 呟きつつ、徐晃は脳裏で策の細部を詰めていく。この地に踏み込んだ官軍の死屍をもって屍山血河を築き上げる、そのために。  
 


◆◆◆


 
 司州河東郡解県。
 この地には『解池(かいち)』と呼ばれる中華有数の塩湖がある。否、有数というより随一というべきであろう。
 楚漢制覇戦、さらには古く春秋戦国の時代から、時の諸侯が所有を巡って血で血を洗う抗争を繰り返した塩の生産地。
 その価値は今代にいたっても衰えることはなく、むしろいや増すばかりであった。


 河東郡太守である王邑はそのことを承知しており、本拠である県城と、この解池にはきわめて厚い防備を施している。そして、王邑が白波賊討伐に及び腰である理由の一つもここにあった。
 白波賊に戦力を注いだ挙句、解池を失うことにでもなれば、間違いなく太守の首が飛ぶ。賊徒が州境で暴れていようと、こちらの防備を薄くすることは出来なかったのだ。
 とはいえ、いつまでも賊徒の跳梁を許せば、太守として鼎の軽重を問われてしまうのは当然だった。王邑としては頭の痛いところだった。


 それゆえ朝廷から派遣された曹純率いる虎豹騎が、白波賊の首領である韓暹の部隊を撃ち破ったと聞いた時、王邑は諸手をあげて喜んだ。
 一向に改善されない状況に対し、内外から太守への非難の声が高まり、さらには皇甫嵩率いる二千の軍勢が姿を消すという異変もあって、得体の知れない悪寒を感じていたのだが、問題の一つが片付いたと考えたのである。


 もっとも県城に帰還した曹純は、それが過大な評価であることをすぐに伝えている。韓暹の部隊を撃ち破ったことは事実だが、韓暹本人は捕えることが出来なかったからだ。
 深追いは禁じたので、敵兵も半ば以上は逃げ延びているだろう。
 それでも、王邑は勝利は勝利だと、小さいながら宴を催し、虎豹騎を労った。曹純としては緒戦に勝っただけで何をおおげさな、と眉をひそめたのだが、宴を拒絶したと知られれば配下から文句の一つや二つ出るだろう。
 賊軍がいきなり県城を包囲するとも考えにくく、まあよかろうと王邑の厚意を受けることにしたのである。



 遠くから響く管弦の音に耳をくすぐらせながら、曹純は一人外壁に立っていた。
 彼方の長城から吹き寄せる風は冷たく乾き、季節が逆行したかのようだ。曹純は酔い覚ましの水を口に含みながら、外壁に背を預け、上空を見上げた。
「……白波賊は確かに強い。強いが、それ以上のものはなかった。あれに、皇甫将軍が全滅の憂き目を見るはずはない」
 明晰な声に酔いを感じさせるものは残っていない。
「であれば、その背後に誰かがいるのは間違いない。何が狙いだ? どうしてこちらの動きを正確に捕捉しえた? 明らかに対騎馬の戦備を整えていたのはどうしてだ?」
 曹純の視界を埋め尽くすのは、晴れ渡った夜空一面に広がる星海の波濤。思わず嘆声がこぼれそうな光景であったが、それを見る曹純の心は一向に晴れる様子がなかった。
「情報が漏れている。それは間違いないが、許昌の諜報網は優琳姉上(曹洪)みずから築きあげたもの。その網に触れることなく、自分たちが欲する情報をことごとく手にいれるなど、ただの賊徒に出来るとは思えない」
 となると、誰かが情報を漏らしたか、あるいは曹純が気付いていない何かがあるのか――


 と、そこまで考えて、曹純は頭に手をやり、わしゃわしゃと髪をかきまわした。
 その顔に苦笑が浮かぶ。
「こういったことを考えるのは苦手だよ。やっぱり一刀を連れてくるべきだったかなあ」
 なんとなく思うのだ。あの友なら答えそのものを見つけ出すことは出来なくても、そこに到る道筋を示すことくらいはしてくれるかも、と。
「まあ、できるわけないんだが。一刀は関将軍の配下だし、こんな賊討伐にあの美髪公を出すなんて華琳様がお認めになるはずないしな」


 ここにいない者の助力をあてにしても仕方ない。曹純は苦笑して自分の考えを振り払い、この場から去ろうと足を踏み出そうとする。
 その時だった。
「子和様、よかった、ここにいたんだッ!」
「仲康か、どうした、そんなに慌てて?」
 飛ぶようにこちらに向けて駆けてくる小柄な人影は、とうに部屋に戻っていたはずの許緒であった。
「城に急使が来て、みんなで子和様を探してたんですッ」
「私を?」
「はい。太守さまが言ってました。皇甫将軍の部隊が見つかったかもしれないって」
 その言葉を聞き、曹純の顔が鋭く引き締まる。
「見つかった、ということは生きているのか?」
「わかんないです。詳しいことはまだ聞いてないから。早く来てください!」
 白波賊の支配下にある村から、命がけで脱出してきた者が、命からがらこの県城にたどり着いたのだ。
 許緒はそういってすぐに駆け出し、曹純はその背を追うように足を速めた。


 その顔に、ほんの一瞬だけ浮かんだ忌々しげな表情は、無論、眼前の少女に向けられたものではない。曹純には知りようもないことだったが、それは許昌の曹操の表情と酷似したものだった。侮りを受けた者が示す不快。
 もっとも、その表情もすぐに拭われる。虎豹騎の長は表情を引き締め、新たな局面に向けて歩みを進めるのであった。




◆◆◆




 滝のように降り続く雨は止む気配を見せず、時折、雷光が視界を純白に染め、耳をつんざくよくな轟音があたり一帯に響き渡る。風も出てきたようで、叩きつけるような風雨の音がたえず室内に木霊していた。
 許昌を包み込むように拡がる雷雲の勢力は衰えることを知らず、この嵐は当分の間続きそうであった。


 今、俺がいるのは司馬家の屋敷である。
 司馬家は清流派の名門であり、その家屋敷はかなり広大――と言いたいところだったが、実のところさほど大きくはなかった。正直、曹操から関羽に与えられた屋敷、つまりは俺が今、暮らしている屋敷の方が大きいくらいである。
 聞けば、京兆尹という要職に就いていた父は董卓の乱に前後して死去し、現在、司馬家の家長は、司馬懿の姉である司馬朗が務めているらしい。
 司馬朗は許昌の治安を司る四尉の一、北部尉の職に就いており、これはかつて曹操が務めたこともある要職だが、無論、京兆尹ほどの顕職ではない。
 名門だからとて、新たな都に身代に合わない屋敷を建て、無用な妬みを買うことを忌避したのかもしれない。実際、河内郡の司馬家の所領には、随分と大きな家屋敷があるとのことだった。
 下の妹六人はそちらで重代の家臣たちに守られて暮らしているそうだが、もしかしたらその子たちも美人ぞろいなんだろうか。司馬懿並みの美人、美少女が六人並んでいるとか……想像するだに震えがはしる。桃源郷は河内にありや。恐るべし、司馬家。


 そんなことを考えて、俺が戦慄を禁じえずにわなわなと震えていると、黒の外套を脱いだ司馬懿が(ちなみに脱いでも黒を基調とした服でした)目を瞬かせた。
「……北郷殿、何故、震えておられるのです?」
「我、桃源郷を見出したり」
「……それは重畳ですが……」
 俺の戯言を、笑うでもなく、無視するでもなく、しごく真面目な表情で受け止める司馬懿。
 そんな司馬懿を見て、俺ははっと我に返り、慌てて前言を打ち消した。
「あっと、すみません、戯言を申しました」
「そうですか。もしや雨に打たれて体調を崩されたかと思いましたが、戯言を口に出来るようでしたら、心配は不要のようですね」
「え、ええ、ご心配をおかけしてすみません」
 一瞬、これは司馬懿なりの諧謔かとも思ったが、真顔でこちらを見る顔からするに、少なくとも本人は諧謔を言っているつもりはないのだろう。
 俺は中途半端な笑みを浮かべたまま、さて、何を話せば良いのかと途方にくれてしまった。
 というか、なんで俺は司馬家のお屋敷で雨宿りしてるんだろう?



 せめて典韋がいてくれれば、まだ話の持って行きようもあったかもしれない。しかし典韋と、それに衛兵にからまれていた若者たちはここにはいない。
 あの後、若者たちは近くの医者のところで治療を受け、それが終わると、それぞれの家に帰ったのである。
 では、何故俺だけ司馬家の屋敷にいるかといえば、典韋を送り届け、その門前で別れた後、すぐにこの嵐に遭遇してしまい、何故か後ろにくっついてきていた司馬懿に半ば引っ張られるように連れてこられたからであった。
 黒衣の姫様曰く「奇貨居くべし」とのことでした。


「ぬう、仰りたいことはわかりますが……」
 司馬懿としては、折角、興味を持っていた人物に会えたのだから、この機会は逃したくない、という気持ちなのだろう。
 なんでまた俺なんかに、という困惑はこの際おいておく。ただ、あの司馬仲達にそう言われると、なんか骨の髄まで利用されてしまいそうで、背筋に寒気を覚えてしまうのは、俺が小心なせいなのだろうか。語源が語源だし、史実がどうであったかは別として、何となく司馬懿というと簒奪というイメージがあるからなあ……


 もちろん、司馬懿本人にそんなことは言わなかったが、それでも俺がわずかながら警戒したのは察したらしく、当惑げに目を瞬かせていた。
 たしかに、眼前の司馬懿からしてみれば、身に覚えのないことで警戒されているのだから、それは戸惑いもするだろう。 
 などと俺が考え、いささか気まずい沈黙が室内におりかけた、その時。
 相変わらず無表情のまま、司馬懿がぽんと両手を叩く。
「好機逸すべからず」
「いえ別に奇貨と例えられて機嫌を損じていたわけではございません!」
 ――反射的につっこんでしまった。


 俺の前では司馬懿が眉を曇らせていらっしゃる。どうやら司馬懿は、自分の引用に対し、俺が不快を覚えたと思ってかわりの言葉を探していたらしい。
 ……まあ実際、語源の人物の不穏な行動と、後年の司馬懿の行動を重ね合わせて、俺が勝手に不安がっていただけなので、司馬懿の考えは当たらずといえども遠からずなのだが、そんなことを言えるはずもない。
 ここは勢いにのったまま、話をうやむやにしてしまえ。


「そ、それはともかく、さきほどの話を聞けば、仲達殿は朝の事件を調べておられるとか。許昌に暮らす身としては、あのような残酷な事件は心に冷えを覚えます。何か掴むことができたのでしょうか? あ、いえもちろん、捜査上の機密であれば、仰っていただかずとも結構なのですが」
 俺が一息にそう言ってのけると、司馬懿は何やら考え込むように眼差しを伏せた。
 やばい、話をかえるにしても、もっと穏当な話題を選ぶべきだったか? けど、ついさっき会ったばかりの名門のお嬢様と共通の話題なんてあるわけないしなあ。


 俺のそんな内心を知る由もなく、司馬懿はゆっくりと口を開く。
「これといったことは、何一つ掴めませんでした。とはいえ、それは当然のことです。家宰の行方が知れなくなってから十日、姉様が懸命に探し続け、ついに見つけることがかなわなかったのですから。姉様と異なり、いかなる官職も持たない私が半日程度、野を歩いたところで何がわかるはずもありません」
 ……それでも、何もせず屋敷で姉の帰りを待つことは出来なかったから。俯き、瞳を悲しみで染めながら、司馬懿は悔いるようにそう言ったのである。


 ――その言葉を聞き、俺は思わず息をのむ。決して長からぬ言葉の中に、無視しえない事実が含まれていた。
「家宰の方が行方知れず? では、もしや見つかった遺体というのは……」
 おそるおそるの問いかけに、司馬懿はゆっくりと頷いてみせた。
「司馬家の家宰を務めていた者は、年は五十の半ばでした。そして先ごろより、我が家には、誰とも知れぬ輩から脅迫の書が届けられていたのです」
「脅迫、ですか? 北部尉を務める方の屋敷に?」
 衛兵を統べる人物を脅迫する。ただその一事で、相手がなみなみならぬ力を持っていると知れる。
「はい、そこには、今回の災いを予期させる言辞が記されていたのです……」


 止まぬ脅迫。行方知れずとなった家宰。その最中にみつかった拷問を加えられた遺体。
 顔はわからずとも、年と背格好からある程度のことはわかる。なにより、これまでの状況を顧みれば殺されたのが誰なのか、いかなる意図があってその暴虐がなされたのか、そのことは司馬家の人の目に明らかであったのだろう。


 そして。
「姉様が、荀文若様より託されていた任務は、都に巣食う塩賊を滅ぼすことでした」
 そこまで聞けば、俺もまた一つの結論に達せざるを得なかった。



◆◆◆



 漢王朝の都たる許昌。一日、その都で起きた一つの殺人に塩賊が関わっていることを知った時。
 幾つもの勢力の思惑がからみあう陰謀の渦に、劉家の若者もまた巻き込まれることになる。
 絡み合った陰謀が野心と妄念の炎によって燃え上がり、中原を業火に染める時、そのただ中で若者は一つの事実を知るに到る。それはその後の中華帝国に少なからぬ影響を及ぼすことになるのだが……
 この時の若者はそれを知る由もなく、ただ伝えられた事実に愕然とすることしか出来なかったのである…… 








[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/06 23:24

 古くから、塞外より轟く鉄騎の音は、中華帝国において長く恐怖の源泉であった。それは同時に、時の政治の良否を見る計りの役割も持っていた。
 たとえ個々の武勇で後れをとろうとも、遊牧民族と農耕民族では根本的な国力が違う。中華を統べる国が安定した国威を保っていれば、騎馬民族の勢力は一定以上に膨れ上がることはなかったからである。
 彼らが侵攻をはじめるのは中華帝国の政治が乱れた時。税が高まり、民心が乱れ、外敵への備えが緩んだ時こそ、彼らは得たりとばかりに勢力を伸ばしはじめるのだ。


 そして。
 王朝の混乱と失政に乗じるという意味では、塩賊もまた塞外騎馬民族と共通するものを持っていた。
 官塩の価格が高騰すればするほど、私塩の価値は高まる。
 そして官塩が高騰するということは国庫が逼迫しているということであった。それは荒天や旱魃、あるいは蝗害といった天災に拠る場合もあるが、そのほとんどは大規模な土木工事や無益な遠征、宮廷の奢侈といった人為的な行いを起因とするものであった。
 ことに霊帝の治世にあっては、朝廷は権力争いの場と化し、各地の州牧の多くは自領を守ることに汲々とし、民衆の生活にまで気を配ることが出来るものは数少なかった。
 この悪政に乗じて勢力を肥え太らせた代表格は黄巾党であるが、彼らよりも密やかに、かつ強かに力を蓄えている者――それが塩賊であった。


 だが、賊徒に福を与えた朝廷の混乱も、ひとりの人物によって終止符を打たれる時が来る。
 曹孟徳の台頭である。
 民心の安定は国家の基。曹操は治安の改善と物価の安定を柱とした政策を次々と打ち出し、自身と配下の類まれな政治手腕によって、そのほとんどすべてを軌道に乗せることに成功する。
 もっとも、治安の改善は人手と工夫によってやりようはいくらでもあるが、物価の安定には、物資の継続的な供給が不可欠である。曹操や配下の吏僚がいくら政治に長けていようと、無から有を生み出すことができない以上、限界は存在するはずであった。


 しかし、その問題もほどなく解決する。曹操陣営の資金源であり、先の許昌建設の立役者である陳留の大商人である衛弘の尽力、そして隆盛著しい曹操に期待を寄せる中原の商人たちの協力によって。
 商人が為政者に望むもの、それは安全に商いができるだけの治安と公正の実現であった。朝野に賊徒が蔓延っていれば、品物の運搬さえ容易ではない。護衛をつけるにしても、彼らを雇うための金が必要となってしまう。
 首尾よく品物を目的地まで運べたとしても、露骨に賄賂を要求する官吏や、権力や暴力を用いて品物を廉く買い叩こうとする輩は後を絶たない。そういった横暴に対し、商人たちが訴え出ることができる場所はごくごく限られており、また、訴えたところで、そこでも賄賂を要求される始末である。
 これでは利益など出ようはずもなく、これを見越して品物の値段を釣り上げれば、本来であれば売れるはずであった物まで売れなくなってしまうのだ。


 ゆえに商人たちは為政者に求める。
 安全に品物を運ぶことができる平和と、公正に商いが出来る体制の確立を。
 しかし、それがただの理想であることを、多くの商人はわきまえていた。理想とは叶えられないからこそ理想なのであって、実際はままならぬ現実と帳尻をあわせつつ、商いを行うしかなかったのだ。


 だからこそ。
 理想を現実にしてくれる、そんな期待を抱くに足る英傑が現れたとき、中原の雄なる資産家たちが、その資産の一部を割くことをためらうはずはなかったのである。


 

 かくて、丞相曹孟徳の下、中原における交易はこれまでに増して盛んになり、比例して物価も安定しだしていった。
 品物が多く出回れば、物価の高騰にも歯止めがかかる。ある商人が暴利を貪ろうと、品物の値段を釣り上げたとする。しかし、市場には、それより廉く品物が出回っているのだから、買う側はそちらにまわり、暴利を望んだ商人に残るのは在庫の山と閑古鳥の鳴き声だけ、商人は書き換えた値段表を元に戻さざるをを得なくなるのだ。
 安定した物資の流通は、均衡の見えざる手を動かし、適正な価格というものが自然と定められていく。
 無論、例外はいくらもあるし、すべてがうまくまわっているわけではないにせよ、少なくとも曹操の領内において、庶民がどれだけ懸命に働いても日々の糧にも事欠くような、そんな理不尽な状況は確実に排除されつつあった。



 そして、専売品である塩も、この流れの中にあったのである。
 曹操はまず、塩の専売そのものの廃止は将来のこととした。今の丞相府は、ただでさえ猫の手も借りたいほどの多忙さの中にある。どれくらい多忙かといえば、一部重臣から「背に腹はかえられないわ。あの猪にも少しは手伝わせなさいッ!!」という案が出るほどであった。
 この案は即座に「余計に仕事が増えると思うが」との意見によって棄却されるに到るが、ともかくそれくらい大変な状況であったのだ。
 そんな中で、多大な利害を生み出す塩の専売、その廃止にともなう混乱と利権の争いを捌くだけの余裕を持っている者は、少なくとも今の丞相府にはいなかったのである。


 無論、官塩の高騰と、塩賊の跳梁を座視するわけではない。
 曹操の懐刀である荀彧がとった策はきわめて単純であった。
 朝廷が塩を売るとはいえ、なにも士大夫がみずから塩の製造、販売を一手に引き受けていたわけではない。朝廷から権利を委ねられた商人たちがいるのだ。
 荀彧は彼らに対し、君命であるとして、貯蓄されていた塩の中から、余剰と見られる分をことごとく供出させ、それを市場に出すことで一気に官塩の値段を引き下げたのである。


 これには、当然、難色を示す塩商も少なくなかった。というより、全ての塩商が難色を示したといって良い。朝廷へと献上される利益から、彼らは幾つもの題目を掲げて(運搬費、製造費などなど)少なからざる利益を得ている。塩商たちの利益は、官塩の値が高ければ高いほど増加するのだ。つまるところ、ここにも官塩の高騰の一因はあり、荀彧は正確にそこを見抜き、手をうったのである。


 もっとも、荀彧は塩商たちを排除したわけではない。過剰な備蓄を吐き出すようにとは命じたが、これまでどおり製造と販売は塩商たちに委ねたままであった。
 荀彧がわずかでも余裕を持っていれば、ここにも改革の手をいれたに違いない。しかし、おそらく荀彧は現在、中華でもっとも多忙な人物の一人であり、問題を先送りするしかなかったのだ。
 塩商らにしても、今回の命令に対して不満は残るが、朝廷の実力者である曹操に刃向かう愚は知っている。下手に逆らって、塩を取り扱う権利を奪われてしまえば元も子もない。高利を得る塩商の地位は、他の商人たちにとっても垂涎の的なのである。


 もっとも、塩商たちは他の者たちが持ちえぬ利点を持っており、容易に他者がその地位につくことは難しかった。 
 効率良く塩を造るにはどうするか。造った塩はどこに保管しておくのか。保管していた塩をどのように販路に振り分けるのか。安全に目的地に届けるために注意すべきことは何か。届いた後、どこに保管しておくのか。どこでどうやって売りに出すのか。もっとも利益の出る販売量、期間はどの程度か。
 そういった細々としたノウハウを塩商たちは我が物としており、それは他の商人や、丞相府の役人が一朝一夕で得ることが出来るものではなかった。
 長い間の経験と蓄積なくして得られない情報。塩商たちがそれを握るゆえに、荀彧はこの問題に対しては拙速よりも巧遅を選ばざるを得なかったのである。



 こうして小さからざる不協和音を残しつつも、官塩をとりまく状況は、少なくとも庶民の目から見れば一気に改善された。
 こうなれば、あえて危険をおかして私塩を買い求める必要もない。人々は曹操、荀彧に喝采を送り、新帝の統治にまた一つ信頼を積み重ねる。
 将来は知らず、現状の官塩を取り巻く問題は一つの解決を見たのである。



 ……その陰に、塩賊の底深き憎しみを宿しながら。



◆◆◆



 并州西河郡。
 河東郡と境を接するこの地は、同時に朔北の勢力――匈奴とも隣接しており、たえずその脅威を受け続けていた。
 近年、匈奴側も単于(匈奴の王位)の地位を巡って抗争が激化しており、大規模な侵攻こそなかったが、小規模の部隊による襲撃は絶えず行われているのが現状であった。
 それでもこれまでは襲ってくる数が限られているので、何とか撃退することが出来ていたのだが……



「昨年の暮れのことです。突然、私たちの村を匈奴の大軍が襲い、瞬く間に村はあの人たちの手に落ちてしまいました……」
 そう言って、曹純の傍らで馬を進ませていた少女は瞼を伏せた。
 許緒がその姿を気の毒そうに見やる。匈奴の支配を受けた村人たちがどのような目に遭ったのか、また今も遭っているのかは想像に難くなく、何と声をかければ良いのかと悩んでいるようだった。
 その気持ちは半ば曹純とも重なるが、今、それを口にしたとて何の解決にもならないだろう。少女の言うことが事実なのだとすれば、一刻も早く村を解放することこそが唯一の解決策になるはずであった。


 河東郡の県城を離れ、西河郡へと向かう最中、曹純は少女に確認をとった。
「……君たちの村を占領した匈奴は、幾つも京観(死体で築いた塚)を築いているという話だったが、もっとも新しいものは何時ごろつくられたものかわかるかい?」
「少し前……ええと、半月くらい前だったと思います。あの人たち、大勝利だったってすごい機嫌が良くて、村のみんなを駆り出して、たくさんの人たちの亡骸を積み重ねて……」
 その時のことを思い出したのか、少女は小さくうめき、口元を押さえた。
 それでもなお言葉を続けたのは、村を救うために必要なことだと考えたからなのだろうか。もしそうであれば、この亜麻色の髪の少女の精神力は驚嘆に値した。


「あの人たちは、略奪に出るたびに人を浚ってきたり、殺した人たちを馬で引きずってきたりしてました。でも、それでも数十から、多くても百人くらいです。でも、あの時は百とか二百とか、そんな数ではなかったです」
 それが何を意味するのか、曹純の目には明らかであった。ため息まじりに少女に礼を言う。
「そうか……ありがとう。すまない、つらいことを聞いてしまったな」
「いいえ……村のみんなを救ってもらうんです。私も、出来るかぎりのことはしないと……」
 少女――姓を李、名を亮、字を公明と名乗った少女は、曹純の詫びに対して、琥珀色の双眸に涙を湛えながら、ゆっくりと首を横に振るのであった。



◆◆◆



 屈強な将兵の中にあって、なお一際雄偉な体格は、馬にまたがっても地に足をつけることが出来た。
 並の人間の胴ほどもある左右の腕に力を込めれば、巨馬の首すらへし折れる。丸太の如き両の脚を繰り出せば、敵兵は甲冑を着たまま宙を飛んだ。
 精気と客気に満ち満ちた両眼で周囲を睥睨すれば、最強を謳われる匈奴の猛者たちさえ顔をあげることかなわない。
 朔北の軍勢を統べ、西河郡を劫略する匈奴の王、於夫羅(おふら)の、それが姿であった。
 その姿は、もはや人というよりも智恵を持った獣とでも呼ぶべきであったかもしれない。今、その眼前で恐怖に震えながら剣を構える壮年の男性と比べれば、とてものこと、両者が同種の生き物なのだとは思えなかった。


「……どうした、かかってこぬのか? そこで震えているだけでは、汝の妻も娘も助からぬぞ?」
「……ぐ、この、なんで、こんな」
 於夫羅の言葉に、男性は小さくうめき、柄を握る手に力をこめる。だが、それだけだ。目の前の相手に斬りかかっていくことはしなかった――否、できなかった。眼前の相手から漂ってくる物理的な圧力さえ感じさせる死の気配を感じ取り、男性の身体は所有者の意思を無視し、その場を動くことを拒絶したのである。一歩でも近づけば、於夫羅の持つ大斧で腰斬されてしまうであろうから。


 だが。
「あ、ああ、お許し、お許しくださいませッ! 娘は、せめて娘はァ!」
「父上、ちちうえェッ!!」
 周りを取り囲む匈奴の兵に縋りつくように慈悲をこう母とおぼしき女性と、父の名を呼んで泣き叫ぶ少女。その服はすでに力任せに破られており、その肢体は半ばあらわになっている。ふくらみきっていない乳房が、少女がまだ年端もいっていないことを物語っていた。
「……京ッ! 甘ッ!!」
 妻と娘の名前なのだろう。男性は二つの名を叫ぶと、今にもそちらに向かって駆け出そうとする。
 ――が、その挙動はただの一言で封じ込められる。


「名を叫ぶ暇があったら、かかってくるが良い」
 一歩、踏み込みながら、於夫羅が口を開く。それだけで大地が揺れたように感じたのは、はたして気のせいなのだろうか。
「余の身体に傷一つ。それだけで汝も、汝の妻子も助かるのだ。このまま震えておるだけでは、いずれも助からぬぞ。それとも、目の前で妻子を犯されねば戦えぬか? ならば望みどおりにしてやるが」
「ぐ……この、蛮人め。どうせ、わたしたちを生かして返すつもりなどないのだろうッ?!」
「確かに余は蛮夷の王だが、約定は守る。別に信ぜずともかまわぬがな」
 そういうと、於夫羅は遠巻きに見守る部下たちに頷いてみせた。
 その意味を察した将兵から下卑た喊声があがる。そして、絹を裂くような二つの悲鳴がそれに続いた。


「やめろ、やめてくれッ! くそ、何故わたしたちがこんな目にッ?!」
 妻子に群がる男たちの姿を視界に捉え、男性は天地すべてを呪うような絶望の叫びをあげた。
 匈奴の単于はこともなげにそれに応じる。
「弱いからよ。弱者は強者にひれふし、慈悲を乞い、その慰み者になる以外の価値を持たぬ。それが嫌ならば強くあれば良い。簡単な理であろう? 何故か、汝ら漢族は受けいれぬ者が多いがな」
「蛮族がッ! いずれ天譴がその身に降りかかるぞッ!」
「なればその天譴さえねじふせよう――さあ、もう良かろう。はよう抜け。西河郡でも五指に入るというその力、余の前に示すがよい」
「う、ぐ、ああ、ああああァァァアアアアアッ!!」
 於夫羅の声と、そしてそれ以上に妻子の悲鳴に背中を押され、男性は大地を蹴る。
 裂帛の気合と共に振るわれた剣は、空気すら両断する勢いで於夫羅に襲いかかる。その身に受ければ、於夫羅がいかに頑強な肉体を誇ろうとただでは済まなかったであろう。それほどに、精魂のすべてが込められた一閃であった。



 ――だが、届かない。



「……いかに名が知られていようと、所詮は土いじりしか能のない漢族か」
 於夫羅は、その巨躯からは信じられないほどに素早い身のこなしで男性の一撃を避け。
「暇つぶしにもならぬわ、下郎」
 舌打ちまじりに振るわれた大斧は、ほとんど力が込められていないように見えた。にも関わらず――その先端が男性の身体を捉えた、そう見えた時には、男性の上半身は文字通り引きちぎられ、宙を舞っていた。


 みずからの夫が。父親が。
 血と臓物を撒き散らしながら倒れ伏すその光景を、その妻子は見ることはなかった。
 すでにその姿は匈奴の兵士たちの中に没し、悲鳴を発することさえ出来なかったから。
 於夫羅はその光景を眉一つ動かさずに眺めていたが、すぐに興が失せたのだろう。得物である大斧を担ぎ上げると、その場から立ち去ったのである。   

 

◆◆◆



 ――曹純がその光景を見ることが出来たのも、そこまでであった。
 無意識のうちに握り締めていた柄から手を離す。出来うるならば、今すぐにでも駆け出したいが、今、この場にいるのは曹純と李亮のみ。切り込んだところでたちまち斬り捨てられてしまうだろう。
 ことにあの於夫羅という敵の王は、たとえ十騎で取り囲んでも討ち取れるとは思えなかった。


 もとより、今のような光景が日夜繰り返されているであろうことは予測していたこと。怒りに任せ、折角の好機を潰してしまえば、あのようなことが今後も長く繰り返されることになってしまう。
「……今は、我が世の春を寿いでいるが良い、蛮族ども」
 呟く語尾が、消せぬ怒りのために、わずかに震えた




 そうして、曹純は半ば無理やり、意識を将としてのものに切り替える。
 李亮によれば、匈奴の軍勢は一所にとどまっているわけではなく、移動を繰り返しているらしい。それでも大体の兵力は推測できる。その数はおおよそ五千というところであるという。
 あの単于に率いられた匈奴の騎兵が五千。皇甫嵩率いる二千の部隊では、その急襲を防ぎきれまい。曹純は、その時の皇甫嵩の驚愕と無念を思い、祈るように小さく俯いた。


 一方で、曹純の胸には一つの疑問がわきあがっていた。
 匈奴の帝国は、時に十万以上の兵力で国境を侵してくる。あの於夫羅という敵将が匈奴の王たる単于であるというなら、五千という兵力は明らかに少なすぎた。
 ただ、と曹純は思う。
 近年、匈奴内部の覇権を巡り、国内における抗争が激化しているという情報は聞いている。一口に匈奴と呼んでいても、その中には幾つもの部族がある。あるいは、於夫羅は抗争に敗れてこの地まで逃げ延びてきた族長の一人なのかもしれない。
 無論、たとえそうであっても、五千の兵力の脅威は、何一つかわらないのだが。


 考え込む曹純に、李亮が声を潜めて告げる。
「私が村を出た時、村にいたあの人たちの兵は五百くらいでした。見る限り、今も大差ないと思いますが、確実ではありません。お話ししたとおり、私は一度、村に戻ります」
 曹純と共にここまで来た五名の騎兵は後方で控えさせている。そして、残りの軍勢はさらに遠く離れた地点で待機させていた。
 曹純率いる虎豹騎は、夜陰にまぎれて密かに県城を抜け出し、不眠不休でこの地までかけ続けた。まず間違いなく、敵はこちらの動きに気付いていないだろう。
 だが、不用意に近づけば、匈奴兵に発見されてしまいかねない。曹純は、遊牧民族である匈奴兵の機動力を甘くみるつもりは欠片もなかった。


「人数がわかったら、於夫羅の斧を奪ってお知らせにあがります。そのあとのことは、すべて曹将軍にお任せいたします。どうか、村のみんなをお救いください」
「無論。民を守ることこそわたしたちの務めだ、安心してくれ。それより、君こそ気をつけて。もし、村からいなくなっていたことがばれていれば、ただではすまない。それにあの於夫羅という単于、ただものではない。その得物を奪うのは容易いことじゃないだろう。無理する必要はないよ」
 その曹純の言葉に、李亮は小さく俯く。
「……大丈夫、です。あの人たちは、私が……私たちが反抗するなんて、思ってもいませんから」
「そうか……だが、もしうまく行かなかったとしても、拘泥する必要はない。その時はすぐに私たちに知らせてくれ。必ず、奴らを追い払ってみせる」
「はい……お願いします」
 李亮は深々と曹純に頭を下げると、踵を返した。様子を見て、村に戻るつもりなのだろう。
 曹純はその後姿を気遣わしげに見送ったが、いつまでもここに立っていて誰かに見られたら、それこそ本末転倒である。
 間もなく曹純自身もこの場を去り、あとにはただ冷たい漠北の風が野の草をそよがせるのみであった。




◆◆◆




 そして、機会は待つほどもなく訪れる。
 その身にあまる大斧を、引きずるように李亮がもってきたのは、二日後の夜半であった。
 それを見て、曹純はほぅっと安堵の息を吐く。
「上手くいったようだね」
「はいッ。やっぱり私みたいな小娘一人、いなくなったところで気にする人はいなかったみたいです。村にいた匈奴の人の数は六百人くらいです。みんなにお願いして、匈奴の人たちにお酒を勧めて。私はこの斧を取ってすぐ村を出ましたけど、今ごろはみんな眠ってしまってるはずです。将軍様、どうかッ!」
「重ね重ね、ありがたい。いかに強猛な匈奴兵といえど、酔いつぶれたところに奇襲を受ければ赤子も同然だ」
 曹純はそう言うと、持っていた槍を高らかに掲げ、麾下の将兵に命令を下す。
「天下無類の兵たちよ! 我らが武威をあまねく天下に知らしめる時が来たッ! 命知らずにも我らが領土に踏み込みし蛮族ども、一人残らず血祭りにあげるのだッ!」
 曹純の激語に応じるように、周囲に展開している虎豹騎から喊声があがる。
 それはたちまち闇夜を圧してあたり一帯に響き渡る。


 ――その喊声に耳をくすぐらせながら、李亮はゆっくりと曹純の背後に近づいていく。


「全軍、突撃ッ!!」
 号令と共に、怒涛となって突進を開始する勇壮な騎馬の軍。
 何者もあたるべからざる勢いをもって、彼らは李亮の村を救うべく駆けて行く――この場に残ったのは、曹純と数名の側近のみ。ここで「何か」が起こったとしても、もはや虎豹騎の勢いは止まるまい。


 ――その勇姿を視界の端に捉えながら、李亮は於夫羅の大斧を握り締め、抱え持つ。いとも、軽々と……いとも、易々と。


 そして。
「曹将軍」
 やわらかな問いかけは、どこか優しささえ含み、曹純の耳に届く。
「ん、どうした、李公明殿?」
 はじめて会った時、思わず息をのんでしまった美貌がこちらを振り返る。とてものこと、男性だとは思えないその秀麗な顔に。
「――さようなら」
 李亮は、まっすぐに斧を振り下ろした。






 その場に響くは、頭蓋を断ち割る重い音。
 その手を伝うは、命を断ち切る手ごたえか。
 いつまで経っても慣れぬことのないその光景は、しかし。



 金属同士がぶつかる硬い手ごたえと、爆ぜるような擦過音にて、現出することなく消えうせる。
 いつの間にか、自分と曹純との間に入り込み、李亮の一撃を苦もなくうけとめた小さな人影。
 予期せぬ出来事、予期せぬ光景に、李亮は束の間、呆然とする。

 
 そんな李亮に向け、再び同じ問いが発された。
「どうした、李公明殿?」
 その瞳に驚きはない。怒りもない。
 虎豹騎の長は、蒼穹の如き瞳を、ただ怜悧な輝きで満たしながら、こう言った。


「それとも、徐公明殿と呼んだ方が良いのかな? 白波の女傑殿」

 


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