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天声人語

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2010年7月4日(日)付

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 人は蛇を怖がるか、蜘蛛(くも)を怖がるか、どちらかだということを劇作家の故・木下順二さんが書いていた。脚のあるものとないもの、どちらが苦手か、という二分法だろう。ご自身は蛇なら平気だが、大きな蜘蛛を見ると総毛立ったらしい▼「蜘蛛」という字を書いただけで、体がざわざわしたそうだ。思えば「虫偏」の漢字は不遇である。先の小欄で、蛞蝓(なめくじ)や蚯蚓(みみず)といった虫偏を並べたら、書きながら字づらの“迫力”にたじろがされた。だが、「虫たちも生きているんです」という優しい便りをいくつか頂戴(ちょうだい)した▼「虫」の字はもともと、ヘビの象形なのだという。柔らかい篆書(てんしょ)体の字を見ると、なるほどヘビがくねる姿に似ている。爬虫類(はちゅうるい)を元祖に、両生類から昆虫、その他大勢も表して、虫偏は生き物の一大勢力をなす▼ルナールの『博物誌』にも虫偏が色々登場する。蛇を天敵にする蛙(かえる)の項もある。「睡蓮(すいれん)の広い葉の上に、青銅の文鎮のようにかしこまっている」などと、あの神妙な思索顔を描いていて楽しい▼だが近年、その蛙族の受難がよく伝えられる。開発や農薬に追われ、感染症にも脅かされている。先日は北九州市の川沿いで片脚のない蛙が大量に見つかった▼原因は不明という。災いの発端が、ささいな異変として表れることもあるから気味が悪い。ありふれた虫偏の生き物たちが、当たり前に周りにいる尊さを、いま一度胸に刻みたい。〈小蟻(あり)どもあかき蚯蚓のなきがらを日に二尺ほど曳(ひ)きて日暮れぬ〉啄木。わが命につらなる、小さきものたちの営みである。

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