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江戸時代の人相見、水野南北は〈黙って座ればピタリと当たる〉とはやされた。精進の始まりは、その道の達人に「死相が出ておる」と言われたこと。生地大阪で極道を気取っていた頃の話だ▼南北は、己の凶相を消さんと粗食に努め、やがて人の吉凶は食生活が左右するとの考えに至る。運命さえも飲食で変えられるという、観相師らしからぬ前向き思考である。なるほど、人生をつつがなく送るヒントは、顔面ではなく口中に潜むらしい▼唾液(だえき)の成分からがんを見つける技術が生まれたそうだ。慶応大先端生命科学研究所(山形県鶴岡市)と米カリフォルニア大ロサンゼルス校が、がんの種類ごとに、患者と健常者で濃度が隔たるアミノ酸などの物質を突き止めた。例えば膵臓(すいぞう)がん患者は、グルタミン酸の濃度が高かったという▼これらの物質を組み合わせると、膵臓がんで99%、乳がんで95%、口腔(こうくう)がんでも80%の患者を判別できた。X線や血液検査より簡便で、症状が出にくいがんの早期発見に役立ちそうだ。〈黙ってなめればピタリと当たる〉を期待したい▼『だまってすわれば』(新潮社)で南北の生涯を描いた作家、神坂(こうさか)次郎さんによると、その命運学は「的中を誇らず、人を救う」を旨とした。占いから食説法へという異色の遍歴にも合点がいく▼科学の進歩とはありがたいもので、唾液が病を教えてくれる時代はもはや眉つばではない。きょうを生きながらえれば、あすには命を延ばす新発見もあろう。まずは飽食を慎み、楽天を心がけるべし。どんな顔だろうと。