本尊とは、根本尊敬の意味で、人生の根本として信仰・礼拝する対象のことをいいます。そして、本尊を立てて信仰していくと、感応といって、自分と本尊を一体化させる働きが生じます。そのため、もし、低級・邪悪な本尊を信じれば、その人の人格や生活も、自ずと低級な苦しみに満ちた不幸なものになってしまうのです。
また、本尊には法本尊と人本尊とありますが、別々に存在するものではありません。故に、日蓮大聖人が広大な慈悲を、一切衆生が成仏を会得せしめんがために現されたのが、人法一箇の御本尊であります。
「御本尊は人法一箇でありますが、御本尊を法本尊とし、大聖人以来の血脈付法、代々の猊下は人本尊と拝します。ですから、現在は法本尊を中心にして人本尊を拝んでいます」戸田城聖全集第4巻
「本尊とは所縁の境なり」『文底秘沈抄・日寛上人』
「正境に縁すれば功徳猶お多し、若し正境に非ざれば縦い偽妄 無けれども亦種と成らず」妙楽大師
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書全集760頁)
「我が身が御本尊」 であり大聖人の御内証と変わらないとするのは大謗法に他ならない。もし、自身が仏界を顕現した本尊であるならば、何故に本尊にすがる気持ちで拝み宿命転換を願い修行するのか?
「総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず」(御書全集1055頁) とのおおせがある。ゆえに、別して、日蓮大聖人様が御本仏であらせられ、われわれ凡夫は、主従、師弟、父子のごとく、あまりにもしたしくて、しかも、あまりにも厳然たる区別のある存在なのである。この態度は、また御遺文を拝するにあたっても同じであり、御遺文を研究して大聖人の御観心がわかったというのも誤りであり、また、御遺文は、われわれ凡夫の生活とはかけはなれた、むずかしい別のものだというのも、同様に誤りなのである。(昭和25年8月10日・戸田会長指導)
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