猟血の狩人
- 『猟血の狩人』 第四回
あれ?
私は何で外にいるんだろう。確か、暖かいベッドの中でぐっすりと眠っていたはずなのに。
外は真っ暗で、月がとっても明るく光っている。月の光でも、影ってできるのね。
寝巻き一枚で、冷たい風がぴゅうぴゅう吹いているのに体はちっとも寒くない。むしろ、胸の奥がどきどきして体がどんどん熱くなってる。
なんだろう?この気持ちは。
まるで、何かとっても大切な人を待ち焦がれているような、そんな気持ち。
どこ?どこ?どこにいるの?
右を振り向いても、左を振り向いても、動くものはなにもない。こんな夜に、起きているものなんているはずがないわ。
でも、私にはわかる。ここのどこかに、私が探している人がいる。
その証拠に、私のどきどきはどんどん大きくなっている。胸がキュゥッって締め付けられて息を吐くたびにため息が洩れている。
いる。近くに。私が恋焦がれる方が。
どこ?!どこなの?!
もう我慢できない。私の目があの方を捉えたがっている。私の腕があの方を抱きしめたがっている。私の脚があの方に絡まりたがっている。
私の口があの方を称えたがっている。私の胸があの方に搾られたがっている。私の舌があの方を清めたがっている。
私の大事なところがあの方を受け入れたがっている。私の首が、あの方に捧げられたがっている。
私の 血が あの方に 吸 わ れ た が っ て い る。
「よく…、来たね。僕の花嫁」
いた!あの御方がいた!!
ああ、あんなところで手招きをしていらっしゃる。月明かりに照らされたその姿は、どこまでも貴く、美しい。
その蜂蜜のような金髪。透けるような白い肌。蕩かすような甘い笑顔。紅玉のように紅い瞳。錐のように鋭い牙。
その全てが私に向けられている。
今、参ります。貴方様の下へ。私をお選びくださったことへの、感謝の念とともに。
こんな寝巻きはもういらない。あの御方が求めておられるのは、私であって私以外の物はいらない。
どうですか?最愛の主様。私の体は綺麗ですか?主様のものとして相応しいですか?
「ああ…。とても、美しいよ」
ああ!なんて嬉しいお言葉だろう。下賎な私如きの体を、主様は本当に愛でてくださっている!
もう、もう体の疼きが我慢できない。太腿を、とってもいやらしい液体がとろとろと流れ落ちていっている。
入れてもらいたい!挿れてもらいたい!!
早く、早く主様の太いもので、私めを刺し貫いてください!!
「そうだね…。焦らすのは、よくないね」
主様の腕が、私の体を優しく包み込んでくれる。とっても冷たいけれど、私の心の中はとっても暖かく満たされている!
あっ、あっ!主様の太いものが、私の中にはいってくる!はいってくるぅっ!!
すごい!首、気持ちいい!主様の牙が、私の首にぐっさり刺さってる!私、貫かれてる!!私、血を吸われてる!!
主様に、私の命、捧げられている!!もっと、もっと私を吸ってください!私の全て、吸い取ってください!!
「……。今日は、ここまで」
ああっ!主様!なんで、なんで抜くんですか?!私に何か、至らないところがあったんですか?!
「今日はまだ、君を迎えるに相応しい時ではない。次に月が満ちる時、迎えにこよう」
ああっ、主様が去って、いく……
でも、仕方がない。主様がそういわれたなら待つしかない。私は主様のもの。主様の言われることに逆らうわけにはいかない。
待とう、次の満月まで。なに、そんなに気を病むことはない。
もうすぐ、もうすぐ主様に身も心も全て捧げられるのだ。それまで待つのも悪いことじゃない。
- 「これは…、確かに吸血鬼に魅入られているわね」
ティオは、椅子にもたれかかって気だるく微笑み続ける女性を見るなり即答した。
虚ろな瞳は意志の光が消え失せ、代わりに闇の者を印す邪悪な赤光が僅かながら虹彩に宿っており、
近くに手をかざしても何の反応も示さず、窓の外をただ一点眺め続けている。
「ああ…、主様……」
時折紡がれる『主様』という言葉は、まるで自分に今の主人が誰なのかを言い聞かせているかのように見える。
そして、白い首筋に深々と穿たれた二つの噛み跡。
「三日ほど前でしょうか…、娘が夜に突然いなくなって、村人総出で探し出したとき、娘は村はずれにある小高い丘の上で今のような
状態で見つかったのです」
女性の父親が、無念さを滲ませた表情でティオとニースに語りかけてくる。
「それ以来、娘は何の反応も示さず、一日ただ外を眺めながらうわ言のようになにかを呟き続けるようになってしまいました。
教会に相談しようとしても、狩人の派遣には一週間はかかるといわれてしまいました。それでは、恐らく娘は…」
「無理でしょうね。獲物をそんなに気長に待つ吸血鬼なんていないわ」
自身が吸血鬼だから相手の気持ちが分かるのだろうか、ニースはあっさりと答えた。
「三日もそのままにしておくってのも相当おかしいけれど…、十日も吸血しないでほったらかしておくなんてどんな吸血鬼も絶対にしない。
私だって、五日も我慢したら…あわわ!!」
さりげなく、とんでもないことを口走りかけたニースは慌てふためきながら口元を抑えた。その様子に女性の母親は小首を傾げたが、深く
詮索はしないでティオのほうへと向き直った。
「お願いです!娘を、リムを助けてください!このまま娘を吸血鬼の餌食にさせないでください!!」
その剣幕に、流石にティオも「いいえ」というわけにはいかなかった。
「で?どうするのよティオちゃん」
二人に与えられた空き部屋の中で、ニースは不機嫌そうにティオに話し掛けてきた。
「どこにいるかもわからない。いつやってくるかもわからない吸血鬼を討滅するの?相手がどんな奴かもわからないってのに」
通常、吸血鬼を相手にする時は迎え撃つという真似はしない。光の当たらない世界では相当な力を持つ吸血鬼と戦う場合、わざわざ相手の
得意な時間に勝負をかけるなど愚の骨頂でしかない。
日があるときに吸血鬼のねぐらに乗り込み、十分な力を出させること無く倒すのが手っ取り早いからだ。
もっとも、ティオとニースに限っていえば、ニースが闇の世界に生きる吸血鬼なために夜に戦うという選択肢もあるのだが、それでも相手
がどんな力を持つ吸血鬼か全く分からない状態で戦うというのはかなり無謀だ。
もしも、相手の吸血鬼が高位貴族だったりしたら、さすがに夜では勝ち目がない。
「う〜〜〜〜ん……。でも、あの場合放っておくわけにもいかないじゃない」
ニースの責めるような視線に、ティオは困りきった笑顔を浮かべて答えた。
なにしろ、街中を二人で歩いていた時、いきなり一人の男が「助けてください!」って迫ってきたのだ。どうやら、ティオが着ている仕事
着を見て、最初は教会の関係者かと勘違いしたらしい。
丁重に無視する。という選択肢も無くは無かったが、とりあえず話だけでも聞いてみようとしたら件の事だ。吸血鬼がらみの話とはいえ、
ティオもニースもはいそうですかと安受けあいするにはリスクが非常に高い。
「とりあえず…、私は他に吸血鬼の被害がないか、ここらへんに吸血鬼が巣食っているような所がないか聞き込みをしてくるわ。
まだ日が高いからニースはここで待っててね」
「は〜〜〜い」
まだ不満げなニースを一人残し、ティオは情報集めに外へと出て行った。
後には取り残され、部屋の中でぽつねんとしているニースが一人。
「全く…、ティオちゃんは甘すぎよね。他の人間がどうなろうが、かまいやしないじゃない」
もしティオちゃんが私以外の吸血鬼に噛まれたらどうなるの?私が我慢して我慢してティオちゃんに牙を立てるのは辛抱しているって
言うのに、その私の苦労を無駄にしてもいいって言うの?!
- 吸血鬼であるニースにとって、ティオ以外の人間がどうなろうが基本的にどうでもいいと思っている。
人間は自分の体と命を潤す血袋であり、袋にかける情けなんかない。
ティオが吸血鬼になった暁には、どこかの村一つをティオの生誕祭としてティオと一緒に吸い尽くそうと考えているくらいだ。
そのティオが他の吸血鬼の毒牙にかかるのだけは、ニースとしてはなんとしても阻止しなければならない。
そのため、今回の件はどうしても気乗りがしなかった。
並大抵の吸血鬼なら返り討ちに出来る自信はある。それだけの魔力は蓄えてきたつもりだ。
だが、今回の吸血鬼はどうもやっていることが不可解に過ぎる。
なぜ、一気に吸い尽くさずに放置しているのか。何故こちらに対策を立てる時間を与えているのか。
(その吸血鬼がよほどの変わり者か、あるいは、普通にしもべを作ることに飽き飽きしているのか…)
もしかすると、よほどの大物なのかもしれない。
「なんにせよ…、こっちとしても調べる必要はあるわね…」
ニースは思いつめた表情を浮かべたままスッと立ち上がり、リムがいる部屋へと向っていった。
部屋に入ると、リムは相変わらず呆けた表情を浮かべたままじっと外を見つめていた。
窓から太陽の光が差し込んでくるため、ニースは降闇を羽織ったままリムへと近づき、座っている椅子をくるりとこちらに向けた。
「あ…」
強引にニースの方へと向けられたリムが反射的に窓のほうへと顔を向けようとするところを、ニースは両手でリムの顔をがっしりと押さえ
紅い瞳で射抜くように、リムの顔を睨みつけた。
「答えなさい。あなたの主様ってどんな奴なの?」
ニースの魔眼に睨みつけられたリムは一瞬体をビクッと強張らせ、搾り出すようにたどたどしく言葉を放った。
「あ、あの方は……、あぁ…
透けるような白い肌、秋の稲穂のように綺麗な金色の髪、雄々しい牙…」
瞳を潤ませながら吸血鬼の身体的特徴を述べていくリムだが、そんなことを聞いてもニースはとんとピンとこない。
「そんなことはどうでもいいの。名前は?どんな奴だって言っているのよ」
「な、名前はぁ……知らない。聞いてない。教えて、くれてない……」
ニースの言葉にリムは弱々しく首を振って答えたが、ニースとしてもここで止めるわけにはいかない。
「知らないはずは無いわ。血を吸われた時点で、あなたの心の奥底には吸った吸血鬼の存在が刻み込まれているんだから。
さあ、呼びなさい。あなたの主人の名前を。さあ、さあ!さあ!!」
ニースの目の赤光が部屋を照らすまで明るくなっている。リムの瞳はその光を一身に受け、魔眼の強制力により心の奥底にある決して表に
出てこない言葉を強引に引きずり出されようとしていた。
「あ、ああぁ!わ、私のある、主さまはぁぁ…。な、なん、南天(なんてん)のきみぃ……、うああぁっ!!」
魂の深層に打ち込まれた主の名前を無理やり呼び起こされたからか、リムは胸を掻き毟って悶え、そのままパタッと意識を失ってしまった。
「南天の君?聞いたことないわね、そんな貴族…」
ニースの過去の知識を紐解いても『南天の君』なんて吸血貴族は聞いたことが無かった。教会の資料室を調べれば出てくるかもしれないが、
もちろん今のニースは教会に行くことは出来ないし行く気もない。
「やっぱ変わり者の貴族くずれなのかしら…。っと、もう一つ調べる事があったっけ」
ニースはポン!と少し演技臭く手を叩くと、右手の人差し指の爪をキリキリと鋭く伸ばし、気絶しているリムの右腕にぷすり、と突き刺し
ぷくーっと膨らんでくる血球を掬い取ってぺろりと舐めてみた。
「う〜〜ん…、まずくは無いけれど、取り立てて美味という訳ではないわね」
もしかしたら、リムの血があまりにも美味しいので吸血鬼がもったいぶってゆっくり啜ろうと意図してこんなに間を開けているのかと考え
たが、どうやらその線でもないようだ。
「本当に、面倒くさいことに巻き込まれちゃったわね…。いざとなったら、ティオちゃんだけでも逃がすようにしないと…」
この時、まさか守ろうとしているティオに命を狙われる事態に陥るなど、神ならぬニースは想像もしていなかった。
- 「おや…?」
人の世から隔絶された深い森の中に佇む小さな廃城。手入れする者も無く荒れ放題だった城内の光も射さないほど奥の部屋で、
ただ一箇所だけ燭台の灯火が揺らめいているところがある。
散らかり放題の廃城の中でその一角のみ綺麗に整頓され、高級そうな家具がセンスよく並べられていた。
その部屋の中で、赤いビロードで作られたソファに座りながら本を読んでいた男がピクリ、と体をふるわせてから本をぱたりと閉じた。
年恰好は15歳前後。よって、男というよりは少年といった方が正しいか。
短く切りそろえられた金髪、人形のように整った顔立ち。白い長袖シャツに黒いズボン。それを支える黒のサスペンダーに黒皮の靴。
そして、モノクロームな色調の中にアクセントとして首に巻かれた赤のリボンタイ。
その見た目はどこかの良家の御曹司といった風貌である。が、
その瞳に宿る禍々しいまでの赤光と口元から除く牙が、少年が人外のものだということを主張していた。
「どうなさいましたの?アレクサウス兄様」
そして、その奥にさらにもう一人。
顔立ちは『兄様』と呼んだ少年吸血鬼に良く似ているが、見た目の年はより若く14歳手前といったところか。腰あたりまで伸ばした髪を
大きなヘアバンドで結わき、黒を基調としながらところどころを白のレースで飾り付けられたドレスを身に纏い、黒のブーツを履いている。
そして、その手には革紐が握り締められており、その先は四つん這いになって地面を這う裸の青年の首に撒かれている首輪に繋がっていた。
勿論、彼女もアレクサウス兄様と同じく吸血鬼である。
「ああ、アルマナウス…。町に残してきた花嫁の気配が消えたんだ。弱ったな、迎えに行くまでまだ二日もあるのに」
「…何を仰っているんですか、兄様は」
アレクサウスはいかにも弱ったといった口調でアルマナウスと呼んだ少女吸血鬼に語りかけるが、アルマナウスは兄が幾許も弱っていない
と言うのは先刻承知済みである。
その証拠に、アレクサウスの口元には笑みが零れている。これから起こることが愉しくて愉しくて仕方がないといった笑みだ。
「そんなに花嫁が大事なら、満月までなんて猶予をおかずにさっさと同族にしてしまえばよろしいのに。
私なんて、とてもそんな我慢など出来ませんわ」
そう言いながら、アルマナウスは手に持った革紐をぐい!と上へ引っ張った。そのため下で這い蹲っている青年の首輪が一瞬だが首を圧迫し、
青年はゲホゲホと苦しくむせ返った。
「ほら、私は気に入ったおもちゃがあればすぐに持ち帰ってきてしまいますから…、こうして愛でたいときに愛でることが出来るのですよ」
アルマナウスは『愛でる』といいながら、青年の背中をブーツでぐりぐりとねじつけている。靴の底が背中の皮膚を破り、血がうっすら
と滲み出ている。
が、青年の顔には苦痛ではなくそのことに対する恍惚の笑みが張り付いていた。
「まあ、そう言うなよアルマナウス。5年ぶりに娶る110人目の花嫁なんだ。すぐに同族にしたんでは飽きも早くきてしまうし
こうして、他に面白い事態が発生することがままあるわけなんだからね…」
「…確かに、飽きが早く来る。というのは間違ってはいませんけれどね」
アルマナウスは下にいる青年をちらり、と見た。
4日ほど前、夜の町を歩いていたら連れの女と寄り添っているところを目撃し、ちょっと顔が良かったから連れ帰ってきた男だ。
女はいらないからその場で首を跳ね飛ばした。女の血なんて吸う気にもならない。
男は女を殺されたショックで半狂乱になっていたが、ちょっと口付けを与えてあげるとたちまち私の虜になった。
私の言うことに何でも従い、日がな一日私に血を吸われる事を求め続けている。
最初の頃は可愛かった。吸っている時に時折見せるアヘ顔が見ていて愉しかった。持って帰ってきた女の首で自慰をしろって言った時に
喜び勇んで腰を振っていた様が愉快でたまらなかった。
でも、なんか醒めて来た。
なんで私はこんな奴を持って帰ってきたんだろう。ちょっと顔がいいだけで、どこにでもいるつまらない奴ではないか。
下で芋虫のように這い蹲っている姿を見るだけで、なんかムカムカしてくる。
「でも、飽きたなら捨てればいいだけのこと。所詮花嫁といっても、退屈を紛らわすだけの人形ではありませんか」
アルマナウスは青年を踏みつけている脚にぐい!と力を篭めた。吸血鬼の怪力で踏みつけられ、青年の体はあっけなくアルマナウスの
脚で串刺しにされてしまった。
- 青年は自分に何が起こったのか最初は理解できず、胴の辺りから滴り落ちる自らの血液の感触でようやく自分が主人に捨てられたことを
悟り…、主人の手で始末をつけられたことに満足げな笑みを浮かべて事切れた。
「あぁ…、何をしているんだアルマナウス。せっかく片付けたっていうのに汚してどうするんだい」
目の前に噴き出した血を見てアレクサウスは妹をたしなめたが、アルマナウスは全く意に介さず涼しい顔で兄に言い放った。
「どうせ、長居はしない城。気に入らないなら他の部屋を整理して使えばよろしいではありませんか。
小さい城とはいえ、空き部屋ならまだ両手に余るほどありますわ」
そう、この兄弟は吸血鬼としての生を得てから500年余、自身の終の棲家という物を持たず世界のいろいろなところを彷徨って来ており、
気に入った場所に落ち着くとその都度やりたい放題の所業を行ってきていた。
その場所も周期も非常に気まぐれなため個体としての知名度が上がることはなく、過去に起こった大きな未解決の吸血鬼関連の事件に
いくつも関わってきているのだが、教会のほうでその名が大きく取り上げられることは無かった。
彼ら自身は自分の名前を取って『南天』『北天』を自称していたが、正式な爵位ではないので勿論教会の資料には記されておらず
したがってニースも『南天の君』と言われてもピンとこなかったのである。
「そうだけれど…、僕はこの部屋が気に入っているんだ。仕方が無いな」
やれやれといった顔をしてから、アレクサウスは本を机に置いて両手をパチパチと叩いた。
すると、部屋向こうから音も無くメイド姿の女性が3人現れ、アレクサウスの前にすっと並んだ。
全員、首筋に噛み跡が見えることから兄妹の手でしもべにされた人間のようだ。
- 「お前たち、この肉を片付けて床を綺麗に清めて置くんだ。
僕たちは今夜、ちょっと出かけるからそれまでに染み一つ無いようにしておくんだぞ」
アレクサウスの言葉に、メイド達は表情も変えずこくりと頷いた。さっそく二人のメイドが哀れな青年の亡骸を抱えて表へと運び出していく。
「ああそう。その肉はお前達の好きにしていいからな。捨てるなり、喰うなり自由にしろ」
アレクサウスの言葉を背中越しに聞き、メイド達の顔が喜色に歪んだ。
メイド達は暫くの間青年を持ち歩いていたが、滴り落ちる血に我慢できなくなったのか足を持つほうのメイドが太腿にむしゃぶりつき、
それを見た腕を持つメイドが遅れてはならじと首に牙を埋めた。
暫くの間、静寂に包まれていた廃城の廊下に血を啜る音が響き渡っていた。
メイドが遺体を抱えて出て行ってから、アルマナウスは兄の方へ鋭い視線を向けた。
「兄様…、私も行かねばならないんですか?たかが人形の居場所を確かめに行くだけでしょう?」
アルマナウスがいかにも不機嫌そうに顔を顰め、兄に向けて不満をこぼした。
が、アレクサウスはそんな妹に諭すかのように話し掛けた。
「それもある。けど、見てみたいと思わないかい?
僕と血の交換をした花嫁の気配を感じさせなくなるほどの術式を使える相手というのを。
きっと、退屈しのぎにはもってこいだと思うんだ!」
このアレクサウスの言葉に、アルマナウスの顔はぱっと輝いた。
「ああ、なるほど!確かにいいおもちゃが見つかるかもしれませんね!
私、俄然心がときめいてきましたわ!!」
アレクサウスもアルマナウスも、そのはしゃいでいる姿は外見の歳相応に相応しいものである。が、
人をおもちゃと言ったり抵抗を退屈しのぎと捉える認識は、明らかに兄弟の本質の底知れない闇を表している物だった。
「では私、少し身支度を整えてきますわ。人間の前に出ても恥をかかないようにしておかないといけませんからね」
思い立ったが吉日か、アルマナウスは飛ぶように自分の部屋へと戻っていった。
「やれやれ…。いつまでも子どもだなアルマナウスは。それにしても…」
妹のはしゃぎぶりに苦笑したアレクサウスだったが、次の瞬間冷徹な吸血鬼の顔に戻り右手を顎のところに寄せながらぼそりと呟いた。
「僕の力を遮断するほどの力を持つ…。どういうことだ…」
通常、相手が不可視の結界を張ろうが血の繋がりを保っていれば気配を探ることは出来る。吸血鬼の血の支配というのは
それほど強固で強大なものなのだ。
それが、今回は気配すら断たれている。これが意味する物はただ一つ。アレクサウスが施したものより強烈な支配を、
相手が施した以外考えられない。
「なかなか面白いじゃないか。こんな昂揚感は久しぶりだよ…」
最近、心に燃え滾る物が久しくなくなり生きることに退屈してきたところだ。アルマナウスではないが心にときめきが迸り始めている。
「どんなものが待っているかは知らないけれど…、期待を裏切らないでくれよ。クフフ…」
口に手をあててほくそえむアレクサウスの足元では、床に散らばった血を残っていたメイドが真っ赤な舌を伸ばしながらピチャピチャと
美味しそうに舐め取っていた。
- ここで、話は少し前にさかのぼる。
ティオが聞き込みから戻ってきてニースに分かったことを報告してきたが、その内容は非常に芳しくないものだった。
「じゃあ、この近辺で吸血鬼の被害が出たってのはここ10年ないってことなの?」
「ええ。おまけにこの近辺に貴族の居城のようなものもないし、野良がまぎれてやってきたってこともなし。
本当に訳がわからないわ。これ」
ティオは打つ手が分からない、といったふうに両手を広げ、とすんと椅子に腰をつけた。これでは対策が立てようがない。
「ねえ…、ティオちゃん…。『南天の君』って言葉に覚えない…?」
ニースはニースで聞き出した唯一の手がかりをティオに尋ねてみたが、
「??いやゴメン。全然分からないわ」
と、無下に返されてしまった。
「あ〜あ、せめて相手が来る時だけでも分かればいいんだけれど…」
このまま、いつ来るかもわからない相手に毎夜臨戦態勢を敷いていては身が持たない。待ち構えるにしても、待ち伏せが出来るような
体勢を整えておかなければただでさえ不利な現状が挽回不能なまでになってしまう。
両手で頭を抱え悩みぬくティオに対し、ニースはいつもは見せないような真剣な表情を浮かべていた。
「ティオちゃん…、一つだけ吸血鬼をおびき寄せる方法があるわ」
「えっ?」
意を決したかのようにぼそっと呟いたニースの言葉に、ティオはぱっと顔を上げた。
「ティオちゃん、吸血鬼って血を交換しあった相手とはある程度離れていても相手がどこでどうしているか認識できるって知ってる?」
「え、ええ…。聞いたことが、あるわ…」
実際は、聞いているどころか実践されたりもしているのだが。
「この能力があるから、吸血鬼は一度血を交換した相手ならどこに隠れていようと探し出して再び牙を立てることが出来るの。
彼女の血を吸った吸血鬼も、これがあるから余裕ぶっているんだと思う。
だから、彼女を完全に隔離してしまえば吸血鬼は泡を食って探しに来るはずよ」
「…はぁ〜〜っ…」
ニースの言葉にティオはなるほど!と頷いた。確かにほっぽってある餌が突然どこに行ったか分からなくなったら探しにやってくるだろう。
「じゃあ、彼女をどこかに隠してから不可視の結界を張って…」
「無理よ。そんな結界ぐらいじゃ吸血鬼の認識を遮断することなんて出来ない。吸血鬼の私がいうんだから間違いないよ」
ニースは『わかってないなぁ』と言った風情で首を横に振った。
「うまくいくかどうかは分からないけれど…、私がリムに暗示を上書きしてみる。
相手がかけた力より私の力が上だったら向こうの認識は届かなくなるはず。そうなれば、向こうは彼女を見失うわ。
本当は、血を吸ってから暗示をかければ完璧なんだけれど、それは……」
そこまで言ってから、ニースはちらりとティオのほうを見た。
「………」
ティオは厳しい顔をしながら両手を胸の前でクロスさせ、大きなバッテンを形作っていた。
「ダメよね…。やっぱ」
ニースはちょっとだけ残念そうに首をかくん、と折った。
「じゃあ…。だめもとでやってみますか」
「となると…、どこか彼女を隠す場所が必要ね。この家のどこかに隠してもすぐに見つけられるだろうし…」
相手の吸血鬼の正体が全く分からないのは相変わらずだが、自分たちだってかなりの数の吸血鬼を相手にしてきたプロフェッショナル。
迎撃体勢さえ整えられれば勝負にはなる。ティオとニース、二人ともこの時点ではそう考えていた。
二人がリムの部屋に入った時、さっきのニースの魔眼の影響で気絶したリムはベッドの中で寝かされていた。
「さて…、ちょっと起きてもらうわよ」
ニースが手をパチリ!と鳴らすと、寝静まっていたリムの眼がカッと見開かれた。
「あ…?、主様ぁぁ…」
リムは熱に火照ったような目を窓のほうへと向け、よろよろと起き上がろうと身を起こした。
が、その前にニースが立ちはだかり、リムの顔をがっしりと両手で押さえ込んだ。
「ど、どいてぇ…。主様が、主様が…」
「悪いけれど、暫く主様のことは忘れてもらうわよ」
-
カァッ!!
ニースを跳ね除けようともがくリムに、ニースは渾身の力を篭めて魔眼を放った。
「あうっ……!」
魔眼の光を真正面から受けたリムは全身をビクン!と強張らせニースの魔眼から視線をそらそうと懸命に首を揺すり始めた。
「いやっ…いやっ…!」
「クッ…ちょっとは大人しくしなさい!忘れろって言ってるのよ!」
自分が全開にして放っている魔眼にここまで抵抗するとは、やっぱり彼女の血を吸った吸血鬼は普通の奴じゃない。
(でも、私だって今まで他の吸血鬼からたっぷり魔力を吸い取ってきたんだ!これくらいのことに負けるものか!)
「忘れろ!忘れろ!忘れろ忘れろ忘れろぉぉっ!!」
「あ、あ、きゃあああああぁぁっ!!!」
ニースは半ばムキになってぎりぎりとリムを睨みつけ続け、とうとう抗し切れなくなったリムは一際大きな悲鳴を上げると
全身の力をくたっと抜いてその場にどさりと倒れた。
「ち、ちょっとニース?!」
ティオが慌ててニースの元へ駆け寄ると、ニースは肩で息を切らしつつもニースの方へと振り向き、顔に満面の笑みを浮かべて
右手でガッツポーズを作った。
「やったよティオちゃん…。これでリムを噛んだ吸血鬼は彼女のことを認識できなくなったはずよ。ただ…」
『ただ』のあと、急にニースは険しい表情を浮かべて言葉を続けた。
「ただ、彼女を噛んだ吸血鬼…、強いよ。まさか、暗示を上掛けするだけでこんなに力を使うとは思わなかったもの。
間違いなく…、今まで相対した中で1、2を争うと思う」
「そう…」
普段は結構深刻な状況でもおどけた感じを崩さないニースがこれだけ真剣な表情を浮かべることが、語っている言葉の真実を裏付けていた。
それを感じ取ったティオも、その顔をキッと引き締めた。
「この子を感じ取れなくなった吸血鬼は、間違いなく今夜やってくるよ。そうなると…」
「わかってるわ。返り討ちにあわないよう慎重にいきましょう」
「………」
自分のほうへ向けて笑顔をおくるティオを見て、ニースは顔にこそ見せないものの心の奥で不満をぶちまけた。
(ティオちゃんは全然わかってない…)
私はこんな危険そうな吸血鬼とティオちゃんを向わせたくない。今からでもティオちゃんの意識を魔眼で奪ってこの町から逐電したい。
寝ているティオちゃんはあんなに従順なのに、起きているティオちゃんは私の本音をわかってはくれない。
(ティオちゃんが私のものになってくれるまでの辛抱だけれど…、こんなことが続いたら我慢しきれない、かも…)
ニースは思わずティオの首筋を眺め、ごくりと唾を飲み込んだ。
ティオはリムの両親の了承を得て、リムを町の教会の一室へと送り込んだ。向こうからすれば隠し場所としては分かりやすいような
気もするが、聖なる気に包まれた教会の中ならそう簡単に侵入することも出来まい。当然、一室には不可視の結界を張っている。
そしてもちろん、ニースは教会に近づきたくはないので部屋で待機中である。
「本当に…、娘は助かるのでしょうか?」
吸血鬼など見たこともないゆえに、不安にかられている両親がティオに再三同意を求めてきている。
「……大丈夫ですよ。必ず、娘さんを吸血鬼の手から解放してあげますから」
正直言って保障など出来はしないのだが、ここで余計なことを言って心配事を増やしても何の意味もない。
とにかく、今夜襲撃してくる吸血鬼を確実に仕留めるだけだ、とティオは気持ちを整理していた。
そして、日が沈んだ。
闇の者が蠢く時間帯である。
- ティオとニースはいつにない重武装で、風一つ吹いていない表に立っていた。
ティオはいつも両手に持っている二本の短剣に加え両腿に予備を二本備え、さらに上着に四本仕込んでいる。
ニースもすでに剃刀のように研ぎ澄まされた両手の爪を長く伸ばし、臨戦態勢を整えている。
一応教会の牧師を通じて町長に掛け合い、町の人間には夜に外を出歩かないよう言い聞かせてあるので周りには猫の子一匹いない。
「…もう三時間は経っているわね。ニース、どう?まだ気配は感じない?」
ティオの言葉にニースはこくりと頷いた。なにしろいつ来るのか、そもそも本当に今夜来るのかも保障できないのだ。
「じれったいわね…。来るならさっさと来ればいいのに……」
緊張感を持続するのに疲れてきたからか、ティオがぼそりと悪態をついた、その時
「君達が今回の趣向を凝らした人間かい?せっかくだから、お招きに預からせて貰ったよ」
二人の上空から、透き通るような声が響き渡った。
「「えっ!!」」
ギョッとした二人が上を見上げると、そこにはほぼ真円になりつつある月を背景に二つの人型のシルエットが浮かんでいた。
一人は、タキシードに黒いマント、赤いリボンタイをつけた金髪の美少年。
一人は、モノトーンのドレスにビスクドールを小脇に抱えた金髪の美少女。
顔立ちが似ているから、どうやら二人は兄妹のようだ。
気品溢れるその姿は、どこか身分の高い出自を連想させるものがある。が、勿論彼らは人間ではない。
人間はそんな紅い虹彩を持ってはいない。人間はそんな青白い肌をしていない。人間は獣のような牙は持っていない。
そして何より、人間は空を飛べない。
「い、いつの間に?!」
「うそっ?!全然気がつかなかった…」
ティオもニースもあまりのことに呆然とするしかなかった。
ティオは、あっけなく自分の死角をとられたことに。もし向こうがその気なら、自分は知らないうちに命を断たれていてもおかしくはない。
ニースは、相手の気配を全く感じ取れなかったことに。吸血鬼になって感覚が鋭くなってから、こんなことは初めてだった。
「僕の名前は『南天のアレクサウス』。短い間だけれど、覚えていてくれると嬉しいな」
「私は『北天のアルマナウス』。あなた方は少しは楽しめるのかしら…あら?」
二人の前で余裕ぶって自己紹介をしている時、アルマナウスがニースをちらりと見て軽く目を見開いた。
「兄様、あっちの方…、私たちとご同類ですわよ」
アルマナウスの指摘に、アレクサウスもニースを眺め、ほほうと目を細めて笑顔を浮かべた。
「なるほど…。何で人間と一緒にいるのかは知らないけれど、花嫁を認識できなくなったのはどうやら彼女が原因のようだね…」
ニースとティオ、双方をちらりと見たアレクサウスは何かを思いついたのか不敵に微笑むと、アルマナウスにしか聞こえないような
小声でそっと囁いた。
「アルマナウス、僕が彼女の相手をしている隙にあの人間を捕らえてくれ」
「捕まえて、花嫁の居場所を白状させるのですか?余り面白い趣向ではありませんわね」
「まあ、そういう考えもあるけれど、もしあの人間がそれなりに力をもっていたら……」
アレクサウスはアルマナウスの耳元に顔を近づけ、ぼそぼそと何かを呟く。それを聞いたアルマナウスの顔がにんまりと輝いた。
「まあ、それは面白そうですわね…。でも、もしあの人間がたいしたこと無かったら…、壊しちゃいますわよ」
そう言ってからアルマナウスはクスリと微笑むと、スッと夜の闇に消えていった。
「そこいらへんは任せるよ…。さて、と」
アレクサウスの方はふわりと音も無く地面に降りると、ニースを興味ありげに見つつ語りつけてきた。
「はじめまして、共に夜を生きる輩よ。あっちの人間は君の人形かい?」
アレクサウスはティオを指差してニースに尋ねてきた。当たらずとも遠からず、と言ったところだが。
もちろん、そんなことを言われたニースはいい気はしない。ムッと表情を強張らせてアレクサウスを睨みつける。
「彼女、人間の割にいい力を持っているようだね。どうだい?花嫁はあきらめるから、彼女を僕たちにくれないか?」
「な?!ふ、ふざけるんじゃないわよ!!ティオちゃんをお前達にやるわけないでしょ!!」
ティオちゃんは私のものだ!という言葉は心の中で続けた。
「お手付きを回収しに来ただけかと思ったらティオちゃんにまで手を出そうとするなんて、このマセガキが!!」
- 「おいおい、少なくとも僕は君よりはずっと長生きだよ。ガキにガキ呼ばわりされたくはないな。
どうせ、まだロクに交わった経験もない『ガキ』なんだろ?君は」
アレクサウスは余裕の笑みを浮かべながらニースの言葉をさらりと受け流している。流石に500年生きているだけあって
人生経験も人のあしらい方もニースとは比べ物にならないほど豊富だ。
「な、な、な……」
自分よりはるかに年下にしか見えない吸血鬼にいいように言われ、ニースの顔には普段はティオの前では絶対に見せないようにしている
吸血鬼の残忍な本性がめらめらと湧き上がってきていた。
ニースは怒りのあまりガチガチと牙を震わせ、怨念が篭りまくった瞳でアレクサウスを睨みつけた。
(人をバカにして…。絶対に許すものか!妹もろともその血、吸い尽くしてやる!!)
「ちょっとニース、あまり興奮…」
「ガキがぁっ!覚悟しろおおぉっ!!」
ただならぬニースの形相に慌てて諌めようとしたティオだったが、それを聞く間もなくニースはアレクサウス目掛けて
爪を振りかざして猛然と襲い掛かっていった。
「でぇぇぃ!!」
「おっと」
脳天を切り裂くかのように振り下ろされた爪撃を、アレクサウスは涼しい顔で受け流した。
「このっ、このっ、このぉっ!!」
ニースも息つく間もなくぶんぶんと攻撃を繰り出すが、どう見ても命中する気配はない。
「ニース!先走りすぎよ!」
連携をかける間もなく戦闘を始めたニースに、出遅れたティオが加勢しようと剣を抜いて近づいたが、
その行く手にアレクサウスの片割れの吸血美少女がスッと立ちはだかった。
「貴方のお相手は、私が致しますわ」
「っ!そこをどきなさい!」
ドールを抱えたまま無造作に立つアルマナウスに、ティオは左手に構えた短剣をビュッ!と突き出した。
「そんなもの…」
もちろんアルマナウスは軽やかに避けるが、そのため前方にニースへと近づく道が出来た。
「あなたの相手は後でゆっくりとしてあげるわ!」
ティオは体を捻ってアルマナウスの横を抜け、ニースへと近づこうとした。が、
「そんなつれないことは仰らないでくださいな」
フッと笑ったアルマナウスは、手に持っていたドールをぽい、とティオの前方へ放り投げた。
ドールは慣性の法則に従って放物線を描き、そのまま地面へ叩きつけられ…はせず、両の足ですとり、と着地した。
「えっ?」
ティオがその不自然な動きに訝る間もなく、ドールはむくむくと大きくなりたちまち2m近い巨躯となった。
無表情なドールのガラスの瞳が、ティオをじーっと睨みつけている。かなりシュールだ。
「エメラルダス、その人間を軽く痛めつけて上げなさい。兄様の花嫁の居場所を、白状できるくらいにね」
エメラルダスと呼ばれたドールは、アルマナウスの言葉に反応してその手を振り上げ、ティオ目掛けて振り下ろしてきた。
「ちょ!ま!」
慌ててティオは後方に身をかわし難を逃れたが、物凄い風圧と共にドールの掌がティオの頭先を掠めていった。
「うわっちっ!なんて勢い……、えっ?!」
一歩後退し体勢を立て直そうとしたティオだったが、ドールは想像以上の素早さでティオに接近し、間髪いれず攻撃を繰り出してきた。
「うわっ!ちょっ!たっ!」
ブンブンと空気を切り裂いて襲い掛かるドールの怒涛の攻撃に、最初は防戦一方のティオだったが、所詮人形だけあって
機械的で画一な攻撃に次第にパターンを見切り始めた。そして、横凪の攻撃をかわした後、一気にドールの懐に飛び込んだ。
「人形が、調子に乗るな!!」
懐の深いドールは反撃が間に合わない。確実にしとめたと確信したティオは肩口目掛け剣を振り下ろした。が、
ガキンッ!!
- 「えっ?!」
ティオの短剣は澄んだ音を立てて弾かれてしまった。
「フフフ、エメラルダスは磁器で出来ている人形ですわ。それに私の魔力で強度を増していますの。
そんな短剣で傷つきはしませんのよ」
確かに、ティオの短剣は対吸血鬼用の銀で誂えた特別製だ。吸血鬼相手には絶大な威力を放つものの、鋼の剣よりは大幅に強度は下がる。
まして、相手は吸血鬼ではなく人形。まだ包丁の方が勝手がいいかもしれない。
「しまった…。普通の剣も用意しておけば…」
まさか人形を相手にするとは思わなかったティオに対吸血鬼用以外の武器は携帯していない。
「あらあら、もうおしまいですの?ちょっとつまりませんわよ」
アルマナウスの嘲笑と共に再びドールが猛攻を展開してきた。あれだけ強度のある体に迂闊に剣を打ち込むと、
下手をしたら剣が曲がって使い物にならなくなってしまう。
「どうしたらいいの……、きゃっ!」
対処法が纏まらないまま攻撃を避け続けたティオは、つい足元への注意を怠ってしまっていた。
あっ!と思ったときには既に遅く、縺れた足が足を引っ掛け無様な形で地面にすっ転んでしまった。
「あいたた…、わっ!!」
転んだ拍子で一瞬だがドールから目を逸らしてしまい、慌ててティオが目線を戻した時、そこにはまるで蝿たたきのように
掌を振り上げたドールがいた。
「くうぅっ!!」
立っていたんでは間に合わない!そう咄嗟に判断したティオは横に体を捩ってその場を動き、すぐに後方へバック転し身を起こした。
その直後、ドカン!と言う音と共につい今までティオがいた地面は、ドールの叩き付けた手により50cmほど陥没していた。
「ち、ちょっと!あれで『軽く痛めつける』ってことはないでしょ!あんなの喰らったら死ぬわよ普通!」
「かわしたのだから問題ないでしょう?それに、そんな簡単に壊れるおもちゃなら必要ありませんわ」
「お、おもちゃ……?!」
恐らくおもちゃとはティオの事を指しているのだろう。
「あなたねぇ!人をおもちゃ呼ばわりすることはないんじゃないの?!おもちゃ呼ばわりは!」
「なんでですの?貴方達人間は、私たち悠久の命を生きるものたちの人生を潤すおもちゃじゃないですか。
あなただって子供の時、暇つぶしにおもちゃで戯れ、飽きると捨てたり壊したりしたでしょう?それと同じことですわ」
アルマナウスは口に手を当て笑い、あくまでも上品に振舞いつつ異常に下劣なことを言ってのけた。
「なっ…?!」
この目の前にいる少女は、人間の命のことなど鴻毛のように軽い物だと思っている。
あんな幼い外見はしているが、やっぱりあの娘は吸血鬼だ。戯れに人を襲い、嬲り、喰らう吸血鬼だ。
不意をついた登場と意外な容姿に惑わされてきたが、これで気持ちの整理がつく。
ティオの体は憤りで燃え上がるのを感じつつも、その心の中は意外なほど冷静になってきてきた。
「あら…?」
アルマナウスがぱっとみて気がつくほど、ティオの纏った雰囲気が変わり始めていた。
ドールの攻撃に泡を食っていた小娘ではなく、幾多の吸血鬼をその手にかけた狩人の凄腕戦士としての風格が周りに漂っていた。
「そうでなくてはいけませんわね…。
さあ、おやりなさいエメラルダス。両手両足ぐらいは折っても構いませんわよ」
アルマナウスの声に反応したドールが両手を振り上げてティオに向っていく。が、待ち受けるティオの顔には余裕の笑みさえ浮かんでいた。
「いくら大きくても、所詮は人形!」
ティオはドールの突進に逃げることなく、真正面から切り込んでいった。そして、
幾条かの煌きが見えた後…、ドールの両腕がぼとり、と斬りおとされた。
いや、腕だけではない。
続いて首がごとりと外れて地面に落ち、がしゃんと小気味良い音を立てて割れ砕け、最後に胴体が寸断されて崩れ落ちた。
「体の皮は固くても、関節って言うのは人間同様脆いものなのよ」
「エ、エメラルダスを一瞬にして?!」
その早業にさすがにアルマナウスも驚きその場から離れようとする。が、それよりも早くティオが間合いを詰めてきた。
- 「は、速…」
「滅しなさい、吸血鬼!!」
ティオは右手に構えた剣を、アルマナウスの心臓目掛けて一直線に突き出した。
アルマナウスがかわす間もなく、剣はずぐり、とアルマナウスの体を貫通した。どう見ても致命傷である。が、
「………?!」
ティオは、その何ともいえない不可思議な手ごたえに眉をひそめた。剣の入れ口は妙に堅く、胴の中は逆になんの手ごたえもない。
「これって、まさか…」
これも人形?!と直感した時、致命傷を入れたはずのアルマナウスの顔がニヤリと不気味に笑い、自身を突いたティオの右腕を
両手でがっしりと押さえつけてきた。
「ぐっ、このぉ…、離せ……!」
「あと少しでしたけれど…、残念でしたわね」
ティオの後方から、本来は前方で聞こえなければいけない声がする。ティオが後ろを振り返ると、そこにはいま自分に胸板を
貫かれているはずのアルマナウスが微笑みながら立っていた。
「迂闊だったわ…。まさか、最初から人形相手に戦っていたなんて思わなかった…」
「普通は、そう気づく間もなくエメラルダスか私の影に殺されているんですのよ。この影は人形遣いである私の自信作ですから」
人形遣い(パケットマスター)…。ならば、あれだけ人形を使いこなせるのも納得がいく。
「ふふふ…、それだけ貴方の力が凄いということですわ。兄様の戯れでこんなところまで来てしまいましたけれど、
こんな素晴らしいおもちゃを見つけることが出来るなんて思いませんでしたわ」
アルマナウスの瞳が好奇に彩られ、紅い舌が唇の上をぺロリとなぞっていく。
(いけない…!このままでは血を吸われる!)
瞬間的に直感したティオは、ニースのほうをパッと見た。が、ニースはアレクサウスを捉えるのに夢中でティオの危機に
気づいた様子は全くない。
「ニ、ニー……むぐっ!」
慌ててニースに助けを呼ぼうとしたティオだが、声を発するより前にアルマナウスの冷たい手がティオの口をぴたりと塞いできた。
「むー、むーっ!!」
「ご安心なさい。私、女の血を吸う趣味はございませんの」
手で口を抑えたまま、アルマナウスはティオを安心させようかという口ぶりで優しく語り掛けてきた。
が、次にアルマナウスが浮かべた笑顔は愉しげに暗く歪んでいるものだった。
「それに、あなたを同族へ加える気もありませんわ。
なにしろ、もっと面白い趣向があるのですから…」
そう言い放った直後、アルマナウスの掌がティオの唇から離れていった。
が、ティオがニースへ声を上げる前に、暗い笑みを浮かべたアルマナウスの紅い唇がティオの唇をそっと塞いできた。
「んんっ?!」
予期せぬ出来事にティオの目が白黒するが、それも一瞬のことだった。
(あれ…、なに?頭が、ボーっとしてくる……)
唇を重ねているところから、甘く痺れるような感触が全身に広がっていっている。
手も、足も、ぴりぴりと痺れ、次第に感覚がなくなっていく。動かそうとしても、まるで糸に縛られたかのように動かない。
だんだん、考えるのも面倒、にな ってき てい る
わ た し のから だがわ た し のもの で な く な
「………」
「ふふ…。これで貴方は私のお人形…」
アルマナウスがティオから唇を離した時、ティオの瞳はまるでアルマナウスが抱えていたビスクドールのガラスの瞳のように
虚ろなものになり、表情は人形のように無感情な物になっていた。
「ご安心なさい。お城に戻ったら魂は返して差し上げますわ。このままでは何の意味もありませんからね。
さあ、私を兄様の元へ連れて行きなさい」
「はい」
アルマサウスの言葉にティオは無表情のままこくりと頷き、アルマナウスを恭しく両手で抱えるとアレクサウスの元へと歩き出した。
- 「くそこのこのこのぉっ!!」
ニースの方は、相変わらずアレクサウスを捉えきれず無為な攻撃を繰り返していた。
「まったく…、真剣に力を篭めていなかったとはいえ僕の暗示を封じられるのだからどれほどのものかと思ったけれど…
力はあるようだけれど、使い方がてんでなっていないね」
「知った風な口を聞くなぁーっ!!」
あくまで余裕の笑みを浮かべ、時には諭すような口調でニースに話し掛けてくるアレクサウスに、ニースの
不快感は頂点まで達しようとしていた。
「ほら、そんなに頭に血を上らせるから単純な力押ししかできないんだ。そんなもの、先を読むのはわけないよ。それに…」
ニースの後方をちらりと見たアレクサウスは、くすっと拳を口に当てて微笑んだ。
「僕の方しか見ていないから、自分の人形がどうなったかも理解できないなんて、ね」
「えっ?!」
アレクサウスの言葉に、ぎょっとしたニースが動きを止める。その時、アレクサウスの横にすとん、と降り立つ者があった。
「ティ、ティオちゃん?!」
ニースが驚いたのも無理はない。何しろ、討滅するはずの吸血鬼兄妹にまるで主従のように立っているのだから。
「どうしたの、ティオちゃん!!」
ニースの呼びかけにも、ティオは何の反応も示そうとはしない。まるで、ティオの姿形をした人形のようだ。
その時、ニースの頭にぞっとした想像が広がった。
「まさか…、お前…、ティオちゃんの血を吸ったのか……」
私だけの、私だけが口にしていいティオちゃんの血を吸ったのか?!だとしたら、絶対に許さない!!
「ご安心を。私、女の血を吸う気はございませんので。
このおもちゃには、ちょっとの間だけ私のお人形になって貰っているだけですわ」
アルマナウスはまるでニースに見せ付けるかのように、ティオの頬をさわさわと撫で上げている。
「…っ!」
不覚だった。アレクサウスの挑発に我を忘れ、本来二人掛りで挑まねばならない吸血鬼を一対一の状況にしてしまった。
おまけに、アレクサウスにかかりっきりでティオの危機を全く見落としてしまっていた。
ティオに注意を向けていれば、血の繋がりがあるから難なく感じ取れることが出来たのに!!
「今宵は満月まで後一日。明日になったら正式に花嫁を迎えに来る。その時まで、君の人形は預からせて貰うよ。
ああ、取り返しに来ようとしても無駄だよ。君が僕の花嫁の気配を断ったのと同様、この人形の気配も断たせてもらうから」
アレクサウスの右手がティオの左腕を掴み、アルマナウスの左腕がティオの右腕を掴む。
そのまま二人の体がふわりと持ち上がり、ティオごと夜の空に次第に浮かび上がっていく。
「あっ!ま、待て!!」
「じゃあまた。明日ちゃんと僕の花嫁を用意しておくんだよ。そうしないと、君の人形がどうなるか…」
夜の闇に隠れ、吸血鬼兄妹とティオの姿がどんどん擦れていっている。
「ドロボーッ!返せっ、ドロボーッ!!」
「…子どもか、君は…」
その言葉を残し、三人は完全に姿が見えなくなった。
「畜生、畜生、ちくしょおーーーっ!!ティオちゃぁーーん!!」
物音一つしない街中に、ニースの慟哭がいつまでも響き渡っていた…
第四回終
- 『猟血の狩人』 第五回
ティオが吸血鬼兄妹によって攫われてから一夜がたち…
ニースは来たくもない教会を訪れ、眠り続けるリムと一緒にいる両親に事の顛末を話した。
「それでは…、結局吸血鬼は倒せなかったのですか」
リムの両親が顔にあからさまに失望の色を浮かべて呟いた。娘を狙う吸血鬼に、これからも怯えなければならないという暗鬱とした
気持ちと、何故吸血鬼を倒してくれなかったのかとニースに対する不満が心の中に渦巻いている。
「………」
その内心を察して、ニースは心底から目の前の二人を憎々しいと思った。
(何よその目は…
自分たちで自分の娘すら守れないクズの癖に、私たちを非難する資格なんてあると思っているの?!
だいたい、お前達のせいでティオちゃんは攫われたっていうのに、それに対する謝罪もない訳?!ムカツク!)
願わくば、今すぐにでもこの家族をズタズタに切り裂いて豚の餌にでもしてしまいたい。
血を一滴残らず吸い尽くす、という選択肢すら拒否するほど今のニースはこの一家に対する憎悪を募らせていた。
しかし、ティオの命が抵当に取られている以上、少なくともリムを今殺すわけにはいかない。
(でも…、ティオちゃんを危険な目にあわせた代償は、必ず払って貰うわよ…)
「それだから、悪いけれどリムを今晩連れ出すわ。もしこのまま隠し続けると奴ら、きっと町中を灰燼に帰しても探し続けるよ」
多分にはったりを含んでいるが、こうでも言わないと絶対このクズ共は娘を差出しはしないだろう。と、ニースは考えていた。
(もしそれでもリムを寄越さないなら、ガキ達に代わって私がこの町をメチャメチャにしてやる!)
なにしろ、リムを持ってこないとティオが危害を被る事になってしまうのだ。
ニースの優先基準からすれば、この町の住人全員の命よりティオ一人の命の方が断然重い。太陽さえ暮れてしまえば、ニース一人ででも
恐らく2時間ちょっともあればこの町の住民全員を殺し尽くすことは可能だ。
ニースはじーっと凍て付くような視線で両親を睨みつけ、無言の圧力を加え続けた。
手っ取り早く言う事を聞かせるために魔眼を使うという手もあったのだが、あえてニースはその選択肢を外した。
この同意は、あくまでもこいつらの意思でされなければならない。
そうでないと、この後に起こる事態にこいつらの責任が問えないからだ。
「で、ですが…、娘を夜に連れ出すというのは…」
それでも、リムの両親はまだ躊躇っていた。
そりゃ吸血鬼狩りのプロ二人掛かりでも倒しきれず、片割れを連れ去ってしまうほどの強大な吸血鬼だ。
一人だけになったニースが勝てるか?と考えれば、その可能性は皆無に等しい。
そんなニースに大事な一人娘を預けたら、吸血鬼にどうぞ私たちの娘を連れ去ってください、と言っているのと同じと考えても無理はない。
「とりあえず、一晩様子を見て…」
「まずは、確実に吸血鬼を殺すために誰か応援を…」
なんとかリムをこの場に留めようと、両親はあれこれと理屈を捏ねてニースに納得させようとしてきた。
ニースの相方が攫われたのには同情するが、所詮両親にとっては他人であり、肉親のリムの身の安全の確保の方が優先されるのは当然だ。
が、それはニースにとっても同様である。
耳障りな言い訳を暫く聞き続けたあと、ニースは突然バン!と手元の机を手ではたいた。
その勢いたるや、机の脚がミシリと嫌な音を立てたのみならず、面が多少ひび割れるほどの衝撃であった。
ギョッとした両親は騒いでいた口をぴたっと閉じ、恐る恐るニースの顔を覗いてみた。
「言っておくけれどね、あんた達に選択権はないの」
空気が凍りつくほどに冷たい声を放ったニースの表情は、昨日ティオと一緒にいたときに見せていた無邪気な笑顔とは一変した
禍々しさ溢れるものだった。
- 「あんた達が娘を大事にしているのと同様、私もティオちゃんのことがとっても大事なの。
ティオちゃんを取り戻すためだったら、私はどんなことでもするわ。あくまでもあんた達がこの子を貸さないっていうんだったら、
私はあんた達を殺してでも連れて行く。これは本気よ」
髪の間から覗くニースの瞳が異様にぎらついて見える。声の調子からも表情の真剣さからも、ニースが本気なのは見て取れる。
「っ………?!」
リムの両親はニースの発する雰囲気にぞっと背筋を震わせた。
もしあくまでも娘を渡すのを拒めば、ニースはなんの躊躇いもなく自分たちを殺すだろう。
このまま娘を渡したら、娘が吸血鬼に殺される可能性は高い。だが、そうしなかったら自分たちは確実に目の前のニースに殺される。
そして、結局娘はニースに連れ去られてしまう。
「………、分かりました。娘をあなたにお預けします」
さらに多少の逡巡の後、両親はとうとうリムをニースに預ける決意をした。結果が変わらないならば、ニースに全てを賭けてみるのも
悪い選択肢ではない。
「ですが……、必ず、必ず娘を狙う吸血鬼を滅ぼしてください、お願いします……。っ!」
こうなったらと腹をくくり、ニースに頭を下げた父親の目に入ったもの。
それは、憎悪と殺意と怨嗟で染まり、歪みきったニースの真っ赤な瞳だった。
「当たり前よ…。ティオちゃんを私から奪った連中…。絶対に許すものか。
どんな手を使ってもいい。あいつらの顔を絶望と後悔で化粧し、手足をもいで動けなくしたところで全身の血を抜いていやる…
見てらっしゃいよ、あのガキ共が……」
ギリギリと歯軋りする口元から妙に長い犬歯が見えるような気がする。
(まさか…、この人…)
父親はその形相から、もしかしてこの女性も吸血鬼なのではないか?と一瞬心の中で思ってしまった。
それは正鵠を射たものではあったが、父親自身吸血鬼を一度も見たことがないのと、日中に教会の中に入ってくるニースを考えたら
まさか彼女が吸血鬼のはずがないと勝手に結論付けてしまった。
ある意味、命拾いしたともいえる。
もし、ニースに吸血鬼ではないのかと少しでも話し掛けでもしたら、さすがに有無を言わさずに殺されていたであろう。
「とはいえ…、どうしたものかしら」
眠らせたままのリムを自宅へと戻させ、ニースもまたリムの家へとさっさと引き上げてきたが、先への展望が開けたわけではない。
「奴らの意表をつく手段は既に考えてあるけれど…、絶対的に人手不足なのよね」
なにしろ敵は少なくとも二人いるのに、こちらにはニースただ一人。
心の中では、アレクサウスとアルマナウスにいかなる恥辱を与えて地獄に落すかのアイデアがあれこれと浮かんでくるものの、
現実にそれが出来るか?と問われれば相当に困難と言わざるを得ない。なにしろティオと二人がかりでも手玉に取られたのだから。
少し頭を冷やして考えたら、あの二人が相当に強いことは分かる。爵位こそ名乗ってはいなかったが、間違いなく高位貴族に匹敵する
齢と魔力をもっているだろう。一対二で勝てる相手ではない。
「となると、こっちも複数で当たらなければいけないだろうけれど…」
まさか、町の人間に助けを借りるわけにもいかない。ニースが吸血鬼だってことがばれると逆に攻撃されかねないし、
そもそも多少腕に自信がある人間風情が相手に出来るものじゃない。絶対に足手まといになってしまう。
「そうなると、頼れるのは…、これしかないかな…」
ニースは、遮光用の装身具である降闇を撒くりあげ、裏に縫い付けられた大量の小瓶をじっと眺めた。
この小瓶の一つ一つには、かつてティオと一緒に狩り魔力と血を奪い尽くした吸血鬼の灰が詰められている。
通常、この程度の量の灰では普通に血を与えても復活することは出来ないが、魔力がふんだんに込められたニースの血ならば
僅かばかりの血でも灰の状態からニースの忠実なしもべとして蘇らせることが出来る。
-
だが、
この灰になっている吸血鬼は前述の通りニースが魔力を奪い尽くした絞りカスなので、人間相手には充分すぎるものの高位の吸血鬼を
相手にすると『いないよりはマシ』程度の代物にしかならない。実際、カスを10人ほど蘇らせたとしてもアレクサウスほどの力を持った
吸血鬼なら、一体倒すのに3分はかかるまい。それでは時間稼ぎにもならない。
「せめて、この中でも少しでもマシな奴を……って、ちょっとまった!」
まじまじと小瓶を見ていたニースだったが、そのときふと『あること』を思い出した。
「いるじゃない!私のしもべで、かつ力を奪っていない奴が!!」
嬉々とした笑顔を浮かべたニースの視線の先には、つい先日灰を詰めたばっかりの二本の小瓶があった。
ニースはブチリと小瓶を縫い付けてある糸を引きちぎると、蓋を投げ捨ててから自らの親指をその鋭い牙で噛み破った。どす黒い吸血鬼
の血がぷくーっと親指の腹に膨らんでくる。
その血をニースは数滴づつ、小瓶の中へと垂らしこんだ。
すると、瞬きする間もなく小瓶から白い煙がしゅうしゅうと立ち昇り始め…、ブワッと白煙が広がったかと思うと徐々に収縮して
人の形を取り始めた。
やがて、人型となった煙は色を為して実体を採り、ニースの前に若い男女の吸血鬼が顕現した。
男は幼い背格好で童顔。長く伸ばした髪を肩口辺りで結わいている。
女は長身短髪、猫科の肉食獣のような四肢と鋭利な容貌を備えている。
「おはよう。リオン、アンナ」
リオン、アンナと呼ばれた吸血鬼は、ニースの声に固く閉じられていた瞳をカッと開いた。血よりも紅い虹彩がゆっくりと動き、
自分たちの主の姿を捉える。
「「おはようございます、ニース様」」
かつてニースやティオと同じ『狩人』に所属していたが、ふとしたことから吸血鬼と化し灰になってニースの懐にしまわれていた
リオンとアンナはニースの姿を認めると恭しく傅き礼をとった。二人の体に流れる血が、瞬間的に目の前のニースが
自分たちの主であることを知らせ忠誠の礼をとらせたのである。
「ニース様、また私たちに命をくださり有難うございます」
アンナが嬉しそうに自分たちを復活させてくれたニースへ感謝の言葉を述べた。
とは言っても、彼女らを灰へと帰したのはそのニースであるのだが、もとよりアンナはニースによって吸血鬼へとされており
親吸血鬼であるニースは絶対的な存在となっている。アンナにとってニースは主人であり持ち主であって、道具である自分がどう
扱われようが文句を言える立場ではないのである。
そしてそれは、アンナによって吸血鬼となったリオンにも同じことが当てはまる。アンナがニースの支配下にある以上、
そのアンナが親吸血鬼であるリオンとっても、ニースはアンナ程ではないが忠誠を誓う存在である。
「これでようやく、人間の血を啜ることが出来るんですよね…」
リオンが、もの欲しそうに唇の周りを舌でなぞった。リオンの血を吸うことが出来たアンナと違い、リオンは吸血鬼に
なって早々ニースによって灰にされてしまったため、人間の血の味をまだ知らないでいる。
「ああ…、我慢できない…。血が、血が欲しい……。あっ…」
一刻も早く血を味わいたいのか、うわ言のように呟くリオンが、ニースの後ろで寝ているリムを目ざとく発見した。
「なんだぁ…、人間がすぐそこにいるじゃないですか。
ニース様、その人間の血、少しでいいんですから吸わせてもらえませんかぁ…?」
リオンは欲望に目をぎらつかせてニースに頼み込んできた。
見ると、アンナも舌なめずりをしながらリムのことを眺めている。二人にとってリムは極上の御馳走に見えるのだろう。
「うふふ、この子にも私たちの牙で天国を見せてあげないとね」
「そうですよね、アンナ様ぁ。
ああ、あの真っ白な肌…。そして、その下に流れる赤い血……、たまらないよぉ…」
リオンもアンナも、顔に笑みを張り付かせたままじわりじわりとリムへと向けて近づいていっている。ニースの返事を聞く前に
今にもリムへ向けて喰らいつきそうだ。
- 「………、ダメよ」
しかし、勿論それを許すニースではない。左手をリムとアンナたちの前にかざし、二人がそれ以上進むのを阻止した。
「えっ…?なんでですかニース様。せっかく餌が目の前にあるのに……」
初めて血を吸う機会を奪われたリオンが、あからさまな不満を顔に浮かべた。アンナの方はニースがダメと言ったのだから
しかたがないと思っているが、アンナ程ニースへの支配力がないリオンはそう易々とは納得はしない。
「この人間の血は吸ってはダメ。大事な取引材料なんだから」
「取引材料…、ですか?」
アンナがニースの言った言葉をおうむ返しに返した。何の、取引材料なのか。
「この人間のせいで、ティオちゃんが吸血鬼に攫われたわ。そして、今晩こいつと引き換えにその吸血鬼がやってくる」
そう言われて、初めて二人はこの場にティオがいないことに気が付いた。
「そう言えば…、先輩の姿が見えない…」
「………」
リオンは周囲を改めてきょろきょろと見回し、アンナはティオという言葉を聞いて少し複雑な表情を浮かべた。
「どうしたのアンナ?まさかあなたまだティオちゃんのことを…」
殺す気じゃないでしょうね?と、ニースはアンナへ向けて鋭い視線を送った。
「いえ、ニース様が大事にされている先輩を殺める気などもう少しもありません。
第一、私は自らの手でリオンを自分のものにしたのです。今更先輩を狙う理由もありませんし」
そう言ってはみたものの、アンナの表情はやはりちょっと曇ったままだった。以前、殺したいほど憎みきっていた相手だけに
ニースの支配力に心が呪縛されていても、そうそうその想いは消せないのだろう。
「そんな…、あの先輩が攫われるなんて…」
リオンは少なからずショックを受けたのか呆然としている。こっちも吸血鬼になってもティオを慕う心はあまり変わらないようだ。
「じゃあ一刻も早く先輩を助けなければいけないじゃないですか!
このままじゃ先輩の血が、その吸血鬼どもに奪われてしまいますよ!
そんなことになったら、僕が先輩の血を味わえないじゃないですか!!」
もとい、やっぱり心は吸血鬼側にぶれているようだ。
「ニース様、今すぐにでも…」
「落ち着きなさいリオン!」
焦りまくるリオンに、ニースはぎろりと睨みつけながら一喝した。
「今は真昼間よ。降闇がある私はともかく、あんたたちなんか一瞬にして燃え尽きてしまうわ。
それに、あいつらティオちゃんの気配を完全に消して私に感知されなくしているの。どこにいるかも分からないティオちゃんを
どうやって探すっていうの?!」
ニースの声には苛立ちが隠せないでいる。リムと取引すると言っている以上、アレクサウスがティオの血を吸うという可能性は低いと
思っているが、絶対にないとは言い切れないところが歯がゆい。
それ故、ニースも内心気が気ではなかった。
「あなたたちは私に力を奪い取られないまま私のしもべになっているわ。だからこそ、今回ティオちゃんをさらった吸血鬼に
対抗するために蘇らせたの。
あなたたちは吸血鬼としての力はまだまだ弱いけれど、狩人じこみの体術があるわ。吸血鬼の体になったあなたたちは、人間の時より
はるかに身体能力が増しているからそれなりの吸血鬼にも太刀打ちできるはずよ」
ニースの言葉に、アンナはこっくりと頷いた。
が、リオンは少し浮かない顔をしていた。
「ですがニース様…。僕たちがその吸血鬼を相手にするとしても、先輩はどうするんですか?
そんなことをしたら向こうが先輩を無事にしておくとはとても思えないんですが…」
リオンの懸念はもっともだ。が、ニースはリオンに向けてニタリと微笑んだ。
「そのへんは考えてあるわ。向こうがティオちゃんとあの女を交換する時…、仕掛けを施しておくのよ。
向こうがそれに気を取られている隙に、ティオちゃんを保護しつつあいつらを攻撃するわ。大丈夫、絶対にうまくいくわ。あと…」
そこまで言って、ニースは突然リオンの喉首を掴み上げた。みしみしと鈍い音が鳴り、爪が食い込んだところから血がツゥーっと流れている。
- 「ぐはっ!ニ、ニースさまぁ…、なにを……」
「あなた、さっきティオちゃんの血を味わうとかいったわね…。ふざけるんじゃないわよ。
ティオちゃんの血は私だけのものよ。お前如きが口にしていいものだと思っているの?!」
ニースの目には不遜なリオンに対する怒りがメラメラと浮かび上がっている。このままでは本当にリオンの喉を握りつぶしかねない。
「も、申し訳ありませんニース様ぁ……!もう金輪際、先輩の血が欲しいなんていったりしませぇん!!」
リオンは喉を圧迫され発生もままならぬ仲、必死に声を張り上げ自信の不逞をニースに謝罪した。
「それでいいのよ。ちょっとは自重しなさい!」
リオンの謝罪の言葉に満足したのか、ニースはリオンを握り締めていた手の力を緩め、リオンはその場にどさっと崩れ落ちた。
げほげほとえづくリオンにアンナが泡を食ったかのように近寄り、心配そうに背中を摩っている。
「まったく…、血なんて後でいくらでも飲ませてあげるんだから。
馬鹿なこと考えなければ痛い目を見ずに、吸血鬼の悦楽にたっぷりと身を浸すことが出来たってのに」
「「えっ?!」」
あきれた顔をしながらぼそっと呟いたニースの言葉に、リオンとアンナはパッと反応し驚いた顔をニースへと向けた。
「そ、それはどういうことですか?ニース様」
「うふふ、それはねぇ……」
アンナの問いにニースが向けた顔は、吸血気の毒に染まりきった笑みだった。
- 一方、アルマナウスの人形にされて連れ去られてしまったティオは…
「………ハッ?!」
今まで体の奥底に沈殿していた自らの意識が急速に覚醒していくのをティオは感じ、目を覚ましたティオはパッと首を上げた。
ティオの視界に入ってきたもの。それは薄明かりに照らされこじんまりと整えられた一室と、自分を見つめる二人の子ども…
いや、自分に敵対する存在である二体の吸血鬼、アレクサウスにアルマナウスだった。
「あ、兄様。ティオさんが目を覚ましましたわ」
「おはようございます、ティオさん。ちょっと不自由かもしれませんが勘弁してくださいね」
アレクサウスの言葉にティオは自分の状態をちらっと確かめてみた。
なるほど、両手首は枷で縛り付けられ天井から鎖で吊り下げられている。両足も床から伸びる鎖で繋がれており文字通り手も足も出ない。
「なるほど、これはちょっと勘弁しかねるわ…って、ちょっと待った」
このとき、ティオの心にある疑問が生じた。なんで、この二人は自分の名前を知っているのだろうか?
「あなたたち…、なんで私の名前を知っているの?」
このティオの問いかけに、アレクサウスとアルマナウスは何かを思い出したのか、クスクスと微笑みながら答えてきた。
「それは…、貴方の主人が貴方の名前を連呼していたからですわ。それはもうもう滑稽で滑稽で…
ティオちゃん、ティオちゃんって泣き叫びながら、届かぬ手を必死に伸ばして…
貴方はよっぽど主人に愛されているのですね…。クスクス」
「し、主人……?!」
ティオは最初、アルマナウスが言う『主人』が誰を指すのか思い浮かばなかった。
が、自分のことを『ティオちゃん』と呼ぶものはただ一人しかいないことにすぐに気が付いた。
「…何言ってるのよ。ニースは私の主人なんかじゃない。仲間よ」
「そうなのかい?吸血鬼と人間が一緒にいるからてっきりそうだとばっかり思っていたけれど…
でも、君からは僅かばかりだがニース…だっけ?の気配が感じられるな。彼女に血は捧げているんだろ?」
アレクサウスの問いかけに、ティオはしかめっ面をしながらもこくりと頷いた。
「…ええ。でも牙を立てられたりはしていないわ。あくまでも傷口から血を与えているだけよ」
血は与えているが自分は吸血の虜にはなってはいない。ティオはそう主張していた。
「ふぅん…」
ティオの言い分にアレクサウスは内心失笑を禁じえなかった。
そんな子供だましな事をしても吸血の呪縛からは逃れられはしない。例え傷口越しからでも吸血鬼から血を吸われ続けることにより
ティオの魂は僅かづつではあるが吸血鬼の力に汚されていく。
そして、それが一定の割合を超えれば身も心も隷属し、吸血鬼に全身の血を吸われることを望むようになる。
所詮、その状態になるのが速いか遅いかの差でしかないのだ。
が、どうやらニースはそれを承知の上であえてティオにそのこと言わず傷口からの吸血を続けているようだ。
(僕も彼女のことは言えないけれど…、いい趣味をしているよ。
じわじわと時間をかけて、この人間をすこしづつ吸血鬼に堕していくなんて、ね)
アレクサウスはニースの意図をほぼ正確に見抜いたが、それを口にすることはなかった。
したところで意味はないし、その意図もこれから無駄なことになるからだ。
「じゃあ君は、まだ本当の吸血の快感を知らないんだね…」
ニッと笑ったアレクサウスの瞳に、それまでなかった欲望の色がはっきりと浮かんできている。
- 「………!!」
それを感じ取り、ティオの顔面からさあっと血の色が引いていった。
ひた、ひたとアレクサウスが足音もなくティオに向って歩いてくる。薄ら笑いを浮かべたアレクサウスの視線の先にあるものは
四肢を縛られたティオ、の首。
「あ、あ…、いやぁ……」
ティオは反射的に後方へと逃れようと体を捩ったが、手も足も縛られているので体だけ『く』の字に曲がるばかりで一歩もその場を動けない。
「やめて、やめて!こないで!!」
ティオだって、吸血鬼に血を吸われることで与えられる快感を知らないわけではない。
何しろ、定期的にニースに自ら血を与えている時に感じる魂をも汚してしまいそうな快感を味わっているのだから。
でも、それすら直接牙を挿しこまれて与えられた快感ではない。
過去に、幾度もニースに直接牙で吸って貰いたい衝動に駆られた事があったが、それで与えられる快感を知ってしまったら
恐らく二度と後に引き返せない。
この身全ての血が吸い尽くされるまで吸血の快感を求め続け、果ては自分が吸血する側へと堕ちてしまうことになるだろうと
ティオは本能的に感じていた。
だからこそ、ここでアレクサウスに吸血されることで自分の身も心もアレクサウスに従属させられることになってしまうことが
たまらない恐怖だった。
「ふふふ…、さっきまでの勇ましい君はどこへ行ってしまったんだい?そんなに牙を立てられることが恐いのかい?」
アレクサウスはふわりとティオと同じ目線まで浮き上がり、恐怖で顔を引きつらせるティオの顔をまじまじと眺めた。
ティオは言葉も発することが出来ず、小刻みに顔をかくかくと縦に振り続けていた。否、それしか出来なかった。
「可哀相に…、そんなに怯えてしまって。でも、もう恐がることはないんだよ…」
アレクサウスは震えるティオに歳相応の少年に相応しい天使の様な笑みを浮かべた。そして、そのまま顔をティオの喉下まで下げ…
チュッ
ティオの首筋に、軽いキスをした。
「ひぁっ!!」
噛まれた!というショックと首筋に感じた燃えるような熱さに、ティオは体をビクッと反らせ大きな悲鳴を上げた。
「あははは…。その反応、初々しいね」
ティオの反応が面白かったのか、アレクサウスは二度、三度とティオの首筋にキスを繰り返した。
「ひぃっ、いやぁっ!!」
その度に、ティオは目に涙を浮かべながら大声を上げていた。
「……、どうやらこんな子供だましのキスはお気に召さないようだね」
恐怖と立て続けの悲鳴でハァハァと息を切らしているティオから、アレクサウスはスッと顔を離した。
「んっ…」
そしてそのまま涙目になっているティオの唇へ自分の唇を重ねた。
「んうぅっ!!」
ティオの心に、さっき魂を奪われたアルマナウスのキスが否応なしに思い起こされた。
が、今度のアレクサウスのキスはそういった儀式めいた物ではなく、単純にティオの口腔を蹂躙していくものだった。
(な、なにこれぇ……)
ぬらりぬらりとアレクサウスの熱い舌がティオの舌を絡め獲り、ティオの思考力を一舐めごとに奪っていく。
下唇にちくちくと当たるアレクサウスの牙が心地良い刺激となってティオの体を燃え上がらせていく。
ちゅるっ、ちゅるっ、と唾液が跳ねる音が、いままでまともなキスすらしたことがないティオの心を興奮させていく。
「んっ…ふぐっ、んんっ……!」
ニースが見たら怒り狂いそうな濃厚なディープキスはかれこれ五分以上続いた。
「ふふ…、どうだい?本気のキスの味は」
アレクサウスが満足そうに口を離したとき、ティオの顔は興奮で真っ赤に染まり、腰はガクガクに腰砕けになり吊るされている鎖で
かろうじて立っているような状態だった。
- 「あ…、あふぅ……」
さっきとは別の意味で、ティオは言葉を発することが出来なかった。
頭の中がピンク色の霞で完全に覆われており、紡ぐべき言葉を思い浮かべることが出来ない。
その代わりの意思表示なのか、自分から離れていった唇を惜しむかのようにティオの舌が半開きになった口から伸び、
アレクサウスの唇を求めゆらゆらと蠢いていた。
「あら兄様、この方一回のキスだけでもう蕩けてしまいましたわ。何か施術でも致しましたの?」
「別に。普通のキスをしただけだよ。
どうやら彼女は着ている服装の通り、今まで禁欲の生活をしてきたようだね」
ティオはアレクサウス達との戦闘に備えて『狩人』の正装の法衣を纏っている。教会の関係者である以上、肉欲とは無縁の生活を
送っていたことは容易に想像できる。
だからこそ、アレクサウスのちょっとしたディープキスでも簡単に跳んでしまったのだろう。
時折弱々しくビクビクと体を震わせているだけのティオを、アルマナウスはとても楽しそうに眺めた。
「貴方って本当に面白いわ。私の人形を倒すくらいの強い力を持っているかと想ったら、兄様のキスだけで崩れる脆さも持っている」
「う、あ……」
ティオは熱に浮かされたような顔で自分に近づいてくるアルマナウスに視線を向けた。そこには抵抗の意思は、最早ない。
(あ……)
自分が一目置くほどの強さを見せた人間が、今目の前で触れたら壊れそうな弱さを見せている。
そう思った時にアルマナウスの嗜虐心がゾクッと刺激され、アルマナウスは思わず両手で両腕を抱え体を一震わせした。
「そんな…顔を見せられては……、私も、ジッとしていられませんわ……」
アルマナウスはティオの唇に軽く触れるようなキスをすると、ティオの両胸に服越しに手を這わせた。
「ひっ……」
服の上からでも胸を擦られる刺激に官能に燃え上がりきった体はすぐに反応し、ティオの脳髄に震えるような快感をもたらした。
「あら…、背のわりに胸は大きくないのですね。それでも私のよりは大きいのですけれど…
まあ、肉が引き締まった肉食獣というイメージで悪くはないですわ」
むにっ、むにっとアルマナウスは大きさを確かめながら双乳をやんわりと揉みしだいている。
その都度、ティオの体に感電したような痺れが走る。
「ああっ、いやぁっ!!こんなの、こんなの変よ!変だわ!!」
自分の感覚がコントロールできない。こんなことは今まで感じたことがなかった。際限なく暴走していく官能が恐ろしくもあり、
また楽しみでもある。そんな相反した感情がティオの中で膨らみ続け、ティオはパニックに陥っていた。
「やめて!もうやめて!!このままじゃ私変になる。狂っちゃう!!」
「…うるさいわね」
わんわん泣き喚くティオが耳障りだったのか、アルマナウスはさっきのアレクサウスのようにキスで口を封じてしまった。
「むぐーっ!!」
再びティオの口腔を吸血鬼の舌が蹂躙する。
が、さっきと違うのは口からの悦楽のみならず胸からも官能の波が送られてくることだ。
「んん…ちゅぅ…」
もぎゅ もぎゅ もぎゅ
「んーっ!んーっ!!」
あまりに激しい快感に支配され、ティオは気絶することも出来ず注がれ続ける快楽に翻弄されていた。さらに、
「アルマナウス、僕も参加させてもらうよ」
妹とティオの情事を後ろで眺め続けていたアレクサウスがいつの間にかティオの後ろに周りこみ、
ティオの首の頚動脈沿いに舌をぞわりと這わせた。
「!!んぐぐーっ!!」
不意打ちのように訪れた首への刺激に、ティオの塞がれた口からはくぐもった悲鳴とともにアルマナウスとの接合部から涎が
滝のように溢れ出てきた。
アレクサウスは時折牙で甘噛みしたり、耳の裏を舐めしゃぶったりとティオが体験したこともないような刺激を
飽きさせることなくティオの肉体へと送り込んでくる。
- (ああっ!わ、私は何をされているの?!なんで私はこんなことされているの?!
もう、もうわからない!わからないよぉっ!!)
法衣の裏は噴き出てきた汗でべったりだ。いや、汗以外の体液も血液以外は全て流れ出ている気すらしてくる。
「うん、ん、んんんぅぅ〜〜〜〜っ!!」
脳の容量の限界をはるかに超えた快感をあまりにも長く与えられ続けたティオはとうとうそれに抗しきれなくなり、
息が続く限りの嬌声をあげたあと、フッと気を失ってしまった。
「おやおや…、やっぱ耐え切れなかったみたいだね」
「でも兄様、やっぱりこの方は素敵ですわ。こんなに良い声で鳴いてくれる方は久しく会った事がございませんから」
気を失いながらぜぇぜぇと息を切るティオを見て、吸血鬼兄妹はとても面白い玩具を手に入れた子どものようにはしゃいでいた。
「さて、と……」
アレクサウスは気を失っているティオの顎をくいっと持ち上げ。ティオの意識へ言霊を放った。
「さあティオ、『起きるんだ』」
アレクサウスの声にピクッと反応したティオは、意識を覚醒させたのか弱々しく瞳を開いた。
「あぅ……、はぁふ……」
ティオの泳いだ瞳は目の前のアレクサウスへと向けられたが、特に何かをするでもなくただせわしなくため息をつき続けていた。
「ふふ、すっかり大人しくなってしまって…、可愛いものだね」
ティオを睨むアレクサウスの瞳がキラリと赤光を発し、ティオの瞳へと吸い込まれていく。
普段のティオならニースとの絡みで培われた耐性や魔眼に対する警戒により逃れることも出来ただろう。
が、これまで受けた陵辱で抵抗力を喪失していたティオは、まともにアレクサウスの魔眼を喰らってしまった。
「あぅ……」
とろんとしたティオの瞳がボゥッと紅く光り、心が赤い鎖で呪縛されていく。
ティオの心の中にあるアレクサウスに対する警戒心や敵愾心が紅い光で消し去られていき、
その代わりにアレクサウス達への敬慕と隷属の意識が心に上書きされていく。
(ああ…、この人、なんて素敵なの…。こんなにそばで見ているのに、全然気がつかなかった……)
その青白い肌。その紅い瞳。その猛々しい牙。全てが愛しく思えてくる。
(なんで私はこの方をあんなに恐れ、憎んでいたの…?ふふ、バカみたい……)
ティオの目に入るアレクサウスの姿がだんだんと愛しいものへ変わっていくのを、ティオは何の疑問もなく受け入れていった。
それに反比例して、ティオの心からニースという存在は小さくなっていき…、やがて完全に消えてなくなった。
「あ、あぁ……アレク、サウスさまぁ…」
ティオのアレクサウスを見る目が、先程とはまるで違い媚と悦びの色を帯びたものへと変わっている。
(ふふ…)
ティオが完全に魔眼の影響下に堕ちたことを確信したアレクサウスは、ティオの耳もとで優しく囁いた。
「どうだいティオ?今よりもっと気持ちよくなりたいかい?」
「今より……もっと…、きもち、よく……?」
瞳を紅く光らせたまま、ティオはおうむ返しにアレクサウスが発した言葉を紡いだ。
きもちよく きもちよくなる きもちよくなれる きもちよくしてくれる
『気持ちよく』と言う言葉がティオの心の中でどんどん膨らんでいく。
いつ、どこで、だれにされたのかは思い出せないが、自分の血を吸い取られている時、他に得難い快感を与えられたのを
肉欲に爛れた心が思い出した。
- 「……な、なり……」
ティオの顔が緩くにやけ、薄笑いを浮かべた口元からは一筋の涎が糸を引いて零れ落ちている。
その蕩けきったティオの顔は、普段のティオを知ってる人間からは想像も出来ないものだった。
「なりたい、のぉ…。もう、体が熱くて、熱くてたまらないの…。
お願い、この熱さを静めてぇ……。血を、吸ってもいいからぁ……」
ニースが聞いたら屈辱で卒倒しただろう。ニースがティオに言わせたい言わせたいと思っている『ティオ自身から吸血を求める』と
いうことを、魔眼仕込みとはいえアレクサウスに先に言わされてしまったのだから。
「なりたぁい、なりたぁい……。アレクサウス様ぁ……、私をもっと、気持ちよくしてくださぁい……
その雄々しい牙でガブッて噛み付いて、私の血を全部吸い取ってくださぁい……」
もうティオはアレクサウスに様付けをするのがごく当たり前なことと捉えるようになっていた。
彼は自分の主人であり、自分の一番愛しい人であり、自分の一番大切な存在だ、と。
「吸ってぇ、吸ってください……。吸って、気持ちよくしてくださぁい……」
ティオは縛られた格好のまま体を左右に艶かしくくねらせ、アレクサウスに吸血のおねだりをし続けた。ニースのことは記憶から消えた
ものの、過去に感じた一番の快感はやはり吸血の快感だからだろうか。
「ふふふ…、こんなふうにかい…?」
アレクサウスはそんなティオの喉首に顔を近づけ、かぷっと口で甘噛みをした後、牙をつんつんとティオの頚動脈の上に這わせた。
「ああぁっ!そう、それがいいの!!
挿して!アレクサウス様、アレクサウス様の牙を私の喉に挿れてくださぁい!!」
ちくちくと肌に牙が触れる感触に、ティオは嬉し涙まで流して歓喜に打ち震えた。
(あと少しアレクサウス様が口に力をこめるだけで、私の血の全てがアレクサウス様の中へと吸い取られていく!)
そう想像しただけでティオの心は悦びで満たされ、その際に与えられる想像を絶する快感を想い浮かべティオはぞくぞくと背中を振るわせた。
法衣の股下の辺りが明らかに汗以外のもので濡れている。
それは今でもドプドプと湧き出しており、法衣がそれで真っ黒に濡れているのが外から分かるくらいだ。
「ふふ…」
喉に突きつけられた牙の圧力がグッと増してくる。もう僅かでも力が入れば皮膚の張力が耐え切れずに裂け、
アレクサウスがティオの中を蹂躙するだろう。
(き、来た!来たぁ!来た来た来た来た来たぁぁ!!!)
ティオは待ちに待った瞬間が来たことに興奮を抑えきれず、軽く達してしまいそうになってしまった。
(ダメ!気を失ったりしたら、あの気持ちよさを味わえない!!)
ティオは一瞬遠くなりかけた意識を必死で繋ぎとめ、来るべき瞬間を味わおうと心躍らせた。
しかし
「なんて、ね」
アレクサウスは今まさにティオの喉を噛み破ろうとする瞬間、口をティオの喉から離してしまった。
「え……」
何が起こったがティオは一瞬理解できず、呆然とした顔をアレクサウスに向けた。
「アレクサウス、さま……?」
「ティオ、君の血は吸わないよ。これでも僕は花嫁を待っている身なんでね。今は花嫁以外の血は吸う気は無いんだ。
それに君は花嫁との取引相手だ。傷物にする訳にはいかないじゃないか」
なんとも白々しくアレクサウスは至極真っ当なことを言った。
魔眼まで使ってティオの魂すら蹂躙したというのに、いまさら傷物も何もない。が、言っていることは正論だ。
しかし、今のティオにとってはそれは恐ろしい言葉だった。
(自分がアレクサウス様の花嫁の取引に使われるということは、自分はアレクサウス様に捨てられてしまう!)
今のティオにとって、アレクサウスとアルマナウスは何物にも替え難い唯一無二の存在である。その存在に捨てられるということは
自分の全てを捨てられるに等しい行為である。
- 「……いや……」
ティオの瞳に、官能とは違う涙が零れ落ちてくる。
「いや…、いやです。アレクサウス様、私を捨てないでください!!
私にとって、アレクサウス様たちは私の全てなんです!アレクサウス様がいない世界なんて想像も出来ません!
どんなことでも、どんな身分でもよろしいですから傍においてください!お願いしますぅ!!」
捨てられる恐怖からわんわん泣き始めたティオを、アレクサウスは最初は面白い見世物を見ているような愉しげな目で眺め
暫くしてから子どもをあやす様に優しく囁いた。
「わかったわかった。そこまで言うならティオを捨てるような真似はしないよ。いじわるして悪かったね」
アレクサウスの言葉に、涙でぐじゃぐじゃになっていたティオの顔は一瞬にしてパッと輝いた。
「ほ、本当ですか?!本当ですね!ウソって言ったら嫌ですよ?!」
「うん。花嫁を取り返すときに、一緒にティオも連れ帰ってあげるよ。ただ…」
アレクサウスの後ろからアルマナウスがけむくじゃらのぬいぐるみを持って近づいてくる。
「そのために、ティオの体をちょっといじらせてもらうよ」
「は、はい!はい!!何でもいいです。アレクサウス様のお傍にいられるならなんでも!!」
アレクサウスの言葉にティオは一も二もなく頷いた。
アレクサウス様たちと一緒にいられるなら、例えこの体がどうなっても構わない。
はたして自分はどんなことをされるのか。
アレクサウス様に、どんなことをされてしまうのか。
そう考えるだけで胸がキュッと詰まり、カーッと血が頭に上ってくる。
ティオが早鐘のように心臓を鳴らして期待する前で、アルマナウスが持っていた人形をスッとかざした。
第五回終
- 『猟血の狩人』 第六回
そして、真円鮮やかな満月の夜。
ニースは前夜アレクサウス達が現れた小高い丘の上にリムと一緒に立っていた。
勿論リムには魔眼で意識を飛ばし、アレクサウスが現れても勝手な行動をとらないようにしている。
が、それ以外にもリムは外見上奇異なことがあった。
リムは短剣を両手で握り締め、その切っ先は自身の喉笛へと向けられている。魔眼の影響か握る腕は微動だにしていないが
ちょっとでも力をこめればリムの喉に赤い花が咲くことだろう。
(さあ、早く来なさいガキ共、目に物を見せてやるわ……)
ニースは日中にリオンたちと交わした作戦を思い出し、含み笑いを浮かべた。
「それを言う前に…、まずはあなた達の役割を話すわ」
ニースは、練りに練った吸血鬼兄妹打倒の策を二人に話し始めた。
「あいつらはリムとティオちゃんを交換するつもりだから、まずティオちゃんに手を出すことはないわ。
もしティオちゃんに何かあったら、こっちもリムをどうするかぐらい向こうだって知っているもの」
ニースには確信があった。ニースがティオに執着しているのと同様、アレクサウスがリムに執着しているのは
昨日のやり取りを見ていても明らかだからだ。
「でも、言い換えれば向こうはティオちゃんになにもすることは出来ない。せいぜい魔眼で暗示をかけて催眠状態にすることぐらいよ。
そうなれば、こっちに付け入れる隙が生まれる」
「例えば、どんなですか?」
リオンの問いかけに、ニースはニタリと邪悪な笑みを浮かべた。
「つまり、目の前で何が起ころうがティオちゃんは何も知ることは出来ない。私達が何をしてもティオちゃんに知られることはないのよ。
そうなれば、どんな手でも打つことが出来るわ…」
その笑顔に、リオンもアンナも流石に戦慄を覚えざるを得なかった。それほど今のニースの笑顔は黒々としたものだからだ。
「まずは、ガキの気を逸らせるためにリムを殺すわ。
あいつらの目の前で、リム自らに自分を殺させるのよ。そうすれば、さすがにガキ共もそれに目を奪われるはずよ。
なにしろ、手に入れようとした女が目の前で死ぬんだから。
その隙を突いて、あなた達はメスガキのほうを始末しなさい。二人がかりで隙をつけば大丈夫でしょう?
その間に、私は魔眼でティオちゃんを眠らすわ。そして、残ったガキをゆっくりたっぷりと…、ククク」
ニースはアレクサウスが血塗れで自分に助けを求める姿を想像し、ゾクゾクと体をふるわせた。
しかし、それを聞いた二人は困惑気味だった。
「で、ですがニース様…、この人間を殺してしまっては後々厄介なんではありませんか?
いくらなんでも吸血鬼のせいには出来ませんよ。町の人間だって黙ってはいませんし…」
「ああ、その心配は無用よ」
リオンの心配そうな声を、ニースはあっさりと否定した。
「だって、町の人間は皆殺しにするんだから」
その声を聞いたとき、リオンとアンナは一瞬固まってしまった。
「み、皆殺し……?!」
「そうよ。ティオちゃんが攫われたのにその心配を全然せず、私達が吸血鬼を討ち漏らしたことを責める連中よ。
そんな人間、生きている価値なんてないわ。私達の腹に納まるのが相応しい末路よ。
私達でこの町の人間を殺し尽くし、その暖かい血を存分に堪能するのよ!」
「「!!」」
ニースの言葉に、リオンとアンナの眼がギラリと輝いた。
「そ、そうだ…、先輩の安否を省みない人間なんか、死んで当然だ…。僕が、吸い殺してやるんだ…」
「こ、この町……、この町全員の人間の血が飲める……、す、凄いぃ……」
早くも血塗れの自分達を想像したのか、リオンもアンナもたちまち呼吸がハァハァと乱れ始め、ぎらつく瞳が紅く輝き
開いた口元からはとめどなく涎が零れ落ちている。
- 「やりましょうニース様!先輩を攫った吸血鬼を滅ぼし、その後たっぷりと血の海に浸りましょう!!」
「ああっ、待ちきれないっ!早く、早く飲みたい!啜りたい!吸い尽くしたい!!」
「待ってらっしゃい…、私からティオちゃんを奪おうとするものはどんな奴でも絶対に殺す。
ティオちゃんを大事にしない奴は、誰だろうと許さないんだから…アハハハハ!!」
元は人間を守り吸血鬼を狩る立場だった三体の吸血鬼は、今や完全に人間を狩る存在と成り果て
アレクサウス達をくびり殺した後いかに効率よく住民を殺すかという一点に妄想をめぐらし、嬌声を上げ続けていた。
まさか、アレクサウスがそれ以上の搦め手でくるとは知らずに。
「やあ、ちょっと待たせたかな?」
ニースの頭上から声がする。ニースがフッと顔を上げると、昨夜ティオを連れ去っていった時間を巻き戻すかのように
吸血鬼兄妹がティオを抱えて降りてきた。
(来たわね…)
案の定、ティオは暗示をかけられているのか虚ろな紅い目をして立ちすくんでいる。読みどおりだ。
リオンとアンナは丘の横に立っている粗末な廃屋の中に忍ばせている。ここなら上空からも姿が見えることはない。
「女を待たせるのは男として失礼なんじゃないかしら?って、別にそんなことを言うために来たんじゃないわ。
アレクサウス、ティオちゃんは無事なの?」
「当たり前じゃないか。こうしてここにピンピンしているよ。
…僕としては、花嫁が持っている物騒な物のほうがよっぽど気になるんだけれど」
確かに、抜き身の短刀を喉にあてがった姿というのは穏やかなものではない。
「これはお前達がティオちゃんに変なことをしていないかの保険よ。
もし変なそぶりを少しでも見せたら、リムに命令してこの剣を喉に突き刺させるわ」
ニースの脅しに、アレクサウスは困ったような苦笑いを浮かべた。
「ん?君は花嫁の両親に頼まれて花嫁を僕たちから助けるんじゃなかったのかい?殺していいものじゃないと思うんだけどな」
「…私も吸血鬼よ。なんで人間のいうことを聞いてより大事な物を捨てなきゃいけないの?
私にとってティオちゃんこそ全てに優先するもの。それ以外なんて塵芥と同じだわ」
これはニースにとって真理であろう。
でなければ、ティオを連れ去られた怒りで町の人間を腹いせのように皆殺しにするなど考え付くはずがない。
「なるほど…、よっぽど彼女に愛されているんだね、君は」
アレクサウスは、彫像のように立っているティオの頬を愛しげにするっと撫で回した。
「ティオちゃんに触るな!!」
それを見たニースは烈火の如く怒り、アレクサウスに敵意を込めまくった視線を向けた。
「とっととティオちゃんを返せ!さもないとリムを殺すわよ!」
リムの剣を持つ腕に僅かに力がこめられる。ほんの少しだが、切っ先が皮膚の下へと潜り込み赤い血が首を伝っていく。
「ああ、もったいない………
わかったよ。では双方の持ち物を互いに向けて歩かせよう。そしてその後に…」
「殺し合いということね。いいわ」
ニースはくいっと顎を動かし、リムへ向こうへ行くように命令した。
同時にアレクサウスもティオに促し、双方は同じような速さでふらふらと歩みだした。
(ククク…、馬鹿な連中。まんまと思惑にはまったわ)
ニースは内心笑い転げたくて仕方がなかった。こうも思い描いたとおりに物事が進むとは思わなかったからだ。
(あとは互いが通り過ぎた瞬間にリムを殺し、即座にティオちゃんを眠らせてしまえばOK。
長い年月を生きてきたって言っても、所詮はガキよね)
やがて、リムとティオの体が交差する瞬間がやってくる。あと二歩、後一歩!
(今だ!)
- 「リ…」
ニースがリムに自殺命令を発しようとした、正にその瞬間!
「ティオ、やれ!」
アレクサウスが一歩先んじて発した声があたり一面に響き、その声に反応したティオの瞳がカッと金色に輝いたかと思うと
目にもとまらぬ速さで身を翻してリムの手にあった短刀を手刀で叩き落した。
「えっ?!」
何が起こったのか一瞬分からなかったニースの前で、ティオはリムの頸部をパシッと叩いて失神させると、
両手で恭しく担ぎながらアレクサウス達の元へ一足飛びに戻っていった。
「ティオちゃん、なにを……。っ!
アレクサウスゥ!!おまえ、ティオちゃんに何をしたぁ!!!!」
ティオの動きを見れば、アレクサウスが何かしたに違いない。
そう確信したニースはアレクサウスを睨み殺しかねないほどの勢いで睨みつけ怒鳴り上げた。
「それを君が言える性分だと思っているのかい?
最初から、僕の花嫁を生かして渡す気なんかなかったくせに」
ニースの怒気を受け流すアレクサウスの顔はあくまでも飄々としている。まるで、全てをお見通しだと言わんばかりに。
「第一、僕がこの場に来たのは花嫁を連れ帰るためだ。君の人形と交換するなんて言った覚えは、一言もないんだけれどね」
「な、に…」
そう言われ、ニースは昨夜のアレクサウスの言葉を思い浮かべた。
『今宵は満月まで後一日。明日になったら正式に花嫁を迎えに来る。その時まで、君の人形は預からせて貰うよ』
『明日ちゃんと僕の花嫁を用意しておくんだよ。そうしないと、君の人形がどうなるか…』
確かに、ティオを返すとは一言も言っていない。
アレクサウスはティオを返す気は、最初から全然なかったのだ。
「彼女は人間にしてはとても筋がいい。昼間は活動が制限される僕たち吸血鬼にとって、昼間に襲撃を退けることが出来る
護衛の存在はとても重宝するんだよ。君だって彼女がいることで十分助かっただろう?」
確かに、太陽の光を浴びただけで致命傷になりかねない吸血鬼にとって、日の光とともに襲ってくる敵を退ける存在は不可欠だ。
ニースだって、降闇を羽織っているとはいえ日中の動きはかなり不自由だ。
そういう意味ではティオの存在は想像以上に大きかったといっていい。
「それに、妹が彼女のことをいたく気に入ってしまってね。
ほら、可愛い妹の願いを聞いてやるのは兄として当然のことじゃないか」
アレクサウスがニヤニヤと笑ってアルマナウスのことを軽く指差す。
「人を指差すなんて失礼ですわよ兄様。
でも、私が彼女のことを気に入ったのは本当ですわ。強さと脆さを併せ持ち、相手にしていて全然飽きが来ませんもの。
大事に、大事に愛でて差し上げますわよ」
アルマナウスは微笑みながらティオの体にふわりと抱きついた。
「あ…」
アルマナウスが体に触れたことで、ティオの顔に少しだけだが恍惚の笑みが浮かんできていた。
「ティオ、ちゃん…」
それがまた、ニースにはたまらなく腹立たしい。
「だから、彼女は僕たちが貰い受けるよ。より僕たちを守るに相応しい存在になってね。
さあティオ、僕たちが与えた新しい体を彼女に見せてあげるんだ」
「…わかりました、主様」
瞳を金色に輝かせているティオはアレクサウスの命令にこくりと頷くと、抱いているリムをアレクサウスに渡すと
身に纏っている法衣をその場でシュルシュルと脱ぎ始めた。
一糸纏わぬ姿になったティオはその場でスッと瞳を閉じ、何かに集中し始めた。
- 「ふうぅぅぅ………」
ティオが深い吐息を放った瞬間、ティオの体に変化が訪れた。
小麦の穂のような金色の短く刈り揃えられた頭髪がざわざわと伸び始めて腰の辺りまで届き、色も冷たい銀色に変化していく。
いや、銀髪は頭髪だけでなく腕周り、胸、腰、脛の辺りからも伸び、体に纏わり付いてきている。
「ふうぅ…、ふおぉぉ……」
左右の頭頂部の髪がまくれ始め、下から何かが伸びてきている。
細かい産毛に守られて出てきたのは、紛れもなく獣の耳だ。
「うおおおおおおっ!」
そして出てきたのは耳だけではない。
腰からふさふさした毛を纏い伸びてきたのは、身間違えようもない獣の尻尾。
「…っはあぁぁっ!!」
最後に、内に溜まった気を全て吐き出すかのように雄叫びを上げた口には肉を噛み千切る犬歯が伸び、
グワッと開いた瞳の瞳孔は、縦に大きく裂けていた。
「…ふぅう、ふうぅ……、ウウ…」
完全に変化しきったティオの姿は、銀髪の狼と人間を融合させたものだった。
冷たく光る月明かりに照らされ、夜風に銀色の体毛が煌いている姿はある種の神々しささえ漂って見える。
「ワァォーーーーーーーーーン!!」
静まり返った夜空に、鈴の音のように澄んだティオの遠吠えがこだました。
「な、な……、ティオ、ちゃ……」
「………」
あまりのことに呆然とするニースを、ティオは金色の瞳で異物でも見るかのように見下していた。
「ア、ア、アレクサウス………
き、貴様ぁ、ティオちゃんを人狼にしたなぁ!!なんてことをするんだぁ!!」
ニースが激高するのも無理はない。
人狼とは、他には狼憑きともいわれる亜人種の変種である。
変種と言われるのは、人狼は独立した種ではなく一種の呪いと言っていい存在で、彼らは個体で繁殖することは出来ず
人狼が深手を負わせた人間が数日の潜伏期間を経て新たな人狼となり仲間を増やしていくのだ。
伝聞によれば、人狼は過去に魔導士が作り出した魔法生物に近いもので、食欲、繁殖欲、性欲といった生物の根源的な
欲求を持たず、破壊衝動のみに特化した生物であるとも言われている。
初期治療さえしっかりしておけば深手を負っても人狼になる前に回復することが出来るので吸血鬼ほど脅威ではないが、
一旦人狼に変化してしまったら元に戻すことは難しいとされている。
ニースにとってなによりも大事なティオを勝手に人狼に変えられてしまったのだ。怒らないほうがどうかしている。
が、アレクサウスは自身に責任はないとばかりに取り澄ました顔で答えてきた。
「なんてこともなにも、これは彼女が望んだことだよ。
彼女は僕たちに仕える事を望み、自ら進んでこの姿になったんだ。なあ?ティオ」
「ええ。私は主様のもとに仕えることに無上の悦びを知り、よりお傍でお役に立てるようこの肉体を賜ったわ。
以前の脆弱な人の体ではない。主様達に近づくどのような輩も切り裂き、引き裂くことができる素晴らしい体をね……」
ティオは人狼となった自分の姿をニースに見せびらかすかのように誇らしげに誇示して見せた。
「ああ、だから彼女は同族にはしていないんだよ。確かに吸血鬼で人狼になったら相当な強さになると思うけれど
それじゃあ昼に満足な活動が出来ないからね。
でも…、花嫁を同族に迎え入れた後はその血を味わってみると言うのも、悪くはないかな。同族にしない程度に、ね…」
「悪いわね。せっかく貴方の自慢の人形だったのに私達が取ってしまったみたいで。
でも安心しなさい。貴方の大事な人形は、私達の大切なおもちゃとして末永く使ってあげるわ」
アルマナウスがティオのふさふさの尻尾に手を添えて持ち上げ、すりすりと愛しげにほお擦りをした。
「ふわぁっ……、ああ…アルマナウス様ぁぁ……」
アルマナウスに触れられたことがよほど嬉しいのか、ティオは尻尾をピクピクと震わせながら歓喜の笑みを浮かべていた。
その様を、ニースは信じられないといった顔で見つめ続けていた。
- 私のティオちゃんが、人狼になってしまった…
私のティオちゃんが、私以外の吸血鬼に尻尾を振っている。
私のティオちゃんが、私のことを眼中にも入れていない!
私のティオちゃんが、私以外の相手に媚を売っている!!
私のティオちゃんが、私以外の相手にあんな蕩けた顔を浮かべている!!!
ニースの心に激しい嫉妬の炎が燃え上がり始めている。ティオをいいようにされていることがどうにも辛抱できない。
「汚い…汚いぞアレクサウス!魔眼でティオちゃんの心を操ったな!
操って、ティオちゃんが自分から人狼になるよう仕向けたんだ!そうだな!!」
ニースの指摘に、アレクサウスはさも当然といった顔をして頷いた。
「そうだよ。僕たちは吸血鬼だ。吸血鬼が魔眼を使って人間の心を操って何が悪いんだい?
その人間の元の意思なんか関係ない。君だってやってきたんだろう?」
「ぐっ…」
その言葉に、ニースは言葉が詰まってしまった。確かに、自分がやって相手はだめだと言うのは説得力がない。
「でも、僕たちは君には感謝しているんだよ。本当に」
何も言い返せないニースに対し、アレクサウスは顔ににこやかな笑みを浮かべ大仰に手を広げてニースにお辞儀をした。
「………?」
「花嫁はちゃんと連れてきてくれたし、僕たちにはこんな良い駒を用意してくれた。お礼をいくら言っても言い足りないぐらいだよ
だから、その感謝の返礼として……」
そこまで言った時、子どものように爽やかな笑みを浮かべていたアレクサウスの顔が、一瞬にして吸血鬼にふさわしい
邪悪な悦びに満ちた嘲笑に変わった。
「君の下にいた人形の手で、君の事を殺してあげよう!!
ティオ、あの吸血鬼を殺すんだ!」
「はっ!」
アレクサウスの命令に、人狼ティオはその顔に狩猟者の笑みを張り付かせ、その場から軽く5mは跳躍し、
一瞬のうちにニースを捉える間合いに入った。
「フフフ……」
ティオがその両手に生えた鋭い爪を真っ赤な舌でぺろりと舐めた。鋭利に研ぎ澄まされたそれは、ニースが
使う爪に勝るとも劣らない代物だ。
「さあ……、一瞬で突き殺してあげようかしら。それとも、ゆっくりゆっくりなます切りにしてあげましょうか…」
ティオの瞳には今までニースが見たことのないような、破壊を愉しむ暴力的な色が輝いている。
明らかにティオは、本気でニースを殺しにきている。
「や、やめて……。ティオちゃん、私よ、ニースよ!!」
ニースは何とかティオに自分のことを思い出してもらおうと必死に呼びかけている。が、ティオの表情は微動にもしない。
「わからないのティオちゃん!私達、ずっと一緒だったじゃない!いつでも、どこでも!!」
「私はお前なんか知らない。私にお前なんか必要ない。
私は、主様のために動く。主様はお前の命をご所望している。だから、
死 ね 」
ティオは右の腕を大きく後ろに引き、ニースの心臓目掛けて一直線に突き出してきた。
(やだ……。ティオちゃんが私を殺そうとしている……。こんなのウソ、信じない……)
目の前で起こっている現実が受け入れらないニースは、思考停止を起こし一歩も動くことが出来ない。
このままではニースの命は確実にティオに狩られてしまう、というまさにその瞬間
-
「「ニース様ーーーっ!!」」
ニースの横から飛び出てきた黒い影が一瞬早くニースの体を押し倒し、ティオの手刀はニースが立っていた空間を空しく素通りしていった。
「ニース様、何ボーっとしているんですか!!」
虚ろなニースの瞳に飛び込んできたのはリオンとアンナだった。
いつまでもお呼びがかからない二人は隠れていた廃屋から様子を見に飛び出し、突然の主の危機に考える暇もなく飛び出してきたのだ。
「人狼如きにあっさりと間合いを詰められて……、えええぇっ?!
ティ、ティオ先輩?!」
目の前に立っている人狼の顔を見てリオンはちょっと間抜けな悲鳴を上げた。
そこにいたのは紛れもない慕っていたティオだったからだ。
「なんで…先輩が…」
アンナも驚きを隠せないでいる。
かつてのティオ憎しの気持ちはかなり薄まってはいるのだが、こんな予想外かつ突然の再会には少なからず心が動揺してしまう。
「ふぅん…、一人で来るはずはないと思っていたけれど、そんなところにお仲間がいたのか……
まあいいや。ティオ、三人とも始末するんだ」
「はい!」
アレクサウスの命令を聞き、ティオは猛然と三体の吸血鬼に襲い掛かってきた。
「ニ、ニース様!これって?!」
「逃げなさい!あのティオちゃんにはまともにいったらあなた達では叶わない!!早く!!」
ニースは二人に撤退を促した。が、勿論黙って逃がすティオではない。
ティオが最初にロックしたのは、三人の中で一番ひ弱そうな吸血鬼だった。
「ひっ、せ、先輩?!」
獣のような素早い動きで自分に向ってくるティオを、リオンは右手に持った大剣を構えることも出来ずただ呆然と眺めていた。
「うおおぉっ!!」
「わぁっ!」
リオンは自分目掛けて放たれた右手の上段からの爪撃にようやっと体が反応し、慌てて後方へと飛びのいた。
が、その結果リオンの体制は酷く不安定な物になる。
正にそれを狙っていたティオは、顔に禍々しい笑みを浮かべると、返しの左腕をリオンの胸目掛けて横になぎ払った。
「!!」
リオンはとっさにティオの意図を理解し、右腕で自らの胸部を庇った。その結果、致命傷を免れることは出来たが
ザシュ!!
「うわぁぁぁっ!!」
リオンの右腕は肘の部分から綺麗に切断され、大剣ごと宙を舞った後に青い炎をあげ燃え尽きた。
長い年月を経た吸血鬼ならば腕の一本ぐらい再生することなどわけないのだが、あいにくリオンとアンナは吸血鬼となって
まだ数週間しか経っていない。
再生を行うにも物凄いエネルギーが必要となり、もちろん今の状態で回復できるようなものではない。
「あ、熱い!手が……ぐはぁっ!」
ドンッ!
苦痛に顔を顰めるリオンの鳩尾に、間髪いれず放たれたティオの蹴りが吸い込まれていった。ただの蹴りならまだどうということは
ないのだが、同時にティオは足の爪をリオンの腹へと食い込ませていたので、ずぐり、という感触とともに爪が腹の肉を引き裂き、
リオンは後方に吹っ飛ぶと同時に腹から血を周囲に撒き散らした。
体を『く』の字に折り曲げながら優に3mは吹っ飛んだリオンは、そのまま地面に叩きつけられ勢い余ってごろごろと転がってった。
「げほっ、げほっ……!」
リオンは残った左手で腹を押さえ、立ち上がることも出来ず血混じりの咳を吐いていた。
その後ろで、月光に爪と瞳を光らせたティオが走りながら近づいてくる。
- 「死になさい」
動けないリオンに止めを刺そうと、ティオは大きく手を振り上げた。
「リオン!!」
その時、リオンを助けるためアンナが横から幾本もの小刀を構えながらティオに突っ込んできた。
「リオンを滅ぼさせはしない!ましてや先輩の手でなんて!!」
アンナの手から、自慢の投剣が気合とともに放たれた。
アンナが投げた小刀は寸分違わずティオの急所目掛けて飛んでいった。どれかを避けても確実に何本かは急所に刺さる。
致命傷にはならずとも、多少なりともダメージを負わせることが出来ればその隙にリオンを助け出せるかもしれない。
そこにアンナは淡い期待を抱いていた。
そして、実際にティオは大部分の小刀はやり過ごせたが残ったうち一本がティオの眉間目掛け吸い込まれていった。しかし、
カィン
小刀は鈍い音を立てて弾かれ、地面に空しく落ちてしまった。
「えっ?なんで……、ハッ!」
その時アンナの瞳に、ティオの後方に煌々と輝いてる満月が飛び込んできた。
満月の時、人狼の力は最高の物になり、この時はいかなる武具をもってしても人狼を傷つけることは出来ない。
アンナの持つ小刀はおろかどれほど祝福された聖剣をもってしても、今のティオにはかすり傷一つつけることは出来ないだろう。
「………、貴様が先か!」
小刀が当たったところを指でこりこりと撫でたティオは、アンナを一睨みすると横たわるリオンを無視しアンナに襲い掛かっていった。
「くそっ!」
今のティオにダメージを与える手段はない。出来ることといえば逃げることしかない。
アンナは逃げ場所を探そうと一瞬だけ側面へと視界を移し、再びティオへと向きなおしたところ…
「ハアァァッ!!」
「えっ……?!」
アンナの目と鼻の先に、ティオの顔があった。
物凄い勢いでアンナの懐に飛び込んできたティオは、そのまま顔と肩をがっちりと掴んでから鋭い牙が生え揃った口をぐわっと開き
ガシュ!!
「あがぁっ!!」
アンナの喉笛にガブリ!と喰らいついた。
とはいっても、別にティオは吸血鬼ではないので血を吸う意図はない。
「ガウウウウゥッ!!」
そのままティオはアンナの肉に牙をがっちり喰らいこませると、バキバキと顎に力を篭める。
みちみちと肉繊維がちぎれる耳障りな音が、アンナの耳のすぐ下から聞こえてきている。
「や、やめ!痛、あああーーっ!!」
「ガルルゥーッ!」
アンナが上げる悲鳴に構わずそのままティオはブン!と上体を振りきった。
その勢いで、ブチブチと肉と血管が引き裂かれる音とともにアンナの喉笛がティオの牙で食いちぎられた。
「ぁ………」
呆然とティオの口に収まる抉り取られた自分の肉を見ていたアンナの視界が一瞬にして血に染まる。
噴水のように喉から噴き出てくる自分の血に塗れ、アンナはその場にどさりと崩れ落ちた。
「リオン、アンナ!」
自分の見ている前で、一瞬のうちに二体のしもべが逃げる間もなくティオによって打ち倒された。
ティオが見せた人外の強さは、ニースの予想をはるかに上回る物だった。
「……残るは、お前だけ」
ニースの声にぴくりと反応したティオが、ニースの方へとゆっくりと向き直る。
全身をリオンとアンナの血で濡らし、殺戮の悦びに瞳を金色に爛々と輝かせるティオの姿は恐ろしくもあるが、また美しくもある。
純粋な破壊衝動の塊である人狼に相応しい姿だともいえるのだが、勿論ニースはそんなティオを肯定することをできはしない。
「もう、もうやめてティオちゃん!ティオちゃんのそんな姿、私見たくないよ!!」
- ニースが夢見ていたのは、自分と同じ吸血鬼になって永遠に同じ時を歩むティオの姿だ。
こんな獣となって殺戮を繰り返すティオなど悪夢以外の何物でもない。
「やめて、やめてよぉティオちゃん…。あのちょっと単純だけどやさしいティオちゃんに戻ってよぉ…」
ニースの瞳からは、自分でも知らないうちに涙が零れ落ちていた。
吸血鬼になってからというものの、演技で流した偽りの涙はいくらでもあるが、本心から流した熱い涙は始めてのものだった。
自分の中にまだそんな熱い心が残っていた。などと思い起こす心の余裕は今のニースにはなかったが。
「なによあなた…、いきなり涙なんか流して。今さら命が惜しくなった……、グッ!」
いきなり目の前で泣き出したニースに多少の戸惑いを覚えたティオに、異変が生じた。
ティオは突然顔を顰めたと思ったら片手で顔を抑えてその場に蹲った。ひどく頭が痛むのか、額からは脂汗が浮き出ている。
「あぐ……っ、ニ、ニース…」
それはまったくの突然だった。擦れ声だったがニースの耳に、はっきりとティオの声で自分の名前が呼ばれたのだ。
「!!」
(もしかして、私を思い出したの?)
ニースは苦しげにしているティオに急いで近づき、その肩に手を掛けた。
「ティオちゃん、ティオちゃん!私を思い出してくれたの?!ねえ………」
切羽詰った声をあげ、ゆさゆさとティオの肩を揺するニースに、俯いていたティオがゆっくりと顔を上げた。
「ティオちゃ……、っ!!」
その顔を見て、ニースの体に戦慄が走った。
「甘いわね、あなた」
ニースを見つめるティオの顔に浮かんでいた表情は
両唇の端を頬まで裂けるくらいに釣り上げ、長い牙を剥き出しにしながら
獲物がまんまと目の前に飛び込んできたことに、この上ない悦びを感じた肉食獣の微笑みだった。
(まさか、罠だったの?!)
背筋を襲うぞっとした悪寒に、ニースは慌ててティオから遠ざかろうとしたが、
時すでに遅くティオの左手がニースの右腕を素早く捕らえていた。
「そっちから近づいてきてくれるなんて、手間が省けたわよ!」
ニースの視界に、自分に迫ってくるティオの長い爪が飛び込んでくる。
「ティ…!」
「さよなら」
ドンッ!
そのままティオが突き刺した右腕は、ニースの腹から胎内に入り、背中を真っ直ぐ突き抜けていた。
「うぁ………!」
けふっと咳き込んだニースの口から、どぼどぼと血が溢れ流れてくる。
「あ…、や。ティオちゃん……」
ニースの口からは血が、その瞳からは涙が止め処なく溢れ落ちてきている。
吹き出る血は冷たいのに、流れる涙は何でこんなに熱いのだろう。
「ふふふ…、お前の内臓、冷たいけれどいい感触よ」
ティオはずるりとニースの体内から血塗れの手を引き抜くと、体毛の上で濡れ光るニースの血をぺろぺろと舐め落した。
「てぃ お ちゃ 」
それだけ言うと、ニースはがくりとその場にうつ伏せに倒れた。
その姿をティオは夜風に全身の体毛をなびかせながら一瞥した後、来たときと同じよう跳躍して主の下へと去っていった。
-
「さすがはティオ。いい仕事っぷりだったよ」
意気揚揚と戻ってきたティオにアレクサウスは満面の笑みを浮かべて迎え入れた。
アレクサウスの笑顔を見て、ティオの心に例えようのない優越感が湧き出てきていた。
(ああ、主様が今の瞬間だけ私のみのことを見ていてくださる!主様の笑顔が私だけに向いていてくれる!)
この笑顔のためなら、ティオはなんだってやってやろうという気になってくる。
例え先程のような吸血鬼が100体襲ってこようとも、負ける気すら起きない。
(にしても…、さっきの吸血鬼はおかしな奴だったわ。全然抵抗せずに私の名前ばっかり連呼して…)
ズキン
「っ!」
あの自分の名前を呼んでいた吸血鬼のことを思い浮かべた時、ティオの頭に刺すような痛みが走った。
不意をついた痛みに、ティオは体のバランスを崩しほんの少しだけ体をよろめかせた。
「どうしましたの?ティオ」
よろけたティオを見たアルマナウスが、心配そうにティオの顔を覗き込んでくる。
「いえ…、ちょっと頭痛がしただけです」
頭を抑えたまま、ティオはアルマナウスに心配をかけまいと笑顔を浮かべて答えた。
「あら…、それは大変。
兄様、もう目的は達しましたし帰りましょう。ティオも慣れない体に負担をかけすぎたみたいですし」
「そうだね。じゃあ早く僕たちの城に戻ろうか。そこでさっそく花嫁と祝言を挙げるんだ。
あ、その後でティオもたっぷりと可愛がってあげるよ。今日頑張ってくれたごほうびだ」
この言葉に、ティオの耳がピクッと反応した。
(主様が、私のことをかわいがってくれる?!)
「あ、主様!ありがとうございます!」
ティオは主の望外の温情に尻尾をパタパタと振りながら全身で悦びを表した。
また、アルマナウスはアルマナウスで労苦をねぎらう意図かティオの喉をごろごろと撫で上げた。
「可愛いティオ……、後で私も兄様と一緒に可愛がってあげますわ」
「!!きゅぅ〜〜ん…」
アルマナウスの意図せぬ褒美に、ティオはくたっと全身の力を抜いて鼻を鳴らし、喉から発せられるむず痒さを伴う快感に酔った。
「じゃあ、行こうか」
アレクサウスはリム、アルマナウスはティオを抱え昨夜と同じように夜の空へと浮かび上がった。
空に浮くティオが意図せずに下を見下ろした時、地面に横たわる腹に大穴を明けた吸血鬼が視界に入ってきた。
「……っ」
その姿見たときに、またティオの頭に軽い頭痛が走った。
(なんなのよ、あいつは…)
ティオは説明できない苛立ちを心の中に感じていた。
あの吸血鬼のことを、自分は何か知っている気がする。
だが、それを考えようとすると頭の中で誰かが『考えるな』と釘を刺してくる。
なら、考えない方がいいのだろう。主様もそう思っているに違いない。
あの吸血鬼のことを知っていて何か得をするというのか。自分には主様たちだけあればいい。それが今の私のすべてだから。
ティオはそれ以上、ニースのことを考えるのを止めた。
これから城の中で素晴らしいご褒美が待っているのだ。そっちのほうが今のティオにはより重要なことだった。
-
「う……、ニース様、アンナ様……」
アレクサウス達が飛び去って暫くした時、丘の上でふらふらと蠢くものがあった。
先ほどニースに片腕を飛ばされたリオンが、意識を取り戻したのかゆっくりと立ち上がった。
「ニース様、アンナ様ぁ、どこで………!!」
霞む目で周りの状況を見たリオンは、目の前の惨事に絶句した。
自分の左横には、喉笛を食いちぎられ小刻みに痙攣を続けるアンナ。
自分の正面奥には胸板にぽっかり穴を開け、ピクリとも動かないニース。
「ニ、ニース様、アンナさまぁ!!」
自分の右腕と腹部の痛みさえ忘れ、リオンは二人の主に慌てて近づいていった。
第六回終
-
『猟血の狩人』第七回
満月の青い光が照らす小高い丘の上に広がる惨劇。
一人は、千切れた片腕の先と裂けた腹から血を滴らせながら、よろよろと今にも倒れそうな体をなんとか支えている。
一人は、喉笛をぱっくりと噛み破られ、つい今までぽっかり空いた喉から派手に吹き出していた血の海に横たわっている。
一人は、胸板に大穴を穿たれうつ伏せに横たわり、光を失った目を呆然と草の陰に埋めている。
誰を見ても、最早助かる術が見つからない致命傷を負っていた。
ただし、人間だったらの話である。
「ニース様ぁ…、アンナ様ぁっ!」
吸血鬼でも痛みを感じるということを実感しながら、リオンは親吸血鬼であるニースとアンナに足を縺れさせながら近づいていった。
「アンナ様、アンナ様!!」
リオンは比較的近くにいたアンナの頭を恭しく抱えると、その耳元で主人の名前を懸命に叫んだ。
「………」
が、アンナは虚ろな目をしたまま何の反応もない。
「しっかりしてください。アンナ様、アンナ様!!」
(自分を残してアンナ様が死ぬはずがない!死ぬはずがないんだ!!)
リオンはただそれだけを信じて、人形のように無反応なアンナをなんとかして呼び覚まそうと半ば涙声になって呼び続けた。
すると、
「………、ぅ ぁ…」
リオンの願いが届いたのか、アンナの瞳に微かに光が戻り消えそうなほど擦れた声が口元から漏れた。
「ア、アンナ様!!」
「ぁ ぁ…、リ オ…」
アンナが意識を取り戻したことの嬉しさにパッを顔を輝かせたリオンに、アンナは自分の顔を支えているリオンの腕を弱々しく握り締めた。
「リ オ … く、る……」
喉がぱっくり開いているからか、アンナはうまく喋れることが出来ず時々傷口からひゅーひゅーと空気が洩れる音がしている。
はっきり言って非常に痛々しい姿なのだが、それでもリオンは自分の主人が生きていたということだけで嬉しかった。
「よ、よかった、アンナ様…。アンナ様が生きていて本当に…」
「リ、リオン…」
その時、アンナとはまた違う方向から声が聞こえてきた。
「!!」
ハッとしたリオンが声がした方向へと振り向くと、今までピクリとも動いていなかったニースが必死の形相で顔をあげ
リオンを睨みつけていた。
「ニース様!ニース様も死んでいなかったんですね!」
「し、死んで、いなかったとは…、ご挨拶ね。ゴホッ、ゲホッ!!」
ニースはリオンへ苦笑を浮かべながら、血が混じった咳を地面へと吐いた。
だが…、リオンがそんな言葉を吐いたのも無理はない。
吸血鬼は、よほど力が弱っていない限り通常の傷ですぐに致命傷になることはない。
腕が吹き飛んだり腹が切り裂かれるぐらいはじっと安静にしていれば治るレベルだし
喉笛を食い千切られても速やかに処置をすればなんとか命は助かる。
- だが、心臓を貫かれた場合は別だ。
心臓は吸血鬼の最大の弱点で、ここを壊されたら吸血鬼は有無を言わさず死を迎える。
言い替えたら、心臓を壊されない限り吸血鬼は活動を停止することはないのだ。
(まあ、例え心臓を破壊され灰になったとしても血を捧げれば復活する可能性があるから『真の死』を吸血鬼が迎えるのは本当に稀だが)
そして、胸板のど真ん中を貫かれたニースはどう考えても心臓を破壊されたとしか思えなかった。
実際ニース自身もティオに貫かれた時は死を確信していたし、アレクサウスも死んだと思ったからこそ帰っていったのだろう。
だが、ニースは死んでいなかった。
ティオが打ち込んだ手刀はニースの心臓のギリギリ下を通過し、胃袋から背中へと抜けていった。
だからこそニースは胃を破って出てきた血で派手に吐血したのだが、心臓をやられてはいないので即死することは無かったのだ。
が、体の血の大部分を流してしまったので起き上がることはもちろん声を出すのもひどく億劫になっていたが。
「ハァ、ハァ…。リ、リオン…」
「な、なんでしょうか?ニース様!」
ニースは今にも消えそうな声でリオンに語りかけてきた。リオンも耳を澄ませ、必死に聞き取ろうとする。
「だ、誰でもいい…。いいから、一刻も早く人間を捕らえてくるのよ…
血、血が足りないの。早く血を飲まないと、私も、アンナも……」
そう、ニースの傷もアンナの傷も致命傷ではないが、そこからだくだくと流れ落ちる血と共に二人の生命力もどんどん枯渇していっていた。
このままでは二人の生命力は完全に涸れはて、死を迎えることになってしまう。
「早く…、私たちの中でまともに動けるのはあなただけなんだから……」
「!」
言われて、リオンは事の深刻さが理解できた。
動くこともままならないニースとアンナは、このままだと人間を襲って血を吸うことも出来ず、体の血を流し尽くして干からびてしまう。
(た、た、大変だ!)
「わ、わかりました!!で、でも!でも!!」
「でも……っ、って何が…!」
もう返事をする力すら勿体無いというのに、その場で慌てまくるリオンについニースは苛立った声を上げてしまった。
「でも!町の人間には『出るな』って言ってますから外には一匹の人間もいやしませんし
僕たちは招かれないと人家には入れないんですよ!どうやったら……」
確かに、昨日から町の人間には邪魔になるから夜は外に出るなと町長を通じて言ってある。
その結果、外にいる人間は絶無だし、家に入れろって言っても吸血鬼がうろついている可能性がある以上、入れてくれる人間などいるまい。
そして、吸血鬼には『初めての人家は中から招かれない限り入ることは出来ない』という決まりがある。
「どうしよう…、どうしよう……」
もはや泣き顔になってまごまごしているリオンに、ニースは口元を血で濡らしながら叫んだ。
「落ち着きなさい!あなたは一軒だけ中に入れる家があるでしょうが!」
「入れる家……?あっ!!」
ニースに言われリオンは思い出した。この町でただ一軒だけ、一度入った事があるために自由に出入りできる家があることを。
「わかったら……、さっさと 行ってきなさい…!」
「は、はい!」
リオンは慌てて頷くと、目標の家目掛けて足早に駆けていった。
とは言っても、リオンも相当の深手を負っているのでかなりゆっくりめではあるが。
「ふう……。相変わらずいまいち使えない子ね……」
リオンが去って再びあたりが静寂に包まれ、ニースは右腕を額に下ろして一息をついた。
「アンナ……、まだ暫く持つ?」
わずかに首を動かしてアンナを見ると、アンナは青い顔をさらに青ざめてはいたが、精一杯の笑顔を浮かべてこっくりと頷いた。
「そう…、リオンが人間を持ってくるまで辛抱してね。
そうすれば、たっぷり血を飲んで傷も直せるから……」
ニースの言葉に、声が出せないアンナは笑みを浮かべながらこくこくと首を動かしていた。
(…あまり長い時間はもたなそうね…)
ニースから見ても、アンナが相当無理をしているのは明らかだ。ただ、自分が見ている手前弱い姿は見せられないのだろう。
(ティオちゃん…)
- ニースは、自分達を一瞬でこんな目に合わせたティオの姿を思い浮かべた。
金色に瞳を輝かせ、銀色の体毛を月光に光らせ鋭い爪と牙を振りかざしながら暴力と殺戮に酔った笑みを浮かべ襲い掛かってくるティオ。
(あんなの……、ティオちゃんじゃない!)
ニースは認めたくなかった。いつも自分の近くにいて、時には血を分け与え、時には自分を守ってくれ、
いつかは自分と同じ吸血鬼になるはずだったティオが人狼となって自分を殺そうとしたことを。
だが、胸に開けられた大穴と目の前で死にかけているアンナを目の当たりにすると、それが現実だということを嫌でも思い知らされてしまう。
そして、突きつけられた悪い夢のような現実は、その原因となった吸血鬼に対する憎しみへと転換されていく。
「許さない…。許すものか…、アレクサウスめ……」
あの小生意気な金髪の少年吸血鬼の顔を思い出すたびに、ニースの心にどす黒い殺意がこんこんと湧いてくる。
今にも折れそうなニースの体と心を支えている一端は、間違いなくアレクサウスへの強烈な殺意だった。
「よくも、よくもティオちゃんを人狼に……、人狼に……?」
この時、殺意に包まれたニースの心に一片の疑問がわいて出た。
「人狼に?たった一晩で人狼にした……の?」
考えてみれば、ティオが攫われたのは昨日の夜。そしてティオは人狼になって戻ってきた。
人狼は吸血鬼と違い一晩で人狼に変わることは出来ない。前にも言ったが伝染病みたいなもので数日の潜伏期間があるのだ。
つまり、一晩で人間が人狼になることなど『ありえない』。
「どういうこと……」
ニースの猛りきった心が急激に冷静さを取り戻してくる。
よく考えてみれば、リオンとアンナに止めを指さなかった点も疑問だ。破壊衝動の塊である人狼が対象を破壊し尽くさないで
残すという点だけでも充分におかしい。
そして、確実に死んだと思った自分への一撃。
あれも、心臓を狙った一撃が寸毛ほどの差だが逸れて、結果自分は生き延びている。
さらに、自分の名前を呼んでおびき寄せた行動。
あんな回りくどいことは、人狼は絶対にしない。そんなことに頭が回らない。
ただ目の前のものを壊し、殺し、蹂躙する。それが人狼だからだ。
(もしかしたら…、ティオちゃんは純粋な人狼じゃないかもしれない……)
そのため完全に人狼に変わりきらず、僅かだが人間としてのティオが残っているのかもしれない。
だからニースの姿を見て僅かだが心の奥が逡巡し、心臓を狙った手刀がちょっとだけ狙いが逸れたのかもしれない。
これは推測でしかない。ただの希望的観測かもしれない。
だが、希望は出てきた。限りなく低い可能性だが、ティオを自分の手に取り戻せるかもしれない希望が。
「だとしたら……、ますます死ぬわけにはいかなくなった、わ……」
胸を襲う激しい痛みも、今となっては生きている証だ。絶望に光を失っていた紅い瞳に、僅かだが光が戻ってきている。
「リオン…、早く戻ってきなさい。
私は…、いつまでもこんなところでジッと しているわけにはいかな いの…」
ニースの瞳に、真上に昇った真ん丸の月が入ってくる。今夜はまだまだ長く続きそうだ…
-
小さいながらも、人二人は優々と横になることが出来るベッドが置かれた個室。
開け放たれた窓からは、中天に差し掛かった満月の光が注ぎ込んできていた。
そして、その光にあてられながらそわそわする心を落ち着けるかのように窓枠に手を置いてじっと外を眺めている姿が一つ。
「遅いな…」
古城の主である少年吸血鬼、南天のアレクサウスは空を眺めながら花嫁の晴れ姿を今か今かと待ち続けていた。
とりあえず、田舎っぽい普段着ではこれからの祝言には相応しくない。
そのため、メイド達に花嫁のおめかしを頼んだのだが、小一時間経っても何の音沙汰もない。
だからと言って、いまさらこちらから花嫁の下へ赴くのは野暮というものであろう。
そんなお預けも出来ないようなガキの時代など、400年以上前に通り過ぎているし、アルマナウスに知られたらなんと言われるかわからない。
「こうやって待つのも…、愉しみのうちさ」
永い永い生涯、こうやって胸を高鳴らせる時間もそう多くはない。大概の時間は無味乾燥な現状の通過でしかないのだ。
そう考えると、昨日から自分に突っかかってくる若輩の吸血鬼との戯れはなかなか愉しかった。
あそこまであからさまに自分に感情をぶつけてくる相手にはここ数百年会ったことはなかった。
実を言うと、ああもあっさり殺してしまったのが少し勿体無く思えてきたりしている。
「もう少し、じゃれあってもよかったかな…」
向こうも不老不死の吸血鬼。あのまま生かしておいたらこれからの数十年〜数百年は時折刺激的な日々を味わえていたのかもしれない。
でも、過ぎてしまったことは仕方がない。
「ニース…だったかな。君が残してくれた人形を使って、君の代わりにこれからの生を愉しませて貰うよ」
吸血鬼の人生は永い。毎日とは言わないまでも人生にある程度のメリハリが無いと、心が磨耗して擦り切れてしまう。
花嫁を漁るのも自分に適度な刺激を与えるのが目的だし、今度はティオという格好の玩具も手に入った。
彼女の戦闘能力は過去に作った同種の人狼と比べても際立っている。これを使わない手は無い。
「そうだな…、手始めに花嫁達と一緒にあの町の人間全員を皆殺しにしてみようかな。一体何時間で片がつくんだろう…」
期せずして、アレクサウスはニースと同じ事を頭の中で思い浮かべていた。本当に不幸な町である。
そして、アレクサウスがいかに効率よく人間を殺すかの算段を立てているとき、ドアをこんこんとノックする音が聞こえてきた。
「アレクサウス様、花嫁様の用意が整いましてございます」
メイドの声に、アレクサウスの顔がパッと輝く。
「あっ!! よし、入れ!」
色々な考えに心奪われていて、図らずも今日の本命を失念していた。
アレクサウスの声にドアが軽い軋んだ音を立てて開かれ、三人のメイド、メイ、クゥ、ミミに連れられて花嫁装束を
施したリムが部屋の中に入ってきた。
「主様、これでよろしいでしょうか?」
三人メイドのリーダー格であるメイが、リムの手を取ってアレクサウスの下へと導いてくる。
リムは長い髪を後ろで束ねて黒のレースで形を整え、黒を基調としたウェディングドレスを全身に纏っている。
手には紅いバラの花束を一抱えし、金製のアクセサリーを所々に散りばめている。
散々待たせただけあって、その姿は正に吸血鬼の花嫁にふさわしいものだった。
「……、素晴らしい」
その出来にいたく満足したアレクサウスは、リムの手をそっと握るとその手の甲に軽く口付けを交わした。
「あっ…」
アレクサウスの唇が肌に触れた感触に、リムは幸せそうに顔を赤らめた。
「よし、お前達は下がっていい。これからは、僕と花嫁の二人だけになりたいからな」
アレクサウスの言葉に、三人のメイドは深々と頭を下げると音も無く部屋の外へと出て行った。
薄暗い部屋の中に残ったのはアレクサウスとリムの二人だけ。
「………」
アレクサウスをじっと見るリムの虚ろな瞳が艶っぽさを増していっている。
一旦吸血の快感を骨の髄まで染み込ませられ、今またあの時の快感を味わうことが出来るという歪んだ期待が
心の中でどんどん大きく膨らみ、弾けそうになっている。
「ああ…、主様。この時をどれほど待ち焦がれたことか……」
「僕もだよ。こうして、君の血をゆっくりと堪能する時を待っていたんだ」
- 自分より背が小さいアレクサウスに、リムは腰が抜けたかのようにくたっと全身の体重を預けもたれかかっている。
込み上げてくる期待とアレクサウスの甘い言葉に、すでに腰が震え上がり体を支えることが出来なくなっていた。
「君は僕の110人目の花嫁に選ばれるという栄誉を手に入れた。その体も、心も、血も、全て僕のものになるんだ」
「はい…。私の体も、心も、血も、全て主様の所有物です…」
アレクサウスのものになるということは、リム自身が吸血鬼になることだ。もちろんリムはそのことは理解している。
主様に全てを捧げ、主様と同じ存在になり、主様のために生きる。
なんて素晴らしいことだろうか。
リムに吸血鬼になることへの恐怖、嫌悪はもはや無い。むしろ、一刻も早くなりたかった。
アレクサウスと同じ存在になり、同じ世界を生きたい。同じ世界を見たい。同じ嗜好を味わいたい。
「主様…、早く、早く私にその牙をください。私の血の全てを、啜り取ってください…!」
興奮で荒い息を吐くリムは、今すぐにも吸血をしてもらいたく頭を捩ってアレクサウスの噛み跡が黒々と残る首筋を
アレクサウスの前に曝け出している。
「はやく…、はやく、してください…。もう、私我慢できません……っ」
吸血を求めるリムの顔は完全に紅潮し、汗と涙と涎でぐしゃぐしゃに濡れている。
(これはこれで見ていて面白いけれど…、さすがにこれ以上待たせたら可哀相かな)
リムがこのまま壊れる様も見てみたいような気もしたが、アレクサウス自身もそろそろ血の渇望に辛抱がたまらなくなってきていた所だ。
アレクサウスは目の前でビクビクと震えているリムの真っ白な首筋につぅっと舌を這わすと、ドクドクと脈打つ
頚動脈の辺りに二本の牙をちくんと触れさせた。
「ああっ!」
牙が肌を食い破る期待にリムは感極まった嬌声を上げたが、牙は肌をちくちくと刺激するだけで刺しこんで来る気配は全く無い。
「ど、どうし…」
愉悦とも嗚咽とも取れない顔をしたリムが不満の声を漏らした瞬間、
ズズッ!
「ふわあぁぁっ!!」
アレクサウスの牙がずぶずぶとリムの首筋に沈み込んでいった。
突然の不意打ちに、心の緊張の糸を緩めていたリムは首から流れ込んでくる魔悦を加減することなく心で受けてしまい
一瞬目の前が頭で弾けたフラッシュで真っ白になってしまうほどの衝撃を受けた。
「ひあ、ひぁぅ!うわあぁぁっ!!」
アレクサウスの喉がごくり、ごくりと鳴るたびにリムの喉から歓喜の悲鳴が洩れ出てきている。
(ふふ…、焦らしたかいがあって血も命もいい具合の味わいになっているね)
人間の気持ちの持ちようで血の味が変わるのがわかるのか、アレクサウスは久しぶりに味わう『いい味』の血を
口いっぱいに堪能していた。
『とてもいい味をしているよ。僕の、僕の………』
ここで初めて、アレクサウスはこの目の前の花嫁の名前を知らないことに気がついた。
別に花嫁と言ったって惚れた腫れたのものではない。適当に、器量のよさそうな若い人間を選んで血を吸って虜にしただけのこと。
『花嫁』で個人識別は容易だし、特に名前に拘泥する言われもない。
が、花嫁の名前を知らないというのもやはりあまり勝手はよろしくない。
『花嫁…、君の名前ってなんていうんだい?』
「ああっ……、リム。リムですぅぅ〜〜〜っ!!」
吸血による沸きあがるような快感に蕩けまくったリムは、感極まったかのような上ずった声で自分の名前を叫んだ。
『リムか……』
自分の花嫁の名前を確認したアレクサウスは、つぷっと牙をリムの首から抜くと、そのままリムをベッドの上にそっと乗せた。
「ふわぁ…っ。主様ぁ、もっと、もっと吸ってくださぃ…
私の血を、命を、全てを吸い尽くしてくださぁい……」
吸血の悦楽に完全に酔ったリムは、ベッドの上で芋虫のように体をくねらせながらアレクサウスに喉首を晒し続けている。
そこに、上着を脱いでシャツのボタンを外し、チラリと素肌を晒したアレクサウスが覆い被さってきた。
「ああ、吸ってあげるよ。この上でリムの体を、存分に嬲りぬきながらね…」
アレクサウスの手がリムの体のあちこちを弄りながら、その牙が再びリムの体内へと埋められていく。
「あぅーーーっ!!」
アレクサウスによるリムへの吸血鬼なりの婚姻行為は、まだまだ入り口に入ったばかりだ。
-
「………」
メイド達によって掃き清められ、与えられた自室でティオの顔は真っ赤に染まっていた。
アレクサウスの使っている部屋はここから50メートル以上離れているはずなのだが、人狼になって相当に鋭敏になった
ティオの聴覚は、アレクサウスとリムが発する衣擦れの音をはっきりと捕らえてしまう。
最初の方こそ、主の営みを盗み聞くのは趣味が悪いと枕を頭から覆い被せベッドの中に突っ伏していたが、耳に入ってきた
妄想を刺激し過ぎる音は、静まり返った空間の中でティオの心に悶々とした思いを膨らませていった。
ぐちり、ぐちりとリムの血がアレクサウスの口と擦れあう音。
血を吸われる気持ちよさに上げる獣のような咆哮。
体が触れ合うたびにギシギシと古いベッドのばねが軋む音。
後で『嬉しいご褒美』が待っているティオにとって、それらの音はあまりにも蠱惑的だった。
姿が見えず音だけという状態が、ティオの脳内で自分がアレクサウスに睦みごとを行われているような妄想を浮かび上がらせる。
(あ、主様があんな感じで私の体を求められたら……)
ドキドキと胸が高鳴るティオは、いつの間にか包まっていたベッドから顔を出し、人間ではありえない距離の盗み聞き
のために全神経を耳へと集中させていた。
(……ああっ、アンッ!アウゥッ!!)
そのうち、向こうでは行為も本番に入ってきたようでリムの声もベッドの軋み音も激しさを増していっている。
「……… あぅ…、主様ぁ……」
それらの声や音を仔細漏らさず聞き入っているティオの顔はまるでのぼせたようにポーッとなり、金色の瞳の
焦点は遠くを見ているかのようにずれている。
もじもじと太腿を擦りあわせている下半身は、いままで感じたことも無いほど熱もっており、触れて欲しい
触れて欲しいとティオに訴えかけてきている。
「うぅ…」
自らの心の声に従い、ティオは恐る恐る右手の先を自分の太腿の間へと伸ばしていく。
そこはいつの間にか指先で感じる熱でも分かるくらいに熱く潤んでいた。
「あ、主様……」
本当は、この熱く滾りきったところに主様のモノを深く埋めてもらいたい。
下のモノで貫かれ注ぎ込まれるのもいいし、上のモノで刺されて吸われるのもいい。
「主様ぁ、主様ぁ」
ティオの右手の指が、こんこんと泉が湧き続けるところへと埋められていく。
ぐちゅぐちゅと泡が潰れるような音が狭い部屋の中に鳴り響いていく。
(今この指は主様のモノだ。今私の中をかき回しているのは主様なんだ!)
「主様、主様ぁ!」
次に左手の指先が、弄りまわしている右手のほうへと伸びていく。
鋭く伸びた指先の爪が、ぽってりと赤く充血した入り口に触れ、ズブリと深く刺し込まれた。
つぅっと赤い血が爪先から流れ、シーツに赤い染みをぽたぽたと作っていっている。
「あひいぃっ!!」
(こ、この爪は主様の牙!私は今、主様に血を吸われているんだ!)
痛みすら、今のティオには妄想を揺さぶる材料である。
「ああっ、主様、主様、主様ぁっ!!」
下半身から発せられる痛みと快感が非常に心地よい。ティオは蕩けた笑みを顔に浮かべ、時には右手を深く差し込み
時には左指を刺しなおし、血と愛液を撒き散らしながら自らの行為に酔った。
「気持ちいぃ、気持ちいいです主様!もっと、もっとティオをいじめてくださいぃ!!」
もうアレクサウスたちの嬌声も耳に入っていない。ティオは自慰に完全にのめりこみ、没頭していた。
だから、がちゃりと大きな音を上げて部屋に入ってきた存在にも、全く気づくことが無かった。
-
「あら、随分とまたはしたない格好をしてなさいますのね」
「いっ!!」
思わぬところから思わぬ声が聞こえてきて、ギョッとしたティオはうつ伏せになって両手を股座に添えている格好のまま
その場でピョインと軽く飛び跳ねた。
神速の速さで振り返った先には、両手で狼の人形を抱えたゴスロリ姿の少女が一人、ニコニコと笑いながらティオを眺めていた。
「ア、アア、アルマナウス様!!」
「ノックをしても全然返事が無かったから、何事かと思って入ってみれば…、随分お楽しみでしたのね」
「〜〜〜〜〜〜〜!!」
自分の主人が入ってきたのに全然気づかず、あられもない姿を一部始終見られていた。
その事にティオは恥ずかしさと情けなさから、顔はおろか銀色の毛で覆われた耳の先まで真っ赤に染まり、とてもアルマナウス
の顔を正視できないとばかりに深く俯いてしまった。
「も、申し訳ございません!アルマナウス様に全然気がつかないばかりか、あ、あ、あんな情けない姿を晒してしまって…」
ティオの目の前は頭に血が昇ったからか真っ赤になり、異様なまでに体感温度が上昇し始めている。
ティオの脳内に、快楽に身を委ねてしまったことへの後悔がグルグルと渦巻いている。
こんな醜態を晒してしまった以上、叱責どころか制裁を受けても文句は言えない。
しかし、アルマナウスはそのことを咎めるわけでもなく笑ったままティオのもとへと近づいてきた。
「何をしょげているのかしら?私は今のティオの行為を責める気なんて全くございませんのよ」
「えっ……?」
意外な言葉に、ティオは不可解な表情を浮かべた顔をアルマナウスへと向けた。確かに、アルマナウスはティオに対し
怒るどころかティオの態度が見ていて微笑ましいといった感じの笑みを向けている。
「だって……」
が、次にアルマナウスがティオに向けた笑みはそれとは異質の、獲物を嬲る狩猟者の笑みだった。
「だって、ティオがそんないやらしい娘だというのはもうわかりきっていること、なんですから!」
その場からふわっと跳んだアルマナウスは、あっけにとられその場で動くことすら出来なかったティオの背後に簡単に廻り込むと
左腕をティオの胸下に回してティオの動きを封じ込め、右手はティオの臀部へさすっと添えた。
「ひゃあっ!ア、アルマナウス様?!」
「ほら、前の方のみならず後ろの方も溢れかえっているじゃないの。本当にいやらしい体なんだから」
アルマナウスが指摘したとおり、ティオの下半身は前から溢れた液だけではなく、後ろの方から溢れ出した腸液もあわさって
べったりと濡れ輝いていた。
「『あの時』に、お尻の方で感じさせてあげましたものね。今でも、前より後ろを弄ってもらったほうがよろしいのではなくて?」
アルマナウスはそのまま人差し指と中指をぐいぐいとティオの尻の中にいれ、ぐりぐりとかき回している。
「ひああぁっ!!ア、アルマナゥ…さまぁ……、ひゃめぇ…」
その瞬間、ティオの表情が先程の自慰とは比べ物にならないほど緩く蕩け始めた。
刺激の瞬間が自覚できる自慰と違い予想外の刺激が得られる他人の指の方が受ける快感が大きいというのは分かる。
が、ティオの顔はそれだけでは説明しきれないほど肛姦の悦楽に爛れきっていた。
(だ、だめぇ!この感じ…、気持ちよすぎる!!お尻、気持ちいい!!)
ティオは腰から湧き上がる快感に自然と腰が上がり、顔と腕をベッドに這わせ自然四つん這いの格好になってしまった。
高く突き上げた腰の先の尻尾を銀の体毛を震わせながらブンブンと左右に振り、アルマナウスの指をより深く感じようと
指の動きにあわせて緩く小刻みに動かしている。
「ああっ、アルマナウス様!!もっと、もっと奥までぇ!深く抉ってぇ〜〜っ!!」
「ふふっ、四つん這いになって尻穴を抉られながら恍惚の喘ぎを漏らし続ける…
まるで、ティオがこの姿になった時のようですわね」
四つん這いになりながら大声ではしたなくおねだりを繰り返すティオを見て、アルマナウスは『あの時』のことを思い出していた。
-
それは、昨晩のこと。
ティオはアレクサウスの魔眼に取り込まれ、すっかりアレクサウスの虜になっていた。
そして、ティオとリムの人質交換を示唆するアレクサウスに対し、ティオは自分も傍においてくれと泣き叫んで懇願した。
アレクサウスはその様を見世物を見るかのように愉しんだ後、ティオに一緒にいてあげると優しい声であやした。が、
「そのために、ティオの体をちょっといじらせてもらうよ」
アレクサウスは少しばかり物騒なことを言ってきた。体をいじるとは一体どういうことを意味しているのか。
「は、はい!はい!!何でもいいです。アレクサウス様のお傍にいられるならなんでも!!」
しかし、アレクサウスの言葉にティオは一も二もなく頷いた。
アレクサウス様たちと一緒にいられるなら、例えこの体がどうなっても構わない。
はたして自分はどんなことをされるのか。アレクサウス様に、どんなことをされてしまうのか。
そう考えるだけで胸がキュッと詰まり、カーッと血が頭に上ってくる。
ティオが早鐘のように心臓を鳴らして期待する前で、アルマナウスが持っていた人形をスッとティオの前にかざした。
銀色の体毛と尻尾を持つその人形は、多分にデフォルメされているが狼をかたどった人形だった。
「……?」
一体なんなのだろうと訝しるティオの目先で、狼の人形のガラスの瞳が不意にギラリと金色に輝いた。
「えっ?!」
アルマナウスの手からパッと離たれた人形は床にすとりと二本足で着地するとその場でみるみると大きさを増していく。
4頭身ぐらいのかわいかったおもちゃの狼はたちまちのうちに、樫の幹のような逞しい腕、ぱんと張った大胸筋、
獰猛にぎらつかせた金色の瞳を持つ猛々しい人狼へと変貌してしまった。
「グルルルル…」
人狼は唸り声を上げながら、眼下に縛られているティオをギロッと睨みつけた。
「…ひっ!」
そのあまりの威圧感に、ティオは喉の奥から軽い悲鳴を上げてしまった。
「このヴォルフは、人狼の魂と力を宿した私の自信作ですのよ。このヴォルフの持つ魂と力をちょっと削ってティオに注ぎ込めば
あなたは時を待たずに立派な人狼へと生まれ変わりますわ。
ああ、ご安心なさいな。ヴォルフは見た目よりずっと紳士ですの。私の命も聞かずにいきなり襲うなんて真似は致しませんわ」
アルマナウスはクスクスと笑いながらティオに語りかけてきた。そしてそのままティオへと近づいてきて…
ティオを縛っている鎖をするりと外してしまった。
「あっ…」
吊るされていた腕が自由になったのはいいが、それまでに受けていた責めで完全に腰砕けになっていたティオは自分の体重を
支えきれず、その場にぺたりと尻餅をついてしまった。
通常なら、戒めが解かれた時点でアレクサウス達に刃を向けるかこの場から逃げ出すのだろうが、アレクサウスに
魅入られているティオにはそんな発想は全く浮かんでこない。
(一体…、アレクサウス様は何をなさろうとしているのだろう…?)
むしろ、これから自分が受ける処遇にばかり頭が向き、いらぬ期待で心は高揚していた。
「メイ、クゥ、ミミ。ティオの野暮ったい服を脱がして差し上げるんだ」
アレクサウスの後ろに控えていた三人の吸血鬼メイドが命令と共にティオに纏わりつき、短剣を仕込んだ法衣も体を締めて
全身の動きを円滑にしているコルセットも全て剥かれていき、たちまちのうちにティオは一糸纏わぬ姿にされてしまった。
メイド達は脱がした衣服を丁寧に畳むと再びアレクサウスの後ろへと音も無く戻り、再びティオの周りには人狼ヴォルフと
アルマナウスだけしかいなくなった。
「さて、これで準備は完了ですわ」
一体何の準備だろうか。いわなくてもなんとなく分かる気はするのだが。
「ずっとお預けを食らってよく辛抱したわねヴォルフ。もう我慢しなくていいのよ」
アルマナウスの声がどこか遠いところから聞こえてきている感じがする。
「ア、アルマナウス様……」
-
私の心に、ある可能性がよぎる。
アレクサウス様もアルマナウス様も、それが目の前で起こることへの期待に瞳を輝かせているのが分かる。
いや、この人狼が現れた時にそうなる予感はしていた。
こに人狼に『力を注ぎ込まれる』という時点で、どのような事をされるのかという確信は得ていた。
私 が 、 こ の 人 狼 に 犯 さ れ る と い う こ と を
「さあヴォルフ、ティオをたっぷりと可愛がってあげるのよ!」
「ガウウウゥッ!」
アルマナウスの『よし』の命令に歓喜の声を上げた人狼=ヴォルフは、ぺたりと尻餅をついているティオに勢いよく覆い被さってくる。
「ああぁっ!!」
そうなる予感と覚悟はしていたが、実際にケダモノが自分に襲い掛かってくるとやはり恐怖が体を支配してしまう。
「やっ、いやっ…」
本能的にティオは動かない足を引きずってその場から逃げようとするが、当然間に合うはずも無く体の側面から勢いよく
ヴォルフに組み伏せられてしまった。
「ガウッ!ガウウウウゥッ!!」
ヴォルフは右手でティオの頭部を押さえつけて動きを封じ、残った左手でティオの左脇を掴み、強引にティオをうつ伏せの
状態にしてしまった。
「ああぁっ!ア、アレクサウス様!恐い!私、恐いです!!」
ティオの顔は恐ろしさから真っ青に染まり、見開いた目は奥で身じろぎもしないアレクサウスへと向けられていた。
ティオはちょっと前まで聖職に付いていたので当然のことながら純潔である。
交合についての知識はあるものの、まさか人狼に純潔を奪われる事態などというものは想定していない。
最初に捧げる相手は意中の人…、この場合はアレクサウスだろうか。そのような乙女チックな思いを抱いていたことも否定できない。
それだけに、主人=アレクサウスの意図とはいえこんな化物に純潔を奪われることへの恐怖がティオの心を駆け巡っていた。
そんなティオの恐怖心を読み取ったのか、アルマナウスがティオの顔下にしゃがみこみあやすような声で囁いた。
「心配することはありませんわティオ。あなたの純潔は兄様のために取っておいてあげますのよ。
いくらヴォルフが可愛いといっても、あなたの純潔を上げるわけにはいきませんわ」
「ほ、本当、ですか……」
アルマナウスの声にティオは多少だが安堵の笑みを浮かべた。少なくともこの狼に、自分の一番大事なものは奪われないようだ。
だが、ちょっと待ってほしい。
じゃあ他にどんな方法でヴォルフはティオに力を注ぎ込むというのか…
その答えは、残忍そうに口元を釣り上げたアルマナウスから発せられた。
「女の下半身には、二ヶ所入れる穴がありますわ。
ティオ、後ろの穴からたっぷりとヴォルフの力を注ぎ込まれなさい!!」
「!!ひっ!」
ティオの尻の窄まりに、なにやら異常に熱い棒のようなものが突きつけられる感触がする。顔をヴォルフの右腕で押さえつけ
られているためにどのような様子なのかは見て取れないが、何をされようとしているのかは容易に想像がつく。
「や、やぁっ!私、初めてなのに、初めてなのに!!」
初めての交合で不浄の穴を刺し貫かれる。
そのあまりのおぞましさにティオは何とかしてこの場を逃れようと自由にならない体を懸命に揺すった。
その様を、吸血鬼兄妹はとても面白そうに眺めていた。
「あら、初めてが後ろなんて滅多に無いことですわよ。ああ、ティオはなんて運がよいのかしら!!」
「そんなに恐がることは無いよ、ティオ。後ろの方も慣れれば病み付きになるものさ」
本人達はティオを安心させようとしているのかもしれないが、その発言内容は無責任極まりない。
「やめて!やめ うぁーっ!!」
- ティオの、本来なら中のものが外へ出て行く部分の入り口にぴたりと細長いものが添えられる。本来ならそれは体熱で
熱く滾っているはずなのだが、ヴォルフはもとが人形だからなのかまるで陶器のようなつるりとした触り心地と
冷たさをティオに与えていた。
が、それがめりめりと音を立ててティオの中へ入ってくれば、熱いも冷たいも関係ない。
「あぐぅっ!!は、入ってくるぅぅ!!」
まるで体を二つに裂かれるような強烈な痛み、ぶちぶちという嫌な音の後に熱いとしか形容できない衝撃と共に
太腿をつぅーっと赤い液体が流れ落ち、床に真っ赤な水玉を形作っていく。
「や、やだぁ。こんなの…。アレクサウス様、やめ させてぇ…」
ティオは疼痛と屈辱と悲観とがごちゃ混ぜになったような顔をアレクサウスへと向けた。いくらこれの行く着く先に
アレクサウスが求めるものがあったとしても、こんな屈辱的な姿を愛しき主人に見られるのはたまったものではない。
例えアレクサウスに逆らうことになるとしても、ティオはこの陵辱劇を止めてもらいたかった。
頭では、そんな事があるわけが無いと分かっていながら。
そして、その考えは無情にも正しかった。
「だめだ。今からティオはヴォルフの力を受け入れなければならないんだからね。
人狼は、犠牲者に爪を立て牙を入れることで新たな人狼を作り出す。ティオもヴォルフに徹底的に引き裂かれ、貫かれることで
初めてヴォルフの力と魂をその身に刻み込むことが出来るんだから」
「さあヴォルフ、徹底的に嬲り尽くしてあげなさい。ティオが恥辱も屈辱も忘れてのめりこむくらいにね」
アレクサウスもアルマナウスも、目の前のショーを取りやめる気など全くもってなかった。
「ああぅ、アレクサウスさまぁ…… がっ?!」
希望の扉がばたんと閉じられ、目の前が真っ暗になったような感覚を受けたティオの下半身にビリッと電気が走ったような違和感が生じた。
ヴォルフがズッ、ズッと腰を動かし始め、それに伴いティオに刺さったものも前進と後退を繰り返し始めていた。
先程までアレクサウスに身体を弄られていた時に溢れ出てきた腸液と、今ヴォルフに貫かれた時につけられた傷から流れ出す
血によって滑りは思ったより円滑だったが、一突きごとに生じる痛みは最初の方はその都度気が遠くなるほどのものだった。
「ぎ、ぎぃっ!!痛、いたぁっ……っ!」
が、ヴォルフに一突きを入れられるたびに、痛みと共にじんわりとした甘いものがティオの心に染みとおってきていた。
最初は痛みの方が大きすぎてそれに気づくことは無かった。
が、痛みに次第に慣れある一点を超えた時、ティオはその甘いものに気がついてしまった。
「…え……?」
最初はほんのりとした違和感。頭の中を金槌でガンガン叩かれるような強烈な痛みの中に、ちょっとだけ走る別の感覚。
「なに、これ…」
まるで、さっきアレクサウスに首筋を甘噛みされていた時のような、心地よい痛み。
まずい。これは自覚してはいけない
『気持ちいい痛み』。明らかに相反する感覚なのだが、これを否定することはティオには出来ない。
なぜなら、ついさっきその感覚を味わってしまったかから。
「や、やぁっ…。違う、こんなのちがう……」
ヴォルフに一突きされる度、その痛みを心地よいものに捉えはじめてくる自分の心。
「ちがう、違うのにぃ……」
もはや、口でいくら否定しようと自分の心を曲げることは出来ない。
いつの間にか、ティオの腰はヴォルフの突きに合わせるようにくいくいと動かし、ヴォルフをより奥まで受け入れようとしている。
『違う違う』とオウムのように呟く口は、与えられる悦楽で悦びに歪みきっている。
泣きはらして真っ赤になった瞳は、熱く潤み歓喜の涙を流し続けている。
「ちがうのにぃ……。ちが…ぁ!」
ズン!とまたヴォルフがティオのはらわたを蹂躙する。口だけがついている嘘を戒めるかのように、ティオの全身に
張るような痛みとそれに倍する悦楽を注ぎ込んでくる。
「ぁ……、あぁああああっ!!」
- そしてついに、ティオの心の奥でティオを縛り付けていた最後の一糸が音を立てて切れた。
「き き…、気持ちいい!気持ちいいのぉ!!」
それまで僅かに瞳に宿っていた理性の光が、獣欲によって完全に消し去られ、一匹の獣が生まれ出でていた。
「ヴォ、ヴォルフ!もっと突いてぇ!わ、私の全てを気持ちよくしてぇ!お願いよぉぉっ!!」
もう痛みを苦痛なんて思いはしない。いや、そもそも痛みを苦痛とイコールで繋げたりもしていない。
ヴォルフから与えられるものは全て快楽。メスがオスに惹かれ、その全てを受け入れたいという、原始的な欲求。
今となっては、ティオはヴォルフより激しく体を動かし快楽を貪り始めていた。
その様を、吸血鬼兄妹は淡々と眺め続けていた。
「やれやれ、ようやっと理性が吹っ飛んでくれたか」
「思ったより貞操観念が強かったみたいですわね。でも、これでヴォルフを受け入れることが出来るようになりましたわ。
純粋でまっさらになった心へ、ヴォルフの色が染み渡っていってますのよ」
見ると、ティオの体の動きが激しさを増していくのと反比例してヴォルフの方はその動きを鈍らせていっている。
最初の方は猛々しい人狼そのものだった姿が、次第に瑞々しい生命力を減じてゆき、元の人形へと還ろうかとしている。
まるで、ティオがヴォルフの全てを吸い取っているような錯覚を受けてしまう光景だ。
いや、実際そうなのかもしれない。
快楽に喘ぐティオの瞳は元の深緑色から禍々しい金色の輝きを放ち始め、短く刈り揃えられた金髪は冷たい銀色の長髪へと
変わりはじめている。
さらさらとたなびく髪の間からはむくむくと獣の耳が顔を覗かせ、尾てい骨の周辺からふさふさの尻尾が伸びてきている。
「あふっ、あふっ!わうううぅっ!!」
だが、ティオ自身はそんな変化に構う余裕も無く、ただただ尻から得られる愉悦に身を委ね続けていた。
「ふふふ、四つん這いになって尻尾を振りながら腰を打ち付けあう…。どう見ても盛った犬の交尾ですわね」
「そう言うなよアルマナウス。彼女はこれから僕たちの犬になってくれるんだ。とってもお似合いの構図じゃないか」
兄妹は率直な感想を述べ合っている。まあ、妥当なものと言えなくはない。
そして、ついにクライマックスがやってきた。
「わふぅっ!私、私くる!くるぅぅ!わぁぉーーーんっ!!」
もはや完全に人狼の外見となったティオは、肉を引き裂く牙が生え揃った口を一際大きく広げてから感極まった遠吠えを上げると
背筋と尻尾をピーン!と伸ばしてからその場にぐったりと崩れ落ちた。
そしてそれと同時に、ティオと後ろで繋がっていたヴォルフは元の人形へと戻り、ティオとの接合部からずるりと離れ
床にぽすんと乾いた音を立てて落ちた。
「はあっ、はぁっ……。あ、あはは……」
事が終わり、ぐったりと床に横たわり切れ切れに息を吐き続けているティオへ、アレクサウスとアルマナウスがするすると近寄ってきた。
「よく頑張ったねティオ。偉かったよ」
アレクサウスが突っ伏しているティオの頭をご褒美とばかりにさわさわと撫で回した。
「これで、私たちに仕えるのに相応しい姿になりましたわよ」
アルマナウスはティオの足元に落ちているヴォルフを拾い上げ、にこやかな笑みを贈った。
「………」
二人の吸血鬼へ、ティオは疲れからか少し焦点があってない瞳を向けている。
人狼になった時点で、アレクサウスがティオへかけた魔眼の効果は消失していた。
が、そもそも最早魔眼などは必要なかった。
ティオの肉体と心に溶け合い混ざり合った人狼ヴォルフの力が、目の前に佇む二人の吸血鬼を自らが仕える主として認識させていた。
「ふわぁ…、ありがとうございますぅ……。アルマナウス様、主様ぁ……」
自分のことを褒められたと解釈したティオは、二人にふわりとした笑顔を返すと、そのまま力尽きたかのように眠り込んでしまった。
「くぅ…、すぅ…」
子犬のような寝息を立てて寝ているティオを、アレクサウスとアルマナウスは満足した目で見ていた。
「どうやら、ヴォルフの力は完全に行き渡ったようだね」
「ええ。兄様を主と呼んだのが何よりの証拠ですわ。今の彼女はティオであり人狼ヴォルフでもある」
- アルマナウスは手に抱えた狼のぬいぐるみ=ヴォルフをちらりと見た。
「このヴォルフには、300年もの長きに渡って数々の人間を取り込み続けていますわ。そして、力ある人間をヴォルフに
与えるたび、ヴォルフはその力を増していく。
たとえ器となる人間が敗れたとしても、このヴォルフが破壊されない限りヴォルフもまた不滅」
「実に都合のいいボディーガードだよ。そして、今夜の宴の主役にも相応しい。
彼女の主人はどんな顔をするだろうね。自分の人形が文字通り、牙を剥いて襲い掛かってくるんだから」
アレクサウスはその時の光景を想像し、思わず含み笑いを零した。
それに対し、アルマナウスは多少不満めいた顔をアレクサウスへ向けている。
「本当ならこんなすぐに動かしたくは無いのですけれどね。僅か一日では肉体も魂も定着しきれませんのよ。
せめて三日は待たないと、どんな不都合が出るかわからないのですから…」
ティオの変化は通常の人狼が誕生する過程と違い、アルマナウスがヴォルフに吹き込んだ魔力によって行われている。
そのため変化そのものは短時間で行われるが、肉体や魂への負担も大きく人狼に完全に変化しきるのには通常より
長い時間がかかるようだ。
「心配性だな、アルマナウスは。あの浅はかな吸血鬼に何の抵抗が出来るというんだい?
よしんば何か策があるとしても明日は満月だ。満月に人狼を倒せる者なんていないよ」
「そう…、ですけど……」
アルマナウスは再び足元のティオへと視線を移した。
相変わらずティオは周りの物音や兄妹の声などお構いなしにぐっすりと眠り続けている。それだけ体への負担も重かったのだろう。
そしてその姿を目にした時、アルマナウスの心の中で、何かドクンとざわめくものがあった。
それがなんなのかを、知覚することは無かったが。
「………」
ティオの尻をぐじぐじと責め続けるにつれ、あの時のティオの安らかな笑顔が頭に浮かんでくる。
いや、それを見たことでさらに過去の、もう殆ど記憶の片隅で消滅しかけているものがおぼろげながら再構成されてきている。
「くぅ〜〜ん!くふうぅ〜〜ん!!」
尻尾をぶんぶん振りながら鼻にかかった悦びの鳴き声が耳に入る毎に、脳内で別のものが再生されてきている。
いずれも、完全に再現されるわけではない。『ああ、そんなものがあったか』と記憶の中で激しいノイズ混じりと共に
再現されているに過ぎない。
(ああ…、そんなこともありましたわね…)
指を動かし続けながらその事に行き着いたアルマナウスの表情は、部屋に入ってきた時のにやついたものと打って変わって
憂いを含んだ感傷的めいたものに変わっていた。
「わふぅっ!アルマナウス様、私、もうダメです!!お、奥に。奥にぃ!!」
長時間にわたるアルマナウスの指姦にいよいよ限界に達し始めたティオは、だらしなく舌を口から伸ばしたまま
アルマナウスに最後の一押しを求めてきた。
「………わかりましたわ、ティオ。存分に果てなさいませ!!」
その声を聞き届けたアルマナウスは、人差し指と中指をグッ!と根元までティオの中へと埋めこんだ。
「あっ!!あうぅ〜〜〜っ!!」
その衝撃で一気に上り詰めたティオは、尻尾を垂直にピンと立たせて全身を硬直させ、その直後にぐったりと全身を弛緩させ
ながら床に倒れ伏した。
- 「はぁぁ…。アルマナウス様ぁ、ありがとうございますぅぅ……」
主人の思わぬ奉仕に満足した笑みを浮かべているティオだったが、それ故次のアルマナウスの行動は予想できなかった。
「…お礼は、まだ結構ですわよ」
人前であまり見せない真面目な顔をしたアルマナウスはぺタリと床に付いているティオのわき腹をクッと掴むと、
そのまま力をこめてティオの体をひっくり返してしまった。
「えっ?」
何をされているのかわからず反応が遅れたティオの両腿の間にアルマナウスは素早く潜り込んできて、両手でティオの
太腿を押し広げてきた。
アルマナウスの眼前には、先程ティオが自ら傷をつけ未だに赤い血が流れ落ちてきている二つの傷口がある。
「ア、アルマナウス様?!一体何を!!」
「ティオ、私は女の血は吸わないの。女の下僕なんて作りたくもないし、男に比べて血の味も薄いし」
そう言いながらも、アルマナウスの視線はティオの赤い血へと向けられている。
「でもあなたは特別。これから永い刻、私たちの身辺を守ってくれる存在ですもの。
光栄に思いなさい。女の身で私の口付けを受けるのは、500年に渡る私の生涯であなたが最初なのよ」
アルマナウスの首がゆっくりと動き、すぅっと開かれた小さな口がティオの傷口へと伸びてゆく。
「んっ…」
そのままアルマナウスは、牙を立てることなくティオの傷口へぷちゅりと音を立てて吸い付いてきた。
「ひゃあっ!!」
ちくちくと痛む傷口と興奮で充血した粘膜に、アルマナウスの熱く柔らかい唇の感触を感じた途端、ティオはその心地よさに
頤(おとがい)を仰け反らせて悲鳴を上げた。
「あ、ああっ!なにこれっ!気持ちいい!!」
自分の下半身からアルマナウスの舌がチュプチュプと音を立ててティオから流れる血を舐め取っている。
その舌がぞわりぞわりと滑るたびに、腰が抜けそうな快感が走ってくる。
「いいっ!アルマナウス様、もっと、もっと吸ってくださいぃ!!」
いつの間にか、ティオは両足をぎゅっと閉じると共にアルマナウスの頭を両手で抑え、自分の下腹部へグイグイと押し付けていた。
気持ちよさから、血よりも後ろの穴から溢れ出す愛液のほうが多くアルマナウスの口に流れ込んできている。だが、アルマナウスは
委細構わずティオから零れ出てくるものを余すところ無く口に含んでいった。
ただ、吸っても吸っても後から後から溢れてくるため、さすがにアルマナウスも顎がだるくなってきていた。
「吸って、もっと吸ってくださいアルマナウス様〜〜!!」
一方ティオはもっともっと吸血の快楽を感じていたいのか、一向にアルマナウスを抑える力を緩めようとはしない。
(…ここいら辺りで終わらせましょうかね)
一旦終了させようと思ったアルマナウスは、自らの牙をティオの傷口にちくり、と軽く刺した。
「!!〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
突然襲ってきた牙の悦楽に、ティオは体をブルブル震わせるとぐてっと糸が切れた操り人形のように上半身をアルマナウスの
頭の上に覆い被せてきた。
手と太腿の圧力が無くなったアルマナウスは、これに乗じてティオの体からようやっと脱出した。
アルマナウスは顎をぬらぬらと濡らす血と愛液を指で拭ってからペロリと舐め清め、くてっと腰を曲げるティオの体を掴むと
そのままベッドへと優しく寝かしつけ、自らもティオの横へぱふっと倒れこんだ。
「はあっ……はあぁ……」
「………」
アルマナウスの目の前に、荒い息を吐きながら悦びに満ち足りた笑みを浮かべるティオの顔がいっぱいに広がっている。
「確かあの子も…、こんな顔をしていたのですわよね」
いつもの冷笑と違う、穏やかな笑みを浮かべたアルマナウスの手がティオの頬へと添えられている。
「ティオ、あなたのおかげでちょっとだけ思い出しましたわ。
あれはまだ私と兄様が人間だったころ…、私たちの屋敷には一匹の犬がいましたのよ。もう、どんな名前だったか
どんな色だったか、オスかメスか、そんなことは悠久の時間の闇に食べられて思い出せませんけれど…」
アルマナウスの掌がティオの頬をすりすりと擦っている。
「くぅん…」
その掌が動くたび、ティオは目を細めて主の手の感触を味わっていた。
「でも少しだけ思いだしましたわ。あの子は私が撫でてあげると、いつも幸せそうな顔を浮かべて私に身を預けましたの。
そう、今のティオのようにね」
- アルマナウスはお留守になっていた左手の人差し指を牙で軽く噛み、指先にぷっくりとした血玉を形作った。
そして、それをそのままティオの口元へと運んでいく。
「あの子は私たちが吸血鬼としての生を得た時にはもういなくなっていましたわ。どうしていなくなったのか、そんな
ことは思い出せませんけど…
ですからティオ、あなたは私に断り無くいなくなることは許しませんよ。あなたは私たちを守り続ける使命がありますが
私もあなたのことをこの身の限り守ってあげますわ…」
アルマナウスの指先がティオの唇にちゅっと触れ、くっと喉が動いてアルマナウスの血を嚥下していく。ほんの一瞬だけ
ティオの金の瞳が紅く輝き、アルマナウスとの血の交換が行われたことを指し示していた。
「………」
アルマナウスの瞳に、ぽーっとした表情のティオが入り込んでくる。
最初は単に使いやすい人間だという認識でしかなかった。
人狼にしたのも、そのほうが扱いやすいといった思惑しかない。
でも、本当にそれだけだったのだろうか。
最初から自分は、この人間に記憶から消えかけている『あの子』のイメージを捉えていたのではないか。
それを繋ぎとめるため彼女を虜にし、より近い存在として人狼へと変えたのではなかろうか。
数百年を生きる吸血鬼の自分に、そんなセンチな人間っぽい感情が残っていたのだろうか…
「まあ、そんなことを考えていても仕方ありませんわね。あの子はあの子、ティオはティオなのだから」
アルマナウスは今度は両手をティオの頬に添え、抱え込むようにしてからティオへ語りかけてきた。
「わかったわねティオ。これであなたは私のもの。兄様のものであると同時に私のものでもあるわ。
私たちはあなたが守る。そしてあなたは私が守る。いいわね」
この誓いにはティオを道具として使い潰すという認識はもうない。ペットとして愛でるというものともちょっと異なる。
主従の枠を超えた、家族に近い感情がそれには篭っていた。
家族というものを500年前に失ったアルマナウスにとって、直系の肉親は兄のアレクサウスしかいない。兄ということで
甘えることはできるのだろうが、それほど歳が離れてはいないのであまりべたべたと甘えるのも無理がある。
ティオへ向ける穏やかな感情が、家族愛への餓えの裏返しだということに、まだアルマナウスは気がついてはいなかった。
アルマナウスはそのままティオをグッと引き寄せ、体いっぱいでティオを受け止めた。ティオのほうもそれに応じてか
両腕をアルマナウスの背中で絡め、アルマナウスをキュッと抱きしめた。
二人はその後特に何かをするわけでもなく、ただ互いを全身で感じ続けたくじっと動かないまま時間を過ごした。
「ずっと、ずっと一緒よティオ…」
「はい、アルマナウス様…」
ゴンゴン
その静寂を破ったのは、扉を叩くノックの音だった。
「…兄様ですか?」
ゆったりとした一時を邪魔され、ちょっとムッとなったアルマナウスは多少の刺を言葉に込めて返した。
「おや、先にお楽しみだったのか。これはちょっと失礼したかな」
申し訳ないと頭を掻いてアレクサウスが部屋へと入ってくる。
「まあ、僕の花嫁のお披露目でもあるんだ。勘弁してくれたまえ」
アレクサウスが指差した先には、いつの間に入ってきたのか先程の花嫁衣裳を着なおしたリムが薄笑いを浮かべたまま立っていた。
もちろん、その口元からは生えたての牙を覗かせて。
「さあ、今度は僕たちも参加させてもらうよ。ティオにもたっぷりとご褒美を上げる約束だったからね…」
-
月が煌々と照らす小高い丘の上。
リオンは両手に獲物の人間を抱えたまま呆然と立ち尽くしていた。
「ど、どうしよう……」
リオンはどうにか『この町で唯一自由に入れる家』から獲物攫ってくることは出来たが、待っているはずの
ニースとアンナの様を見て絶句してしまった。
リオン自身は人間を捕らえてくる際に先に少し血を拝借しているので腕と腹の傷は見た目では大丈夫なくらいに回復している。
が、二人ともリオンが帰ってきたことにまったく反応せず、今にも途絶えそうな弱々しい呼吸をしている。
これでは、例え獲物を目の前に持っていったとしても何も出来ないだろう。
(このままでは、アンナ様もニース様も死んでしまう!!)
何とかして二人に血を飲ませないといけない。でも、一体どうしたら……
「!」
そのとき、リオンに『とある方法』が思い浮かんだ。この方法なら、二人に血を飲ませることが出来る。しかし
「こ、こんな畏れ多いことをしていいのかな……」
リオンは少しの間逡巡した。が、他に方法は無いしこのままでは間違いなく死んでしまうのだ。
「………。よし!」
意を決したリオンは捕らえてきた女の首筋に噛み付くと、口一杯に血を吸い上げた。
そして、それを口に含んだままアンナの元へと進み…、ちょっと躊躇った後にアンナと唇を重ね合わせ、口移しに血を
アンナの中へと注いでいった。
『アンナ様……、お願いです。気がついてください!』
「…… … …、」
血を注いでいくにつれ、虚ろだったアンナの瞳に紅い光が戻り始め、アンナは僅かに瞳を動かしリオンの方へ視線を向けた。
「……り、お ん…」
まだたどたどしい声だったが、アンナは確かにリオンへと声をかけた。
「アンナ様!よ、よかったぁ!!神様、ありがとうございます!!
それに気がついたとき、リオンは自分の立場も忘れて神に感謝していた。
リオンはさっき自分が吸った女をアンナのすぐ横まで引っ張ってきてから、アンナの体をゆっくりと起こし細心の注意を払って
アンナの顎を女の首へと導いた。
「アンナ様、ゆっくり、ゆっくりでいいですから血を飲んでくださいね。この人間一匹、まだまだたっぷり血は持っていますから!」
「う ん…」
まだ声も体も十分に機能していないアンナは、ゆっくりと口を開けるとその牙を女の首に立て、渾身の力をこめて何とか
皮膚を食い破り血を口に入れることが出来た。
「ん……、んぅ……」
最初の二口、三口で喉の傷はみるみるうちに再生し、新しい肉と皮が傷口を覆い隠していっている。が、まだ体の回復には
程遠く、アンナはリオンの言葉どおりゆっくりゆっくりと血を飲み続けていった。
「…遅かったわね。もう少しで逝ってしまうところだったのよ…」
アンナの時と同様、血を口移しでニースに与えたリオンの耳に入ってきたのは、にこやかな笑顔を浮かべたニースの悪態だった。
が、もちろんニースに悪意は無い。『よくやってくれた』という意味の意趣返しだろう。
(ちなみにニースではなくアンナを先に蘇生したのは、リオンの直接の親吸血鬼がアンナだからに他ならない)
「さ、もっと血を寄越すのよ…。早くこの体を、元に戻さないといけないのだから…」
血を飲んで意識を繋ぎとめたとはいえ、アンナと同様ニースも受けた傷の深さから身動きをすることが出来ない。
リオンは慌ててもう一人の獲物をニースの前へと持ってきて、アンナと同じようにニースの顔を男の首筋へと添えた。
今となってはティオとの誓いを考えている状態ではない。
血を吸って肉体を回復させなくてはこっちの身が持たないのだから。
(ティオちゃんとの約束を守って、ティオちゃんを取り戻せず死ぬわけにはいかないのよ…)
ニースは躊躇無く男の首にむしゃぶりつき、吹き出てくる血を余すところ無く飲み込んでいった。
- ニースもアンナも、血を味わうこともなくも吸血の快楽に浸る余裕も無く、ただ一心不乱にその喉へ
溢れ出る血を流し込んでいる。
まず傷を治すことが第一。乾ききった体に血を潤すのがなによりも優先されるべきことだった。
既にニースもアンナも体を自由に動かせるくらいまで回復はしている。が、吸血鬼の貪欲な本能が目の前の獲物の
血を一滴残らず吸い尽くさんと求め訴えていた。
「………、ふっ!」
突然ニースが先程寄り付けたままだった口を男の首筋から離した。その噛み口からは一滴も血がが零れてくることは無い。
文字通り吸い尽くしてしまったのだ。もちろん男は恍惚の表情を浮かべたまま事切れている。
「アンナ、そっちも吸い尽くしてしまった?」
ニースの声にアンナは振り向き、口から血を滴らせたままこくりと頷いた。
「よし…、じゃあ行きますか」
「行くって…、どこへですか?」
ちょっと考えればわかる答えなのだが、思わずリオンは口にしてしまった。
「決まっているじゃない。ティオちゃんを取り戻しによ」
さも当たり前のようにニースは二人に答えた。が、もちろんリオンとアンナはその答えにギョッとした。
「せ、先輩のところに行く気ですか?!本気で?!」
「ニース様、せっかく命を拾えたのに捨てる気なんですか?」
二人の懸念は当然である。人狼になって以前の記憶をなくし、実際にたった今殺されかけた相手に再び赴こうと言うのである。
リオンはまだしも、直接の子であるアンナも思わずニースの決定に息を飲んでしまうのも無理からない。
「で、でも先輩の居場所ってわかるんですか?前は、居場所はわからないって…」
「今は分かるわ。あいつら、私が死んだと思ってティオちゃんの気配を消すのをやめているみたい」
確かに、ニースが死んでいるならばわざわざティオの気配を隠す必要もないだろう。
「ティオちゃんはまだ完全に人狼になりきってない。これは確信をもって言えるわ。今ならまだ、ティオちゃんを
私の手に取り戻すことが出来る可能性がある。
逆にいえば、今行かなかったらティオちゃんは永遠に私の手から離れてしまう。そんなこと、私には耐えられない。
ティオちゃんがいない人生なんて、何の意味も無い」
「そ、それって…、じゃあもし先輩が人狼になりきってて躊躇無く僕たちを殺しに来たら、どうするんですか?」
「そのときは、ティオちゃんを殺して私たちも死ぬ。ティオちゃんがあの吸血鬼どもの下僕でいることなんて我慢できないから」
「「ええ〜〜っ!!」」
リオンとアンナは一瞬ニースが乱心したかと思ってしまった。自分の命まで躊躇無く捨てると言うのはどう考えても普通じゃない。
が、二人の目に映るニースの表情は今までに見たことが無いほど鋭利で冷たく、不退転の決意に満ち満ちていた。
吸血鬼になってからのニースは、どちらかと言えば感情を爆発させることが多く喜怒哀楽がはっきりしていた。
が、元々人間の時のニースは明るい表面上の性格の内に非常に冷徹で黒い感情を秘めていたのだ。言ってみれば、この
凍えそうなほど冷たいニースこそ本来のニースと言ってもいいのかもしれない。
ニースは、己の決意に恐れおののく二人を見てからくるっと後ろを振り返った。そこには、先程ティオが脱ぎ捨てていった
法衣がくしゃくしゃになって落ちていた。
「ティオちゃん…」
ニースは短剣が縫い篭められていてずっしりと重い法衣をその手に取った。
はっきり言ってこの事態は回避できた。こうなってしまったのは明らかに自分の油断だ。
アレクサウス達を子どもと侮り、余裕を慢心に変えてしまってティオを攫われ、万全に見えて穴だらけだった策に溺れ
リムも奪われティオを人狼にされてしまった。
いかなる相手も油断するな。狩人だった時のニースが常日頃心がけてきた金言だ。
もう油断はしない。私たちが相手にしている吸血鬼は、間違いなく恐るべき力を持った強敵だ。
「待っててね、ティオちゃん。絶対に取り返してあげるから…」
手に持ったティオの法衣を、ニースはぎゅっと握り締めた。
そこには己の力に酔った吸血鬼ではなく、狩人でも名の知られた強力な吸血鬼ハンターであるニースの姿があった。
第七回終
- 『猟血の狩人』 第八回
(ああ、アルマナウス様……)
アルマナウスをギュッと包み込むように抱きしめているティオの心は、不思議な安息感に満たされていた。
もちろん使役される身として、主の傍らにいられるという悦びがあるのは間違いない。
が、それよりもアルマナウスが自分のことを守ってくれると言ってくれたことが何よりも嬉しかった。
普通に考えれば、自分のような駒は主のために身を粉にして働き使い潰される存在だ。見捨てられようとも盾に使われようとも
それが主の望んだ結果であるならば茫洋として受け入れるのがごくごく当たり前なのだ。
それなのに、アルマナウスは自分のことを『この身の限り守る』とまで言ってくれた。下僕として、これ以上の栄誉はない。
「ティオの体は暖かですのね。私の体からは、もうとうの昔に体温なんて失せてしまっていますけれど。
こうして温もりを感じていますと、あの暖かな体をもっていた時の事が記憶の闇から浮かび上がってきそうな感じがしますわ」
アルマナウスは、昔を思い出すかのようにジッと目を閉じてティオの体へ自身を重ね合わせ、その温もりを味わっている。
その顔には数百年の時を生き、他者の命を弄ぶ非道な吸血鬼という普段の姿からは想像できない、12歳ぐらいの歳相応の
安らかな微笑みが浮かび上がっていた。
「………」
その心癒される笑顔に心の奥の母性本能を刺激されたのか、思わずティオは右手をアルマナウスの頭頂へと伸ばし、慈しむように
なでりなでりとアルマナウスの頭を撫で回した。
「んっ…」
その行為に軽い鼻がかった声をアルマナウスが漏らし、ハッと意識を覚醒したティオはぱっと右手をアルマナウスから離した。
「……っ!も、申し訳ありません…!」
普通に考えても、主の頭を撫で回すなどという行為は逆ならともかく不敬以外の何物でもない。顔を真っ青にしたティオは
ただただアルマナウスに横になったままぺこぺこと頭を下げたが、アルマナウスは別段気にもしていないといったような
顔をティオへと向けていた。
「ティオ…」
「は、はい!」
どんな叱責を受けるのか……、ティオは緊張に身を強張らせてアルマナウスの言葉を待ったが、アルマナウスの口から出た
言葉はティオの想像とは真逆のものだった。
「そんなに身を強張らせて…。何か勘違いしているのではなくて?
もっと続けてくれて構いませんわ。ティオの手で撫でられている時、とっても安らいだ気分でいられましたもの。
こんな気分、ここ数百年間絶えて久しいものでしたから…」
アルマナウスはティオを慰めるように言葉を投げかけながらティオの右手首を捕らえると、そのまま自らの頬へと導いた。
ひんやりとした肌の感触が掌を通してティオの体全体へと広がっていく。
「!!そんな…、勿体無いお言葉を…」
ティオは自らの振る舞いに叱るどころか褒めてくれたアルマナウスに胸がかぁっと熱くなり、自分が表現することの出来る
精一杯の礼をアルマナウスに送ろうとした。
が、一言も発さずうっとりとした顔でティオの掌の感触を楽しんでいるアルマナウスを見て、今の自分の行いがアルマナウスに
贈る最大の賛辞と悟った。
そのままティオは再び左腕をアルマナウスの背中へと回し、先程のようにアルマナウスへと体を密着させる。
こうすることで、自分が本当に必要とされていることを全身で感じ取ることが出来る。
((このまま…、時間が止まってくれたらいいのに))
奇しくも、アルマナウスもティオも心の中で同じことを考えていた。それほど、この二人だけの空間は何人も入る余地が無いほど
完璧に調和がとれたものになっていた。
- が、均衡はいつしか崩れるものである。
今、二人の前にはティオのもう一人の主である南天のアレクサウス。そしてアレクサウスの花嫁に選ばれ、たった今新たに永遠の夜を
生きる存在になったリムが佇んでいた。
どれほど前に感じたか思い出せもしない、本当に久々の心休まる一時を邪魔され、アルマナウスの顔はみるみるうちに
不機嫌な色に染まっていった。
もし前に佇むのが兄でなかったら、間違いなくその命を奪っていたであろう。
逆にティオは、無防備な姿をアレクサウスに晒してしまい、恥ずかしさで耳まで真っ赤に染めベッドのシーツを両手で
掴んでその体を頭半分残して覆い隠していた。
「さあ、二人に目通しの挨拶をするんだ、リム」
「はい、主様。どうも始めまして、アルマナウス様」
アレクサウスに促され二人の前にすいっと出てきたリムは、親吸血鬼であるアレクサウスの血の影響を受けているのか
少し小馬鹿にしたような面差しでアルマナウスへ軽く会釈をした。
(なによ、その態度は…)
ただでさえ機嫌が悪いアルマナウスは、リムのその態度にさらに体内のイライラを募らせた。
確かに吸血鬼としての力はアルマナウスより兄のアレクサウスのほうが上だ。その血を分けたリムが立場的にはアルマナウス
より高いという解釈は分からなくも無い。
が、たったいま吸血鬼になったばかりの新参に大きい顔をされてはアルマナウスにとって面白かろう筈が無い。
「そして、ティオ」
アルマナウスに形ばかりの挨拶を終えたリムは、続いてティオへ見下すような嘲笑を浮かべた。
「ティオ、貴方は人間だった時に私に頼まれたわけでもないのに私と主様の逢引きの邪魔をしてくれたわよね。
本当に余計なことをしてくれて…クドクド…」
リムにとってアレクサウスに血を吸われる事を妨害したティオとニースは心底邪魔な存在だったのだろう。訳もわからず
シーツを羽織ったままきょとんとしているティオへ、リムはぶちぶちと不満をぶちあけ続けていた。
それを横目で見るアルマナウスの紅い瞳は、さっきにも増して怒りの輝きを強めている。リムがティオへ放っている侮辱が
許せないのであろう。
アレクサウスも、リムの横柄な態度には正直言って引かざるをえなかった。
正直、これほど自己勝手な性格だとは思わなかった。吸血鬼化でアレクサウスの血の影響に加え、心根の内に隠されていた
闇の部分が表に出ているのだろうが、いままでどれほど鬱屈した生活をしていたのか想像も出来ない。
このまま放っておくと、いつ堪忍袋の緒が切れたアルマナウスがリムを惨殺するかわかったものではない。
見かねたアレクサウスは、リムの命を永らえらせるため助け舟を出した。
「リム、ティオに人間だった時の記憶は無いんだ。そんなにティオを責めないでくれるかな」
「あら、そうだったんですか」
アレクサウスの言葉を聞いたリムは、ピタッと罵詈雑言を止めティオへ向けてぺこりと頭を下げた。
「ごめんさないねティオ。私、事情も知らずにあなたを延々と責めてしまって…」
とはいえ、何で怒られているのか分からなかったティオにはリムが何で謝っているのかも理解は出来ない。
「くぅん?」
と軽く小首をかしげリムの方をじっと見ているだけだった。
「あら、許してくれるんですか?ティオは優しいんですね。
というか、犬のあなたでは元々私に逆らうことなんか出来はしないんでしょうけれどね。アハハハ…」
カラカラと嘲笑うリムを、アルマナウスが射殺しかねないほどの殺気がこもった瞳で見つめ続けている。よく見たら
髪の毛もざわざわと逆立っているではないか。
こりゃだめだ。アレクサウスは思わず頭を抱えてしまった。
リムがアルマナウスに細切れにされる日は、そんなに遠い日の事ではないだろう。
「もう少し、新妻との睦み事を愉しんでいてもよろしかったのではなくて?兄様」
アレクサウスを見るアルマナウスの目には、今すぐこの下品な小娘を自分の視界の外に連れて行ってくれといった意思が篭められている。
「僕としてはそれでもよかったんだけれど…、あまり長い間待たせるのもティオに申し訳ないと思ってね」
だが、アレクサウスはそのことを承知しながらもあえて無視し、本来のここに来た目的を果たさんとし、話を別方向へと逸らした。
- 「え…」
そして、アレクサウスの自分へと向けた言葉を聞き届けたティオは、その意味を噛み締めると同時に手に掴んでいた
シーツをパサリ、とその場に落してしまった。
つまり、主様は私のために新しい奥方様との一度しかない二人だけの初夜を早く切り上げてまで来てくれた。
そこに思い至った時、ティオはアレクサウスの不相応ともいえる自分への振る舞いに思わず目頭が熱くなってきた。
うりゅっと顔の形が崩れ、じわじわと瞳が潤んできているのが分かる。
「そ、そんな…、私なんかのためにそこまでしてくれるなんて……」
ぽろぽろと涙がこぼれはじめたティオの顔を、アレクサウスは優しげな笑みを浮かべながらその頬へ手を這わせた。
「だって、ティオは今日はたくさん頑張ってくれたからね。いくら感謝してもし足りないくらいくらいだよ。
だからこそ、その感謝を態度で示してあげないとね」
「うぇ…、ありがどうございます。主様ぁ……!」
アレクサウスの自分へと向けられるねぎらいの態度に、えぐえぐと泣きじゃくるティオは反射的にアレクサウスに
抱きつき、ぎゅ〜〜っと力強くアレクサウスの胴回りを抱え込んだ。
その締め付けにアレクサウスは少しだけ顔を苦しげに歪めたが、すぐに笑顔を作ってそれを覆い隠しティオの頭を
あやすかのようにぽんぽんと軽く掌で叩いていた。
「………」
その姿が、アルマナウスにはまた面白くない。
確かにティオは自分とアレクサウスの両方の所有物である。アルマナウスがティオをどう扱おうとアレクサウスに
どうこう言われるいわれは無いが、逆にアレクサウスがティオに何をしようがアルマナウスが文句をいうことも出来ない。
だから、今アレクサウスがティオへ向けている態度もアルマナウスは何も言うことは出来ない。
アルマナウスは確信していた。
あの兄様が素直に感謝の言葉を述べるはずが無い。
あれは愉しんでいるのだ。ティオが自分へと向けるコロコロと変わる表情を見るために、わざと甘い言葉を
羅列してティオの心を弄んでいるに違いない。
そんな光景は、兄様と一緒にいるこの数百年幾度と無く見てきた。とにかく兄様は他人の心を嬲るのが大好きなのだ。
リムの血をわざと吸い尽くさずに残したのも、それによって他の人間がどう慌てふためくのか見たかったのだし
ティオを人間の姿のまま元の主の人質交換に寄越したのも、それによってティオの元の主が人狼に変貌したティオを
見てどんな顔をするのか見たかったからに他ならない。
別に、自分だって程度の大小はあれそんなことはしている。不死というのは重ねれば重ねるほど心が磨耗していく。
常に心に適度な刺激がないと、退屈のあまり気がおかしくなってしまう。
だから、兄様の嗜好を責める気はまったくない。
でも…、兄様に弄ばれているティオを見ていると……、
なぜか ひどく 心がいらつく
「主様、主様」
ぎゅっとティオに抱きしめられているアレクサウスの白いシャツの裾を、リムがくいくいと引っ張っている。
「飼い犬と戯れるのもいいんですけど…、私、この体になってから酷く喉が渇いてきまして……
この犬の血でよろしいんですので、飲ませていただけませんでしょうか……?」
甘えるようにしなを作ってリムはアレクサウスにティオの血を求めてきた。リムとしてみれば、アレクサウスやアルマナウスの
血を求めるなどはさすがに畏れ多い行為なので、ごくごく当たり前の要求をしたつもりであろう。
けど、さすがにこれはアレクサウスも渋い顔をしてしまった。なにしろ、ティオの血を吸おうとしているのは誰であろう
アレクサウス本人なのだから。
- が、アレクサウスが嗜める前に目にもとまらぬ速さでアルマナウスがリムに向って跳び、その首根っこをがっしりと掴み上げた。
脚が床から宙に浮き、ばたばたともがくリムにアルマナウスは冷たい視線を投げつけていた。
「が、がはっ…!アルマナウス様、なにをぉ……」
「あなた、ちょっと調子に乗りすぎではありませんこと?」
がぎぎぎぃ…、とアルマナウスはリムを掴む手に力をこめていく。指が肉に深く食い込み、鋭い爪が皮膚を破ってどす黒い血が
だらだらとリムの花嫁衣裳を汚し上げていく。
「兄様はティオの血を飲むためにここにいらしたのですのよ。兄様の下僕であるあなたが兄様よりも先に飲もうとするなんて
何たる無礼。何たる不敬。少しは身の程を知りなさいな」
息が詰まり青い顔がさらに青くなっているリムを見て、少し気が晴れたのかアルマナウスはぱっと手から力を抜いた。体が自由に
なったリムはそのまま床に崩れ落ち、咽返った喉からゲホゲホと乾いた咳を吐いていた。
「アルマナウス様……、ひどすぎますよ……」
「すまないな、リム。妹はいま少し気が立っているんだ。
もう少し辛抱していてくれたまえ。ティオにご褒美をあげたあと、三人でリムがいた町に繰り出そうじゃないか」
(リムとしては)理不尽な仕打ちを受け恨めしげにアルマナウスを見るリムへ、アレクサウスが声をかけてきた。
「そして、町の人間を襲いまくり殺戮と吸血の悦楽をたっぷりと享受しようじゃないか。
リムもティオも、新しい体が疼いて仕方が無いんじゃないか?きっと楽しめると思うよ…」
「私の…町の人間を?!」
リムはアレクサウスの提案に、一瞬だけ表情がカチリと固まった。リムの頭に、生まれ育まれてきた町の光景がパッと
フラッシュバックされてくる。
アレクサウスは、その町の人間を殺し尽くし吸い尽くそうと言ってきているのだ。
それは、リムにとって、非常に………
「それって…なんて面白そうなの!」
リムの顔が悦びに明るく輝いた。この牙を、爪を振るい人間共を狩り尽す。なんて魅力的な提案なのだろうか。
確かにあの町には両親も知り合いも友人も恩師もいる。だけどそれがどうしたというのか。
吸血鬼として生まれ変わった時点で、それらはすべてリムにとっては獲物であり食料であり玩具である。餌に情けをかける
生物なんてありはしない。人間だって生きるために他の生物を食らうのだ。
そして、ティオもアレクサウスの提案に目を輝かせていた。
正直、さっき吸血鬼三体を手にかけたぐらいでは攻撃衝動が収まるはずも無く、中途半端に終わらせられたことで
むしろ欲求不満が溜まっていたぐらいである。
アレクサウス本人から受ける『ご褒美』ももちろん嬉しいのだが、こっちの方が今のティオにとっては何よりも勝る無上のご褒美だった。
「す、すごいです……。町中の人間を引き裂き殺せるなんて考えただけで…、も、もうたまりません……」
その光景を妄想しているのか、ティオの顔がさっと赤く染まり吐く息も荒く不規則になってきている。アルマナウスとの
戯れで発情していた股下も、再び熱い液体を滴らせ始めていた。
「ハアッ、ハアッ…。あ、主様……。私、もう我慢できません…」
力の加減が出来なくなっているのか、アレクサウスを掴むティオの腕にぎりぎりと力が増していっている。
「わかったわかった。わかったからまずは落ち着くんだティオ」
このままでは体を引き裂かれかねないので、アレクサウスはティオの両肩を掴むとそのままベッドの上にとすんとティオの体を沈めた。
「まずはその体の火照りを、僕の牙で静めてあげるよ…」
羨ましそうに見るリム。恨めしそうに見るアルマナウス。嬉しそうに見るティオの前で、アレクサウスはティオの首筋に
顔を近づかせていく。
「さあティオ、力を抜いて…」
耳元で囁くアレクサウスに、ティオは火照った顔をこくりと頷かせ、全てをアレクサウスに委ねるかのように首を仰け反らせ
その白い喉元をアレクサウスの前に晒した。
「いい子だ……」
フッと笑ったアレクサウスは口をカッと開き、どこまでも白く長い牙をティオの頚動脈の上へ突きつけた。
後はちょいと力をこめ皮膚を食い破るだけだ。
(なにか…、前にもこんなことがあった気がする…)
- アレクサウスに血を吸われるのは初めてのはずなのに、なぜかティオは今のような光景が前にもあったような既視感を味わっていた。
いや、実際ティオは人狼にされる前にアレクサウスに血を吸われそうになっているのだが、人狼以前の記憶が消されている
ティオにそのことを思い出す術はもっていないし、そもそもそんな些細なことにいちいち構ってもいられない。
(ようやっと主様に、自分の血を捧げられる)
この一点のみにティオは気を集中させており、アレクサウスの牙が自分に打ち込まれる瞬間を今か今かと待ち構えていたのだ。
そして、それに集中しているあまり周りへの警戒を疎かにしてしまった。
バァン!!
そこにいた全員が全くの虚を突かれた。突然部屋のドアがけたたましく破られたのだ。
「「「「!!!」」」」
牙を立てようとしていたアレクサウスも、吸われる期待に胸を弾ませていたティオも、もちろんアルマナウスもリムも一斉に
ドアの方向へと振り向いた。が、そこには誰もいない。
と、次の瞬間
バッシャァーン!!
今度はドアと反対側の窓ガラスが澄んだ音を立てて派手にぶち割れ、一陣の黒い影がそこから部屋に殴りこんできた。
「でぇぇぇいぃっ!!」
外から部屋に突っ込んできた影…アンナは手に一杯の小刀を構えると、何が起こったのかわからず一瞬だが思考停止を起こした
アレクサウスへ向けて一斉にぶん投げた。教会の祝福が施され、一本でも当たれば吸血鬼の肉を焦がし骨を焼く小刀が
何十本という単位でアレクサウスへと飛んで来ている。
「あ、主様!!」
主人の危機!その事態を悟り一瞬で正気を取り戻したティオは、無礼を承知でアレクサウスを腕で抱えると一足飛びにベッドから
降り小刀の襲撃をかわそうとした。
もちろんそんな程度では逃げられるはずも無いほどの小刀がティオを襲い、実際幾本かはティオの体に命中している。
だが、今宵は満月。ティオが自らの意思で望まない限り、どのような武器であろうとティオを傷つけることは適わない。
小刀は空しくティオの体に弾かれ、その他の小刀はベッドとその周りにドカカッ!と突き刺さった。
「すまないな、ティオ……。で、随分と無粋な入り方をする君は誰だい?」
アレクサウスはティオに軽く頭を下げると、ティオから離れて無礼な闖入者のほうへと向き直った。
「チッ!」
奇襲を外されたアンナは軽く舌打ちをし、新たにマントから小刀を取り出してアレクサウスに構えなおした。
その顔を見たアレクサウスは、一瞬考えこんだ後ポンと拳を叩いた。
「君は……、確かさっきティオに喉を食い破られた……。生きていたの
「アンナだけじゃないわよ」
今度はドアから聞いたことのある声が聞こえてきた。
アレクサウスがアンナへの警戒は怠らずに振り向くと、少し大きめの法衣を纏った吸血鬼がドアの影からぬっと出てきた。
そちらの顔にはさんざん覚えがある。この数日間よくも見飽きた顔だからだ。
だが、アレクサウスは一瞬逡巡した。
「……ニース、だったっけ……?」
アレクサウスが疑問形を用いたのも無理は無い。これまでアレクサウスが知っているニースは力だけは強いものの感情の起伏が激しく
はっきり言ってあしらいやすい子どもだった。
だが、今目の前に対峙しているニースはまるで氷のような冷たい視線と雰囲気を放ち、それまで持っていたニースの印象と
まるで当てはまらないのだ。
「そうよ。自分が殺せといった女の顔を、もう見忘れたなんて言わせない」
その声からは抑揚や感情といったものは感じられない。それだけの覚悟が今のニースを包み込んでいる。
- 「…失態だな、ティオ」
アレクサウスはティオをじろりと睨みつけた。
確かに自分もニースの死を確認しなかったミスはある。が、胸板のど真ん中を突き破ったら普通は心臓を貫いたと解釈するだろう。
まさか、人狼であるティオが狙いを外すとは思いもしなかった。
「も、申し訳ありません!」
初めて向けられた主の己を責める瞳に、ティオは尻尾を竦め身を震わせて謝罪した。
「……!」
その様を見てニースはグッと胸を詰まらせたが、なんとか顔には出さずに堪え無表情を通した。
(ふぅん…)
それを見て、アレクサウスは少しだけだがニースのことを見直した。今のティオへ向けた叱責も、その姿を見せつけてニースの
感情を揺り動かす狙いがあったからだ。今までの記憶にあるニースならば、絶対にこの挑発に引っかかり
青い顔を真っ青に染めてこちらに突っかかってきただろう。
だが、見た目だけだがニースはそれに対し何のリアクションも起こさなかった。思っていたより自制心が強く、考えていたより肝が太い。
(思っていたより…、深い娘だな…)
アレクサウスは、ニースという存在に俄然興味がわいてきた。いじっていると面白い、というおもちゃのような認識から
ニースという一体の吸血鬼に対してひどく関心がそそられるようになっていた。
「いや、でもまさか生きているとは思わなかったよ。この目ではっきりと胸板を貫かれるのを見たからね」
アレクサウスはニースが見ている前でいきなり顔に笑みを浮かべ、ニースへ向けて語りかけてきた。
「…最後まで死を見届けなかった、お前のミスよ。吸血鬼なんだからいくらだって再生の方法はある」
その変化に何か思惑があるのでは…。と最初は考えたが、とりあえず他意はなさそうなのでニースは無愛想に言葉を返した。
「そして、私に致命傷を与えられなかったことで確信したわ…。今のティオちゃんは、普通の人狼じゃない」
その言葉に、アレクサウスの眉が僅かに動き、アルマナウスは遠めに見てもわかるくらい体を強張らせた。
「……その意味は?」
「普通の人狼だったら、狙いを外すなんてことはありえない。それに、人狼は一日で変化するものじゃないわ。何日もかけて
人狼に体が造り変わっていくんだもの。
最初に気づくべきだったのよ。目の前にいるティオちゃんが、まっとうな人狼でないってことに」
ニースの瞳が自分への敵意で凝り固まっているティオを映しこんでいる。
「だから、まだお前達のティオちゃんを私のティオちゃんへ戻すことが出来る。出来るはず。
そのために、私はここへ来た。手遅れになる前に」
「いやぁ…。見事だよ!」
アレクサウスは心底感心したかのように手をパチパチと叩いた。そこには皮肉も侮蔑も無い。アレクサウスの普段の行動
からすれば奇跡とも言える、本当に心からの賛辞だった。
「確かにティオは普通の人狼じゃない。魔力で人狼の体を構成している魔生物と言える存在だよ」
「に、兄様?!」
あっさりティオの秘密をばらしたアレクサウスに、アルマナウスは驚きの悲鳴を上げた。が、それに全く構わずアレクサウスは
ニースへと話し続けた。
「そして、日を置かずに訪れたのも懸命だ。あと二日もすればティオの体は魔力に馴染み、完全な人狼になる。
そうすれば、もう元に戻ることは適わない。完全な僕たちの下僕になるんだ」
アレクサウスの言葉に、ニースは自分の直感が正しかったことを理解した。あの時、ここに来るのを躊躇っていたら
手遅れになっているのは疑いなかったからだ。
「そして、その結論に達した聡明な君を僕は正直惜しくなってきたんだ……」
そこまでいい、突然アレクサウスはニースに対し手を差し伸べた。
「どうだい?今までのことは水に流して、僕たちと一緒に永遠の時を歩まないかい?
元々僕たちは同じ吸血鬼。敵対する云われはないし、僕たちと一緒にいれば君の可愛いニースとも一緒にいられるんだ。
どうだい?悪い誘いじゃないだろう」
-
「 」
最初、ニースはアレクサウスが何を言っているのか理解できなかった。散々こっちに突っかかってきて、大事なティオを人狼にし、
遂には殺そうとした相手に手を差し伸べてくるとは思わなかった。
正直、冷静に考えればこの提案はそれほど悪いものではない。アレクサウスが言っているとおり、元々ニースたちとアレクサウス
たちには過去に遺恨めいたものは無い。リムの一家というイレギュラーな存在が、この二つを争わせていたわけだからだ。
が、部屋の隅のほうに見えるリムはニースの目から見ても明らかに吸血鬼化している。この時点で、リムの家から請け負った依頼は
遂行できなくなっている。
おまけにアレクサウス、アルマナウスの吸血鬼としての力はニースを上回っているのは間違いない。空を飛べる能力は
少なくとも吸血鬼となって400年以上の時を重ねた大物しか持ち得ない力だ。これほどの吸血鬼とはニースは過去に対峙したことは無い。
さらにティオまでが人外の存在となって敵に回っている。頭数から言っても力から言ってもニースに勝ち目は薄い。
アレクサウスの提案は確かにニースにとっては悪いものではなかった。アレクサウスと一緒についていけば、少なくとも今
死ぬことはないし、ティオとも一緒にいられることが出来る。
だが……
「せっかくの申し出だけれど、断るわ」
「ほう?何故だい」
ニースの答えをアレクサウスは予想していたのか、さほど驚きもしない様子でニースに問い掛けた。
「お前達はティオちゃんを汚した。これは私にとって何よりも勝る罪悪よ。そんなお前達と一緒にいるなんて耐えられない。
あんな姿になったティオちゃんとずっと一緒にいることなんて我慢できない」
「断ったら死ぬしかない。それでもかい?」
「愚問よ。私は絶対にお前達を殺し、ティオちゃんを取り戻す。
私は吸血鬼ニースとしてでなく、教会の狩人ニース・ムーレイとしてお前達を…、狩る!」
そこに気持ちの揺らぎは無い。ただティオを取り戻す一点の澄み切った気持ちが今のニースの全身を満たしていた。
「いいぞ…。君は実にいい!」
その姿は、アレクサウスにとって決して気分の悪いものではなかった。正直、自分の提案にあっさりと乗ってくるようだったら
手を組むふりをしてティオに八つ裂きにさせていたところだ。
今のニースは打算、駆け引きとか言った小手先のものを打ち捨て、真正面から自分に対して向ってきている。これまで
それらのものを用いて相手を陥れることしかしていなかったアレクサウスにとって、今のニースはとても眩しい。
つくづくあの時殺さないでよかったと今は考えている。これほど気分が高揚したのはどれくらいぶりだろうか。
「だが、僕の提案を切った以上、君には死んでもらわないといけないな!
ティオ、今度はしくじるな。あの吸血鬼の心臓を、その爪で抉りぬいてやるんだ!!」
「ハイッ!」
それまでニースに飛び掛るのを抑えに抑えていたティオが、主の命令に嬉々として返事し殺気がこもりまくった視線をニースへと向けた。
(まずは、ティオちゃんをどうにかしてあしらわないと……)
空には満月が煌々と照り輝いている。満月の時の人狼は自らの意思で願わない限り決して傷をつけることは出来ない。この壁を
どうにかして突破し、アレクサウス、アルマナウスへと近づかなければならない。
「覚悟なさい……。今度こそ確実に殺してあげるわ」
「そう簡単に殺されはしないわよ…、ティオちゃん」
ティオが体を前かがみにし、ニースの元へ飛び掛る姿勢をとった。ニースもそれを受けて立つかのように身をかがめ、
マントで隠した右手に『あるもの』を手に取った。
そして、ティオが今まさに飛び掛らんとした時、それは起こった。
「……死ねぇ!……、がっ!」
脚の羽根を限界まで搾り、最短距離でニースに喰らいつかんとしたティオの脚が伸びきった時、突如ティオの体が前につんのめり
床の上に無様に転がり落ちた。
「ティ、ティオちゃん?」
「ティオ!!」
ニースとアルマナウスが同時にティオの予想もしない事態に声を上げてしまった。見ると、ティオは右の腿を抑え苦しげに顔を歪めている。
- 「どうなさいましたの、ティオ!」
「あ、脚が…、突っ張ったような感じがして…」
アルマナウスが泡を食ってティオに近づき抑えている右手を捲ってみた。
すると、そこには蚯蚓腫れのような真っ赤な線が太腿一杯に走っていた。
「ど、どういうことですの……」
アルマナウスの呟きにニースも同感だった。満月の人狼は傷つけることが出来ない。しかし、今のティオの足の傷は尋常ではない。
しかも、誰もティオには触れていないというのに。
「何が、一体……」
ニースもアルマナウスも、この部屋に一体何が起こったのかあちこちに視線を移してみる。
暗い照明、小奇麗な床、破れた窓、開きっぱなしのドア、小刀が刺さったベッド、布団、枕、人形………
人形!!
そう、アルマナウスが持ってきてベッドの上においてあった狼の人形。その右足にアンナの投げた小刀が突き刺さっていたのだ。
「あれは…、まさか!」
「しまった!」
ニースは自分の予想の答えを見つけたと確信し、アルマナウスは己の失態に唇を噛んだ。ティオの体が変わりきるまでは
自分が持っているのが一番安全だろうと考え、肌身離さず持っていた人形=ヴォルフの本体を敵の真ん前に晒してしまったのだ。
まだヴォルフはティオと融合しきっておらず、人形とティオの二つの体を持っているような存在になっている。変わりきってしまえば
ただの狼の人形になるのだが、現状は『人狼の力を封じた狼の人形』という非常に厄介な代物になっている。
人形だけに簡単に傷がつき、壊れてしまえば封じた人狼の力も壊されてしまう。そうすれば、ティオは………
「「!!」」
ニースとアルマナウスは同時に同様の結論に達した。
(アレを壊さないと!)
(アレを守らないと!)
二人ともベッドに転がる人形を手に入れんと疾風の速さで跳んだ。ニースの手の届く先に、狼の人形が入ってくる。
「もらっ……」
「させませんわ!」
後半歩で人形に手が届くと思った矢先、機先を制したアルマナウスが体ごとベッドに飛び込み、
両手で人形を抱え素早く後方へと逃げ去っていった。
「くそっ……!だけど、その慌てよう…、どうやらそれがティオちゃんを人狼に変えた原因みたいね…」
「ぐっ…!」
確信を得て笑みを浮かべたニースに対し、アルマナウスは悔しさで顔を歪ませるが何も言い返せない。
今のままではどんな嘘を吐いても簡単に看破されてしまうであろう。
「そうだ。あの人形が持つ力がティオを人狼に変えているんだ」
黙りこくるアルマナウスの横から、アレクサウスが口を挟んできた。
「に、兄様?!」
「仕方が無いよアルマナウス、彼女はもう確信している。今さら何を言いつくろっても無駄さ。
今のティオの状態なら、あれを破壊することが出来れば人間に戻すことは可能だ。あと二日もすれば不可能になるがね」
こっちが聞きもしないことをぺらぺらと喋るアレクサウスに、ニースは少し不信感を持った。一体、この男は何を考えているのか。
「…そんなこと、私にわざわざ教えてくれていいの?」
「できれば、の話さ。少しは君にこの先のことに希望をもたせてあげてもいいだろう。
君が見事ヴォルフを壊すことが出来たら君の勝ち。ティオも返してあげよう」
その言葉にアルマナウスはギョッとした。自分に断りもせず、そんな勝手なことをされてはたまらない。
「兄様!私に断りもなく……」
「勝利に対する正当な対価というやつだよ。嫌ならアルマナウス、彼女を全力で排除すればいい。
あ、僕は後方で見させてもらうから。そちらが二人、こちらも二人、存分に闘いあうがいいさ」
そう勝手なことを言ってアレクサウスは、リムがいる後方にさっさと引っ込んでしまった。
- 「兄様ったら……、相変わらず自分が愉しむことばっかり考えて……」
苦々しくアルマナウスが兄の方を眺めている。その恨めしい顔をアレクサウスはどこ吹く風といなしていた。
「ゲームでもしているつもりなの……?。ふざけやがって」
ニースもアレクサウスの傍若無人な振る舞いに少し頭に血を上らせていたが、これはまたとない好機とも捉えていた。
どんな事情があるにせよ、強大な吸血鬼であるアレクサウスは戦線に参加してくる意思を見せていない。
ティオは相変わらず強敵だが、足を負傷している以上これまでのような素早い動きは出来ないだろう。
そして、こっちには奥の手がある。
「随分と身勝手な兄さんを持ったものね。同情するわ」
「余計なお世話、と言いたいですけれど、あの性格のせいでどれほど苦労を重ねたことか…」
アルマナウスは一瞬だけだが疲れきった表情を浮かべた。どうやら言っていることは本当のようだ。
だが、次にニースに見せた表情はニースと同じく決意に満ち満ちた悲壮なものだった。
「私の境遇に心を裂いてくれたことには感謝しますが、それとこれとは話が別!
必ずあなた達を滅ぼして、私はティオを守りきってみせますわ!」
「アルマナウス様!」
ティオはアルマナウスの言葉に胸が詰まる想いだった。さっき、自分に向けてくれた言葉が嘘偽りの無い真実だったことを確信したからだ。
「安心なさいティオ。あの程度の吸血鬼、私一人で充分!『人形遣い』の真の力、見せて上げます!」
アルマナウスの尋常でない鬼気がニースたちにビリビリと向けられてきている。が、ニースとしてもここで引くわけにはいかない。
「私だって…、ここでお前に滅ぼされる気はない!その小脇の汚い人形とともにお前を塵に帰してやる!」
アンナは手に小刀を構え、ニースも左手の爪をぬっと伸ばした。
「………」
「………」
お互い、今にも飛び掛らんと体勢を整えてはいるのだが、手の内が分からないためにきっかけがつかめないでいる。本来なら
真っ先にティオが飛び出す局面なのだろうが、足の負傷が響いているのか唸り声を上げたままその場を動こうとしない。
「…どうしたのかしら?ジッとしていても事態は好転しませんわよ」
痺れを切らしたのか、アルマナウスがちょっとだけニースを挑発してきた。そのまま流してもよかったのだが、ニースとしては
これは膠着した局面を動かす機会と踏んだ。
「そうね……、ではお言葉に甘えて……」
ニースはマントに隠した右手を動かし、爪先で親指にちょっとした傷を作った。そこから滴る血を右手に隠したものにお歳…
「もらおうかしら!」
アルマナウスへ向けて、ぽいと放り投げた。
アルマナウスの視界に入ったものは、自分へ向けて飛んでくるガラスの小瓶。
「…?」
一体何の真似だろうと訝しむアルマナウスの目の前で、煙を噴く小瓶はいきなりパン!と割れ、膨らむ煙の中から突然
大剣を構えた吸血鬼が飛び出してきた。
「うおおおぉっ!!」
「っ?!」
大上段から振り下ろされる大剣をアルマナウスは後ろに引いて何とか避けたが、完全にはかわしきれず切っ先がヴォルフの肩を
さっと軽く撫でるように切り裂いた。
「ガアッ!!」
それと同時にティオが激しい悲鳴を上げ、手で抑えた左肩に縦に赤い蚯蚓腫れが走った。
「ティオッ!」
「だ、大丈夫、です!」
アルマナウスの叫び声に、ティオはなんともないとばかりに左腕を振って安心させようとしていた。
もちろんそれが虚勢なのはアルマナウスには理解できている。
「クソッ!外したか!」
あらかじめ灰にしておいたリオンを使って奇襲に用いた奥の手が失敗したニースは、舌打ちをした後猛然と
アルマナウスへ向けて飛び掛っていった。
「リオン!アンナ!今はアルマナウスだけを狙いなさい!!」
今のティオは右足と左腕を封じられているので、暫くの間は戦力外になると読んだのだ。
実際、ティオはこちらに向ってこようとはしているものの、体を襲う激痛からかその動きは酷く緩慢だ。
- リオンの大剣が唸り、アンナの小刀が襲い掛かり、ニースの爪撃が空気を薙ぐ。それらの攻撃をアルマナウスはなんとか
かわしてはいるものの、自分だけでなく懐のヴォルフも守らなくてはならないのでその苦労は倍加している。
「卑怯な…、二対二の戦いではなかったのですか?!」
「そんなのそっちで勝手に決めたルールでしょ。私たちには関係ないわ」
押されっぱなしのアルマナウスは思わずニースに悪態をついたが、たしかにこれはアレクサウスが勝手に言った事なので
ニースたちがそれを守らなければならないという約束事は無い。
「『狩人』ではどんな手段を用いようとも、吸血鬼を討滅せよと教えられてきた。吸血鬼退治に卑怯という言葉は無いのよ!」
ニースの横薙ぎがアルマナウスの鼻っ面を通り過ぎる。それは避けることが出来たが、それにより酷く体勢が崩れた。
「殺ったあぁっ!!」
その隙に、リオンが上から大剣ごとアルマナウス目掛けて降ってきた。どう考えてもかわせない。が、
「こぉの無礼者がぁぁっ!!」
ようやく体が動くようになったのか、ティオが体ごとリオンに突っ込んできた。どぉん!と激しい音とともにリオンは横に吹っ飛ばされた。
「ご無事ですか、アルマナウス様!」
「ええ…。感謝しますわ、ティオ」
ティオが復帰してくれたことにアルマナウスは安堵のため息をつき、ニースは千載一遇の機会に攻め切れなかったことに唇を噛んだ。
「さて…、仕切り直しですわね。私を怒らせたこと、存分に後悔させてあげますわよ」
アルマナウスが瞳を紅く輝かせ手の指をぐきぐきと鳴らせているその時、自分の後ろから近づくものがあった。
不審に思ったアルマナウスが振り向いた時、そこにはさっきまでアレクサウスの横に侍っていたリムが立っていた。
「あ、あなた!何をしに来たのですか!」
「だって…、向こうが三人いるのならこっちも三人いないとおかしくありませんか?それに、もう喉が渇いて渇いて……
この際吸血鬼の血でもいいですから、早くこの喉を鮮血で潤したいんですよ…」
リムの顔は興奮と吸血への渇望からか青く染まり、口元から白い牙がぎりぎりと音を立てて伸びてきている。今にもニースたちに
飛び掛っていきそうな勢いだ。
だからといって、普通に考えたらこんな行為は無謀以外の何物でもない。アルマナウスはどういうことかとアレクサウスに視線を
送ったが、アレクサウスは軽く首をすくめ腕をお手上げと言いたそうに上に上げた。
完全にリムは与えられた吸血鬼の強大な力に酔い、自分を見失っていた。
「ニース様……、なんか変なのが出てきましたよ」
リオンもアンナも、『ただの吸血鬼』であるリムの参戦にいささか面食らっていた。が、ニースはいささかも身じろぎもしない。
「構いはしないわ。歯向かってくる以上討滅なさい。私はティオちゃんを抑える。その間にあなた達はアルマナウスの懐の人形を
壊すのよ。アルマナウスを仕留めるのは難しくても、それくらいはできるでしょ」
ニースの命令に、二人はこくりと頷いた。第二ラウンドの開始である。
ニースの掛け声とともに、ニースはティオへ、リオンとアンナはアルマナウスへと飛び掛っていった。
「主様たちに歯向かう者は、この爪と牙で切り裂いてやる!!」
ティオは自由にならない体を懸命に動かしながら、ニースへ攻撃を打ち込んでくる。不完全な体勢とはいえ、それら一撃一撃は
ニースの肉を抉り骨を切るには十分な威力を持っている。
が、ニースとしてはそれらの防御に神経を集中すればいいので気は楽だ。どうせ攻撃しても効きはしないし、自分の目的は
二人がアルマナウスの人形を壊すまでティオを釘付けにすることなのだから。
(もう少し、もう少し待ってねティオちゃん。そうすれば、いつものティオちゃんに戻ることが出来るからね)
ティオの猛攻を捌きつつも、ニースの顔には淡い笑みが浮かんでいた。
一方、リオンとアンナは人間の時から得意にしているコンビネーションでアルマナウスを追い込もうとしていた。
リオンが大剣を振り回し、アンナが小刀でフォローする例の戦法である。
さすがにニースがいた先程のように攻め手を与えずに畳み掛けることは出来ず、アルマナウスの顔には僅かだが余裕の笑みが浮かんでいる。
さらに
「きゃははははっ!!」
時折来るリムの稚拙な攻撃がこの上なく鬱陶しい。ならばさっさとリムを片付ければいいのだが、そうしようとすると今度は
アルマナウスが攻撃に転じてくるのでなかなか致命的な打撃を与えられない。
- 「リオン、こうなったらあいつは無視して人形に攻撃を搾るのよ。とにかく私たちはあいつの持つ人形を壊せばいい。
そうすれば、後はニース様がなんとかしてくれる!!」
「わかりました。アンナ様!」
個別撃破を諦め人形一点に攻撃を集中することを決めたアンナは、手に持った小刀を全てアルマナウスめがけ放り投げた。
もちろんアルマナウスはそんなものに当たる訳なくひらりとかわし、入れ違いにリムがアンナ目掛け突っ込んできた。
「血をよこせえぇっ!!」
牙を煌かせてリムはアンナに襲い掛かってきたが、それはアンナも計算済み。カウンターで飛び出した蹴りにリムは見事に腹を射抜かれ
リムは狙い済ましたかのようにアルマナウス目掛けて飛んでいった。
「ア、アルマナウスさ…」
「邪魔!」
『邪魔』の一言で、リムはアルマナウスに裏拳で吹き飛ばされ石の床に叩きつけられた。が、それだけでは終わらなかった。
「これでぇぇっ!」
「!」
なんと、リムの死角にリオンが隠れ大剣をアルマナウスに突き出してきたのだ。体勢が崩れたアルマナウスにこれをかわす術は無い。
「よし、勝った!」
完璧なコンビネーションにアンナは思わずガッツポーズを作った。しかし、
「甘くてよ!」
にやりと笑ったアルマナウスは懐に手を突っ込むと、中から真っ白な布を取り出し自分の目の前にブワッと広げた。
「うわっ……、むぶっ!」
それにもろに巻き込まれたリオンはたちまち全身を包まれ、そのまま床に落下した。そのまましばらくもがもがともがいていたが
次第に動きは緩慢になリ、やがて布はぴくとも動かなくなった。
「リ、リオン?!」
何が起こったのかわからず呆然とするアンナの前で、薄ら笑いを浮かべたアルマナウスが布の端をきゅっと掴んだ。
「ふふふ、彼がどうなったから知りたいかしら?じゃあ、とくと見せてあげるわ!」
ぱっとアルマナウスが布をめくった時、そこにはリオンの姿はなかった。
そこには、フェルトで出来た2.5等身くらいの人形が一体転がっているだけだった。
ただ、その人形は樹脂でできたおもちゃの剣を手に持ち、リオンと同じ茶色の髪をしていたが。
「ま、まさか……」
その形に、アンナは一瞬可愛いと思ったが、それと同時にひどく嫌な予感もした。まさか、あの人形は……
「むー、むーっ!」
リオンの形を模した人形は、手足をちょこまかと暴れさせ声にならない声を上げていた。つまり、あれは…
「リ、リオンなの?!」
「そうよ。私が人形遣いを名乗っていることを忘れていたかしら?この『傀儡封じ』を用いれば、いかなるものも無力な人形になるわ」
アルマナウスは見せ付けるかのように白い布をひらひらと揺らした。
「ふふふ、これで三対二。言っておきますけど、もう情けなんかかけませんわよ。
このままあなた達も無力な人形にして、城の棚に永久に飾ってあげますわ!」
そう言うなりアルマナウスはアンナに突進し、『傀儡封じ』をバッと広げてきた。
「くっ!」
包まれたら人形にされてしまう!慌ててアンナはその場を飛びのくが、その隙を突いてリムが横から襲い掛かってきた。
『バシッ!』と嫌な音が響き、アンナの腕に4本の切り筋が彫りこまれ鮮血が噴き出てくる。
「うふふ、これが血の味なのね。おいし〜〜い」
リムは自分の爪についたアンナの血をぴちぴちと舌を這わして舐め取った。初めて味わう血の味にリムの顔が官能に蕩けていく。
「くそっ…、下衆野郎がぁ…」
熱く痛む傷を手で抑えながら、アンナはニタニタ笑うリムに毒づいた。はっきり言って現状の一対二は完全に不利だ。このままでは
それほど時間を置かずに自分もリオンと同じ人形にされてしまう。
そして、アンナの窮地はニースの目にも入っていた。
(これは…、ちょっとまずいわ…)
ニースの考えでは、自分がティオを抑えているうちに二人が人形を壊す手筈になっていた。しかし、リオンが戦闘不能になった
現在、アンナ一人ではどう考えても勝ち目は無い。
(しかたが……ないわね!)
ニースは懐から小瓶を三本取り出すと、立て続けに血を落とし手前に叩きつけた。割れた瓶からはたちまち煙が昇り、目の前に
過去に討滅した三体の吸血鬼が再生された。
- 「お前達、少しの時間でいいからティオちゃんの相手をしていなさい!いい、絶対に自分から攻撃を仕掛けてはダメ。
徹底的に時間を稼ぐのよ!」
そう下僕に命令し、ニースは踵を返してアンナの援護に走った。いくら三体いるといってもティオちゃんの相手をしてはいくらももたない。
その間に、アルマナウスの人形を破壊しないと!
「くそっ!待てぇ!!」
ニースを追っかけようとするティオの前に三体の吸血鬼が妨害するかのように立ちはだかった。
「どけぇっ!ガルゥゥーッ!!」
ティオの突き出した掌が一体の吸血鬼の胸板を貫き、再生なったその吸血鬼は一時の間もなく再び塵へと帰った。
これでは、残った二体の吸血鬼も滅ぼされるのはそう長くはないだろう。
「きゃははっ!!ほらほら、もっと私に血をよこすのよ!!」
リムの爪檄が四方八方からアンナへと降り注いできている。さすがにアレクサウスの血を受けただけあって肉体のポテンシャルは高い。
それに加え、血の味を知ったリムが目の前の血袋からさらに血を求めんとめちゃめちゃに腕を振るってきている。
リムだけに集中できないアンナはさっきから防戦一方になっていた。
「アンナ!」
そこに、横から救援とばかりにニースが飛び込んできた。ニースの掌がリムとアンナの間に割って入り、二者の間合いを微妙に開かせた。
「ニース様!」
思わぬ助けにアンナはボロボロの顔一杯に喜色の笑みを浮かべた。逆に、食事の邪魔をされたリムはニースを憎々しげに睨みつけた。
「なによ、いいところで邪魔して…。あ、そう言えばあなたも犬っころと一緒に私が主様に捧げられるのを邪魔したわよね…
丁度いいわ。あなたもそいつと一緒に飲み尽くしてあげるわ。たっぷりと苦しめながらね……」
リムは爪をぬらりと舐めながらニースへ向けていやらしく微笑んだ。今のリムにはニースもアンナもただの水筒にしか見えてない。
その中に入っている血で喉を潤す。その一点の衝動にのみ突き動かされていた。
が、リムはミスを犯した。
ニースの前で、ティオを『犬っころ』と言ってしまったのだ。たちまちのうちにニースの顔色が変わってくる。
「犬っころ……、犬っころですって……。ティオちゃんを、お前如きが犬っころと言うか……」
ニースの目に怒りの炎がメラメラと燃え広がってきている。どんな状態にあれ冷静を保とう。そう考えてここに乗り込んできた。
しかし、ティオをバカにされては話は別だった。
その姿にアンナも思わず身じろぎしてしまい、アルマナウスは何か面白くなったとちょっと引いて傍観する体勢をとった。
「さあ、私に血をちょうだい〜〜〜っ!!」
リムは口をバカッと開け、両腕を振り上げてニースに真正面から飛び掛ってきた。それを受けて立つニースは、さっきまで
全く見せていなかった吸血鬼が持つ他者を見下した残忍な笑みを浮かべている。
「お前には……、こいつをくれてやるわよ!!」
ニースは懐から小瓶を取り出しリムに向けてぶん投げた。それはリムの前でたちまち吸血鬼の形を為し、リムに向けて突っ込んでくる。
「えっ……」
その吸血鬼を見たとき、リムの顔一杯に浮かんだ笑みが消えた。
「ガアアアアァッ!!」
ドンッ!とリムにぶつかった吸血鬼はそのままリムを押し込みながら肩を掴み、牙を突きたてようと喉元めがけ頭を振り下ろす。
が、そうなってもリムは何の抵抗らしい抵抗を取ることすら失念していた。
「お、とうさ…キャアアアァァッ!!」
リムが吸血鬼に『お父さん』という間もなく、吸血鬼はリムに思いっきりよく喉元に噛み付いた。
ジュルリ、ジュルリと音を立てて、リムの体から血が吸い取られていく。
「アハハハッ!どう?実の父親から血を吸われる気分は。そいつの血のおかげで私は息を吹き返したし、こうして
ティオちゃんを侮辱したバカに憂さを晴らすことも出来る。あんたの父親って、本当にいい人ね!アハハハハッ!!」
あの時リオンが招かれずに入れる家は、再生を果たしたリムの自宅しかなかった。そうなると、血を求めるためにリムの両親が
選ばれるのは当然といえば当然のことである。
「い、いやぁぁ…、お父さん、やめてぇ……」
リムは涙を浮かべ、懸命に父親へ向けて訴えかけている。もっともそれは、父親に血を吸われる事への嫌悪感からではなく、
自身の血が吸い取られていく喪失感から来る危機感からだ。
実際、首が動かせればリムも目の前の吸血鬼から血を奪い返そうとするだろう。が、がっしりと組み付かれた体は腕一本動かすこと
もできず、ただいたずらに血を吸われ続けるしかなかった。
- 「あぅ…。あぁ……」
リムの全身が倦怠感に包まれ、意識もじわりじわりと削り取られるように遠くなっていっている。アレクサウスから受けた吸血は
蕩けそうな快感をもたらしてくれたが、父親からの吸血は苦痛しか感じられない。
「全く…、大口を叩いた割には無様なものですこと」
その様に堪りかねたのか、アルマナウスがリムの後方から近づいてきた。が、それにも拘らずリムの父親は娘の血を吸うのに
夢中なのかその場を離れようとはしない。
「あ…、アルマナウス様ぁ……助け……」
「ええ、すぐに楽にしてあげますわ」
ドキュ
「え……」
リムの胸を貫いた熱い衝撃。恐る恐る眼下を眺めたリムの目に飛び込んだものは…
自分の胸から出て父親の胸に串刺しになっているアルマナウスの腕だった。
「あ〜あ、やっちゃった……」
その光景を見て、アレクサウスは困った妹だと言わんばかりに首を横に振った。いつかはやるだろうと思っていたが、この場面でとは。
ただ、花嫁が妹に殺されたというのにアレクサウスはそれほど残念と言った表情はしていない。正直、リムのあまりにわがままな
振る舞いにいい加減嫌気もさしていたのだ。恐らく、妹も同じ意見だろう。
「な、なんでぇ……」
逆に、何故殺されたのかだか分からないリムの口からは疑問を投げかける言葉と共にごぼりと黒い血が溢れ出してきた。
リムからは見えないが、アルマナウスはニースと同じような侮蔑の目をリムに対して向けている。
「こんな雑魚に遅れをとるようでは、私たちの血族に加わる資格はない、ということですわ。あなたの下品な態度にも
いい加減いらついていましたし。そして、なにより……」
アルマナウスは、ちら、とニースの方へ視線を向けた。
「私もあの方と同様、ティオを侮辱したあなたを許せませんでしたの」
アルマナウスが手を横に薙ぎ、リムと父親の胴を引きちぎる。
たちまちリムと父親の体は青い炎に包まれ、灰となってその場に崩れ落ちた。
「邪魔をしないでくれて感謝いたしますわ。でも、次はあなたたちの番です!」
血塗れの手を拭おうともせず、アルマナウスはニースたちに向って飛び掛ってきた。後ろの方ではまた一体吸血鬼が切り裂かれた
音が聞こえる。このままではアルマナウスとティオに挟み撃ちに遭うのは明白だった。
ティオが戦線に復帰する前に人形を始末しなければならない。そうすれば敵はアルマナウスただ一人になる。
「こうなったら…アンナ………」
「……!は、はい!」
ニースはアンナに何事かを短く呟くと、アルマナウスのほうへと駆け出した。もうこのチャンスに賭けるしかない。
「さあ、どうしますの?!」
真正面から来るならニースはアルマナウスの敵ではない。例えれば闘牛士と牛の関係のようなものだ。適当にあしらえば
そのうちティオがこっちに来てくれる。
となると、何事か謀(はかりごと)をかけてくるに違いない。それは、はたしてなんなのか……
「でやあぁっ!」
すると、案の定ニースはアルマナウスの前に来ると見せかけて左横へと跳ねた。そして、ニースの体で死角になっていたアンナが
小刀をアルマナウスの方へ広範囲に飛ばしてきた。
横へとかわしたらどれかに当たる。アルマナウスは反射的に上へと跳んだ。小刀はアルマナウスの下を空しく通り過ぎ壁へと刺さる。
「ガアァァッ!!」
が、間髪いれずアルマナウスに向かってくるものがあった。くるっと顔を向けたアルマナウスの目に飛び込んできたもの。それは
ニース、ではなく女吸血鬼…リムの母親だった。
- 「そんなもので!」
アルマナウスは右手の爪を鋭く伸ばし、突っ込んできた吸血鬼を胴体から真っ二つにした。心臓ごと両断された吸血鬼は
それぞれ青い炎をあげて燃え出す。
「うおおぉっ!」
そして、その影から本命ともいえるニースが後ろで構えて突っ込んでくるのが見える。右手を振りぬいたアルマナウスは
現在、酷く不安定な体制で空中に滞空しており咄嗟に体を動かすことが出来ない。が、
(これじゃあ、さっきの坊やとのコンビーネーションと同じですわよ!)
ニヤッと笑ったアルマナウスは咄嗟に右手を懐に入れ、あの『傀儡封じ』を取り出した。
「随分お粗末ですこと!さあ、あなたも人形になりなさいな!」
アルマナウスは『傀儡封じ』をニース目掛けて放り投げた。ニースはアルマナウスと違い空中飛行はできない。
飛び込んでくる『傀儡封じ』をかわす術は無い。はずだった。
その『傀儡封じ』目掛けて飛び込んでくるものがあった。
「うわあぁぁぁっ!!」
なんと横から跳んできたアンナが『傀儡封じ』に自らを体当たりさせ、ニースが『傀儡封じ』に取り込まれるのを寸前で阻止したのだ。
もちろんアンナの体は『傀儡封じ』に取り込まれ、そのまま床へと転がり落ちる。が、言うまでもなくニースは全く無事だ。
アンナに取ってニースの命令は絶対である。例えば『人形にする布に飛び込んでいけ』と命令されたら拒否する権利は無いのだ。
「な?!」
あまりにも突飛な行動に、アルマナウスは一瞬思考が真っ白になった。そして、気を取り戻した時自分が抜き差しならぬ状況に
追い込まれていることを悟った。
左手はヴォルフを抱えているために使い物にならず、右手は『傀儡封じ』を投げた拍子で前方に大きく開ききっていた。
今、アルマナウスは完全に無防備にニースの前に体を晒していた。
突っ込んでくるニースは勝ちを確信した笑みを浮かべていた。
「しまった!」
殺られる!アルマナウスは己の死を覚悟した。だが、その時アルマナウスの視界に飛び込んできたのは
「やらせるかーっ!」
最後の吸血鬼を滅ぼしたティオが懸命に跳んで、ニースの脚をがっしりと捕まえていた。当然ニースの体はがくん!とつんのめり
アルマナウスへの突進はストップしてしまう。
「ティオ!助かりましたわ!!」
命拾いした状況に、アルマナウスは心からティオへ感謝の念を述べた。
が、アルマナウスを見るニースの顔は、あいも変わらず微笑んでいる。まるで、ここまでが予想通りだと言わんばかりに。
「アルマナウス!もらったわよ!!」
今まで後ろ手に回っていたニースの右手が動き、マントの中から顔を出す。その手に握られていたのは、
ティオが武器にしている、銀の短剣だった。
今ニースが着ている法衣は普段のものより心持ち大きい。ニースは短剣が縫われたティオの法衣を身につけていたのだ。
そして、この短剣こそが本当の奥の手だった。
ニースは腕を大きく振り、今まさに短剣をアルマナウス目掛けて放り投げようとしていた。
が、ティオがそれを黙って見逃すはずが無い。
(アルマナウス様を殺させるものか!!)
この不安定な体勢からでも左手を使ってこの吸血鬼を脇から貫くことは出来る!剣を投げる前に、串刺しにしてやる!!
「死ね……!」
左手を振り絞ったティオの目に飛び込んできたもの。それは勝ちを確信しているティオの鮮やかな微笑みだった。
「ぐっ!!」
それを見たとき、以前のようにティオの頭に激しい頭痛が走った。その痛みに耐え切れず、思わずティオは左手で頭を抑えてしまった。
「でぇやあぁっ!!」
そしてその瞬間、ニースの手から短剣が放たれた。
ビュン!!
短剣は唸りを上げてアルマナウス目掛けて真っ直ぐ飛び、吸い込まれるようにアルマナウスの胸へと飛び込んでいった。
バシッといった衝撃と共に、アルマナウスの体に剣が貫いた感触が走る。
- 「ぐはっ!!」
そのまま剣の運動エネルギーに引きずられる感じでアルマナウスは吹っ飛ばされ、床に強く叩きつけられた。
それと同時に、ニースとティオも絡まるようにもんどりうって床に落ちた。
「う、うぐぐぅ……」
胸を貫かれたアルマナウスはすぐさま青い炎を…発しなかった。ニースが急所をわざと外したわけではない。実際、
ニースはアルマナウスの心臓目掛けて剣を放り投げたのだから。
だが、剣はアルマナウスが抱えていたヴォルフに当たった時に微妙に切っ先を逸らし、アルマナウスの心臓ギリギリのところを通過して
背中へと至っていた。言ってみれば、ヴォルフがアルマナウスの命を救ったことになる。
が、もちろんその代償は大きかった。
「ヴォ、ヴォルフ…!」
アルマナウスの前で、ヴォルフはガシャリと崩れバラバラに床に落っこちた。最早修復不能といっていい。
そして、本体であるヴォルフが破壊されたティオは…
「ア、アァ………!ウガァァァァァッ!!!」
突然ティオは頭を抑えてその場でひどく苦しみだした。大きく見開いた金色の瞳が次第に光を失い、元のティオの深緑色へと戻っていく。
「うぁ、あぁぅ………」
そして、最後は首をガクンと逸らせニースの背後でどさりと倒れ伏した。
「あ、あぁ……ティオ……」
その光景をアルマナウスは絶望の眼差しで眺めていた。『自分のもの』だったティオがその手から離れてしまったことを理解したからだ。
「ど、どうよ……。ティオちゃんは、取り戻したわよ……」
「い、いやぁぁ!ティオ、ティオ!起きなさいティオ!!これは命令よ。起きなさぁい!私のティオ!!」
アルマナウスは半ばムキになってティオの名前を連呼した。が、もちろんティオはその場からぴくりとも動きはしない。
「無駄無駄…。ティオちゃんは私のものなんだから。さあ、そこで大人しくしてるのよ。今度こそ完全に討滅してやる…」
ニースはニタリと笑うとアルマナウスに完全なとどめをさそうと起き上がろうとした。一時とはいえティオを奪っていった
この吸血鬼を、ニースは絶対に許す気はなかった。が、
「……?」
体が起き上がらない。まるで下半身に枷がしてあるみたいに動かないのだ。
なんだろうと思い後ろを向くと、なんとティオがニースの両足の上に覆い被さって脚をがっしりと掴んでいた。
「ち、ちょっと!ティオちゃん?!離して。足を離してよ!!」
驚いたニースはティオに叫びかけるが、やはり完全に気を失っているティオは全く反応しようとしない。
「離して、離して!離してってば!!」
焦るニースは体をぶんぶんと揺するが全く無意味だった。
「ティオ……」
その光景に、アルマナウスはズキンと胸を打たれた。もうヴォルフの枷も消え失せ自分のものではなくなったはずのティオが
意識を失っていながらも自分を守ってくれている。
それが血の交換を行ったからなのか、それともただの偶然か。確かめる術は今は無い。
だがアルマナウスは信じたかった。自分とティオの絆は、まだ完全に途絶えてはいないということを。
「さあ、そこまでだ。二人とも良く頑張ったね」
その時、後ろで傍観していたアレクサウスが二人の間に割って入ってきた。
「兄様!早く、早くその吸血鬼を倒してください!そして、ティオを取り戻して……」
「おいおいアルマナウス、僕を嘘つきにする気かい?彼女はお前と戦い、僕が言った勝ちの条件を満たした。
だったら、ティオは彼女に返さないといけないだろう?」
そこまで言って、アレクサウスはニースの方へと向き直った。
「そっちも、これで今日のところは御終いという事にしようじゃないか。こっちもリムが滅ぼされ、妹もすぐに
手当てをしないと命に関わる大怪我を負っている。ティオも返すんだからこれ以上ない条件だと思うんだがね」
「………」
確かに、ティオを取り返すことは出来た。ここで済ませば僥倖というものであろう。
「時間がたてば、ティオの体も元に戻るだろう。どれくらいかかるかは、分からないけどね」
アレクサウスは足元に転がっている『傀儡封じ』とアルマナウスを抱え、ドアの方へと歩を進めた。
- 「…まあ、そのうちまた会う機会もあるだろう。特に妹はティオにご執心のようだからね…」
「ティオ……、絶対に取り戻してみせますわよ。そのときまで、ティオは預けておきますわ!」
そういい残し、吸血鬼兄妹は通路の闇へと溶けていった。
静まり返った部屋に、一体の吸血鬼と一人の人間、そして二体の人形が床に転がっている。
「……誰が渡すか、バカ。次に会った時は、お前達が討滅される時よ……」
ティオを取り戻すことは出来たものの、ニースの心には弄ばれたという気持ちから来る敗北感が満ち溢れていた。
その後、意識を取り戻したティオは人狼になっていたときのことを全く覚えていなかった。まあ、これはニースにとっては
非常に都合のいいものだった。
ティオが兄妹の手によって人狼に変えられていたこと。吸血鬼化していたリムをやむを得ず討滅してしまったこと
(もちろん、リムの両親を吸血鬼にしたのはアレクサウス達ということにしている)。それを自分ひとりで解決したこと。等々
虚実入り混じった説明をくどくどと並べ立て、何とかティオに事情を納得させることが出来た。
そして、ティオの手から自分が人狼になっていたことを除いて町の人間や教会に説明させた。街の人間も被害が一家族だけで
抑えられたことで、それほどニースたちに非難の声を上げることは無かった。
(フン、命拾いしたことに感謝するのね)
ニースは相変わらず自分可愛さが前面に出すぎる町の人間に嫌悪感を隠せないでいたが、ティオを無事取り戻したことで
とりあえず町の人間皆殺しは休止することにした。あくまでも、『休止』だが。
あの後、ティオの髪の毛は金髪短髪に戻り、全身の毛も獣耳も消えてなくなった。が、
「やっぱこれ…、鬱陶しいわ」
旅館の部屋に入り、長ったらしい法衣を脱いだティオの腰には…、ふさふさの銀色の尻尾が生えたままだった。他の部位は
なくなっても、この尻尾だけはいつまでたっても消えてなくならなかった。
もちろん繋がっているので感覚はあり、自分の意思で動かすことも出来る。気分が沈んだときは下に下がり、嬉しい時は無意識に
ぶんぶん振ったりしてしまうこともある。
別に何の害も無いのだが、やはり尻尾が生えているなんて他人に見せたら奇異の目で見られることは間違いないし、第一
人目に晒すことなど出来よう筈も無い。
一回、意を決してニースに根元から切ってもらったこともある。だが、物凄く痛い思いをしたにも拘らず、一晩経ったら
尻尾は何事も無かったかのように再生されていた。
おかげで、ティオは暑い中でも長袖長靴の冬服仕様である。はっきり言って、かなりきつい。
こうして、誰の目にも見られないところで暑苦しい法衣を脱ぐ時が、今のティオには何よりの安らぎだった。
「うぅ…、何とかこの尻尾を取る方法を見つけないと……」
鏡の前でばつが悪そうに自身を見ているティオを、ニースはベッドの上からじっと見ていた。
(アレクサウスめ…、何が時間が経てばだ、よ。一体いつまで待てば元のティオちゃんに戻るっているのよ…)
尻尾が残っているティオはやはり僅かだが人狼の血が混じっているらしく、いつも飲んでいたティオの血の味とは
微妙に異なる味わいになっていた。
別に、目くじらを立てるほどの差ではないのだがやはりニースとしては元の完璧なティオの血を味わいたい。
おかげで、最近はティオの血を求める回数も抑え目になっていた。
「まあ、それさえ抜きにすれば、あのモフモフ感とか嫌いじゃないんだけれどね…」
(とかいって、ニース様も結構お気に入りじゃないですか)
(この前なんか、寝ているときに尻尾握り締めてましたよね)
どこからかとても小さい声が聞こえる。この部屋にはティオとニースの二人だけしかいないはずなのだが。
が、ニースは声がどこから発せられているの変わっているらしく、ベッドの上に放り投げた専用の遮光服『降闇』をめくり
中にぶら下げてある人形にぎろりと眼をつけた。
「うるさい…。余計な口叩くと糸を抜いてバラバラにするわよ」
ニースが睨んでいる先にある人形…、アンナとリオンはその脅しに小さい体をビクリと振るわせた。
- 結局アンナとリオンはアルマナウスに逃げられたためにいまだに人形のままであり、ニースの降闇の裏に紐で縫い付けられていた。
人形になったからか日光を浴びても灰になることはなくなったが、人形なので全く戦力にはならない。
とりあえずティオの尻尾、そしてこの二人を元に戻すためにもまたあの吸血鬼兄妹とは対峙しなければならない。
(どこに行ったかは知らないが、必ず探し出してやる…。そして、今度こそ討滅してやるんだ)
グッとその決意を再確認したニースは、とりあえず今出来ることを為そうとベッドから身を起こした。
ニースはティオに気づかれないようにそろり、そろりと背後から近づくと、ぱっとその尻尾に抱きついた。
「キャッ!こ、こらニース!!」
「だってぇ〜〜、ティオちゃんったら尻尾をゆらゆら揺らして私を誘うんだもん。辛抱できないよぉ」
「あんたは猫か!」
「ティオちゃんは狼じゃない」
「狼って言うな!」
きゃあきゃあとじゃれあう二人を、二つの人形は呆れながら眺めていた。
第八回終
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『おまけのかりうど』
「あっづ〜〜〜〜い」
「うにゃ〜〜……」
甘かった。雨がぱらついてきたからこれ幸いと先を急いだのがいけなかった。
一旦激しく降った雨はすぐに止んでしまい、サッと雲が晴れたあとはお決まりの灼熱地獄。
日差しがギラギラ照りつける夏の空。陽炎すらゆらゆらと立ち昇っている道を、ティオとニースはふらふらになりながら歩いていた。
吸血鬼であるニースは暑さこそそれほど感じはしないのだが、直接日光を浴びるとただでは済まないので、光を遮る魔法具である
『降闇』を全身に羽織っている。
これにより直射は防いではいるのだが、強すぎる日差しと湿気はニースにこれ以上ない不快感を与えていた。
一方、ティオの方は殺人的な日差しにも拘らず下に着込んでいるのはゆったりとした冬用のスカートだ。さすがに上着は夏用なのだが
これではただでさえ暑い空気が倍加して襲い掛かってくるようなものである。
さらに、軽く雨が降った後なので溜まった雨水が気化して水蒸気となり、体全体にうにゃうにゃと纏わり付いてくる。その不快感
たるや吸血された方がまだましといったくらいの按配であり、通気が悪い冬用スカートの下の惨状は筆舌に尽くしがたい。
湿度が高く蒸発しない汗は容赦なくぽたぽたと顔から落ち、拭っても拭っても収まらない。
ここまで悲惨な状態ならば、いっそのことその暑苦しい冬用スカートを脱げばいいと普通は考える。そうすれば、少なくとも
今よりはマシな状態になるのは間違いない。
しかし、ティオには下を生地が軽い夏用に変えられない事情があった。とても人前では見せられない代物が今のティオにはあるからだ。
「ティオちゃん……、町についたらまず水風呂にはいろうよぉ…」
「うん、それはいいアイデアだわ……」
もう余計なことを喋るのも億劫なのか、ティオもニースもこれ以降口を開くことは無く、ただ黙々と先へと歩いていた。
途中の木陰で休憩を取るという選択すら、暑さで頭がてんぱっていて気づきはしなかった。
ようやっと辿り着いた町で旅館の親父に頼み込み、沸かす前の浴場を貸切で貸してもらうことに成功した二人は部屋に荷物を
放り投げて、一目散に浴場へと突っ走った。
「あつい、あついあつい〜〜〜!」
素っ裸になったティオはもう一秒も待てないとばかりに浴槽目掛けてダッシュし、ドパァン!と派手に水しぶきをあげて飛び込んでいった。
「ふはぁ〜〜。生き返るわ……」
張ったばかりの冷たい水の感触が日光で茹だりあがった肌にきんきんと染みこんでくる。この感覚を味わうことが出来るなら
今まで暑い外を歩いてきたかいがあるというものだ。
ティオは目を閉じ、うっとりと顔を綻ばせて水の冷たさを全身で堪能していた。
そうしていたら、後ろの引き戸がガラガラと開き、遅ればせながらニースが浴場に入ってきた。
「ティオちゃーん、おまたせー」
「ちょっと遅かったじゃない。何をしていたのよ?」
「うん。これを持ってくるのを忘れちゃっててさ」
そういうと、ニースは右手に抱えていた小袋をスッとティオの前に掲げた。なるほど、二人して浴場に来た時はこんなものは
持っていなかった。どうやら、部屋まで取りに戻ったらしい。
「それ……、なによ?」
「うん、次の町についたら是非ともティオちゃんに見てもらいたかったものなんだ。あまり人前で、見せられるものじゃないから…」
人前で見せられるものじゃない?ニースが何を言おうとしているのか、ティオには理解が出来なかった。
「ティオちゃんって、今……、ほら、腰の……」
「あ……」
そう言われ、思わずティオは湯船(水船?)から身を乗り上げた。
その腰には、水で濡れしなしなになってしまっているが、それはそれは立派な銀色の毛が生え揃った尻尾が顔を出していた。
先にティオは極悪吸血鬼兄妹に拉致された事があり、妹吸血鬼、北天のアルマナウスの魔力によって人狼に変えられてしまったのだった。
- その後ニースが人狼の本体である人形を破壊し、呪縛が解けたティオは人間の姿に戻ったものの、何故か尻尾だけはいつまでも消えずに
残ってしまったのだ。
しかも、切っても切っても尻尾はなくならず一晩もすれば再生してしまうため、遂にはティオは切ることを諦め冬用の長い法衣を
着ることで人前で誤魔化すようにしていた。
ただ、それも今日のような凶悪な日差しの下ではある意味自殺行為になってしまう。かといって、人前でこんな代物を晒してしまったら
一体なんと思われるかたまったものではない。
「だから、人前でも何とかならないかってのを考えて、こうやって作ってみたわけなのよ。
ティオちゃんの尻尾を目立たなくするグッズを」
「ほ、本当なの?!」
ニースの言葉にティオの顔は色めき立った。ニースの言うことが本当なら、もうこんな暑い思いをしなくてもすむわけだ。
「で、ど、どういうものなの?!早く見せてよ!」
「まぁまぁ、慌てない慌てない。慌てる何とかは貰いが少ないって言うじゃない」
目をキラキラと輝かせて迫るティオを、どうどうとニースは抑え付けた。
「私がつけてあげるからさ、あっちの鏡の方に行こうよ」
そう言ってニースは鏡台のほうへと歩き始めた。もちろんティオも後に続く。
「わ〜、思った通りかわいいよティオちゃん!」
「………」
鏡の前に映し出された姿、その光景をティオは口をぽかん開けたまま一言も言わず立ち尽くしていた。
金髪短髪のティオの頭、そこにはご丁寧に金色の毛で誂えたピンと立った狐耳のカチューシャがニースによってはめられていた。
「これで尻尾を金色に染めれば誰が見てもコスプレ美人!疑われてもカチューシャを外せば納得するでしょ。
本当は猫耳にしたかったんだけれど、ティオちゃんの尻尾って結構ボリュームあるから猫にはあまり見えないし、何より金髪だからさ。
これでティオちゃんも、暑い中薄着で外を歩けるようになるのよ!」
ニースは我ながらナイスアイデアと言わんばかりにえっへんと胸を張った。なるほど、確かに尻尾だけあるから不自然なのであって
耳もつければ全体としてのバランスは取れているのかもしれない。だが…
「こ、こ、こんな格好して外を歩けるわけないでしょ!!」
ティオはこの姿で街中を闊歩する自分の姿を想像してみた。半袖短パンで尻尾と耳を出しながら練り歩くその姿は誰がどう見ても変人だ。
ティオはカチューシャを毟り取り、ニースにぽいっと放り投げた。
「え〜〜〜、せっかく作ったのに…。それに本当にかわいかったよ?ティオちゃん」
「私はいくらかわいいって言っても人様の前でコスプレする趣味は無いのよ!」
ニースは本当に残念なのか、未練がましくカチューシャを袋の中に入れた。だが、これで懲りたわけではなかった。
「じゃあ第二弾!今度は自信作よ!」
ニースはティオの目の前に右手で勇ましくピースサインを作って見せた。
「まだあるの?!」
何か嫌な予感がする。いや、それはもう確信だろう。第一弾がアレな以上、次のがまともであるはずがない。
「も、もういいからさ……」
「何言ってるのよ。このままじゃティオちゃん、暑さでバターになっちゃうよ?私は暑くてもそんなに困らないけれど
ティオちゃんにとっては死活問題じゃない」
「う…」
確かに、ここ何日かの暑さはティオの体を非常に消耗させている。
ただでさえ肉体が資本の仕事なのにこれ以上体に余計な負担をかけるわけにはいかない。
「じゃあ…、試すだけでも…」
「そうこなくっちゃ!と、いう訳で…」
ニースは再び袋に手を突っ込むと、中からなにやら毛むくじゃらなものを取り出した。
その脇には片側には二本の紐、もう片方には金属製の輪っかがつけられ、輪に紐を通して結べるようになっている。
が、何よりもそれよりも、ティオはその毛むくじゃらの物体をなんかどっかで見たことがある。
「え、それって私の…」
「うん、前に切り取ったティオちゃんの尻尾。ちょっと根元を切って毛を短く刈っているけれどね」
なんで捨てたはずの尻尾をニースが持っているのか、なんで変な細工を施しているのか、突っ込みどころは結構多い。
- 「じゃあティオちゃん、これを腰に巻いてあげる。ちょっと太腿開けてくれないかな」
「いっ?!ち、ちょっと待って!」
この得体の知れないモノを身につけろというか!と言う間もなく、ニースは手に持った物体を素早くティオの股下に挟んできた。
水で締められたティオの肌に毛のちくちくした肌触りが伝わってくる。
慌ててティオはニースの目論見を阻止しようとしたが、臀部の窄まりの辺りに毛が纏わりついた時、ぞわっと痺れるような感触が走った。
「ひあっ!」
その妖しい感触に、ティオは背筋をビクッと伸ばして短い悲鳴を口からこぼした。
(な、何恥ずかしい声上げているのよ私は!!)
ティオは恥ずかしさから反射的に両掌で口を押さえ、ちらと下のニースを見るがニースはティオに履かせるのに夢中で気づいた様子は無い。
(危なかった…。でも、なんなの今の感覚……)
まるで、不浄な部分が触られることに歓喜の声を上げたような危険な感覚。過去にこんなことを感じたことは無いのに、
まるで、過去にそういうことがあったかのような、不可思議な既視感。
「よし、出来た!」
そんなこんなと考えているうちに、最後に前で紐を結びつけてニースははしゃいだ声を上げた。
「じゃあティオちゃん、ティオちゃんの尻尾を腰に巻いてよ」
「? こ、こう?」
ニースの言われるままに、ティオは自らの尻尾を腰にくるりと巻いてみた。
「ほら、鏡を見てみて」
「?」
鏡に映し出されたティオの姿、その下半身にはまるで銀の毛皮で誂えた豪華なショートパンツのような物体が構成されていた。
「これなら外を歩いても誰も尻尾だなんて思わないわよ!腰巻でも着ていればそれほど目立つものでもなくなるし。
どうどう?これならティオちゃんも夏場でも涼しくてすむよ?」
ああなるほど。確かにこれならさっきの狐耳コスプレよりは目立たない。百歩譲ってこんなど派手なパンツをはいている人間も
ごくごく稀に存在しているかもしれない。しかし、
「ニース……、あんたは私に往来で下半身裸でいろっていうことなの?!」
そうだ、毛皮で覆っているとはいえ股下以外のそれはティオの尻尾だ。ティオにとっては不本意だろうが尻尾がティオの体の
一部である以上、この格好で外を出歩くことは下半身丸出しといっても過言ではない。
さらに、このままでは上も着れない。例え無理やり履いたとしても腰の辺りだけやたらとこんもりした異様な状態になってしまう。
「大事なところは隠してあるんだからいいじゃない。暑いよりはいいでしょ」
「暑さと人間の尊厳を選ぶなら、私は人間の尊厳を取るわよ!!」
ティオは巻いていた尻尾をピンと逆立ててニースに怒鳴りつけた。
「はいはい。こういうのはなしなし!!」
そしてそのまましゅるしゅると紐を結び解くと、ニースが持ってきた袋にぽい、と入れてしまった。
「いくらなんだって、こんなものを私が外でつけられると思っているの?!付け耳やらストリーキングやら…。私にだって…」
と、そこまでがなりたてたところでニースの顔を見たとき、ティオはピタッと口を閉じてしまった。
「………」
ニースはティオに対し、本当に申し訳なさそうにしゅんと頭を垂れ力なく俯いている。
どうやら、ニースは本気でこれらの面白グッズをティオの防熱対策として考え、自らの手で作ったらしい。
それが役に立つかはともかく、その労苦に対しては感謝を述べなければいけないのではなかろうか。
なのに、自分は頭ごなしにニースに怒鳴り散らして…
「…で、でもまあ、私のためにと思って作ってくれたんだから…、まあ気持ちだけは受け取っておくわ」
えへんと咳払いをして、ティオはニースへちょっとだけ感謝の気持ちを述べた。
「………」
が、ニースは俯いたまま顔を上げようとしない。心なしか、涙を流しているようにも見える。
「ほ、本当に嬉しいとは思っているから…、ただ、人前でこれをつけるのは……」
「………」
「……、ああもう!分かったわよ!たまにだけど付けてあげるわよ狐耳も尻尾パンツも!ただし、それで街中を歩けってのは
勘弁よ!そこまではさすがにゴメンだからね!!」
泣く子とニースには勝てない。とうとうティオは観念して面白グッズを身につけることを約束してしまった。
「ホント?!」
現金なもので、それを聞いた途端ニースはパッと顔を綻ばせティオにガバッと抱きついてきた。
- 「絶対よ、絶対だからね。後で嫌だなんて言ったらやだよ!」
「こ、こらやめなさいニース!あなた体が冷たいんだから冷えた体が余計……、あ」
そうだった。ニースは吸血鬼なので暖かい血は通っていない。これだけ体が冷えてるということは暑さに対してもなんともないのだろう。
「…、羨ましい奴め。この暑い中でもこんなに涼しい思いをしているなんて」
「ん?なになに?吸血鬼の体が羨ましいと思った?
だったらティオちゃんも吸血鬼になればいいじゃない。今ならすぐに私がいい思いをさせてあげるよ〜〜」
ニースの瞳と牙がキラリと光る。ティオがうんと言えばすぐにも首に噛みついてきそうだ。
「くっ…」
少し魔眼が発動していたのだろうか、ティオの頭に軽い眩暈が走った。まあ、これは吸血鬼の本能のようなものだからティオもあらかじめ
警戒はしていたので意識を奪われるところまではいかない。ティオはすーっと深呼吸をしてから、ニースの顔にぴたっと掌を当てた。
「…バカ言ってるんじゃないの。私はまだ吸血鬼になる気なんてないんだから」
「ちぇっ、残念…。じゃあ」
軽く苦笑したニースは、そのままティオをひょいと抱え上げた。吸血鬼は怪力なのだ。
「ち、ちょっとニース?!」
「そぉれぇー」
と、そのままティオを湯船の中へぽーいと放り投げた。どっぱぁん!と派手な音を立ててティオが水しぶきの中に消える。
「こらぁ!ニース……」
「たあぁーっ!!」
さすがに怒ったティオがニースへ向けて怒鳴り声を上げると…、その目に入ったのは自分へ向けて突進してくるニースの姿だった。
「ま、待って…」
どーんっ!!
そのままニースはティオへと体当たりを敢行。二人揃って水の中へとどんぶらこ。
そして数秒後…
「あ、あ、あ!あんたは私を殺す気かーっ!!」
「いたい、いたい、いたい!」
相変わらずしっかと自分を抱きしめているニースへ、ティオは両方の拳骨でニースのこめかみをぐりぐりと押さえつけながら
浴場が壊れんばかりの大声で怒鳴りつけた。
が、それほどの怒りを向けられているにも拘らず、ニースの顔は笑顔に包まれていた。
(さっき、ティオちゃんは『まだ吸血鬼にならない』って言ってくれた!)
そう、『まだ』吸血鬼になる気はないとティオは口にした。
言い換えれば、いつかは吸血鬼になってもいいとも取れる発言だ。この一言がニースにとっては何よりも嬉しい。
恐らくティオも『まだ』なんて言葉を入れる気はなかったはずだ。ティオ自身の意識に吸血鬼になることを望む気持ちがあるはずは
ないのだから。
それなのにそういう言葉が出たということは、ティオの深層意識にかなりニースの力の汚染が進んでいるということだ。
(このままティオちゃんの血を吸って私の血を与え続ければ、もっともっとティオちゃんの心は吸血鬼に近づいていく!)
ただ、その前にあの吸血鬼兄妹に会ってティオの尻尾を取る方法を聞き出さなければならない。このままティオを吸血鬼にしたら
尻尾つきの吸血鬼になってしまう。ティオの尻尾はそれはそれでいいのだけれど、やっぱり綺麗な体で吸血鬼になってもらいたい。
「このぉ…」
いくら怒っても反応せず顔色も変えないニースに、さすがにティオも苛立ってきた。
「聞いてるのニース!ちょっと間違ったら頭打って…」
「うんうん聞いてるよティオちゃん。私、すっごく反省しているの。ごめんなさーい。
だからティオちゃん、ちょっとでいいから血を飲ませてー」
「な?!バカなこと言ってるんじゃないわよ!反省しているならまず態度を…」
などとティオが言うのを無視して、ニースはティオの首にちょんと爪先で傷をつけた。跳ねる水しぶきと共に血がぷっくりと浮かんでくる。
「じゃあ、いただきまーす」
「ひゃっ!」
目を輝かせたニースがティオの首に吸い付くと同時に、ティオはゾクゾクッと背筋を震わせ抵抗らしい抵抗を止めてしまった。
抵抗しようにも首から与えられる溶けそうな甘い痺れに体が言うことを利かない。
- 「バカァ…、後で、ひどいからねぇ……」
『後のことは後で。今は今しかできないことを楽しもうよ』
水の中に入って冷えた体が、また熱く火照り始めている。
これじゃあ水風呂に浸かった意味が無いな…、と心の中で愚痴りながら、ティオはとりあえずニースの為すがままに身を預けた。
ティオにしても、気持ちいいことが決して嫌いなわけではない。
(この快楽に慣れるのは危険だけど、ちょっとぐらいなら大丈夫よね…)
この時点でかなり危険な思考に至っているのだが、吸血鬼の力に侵蝕されつつあるティオにはそのことには気づかない。
そして、水風呂に使ったままじっくりと吸血を堪能してしまったため…
「ハ、ハックション!!」
思いっきり夏風邪をひいてしまったのも言うまでもない。
おわり
以上です。ちょっと百合チックな話でした。
あと、おまけで主役二人の簡単なプロフをば。それでは失敬…
○ティオ・スダート
年齢:21歳 身長171cm B79W58H83 金髪ショート 瞳色:深緑
元教会の機関『狩人』所属のハンター。無欠なようで意外と抜けている。二刀の短剣使い。現在本人の自覚無く吸血鬼への道まっしぐら。
意識を失っている時限定でニースの意のままにされている。
見た目は非常に厳格で硬い雰囲気があるが、実際はかなり俗っぽく信仰心もそれほど高いものではない。そんな彼女が狩人に所属
していたのは、彼女の家が代々そういうことを職業にしている家柄だったからだけのことである。
基本的にお姫様の役回り。操られたり連れ去られたり狂言回しにされたり。周りが人外だらけなので仕方がないが。
自分の油断でニースを吸血鬼にしてしまったため、基本的にニースに頭が上がらない。素の戦闘能力はかなり高め。
○ニース・ムーレイ
外見年齢:18歳(吸血鬼年齢0歳) 身長157cm B75W54H74 やや黒髪セミロング 瞳色:紅
『狩人』でティオとパートナーを組んでいたが、あるアクシデントで吸血鬼になってしまった。
一見天真爛漫で無邪気だが、その裏には残忍極まりない吸血鬼の本性がある。パートナーのティオを吸血鬼に堕としたくてたまらなく、
じわりじわりとその手の中に絡めていっている。基本的にティオ以外のことに関心をもっていないが、過去に自分の運命を変えた兄、
アムルのことは執拗に追いかけている。
『共喰らい』と呼ばれる同族喰いを積極的に行っており、内に篭った魔力『だけ』は中位貴族に匹敵している。
以前は神の奇跡を用いた法術使いだったが、吸血鬼になった現在は神の力は使えないので基本的に肉弾戦や過去に討滅した吸血鬼の
灰を下僕として用いたりしている。
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