1000年後の慟哭
『1000年後の慟哭』
そこは、世界のどの地図にも記されていない孤島。草木が生い茂り、野鳥が群れをなして
飛び、浜に打ち付ける漣の音のみがが辺りに木霊する人の喧騒から隔絶された自由空間。
当然、人の姿など見えようも無いと言いたいのだが、驚くべきことにそこには動いている
一体の人影が存在した。
木の上をまるで地面を進んでいるかのごとく駆け抜けるそれには、藤色の髪の間に雄雄し
い二本の角と狐を思わせる耳、腰には九本の尻尾を生やしている。
部族間の混血が進み、各部族の特徴が絶えて久しくなった現在においてなお残る純粋な聖
龍族と獣牙族の証。
その者の名は白面九尾クオン。かつて神羅連和国初代皇帝サイガに仕え、聖龍族隠密部隊
『朧衆』を束ねる『絶影』の名を受け継いだ忍術の達人である。女性として始めて『絶影』
を名乗った彼女は、己の正体を主人であるサイガにだけ明かし、人前に出るときは必ず仮
面を身に付け決して素顔を明かすことは無かった。
そして、サイガがその天寿を全うしたとき、人知れず人前からその姿をくらませた。サイ
ガの墓標の前に置かれた狐の面。四代目絶影が残したものはそれだけだった。
人々は主人に殉じて後を追ったなどと噂をしあったが、時が経つにつれてその存在を忘れていった。
それから900年、クオンは弟であり獣牙族の知恵袋と呼ばれたセツナと共にこの絶海の
孤島で隠居生活をしていた。その存在を秘匿していたクオンはともかく、セツナはその才
を惜しむ名士から幾度となく仕官の働きかけが行われてきた。しかし、セツナは決して首
を縦に振らず、この島から出て行くことが無かった。
クオンもセツナも出て行かない理由があったのだ。一つは、過去の存在である自分達が現
在ある道を切り開いていくわけにはいかないということ。そしてもう一つ、過去から託さ
れた重要な使命のために。
(だが………正直、もう生きている事に飽きてきた気がする………)
木の間を駆け抜けつつ、クオンは心の中で呟いた。
(サイガ様………、我々の使命はいつ果たされるのでしょうか………)
クオンが森の奥深くにある自宅に戻ると、中から弟のセツナ以外の人の気配が感じられた。
もともと人里から隔絶されたところにある上、自分達から島を出ることは無くそのの存在
も半ば忘れ去られたものであるため、他人の気配を感じるというのは数年ぶりと言ってもいい。
だが、逆に考えれば物見遊山や偶然で人がここを訪れることもまず無いので、なにか世界
に重大な動きがあったと推測も出来る。
クオンが扉を開けて中に入ると、中には神羅連和国の兵士三人とセツナが顔をあわせていた。
「セツナ、この者たちは」
クオンの問いにセツナが振り向く。その顔はいつに無く真剣な面差しである。
「姉上………、皇魔族が動きをおこしたようです」
「………皇魔族、だと」
クオンの眉がわずかにつり上がる。兵士達の言葉によれば、中央宮殿の『聖龍石』が皇魔
族の手によって持ち出され、マステリオン復活を目論んでいること。そして、それに前後
して世界各地で皇魔族と思しき連中が跋扈し始めるようになったこと。太平の世に慣れき
った兵士、魔道士は皇魔族に対し有効な策をなかなか見出せない、ということ。
「それで我らに善後策を授けて欲しく、中央宮殿へ登城して貰いたい、とのことなのです」
「そうか………。皇魔族が、か………」
(サイガ様、やはりあなたの懸念は正しかったのか…)
「姉上、ここは一刻も早く中央宮殿へ………」
「いや、私はここに残る。中央宮殿へはセツナ、お前だけいけばいいだろう」
無気力に部屋の奥に引きこもろうとするクオンの手を、セツナはしっかと掴んだ。
「何を言っているのですか姉上!光龍帝が我らをこの時代に残したのも、全てはこの時
に備えてのものだという事、忘れたわけではありますまい!」
「助言を授けるくらいお前だけいれば十分だと考えたからだ!その手を離せ!」
クオンは強引にセツナの手を振り解くとバタン!と自室の扉を閉めてしまった。
「………、申し訳ない。しばし姉と話をするゆえ、表に出ていてはくれまいか」
心底申し訳ない顔をしてセツナは、呆然としている兵士達を家の外へと促した。
部屋の扉を閉めたクオンは、自己嫌悪で顔を歪ませたまま寝床である筵の上に突っ伏した。
何もせず、ただじっと突っ伏していた。
隣の部屋から三つの気配が消えていくのがわかる。どうやらセツナが兵士達を外へと出したようだ。
「………聞いているかい、姉さん」
隣の部屋からセツナの声が聞こえてきた。
「僕たちを光龍帝が呼び出したときの事、覚えているよね」
聞かれるまでも無い。神羅連和国が立ち上がってから暫くして、自分とセツナは光龍帝サ
イガ様の前に呼び出された。
「俺達はマステリオンを倒すことは出来た。だが、奴の魂までは滅ぼすことが出来ず、聖
龍石に封印するのが精一杯だった。これだといつの日か、聖龍石を奪ってマステリオンを
復活させようとする連中が出てくるとも限らない。
だから、その日に備えてこれまでの闘いを知る者を残していかなければならないんだ」
サイガ様はご自分の師匠であるライセンとその弟子のシオン。そして自分達兄弟を後世に
残すために選んだと語られた。ライセンの持つ不老長寿の術を施し、永き永き時を歩めと。
「これは非常に残酷なことだ。自分達だけ時の流れから乖離して生き続ける事になる。周
りの人間が老いさらばえても生き続け、孤独な生を歩み続けることになる。
だけれど俺は鬼となってこれを誰かに頼まなければならない。いつかマステリオンが復活
したときにそれに対抗できる人間がいなければならない。俺達が出来なかったマステリオ
ンを滅ぼすことが出来る人間が現れたときに、それを手助けする人間がいなければならない。
クオン、セツナ、俺は君達を信頼しているからこそ選んだんだ。やって、くれるか…」
「それが………、君命とあらば」
忍者に主君の命令は絶対である。鸚鵡返しに応えたクオンに、サイガは苦い顔をした。
「クオン、これは『絶影』へ『光龍帝サイガ』が下す命令じゃない。サイガという個人が
クオンという『個人』に対して『頼みごと』をしているんだ。これを受けたら、君は普通
の人間としての人生を送ることは出来なくなる。それでもいいのか?と聞いているんだ」
じっとクオンを睨み付けてくるサイガに対し、クオンは心の中が燃えあがってくるような感動を覚えた。
(ああ、この人は私を未だに人間として見てくれている。これほど嬉しいことがあろうか)
聖龍族と獣牙族のハーフとして生まれたクオンとセツナの幼少時は、それこそ数え切れな
いほどのいわれ無き差別を受けてきた。獣牙族の仲間からは半端者と蔑まされ、挙句の果
てにはクオンは人買いに拉致され聖龍領域に連れてこられ、脱走したところを朧衆の先代
に保護された経歴を持っている。だが、聖龍地域でもその耳と尻尾から迫害を受け、外に
対して心を閉ざしていたてきたクオンを救ったのは、他でもないサイガだった。
いつものように周りの人間からいじめられていたとき、突然現れていじめっ子を追い払い
笑顔で「大丈夫?」と言われたとき、人の好意をほとんど受けたことの無いクオンはただ
戸惑うしかなかった。
先代からその少年が次期聖龍王と知らされたとき、クオンはその少年こそ自分が一生使え
るべき主と決意し、血の滲むような修行の末『絶影』の名を継承し、朧衆を束ねる存在となった。
ある日、サイガの寝室に忍び込み現聖龍王にすら見せていない素顔と素性を明かしてみせ
た時も、サイガは優しく微笑んで「これは俺たちだけの秘密だ」とこっそりと言った。
私はこの方のために生きている。この方の願いを、何で断れようか。
「サイガ様が私を選んだのは、この私で無ければ勤まらないと考えてのことでありましょう。
ならば、私は喜んでその『願い』を聞き入れます。これは絶影としての義務ではなく、ク
オンとしての意志です」
「クオン………、すまない。いや、ありがとう………」
とても悲しそうな顔をするサイガにクオンは切なさを感じると同時に、今この瞬間だけサ
イガの心の中が自分で満たされているという奇妙な優越感も感じていた。
「あのときの光龍帝の言葉、忘れたわけではないよね」
「………もちろんだ…」
「だったら、今こそ光龍帝の思いに応えるのが僕たちの勤めじゃないのかい?」
「………」
「姉さん、やっぱり、今の皇帝の………」
「すまないセツナ!少し、考える時間をくれ!お前は先に中央宮殿に行くんだ。心が固ま
り次第、私も絶対に行くから、今は………」
最後のほうはもう涙声だった。セツナはまだ何かを言おうと逡巡していたようだが、クオ
ンの決意が固いと見たのか何もいわずに家の玄関を開けて出て行った。暫くしてクオンが
部屋から出てくると、セツナと三人の兵士はこの場を後にしていた。
「すまない………、セツナ………。私は、弱い女だ………」
自己嫌悪に包まれたクオンは、時が経つのも忘れ部屋の中に立ち尽くしていた。
その日の夜、クオンの耳に扉を叩く音が入ってきた。セツナたちが帰ってきたのかとも考
えたが、それならばノックをするのはおかしいと思い、用心のために小柄を持って扉を開
けると、そこには中央宮殿の鎧を身につけた二人の女兵士が立っていた。
「クオン様………、ですね?」
「そうだが…、お前達は何者だ?」
「我々は皇帝陛下の名代として参上いたしました。是非とも、こちらのお話を聞いてくだ
さりますようお願いいたしたいのですが」
『陛下の名代』、クオンの眼が一瞬細まったが、特に何も語らずクオンは立っている二人を家の中へ促した。
椅子に座った蒼い鎧と紅い鎧の二人にそれぞれ目配せすると、クオンは話を切り出した。
「それで?一体どのようなものなのだ?貴公らが持ってきた話は」
「はっ、皇帝陛下におかれましては国家の危急の折、その回避のためにクオン様のご協力
をいただきますようようにとのことで我々を派遣した次第です」
「その件なら既に我が弟を遣わしている。私が出来ることなど、弟に比べたらたかが知れたこと」
「そんなことはないです。クオンさまにはクオン様にしか出来ないことがあるはずです!」
「我々もクオン様なら皇帝陛下のご希望をなすことが出来ると思い、ここまで来たのです」
沈着冷静な蒼い方と元気一杯の紅い方はステレオとなってクオンに言い寄ってくる。
「どうか、是非とも我々とともに、皇帝陛下の御前に参上なされますよう、重ねて、お願い申し上げます!」
机に突っ伏さんばかりの勢いで頭を下げる蒼い方。顔には必死さがありありと浮き出ている。
「なるほど。そこまで思いつめているとは…、世界の情勢も相当混沌としているのだな。
うん、わかった」
「では、来ていただけるのですね!!」
紅い方の顔がパァッと輝く。蒼い方も安堵の息をついているようだ。
「だが、断る」
しかし、クオンの口から出てきたのは明確な否定の言葉だった。
あっけに取られる二人だったが、すぐさま蒼い方が憮然として立ち上がった。
「どういうことですか?!これほど頼んでも、断るというのですか?!」
「ボクたちだってお使いできているんじゃないんだ!イヤならどうしてイヤなのか、説明してください!!」
凄い剣幕で怒鳴る二人に対し、クオンはあくまでも冷静に、しかし冷徹に答えた。
「私だって情のある人間だ。人にあそこまで頭を下げられて、無視するなどという外道な真似はしたくはない
しかしな………」
クオンの眼がギラリと光る。
「私はな、『人間ではないもの』と約束をする気はないのでな」
「え………」
「何を、言っているんですか?!」
何を言っていいのか解らず戸惑う二人にを前に、クオンはふらりと立ち上がった。
「いくら外面を誤魔化そうが、その内面から滲み立てくる邪悪な気配までは隠しようが無い。
ましてや、この『絶影』の前ではまやかしなど無意味なものだと知れ!!」
クオンは神速の速さで、懐に隠し持っていた小柄を二人に投げつけた。小柄は呆然として
いる二人の眉間に正確に吸い込まれる………、よりも速く二人は身を翻し、小柄は家の柱
と壁に深々と突き刺さっていた。
「ふふ………、こうもあっさりと見破られるとは。流石は『絶影』ですわね」
「まあ、こっちとしてもこんな子供だましに引っかかったらそれこそ拍子抜けってもんだけれどね」
それまで被っていた人の仮面をかなぐり捨て、二人はその邪悪な本性を露わにしだしていた。
「なるほど…、こんな辺鄙な世捨て人のところにも出てくるとはな…。正体を見せろ、皇魔族!!」
長年愛用している忍刀を逆手に持ち、クオンは目の前の二人に身構えた。
「ええ、構いませんわ。そろそろこの姿にもうんざりして来たところですしね」
その瞬間、二人の全身から瘴気が溢れ出し、クオンの前に仮初の姿を脱ぎ捨てた皇魔族が現れた。
蒼い鎧の方は猛々しい角を生やし、両掌の長く伸びた蒼い爪をカチカチと鳴らしている。
紅い鎧の方は黒く雄々しい羽を伸ばし、短い髪をザワザワと逆立てている。
「私の名前は蒼龍獣士キキョウ」
「ボクの名前は紅翼獣士カルマイン。白面九尾クオン、あんたを始末しに来たんだよ」
まるで力を誇示するかのように、二人の皇魔族はクオンと対峙していた。
「ところでクオン様………、我々が皇魔族だということ、いつ頃見破っていたのですか?」
「聞くまでも無い………、お前らが家の前に立っていたときからだ」
「気づいていてなお、私達を家の中に招き入れた………。随分と余裕ですこと」
「気に入らないよね………、その態度!!」
不機嫌そうに顔を歪めたカルマインの掌から、クオン目掛けて火炎魔法が放たれた。当然当たるはず
も無くクオンは難なくかわすが、それを皮切りにキキョウとカルマインがクオン目掛けて突進してきた。
キキョウの掌が唸りを上げて空気を薙いだと思えば、カルマインの大きく開いた口から覗
く牙が肉を引き裂かんと振り下ろされる。片方の攻撃をいなしたらもう片方の攻撃が飛んでくる。
息の合った二人の攻撃にクオンは防戦一方だったが、攻撃を受けるということはなかった。
そのような構図が暫く続いた後、突如キキョウとカルマインは後ろに飛んで間合いをあけた。
「さすがに………、しぶといねぇ。でも…」
「一回も反撃をしてこないとは…。いえ、できないのですか。
1000年生きた伝説の存在とはいえ、所詮人間ではこんなものなのですかね」
嘲りを込めた二人の挑発にも、クオンはその表情を変えることは無かった。
「でも、そろそろ遊びにも飽きてきましたわ…」
キキョウの角が蒼い光を帯び始める。
同時にカルマインの羽も紅い光を帯び始めた。魔力を集中しているのが傍目からもわかる。
「アハハッ。こいつで、消し炭も残らないくらい燃やし尽くしてあげるよ。狐の丸焼き、一丁あがりってね…」
その言葉に、それまで無表情だったクオンの眼がスゥッと細められた。
「ぶつぶつ言っていないでとっととぶっ放ったらどうなんだ?大体、魔力を集中する為に自分達に隙が出来す
ぎている。そんなものが実戦で役立つか。素人かお前らは」
あまりにも大層な暴言に、それまで歪んだ笑顔を浮かべていた二人の顔が一瞬きょとんと
し、その直後烈火の如く表情を燃え上がらせた。
「な、な!なんだとーっ!!バカにしやがってぇーっ!!」
「木偶の坊の分際で、随分な口を叩くのですね!!」
一気に沸点に達したのか、キキョウもカルマインも金色の目を怒りで爛々と輝かせ、鬼の
ような形相でクオンを睨み付けた。
「実戦で役立つか否か、御自分の体で体験なさいませ!!『転異悪雷(てんいあくらい)!!』」
「魂まで燃やし尽くしてやるぅぅっ!!『炎招奔暑(えんしょうほんしょ)』ぉぉっ!!」
キキョウの角からは荒れ狂う稲妻、カルマインの羽からは渦巻く火炎が放たれ、クオン目
掛けて襲い掛かった。稲妻と炎はクオンを舐め尽くしただけでは飽きたらず、家の壁、柱
梁を悉く飲み込み、その全てを爆砕していった。
稲妻と炎の奔流が治まったとき、そこには瓦礫となった家だったもののみが残されていた。
「フ、フフフ!アハハハハ!!大きな口叩いてこの様かい。ザマーミローッ!!」
「あまり大言壮語な態度をとるから、このような無様な最後を遂げるのですよ!」
目の前の不快な敵を蹴散らした快感からか、キキョウとカルマインは大声で腹の底から笑
い続けた。あたり構わず、ひたすらに笑い続けた。
「アハハハ………、ああおかしい。この事もちゃんと報告しないといけないね」
「そうね。こんな面白い話、滅多に無いもの………」
「ふ〜〜ん。で、誰に報告するんだ。その話」
ありえないところからありえない声が聞こえてきた。ギョッとなって振り返った二人の視
界に、焦げ傷一つ追っていないクオンの姿が入ってきた。
「バ、バカな!!」
「なんで、生きているのぉっ?!」
狼狽し、慌てふためく二人に対し、クオンは薄笑いさえ浮かべていた。
「だから言っただろう。あんな隙の大きい技は実戦向きではないと。おまけに狙うのが私とわかって
いる以上、放たれたのを見てから避けるなど造作も無いこと。あまり『絶影』をなめないでもらおう…」
「私達の技を………、見てから避けたっていうの?!」
「こいつ………、本当に人間?!」
あまりにも実力に差がありすぎる。一気に形勢が逆転したことを悟り、キキョウとカルマ
インの顔に冷たいものが流れてきた
「さて、家も粉々に吹き飛ばされてしまったし、少しお仕置きをして上げなければいけないな」
二人の目にもはっきりとわかるほど、クオンの体から殺気が溢れ出てきた。ただ、先程ま
で自分らが放っていた燃え上がるような殺気とは違い、秋の風のように涼やかでいて静かな、
氷のように透明な殺気だった。
この場から逃げよう。そう頭の中では考えた。しかし、蛇に睨まれた蛙のように足が竦んで動かない。
いや、一歩でも足を踏み出したら最後、地面に自分の惨殺死体が転がっているであろう様を容易に想像
できてしまう。そのため、二人とも踏み出すどころか瞬きをすることすら出来ずにいた。
クオンが右目の眼帯に手を掛け、紐を解いて右手に掴んだ。眼帯の下から現れた瞳は、左
目の鮮やかな緋色とは対極の、澄んだ青色をしていた。
「これは浄眼といってな、貴様ら魔の者の力を封じ込める力を持っている。もっとも、力
が強すぎるから普段は眼帯で封じているがな。
そして、これは使い方しだいでこういうこともできる…」
眼帯を地面に落とし、左目を閉じたクオンは胸の辺りで両手で印を結び、何事か呟き始めた。
クオンの右目が少しづつ輝きを増しているように見える。いや、それは現実に輝き始めていた。
透き通るような青い光が辺りを照らし始め、後ろで燃えている家の炎すら呑み込むほどだった。
「な、なにこの光…、目を開けていられないよぉ!」
「なんて………、忌々しい光、なの…」
腕で顔を覆い、苦しそうに顔を歪める二人を尻目に、右目の光はますます輝きを増していく。
そして、集まりすぎた青い光が白く輝くまでになった時、印を組んだ手を前方に突き出して叫んだ。
「外道どもよ、輪廻の道へと回帰しろ!『六道輪廻(りくどうりんね)』!!」
クオンの裂帛の気合とともに、集積された光が光弾となってキキョウとカルマインに襲い掛かった。
「ぐはっ!!」「うがぁっ!」
避ける間もなく光弾は二人の腹に突き刺さり、木の葉のように吹き飛ばされた二人はその
まま林の中へと突っ込んで、木に体をしこたま打ち付けていた。
「くそぅ…、体が動かないよぉ…」
「なんという…、強さ…」
全身を襲う激痛に息をすることさえままならない二人に、クオンはゆっくりと近づいてきた。
「今のは少し手加減してやった。今お前らを殺してしまってはお前らの後ろにいる存在を
知ることができないからな。さ、喋ってしまえ。地上にいるお前らを束ねる存在を。
そうすれば…、楽に殺してやる」
「そ、そんな風に言われて喋るわけ………、ガハァッ!!」
肩肘を突きつつ毒づくカルマインの腹に、クオンは容赦なく蹴りを入れた。
「だったら息絶えるまでありとあらゆる責め苦を与え続けてやろう。そう言えばお前、私を
狐の丸焼きにするとか言っていたな…。だったら………」
逆手に構えたクオンの刀がギラリと光った。
「私はお前の四肢と羽をむしりとって、照り焼きでも作ってやろうかな」
その目は、どう見ても本気だった。
「ひ、ひいいいぃっ!!」
恐怖におびえるカルマインの瞳に、切っ先がじわり、じわりと迫ってくる。
「じゃあ、まずは右腕から…」
その右腕に刃がぴたりと触れた時、カルマインは声を限りに泣き叫んだ。
「た、助けてぇっ!!テラス様あああぁぁっ!!」
「テラス………、だと?!」
刀を動かす手がピタリと止まった。この皇魔族は何を言っているんだ?!テラスと言えば
今の地上世界の皇帝の名前。恐怖のあまり気が触れたのか?それとも、同名の他人なのか?
「おい貴様!テラスとはどういうことだ。答えろ!」
あくまでも刀を突きつけたまま、クオンはカルマインに問い掛けた。その時、
「クスクス…、クオン様、あまり私の下僕をいじめるのはよしてくれませんか…」
クオンの背後からどこか人を小馬鹿にしたような声が流れてきた。クオンが振り返ると、
そこには一人の皇魔族の少女が佇んでいた。
黒い角、青い肌、金の瞳、黒い羽、いずれもクオンが過去に対峙してきた皇魔族の特徴と一致する。
しかし、問題はそこではなかった。それらの部位を構成している素体に、クオンは衝撃を受けた。
「皇帝………、陛下?!」
背後に佇む皇魔族…、その姿はどう見ても自分が知る皇帝、テラスだった。
「皇帝陛下…、そのお姿は一体…」
クオンは最初、我が目を疑った。皇魔族が世界中に跋扈している現在、テラスはそれに対
抗するための中心となるべき存在だ。しかしよりにもよって、その当人が皇魔族であるとは!
そのようなこと、あるわけが無い。と思いたかった。
「フフッ、どうかしらクオン様?全てのしがらみを捨て去った私の姿は。まるで生まれ変
わったかのような、清々しい気分なのですよ。あ、本当に生まれ変わっていますけれどね、私。
クオン様、闇って、よろしいものですのよ。全てを包み込み、何もかも等しくしてしまうんです。
なにもかも、みたくも無いものまであるがままを暴き出してしまう光に比べて、ずっと素晴らしいと思いません?」
口に手を当て、クスクスと微笑むテラスの姿は心底嬉しそうだが、そこにクオンは底知れ
ぬ闇を感じていた。まるで心に潜む暗黒面が全てを曝け出し、今のテラスを形作っているように見えた。
「でも、さすがにお強いですわね。あそこに無様に転がっている二人に命を取るよう命じ
たのですが、まるで歯牙にもかけないとは。まあ、そうだろうとは思いましたから、私が
ここまで来たのですけれど。
そうそう、あの二人、元は人間だったんですけれど私の手で皇魔の体と心を与えてあげたのですよ。
どうです?くだらない人間という殻から開放された二人の姿は。美しいと思いませんか…」
「な、に………?」
元、人間?!皇魔の体と心を与えた?!あの二人の皇魔族は、人間だったというのか?!
そのような恐ろしいことをさも自慢げに話すテラス。そこには血の通った人間性は感じられなかった。
「陛下………、魔道に堕ちてしまわれたのか………」
悔しさからなのか、クオンはギリッと唇をかみ締めた。口元から赤い血がツゥっと伝い、赤い筋を形作った。
「嫌ですわクオン様、そんな怖い目で睨まないでくださいよ。まるで仇でも見るような目じゃないですか…
あ、でもクオン様、以前私とあった時もそのような目をしていましたね。なぜなんですかぁ?
私を見ていると、誰かを思い出したりするんですか?」
「ぐっ………」
ほんの何気ない一言。だがその一言がクオンの胸にぐっさりと突き刺さった。
「あの時は本当に怖かったのですよ…。今にも命を取られそうな殺気を感じてしまって、
部屋に戻ってからもブルブルと震えが止まらなかったのですからね…」
手がわなわなと震え、頭に血が上ってくるのが嫌でも感じられる。
確かに、テラスが即位したときにセツナとともに謁見をしてきた時、一目見た瞬間過去に
自分が封じてきた想いが一気に蘇ってしまい、その場で不適当な表情をしてしまった覚えはある。
だがそれは、決してテラスに向けていたものではない。自分の捨てきれない過去に向けて
いたものだった。そう信じていた。はずだった。
「私、1000年前の事を知る部下から聞いていますのよ。クオン様って、私のご先祖様のサイガ様
にだけ、ご自分の素顔を晒していたことを。やっぱり、自分の主人にはありのままの姿を見て欲しか
ったんですか?まさか、顔だけじゃなくって生まれたままの姿をサイガ様の前で晒したんじゃないですか?」
「………お黙りください………」
「でも、クオン様はサイガ様と主君と部下以上の関係は結んでいないんですよね?そうでなかったら
こんな辺鄙な島に弟と二人っきりで住んでいるはず、無いんですもの」
「…………黙………れ…」
「あ、それともセツナ様は弟と表向き言っていますけれど、実はクオン様の息子とか、
なんてことは、ないんですかぁ?で、夜の相手を………」
「黙れ、黙れ!だまれぇ!!」
いわれ無き中傷を並べ立てられ、クオンの怒りが遂に爆発した。腰から伸びる九本の尻尾を
天にも届かんばかりに逆立て、全身から周りの空間が歪むほどの怒気を発散している。
「テラス様、例えあなたが神羅連和国の皇帝であったとしても魔道に堕ちたその身、ここで
見逃すわけにはいきません!後ろにいる二人共々、ここで始末させていただきます!!」
目の前に切っ先を突きつけられたテラスだが、その態度はあくまでも悠然としていた。
「何をかしこまっちゃっているのよ、私に図星を疲れたから単純に怒った。だから私を許さない。
素直にそう言えばいいのに」
「まだ言うかぁーーーっ!!」
雄叫びとともにクオンはテラスに突進し、手に持った刀を一直線にテラスに突き出した。
例え姿は皇魔に変じていてもテラスに自分の動きが見えるはずが無い。テラスが何かしよ
うと考えようが、それを実行に移す前に自分の刀がテラスの首と胴を切り離すことが出来る。
クオンは頭に血が上っていながらもテラスと自分の身体能力を分析し、自分の方が遥に上
と結論付けて攻撃に移っていた。
しかし、瞬時に迫ってくるテラスの顔には、酷薄な笑みが張り付いていた。まるでクオン
のことを見下しているかのように。
「………『癒屍の光(いやしのひかり)』」
その瞬間、テラスの金色の瞳から『黒い光』がクオンの視界一杯に放たれた。
「ぐぅっ!!」
油断していたこともあって、クオンはその黒い光を正面から受けてしまった。黒い眩しさ
に目が眩むというありえない感覚にクオンの本能が警戒感を発し、瞬時に身を翻してテラ
スからの距離をとった。
(しまった………、油断をしていた。まんまと嵌められてしまった………)
恐らくテラスは最初からあれを狙っていたのだ。自分を激高させて真正面から突っ込ませ
るよう誘導させ、労せずして自分に攻撃を浴びせられるように仕組んだのだ。
(とりあえず、目が見えるようになるまで時間を稼がないと………)
と、そこまで考えたときに気が付いた。
先程まで聞こえていた家が燃え盛る音が聞こえない。いや、自分の正面にいるはずのテラ
スの気配も感じることができない。
(これは…、目どころか感覚器官全てをやられたか?!)
だとすると、一ヶ所に留まり続けるのは危険だ。茂みなりなんなり、一時身を隠さないと
命にかかわる。
幸い900年近く住んでいた場所だ。さっきまで立っていた位置と自宅があった方向を考
えれば、どっちに跳ねれば林があるのかはわかる。自身の勘を頼りにクオンは一足飛びに
林のある方向へ飛び込んだ。しかし、脚をついたところには草の感触は感じなかった。
(どういうことだ?!勘まで狂ったというのか?)
幸い少しづつ機能を回復してきた瞳をゆっくりと開いてみる………。すると、そこはあた
り一面『闇』一色の世界だった。黒などという生易しいものではない。ただ自分の存在だ
けが感じ取れ、それ以外は何も存在していない『無』の空間だった。
「なんだと?!これは一体どういうことだ!!」
もしかすると、あの黒い光のせいでまやかしにでも掛けられてしまったのかもしれない。
「くそっ…。返す返すも迂闊だった…」
こうなっては仕方が無い。一刻も早くまやかしを打破しないと反撃すらままならない。ク
オンはふうっっと一息吐くと瞳を閉じ、静かに心を落ち着け始めた。目に入るもの、耳に
聞こえるものが偽りのものである以上、物事の本質を捉える心の目、心の耳を開けなければならない。
見るのをやめ、聞くのをやめ、ただ心に感じるもののみに全神経を集中する。そのような中、
クオンの心にほんの少しだけ違和感を感じるものがあった。何もない『無』の空間の中、
明らかに感じる『他のもの』の存在感を。
「………、そこだ!」
カッと目を見開き、刀を構えて突進するクオン。その先には
「わっ、クオン!!どうしたんだ急に!!」
かつての主君………、サイガがいた。
「な!!」
サイガの存在に気が付き、クオンは慌てて立ち止まった。
それは、どう考えてもありえない邂逅。900年前に死に別れた………、いや、1000年前
マステリオンと死闘を演じていた頃の若々しい少年王のサイガが目の前にいる。自分がた
だ一人、忠誠を誓うべき主君と認めた人物が。
「バカな………、これはまやかしだ。サイガ様が、いるはずが無い………」
普通に考えたら、いま自分がまやかしにかけられているのだから、前にいるサイガはまやかしの存在である。
クオンも頭の中では理解している。だが、唐突に現れたサイガを前にして、その脳内は多少混乱を記していた。
「なにをしているんだ?いきなり襲い掛かってきたりボーっとしたりして。いつものクオンらしくないぞ」
諭すときに腰に手を当てる仕草、自分に対する気遣い。どう見てもかつてのサイガそのものだった。
でも、ここにサイガがいるのは断じてありえない。
「………こんなまやかしを見せるとは………。テラス様、あまりにも人が悪すぎますぞ!!」
どこにもいないテラスに向って、クオンは呪詛の言葉を吐き掛けた。
「おいおいクオン…、テラスって誰だ?何をそんなに怒っているんだ?!」
「黙れニセモノ!!サイガ様の姿をこれ以上騙るならば容赦はしない!」
心の弱い人間が見たら射殺されそうな視線を向け、クオンはサイガに対して刀を構えた。
「ち、ちょっと待ってクオン!何で俺に刀を向けるんだ?!今はマステリオンとの決戦を
前にしているんだ。何があったかは知らないけれど、刀を向ける相手を間違えるな!」
「なんだと………?!マステリオンとの決戦?」
「そうだ!クオンも今は絶影の忍装束を脱いで、クオンとして中央大陸に発とうとしているんじゃないのか?!」
クオンとして………?!
言われてみて気が付いた。クオンは今、それまで着ていた黒い着物ではなく、1000年前
に身に付けていたクオンとしての忍装束に身を包んでいる。腰にはサイガの墓前に捧げたは
ずの狐の面も結び付けてある。
さらに言えば、周りも黒一色の閉ざされた空間ではなく、1000年前の聖龍族宮殿の裏、
聖龍木の袂となっていた。
「バ、バカな!ありえない!!」
ここはテラスによってつくられたまやかしの世界だ。目の前のサイガはまやかしだ。今の
自分の格好もまやかしだ。まやかしの………、はずだ。
「クオン、熱でもあるのかい?何か混乱しているんじゃないのか?」
サイガが手を伸ばし、突然クオンの額にかざした。心底心配そうにしている顔が目の前に迫ってくる。
「サ、サイガ様?!」
「ん〜〜〜………」
頭の中ではまやかしと決め付けていても、クオンはその顔を見た途端、何も手を出せなかった。
ひやりとした感触が額から全身に広がっていき、それに反比例してクオンの顔は真っ赤に染まっていった。
「あ、あのあの、サ、サイガ様………?」
しどろもどろになるクオンを前にしてサイガはじっと動かない。額にあたっている手がクオン
の熱をほんのりと孕んできたころ、サイガはゆっくりと額から手を離した。
「……………、熱は無いみたいだね」
「あ………、は、はい………」
毒を抜かれたように放心した表情で答えるクオンを見て、サイガはにっこりと微笑んだ。
「ようやっと落ち着いてくれたね。クオンはそうでなくっちゃ」
サイガが自分だけに向けてくれた笑顔。もう遠い記憶の片隅にしまいこんできたものが、
今ひとたび、自分の目の前に存在している。それを意識しただけで、鼓動が早鐘の如く胸を叩き始めていた。
(お、落ち着け…、これは幻だ。まやかしだ。偽者なのだ…。でも、でも…)
例え幻だとしても、再びサイガとこうして再び面を交えられる幸福を、クオンは心の片隅で享受し始めていた。
いや、もう目の前のサイガが幻かなどというのはどうでもよくなっていた。
強い意志を秘めた瞳、凛々しい顔立ち、少年としての雰囲気を多分に残し、背は自分より小さいのに頼りがいのある
存在感、そのどれもが、かつて自分が主君と認めた人物そのものであり、かけがえの無い存在であり、愛おしい存在だった。
「ああ………」
顔が上気していくのが嫌でもわかる。かつてサイガとは主従の存在であったが、その存在に拘泥するあまり
サイガとは『聖龍王』と『絶影』の関係でいることが通常で、『サイガ』と『クオン』として一緒にいたこ
とは殆どない。ましてや、こうして至近で触れ合うなどありえないことであった。
かつてクオンは、主君であるサイガの命令を叶える事、願いを聞き届けることを目的とし、
それらを遂行することが己の本分と思っていた。サイガの手となり足となるとこでサイガへ
の負担を軽くする道具と自分を割り切っていた。
それ故に、サイガとの関係はサイガが天寿を全うしたときまで主従以上のものとはならなかった。
それが当然であり、当たり前のものだとクオンは考えてきた。今まで。
だが、こうして1000年前の刻に戻り、サイガを目の前にするとそれがいかに虚しいものだった
かと痛感する。自分の心の中で、サイガへの想いがどれほど多くを占めていたかを再認識させられる。
ただ目的を果たすためだけに無味乾燥な生を送り続けていた900年間、何度自らの手で人
生の幕引きを下ろそうと考えたか。サイガが存在しない世界が、自分にとって何の意味も色
も持たない空間だと、どれほど痛感していたか。
だが、この命を散らすわけにはいかなかった。それは、生き続ける事こそ他ならぬサイガの願いだったから。
自分が主君と定め、主君が自分に頭を下げてまで頼み込んだものだったから。
でも、やはり自分はサイガとともに生きたかった。ともに語らい、笑い、死にたかった。
朧衆の頭領としてではなく、一人の女性として傍についていたかった。
しかし、それを口に出して言うことはなかった。自分の立場?それもあろう。
だが、それ以上に自分の容姿に対するコンプレックスが、想いを口にするのを憚ってきた。
獣牙族の混血である自分は、聖龍族らしからぬ耳と尻尾を体に纏っている。そのため、数々
の差別も受けてきた。こんな汚れた体である自分を、はたしてサイガが快く思ってくれるのだろうか?と。
いやサイガの心なら、そんなことは笑って済ましてくれると確信はしている。だが、もし自
分の機体を裏切るような返答が返ってきたら…
そうなることが恐ろしくて、結局言い出すことは出来なかった。そして、サイガが自分の前
から永遠に去っていったとき、それは永遠の後悔としてクオンの心の中に残った。
なぜ自分は言い出せなかったのか。わずかばかりの勇気を奮うことも出来なかったのか…
だが今、目の前にサイガがいる。果たせなかった想いを取り返す機会を、自分は与えられている。
ならば、結果はどうあれ前に進んでみよう。1000年前に果たせなかった想いを、今こそ告げてみよう。
「サ、サイガ様ああぁっ!!」
「わあっ!!ク、クオン?!」
感極まった表情で、クオンはサイガに飛びつき両手でしっかりと抱きしめ抱えた。その衝撃
でサイガは体を崩し、クオンとともに草むらに後頭部から倒れこんでしまった。目の前を、
目を白黒させている主君、いや想い人の顔が占めている。
「い、いきなり急にどうしたんだ?!まさか、近くに敵ンンッ?!!」
サイガの言葉は最後まで紡がれる事はなかった。喋ろうとした口を、クオンの唇が上から塞いでしまったからだ。
「ん〜〜〜〜〜っ、んん〜〜〜〜〜っ!!」
クオンはさながらサイガの全てを感じ取ろうと、口ばかりでなく体全体を密着させ押し続けている。
心の中心にぽっかりとあいた1000年間の空白を埋めようかの勢いで、サイガを貪欲に求め続けた。
「…………はあぁっ…、ど、どうしたんだクオン。急にこんなことをして………」
「サ、サイガ様………、クオンは、サイガ様と初めて顔をあわせた時、その時より、想いを募らせて参りました…」
「クオン………、何を、言って………」
「サイガ様に想い人がいるのは承知いたしております。私も、その方からサイガ様を奪う気は毛頭ございません。
できるならこれから語ることはクオンの一時の気の迷いとして聞き流して頂きたく思います。
獣牙族との混血である私を、サイガ様は奇異の目で見ることも軽蔑の面差しで見る事もなく、
ただ一人の人間として扱ってくださいました。道端の石ころ以下の扱いを周りから受けてきた
私にとって、このことはとても嬉しいことでございました。このような汚れた身である私を避
けることなく傍においてくださったのは、望外の幸福でございました。
サイガ様…、私は、あなたを、お慕い申しておりました…」
ああ、言ってしまった。今までの胸のつかえが雲散霧消していくなか、言うべきではなかっ
たのではないかとの思いもふつふつと湧きあがってくる。
自分の下にあるサイガの顔が何を言ってよいのか解らないといった表情をかたづくっている。
その表情を見ていると心の中の不安がどんどん膨らんでいっているのがわかる。
やっぱり、心の中に秘めていた方が良かったのではないか?ここで自分の事を否定されたら、
一体どういった表情を作ればいいのだろうか?
刹那、サイガは柔和に微笑むと、両手をクオンの頬に当ててきた。
「バカだな、クオンは」
バカ?!そ、それって………
「汚れただの、石ころだの、自分のことをそんなに悪く例える事なんてないだろ。クオンは
クオンなんだ。それ以上でも以下でもない。その大きい耳もふわふわの尻尾も、全部含めてクオンなんだ。
人として大事なのは角がどうとか尻尾がどうとかじゃない。その人の心の中がどうなのかと
いうほうがよっぽど大事なんじゃないかな。
クオンはオレにとって大事な仲間だし…、家族だよ」
クオンの頬を熱いものが流れ落ちていく。もうすでに涸れはて切ったかと思っていた涙が両目から伝ってきている。
『家族』と言う言葉。これはクオンがサイガの心を満たす存在ではないことを暗喩していた。
しかし、自分がサイガにとって全く不要な存在ではないということも意味していた。
それで充分だった。自分がサイガに『道具』として見られていないことを確認できただけでもよかった。
「あ、ありがとうございます。サイガ様あぁっ!!」
心一杯に満たされた嬉しさとほんの少しの切なさにより、泣いているのか笑っているのか判別しがたい表情のまま、
クオンはその顔をサイガの胸板に埋めた。時折嗚咽が漏れ、細かく震える後頭部をサイガは優しくなで上げていた。
聖龍木の枝の間から漏れる木漏れ日が二人を照らす中、永遠に続くと思われる二人だけの静寂の空間。
だがそれは、唐突に破られることとなった。
「ちょっとサイガ!!あなたこんなところで何しているのよ!!」
静寂を切り裂く雷鳴のような怒鳴り声が聖龍木の周りに轟く。ギョッとしたサイガとクオンが向いた先には…
怒りで全身をわなわなと震わせた…、サイガの幼馴染の桃華仙ミヤビが仁王の如く突っ立っていた。
「ミヤビ?!なんでここに!」
「神殿の中にいないから、どこにいるのかと探してみたら、聖龍木の下で、下なんかで………
サイガのエッチ!変態!!不潔!!!」
降って涌いた闖入者は大声で喚き散らしながらサイガとクオンに近づいてきた。せっかくの
二人だけの世界が作られた空間。それを簡単に、完全に壊されたことへの腹立たしさ、苛立
たしさがクオンの心の中に生まれた。
「待ってくださいミヤビ殿、私とサイガ様はそのようなことは全く…」
「あんたなんかにミヤビ殿って言われる覚えなんてないわよ!そもそもあんた、その耳と尻尾
はなんなの?!まるで獣牙族じゃない!獣臭いケダモノがなんでこんな所で、私のサイガに手を出しているの?!」
クオンはその正体をサイガにしか明かしていない。聖龍族地域での彼女は、あくまでも『四代目
朧族頭領、忍者マスター絶影』であり、その素顔を狐の面で隠している。クオンはミヤビを
知ってはいるが、ミヤビは『絶影』は知っていても『クオン』を知る道理はない。
「待ってくれミヤビ!ここにいるのは…」
「サイガは黙ってて!!私はこの泥棒女に聞いているのよ!もう一回言うわよ。あなた、な
んで『私のサイガ』に手を出しているのよ!!」
私のサイガ。私のサイガ。
ミヤビが放つこの一言がいちいちクオンの心に触る。確かにミヤビはサイガの幼馴染であり
自分がサイガと出会う前から知り合っている仲である。ミヤビがサイガを好いているのは普
段の立ち振る舞いから明らかであり、サイガのほうもミヤビのことを大切にしているのはわかっている。
だからクオンは、サイガのことを想ってはいても、サイガの心を自分が満たすことは出来な
いと理解しているから、先程の行動に出ていたのである。
(でも、だからと言って、サイガ様はミヤビ殿の所有物ではない。近づくのがダメなどと、その
ような道理が通るはずはない!)
「私は、サイガ様に手を出してなどおりませぬ。私はサイガ様の所有物。サイガ様の手足。
物が所有者に手を出すことなど、ありえませぬ。
ですがミヤビ殿、サイガ様はあなたの所有物でもありませぬ。先程の発言…」
「サ、サイガの物?!サイガの手足ですってぇ?!あ、あなた………、私を差し置いてサイ
ガに手を出したのね…。しかも、私のものじゃなくってあんたのものですって!!言ってくれるじゃないの!」
確かにクオンの発言を聞き流してみるとそういう風に聞こえなくもない。でもそれ以上に嫉
妬の色ガラスをはめられたミヤビの心は、クオンの発言を自分の都合の悪い方、悪い方に解釈していった。
「もう許さない!マステリオンをやっつける前にあんたを始末してあげるわ!」
怒り狂ったミヤビの懐から、おびただしい数の符が握りだされる。ミヤビは聖龍族の中でも
突出した才能を持つ優秀な召還術士であり、専用の符を使うことで色々なモンスターや精霊
を手駒として扱うことが出来るのだ。
「行きなさい!式!!」
クオンに向かって投げた符が空中で形を換え、漆黒の鳥となってクオンに襲い掛かる。もち
ろん余裕を持って避けられたが、避ける先から新たな式が襲い掛かって来るので息つく暇もない。
「やめるんだミヤビ!」
「ミヤビ殿!少し頭を冷やしなさい!!」
「うるさいうるさい!私のサイガに手を出す奴は絶対に許さない!許さないんだからぁ!!」
サイガの懇願もクオンの忠告も耳に入らず、般若と化したミヤビは風の精が周辺の樹木を切
り裂き、火の精が聖龍木の幹を焦がすのもお構いなくただ闇雲に式を乱発していた。
「もうやめろミヤビ!聖龍木一帯をめちゃめちゃにする気なのか?!」
「なんで、なんでそいつを庇うのよ!!サイガには私がいるのに、なんでよ!!」
「彼女は忍者マスター絶影だ!お前が考えているような女じゃない!!」
忍者マスター絶影。この言葉を聞いてミヤビはぴたりと攻撃を止めた。
「なん、ですって…。あいつが、絶影、さん…」
そう言われてみれば、腰にいつも絶影が身につけている狐の仮面が見える。
「そうだ!訳あって素顔は隠していたが彼女が絶影の正体だ!だからもうやめろ!」
「なんで…、聖龍族の隠密部隊の朧衆に、獣牙族がいるのよ…」
「彼女は聖龍族と獣牙族のハーフなんだ。だからほら、ちゃんと角もあるだろ?」
確かによく見ると、大きな耳の前に一対の立派な角が生えている。
「そう、なの…、あんたが、絶影だったの………。しかも、ハーフ、ですって……」
ミヤビが符を持っている手を下におろすのを見て、サイガとクオンは安堵のため息をついた。
「ミヤビ…」
「ミヤビ殿…、わかってくれたか…」
だが、それは大きな過ちだった。
今までの憎しみに凝り固まった表情に嘲りの化粧を添え、ミヤビはクオンを睨み付けてきた。
「どうやって…、どうやって絶影の地位を手に入れたのよ、雑種!!」
雑種
その言葉を聞いて、クオンの眉がピクッと釣り上がった。
「あんたみたいな雑種が普通に聖龍族の重要な地位につけるわけないじゃない!どうせ、
そのいやらしそうな体使って男たらしこんだんでしょ!」
「なん………、ですって………」
雑種。
それは昔、数え切れないほど自分の身に叩き込まれた蔑称。獣牙族の地ではトカゲとの雑種
と言われ続け、聖龍族の地ではケダモノとの雑種と言われ続けた。人格も何も全て否定され
『雑種』『薄汚い』『穢れている』と、ただただ道行く人から言われ続ける毎日。
あのときの惨めな記憶が次々と蘇ってくる。誰も人を信じられなくなっていた、あの時の私が。
「で、今度はサイガを誑かそうってわけ?!冗談じゃないわよ!あんたみたいな雑種がサイ
ガに近づいて、サイガが穢れたらどうするのよ!!どうしてもサイガの近くにいたいってんなら、
その耳と尻尾をちょん切ってからにしなさいよ!それが嫌なら、角を切り落として獣牙の里に戻ることね!」
先程クオンがサイガに言われたこと、そのことを知る由もないミヤビはその全てを否定する言葉を吐き掛けた。
(私だって…私だって好きで耳と尻尾と角を持って生まれたわけじゃない!そのことで、過去
散々な罵倒も受け、自分でも何度切り落としたいと思ったことか…
でも、でもお前にそんなことを言われる筋合いはない!)
目の前にいるサイガの幼馴染であり想い人である人物。それがある故にクオンはサイガから身を引いた。
だが、今目の前にいる人間が、次第に自分が憎悪する人間の黒い部分そのものに見えてきた。
「いいかげんにしろミヤビ!言いすぎだぞ!!」
「サイガ!あんたもこんな女にあっさりと騙されちゃうなんて!!こいつをめちゃめちゃに
した後たっぷりとお仕置きしてあげるから!!」
(私がいつサイガ様を騙した!いいかげん妄想に満ちた物言いを止めろ!)
右手に持った忍刀がブルブルと震えている。いや、クオンの体そのものが震えていた。
「どうしたの?!切るの?!切らないの?!耳と尻尾!!」
人間とは、弱みを握ればこうも残酷になれるものなのだろうか。右手の人差指と中指を鋏に
見立てて、ミヤビはニヤニヤとクオンに言い寄る。
その仕草を目の当たりにし、クオンの目に今までにない光が宿った。
「何?決められないの?!だったら私が切
その次の言葉は続かなかった。声を紡ごうとしても言葉が出てこない。不審に想ったミヤビが
視線を下に向けると…、その喉に、刀が突き刺さっていた。
「あ………、ぇ………」
刀を握り締める手の先に、クオンの顔が見える。その顔には表情はなく、瞳は氷のように冷え切っていた。
「どうした。私が………、その先はなんだ?」
言葉の抑揚無くクオンはミヤビに尋ねかけたが、声帯を刺し貫かれているミヤビは当然答え
ることが出来ない。何かを言いたそうに口を動かすが、陸に釣り上げられた魚のようにただ
口をパクパクさせ、ひゅうひゅうという呼吸音だけがあたりに響いている。
「ああそうか。こんなものが刺さっていたら物言うことも出来ないな。すまなかった」
口に冷笑を浮かべてクオンがぬぷりと刀を引き抜くと、抜いたところから血が噴水のように
轟々と噴き出してきた。手で傷口をふさいでも、指の間から容赦なく血が湧き出てくる。
目に涙を浮かべたミヤビはサイガのほうを向き何事か言いたげに口を動かしたが、言葉が出
ることもなく地面に倒れ伏し、地面を自らの血で朱に染めた後…、その動きを止めた。
「ふ、ふふふ…。どうした、何も言わないのか?私をどうしたいのか、言わないのか…?」
最早何も言わなくなったミヤビを、ミヤビの血に塗れたクオンは狂気を孕んだ笑みを浮かべて眺め続けていた。
「ク、クオン!なんてことをするんだ!!」
後ろからサイガの声が聞こえてくる。ゆらりと振り向いたクオンの表情は虚ろに呆けており、
手には刀がしっかりと握り締められている。
「確かにミヤビはひどいことを言ったけれど、殺すなんてあ
サイガの言葉は最後まで紡がれる事はなかった。それ以上言う前にクオンの刀がサイガの首
と胴を切り離してしまったからだ。
顔に驚きの表情を浮かべたまま、サイガの首が地面に落ち、残された胴は先ほどのミヤビと
同じく血飛沫を吹き上げ、地面に崩れ落ちた。
「サイガ様………、ふふふ、サイガ様ぁ………」
クオンは思った。ミヤビを刺し殺したクオンを、サイガは絶対に許しはすまい。それは自分
の手から、サイガが離れていってしまうことである。
他人に否定され続け、唯一心の拠り所となったのがサイガの存在。自分を唯一認めてくれた
のがサイガ。自分が唯一心を許した存在がサイガ。
そのサイガが自分から離れていってしまったら、自分は一体何を心の拠り所にすればいいのか。
絶対に手放したくは無い。サイガは自分の全てであり、唯一無二のものなのだから。
だが、このままではサイガは自分の手から出て行ってしまう。サイガが自分のものではなくなってしまう。
ならば、どうすればいい?
簡単だ。サイガが絶対に自分の元から離れなくなるようにすればいい。自分の下にずっと置
いておけば絶対に奪われない。
『サイガ様を殺してしまえば、私からサイガ様を奪うことは誰にも絶対に出来ない』
クオンは、地面に転がっているサイガの首を手に取り、両手で優しく掴み上げて、口元から
流れ落ちている血を綺麗に舐め上げ、唇を重ね合わせた後、両胸の間に包み込んだ。
「これで………、サイガ様は私のもの………。永遠に、私のもの………。ふふ、ふふふふ………」
血の海の中、クオンは満足げな笑みを浮かべ、いつまでも乾いた笑いを口から漏らしていた…
テラスの目の前にクオンが突っ伏している。テラスから発せられた黒い光を浴びた後、糸が
切れるかのように崩れ落ち、そのままピクリとも動かない。
ようやっと体の自由が利くようになったキキョウとカルマインが、足を引きずりながらもテ
ラスの元に近づいてきた。
「テラス様、なにをしたのです?」
「こいつ殺したんですか?さっきから全然動かないんですけれど」
「まあ見ていなさい。そのうち………、フフフ…」
テラスは薄笑いを浮かべてクオンを睥睨している。すると、やがてクオンの体に変化が起き始めた。
体からゆらりと黒い気が立ち上り始める。それは次第に濃さを増しクオンの体を包み始め、
クオンの体を隠してゆき、やがて漆黒の光沢を放つ球状の黒に形作られた。
それはかつてテラスがその姿を変じた時に作られた、人を皇魔へと転生させる『黒い卵』そのものだった。
三人が見つめ続ける中、やがて卵に細かい亀裂が入り、数瞬の間もなく粉々に崩れ落ちる。
その中から出てきたクオンは、既に先程のクオンではなかった。
その肌は青く染まり、純白だった大きな両耳は色を黒く変じ、その大きさをさらに増して蝙蝠の耳のような
印象を与えており、九本のふさふさの尻尾は一本一本がまるで蜥蜴のような光沢のある鱗に被われた形に変化していた。
そしてうっすらと開いた瞳、その色は言うまでも無く金色に染まっていた。
その金色の瞳で自分の姿を見たクオンは、諦観したような笑みを浮かべた。
「そうか……、私も堕ちたのか……。まあ、当然かな……」
その場から起き上がったクオンはテラスの姿を見つけるとゆっくりと歩み寄り、片膝をつい
てひざまづいた後、手に持った刀を前に差し出した。
「テラス様、我が事を成すまでこのクオン、あなたに対し忠節を尽くすことを誓いましょう…」
目の前にひざまづくクオンを前に、テラスはもちろんキキョウとカルマインも満足そうな笑みを浮かべた。
「ふふふ、どう?クオン様、人をやめた気持ちは…」
クオンは一言も発せず、表情も変えない。
「さっきさぁ、ボクと〜〜〜っても痛かったんだよぉ。痛くて痛くてクオン様を絶対に殺し
てやるって考え続けてさぁ………。でも、こうしてクオン様も仲間になったんだから、許してあげる………」
カルマインがクオンににじり寄ってその体を抱きしめようとしたとき、カルマインの目の前
にクオンの刀が突き出された。刀の先に映るクオンの瞳は、先程まで向けられていたときと同じく、冷たく暗い。
「ヒッ、ク、クオン様ぁ?!」
「戯言を言うな…。私はお前達の仲間になった覚えはない…」
「ど、どういうことですの………」
「この身を皇魔に堕したとはいえ、私が崇めるべき主君はサイガ様ただお一人。サイガ様以
外に仕えるべき方はいない…」
「ふぅん………。じゃあなんで、私に忠節を尽くすって言ったの?」
答えがわかっているかのように、テラスはクオンに向って問い掛けた。
「利害の一致だ。テラス様、あなたはこの世界の秩序を壊し、人間を誅殺し、新しい世界を
作る。それが私の目的と一致するだけのこと」
「どういうことなの?」
「私が仕える方はサイガ様ただお一人。私にとってサイガ様は全て。そして、サイガ様の全ては私のもの。
サイガ様の寵愛を受けるものは私だけ。私以外の誰にもサイガ様を渡しはしない。
私以外にサイガ様が愛したものなど存在させない。サイガ様が占めるものは、私一人でなくてはならない」
それまで表情が存在していなかったクオンの顔に、次第に狂気が浮かんでくる。
「サイガ様が愛した大地、自然、人間、そんなものなど必要ない!私にはサイガ様がいれば
いいし、サイガ様も私だけがいればいい!!
だから私は、サイガ様が愛した全てのものを滅ぼす!!この地上に存在するあらゆるものを!
そうすれば、サイガ様は永遠に私一人のものとなる!!
大地を破壊尽くし、自然を燃やし尽くし、人間を殺戮し尽くす!そして………」
クオンは持っていた刀を、テラスにピタリと向けた。
「サイガ様とあの女から続く子孫であるテラス様、あなたを涅槃へ送り届ければ我が事は為す」
ゆっくりと近寄った切っ先がテラスの喉下にちくんと触れる。僅かばかりか皮膚を突き刺し
じわりと青い血が滲み出てくるが、テラスは取り乱すことなくクオンを見つめ続けていた。
「でも、今はまだあなたを殺しはしない。私一人の力ではこの世界を破壊し尽くすことは出来ない。
それまではあなたの力、利用させて貰う」
「なるほど…、全てを自分ひとりのものにしなければ気がすまない…。そのためにはどんな
手段も厭わない…。クオン、あなたはとっても欲張りさんなのね。
でも、いいでしょう?自己の欲望に忠実になった気分は。私が作りたい世界はまさにそれ。
誰もが自分の心の赴くままに、自由に生きる世界。素晴らしいことじゃない」
「確かに…、そうかもしれない。奇妙な充足感を今は得ている。これまでの1000年の無
為な生を重ねてきたことが馬鹿らしくなるくらいに…。もっとも、そう感じるからこそ私も
こうして、皇魔に堕したのだろうよ…」
切なく笑ったクオンは、突きつけていた刀をすっと引き、腰の鞘に戻した。
「さあテラス様、何なりとご命令を…。この地上を闇に落とすまで、あなた様の命令に従いましょう…」
「そう?じゃあ早速あなたに使命を与えるわ。
ここから中央都市宮殿に向っている白面のセツナと兵士達を始末してきなさい。今のあなた
なら容易いことでしょう?」
邪悪な笑顔を浮かべてテラスは、よりにもよってクオンに実の弟を手にかけるように命令を下した。
しかし、それに答えるクオンも口元に冷たい笑みを浮かべて
「仰せのままに」
との一言を残し、その次の瞬間風のように消え去った。
後には月夜の静寂のみが残っていた。
「テ、テラス様…、あいつ、物凄くヤバイですよぉ…」
「始末しようにも、もうとても我々の手には負えません…」
不安のあまりオドオドしている二人の下僕を尻目に、テラスはあくまでも余裕の表情を崩してはいなかった。
「まあ、流石に1000年もの間生きているだけあってたいした精神力だわ。心が完全に堕ちず
未だに昔の主人への忠誠心を失わないなんてね。
でも、それも永くは持たない。一度闇に堕ちた以上、その心まで闇に染め上がるのは時間の問題。
それほど刻を経たずに、陛下の忠実な下僕として生まれ変わることになるわ。その時が、とっても楽しみ…」
それがいつになるのか、少なくともこの世界を自分の思うままの世界に変えた時まで持つことは無いだろう。
自分に向けられる冷たい瞳…、あれが欲望に蕩ける様がいつになるのか、テラスは楽しみで仕方が無かった。
中央都市宮殿にセツナが登城することはついになかった。使いの兵士が途中で事故に巻き込
まれたことを懸念した高官が再び兵士をセツナとクオンのいる島に派遣したとき、そこには
崩れ、焼け落ちた館の跡があるのみだった。
終
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