インストール

 窓一つない、冷たいコンクリートの壁に囲まれた部屋。
 その部屋の中央に、一脚のベッドが設置されていた。牢獄に近い空間の中に、肌触りのいいシーツ、キングサイズの豪華なベッドは、あまりに不釣り合いだ。
異彩を放っている、と言ってもよい。
 だが、この場で真に異彩を放つものがある。
 それはきらびやかなベッドの上にあった。
「あ……あああ……」
 シーツの上で仰向けになり、声にならないうめき声を上げる女性。
 両手足は、鋼鉄の枷でベッドにつながれており、一足たりともベッドから離れることができない状態。
 衣服は何も身に着けていない。全裸だった。
形のいい、釣鐘型の胸は、激しく上下運動を繰り返し、槍のように鋭くとがった桃色の乳首は、冷たい空気に反応してか、かすかな震えを見せていた。
 膝を天に突き出し、股でMの字を形作るその格好で、下腹部の黒々とした茂み、またその奥にある女の秘境を、一切隠すことなく外部に開放していた。
 彼女は、すっぽりと頭部を覆う、暗い紫色をしたヘルメットをかぶせられていた。
 頭頂部に備えられた赤いランプがまがまがしい。
「あ、あ、あ……」
 頭部のヘルメットが隠すせいで、呻きを上げ続ける彼女の表情を窺い知ることは出来ない。
 身ををよじり、膝をもじつかせ、ベッドシーツを強く握りしめる手から、彼女の表情を推測せねばなるまい。
 ぽた、ぽた。
 静かに、一定のリズムで刻む音がある。
 彼女のすぐそばの、機械制御式の点滴台から滴る薬物の音。そこから彼女の首筋にかけて、極細ながらも上部なチューブがつながっていた。
 鎖よりも弱い素材ではあれど、このチューブも彼女にとっては、自らを拘束し続ける枷の一つに数えられるものであった。
緩やかだった彼女の動作が、だんだんと激しいものに変化していく。腰が持ちあがり、上下に激しく振られる。
 そのたびに鎖の擦れ合う、じゃらじゃらとやかましい音が部屋中に響く。漏れる声も、だんだんと大きく、高く、淫らに変化していく。
「あああああっ!!ひっ!!いいいい!!!」
 呻きはいつしか悲鳴となった。左右に激しく振り乱す頭。限界まで開かれた口。何かから逃げようとでもするかのような、身のよじり。
 乳房は左右上下、思い思いの方向へ動きまわる。
 あらわな股間の口から、とろとろと流れる温かい液体。止まらないヴァギナの痙攣を、外からでも見てとることができた。
 さらに声は高く、高く上りつめる。動作もますます激しさを増した。頑丈な枷が頼りなく見えるぐらい、彼女の乱れようは半端なきものだ。
 ベッドにいるのは人ではなく、盛りの吠え声を上げ続ける獰猛な獣ではないかと思わせるほどに。
 身体が震える。震えは激しく、ケイレンと呼ぶに値する反応へと姿を変えた。
「いやああああああ!!」
 コンクリートに反響する、絶叫。性感が限界を越え、荒々しいオーガズムを呼び起こす。 
 10数回目に及ぶ、「女の悦び」は、先ほどまでと同じように、性感体への接触を通じることなく、全てがヘルメットから与えられる暗示の力によって呼び起こされたものだ。
 肉体に触れずにオーガズムを引き出す、俗に「エナジー・オーガズム」と呼ばれる悦楽の最境地は、彼女を一匹のメスへと変えるのに、十分すぎるものだった。
 1分を越える、狂悦の絶頂の叫びの後、突然、糸が切れでもしたかのように、女は声を止め、身体を弛緩させた。半開きにした唇の端からは、口内にたまった唾液があふれ出し、
 下の陰唇からも、熱い液体がとめどめもなく流れ落ちる。彼女の心身の虚脱とともに、ヘルメットの赤いランプは、しばらくの点滅の後、静かに消えた。女陰が、ヒクリ、と動き、液体を垂れ流す。シーツのやらしい染みがさらに拡げられた。
 この部屋にはもう一人、ベッドで狂う女を見つめる人物がいた。
 ベッドの脇の椅子に座り、テーブル上に広げたノートパソコンを見つめる、白衣の研究者然とした女。可愛く束ねたポニーテール、冷たく光る銀色の眼鏡。
 彼女が向かっているノートパソコンは、端子を通じて、ベッドの上で拘束されている女のヘルメット、そして投与を繰り返す点滴台につなげられていた。
 彼女は冷静な声で言う。
「大分、抵抗も弱くなったわね。いい調子よ」

画面上に映るのは、女性のかぶったヘルメットから送信される、脳波のデータ。
 一定の感覚で波打つ緑色の線が、彼女の精神の揺らぎを指し示している。
 白衣の女性が、マウスをクリックすると、現在の作業の進捗状況を現す数値が現れた。「23%」
 思ったよりも早い。白衣の女性は静かにほくそ笑んだ。ベッドでよがり狂いながら、
 シーツを必死につかみ、はしたなく声を上げる、美しき「お嬢様」は、中々教育熱心のようだ。
 データを見ながら、白衣の女性は、パソコンに多色に光るCDを挿入した。そして、パソコン横に置かれたマイクに向かって報告する。
「プログラム番号・3番に移行します」
 ゆっくりとパソコンに飲み込まれていく、3枚目のCD。パソコンはすぐにデータを認識し始めた。
 女が操作していくと、すぐにパソコンは「洗脳プログラム」を起動させ始めた。
 プログラムは、端子を通じて黒紫のヘルメットへと流れ込む。それを受けてヘルメット頭頂部のランプは、再び凶悪な赤色に灯り始めた。
 脳に直接流れ込むプログラムは、彼女の深い眠りを無理やり覚醒に導き始める。
「い……や……」
 虚脱状態だった女性の口から、僅かな抵抗の言葉が漏れる。だが、既に長時間プログラムの沼の中で「調教」を受けてきた彼女は、耳に注ぎこまれる、一定の周波数の音を感じ取るとすぐに、抵抗をやめて、意識を研ぎ澄ませ始めた。
 点滴台から再び、人間の理性を麻痺させ、自我を浸食する催眠薬、通称「ピュアハート」が滴っては、彼女の体内に染み込んでいく。
 しばらくして、ヘルメットから流れる音のトーンが変化した。音は、耳から脳へ、そして体全体へ巡り、彼女の快楽中枢を煽ってゆく。
 
「はあ……」
 溶けるように、熱く、淫らな響き。それが、彼女が洗脳プログラムに身を委ねた合図だった。
 ゆっくり、ゆっくりと、身体を駆け巡る性感。ちりちりと身を焼く興奮。
 彼女は再び、暗示を心に刻み込み始めた。当人には意識は無い。
 だが、快感に身をくすぶらせながらも、徐々に、今まで築き上げてきた人格が壊され、別の誰かとしてプログラムされていく自身を、心の奥底で感じずはいられなかった。


「どうですか、先生。いい感じに仕上がってきていますよ。あなたのお嬢様は」
 製薬メーカー、「ヤマイメディカル」の社長室。社長の山居は、手をぶるぶるとふるわせ、苦渋を舐めるような表情を眼前の男に向けていた。
「どうしたのですか。折角、御社が開発なさった麻薬を使って、麗子嬢を喜ばせて差し上げているのに」
「麻薬ではない!!」
 怒りをぶつける山居の声に、男は大げさに、驚いて見せた。 
「これは、これは……ははっ。先生らしくもない」
「『クリア・ハート』は催眠導入剤だ。このような、恐ろしいことに利用するものでは……」
「言い方が悪かったですか。ではこう言いましょう。――ドラッグ、ヤク、『ピュアハート』。はははっ。
 御社の技術力は大したものですな、先生。私の発明した洗脳教育プログラムは、ピュアハートなくしては完成しないのですからね」
 愉快そうに笑いながら、男の目は、テレビ画面に注がれていた。映るのは、ベッドで裸体をさらす山居社長の令嬢、麗子。
 そして、プログラムを遂行する――。
「アンリ、先生はもっと自社の薬の力を見たいそうだ。もう少し投与してやれ」
 手元のレシーバーを口元に寄せて、男は言った。邪悪な意思に染まる瞳を「先生」に向けて。
「やめろ!」
 狼狽し、突進してきた山居を軽くいなして、男は言った。
「これは先生らしくない。私を今どうこうしても、麗子嬢は戻ってくるどころか、その無骨な手をかすめて行ってしまうだけですよ。
 たとえ、私を拷問したとしても、お嬢様の居場所を知ることは不可能であることは先に言ったでしょう」
 画面内では、マイクに向かって語りかける白衣の女、アンリが一言、〈0.2グラム投与〉と、冷たい報告を口にしていた。
 アンリがパソコンを操作し始めると、隣のベッドであられも無い姿をさらし、ヘルメットから送信されるプログラムによって「教育」を受ける麗しき令嬢の様子が、僅かに変化を見せ始めた。
〈ア――アアア――〉
 令嬢の声がどこか機械的な、抑揚のない声に変化した。投与された薬が、プログラムと深く結びつき、効果をさらに高めた。結果、彼女はさらに深いトランスに導かれ、無感動な人形へと変えられていったのだ。
 それでも、与え続けられる性感を感じるだけの意識はとどめているのだろうか。それとも、体が心とは別に、勝手に反応しているにすぎないのかもしれない。
 麗子嬢は、鎖につながれた中で出来る最大限の動作で、体に堆積し続ける澱のような性感に、ただ耐えていた。 
 現地から遠く離れた社長室のモニタからも、その異様な光景ははっきりと見ることができた。
 男が持つモニタのリモコンを操作すると、画面の拡大・縮小、音量調整、視点変更と、好みの設定に変更することができる。臨場感ある映像を見せつけられる山居の精神は、ずいぶん前から疲弊していた。
〈ア!……ヒッ、ヒッ!〉
「麗子っ!」
 愛娘の悲鳴に心を乱されながらも怒りに肩を震わせる山居を見据えて、男はさらにたたみかける。
「さあ、先生。何度も言いますよ。お嬢さんをあなたとは全く縁のない『別人』に変えたくないのでしたら、早く用意してくださいよ。
 何、先生なら簡単なことだと確信しているからこそ、こう何度もお願いしているのではないですか」
 街の象徴となって久しい、リンテンビルディング、その最上階での出来事である


 病院内の丸椅子に腰かけてはいるものの、古鳥舞実が行っているのは受診ではなく、とある事件に関する捜査だった。
 だが、彼女の子供っぽい外見のせいで、どうも雰囲気にしまりがない。
「催眠剤……ですか」
 目の前に座る女医は、白衣の上に聴診器をかけていた。あごに軽く手を当てた格好で、考えるそぶりをしていた。
 どこかのんびりとした、優しいお姉さん然とした人だ。
 ここが診察室ではなく、病院の先生達が短い休憩をとる仮眠室である筈なのに、白衣の人と向かいあっているだけで、
 診察を受けているような気分になってくるのはなぜだろう。白衣が患者に与える影響は大きいという話は本当なのだなと、漫然と舞実は思った。
 催眠剤は危険性があるのですか?それが先ほど舞実が女医にした質問である。
 捜査中の事件に、期待の新薬として名高い、催眠剤「クリアハート」が関わっている可能性があると、本部から指令があったため、
 古鳥捜査官はこうして病院に足を運び、専門家の意見を仰いでいるのだ。
 あごに当てた手を離し、女医は再び話し始めた。
「催眠剤に関わらず、どのような薬も使いすぎれば毒ですからね」
 女医は、ポケットから小さな紙の箱を取り出した。「クリアハート」。半年前に、病院で広く使われるようになった新薬である。
「これなんかもですね、やっぱり、過ぎると毒ですよ」
 言葉を続けながら、彼女は箱の中から1枚の銀紙を取り出した。錠剤が6つ、封入されている。
「私たちが患者さんに渡すのは1つだけですね。これはメーカーさんからも強く言われていることでして」
 どこかのんびりとした女医の声は、患者さんに安心感を与えるのだろうなと感想を心で述べながら、舞実は尋ねた。
「このクリアハート、具体的にはどのような作用があるのですか」
「効果はですね、脳の神経系に働きかけて、不安や興奮を抑えるのが主ですね。
 飲むと、1分ほどで身体の緊張がほぐれて、心もとてもリラックスできる状態になります」
 17歳、優秀なる事件捜査官。なのに、未だに診察室では落ち着くことができなくなる舞実には、それは夢の新薬に思えた。 
「それとですね。副作用で、ちょっとだけ、眠くなったりしますね。ほんの少し、まぶたが重くなるぐらいですか。
 それぐらいのかる〜い眠りです」
 女医の聞くかぎり、それほど怖い薬ではなさそうだ。催眠と聞くと、どうしてもテレビで見るような、
 操り操られの世界を思い浮かべてしまう。例えば、恥ずかしいことをぺらぺらと喋らされたりとか。
 女医が、かる〜い優しい声で続ける。
「クリアハートが使用されるようになるまでは、鎮静催眠薬を使用していたのです。これも、クリアハートと同じような、
 緊張感を和らげ、不安を取り除く作用を持っています」
「効果は同じなのですか?」
「ほとんど変わりません。ただ、用法が違いますね。鎮静催眠薬は主に不眠治療に使いますが、クリアハートは催眠療法に使うのです」
 そこで女医は舞実の前で大きく伸びをした。
「ごめんなさい、昨日あまり寝ていないものですから」
 仮眠室を借りての意見交換は酷だったのだろうか。
 気になさらずにと女医は続けた。
「他の病院さんでもそうではないですかね。クリアハートを不眠治療に使うと言うのはあまり聞かないですから」
「でも作用は同じですよね」
「効果は同じでも、効きかたがまた違いますね。この新薬のほうが、鎮静催眠薬よりも、
 より深いリラックス感を患者さんに与えることができます。でも睡眠の方面には効果が薄いです」
 再び言葉を切る女医。今度は腕時計を見始めた。
「すいません、忙しいみたいなので後日……」
 舞実が申し訳なさそうに言うと、女医はもっと申し訳なさそうに「ごめんなさい、特に意味はないのです」と返した。
 小さく咳払いをしたあと、女医は続けた。


「催眠療法を患者さんに適用するのに大切なのは、まずある程度の信頼関係を築くこと、そして緊張をほぐしてあげることですね。
 この新薬は、その内の、緊張感をほぐす効果があるのです」
「信頼関係が大切、ですか」
「医療は患者さんと信頼しあうことから始まるのです。特に『催眠』という分野に関しては、テレビで放送されます、
 催眠ショーのイメージがありますから、誤解される方もおりまして。なかなか、信頼感を持つことは難しいです」
「え、テレビで大人が子供みたいになったり、動物のようになったりするのは、あれはただの演技ですか?」
 舞実の言葉に、女医は少し困ったような苦笑いを見せた。
「いえ、あれも催眠の力で出来ることの一つです。でも、あれは受け手が心の中で与えられる暗示を『許可』しているからできることなんですね。
 催眠状態は、意識を失って、簡単に操られる状態を指すのではないのです。意識はちゃんと、はっきりしていますし、誘導者の声も理解できます。
 ですから、催眠状態にあっても、嫌な暗示をはねのけることも可能です」
 一つ誤解を解いた上で、舞実は質問を変えた。
「事件の被害者はどんな状態なのでしょう?クリアハートの大量摂取が原因なのだといわれていますが」
 舞実の質問に、女医は先ほど見せた、あごに手を当てる格好をとる。小説の名探偵が、難しい事件を推理する時にみせる格好みたいだ。
「どうでしょうね。大量に薬を投与されるとああなるものなのかな?私たちは容量を守っていますから……」
「今のところ、クリアハートはまだ店頭販売は禁止されていましたよね。裏の市場では、ダウナー系のドラッグとして出回り始めているようですけれど。
 たしか、「ピュア」という名前だったかな」
「依存性はないようですけどね〜」  
 舞実が捜査している事件は、女性ばかりが何日間か行方不明となった後、昏睡状態で発見されるという怪事件だ。
 現代の神隠しと呼ばれ、メディアを騒がせると同時に、世の女性の恐怖心をあおり続けている。
 被害女性の体内から、クリアハートの成分が多量に検出されていることから、事件を引き起こす何者かが、新薬を悪用していると見られている。
 薬の発売元、「ヤマイメディカル」も相当の打撃を受けているとのことだ。
 依存性はない、その言葉を聞き、舞実は自分のことのように胸をなでおろした。
 舞実がここ、里の水病院に足を運んだのも、目の前の専門家、綾野女医が事件の被害者の一人を担当しているからであるのだが、
 まだ専門家をしても上手く説明できないのが現状であるようだ。
「患者さんはどのような状態ですか」
「一応、意識があるのは見て取れます。ペンライトを目にかざして揺らしますと、光を追う反応を見せますし。
 けれど、表情がなく、ぼんやりとした感じですね。目はまるで焦点があっていないようですし、大きな音を立てても、
 何の反応も示しません。催眠でもなく、睡眠でもない、私どもも、手に余るというのが本音ですね」
 綾野女医の説明は、舞実にとって、もうひとつ、ピンとこない話ではあった。催眠について説明を受けはしたものの、
 「催眠術」のイメージが未だ根強く残る彼女にとっては、患者の様子が催眠状態ではない、という言葉も、いま一つ納得がいくものではなかったのだ。
 そこでふと、思いついたことがあり、舞実は切り出した。
「先生、一回、私に催眠をかけてもらえませんか。時間が無ければ無理は言いませんが、どのようなものなのか、知るのもいいかなと思いまして」
「良いですよ。誤解を解くにも丁度よいでしょうし。やってみましょうか」


清潔感のある診察室の中で、舞実はベッドに横たわり、綾野女医の声を聞いていた。
「……では始めましょう。今から古鳥さんは、気持ちよくリラックスするために、深い催眠状態に入っていきます」
 綾野女医の、相手をリラックスさせる優しい声は、ベッドに横たわる舞実にも作用していた。聞きなれた筈の声は、
 先ほど服用したクリアハートの効果を受けてか、とても心地よいものとして感じることができた。
 ぼんやりとした、眠気にも似た心地の中で、舞実はクリアハートの効果を実感していた。
 ベッドに横になる前に、1錠の薬をコップ半分の水と一緒に飲み込んだ。すると、その後すぐに、体からゆっくりと緊張が抜け、
 入れ代わりにとても心地よいリラックス感が体中に染み込んできた。まぶたが僅かに重く、考えるのがなんだか面倒になってきた。
 なぜこの薬が一部でドラッグ扱いを受けているのか、分かった気がした。
 綾野女医に促され、ベッドに横になると、すぐに舞実は、うとうととする気持ちよさの中で、
 ぼんやりと視線を天井に彷徨わせはじめたのだった。

「では、まず深呼吸を始めましょう。私の指示するタイミングで、ゆっくりと……体中の力が抜けていくのを感じながら……」
 
 吸って、吐いて。
 
 吸って、吐いて。
 
 もっと深く吸って、ゆっくりと吐きだす。
 
 呼吸と一緒に、舞実の胸が緩やかに膨らんでは縮んでいく。
 指示に従って、深呼吸を繰り返していくと、  
 だんだんと力がぬけて、体がベッドに沈み込むような感じを覚えた。
 手、足、お腹、胸、頭。
 力が抜け、ベッドに身体を完全に預けるような格好をとり始める。
「では、深呼吸しながら、天井にぶら下がっている、クマのぬいぐるみを見てください。しっかりと、目を離さないで……」
 白い天井に、紐で吊られた、小さなクマのぬいぐるみが見えた。僅かに頬笑みを浮かべているようにも見える、可愛いクマのぬいぐるみ。
 それをじっと見つめながらも、指示に従って深呼吸を繰り返す。
 まぶたが重い。
「まぶたが重く感じるかもしれません。でも、クマさんを頑張って見続けてください。まだ、まぶたは閉じないでください」
 閉じたくなるまぶたを頑張って開き、ぬいぐるみを見つめる。それでも、徐々にまぶたは下がって閉じようとする。
 そのたびに、綾野女医の声に励まされながら、よりクマのぬいぐるみに意識を向けた。

「つらくなってきましたか。では、目をつむってみましょう。私が10から、0まで、順に数えていきます。
 私が0といえば、すっとまぶたが下りていきます。それまで我慢して、じっとクマさんを見つめていてください。
 0で、すとーん、と落ちていきます」
 綾野女医がゆっくりと数えていく。10から9。ゆっくりと降りていく数。じれったくなるような早さだった。

「……8……7……6……」

 舞実は頑張ってまぶたを開き、クマのぬいぐるみを見ながらも、数字を数える声を聞いた。

「……5、4、321」
(えっ?)

 何の前触れも無く速まるカウントに、目はクマを見ながらも、舞実は心の奥底で混乱する意識を感じた。
 1秒にも満たない混乱は、彼女が懸命に保とうとしていた集中力を一気に切り落とした。
「0」
 パチンと、指が鳴る音が聞こえた。まるで電気のスイッチを切るような、軽い音。

 すとーん。

 まぶたが落ち、ぼやけていた視界は、あっという間に暗闇に閉ざされた。
「落ちます。落ちていきます。沈みます。何も考えません。ただ落ちます。どんどん落ちます。落ちてください。
 気持ちいい。落ちるのが気持ちいい」
 何も考えない舞実。次々と与えられる誘導、暗示。従う舞実。沈む意識。
 既に真っ暗な筈の視界は、もっと暗く、深くなっていくようだった。視界だけではない。
 意識自体に、もやもやとした霧がかかったよう。霧が、舞実から現実を切り離していく。 
 考えることが面倒。初めての感覚なのに、当たり前のように抱く安心・安らぎ。
 深いはずなのに、意識がある。意識があるのに、何も考えない。
 考えられないのではなく、考えたくない。
 辿りついた先は、暗くて、とても不思議なところだったが、そこは舞実にとって、気持ちのいい、素晴らしい空間だった。
 気がついた時には、舞実と綾野女医との間に、確かな信頼感が築かれていた。



「手を叩きます。……はい、目を開きましょう」
 パン、と手を叩く音で、舞実は驚いたように目を開いた。
 あれだけ深いところにいた筈の舞実は、手拍子と共に一息で現実に帰ってくることができた。
 朝、気持ちよく目が覚めたときのような、清々しい気分。
「気持ちよくまぶたが開いたと思いますが、あなたはまだふわふわとした、催眠状態にいます。
 今もまだ、考えるのが面倒に思えるのがその証拠です。ですから、私がもう一度、指をならす音を聞けば、
 またさっきの深いところへ戻っていくことができます」
 確かに考えるのが面倒だ。すっきりと目覚めたのに、早くさっきのところに戻りたいという気持ちがある。
 最初感じていた、催眠に対する恐怖心は無く、むしろ催眠状態を楽しむ気持ちが強く溢れていた。
 綾野女医の、やさしい指示が聞こえる。
「パチン、と指を鳴らす音で、あなたはもう一度、すとん、と目をつぶります。我慢できずに落ちます。
 我慢する必要はありません。いいですね。……では、天井のクマさんを見ましょう」
 舞実はクマのぬいぐるみを見つめた。
「じっと。……次は右に目を動かしましょう」

 右に視線を移動する。壁にかかるカレンダーが見えた。

「クマさんを見てください」

 もう一度、真上のクマを見る。

「左を見ましょう」

 左を見る。

「右に目を動かして」

 パチン。

(あっ)

 眼球が右の壁のカレンダーを向く前に、まぶたが落ち、意識はずーん、と深くなる。

「さっきよりも深い。ふかーい。気持ちいいですねー」

 また、考えるのが面倒になる、けれど、意識はある、不思議な世界へ、落ちる。
「深い。ただ深い。どんどん深く」
 ふわふわと漂う意識。沈み込む心。楽しい。気持ちいい。

「そこはさっきよりも深いですか?ではもう一度目を覚まします。一気に現実へ。……はい」
 
 パン

 すっきりとした目覚め。まるで朝起きたような パチン

(     )

 パチン パチン パチン
 


「これからあなたは催眠の世界から現実に戻ります。催眠の世界と同じぐらい、楽しくて、おもしろくて、
 嬉しいことがいっぱいの、素晴らしい現実の世界です。1から10数えますので、ゆっくりと、体に力を入れていきましょう。
 10で催眠は解けますが、解けた後も、あなたが望むなら、またこの世界に戻ってくることができるでしょう。
 だから安心して、元気に、起きることができます」
「1。体が温かい」
「2。体に力がみなぎる」
 舞実の手が、ぴくっと動いた。
「3。4。5。ほら、私が数えている間にも、元気が溢れてくる」
 楽しい気分、高揚感が舞実の心に訪れる。
「6。早く色々なことを考えたい。7。早く体を動かしたい」
 ふうっと、体が持ちあがる感覚。意識の海の底から、すうっと体が浮きあがる。
「8。目を閉じている筈なのに、なんだかまぶしい。9。ほら、あの音が聞こえます。10」
 パン。
 


「すごく気持ちよかったです。体が軽くなったし、元気がでてきましたし」
 ベッドに腰掛け、はしゃぐ舞実に、綾野女医は優しく微笑みかける。
「古鳥さんが体験されたのが催眠です。これを応用して、私たちは患者さんの悩みを解消しているのです」
 綾野女医は、二つのコップにお茶を注ぎ、一つを舞実に勧めた。
「本当は、もっとじっくり時間をかけて催眠状態に入ってもらうのですが、クリアハートを使用すると、
 格段に短い時間で深い催眠状態に入っていただけるようになります。催眠に中々入れない人も、この薬を服用すれば、
 楽に深い催眠に入ることができるようになりますし。本当に助かっていますよ」
 熱いお茶をうまそうにすすりながら、綾野女医は言った。
 麻薬のような扱いで裏市場に出回ったり、奇怪な事件に使用されたりで、またたく間に悪評が立ったクリアハートだが、
 ホームグラウンドではかなりの活躍をしているようだった。考えれば、モルヒネも麻薬と同等の扱いをされることがあるが、
 実際は痛み止めで使われる薬であるし、抗がん剤も、激しい副作用があるからと、使われないことも多いようだが、
 多くの人をがんから救っているの薬なのだ。どの薬も、使いどころによって見せる顔が変わるのだろう。 
 催眠療法ですっきりしたところで、舞実は本題に入った。
「患者さんは、催眠状態でも、睡眠状態でもなさそうなのですね」
「そうですね。あのような状態はちょっとおかしいです。意識はある筈なのに、意思がない状態です。まるで……」
 言葉を探すように、綾野女医は目をつむった。
「……まるで『催眠術』の中にいるような」
 さきほど、「催眠」を説明した女医とは思えない発言だった。舞実は思わず「えっ?」と声を漏らしてしまった。
 女医はあわてて言葉を継ぐ。
「もちろん、あれは催眠ではないですよ。……ですが、実際に患者さんと接して思うのです。
 フィクションの世界で、術者が催眠術を解くまで、催眠にかかったまま解けずにいる、という話が出てきますでしょう。
 あれに似ているかなと」
 舞実が持っていた催眠のイメージ。術者によって意識を意のままに操られる女性。ほくそ笑む催眠術師。
「私がメーカーに尋ねた話では、クリアハートの大量摂取は、体に大きなダメージは無いものの、長い倦怠感、
 思考力の欠如が引き起こされると聞きました。ですが、それでも意識を失うだとか、あのような状態になるとは……」
そこで、綾野女医は考え込んでしまった。長い時間が流れたあと、彼女が継いだ言葉は、「私には何とも言えません」だった。
「薬の大量摂取の影響かどうかは分かりません。けれど、クリアハートだけでは、あのような状態にはならないと思うのです」
 これは医者の勘です、と女医は付け足しだ。


「桜木さ〜ん。少し目を開きますね〜」
 綾野女医は、ベッドに横たわる患者にやさしく語りかけた。そして、閉じられたまぶたをゆっくりと開く。
「すこしまぶしいですよ〜我慢してくださいね〜」
 そう言って、綾野女医は、胸ポケットからペンライトを取り出す。スイッチがオンになると、
 温かさを感じさせるオレンジ色の光が先端からのびた。
 女医の様子を見ながら、なるほどと舞実は思った。事件の被害者、桜木真帆は、まるで女医の言葉など、聞こえてもないようだった。
 だが、綾野女医の向けるライトには、はっきりとした反応を見せる。右へ光が行けば、右へ、左へ移れば、左へ。
 しっかりとした動きで光を追う彼女の様子を見れば、意識があるのだと思いたくなる。
「今はこんな状態です。薬はもう、切れていてもおかしくは無いとは思うのですが」
 綾野女医は、聴診器を耳に付けて、桜木真帆の胸元にベルを当てた。
 始終、反応を見せないのに、なぜライトには反応するのだろう。女医の話では、音には反応しないらしい。この違いは何なのだろう。
 昏睡状態と自分達は片づけているが、彼女はそもそも「眠り」の状態にあるのだろうか。
 考え出すときりがないが、担当者の綾野女医は、舞実とは比較にならないほど広く想像の根を伸ばしている。
 それでも皆目、分からないのだ。

「あ……あ……」

 突然、小さくか細い声が、桜木真帆の口から洩れた。舞実が驚いて、横になる桜木真帆を見ると、彼女は口だけではなく、
 まぶたをもしっかりと開き、光なき瞳で天井を仰いでいた。
「い、今反応が」と希望の声をだした舞実だが、綾野女医は残念そうな顔をした。
「ときどき、声をだすことはあるのですが、こちらから声をかけても反応はないのです」
 そう言いながらも、まだあきらめ切れてはいないようだ。
 綾野女医は、必死に「桜木さん。聞こえますか。桜木さん」と繰り返し呼びかけていた。
だが、その甲斐むなしく、桜木真帆は心持大きいこえで「はあっ……」と喘ぐ声を出したあと、また目を閉じ、静かになってしまった。
「睡眠状態でもなければ、催眠状態でもない」
 桜木真帆から手を離した綾野女医は、つぶやくように言った。誰に宛てた物でもない、むなしさが漂う声だった。



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