ソ連軍兵士の強姦、殺戮、暴行、略奪 志村英盛
1.ソ連軍兵士の残虐行為
ウィリアム・ニンモ氏は著書 『検証・シベリア抑留』 加藤隆訳 (時事通信社 1991年3月発行)
第47頁で
「要するに、満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は、
口ではいい表せないほどひどいものだった。
暴行と略奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。
・・・とくに野獣のように乱暴なやり方で女を奪い、
抵抗するものは片っぱしから殺した。
ソ連軍の兵士たちが日本の女にしたことは、
いまでもぞっとするほど残虐なものだった」 と述べている。
筑紫野市湯町の二日市温泉の済生会病院旧館のはずれに小さな水子供養祠がある。
1946年、満州からの日本人民間人の引き揚げが開始されてから、博多港に上陸した
日本人引き揚げ者は約1年半で139万人に上がった。
ソ連兵や北朝鮮の保安隊兵士に強姦されて、身ごもった女性も多数いた。
上陸寸前、絶望して博多湾に身投げした女性もいたといわれる。
身ごもった女性の妊娠中絶手術が厚生省博多引揚援護局二日市保養所で行われた。
手術は、麻酔を使わないで行われたといわれる。「白い肌、赤い髪、長い指。
一目でソ連兵の子供とわかる水子もいた」といわれる。
極悪非道なスターリンの侵略戦争の犠牲となり、
何度も【地獄の責め苦】に苛まれた女性たちを慰める言葉が出ない。
戦争を絶滅して、再び、このような悲劇が起こらないことを祈るのみである。
2.極悪非道なスターリンのソ連軍
1945年8月の日ソ戦争(ソ連の対日参戦)終了後、満州・北朝鮮を占領した
極悪非道なスターリンのソ連軍は日本人民間人の日本への帰国を禁止した。
極悪非道なスターリンのソ連軍は、北朝鮮占領後、満州(中国東北部)と北朝鮮との
国境の町・丹東市から韓国のソウルまでの鉄道の利用を日本人民間人に認めなかった。
極悪非道なスターリンのソ連軍は、日本人民間人の保護は徹頭徹尾行わなかった。
逆に日本人民間人に対してほしいままに
強姦(レイプ)、殺戮、奴隷狩り、暴行、略奪を行った。
この極悪非道なスターリンのソ連軍の【人道に反する】行為が、
戦闘中及び戦闘終結後の満州・北朝鮮において、
1945年〜1946年に、生活手段・生活環境を失った
日本人民間人が25万人以上死亡した原因である。
特に開拓団の母子老人家庭避難民は地獄さながらの状況に置かれ悲惨であった。
冬期間は飢餓、伝染病、栄養失調、極寒、絶望感で死者の出ない日はなかった。
開拓団の母子家庭の多くの乳幼児が満州あるいは避難先の北朝鮮に遺棄された。
かれらは遺棄孤児(=残留孤児)として二重三重の苛酷な運命を背負わされ、
苦難の道を歩まなければならなかった。
筆者は、満州・北朝鮮において日本人民間人が蒙ったこの惨禍を
スターリンの惨禍と名付けて、中学・高校の歴史教科書に記載して
後世に伝えることが、亡くなられた犠牲者の方々の慰霊であると思う。
3.奉天(現在の瀋陽)における開拓団・婦女子の悲惨な状況
米国の戦史研究家、ウィリアム・ニンモ氏は著書『検証・シベリア抑留』
(加藤隆訳 時事通信社 91年3月発行)の第46頁で次のように述べている。
「1945年8月以降、満州の日本人たちは大多数が苛酷な状況下にあった。
まず厳しい寒さ、それにインフレ、交通の悪さ、病気などで生き残ることを
困難にし、1945年〜46年冬の死亡率を高めた。
日本政府は、その冬だけで11万人の日本人が死亡したと推定していた。
翌年の冬はもっと増えるだろうと予想していた。
元満州の住民はこう語った。
「それは想像を絶するほどのひどさだった。最悪なのは、たくさんの人が
飢えと酷寒のため死んだことだ。おびただしい数の避難民がソ連との国境に
近い満州北部から流れ込んできて、奉天(=瀋陽)の学校や他の施設に
収容された。
冬の間中、毎日大勢の人が死んでいくのを見た。市内にはそれを埋める
場所もなかった。近くの、人が住んでいないあたりに、縦横6メートル、
深さ4メートルの大きな穴が掘られた。死体は低温のためすでに硬く凍って
いた。それを穴の中に投げ入れ、上から薄く土をかぶせた。」」
瀋陽北部Shanyang
瀋陽南部Shanyang
4.葛根廟事件
武器を持たない無防備の約2,000人の日本人母子老人家庭避難民が奉天(瀋陽)への
避難途中、突然、警告なしに、ソ連軍戦車隊に襲撃され機銃掃射で惨殺された。
重傷を負った避難民は自殺した。生存者はわずか150人であった。
生き残った子供は遺棄孤児(=残留孤児)となった。
葛根廟・烏蘭浩特(ウランホト)・白城一帯
5.麻山事件
日本人開拓団母子老人家庭避難民約720人が、ソ連軍戦車隊と武装中国人暴徒集団に
前後をはさまれて襲撃され、逃げ場を失って全員、集団自決(=集団自殺)した。
中国東北部(満州)ハルビン、牡丹江、麻山、鶏西一帯
麻山付近地図:資料:中村雪子著『麻山事件 満洲の野に婦女子四百余名自決す』
6.満州北朝鮮における日本人民間人の避難状況図
資料:防衛庁防衛研修所戦史室編
『戦史叢書 関東軍(2) 関特演・終戦時の対ソ戦』 第410頁
(株)朝雲新聞社 昭和49年6月発行
7.北朝鮮保安隊兵士の強姦、暴行、殺戮、略奪
9開城Kaesong、板門店Panmunjeon、ソウル
編集委員:細川護貞・大井篤・豊田隈雄・阿川弘之・千早正隆・鳥巣建之助
『高松宮日記 第八巻』中央公論社1997年12月発行 第175頁〜第176頁
「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、通行中の婦女を犯す。
汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。
2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、下の娘は性病に罹る。
元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、(引き受け者の)
人数不足せるを(補うものを)くじ引きにて決めたり、
日本婦人の全部は強姦せらる。
(慰安婦を)強要せられ自殺せるものも少なからず。
8.東ドイツにおけるソ連軍兵士の強姦犯罪
旧東プロイセン・カリーニングラード
アントニー・ビーヴァー著・川上洸訳
『ベルリン陥落1945』 (白水社 2004年8月発行)
本書の多くの頁において、1945年、凶暴なソ連軍兵士たちが、
ドイツ本土のみならず、侵入したどの地域においても、
すさまじいレイプ(=強姦)・殺戮・略奪を行った状況が、
赤裸々に述べられている。
ソ連軍兵士たちは、年齢に関係なく全ての女性をレイプ(=強姦)した。
彼らの性暴力行為は現代に生きる筆者の想像を超える凶暴さであり、
明白な【人道に反する罪】である。
第482頁
「ダーレム(ベルリン市内)の産院と修道院を兼ねる女子修道院
【ハウス・ダーレム】では、修道女、若い娘、老女、妊婦、
出産したばかりの母親が、みんな容赦なく暴行(=レイプ=強姦)された。」
第602頁
「ベルリンの二つの主要病院によるレイプ(=強姦)犠牲者の推定数は
9万5000人ないし13万人。東プロイセン、ボンメルン、シューレージエンでの
レイプ(=強姦)被害者140万人の死亡率は、ずっと高かったと考えられる。
全体では少なくともも200万人のドイツ女性がレイプ(=強姦)されたと推定される。
繰り返しレイプ(=強姦)された人も、過半数とまではいかなくても、かなりの数に
のぼるようだ。」
第614頁
「東プロイセンは、すべての被占領地のなかでいちばん悲惨な目にあった。
なによりもみじめなのは、(ドイツ本土へ)逃げ遅れた民間人の運命だった。
大多数の老若女性がソ連での強制労働に駆り立てられた。森林、泥炭地、
運河で、1日、15時間から16時間もこき使われた。2年間で半数をやや上回る
死者が出た。生き残った女性の半数近くがレイプ(=強姦)された。
大多数が結核や性病におかされた。」
第606頁
「その夏(45年夏)を通じて、各国の新聞・雑誌はこの問題(ソ連軍兵士たちの
レイプ(=強姦))を掲載しつづけた。」
9.廣田内閣の満州移民推進政策は
筆舌に尽くせぬ悲惨な結末に終わった。
1937年、廣田内閣は旧日本帝国陸軍の高級参謀たちに脅かされて、
7大国策(政策)の一つとして満州移民推進を決定した。
2.26事件で陸軍将校たちのテロで殺害された岡田内閣の
高橋是清蔵相(元首相)は満州移民に反対していた。
しかし旧日本帝国陸軍の高級参謀たちは、
満州移民を満州における治安政策の基礎にしようと、
廣田内閣の政策決定を受けて満州移民を強力に推進した。
100万戸、500万人移民計画が策定された。
敗戦時の45年7月には、開拓団の団数は800を超え、
移住した開拓団員の数は約27万人といわれる。
日本の満州移民政策により、旧日本帝国陸軍(関東軍)に
200万ヘクタール以上の農地を強奪された中国農民は
雇用労働者として低賃金で酷使された。
山林、未耕地を含めると旧日本帝国陸軍(関東軍)が開拓用地として
強奪(収容)した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。
かなりの数の中国農民が【匪賊】となって関東軍に執拗に反抗した。
関東軍(満州に駐留していた日本軍)は、
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児を
見棄て、見殺しにした
日本敗戦と同時に、これら【匪賊】は、報復のため、一斉に
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児を襲撃した。
開拓団の成年男子(18歳〜45歳)は、敗戦直前の7月10日に
日本軍(関東軍)の【根こそぎ動員】で徴兵され、その後、
極悪非道なスターリンの極秘指令で、シベリアに拉致移送され、
奴隷として重労働を強制された。
徒歩と貨車の拉致移送途上でおびただしい数の死亡者が出た。
苛酷な奴隷労働でもおびただしい数の死亡者が出た。
敗戦時、日本軍(関東軍)は、高級職業軍人の家族だけはいち早く避難させた。
【根こそぎ動員】で夫や息子を徴兵されて頼りになる成年男子を失った
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児については、
何らの保護を行うことなく、見棄て、見殺しにした。
ソ連軍侵攻予告はおろか、戦闘が始まっても
開戦・敗戦の事実すら知らせなかったのである。
日本軍(関東軍)に見棄てられ、見殺しにされた多数の開拓団の
老人、婦女子、小学生、幼乳児が、ソ連軍戦車の銃撃と
中国人の銃、鍬、こん棒などによる襲撃で殺害された。
逃げ場を失った日本人たちは集団自殺した。
逃避行から生き残って奉天(瀋陽)の窓や床板をはがされた
荒れ果てた学校、寺院、病院等の収容施設にたどりついた者も、
【着の身、着のまま】、中には麻袋だけで身を包み、所持金もなく、
飢え(餓死)、栄養失調(衰弱死)、伝染病(病死)、極寒(凍死)、
絶望(自殺)等でほとんどが死亡した。
生き残った小学生・乳幼児は遺棄孤児(残留孤児)として
二重三重の苦難の人生に耐えねばならなかった。
この日本軍(関東軍)の最高指導者たちと高級参謀たちの
【人道に反する開拓団員見殺しの罪】を見逃すことはできない。
哀れな開拓団女性たちを保護することなく、ほしいままに
強姦、殺戮、暴行、略奪を行ったソ連軍兵士たちの
【人道の反する罪】を見逃すことはできない。
10.極悪非道なソ連の独裁者、スターリン
1953年3月5日、極悪非道なソ連の独裁者、スターリンが死亡した。
スターリンの最も忠実な部下で、ソ連秘密警察の元締めであったベリヤは、
スターリンの死で権力基盤を失い、1953年12月23日、【国家反逆罪】で銃殺された。
スターリンとベリヤは【大粛清】とよばるれ反対派の徹底的殺害を行った。
やり方は、日本人に対する【戦犯裁判】と全く同じで、反革命罪、国家転覆罪、
国家反逆罪との罪名で、【エセ裁判】を行い、片っ端から一方的に
死刑宣告を行い、判決、即執行で、容赦なくぶっ殺していった。
大粛清によって反スターリンの旧共産党指導層は完膚なきまでに殲滅された。
反スターリン派の地区委員会、州委員会、共和国委員会は丸ごと消滅した。
1934年の第17回党大会の1,966人の代議員中、1,108人が逮捕され、
その大半が銃殺された。
1934年の中央委員会メンバー139人のうち、110人が処刑されるか、
あるいは自殺に追い込まれた。
1940年にトロツキーがメキシコで暗殺された後は、
レーニン時代の最高指導者で残ったのはスターリンだけであった。
党内の反対派をことごとく大虐殺した後、極悪非道なスターリンは、さらに
学者、軍人、官僚、農民など、あらゆる分野において反対する者たちの
大粛清(大虐殺)を行った。
ゴルバチョフ大統領時代、KGB(ソ連国家保安委員会)は、
1930年〜1953年のスターリン時代に
786,098人が反革命罪で処刑されたことを公式に認めた。
さらにソ連崩壊後、ロシア連邦国立文書館(GARF)は1953年にNKVD
(内務人民委員部:ソ連の秘密警察統括部門)の書記局が作成した
大粛清に関する統計報告書を公開した。
それによるとNKVDは1937年と1938年の2年間に
1,575,259人を逮捕した。
このうち1,372,382人が「反革命罪」であった。
85%が有罪にされた。有罪者のうち半数強が死刑になった。
死刑を免れたものはシベリア強制収容所送り(流刑)だった。
1945年7月、日本政府は、この極悪非道、冷酷無情、
しかし戦略策定・情報収集・情勢判断の天才であった
スターリンに対米和平交渉のあっせんを依頼した。
7月16日、ドイツのポツダムに到着した翌日、17日正午、
スターリンは米国代表団の宿舎でトルーマン米大統領と初めて面会した。
この時スターリンは、8月中旬までにソ連が対日参戦すると伝えた。
あくる18日、返礼として、ソ連代表団宿舎を訪ねてきたトルーマン米大統領に、
スターリンは日本から送られてきた極秘の昭和天皇の親書の写しを手渡した。
それには、日本が、ソ連を通じて終戦を模索していることが書かれてあった。
昭和天皇の「これ以上の流血を避け、速やかな平和の回復を願っている。しかし、
米国、英国が、無条件降伏を要求する限り、戦争を継続せざるを得ない」との
対米和平交渉あっせん依頼理由が書かれてあった。
スターリンはマリク駐日大使に日本政府の動きについて詳細な情報収集を命じた。
最小の犠牲で最大の効果が期待できる対日参戦の日を模索し続けた。
8月6日、広島に原爆が投下された。天才的情勢判断力を持つスターリンは、
直ちに8月9日に対日参戦することを決断した。
8月9日午前0時直前、モスクワの日本大使館の電話線を全て切断した上で、
ソ連のモロトフ外相は、佐藤駐ソ日本大使に対日宣戦布告文を手渡した。
極悪非道なスターリンの狙い通り、ソ連は、わずか25日間の日ソ戦争で、
最少の犠牲で、領土獲得、財貨獲得、奴隷獲得など最大の成果を得た。
コスト・パフォーマンスの視点から見ると、日ソ戦争(=ソ連の対日参戦)は
世界歴史上かってなかった、
特筆すべき、スターリンのソ連帝国主義侵略戦争の大勝利であった。
11.ソ連の囚人大虐殺
黒澤嘉幸著 『禿鷹よ、心して舞え−シベリア抑留11年 最後の帰還兵』
(彩流社 2002年3月発行)第26頁〜第27頁より抜粋
「哀れ」を物語るボロ衣服
「哀れ」を、なお一層、物語る姿は、身にまとっているボロ衣服だ。
じっと運命に身を任せている、そのままの恰好だ。
垢(あか)だらけ、虱(しらみ)だらけ。清潔であろうとする人間の心は、
とっくの昔に、内務大臣・ベリヤに取り上げられている。
第二次大戦直後、ソ連は年次計画のように検挙した政治犯や
一般犯罪者のほかに、東欧、バルカン、及びバルト三国から、
政治家、軍人、さらには、地主、企業家、西欧に留学経験を持つ知識人、
捕虜となった自国の軍人、反乱者の血縁関係者、それに
敗戦国のドイツ、日本の捕虜たちを投獄した。
一説では、1937〜8年の【血の粛正】以上の人数という。
彼らの身の上は、そのボロ姿が表現している。
戦場から、引っ張られて未決監獄に過ごした者は、ボロボロの軍服をまとい、
市民であった者は、配給という衣服事情からか、すり切れた衣服、
綿のはみ出した防寒上衣、あるいは帝政時代の外套を着込んでいた。
中でも、夏に逮捕された人は惨めであった。
薄い布地に、拾い集めてきたボロ生地を、何枚も縫い合わせて寒さを
しのごうとしていた。
皆、泥にまみれた豚以下の服装であった。
第222頁〜第224頁より抜粋(一部補筆)
ナリリスクの【津波】−ソ連の囚人大虐殺
1953年3月、スターリンが死亡した。マレンコフ首相、ベリヤ副首相兼内相、
モロトフ外相、ブルガーニン国防相、カガノビッチ副首相ら5人の
集団指導体制で新指導部が始動した。
『独裁者の死』が洩れ伝わって『収容所群島』の各地で【反乱】が噴出した。
シベリアの極北にある、石炭、ニッケル、銅、コバルトなどの産地、ナリリスクでは、
囚人たちが『待遇改善』『労働賃金支給』の要求を掲げて労働拒否の闘争に入った。
モスクワの人権擁護団体『メモリアル』発行の資料集「連鎖」によると、
その日「バラックから、群がり出て来た囚人らが、武装警備兵に石や木片を
投げつけた。警備兵の銃口が一斉にに火を噴いて死傷者が出た」とある。
ナリリスクから転送されてきた囚人たちによってその顛末が語られた。
【津波】とは、鎮圧部隊の攻撃の繰り返しと、その跡の無残さを
言挙げ(ことあげ)したものである。
鎮圧部隊の作戦は、まず、戦車を先頭にして、建物やバリケードを
押し潰しにかかって来る。
木造の家屋などは戦車がガラガラと音を立てて通りさえすれば、
すぐ突き抜けてしまう。
囚人たちが苦労して作った机や椅子のバリケードは、まるで用をなさない。
柱が折れる。壁が落ちる。そして、天井が崩れ落ちる。
床に伏せていた囚人を、キャタピラが押し潰す。軌道からそれていた者、
落ちて来た天井や梁で身動きできない者、ようやく這い出した者たちは、
戦車の後に続いて来た兵隊どもが、遠慮会釈なく突き殺す。
いい加減、突き殺したところで「さあ、隠れている奴は、手を上げて出て来い」と
怒鳴り声を上げる。
怖ろしさに、手足がすくんでいる囚人たちは簡単に出られなかった。
手の挙げ方の悪い奴は、その場で射殺だった。
梁が落ちて、肩を打撲したり、骨折したりして、片手しか挙げられない男でも、
別の手に武器を持っているかもしれないと、容赦なく射殺された。
手を挙げながら出て行っても、人数が少いと
「ようし、出る気がなければ、これでも食らえ」と【隠れ家】に催涙弾を撃ち込んだ。
もっと念の入った攻め方は、小型火炎放射器の使用であった。
一瞬の間に、一面が火の海になる。物陰に隠れて、息を殺していた者たちは
ほとんどが焼き殺された。
『ナリリスク反乱鎮圧作戦』は、まさに囚人大虐殺作戦であった。
以上
関連サイト:『シベリア奴隷労働被害』