第2回芸術道場段位試験講評
<総評>
ブーミンズーミン、ズーミンブーミン、ヨーメ〜ン! 押ッ忍(と書いてワッサと
読む)。
あのミニマル・ヒップホップ乱取りの興奮さめやらぬまま、オールドスクールの自
負をかけてニュースクール迎撃態勢で待ち望んでいた今回の段位試験。さぞかし熱い
応募論文がわんさか……と思いきや(ここで目が点に)、ダメじゃん! ワッツァへるハープン? みんな一体どうしたってんだよ。ワッダふぁーっくゴーインノ-ン?
というわけでしょっぱなから、Def激怒ニガ。Jam逆鱗マダファカ。のドクターGDだぜイェッセッショー。
まず日頃から諸君たちの稽古の一部始終を見守っている師範代として言わせてもら
うと、今回の応募論文にはマジがっかりした。
「マンガと芸術」に関しては、『バガボンド』既刊10巻をポストイット付けながら
熟読&スタンバイしてた俺にとって、宮本武蔵の剣と井上雄彦のペンを比較するような芸術家論のひとつくらいは欲しかったところ。
「ミニマリズム」に関しては、当初あれだけ露骨な反感まで噴出していたにもかか
わらず、仮説としての21世紀型ネオ・ミニマルを論破する気概のある論文はなし。かといって、量
感(マッス)のなきミニマル・アートと奥行き(パース)なきスーパー
フラットとのスリリングな比較論もなし。
行間から荒い息づかいまでもが聞こえるようだと村上道場主をうならせた、あの乱
取りの成果がこれかい!? 「ミニマル マキシマル」展からDJクラッシュさらには松本人志まで、縦横無尽におのおのが得意技を持ちよった、あのダンサブルかつグルーヴィーなミニマリズム稽古は一体何だったんだァーッ!?
俺はこの期に及んで自分の流した汗を惜しむつもりはまったく毛頭微塵もない。た
だ、諸君が流した汗がただ流されるだけで終わってしまうことが無性に残念でならない。道場BBSで文字通
りダラダラと汗を流すだけでスッキリしているようではマスかき野郎も同然。
真にスッキリさせるべきなのは、気分や気持ちではなく頭のほう! 諸君の思考や論理だろうが!
俺は今までことあるごとに「ここは戦場ではない(君たちの本当の戦場はこの道場
の外にある)」と口癖のように言ってきた。が、かといって道場はスポーツクラブでもない(気持ちよく汗を流すためだけなら他所へ行くがよい)。道場である以上、まず第一に己を磨くこと。つねに向上心をもって自分を極めることが必要だ。
審査員の厳しい目の前に己の技を示すことは、己の思考や表現の力をより広い批評
空間に投げ込むことである。日頃鍛えた論理という「もうひとつのリアルな芸術の肉体」をもってして君たちが果
敢なダイブを試みるとき、君たちの思考の汗は論文という結晶に凝結する。段位
とはその輝かしい結晶に与えられる台座にすぎない。段位試験がもたらす本当の価値は、与えられた段位
にではなく、あくまで君たちの論文の内容にある。
その意味でも、今回の審査にあたって俺は(前回の厳しい判定とはうって変わっ
て)挑戦者全員の昇段を認めることにした。無論、内容としてある基準に達している
からこその評価だが、それとともに、まずは書かなければ先には進めない、という意志の強さを個々の論文に感じたからだ。
今回挑戦した有段者とただの乱取り愛好家との差は、道場の中ではさほど目立たな
いやもしれぬが、その戦力の差はいずれ本当の戦場ではっきりするだろう。確かなことはただ、今のうちに一人でも多くの者がチャレンジャーとして段位
試験のリングに上がったほうがよい、というそれだけだ。
いまだ段位なき者たちの次のアクションを 熱烈猛烈激烈に期待する。押ッ忍(と書いてワッサ、もういいって?)。
寸評
「マンガと芸術」
ドミニク・チェンさん/二段合格
あの乱取りの様子から当然「ミニマリズム」で来るだろうという大方の期待の裏を
かいて「マンガと芸術」でエントリーとは!
己の得意とするヒップホップ技での勝負をあえて避け、公正なリングに登ったのは騎士道精神のあらわれか。それともオーディエンスを意識した自意識過剰のパフォーマンスなのか!? いずれにせよ、そのMC入ったアティテュードは買いだ。
表現や発表を重ねていく上で、人はつねに昨日までの自分をライヴァルとしなけれ
ばならない。その意味でドミニク初段の裏をかいた戦術は形式的には有効だった。マンガを題材にしながらも独自の言語認識論を展開するあたりは持ち前のスリルに満ちている。ただ内容的には、前回のゲームを題材としたアクロバティックな論文に比べ、マンガという題材のもつ時間的・空間的な広がりが、芸術のもつ広大なそれに照射しきれていない。とくに「相作性」という特殊技を使うにあたって、メディアの情報量
と効果について述べたくだりでは若干の疑問も。そもそもデフォルメから発生した漫画は、俳句やミニマル・アート同様に、情報を記号に凝縮した表現体系だったはず(手塚治虫は自身の絵やキャラクターは文字と同等の記号にすぎないと言っていた)。劇画調のリアリズムは、むしろそのアンチテーゼとして後から発生したものであることを前提とすべきだろう。
また事例として挙げられる作品が一般的な少年・青年・少女マンガだけでは、冒頭
に前提として「芸術」であると認めたはずのマンガがもつ文化史的な奥行きを浮き彫りにするには不足している。日本のマンガ文化を手塚治虫で代表させるのは間違いではないが、そのメインストリームの陰に追いやられた水木しげる〜つげ義春といったもうひとつの(まさにオルタナティヴな)流れを押さえておけば、吉田戦車やしりあがり寿(皮肉なことに今年手塚治虫漫画文化賞を受賞したが)のような現代の作家たちの位
置付けも立体的かつリアルなものになっただろう。
せっかくなので音楽にたとえて言うと、手塚治虫がマイルス・デイヴィスなら、水
木しげるはサン・ラのような存在だ。サン・ラを軸としたもうひとつの自由な音楽表現の開拓史をトレースすることによってブラック・ミュージックとしてのジャズの歴史はその奥行きを増し、ヒップホップへのアプローチがより明確になるように、我々の手塚史観に基づくマンガ史は今こそ水木らの存在で加筆修正されなければならない、というのが俺の持論。こと文学とつながる地下水脈を辿るにはつげ義春以下ガロ系の作家が欠かせまい。
試みにドミニク新二段には、唐突ながら水木しげる『コミック昭和史』全十巻の読
破を急務とし、それを踏まえた上での昇段合格としたい。
三島直也さん/四級合格
個人的には今回の応募作の中で最も共感しながら読むことができた論文だ。冒頭、
マンガのルーツを『北斎漫画』としながら、それをいきなりタナカカツキの『バカド
リル』に結び付ける手法は、村上道場主の名著『スーパーフラット』にも通
じる意外性と説得力をもっている。いいぞ。
期せずして三島五級の論文は、あらゆる点でドミニク初段の論文と対照的な内容の
ものでもある。前提として、ドミニク初段は「マンガは(少なくとも)大衆芸術である」とする一方、三島五級は「絵画とマンガはどちらが芸術っぽいかと問われたら
『絵画』と条件反射で答えてしまう雰囲気が世の中を占めている」と言う。
さらに芸術の定義として、ドミニク初段が「感情と想像力を喚起させ、鑑賞者の世
界観を広げる事」「感情を解放して喜びや悲しみとしてのカタルシスを得る」とするのに対し、三島五級は「普段、人が見ているものや無意識に潜む事柄を具現化させることで物事を解釈し、理由付けしようとする」「御祓いの作用」であるとしている。
前者がアッパー系なら、三島五級はチルアウト系の効能を芸術に見ているということか。(もちろん芸術には両方の側面
があるが)この対比が今回ばかりは読み手の俺をむちゃくちゃ面白がらせることにもなった。
結果的には、「マンガは物語を運ぶ道具に過ぎない」とプラグマティックに断定、
というか限定しながら自分の論理を展開してみせた三島五級の論文は、マンガのもつメディア特性にストレートに迫ることができたようだ。絵画やイラストレーションとは異なるマンガのもつリアリティやフェティシズムは、確かに物語的な全体像があって成立する妄想世界の産物である。
また今回の論文には表現上、一瞬くらっとさせられる魅力的な言葉がいくつか光っ
た。「肉の弾力」を「倍率調整して物語を経験する」といった言い回しは、浮世絵とアニメ絵をつなぐスーパーフラット感覚を見事に言い当てているように思う。本人は無自覚かもしれないが、そのあたりからマンガと現代美術の比較分析へと急展開しそうな気運もはらんでいる。前回、俺は「ゲームと芸術ではなく、ゲームの芸術性についての論考で終わってしまっている」と手厳しく書いたが、今回はその先に進むための糸口が一通
りつかめている。
あとは無難な結論を出す前に、つねに自覚的かつ積極的に、自分と読者をもう一歩
先まで連れていくつもりで、最後にアクセルを踏み込み、加速することだ。論文もまた論理を運ぶ乗り物にすぎない。だとすれば、問題はどこまで遠くまで行けるか、飛躍的に結果
をのばすかにある。
君にはスコット・マクラウドの《Understanding Comics》(『マンガ学』という邦題で日本語版が出ている)を読むことをお薦めする。マンガ表現独自の構造分析やアメコミと日本のマンガの比較に関して大いに参考になる書物だ。その上で、三島新四級としての次の展開をBBS上でぜひ聞かせてほしい。
期待してるぜ&今後ともよろしく頼む、だ。
「ミニマリズム」
時代さん/四級合格
現代美術におけるミニマリズムを日本の伝統文化に照合しながら、20世紀的な大量
生産・大量消費社会に代わるこれからの時代のエコロジーや情報における価値体系を
導き出そうとした論文だ。強引なようだがストレートで、無駄がなくシンプルにまとめられた論旨は、今回はとりあえず題材とのハーモニーのせいか効を奏している。
江戸時代のリサイクル生活についての記述はなかなか面白い。「たまごっち」や
「BITMAN」などの小型電子ガジェットにミニマル表現を見出すくだりも、前回の論文
同様にゲームクリエイターならではの視点として説得力をもっている。日本文化に見られる「見立て」は、奇しくも今回ドミニク初段がマンガの「記号=イメージ化」を説明する際にも使っているものだが、時代五級の論文の中でも有効にはたらいている。
ただ、質素な生活や見立ての文化をそのままジャポニズムに結び付けるのは、日本
文化の一側面でしかない。日本には弥生式土器やわびさびのような簡素な美意識と対照的に、縄文式土器や歌舞伎のようにバロック的な美意識もまた同時に存在する。かつて日本建築の研究者ブルーノ・タウトが桂離宮を持ち上げ、日光東照宮をけなしたように、両者は対立する美意識でもあるが、いわゆる「ジャポニスム」として欧米にウケているのは100年前も現在も、むしろ後者の派手な様式を勘違いしたきらびやかな日本趣味のほうだろう(その意味では無印良品やユニクロの海外進出などが、これまでなかったミニマリスティックな新種のジャポニスムになりうるのかもしれない)。
西洋近代主義の最終進化形態から生まれたミニマリズムの中にある最少限の思想
は、ただ日本的なもののみならず、広くアジア的、東洋的な価値観にも参照した脱西
洋、脱近代の思想だった。西洋と日本以外の領域に横たわる広大な世界にも目を向けられよ。さらにはそれらの上空に広がる無限の宇宙にも……。
究極のミニマリズムとは、「無」に「無限」を見立てること――それを俺なりのミニマリズム談義の最終結論として、今回の講評を終える。
|