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[19782] 女神の盾はつかえるか
Name: 士はサムライ◆2a504029 ID:1a1ef79e
Date: 2010/06/23 18:46
はじめまして、士はサムライと申します。

忌憚のないご意見・ご感想をどうぞよろしくお願いいたします。

以下本作のあらすじです。

世界中を旅しているヴァイオレットは、祝典で盛り上がる裕福な街を訪れる。祝典で発表されたのは、女神にたとえられる公爵令嬢フィオナと英雄として称えられるラファエル王子の婚姻であった。世紀のカップル誕生に沸き上がる国民――しかし、それを阻止しようと暗躍する者たちがいた。婚姻成立か、それとも破棄か? 剣と拳が王国の陰謀を暴いていく痛快活劇。



[19782] 序章
Name: 士はサムライ◆2a504029 ID:1a1ef79e
Date: 2010/06/23 18:48
 ヒンヤリとした空気が満ちた暗い部屋に、コツコツと足音だけが鳴り響いている。石レンガで作られた壁は、あちこち破損している。大人一人が大の字になって寝てしまえば、それでいっぱいになってしまうほどの広さしかなく、天井も低い。長身ならば屈まなければならないだろう。
 足音はだんだん大きくなっていき、突然ピタリと鳴り止んだ。と同時に部屋の中に小さな灯りがともった。ランプの火だ。その火に照らされて、二人の姿が浮かび上がる。
 二人とも黒いマントを羽織り、足元まですっぽりと全身を覆っている。二人はお互いに向き合う。
「よくやってくれた、お前の働きには我が主もたいへん満足しておられる」
 低く太い声。男の声には恐怖を与える凄みがある。
「へへ、簡単なことだ」
 しかし、もう一人のほうはへらへらと甲高い声で笑った。声の質から若さを感じる。
「これは報酬だ。受け取るがよい」
 そう言うと、男は懐から革袋を取り出した。それを若い男は受け取る。ズシリと伝わる重み。すぐに口を開いて中身を確認する。中にはまばゆい金貨が袋いっぱいに入っていた。
「約束の金額よりも多いはずだ。それほどお前の働きを我が主はお認めになっておられる。ありがたく思え」
 中身の確認を終えて、革袋を自分の懐の中にしまう。
「ま、これくらいは当然だけどな。でも、いいのか? これだけあれば、城の一つでも買えそうなもんだ。あんたの国は戦争ばっかりで、財政は苦しいんじゃないのか?」
 男はふんと鼻を鳴らして、声をさらに低くする。
「小僧、発言には気をつけろ。軽率な物言いは死につながるぞ」
 男の眉間に深い皺が何本も刻まれる。それを見てうれしそうに、
「それはそれは恐ろしいことだ」
 と大袈裟に肩を竦めて調子良く言った。
「さて、金も受け取ったことだし、これであんたらとの契約は完全に終了だな。じゃあ、オレは行くぜ。この部屋はカビ臭くてダメだ」
 別れを告げるように、男に背を向けて右手を軽く振った。
「まあ、待て。話はこれからだ」
「なんだよ? こっちはもうあんたに用はないぜ」
「ふっふっふ、もちろん仕事の話だ」
 男の言葉に体がピクリと反応した。
「ずいぶんともったいぶってくれるじゃねえか。今度は誰だ?」
 体を向き直し、生き生きとした声で訊ねる。
「仕事はここに書いてあるとおりだ」
 男は筒状に丸められた羊皮紙を取り出して渡した。
「今まで多くの者たちが失敗してきた難しい仕事だ。どうだ、やり甲斐は充分だと思うが?」
 一読して、にやりと口の左右を上げる。
「おもしれえ。最近は退屈な仕事ばっかりでうんざりしてたところだ」
「受けてくれるか?」
「ああ、しかし報酬はどうする? これだけの大仕事だ。城が買えるくらいじゃ、とてもじゃないが足りないぜ」
「もちろんだ」
 男は人差し指をピンと立てた。
「成功のあかつきには国を一つやろう」
 それを聞いて、「ほう」と息を漏らして、言葉をつなげる。
「よくわかってるじゃねえか。いいぜ、この仕事受けよう」
 顎に手をやり、何かを考えはじめる。そして慎重に口を開いた。
「明日の朝、使いの者を一人宿によこしてくれ。計画に必要なものを伝える」
「わかった。お前が望むものはすべてこちらで用意しよう」
「頼むぜ。なあに、簡単なものさ。ただ、数が必要だ。それにちょっとした工作も必要だ。それはあんたのところにいい職人がいるだろ?」
 男は頷いて見せる。
「お前が必要なものは必ずこちらで用意しよう。もちろん、最良のものをな」
「オレに失敗はない。朗報を聞かせてやるから待っておけ」
 男は「それは楽しみだ」と言って、のどの奥から絞り出したかのように掠れた声で笑った。
「我が王国に勝利と繁栄を!」
 ランプの火がふっと吹き消された。
 部屋は再び暗闇に閉ざされた。



[19782] 第一章 公爵家の女神
Name: 士はサムライ◆2a504029 ID:1a1ef79e
Date: 2010/06/23 18:52
 空は青く澄みわたり、暖かい太陽の陽射しが街全体を照らしている。心地よい海風が吹き、春の陽気を感じさせてくれる。
 港は数多くの異国船で溢れかえり、船からは大量の荷物が屈強な男たちの手により次々と運び出されていく。
 ここはミラーレス王国グラディアス領。王都から最も近い港街であり、人々の活気に満ちた街である。
 中心部に進むにつれて、街は多くの人々でにぎわいを見せる。とくに市場が開かれた通りにはたくさんの出店が所狭しと置かれ、日用品から武器防具の類、珍しい装飾品、花屋など多種多様の店が軒を連ね、人々の足を止めさせる。中でも色とりどりの野菜や果物を並べた店が多い。
「おい、そこのにいちゃん! どうだい、安いよ」
 白髪混じりで威勢のいいオヤジが店の前を通りかかった若者に声を掛けた。若者は全身を薄汚れたマントで覆っている。猫背で、なんだか頼りない感じだ。
「ん? オレに言ってんの?」
 声を掛けられた若者は被っていたフードをとって、ゆったりとした口調で訊《たず》ね返した。目尻が下がっているせいか、なんだか眠たそうにも見える。
「なんだいなんだい、元気ねえなあ。もっとシャキっとしねえと女にモテねえぞ。ほら、うちの果物を食ってごらんよ。どれもおいしくて栄養満点だ!」
 オヤジは店の前に並べてある真っ赤なりんごを手に取ると若者の目の前に差し出した。りんごの甘い香りが若者まで届いた。すごくいい匂いだ。食べたらとても甘くておいしいことだろう。
「オヤジありがとう。うまそうなりんご……」
 若者が差し出されたりんごに齧《かぶ》りつこうと口を大きく広げるが、オヤジは腕をすっと引っ込めた。若者の上下の歯がむなしくガチッと音を立てて重なり合った。若者は顔をしかめて、オヤジを睨む。
「にいちゃん、タダじゃだめだよ。世の中にはカネというものが存在するんだから」
 店のオヤジは片方の眉を上げて、人差し指を左右に振る。世の中そんなに甘くないとでも言いたそうである。
「なんだよ、くれるんじゃないのか。悪いなオヤジ、オレは旅の途中だから金がないんだ」
 若者はチェッと舌打ちをして店の前から立ち去ろうとした。
 店のオヤジは慌てて、若者の背中に唾を飛ばす。
「おいおい、ちょっと待てよ。にいちゃんがカネを持ってないことくらい、その格好をみれば誰だってわかるよ。でも今日は大特価だ! 買わないと絶対に後悔するよ」
 ふん、と若者は鼻から鳴らす。「買わないと損」だとか「後悔する」なんて言葉は商売人の常套句にほかならない。
「一応聞くだけ聞いておく、いくらだい?」
 オヤジはにたっと口角を上げ、人差し指から薬指までの三本指をピンと立てて、一段と大きな声で言った。
「たったの三エージだよ。三・エ・ー・ジ!」
 商売人として値段を言うときが最も力が入るときだ。オヤジは勢いよく指を若者の目の前まで突き出す。
 確かに安い。普通に買えばその倍以上はするはずだ、と考えると思わず腹が鳴った。
「わかった、わかった、買うよ!」
 若者は目の前の指から逃れるように言った。
「ありがとよ、にいちゃん!」
 満面の笑みでオヤジはりんごを茶色の紙袋に入れる。
「あんなにいい匂いをかがせられたから、食いたくて仕方ないよ。でも本当にオレは金ないんだからなー」
 若者はしぶしぶ懐から三枚の小さな硬貨を取り出してオヤジに渡した。
「わかってるよ。味は保証するし、この安さで買えることなんてもう二度とないよ」
「確かに、こんなに安いのは初めてだけど……なんか景気のいいことでもあったのか?」
 若者の質問にオヤジはきょとんとする。
「なんだい、なんにも知らないのかい? 今日はグラディアス公爵ご令嬢のお誕生日だよ」
 グラディアスはこの街を統治している公爵の名だ。
「なるほど祝祭ってわけか。どうりで街全体がにぎわってるわけだ」
「そう。これからその祝典が開かれるんだよ。なんてったって、世界中の国々が注目してる祝典だからね。てっきりにいちゃんも祭りを目当てにきたのかと思ってたよ」
「いやいや、オレはたまたまこの国を通りかかっただけだよ。でも、いくら公爵令嬢の誕生日とはいえ、世界中が注目してるってのはちょっと言いすぎじゃないのか、オヤジ?」
 チッチッチとオヤジは舌を鳴らしながら人差し指を左右に振った。
「それがな、噂があるんだよ」
「……うわさ?」
 オヤジは若者に顔を近づけるように手招きをする。若者は仕方なく右耳をオヤジの顔に近づけた。オヤジは声をひそめる。
「今日の祝典の中で重大発表があるらしい。その内容というのがまたすごいんだよ。しかしな、これはあくまで噂だ、絶対に公言するなよ。いいな?」
「わかったから、はやく言えよ。発表の内容は何なんだ?」
 もったいぶってなかなか話の芯にふれないオヤジに若者はやきもきした。その反応を楽しむようにオヤジは口を閉じたまま笑う。
「実はな、お嬢さまの婚約が発表される、という噂があるんだ」
「それが本当ならたしかかにめでたいことだな。で、その婚約相手は?」
 オヤジはよくぞ聞いてくれたとばかりにパンと手を叩いた。
「そうそう、そこが一番のミソなんだよ。婚約相手というのが、なんと……ラファエル王子なんだってさ」
 オヤジは「どうだ驚いたか」といわんばかりの表情で胸を張った。
 ラファエル王子はエリアス王国の第一王子で、将来を嘱望されている人物である。幼いころから剣術、学問ともに優秀で、十三歳のときにそれぞれの師を負かしたというエピソードをもっているほどの秀才だ。また、かなりの美男としても知られ、各国の王侯貴族の若い女性たちが求婚を申し込んでいるという噂話もある。ラファエル王子の結婚相手はいま世界中が注目しているといっても決して過言ではない。
「へえ、ラファエル王子かあ。それはすごいなあ」
 ラファエル王子の名を聞いて、若者も感嘆するように何度か頷いた。オヤジはしゃべりに勢いをつける。
「だろ? ラファエル王子の名前を聞いたことのない人間なんていないよなあ。今世界で一番の有名人だ。いずれ父君の後を継ぎ、名君となられる素質をもったお方だ。そんな立派な王子が、この街を統治しておられるグラディアス公のお嬢さまと結婚されるなんて夢のような話だろ。そうなれば、この街は王女さまの故郷として、もっともっと有名になって大きくなること間違いなしだ!」
 最初の小声はどこにいってしまったのか、オヤジは興奮を抑えきれずにうるさいくらいの力強さで言った。しかし、よく考えてみるとこんな重大なことを果物屋のオヤジだけが知っているわけがない。おそらく公然の秘密というやつだろうと若者は考えた。
「でも、なんでまた王子は公爵令嬢を結婚相手に選ぶんだ? どこか大国のお姫様と結婚したほうが、エリアス王国にとっても得することが多いだろ?」
「まったく何にもわかっておらんな」
 オヤジはやれやれとでも言いたげにため息をついた。
「――それはな、グラディアス公のお力なんだよ」
 オヤジは思い出を語るように顔を上げて、しみじみと言葉を続ける。
「グラディアス公の少年時代は家が貧しくてな、家庭を助けるために騎士見習いとして入隊したんだよ。しかも、常に最前線に送られて、命がいくつあっても足りないような部隊だったそうだ。しかし、グラディアス公はそこで次々と功績を上げ、異例の早さで昇進を重ねていったんだ。ついには最高の爵位である公爵位を賜ると同時にこの街を治めることを国王から任された。公爵が赴任されてちょうど十年になる。俺が小さい頃は、この街は何度も異国から攻撃を受けて、家が焼かれたり、略奪が頻繁に起こっていた。それに、港町だから他国からならず者たちが集まってきたりして、そりゃあもう治安は悪かった。しかし、グラディアス公が政治を行うようになってから、街は発展するばかりさ。こんなにうまくて、珍しいものが手に入るようになったのも、治安が良くなって平和になったのも、暮らしが楽になったのも、みんなグラディアス公のお陰だよ」
「うん、いろんな国のいろんな街を見てきたけど、こんなに活気のあるところは初めてだ。立派な公爵なんだなあ。国王の信頼も厚いし、国民の支持も絶大というわけか」
「ああ、そうだ。そのひとり娘がフィオナ様だよ。これがまた、お美しいお嬢さまなのさ。ラファエル王子とフィオナ様、本当に最高、いや、奇跡のカップルといえるね!」
 オヤジは顔をくしゃくしゃにして拳を振った。もううれしくて仕方がないのだ。おそらくこれまで何十人にも同じ話をしては、喜んでいたのだろう。
「奇跡か……よし、せっかくだからその祝典を見てみようじゃないか。どこに行けばいいんだ?」
「この通りをまっすぐ進みな。そしたらこの街で一番大きな通りに出る。そこを右に曲がって直進だ。そうすればアクア広場が見えてくるから。大きな広場だし、今はいろいろと飾りがしてあってきれいだよ」
「ありがとう、オヤジ、早速行ってみるよ」
 若者は再びフードを被った。そして、陳列してある小さな丸い緑色の果物を一つ手に取った。
「これももらうよ」若者は手に取った果物をオヤジに示した。見たこともない果物だったが鮮やかな色でとてもおいしそうだ。
「え、いいのかい? カネがないんじゃ……」
「いいんだよ。いいこと教えてもらったから、そのお礼だ」
 若者は懐から硬貨を取り出してオヤジに渡した。
 若者はりんごをかじりながらオヤジに言われた通りの道を進んだ。大きな通りに出ると、人の往来はさらに激しくなった。道端では大道芸人たちが大きな輪を回したり、逆立ちや宙返りを見せていた。
 行き交う人々からは笑顔がこぼれ、笑い声があちこちから聞こえてくる。最近は、様々な国家間で戦争が頻発し、多くの人々が困窮している。それらの国々にくらべるとここは楽園といえる。
 大道芸を眺めながら通りを進むと、大きな看板が目にとまった。看板には『アクア広場』と書かれている。ここがオヤジの言っていた広場に間違いないようだ。
 見上げると、さまざまな家紋の描かれたペナントが円形の広場を囲むようにずらりと並んでいる。グラディアス公爵の交流の広さと影響力が世界各地にわたっている証拠だ。また、広場の脇には緑が美しい街路樹が等間隔で並んでいる。ここまで計画的に整理された街はまれだった。
「これはすごい」と若者から思わず声が漏れる。
 人の流れに沿って広場の中央へと進むうちに、りんごを食べ終えてしまった。しかし、空腹が満たされることはない。そこで、買ったばかりの緑色の果物をかじった。
 その瞬間、強烈な刺激が口の中を襲った。すさまじい辛さだ。舌を無数の針で刺されたような痛みが走る。慌てて口の中からすべて吐き出して、悶絶しながら腰に提げていた革袋の水で何度も口の中をすすいではその場に吐き出した。
「なんだよ、これ? 果物じゃなくて唐辛子じゃないか。ちくしょう、貴重な水をほとんど使ってしまった」
 若者の目には涙がたまり、顔は真っ赤になって大量の汗が噴き出している。
「あのオヤジもこんな危険なもん売るなら注意くらいしろよな!」
 なんとか、落ち着いてきたがぶつぶつと文句を言わずにはいられなかった。そこへ「おい」と後ろから突然声を掛けられた。
 声の調子からして、あまりいい話ではなさそうだが、無視するわけにもいかず若者はゆっくり振り返った。そこには予想通り衛兵の姿があった。
「どこから来た、出身はどこだ?」
 人を脅すような低い声と旅を続けている中で何度聞かれたかわからない質問に辟易しつつも、
「生まれはダリオ共和国。世界中を旅をしている途中にこの街を通り掛かった」
 と素直に答えた。
「世界中を旅……目的は?」
 衛兵は巨体を鎧に包み、国旗が描かれた兜まで装備している。体が大きく、力も強そうである。
「目的なんかない。あてもなく、気の向くままに世界中を歩いているだけだ」
 衛兵のでかい顔が目の前までやってきた。不信そうに若者の顔をじろじろ見ている。
「気の向くままだと……いま世界は非常に緊迫している状況だ。簡単に入国できる国は数少ないはずだがな」
「もちろん、入国を認めてくれるところしか行かない。入国の許可がおりるまで何ヶ月も足止めをくらったこともあるさ」
 若者の説明に衛兵は納得する様子など少しも見せない。
「身分を証明できるものはあるか?」
 大事な祝典の前だ。こうやって少しでも怪しい人間を排除しようと目を光らせているのだろう。あの唐辛子のせいで若者は目立ちすぎたのだ。
「これしかないけど」懐から小さな長方形の紙切れを取り出した。
「以前、旅客船に乗ったときの切符だ。ほら、ここに名前も書いてあるだろ? これくらいしか持っていない」
 衛兵はぼろぼろの切符を手に取ると名前を確認した。
「ヴァイオレット……二十一歳、男。これだけしか表記されていないのか」
「ああ、名前と年齢と性別が書いてあれば充分だろ。それ以外に何が必要なんだ?」
「これは正式に身分を証明しているものではない。こんなものの中身はどうにでも細工できる。しかも、お前のその身なりは祝いの場にはふさわしくないものだ。悪いがここから祝典を観ることは許可できない」
 衛兵はきっぱりと言い放つとくしゃりと切符を握りつぶした。
 ヴァイオレットと名乗った若者は衛兵の言葉に対して肩を揺らして笑った。
「そうかい、そうかい。グラディアス公は名君だと聞いていたけど、意外と肝っ玉が小さいんだな。オレみたいなただのガキを排除しなきゃ、安心できないのか?」
「貴様!」
 衛兵はヴァイオレットの胸倉を掴んで、睨みつけた。
「口を慎めよ、小僧。ここで死にたいのか?」
 衛兵は殺気のある低い声で言った。相当、頭に来たようだ。
「なんだよ、こんなめでたい日に死体を作る気か? そんなプレゼント、お嬢さまも欲しくないと思うけどな」
 ヴァイオレットは脅しにまったくこたえす、涼しい顔をしている。
 その態度が衛兵の怒りをさらに増幅させた。こめかみに太い血管が浮かび上がり、目が血走っている。胸倉を掴んだ右手が、怒りのあまりぶるぶると震えだした。
 しかし、ヴァイオレットは依然余裕の笑みを浮かべている。衛兵の任務は余計な騒ぎが起きないように警備することだ。ところが、広場に集まった人々の中には、すでにヴァイオレットと衛兵がなにやらもめているのに気づきはじめた人間もいる。
 衛兵もバカではない。人々の注目を感じ、これ以上この場でヴァイオレットと対峙することはまずいと判断したのだろう、ガリガリと歯軋りを立てたあと、他の衛兵を呼んだ。
「隊長、お呼びでしょうか」二人の衛兵が後方から現れた。
「こいつを連れていけ」
 そう命じられた衛兵二人はヴァイオレットの両腕を抱え、強引に引っ張るように広場の外れへと連れ出した。
 そこはレンガ造りの建物がいくつか並んでいる通りだった。おそらく、衛兵たちの詰め所としてこしらえられたものだろう。中央にある大きな赤レンガの建物が目立っているが、ヴァイオレットはその脇にある小さな建物の中へ連れ込まれた。入口前には両脇に衛兵が立っており、お互いに目を合わせると扉を開けた。建物の中に入るとすぐに地下へと続く階段が延びており、十段ほど降りた先に鍵がついた鉄柵がみえる。
 そう、そこは牢屋だった。
 ヴァイオレットは衛兵から乱暴に背中を押されて、檻の中に押し込まれた。
 ガチャンと冷たく重たい音が響く。
 牢屋の扉は固く閉ざされ、ヴァイオレットは狭い四方の部屋の中に監禁されてしまった。
 牢屋は地下にあるため、外の明るい陽射しはほとんど入ってこない。最初は何も見えなかったのだが、だんだん目が慣れてくると少しだけ牢屋の様子がわかるようになた。
 牢屋の中には何も置かれておらず、五、六人が入るといっぱいになってしまうほどの広さしかない。もしかしたら、即席の牢屋かもしれないとヴァイオレットは考えた。
 あの衛兵は、はじめからヴァイオレットをここに入れるつもりで声を掛けたのだろう。祝典が無事に進行するためにとりあえず怪しい輩は監禁しておくつもりだったはずだ。
 そう考えるとだんだん腹が立ってきた。あの衛兵のでかい顔が脳裏に浮かぶと我慢できずに壁を蹴った。
「とにかく座ったらどうだい?」
 部屋の片隅から声を掛けられ、ヴァイオレットはドキリとした。よく目を凝らしてみると、隅に人影があった。
 長髪を後ろで一つに結んでいる。体の線が細く、幾分頬がこけているようにも見える。姿形から女性かと思ったが、声は間違いなく男のものだった。
「なんだ先客がいたのか」
 ヴァイオレットはその場に腰を下ろした。
「せっかくもう少しで祝典が始まるところだったのに残念だったね」
 男の口調はとてもやさしく穏やかなものだった。
「まあね。でも、それはあんたも同じだろ? 髪を切る暇がないほど祝典が見たくて遠くからやって来たんじゃないのか?」
 男は困ったように自分の頭を撫でた。
「髪はただ伸ばしているだけだよ。やっぱり似合わないかなあ。それに私はこの街の住民だよ」
「ふ~ん。じゃあ、何をやらかしたんだ? めでたい日に盗みでもした?」
「ふっ」男は思わず吹き出してしまい、口元を手でおさえた。
「そうか、できるだけ早く髪を切ることにしよう。どうやら私の今の風貌では浮浪者か、盗人にしかみえないらしいからね」
「ああ、それをおすすめするよ。でも、ここに監禁されているってことは善人じゃないんだろ?」
 男は首を左右に大きく振った。
「とんでもない、私自身は善人でいるつもりだよ」
「ははっ、自分のことを善人だなんて言っているうちはダメだよ。そういうヤツが一番怪しいんだから」
「それもそうだね」と頷いて男も笑った。
「ただね……」
 男の口調が急に寂しさを帯びた。
「私は王国から危険人物と目されているみたいなんだ」
――危険人物……この男が……?
 一瞬、男の言っている言葉の意味がヴァイオレットにはわからなかった。華奢《きゃしゃ》で見るからに貧乏そうなこの男が、王国から危険視されているとは、にわかには信じがたいことだった。
「へえ、危険人物か。なんだかおもしろそうだな。革命でも起こして王様になるつもりか?」
 男はうつむきながら首を軽く振った。
「私はただ国民のためを思って、意見を言っているだけだよ。革命を起こそうなんて気は微塵もない。私はこの国を心から愛している、ただそれだけなんだ」
 男の顔はよりいっそう寂しそうになった。
 平和に満ち溢れたこの街に不満を抱いている人間がいることにヴァイオレットは興味をもった。「陽」が当たるところには必ず「陰」ができる。この男は「陰」の部分を深く知っているのかもしれない。いや、知りすぎているからこそ王国にとっては危険人物なのか。
「おもしろい街だな。ますます興味が湧いてきたよ」
「牢屋に入れられておきながら、おもしろい街だなんて、君こそおもしろい人だね」
 男の顔に笑みが戻った。よく見ると鼻筋が通っていてなかなかの男前だ。口調が常に穏やかで優しく、聡明な印象を受ける。
「オレはヴァイオレット。旅の途中でこの街に来たんだ」
「私はルシオ。子供たちに学問を教えている」
 ルシオと名乗った男は右手を差し出してきた。それに応じてヴァイオレットも右手を出して、握手を交わす。ルシオの指は細く、女性のようだった。しかし、手を握ったときヴァイオレットは違和感をおぼえた。ルシオの掌がとても硬く、マメがいくつもあったからだ。これがただ学問を教えている先生の手とは思えなかった。こんな手になるためには……。
「あんた、もしかして――」
 そのときだった、ヴァイオレットの声を遮るようにラッパと太鼓の音が外から聞こえてきた。
 祝典が始まったのだ。
 割れんばかりの喝采の声と拍手が牢屋まで聞こえてくる。
「はじまったか……」
 ルシオはおもむろに立ち上がると、鉄柵の前に近づいた。ヴァイオレットも立ち上がると、両手で軽く尻をはたいた。
「すごい、盛り上がり方だなあ。これはやっぱり見逃せない。人気者のグラディアス公とそのお嬢さまを拝見させていただきましょうか」
 ヴァイオレットは錠の部分に右手を翳《かざ》した。もちろん、鍵は掛けられている。
「こんな鍵、簡単に壊せるさ。見てなよ、こうやって――」
 ヴァイオレットは右掌を一気に押し当てた。その瞬間、甲高い金属音が響きわたり、錠がはじけ飛んだ。
 ルシオは目を丸くして破壊された錠とヴァイオレットの顔を交互に見た。
「なんだい今のは……君は一体……?」
「たいしたことないよ。それよりも次は衛兵たちをどうにかしないとな。まだ、ここから脱出できたわけじゃない」
 錠を破壊した音に衛兵たちが気づかないはずがない。すぐにここへやって来るだろう。
「それなら、心配はいらない」
 ルシオは小さく首を振る。
「なに言ってんだよ? 外には衛兵たちがどれだけいるかわからないんだ。ここからが本番だぞ」
 妙に楽観視しているルシオの気持ちがヴァイオレットにはまったく理解できない。
「なんだ、今の音は! はっ、お前ら何をしている!」
 早速、衛兵が牢屋の異変に気づいてやって来た。すでに剣を抜いて、こちらに襲いかかる体勢をとっている。ヴァイオレットは足元に力を入れ、戦う構えをとった。しかし、衛兵は突然白目をむいて、階段から転げ落ちてきた。確かめると完全に気を失っている。
 ヴァイオレットは状況が理解できずに階段の先に視線をやる。すると、そこには少年の姿があった。手には剣を握っている。この少年が衛兵を気絶させたのだろうか。
 少年は階段を駆け降りて来て、
「先生、ご無事ですか?」
 ルシオを心配そうに訊《たず》ねた。
「ああ、怪我一つない。よく来てくれた、ありがとう」
 ルシオは少年の両肩にポンと手を置いた。少年の顔に安堵の表情が生まれる。
「ご無事でなによりです。外の衛兵はすべてリカルドたちが引き付けています。脱出するならいまが最もいいでしょう!」
「うむ、行こう」
 ルシオは満足そうに頷くと、ヴァイオレットへにこやかに微笑みかけて言った。
「ほら、心配いらなかったでしょう?」
 地下牢から表へ出る前に少年はルシオにマントを渡した。フード付きで全身を包むことのできるものだ。色褪せていて、かなり使い込んであることがわかる代物だった。それをルシオはさっと身に着けた。
 階段を駆け上がり、建物から外に出ると太陽の光が目に飛び込んでくる。と同時に大歓声が鼓膜を揺らした。思わずヴァイオレットは両耳を手でふさぐ。
 あまりの大歓声にお互いの声が聞こえないほどである。ルシオは少年に顔を近づけてから会話をする。
「マーヴィン、あれの用意はもうできているか?」
「はい、もちろんです。すぐに組み立てることができる状態です」
 マーヴィンと呼ばれた少年は自信をもって答えた。ルシオはマーヴィンの返答に満足したように笑顔で頷いてみせる。
 そのときである、地面を揺らさんばかりに人々の歓声がより大きくなった。いま街全体が歓喜の声に包まれている。
「いよいよ公爵の登場が近いのだろう」とルシオが冷静に言った。
「そりゃ、ちょうどいい。いい暇つぶしになったよ」
 ヴァイオレットはフードを被った。
「私たちはこれからやらなければならないことがあるので、ここで失礼するよ」
 そう言うとルシオは右拳を左肩に添えた。きっとこの国の別れのあいさつなのだろう。
「ああ、オレは広場に戻って見物してくるよ」
「危険だけどいいのかい? 今度捕まったらただじゃすまないだろうからね」
 ヴァイオレットは右手を軽く左右に振る。
「何言ってんの。いちいち危険を気にしていたら、旅なんてできないよ。それに――」
 ヴァイオレットは言葉を切ってルシオの顔を見る。ルシオの表情は引き締まり、瞳には強い決意がこもっている。
「あんただってこれから自分の命を懸けるんだろ?」
 ヴァイオレットの問いにルシオはゆっくりと頷いた。
「自分が信じてきた行動をとってみるよ。そのためなら命は惜しくないさ」
「先生……」
 マーヴィンの表情が曇る。ルシオは優しく微笑みかけた。
「人の人生は何をしたかで決まるものさ。何年生きたかではない」
「はい!」マーヴィンは力強く頷いた。
「ヴァイオレット君、もし機会があればまた会おう」
 ルシオとマーヴィンは駆け出した。そして、すぐに二人の姿は細い路地へと消えていった。
 ヴァイオレットは連れてこられた道とは一本外れた道を通って祝典が行われている広場へと戻った。
 ものすごい数の群衆だ。広場全体が隙間なく人で埋めつくされていて、後方からでは何も見えない。ヴァイオレットは屈んで、強引に群衆の奥へ奥へと進んでいった。群衆の中に埋もれていれば、衛兵に発見されにくいだろうし、たとえ見つかったとしてもこの大混雑を利用して逃げきれる自信がある。
 人々が視線を向けている先には、高く組み立てられた舞台が設置されている。左右の階段から二人の騎士がゆっくりと昇ってきた。鎧には鮮やかな装飾がほどこされている。鎧の中央に刻まれた模様は公爵家の家紋だろう。
 二人の騎士は腰の剣を抜くと、胸の前でまっすぐに立てて構えた。すると、舞台の中央奥から黄金の鎧を着た中年の男が堂々と胸を張って現れた。
 その男がグラディアス公爵なのは間違いなかった。姿が見えた途端に地響きがするほどの大歓声が起こったからだ。
 グラディアス公は目元が鋭く、口ひげを生やした精悍な顔つきをしている。鎧の下は強靭な肉体をもっているのだろう。重装備にもかかわらずなんなく着こなしている。数々の激しい戦いをくぐりぬけてきたことが彼の風貌から伝わってくるのだ。
 グラディアス公は舞台の中央で立ち止まると、群集へ向かって軽く右手を上げた。その動きに人々は自ら手を振り、口笛や拍手でこたえた。
 グラディアス公はゆっくりと辺りを見回しはじめた。ただ黙って群衆を見つめる。人々が落ち着き静かになるのを待っているのだ。そのことに気づいた人々は拍手喝采を止め、グラディアス公の発言に注目した。やがて場内が静まり返った。
 公爵は一呼吸してからしゃべりはじめる。
「諸君、今年も娘フィオナのために集まってくれてありがとう!」
 はっきりとした声が広場全体に行きわたる。
 円形状の広場は、周りを壁で囲まれた造りになっているため声を反響させやすい。公爵の力強い声が広場全体にこだまする。
「今日は我が娘フィオナが誕生した記念の日である。フィオナが生まれて以来、私は戦で負けたことがない。連戦連勝を重ね、王国は領土を拡げている。いまでは大陸一の王国へと成る日も決して遠くはないだろう。街は活気に溢れ、諸君の生活も豊かになっているはずだ。まさに、フィオナは我らにとって勝利をもたらす女神だ!」
 女神という言葉に呼応するように人々の間から「おおおおおおお!」と歓声が起こる。満足気に公爵はさらに言葉を続ける。
「今日十八歳になった我が娘、公爵家の女神をみなで祝福しようではないか!」
 天をも貫く竜巻のような大歓声が巻き起こった。狂乱とも言える歓喜の渦のなか、女神と呼ばれたフィオナ嬢が舞台奥から姿を現す。
 その姿に人々は息を呑んだ。
 フィオナ嬢の美しさは女神とたとえるにふさわしいものだった。人々を見つめる二つの瞳は淡いブラウンで、不思議とその瞳に吸い込まれそうな感覚におちいってしまう。鼻筋は見事に通っていて、薄い唇が紅く染まっている。白く艶のある肌を胸から膝下まで青いドレスが包み、細く引き締まった体の線をより美しく表現している。究極の美を追い求める彫刻家が生み出した作品といってもいいほど、フィオナ嬢の容姿は芸術的である。
 フィオナ嬢のあまりの美しさに人々は言葉を失った。全員が女神を目の当たりにして呆然と酔いしれていた。
「これまでフィオナは祝典のときだけ諸君の前に姿を見せてきた。しかし、十八歳となった今日からは積極的に王国のため、国民のために働くことを宣言しよう!」
 グラディアス公の言葉を聞いて、場内はまた一気に盛り上がった。
「それからもう一つ、諸君に報告しておきたいことがある。エリアス王国の第一王子であられるラファエル王子をフィオナの婿として迎え入れる準備ができたのだ!」
 公爵の高らかな声が広場に広がると同時に、人々の驚きと歓喜の声が鳴り響いた。なかには涙を流しながら喜ぶ者もいた。
 ヴァイオレットも驚きを隠せなかった。エリアス王国が、第一王子を婿に出すなんて常識では考えられないことだからだ。フィオナ嬢がラファエル王子のもとに嫁ぐというだけでも大変なことなのに、一国の王子を婿養子に迎えるなんて……どこまで公爵の力は強大なのか。想像をはるかに超えた内容だった。
「グラディアス! グラディアス! グラディアス!」
 公爵を称えるため、人々は何度も名前を連呼した。
 公爵は満足そうに笑みを浮かべ、人々の声援に両手を振って応えた。フィオナ嬢も笑顔で右手を振る。手を振るたびに肩まで届いた艶のある黒髪が揺れて、ときおり耳にかかった髪を指で分けた。その笑顔と仕草に人々は吸い込まれるような感覚さえおぼえた。
 どのくらい人々の歓喜の声が続いただろうか。ようやく落ち着いてきたところで、両側に構えていた騎士が、おもむろに剣を下ろした。祝典が終わろうとしている。公爵とフィオナ嬢が群衆に背を向けて、舞台から消えようとした、そのとき、どこからともなく声が聞こえてきた――。
「グラディアス公爵、どうかおやめくださいぃぃ!」
 その声は間違いなくルシオのものだった。
 人々の間にざわめきが起こる。みな辺りを見回して、声の所在を探した。公爵とフィオナ嬢も舞台を降りようとした足を止め、辺りを見回している。
「あ、あそこだ! 塔の上に人がいる!」
 群衆の一人が指さした。その方向を全員が一斉に視線を向ける。
 広場の東の外れに塔が立っている。人が住むためのものではなく、見張りのために建てられたものだ。その塔のてっぺんに男が一人立っている。その男が身に着けているマントには見覚えがあった。
 ――ルシオだ!
「公爵、フィオナ様とラファエル王子の婚約の話はおやめくださいぃぃ!」
 ルシオの言葉を聴いた公爵の眉間に皺が刻まれる。フィオナ嬢は表情を変えることなく塔の上にいるルシオをただ見つめている。
「あの声はルシオ先生じゃないか?」
「そうだ、先生の声だ!」
 声の主がルシオのものだと多くの人が気づきはじめた。ルシオがこの街では有名人であることがわかる。しかも、人々の反応からすると決して敵視されているわけではないようだ。
 広場にいた衛兵たちがルシオを捕縛すべく塔の方へと慌てて駆け出していく。ヴァイオレットも人波をかきわけて塔へと急いだ。
「塔の入り口はすべて閉鎖していたはずだろうが! 担当は何をしていたんだ!」
 ヴァイオレットを牢に入れた衛兵が怒りを部下たちにぶちまけていた。ヴァイオレットは、ざまあみろと横目で見ながら気づかれないようにさっと通り過ぎる。
 その間もルシオは両手を大きく広げ、人々に訴えかけた。
「ラファエル王子とフィオナ様の婚約は大変危険です! エリアス王国はいま武力を背景にして大義なく、他国へ次々と攻め入っています。この婚約が成立すれば、必ず我が王国もエリアス王国が行う私利私欲のための戦争に巻き込まれます!」
 人々のざわつきが一段と大きくなっていく。しかし、ルシオの声を遮るのではなく、みなルシオの話を聞こうとしている。
「王位継承候補の第一王子が婿に入るなど聞いたことがありません! きっと何か企みがあるはずです! それに――グラディアス公、あなたは力を持ちすぎている!」
 ルシオは一呼吸おくとさらに言葉を続けた。
「お嬢さまを他国の王子と結婚させることで、さらにあなたの力は強大なものになります。しかし、国王陛下までもがあなたの力に不信感を抱きはじめています! このままでは諸侯からも疎まれる存在になるでしょう。命のやりとりが行われるのはなにも戦場だけではございません。必ず無数の暗殺者から命を狙われます! 強大な力を手に入れることが、結果として自ら身を滅ぼすことになり、グラディアス公のいない王国など死に絶えたも同然です。必ず滅びるでしょう!」
 ルシオは政策批判ともいえる意見をはっきりと言い切った。
 一般市民が国の政治体制を批判をすることは重罪である。政治は貴族が行うものであり、平民が口出しできるものではない。もちろん、それはこの国においても例外ではなく、身分の区別は明確であった。
 ルシオの言葉はあまりにも過激すぎた。あまりの内容に群衆はみな一様に驚きで黙りこんでしまった。公爵だけではなく、王国の滅亡まで示唆するその発言がどれほどの罪になるのか容易に想像できたからである。

 ヴァイオレットはようやく塔の前にたどり着いた。塔の周りではルシオの教え子たちが多くの衛兵たちと戦っている。あちこちで剣を交える金属音と勇ましい声が聞こえる。少年たちは善戦しているようで、衛兵たちは必死の表情で戦っている。
 ヴァイオレットは塔の右側面に梯子《はしご》のようなものがバラバラに散乱していることに気づいた。
 ――そうか、ルシオは互いを組み合わせられるように梯子を細工したんだ。そうすれば、運ぶのも容易だ。牢から出た後にこれを使って塔のてっぺんまで昇ったんだ。
 ドタドタと大きな足音を立てて巨体の衛兵が塔にやって来た。隊長と呼ばれていて、ヴァイオレットに難癖をつけてきた男だ。
「まだ、ルシオを捕まえられんのか! こんなガキども相手に何をやってるんだ、何を!」
 傍にいた部下が申し訳なさそうに何度も頭を下げて、現状を報告してから、塔の入口へと剣を抜いて駆けていった。
「まったく自分は遅れてきたくせに、偉そうにしてんなあ」
 背後からの声に衛兵隊長の男は慌てて振り向いた。
「お、お前は! そうか、貴様もルシオの一味だったのか!」
 隊長は剣を抜いた。眉をつり上げ、ヴァイオレットを睨みつける。
「お、いいねぇ。さっきは人目が気になってオレを殺せなかったんだろ? ここなら思う存分できるぜ」
 ヴァイオレットは両手を広げてみせた。隊長は顔を真っ赤にして、剣を頭上高く振り上げる。
「クソガキがああぁぁ!」
 怒りにまかせて振り下ろす。しかし、剣先は石畳を叩きつけ、耳鳴りがするほどの金属音とともに手に痺れが伝わる。ヴァイオレットは身を翻してあっさりと剣をかわしていた。
「そんな大振りじゃ、目を閉じていてもよけられる。お前、剣術学んだことあるのか? よくそれで衛兵隊の隊長が務まるな」
「なんだと!」
 挑発を受けて、隊長の怒りは最高潮に達した。こめかみと額に太い血管が浮かび上がり、頭部からは湯気が出てている。
 その顔を見てヴァイオレットは「ぷっ」と吹き出した。
「なんて、顔してんだよ。それじゃ、戦う前に頭の血管が切れて死ぬぞ」
「もう許しちゃおけねえ」
 隊長はうなるように言うと剣を構え直した。
「ああ、お互い遠慮なしでいこう」
 ヴァイオレットは準備運動のように右肩を軽く回す。
「ぬおおおおおお!」
 隊長は大声を張り上げて、縦に横に剣を振を振り回した。しかし、刃はむなしく空を切るばかりだ。
「だから、そんな大振りじゃ当たらないと言ってるだろ。少しは人の言うことを聞け」
 相手の単調な攻撃に嫌気がさしたヴァイオレットは口をすぼめる。
 何度目かの空振りで隊長は大きくバランスを崩した。ヴァイオレットはそこを見逃さない。一気に懐深く飛び込んで、隊長の脇腹に右手を押し当てた。その瞬間、隊長の腹から背中へ衝撃が突き抜け、体が大きく後ろにふっ飛んだ。
 仰向けになって倒れた隊長は、すぐに立ち上がろうとするが、上半身を起こしたところで、ごほごほと激しく咳き込んだ。まともに呼吸ができずに苦しがっている。
 ヴァイオレットはその様子を見て、隊長はしばらく動けないはずだ、と判断した。苦しんでいる姿を見て、多少は気が晴れた。次はルシオの状況だ。顔を真上に向けて塔の頂上に視線を走らせた。
 すると、二人の衛兵がルシオの背後にそっと迫っていたところだった。塔の入口をかためて、内部への進入を防いでいたマーヴィンたちだったが、ついに入口を突破されてしまったようだ。
「危ない! 先生、後ろ!」
 ヴァイオレットよりも一瞬早く気づいたマーヴィンが塔のてっぺんに向かって声を張り上げた。
 ルシオは背後の衛兵の存在に気づくと、さっと身を反転させながら剣を抜いた。そして、足場の悪さを感じさせない、見事な身のこなしで二人を相手に戦った。ひらりひらりと衛兵たちの攻撃をかわしていくうちに二人を斬った。
 ルシオのあの硬い掌とマメは間違いなく剣術の修行によってできたものだ。生半可な剣の腕で作られる手ではない。下っ端の衛兵がいくら束になったところでルシオを斬ることはできないだろう。
 心配そうにルシオを見つめているマーヴィンにヴァイオレットは声を掛ける。
「大丈夫だ。あの程度なら何人塔に昇ってもルシオがやられることはない。それより、ここから逃げる準備をしたほうがいいんじゃないか?」
 思わぬ助言にマーヴィンは訝しげな表情をヴァイオレットへ向ける。
「あなたは我々の味方なんですか?」
「味方なんかじゃないさ。ただの見物人だよ」
 顔から疑問符が消えないマーヴィンに対してヴァイオレットは言葉を加える。
「ルシオはおもしろい奴だってことがよくわかった。あんなこと言える奴はそうはいない。ここで死なせるには惜しい存在だ。もっとルシオが暴れるのを見てみたいね」
 マーヴィンにはヴァイオレットの真意がまったく読めなかった。しかし、いまは深く考え込んでいる暇はない。とりあえずこの男が敵ではない、とだけ理解した。
「ここから……生きて……帰れるわけがないだろうがぁぁ」
 息も絶え絶えになった衛兵隊長が声を絞り出す。まともに立つこともできずに片膝をついていて、ぜえぜえと肩で呼吸をしている。
「あらら、意外とタフだねえ。もう少し痛みで悶絶するかと思ってたよ。さすが衛兵隊長、立派、立派」
 ヴァイオレットはすっかり存在を忘れていた隊長へ向けてパチパチと手を叩いた。
「てめえだけは絶対に殺してやる」
 隊長はやっとの思いで立ち上がる。しかし、体がふらふらと左右に揺れて、まったく安定ない。
「無理すんなよ。今度は手加減しないから、確実に死ぬぞ」
 見ちゃいられないとばかりにヴァイオレットは片目を瞑って、右手を縦に振った。
 ふらふらの隊長を見て、にやけていたヴァイオレットの表情が突然険しくなった。鼓膜が何かを捕らえたのだ。
 神経を耳へ集中させる。
――蹄の音だ。
 それも一頭や二頭の蹄音ではない。馬の集団がここにやって来ている。
 間違いない。
「ついにグラディアス騎士団のお出ましだ」
 ヴァイオレットの頬を一筋の冷たい汗が流れ落ちた。
 蹄の音がだんだん大きくなる。もうすぐそこまで近づいて来ている。
 塔の頂上にいるルシオからはすでに騎士団の位置が確認できたようで、緊張のこもった声が地上へ発せられる。
「騎士団がすぐ角まで来ている! もういい、みなはここから離れるんだ!」
 ルシオの言葉に少年たちはみな首を横に振る。最後までルシオと戦う覚悟でいるのだ。
「来た!」
 建物の角から、次々と騎士が姿をあらわした。全員が銀の鎧で全身を包み、顔全体を兜で覆っている。その姿は人型をした金属の塊と形容するのが最も適しているだろう。数は十騎。一人を先頭に三列縦隊で進む。彼らがまたがる馬は黒毛の大型馬で統一され、一歩一歩に気合いがみなぎっているのがわかる。まさに威風堂々。騎士団からものすごい重圧感と威圧感をこの場にいる全員がひしひしと受けている。
 騎士団の登場に仲間であるはずの衛兵たちも息を呑んだ。
「こいつは確かにすごそうだ」
 ヴァイオレットは乾いた唇をなめる。グラディアス騎士団の存在はあまりにも有名だ。公爵自らが団長を務め、常に王国軍の先駆けとして敵陣を突破する百戦錬磨の最強騎士団。
「下がれ、ヒューゴー」
 騎士団の先頭にいた男が冷たい口調で告げた。ヒューゴーは背筋を緊張させる。
「は、はい……申し訳ございません」
 いまだに震える足をかばいながら、ヒューゴーと呼ばれた衛兵隊長はすごすごと引き下がった。
「ひゅー、騎士団まで登場してくるなんてルシオは人気者だねえ」
 口笛まじりにしゃべるヴァイオレットを、兜の隙間から鋭い視線がとらえる。
「なんだ貴様は?」
「ただの通りすがりだよ。なんだかおもしろそうなことやってるから見てたんだ」
「ここは遊び場ではない。すぐに立ち去れ」
 ケッとヴァイオレットは短く息を切る。
「人から命令されるのは嫌いなんだ」
「そうか」騎士は腰の剣を抜く「後悔することになるぞ」
 そう言って剣を頭上へと掲げた。すると、いままで列を作っていた騎士団が一斉に四方八方へと動きだした。塔をぐるりと囲むように等間隔で陣形をとった。
「騎士団の狙いは私だ! みなは早く逃げなさい!」
 塔の上からルシオが必死の形相で叫んだ。
「その通りだ」
 騎士が頭上の剣をヒュッと空気を斬るように振り下ろした。
 それを合図に騎士団の手元から放たれた何本もの矢が空を翔けていく。
 そして――一本の矢がルシオの胸に突き刺さった。
 矢に射られたルシオの体は一瞬硬直したのち、前のめりに倒れた。塔のてっぺんの斜度はきつく、ずるずるとルシオの体は端へと滑っていく。この高さから落下すればまず命が助かることはないだろう。
 しかし、騎士団は落下を待つことなく、すぐに第二矢を射るべく弓を構えた。
「やめろぉぉぉぉぉー!」
 マーヴィンの叫びを合図に、少年たちは懐から拳ほどの大きさの丸い塊を取り出して、騎士団に向かって投げつけた。いや、狙いは騎士ではなく馬だ。
 丸い塊は馬の顔や体に当たるとぐちゃりと潰れた。硬いものではなく、潰れることが目的で作られているようだ。
 突然、馬たちが悲痛な叫びを上げて激しく暴れだした。上体を大きく仰け反らせたり、首や体を上下左右に大きく振ったりするなど、暴れ馬と化したのだ。
「やった!」少年たちから声が上がる。
 騎士たちは弓を射ることよりも自分の馬を落ち着かせることを余儀なくされた。馬たちの混乱は簡単には収まらなかった。なかには馬から振り落とされる騎士もいた。
――なんなんだ、あの塊は? 鍛えられた騎士団の馬たちがこんなに暴れるなんて。
 不思議に思っていたヴァイオレットだったが、強烈な刺激臭を鼻がとらえたことで謎が解けた。
――唐辛子だ。大量の唐辛子が練りこんであるんだ。
 ヴァイオレットが食べてしまった唐辛子とおそらく同じものだろう。それを細かくつぶして液体状にしたものを、玉子のようなものに注入しておく。そうすれば、投げつけた衝撃で周りが壊れ、中身が飛沫する。それが目や口に入ったときの激痛はもちろんのこと、皮膚に触れただけでもヒリヒリと痛みが走る。
 しかし、作戦がうまくいったとはいえ、喜んでばかりはいられない。これには殺傷力はなく、あくまで時間を稼ぐためのものだ。おそらくルシオが相手を混乱させ、その隙に逃亡するために考案したものだろう。だが、少年たちは逃げない。ルシオを守るために、騎士団と戦うために使用したのだ。
「ああ、危ない!」
 少年の一人が悲痛な声を上げた。
 少年たちはみな一斉に塔を見上げる。
 とうとうルシオの体は落下を回避できないところまで来ていた。
 胸から上はすでに空中にあって、両腕がだらりと伸びている。ルシオの意識は戻らず、体が滑り落ちていくのを阻むものもない。
 がくん、とルシオの体が左右に一度振れると真っ逆さまに落ちていった。
 少年たちの息が止まる。ルシオの死を覚悟して目を瞑ってしまう者もいた。
 しかし、ルシオは宙で止まった! マントが塔の途中階に設置された鳥の彫刻に引っかかったのだ。大きく羽をひろげた鷲のくちばしの先に運よくマントが巻きこまれている。お陰でルシオの体は宙吊り状態となった。
 だが、この奇跡に喜んだのも束の間だった、古いマントはビリビリと音を立ててすぐに破れてしまったのだ。再びルシオの体は地上へ向けて落下をはじめる。ついに地面に全身を強く叩きつけられ、体がぐにゃりとくの字に折れ曲がった。
「先生ぇぇ!」
 マーヴィンが慌ててルシオのもとに走り寄って、上半身を起こす。ルシオはぐったりとしていて意識はない。しかし、ルシオの口元に耳を近づけるとわずかだが息があることがわかった。
「生きてる!」 
 他の少年たちも駆け寄り、四人でルシオを抱えあげた。そして、お互いに目で合図を交わすと全力で走り出した。それに倣うかのように少年たち全員が騎士団に背を向けて走る。大将を失った彼らには逃げる道しか残っていない。必ず逃げ延びて、ルシオの命を救うのだ。
「ルシオを逃がすな! もう馬は放っておけ!」
 騎士団は馬を静めることをあきらめ、降馬した。重い鎧を装備しているとはいえ、ルシオを抱えている少年たちに追いつくことは難しいことではない。ヴァイオレットも遅れて、少年たちの後を追う。
 迫り来る騎士団の追撃を食い止めるべく、少年の一人が騎士団に斬りかかった。
「やめろー!」
 ヴァイオレットの叫びもむなしく、少年の体は右肩から左脇腹にかけて斬られた。騎士は、衛兵たちとはくらべものにならないほど強く、少年たちの剣の腕では時間稼ぎにすらならない。
 さらに最悪の事態が待っていた。前方から五人の騎馬が現れたのだ。ここには脇道もなく、行く手を完全に塞がれてしまっている。どうしようもなく、マーヴィンたちは立ち止まった。
「くそっ!」
 マーヴィンは悔しさで地団駄を踏んだ。騎士団の強さは想像を超えている。しかし、このままあきらめるわけにはいかない。どんなに無残に斬り捨てられようとも最後まで戦う覚悟はできている。それを示すようにマーヴィンは剣を抜いた。
「もう止めなさい!」
 強く凛とした女性の声が前方を塞いでいる騎士団の奥から聞こえた。騎士たちは厳かに中央から分かれると、白馬に騎乗した公爵令嬢フィオナの姿が見て取れた。
 フィオナ嬢は手綱を軽く引いて、ゆっくりとマーヴィンたちの前で馬を止めた。
「ルシオの弟子たちよ、悪いようにはしない、これ以上の抵抗は止めなさい」
 後ろから追ってきた騎士たちはフィオナ嬢の登場に慌てて剣を収めると、片膝をついて頭を垂れた。
「畏れながら申し上げます。お嬢さま、この者たちは王国の平和を脅かす存在です。厳しい対処が必要かと存じます。ここは我々騎士団にお任せ願います」
 フィオナ嬢はきっと鋭い視線を騎士団に向ける。
「ならば聞こう。厳しい対処とは何か? このような子供たちを皆殺しにすることか? 祝典の日に多くの命が失われることを私は望みません」
 フィオナ嬢の強い口調に騎士たちはさらに頭を深く垂らした。
「ははっ。しかしながら、こればかりは――」
「――すばらしい!」
 騎士の言葉を遮るようにヴァイオレットが大きく拍手をしながら現れた。感心したように何度も頷きながら、マーヴィンとフィオナ嬢の間に立った。
「いやいや、さすがは公爵家の御令嬢だ。これ以上ことを大きくしては街の混乱にもつながるし、もし王国自慢の騎士団がか弱い少年たちを皆殺しにしたという話が諸国に伝われば悪影響を及ぼすだけ! 実にすばらしい、ご判断だ!」
 高らかに言うと、ヴァイオレットはさらに大袈裟に手を叩いた。
 芝居がかったヴァイオレットの態度に騎士は発憤して剣先をヴァイオレットの喉元に突きつける。
「部外者が余計なことを!」
「止めなさい! そなたは何者だ? ルシオと親しいものか?」
「とんでもございません。ルシオとはついさっき初めて会ったばかりです。ただ、衛兵隊長さんに個人的な用がありまして、ここに来ただけです。あとは事の成り行きを見てた、ただの野次馬ですよ」
 ヴァイオレットは肩を竦めておどけてみせた。
 フィオナ嬢に騎士の一人が耳打ちをする。やがて、フィオナ嬢は静かに頷いた。
「わかった。残念だが、そなたが行った衛兵への反抗行為は罪です。そなたを拘束する」
 すぐさま騎士がヴァイオレットの腕を掴んで後ろ手にさせた。
「痛っ!」
 ヴァイオレットは顔をしかめた。さらに、膝裏を蹴られて固い地面に跪かせられた。
「痛てえなあ、なにすんだよ!」
「黙っていろ!」騎士の厳しい声が飛んだ。
 ヴァイオレットと騎士がもめているのをよそに、マーヴィンがフィオナ嬢の前に一歩進みでて、両膝を地面につけた。
「お嬢さま、お願いです。どうか、先生の命だけは……命だけは助けてください! 先生はお嬢さまの身を一番案じておられたのです……そのことはお嬢さまもおわかりのはずです!」
 マーヴィンは切れ切れになる言葉を搾り出すかのようにつなげた。
「ルシオ先生のお気持ちは私たち以上にフィオナ様ご自身がおわかりのはずです。お願いです、先生を死なせないでください。先生はこれからも王国のために必要な人です。私たちはどうなってもいいですから、先生だけは……先生だけは……」
 最後は言葉にすることができずにマーヴィンはその場に泣き崩れた。ほかの少年たちも同様に涙を流し、両膝をついて懇願した。
 フィオナ嬢はじっと少年たちを見据えた。暖かい風が通り過ぎた後、フィオナ嬢は口を開いた。
「わかった。すぐに医者を用意しよう」
 フィオナ嬢の言葉にマーヴィンたちは一斉に顔を上げた。
「しかし、ルシオの発言は王国に混乱を招く可能性があるものだ。傷を癒すことができたならば査問会を執り行い、その内容によっては重罰に処せられることも考えられる。その際は、そなたたちも素直に受け入れよ」
「はい、ありがとうございます!」
 マーヴィンは鼻水を垂らすほどに顔をくしゃくしゃにして、何度も頭を下げた。絶望から少しだけ希望の光が射したのだ。
 ルシオの体は用意された荷馬車に乗せられて、公爵の邸へと運ばれていった。邸に常駐している医者に治療させるためだ。
 これですべて丸く収まった。めでたし、めでたし……とはいかなかった。ヴァイオレットの両腕は太く硬い縄で縛り上げられていたのだ。
「おいおい待てよ! なんでルシオの弟子たちは両手を軽く縛っているだけなのに、オレはこんなに頑丈な縄で縛るんだよ! 体に食い込んで痛いじゃないか」
「黙れ」と騎士は冷たく言うとヴァイオレットの目に黒い布を当てた。
「目隠しまでするのかよ! オレはただ衛兵たい……んぐ、んぐ!」
 ヴァイオレットはとうとう口まで塞がれてしまった。
「さあ、この者たちを連れて行け!」
 高らかに声が響くと同時に体を縛り付ける縄が強く引かれた。目隠しで視界が完全に遮られているため進行方向がよくわからない。そのため何度もバランスを崩しては、体を地面に擦り付けられるはめになってしまった。しかも、その度に縄が体に食い込み、強烈な痛みが走る。
――ちくしょう。これも全部ルシオのせいだ!
 ヴァイオレットは痛みと怒りに奥歯を食いしばった。



[19782] 第二章 女神との契約
Name: 士はサムライ◆2a504029 ID:1a1ef79e
Date: 2010/06/24 09:33
 鳥の鳴き声でヴァイオレットは目を覚ました。天井ちかくにある小さな格子から陽の光が射し込んでいる。ヴァイオレットはベッドから重たい体を起こした。
「痛ててて……」上半身には縄状に赤く腫れた傷がくっきりと浮かび上がっている。一晩たって腫れはよりひどくなっている。
「――ったく、荒っぽい扱いしやがって。傷痕が残ったらみっともないじゃないか」
 ぶつくさ言いながら、部屋の脇に置いてある水瓶の水を飲んだ後、その水を掌にすくって顔を洗った。
 てっきり暗く薄汚い牢獄に入れられるとばかり思っていたのだが、目隠しを外されてから見た部屋の景色は意外なものだった。
 部屋は一人が生活するのにも充分な広さで、大きな水瓶や用を足すための陶製の瓶も設置してある。ベッドには清潔なシーツまで敷いてあり、もちろん床には埃一つ落ちていない。その上、食事もよかった。ライ麦パンと野菜がたっぷり入ったスープにブタの腸詰め。それに、甘い果物。そこらの宿屋に泊まるよりもずっと贅沢な部屋だった。
 しかし、普通の部屋とは異なる点があった。それは、出入口のドアが異常に頑丈なことだ。ドアは鉄製で、とても分厚い。これを一人で開閉できるのか疑わしく思うくらい重そうで固いドアだ。それに部屋の窓にも特徴がある。一般的に窓は目線の高さにあるものだが、この部屋では天井近くに格子窓があるだけだ。それもとても小さくて、腕一本さえ通りそうにない。
 やはり、この部屋は人を監禁しておくために作られたものなのだ。部屋の外からは鳥の声しか聞こえず、人の気配を感じることもできなかった。監禁されている身を再認識したヴァイオレットは再びベッドに横になり、朝食が運ばれてくるのをただ待つことにした。
 一時間も待たないうちに、突然「ゴゴゴゴ……」と重く鈍い音が部屋に響いた。ヴァイオレットはベッドから飛び起きると、すぐにドアを確認した。ゆっくりと内側に開いていっている。
 ドアが完全に開き切った先に一人の男が立っていた。短髪で茶色の縮れ毛、顔は極端に四角い。体には厚い胸当てを装備している。どうみても朝食を運んできた風貌ではない。
「出ろ。お嬢さまがお呼びだ」
 男の声を聞いてわかった。
――騎士団の先頭にいた男だ。
 ヴァイオレットは連れてこられたときと同じように目隠しをされた。また体中をきつく縛られるのかと思うと憂鬱になったが、今回は両手首を後ろ手で縛られただけで済んだのでほっとした。
 途中何度か階段の昇り降りを繰り返した。おそらく、場所を推定させないためにわざと遠回りをして連れて行っているのだろう。お陰でどの方向に歩かされているのか、いま何階にいるのかまったくわからなくなった。
 扉が開く音がして、腕を引かれた。部屋の中に入ったようだ。ヴァイオレットの目隠しがとられる。
 ヴァイオレットがまず驚いたのは部屋の広さだった。街の宿屋で一番高い部屋を頼んでもこれ程の広さはないだろう。床には手の込んだ美しい刺繍の入った絨毯が敷かれ、壁には彩り豊かな絵画がいくつも掛けられている。部屋の中央に巨大な丸テーブルが置かれていて、その上でいくつものクリスタルグラスがきらきらと輝いている。こんなに豪華な部屋はいままで見たことがない。
「イグナシオ、ご苦労であった」
 透き通った声が部屋の片隅から聞こえた。ヴァイオレットが声の方へ視線を移すと、フィオナ嬢がこちらへ近づいてきていた。フィオナ嬢の姿はこの部屋にあるどんな装飾物よりも美しい。
「昨晩はよく眠れたかな?」
 フィオナ嬢の問いにヴァイオレットは肩を竦めて無言で答えた。
「そうか、部屋は気に入ってもらえなかったか」
 ヴァイオレットは顔を横にそむける。
「オレを早く自由にしてくれ。お喋りはそれからにしよう」
「貴様、お嬢さまに向かって、なんて口の利き方だ!」
 イグナシオと呼ばれた騎士団の男がヴァイオレットに掴みかかっていった。
「やめなさい!」
 フィオナ嬢が鋭い声でそれをいさめる。イグナシオは頭を下げて、ヴァイオレットから一歩後ろに離れた。
「そなたにいろいろと訊ねたいことがあるのだ。簡単に釈放するわけにはいかん」
 ヴァイオレットは鼻で笑って、
「オレは公爵家に用なんてない」
 その態度にまたイグナシオが怒りをあらわにする。
「貴様は自分の立場がまったくわかっていないようだな。衛兵たちに危害を加えたことは重罪だぞ!」
 ヴァイオレットは横目でイグナシオを睨みつける。
「あんな弱い奴らを衛兵にしておくことに何の意味もないことがわかったんだから、感謝してほしいね」
 フィオナ嬢は「弱いか」と呟くと、指で口元を押さえて小さく笑った。
「ヴァイオレット、この窓から外を見てみるがいい。おもしろいものが見えるぞ」
 フィオナ嬢の言葉を無視するようにそっぽを向いていたが、イグナシオからどんと背中を乱暴に押された。ヴァイオレットはしぶしぶ窓に近づいて外の景色を眺める。そこには芝生が敷かれた緑の美しい中庭が広がっている。
 その中央に体の大きな男が一人ぽつんと立っていることにヴァイオレットは気づいた。その顔には見覚えがある。
 衛兵隊長のヒューゴーだ。
 ヒューゴーは恐ろしい表情でじっとこちらを睨みつけている。
「ヒューゴーがどうしてもそなたと決着を付けたいそうだ」
 フィオナ嬢はヴァオトレットの隣へと歩を進める。ヴァイオレットは深いため息を漏らした。
「昨日痛い目にあったはずなのに、まったく何もわかってないな。本気でクビにしたほうがいいですよ、あいつは」
「ヒューゴーにも衛兵隊長としてのプライドがあるのだろう。負ければ隊長を退任すると申し出てきた。どうだ、相手をしてくれないか?」
 ヴァイオレットは首を傾げる。
「あいつと闘ってオレが得することってあるんですか?」
「昨日そなたが取った行動はすべて忘れよう」
 ヴァイオレットは納得するように頷く。
「なるほど。でも、それだけじゃ足りない」
 フィオナ嬢は眉をぴくりと動かした。
「なにが望みだ。金か?」
 ふん、とヴァイオレットは鼻を鳴らす。
「なんでも金で解決しようとするのは貴族様の悪いクセだね」
「おのれぇ! お嬢さま、もう我慢ができません。ヒューゴーなどではなく、私がこいつを斬ります!」
 イグナシオは目をつり上げ、腰の剣に手をかけた。
「いまは私が話しているのです、お前は黙っていなさい!」
 フィオナ嬢の一喝が部屋に響きわたった。イグナシオは「申し訳ございません。お許しください」と背筋を緊張させて畏まった。
 フィオナ嬢は改めてヴァイオレットに向き直る。
「そなたが金を要求したならば、すぐに牢獄へ送るつもりでいた。自分の腕に自信があるがゆえ、金を要求してきた男たちを今まで何百人と見てきた。金だけのために仕える者など公爵家には必要ない。そんな者たちとは同じ空気も吸いたくないわ。しかし、そなたはただのならず者ではなさそうだ。さあ、要求はなんだ、教えてくれ」
 フィオナ嬢はうれしそうに、ヴァイオレットをみつめた。
「コホン」とヴァイオレットはわざとらしく咳を一つして、
「査問会なんかじゃなくて、お嬢さま自身がきちんとルシオの意見を聞くことだ」
「……ほう」
 フィオナ嬢は少し驚いた表情をみせた。予想外の要求だったらしく、すぐに返事は返ってこなかった。おそらく、ヴァイオレットの真意を探っているのだろう。
「どうしますか? この要求が呑めないんなら、オレは力づくでここから出て行くだけですけど」
 ヴァイオレットは答えを急かすようにいたずらっぽく言った。
 フィオナ嬢は細く整ったあごを引く。
「わかった。そなたの要求を呑もう」
 ヴァイオレットはフィオナ嬢の答えに満足したように口元を緩めた。
「イグナシオ、縄をほどいてやりなさい」
 指示を受けてイグナシオが後ろから手を伸ばす。しかし、ヴァイオレットはそれを拒否するようにくるりと反転した。
「これくらい、自分で切れる」
 ヴァイオレットはひとつ息を吸ってから奥歯を食いしばった。すると、彼の両手を縛っていた縄がぶちぶちっと音を立ててちぎれはじめたのだ。
「ふうっ」と息を吐いたときヴァイオレットの両手は自由になっていた。
 驚きを隠せずに唖然とした二人をよそにヴァイオレットは何事もなかったかのように窓の左右にある取っ手を掴む。
「すぐに終わらせて戻ってきます」
 取っ手を思いっきり引いて、窓を全開させる。春の心地よい風が部屋中を巡った。芝生の香りを含んだ空気を鼻から吸ったあと、ヴァイオレットは窓の下枠に足を掛けて身を乗り出した。
「おい、ちょっと待て! まさか、飛び降りる気か?」
 イグナシオが慌ててヴァイオレットに駆け寄る。「そりゃっ」
 ヴァイオレットはイグナシオを無視して外に向かってぴょんと跳んだ。
「馬鹿な! 普通に着地できる高さじゃないぞ」
 イグナシオはフィオナ嬢とともに飛びつくように窓に寄って地上を見る。ここは三階だ。飛び降りれば、足が折れても不思議ではない。しかし、ヴァイオレットは何事もなかったかのように平然と芝生の上に立っていた。
 目を丸くしてイグナシオは呟く。
「あいつは猿か?」
 ヴァイオレットはきれいに刈られた芝生を踏んで、そのサクサクとした感触を楽しむ。太陽の光を浴びながら、この上で寝転んでしまいたい。
「待て、ヴァイオレット!」
 今度は頭上から聞こえるイグナシオの声にうんざりしながらも、ヴァイオレットは仰ぎ見た。
「これが、貴様の武器だ」
 イグナシオは窓から鞘に収められた剣を一本、ヴァイオレットに向かって投げる。剣はヴァイオレットの手前でガチャンと音を立てて落ちた。
「へえ、結構気が利くね」
 思わぬ武器の提供に気分よく剣を拾って、鞘から抜いてみる。
 剣はいたってシンプルで使いやすいものだ。余計な装飾もなく、大量生産されたものだろう。見習いの騎士たちが最初に渡される剣といえる。
「これでも武器屋に売れば、何日分かの宿代くらいにはなるな。ありがたくもらっておこう」
 剣の値踏みをしているところにガチャンガチャンと金属が揺れる音が近づいてくる。
「やっと来たかと思えば、ぶつぶつと独り言か」
 ヒューゴーが厳めしい面構えで一歩一歩近づいてきているが、ヴァイオレットはあえて視線を向けようとはしない。
「お嬢さまがどうしてもって言うから、わざわざ時間を作ってやったんだ。感謝してほしいね」
 ヒューゴーは口を曲げて笑った。
「その生意気な口を二度と利けないようにしてやるからな。決闘ならば殺しても何の問題にもならない。死ぬ覚悟ぐらいしておけよ」
 ヴァイオレットは人差し指でこつこつと自分のこめかみを叩く。
「何を言ってんだか。昨日のことなのにもう忘れたのかよ。性懲りもなくまた闘おうなんて、頭の血管が何本か切れてるんじゃないか?」
 ヒューゴーは肩を大きく揺らす。
「オレの力をわかったつもりでいやがるのか? とんでもない思い上がりだ。昨日はお前の情けない猫背姿に油断したまでだ」
 ヴァイオレットは時計回りにゆっくりと首を回す。
「今日は手加減しない。お前、間違いなく死ぬぞ」
 忠告のつもりだったが、ヒューゴーはまったく聞き入れない。それどころか、顔をにたにたさせて、自信をのぞかせているのだ。
「俺じゃなくて、お前が死ぬんだよ」
 ヒューゴーは右手を肩口へと伸ばした。そこにある黒い柄を握ると一気に体の前へと引き出した。
「へっへっへっ、これがオレの本当の武器だ」
 ヒューゴーは両足を左右に大きく開いて、腰を落とし、どっしりと構えた。
 ヒューゴーの手には黒光りする両刃の大きな斧が握られていた。
「さあて、そろそろはじめようか」
 ヒューゴーは柄を握った両手にぎゅっと力がこもる。
 ヴァイオレットは半歩、右足を前に出して剣を構えた。
 二人の間が詰まっていく。
「どりゃああああああぁぁぁ!」
 ヒューゴーが勢いよく、斧を真横に振り回した。
 ヴァイオレットは冷静に後ろにステップしてそれをかわす。ヒューゴーは追いかけるように間合いを詰め、斧を振る。再び後ろにステップしてかわすヴァイオレット。しかし、ヒューゴーは執拗に追いかけてきては斧を振り回す。
 斧はヴァイオレットの剣よりもリーチが長い。そのため、ヴァイオレットが攻撃するためには、ヒューゴーの攻撃をかわして、懐に入る必要があるのだ。しかし、ヒューゴーの攻撃は止まらない。ゴウゴウと力尽くで空気を切り裂く轟音がヴァイオレットの耳に飛び込んでいく。当たれば間違いなく骨ごと砕け散ってしまうだろう。
 並の人間ならこんな大きな斧を一振りするのにも大変な体力を必要とし、まともに扱うことはできないはずである。しかし、ヒューゴーは自慢の怪力で軽々と振ってくる。
 後ろに退いてばかりいたヴァイオレットだったが動きを変える。上体を一瞬後ろに倒しておきながら、素早く右にステップしたのだ。この動きにヒューゴーは対応できずに、空振りした体が大きく前へ流れてしまう。ヴァイオレットはヒューゴーの後方に回り込んでから一息吐く。
「なるほど。隊長殿の馬鹿力を利用するには、その斧が最適ってわけだ。少しは見直したよ」
 鼻息荒くヒューゴーが体ごと向き直る。
「ふん、さっきからお前は逃げ回っているだけじゃねえか」
「すごい自信だったから、ちょっと見てみたかったんだよ。あんたは剣だと軽すぎて攻撃が雑になりすぎる。その斧みたいに重量な武器が確かに合っているよ」
「何様のつもりだ? えらそうに講釈をたれて、オレを怒らせようって魂胆か?」
「おお、今日は意外と冷静だあ」
 挑発ともとれる言葉にヒューゴーは乗ってこない。それどころか、会話の最中もじりじりと間合いを詰めて攻撃の隙を窺っている。
「胴体を真っ二つにしてやるからな」
「無理無理、あんたにはできない」
「なめるなよ!」
 間合いを詰めていたヒューゴーが斧を右から振った。
 ヴァイオレットは後ろにさがるのではなく――宙に跳んだ。
 ヴァイオレットの体はヒューゴーの頭上よりも高く舞う。常人では考えられない跳躍力だ。
 そして、空中からヒューゴーの頬に強烈な蹴りを浴びせた。
「ぶはっ!」
 ヒューゴーの体が後ろへと大きくよろける。膝が折れて、倒れそうになるところを必死に踏ん張った。
「どうだい、いい蹴りだろ?」
「この猿があぁぁぁ」
 ヒューゴーは怒りを露わにする。ヴァイオレットを睨みつける目には細い血管が幾筋も走り、呻くように憎悪の声を上げる。そのとき、口元からは真っ赤な血がこぼれ落ちた。
 ヴァイオレットは眉間に皺を寄せて憐れんだ。
「あーあ、口の中切ったな。痛そう」
「うるさい!」
 ヒューゴーの口から大量の血抹が飛んだ。血の塊が芝生の緑を赤く染める。
「うわっ、汚ねえ。もう口の中、血だらけじゃないか。歯が折れているんじゃないか?」
 ヴァイオレットは口に手を当てて顔を歪めた。見ている方が痛くなる。
「蹴りを一発いれたくらいで調子に乗るんじゃねえ。勝負はこれからだ!」
 斧を後ろに大きく振り上げて、ヴァイオレットに斬りかかった。
 しかし、足がもつれて大きく横に逸れる。
「ぬおっ!」
 素っ頓狂な声を上げて、ついには地面に両膝をついてしまった。すぐに立ち上がろうとするが膝がぶるぶると震えて、立ち上がることができない。塔での戦いと同じである。ヴァイオレットの攻撃を受けると体が言うことをきかなくなるのである。
 ヴァイオレットは肩を回しながらゆっくりとヒューゴーに近寄って見下ろす。
「オレの攻撃は体の芯を突き抜ける。脳が揺れて平衡感覚を失っている状態だ。今あんたはそれを体験してるのさ。しばらくはまともに立つこともできないはずだ」
 勝ち誇ったかのようなヴァイオレットの態度にヒューゴーは憤激する。血が急速度で全身を駆け巡り、体中が燃えるように熱くなる。すると、震える膝にも感覚が戻ってきたのだ。
「なにわけのわからないことを言ってやがるぅ!」
 ヒューゴーは顔を真っ赤にして、立ち上がった。
「貴様の蹴りなど、蚊に刺されたのと同じだ」
 肩で息をしながらも、どうだと言わんばかり血走った両眼でヴァイオレットを睨みつけた。
 ヴァイオレットは腰に手をやって、ほうっと息を漏らす。
「隊長殿の丈夫さには本当に頭が下がります。しかし、そんなふらふらな状態でどうやって闘うんですか?」
 ヒューゴーはにやっと口角を上げる。
「こうやるのさ!」
 左手をぱっとヴァイオレットに目がけて振った。開かれた掌から茶色の砂が飛び散る。
 ヒューゴーは倒れたときに地面の砂を握りこんでいたのである。身軽なヴァイオレットの動きを止めるには目眩ましが最も有効であるという判断からだった。
「うわっ!」
 ヒューゴーの奇襲をヴァイオレットまともに受けてしまった。砂が顔にかかり、目の中にも入ってしまった。
「もらったあ!」
 視界を失っているヴァイオレットにヒューゴーは斧を振り下ろした。
 ヴァイオレットの頭は薪のように真っ二つに割れる――はずだった。しかし、斧の刃は高い金属音を上げて、ヴァイオレットの額の直前で止まっていた。
 間一髪のところでヴァイオレットは剣で斧を食い止めていた。視界が失われた状態でも、声の方向や今までの攻撃パターンから、斧が振り下ろされる軌道を読んだのだ。
「ぐぬぬぬぬ!」
 ヒューゴーは刃先を合わせたまま全身の力を斧に込めた。自分の力に絶対の自信を持っているヒューゴーは鍔迫り合いのまま、ヴァイオレットの頭を押しつぶす気でいた。
「剣ごとお前の頭をつぶしてやる!」
 ヒューゴーのこめかみに幾筋もの血管が浮かび上がり、ギリギリと刃が鳴った。
 しかし、どんなにヒューゴーが力を込めようともヴァイオレットの剣は動かない。それどころか、徐々にヒューゴーの方へと押し戻されていく。
 ヴァイオレットはにやりと白い歯を見せる。
「考えが甘かったな」
 刃が一段と高い音で鳴る。
 ヒューゴーの両腕は弾かれるように伸び上がった。あまりの衝撃に強く握りしめていたはずの斧まで手を放れて宙を舞う。
 ヴァイオレットは斧を振り払った勢いを利用してそのまま体を回転させる。そして、一回転しながらヒューゴーの腹部に蹴りを見舞った。
 ヒューゴーの体から鈍い低音が響くと同時に、体をくの字にして、真後ろへふっ飛んだ。あまりの勢いでヒューゴーの体は芝生の上で一度跳ね上がり、どさりと仰向けに倒れる。ぴくぴくと指先が痙攣していたがすぐに動かなくなった。
「くそぉ、古い手使いやがって。あー、目が痛てえ」
 ヴァイオレットは涙を流しながら顔の土を払い、何度も唾を吐いては苦い表情をした。
 大の字に倒れたヒューゴーに近寄って見ると、白目をむいて、口からは泡をふいていた。横腹のあたりを足先でトントンと突いたが、何の反応もない。完全に気絶してしまっている。
「さすがにいまの回し蹴りには耐えられなかったかあ。安らかに眠りたまえ」
 冗談まじりに言って、にやりと笑みを作った。
 ヴァイオレットは邸の窓から闘いの様子を眺めいてたフィオナ嬢に向かって叫んだ。
「決着はつきました! これでオレは自由になったはずです!」
 フィオナ嬢は窓から身を乗り出す。
「待て! すぐそこに行く!」
 慌てた調子で叫び返すとすぐに窓からフィオナ嬢の姿が消えた。
 ヴァイオレットは剣の刃を根元から刃先まで食い入るように見つめる。すると、ちょうど真ん中のところで刃が欠けているのがわかった。そこがヒューゴーの一撃を防いだ箇所に違いない。
「この馬鹿力め。これじゃ売り物にならないじゃないか」
 剣を売ることしか考えてなかったヴァイオレットにとっては大きな失敗だった。
「ちょっと油断しすぎたな。あいつが土を握りこんでいることに気付かないなんて……」
 ぶつぶつ言っているとフィオナ嬢とイグナシオが中庭に現れた。
 イグナシオは連れてきた部下たちに気絶しているヒューゴーを邸の中へと運ぶように命じた。四人掛かりでヒューゴーは抱え上げられ、邸の中へ運び込まれていった。
「見事だったぞ」
 フィオナ嬢は大急ぎで邸から降りて来たのだろう肩で息をしている。しかし、目はいきいきと輝き、表情も明るい。
「約束は守ってもらいます。お嬢さまはルシオの話を直接聞いてから、ご自分の判断で彼の処遇を検討してください」
「なぜ、そんなにルシオの肩を持つ?」
「いろんな国を見て来ましたが、あんなに強い信念を持った男はそうはいません。ただ死なせるのは惜しい存在ですよ。査問会なんて名前は立派ですけど、どうせルシオの意見なんて聞かずに結果は決まってるんでしょ? しかし、騎士団をも止めることができるお嬢さまなら違う結果が出せるんじゃないんですか?」
 フィオナ嬢は探るように訊く。
「それだけか?」
 ヴァイオレットは肩を竦めてみせる。
「それだけですよ、他意はありません。ルシオには昨日の祝典ではまだ言い切れていないこともあるんじゃないですか? できるならオレも聞いてみたいくらいですよ」
「そうか。それはおもしろい考えだ。では、質問を変えよう。そなたはルシオがかつて私の教育顧問であったことを知っていたのか?」
――教育顧問!
 その言葉にヴァイオレットは目を丸くした。
 ということは、ルシオはこの邸でフィオナ嬢に学問を教える先生という立場にあったことになる。公爵令嬢の教育顧問は余程の能力と高貴な身分でないと務められない役目のはずである。
「その表情から察するに本当にルシオのことは何も知らないようだな」
 ヴァイオレットはつんのめるように頷いた。
 側に控えていたイグナシオがフィオナ嬢へ耳打ちするように囁く。
「お嬢さま、よいのですか? このようなよそ者にルシオのことをお話になっても」
 イグナシオがルシオのことで警戒心を抱いていることは間違いなかった。
 当然のことだとヴァイオレットは思う。ルシオがフィオナ嬢の教育顧問に任命されていたということは、公爵の絶対的な信頼を得ていたということを意味する。何せ将来の為政者を育てる大事な役目である。それは博識なだけではなく、優れた人格も必要とされる大役だ。普通は長年公爵に仕えている老臣などが任命されるのだろうが、ルシオはどうみても三十代前半だった。大抜擢であったに違いない。それほど、ルシオは才能に溢れ、公爵の信頼と支持を得ていたのだろう。
 それほどの地位にいながらもルシオは教育顧問を辞めて邸から去った。何か余程の理由があったに違いない。それは公爵家にとっては決して好ましいものではないのだろう。現に彼は祝典の場で公爵、いや王国に対してまでも批判する態度をとったのだ。一人の男を捕えるために騎士団まで出てくることに驚きはしたが、元教育顧問という高位に就いていたとわかれば納得できる。
「ヴァイオレットよ、私はまずそなたに謝らなければならない。ルシオの意識はまだ戻っていないのだ。医者の診断によると頭部を強く打ったため再び意識が戻るかどうかさえわからないということだ。さらには肩や脚など六箇所の骨折があるらしい」
 あの高さから落ちたのだ、即死していないだけでも奇跡かもしれないとヴァイオレットは思った。
「だから、今すぐに約束を果たすことはできないのだ。しかし、ルシオの意識が戻ったときはすぐに約束を果たす」
「ええ、約束は必ず守ってください。そして、よく考えてから処分を決定してください。元教育顧問となれば尚更です」
 ヴァイオレットは「さてと」と一息吐いた。「それじゃ、オレはこれで失礼しますよ」
 軽くお辞儀をすると邸から出るべく門の方向へ歩を進めた。
「なぜ私がそなたをヒューゴーと闘わせたと思う?」
 背中からフィオナ嬢の声が掛かったが、振り向くこともせず「どうでもいいです」とだけ答えた。なぜ今更ヒューゴーの名前が出るのか。あいつのことを考えるのは時間の無駄で、意味のないことだ。
 しかし、フィオナ嬢は構わず言葉を続ける。
「ヒューゴーから報告を受けて、どうしてもそなたの技が見たかったのだ。私はそなたに興味がある。それはルシオも同じはずだ」
 思わずヴァイオレットは足を止めた。
 フィオナ嬢は小走りでヴァイオレットの前に回りこむ。
「ルシオは代々戦術を研究してきた学者の家の出身だ。世界中の戦略・戦術を研究し、戦争の際にその知識を活かして作戦を立案することが最大の目的である。中でもルシオの優秀さは歴代随一だというのが父上の評価だ」
 つまりルシオはグラディアス公爵の軍師として働いていたということだ。公爵が参加した数々の戦場において、ルシオの作戦が実行され、結果を残してきたのだろう。そうして公爵の信頼を得たルシオはフィオナ嬢の教育顧問も任せられたというわけか。
「ルシオは戦術だけではなく、様々な剣術や体術の研究にも力を入れていた。自ら多くの剣術の流派を会得していたくらいだ。おそらく、騎士団副団長のイグナシオと剣を交えても決して引けをとらないだろう」
 ルシオが塔の上で見せた剣さばきは確かに並大抵のものではなかった。知力だけではなく、武力も兼ね備えた天才肌の人間というわけだ。なるほど公爵が気に入るのも当然だ、とヴァイオレットは納得した。
「ルシオが戦術家として一番興味を持ち、研究に多くの時間を費やしていたのが『仙術《せんじゅつ》』という謎の多い体術だった。剣などの武器を一切必要とせず、己の肉体そのものが武器となり鎧となる。しかし、これまでに会得できた者がいるかどうかさえわからない、まさに幻の体術」
 フィオナ嬢の瞳が輝きを放ち、だんだん強くなる語気からも彼女の興奮が伝わってくる。
「ヴァイオレット、そなたは仙術の使い手だな?」
 フィオナ嬢は確信を持ってヴァイオレットに訊ねている。教育顧問のルシオが探し求めていた仙術にフィオナ嬢が惹かれないはずがなかった。
「仙術こそ人間の可能性が無限大であることを証明する術であるとルシオは言っていた」 目の前にその術の使い手がいる。とうとう出会えたのだ。
 しかし、フィオナ嬢の気持ちとは対照的にヴァイオレットの表情は冴えなかった。
「どうした? なぜ黙っている?」
 口を閉じたままのヴァイオレットにフィオナ嬢はやきもきした。
 頭をぼりぼり掻きながら、面倒臭そうにヴァイオレットは答えた。
「まあ、確かにオレの技は珍しいかもしれません。でも、幻の体術なんて、そんなたいそうなものじゃありませんよ」
 ヴァイオレットから出た言葉は否定だった。フィオナ嬢は掴みかからんばかりの勢いでヴァイオレットを問い詰める。
「しかし、そなたの技は仙術の特徴と一致しているではないか。手を触れただけで岩をも砕き、どんな分厚い鎧を装備しても、直接肉体へと衝撃を与える。そなたが見せた体術がまさに仙術そのものではないか。なぜ否定する?」
 ヴァイオレットは困ったように顔をしかめる。
「そう言われても、オレは仙術なんて聞いたこともありませんよ」
 フィオナ嬢はまだ納得できない。ヴァイオレットが自分の体術を仙術であるという認識がなく使っている可能性があるからだ。
「では、そなたの師は誰だ? 師は何といって体術を教えたのだ。術には必ず技名や流派があるはずだ」
 フィオナ嬢の荒くなった語気から気の強さが窺い知れる。簡単には退かない。どうやらただの箱入り娘ではなさそうだとヴァイオレットは感じた。
「親父です。といっても親父は、武術家でもなんでもないただの貧乏な商人でした。商売上世界を旅する機会が多いから、危険な目に遭うことが多い。それで護身術が必要だと言って、オレに教えたんです。オレを跡取りにするつもりだったみたいですしね。仙術ってやつは、岩を砕けるんですよね? とんでもない、オレはレンガを破壊することで精一杯ですよ」
 フィオナ嬢は唇を噛んだ。このままでは堂々巡りの水掛け論になるだけだ。
 ヴァイオレットは首を傾げながら、
「でも、仙術を研究していたのはルシオですよね? どうしてお嬢さままでそんなに興味を持つんですか?」
「決まっている。我が軍に仙術を組み込み、世界最強の軍隊を作るためだ」
 迷いのないはっきりと透き通った声。ヴァイオレットはまたフィオナ嬢の性格の一面を垣間見た気がした。彼女は、ただ人々に慈愛を与える女神ではなく、戦争で兵士たちを勇気づけ、鼓舞する女神でもあるのだ。
「でも、オレは仙術の使い手ではなかった。残念でしたね、他をあたってください」
 ヴァイオレットは、フィオナ嬢の横を通り過ぎようとした。
「待て」と鋭い声が掛かったが、視線を落として無視する。これ以上いろいろと詮索されるのはご免だ。
 しかし、ヴァイオレットの前に影が伸びる。
 イグナシオだ。
 ヴァイオレットは顔を上げてイグナシオを睨みつけたが彼は視線を合わせようとせず、ただ前を真っ直ぐに見据えていた。
「どけよ」
 ヴァイオレットは低い声で言った。
「まだ、お嬢さまの話は終わっていない」
 イグナシオの言葉にはまるで感情がこもっていない。
「チッ」とヴァイオレットは派手に舌打ちをした。こいつも痛い目を見ないとわからないらしい。ヴァイオレットが拳に力を込めたそのとき、後ろから肩に手が置かれる。
 肩越しに振り返ったヴァイオレットにフィオナ嬢は微笑んでみせた。
「ヴァイオレット、そなたの技が仙術でないにしろ、私は大いに気に入った。グラディアス家のために力を貸してくれないか? もちろん、最高の待遇を用意しよう」
 フィオナ嬢の突然の申し出にヴァイオレットは眉根を寄せる。貴族に仕えるなんて息が詰まるようなことを誰が好きこのんでやるものか。
「オレは誰にも仕えません。これはただの護身用の体術です。他人には何の役にも立ちません」
「そうか……では、言い方を変えよう」
 フィオナ嬢は唇を一度結んでから、決意の表情で口を開く。
「ラファエル王子との婚約を破棄したい。そのために力を貸してくれ」
 ヴァイオレットは耳を疑ったが、フィオナ嬢の目は真剣そのものだった。
「お嬢さま、なにを申されるのです!」
 イグナシオは顔を蒼くして、素早く辺りを見回して警戒する。他人の耳にもし今の会話が聞こえていたら大変なことだ。冷や汗が額に浮かんだ。しかし、フィオナ嬢は至って冷静である。
「何を慌てているのです。そなたはここに人が来ないように手配しなさい」
「はっ」勢いよく頭を下げるとイグナシオはすぐに動いて、邸の中へと消えていった。
 広い中庭にはヴァイオレットとフィオナ嬢の二人だけになった。
「もう一度言おう。そなたの力が必要なのだ。協力してくれ」
 ヴァイオレットは首を傾げる。
「婚約破棄って大問題ですよね。公爵はお嬢さまの考えを知っているんですか?」
「父上には話していない。むしろ、話さないほうがうまくいくと私は考えている」
 ヴァイオレットは顔をしかめて、両手を頭の後ろで組んだ。何が何だかさっぱりわからない。
「確かに婚約破棄は政治的に大きな意味をもつ。しかし、そなたが政治のことを心配をする必要はない。我々で決着をつける」
「じゃ、一体オレは何をすればいいのですか?」
 ヴァイオレットは両手を広げてみせた。
「私の護衛役として婚約が破棄されるその日まで付いてもらいたい」
 護衛役として家臣ではない者を、それも旅人を付けるなんて常識外れもいいところだ。ヴァイオレットはますます訝しく思う。
「護衛だなんて、何の経験もないオレには無理ですよ」
 明らかに困っているヴァイオレットを見てフィオナ嬢は小さく笑った。
「そう決め付けずに話を聞け。まず、私が婚約破棄を決めた理由から話そう。昨日のルシオの言葉が私を決意させたのだ」
 ルシオが塔から必死に訴えかけた言葉。ヴァイオレットはそれを頭の中で思い返した。
「ラファエル王子との婚姻は危険だというのがルシオの主張でしたね?」
「そう」フィオナ嬢はこくりと頷いた。
「グラディアス家だけではなく王国そのものを破滅に追いやることになると言っていた」
「ルシオの意見に賛成というわけですか?」
 フィオナ嬢は一つ息を吸う。
「常識で考えれば、私とラファエル殿下の結婚は有り得ないことだ。エリアス王国の王位継承者が、他国の王の家臣である公爵の娘に婿入りするなど不自然すぎる。殿下にとって何の得があるというのか」
 フィオナ嬢の言う通り、祝典の場にいた全員が最も驚いたのはラファエル王子が婿入りするということだった。それは、エリアス王国の次期国王の地位を捨てて、グラディアス公爵家を継ぐことを意味するからだ。
 なぜ、そこまでして婚姻する必要があるのだろうか。ヴァイオレットは最も単純な疑問を投げかけてみた。
「祝典を見た限りでは、公爵の人気は絶大なものがあります。殿下は将来のことを考えて、国王よりも公爵を選んだのでは?」
 フィオナ嬢は表情を険しくする。今までとは違って慎重に言葉を選ぶように言った。
「そうだとしたら、危険だと思わないか? ラファエル殿下の支持を受けた父上が王国内で孤立してしまう。権力を持った父上の耳元でこう囁く者たちが必ず現れる」
 おもむろにヴァイオレットの耳元に顔を近づける。
「あなたが国王の座に就くべきだ、と」
 ヴァイオレットは「なるほど」と頷く。
 公爵とラファエル王子が与して、ミラーレス王国を手中に治めれば、王子の出身国であるエリアス王国にとって好都合である。いや、もっと好戦的に打って出るかもしれない。
「ミラーレス王国内で分裂が起こり、内戦に発展することが殿下の狙いかもしれないというわけですね。そうして、王国が弱体化したところにエリアス王国の軍が攻めてくる。しかも、殿下がいるのだからエリアス軍を侵攻させることも容易のはずだ」
 フィオナ嬢は背筋を強張らせる。
「ルシオの訴えを私はそう解釈した」
 ヴァイオレットは顎に手をやり、
「確かに考えられることではあります。でも、証拠はあるんですか?」
「ない」ときっぱりフィオナ嬢は答えた。
「だが、ルシオは命を懸けて、婚約を止めようとした。ルシオはただの勘や思い込みだけで父上に意見するような男では決してない。何か証拠を掴んでいるはずだ」
 フィオナ嬢の心を動かすことにルシオは成功したのだ。決死の覚悟でとった行動は無駄ではなかった。
「ヴァイオレット、昨日の塔で起こったことをよく思い出してほしい。そこで、ひとつ腑に落ちないことが起こったのだ」
 フィオナ嬢の目が鋭さを増した。
「そなたはルシオが胸を射られる瞬間を見ていたか?」
「……まあ。騎士団の連中が一斉に矢を放って、そのうちの一本がルシオに命中したのを見ました」
 フィオナ嬢は小さく首を横に振る。
「しかし、騎士団はみな一様に自分の矢は外れたと言うのだ。おかしいと思わないか?」
 ヴァイオレットは思わず唸る。確かにおかしなことだ。騎士団は弓術にも非常に優れた集団のはず。それが、自分の放った矢を見失うはずがない。
「あの場にいた騎士団は十人。イグナシオ意外が矢を放ったのだから、九本の矢が存在するはずだ。今朝、私は塔の辺りを徹底的に調べさせた。すると九本の矢すべてが見つかったのだ。これではルシオに命中した矢と合わせて十本あることになってしまう」
 ヴァイオレットは頭を抱えて、話の整理を試みる。
 つまりルシオを射たのは騎士団以外の人間だということになる。そうなると、騎士団が矢を放つタイミングに合わせることで、自分の仕業を隠そうとしたことになる。それにどこから射たのか。騎士団よりも至近距離ならば誰かが気づくはずだ。誰にも気づかれない遠距離から……人間業とは到底思えない。
「ルシオを射た矢には、グラディアス家の家紋が入っていた」
 ヴァイオレットはフィオナ嬢の考えが理解できはじめた。ルシオを射た人間は公爵家にいる。そいつは婚約破棄を訴えるルシオの口を封じる必要があったのだ。しかも、神業とも言える弓術の腕を持っている。
「婚約が破棄されるとまずい人間が公爵家に潜り込んでいるようですね」
 フィオナ嬢は強く頷いた。
「そいつが何者なのか突き止めることができれば、婚約の真の目的がわかるはずだ」
 そこまで話を聞くとヴァイオレットは額に手を当てて空を振り仰いだ。
「はあ。とんでもない話を聞いてしまったなあ」
 空は昨日と同じく雲一つない快晴だ。
「そんなに悲観することもあるまい。護衛役というのは、そなたを邸に入れるためのただの名目だ。ただ私の側に控えているだけでよい」
 ヴァイオレットは肩を竦めてみせる。
「まさか、さっきみたいに公爵家の腕自慢たちと毎日闘わせるつもりですか?」
 フィオナ嬢は口元に指をやり、静かに笑う。
「それはおもしろい案だな。そなたの技をたくさん見てみたいからな、考慮に入れておこう」
 そう言って、ヴァイオレットの前に手を伸ばした。
「剣を貸してくれ」
 なぜここで剣が必要なのかわからなかったが、言われた通りヴァイオレットは剣を渡した。
 フィオナ嬢は柄を握り、鞘からすっと剣を抜いて構える。
「しっかり見ておいてくれ」
 構えを見ただけでもそれが素人の遊びじゃないことがヴァイオレットにはよくわかった。
「はっ!」
 掛け声とともにフィオナ嬢が剣を振った。振りの速さはヒューゴーを超えている。縦に横に斜めにと一太刀ごとに空気を切り裂く音がする。何一つ無駄のない動きで華麗なうえに力強い。これがルシオに鍛えられた剣術かとヴァイオレットは目を見張る。
「はあっ!」
 最後にフィオナ嬢は渾身の力で頭上から剣を振り下ろした。呼吸を整えてから剣を鞘に戻すとヴァイオレットに向き直った。
「どうだ?」
「いや、どうだと聞かれましても、お見事としかいいようがないです」
 ヴァイオレットは素直に拍手をした。
「幼少のころから剣の稽古は毎日欠かさず行っている。しかし、最近は歯ごたえがある者がおらん。騎士団は、私が公爵令嬢ということで遠慮してくる始末だ。これでは稽古にならん」
「ちょっと待ってください!」
 ヴァイオレットは慌ててフィオナ嬢の言葉を遮った。
「まさかオレにお嬢さまの稽古相手になれとでもいうのですか?」
「まあ、簡単に言えばそういうことになるな。私はそなたの『護身術』とやらに惚れてしまったのだ」
「稽古相手って……オレは旅の途中なんです。すみませんが、お断りさせていただきます」
 ヴァイオレットはきっぱりと言った。
「最後まで話を聞け。婚約を破棄するためには危険が多いだろう。だから、私は強くならなければならないのだ」
 ヴァイオレットはため息を吐いた。フィオナ嬢の言う「力を貸してほしい」というのは「ヴァイオレットの護身術を教えてくれ」ということらしい。それが婚約破棄にどう役立つというのか。
「やっぱり意味がわかりません。これ以上難しい話はオレには無理みたいです」
 ヴァイオレットは自分の頭が重くてしかたがなかった。貴族たちの考えることはさっぱりわからない。関わらないのが一番だと思った。
「このまま旅を続けられると思っているのか?」
 ヴァイオレットは眉根を寄せて、フィオナ嬢を見据える。忠告というよりも脅しに聞こえたからだ。
「大陸は緊張状態にある。現在、多くの国々が入国制限をしている。ここは例外中の例外だ」
 そんなことは当事者であるヴァイオレットが一番わかっている。入国の許可が下りずにここ数年は満足に移動できていないのである。
「そなたの旅の支援を約束しよう。グラディアス公爵が身元保証書を与える。それがあればどんな国にも入れるだろう。もちろん金も与える。一生食うに困らない金額を報酬にする」
 ヴァイオレットにとっては喉から手がでるほど欲しい報酬だった。本当にただ稽古相手になるだけですむのならという考えが頭を掠める。
 フィオナ嬢は指を開く。
「五日、五日間だけ私に仕えてくれ」
 条件がまた一つ加わり、ヴァイオレットは腕を組んでうんうん唸ったあと、結論を出した。
「本当に五日間だけですよ。それと邸内は自由に行動させてもらいます。もちろん無理な命令には遠慮なく拒否させていただきます」
 フィオナ嬢は微笑を大きくする。
「よかろう。これで契約成立だ。よろしく頼むぞ」
 フィオナ嬢はヴァイオレットの肩をポンと叩いて、
「ここで少し待っていてくれ」
 と言って邸の中へと入っていった。
 しばらくすると、邸から給仕服を着た若い女性が現れた。女性は薄茶色の髪を後頭部のあたりで一つに束ねている。体の線は細いが、女性の中では背が高いほうだ。歳は二十歳くらいだろうか。目が大きいのが印象的で、かわいい顔立ちをしている。
 彼女はヴァイオレットの前で立ち止まると丁寧にお辞儀をした。
「これからヴァイオレットさんの身の回りのお世話をさせていただきます、アイオネアと申します。どうぞよろしくお願いします」
 再度お辞儀をする。
「お世話? いいよ、そんなことしなくても。どうせすぐに出て行く身だから」
 ヴァイオレットは掌を左右に振った。するとアイオネアは背筋を伸ばして毅然と答える。
「そうはいきません。フィオナ様から仰せつかった大事なお仕事ですから。まずは公爵家に仕える人間としてふさわしい格好になっていただきます」
 かわいい顔をしているが気は強いようだとヴァイオレットは感じた。
 ヴァイオレットは自分の格好を確認してみた。服には汚れやシミがあちこちについているし、破れが目立つ箇所もある。
「まずは浴場で体を洗ってください。着替えをご用意いたしますのでそれに着替えてください。それでは早速、これから浴場までご案内いたしますので私の後についてきてください」
 一方的に言うとアイオネアは踵を返してスタスタと歩きはじめた。
「あ、おい!」
 アイオネアは振り返りもせずに邸の中へと消えていく。ヴァイオレットは慌てて背中を追いかけた。

 浴場の入口には衛兵が二人立っていた。アイオネアが衛兵となにやら言葉を交わす。衛兵はヴァイオレットに視線をやって、
「入れ」
 と無愛想に言った。
 扉を開けて中に入るとまず広さに圧倒された。湯煙のせいもあるが、奥まで見通すことができないほどである。浴場の全面にきれいに磨かれた石畳が敷いてあり、中央には巨大な大理石をくり貫いて造られた円形の浴槽が置かれている。それは一度に何十人もが入れそうなほどの大きさで、こんこんと湧き出る湯がそそがれ、溢れ出ている。
 ここには温泉源でもあるのだろうか。これだけ大規模な浴場を持つ公爵の富にヴァイオレットは舌を巻いた。
「ここで服を脱いでその籠にいれろ」
 ヴァイオレットは言われた通り服を脱ぐと籐製の籠へ放り込んだ。籠の中にはすでに衣服が入っている。他に誰かいるのか、とヴァイオレットは疑問をもった。
 さらに体を洗うように衛兵から指示を受ける。渡された目の粗い布で体をごしごしと念入りに擦り、脇に設置された大きな甕の中に溜めてある湯水を使って洗い流した。旅でたまった垢を落としていると自然と気分が良くなる。
 最後に衛兵から浴槽に浸かるように指示された。
 湯船に体を沈めると最高に気持ちがいい。疲れが一気に体から放出されていくみたいだ。
「あ、あなたはヴァイオレットさん?」
 突然自分の名前を呼ばれたヴァイオレットは声のほうに視線を向ける。だが、湯気でよくわからない。目を凝らしながら声の方に寄ってみると見覚えのある少年の顔があった。
「お前は確かルシオの――」
「マーヴィンです。それにこいつがリカルドです」
 リカルドと呼ばれた少年は軽く会釈をした。体はマーヴィンよりも一回り大きい。いかにも腕っぷしが強そうだ。
「ご無事でなによりです。ヴァイオレットさんを巻き込んでしまい申し訳なく思います」
「ああ、そんなこと気にすんな。好きでやっただけだから。いまはどういうわけか風呂に入ってるけどな。で、お前らはどうなるんだ。拷問されたあと首が飛ぶ?」
「ぷっ」と二人は吹き出した。そこへ衛兵の鋭い視線が飛ぶ。マーヴィンはそれを感じて小声で言った。
「最初はそれくらいの覚悟はできていました。しかし、私とリカルドは、フィオナ様から先生の意識が戻るまで看護するようにと申し付けられました。他の仲間に関してはすでに全員釈放されています」
「ほー、それはそれは寛大な」
 ヴァイオレットは両手を頭の後ろで組んだ。マーヴィンは丁寧な口調で言葉を続ける。
「幼いときに戦争で父を亡くした我々に教育を施して下さったのがルシオ先生です。学問や剣術を身に付けて将来公爵家に仕官できるようになるためです。それをフィオナ様はご理解しておられた。ありがたいことです」
 つまりルシオの弟子たちはみな戦争のために父親を失った遺族というわけだ。
 戦争に勝利し、領土を拡大することで国は繁栄する。しかし、その影には一家の大黒柱を失った家族もまた多く存在するのだ。その大半は没落して消えていくのだろう。ルシオは軍師として人一倍責任を感じていたはずである。残された遺族を見捨てておくわけにはいかなかった。たとえそれが公爵家内での地位や名誉を捨てることになっても、とヴァイオレットは想像を巡らせた。
「マーヴィン、リカルド。時間だ。出ろ」
 衛兵から指示が出た。
「それではお先に失礼します」
 二人はヴァイオレットに頭を下げて浴槽から出ていった。
 広い浴槽で一人になったヴァイオレットの腹がぐうぐうと鳴った。朝食も与えられずに決闘をさせられたわけだから腹が減って当然だ。
 やがて、ヴァイオレットも風呂から出るように指示される。
「これを着ろ」
 体を拭いた後、衛兵からきれいに折り畳まれた服一式を手渡された。上下とも濃青色で統一されたシンプルなものだ。胸に王国の紋章が、右腕部分に公爵家の家紋が刺繍してある。ヴァイオレットは最後にベルトを締めて着替えを完了させた。
 浴場を出るとアイオネアが立っていた。彼女の視線が素早く上下に動く。
「きちんと靴紐は結んでください。それにベルトはもっときつく締めてください。それではみっともなさすぎます。常に公爵家の家臣にふさわしい格好を心がけてください」
 アイオネアはまるで叱るように厳しい口調で言った。ヴァイオレットはそれに反発するように口をとがらせる。
「ちょっと待て。いつからオレがここの家臣になったんだよ!」
「たとえ五日間だけでも特別扱いは許されません」
 アイオネアはヴァイオレットのベルトを掴むとぎゅっときつく締めた。ヴァイオレットは思わず「うっ」と声を漏らす。
「このくらい締めてください。このほうが背筋が伸びて、引き締まって見えます。ほら、早く靴紐を結んでください!」
「わ、わかったよ」
 アイオネアの気迫に押されたヴァイオレットは靴紐を結び直した。
「それでは食堂に案内しますので、私の後についてきてください」
「やった、飯だ!」
 ヴァイオレットの表情が一気に明るくなる。
「はい、朝食をご用意いたしました。しかし、時間がありませんので急いでお召しあがりください」
「え?」
 まだ何かあるのかとヴァイオレットは顔を歪めた。
「急な予定が入りました。それは歩きながら説明いたします」
 アイオネアは背中を向けて、またスタスタと歩きはじめた。すべてアイオネアのペースで進んでいることをヴァイオレットは苦々しく思いながらも彼女の後ろを歩く。
「朝食をとっていただいたあと、すぐにお嬢さまのお供をお願いいたします」
「お供って。買い物でも行く気か?」
 アイオネアは突然ぴたっと足を止めた。ヴァイオレットは危なくアイオネアに衝突しそうになる。
「あぶねえなあ、急に立ち止まるなよ!」
 アイオネアが体ごと振り返る。目が本気だ。明らかに怒っている。
「お嬢さまがノア殿下より鷹狩りに招待されました。そのお供です。これは大変重要な任務ですよ」
「ノア殿下?」
 殿下という言葉にヴァイオレットは反応する。
「ミラーレス王国の第三王子でいらっしゃいます。絶対に粗相のないようにして下さい。とくにヴァイオレットさんの場合、言葉遣いは慎重にお願いします」
 アイオネアは人差し指を立てて語気強く言った。
 ヴァイオレットは顔を横にそむけて、
「はいはい、黙ってますよ」
「そうして下さい」
 アイオネアは踵を返すと再び歩きはじめた。
「そんなに心配ならオレを連れていかなきゃいいのに」
「何を言っておられるのですか。あなたは護衛役なのですから、お嬢さまが外出されるときはお供されるのが当然だと考えてください」
「やれやれ」
 ヴァイオレットは思わず頭を抱えた。なんだか想像以上に大変そうだ。今更ながら後悔の念が頭をよぎった。
 茶色の大きな扉の前でアイオネアの足が止まった。
「ここが食堂です。これからはここで食事をとっていただきますので場所を覚えておいて下さい」
 アイオネアはノブを回しながら言った。
 食堂には白いテーブルクロスを掛けられた長机が四列並んでいる。その左右に木製の椅子が置かれ、一度に五十人は座れそうである。しかし、今はヴァイオレットとアイオネア以外誰もいない。
「こちらにお座り下さい」
 アイオネアから指定されたのは出入口から一番遠いテーブルだった。そこにはすでに食器が置かれていて、ライ麦パンと豆スープ、それに果物が添えられている。
 ヴァイオレットの目が輝く。椅子に腰をおろすとすぐにパンに齧り付いた。もぐもぐと咀嚼しながらアイオネアに話掛ける。
「で、ノア殿下とフィオナ嬢はどんな関係なんだ?」
 ヴァイオレットの問いにアイオネアは一つ咳をする。
「関係といいますと? よく質問の意味が理解できません」
 ヴァイオレットは椅子の背もたれにもたれかかりながら、声高く言った。
「鈍いなあ。関係といったら男女の関係のことに決まってるじゃないか。だいいち、鷹狩りって、普通は王族にしか許されないもんだろ。それに誘うなんて余程の関係じゃないと無理だ」
 アイオネアの表情がより一層引き締まる。
「殿下とお嬢さまは歳が近いこともあって、以前から懇意な間柄であるとだけ聞いております」
 白々しく答えるアイオネアにヴァイオレットは冷たい視線を向けながら質問を続ける。
「前にも鷹狩りを?」
 アイオネアは首を左右に振った。
「鷹狩りのお誘いは初めてです。婚約のお祝いに是非ということで、たった今お誘いがありました」
「お祝いに鷹狩りかあ」
 ヴァイオレットは二個目のパンを口の中に放り込んだ。
「余計な推測は必要ありません。私たちは与えられた仕事を全うすればいいのです。ほら、早く食事を終わらせて厩舎に行きますよ」
 アイオネアは急き立てるように言った。
「わかった、わかった。これでも急いで食べてるんだよ」
 ヴァイオレットは熱いスープを一気に飲み干した。



[19782] 第三章 女神の盾(1)
Name: 士はサムライ◆2a504029 ID:c18cd6ec
Date: 2010/06/25 08:42
 アイオネアに案内されて厩舎に行くと小柄な初老の男がいた。頭部には一本の毛も生えておらず、太陽の光を反射している。
「おはよう、アイちゃん。今日は彼氏と一緒かい?」
 男はそう言ってケラケラと笑った。笑うと上の前歯が一本抜けているのが目立った。
「ヴァイオレットさん、こちらは厩舎の管理をされているドミンゴさんです」
「ドミンゴだ、よろしく」
 男は名乗りながらヴァイオレットに右手を差し出した。
「オレはヴァイオレット」
 二人は握手を交わす。
「話は聞いているよ。お前さん、お嬢さまの護衛役になったんだろ。それにしてはあんまり強そうにみえねえけどなあ」
 ドミンゴは大きく口を開いて高笑いした。耳を塞ぎたくなるほどの笑い声。なんとも陽気なジイさんだとヴァイオレットは心の中で呟いた。
「ドミンゴさん、ヴァイオレットさんの馬は用意していただけましたか?」
 ドミンゴはぺしっと自分の頭頂部を叩いて、渋い顔をした。
「そうだなあ、護衛っていうからてっきり大男だと思ってたからなあ」
 ドミンゴは、がに股で歩きながら厩舎の中へと入っていった。
 ヴァイオレットとアイオネアは厩舎の入口で歩を進める。厩舎内は薄暗く、奥に伸びる通路を挟んで左右から馬の首が伸びている。ざっと数えても五十頭はいそうだ。
 奥へ奥へと進んでいくドミンゴの背中にヴァイオレットは声を掛ける。
「なあ、オレは馬に乗るのがあんまり得意じゃないからおとなしいのにしてくれよ」
 ドミンゴは肩越しに振り返って、
「なんだい、せっかくいい馬を用意しようとしてんのに張り合いがねえなあ」
 顔をしかめて、舌打ちするドミンゴにヴァイオレットはむっとした。
「どうせ扱いにくい駄馬しか育ててないんだろ?」
 みるみるとドミンゴの顔が赤くなっていく。
「なんだと! ワシが手塩にかけて育てた馬たちをバカにする気か」
 ドミンゴは、ヴァイオレットの目の前まで走って戻った。
「うるせえ! それなら誰でも乗りこなせる利口な馬をもってこい!」
 二人は顔を至近距離まで近づけて睨みあった。その様子を横で見ていたアイオネアは呆れてため息を吐いた。
「二人ともやめてくだい! 時間がないんですよ!」
 アイオネアの大声が厩舎の中に響き渡った。二人は「ふん」と鼻息荒く目をそらした。
「どんなへたくそでも乗れる馬がいるよ」
 そう嫌味をひとつ言ってドミンゴは一番奥から鹿毛の馬を一頭連れてきた。
 確かにおとなしそうではあるが、まったく若さを感じない。
「おい、こいつ大丈夫なのか?」
「当たり前だ。少し歳をとっているだけでいまでも現役だ。名前はサルバ。大事に扱えよ」
 サルバと呼ばれた馬はパチパチと瞬きをしながら、ヴァイオレットの方へ首を下げた。
「よろしく頼むぞ、サルバ」
 ヴァイオレットが顔を撫でてあげるとサルバは気持ちよさそうに目をつむった。自分の主人をすでに理解しているようだ。
「準備はできたか?」
 厩舎の入口のほうから声が聞こえた。
「ああ、お嬢さま!」
 ドミンゴの声が一段高くなった。
 振り返ってみると白いブラウス姿のフィオナ嬢の姿があった。下は先程までのドレススカートではなく動きやすいようにストレートスカートを着用している。
「ドミンゴ、急なことですまないな。私の馬は大丈夫か?」
「なんともったいないお言葉。いかなるときでも出馬できるように馬たちの体調を管理するのが私の仕事でございます。少々お待ちを、すぐにご用意いたします」
 ヴァイオレットへの対応が嘘のようにドミンゴは畏まって答えると厩舎から駆け足で出て行った。
「なんなんだ、あのジジイは」
 あまりの豹変ぶりにヴァイオレットは目を丸くした。隣でアイオネアがくすっと笑ってヴァイオレットに囁き掛ける。
「ここで働いている人たちはみんなお嬢さまのことが大好きなんですよ。もしかしたら、ドミンゴさんはヴァイオレットさんに嫉妬しているのかもしれませんね」
「冗談じゃない。いい歳こいたジイさんから嫉妬されるなんて」
 口をへの字に曲げて嫌がるヴァイオレットを見て、アイオネアは口元を手で押さえて必死に笑いを堪えた。
「お嬢さま、お待たせいたしました!」
 外からドミンゴの弾んだ声が聞こえてきた。
 厩舎から外に出ると一頭の馬を連れたドミンゴが満面の笑みで立っていた。
 その馬の美しさに思わずヴァイオレットは息を呑む。白馬と呼ぶにふさわしい純白の毛並みとツヤはこれまで見てきたどんな馬よりも美しく気高い雰囲気を持っている。おそらく公爵や令嬢、騎士団が乗る一流馬たちはこことは別の厩舎で特別に管理しているのだろう。
 公爵邸にあるものすべてがヴァイオレットの想像を超えている。あまりに巨大な富を目の当たりにして、ヴァイオレットは全身に鳥肌がたつのを感じた。
 フィオナ嬢はスカートの不便さをまったく感じさせることなく鞍にまたがった。
「ヴァイオレット、そこに鞍があるから早く着けな。お嬢さまを待たせるんじゃない」
 面倒臭さそうにドミンゴが言った。
「何言ってやがるんだよ、ジジイ。オレが鞍の着け方なんて知るわけないだろうが。生まれてこの方自分の足だけで歩いてきたんだよ」
 ヴァイオレットは自分の太腿あたりをパンと叩いた。
「ドミンゴ、私のほうは大丈夫だからヴァイオレットの準備をしてやってくれ」
 フィオナ嬢の言葉にドミンゴはまた声音を変える。
「はい、お嬢さま!」
 ドミンゴは木箱の中から鞍を取り出すとサルバの背中に慣れた手つきで装着した。
「本当に手のかかる奴だなあ。ほら、できたぞ」
 ヴァイオレットはむっとする気持ちを抑えてサルバにまたがった。乗り方がどことなくぎこちなく頼りない。
 フィオナ嬢は頬を緩める。
「馬は苦手かヴァイオレット? そうだ、毎日の稽古にそなたの乗馬訓練の時間も加えよう」
「結構です。馬に自分の身を任せるというのはどうも落ち着かない。信じられるのは自分の体だけです」
 ヴァイオレットは鞍の座り心地が悪いらしく体をもぞもぞしながら答えた。
「そうか、ものは言いようだな。ふふふふ」
 フィオナ嬢が笑うとアイオネアとドミンゴも声を出して笑った。ヴァイオレットは目を瞑って、こみ上げてくる怒りを必死に抑えた。
「さて、そろそろ出発することにしよう。殿下をお待たせするようなことがあってはならないからな」
「西門に引き馬の者をご用意してあります。そこまでは私がお引きいたします」
 そう言ってドミンゴがフィオナ嬢の白馬の手綱を握った。
「お前は西門までついて来い、いいな」
「はいはい、どこまでもついていきますよ」
 ヴァイオレットは半ばやけくそになって言った。
「では、お嬢さま、参ります」
 フィオナ嬢を乗せた白馬はゆったりと歩きだした。
 サルバも歩きだすが、よろよろとして歩きにくそうにしている。その原因は騎乗者にあった。無駄な力が全身に入っていて、顔がひきつっている。
「ヴァイオレット、もっと胸を張って姿勢をよくしろ。馬の歩に合わせて自分もリズムをとるんだ」
 見かねたドミンゴがヴァイオレットに助言した。
「それができたら苦労しねえよ!」
 ヴァイオレットはへっぴり腰のまま言い放った。とにかく門に着くまでの我慢だ。そこからは馬引きがいるのだから。
 しかし、広い庭園を横切るだけで、門は一向に見えてこない。この邸はどこまで続くのかとヴァイオレットが不安を感じたころ、ようやく門らしきものを確認できた。近づくにつれ、門には様々な意匠が凝らしてある立派なものであることがわかる。
 西門の前にはすでに二人の少年兵が待機していた。ドミンゴの説明によると二人は騎士見習いで、普段から騎士団の馬を引いているということだった。
 これで自分が馬を操らなくすむと思うとヴァイオレットはほっとした。
 ドミンゴは少年兵に手綱を渡して、フィオナ嬢の方に向き直る。
「お嬢さま、いってらっしゃいませ」
「ご苦労だった。行ってくる」
 フィオナ嬢はドミンゴへ感謝を込めて微笑んだ。
「おい、ヴァイオレット。お嬢さまをきちんとお守りするんだぞ」
「戦場に行くわけじゃあるまいし。それにオレなんかより王子様がきちんと守ってくれるよ」
「その王子様が一番きけ――」
 ドミンゴは言いかけたところで慌てて口を閉じた。明らかにしまったという表情をしている。一瞬にして場の空気が凍りついたことがヴァイオレットにはわかった。
「ドミンゴ、いまのは聞かなかったことにしておく。門を開けよ!」
「はっ」
 門番の二人が身長の倍以上はあろうかという両扉を押した。門が開かれた先には一筋の道が延びている。それは緑で覆われた小高い丘のほうへと続いている。
「普通に歩いていては狩場までは二時間以上掛かるだろう。すまぬが少し急いでくれ」
 フィオナ嬢の言葉に馬を引く二人は「はっ」と引き締まった返事をした。
 少年兵が馬を引くと馬の速度が一気に上がった。それがヴァイオレットに苦痛を与えることになる。揺られるたびに股間に強烈な痛みが走る。なんとか馬のテンポに合わせて体を上下させるが全然うまくいかない。結局、顔を歪めたままの状態が一時間以上続くことになってしまった。
 丘を登りはじめてから間もなくして、前方を四人の兵士が道を塞ぐようにして立っていた。兜には王家の紋章が描かれている。
 兵士の一人がフィオナ嬢に近寄ると敬礼をしてから口を開いた。
「フィオナ様、お待ちしておりました。ここからは王家が特別に管理している土地です。ご負担をお掛けいたしますが徒歩での移動をお願いいたします。狩場までは私どもがご案内いたします」
「うむ、よろしく頼む」
 フィオナ嬢は馬から颯爽と降りた。
 一方、ヴァイオレットは鞍を掴んでおそるおそる馬から降りた。地に足を着けると股間の痛みが増した。痛みを堪えようとして、冷や汗が浮かび、自然と内股になってしまう。なんとも不自然な立ち姿に兵士たちから冷たい視線が飛ぶ。ヴァイオレットは顔をそらして目線を合わせないようにした。
「供の者を一人連れて行くことを王子より許可していただいたのだが聞いているか?」
「存じ上げております。しかし、武器の所持は一切許可されておりません。失礼ですがお二人の所持品を確認させていただき、不必要なものはこちらで預からせていただきます」
 フィオナ嬢が兵士たちから触れられることはないがヴァイオレットには容赦がなかった。二人がかりで全身を乱暴に触られるのは不快極まりなかったがしばらく我慢した。
「このベルトは許可できない。外せ」
「は?」思わぬ指示にヴァイオレットは両眉を上げた。ベルトが武器になるという判断らしい。
「二度言わせるな。はやく外せ」兵士がすごんできた。その態度にヴァイオレットはいらつきを覚えて顔をしかめた。
「ヴァイオレット、言われたとおり従いなさい」
「わかりました」
 しぶしぶベルトを外すと兵士に手渡した。
 フィオナ嬢は身につけていた装飾品をすべて外していた。イヤリング、ネックレス、指輪。これら光を反射するものは鷹狩りの際に支障をきたすという説明を受けたからだ。
「ご協力ありがとうございます。それではこちらへ」
 列の先頭に兵士が二人歩き、後方に二人の兵士がついた。
 しばらく歩くと道は途切れていた。前には腰の高さまで伸びる繁みがあるだけだ。しかし、何の迷いもなく先頭を歩く兵士たちは繁みを掻き分けて、奥へ奥へと進んでいく。戸惑いながらもフィオナ嬢もそれに続く。奥へ進むにつれ木々の隙間からわずかに光が射し込むだけとなり辺りは薄暗くなっていく。
「おい、この道で本当にあってるのか」
 たまらずヴァイオレットは声を上げる。
「黙って歩け」
 とだけしか兵士は答えなかった。
 道なき道を三十分以上歩いて、ようやく獣道のような細い道があらわれた。
 先頭の兵士が足を止めて振り返る。
「フィオナ様、足元が悪いなかをご苦労さまでした。これも神聖な狩り場を部外者から守るためのものです。どうかご理解ください。あとはこの道をお進みください。これ以上は私どもは立ち入ることを許可されておりません」
 フィオナ嬢は大きく頷いて見せた。
「案内、ご苦労であった。帰りもよろしく頼むぞ」
「はっ。ここでお待ちしております」
 フィオナ嬢は隣にいるヴァイオレットに目をやる。
「行くぞ、ヴァイオレット。ここからはそなたが先頭だ」
 そう言って、ヴァイオレットの背中を軽く押した。
 ヴァイオレットは辺りをきょろきょろ見回しながらゆっくり慎重に歩を進めた。藪の中からいつ危険な獣が飛び出してきてもおかしくない雰囲気だからだ。
「まったく、王様たちの娯楽に付き合うためになんでこんな薄気味悪いところを――」
「ほら、文句ばかり言ってないで、速く歩け。」
 フィオナ嬢はヴァイオレットの背中を強く押した。ヴァイオレットは顔をしかめる。
 よく考えたら、公爵令嬢が剣を振って、馬にもまたがるなんて普通じゃない。ただのお転婆じゃないかと考えを改めた。
 やがて道の先から一筋の強い光が射し込んできていることがわかった。やっと狩り場に着くと確信したヴァイオレットは駆けて、視界を遮っている繁みを手で払った。
 するとまぶしい太陽光が降り注ぐとともに一気に前方の視界が開けた。
 そこは短く刈られた芝生が円形状に広がり、その周囲を背の高い木々が囲んでいる。また、木々の根元には色とりどりの美しい花々が咲き誇っている。明らかに人為的に造られた場所だ。
「美しい……」
 フィオナ嬢は目を輝かせながら円の中央まで進むと両手を広げて大きく深呼吸をした。
「はあー、緑の香りが気持ちいい。そなたもやってみろ。こんなに心が癒されることはないぞ」
 ヴァイオレットは芝生の状態を確かめるように歩いてみた。どこも均等の長さに刈られている。どうやら定期的に管理の手が入っているようだ。
「これだけ手の込んだものを王族たちだけで独占しているのか。国民は存在さえ知らない秘密の花園ってところだな」
 フィオナ嬢は足元に咲いた一輪の花を摘む。
「この丘そのものが、鷹狩りのために造り上げられたものだろう。一体どれだけの労力と費用が掛かったことだろう」
 ヴァイオレットは一つ息を吐く。
「なんと贅沢な。今度生まれてくるときはぜひ王族の人間として生まれてみたいもので……ん?」
 ヴァイオレットの顔つきが険しくなった。
「どうした?」
 その変化にフィオナ嬢は敏感に反応した。
「蹄の音が……それに人の足音も」
「私には何も聞こえないぞ」
 ヴァイオレットは耳をそばだてる。
「あちらからです。オレたちが来た道とは違いますね」
 ヴァイオレットは音の方向を指さした。ヴァイオレットたちがやって来た道とはほぼ真逆の方角だ。
 フィオナ嬢も耳に神経を集中させる。すると、蹄の音と草を踏む人の足音がわずかに聞こえるようになった。
「あ、聞こえた。おそらく殿下御一行だろう」
「王族専用の道でもあるんですかね。殿下は狩り場まで悠々とご到着か」
「それは充分考えられるな。いや、そう考えるのが普通か」
「ここからは頼みますよ。ノア王子というのはどうも難しいお方のようですから、オレは口を閉じています」
 ヴァイオレットはフィオナ嬢の隣で小声で言った。
「ああ、私に任せておけ」
 フィオナ嬢はヴァイオレットに片目を瞑ってみせた。
 やがて、ガサガサと繁みを掻き分ける音がすると、馬にまたがり、両脇に家臣を従えた男が現れた。
 馬上の男は羽根つきの丸帽子をかぶり、真っ赤なマントを身に付けている。白いタイツを履いた脚は細長い。目は細く、釣り上がっていて、ひどく目つきが悪い印象を受ける。口からは真っ白な二本の前歯が出ていた。
 フィオナ嬢は片膝を地面につけ、胸に手をやり、頭を垂れた。これは家臣が臣従を示す態度である。この男がノア王子であることは間違いないようだ。ヴァイオレットもフィオナ嬢に倣って同じ姿勢をとった。
「おお、フィオナよ、待たせたな。その方が結婚すると聞いて、余からも祝いをしてあげたくなってなあ。急な呼び立てをしてしまってすまなく思うぞ」
 ノア王子はにやにやしながら甲高い声で言った。
 フィオナ嬢は顔を上げることなく答える。
「殿下自らお祝いしていただき、フィオナは幸せ者でございます。今後ともよしなに願います」
 フィオナは深々と頭を下げた。
 満足そうにノア王子は頷いて、
「もちろんだとも」
 と言って馬から降りた後、フィオナ嬢のもとに歩み寄って鼻の下を伸ばした。
「そういつまでも畏まっておらずに顔を上げなさい。余とその方は幼いときより親しい仲ではないか。さあさあ」
 ノア王子はフィオナ嬢の手を握って、立ち上がるようにうながした。それに伴いフィオナ嬢はゆっくりと腰を上げる。
「今日は誠に良い天気だ。これ程鷹狩りにふさわしい日はそうはあるまい。存分に楽しんでくれ」
 フィオナ嬢はいつまでも自分の手を握っているノア王子の手をさりげなく離すと、落ち着いた口調で話した。
「殿下、私のようないち家臣の者が鷹狩りに参加してもよろしいのでしょうか」
 ノア王子は一層にやけた笑みを作った。前歯だけではなく歯茎までもむき出しになっている。
「その方は余にとって特別な存在だ。妹といっても過言ではない。何もためらうことなどないぞ」
「余計なことを申し上げてしまいました。お許しください」
 王子は「よいよい」と目尻をさげて何度か頷くと手を二度叩いた。
 すると後方で控えていた家臣の一人が大きな籠を持って来て、王子の足元に置いた。
 籠の中には鋭い眼光を放つ一匹の鷹がいた。黒く鋭い爪を持ち、くちばしの先は鉤形に曲がっている。体を覆う羽毛は全体が茶色で所々に黒い斑点模様もある。
 勇猛さと獰猛さを合わせもった鷹の姿を目の当たりにして、ヴァイオレットは背筋にぞくぞくと悪寒が走るのを感じた。
「フィオナ、この男はなんだ?」
 王子はヴァイオレットに侮蔑を含んだ視線を向けて、いまいましげに言った。
「紹介が遅れました。ヴァイオレットと申しまして、私の護衛役でございます」
「ほう」
 王子はヴァイオレットに一歩近づいてジロジロと顔をみた後、口をへの字に曲げた。
「なんとも頼りない間抜けな顔をしておるのう。フィオナよ、これで本当に護衛が務まるのか。私のところに腕のいい者が何人もおる。その者たちをよこそうではないか」
「恐れながら申し上げます。この者、腕は確かでございます。私も信用を置いておりますので、殿下のお気持ちだけありがたくいただきます」
「むう」と唸って王子は不満な表情を浮かべた。
 ヴァイオレットは表情一つ変えずにただ黙っている。
「おい、お前は端にいっておれ。この場にいることだけは許してやるからありがたく思えよ」
 王子はまるでうるさい虫を払うかのように手首を振った。
「はっ」とだけヴァイオレットは答えると立ち上がってその場から離れた。ちょうど木陰になっている所を見つけて移動する。ここからなら、二人の会話を聞きとることもできる。鷹狩りを見物するにはもってこいの場所だ。
「さあて、そろそろはじめることとしようか」
 王子はマントを脱いで家臣に渡す。もう一人の家臣が籠に手をやり、檻状になった前部を引き抜いた。籠から飛び出した鷹は軽く羽を上下に振ると家臣の右腕に飛び乗った。家臣は分厚い革製の腕当てを装着している。これがないと鷹の鋭い爪が肉に食い込んでしまうことだろう。
「放て!」
 王子の声とともに家臣は腕を前方へ勢いよく振る。すると鷹は羽を勢いよくはばたかせて空へと飛び立った。やがて、羽を左右に大きく広げて、空中を時計回りに旋回し始める。
 王子は鷹の様子を見つめながら、家臣から弓と矢を受け取る。
「どうだ、鷹が優雅に天空を舞う姿は?」
 王子は弦の張り具合を指で弾いて確かめながらフィオナ嬢へ訊いた。
「はい、まさに空の王者のようでございます。今ほど鳥のように空を飛んでみたいと思ったことはありません」
 上空を見上げながらフィオナ嬢は答えた。
「そうだ、その王者を射るからこそ鷹狩りは格別なのだ」
 王子は自慢げに笑うとぺろりと下唇を舐める。
 王子の気味の悪いしぐさに思わず身震いしそうになるフィオナ嬢だったが、なんとか平然を装った。
「フィオナよ、よく見ておくのだぞ。鷹狩りを見られるのは、これが最初で最後だろうからな」
 当てつけがましい王子の言葉にもフィオナ嬢は笑顔で頷いた。
 王子が矢をつがえると家臣が鷹用のものとは別の小さな籠を開け放った。中からうさぎが三匹走り出す。うさぎを餌にして、鷹を射るためだ。
 王子は弦を引いて構えると「よし!」と力強く言った。王子の声を合図に鷹を放った家臣が「ピューッ」と指笛を空に向けて鳴らした。
 すると、今まで空を旋回していた鷹の動きが一瞬ピタリと止まる。野に放たれたうさぎに気づいたのだろう。鷹はもの凄い速さで急降下をはじめる。上空では黒い影だった鷹の姿が地上に近づくにつれて、みるみる大きくなっていく。
 王子は弦を引き絞り狙いを定める。
 鷹の開いた両爪が黒く輝く。
 王子は矢を放つ。
 鷹の爪がうさぎの体を捕らえる。
「――バサバサバサ!」
 鷹は激しく羽をはばたかせるとまた空へと飛んでいく。
 王子が放った矢は鷹ではなく、うさぎに突き刺さった。鷹は掴んでいたうさぎを放して、再び大空の世界へ戻っていったのだった。
 王子は前歯をむきだしにする。
「むう、惜しいのう。矢を放つのがすこし早かったわ」
 悔しそうに地面を蹴る。
「せっかくその方に鷹をプレゼントしようと思っていたのだが許してくれ」
 フィオナ嬢へ向き直ると王子はすまなさそうに言った。
 鷹は賢い動物である。自分が狙われていることを悟った鷹は、しばらく地上には降りてこないだろう。
「とんでもございません、殿下。あの速さで降りてくる鷹に狙いを定めることはどんな一流の狩人でも不可能でしょう。むしろ、殿下の弓の腕に感服いたしました」
 王子はまた鼻の下を伸ばす。
「フィオナは本当に優しいのう。そう言ってくれると余も救われるというものだ」
 王子はフィオナ嬢の手をとるとくちづけをした。
「もったいないお言葉です」
 フィオナ嬢は、手を拭いたい気持ちを必死に堪えて笑みを作った。
「こんなこともあろうかと別のものを用意してあるのだ」
 王子は得意そうに言うと懐から金色に輝くネックレスを取り出した。ペンダント部分には菱形にカットされた大きな赤い宝石があしらわれている。
 それがルビーだろうということくらいしかヴァイオレットにはわからなかった。市場に出せば一体どれほどの値がつくのだろうか、見当もつかない。
「よろしいのですか。このような高価なものをいただいて」
 フィオナ嬢は遠慮がちに訊ねた。
「いけないことなどあろうものか。ささ、後ろを向いて。余が着けてやろう」
「……はい」
 フィオナ嬢が背を向けると王子は腕を回して、白磁のように美しい首へネックレスを着けた。彼女の首下でルビーは美しさを競うかのようにより一層の輝きを放った。
「フィオナほどこの宝石が似合う者は他におるまい」
 王子は両手を広げ、興奮した面持ちで言った。
「ありがとうございます」
フィオナ嬢は向き直って、深々と頭を下げた。
 王子はフィオナ嬢の方に体を向けたまま、何歩か後ろへさがった。
「近くで見るのもよいが、こうして離れて見るとまた違った美しさがあるのう」
 顎に指を当ててしみじみと王子は言う。そして、にやりと不敵な笑みを浮かべて、
「……ラファエル王子にやるのは本当にもったいない」
 ぼそりと王子は呟いた。
 フィオナ嬢にはよく聞き取れなかったが、耳のいいヴァイオレットにははっきり聞こえた。
 ヴァイオレットに緊張が走った。王子の言葉に異様な含みを感じたからだ。何か不審なものはないか。頭を左右に振って、必死に辺りを見回す。しかし、これといって見当たらない。
――気のせいなのか……いや、上だ!
 ヴァイオレットは空を見上げる。
 空を舞う鷹の動きが止まっていた。
『光り輝くものは鷹狩りには危険だ』と言った兵士の言葉がヴァイオレットの頭の中を駆け抜ける。
 ヴァイオレットが駆けだすと同時に、鷹も急降下を開始した。
 ヴァイオレットはありったけの声を張り上げる。
「フィオナァァァァ!」
 フィオナ嬢は声に気づいて視線を向けた。必死の形相でこちらへ走ってくるヴァイオレットを見て、自分の身に危険が迫っていることを感じ、咄嗟に姿勢を低くして身構えた。
「鷹だ! 鷹を見ろぉぉぉ!」
 ヴァイオレットの言葉を受け、視線を上げると、真正面に向かってくる鷹の姿があった。鷹は両爪を鉤形に曲げて、すでに獲物を捕らえる体勢に入っている。標的が自分であることを疑う余地はなかった。
 この距離でかわすことは無理だと瞬時に判断したフィオナ嬢は、両腕で顔を覆い、屈み込んで身を固くした。鷹の爪は肉をえぐりとることだろう。それがどれ程の痛みなのか、フィオナ嬢は覚悟を決めて目を閉じ、歯を食いしばった。
 強い衝撃が予想外にも横からきて、フィオナ嬢は地面に横向きに倒れた。
 痛みはどこにも感じなかった。そのかわりに人の重みを感じたフィオナ嬢は、おそるおそる目を開いた。すると、目の前でヴァイオレットが苦痛に顔を歪めて、覆いかぶさっていた。
「ヴァイオレット、大丈夫か!」
 ヴァイオレットの左腕から背中にかげて服が裂け、血が滲んでいる。
「ぐっ!」
 と苦痛の声を漏らした後、ヴァイオレットは掠れた声を振り絞った。
「その……宝石は危険……です」
 フィオナ嬢はなぜ自分が鷹に襲われたのかを理解した。そして、王子が自分を傷つける目的で鷹狩りに誘ったのではないか、という考えが頭を駆け巡った。幼いときから王子が自分にただならぬ好意をよせていることはもちろん気づいていたし、自分と結婚するために水面下で動いていたとも聞いている。
 しかし、それはラファエル王子の出現ですべて水の泡になってしまった。激しい嫉妬からこのような愚劣な手段を思いついたのか……憶測の域は出ないが、怒りで体が震えていた。
「鷹は……?」
 ヴァイオレットから聞かれて、フィオナ嬢は顔を上げて鷹の行方を捜した。そうだ、まだ安心していいわけではないのだ。
 鷹はこちらを威嚇するかのように再び上空を大きく旋回している。
「だ、大丈夫か……フィオナ?」
 弱弱しい声で王子が声を掛けてきた。額に汗を浮かべ、顔をひくつかせている。しかし、決してフィオナ嬢には近づこうとしない。鷹を怖れているのだ。それに自分の計画が失敗してしまい、焦りを感じているのかもしれない。
 ヴァイオレットは、苦痛の表情を浮かべながらも静かに笑う。
「へへっ、どうしますか? ここで王子に平手の一発でもおみまいしてやりますか」
 冗談まじりにフィオナ嬢へ囁いた。
 フィオナ嬢の瞳に強い力がこもる。
「それではあまりにも単純でおもしろくなかろう。そなたに殿下のもっと間抜けな顔を見せてやるわ」
 フィオナ嬢は勢いよく立ち上がると、大股で家臣に近づく。フィオナ嬢の見幕に男はおろおろして目を泳がせた。
「貸しなさい!」
 家臣が持っていた弓矢を乱暴に掴んだ。女性とは思えない力の強さに男は「ひっ」と小さく悲鳴を上げて弓矢から手を離した。
 弓矢を手にしたフィオナ嬢は肩幅に両足を開いて再び鷹の姿を確認した。
 鷹はフィオナ嬢のほぼ真上で小さな弧を描きながら旋回している。フィオナ嬢は首に下げていたネックレスを外すと、宝石を手に取って太陽にかざした。太陽の光を受けた赤い宝石は空へとまばゆい輝きを放つ。
 その光に鷹は敏感に反応する。旋回するのをやめ、一瞬動きを止める。狙いを定め、急降下する体勢に入った証拠だ。
 フィオナ嬢は握っていた宝石をその場に投げた。それと同時に鷹が一直線に急降下をはじめる。
 フィオナ嬢はさっと弓を構えた。鷹の速さはこれまでで一番速い。充分に狙いを定める間もない。それでもフィオナ嬢はまったく怯んだ様子を見せることなく、弦をいっぱいに引き絞ると、何のためいらいもなく矢を放った――。
「ギエーッ、ギエーッ!」
 鷹の悲痛な叫びが狩り場にこだまする。
 フィオナ嬢が放った矢は見事に鷹の胸を射たのだ。鷹はフィオナ嬢の目の前にドサッと落ちて、しばらく羽をばたつかせていたが、やがて力尽きて動かなくなった。
「はあはあ」
 フィオナ嬢の額には大粒の汗が浮かび、肩で息をしていた。それは極限に近い緊張感と集中から解放されたことをものがたっていた。
 信じられない出来事にしばらく放心状態であった王子だったが、ふと我に返って、
「おお、フィオナよー。見事だぞ!」
 とうわずった声を上げながら、フィオナ嬢のもとへ駆け寄った。そして、彼女の両肩に手をやる。
「すばらしい、余は感動した!」
 などと歓喜の言葉を連呼した。もちろんそんな言葉をフィオナ嬢の耳が受けいれられるはずがない。
「王子、鷹狩りの際は装飾品にお気をつけください」
 フィオナ嬢の言葉に、王子はばつが悪そうに視線をそらした。
「あ、ああ。気をつけるとしよう。その方も災難であったな、怪我はないか?」
「はい、私は大丈夫でございますが、ヴァイオレットが傷を負ってしまいました。手当てをお願いしたいのですが」
 王子は明らかに表情を曇らせたが、すぐに微笑みを作る。
「もちろんだともフィオナ」
 王子は、いまだに立ち上がれず、片膝をついているヴァイオレットへと歩を進める。
「その方の身を守ったのだ。護衛として大変な手柄ではないか。しかし――」
 王子の眉間に怒りに満ちた皺が刻まれる。と同時に、王子はヴァイオレットの顎を蹴り上げた。
「ぐはっ」
 蹴られた衝撃で仰向けに倒れるヴァイオレット。口の中には血の味が広がった。
「何をなされますか!」
 フィオナ嬢が驚きの声を上げる。しかし、王子はそれを無視して、ヴァイオレットへ怒りをぶつけるように言葉を発した。
「ここは神聖な土地である。本来ならば、お前のような下賤の者が足を踏み入れることさえ許されないのだ。それなのに、お前は、余の命令を無視して、勝手な行動をとったのだ。どんな理由があろうと許される行為ではない!」
 王子の理屈はめちゃくちゃだった。しかし、意見などできるはずがない。とにかく、王子の顔を立てることが最良な手段であることは、フィオナ嬢もよくわかっている。
「申し訳ございません。部下の責任は私にもございます。もとはといえば、鷹から目をそらし、不注意だった私が悪いのです。相応の処分をお受けいたします」
 フィオナ嬢は片膝をついて深々と頭を下げた。ヴァイオレットは倒れたまま動かない。
「ふん、こやつが余計なことをしなげれば、余がその方を守っていたまでだ」
 王子は、頭を下げたまま顔を上げないフィオナ嬢に背を向けた。
「もうよい! せっかくの祝いが白けてしまった。おい、治療に必要な道具を置いてやれ! 城に帰るぞ!」
「はっ」
 家臣は王子の命令に従い医療箱だけをヴァイオレットの横に置くと、すでに馬にまたがっている王子の馬を引いて、狩り場から去っていった。
 狩り場はフィオナ嬢とヴァイオレットの二人だけとなり、辺りはしんと静まり返った。
 沈黙を破るように「ぷっ」とフィオナ嬢が頬をふくらませて吹き出した。つられるようにヴァイオレットも声を出して笑った。
「見たか、殿下のあの顔? 相当悔しかったのだろうな。そなたへの八つ当たりは傑作だったな」
 フィオナ嬢は笑いすぎて、苦しそうに体をくの字に折り曲げた。目には涙が溢れている。
「まったくとんでもない王子様だよ。また傷が増えちまった」
 ヴァイオレットは上体を起こして、口元にそっと手をやる。下唇が赤く腫れあがり、血も出ている。
「そなたには礼を言うぞ。よく自分の身を挺して私を守ってくれた。ありがとう」
「礼なんてよしてくださいよ。まあ、その分金を上乗せしておいてください」
「ああ、もちろんだ。それに――」
 フィオナ嬢は足元の宝石を拾った。
「これをそなたにやろう。商人に売ればこれだけで大きな邸を買えるだろう」
 ヴァイオレットは宝石を受け取ると重さを確かめるように二、三度掌の上で転がしてみた。ズシリとくる重さ。素人目にもこれが極上品であることがわかる。輝きを絶やすことがなく、いくら見ていてもその美しさに飽きることはないだろう。
「で、どう思います? 王子はこれを使ってわざと鷹にお嬢さまを襲わせたんでしょうか?」
 宝石に映った自分の顔を見ながらヴァイオレットは訊いた。
「その可能性はあるな。鷹の習性を利用して、いや、この宝石を攻撃するように訓練していたのかもしれん。殿下とは長い付き合いだが、それくらいしてもおかしくないお方ではある」
 困った人だ、と言わんばかりにフィオナ嬢はため息を吐いて、目を伏せた。以前から王子の一方的な片想いを受け、それをかわすのに苦労してきたであろうことがヴァイオレットの頭の中では容易に想像できた。
「でもいいんですか? ラファエル王子との婚約が解消されれば、きっとノア王子は前とは比べものにならないほどの勢いで結婚を迫ってきますよ」
「そこは父上が何とかしてくださる。今までも父上のお陰で私は殿下と一緒にならずにすんできたのだから」
「なるほど」
 ヴァイオレットは宝石をポケットにしまうと治療箱を開けて、塗り薬と包帯を取り出した。それから上着を脱いで傷口を確認しながら話を続けた。
「気性が荒く、傲慢で、王位継承権も低いノア王子にかわいい娘を嫁がせるのを一番嫌っているのは公爵というわけですか……痛てっ!」
 薬が傷にしみてヴァイオレットはきつく目を閉じた。
「まあ、そんなところだ。よし、背中の傷は私が塗ってやろう」
 フィオナ嬢はヴァイオレットの背に回って傷口に薬を塗りこんだ。細い指の感触からはとても鷹を射ることができるほどの名手とは思えなかった。
「あ、殿下のひとつ大事な部分が抜けていたぞ」
「大事な部分?」
 ヴァイオレットの包帯を巻く手が止まる。
「殿下のしつこさは尋常ではないぞ」
 ノア王子の性格からして今後もまた何か仕掛けてくることをフィオナ嬢は確信しているのだ。
 ヴァイオレットはがくりと肩を落とす。これ以上傷が増えるのはご免だ。とにかく自分がいる間は何も起こらないでくれ、と祈るほかなかった。



[19782] 第三章 女神の盾(2)
Name: 士はサムライ◆2a504029 ID:4fc044b8
Date: 2010/06/28 10:22
 フィオナ嬢一行が邸に戻ったとき空はオレンジ色に染まっていた。
 帰路の途中にヴァイオレットはフィオナ嬢から鷹狩りで起こったことを他の者には一切他言しないようにと命令を受けていた。もとよりヴァイオレットは他言する気など一切なかった。王子と公爵令嬢のこととなれば人々の興味をひく格好のネタだ。そこに自分が巻き込まれるのは絶対に避けたかった。
 出発したときと同様に西門から入って厩舎へ馬を返しているところにアイオネアが現れた。
「お嬢さま、お帰りなさいませ。公爵様もたった今お城からお戻りになったところでございます」
「そうか。私はこれから父上へ今日のことを報告することにしよう。ドミンゴ、私の馬を頼むぞ。今日もよく働いてくれた。おいしいものをたっぷり食べさせてやってくれ」
 フィオナ嬢はやさしく馬の頬を撫でてやった。
「はい、うんとほめておきます」
 ドミンゴは満面の笑みで答えると馬を連れて行った。
「ヴァイオレットもご苦労であった。この後はゆっくりしてくれ」
「ええ、もうこれ以上は働けません」
 ヴァイオレットは頭を垂れて、力なく言った。
「アイオネア、ヴァイオレットを医者に診せてやってくれ。体中傷だらけだからな」
 アイオネアは眉を上げて、改めてヴァイオレットの姿を確認する。
「あー! 服が破れてる!」
 素っ頓狂な声に、ヴァイオレットは思わず両耳を手で覆う。
「気づくのが遅せえよ。それに服よりもオレの傷の心配をしろ!」
「ふふふ、頼んだぞ」
 フィオナ嬢は微笑しながら右手を軽く振って、厩舎をあとにした。
 アイオネアはフィオナ嬢の姿が見えなくなるまで頭を下げた後、ジロリと横目でヴァイオレットを睨んだ。その視線を感じたヴァイオレットはぶっきらぼうに言う、
「何だよ、そんなに服が破れたのが気に入らないのかよ」
 アイオネアはコホンと咳を一つしてから、
「あら、とんでもございません。あなた様のお世話をすることが私の仕事ですから」
 言葉は丁寧だが、どこかトゲのある言い方がヴァイオレットの気に障る。
「じゃあ、さっさと医者のところに案内しろ!」
 語気を強めたヴァイオレットからアイオネアはプイと顔をそむけて大股で歩きはじめた。どんどん背中が遠ざかっていく。
「何やってるんですか、先生のところに行きますよ! ついて来ないのなら私は夕食の準備に行きますからね!」
 アイオネアの声には怒りが満ちていた。なんだか知らないが彼女を怒らせてしまったらしい。ここでアイオネアと喧嘩しても何の得にもならない。納得はいかないが謝っておくべきだとヴァイオレットは判断した。
「待てよ!」
 アイオネアの背中に向けて叫んだが、彼女の足は止まらない。仕方なく彼女の前に回りこむように駆けていった。
「オレが謝ればいいんだろ。君の仕事を増やして悪かった」
「そういっていただけると私も励みになりますわ。お互い気持ちよく仕事をしたいものですから」
 つんと顎を上げて淡々としゃべるアイオネアにヴァイオレットは怒りを覚えたが、ぐっと抑えた。
「ははは……そうだね」
 と精一杯の作り笑いをしてみせたが、こめかみには幾本もの青筋が浮かび上がっていた。
 
 公爵邸付きの医者は口と顎に立派な白い髭をたくわえた老人だった。鷲鼻の横に大きなホクロがあるのが印象強い。
 医者は目を細くして、ヴァイオレットの傷口を眺めると、棚に並べられた多くの薬瓶からいくつかを取り出した。
「骨に異常はないし、傷も浅い。これを塗っておけば大丈夫だ」
 医者は自慢の膏薬を患部に貼り、包帯を丁寧に巻いた。これだけで治療は終了した。
 その後、ヴァイオレットは自分の部屋に案内され、新しい上着に着替えた。また、夕食は一時間後だから遅れずに食堂に行くようにとアイオネアから告げられた。
 ドアが閉められ、一人になったヴァイオレットは、体を投げるようにしてベッドの上に倒れこんだ。この邸に来て、初めて与えられた自由な時間。体力的な疲れもあるが、それよりも精神的疲労が大きく、いつの間にかヴァイオレットは眠りに落ちていた。
 コンコンとドアをノックする音でヴァイオレットは目を覚ました。部屋の中は暗くなっている。
「ヴァイオレットさん、アイオネアです」
 ドア越しにアイオネアの声が聞こえ、ノックが続く。
 きっと食堂に来ない自分の様子を窺いにきたのだろうとヴァイオレットは推測した。また怒らせてはまずいと思い、慌てて返事をして、体を起こす。寝起きの体は鉛のように重い。
 ドアを開けると、予想通り頬を膨らませたアイオネアの姿があった。
「寝ていらしたのですね。そんなことだろうと思いました。片付きませんので、早く夕食を召し上がってください」
「申し訳ない。まためいわ……」
「いいですから、早く食堂に行ってください」
 ヴァイオレットの言葉を遮って、アイオネアは食堂の方へと歩いて行った。
――なんだい、人がせっかく素直に謝ろうとしてるのに、かわいくないやつだ!
 眠い目をこすりながらヴァイオレットは食堂へ向かった。
 食堂からは食事を終えた男たちがぞろぞろと出てきていた。食事に満足し、空腹が満たされたからであろう、みな満足そうな笑顔をしている。兵士たちに食糧を安定して供給できることが強力な軍隊を組織するのには欠かせない。
 ヴァイオレットは食堂の中に入ると、今朝と同じ席に座った。そこにまだ手がつけられていない食事が置いてあったからだ。
 パンを齧るまえにまずはコップに口をつけ、水を飲む。すると、横から腕が伸びてきて、目の前に皿が置かれた。鳥肉を香草と一緒にオーブンで焼いたものだ。香ばしい匂いが鼻に届く。これはかなりのごちそうだ。
 しかし、皿を握った親指の大きさに気づいて、ヴァイオレットは眉根をよせる。かなりの巨体を想像させる大きな指。ヴァイオレットは視線を指から太い腕、そして顔へと上げていく。
「隣は空いてるか?」
 視線が合うと男は野太い声で言った。男はヒューゴーだった。
「お前……」
 ヴァイオレットは目を丸くした。ヒューゴーは数日間動けるはずがないと思っていたからだ。
 ヒューゴーはドカッと腰を下ろすと腕を組んで、横目でヴァイオレットを一瞥した。
「なんだ? 俺の顔に何かついているのか?」
「オレは本気で回し蹴りを当てたのに……もうなんともないのか?」
 ヒューゴーは鼻息荒く言う。
「ふん、そんなわけないだろ」
 ヒューゴーは両手で上着をめくってみせた。脇腹から胸にかけて包帯が痛々しく巻かれている。
「このとおり重傷だよ。あばらが三本折れているんだとさ。息を吸うだけでもいちいち疼きやがる」
 そう言いながら脇腹をさする。
 ヴァイオレットは肘をついて、掌の上に顎をのせると不満そうな顔をした。
「こっちはショックだよ。当分ベッドの上から起き上がれないようにしたつもりだったのに」
「そりゃ、並の人間ならそうかもしれんが相手が悪かったな。俺の体の丈夫さは半端じゃない。ガハハ……」
 ヒューゴーは得意そうに大笑いしようとしたが、苦い表情をして背を丸くした。笑うと強烈な痛みが腹から全身へ伝わるのである。
 ヒューゴーの打たれ強さは、塔の戦いですでに知っていた。だからこそヴァイオレットは遠慮なくやったのだ。普通の人間ならあの蹴りをくらえば命を落とすことだって考えられる。
ヴァイオレットは、ヒューゴーに負けたような気さえしてきて、水を一気に飲み干した。
「おいおい、いつまで水なんて飲んでるんだ。俺が持ってきたごちそうを早く食え。これ以上冷えたら台無しだぞ」
 ヒューゴーは皿に盛られた鳥肉を指さした。
「こんないいもんをここの兵士たちは毎日食ってるのか?」
 ヴァイオレットは肉を手にとってほおばった。想像以上の味に思わず笑みがこぼれる。
「まさか」
 ヒューゴーは鼻で笑った。
「極上の鳩肉だぜ。さすがにこれはめったに食べられねえよ」
「じゃ、なんだよ。祝典の残り物か?」
「ついさっき、公爵様から発表があったんだよ。三日後にラファエル王子が婚約の正式な手続きを行うためにここへいらっしゃるってな。もちろん王子を歓迎するために大規模な宴が開かれる。料理は宴の大事な要素になるから前もって公爵も味見をされるわけだ」
「だったら公爵の分だけでいいじゃないか」
「王子が来るってことは、いつもより厳重に警備しなきゃならんだろう。しかも、広範囲にだ。それがどれだけ大変なことかわかるか? この肉は兵士たちの士気を上げるためにも一役買ってるんだよ」
「なるほど」
 頷きながら最後の一切れを口の中に入れる。
「そんなわけでしばらく忙しくなるから俺の辞任はその間慰留されることになった。だが、お前に負けたからにはきちんと約束は守る。王子が無事帰られたら俺も邸を去る」
 ヒューゴーはこのことを伝えるために食堂でヴァイオレットを待っていたのである。
「ふーん、好きにしろ。でも、その約束はそっちが勝手にしたことだろ。オレの知ったことじゃない」
 ヴァイオレットは両手を頭の後ろで組んで、言葉を続ける。
「ただ、バカみたいに丈夫で、猪突猛進の切り込み役が一人いてもいいんじゃないか。敵陣に突っ込ませればいい囮としても使えるぜ。オレが上官なら簡単には辞めさせないね」
 ヒューゴーの顔が一瞬ゆるんだ。
「それに、遅れて来た奴のために、ごちそうがなくらないように気を利かせてくれるところもあるみたいだしな」
「この野郎!」
 ヒューゴーはヴァイオレットの頭に拳骨を落とした。ヴァイオレットは痛そうに頭頂部をさする。
「痛てえなあ、何しやがんだ!」
「わかったふうな口を叩くな。イグナシオ副団長はお前なんかよりもずっと思慮深いお方だ!」
 怒りの言葉とは裏腹にヒューゴーは満面の笑みを浮かべている。ヴァイオレットもにやりと笑う。
「てめえ、今度は腕の骨を折ってやる!」
 ヴァイオレットはヒューゴーの巨体へと跳びかかった。
 取っ組み合いの喧嘩に気づいた衛兵たちが慌てて二人を引き離す。二人とも頬が腫れ、鼻血まで出ている。しかし、周りが気味悪く思うほど二人はにやけていた。

「なんだ、また来たのか」
 傷がまた増えたヴァイオレットを見て、医者は呆れ顔で言った。
「ついでに股ずれに効く薬もくれ」
 こうして、ヴァイオレットの護衛一日目の夜は更けていった。

 翌朝、太陽が昇りはじめたころ、ヴァイオレットはアイオネアに叩き起こされた。なにごとかと慌てて上体を起こす。
「早く起きてください。お嬢さまとの稽古のお時間です」
 ヴァイオレットは目を丸くする。
「こんな時間から稽古かよ!」

「たあっ!」
 フィオナ嬢は、容赦なく夢見心地でいるヴァイオレットに木剣を打ち込む。的確で無駄のない打ち筋にヴァイオレットは防戦一方となった。うまく剣を払って反撃にでようとしても、フィオナ嬢は身軽に体を回転させて、次から次へと打ち込んでくる。これならいつ戦場に出ても活躍できる腕前だ。
 ヴァイオレットは強く剣を相手の方に弾いて、後ろへステップすることでようやく距離がとれた。
「どうした、さっきから守ってばかりではないか?」
 フィオナ嬢は物足りないとばかりに腰に手を当てる。
「いや、こんなに朝早くから体が動くわけないですよ。それにオレは剣術は専門じゃないんだから」
「それでも、防御はさすがだな。私の剣をここまで受け流されたはひさしぶりだ」
「そりゃどうも」と言いつつ欠伸が出る。
「しかし、私もまだ準備運動の段階だ。まだまだいくぞ。やあっ!」
 フィオナ嬢は素早く踏み込む。
「うわっ」ヴァイオレットは必死に身を守った。
 剣術の稽古は一時間ばかり続いた。さすがに全てをかわすことは不可能で、ヴァイオレットはフィオナ嬢の木剣を腕部、腹部に数回受けてしまった。いくら稽古用の剣とはいえ、当たれば痛い。稽古の間中ヴァイオレットから苦悶の表情が消えることはなかった。
「ヴァイオレット、体も温まってきたことだろう。そろそろ本番といこうか」
 フィオナ嬢は額の汗を拭いながら地べたに座り込んでいるヴァイオレットへ爽やかに微笑みかけた。
「えー、まだやるんですか?」
 ヴァイオレットの両眉が文字通りハの字になる。
「当たり前だ。さあ、立て。そなたの護身術とやらを私に教えてくれ」
「へいへい」
 ヴァイオレットは観念したかのようにゆっくりと立ち上がる。
 フィオナ嬢の目的がヴァイオレットの体術であることはもちろんわかっていた。他人に教えたことはないし、教えることにも乗り気ではなかったのだが、このまま剣を打たれたのでは堪ったものじゃない。
 どうせ、たったの四、五日じゃ何の身にもならないさ、とヴァイオレットは高をくくっていた。
「オレの体術の肝は呼吸にあります」
 そう言いながらヴァイオレットはフィオナ嬢へ近寄る。
「呼吸の流れを制御することで全身の力を一点に集中させることができ、一気に爆発させます。それが瞬間的に常識では考えられない力を生むのです」
「全身の力を一点に……それが拳だったり蹴りだったりするわけか」
「かなり難しいですが、胸や腹を鉄のように硬くすることだってできますよ。まあ、一番簡単なのは利き腕でしょうね」
 ヴァイオレットは足元の小さな石を拾い上げると、フィオナ嬢によく見えるように人差し指と親指でつまんで、他の指をピンと伸ばした。
 フィオナ嬢はヴァイオレットの呼吸に注目する。
 ヴァイオレットは静かに鼻から息を吸った。そして、大きくと目を見開いて一気に息を吐く――と同時につまんでいた小石が粉々に砕け散った。
「なんとすばらしい術だ」
 フィオナ嬢の顔は明るい。その体術を会得したいという意気込みがひしひしと伝わってくる。
「早く私に教えてくれ!」
 ヴァイオレットの体術は決して簡単なものではない。基本となる呼吸法のコツを掴むだけで、何年も掛かるものなのだ。しかし、フィオナ嬢の飲み込みの早さにヴァイオレットは驚きを隠せなかった。まだはじめて二時間も経っていないというのにコツを掴みはじめている。ヴァイオレットとは違って、剣術、弓術、馬術など様々な素養があるからだろう。そのセンスの良さにヴァイオレットは舌を巻いた。
 フィオナ嬢も初めて経験する体術に夢中になっている。もちろん、剣術においても相手の呼吸から間合いを読んだりすることはある。しかし、それとはまったく違って、呼吸から自分の力の流れを感じることができるのだ。それは、まるで自分の体の中をのぞいているようで、新鮮な喜びをも感じていた。時間が経つのを忘れ、いつまでも稽古を続けていたかった。
 ところが、思わぬ邪魔が入った。突然、公爵からフィオナ嬢への呼び出しが掛かったのだ。
「ここで待っておれ」とフィオナ嬢から指示を受けたが、いつまでたってもフィオナ嬢は戻ってこなかった。やがて、アイオネアがヴァイオレットを捜しに来て、朝食の時間であることを告げた。稽古はそのまま中止になった。
 朝食を終えても何の指示も出ないのでヴァイオレットは部屋に戻り休むことにした。夜明けとともにはじまった稽古と満腹感のせいで眠気はかなり強い。指示がなければ眠るだけだとベッドに横になり頭から毛布を被った。
 しかし、昼過ぎに事態は一変する。フィオナ嬢の部屋へ呼ばれたのだ。
「少し面倒なことになった」
 フィオナ嬢は落ち着いた調子でヴァイオレットに言った。
「できれば聞きたくないんですが」
 ヴァイオレットはため息を吐きながら前髪をぼりぼりと掻いた。
「鷹狩りの件で、今朝、父上が国王陛下よりお呼び出しを受けたのだ」
 鷹狩りと聞いてヴァイオレットは唸った。早速ノア王子が動いてきたようだ。今度は父親である公爵から攻めるつもりなのだろうか。
「そしてたった今、城から早馬が来た。すぐに私も登城しろとのことだ」
「もしかしてオレも呼び出されているんですか?」
「いや、ここには私だけの名前しか書かれていない。直接私から鷹狩りについて問い質したいことがあるとのことだ」
 フィオナ嬢は早馬が持ってきた書状を広げて見せた。羊皮紙の上に難しい言葉が並んでいて、ヴァイオレットには理解できなかったが、自分の名前がどこにも書かれていないことだけはわかって、ほっとした。
「それは残念だ。私のような平民が国王陛下にお会いできる光栄な機会かと思ったのですが」
 ヴァイオレットは肩を竦めて見せた。
「それにしてもお嬢さまは人気者ですね。王子の次は国王からのお誘いとは」
「ああ、モテすぎるのも考えものだな」
 フィオナ嬢はくすりと微笑んだ。彼女の表情からは不安や怖れといった感情はまったく感じとれない。
「ヴァイオレット、城まで供してくれ。まあ、そんなにいやそうな顔をするな。今度は怪我をするようなことはあるまい」
「城で怪我するようなことって……考えただけでも恐ろしい。そのときは一目散に逃げますから。命がいくつあっても足りませんよ」
「ふふふ、それもそうだな」
 フィオナ嬢はまた微笑んだ。まるで、これから起きることを楽しみにしているような笑みだった。
 城まで行くのにフィオナ嬢は馬車に乗った。王国の兵士たちが馬車の四方を固める。ただ城に向かうだけのことなのになんとも仰々しい。これではフィオナ嬢を守るためというよりも、むしろ逃がさないようにするための隊形に見える。しかも、道中、ヴァイオレットは馬車から離れて歩くように兵士から命じられていた。主に近づけない護衛役など意味があるのだろうか。納得いかないがヴァイオレットは素直に従った。
 跳ね橋を渡ると、城門の前に着く。門は厚い石煉瓦で築かれていて、アーチ状になっている。また左右には円形状の塔が建てられて見張りの兵士が常駐している。
 フィオナ嬢一行を確認した門番兵たちは鉄で覆われた堅い門扉を開ける。
 城門をくぐると、砂地の広場が縦長に広がっていた。奥に背の高い建物が集中し、国王はそこで生活しているのだろう。
「お前はここで待て」
 広場に足を入れたとたんに、ヴァイオレットは王国兵から待機の命令を受けた。どうやら城の建物内には入れさせてくれないらしい。
 フィオナ嬢は車の窓からヴァイオレットに声を掛けた。
「城門をくぐっただけでも平民としては貴重な経験だ。城の雰囲気を味わいながら、ゆっくりと待っていてくれ」
「はいはい、本当にありがたいことです」
 ヴァイオレットは馬から降りた。
 フィオナ嬢を乗せた馬車は奥へと進んで行き、右に曲がるとヴァイオレットの位置からは見えなくなった。
 空は相変わらすの快晴である。ヴァイオレットの顔の周りを蝶がひらひらと飛んでいる。ここで昼寝でもしながら待つのも悪くなさそうだとヴァイオレットは思った。
「おい、お前。なに突っ立っている。その馬はこちらで預かる。お前は私についてこい」
 城内から出てきた王国兵がヴァイオレットに強い口調で言った。
「へいへい、仰せのままに」
 ヴァイオレットが連れて行かれたのは広場の脇に設置された小さな建物だった。おそらく門番兵たちの待機場所として使われているものだろう。中には小さなテーブルと丸椅子がいくつか置いてあるだけだった。
「フィオナ様がお戻りになるまでお前はここで待て。城内を歩くことはもちろん許されない。また、原則我々兵士たちに話し掛けることも禁止とする。わかったか?」
 なんとも高圧的な態度だ。公爵令嬢の護衛役となればもう少し大事に扱ってもらってもよさそうなものである。それにこの王国兵が高位にあるようには見えなかった。せいぜい中尉ぐらいだろう。
 不自然に感じたヴァイオレットは、何か指示が出ているかもしれないと思った。と同時にノア王子の顔が脳裏に浮かぶ。フィオナ嬢と話すときのあのいやらしい顔。惚れまくっているのがみえみえだった。今日の城への呼び出しもノア王子の悪知恵によるものだろう。王族にしか許されない鷹狩りに自ら誘っておきながら難癖をつけようという魂胆に違いない。
「どうした、わかったのか?」
 何も返事をしないヴァイオレットへ兵士がさらに語気を強める。
「わかったよ。それよりも水をくれ、喉が渇いた」
 ヴァイオレットは面倒臭そうに答えると適当な椅子に腰を下ろした。
「ふん」と兵士は部屋を出て行った。ヴァイオレットの要求には聞く耳を持たないようだ。
「まったくこの国にはろくな奴がいねえな」
 ぶつくさ言いながらヴァイオレットはテーブルへ両腕をついて伏した。ここでやることといったら眠ることしかなかったからだ。

 フィオナ嬢が通された部屋は重い空気に満ちていた。入口から奥中央に玉座が置かれ、ミラーレス国王が腰掛けている。在位二十五年の老国王で、目元や口元には深い皺が目立っている。
 部屋の左右には黒塗りの長机が並び、爵家の重臣たちが一同に会していた。玉座から一番近い席に三人の王子たちの姿まである。ノア王子の隣にグラディアス公爵が座っていた。
 これだけの重臣が揃っているのだ。この場が自分に対する「査問会」であることをフィオナ嬢は認識した。
「フィオナよ、ごくろうである」
 声とともに国王の白い口髭が揺れる。
「陛下、お久しぶりでございます。陛下がお呼びと伺いまして参りました」
 フィオナは片膝をつき、おごそかに挨拶をした。
「急な呼びたては許してくれ。昨日の鷹狩りにそなたが参加したということが家臣たちの間で話題になっておる。知ってのとおり、鷹狩りは王族のみが許される特権であるから、少し動揺しておるのだ。すまぬが、余に説明してくれないか?」
「とんでもございません。陛下がお呼びとあればいかなるときでとんで参ります」
「ほっほ、それは頼もしいのう」
 国王はうれしそうに笑みをこぼした。
「陛下の前ではすべてを包み隠さず、正直にお話いたします」
「うむ」と国王は頷くとグラディアス公爵に目で合図を送った。公爵は立ち上がると体をフィオナ嬢の方へ向ける。
「では、フィオナよ。これからの質問にすべて答えよ。なお、拒否権はそなたにはない」
「はい」
 フィオナ嬢は正面をしっかりと見据えてはっきりと返事をした。
 王族をのぞいて公爵は家臣で最も位の高い地位にある。たとえ自分の娘とはいえ、この場を仕切る役割があるのだ。
「そなたは昨日、ノア殿下のご好意により鷹狩りに参加したことは間違いないな?」
「間違いございません。婚約祝いにということで殿下より鷹狩りのお誘いを受けました」
「鷹狩りが王族の方々にしか許されていないことは無論知っていたな?」
「はい、存じておりました」
「それではなぜ参加した?」
 間髪入れずに発せられる公爵の低い声が一同の緊張を増していく。それに少しも臆することなくフィオナ嬢は答えた。
「本来ならば、私個人の考えで動いてはならないことでしょう。父はすでに出仕しており、確認するのに時間が掛かってしまいます。だからといって、幼少より親しくさせていただいている殿下のお誘いを先のばしすることは大変失礼なことであると考えました」
 ノア王子は椅子に腰深くかけ、フィオナ嬢の言葉をただ黙って聞いている。
「それに調べましたところ、家臣が鷹狩りに参加した例が以前にもあったことがわかりました。この例があったからこそ、殿下も私をお誘いになられたのでしょう。私は殿下のご好意を受けることにいたしました」
 しんと場が静まった。
 フィオナ嬢が発言したことは正論だった。前例がある以上、彼女だけを断罪することはできない。そもそも鷹狩りに誘ったのはノア王子なのである。彼女から懇願したわけではないのだ。
 国王が目を細めて口を開いた。
「ずいぶん昔の話だが確かに前例はある。戦場で余の身を常に守り、さらには数々の敵将を討ち果たした功績により、特別に招待したのだ。なあ、グラディアスよ」
「はっ。もったいないことです」
 公爵は頭を下げた。そう、前例の家臣とは若かりしころのグラディアス公爵のことであったのだ。
 これで場が一気に和んだ。国王がフィオナ嬢の考えに理解を示したからだ。しかし、その空気を変えるようにいままで黙っていたノア王子が口を開いた。
「確かに前例があったことからフィオナを鷹狩りに誘いました。しかし、そこで予想もしないことが起こったのです。それが今回の大きな問題かと存じます」
「ほう」
 国王は自分の口髭を二、三度撫でながら眉を上げた。
「なんだ、申してみよ」
「はい、おそれながら申し上げます」
 ノア王子は立ち上がると冷たい視線をフィオナ嬢へ向ける。
「私はフィオナの婚約を祝いたい一心で、鷹狩りの場に招待いたしました。しかし、フィオナはこともあろうか、自ら弓を取り鷹を射たのです!」
 ノア王子は強い口調で言うと拳を机に叩きつけた。
「そこでグラディアス公にお聞きしたい。貴公が鷹狩りに参加した際、王族以外が弓を射ることなど果たして許されていただろうか?」
 ノア王子の一瞥を受けて公爵は下唇を噛んだ。返答に迷いが見られる。
「どうした、あまりに昔のことで忘れてしまったか?」
 ノア王子は挑発するように鼻で笑った。
「いえ、私が弓を射るなどとんでもないことでございます」
 公爵の答えに満足したらしくノア王子は顎を上げて、高らかに言葉を続ける。
「諸侯もご存知のとおり、鷹は気高さの象徴である。だからこそ鷹狩りは王族だけに許されたものであり、権威の象徴なのだ。ところが、フィオナは狩りを見ているだけでは飽きたらず、自ら鷹に矢を射たのである」
 ノア王子は国王に向かって両手を広げてみせる。
「陛下、これは我々王族を愚弄する行為にほかなりません!」
 ノア王子の声が部屋全体に響きわたると、重臣たちの間でざわめきが起こった。旗色が一気に変わった。
「諸君、静粛に」
 公爵が場を静めようと声を通す。
「フィオナよ、なぜ鷹を射たのだ?」
 フィオナ嬢へ一同の視線が集まる。どれも嫌疑感のある冷たいものだ。しかし、フィオナは物怖じすることなく、背筋を張り、堂々としていた。
「王子の矢から辛くも逃れた鷹は大変興奮し、空中から常にこちらを襲撃する隙を窺っていたのです。しかし、不覚ながら私はそれに気づいておりませんでした。そこに、鷹が襲ってきたのです。しかし、鷹が襲ってきたとき、運悪く王子は弓をお持ちではありませんでした。万が一にも殿下にお怪我などがあってはいけません。そこで私はとっさに弓を構え、鷹を射たのです」
「なるほど……」
 目をつむってフィオナ嬢の言葉を聞いていた国王は何度か頷いた。
「ですぎたまねであったことは深く反省しております。しかし、臣下としていかなるときでも殿下の身をお守りする義務があると私は考えております」
 フィオナ嬢の答えにノア王子は奥歯を噛んで、睨みつけた。フィオナ嬢があわてふためく姿を想像していたのに、少しも怯むことなく切り返してくる彼女の対応に歯痒さを感じたからだ。
「ノアよ、フィオナはああ言っておるがどうなのだ?」
「フィオナが言っていることは虚言です。私にはフィオナがラファエル王子との婚約で、自らが王族に肩を並べたことを誇示するために鷹を射たように見えました」
 今の発言でフィオナ嬢は王子の真意が読めた。鷹狩りでの行為を断罪することで、国王に婚約破棄を求めることが真の目的なのだ。
「それを証明するために、実際に鷹狩りを見ていたものが私の家臣におります。その者をこの場に呼んでも構いませんでしょうか?」
「ふむ。そなたがそこまで言うのならば許可しよう」
 フィオナ嬢は眉根を寄せる。
 証言者というのは間違いなくノア王子の息がかかった者たちだ。彼女にとって不利な発言しかしないに決まっている。おそらく嘘八百を並べ立てることだろう。
「待ってください。それならば、私の護衛役もここに召喚することをお許しください。その者も鷹狩りの場にいて、すべてを見ておりました」
 フィオナ嬢にはヴァイオレットという強い味方がいる。彼は実際に鷹から攻撃を受け、傷を負っているのだ。傷を一同に見せればどんな言葉よりも説得力があるはずである。
「わかった。そやつも呼べ」
 国王の指示に従い、部屋の隅で待機していた近衛兵二人が部屋を出て行った。入れ代わるように医師の格好をした男が部屋に入り、国王に耳打ちをした。国王は軽く頷く。
「諸君、すまぬが薬の時間となってしまった。ここで一旦休憩とする。再開は三十分後とし、そのときは証言者をこの場に用意していること。よいな」
「御意」
 一同は立ち上がり、頭を垂れた。それから国王が退席するのを見送る。続いて三人の王子たちが部屋を出るため歩を進めた。王子たちが部屋を出るまではみな頭を下げたままである。
 ノア王子がフィオナ嬢の横を通り過ぎていくとき、彼女の耳は気味の悪い声を捕らえた。
「護衛などいたか?」

 ヴァイオレットはひどい息苦しさで目を覚ました。と同時に胸に痛みをおぼえ激しく咳きこんだ。さらに目には刺すような痛みが走り、とめどなく涙が流れ出る。部屋の中は真っ暗で、何も目視することができない。
 身の危険を悟り、必死にいまの状況を理解しようと思考を巡らせる。
 部屋の暗さは異常だ。部屋に入ったときは窓から陽が射していたはず。誰かが故意に窓を塞いだとしか思えない。それに、この咳きこむほどの息苦しさと鼻をつく匂いは何なんだ。
 とにかく、一刻も早くこの部屋から出ることだとヴァイオレットは判断した。姿勢を低く保ち、部屋の空気を吸い込まないように口元を腕で押さえながら、手探りで扉を探す。手の感触だけが頼りだ。
 懸命に扉を探しながら、ヴァイオレットの頭に浮かんだのはやはりノア王子の顔だった。
鷹狩りでの逆恨み。あの王子ならやりかねない。
 息苦しい闇の中で、ようやくヴァイオレットは扉らしきものを発見した。当然のように押しても開かない。
――ぶっ壊してやる!
 ヴァイオレットは扉に向かって半身に構え、右拳を脇腹に添える。そして、静かに息を吸い込む。咳きこみたくなる衝動を必死に抑えて、一気に息を吐きながら右拳を扉に叩きつけた。
「バギッ!」
 けたたましい音を立てて扉が前方に吹っ飛んだ。
 ヴァイオレットは大量の黒い煙とともに部屋から飛び出した。息苦しさの正体は部屋に充満した煙だったのだ。部屋のどこかに外から煙を流し込む仕掛けがあったのだろう。最初からヴァイオレットを窒息死させるつもりだったのだ。
 建物からできるだけ離れようとしたが、咳をしたい衝動を抑えきれずに、二、三歩歩いただけで、四つんばいになってしまった。激しい咳で、地面には大量のよだれと涙がぽたぽたと落ちた。
「おい、扉を破壊したぞ!」
 兵士たちの驚く声が聞こえてくる。
 ヴァイオレットは重い頭を起こして、ふらふらと立ち上がった。やはり、煙を吸い込みすぎたのか、まだ涙が止まらず、頭がくらくらする。しかし、弱音を吐いている暇はなかった。目の前には武装した近衛兵たちが二十人以上いるのだ。
「へへっ、オレ一人を始末するのにずいぶん手の込んだことしてくれるじゃねえか」
 口元のよだれを拭いながらヴァイオレットは不敵に笑った。
「黙れ!」
 隊列の中で中央にいた男が一喝した。ほかの近衛兵とくらべて鎧の装飾が凝っている。おそらく隊長格だろう。鋭い眼光をヴァイオレットに向けている。
「隊長さんよ、誰から指示を受けた? もしかして、出っ歯のバカ王子か?」
「黙れと言ったはずだ。どうせお前はここで死ぬのだ」
 近衛兵たちが一斉に剣を抜く。
「上等じゃねえか」
 ヴァイオレットにふつふつと怒りがこみ上げてくる。握った拳がぶるぶると震えた。

 査問会が再開されようとしていた。すでに国王は玉座に腰掛け、全員がそろっている。部屋の隅には鷹狩りの際にいたノア王子の家臣が証言者として控えているが、肝心のヴァイオレットの姿はなかった。
 フィオナ嬢は近くにいた近衛兵へ確認をとった。
「私の護衛はどうしたのです? 早く連れてきなさい」
 近衛兵は首を振って、
「門番兵に確認をとりましたが、待機部屋にはおらず、行方不明です」
 と小声で答えた。
 フィオナ嬢の眉間に皺が刻まれる。ヴァイオレットの身に何かあったのではないか。最悪の事態が頭をよぎる。
 フィオナ嬢の様子を見て、ノア王子はにたにたと笑みをこぼしていた。彼のなかではすでにヴァイオレットはもの言えぬ死人になっている。あとは、誰の目にもとまらないように死体を処理することなど造作もないことだ。
「どうした、フィオナ? そなたのいう護衛役の姿が見えないではないか」
 国王の表情に疑惑の念が浮かんでいる。フィオナ嬢はなんとか時間を稼ぐしかないと考えた。
「申し訳ございません。私とともに登城したことは確かです。城門にて待機しておくように指示を出しておりますので、もう一度近衛兵に確認していただきたく存じます」
「むう」国王は一度唸って、
「おい、もう一度城門のあたりをよく捜せ」
 と近衛兵に指示した。しかし、そこに邪魔が入った。
「無駄ですよ、陛下」
 ノア王子が口を挟んできたのだ。
「きっと自ら姿をくらましているのでしょう。そもそも、その護衛役の男はこの国の人間ではなく見るからに身分も卑しい体でした。証言したところで信用性なんてありませんよ」
 ノア王子はゆっくりと立ち上がり、自信たっぷりに滑らかな口調で話しはじめた。
「どうせ、鷹狩りの件で自分も処分されるかもしれないとでも思って逃げたんでしょう。それに聞くところによれば、昨日護衛役に就いたばかりで、どこの馬の骨だかわからぬ男だそうです。そのような者を鷹狩りに随行させるフィオナもフィオナだ」
「私は実力のある者を護衛役にしております。生まれた場所や家柄は関係ありません。それに、役目を放棄して逃げる者を取り立てるなど、私の目はそれほど節穴ではございません。陛下、どうかもう少しだけ時間をください」
 フィオナ嬢は深々と頭を下げた。
 ノア王子はそれを見て勝ち誇ったかのように口角を一気にあげる。
「陛下、お聞きになられましたか? これがフィオナの考えなのです。身分を気にしないなどと言ってるからこそ、鷹狩りにおいて暴挙にでるのです! これは我が国にとって大変危険な思想です!」
 これ以上反論してもノア王子の糾弾が強まるだけで、自分の立場が不利になるだけだで、何を言われても、我慢して国王にお願いするのが得策だとフィオナ嬢は判断した。
「陛下、お願いいたします」
 必死に懇願し続けるフィオナ嬢の姿にいたたまれなくなったのか、国王は口を開いた。
「ノアよ、フィオナもここまで言っておるのだ。もう一度確認させるくらいはよかろう。その代わり、それでもその男が現れぬ場合はそなたの用意した証言を重く扱おう。それでよいな?」
 ノア王子は多少不満な表情をしながらも「御意」と言って座った。しかし、内心ではほぼ予定通りにことが進んで、ほくそ笑んでいた。
「では、城門近辺を中心に細かく捜せ。人数も増やすのだぞ」
 国王の指示を受けた近衛兵が敬礼をしてから部屋の扉を開けた、そのときである。
「ウワァァァァァァァーッ!」
 と、人の気勢とも悲鳴ともいえる声が外から飛び込んできた。
 諸侯たちは何事かと驚いて一斉に部屋から飛び出した。もちろんフィオナ嬢もそれに続く。
 部屋から出ると、声だけではなく剣を打ち合う金属音までも聞こえる。城内で戦闘が行われていることは疑いようもなかった。グラディアス公爵をはじめ、諸侯たちは急いで廻廊を駆けて行く。
「あれは!」
 公爵が広場を見渡せるところで足を止め、驚きの声を上げる。
 フィオナ嬢も視線を広場へと向ける。そこは城門の前――二十人前後の近衛兵が一人の男と戦っている。すでに地面に倒れている兵の姿もあった。
 その光景を見て、フィオナ嬢の瞳は輝きを増し、口元が緩んだ。
 男とはもちろんヴァイオレットであった。
 ヴァイオレットは二十人以上を相手にしてもまったく怯むことなく闘っていた。囲まれないように常に激しく動き回りながら、次々と近衛兵たちをなぎ倒していく。近衛兵たちはみな鎧で身を固めているが、ヴァイオレットの拳や蹴りの前ではまったく役に立たない。一撃くらえば、体は吹っ飛び、気絶する。
 このままだと、全員がたった一人の男に倒されてしまうと感じた諸侯たちは、増援するために慌てて下へと降りていった。
 まともに立っている兵士の数が十人を切ったときだった、城内から五十人以上の兵士たちが一斉にわき出してきた。その最奥から怒りに満ちた表情のノア王子が進み出てくる。
「自分が何をしているのかわかっているのだろうな」
「これはこれは王子様、またお会いできるとは思いませんでした」
 ヴァイオレットは皮肉たっぷりに言った。顔を真っ赤にした王子の横にグラディアス公爵が現れた。
「ヴァイオレットとやら、これは一体どういうつもりだ?」
 公爵が厳しい表情で言った。
 ヴァイオレットは対照的に鼻で笑って答える。
「まあ、至極単純なことですよ。殿下、説明してもよろしいでしょうか?」
 ノア王子のこめかみに血管が浮きでる。フィオナ嬢の護衛役が暗殺されかけたと諸侯たちが聞けば、その黒幕として真っ先に疑われるのはノア王子に違いない。王子にとってヴァイオレットは口封じのためにますます消さなければならない存在となった。
「話は牢屋でたっぷり聞いてやる。こいつを捕らえろ!」
「誰が捕まるかよ」
 捕まれば、拷問による死が待っているだけである。それに、ヴァイオレットはとことん暴れるつもりでいた。もう相手が王子だろうが、何人兵がいようが関係ない。王子の出っ歯面をぶん殴らなければ気が収まりそうにもないのだ。王子を目の当たりにして、ヴァイオレットの拳にいっそう力がこもった。
「お待ちください! まずはヴァイオレットの言い分をお聞きください」
 フィオナ嬢が廻廊の上から訴えかけた。
「問答無用である」
 ノア王子が高々と右手を挙げた。この右手が振り下ろされれば、兵士たちは一斉にヴァイオレットに襲いかかることだろう。場を張り詰めた空気が覆う。
 しかし、その空気をかき消すように、
「開門ー、開門ー、開門を願う!」
 と、突然、門の外から力強い声が聞こえてきた。
「この声は……まさか」
 その声に公爵は敏感に反応を示すと、城門まで駆け寄る。ノア王子も事の成り行きを静観する姿勢をとった。
「私はグラディアスだ。貴殿の名を伺いたい」
「おお、グラディアス公であられますか」
 公爵の名前を聞いて声が弾んだ。
「私はエリアス王国のラファエルでございます!」
 ラファエルという名前を聞いて全員が驚愕した。エリアス王国第一王子であり、フィオナ嬢の婚約相手であるラファエル王子がなぜ今ここにいるのか?
「やはり、そうでしたか。すぐに門を開けさせます」
 公爵の命令を受けて、門番兵が急いで門を開けると、黒馬にまたがった凛々しい青年の姿があった。
 鮮やかなまでに金色の髪、色白であり、細く整った顔立ち、目は切れ長で鼻筋が通っている。噂どおりの美青年である。
 しかし、ラファエル王子の身なりに不可解な点があった。土汚れが目立っているのである。とくにマントの裾はかなり汚れている。それにラファエル王子は従者を一人しか連れていないことも不自然だ。
「殿下、どうしてここへ? 約束は明後日のはずですが」
 公爵の問いにラファエル王子は馬から降りて気恥ずかしそうに微笑した。
「突然の訪問をお許しください。予定よりもずいぶん早く到着してしまって。早くお会いしたいと気がせいてしまったせいでしょう。ご無礼をお許しください」
 そう言って王子は右手を胸に当てた。
「とんでもございません。きっと我が国王も殿下がいらっしゃったと聞けばお喜びになることでしょう。ささ、こちらへ」
 公爵は右手を差し出して、うやうやしく王子を城内へ招き入れた。ヴァイオレットを捕らえるために集まった兵士たちは慌てて剣を鞘に収めて敬礼した。
「立派な兵士たちですね。もしや、訓練の最中でしたか。お邪魔してしまって本当に申し訳ない」
 ラファエル王子はすまなさそうに唇を結んだ。公爵は、まさか乱闘騒ぎが起きていたとは説明できず曖昧に答える。
「まあ、そんなところですが、あまりお気にしないでください。殿下、ご紹介いたします。こちらがミラーレス王国第三王子であられます、ノア王子でございます」
 公爵は話題を変えるようにノア王子を紹介した。二人の王子はお互いに軽い会釈を交わすとノア王子が先に口を開いた。
「はるばる遠方よりよくぞいらっしゃいました。旅の疲れもありましょう。ごゆっくりとおくつろぎください」
 ノア王子の言葉は丁寧だがまったく感情がこもっていない。
「ありがたいお言葉感謝いたします。ぜひ陛下にお目通りさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
「それはもちろん構いません。しかし、二日も早くいらっしゃるとはこちらもいささか驚いております。よろしければ、事情を詳しくお話いただけませんか」
 ノア王子にとってみれば、ラファエル王子の登場でヴァイオレットの捕縛を邪魔されたことになる。突然の訪問は迷惑どころではすまされないのだ。
「我が方の恥をしのんで申し上げます。昨日の道中、馬車団がことごとくぬかるみにはまってしまい、到着が大幅に遅れることが決定的となりました。馬車が動かなければ野営を張ることもできません。そこで、動ける馬だけで一晩走り切ることにいたしました。どこかの街まで出られればと思っていたのですが、馬たちがよく走ってくれました。第二陣が到着する前に、国王陛下にいまの事態をご報告差し上げたいのですが
 ラファエル王子の物腰はやわらかく落ち着いていて、多くの者の好感を得ることができる口調だった。しかし、それがノア王子には気にくわない。気取った風にしか聞こえないのである。
「さようでしたか。それは大変でしたな。しかし、こちらも暇ではございません。現在何かと取り込んでいる最中でして、多少お待たせしてしまうかもしれません。それをご理解いただきたい」
 ラファエル王子は丁寧に頭を下げた。
「待たせていただけるだけでも我々にとってはありがたいことです。ああ、申し遅れましたが、この者は私の側近で名をディノと申します。この者も私のお供として入城しますことをお許しください」
 ディノと呼ばれた男は片膝をついて頭を下げた。細目で高く伸びた鼻、唇は極端に薄い。歳はラファエル王子とそう変わらないように見えるが、王子とは対照的に寡黙な印象を受ける。
「わかりました。いまからお部屋へ案内させましょう。おい」
 ノア王子が近衛兵になにやら伝えると何人かが動きはじめた。
「では、こちらへ」と諸侯の一人がラファエル王子を城内へ案内するために前に進みでた。王子は「よろしく頼みます」と言って諸侯の後ろを歩く。
 城で最も大きな建物に近づいたところで、扉の前に人が立っていることに王子は気づいた。高貴な者が持つ気品と思わず目を細めてしまうほどの美しさ。王子の足は自然と速まり、距離が縮まるにつれ、心が奪われていく。
「フィオナ嬢、ずっとお会いしたかった」
 ラファエル王子とフィオナ嬢が顔を会わせるのはこれが二度目だった。初めて会ったのはちょうど二年前。グラディアス公爵がミラーレス王国の代表の一人として近隣諸国との外交交渉に臨んだときだった。当時十六歳であったフィオナ嬢は他国を直接見てみたいという強い好奇心に駆られていた。戦争に勝って勢いにのる国や暴政によって混乱している国などを目の当たりにできる機会はそうそうない。自分を随行させてくれるように頼んだのだが、公爵は首を縦には振らなかった。公爵の近辺には常に暗殺の噂があり、行き先には危険な国もあった。目に入れても痛くないほど大事な一人娘がもし、危険な目に遭ったら、と思うと公爵はフィオナ嬢の随行を許すわけにはいかなかった。許可を出さない公爵に対して、フィオナ嬢は実力行使にでる。公爵と口を利かないことにしたのだ。挨拶もせず、目も合わさない状態が一ヶ月近く続き、ついに公爵は折れたのである。フィオナ嬢は文字通り飛び跳ねるように喜び、公爵に何度も礼を言った。
 こうして、フィオナ嬢は諸国を回るという貴重な経験を得ることとなった。そして、エリアス王国を訪れたときにラファエル王子との出会いがあった。王子はひと目でフィオナ嬢を気に入った。容姿の美しさはもちろんのこと、礼節、知識の豊富さ。王子がいままで出会ってきたどんな女性よりも魅力的だったのだ。以後、王子は多くの姫君からの求婚をすべて断り、フィオナ嬢との婚姻だけを進めていったのである。
 王子は、出会いの日からフィオナ嬢のことを忘れた日は一日もない。それほど惚れ込んで相手なのだ。二年ぶりの再会に王子の胸は張り裂けそうである。
「いちだんとお美しくなられましたな。公爵が貴女のことを女神とたとえられるのもわかります」
「お久しぶりです、殿下。申し訳ありませんが、いまは失礼いたします」
 フィオナ嬢は愛想笑いをしただけで、王子の横を足早に通り過ぎて行った。
 フィオナ嬢のあまりに素っ気ない態度に、王子の想いは肩すかしをくらったようだった。遠のいていく後ろ姿を王子は呆然と見送った。そこへ側近のディノが王子へ耳打ちをする。
「やはり来た甲斐がありましたな」
 王子は苦笑しながらこくりと頷いた。

 城門前の広場では、再びヴァイオレットの捕縛が開始されようとしていた。
「さて、とんだ邪魔が入ったが、その間に覚悟はできたか?」
「邪魔だなんて言っていいんですか? 相手は世界中が一目置いている王子ですよ。発言には充分気をつけていただきたい」
 ノア王子は、ふんと大きく鼻を鳴らず。
「余に意見するとは、許し難い奴だ。殺されても文句は言えまい」
 ノア王子は右手を翳した。それに合わせて兵士たちが剣の柄に手をかける。
 しかし、後列の兵士たちからどよめきが起こった。フィオナ嬢が無言のまま兵士たちをかき分けて、前へ前へと進んでいるのだ。前方にいた兵士たちは慌てて道をあけて、フィオナ嬢を前に通した。
 フィオナ嬢はノア王子の前で膝をつくと強い口調で言った。
「王子、この者は私の大事な証言者です。まずは査問会を再開することを願います」
 ノア王子は眉間に皺をよせて、頬を引きつらせた。
「その方まで余に命令するのか!」
「いえ」フィオナ嬢は頭を小さく左右に振る。
「陛下のご命令です」
 きっぱりと言い放つと右手に持っていた書状を広げてみせた。右下には国王のサインがある。フィオナ嬢は騒ぎの最中に国王から許可を得ていたのだ。
 国王の命令とあっては従わないわけにもいかず、王子はいまいましそうに馬の首を返した。

 査問会が再開され、ヴァイオレットは証人として鷹から受けた傷を見せた。さらに、国王お抱えの医師が傷を鑑定し、鷹の爪による傷だと認定した。これにより、フィオナ嬢の行動は正当化されることになった。
 しかし、これではノア王子の面目を潰してしまうことになる。公爵は折り合いをつけるために、フィオナ嬢に罰を科す。
「鷹を射た時点で、殿下に充分な説明を差し上げる義務がフィオナにあったことは間違いなく、今回の騒ぎになった責任はフィオナにある。よって、本日から一ヶ月間、日々の行動を事細かく記載し、提出すること」
 フィオナ嬢は謹んでその処分を受けることにした。
 一方、ヴァイオレットの処分は意外にも先送りとなった。城門の守備隊長が「あれは、訓練だった」と発言したからだ。フィオナ嬢の護衛役というからには、相当の腕だろうと見込んで、部下たちを鍛えてもらったとも言った。
 どういう風の吹き回しかわからないが、これにヴァイオレットも同意した。すでにフィオナ嬢の処分が決定し、王子の計画は失敗したことになる。となれば、ヴァイオレットを殺す価値はない、とノア王子は判断したのだろうか。
 査問会が再開されてからは、ノア王子は目を瞑り、腕を組んでじっと座っていた。それは、まだ何かを企んでいるようにも見えた。



[19782] 第四章 女神と英雄(1)
Name: 士はサムライ◆2a504029 ID:4fc044b8
Date: 2010/06/29 10:06
 査問会が終了したとき、陽は落ちてすっかり辺りは暗くなっていた。そのため、国王はラファエル王子に城で夕食をとることをすすめた。王子はこころよくその申し出を受け入れた。もちろん、そこにフィオナ嬢も同席する。
 ヴァイオレットには、公爵邸へ帰り、翌朝また城へ出向くように命令がでた。ヴァイオレットはランプ片手に馬にまたがって公爵邸への帰路を走った。

「なんだ、きちんと馬に乗れてるじゃないか」
 邸門の前にヒューゴーが部下たち数人と立っていた。もう時刻は真夜中である。
「ドミンゴのじいさんの話じゃ、相当ひどいって聞いてたからな。こっちは笑い転げる準備までしたのに、つまらん」
「昨日はたまたまこいつと息が合わなかっただけだ。馬ぐらい乗れるさ、バカにすんな」
 ヴァイオレットは鞍上から飛び降りると、「ご苦労さん」と言って馬の頬をポンポンと叩いた。
「隊長さんよ、ラファエル王子が城にいるのは知ってるか?」
「ああ、報せを早馬が持ってきた。お陰でこっちも大変だ。衛兵隊は徹夜で街中を警備だ。だが、一番大騒ぎしているのは厨房と給仕たちだよ。王子の到着が早まったせいで、宴の準備を一日早く完了させなくちゃならないからな。ありゃ、戦場よりひどい状況だぜ。まったく迷惑な話だよな、どうせなら遅れて来たほうがよかったのによ」
 ヒューゴーから鼻息が漏れる。
「城にも迷惑している奴がいたよ。いいざまだった」
 ヴァイオレットはノア王子の顔を思い浮かべると、肩を上下に震わせて笑った。
「なんだよ、気持ち悪い。そういえば、うちの第一中隊がぬかるみにはまったっていう王子の一団を助けに行ったぞ。国境付近らしいから明日中に戻ってこれるかどうかは微妙だな」
 公爵が早馬をとばした一番の理由は救援指示にほかならない。大事な娘婿が困っていると聞けば、ほうっておくわけにもいかない。
「救援を求めるのに王子様自らが馬を駆けてくるとはご苦労なことだよ。服が泥でずいぶん汚れてたから、そうとう馬をとばしたんだろう」
 それを聞いたヒューゴーは目を丸くして、口をすぼめた。なんともマヌケな顔だ。
「普通じゃ考えられない話だなあ。エリアス王国は大将自ら先頭で動くのかねえ」
「たぶん、ラファエル王子が特別なんじゃないか? 常に先頭に立って指揮を執り、ピンチには自ら動く。まさしく騎士の鏡だね。しかも、二枚目ときてるから、世界中が騒ぐのもわかるよ」
「そんな完璧な人間が世の中にはいるもんなんだなあ」
 ヒューゴーは感心するようにうなった。
「ま、天才王子様の話はもういいや。とにかくオレは疲れたよ。早く休みたいね」
 ヴァイオレットは大きなあくびをした。
「ご苦労、ご苦労。ゆっくり休め」
「ああ、そうさせてもらうよ」
 ヒューゴーが部下に指示を出すと右側の扉が開かれた。
「ありがとよ」
 ヴァイオレットは軽く右手を挙げて門を通った。
「ああ、そうだ!」
 背中からヒューゴーの大声が聞こえた。ヴァイオレットは振り返って、
「なんだよ、なんか言い忘れたか?」
「へっへっへ」と得意気な顔でヒューゴーはヴァイオレットに近づいた。
「やっぱり英雄といえども完璧な人間なんていやしねえな。よく考えりゃ、ぬかるみにはまるって初歩的な失敗じゃないか」
 ヴァイオレットの両眉がハの字になる。
「なんだ、そんなことかよ……」
 ヴァイオレットはまた邸のほうへ体を向けて歩きはじめた。
「なんだとは、なんだ!」
 背中でヒューゴーが騒いでいたがヴァイオレットは無視した。ラファエル王子が人間である以上失敗することもあるだろう。たとえ失敗しても、その対処が迅速で的確であることが凡人とは違うのだ。
 ところが、ヴァイオレットは何か違和感を感じはじめていた。それは一体何なのか。ベッドの上に体を預けたとたんに、脳は思考することよりも眠ることを選んだ。

 翌朝、ヴァイオレットは再びサルバを城へと走らせた。
 城門の前にはすでに十人以上の騎士たちが待機している。近づいてみると服にエリアス王国の家紋が刺繍してあるの見て取れた。ラファエル王子が言っていた第二陣がこの連中なのだろう。
 騎士の一人に声を掛けると、間もなく王子たちが城から出立するらしいということを教えてくれた。ヴァイオレットは馬から降りると桟橋の手すりに背中をあずけて、のんびり待つことにした。
 少し風が出はじめている。空を見上げると雲の流れが速い。雨が降るかもしれないとヴァイオレットはぼんやり考えていた。
 やがて、門が音を立てて開きはじめた。
 奥から馬にまたがったラファエル王子とディノを先頭にして、二頭引きの馬車が進み出てきた。馬車は桟橋を渡り切ったところで一旦停止し、車からグラディアス公とフィオナ嬢が降りてきた。
「ヴァイオレットよ、ご苦労である」
 公爵は低く威厳のある声をヴァイオレットへ向けた。
「鷹狩りといい、昨日の働きといいで見事であった」
 公爵の褒め言葉にヴァイオレットの背筋が自然と伸びる。
「フィオナから鷹狩りのことを詳しく聞いておきながら、査問会ではうまく進行することができなかった。そなたがいなければどうなったことか……礼を言うぞ」
 公爵は頭こそ下げなかったがその言葉には心からヴァイオレットを労う気持ちがこもっていた。ヴァイオレットが暗殺されかけたことも公爵は察していているようだ。
 とはいえ、公爵がこうも謙虚な人だとはヴァイオレットは考えてもいなかった。見た目からはいかにも無骨で、身分による上下関係を重視しそうなのだが、実際はそれとは全く逆らしい。市場のオヤジが公爵はもともと貧しい家の出だと言っていたことを思い出した。
「ね、父上。私の見る目は確かでしょ」
 隣にいたフィオナ嬢が無邪気に笑った。その笑顔はまるで子供のようで、いままでヴァイオレットに見せてきた顔とは全然違った。父親と一緒にいるときの彼女は別人のようで、公爵も娘と話しているときは顔が綻びっぱなしである。
「ヴァイオレット、そなたはこの一団を邸まで先導してくれ」
「先導って、そんな大役をオレがですか?」
 ヴァイオレットは自分を人差し指でさしながら公爵へ聞き返した。
「だって、城は殿下を迎える準備で大変でしょ? はっきり言ってしまえば、ヴァイオレットしか手が空いている人がいないのよ」
 フィオナ嬢がいたずらっぽく口を挟んできた。
 ヴァイオレットはむっと彼女をにらんだが、言われたことはごもっともである。
「まったく、人使いの荒いことで」
 愚痴をこぼしながらヴァイオレットはサルバにまたがった。
「頼んだぞ」
 公爵とフィオナ嬢が車へ乗り込んだのを確認してから、ヴァイオレットは一団の先頭に進み出て、声を張った。
「それでは出発しまーす」
 サルバの腹を軽く蹴ると、ゆっくり歩きはじめた。

 公爵邸までの道のりが残すは半分となったころ、ラファエル王子が先頭を歩くヴァイオレットに馬を並べてきた。ヴァイオレットが横目で一瞥すると王子と目があった。
「君がフィオナ嬢の護衛役なんだね?」
 王子の質問にヴァイオレットは「はい」とだけ答えた。ヴァイオレットは無駄にしゃべらないことを心がけていた。貴族さまたちとのおしゃべりはどうも苦手だ。
「昨日も城にいたね?」
「はい」とだけ再び答えるヴァイオレット。
 王子は、昨日の兵士たちとの乱闘騒ぎを探ろうとしているのだろうか。王子が城に入ったときの雰囲気は明らかに異常だったはずだ。どんなに鈍い人間でも場の緊張を感じたはずである。その要因がヴァイオレットにあることに気づいていてもおかしくない。
「そうか。これからも任務に励んでくれ」
 ラファエル王子はそう言って微笑んだ。この笑みが世界中の女性の心を射止めているのだろう。それに王子としては似つかわしくないほどのやさしい口調。だからといって決して気取っているわけでもない。人当たりがよく驕ることのない性格。世界中が注目するだけのことはあるとヴァイオレットは率直に感じた。
 王子の足がふと止まった。
「これはすごい」
 王子は感嘆の声をもらした。目の前に広がる街の景色に王子は目を輝かせた。ここから街を一望することができる。
「昨日はただ急ぐばかりで全く気がつかなかった。なんと美しい街並みであろうか」
 街の中央に大きな通りが南北に走っていて、左右に住居、商業と目的にあった建築物が並んでいる。祝典が行われたアクア広場が街の中心にあり、緑が美しい。そして、街の東端に建てられた豪奢な公爵邸がひときわ目立っていた。
「ヴァイオレット、ここで止まってくれ」
 馬車から公爵の声が聞こえた。ヴァイオレットは馬の首を返しながら止まると、全員が馬の手綱を引いた。
 車から公爵は降りると、自分が作り上げた街並みを見ながら王子のもとへ歩み寄った。
「王子、ここからがグラディアス領です。天気がよければ、海の輝きも加わって最高の眺めなのですが、あいにく曇っているのが残念です」
「素晴らしい街並みですね。このような美しい景色はいままで見たことがありません」
 王子の言葉に公爵は頬を緩ませる。
「ここを王子の第二の故郷としてください。もっともっと豊かな国をともに作り上げましょう」
 王子は公爵の目を見ながら力強く頷く。
「グラディアス公……もちろんです。このラファエル、微力ながら精一杯尽くします」
「なんともったいないお言葉。私の人生のなかでこれほどうれしいことはありません」
 二人は堅く手を取り合って、微笑み合った。
 ヴァイオレットはこの光景を見て、婚約破棄など当方もないことだと感じた。二人の信頼関係はフィオナ嬢が考えている以上に強いのではないだろうか。
 ヴァイオレットは視線を馬車へと向ける。フィオナ嬢は車の窓からただじっと二人の様子を見つめていた。その表情からは彼女のいまの心境をうかがい知ることはできなかった。

 邸に着くと同時に空から大粒の雨が落ちてきた。一行は慌てて邸内へと駆け込んだ。公爵はラファエル王子一行に最も豪華な客室をあてがい、歓迎の宴がはじまるまで旅の疲れを癒すようにすすめた。自慢の浴場をぜひ使ってほしいと言うと王子は大いに喜んだ。
 ヴァイオレットは空いた時間を利用して、ルシオの部屋を訪れてみることにした。いまだに意識が戻らないとアイオネアから聞いていたが、実際に容態を見てみたかったからだ。
 ルシオの部屋は狭い。窓際にベッドが置かれ、その上にルシオは横たわっている。首に分厚い包帯が巻かれ、額から後頭部にかけても包帯が覆っていた。見るからに痛々しい姿だ。
 ヴァイオレットが訪れたとき、ちょうど検診の時間のだったのか、医者が脈をとっていた。それをマーヴィンが肩越しから覗きこんでいる。
「邪魔するよ」
 声を掛けることで、ようやく部屋に入ってきたヴァイオレットに気がついたマーヴィンはにこやかな笑みを向ける。
「ヴァイオレットさん!」
 声を弾ませヴァイオレットの目の前に立つ。
「ついさっき、先生の、先生の意識が、もど、戻ったんです!」
 どもりながらマーヴィンは言った。
「落ち着けよ。何言ってるかわからねえよ」
 ヴァイオレットがくすりと笑うとマーヴィンは胸に手をやり息を整える。
「すみません、あまりのうれしさで、いま自分を見失っています」
 深呼吸してから、マーヴィンは状況の説明をはじめた。
 三十分程前に、突然ルシオが目を覚まし、「ここは……?」と呟いたそうである。マーヴィンは慌ててルシオの手を握り、「公爵邸です。なんの心配もいりません」と答えた。するとルシオは「私は生きているのか?」と宙を見つめながら訊ねた。「もちろんです」と即答するとルシオはふっと微笑んでまた目を瞑ってしまったということだった。
 マーヴィンの説明が終わると同時に脈を計っていた医者が口を開いた。
「ふむ。脈もずいぶん安定しておるし、胸の傷の化膿もなくなっておる。驚くべき回復力だ。一時的ではあるが、意識を取り戻せたのだろう」
 そう言いながら医者はルシオの胸まで毛布を掛ける。マーヴィンは「先生、ありがとうございます」と何度も言って、目一杯に涙をためた。
「ところで、リカルドはどうしてるんだ? 姿が見えないけど」
 ヴァイオレットは弟子のもう一人、リカルドがいないことを不思議に思った。
「仮眠をとっています。私とリカルドは交代で先生のお世話をしていますから」
「なんだよ、冷たい奴だなあ。大事な先生が一瞬でも意識を戻したんなら、起こしてあげたほうが本人も喜ぶだろ」
 ヴァイオレットの小言にマーヴィンは顔の前で横に手を振りながらクスクス笑った。
「だめなんですよ、あいつは一回寝たら大地震がきても起きないんですから」
「寝る子は育つっていうけど、だからあんなに図体がでかいのか」
 ヴァイオレットとマーヴィンは声を上げて笑いあった。
「なあ、ルシオが公爵のもとから離れた理由を聞いているか?」
 ヴァイオレットの質問にマーヴィンを笑うのを止める。
「詳しくは聞いていませんが、先生は『戦術家に自分は向いていない』とおっしゃってました」
 そんなはずはないとヴァイオレットは眉根を寄せる。フィオナ嬢の話では最高の軍師だったはずである。
 マーヴィンもヴァイオレットが納得していないことを感じて、言葉をつなげる。
「私の考えでしかありませんが、先生はご自分がお立てになった作戦で犠牲者が出ることに耐えられなかったのかもしれません。先生は陽動作戦を得意とされておりましたから」
「つまり、囮を使うってことか」
 マーヴィンは俯いた。
 ヴァイオレットはそれ以上何も訊かなかった。ルシオが心を痛めた理由がわかった気がした。

「これに着替えてください」
 昼食をとった後、アイオネアがたくさんの衣服を持って部屋に入ってきた。
「今夜のパーティーにふさわしい服装をご用意いたしました」
 アイオネアは衣服をベッドの上に並べていった。上着だけで三種類もある。これを重ね着しなければいけないらしい。
「こんなに着たら、暑いし動きにくいよ」
 ヴァイオレットは顔を曇らせる。動きやすい服装が一番だと常日頃から考えているヴァイオレットには抵抗がある。
「服装は利便性だけで選ぶものではありません。気品というのが最も重要なのです」
 諭すように言うアイオネアの横でヴァイオレットは素っ頓狂な声を上げる。
「げっ、タイツまで履くの!」
 白いタイツが目に止まり、ヴァイオレットは口をあんぐりとさせた。
「お嬢さまの護衛役として当然の身だしなみです。衛兵や見習いの騎士たちとは違うんですよ」
「はいはい、わかりましたよ。着ればいいんでしょ、着れば」
 ヴァイオレットはふてくされながら上着を脱いだ。上半身のところどころに青あざが広がっている。
「ひどい傷じゃないですか」
 アイオネアは口元を両手で覆って、目を丸くした。
「オレがまじめに働いている証拠だ」
 嫌味を含めて言ったのだが、アイオネアは満足そうに頷いて背筋を伸ばした。
「お役目ご苦労様です。今晩の宴もどうぞよろしくお願いいたします。では、私はこれで失礼します」
 アイオネアは深々と頭を下げてから部屋を出て行った。
「まったく、傷ができるのは当然のことなのかよ。殺されかけたってことがわかってのか?」
 ヴァイオレットはぶつくさ呟きながら一枚目の上着に袖を通した。絹製で、とても柔らかいさわり心地。しかし、胸襟から腹部にかけてひらひらした半円状のものがついていて、邪魔くさい。次は公爵家の家紋が刺繍が施されたベスト。そして、若草色の上着を羽織る。ズシリとした重みが両肩に掛かる。予想していたとおり、タイツは履きにくいうえに、太股が締めつけられ、窮屈で気持ちが悪い。キュロットを履くのも初めての経験だった。脛を露にする格好には違和感を感じずにはいられない。
 貴族たちが作り上げた「身だしなみ」なんて文化は、所詮、平民生まれの自分には理解できないものだとヴァイオレットは実感した。
 最後にスカーフを巻けば着替えは完了するのだが、
「……あれ?」
 ヴァイオレットは何度も首を傾げた。結び方がどうもわからない。これ以上いろいろやっても時間の無駄だと悟ったヴァイオレットは部屋を出て、アイオネアを捜すことにした。
 邸中にいい匂いが漂っている。胃袋を刺激する香りに誘われるようにヴァイオレットは食堂に隣接されている厨房へと向かった。
 厨房は大勢の料理人と給仕たちでごった返していた。大量の皿に次々と料理が盛られ、テーブルに並んでいく。ヴァイオレットはアイオネアを捜したが見当たらない。邪魔になるのを承知で給仕に訊くと、鳥小屋にいるといると教えてくれた。
 裏庭の片隅に鳥小屋はあった。小屋に近づくと無数の鳥たちの鳴き声で耳を塞ぎたくなるほどうるさい。これはたまらないと顔を歪めて、ヴァイオレットが木製の扉を引いたちょうどそのとき、中からアイオネアが勢いよく飛び出してきた。
 アイオネアは「わっ」と声を上げて、後ろに仰け反った。
「ヴァイオレットさん、どうしたんですか、こんなところに。びっくりさせないでくださいよ」
 余程驚いたのかアイオネアはふうっと息を吐き出した。
「こいつの結び方がわからないんだよ」
 ヴァイオレットはスカーフを指さした。
「なんだ、そんなことですか」
 アイオネアは持っていた籠を地面に置く。中には絞められた鳩が二羽入っている。
「貸してください」
 ヴァイオレットの手からスカーフをさっと取ると首に腕を回して、あっという間に結んだ。
「これで、結び方はわかりましたね。私は忙しいので失礼いたします」
 それだけ言うとアイオネアは邸内の方へスタスタと歩き去っていった。
 ヴァイオレットは後頭部をぼりぼりと掻いた。あまりの早さでまったく結び方がわからないままだったからだ。しかし、一つわかったことがある。それは、スカーフが首に巻かれていると息苦しくて落ち着かないということだ。

 夜の帳が落ちて、王子を歓迎する宴がはじまった。会場は邸で最も広い部屋で、大広間と呼ばれている。床は顔が映るほどきれいに磨きあげられている。白い清潔なクロスが掛けられた丸テーブルがそこかしこに置かれ、その上には鳥肉を中心とした贅沢な料理が並び、ワインをはじめとした酒類も豊富に用意されている。
 ヴァイオレットは大広間の二階のテラスにいた。ここは吹き抜けになっていて、広間全体を見渡すことができる。
 宴がはじまる直前にヴァイオレットはフィオナ嬢からの指示書をアイオネア経由で受け取っていた。そこに書かれていた内容にヴァイオレットは軽くため息を吐いた。
「まったく、これが護衛役の仕事かよ。ちくしょう、うまく利用されてるなあ」などとぼやきながら、手すりに体を預けて下の様子を見つめている。
 ざっと見ただけで三十人以上の貴族たちが出席している。公爵と親しい間柄である貴族たちはもちろんのこと、王国の中で高い地位にある貴族たちも参加しているようだ。その証拠に昨日の査問会にいた大多数の顔を確認することができる。公爵の王国内での影響力をものがたっているともいえる。
 優雅な音楽が大広間全体に響きはじめた。広間の隅で楽団が演奏を開始したのである。弦楽器の心地よい音が広間を流れ、貴族たちが音楽に耳を傾けはじめると、中央奥にある大きな両扉がゆっくりと開きはじめた。
 主役の登場である。右にラファエル王子、中央にグラディアス公爵、左にフィオナ嬢の三人が並んで広間の中心へと歩を進める。それを全員が拍手で迎えた。
 フィオナ嬢は鮮やかな黄色のドレスを着ている。ドレスの胸元には大きなリボンがついていて、ウエストを細く絞り、スカートの裾は足下まで膨らんでいる。フィオナ嬢の白い肌の上で、宝石たちがキラキラと輝き、彼女の美しさをより一層際立たせている。
「こりゃ、惚れるわけだ」
 ヴァイオレットはぼそりと呟いた。フィオナ嬢を見つめる貴族たちの表情が恍惚としている。この中にも彼女に想いを寄せている者はたくさんいることだろう。
 一方、王子は青を基調とした裾の長いジャケットを羽織り、白のシャツとキュロットという姿である。スラリと伸びた長い脚が印象的で、清潔感を感じさせてくれる。颯爽と歩くたびに金髪がわずかに揺れるさまがまた絵になる。女性たちは顔を赤らめてため息を漏らしている。
 これほどの美男美女が一緒に並んでいるのは世界中を探してもここだけだろう。
 給仕が三人にうやうやしくグラスを渡し、ワインを注いだ。それから、貴族たちが三人を円の中心にするように囲む。公爵は貴族たちの顔を確認するように前後左右をゆっくりと見渡してから、話しはじめた。
「今宵はラファエル殿下を歓迎するための宴である。はるばる殿下が我が邸まで足を運んでくださったのだ。これほど光栄で且つうれしいことはない。殿下にぜひこの国の文化や人柄をお知りいただきたい。きっと気に入っていただけるはずだ。今宵がその第一歩となることを願ってみなで乾杯しよう」
 公爵の促しによっておのおのがグラスを手に取った。
「乾杯!」
 公爵が額の上までグラスを掲げると、それにならって全員がグラスを掲げた。音楽の音量も一気に大きくなり、あちこちで「乾杯!」の声が起こった。
「本当にお似合いのお二人ですよね」
 ヴァイオレットが振り返るとアイオネアの姿があった。平長い銀盆を持ち、その上には料理が盛られた皿が並んでいる。
「おお、オレも食べていいのか?」
 ヴァイオレットはいそいそとテーブル横の椅子に腰を下ろした。アイオネアは料理をテーブルに置いていく。フィオナ嬢からの差し入れだと説明した。
「さすがお嬢さま。気が利くね。すげえうまそう!」
 ヴァイオレットは頬を上げ、手を叩いて喜んだ。思わずよだれが垂れそうになるのを手の甲で拭う。
「ヴァイオレットさんはここで見ているだけなんですか?」
 アイオネアはグラスに水を注ぎながら訊いた。さすがに飲酒までは許してくれないらしい。
「そう願いたいね。護衛役は暇なほうがいいんだよ」
 ヴァイオレットは料理を口に頬張りながら答えた。アイオネアは口元で笑う。
「ものは言いようですね。それでは、私はこれで。片付けにまた参ります。あ、きれいに食べてくださいよ。クロスを汚さないようにお願いします」
 ヴァイオレットはアイオネアに目もくれずに「うまい、うまい」と言って、夢中で食べ続けている。鳩肉の香草焼き、牛肉をパイで包んで焼いたもの、海老や貝をふんだんに使ったスープなどどれもが絶品だった。
 肉食獣のような食べっぷりにアイオネアは呆れつつ一礼してからテラスの階段を降りていった。

 ラファエル王子は宴がはじまってから常に多くの貴族たちに囲まれていた。次から次へと貴族たちが王子のもとに挨拶に行き、王子はそれらすべてに丁寧に応えていた。王子から笑顔が絶えるはことなく、会話も弾んでいるようだった。フィオナ嬢もそれは同じで、料理に手をつける暇がないほど談笑を続けていた。
 開始から二時間ほどたったころ、給仕たちによりすべてのテーブルが広間の端へと寄せられた。すると、演奏のリズムがゆったりした優雅なものから速い曲調のものへと変わった。
 公爵がフィオナ嬢の手を取って、広間の中央へ颯爽と進み出る。それから二人は体を向き合わせると曲のリズムにのせて華麗に踊りはじめた。流れるようなステップと柔らかい体の動きは見るものを魅了した。曲が終わってから二人は周りへうやうやしくお辞儀をすると拍手が巻き起こった。
 公爵は軽く息を整えてから口を開く。
「ありがとう。さあ、ここからは舞踏会の時間だ。思う存分盛り上がってくれたまえ」
 公爵の言葉を合図に貴族たちは男女それぞれ手をつなぎ、体を向き合わせて踊りはじめる。そして、曲が変わるごとにパートナーを変えていく。
 ヴァイオレットはその様子をぼーっと眺めながら鼻息を吐いた。
「貴族さんたちの生活とは、ほんと優雅なものだねえ」
 皿を片付けに来ていたアイオネアがいたずらっぽく言う。
「あら、ヴァイオレットさんにだって貴族になれる可能性はありますよ。公爵様は生まれではなく、能力と実績を重視されるお方ですから。ここに残ってしっかり働けば、数年後には美しい女性たちと踊ることができるかもしれませんよ」
 ヴァイオレットは口を曲げて、
「冗談じゃない。あんな窮屈な格好をして、踊りのステップを覚えて、周りにおべっかを使って……息が詰まって死ぬよ」
 アイオネアは肩を震わせて笑った。
「そうかもしれませんね。ヴァイオレットさんには貴族の生き方は似合いませんよ。自由に生きたほうが絶対にいいと思います」
 ほめられているのかけなされているのかよくわからないアイオネアの発言にヴァイオレットは複雑な表情を浮かべた。
「でも、フィオナ様の踊りはしっかり見ておかれたほうがいいですよ。あんなにお上手な踊りはめったに見られませんから」
「へえ」ヴァイオレットは生返事をしながらフィオナ嬢へと視線を移す。踊りのことはさっぱりわからないヴァイオレットにもフィオナ嬢の動きは他の貴族たちとは明らかに違ってみえた。何が違うのかまでは説明できないが、ただリズムに合わせているだけではなく、曲と体の動きが一体化しているように感じられるのだ。
――何をやっても一流か。
 フィオナ嬢の能力の高さにヴァイオレットは今更ながら舌を巻いた。
「それにしても、殿下もすごくお上手ですね」
 アイオネアのため息まじりの声がもれる。
 確かに王子の踊りは躍動感にあふれている。王子と踊った女性はみなうっとりと頬を赤く染めていた。
 まったくたいしたものだ、とヴァイオレットは思った。これで剣の腕も高く学問にも精通しているというからそらおそろしい。おまけに人当たりのよさと気品をも兼ね備えているわけだから「エリアス王国の英雄」と称えられるのも納得である。
 しかし、王子のすばらしさを感じれば感じるほど、この婚約が納得できくなってくる。公爵邸に来てから、公爵が絶大な富と権力を手にしていることはわかった。だからといって、他国の皇位継承者が婿入りするなどありえるだろうか。公爵が疑問を持っていないとは考えにくい。どう納得しているのだろうか? 王子はただ公爵とエリアス王国との架け橋になろうとしているだけなのだろうか? それともルシオの言うようになにか陰謀があるのだろうか?
 ヴァイオレットは次々と湧き起こる疑問を整理するため、ルシオに出会った時点から一つ一つ思い返そうと頭を働かせた。
 しかし、それを邪魔するかのようにヴァイオレットの肩をバンバンとアイオネアが興奮した面持ちで叩く。
「見てください! いよいよお嬢さまと殿下が踊る番ですよ!」
 横にこんなにうるさいのがいたのでは落ち着いて考え事もできない。
「痛てえなあ。わかったからそんなに騒ぐなよ」
 ヴァイオレットはひりひりとする肩を撫でながら広間を見た。
 ラファエル王子の右手がフィオナ嬢の左手を優しく包み込み、左手はそっとフィオナ嬢の腰へと当てられた。
 王子とフィオナ嬢は目と目を合わせる。と同時に二人の体は美しく舞いはじめた。
 二人のステップは地面を蹴っているのではなく、まるで宙を駆けているようだ。それに空間を目一杯使うようにステップの幅は大きくて速い。そこはまるで二人だけのために用意された舞台のようだった。あまりのすばらしさに周りの貴族たちもステップを踏むのを止め、王子とフィオナ嬢の踊りに釘付けとなった。
 次第に弦を弾く弓の動きが激しくなる。リズムに合わせて、王子たちも大きな弧を描きながらくるくると回った。そして、最後にフィオナ嬢が後ろに大きく体を反らすと、演奏は終了を迎えた。
 大広間全体から割れんばかりの拍手が巻き起こる。拍手の嵐の中で、王子はフィオナ嬢の手の甲にそっとキスをして微笑んだ。
「フィオナ嬢、楽しい時間をありがとう。踊っていてこれほど心が弾んだことはありません」
「お褒めいただきありがとうございます。私のような拙い舞踏にお付き合いいただき心苦しいばかりです」
 王子は両手を広げて、首をわずかに傾げる。
「なにを言うのです。毎日でもお相手していただきたいくらいです」
「なんとも光栄なことです。本当に不安でしたので、ほっといたしました」
 フィオナ嬢は胸に手を当てて、息を整えた。
「この戦乱の続く世の中では、舞踏よりもやはり剣のほうに私は重きがあると考えていおりますので、どうしても舞踏の稽古が不足しまいがちです。殿下の邪魔にならぬように必死でした」
 さらりと言ったフィオナ嬢の言葉に王子はわずかに眉根を寄せた。
「剣をやられるのですか?」
「はい、剣の腕を高めたいと常に考えております」
 王子は、ほうっと口をすぼめた。
「これは驚きました。こんなにも繊細なお体をしておられるのに。グラディアス公の方針ですか?」
 フィオナ嬢は頭を左右に振った。
「父の影響がないかと言えば嘘になりますが、幼いころより私の意志で剣術を学んでおります。剣には心を決して離さない魅力があります」
 フィオナ嬢の強い眼差しを受けて、王子は頷いた。
「それは私も同感です。もう何年も打ち込んでいますが、頂きはまだまだ見えそうにありません」
「殿下の剣の腕前についてはいろいろと聞き及んでおります」
 王子は恥ずかしそうに少し俯いて、
「なにか噂だけが広まってしまっているようで、正直困ってしまっているのです」
「そうですか。それでは実際に見せていただくわけにはいきませんか?」
 王子は真顔になる。
「いま、ここでですか?」
 フィオナ嬢は黙って頷いた。
 王子は一瞬視線をそらして、ためらいを見せたが、彼女の真剣な表情に首を縦に振った。
「フィオナ嬢がお望みとならば構いませんが……おい、ディノ! 私の相手をしてくれ」
 王子は後ろを振り返って側近の名を呼んだ。
「殿下、私とお相手願います」
「え?」
 王子は目を丸くして、フィオナ嬢のほうに向き直った。
 もう一度確認するようにフィオナ嬢はゆっくりと告げる。
「殿下と闘いたいのです」
 予想だにしない申し出に王子は言葉を失った後、苦笑いを浮かべた。
「あ、いや、これは失敬。闘うという言葉にいささか驚いてしまいました。まるで私たちが敵同士のようで……それに近い将来、私の妻になられるあなたに剣を向けることなどできましょうか」
「私自身はまだ殿下との婚約に戸惑っており、決心がついておりません」
 婚約を否定するかのようなフィオナ嬢の発言に王子から笑顔が消えた。
「――どういうことですか?」
 静かに問い訊ねる。
「結婚とは愛しあう者同士が結ぶ契りだからこそ意味があります。そして、愛とはお互いを尊敬しあう心であるとも私は考えております。私は強い人を尊敬いたします」
「強いとは一体なんでしょう? あなたにとっては剣術のことをさすのですか?」
「もちろんそれだけではございませんが、剣術は大きな要素の一つです」
 フィオナ嬢の視線を感じたまま王子はまぶたを閉じて間を置く。
「……わかりました。この婚姻が愛のない、いわゆる政略結婚になってしまうのは私の本意ではありません。私の剣であなたを魅了させてみせましょう」
 王子の声には自信がこもっている。
「ただし、私にはやはり愛する女性《ひと》に剣を向けることなどできません。この中で最も腕の立つ人と相手させてください。それで、納得していただけませんか?」
 フィオナ嬢はうれしそうに大きく息を吸い込んで、頭を下げた。
「ありがとうございます。私のわがままをお許しください。早速準備いたしますので、少し失礼いたします」
 フィオナ嬢は王子から離れたところでイグナシオを呼ぶと、耳打ちをはじめた。話を聞いているうちにイグナシオの表情がみるみると強張っていく。
「しかし、お嬢さま、公爵様がお許しになられるでしょうか?」
「そのようなことはお前が心配することではない。お前は言われたとおりに準備を進めろ。その間に私は父上に説明する」
「はっ。承知しました」
 渋い表情を隠しきれないまま、イグナシオは広間から出て行った。
 フィオナ嬢は諸侯らと談笑している公爵のもとへ近寄る。
「父上、お話があるのですが……」
 娘の呼びかけに公爵は話を打ち切って、娘の話に耳をかした。
 フィオナ嬢は婚約問題の核心には触れずに事の成り行きを説明すると、公爵は王子に確認をとった。
「――殿下、本当によろしいのですか。旅でお疲れのところに、剣技まで披露していただけるとは」
「いいえ、せっかく参ったのですから少しでも多く私のことをみなさんに知っていただきたいのです。それに、このようにすてきな宴を用意していただいたばかりでは申し訳ありません。余興と思って、楽しんでください」
 公爵は酔いのためか幾分紅潮した頬を緩めた。
「それでは殿下の計らいに甘えることにいたしましょう」
 やがて、イグナシオが広間に戻ってきた。後ろには数人の家臣たちが丸められた絨毯を抱えている。
 家臣たちは絨毯を床に置いてから、手際よくころころと押して広げた。赤い絨毯が広間を縦断していく。幅は大人ひとりが横になれるくらいはある。
 準備が進められていく様子を二階のテラスから見ていたヴァイオレットは感嘆の声をもらした。
「すげえ、本当にお嬢さまの計画通りにことが進行してるよ。アイオネア、これから踊りなんかよりもずっと楽しいのが見れるぜ……って、あれ?」
 アイオネアの姿はもうすでになかった。二人の舞踏に満足して仕事に戻ったのだろう。
「ここからが本番なのに、バカだねえ」
 ヴァイオレットは手すりに肘をついて呟いた。
 王子はおもむろにジャケットを脱ぐと、後ろに控えていたディノに渡した。かわりに彼は王子に剣を差し出す。剣を手にした王子は敷かれた絨毯の上につまさきを何度か擦りつけて滑らないかどうか確かめた。
「フィオナ嬢、私のほうはいつはじめても構いません。相手になっていただけるのはどなたでしょうか?」
「はい、それでは紹介いたします。私のご……」
「お嬢さま、お待ちください」
 イグナシオがフィオナ嬢の言葉を遮るように申し出た。
「殿下はお酒も召し上がっておられますし、まずは体を慣らすのが必要かと存じます。殿下さえよければ、まずは私を準備運動にお使いください」
「それはありがたい。自国を出てから剣を振っていませんでしたので、ぜひお相手願いたい」
「殿下の剣を受けられるとは光栄でございます」
 イグナシオの突然の提案は、実はフィオナ嬢の作戦だった。まずは、イグナシオが相手になることで、王子の剣筋を次に控えているヴァイオレットに見せることができる。それに、準備運動というのはもちろん詭弁で、イグナシオには最初から本気でいくように指示を出していた。いくら剣の天才でも二人を続けて相手するのは困難なはずである。
 王子は剣を鞘から抜いた。剣身はロングソードと同じくらいの長さだが、剣幅はかなり短い。
「レイピアか……」
 ヴァイオレットが納得するように呟いた。体が大きいわけではない王子にとって軽いレイピアは打って付けの剣といえる。それに、巨漢な兵士が多い公爵家にとってレイピアは馴染みのない剣に違いない。
「これは稽古用に加工したものです。まったく斬れませんので、ご安心を」
 刃を見せるようにして王子は言った。
「お心遣いありがとうございます」
 イグナシオも剣を抜く。王子の剣よりも長く、かなり分厚い大剣だ。戦場でこれを振り回せば目立つことだろう。
「では、はじめましょう」
 王子は背筋をピンと張り、右足を前、左足を後ろにして肩幅に開いた。右手だけで剣を握り、肘を軽く曲げて剣先を相手へ向ける。その半身の構えはレイピア使い独特のものだ。
 対してイグナシオは腰を落として、両手で柄をしっかりと握り、体は相手に対して正面である。
「では、まず打ってきてください」
 王子の要求にイグナシオは驚いた。王子は攻撃ではなく、防御をするというのだ。
「よろしいのですか? 私から打つなど恐れ多いのですが」
「構いません。私は守りが好きですから」
 王子は余裕を見せるように微笑んだ。しかし、あの大剣をレイピアで受けること自体が無謀だとその場の誰もが思った。
「では、参ります!」
 イグナシオは大きく右足を踏み出すと同時に王子の頭部めがけて真っ直ぐに剣を振り下ろす。
 王子は素早く後ろへステップして、イグナシオの剣を横へとあっさり払い流した。
 イグナシオは思わず体勢を崩したが、すぐに立て直して剣を振る。だが、今度は横にステップを踏まれて、またも受け流された。レイピアに剣を当ててはいるのだが、実体のない空気を斬っているようで、まるで手応えがない。王子は巧みに間合いを操作して、力を分散させているのである。
 ヴァイオレットは手すりから身を乗り出す。イグナシオの剣捌きの速さは一級品だ。にもかかわらず、王子はそれをことごとく受け流しているのである。何度イグナシオが剣を振っても、いなされるだけだった。
 やがて、イグナシオは大粒の汗を額から流して、肩で息をはじめた。
 王子は息一つ切らしていない。
「そろそろ私から攻撃します。突きますので、かわしてください」
 剣先がイグナシオに向けられ、王子の目尻がきっと上がる。イグナシオの顎先から汗が滴り落ちた――。
 王子の右足が絨毯の上を滑っていき、上体ごと右腕が恐ろしいまでの速さで伸びる。ビュッと風を切る音がイグナシオの耳を襲う。
「うおっ!」
 あまりの速さと迫力にイグナシオは思わず声を上げる。しかし、さすがは騎士団副団長である、顔をそらして、剣先をすんでの所でかわした。
 王子はさらに踏み込みながら、突きを繰り出す。イグナシオはそれを自慢の大剣で思いっきり薙ぎ払った。
 手応えはあった。イグナシオの頭の中では大きく腕を払われて体勢を崩した王子の姿が描かれていた。
 だが、王子はその反動を利用するように腕をくるりと回しながら三度前に踏み込んで、鋭く突く。
 完全に予想が狂ってしまったイグナシオはもはやよける体勢をとることができない。彼は突きをまともに食らうのを覚悟して歯を食いしばった。
 しかし、剣先はイグナシオの首筋を通り掠めた。イグナシオの額から冷や汗がぼたぼたと流れ落ちる。
 王子は剣をゆっくりと自分の手元に引くと、イグナシオへ微笑みかけた。
「ありがとうございました。私の剣をはじめて受けられたにもかかわらす、ここまでかわされたのはさすがです。お陰で気も引き締まりました」
 王子がわざと剣を外したのは明らかだった。副団長としての面目を潰さないようにとの計らいからだろう。
 これ程までに差があるのか、とイグナシオは愕然としながらも王子に礼を込めて頭を下げた。
 イグナシオがまったく歯が立たなかったことにフィオナ嬢も面食らってしまっていた。彼は公爵家でも一、二を争う剣の実力者だが、王子はその遥か上をいっている。
「どうかされましたか?」
 王子が心配そうにフィオナ嬢の様子をうかがった。
「あ……は、はい」我に返ったフィオナ嬢は慌てて返事をする。
「殿下のお相手を務めさせていただきますのは、私の護衛役である、ヴァイオレットと申すものでございます」
 フィオナ嬢はテラスにいるヴァイオレットに一瞥を送る。
「やれやれ、やっと出番か」
 ヴァイオレットは上着を脱いで、階段をスタスタと降りていった。
 階段を降りてくるヴァイオレットを王子は見て、
「やはり彼でしたか。城でもずいぶん活躍していたようでしたから、私も彼には興味を持っていました」
 対決を心待ちにしていたように笑顔を作る。
 フィオナ嬢はその横顔を見つめながら、自分の考えを整理した。王子との婚約を破棄するためには、王子の自尊心を傷つけることが最も効果的だと考えた。王子が剣に絶対の自信を持っていることは様々な噂から聞いていた。大勢の前で英雄を負かすにはどうすればよいのだろうか。彼女はずっとそればかりを考えていた。だからこそ、ヴァイオレットの体術を見たとき、体中に衝撃が走ったのだ。幻の技、仙術ならば勝てるかもしれない。いや、これしかないと結論を出したのだ。
 ヴァイオレットは王子とフィオナ嬢の前で足を止めて、飄々と言う。
「もう一本レイピアはありませんか? できれば殿下と同じやつがいいですね」
 その言葉にフィオナ嬢は耳を疑った。
「それは、もちろんあるが……君もレイピアを使うのかい?」
「ええ。同じ武器じゃないと公平じゃありませんからね。あとで武器の違いでとやかく言われるのも嫌ですし」
 勝手に話を進めるヴァイオレットの腕をフィオナ嬢はたまらず掴んだ。
「ヴァイオレット!」
 ぐっと強引に腕を引っ張り、王子から距離をとって小声で喋る。
「どういうつもりだ、そなたはレイピアを使ったことがあるのか?」
 フィオナ嬢は眉間に皺を作って睨みつけた。
「なにもそんなに怖い顔することないじゃないですか。要は勝てばいいんでしょ、勝てば」
 ヴァイオレットのあまりにも楽観的な態度がどうしても理解できない。
「使ったこともない剣で勝てると思ってるのか? そなたもイグナシオを見ていただろう!」
「もちろん見てましたよ。殿下はまだ実力の半分も出してないんじゃないですか? それよりも、これ以上こそこそおしゃべりをして、殿下を待たせていいんですか?」
 ヴァイオレットは掴まれた腕を払って、王子のほうへと歩を進めた。
「待ちなさい!」
 フィオナ嬢の制止にまったく耳を貸すことなく、ディノからレイピアを受け取る。
「へえ、思ったよりもずっと軽いんですね。こりゃ、使いやすくていいや」
 ヴァイオレットは楽しそうにびゅんびゅんとレイピアを上下に何度か振った。



[19782] 第四章 女神と英雄(2)
Name: 士はサムライ◆2a504029 ID:4fc044b8
Date: 2010/07/01 09:23
 王子は微笑みながら後ろに何歩かさがって距離をとった。
「まさか公爵家で一番の剣士と闘えるとは思ってもいませんでした」
 王子はイグナシオのときと同じように足を開いて剣を構える。対して、ヴァイオレットは王子に体の正面を向けたまま両腕をぶらりと下げて突っ立っているだけである。
「……構えないのですか?」
「これがオレの構えです。先に断っておきますが、オレは、剣が専門じゃありません。拳が専門の拳士です」
 王子は意味がわからず首を傾げる――そこを狙ったかのようにヴァイオレットは下から剣を突き上げる。構えのない形からの突然の攻撃に王子も驚きを隠せない。イグナシオのときとは違って余裕なく、体の近いところで剣をなんとか払った。
 しかし、ヴァイオレットの攻撃は単発では終わらない。上から下、下から上へと次々に剣を振る。
 一見、闇雲に剣を振っているようだがその速さは尋常ではない。それにレイピアの扱い方を無視した剣筋に王子はてこずっている――がしかし、徐々に王子の剣捌きに余裕が生まれてきた。確実に剣を払っていき、反撃できる機会を窺っている。
 ヴァイオレットが大振りになったところを華麗に横にかわすと、王子は腹部目がけて突いた。
 王子はそのとき勝利を確信していた。攻撃ばかりで無防備な体勢でいたヴァイオレットにかわせるはずがないからだ。ところが、目の前にあったはずの的が突然消え、王子の剣は空を切った。
 前に体が流れてしまうのを王子は右足で踏ん張ってこらえ、後方へと向き直る。振り返った目の前には振り下ろされる刃があった。それを間一髪のところで受け止めて、後ろへステップを踏んで距離を空ける。
「おおおおお!」と周りかも驚嘆の声が上がる。何が起こったのか王子は理解して目を細める。
「いまのをかわされるとは……さすがですね。まさか、跳ぶとは思わなかった」
 そうヴァイオレットは高く跳んで、王子の剣をかわしただけではなく、王子の体を跳び越えるという尋常ではない跳躍力をみせたのだ。
「身軽なのは親譲りなんですよ。でも、奇襲が成功しないとは参ったなあ。一気に決めるつもりでいたんですが、正直困りました」
 ヴァイオレットは顔を歪めて後頭部を掻いた。王子は小さく笑って、
「今度は私の番ですね」
 素早く前に踏み込んで、今までにない速さで突きを繰り出す。
 しかし、ヴァイオレットは体を様々な方向にひねって、次々と剣をかわしていく。首を左右に振ることはもちろん、しゃがんだり、跳んだりしてことごとくかわした。信じられない体捌きに再び周りから驚嘆とも歓声ともとれる声が巻き起こる。
 ヴァイオレットはかわしながら何度か王子に攻撃を試みるがあっさりと払われる。確かにヴァイオレットの防御技術には目を見張るものがあるが、王子からは余裕が感じられ、徐々に反撃を許さない一方的な展開になってしまっていた。たまらず、今度はヴァイオレットが後ろへ大きくさがり、距離をとった。額にうっすらと汗が滲み出ている。
「殿下、そろそろ本気になっていただけませんか?」
 王子はわずかに片眉を上げた後、真剣な面持ちでレイピアを目の前に掲げる。
「いくらこれが稽古用のものとはいえ、私が本気で突いたならば、死を覚悟してもらわねばなりません。それでもいいんですか?」
「いまのままでは、オレを捉えることは無理です」
 きっぱりと言い放ったヴァイオレットに王子は観念したように俯いた。
「わかりました。そこまで言うのならば、本気を出しましょう。しかし、宴の中で死人が出るのは決して好ましいことではありません。左頬を狙いますから必ずかわしてください」
 王子はただ自惚れているわけではない。ヴァイオレットの力量をしっかりと把握したうえで言っているのだ。自分の剣をヴァイオレットは絶対にかわすことはできない、と。
「そう簡単には死にませんよ。さあ、いつでもどうぞ」
 王子は今までよりも広く足を開いた。すっと剣先が向けられ、わずかに先端が揺れる。
 ビュンッ!
 目ではとても追えない速さで、剣が放たれた。
 ヴァイオレットは身動きひとつできない。ただ左頬から血がすっと流れる。
 貴族たちは一様に声を失う。王子の剣は想像を絶したものだったのだ。
 フィオナ嬢は唇を強く噛んだ。王子が「英雄」と世界中からもてはやされるにはそれに相応しい実力があり、凡人では決して適わない存在なのであることを目の当たりにして、自分の考えが甘かったことを悔いた。
 みな呆然として静まり返った広間に突然拍手の音がこだました。手を叩いているのはヴァイオレットである。顔には満面の笑みを浮かべている。
「さすがです! 剣の達人に剣で勝負するのはやはり無理だとよくわかりました。ここからは、お互いに本気でやりましょう!」
 ヴァイオレットはレイピアを後ろへ投げ捨てた。そのかわりに両拳を握って、腰を深く落とす構えをとった。王子は構えを見て、軽く頷く。
「なるほど、君も本気じゃなかったってことか。拳士といった意味がようやくわかりました」
 二人とも得意の構えをとった後、睨みあったままピクリとも動かない。
 どちらが先に仕掛けるのか、そのタイミングはいつなのか、お互いにそれを探りあっているのだ。間合いからいえば、レイピアを持った王子に分がある。しかし、ヴァイオレットの常識を超えた動きには警戒をしなければならない。
 二人の睨みあいが続けば続くほど、緊張の糸が強く強く張られていくことをこの場にいる誰もが感じていた。広間中の空気が重く沈み、息が詰まりそうだ。
 バタンッ!
 緊張の糸を切るように広間の扉が激しく開かれた。
 全員の注目が扉の方へと向けられる。
 そこには雨で全身ずぶ濡れのヒューゴーの姿があった。
「何事だ、ヒューゴー!」
 イグナシオが諫めるように強い口調で投げかけたが、彼の耳はまったく受けつけていない。顔は真っ蒼であり、まるで何かに怯えているようだ。
 異変に気づいた公爵は、自らヒューゴーのもとに駆け寄る。
「どうした、何かあったのか?」
「公爵様……大変なことになりました」
 力なく言うと、丸められた羊皮紙を公爵に渡す。
 公爵の目がそこに書かれてある文字を追っていく。読み進めるごとに公爵の手はわなわなと震え、眉間には深い皺が刻まれる。最後には口髭が逆立っているようにさえ見えた。
「……これはまことか?」
 声を絞るように訊くと、ヒューゴーはわずかに頷いた。
「すでに邸の周りはノア王子率いる軍隊に包囲されております」
 弱々しい声だったが、耳をそばだてていた全員が聞き取るには充分だった。驚きと恐怖を帯びたざわめきが一気に広間を支配する。
 公爵は目を閉じた。
 慌てて、フィオナ嬢とラファエル王子が公爵の側に駆け寄る。
「父上、どういうことですか?」
 公爵はゆっくりと目を開くと一つ一つ確かめるように言った。
「ノア殿下は私とラファエル殿下の関係を疑っておられる。王子とフィオナの婚姻を機にエリアス王国と公爵家が結束して、王国に謀反を起こす計画があると主張されておられるのだ」
 王子は信じられないとばかりに血相を変える。
「そんなでたらめなことを! 何か証拠があるとでもいうのですか?」
「これです」
 王子に一枚の羊皮紙を見せる。
 そこには、ラファエル王子と公爵がミラーレス王国を手にした後、どのように領地や権利を分配するのかが事細く書かれていた。そして、書面の最後には公爵と王子の直筆サインがしっかりと記されている。
「これは……偽書だ……」
 王子は声を詰まらせる。
「精巧に作られた偽書です。どうやってこれ程までに私のサインを正確に模造できたのかはわかりませんが、ノア殿下は我々二人が交わした密書はこれ以外にも複数あり、それが動かぬ証拠であると主張しています」
 ヒューゴーはがくっと両膝を折った。
「申し訳ございません。ノア殿下が挨拶にいらしたと聞きましたので、門を開けましたところ一斉に軍隊になだれ込まれました。攻撃開始までの猶予に三十分与えるとのことです」
「猶予? 猶予とは何ですか、ノア殿下はどんな条件を出してきているのです?」
 王子の問いにヒューゴーは無念そうに力なく頭を垂れた。
「ラファエル殿下の拘束、公爵位の剥奪、そして、お嬢さまをノア殿下の妃にすること……」
 フィオナ嬢は両手で口元を押さえた。あまりにも屈辱的な条件に全身が震える。
 公爵は怒りで顔を真っ赤に染め、こめかみには青い筋が浮かび上がっている。
 王子は愕然と天を仰ぎ見ていた。
 他の者は顔に手を当てたり、俯いてがっくりと肩を落としたりしている。もうざわつくどころの事態ではなかった。
「――それに」
 絶望の中、ヒューゴーは言葉を継ぐ。
「エリアス王国の間諜であるヴァイオレットを始末しろ……以上が降伏の条件です」
 間諜という衝撃的な言葉にヴァイオレットへ視線が集中する。
 そのとき、ヴァイオレットは肩を小刻みに震わせながら、右手を顔に当てて表情を隠すようにしていた。
「はっはっはっはっはっは!」
 ヴァイオレットは堪えきれなかったように一度吹き出してから口を大きく開けて大笑いをはじめる。それから、苦しそうに体をくの字に折り曲げて、腹を抱えたまま、しばらく笑い続けた。
 この笑いが何を意味しているのかフィオナ嬢にはわからなかった。まさか本当にエリアス王国の間諜であることを見抜かれて開き直ったのか。
 ヴァイオレットは笑い疲れたのか両膝に手を当てて、今度はひーひーとむせいだ後、ようやく呼吸を整えた。何を言うのか全員が固唾を呑んだ。
「まったく、ノアって野郎の無能さにはもう笑うしかないな。自分の欲を満たすために妄想をふくらませ、王国の原動力である公爵家さえも潰そうなんて、まさにこの国にとっての害以外なにものでもない」
 ノア王子への痛烈な批判。フィオナ嬢は確認するように訊く。
「では、そなたが間諜であるという王子の主張もただの妄想なのだな?」
 ヴァイオレットはふんと鼻を鳴らす。
「バカ王子は完全にその偽書に踊らされてる。なぜ鷹狩りと査問会が失敗したのか。二つの予想外があったからだ。それは、オレの存在とラファエル殿下が突然城に現れたことにある。オレがラファエル殿下に雇われた間諜なら話の辻褄も合うってわけだ。ま、バカがそこまで頭が回るわけないから、誰かが耳に入れたんだろうけど」
 ヴァイオレットは自分の見解を言うとスタスタと歩きはじめた。
「どこへ行く!」
 フィオナ嬢がヴァイオレットの背中に声を投げる。
 ヴァイオレットは足を止めることなく肩越しに振り向いて、面倒臭そうに言う。
「この邸から出て行くんだよ。降伏勧告を無視してノア軍と戦えば立派な反逆行為だ。公爵家が生き残るには降伏するしかないだろ? 女神を嫁にあげれば、とりあえずバカの気持ちは収まるんじゃないか。ただ、そうなったときは、そこにおられる若き英雄が黙っていないだろうけどね」
 婚約破棄だけではなく、ラファエル王子を拘束したとなれば、必ず戦争になるだろう。両王国はいまお互いに勢いにのって、国力が急速に上がっている。戦争となれば激戦は必至だ。同盟国のことも考えると大陸中の国々を巻き込む戦争になるかもしれない。もしそうなれば数え切れない悲劇を生み出すことだろう。
「どうしたって戦争だ。冗談じゃない、こんな国さっさと出て行かせてもらう」
 出入口の扉までもう数歩というところで、目の前にすっと大きな体が立ちはだかる。イグナシオだ。いつもこいつは邪魔しやがる、と舌打ちして、
「なんだ、どけよ」
 ヴァイオレットは警告の意味を込めて冷たく告げる。
 イグナシオは唇を引き結んで、じっとヴァイオレットの目を見据えている。
「黙ってないで何とか言えよ。オレの首をバカ王子に差し出すのか?」
「お前の首など必要ない。ただ公爵家の力をみくびるなと言いたいのだ」
「まさか、包囲されている状態で戦う気か? もしノア軍を追い払っても、その後王国全体と戦うことになるんだぞ」
 イグナシオはゆっくりと頷く。ヴァイオレットの声が裏返る。
「なにバカなこと言ってんだよ。もし、ここを切り抜けたところで、どうにもならんだろ」
「グラディアス騎士団団長であられる公爵様が決められたのだ。私たちはそれに従うまでだ」
 ヴァイオレットは体ごと振り返る。公爵の表情は険しく殺気に満ちている。あれは戦うことを決めた顔だ。娘を差し出すことを拒否し、身の潔白を証明するために母国と戦うことを。公爵が口に出さずとも、その意志はひしひしと伝わってくる。
「お前はお嬢さまの護衛役だ。勝手に出て行くことは許されん」
「正気かよ?」
「もちろんだ。これから騎士団を率いて、先頭となって戦う」
 イグナシオは踵を返して、扉の向こうへと消えていった。騎士団を率いてノア軍と対峙するために。
 戦う覚悟を決めたのはイグナシオだけではない。貴族たちの中にも公爵へ戦うことを進言する者たちが現れはじめ、徐々にその数は増えていった。戦って正義を勝ち取るのだという声が広間を覆い尽くす。
 公爵は広間の中央で高らかに宣言をはじめる。
「我々は降伏しない。たとえ命を落とそうとも、騎士としての誇りがある。そして、ラファエル王子を無事にエリアス王国に還す義務があるのだ! 諸君、私を信じ、私についてきてくれ! 共に戦おうぞ!」
「おおーっ!」鬨の声が上がる。諸侯たちも覚悟を決めたようだ。先ほどまでの絶望が嘘のように広間は活気づいている。全員の気持ちが戦争に向けて一つとなっていく。しかし――。
「――なりません!」
 突然、強い声が広間に突き刺さった。沸き立つ人々を静止することのできる声。数日前の祝典と同じだ。
 声はヴァイオレットのすぐ目の前にある出入り口の奥からだった。
「やっと、お目覚めか」
 肩をマーヴィンに支えられて、懸命に広間へと歩を進めるルシオがそこにいた。
 ルシオは必死の形相で左足を引きずりながら広間へ入ってくる。肩を借りなければ歩くことさえ困難なようだ。歩くたびに痛みが走るのか、とても苦しそうな表情を浮かべる。額と首に包帯が巻かれたその痛々しい姿に広間は再びざわめきはじめた。また、ルシオが元重臣であり、祝典の際に問題を起こしたことはこの場の誰もが知っている。予期せぬ人物の登場に動揺が広がっているのである。
 その空気を追い払うかのようにヒューゴーが駆け寄りながら声を上げる。
「待て! ここはお前が立ち入れる場所ではない」
 ルシオを止めようとヒューゴーの手が伸びたところに、すっとヴァイオレットが割ってはいる。
「悪いなヒューゴー、オレとお嬢さまには約束があるんだ」
 怪訝な表情を浮かべるヒューゴーにヴァイオレットはにやりと微笑んでから振り返って、フィオナ嬢に訴えかける。
「お嬢さま、オレとの約束を果たしてもらいたい! 今ここでルシオの話をすべて聞いてくれ!」
 フィオナ嬢はしっかりと頷いて、ルシオの傍に自ら近づいていく。
「ルシオ、祝典では伝え切れなかったことがあるのだろう? もう邪魔はしない、すべてを話せ」
 ルシオはフィオナ嬢の目を見つめる。彼女の強い眼差しは幼いときから何ら変わらない。いつも自分の話を真剣に聞いてくれた目だ。
「ノア軍と戦ってはなりません。それこそ敵の思うつぼです」
「――敵?」
 全員が息を呑んだ。
「真の敵がいるのです。偽書を作り、ノア殿下をたぶらかし、我が王国と公爵家を共倒れにさせようとしている敵が」
 そこまで言うとルシオはフィオナ嬢から視線を外した。
 フィオナ嬢はルシオの視線の先を追う。
 彼女の瞳がとらえたのはラファエル王子だった。
「この婚約はすべて我が国に侵攻するためにラファエル王子が仕組んだ策略です」
 驚愕して全員が言葉を失う。
 しかし、王子に動揺した素振りはまったくなく、ただじっと前を見据えているだけだ。誰も口を開くことができずに重い静寂が広間に立ちこめる。
 やがて、沈黙を打ち破るように雷鳴が轟いた。その音で我に返ったように公爵がルシオに問い質す。
「ルシオよ、そこまで言うには何か証拠があるのだな?」
「いまからご説明申し上げます。まずはこれをご覧ください」
 ルシオの言葉に促されて、マーヴィンが袖から丸められた小さな紙切れを取り出す。人差し指ほどの大きさしかないものだ。
「私は数日前から邸の方角に飛んでいく鳩が多いことに気づきました。そこで私は邸の周りに弟子たちを配置して、鳩を捕らえようと試みたのです。その結果、これを手に入れることができました。この文書は祝典の五日前のものです。ここに何が書かれてあるかは、ラファエル殿下が一番お分かりのはずですね?」
 肯定も否定することもなくただ黙っている王子の反応を確かめるように公爵は一瞥したが、王子は前髪をかき分けただけで、表情も変わらない。
「伝書鳩を利用して、内通者と連絡を取りあっていた証拠です。暗号で書かれているため解読に時間が掛かってしまいました。また、弟子たちの行動を不審がられたことから私は投獄されてしまい、ついにこの内容を公爵に伝えることができませんでした」
 ルシオは無念そうに声を落とした。公爵が前のめりになって訊く。
「それで、そこにはなんと書いてあるのだ?」
 ルシオは紙を指先で広げ、淡々と読み上げた。
「例の書が完成した。あとはお前が自然な形でノアの手元に渡るように仕組んでくれ。祝典の準備は予定通り進んでいるだろうか? すぐに近況を報告せよ」
 もちろん差出人や受取人の名前は書かれていない。しかし、これで偽書を作成した何者かと邸の間諜とが通じあっていたことがわかる。
「暗号を解読したことによりもう一つわかったことがあります。それは言語です。私は暗号解読からさらに翻訳する必要があったのです」
――エリアス王国の言葉か。
 広間にいる全員の頭に同じ考えが浮かぶ。
 王子は目を細くし、左右の口角をつり上げる。それはいままで見せてきた微笑みではなく、不敵ともいえる笑みだった。
 フィオナ嬢は背筋がぞっとする感覚をおぼえた。目的を達成させるためにはどんな非情な手段も厭わない野心の塊が目の前にいると直感した。
「ルシオ君はたいへん優秀だ。私の臣下にほしいくらいです」
 ルシオの発言を認めたともいえる王子の言動に、公爵は声を張り上げた。
「こやつを拘束しろ!」
 広間に常駐していた衛兵が一斉に王子を取り囲む。しかし、誰もが王子に斬りかかることを躊躇している。無理もない。イグナシオでさえまったく歯が立たないほどの剣の使い手である。同時に斬りかかったところで果たして勝算があるだろうか。
 王子は怯えた衛兵たちの顔を見て、ふてぶてしく嘲笑した。
「公爵、どうやって私を拘束するおつもりですか? ここには十人にも満たない臆病な衛兵しかおらず、ノア軍と相対している騎士団を呼ぶわけにもいかない」
「黙れ!」
 公爵は怒りにまかせるように剣を抜いた。
「無駄ですよ。ルシオ君、公爵に教えて差しあげなさい。君にはすでに手遅れであることもわかっているのでしょう?」
 ルシオは悔しそうにきつく唇を噛みしめる。
「公爵、残念ですが事態は最悪です。我が方への攻撃態勢を整えているのはノア軍ばかりではありません。すでにエリアス軍も領内に侵入しています」
 公爵は目を大きく開いて「しまった」と呟いた。いますべてを理解したのである。
 その反応を楽しむように王子は一層にやけながら口を開く。
「数々の戦場を駆け抜けてきた公爵といえども、一人娘のこととなると所詮はただの父親。娘の婚姻に関してはあまりに無防備でしたね。私の話をこうも簡単に信じていただけるとは思いもよりませんでした。お陰で早い段階でサインを入手することができましたし、軍までで入れることができました」
 王子は、今回公爵家に貢ぎ物を贈るという名目で荷馬車隊を入れることを許されていた。しかし、それが国境付近でぬかるみにはまったと偽り、公爵に援助を求めたのである。公爵は第一中隊を送り出したが、荷馬車隊の正体はエリアス王国軍であったのだ。騙された中隊はすぐに壊滅させられた。エリアス軍は中隊から手に入れた公爵家とミラーレス王国の軍旗を掲げ、軍服を着て、なりすますことにより堂々と日中のうちに公領に侵入できたのである。もちろんその報告は王子の元に届いている。
「まずは偽書に踊らされたノア軍に我が邸を攻撃させ、機を見計らって、攻撃に夢中になっているノア軍をエリアス軍が背後から一気にまとめて攻め潰す。これで、ミラーレス王国に壊滅的な大打撃を与えることができる、という魂胆か」
 公爵は剣を握った手をぶるぶると震わせ、怒りとともに自分の愚かさを呪った。
 公爵はラファエル王子に強く惹かれていた。彼の聡明さは少しでも言葉を交わせばすぐにわかるほどだった。愛しい娘の婿はこの王子以外ないと心に決めたことで、冷静な判断を欠いてしまっていた。それに、まさか王子自らが策略の先頭に立っているとは。失敗すれば命のない危険な行為だ。常識ではまず考えられない。しかし、だからこそ、王子は英雄と呼ばれているのだ。
「わかったのなら、その剣を捨てなさい。ご自分は死ぬ覚悟ができているかもしれませんが、かわいい娘を死なせたくはないでしょう」
「危ない!」ルシオが叫ぶ。
 フィオナ嬢は、はっとして身を翻そうとしたが遅かった。右腕を掴まれ、乱暴に後ろ手にされる。そして、喉元に冷たい感触が伝わる。おそるおそる視線を下げると短剣が光っている。短剣を握っているのはディノであった。
「動くと死ぬぞ」
 低く、冷たい声が耳元で囁かれる。
 こうなってしまっては身動き一つとることができない。王子の発言に気をとられ、無様にも命を握られてしまった自分をフィオナ嬢は激しく恥じて、きつく目を閉じた。
 そのとき、どさりと音がした。
 目を開けて、足下を見るとヴァイオレットが前のめりに倒れていた。ヴァイオレットはディノの行動を察知し、阻止しようとしていたのだが、突然急激なめまいに襲われ、平衡感覚を失って倒れ込んでしまったのである。
「くそう……ドジった……」
 ヴァイオレットは床に頬を当てて呻いた。目の焦点が合わず、全身が痙攣を起こしている。
 ヴァイオレットは起き上がろうと必死にもがいたが、感覚が麻痺して手足にまったく力が入らない。目は霞み、天井がぐるぐると回っていた。
 体を襲った急激な異変に脳裏で「毒」という最悪の文字が躍る。しかし、宴に出された料理に毒味がされていなかったとは考えにくい。だが、ヴァイオレットの食事だけは余りものだったのだ。彼一人に狙いを定め、毒を盛ることができた人物――あまりに簡単な答えだった。自分がそれに今まで気づかなかったことに憤りを覚えた。
 ラファエル王子がなぜ一日早く、それも公爵邸ではなく王城へ来る必要があったのか。王国の人間に疑問をもたれる行為は極力避けたいはずである。その危険を冒す必要がなぜあったのか。
 それは王子が鷹狩りによるフィオナ嬢への査問会を知っていたからにほかならない。これまでと同様に間諜から伝書鳩を通じて知っていたことは間違いない。王子は査問会を中止させる必要があると判断したからこそ、予定よりも早く城へ馬を走らせたのだ。
 では、普段から鳩を扱うことができ、尚かつ、王国の重臣たちしか知らないはずの鷹狩りでの出来事を知ることができたのは誰か。
――アイオネアしかいない。
 アイオネアなら給仕の立場を利用して、食用の鳩にまじって伝書鳩を管理し、密かに何度も鳩を飛ばして、エリアス王国側とやりとりすることも可能であったはずだ。そして、鷹狩りから帰ったヴァイオレットの裂けた服を見て気づいたのだ、鷹狩りで何か予期せぬことが起こったことを。それをすぐさまラファエル王子のもとに報告したはずである。同時に査問会の情報を仕入れていたことも考えられる。
 ヴァイオレットは怒りを拳に込めてぶつけたかった。しかし、指先は震えるばかりで、握りしめることさえできない。
「――わかった。抵抗はやめよう。フィオナを殺すのだけはやめてくれ」
 公爵は観念したように剣を前方に投げ捨てた。
 王子は満足そうに微笑み、眉にかかる前髪を人差し指ですっと横にかき分けた。
「公爵、この婚姻は確かにすべて私の策略によるものです。しかし、私は貴公を尊敬しています。貴公が戦場で築き上げてきた武勇はまさに騎士の誉れです。そんな英雄を殺したくはないのです。お互いに手を結び、共にこの大陸を統一しようではありませんか」
 公爵は刺すような目つきで、迷うことなく答える。
「その薄ら笑いを信用することができるとでも思っているのか?」
 王子の顔が一瞬にして強張る。常に上がっていた口角が一文字に締め、首をフィオナ嬢の方へ向けて、憐れみの視線を投げた。
「フィオナ嬢、よく見ておくことだ。あなたの父上は最期まで立派な武人であった」
 王子の声は葬儀での別れのように細く、冷たかった。それは父と娘を切り裂く、死神の通告でもあった。
「うっ!」公爵が短い呻き声を上げる。
 フィオナ嬢の両目が大きく開かれ、
「いやあああああああ!」
 悲痛な叫びが広間にこだまする。
 公爵の首には一本の矢が後ろから前へと貫通していた。
 公爵の口から血がどっと溢れ出し、ボタボタと床に血が滴り落ちた。二、三歩前によろめいた後、ついに白目をむいて前のめりに倒れてしまった公爵の体はピクリとも動かない。
 ミラーレス王国の躍進を支えてきた公爵の人生は一本の矢によって幕を下ろされたのである。
 フィオナ嬢は狂ったように泣き叫んだ。ディノから短剣を向けられていることなどもはや頭の中にない。とにかく公爵の遺体に駆け寄ろうとしたが、ディノがそれを許さない。どんなに暴れても、ディノの腕から解き放たれることはなかった。
 ラファエル王子は暴れるフィオナ嬢の前に立つと平手打ちを頬へと見舞った。
 フィオナ嬢の頬はみるみる赤くなり、口元には血が滲んだ。
「公爵からもらった大事な命を大切にしろ。これ以上暴れると死ぬことになるぞ」
 王子の声はおそろしく冷たい。
 フィオナ嬢は鋭い眼光で王子を睨みつけ、その顔に向かって唾を吐きかける。王子の頬に血の混じった唾液がべとりと付着した。
 王子は怒りで下唇を震わせ、フィオナ嬢の髪を乱暴に掴んで顔を持ち上げる。
「気の強い女だ。お前には私の子を産んでもらおうと考えている。もちろん、ただの妾としてな」
「そんなことになるくらいなら舌を噛みきって死んだほうがましだ」
 フィオナ嬢の言葉に王子は鼻で笑ってから、髪を握っていた手を放して、目尻をきつく上げる。
「生意気言うな!」
 王子は手の甲でフィオナ嬢の頬を強く横へはたいた。その衝撃でフィオナ嬢の顔が大きく斜め後ろへ仰け反り、頭ががくっと落ちた。気を失ってしまったようだ。
「自殺できぬように轡《くつわ》でも噛ませておけ。手足もきつく縛り、自由を与えるな」
「かしこまりました」
 ディノは静かに答えて、短剣を懐へしまった。
 王子はテラスの方へと視線を向ける。そこには全身を黒のジャケット、黒のズボンで装ったアイオネアの姿があった。左手には弓を携えている。
 アイオネアはテラスの手摺りを軽く飛び越えて床に着地した。周りから憎悪の視線を向けられるが、まったく気にもとめない様子で王子へ近づいてから気だるそうに口を開いた。
「これでオレの仕事は全て完了したはずだ。グラディアス公の暗殺とノア王子の扇動、どちらもあんたのご希望通りだ」
 顔はアイオネアでも声はまったく違っていた。若い男の声の調子だ。
「あとはあんたの軍で遊んでくれ」
 王子は満面の笑みを湛え、両手をアイオネアの肩に回して叩く。
「ご苦労であった。今回も完璧な仕事だ。約束通りの報酬は払おう」
 アイオネアは当然とばかりに頷く。
「ああ、頼むぜ。しかし、前のあの汚い部屋だけは勘弁してもらいたい。カビ臭くてとても耐えられない」
「わかった、考えておこう」
 王子の答えに満足したアイオネアは、倒れたままでいるヴァイオレットへと近づいた。ヴァイオレットの顔は紫色に変色し、小刻みに体が震えている。アイオネアはそれを見て表情を歪める、まるで汚物を見ているかのように。
「まったく、うるさい蠅だよ、お前は」
 吐き捨てるように言うと、ヴァイオレットの腹部を蹴り上げた。
 ヴァイオレットの体が半回転して、仰向けになる。
「ごほっごほっ!」
 苦しそうにヴァイオレットは咳き込んだ。
 さらにアイオネアは胸部を踏みつける。ヴァイオレットは痛みで目を大きく見開き、嘔吐する。何度もむせ返し、目には涙が溢れ、鼻水が垂れる。
 ヴァイオレットが苦しむ様子を楽しむように笑みを浮かべて、また蹴りを加える。ヴァイオレットは苦悶することしかできない。
「やめろ!」
 ルシオの強い声がアイオネアへ飛ぶ。アイオネアはおもしろくなさそうにルシオの方へ振り向いて口を曲げる。
「この死に損ないが」
 アイオネアは拳を振りかざし、ルシオへ撃った。しかし、マーヴィンが咄嗟に身を挺してルシオを庇い、背中で受ける。マーヴィンの体から鈍い音がルシオに伝わる。骨が折れたのは間違いないだろう。マーヴィンは激痛に奥歯を噛みしめるが、耐えられず、床に膝を落とした。
 マーヴィンの支えがなくなり、ルシオも同じく床に倒れる。怪我の後遺症のためか左足が麻痺していていうことをきかないのである。支えがなければ立っていることさえも困難な状態だった。
「無様な姿だな。あの時、おとなしく死んでいたほうがよかったんじゃないか?」
 アイオネアの嘲笑を受けて、ルシオは顔を上げる。アイオネアを真っ直ぐ見据えるその眼差しはぎらぎらしている。公爵が死に、エリアス軍が迫っている絶望の中でもルシオは決してあきらめていなかった。
 アイオネアは舌打ちをする。自分が考え出した策をことごとく見破り、絶望的な状況下においてもまったく怯まずに力のこもった瞳を返してくるルシオを忌々しく思った。
 腰に下げた剣に手が伸びる。剣先を突きつけ、恐怖に震える顔を見なければ気が収まらない。しかし、柄を握ったところで、出入口に幾人もの影が現れ、大股で広間へ入ってきた。
「遅くなりました」
 ラファエル王子に同行して邸に入っていた親衛隊の連中だ。
 親衛隊の一人が背筋を伸ばして王子に報告をはじめる。
「ノア軍の攻撃がついにはじまりました。現在イグナシオ副団長が陣頭に立って応戦しておりますが、崩れるのは時間の問題でしょう。いくら高名なグラディアス騎士団とはいえ、この包囲網ではとても防ぎきれません」
 外から兵士たちの鬩《せめ》ぎ合う声が聞こえてきた。雄叫びや恐怖の声が入り混じる戦場の舞台に公爵邸はなったのである。
 この広間に危険が及ぶのも時間の問題だろう。しかし、王子は冷静に親衛隊とのやりとりを続ける。
「我々の脱出経路の確保はどうなっている?」
「殿下の攻撃の合図と同時にカルロス少将が脱出路確保のために切り込みます。疾風と評される少将には適任でしょう」
 王子は満足のいく答えに頷く。
「あとは天候の問題だが、どうだ?」
「雨脚は以前強いままではありますが、それを考慮して各部屋に大量の油を撒いております。時間は掛かりますが邸は全焼することでしょう」
 王子は邸を灰にする計画を立てていた。その目的の一つは公爵暗殺を隠すため、もう一つはノア軍から火攻めにあったことにすればエリアス軍介入の正当性が強まり、諸国の批難をかわすことができるからだ。
「よし。これから私は戦況を見て、攻撃の合図を送る。そなた達はここにいる全員を縛りあげろ」
 王子の命令に親衛隊たちは全員頭を垂れる。
「それでは殿下、公爵の部屋へお向かいください。そこからは邸の周りが一望できるようになっております。戦況を見極めるにはうってつけでしょう」
「わかった、案内しろ」
「はっ」親衛隊の一人が先頭に立ち、王子は広間から颯爽と出て行った。それに気絶したフィオナ嬢を抱き上げたディノが続く。
 広間に残された貴族たちは全員手足を縛られ、広間の隅へと集められた。宴のため全員が丸腰であり、抵抗できない。
 時間が経つにつれ、ノア軍の声はだんだんと近づいてきている。騎士団が劣勢である証拠だ。
 親衛隊たちは油を隈無く広間に撒きはじめた。邸ともども全員を灰にするつもりのようだ。それを察した貴族たちは悲鳴を上げたり、命乞いをはじめる。しかし、親衛隊は誰も耳を貸さない。黙々と作業を進めるだけである。
 やがて夫人たちのすすり泣く声が広間を覆う中、親衛隊全員が広間の中央に集まって、準備が完了したことを互いに確認した。
 そのとき、喇叭の音がけたたましく鳴り響いた。音は邸から外に向かって発せられている。
 ラファエル王子からの合図にほかならない。
 喇叭の音を合図にして、待機していたエリアス軍が満を持して一斉にノア軍へと襲撃を加える。すぐに大混乱の叫び声が外から聞こえてきた。
 邸への攻撃に夢中で完全に油断していたノア軍は後方からの敵襲に浮き足立つ。雨のような矢を受けた後、騎馬隊による突撃をくらう。前方にはグラディアス騎士団、後方にはエリアス軍。挟撃され逃げ場を失ったノア軍の兵士たちは次々と倒れていき、間もなく総崩れとなる。
 もちろん、エリアス軍の攻撃はノア軍を崩しただけでは収まらない。邸へと侵入し、グラディアス騎士団にも攻撃を加える。すでにノア軍との戦いで疲弊していた騎士団に勝機はなかった。
 その様子を公爵の部屋から満足げに見下ろしていたラファエル王子のもとに一人の男が訪れる。
「殿下、ご無事でなによりです」
 長靴を鳴らしながら、王子の前で片膝をついて、頭を下げる。
「カルロス少将、ご苦労である。思ったよりもずっと早かったな、さすがだ」
 カルロスは緑色の瞳を王子へ向ける。
「殿下のお陰でございます。攻撃を仕掛けるにはまさに絶妙の合図でございました。背を向け、油断しきった軍など赤子の手を捻るようなものです」
 王子は口を閉じて笑う。
「お世辞がうまくなったな、少将。さて、そろそろ私は邸を出ることにしよう。外まで案内してくれるか?」
 カルロスはすっと立ち上がり、
「もちろんでございます。安全な経路を確保しております」
 王子は扉のほうに体を向けると、隣に控えていたディノへ告げる。
「邸へ火を放て。公爵の側近、縁の者、すべてを灰にするのだ」
 ディノを介して指示を受けた親衛隊は各部屋へ散らばり、燭台を油の上へと落としていった。みるみる炎の柱が巻き上がっていく。
 最後に大広間へ火が放たれ、阿鼻叫喚の声がこだまする中、扉は固く閉ざされた。
 栄華を誇った公爵邸は炎の海に包まれていった。


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