大学院に進学してまもなく、宇宙研(東京大宇宙航空研究所、現・宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所)でハレー彗星(すいせい)探査の検討が始まり、探査機の軌道の計画と、新型ロケットの開発に携わることになりました。そのロケットが飛んだのが、宇宙研に就職して2年目の1985年1月。開発にどっぷりつかり、自然に宇宙開発を職業として選ぶことになりました。
《翌年、地球に接近したハレー彗星の探査は、国内初の惑星探査として日本の宇宙開発史に名を残す。だが、川口さんの期待とは少し違った》
探査機は回転しながら安定させる方式で、姿勢を保ちやすい。また、ハレー彗星のまあまあ近くを通ればいい、ビギナー(初心者)に合った計画でした。米国の探査機の精密さとはまったく違い、「まだまだ全然だな」と感じていました。
《探査機の高度な制御を実現したのが、98年に打ち上げた火星探査機「のぞみ」》
打ち上げが遅れ、準備していたロケットを上回る打ち上げ能力がなければ火星に行けないことが分かりました。制約があるといろいろ思いつくもので、月の引力を2回使ってスイングバイ(加速)し、火星へ到達する計画を作りました。ところが、最後の加速で燃料バルブが十分に開かず、想定した速度を得られなかったのです。さあ、どうするか。非常にスリリングな検討でしたが、地球を使うスイングバイを2回取り入れ、新しい軌道設計に成功しました。
《のぞみはその後、通信が途絶え、探査を断念した。だがこの奇想天外な軌道設計をきっかけに、川口さんは「軌道の魔術師」と呼ばれるようになる》
はやぶさの目的地が、直前のロケット打ち上げ失敗でイトカワに変わった際も、ロケットの力不足をイオンエンジンと組み合わせて補う新しいスイングバイの方法を考案しました。宇宙研では当時、別の衛星も打ち上げを狙っており、もし考えつかなければ、はやぶさの打ち上げは先送りされ、小惑星などの探査に関心を持ち始めていたNASA(米航空宇宙局)に先を越されていたかもしれません。
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聞き手・永山悦子/「時代を駆ける」は火~土曜日掲載です。
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■人物略歴
宇宙航空研究開発機構教授。54歳(写真はハレー彗星探査用ロケットの模型と。川口さん<左から2人目>提供)
毎日新聞 2010年7月2日 東京朝刊