和魂と洋才と温泉のガイジン
日本や日本の文化が好きな外国人というのは昔も今も結構多い。その中でもとりわけ彼らのジャポニズム心を刺激するのが温泉や銭湯であるらしい。こちらのページでもやたらと絶賛されているし、筆者の友人にも温泉ガイドブックを辞書を引きながら頑張って読んでいる人がいた(一方で、他人と一緒に風呂に入るというのはどうも馴染めない、という人も多いが)。
我々が外国すげえ、と思うのは日本ではとても出来そうにないことが当たり前に行われているからであり、海外の人間が温泉を見て喜ぶのはあんなシステムが彼らの母国ではとても出来ないと思うからである。上のページはこんな文章で締めくくられている。『驚くほど見事なトイレや風呂を開発することは、われわれにもできるかもしれない。しかし、穏やかで平等な、信頼関係が成り立っている社会、犯罪もなく、素晴らしい技術をわずか3ドル程度で楽しむことができ、そして大勢の他人の前で裸でいられる、そんな社会空間を作り出すことは無理だろう。仮にできたとしても、きっとそれは、「政治的」と揶揄されるたぐいの行動になりそうだ。』
筆者の(それほど多くも無い)経験から言うと、大勢の前で裸でいられるような社会空間、という評価は外人の日本評として頻繁に語られる点であるように思う。「日本は鍵を掛けなくても暮らしていけるんだよね」という神話は海外では未だに根強いし、実際田舎では未だに結構あるらしい。少し前に外国人の入国時の指紋チェックが始まったとき、新聞に「知らない人を見たら友達だと思え、という考え方こそが日本の良さだったのに」と嘆いているドイツ人か誰かのコメントが載っていたが、これも同様の評価だろう。日本人のこの「性善説的気質」は日本を訪れる外国人の大半に強い印象を残している。しかし、日本で出来ることが、なぜ海外では無理なのだろうか?
温泉というシステムの脆さ
この「性善説的サービス」である温泉・銭湯は、同時に「人種差別」の舞台でもある。こちらのホームページが特に有名だが、個人的にも温泉で差別を受けた、という話は聞いたことがある。その人は日本滞在暦が長く、日本人と結婚して子供もいるのだが、他の「日本人っぽく見える家族」は大浴場に通されたのに、彼は貸切の小さな温泉へと通されたのだそうである。この手の「お断りされて怒っている外国人の話」は、たまにメディアの片隅に登場する。
温泉や銭湯というのは、不文律の多い場所でもある。まず体を流してから入ること。手ぬぐいはお湯につけない。筆者は知らないが、他にもたくさんあるだろう。大人数で使うことを前提としたシステムなのだから、そこにルールが生じるのは当たり前のことである(前回説明したとおり)。
問題なのは、たった一人の人間がこのルールを一度でも破ってしまうと、温泉というサービスは台無しになってしまうという点である。禁煙というルールの場合、タバコに火をつける人間がいても注意すれば済むし、一人だけならそれほど大きな問題にもならない(不快ではあるのだが)。一方で、誰かが垢のこびりついた体でそのまま浴槽に入ってしまったら、その瞬間温泉というサービスは台無しになる。他人の垢がぷかぷか浮いている温泉で落ち着いて湯を楽しめる人間もいるにはいるのだろうし、若干であれば問題もないのだろうが、それこそ何日も風呂に入ってなさそうな人がどぷんと浴槽に入ってきたら、そのままシャワーに直行して帰る人は少なくないだろう。
災難なのは温泉の主も同じで、最悪の場合お湯を一度落として清掃しなおし、ということにもなりかねないし、一度怒って出て行った客が二度と自分の温泉を利用してくれない可能性も考慮に入れなければならない。そうなると、そういう粗相をしそうな人間はあらかじめ番台や受付でブロックしてしまう、というのは、経営判断としては十分に合理的だ。特に、高い宿代を取ることである程度はとんでもない客をブロックできる温泉と違い、銭湯は誰でも気軽に入れるのが売りである。入湯料を上げられない以上、それ以外の方法で客を選り分けるより他に方法が無い。そう考えると、銭湯における人種差別というのは、事の善悪は別にして、ごく当然の帰結ではある。
社会現象としての性善説
逆に言うと、温泉や銭湯というのは、一見の客であっても、「彼らは粗相などしないはずだ」という前提条件をおいてはじめて成り立つサービスなのである。何故そんなことを信じられるかといえば、ぱっと「親からそう教育されているから」という単純な答えがひらめくのだが、これだけでは「なぜそういう教育を受けるのか」が分からない。親が銭湯に行く子供に作法を教えるのは、少なくとも無意識のうちには、子供が粗相をすれば親の教育が疑われ、ひいては自分の評判に傷がつくことが分かっているからである。その意味で、銭湯や温泉というのはまさにギルド社会を前提としたサービスなのである。
元々、銭湯には地元の人間しか来ないものであった。桶にタオルとシャンプーを入れて山手線に乗る馬鹿はいない。そして、近所の人間も利用する銭湯で粗相をすれば評判に関わる。それこそ、家の外へ出るたびに周りでひそひそと噂話をされかねないのだ。だからこそ、彼らは粗相をしないよう自らを律し、また子供をそう教育するのである。そして、そのようなシステムが機能しているからこそ、銭湯の番頭は「客はみな信頼できる善い人間である」と信じられるわけだ。つまり、性善説というのは人間の行動原理ではない。評判でメンバーの行動を律するギルド型社会の社会現象なのだ(注1)。
しかし、この「前提条件」は地元以外の(ギルド外の)客には当てはまらない。もしかしたら、その客は評判メカニズムがあろうが無かろうが粗相などしない常識人かもしれない。しかし、もし一人でもその中に銭湯の仕組みを教えられていない人間、または「旅の恥は掻き捨て」という人間がいた場合、すべてが駄目になってしまうのが銭湯のシステムだ。地元の人間でなくとも、日本国内であれば、評判システムは若干なりとも機能しうるし(注2)、同等の教育を受けていることも期待できるかもしれない。しかし、海外の人間には評判メカニズムは全く機能しない。前回説明したように、評判メカニズムは「村八分は本人にとって損失となる」から機能しているのである。日本に観光に来た外国人を銭湯から出入り禁止にしたところで彼らは痛くも痒くもない。前回特に説明も無く「ギルドとは排他的なもの」と書いたが、それは村八分という処罰が効果を持たない人間には評判メカニズムが適用できないからだ。そう考えると、銭湯その他の問題で言われる日本人の閉鎖性や差別意識というのは特に日本人特有のものだとはいえない。ギルドの商人がギルドメンバーとしか取引をしないように、銭湯は「外」の人間を受け入れないことを前提に出来ているビジネスなのだ。
社会的現象としての「平等」
一方で、ジェノア型の相手を信頼しないことを前提に全ての協力関係を構築する社会では、このような性善説は社会からは生まれない。当然、銭湯のようなサービスは生まれようが無い。逆に、ジェノア型社会を構築したヨーロッパでは「平等」という概念が発達する(平等という概念自体は昔からあったが、今のように金科玉条のように扱われるようになったのは18世紀後半以降であり、その意味では平等というのは比較的新しい常識に過ぎない)。人種や信条、出身地などに関わり無く、誰もが分け隔てなく処遇されること。それはまさにギルドを持たないジェノア型の利点であり、だからこそ親はそうするように子供を教育したのである。
ジェノア型社会の価値観を持つ人々が(この仕組みを採用している社会は西洋に多いので、以下洋才社会と呼ぶことにしたい)銭湯の持つ排他性を受け入れられないように、我々ギルド社会に生きる人間にはヨーロッパの、特にアメリカの接客は受け入れがたい。欧米の横柄な接客に不快な思いをした人は沢山いるだろう。特にアメリカはひどいもので、客を舐めてかかっているとしか思えないことがある。客が怒って怒鳴り始めてから、「じゃぁそろそろ仕事しようかな」と重い腰を上げるといった按配だ。これは洋才社会ではある意味当たり前の行動ではある。客がクレームしても、それが本当であるという保証は無い。クレームにいちいち譲歩していたら「あそこは甘い」と嘘のクレームの標的になりかねないし、そうなれば経営は立ち行かない。ギルド的なシステムは無いから「信頼できる客」「出来ない客」の選別も不可能。そうなれば、とりあえずクレームを受け流すのが店員の仕事の一部になっていく。そして、客の側もそれを前提に行動するから、立派なホテルのフロントで吉野屋の店員も裸足で逃げ出すような殺伐とした空気が流れることになるのである(注3)。
法律に出来ること、出来ないこと
さて、こう書くと、「洋才社会では法規制が一般的なのだから、ちゃんとしたルールを作ればヨーロッパでも銭湯というビジネスは成り立ちうるのでは?」と思う方がいるかもしれない(というか、筆者がそう思ったのだが)。しかし、少なくとも銭湯に限って言うならば、これはかなり難しい。法規制のメカニズムが働くためには、以下の3つが必要になる。まず、どんな行為が罰されるのか、ルールが完全に明文化されること。次に、問題がおきたときに、第三者がその問題と犯人を確認できること。さもなければ「こいつ体流さないで入った!」「いや洗った!」という水掛け論を防止できない。第3に、粗相をした人を物理的につまみ出したり、場合によっては罰金を取り立てられるだけの強制力があること。
銭湯でこれをやるのはかなり難しい。大浴場に慣れていない人はかなり奇想天外な使い方をするものだし、その場合の被害も大きい。そんな奇想天外をあらかじめ全てリストアップすることなど不可能だし、もし可能だとしても今度は長すぎて誰も読めない。浴槽の中での粗相は他人には確認が困難だし、犯人を特定できたとしても逆切れされて「それならこんな銭湯燃やしてやる!」などと言われたら、柔道空手の有段者でもなければ罰金の徴収はあきらめてしまうだろう。法は決して万能ではないのだ。コストがかかるだけでなく、コストを掛けても法律では解決できない社会問題はたくさんある。
異分子に弱いギルド社会
こう考えると、「特定の人としか付き合わない代わりに、その人たちを最初から信頼してかかる」ギルド社会と、「誰とでも平等に付き合う代わりに、相手を信頼しない」洋才社会が真正面からぶつかってしまったのが銭湯の人種差別問題だといえるかもしれない。
同時に明らかになったのが、異分子が混入すると突然システムが破綻をきたしかねないギルド社会の脆弱さだ。会員制の場所ならともかく、ギルドメンバー以外を完全に排除できる場所は必ずしも多くない。洋才的な平等の概念が根付いていればなおさらだ。更に言えば、この異分子とは必ずしも外国人を意味しない。日本人だって一定の状況ではガイジン同様の異分子になりかねないし、そうすると日本の社会システムはあっという間に破綻を迎えてしまうことになる。その問題が端的に表れたのが、昨今の医療崩壊の問題であるように思う。それについては次回。
本日のまとめ
銭湯というのは、客がまっとうな(番頭が望むような)行動を取るはずだ、という信頼があって始めて成立するサービス。そのためには、評判メカニズムを支える閉鎖的なギルド社会が必要になる。
ギルド社会は、そのような性質を持っているがゆえに、性善説的な美徳を持つに至った。一方で、互いを信頼しない代わりに誰とでも付き合う洋才社会では出身その他出自にこだわらない平等が美徳となった。
法さえあれば(そのためのコストさえ掛ければ)人々の行動をコントロール出来る、と考えるのは間違い。全ての条件の完全な明文化など、実現困難な条件を満たさねばならない。法では解決できない問題がある。
次回予告:和魂と洋才と医療の崩壊
注1:一応念のために書いておくと、個人のレベルでは性善説は行動原理として解釈する余地はあるだろうし、そうした方が正しい場合もあるだろう。どんな状況に置かれても善を為す、という人はいるにはいる。しかし、この銭湯の番頭のケースのように、多くの人々が善人だとあらかじめ仮定するには、それなりの状況が必要だと考えるべきだろう。多くの人は、状況次第で善も悪も為すのである。その辺りは、先の回でもう少し説明する予定。
注2:地元以外の人間に対する評判メカニズムについては次回。
注3:逆に、クレームに対処するのを一切やめて、「どんなめちゃくちゃな物でも返品に応じます」とやる企業も多い。これも、別に客を信頼しているわけではなく、クレーム対処のコストと広告効果を考えれば、無茶な返品を受け入れてもコストに見合う利益が出ると考えているに過ぎない。どちらにせよ、客の選別をやる気があまりなさそうなのは興味深い。
Comments
将来の予測不可能な損失をヘッジする機能としては、
家族>ギルド型共同体>ジェノア型社会
という気がすると言うか、
精神的な安心感(大局的な数値化は可能でしょうが、そのレベルは合理的期待とは別のところで数値化しそうな)を得られる順位としても
家族>ギルド型共同体>ジェノア型社会
ではないかとか、
社会維持コストも
家族>ギルド型共同体>ジェノア型社会
という気がします。
あと、性善説社会と言うのはアジア的というより、日本的なんだろうという気がします。
おとなりの韓国人は根っ子のところで性善説社会なのかもしれませんが、日本型の信用経済が難しそうな嘘を許容する社会らしいし。(安易に嘘をつく一方だまされやすいとか)
中国も「だまされるのが悪い」と考える社会らしいので。
どちらもギルド型社会は作り得るし、ギルド型信用経済も可能でしょうが、近代国家として信用経済を発展させる過程で日本よりむしろ速くジェノア型に近づいていくのではないかという気もします。(いつまでも血縁ネットワーク型なのかもしれませんが)
日本もデフレ下の労働需給が緩みっぱなしが長く続いて、非効率な「ゲマインシャフト的」労働慣行が崩壊しつつあるのと、今までギルドを保護してきた各種規制が撤廃されてきた事で急速にジェノア型になっていくのでしょうか…。
Posted by: Cru | November 25, 2007 at 08:49 PM
ギルド型社会というのは「繰り返し型の囚人のジレンマ」の「しっぺ返し戦略」をとっている社会ではないでしょうか。
通常は協力し合ますが、裏切り者には裏切りで返す(すなわち「村八分」)という戦略です。
この場合、協力するのは裏切り合うより協力し合った方が(長期的には)自分が得することを理解しているからで、性善説は必要ないように思います。(倫理でその理解を補強することはあると思いますが。)
また、ギルド型とジェノア型は対立構造になるのではなく、どの社会もコア(卵なら黄身)の部分はギルド型であって、その外側(白身の部分)にジェノア型があり、さらにその外側は無法地帯になっているのではないでしょうか。
おそらく、日本社会は世界屈指の長期的に安定しかつある程度閉じた社会なので内部は大きなギルド型になっておりジェノア型が薄い構造、西洋は分散した多くのギルド型のコアを大きなジェノア型で包む構造、アメリカは西洋型で各コアが非常に小さいタイプ、中国などは血縁による多くのギルド型のコアが剥き出しか薄いジェノア型をまとっているだけの構造のように思います。
(これで、見た目はギルド型の日本と中国の違いや、見た目は違う日本と西洋の近似性がわりあい上手く説明できると思いますがどうでしょう。)
Posted by: motton | November 26, 2007 at 01:49 PM
> 平等という概念自体は昔からあったが、今のように金科玉条のように扱われる
> ようになったのは18世紀後半以降であり、その意味では平等というのは比較
> 的新しい常識に過ぎない
おそらくアメリカ独立宣言やフランス革命(「自由、平等、博愛」)を踏まえたご発言かと思いますが、その当時はまだ人種や性別による差別が厳然としてあったわけで。
「金科玉条」的に平等を扱うようになったのはせいぜい第一次大戦以降、アメリカなどは公民権運動以降と言っても良いかも知れません。
Posted by: アングラ | November 27, 2007 at 12:17 AM
街中に中国人韓国人欧米人に加えいろいろな国の人があふれており、飲食店サービス産業では外国人なしには成立しない部分があり、金融等の世界でも外人の数が日本企業で増えて着ている感があります。和食が海外で評価されKIKKOMANが米国で表彰されるので、日本文化の理解する外国人は多いとおもわれます。日本でも水着着用で人気の温泉施設もいろいろありますから外国人に例えば箱根に行くことを薦めればみんなうまくいく面もあるかもしれません。日本文化に十分適応する外国人も多いが外人恐怖症の日本人もすくなくありませんから折り合いをつけるのは容易ではないですね。
Posted by: 星の王子様 | December 01, 2007 at 08:09 AM
私のいるところは、最近、地下鉄の構内とか大学の図書館なんかで防犯ビデオが常に回されるようになりました。
色んな人が増え、犯罪も増えてます。しかし人口は増えていて、経済も上向きです。というわけで上の人ほどその路線を支持してますね。
mottonさんの指摘はかなりズバリと的中していると思えます。どの社会でも2つの面が組み合わさってできていのでしょうが、ヨーロッパは小さな国の寄せ集めだったということから、米国に比べるとギルド的側面が優勢でしょう。そして欧州統合の進展にともなってジェノア式の比重が高まりつつあると感じます。
Posted by: のびい | December 01, 2007 at 09:10 AM
Cruさん、コメントありがとうございます。
>は右のほうが大きい、という意味ですよね。それであればおおむね賛成です。
韓国は良く知らないのですが、現代中国はジェノア型の社会であるといって良い様に思います。歴史的に見ても、ローマと並び極めて早い時期に法治主義が芽生えた国ですし。ただし、国土が広すぎて放置体制が完全なものにならず、それゆえに血縁で補完されてきたのかな、と。
規制撤廃をマグレブ型への移行と見るかジェノア型と見るかは難しいところだと思います。単純に言えば、法規制の緩和はマグレブ型につながりますし。その後にどのような社会が構築されるかが問題だと思います。個人的には、移民を認めるかどうかがこの問題の最大のポイントになると思っていますが、その点はシリーズの先のほうで書こうと思います。
Posted by: 馬車馬 | December 02, 2007 at 06:02 AM
mottonさん、コメントありがとうございます。
おっしゃるとおり、評判メカニズムは過去のプレーヤーの行動が各プレーヤーの今期の行動に影響を与えるような繰り返しゲームの一種です。ただ、単純な繰り返し囚人のジレンマゲームと違い、プレーヤーの数が多いのが特徴です。そのため、プレーヤーは目の前の取引相手だけでなく、それ以外の人たちがどのような情報を持ち、どのような戦略に従って動いているかを考え、その上で自分の戦略を決めなければなりません。その複雑な類推と行動のプロセスから、社会構造というものが生まれてくるのでしょう。マグレブとジェノアを調べたグライフの議論はそこが面白いのだと思います。
それから、私の議論では性善説は必要か不要か、という仮定の問題ではなく、社会の結果に過ぎません。人間の倫理を外から仮定するだけでは、社会を読み解くには不十分だと思います。それを書きたくてこのシリーズを書いているようなものなのですが。これについては今日のエントリーで補足説明しましたので、そちらもあわせてごらん頂けたらと思います。
ギルド型とジェノア型が対立構造かどうか、というのはきわめて難しい問題です(同じ分野で両立はしづらい、ということは後で説明する予定です)。中心部にはギルド社会がある、という考え方は面白いですね。実際、評判メカニズムは有名になればなるほど機能しやすくなりますから、そういう側面は十分にありえるのだと思います(というか、中心部か周縁部かは、それぞれの人の評判の大きさで規定される、と考えたらいいのかもしれません)。その辺りは今日書いたエントリーともつながる話なのですが。
Posted by: 馬車馬 | December 02, 2007 at 06:18 AM
アングラさん、コメントありがとうございます。
なんとなくルソー辺りを考えていたのですが、世界各地に定着した時期はおっしゃるとおりもっと後なのかもしれませんね。
Posted by: 馬車馬 | December 02, 2007 at 06:21 AM
星の王子様さん、コメントありがとうございます。
日本のやり方にするっと適応する外国人もいれば、逆にそういうものに知識も関心も無い外国人もいます。それは日本人でも同じ事で、暗黙のルールに従わない「空気の読めない」人はたくさんいるわけです。
だったら日本人と外人で区別する必要は無いのでは、という流れになるのですが、それでも日本人が同じ日本人を信用しやすいのは、「こいつには評判が下がっても逃げる場所はない」という点だと思います。外国人は、粗相しまくって日本にいられなくなっても、よほどのことでない限り母国で普通に生活できます。「ムラの外で生活可能である」というアドバンテージが、外国人のコミットメントパワー(信頼される能力)を奪っているのだと思います。
水着ではいる温泉は知りませんでした。日本も、今後移民が増える場合は、温泉や銭湯はそういう方向へと変質していくのかもしれませんね。それが特に悪いことだとは思わないのですが。
Posted by: 馬車馬 | December 02, 2007 at 06:32 AM
防犯カメラに対する感覚の違いもギルド型と洋才型ではっきりと差が出る一例かもしれませんね。
おっしゃるとおり、歴史的に見てもヨーロッパは長いことギルド社会が主流だったと思います。それがEU統合でジェノア型へ向かっている、というのは実に納得できる話です。ただ、そうなると、国家体制そのものを統合して統一した法制度を構築できるかどうかが、EU成功の鍵になりそうですね・・・。昔も書いたような気がするのですが、私は未だにこの点に懐疑的です。
Posted by: 馬車馬 | December 02, 2007 at 06:37 AM
基本的な法制度については域内で統一されてますよ。それが加盟の条件ですから。
私は欧州は統合すると思っています。
現在イギリスがまだ半分そっぽを向いているのはあの国は外交、安全保障で米国と共同歩調をとっていかざるを得ないからです。ロイヤルダッチ・シェル、BP、BAEといったところの利害を考えればドイツのように気分で反米やってみたり親米に戻ってみたりというわけにはいかないのです。
そこでイギリスを引き入れたいメルケルが将来安全保障まで統合すると言ってるわけです。
しかし、そもそも米国が世界の警察官をしなければならない理由(冷戦)は既にほとんど消滅しているのでそのうちボランティアでそんなことはしたくないと言い始めるでしょう。欧州やアジアなどから撤退していくというのは実に合理的です。中東は石油がありますから残すと思いますが、米国に日本のシーレーンを守る必要があるのかわかりません。そのうち自分でやってくれという話になるでしょう。確かに思いやり予算という名のみかじめ料を払ったり武器を買ったりはしていますが米国からしてペイしてるのでしょうか。
ではアジアを統合していけるのかということがこれから課題になってくると思います。特に重要なのは中国がどの程度法治社会になっているのか、またしていけるかということは興味深いです。欧州に比べて遙かに貧富の差が激しいのが特徴(しかも貧しい国の方が多い)ですが、それはASEANがどの程度統合できるか面白い実験だと思います。
Posted by: のびい | December 02, 2007 at 07:36 AM
のびいさん、コメントありがとうございます。
法制度も一部統一されてたんですか。それは知りませんでした。ただ、今後国家間(または民族間・地域間)での利害が対立しても、それを統一法で裁ける(捌ける?)ようになるほど強力な法制度(とそれを支える統一された国家権力とそれに付随する統一された意思決定機関)が構築可能かどうかが非常に問題だと思います。
最終回辺りで書く予定ですが、洋才型社会が効率よく運営されるためには強力な国家権力の存在が不可欠です。あの国々がそこまでのコンセンサスを作り上げることが出来るとは思えない、というのは、1年以上前にのびいさんに申し上げたときから特に考えが変わっていません。やるなら数十年かけたほうが良いと思いますが、そんなに悠長にやっているとユーロが持たないような気がするんですよね・・・。
Posted by: 馬車馬 | December 08, 2007 at 10:59 PM
ルクセンブルクに欧州司法裁判所というのがあります。
各国の決めた法律がここで引っ繰り返されてしまうということもあります。
でもそれを守らせる強制力がブリュッセルにあるのか?と思われると思います。軍隊も警察も無いのに。
しかし、あるんですよ。決まりを守らないものは「村八分」にする権力が(笑)。
つまりギルドのようなもので、結局各国は従わざるを得ないのです。
Posted by: のびい | December 09, 2007 at 05:45 AM
ルクセンブルクといいますか主権というのがなくなるのはどうかと。
世界大戦の頃からの思想ですので根が深いのでしょうが、
人工的な連邦制がうまくいきがたいかと思いますが。
(ゆっくりならいけると思いますけど)
金融面や情報通信で解決してしまうんですかね。
個人的にはワンワールド世界はごめんなさい。ですが。
鉱山連結させようとするし、最近のソブリンファンドはいやですね。
Posted by: どおも | December 12, 2007 at 06:03 AM
のびいさん、今更3ヶ月前のコメントにリプライを返すのも気が引けるのですが・・・(大変失礼致しました)。
欧州司法裁判所というのがそこまで強い権力を持っているとは思いませんでした。せいぜい国連の国際司法裁判所みたいな性格の代物だと思っておりましたが、少し認識を改める必要がありそうです。例の新「EU憲法」も、各国国民投票をすっ飛ばすという荒業で承認してしまいそうですし(Economistが随分と批判していましたが)。
しかし、後々「国境を越えた財政政策」を行う段階になって、自国の選挙民に「村八分」を食らったら元も子もないだろう、という思いはどうしても消えないのですが。イタリアとか、現段階で結構ストレスを溜め込んでる国もありますし。とりあえず、もう少し楽しみに見守りたいと思います。
Posted by: 馬車馬 | March 25, 2008 at 09:04 AM
どおもさん、コメントありがとうございます。
私も、どうも思想的に走ってしまっているように見えてどうも心配なのですが。
SWFはいろいろと思うところはあるのですが、単に一ファンドとして純粋に行動するつもりならそれほどの害はないように思います。むしろ、中国のように「国策」の臭いの強すぎるファンドの行動をどう予測していくかが難しいのかな、と。特に彼らの為替政策と最適な投資行動とが矛盾をきたしたとき、彼らがどう動くのかに興味を持っています。相変わらずブラックストーンの損は拡大を続けてますが、あれをどこであきらめるか(またはあきらめないか)もひとつの試金石でしょうか。もはや素人の感想ですが。
Posted by: 馬車馬 | March 25, 2008 at 09:16 AM