「仲良くしない」技術
普通の人が福音書を読んで最もびっくりするところの一つは、以下の節じゃないかと思います。
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。(マタイによる福音書10.34〜)
社外取締役の導入とか、内部統制とか、橋梁の談合の話とか、公益通報者保護法の施行とか、60mもオーバーランしたのに車掌が仲間をかばって8mと報告しちゃう件とかについて、いろいろ考えていると、なぜかこのフレーズが頭に浮かんで来るんです。
日本のほとんどの人は、「仲良きことは美しき哉」「和をもって尊しとなす」という概念は非常に発達してると思うのですが、「『あるべき姿』のためには、最も親しい人とも敵対しなければならない」というマインドを持ち合わせている人というのはほとんど存在しないんじゃないでしょうか。
そういう教育受けてませんし。
コーポレートガバナンスとか社外取締役とか内部統制とか内部通報者とかいう概念は、ことごとく「キリスト教がインフラとして存在する国からやってきたもの」、とも言えます。(つまり、経済の基礎である通貨にまで「IN GOD WE TRUST」と書いてあるような国から、です。)
そういう「インフラ」自体が存在しないところに、「手法」だけ持ってきてうまくいくのかしらん?という(ちょっと悲観的な)気もしてしまうわけです。「けなす技術」が大切だというのは確かにそうなんですが、「技術」でいいのかしらん?というか。
明治以降、「和魂洋才」で発展した日本は、結局、肝心なときに「アメリカと戦うなんて無茶っスよ」と言える人材もしくみも作れなかったわけですが、「ガバナンスの仕組み」というのは、そうした明治政府が取り入れた技術にも増して「洋才」が「洋魂」とセットになってる気がするわけです。
(ではまた。)
コメント
やっぱ個人個人の罰則を厳しくするしかないんすかね。
全然関係ないんすけど、磯崎さんの公認会計士三次受験資格って、
「公認会計士法施行令第2条3項、前号に掲げるものを除くほか、地方公共団体以外の法人において、原価計算その他の財務分析に関する事務を直接担当すること。」ですか?
今、僕は大学生なんすけど、監査法人勤めるつもりはないんですけど、私企業の経理・財務とかに勤めて原価計算その他の財務分析に関する事務を直接担当したら、すんなり三次試験受ける事ができるのか、その程度とかはどうなのか、お知り合いの公認会計士さんとかで、原価計算してたのに、なかなか受験認めてくれないとかあったら、教えてください。お願いします。
Posted by: 伊集院 : May 3, 2005 | 8:33 PM
いえいえ、日本独自の”武士道”があるでしょう。義務教育にはないですが・・・
Posted by: 投資家 : May 3, 2005 | 8:52 PM
伊集院様、
次のエントリーで回答させていただきました。
投資家様、
武士道って、「あるべき姿のためには、最も親しい人とも敵対しなければならない」って考え方はありましたっけ?主君のためなら自分の死もいとわない、てなのはあったと思いますが。
「会社を守るためなら自分が犠牲になって」とか、武士道は、むしろ「内部通報者」とかの方向性とは逆に作用してるんじゃないでしょうか。
Posted by: Tetsuya Isozaki : May 3, 2005 | 11:21 PM
ちょっと筋違いかもしれませんが。
ある仕事に従事し、その道を極めようとしている場合、
“職人気質”、又は“内なる良心”、あるいは“信仰心”は
なにか通じるものがあるのではないでしょうか。
一定の質を保つためには、自分にしかない内なる
規範というものが必要です。
そういう自分に内なる規範を持つプロフェッショナルが
居る職場というのは、自然とモラリティになりそうな気が
します。気がするだけなんですが。
Posted by: ryu@hk : May 4, 2005 | 12:12 AM
マックス・ウェーヴァーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」だったかなあ……、“プロフェッショナル”とは神への告白=プロフェッションを引き受け容れる人のことであると……。そこから先、忘れてしまったなあ。読み直さねば。:p
Posted by: zoffy : May 4, 2005 | 2:21 AM
現実的な話で考えると、「司法取引」かな。
アメリカではこのような事件の場合「司法取引」で関係者を免責にした上で
洗いざらい喋らせ二度と同じような事故が起こらないようにするはず。
日本では「司法取引」が無いから自分に都合悪いことは口をつぐみ、真相解明
が遅れてしまう、あるいは闇の中・・・。
しかし日本では「司法取引」なんて(特に今回のように大勢亡くなられた場合)
論外なんでしょうな。「もう二度とこんな事故は起こさないでくれ」と言われて
いる遺族の方を思いやる気持ちが逆に災いしているのは皮肉としか言い様がない。
Posted by: sagiyama : May 6, 2005 | 8:34 PM
「親の悪事を隠す者こそが正直者」というのが孔子の教えですね。
(文革ではこれへの反動が奨励されましたが)
そして日本の会社組織は擬制の血縁関係にあるという見方があります。
現実問題として内部告発して何人かの同僚を刑務所に送った人と今までどおり「同僚」として付き合っていけるでしょうか。免責にするのであれば告発者だけでなく被告発者も含めなければ実効はないと思います。ますます論外な話でしょうけど。
Posted by: homer : May 7, 2005 | 8:59 AM
>>現実問題として内部告発して何人かの同僚を刑務所に送った
>>人と今までどおり「同僚」として付き合っていけるでしょうか。
そういう人とはお付き合いできない、、、、ということなら、
刑務所に送られた人の不正行為について追認・同意している
ということになりますね。故意かどうか別にしてもその犯罪行為に
幇助していることも考えられます。
>>ますます論外な話でしょうけど。
論外じゃなくて、正に議論の本質なんじゃないでしょうか?
畏怖すべき意見だと思います。ほんとにこわいです。
Posted by: ryu@hk : May 8, 2005 | 3:23 AM
> 武士道は、むしろ「内部通報者」とかの方向性とは逆に作用してるんじゃないでしょうか。
武士道の本質は、そうではないと思っています。
私があれこれ書くよりも、以下のページ(東京新聞のコラム)がまとまっているのでおすすめです。
http://www.tokyo-np.co.jp/edo/edo/edo030510.html
Posted by: Apricot : May 9, 2005 | 2:04 AM
「主君押し込め」は、良くも悪くも家中の「空気を読まない」殿様がやられるんじゃないでしょうか。家中の大勢に逆らう殿様、つまりDQNな殿様か家中における馴れ合い的な退廃を是としない改革派の殿様が押し込められるどちらかのケースが大半です。勿論こういうときの守旧派は「お家を危うくする」とか大義名分をかざしますが。名君の筆頭に挙げられている上杉鷹山も押し込められる寸前まで追い込まれ、隠居の先代に危うい所を助けられました。
上のコラムで挙げられている「武士道」とは、永楽帝を簒奪者と罵って九族皆殺しの目にあった方孝孺に代表されるような中国的なものではないでしょうか。日本武家社会はどちらかというと自分の身の回りの人に迷惑をかけないことを最優先し、「詰め腹」もその結果生じる現象でしょう。
Posted by: homer : May 9, 2005 | 7:49 PM