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無用の花束――『TAKESHIS'』までの北野武
藤井 仁子

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2  陣取り

そのような、<在ること>の自明性を喪失した北野武的な人物たちが間断なく繰り広げる生の闘争とは、端的にいって、「陣取りゲーム」としてのそれである。<在ること>の自明性を喪失した者がそれでも在りつづけようとすれば、すでに他者によって占められている場所を奪うこと――たとえ他者の縄張りを侵してでも、他者とのあいだに有限個の陣地をめぐる熾烈な争奪戦を繰り広げること――それ以外に途はないからだ。むしろ、そのような「陣取りゲーム」に参加しつづける限りにおいて、北野武的な人物たちは辛うじて<在ること>を許されるのだといってもよい。追われた先のアメリカの地でも、自分から進んで地元ギャング、さらにはマフィアとの血で血を洗う「陣取りゲーム」へと参入していく『BROTHER』は、ここでも北野武的な主題を明快に要約しているといえるだろう。北野武の映画において、自身の在るべき場所――すなわち縄張り(シマ)の取りあいに命を懸けているやくざが特権的な職業(?)でありつづけているのは当然のことだ。北野武の世界においては、定員はいつも少なすぎるのである。

すでに『3-4X10月』において、草野球チームの有限個のレギュラー枠からこぼれ落ちた万年補欠の小野昌彦が、あまりの奇行ゆえに客分として上がりこんだ組からも疎んじられているビートたけしのやくざと並置されていたように、北野武の映画にしばしばスポーツが登場しているのは、実力の劣った者、ルールに従わない者、チームの役に立たない者を排除することで成立する、苛酷な定員の力学ゆえにほかならない。そのことは、『あの夏、いちばん静かな海。』でサーフィンを楽しむ若者たちが集う砂浜さえもが、「場所取り」の必要な空間として提示されていることであきらかであろうし(大島弘子が真木蔵人のもとを少し離れただけでも、彼の隣にはすかさず別の女が座りこんでくる)、ただひとり波におのれの存在を委ねるようにしてようやく自分の場所を探しあてたかに見えた真木蔵人も、結局は彼の実力を認めたサーフショップ店長の「善意」によって、排除の力学に支配されるコンテストの場へと駆り出されてしまう。だから、サーフィンそれじたいがごみ収集の仕事とのあいだで二者択一されるべき選択肢の地位にまでおとしめられたとき、彼が排除の力学が作動しはじめる<以前>へと遡行するかのように、ただたんに自分の場所として永遠に海を選びとることになるのは、むしろ当然の結果なのである(この映画の結末が、せつなくはあっても曇りのない透明な印象を残すのはそれゆえに違いない)。

こうした排除の力学は、邪魔だとばかりに大型トラックを対向車にぶつけて道から押しのける『HANA-BI』の恐ろしく粗暴な渡辺哲(『ソナチネ』から『Kids Return』、『菊次郎の夏』、『TAKESHIS'』に至るまで、幾度も変奏される<道路から転落する車>の主題)、あるいは『BROTHER』で暇を持てあましたギャングたちが興じるバスケットボールのシーンでの、ひとりだけどうしてもパスをまわしてもらえない寺島進のような笑いを誘うキャラクターを生むことにもなるし、『TAKESHIS'』におけるいつも満席の雀荘や、岸本加世子の唐突な妨害によって毎度毎度「北野武」が落とされる殺風景なオーディション会場にまで波及している。さらには北野武に特有の<満員の車>という主題も、こうした排除の力学のひとつのあらわれとして見ることができるだろう。マルクス兄弟的に次から次へと馬鹿馬鹿しいほど客が乗りこんでくる『TAKESHIS'』のタクシーのように、北野武の映画にはしばしば人で満杯の自動車が登場している。ここでも定員は少なすぎるらしいのだ。サーフボードを持っていることを理由に真木蔵人の乗車を拒否する『あの夏、いちばん静かな海。』の混んだバスもこの主題から派生したものだが、もっとも印象ぶかい例は『3-4X10月』に見られる車だろう。ここで6人もの人間が詰めこまれた自動車は、あたかも排除の力学を作動させるためだけに登場させられているかのようだ。これだけの人間を乗りこませた当人であるビートたけしは、いざ車が走りはじめると「暑いから誰か降りないかなあ」などと不満げに洩らし、以後この車は黒人女性を手はじめに、ひとりまたひとりと順にその乗客を路上に置き去りにしていくためだけに走りつづける(『あの夏、いちばん静かな海。』で真木蔵人が下車させられたときと同様、置き去りにされた人間の遠ざかっていくイメージが痛々しくもすばらしい)。そして最終的に車内を独占することに成功したビートたけしと渡嘉敷勝男のふたりだけが、あの極楽鳥の花束を手にすることになるのだ。

だが『Kids Return』は、北野武的な排除の力学に全篇を貫かれた作品としてさらなる注目に値する。校庭でのあやういバランスを保ちながらの自転車の曲乗りとして鮮やかに視覚化されているとおり、ここで主人公の落ちこぼれ高校生二人組は相互に依存的な関係にあるが、その彼らがしかし別々に歩んでいくことになるやくざの世界とボクシングの世界とは、『3-4X10月』におけるやくざと草野球の世界と同様、それぞれに固有の排除の力学に支配された「陣取りゲーム」の場として並置されている。くわえてふたりの周辺には、必ずしも彼らと直接の交渉が持たれることのないまま同じ高校の卒業生たちが配され、ある者は漫才師として、またある者は秤のセールスマンからタクシーの運転手へと職を替えながら、それぞれに冷酷な「陣取りゲーム」への参入を強いられていくだろう。金子賢と安藤政信によって演じられる主人公の二人組は、ふたり寄り添った姿のすばらしさゆえにひとりになったときのよるべなさがいっそう際立つという意味で、見事なイメージにおさまっているというほかないが、兄貴分の金子賢を「マーちゃん」と慕い、そのあとを追ってボクシングを習いはじめた安藤政信が、いつしかボクサーとしての天性の才能を発揮して、意図せぬままに金子賢の居場所を奪い取ってしまうとき、『Kids Return』の世界はその正体をさらけだす。もとめた者に必ずしもあたえられず、またもとめなかった者にときとしてあたえられるのが、この世界の残酷にして気まぐれな法則なのだ。安藤政信を不摂生な生活へと引きずりこみ、結果的に彼の将来を潰すことになるモロ師岡の先輩ボクサーがこぼす、努力などしてもしなくても同じことだというシニカルな愚痴は、この世界の気まぐれさに翻弄されてきた人間による無力感の表明である。だからこそ、彼は練習帰りに安藤政信をつれて行く馴染みの食堂で、世界に対する彼なりの虚しい抵抗として、俺はここが好きなんだといいながら、先客に暴力をふるってでもあくまでいつもと同じ席に座ろうとしつづけるのだが、それによって得られるものは、「陣取りゲーム」のルールを場違いなところに持ちこんだことからくる気づまりな空気ばかりだ。モロ師岡が薄汚れた敗残者であるのは、ボクシングの才能が欠けているからでも引退の潮時を逃したからでもなく、彼が自分にふさわしい「陣取りゲーム」の場をついに見つけられなかったからなのである。彼に誘惑されるがまま、安藤政信がボクサーとして挫折することになるのも、世界が彼にボクシングという場を「恩寵」としてあたえていることを、彼がとうとう理解しなかったからにほかならない。

このように、苛酷きわまりない排除の力学に貫かれた北野武の映画にあっては、愛さえもそれを逃れることはできない。『Dolls』の、松原智恵子のほかには特別のひとりしか座ることを許されない公園のベンチを見ればあきらかなように、北野武は、愛が必然的に伴う排除の側面を際立たせずにはいられないのである。同じ『Dolls』における西島秀俊の結婚は、まさに菅野美穂の排除と同義であるがゆえに彼女を狂気へと追いやるのであり、『ソナチネ』と『BROTHER』では、ビートたけしが愛人をつくることで排除された男たちが嫉妬に悶えることになる(『BROTHER』における寺島進の死は、自分から女へと「乗りかえた」ビートたけしに対する一方的な愛の表現以外のなにものでもない)。そう考えるとき、『3-4X10月』のビートたけしが舎弟の渡嘉敷勝男に篠原尚子演じる自分の愛人を抱かせ、途中で「代われ」といってのしかかったかと思うと、渡嘉敷ではなく篠原尚子をベッドから突き落とし、そのまま渡嘉敷を後ろから犯すという一連の行動が持つ狂気じみた滑稽さは、アナーキーなギャグという以上に、むしろ北野武的な排除の身振りとしての愛の儀式的な上演として見る者を慄然とさせる。北野武的な性愛は、何者かに「代わること」――つまりは以前にその場所を占めていた者、あるいは潜在的にその場所を占めうる者の排除としてしかありえないのである。だから『ソナチネ』の結尾での、愛人のもとに向かう途上でのビートたけしの自死は、愛が畢竟、排除の身振りでしかないことを知ってしまった人間にとっての論理的な帰結だったのかもしれない。



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