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それはまさに、晴天の霹靂。
「お前さ、目ぇ悪いんじゃね?」
「……あ?」
春爛漫とはいかないが、庭に植えた白梅の木が芳しく匂い立ち、人も猫もどこかふわふわと浮き足立つような初春のある日。
二週間ぶりの非番を久々に会う恋人と歩きながら過ごしていた土方は、唐突に隣から寄越された思いもかけないその科白に、酷く間の抜けた応えを返していた。
一瞬本気で何を言われたのか理解できず、ほとんど背丈の変わらない銀髪の男をぽかんと見やる。すればその視線の先で、男は石榴色の双眸を土方に向け、次いで斜め前方を指差した。
「だってとおめー、あそこに書いてる文字がここから見えねーってのは割とまずくね?お前、裸眼で視力いくつよ」
言いながら男が指差した先にあるのは、とある甘味屋が出している宣伝看板、らしきもの。
そもそものきっかけは、昨日たまたま実入りのいい仕事が入り、割とまとまった収入があったから何か買ってやろうかという、酷く珍しい(というか、初めてではなかろうか)銀時からの申し出だった。
だが、改めてそう言われても、土方に元々大した物欲はない。
女ならこういうとき、ここぞとばかりにアクセサリーやバッグを強請るのかもしれないが、自分がそんなものに興味を持つはずもない。
ならジッポでもと言われたが、恋人に貰ったライターを愛用する自分、という最終兵器並みに気持ちの悪いものを想像して頑なに首を振る土方の態度に、とうとう折れた男は、じゃあ何か奢ってやるからと譲歩した。
普段全くと言っていいほど甲斐性がないだけに、たまには格好をつけたかったのだろうかと、飲み代もホテル代も平気な顔をして土方にタカる男の意外な一面に内心やや驚きながらも、それぐらいならと了承した。
これ以上男の好意を無碍にして、折角の逢瀬をおかしな空気にしたくはなかったし、少し早めの昼食を取ってから早数時間。多少小腹が空いてきたのも事実だった。
ようやく頷いた土方に、嬉しそうに破顔しながらじゃあどこにするかと雑多な周囲を見回していた銀時の視線がふととある一点で止まり。そうして件の看板を指差しながら言ったのだ、あの団子屋とかいいんじゃね?春の限定メニューやってるぜ、と。
だが。
「……てめぇ、俺の視界がボヤけてるとでも言いてぇのか?目が悪くて一端の剣士が務まるかよ。飛んでくる鉄砲玉だって刀で斬れる。動体視力なら間違いなくイチロー並だ」
「じゃあ読んでみろよ、あの看板。『春限定フルーツフェア開催中』の下に、何のメニューが書いてある?」
目がいいなら読めるよな?と看板を指差したまま告げる男の、揶揄るような男の物言いに、土方はむ、と口をへの字に曲げ、時折人込みで遮られるその看板を目を眇めて睨み付けた。
だが、黒い黒板に白やピンクのチョークで書かれた、今銀時が読み上げた大きめの文字はどうにか理解できても、その下の小さな羅列までは到底判読できなかった。
とはいえ、土方から看板までは大通りの道を挟んだ反対側。オスマンサンコンではあるまいに、読めなくて当然だろうと隣の毛玉に向かい反駁しようとした、とき。
「苺とキャラメルホイップのアイスワッフル」
「……へ?」
「絶品!大納言の桜餅。ラズベリー&スロトベリーのぱりっとタルト」
「…………は?」
「一度食べたらクセになる!?新食感モチモチドーナツ江戸上陸!…それ、春もフルーツも関係なくね?」
で、どれがいい?と。
目を細めるでもなく、スラスラと甘味を羅列して見せた男の科白に、土方は今度こそ呆然と目を見開いた。喉元まで込み上げていた罵倒がつっかえ、喉が鳴る。
だが、どれだけ目を凝らしてみても、やはり土方にそれらの文字は解読できなかった。
と、ふいに男が土方へ向き直り、その赤い双眸で黒曜をひたと見据えて。
「うん。お前、やっぱり目ぇ悪いわ。っつーか多分、悪くなってる」
ちょっとこっち一緒においで、と告げたかと思うと、突然右手首をぐいと引かれ、踵を返して元来た道を歩き出す。
「お、おい銀時ッ!?おま、何だよいきなり!離せっておい!団子屋で奢るんじゃ……」
「あーうん、それ、悪いけど取り消しで」
ちょっと行くとこ出来たから、と
好奇に満ちた周囲の視線に頬を朱走らせながらがなる土方の怒声にも、しかし男は振り向きもせずそう言い捨てて、土方の腕を強く引き歩き続けた。
***************
「いかがですかお客様。まるで世界が変わったようでしょう」
江戸ではまだ珍しいスーツに身を包んだ壮年の店員が、にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべながら告げる科白に、しかし土方は肯定も否定もすることなく、ただ目の前の光景を凝視していた。
否、正確には言葉を返せないほど、呆然としていたのだ。
何故なら、銀時に腕を引かれ強引に連れ込まれたのは、ホテルでも健康ランドでもなく、土方の人生において今まで視界にすら入っていなかった眼鏡店で。
江戸のみならず全国にチェーンを展開するというその店に入るなり、銀時は土方を近づいてきた店員の前に差し出し、こいつの眼鏡が欲しいんだけどとのたまった。
そして、状況が飲み込めない土方が呆気に取られている間に、手馴れた店員により妙な機械を目に当てられ、何たら視力というのを測られて。
とりあえずこれを試してみて下さいと半ば強引に手渡された眼鏡を、勢いに押されるまま仕方なく耳にかけた瞬間、それまで不鮮明だった店内の景色が突如霧でも晴れたかのようにクリアになり、全く読めなかった向こう側の壁に貼られたポスターすら、いとも容易く判読できたのだ。
そして、土方とそのポスターとの位置は、丁度先刻見た看板との距離とほぼ同じ。あのときこの眼鏡をかけていれば、銀時が読み上げた文字を土方も簡単に読むことが出来ただろう。
それは、つまり。
「おそらくお客様は、元々目が宜しかったのだと思います。失礼ですが、お仕事でパソコンを使われたり、書類を多く書かれたりされますか?」
「……ま、あ、それなりに……」
「ああ、やっぱり。そういう方は目が悪くなりやすいのですよ。ただ、元々視力がよかった上、じわじわと進行するのでご自分では気付き辛いんです」
視力には自信のあった人間が、自動車教習所の視力検査に引っかかり慌てて駆け込んでくることも少なくないのだと告げる店員の言葉が、右から左へ抜けてゆく。
そんな土方をどう思ったのか、一連のやり取りを隣で見ていた男がやおら口を開いた。
「でさ、ぶっちゃけこいつ、どんぐれぇ目ぇ悪いの?」
「そうですねぇ……先ほどお測りした限りでは、両目とも0.6といったところでしょうか。裸眼でも日常生活に支障はありませんが、所謂近視ですからどうしても遠くの物が見えにくくなります。これからもデスクワークが切り離せないのでしたら、これ以上の悪化を防ぐためにも眼鏡かコンタクトをお勧めしますよ」
主導権を握っているのは銀髪の男だと判断した店員が、ビジネスマンらしい丁寧ながらも整斉とした語り口調で、違和感なく商品を売り込むのに、銀時もまた顎に手を当てふぅんと相槌を打ちながら展示されている眼鏡の数々を覗き込む。
「ま、とりあえず急場凌ぎだからそんな高ぇのはいらねぇし、つーか無理だし、値段的にはこの辺かな。あとはデザインか。なぁ土方、お前どんなのがいいよ」
「は…?な、ちょ、ちょっと待てクソ天パ!何人ほったらかしてサクサク話進めてんだ!大体俺ぁこんなもん必要ねっ…」
「あ、これとか似合いそう。ちょっと掛けてみ?」
度を確認するだけの野暮ったいサンプル品をひょいと奪い取り、手にしていた売り物の眼鏡をひょいと耳に引っ掛ける。文字通り、目にも留まらぬ早業でもってかえ替えさせられ、思わず言葉を詰まらせた土方を一瞥するや、薄い硝子の向こうで石榴色の双眸が煌いた。
「おおおおおっ!!すっげ似合ってんじゃん!やっぱ俺の見立てに狂いはねぇな!」
ほらお前を見てみろよ、と能天気に笑った男が、傍にあった大判の手鏡をひょいと持ち上げ土方の眼前につきつける。
すればそこにあったのは、細い銀フレームに長方形型の眼鏡をかけた、知らない男の姿だった。
まるで別人のような鏡の中の自分を呆然と見やっている間にも、銀時は店員とさっさと話を進め、気付けば懐の財布から紙幣を取り出していた。
「…っておいぃっ!だから何勝手なことしてやがる!俺ぁこんなもんいらねぇつってんだろ!」
「店ん中で騒ぐなよ。周り見てんぞ」
お前、タダでさえ目立つのにという銀時の台詞に、はたと我に返った土方が周囲を見回せば、そこそこ拾い店内からは客や店員の好奇の視線が此方へと向けられていた。
「っ……!」
私服とはいえ、顔も名前も売れている上帯刀している自分と、見るからに目立つ風体の妙な男。
連れだっているだけというだけで、その関係まで知られるはずがないと分かっていても、妙な後ろめたさに思わず二の句に詰まり口篭る。
その隙に、銀時はあっさり支払いを済ませると、かけられた眼鏡を外すことも出来ず立ち尽くす土方の腕を取り、店を後にした。
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ガヤガヤガヤと、休日の昼間らしい周囲の喧騒が耳へと響く。
その音は先刻までと何ら変わらぬ、雑多なかぶき町のそれなのに、目に映る光景はまるで違うもののようで、土方は初めて上京してきたときのように、知らず周囲を見渡していた。
そんな土方に、一歩先を歩く銀時がちらと振り返り声をかける。
「どうだ土方。あの看板、今度は見えるか?」
そう言って銀時が指差したのは、先刻通った甘味屋の黒い立て看板で。
いつの間にか元の位置まで戻っていたらしいそれを、さっきとほぼ同じ場所から眼鏡越しに映し出せば、そこに書かれた文字が驚くほどくっきりと読み取れた。
「土方?」
「……ああ、読める」
見るからに甘そうで、俺の口には合いそうにねぇな、と呟けば、一瞬僅かに眉根を潜めていた男が、安堵したように相好を崩して笑う。その屈託の無い笑顔に、眇められた赤い瞳に、胸の奥がちり、と焦げ付いたような気がして、土方はふいと顔を背け口を噤んだ。今下手に何かを言えば、酷く嫌なものが、喉奥から吐き出されてしまいそうだった。
だというのに、目の前の能天気な綿飴はそんな土方に気付く様子もなく、何が嬉しいのかへらへらと笑ったままで。
「いやぁ、よかったじゃん多串くん。お前折角可愛い顔してんのに、年寄りのじーさんみたく目ェ細めてたら勿体無ぇからな」
いい買い物をしたと告げる男が、何か食おうかと斜め前方を指差し問いかける。例の甘味屋は嫌だと告げたからか、その指の先にあったのは見慣れた定食屋の看板だった。
薄い硝子越しにくっきり見える、『一汁三菜』と書かれた文字。この眼鏡を外せば途端ぼやけてしまうだろうそれを、けれどこの男は何の苦も無く読むことが出来るのだと思ったら、胸焼けにも似た可笑しなものが、胸中に込み上げて。
「なぁ土方、あの店でい」
「行かねぇ」
次の瞬間、気付けば土方は、濡れた氷が喉を通るように男の言葉を遮っていた。
へ、と酷く間の抜けた声を漏らした男が、石榴色の双眸を大きく見開く。普段半分程しか見えていないその光彩がくっきり露になることにさえ、苛立ちが込み上げるのを抑えられない。
どうして。
「……気分、いいかよ」
「は?」
「てめーの視力の良さをひけらかすのは、気分がいいか?俺より自分の方が優秀だって見せ付けるのは、楽しいか?」
「は、あ?ちょっ、おい土方、お前、何言って……」
まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう、珍しく本気で狼狽したような男の声に、僅かな悔恨が胸を灼く。
分かっている。この男がそんなつもりで自分をあの店に連れ込んだのではないことぐらい。土方のために良かれと思い、甘味屋フルコースに十回は通えるだろう身銭を切ってくれたことぐらい。
けれどそれでも、男として武士としての土方の矜持が、ギシギシと嫌な軋みを上げるのだ。
「っどうせ、俺はてめぇに一度も勝てたこたねぇよ。当たり前だよな、てめぇにゃ見えてたもんが、俺には見えてなかったんだから。俺はてめぇに劣ってんだからよ」
その感情に名前をつけるとしたら、それは―――…嫉妬。
「お、おい土方!なんか誤解してねぇか!?俺ぁただ」
「うるせぇっ!!」
気付き無くなかった自分の中の醜い感情に苛立つように怒鳴りつければ、周囲の視線が一瞬土方に集中する。だが、当の土方はそんなものになど構いもせず、かけられた眼鏡を毟り取り、男へと投げ付けた。
「いらねぇよこんなもん!てめぇにこれ以上借り作るのも見下されんのも真っ平御免だ!」
驚いたように目を見開く男の胸元に当たったそれが地面へ落ちるのを見るより早く、土方は踵を返し男に背を向け駆け出した。
そのまま、人込みの流れに逆らい大通りを外れてゆくのにも、背後から追いかけてくる気配はなく。
「……っは……」
そうしてやがて、商店から外れた川沿いの土手まで辿り着いた辺りで、ようやく土方は足を止めた。急に走ったせいだろうか、ドクドクと心臓が大きく脈打っている。
だが、上がった息を整えようと数度大きく呼吸を繰り返せば、左胸が徐々に落ち着きを取り戻し、頭に上った血が下がり始めた。
そうなれば、熱さをなくした胸に残ったのは、後悔とも寂寥とも取れぬ、言い様のない感情だけで。
「ち、くしょ……」
土方の歩調で十歩分程度の幅を流れる浅く澄んだ川の流れを見るともなしに眺めつつ、土方はぽつりと呟き知らず奥歯を噛み締めた。そのまま、ふらりと引き寄せられるように土手へ下り、自身の膝下辺りまで伸びた草の茂る傾斜の中程へと越しを下ろす。
近くなった青草と土の匂いに、ほんの少し冷静さを取り戻せば、途端胸中に苦い後悔がじわりと染み出した。
「……またやっちまった、か」
仲間内をして、瞬間湯沸かし器と言わしめる己の性格に、我ながら呆れの言葉が思わず漏れる。
どうしてこうなってしまうのだろう。偏屈で意固地で、些細なことですぐにカッとなる。生来の性格と言ってしまえばそれまでだが、『副長』としてならまだ幾らか働くはずの理性だとか我慢だとかいうものが、あの男相手だと途端どこかへ消えてしまう。
見縊られたくないのか、対等でいたいのか、それとも―――…なんだかんだと言いながらも結局最後には許してくれる恋人に、『我侭』を言って甘えているのか。
なんにせよ、そのせいで今日の逢瀬はお破算だ。
折角、恋人と過ごす久々の休日だったのに。折角、あの男が自分のためにと買ってくれたのに。
土方の脳裏に、眼鏡を投げ付けた瞬間の男の顔が浮かび上がる。あの場に置き去りにされた男は、一体何を思っただろう。怒っただろうか、呆れただろうか、それとも、悲しんだ、ろうか。
「って、俺ぁ悪くねぇ!いらねぇつったのに無理矢理あんなもん寄越したあの馬鹿が悪いんじゃねぇか!」
そうだ。あいつがまるで、鬼の首でも取ったかのように、これ見よがしにあんなものを寄越したりしなければ。視力が落ちていたなんて、そんな余計なことを気付かせなければ。この胸に、あんな嫉妬の棘を刺さなければ。
そう思い、男に責任転嫁しようとするのにも、鬱々とした気持ちは晴れなくて、土方は諦めたようにゴロリと仰向けに転がった。
途端視界一杯に広がる、春らしい澄んだ蒼。柔らかい日差しがぽかぽかと暖かくて、まさに絶好のデート日和だ。
だというのに、こんなところにたった一人で、自分は一体何をしているのだろう。
「……ちくしょう、クソ、馬鹿天パ」
こんなことになるんなら、詰らない意地など張らずジッポでも何でもとっとと買って貰っておけば良かったとふいに思って、土方は自嘲の形に唇を歪め、ゆっくりと瞳を閉じた。
馬鹿は俺だ。過ぎたことをどれだけ悔やんでも、取り返しなどつかないのに。
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さわさわと、頬を風が撫でている。
暖かく柔らかくその感触と、鼻腔を擽る青草の匂いに、懐かしい故郷の光景がふと胸中へ蘇り、誘われるようにゆっくりと瞼を押し上げて。
「お、起きた?」
「っ!?」
その瞬間、頭上から耳朶へと吹き込まれたその声に、遠い郷愁など一瞬で吹き飛んだ土方は、バネ仕掛けの人形のようにガバリと上半身を起き上がらせた。
そうして反射的に隣を見れば、そこにあったのは土手に腰掛け、此方を見やる石榴色の双眸で。
「なっ…なんで、てめっ……!」
一体いつからここにいたのか。どうしてここが分かったのか。
いつの間にか寝入っていたことにも驚いたが、それより先刻自分が置いてきたはずの銀髪がすぐ隣にいることに、土方は大きく目を見開いた。と同時に、別れ際自分がしたことを思い出す。
だが、土方を見つめて小さく笑う男の表情に、理不尽な恋人に対する怒りの色はなく。
「お前、すねたら人気のないとこ行く猫みてーなクセあるからさ。多分この辺かなーと思って探してみたら大当たりで、それはよかったんだけど、見つけてみたら土手に仰向けで倒れてんじゃん?まさか誰かに襲われでもしたのかと、一瞬思って」
少しだけ、ちょっとびびった、と呟いて男が笑う。
黄昏色にも似た深い紅色の双眸に浮かぶ、どこか遠くを見やるような男の眼差しに、吸い込まれるように土方は一瞬状況も忘れ見入っていた。
と、ふいにその視線が逸らされ、男の瞳が眼下を流れる川へと向けられて。
「―――…昔、さ。いたんだよ、お前みてぇのが」
降りしきる豪雨の中から飛んでくる矢を見分け、叩っ斬れるほど目が良かったのに、いつの間にか視力の落ちちまった野郎がさ、と告げる思いもかけないその台詞に、それが攘夷時代のことだと一拍遅れて気がついて、土方は大きく目を見開き息を呑んだ。
この男が、かつて天人との戦に関わっていたということは暗黙の内に知っていた。重ねた肌に残る、カタギでは有り得ない傷跡に指を這わせ、夜中魘される男を揺り起こして抱き締めたことも幾度もある。
けれど、面と向かって銀時がそのことを口にしたのはこれが初めてで、だからどう返せばいいのか分からず言葉に詰まる土方に、しかし銀時は気にした風もなく尚も続ける。今はもう薄くなった古傷を眺めるような表情で。
「腕の立つ奴だったし、割とよく組んで戦ってたんだけどな。でも俺は、あいつが遠くのもんを見分けらんなくなってたことに気付かなかった。あいつ自身も、気付いてなかった」
そして、気付いたときには全てが遅かった。
「……敵さんがな、丘の上から鉄砲構えてやがったんだ。でもそれは俺からしてみりゃ丸見えだった。咄嗟に、傍で戦ってたあいつに向かって叫ぼうとして、けど、あいつも同じ丘の方を見てることに気がついた。そんとき、俺は思ったんだ、あああいつも狙撃手に気付いてるって」
そう判断し、声を張り上げるほんの僅かな労力を惜しんで敵に向かって刀を振るった、その瞬間だった。
「パァンって、音がしたんだよ。紙風船を勢いよく潰したような、乾いた軽い音。辺り一帯、敵も味方も入り混じった泥沼の戦場で、怒号に悲鳴、刀のぶつかり合う音やら大砲みてぇなもんがぶちかまされる音やらでそりゃもうひでぇもんでよ、耳なんかほとんど馬鹿んなってたのに、その音だけは何でか妙にはっきり聞こえたんだ。それで、咄嗟に音のした方を振り向いたら、あいつがどてっぱらから血ィ噴き出して倒れてくとこだった」
「…ぎ……」
「あいつの傍に、鉄砲持った敵なんていなかった。だからそれは丘の上から撃たれたんだとすぐに分かった。分かって、周りの連中薙ぎ倒して駆け寄って抱き起こして、でもあっという間に流れ出してく赤い血に、ああもう駄目だってすぐ分かった。分かって、そんで、何で避けなかったあそこに敵がいただろうって思わずそいつに怒鳴りかかった」
死に掛けてんのにひでぇ話だよなぁと男が笑う。けれどもそれに、土方は同じように笑みを返すことは出来なかった。その脳裏に、戦場の只中で崩折れた仲間を抱え慟哭する白い男の姿が浮かび上がる。泣きそうな顔で怒鳴りつける、酷く見慣れた男の顔が。
「そしたらあいつ、血の泡吹きながら言ったんだよ。そんなの、見えなかったって。見えなかった可笑しいな、あの丘、霧でも掛かったみてぇにボヤけてたからって。そんで……ああ、失敗したなぁって少し笑って、事切れた」
そのときになって、初めて男の視力が落ちていたことに気がついた。
自分に当たり前に見えているものが、あの男には見えなくなっていたのだと。
「もし、なんて言っても詮無ぇ話だがよ。それでも、もしそのことにもっと早く気付いてたら、きっと俺はあのとき声を張り上げてた。丘の上に敵がいる、危ねぇ避けろって。そうすりゃ多分、あいつはあの時死なずに済んだ」
勿論それが、都合のいい想像だということは分かっている。自分が声を上げても、結局撃たれていたかもしれない。あの場で死ななくとも、どこかで誰かの凶刃に斃れていたかもしれない。
それでも、潰してしまった可能性に、あの瞬間の己の判断に、いつまでも後悔が付き纏うのだ。まるで、雨の日に鈍く疼く古傷のように。
「だから、さ。同じことはもう、繰り返したくねぇんだわ」
自分が何もしなかったせいでまた失って、また後悔するのは御免なのだと笑う男が、懐から取り出した眼鏡を虚空へ透かす。今にも折れそうな細い銀フレームの端が陽光を反射し、キラリと光るのを見上げ、銀時は僅かに目を眇めた。
その薄い硝子の向こうに何を見ているのか、土方には分からない。けれど。
「……俺に、んなもんかけて討ち入りしろってのか」
「ちげーよ。ガキん頃から慣れてる奴ならともかく、いきなり眼鏡なんぞかけて戦っても違和感バリバリで逆効果だろ。そうじゃなくてな、要はちゃんと分かっとけっつーこと」
お前も、お前の回りも。
「そうすりゃ、てめぇももっと色々注意を払うようになるし、ゴリやらサドやらジミーやらがそのことを知ってりゃ、何かとフォローもしてくれる。特にジミーなんか、昭和のオカン並に色々世話焼いてくれそうじゃん。今は昔と違って、滅多なことじゃズレねぇコンタクトとか、レーザー何たらで視力回復する手術とかもあるらしいし」
「俺ぁそんなこと望んでねぇ」
「うん、知ってる」
それでも、と男が笑う。首を傾げて土方を見やる紅い瞳が、灯火のようにゆらりと揺れて。
「死んじまったら、喧嘩も仲直りもできねぇから」
だからこれは、俺の単なるエゴなんだけどと前置いて、男が告げる。
「付き合って丁度一年のこの日にさ、俺がちゃんと稼いだ金で、少しでもお前を守ってやれるようなもんを寄越してやれたならすごく嬉しい。それでお前の身体につく傷がほんの一つでも減るんなら、団子の十本二十本三十本くれぇ我慢してやらぁ」
「あ……?」
その台詞に、土方はようやく銀時が今日に限って何か奢ることにやけに拘っていた理由に気がついた。そうして、気付いた瞬間、かっと頬に朱が疾走る。
「っ馬、鹿じゃねぇのかてめぇ!そんなことのために、わざわざっ…!!」
付き合って一年?そういえば確かに、この男とこういう関係になったのは、綿菓子のようなその髪に、気の早い薄紅色がはらはらと舞い落ちて絡みつく時節だったと記憶しているが。
だが、誕生日やら季節の行事事ならともかく、燃えるゴミの日すらあっさり忘れるこの男がそんなある意味最も忘れやすい日を記憶しているなんて思ってもいなかった。自分でさえ、言われるまで―――…否、言われた今でさえ、日付など思い出せないままだというのに。
だというのに、何でどうしてこの馬鹿は。
先刻までとは違う、けれどもやはり胸を掻き毟りたくなるようなものが込み上げてくる感覚に、思わずぐ、と唇を噛み締めた土方の耳に、スッと眼鏡の蔓が掛けられる。
薄い硝子の向こうに映った、雪兎のようなふざけた色彩の男の頬が、ほんの僅かに熱を帯びて。
「ま、それによ。これからデートんときこれ掛けてりゃ、どんだけ遠くからでも愛しい恋人の男前な顔が一発判別出来るだろ?」
流石に少々気恥ずかしかったのか、誤魔化すようにわしゃわしゃと天パをかき混ぜ、殊更揶揄うような声音で告げる男に、ふざけるな誰が男前だといつものように突っ込むのはきっととても簡単だった。そうすれば、色々なものを誤魔化せることも分かっていた。
けれど、何故だか今とても胸が熱くて。喉元を通り過ぎ眼窩まで駆け上がったその熱い何かが、今にも溢れ出してしまいそうで。それを、この馬鹿な男にどうしようもなく伝えたくて。
「―――…よく言うぜ。テメェはいつだって、俺の一番近くにいるじゃねぇか」
眼鏡なんざ、てめぇ見るのに何の役にも立ちゃしねぇ、と。
そう告げて、身を乗り出しその薄い唇に己のそれを重ねれば、どこまでもクリアな視界の中、どこまでもふてぶてしいはずの男の顔が、一気に紅くなったものだから。
どうやら、この男にかかっている色眼鏡は相当度がきついらしいと少し笑って、土方はそのままそっと男の背に腕を回し、瞳を閉じて口付けを深くした。
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