NaokiTakahashiの日記(閉鎖) このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2009-12-18

しゅーりょー。

正直、彼らと議論を続ける意義を感じません。もう手を引きます。

もう今後一切彼らと表現規制についての議論はしないし、彼らの政治思想に言及することもしないつもりです。その意義も感じません。

ぶっちゃけ、そろそろ本気で仕事しないとまずいしね。

最後に、hit-end-runさんとの以下の会話の中で、この辺は語る意義があるかなあと思ったので、書いておこうと思います。

http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20091217/p1#c1261021969

hit-and-run ああ、わかりました。倫理的に問題がないと思って陵辱エロゲを作ってるわけじゃなく、倫理的な問題があると知っててあえて陵辱エロゲを作ってるわけね。これで大分見通しが良くなりました。お答えありがとう。

NaokiTakahashi 見通しって言われてもなあ。まあ、何か分かったんならそれでいいけれども。倫理的に問題があるフィクションをきちんとフィクションという枠の中で作る/受容することは、倫理的に問題がないと考えているよ。それは、作品自体に倫理的に問題があることとは別問題。倫理的に問題のある作品を、カッコに入れて(個人のご勝手レベルで)楽しむ知性が必要だということね。

hit-and-run え?じゃあサザエさんの家父長制を批判する話はどうなるの?

NaokiTakahashi それは作品批評でしょ? まさか、それでサザエさん視聴者や長谷川町子批判をするつもりだったの?

hit-and-run 逆に、フィクションでありさえすれば、作り手の責任は一切問われないって考えるの? 反ユダヤ映画は批判すべきだがゲッベルスイノセントだと。

NaokiTakahashi なるほどね。そういう発想なわけですか。エントリを挙げます。多分これがこの話題の最後のエントリになると思う。

最初に落ち穂拾いをしておきます。ゲッベルス作家としての責任を問われているわけではないでしょう。この場合、レニ・リーフェンシュタールのほうが適切な例示ではないでしょうか。

彼女が撮ったのは記録映画であって劇映画ではありませんので、やや違う問題ではあるのですが、であっても、映画作品という形を取っている限りにおいて、単にリーフェンシュタールを悪だと決めつけることが絶対的に正しいのかは僕には正直疑問ですし、実際その点については様々な議論があると思います。

ところでhit-and-runさんはD・W・グリフィスの「國民の創生」というアメリカ映画をご存じですか?

映画の父」と称えられるグリフィスと「ナチの協力者」として死ぬまで断罪され続けたリーフェンシュタールの違いは、なんだったのでしょう。劇映画と記録映画の違いなのか。アメリカとドイツの違いなのか。それとも、勝ったか負けたかの違いなのか。……最後のは、敢えて書きますがね。本来ならこういう考え方はよくないとは思うのですが。

とりあえず言えることは、どちらも歴史に残るレベルの天才映画監督だということですね。

閑話休題

ナナシナナシ 2009/12/18 00:04 お疲れ様でした。

「表現は自由でなく、問題のある表現は常に規制されるべき」
という論調と、
「表現は自由であり、規制は個々の要件や法律に合わせて判断されるべき」
という論調は決して交わらない、という一つの結果ではないでしょうか。

リベラル系の方々は、いわゆる職業差別や女性に対する偏見といった万人にわかりやすいマイノリティを保護するのは好きですが、性嗜好のようなわかりづらいマイノリティは単純に嫌いだという一つの証拠でもあります。
自分が気に入らない表現を「気に入らない!」「規制するべき!」と堂々と叫べるのも、表現の自由なんですけどね。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/18 00:09 「国民の創生」は散々叩かれてると思うが。制作に携わった人も含めて。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/18 01:07 たとえば。
http://www.enterjam.com/podcast/tokuden/tokuden013.mp3

coldleafcoldleaf 2009/12/18 04:41 当然倫理の議論の範疇において叩かれてはいますし、今の時代に手放しに歴史的注釈無しに賞賛する人は珍しいでしょうが、それと同時に(当事国の)アメリカではアマゾンで普通に購入可能な作品でもあります>The birth of a nation。

>アメリカとドイツの違いなのか

経験論的なものいいしかできなくて申し訳ないのですが、ぼくは数年前いわゆるラディカルな黒人権活動をしてる知人数名と付き合いがあり、実際この作品についての話したこともあるのですが、少なくともその知人らはそうした「負の遺産」はむしろ積極的に多くの人に知られるべきだという考えを持っていました。Freedom of speechという言葉自体への、文化による印象の違い、というのもあるのかもしれません。こちらでは言論・集会等の自由は(無論KKKが政治団体として現在も活動している理由でもありますが)基本、マイノリティが権力やステータス・クウォーに対抗するために行使されてきた権利なので、そういった文化的な背景の違いもあるかもです。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/18 07:58 国民の創生」は制作当時から今に至るまで叩かれ続けていますが(でも大ヒット作品です)、グリフィス本人は、リーフェンシュタールほどには叩かれていないように思います。
国民の創生が「まだ買える」ということが、アメリカのすごいとこだなあと僕は思いました。もちろん、みっちり注釈付で売った方がいいとは思いますが。さすがに。

coldleafcoldleaf 2009/12/18 09:45 ちなみにTriumph of the willも売ってました(笑

>もちろん、みっちり注釈付で売った方がいいとは思いますが。

日本で売るならば、という話ならそうかも知れませんね。ただ、こちらでの話なら、そういう注釈はおそらくついていないと思いますし、その必要も無いかと。2009年現在において、もはや純粋なエンターテイメントとしての影響力(煽動力)はとうに失っているこの100年前の骨董品をわざわざ手に取るような人が、その文脈に無知・無自覚であるとは考え難いからです。意思の勝利にも同じことが言えるかと;入手は可能、というだけで、レンタルビデオ屋のカウンターに積まれてるとか、子供がうっかり手に取ってしまうような場所に置いてあるわけでもないですし。

すいません、ちょっと思いついたことがあって、脱線したまま勝手に喋ります;適当に絡むなりスルーするなりしてください(笑

若年層への配慮、まあゾーニングやレイティングといった話題で、ぼくがいつも考えてしまうのは実は児童文学のことだったりします。具体的には、ドリトル先生シリーズのバンポと、二年間の休暇のモーコー君のことを考えてしまうんです(どちらかでもご存知なら話は早いのですが、両者とも、明確な偏見をもって作中で描写されている黒人キャラクターです)。ぼくも一応表現者の端くれであり、Freedom of speechに関してはガチにキリッ的なポジションの人間ではあるので「焚書」という選択は有り得ないのですが、ただ国民の創世と異なり、子供のために書かれたこれらの作品は「子供は見ちゃだめよ」というゾーニングが実質的に作品の死になってしまうところがジレンマと感じています。ぼくが仮に誰かの親的な存在になるとして、ドリトル先生を買い与えることはおそらく無いだろうとは思うのですが、反面、ぼく自身、子供時代に空想物語や冒険物語に逃避するようなタイプで、これらの作品に「救われ」もしたので、それを今現在の子供たちから奪う権利がぼくにあるのだろうか、とも思います。あと、今ぼくここでは「ええ、子供の頃はそうやって無邪気に楽しんでましたが、今は大人なんでちゃんと歴史的な文脈とか理解してますよ、ふふん」的なことを言ってるわけですが、若年層への配慮を根拠にこれらの作品を子供たちから隔離するということは「(俺はいいけど)おまえらは勘違いしそうだから読ませない」という、子供たちに失礼というか、バカにした態度でもありますし、この件に関して、個人的に明確な答えが出せないでいます。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/18 09:55 ああ、確かに。サイレントですしね。分かってて買う人しかいないような気はしますね。「意志の勝利」はドイツでは上映禁止だけど、他の国だと買えますね。

児童や青少年の教育絡みの話になると、僕も悩んでしまうところで。子供達相手ならメディア規制は妥当なのか。教科書に載せる題材くらいは選んでもいいと思うんだけど、市場においてそれが正しいのかは悩みます。キリッってしたいけど、どうなんだろう。子供の自己決定権と子供の保護の問題なんでしょうか。そこでどちらに付くにしろスパっと物が言えないのは、自分が18禁メインだからその辺突き詰めてない面もあるし、実際難しい問題でもあるんだろうと。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/18 14:55 「芸術性ゆえに作品のもつ差別性は免罪されない」と考える人と「芸術は芸術としてのみ判断すべき」という人の対立だったのか?…でもないよな。高橋さんは芸術的じゃないから規制されてもいい、とは考えないでしょう。こちらは差別性を問題にしているので芸術か否かはハナから論点じゃない。問題は「時代の制約や限界は括弧に入れて」ところか。この言葉、表現を享受する側に全責任を押し付けた上で、しかも享受者の批評や感想を発するのを封じ込めているようにしか読めないんだけど。なんでそんな「ヒモ」をつけられなくちゃいけないの?
俺が高橋さんの意図を上手く読み取れてないのかな?
さて、『国民の創生』も『意志の勝利』も、作品そのもの・製作した人物とも現在に至るまで批判され、なおかつ売れ続けている。ここで、これらの作品を法的規制しろ、なんて話があがれば私は反対する。でも、作品内容や製作者に対しては批判的でありつづけるだろう。
で、もしグリフィス作品の方がリューフェンシュタールより問題にすべき内容なのに、これまでリューフェンシュタールに比べると十分に批判されてこなかったとすると、今度はそうした批評者がわが時代や政治状況の制約・限界から免れていなかったことが批判の対象となるでしょう。もちろん「誰に石を投げるかは自分で決める」のが前提だけど。
んで、書いてきて気づいたんだけど高橋さんがフィクションとノンフィクションを厳密に区別する理由もわからなくなってきた。「作品限界があったとしても括弧に入れろ」という主張はフィクションのみに適用すべきなの?
たとえばノンフィクションや評論文、演説などに表れた差別性は時代の制約を考慮に入れず批判しても構わないが、小説や映画はそうすべきではないって理由がわからないな。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/18 15:37 芸術性に言及してるのはhit-and-runさんであって僕ではないのですが。この話に芸術性のあるなし高低は関係ありません。カテゴリとして「フィクション」という枠に入っているかどうかの問題です。その辺で、劇映画と記録映画じゃ違うという可能性もあるかとは思ったのですが、そういう論じ方をしてる人はいるのかな。その辺は未整理。

>この言葉、表現を享受する側に全責任を押し付けた上で、しかも享受者の批評や感想を発するのを封じ込めているようにしか読めないんだけど。なんでそんな「ヒモ」をつけられなくちゃいけないの?
意味が分かりません。テクスト論が読者にどんな紐を付けると言うんでしょうか?

>ここで、これらの作品を法的規制しろ、なんて話があがれば私は反対する。
「意志の勝利」の上映はドイツでは違法だそうです。それが「戦う民主主義」です。貴方は反対するということですね? しっかり反対してくださいね。

>「作品限界があったとしても括弧に入れろ」という主張はフィクションのみに適用すべきなの?
意味が分かりません。もしかして、貴方は本気で、虚構と現実の区別が付かない人なのですか?

>たとえばノンフィクションや評論文、演説などに表れた差別性は時代の制約を考慮に入れず批判しても構わないが、
貴方がどうかは知りませんが、例えば社会は文芸と報道を分けて扱うのですよ。虚偽報道には問題がありますが、虚偽小説には問題はありません。ジャーナリストと小説家は違うんです。
ノンフィクションはボーダーラインかもしれませんね。村上春樹の「アンダーグラウンド」は文芸なのか報道なのか。責任をどう考えていいのかは曖昧です。
創作表現の自由に比べて、報道・言論の自由に関してはみなさん大変にセンシティブです(それ自体はいいことです)。最近だとWHOの自殺報道に関する勧告をどう扱うかの議論を読みましたね。国が上から指導するのは報道の自由に抵触するから、業界が自主的に基準を作らなければいけない、みたいな繊細な話になってます。うちの業界は議員一人の脅し一つでお気楽に揺らぐのにね。報道が的にさえならなければスルー、なんてよく揶揄の対象にもなってますね。
都合のいいときだけ一緒にされてもな、と思います。絵空事は絵空事としか扱われないけど、絵空事としての責任しか負いません。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/18 17:54 高橋さんのそのこだわりがどうしてもわからないな。
差別主義者や殺人鬼、レイピストなどが登場する、ただそれだけのフィクションなら私は批判しようと思わない。
しかし、(それらの登場人物がいなくとも)差別的な意図をもって作られたり、主観的な意図がなくとも結果として差別的な価値観を流布したり、再生産するようなら、それがフィクションであろうとも批判を受けるのは当然じゃないの?作品だけでなく、作家個人が批判される場合だってあるだろう。
サザエさん批判はそういう文脈で出てきたんだと思ったんだけどな。
高橋さんは、創作物が現実世界に生きる我々に、なんらかのパワーを与えたり、新たな問題提起を行うなんてことはありえない、あるべきではないって考えてるのかな?

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/18 18:22 >差別主義者や殺人鬼、レイピストなどが登場する、ただそれだけのフィクションなら私は批判しようと思わない。しかし、(それらの登場人物がいなくとも)差別的な意図をもって作られたり、主観的な意図がなくとも結果として差別的な価値観を流布したり、再生産するようなら、それがフィクションであろうとも批判を受けるのは当然じゃないの?

問題なのは「意図」ではなく「効果」「機能」「結果」だし、作品がどのように機能するかは作品だけが決めるのではなく、それが置かれる社会状況や、それを受容する読者の資質、それと、これはフィクション云々で関係してくると思うんだけど、受容する際の文脈によって、大きく変化する。
その責任を作品やましてその書き手に集約するなんてバカらしい発想です。
ここまで素朴な発想で、しかもなぜか上から目線で説教されると、なんというかちょっと腹は立つんですがw ムカっときたのと、短く説明しようとしてかなり何度も書き直してますw
前に思ったときには流したけど、やっぱその水準ではまずいと思うから突っ込みます。誰かと議論をする前に、もうちょっと勉強してきたほうがいいと思う。とりあえずテクスト論とかとか調べてみたら。あとまあ、漫画評論の本なんていっぱいあるから、何冊か読んでみたらいいと思う。キーワードとしては、カルチュラルスタディーズとか、メディア効果論とかかな。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/18 18:34 あとまあ、分からないといえばこだわりが分からないのはむしろこちらのほうで、貴方はなぜ絵空事をあげつらうことにそこまでこだわるのですか? 差別をなくしたいなら他に現実にやるべきことはいっぱいあるんじゃないですかね?
一方で僕がフィクションの責任にこだわるのは当然でしょう。僕自身フィクション作家なんだから。自分のことですからねえ。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/18 20:35 作者に【のみ】責任があるとは言ってません。
むしろ、高橋さんの方がすべての責任を読者に預けてしまってると思う。読者の数だけ解釈があるとか、どのような解釈も妥当であるっていうのはポストモダンの中でも極端な立場でしょう。
私が不勉強なのはそのとおりですけど、高橋さんは創作物を批評する際、インターテクストとかサブテクストといったものは考慮しないんでしょうか?だとしたら(時代状況や製作サイドの事情、消費のされ方等々まで考慮に入れるべし、という)「サザエさんの読み方」で高橋さんが書いたこととは矛盾するのではないでしょうか。
で、サザエさんが家父長制の再生産装置であるにしろ、職業夫人の応援歌であるにしろ、やはり公然と批評・批判されてるわけです。だったらなんで『レイプレイ』は性暴力を快楽と消費する価値観の再生産装置だ、と批判するのはなんでダメなの?
「批判されるべきところのある作品は、そういう作品として扱われ、そういう風に読まれ」、やはり批判されるんじゃないの?
どうして陵辱エロゲは批判するな、みたいな展開になるんだろ。

傍聴席傍聴席 2009/12/18 20:42 >『レイプレイ』は性暴力を快楽と消費する価値観の再生産装置だ、と批判するのはなんでダメなの?

いや、だからそこに政治が介入するのは違うだろって一貫した議論だったはずでしょ?
だれも批判するななんて言ってないのに、ここにきて都合よく誤読するのはいかがなものか

hit-and-runhit-and-run 2009/12/18 20:46 なんで、僕が批評・批判したら政治介入になるの?

傍聴席傍聴席 2009/12/18 20:51 端から誰もあなた個人の批評や感想自体に文句は言ってないよw

傍聴席傍聴席 2009/12/18 20:54 ただ、レイプレイを例に挙げたってのはそういう文脈でしょうに…

hit-and-runhit-and-run 2009/12/18 20:56 だから政治介入を防ぐために、権力から離れたところで議論を戦わせる必要があるんじゃん。
それが自治だし、モアスピーチなんじゃないの?

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/18 21:00 >『レイプレイ』は性暴力を快楽と消費する価値観の再生産装置だ、と批判するのはなんでダメなの?
だから、それは作品批評でしょ? と言ってるんだけど、なぜ通じないんだろう。不思議すぎる。
ゲッベルスを例に挙げてる時点でどう考えたって社会的に糾弾する話をしてるんであって、それは作品批評じゃないでしょ。

YagokoroYagokoro 2009/12/18 21:47 あー、hit-and-runさんは、ひょっとしてレイプレイ騒動を知らずに書いてるっぽい?一連の文脈は、端っから表現への法規制要求に対する反論なんだけどな。作品批判は好きなだけすれば良いけど政府に法規制を要求するなって主旨の。本来ならメディア効果論あたりが主戦場になりそうな議論なんだけど、なぜか全くそうはならなかったという…。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/18 21:49 話を収束させたいので、広がっちゃいそうなのを書いたけど消しました。
一つ言うことがあるとすれば、エロゲにしろ漫画にしろ、そういう美学や批評によって作品や作家に排除圧が働くような仕組みは今までなかったしおそらくこれからもないだろうってことね。これは、大衆サブカルチャーだからこそだろう。例のミスコンの帯職人の話みたいにはいかない。
所や場所が違えば、作品のはらむ社会思想上の問題を批評的に糾弾し作家が排除されるようなこともあるのかもしれないけど、少なくとも日本のサブカルにはそんなことはないはず。
だから、hit-and-run氏のやりたいことが、僕の言っているような批評方面の考察であるのなら、それは作り手の責任を問うことにはまず繋がらない、ということ。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/18 22:16 いや、こちらは作家や作品に全責任を負わせようとは考えていない。でも高橋さんは作家には全く責任はないと考えてるってこと?
高橋さんの芸術作品も高橋さんの自由意志から全く離れて、社会状況が生み出したものなの?
「俺は悪くない、みんな社会が悪いんだ」みたいだなあ。高橋さんがそう考えてるなら仕方ないけど。

>問題なのは「意図」ではなく「効果」「機能」「結果」だし、作品がどのように機能するかは作品だけが決めるのではなく、それが置かれる社会状況や、それを受容する読者の資質、それと、これはフィクション云々で関係してくると思うんだけど、受容する際の文脈によって、大きく変化する。

僕もエロゲ製作者が性差別を強化しようという意図があって作品作ってるとは思わん(意図が全く問題にされなくていいとまでは断言しないが)。まさに陵辱エロゲの効果や機能や結果について論じている。
それから、あなたは「なぜ絵空事にこだわる」と聞いたけど、「作品がどのように機能するかは作品だけが決めるのではなく、それが置かれる社会状況や、それを受容する読者の資質、それと、これはフィクション云々で関係してくると思うんだけど、受容する際の文脈によって、大きく変化する」ことが理由でしょう。陵辱エロゲが社会状況の産物で【も】あるなら、性差別という社会状況を批判するなら、当然陵辱エロゲもその対象になる。
創作が社会状況の産物と言っておきながら、社会状況から作品を分離して批評しろってことなのかな?あるいは「時代の制約だから仕方ない」で済ませろ、と。もちろん、一部のゲームをスケープゴートにしておしまいってわけじゃない。その意味では作品批評ないし陵辱エロゲ批判【だけ】が目的ではないが…高橋さんとしては、それが許せないってことかな?

傍観席傍観席 2009/12/18 22:48 この手の事の発端はいつも突拍子も無い所からなんですよ。
松文館裁判はご存知ですよね。今回もあれと似たような事になってます。
あなたが言うような内容からの社会的影響だの批判から問題提起がなされてるとでも?

>「俺は悪くない、みんな社会が悪いんだ」
社会は知らないけど、行政は問題でしょw
夏の児童ポルノに関する国会審議の酷さは如何ともしがたい。
歴史やメディア効果論のメの字も理解してない議員(どこの誰とは言わないけど)が井戸端会議してる様はあれをみた多くの人を絶望させた思いますよ。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/18 23:08 >「俺は悪くない、みんな社会が悪いんだ」みたいだなあ。高橋さんがそう考えてるなら仕方ないけど。
俺は(ソフ倫的な意味ではなく一般的な意味で)反倫理的な人物が登場しそういう描写もある作品もいくつか書いてるけど、それを書いたことを悪いことだとは微塵も思ってないよ。社会が悪いとも思ってないし、読者が悪いとも思ってない。誰も悪くない。作品の内容がその虚構内において悪いだけだからね。
>まさに陵辱エロゲの効果や機能や結果について論じている。
強力効果論は間違っているらしいです。ポルノが犯罪者を作り出すとは言えない。「機能」「効果」「結果」の話としてはそうなります。

>陵辱エロゲが社会状況の産物で【も】あるなら、性差別という社会状況を批判するなら、当然陵辱エロゲもその対象になる。
>創作が社会状況の産物と言っておきながら、社会状況から作品を分離して批評しろってことなのかな?

それが作品批評とか倫理的批判であるならどうぞどんどんやってください。表現の自由を疑問視したり、法規制論をちらつかせでもしない限りは、素朴な社会反映論だったりマッキノン的な無茶ぶりの言語行為論だったりしても僕は容認しますよ。それは単に出来の悪い批評として扱われるでしょうし、僕もスルーです。
つーか、作ってる連中もプロなんだから、いちいち酷評くらいでオタオタしませんって。どうぞ、こきおろしたいだけレイプレイをこきおろしたらどうです、批評の範囲内で。ちょっと検索すればレビュー投稿サイトもありますよ。そういう倫理方面の批判をやってる人は多分あんまりいないから、ちゃんとやったら目立てると思うけど。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/18 23:56 いや、「悪い」ってのは文字通りの意味じゃなくて(また不用意なたとえを使ってしまった、すいません)…。
高橋さんは「反倫理的な人物が登場しそういう描写もある作品もいくつか書いてる」けど、それは高橋の意思や芸術的感性によって書いたわけじゃなく、現在の社会状況が書かせたものだってことですよね。「今このような形であり、このように機能しているサザエさんを作ったのは、誰なのでしょう?」との問いかけを踏まえると、そうなるはずです。だからこそ、高橋さんは作品に自分の名前がクレジットされていて、作品が社会にもたらす影響についての責任を負いたくないと言ってるわけですよね。著作権はあるのだろうけど。

>強力効果論は間違っているらしいです。ポルノが犯罪者を作り出すとは言えない。「機能」「効果」「結果」の話としてはそうなります。

強力効果論は僕も支持していないし、「ポルノが犯罪者を作り出す」とも言ってません。高橋さん自身は「サザエさんが、家父長制的な社会構造の再生産装置である、と…思っています」と言っているけど、どういうわけか陵辱エロゲに関してはそのような機能や効果は皆無だ、と言ってるんでしょうか?

>それが作品批評とか倫理的批判であるならどうぞどんどんやってください。

やってるんですが。何故かそれが理解されず、「表現の自由を否定している」とか「作者や作品に全ての責任を集約するのか」とか言われて、議論の入り口にも立てない。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/19 00:12 >それは高橋の意思や芸術的感性によって書いたわけじゃなく、現在の社会状況が書かせたものだってことですよね。
書かれたものがどこから来たか、なんてことを僕は気にしません。そもそも僕の書いている日本語だって誰かから教えて貰った物なのですから。オリジナリティとか、作家としての自分の人格を作品に刻もうとか、そういう意識は僕にはないですね。

>「今このような形であり、このように機能しているサザエさんを作ったのは、誰なのでしょう?」との問いかけを踏まえると、そうなるはずです。
まさにそうです。初めて、我が意を得たりな返答が返ってきた気がします。

>だからこそ、高橋さんは作品に自分の名前がクレジットされていて、作品が社会にもたらす影響についての責任を負いたくないと言ってるわけですよね。著作権はあるのだろうけど。
負いたくない、ではなく、そもそもない、のですけどね。僕の考えでは。著作権は、単に商業権だと思ってます。著作権法の理念とはズレてますが、拠って立つ芸術観が違っちゃってるのでそこは仕方ない。

(強力効果論と再生産装置の話)
元々家父長制的なものを愛好する人が、そういうコンテンツを求めることで家父長制を再生産している、ということは言えるかと思います(サザエさんがそこまで意識的かはともかく)。
これは元々そんな素養を持たない人を家父長制的に染め上げてしまう、という強力効果論とは別問題でしょう。

>やってるんですが。
とりあえず、法の議論をしているところに口を挟んだり、不用意に表現の自由に口出ししたり、ゲッベルスなどという明らかにカテゴリミステイクな例示をするのをやめるところから始めるといいと思いますよ。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/19 02:46 >オリジナリティとか、作家としての自分の人格を作品に刻もうとか、そういう意識は僕にはないですね。
>負いたくない、ではなく、そもそもない、のですけどね。僕の考えでは。

高橋さんの考え方は理解しました。しかし、私はそこまで割り切って考えられません。それに「今度の新作も高橋節が効いてるな〜。やっぱり高橋作品にハズレなし」と思うのもファンの自由ですよね。それを高橋さんはお門違いだと感じる、というだけで。それこそ、高橋さんの「意図」に関係なく、作品が「機能」するということでしょう。また、読者が「作者はこの作品に対して責任を持っている」と解釈したとしても文句は言えないと思います。作者にはなんら責任がないけど、読者は「作者に責任を求めるような読み方」をしてはいけないとか、一定の読み方をしなくちゃいけないという責任があるというのは奇妙な話ですから。
いや、それとも読者にのみ「メディア・リテラシー」が要求されるということかな。

>元々家父長制的なものを愛好する人が、そういうコンテンツを求めることで家父長制を再生産している

ラザースフェルドの限定効果説ですね。そういう効果があるならば、サザエさんにおける家父長制を批判する意味はやはりあるのだ、と。だったら、陵辱エロゲも同じことですよね。強力効果がないから批判しない、という話にはならないはずです。また、観察学習についても考慮してみてはどうでしょうか(http://shinrigaku.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-e163.html コメント欄も)
しかし、私個人としては「効果」や「機能」をそこまで狭く、具体的に考える必要はないと考えています。作者の「意図」があろうとなかろうと、作品が差別的な内容であれば「差別的だ」と批判します。実際に読者が差別主義者になるとか、差別主義者が好んで読み差別を再生産するという具体的な「結果」が必要だとは思いません。そして、作者が差別的な意図に基づいて差別的な作品を作るのであれば、作品の差別性も作者の差別性も批判します(もちろん、現代人の立場から、単純に封建時代の作品を「封建主義的だ!」なんて批判するわけではなく、作品が書かれた時代背景や社会状況も考慮しますけど。念のため)。
そして、フィクションであればいくら差別的なことを書いても許されるとは考えません(作中で差別が描かれているということではなく、作品そのものが差別的である、という意味ですよ。念のため)。
だから、グリフィスも『国民の創生』も批判されるべきだと思いますし、現実に今日に至るまで多くの人が批判しています。責任の「重さ」をどう考えるかは人それぞれ違うでしょうし、監督や作品のみではなく、スポンサーや作品を享受した観客達にも相応の責任があると考えている人もいるでしょう。
高橋さんは、そういう人々の行動が理解できない、と。間違ってる、と。

>法の議論をしているところに口を挟んだり

してないと思いますが。法で規制しないが「自治」はする、ということです。「倫理的批判ならどんどんやればいい」と言っているように、高橋さんも法の外に道徳や倫理が存在することは認めていると思います。倫理的批判という点での大きな対立は、倫理的に問題のある作品(「倫理的に問題がある表現が含まれる作品」ではありませんよ、念のため)について、クリエイターの責任はあるか否か、というところです。僕はあると考えますが、高橋さんは「そもそもない」と考えている、ということです。

>不用意に表現の自由に口出ししたり

それはお互い様です。表現の自由は日本国憲法で保障されていますが、法の外にはモラルがあり市民の「自治」があるということです。

>ゲッベルスなどという明らかにカテゴリミステイクな例示をするのをやめるところから始めるといいと思いますよ。

今後、気をつけます。
最後に、Googleブックスで『差別と向き合うマンガたち』という本の一部が読めるのですが、お暇なときでいいので、是非高橋さんに目を通してほしいと思います。気になれば実物も読んでみて下さい。すでに読んだことがあるなら、失礼しました。

coldleafcoldleaf 2009/12/19 04:07 ぼくもこの件に関しては「とりあえず推薦図書みたいなのからは外して、あとは親が子供しっかり教育しましょう」的な何も言ってないに等しいマヌケな結論しか出せないです。いずれにせよ、脱線申しわけず+返信どうもです。

ぼくの最初のポストは「なぜアメリカにおいて言論規制という流れが(被抑圧者側からも)起きにくいのか」(蛇足ですが、例えばフェミニストとひとくくりにいっても、ポルノの法規制に反対するフェミニストは、少なくともアメリカには、沢山います)についてぼくなりの解釈を書いてみたつもりでしたが、「2作品の受け入れられかたの差異はどこから来たのか」という本題にはあまり関係なかったかも知れないなあ、などと思ったので今更ながらそれについて個人的な考えをば。

国民の創生が作られたのはローザ・パークスがバスの席を白人に譲ることを拒否した時より更に半世紀近く前。確かに多大な反発や批判もあったとは記録にあるものの、この時代は黒人のリンチ殺人が珍しくなかった時代。後に撤回しているとはいえ、当時の現役の大統領であるウドロウ・ウィルソンが賞賛したというエピソードもあるみたいですし、ぼくは当時の一般的な映画オーディエンスの空気としては、概ね好意的だったのではと想像します(とくに白人層からの反発の焦点は黒人差別ではなく南北対立であったのではと邪推)。

数年後、十数年後、彼の後に育っていった映画制作者、評論家、業界内外の人々の多くも国民の創生の映像技術に多大な影響を受けたでしょうが、とくに意思の勝利と比較したとき、国民の創生の評価がより確立されているとしたら、要因は作品の質よりもむしろ「時間」ではないでしょうか。どんだけ甘く見てあげても、戦後の市民権運動以前は人種差別は「アメリカのあたりまえ」でしたし、そのような空気のなかで、映画関係者が(括弧のあるなしに関わらず)「国民の創生に影響を受けました」「素晴らしい作品と思います」と公言することは別に難しくなかったはず。意思の勝利はその点、「これは素晴らしい映像ですね」的なことを公言するのが許された期間が実質数年。リーフェンシュタールが(括弧つきで)再評価されはじめたのは戦後何十年も経ってからですし、この時間の差も一要因かと。

リーフェンシュタールに関しては、彼女は一応投獄(のち無罪判決)されていますが、その容疑は少なくとも表向きにはナチ党との関連においてであって「映画を撮ったから」ではないので、そこは(先に例として出た)ゲッペルスと対照的ではありますね。戦争という特殊な状況下に作られたプロパガンダとしての表現という点でリーフェンシュタールと近い立場の人は田河水泡(のらくろ)ではないかと思いますが、彼も(ぼくの知る限りでは)GHQからとくにお咎めがあったわけでもなさそうです。のらくろもかなりエグい感じに煽動的な漫画ではありましたが、仮にどれだけ露骨なプロパガンダであったとしても、戦争犯罪者という意味での責任を表現者に問うことは実例としてはなかったみたいで。いや、個人的にも英断だと思いますがね。

coldleafcoldleaf 2009/12/19 04:57 一連の(ぼくがあまり首をつっこむ気はない・笑)議論に関しては、「自由」という言葉の定義自体が各人で異なるため、議論として紛らわしいので使うのをやめた方がいいのでは、とハタから見てて思ってたのですが、このコメ欄の流れにおいては、「責任(をとる)」という言葉の定義の不一致が、理解の妨げになっている気がします。

俺様定義といわれればそれまでなんですが、個人的には、「責任」という概念そのものにそれを果たさなかった場合の処罰という意味合いが含まれていると感じます。よって、ぼくが(おそらく高橋さん同様)その言葉を使うときは、その「処罰」を施行できるもの、すなわち法なり力なりのニュアンスを意識します。言論権(高橋さんの議論)の文脈では責任の意味は明らかにこちらです。

一方で、作品批評(倫理の議論等)の文脈では、責任を取れ、という言葉(個人的には別の言葉で表現しますが)、これに「自省しろ」以上の意味はないという主張もまあ分かります。英語でも確かにmorally obligated(モラル責任がある)みたいな言い方がありますし。ただ、これは逆に言えば「モラルの」とわざわざ断ってない限りobligation という言葉に「果たさない場合の罰則」という概念は内包されている、ということでもあります。高橋さんの代弁をする気はありませんが、ぼく個人的には、「責任」という言葉単体で後者の意味を推し量るのはわりと努力が必要です。まあ、そういう日本人もいるんです、くらいの意味ですが。          

ぼくはどちらがどちらを最初に誤解した、みたいな話には興味はないんで、あくまでこの場の議論においての定義の再確認、という意味で指摘しておきます。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/19 06:11 hit-and-runさん。
>また、読者が「作者はこの作品に対して責任を持っている」と解釈したとしても文句は言えないと思います。
文句くらいは言えるでしょ。知ったことか、で返しますよ僕は。

>いや、それとも読者にのみ「メディア・リテラシー」が要求されるということかな。
メディア・リテラシーは元々読む方法についての教育でしょう。

>そういう効果があるならば、サザエさんにおける家父長制を批判する意味はやはりあるのだ、と。だったら、陵辱エロゲも同じことですよね。
ええ、同じように批 評 に 限 定 し て やれ、と言ってます。
>観察学習
受容時の文脈の問題でしょう。学校なり軍隊なりで教材として読むのと、ポテチかじりながら気楽な娯楽として楽しむのとでは、まったく違うと思われますが。

>しかし、私個人としては「効果」や「機能」をそこまで狭く、具体的に考える必要はないと考えています。(以下貴方の指針演説)
社会的に論ずる上で、既に先行研究がある話ですから、無視するのはいかがなものかと。いずれにしろ、メディア効果論の蓄積にもテクスト論の深化にも一切敬意を払わず、貴方は貴方の基準でフィクションを批判するおつもりなのだということはよく分かりました。
だったら、それは一層厳密に、批評の範囲に収めて欲しいものです。それなら、誰にも相手にされないだけで済むでしょうから。

>高橋さんは、そういう人々の行動が理解できない、と。間違ってる、と。
その人々の中にも、貴方のような無茶なことを言ってる人はそういないと思いますよ。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/19 06:16 coldleafさん:
そうですね、時間の違い、というのは大きかったのかな。
確かに、僕も、社会的責任を追求するという時には、何らかのペナルティを負わせる、というような意味合いで論じてるようには思います。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/19 07:38 ああ、それと。ひとつ大事な事を。
>法の外にはモラルがあり市民の「自治」があるということです。
僕はアウトローな自警活動を肯定しません。ダーティーハリーごっこは映画の中だけにしてください。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/19 12:21 >ええ、同じように批 評 に 限 定 し て やれ、と言ってます。

「批評に限定する」という意味がどうしてもわからないな。たとえば「このような家父長制的な作品を描くとは、作者の見識を疑う」というような書き方は批評にあたりますか、あたりませんか?もし、「批評に限定する」ことから外れているとすると、それは何を意味するんでしょう?

>受容時の文脈の問題でしょう。学校なり軍隊なりで教材として読むのと、ポテチかじりながら気楽な娯楽として楽しむのとでは、まったく違うと思われますが。

根拠は?特殊かつ短期的な状況下での受容と日常的長期的な状況下での受容は確かに違う効果を持ちそうですが、どちらがどうだとは一概にはいえないのでは。まあ、ここは主要な論点じゃないので、どうでもいいです。

メディア効果論について。
メディア効果論はもともとフィクションではなく、政治報道の分野で検証されてきたものです。そして、強力効果は支持されていない。それでも、高橋さんはid:hokusyuさんが予防拘禁を主張しているとして、id:hokusyuさんの言説を批判しましたよね。のみならず、id:hokusyuさんを「ドイツ帰りのクソはてサ」とも読んだ。高橋さんとしては、フィクションじゃないから、ということでしょうが、では、仮にid:hokusyuさんが予防拘禁を正当化し、その実施を求める世論を喚起する目的で、つまり「現実の何かについての言及として読んで貰いたい」と思って、小説やマンガというフィクションの形式で作品を作ったとしたら、高橋さんはどのように反応するんでしょうか?
あるいは、id:hokusyuさんには、上記の目的を果たそうという気はなかったが、つい日ごろの予防拘禁正当化論が作品に表出してしまった場合は?
それぞれ、作品の反響がなかった場合と、作品を読んだ結果、予防拘禁論が台頭してきた場合とで反応は違ってきますか?

>その人々の中にも、貴方のような無茶なことを言ってる人はそういないと思いますよ。

「国民の創生」規制論者もいるようですよ。僕は支持しませんが。
最後に、非常に重要なことを。

>>法の外にはモラルがあり市民の「自治」があるということです。
>僕はアウトローな自警活動を肯定しません。ダーティーハリーごっこは映画の中だけにしてください。

僕も自警主義は支持しませんが、自治は大切だと思います。
むしろ、リバタリアンを自称する高橋さんがこのようなことを言ってしまうのは、致命的な失敗だと思いますけど。
高橋さんは市民生活の中で何か衝突があった場合、当事者の話し合いや地域住民による調停により解決すべきではなく、お上が介入して解決すべきだと考えているんでしょうか?法以外に決着をつける方法はない、と。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/19 12:25 あと、日常的に「責任」という言葉を使うとき、「法的責任」を指すことの方がまれなんじゃないでしょうか。僕はそのように考えています。だから、僕が「責任」という言葉を使うときは、法の裁きを受けろという意味は全くありません。念のため。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/19 14:21 >たとえば「このような家父長制的な作品を描くとは、作者の見識を疑う」というような書き方は批評にあたりますか、あたりませんか?
表現の自由が疑われるとか、法規制も容認されうるとか言わない限りは、ただの批評……というか感想かな。
>もし、「批評に限定する」ことから外れているとすると、それは何を意味するんでしょう?
社会的責任を追及したり法規制などを検討すること。
>根拠は?
受容文脈論とか。あと、条件付けの限界についても議論は進んでいますね。多分“戦争における「人殺し」の心理学”がアンチョコなんでしょうから、前に書いたエントリを挙げておきます。http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20080105/p3
>仮にid:hokusyuさんが予防拘禁を正当化し、その実施を求める世論を喚起する目的で、つまり「現実の何かについての言及として読んで貰いたい」と思って、小説やマンガというフィクションの形式で作品を作ったとしたら、高橋さんはどのように反応するんでしょうか?
黙殺。フィクション小説と断ってあるもの、書いてあることの信憑性に責任を取らないと自分から宣言しているものを真に受けても仕方がない。
>むしろ、リバタリアンを自称する高橋さんがこのようなことを言ってしまうのは、致命的な失敗だと思いますけど。
どうして? 具体的に。リバタリアンにもいろいろいるけど、夜警業務を国家が負担することを俺は否定しませんよ。
>高橋さんは市民生活の中で何か衝突があった場合、当事者の話し合いや地域住民による調停により解決すべきではなく、お上が介入して解決すべきだと考えているんでしょうか?
市民の権利上の衝突の解決において国家の介入を一切否定するとなると、それはリバタリアンというよりはアナーキズムでは。
>あと、日常的に「責任」という言葉を使うとき、「法的責任」を指すことの方がまれなんじゃないでしょうか。
レイプレイの話題で、規制派が陰に日向に圧力を掛けているという文脈で、そんなぬるい解釈は通らないでしょ。だいたい貴方だってゲッベルスにたとえているでしょうに。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/19 20:25 補足:僕はアナキストではありません。否定的なこと言って前に怒られましたよ。以前アナキズムに言及したものにリンクしておきます。
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20080602/p1
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20080527/p2
この「あのラストシーンが非現実的なのは、政治的アナキズムの非現実性をそのまま反映している」の部分が怒られたのですが、それがちょうど、「ダーティーハリーごっこは映画の中だけにしてください」に対応します。ウォッチメンのロールシャッハはすごくかっこいいですが、実際にいたら「ただのクレージーな大量殺人犯、ただそれだけの、何者でもありません」(まあクレージーさでも大量殺人度合いでも左に負けてる気はしますがね、あの作品上ですら)。
アメリカで保守主義者で自警団な話なら、「ダメだろ」で切ってる俺よりも多分sk-44氏のほうがずっと面白い話をするでしょうけどね。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/19 23:24 補足2:リバタリアニズムとアナキズムは、重なりうる部分はあるし影響を与え合ってはいるんだけど、別の歴史を持つ別の概念なんだよね。で、これは単に言葉の意味の認識に齟齬があったという問題であって、別に争点になるようなところではないはずなので(俺は頭の良さ比べをしたいのではない)、老婆心ながら、そこだけはフォローしたかったのでした。つまらない口喧嘩になる前に。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/20 01:32 どうもお答えありがとう。

>表現の自由が疑われるとか、法規制も容認されうるとか言わない限りは、ただの批評……というか感想かな。

なんかこれまでと言ってることが違うような気がしますが……。まあ、「責任」概念の理解からズレから齟齬が生まれたということにしましょう。「責任」については後回しにするとして、この議論に参加してる論者(id:hokusy氏、id:Apeman氏、id:tikani_nemuru_M氏など)は「法規制も容認されうる」なんて言ってないですよね。「法規制しないとして、それから」と言っている。「それから」に含まれることは沢山あると思いますが、「作者の見識」も問うような作品批評(感想)を出すこともあるでしょう。
(先日コメントしたように、私の究極的な目的には、抑圧のない自由な社会を作っていくことだから、エロゲ批評【だけ】が目的ではないが、エロゲ批評【も】含まれるでしょう)

>“戦争における「人殺し」の心理学”がアンチョコなんでしょうから

ん、私のアンチョコという意味?不勉強なのでその本は持っていません。社会心理学の本は何冊か持ってます。あと、メディア効果論は私にとってはどうでもいい論点です。

>黙殺。フィクション小説と断ってあるもの、書いてあることの信憑性に責任を取らないと自分から宣言しているものを真に受けても仕方がない。

「書いてあることの信憑性に責任を取らないと自分から宣言しているもの」。通常、フィクションにはそういう意味は含まれていないと思いますが。写実主義文学は?フィクションにそういう意味が込められているということに広汎な合意があるなら、『石に泳ぐ魚』裁判などは起こらなかったと思いますが。確か、高橋さんは「名誉毀損」によって表現が規制されることは認めていましたよね?
ちなみに、僕の意見を言わせていただきますと、そのテーマが「予防拘禁肯定」であるなら、それが政治的パンフレットであろうが、小説・マンガであろうが、内容も批判し、作者の見識も批判します。作者が意図的かどうか、またその反響の大きさによって、批判の程度は違うでしょうが、僕は予防拘禁を肯定するような思想を黙殺、または黙認することはできない性質だからです。メディア効果論は論点じゃない、というのはそういうことです。なお、「エロゲがいかに世に罪悪を為しているか」ということをテーマとしたフィクションがあるとすれば、僕はその作品も批判し、作者の見識を問いますが、それが好評を得てブームを巻き起こしたとしても、高橋さんは黙っているんですか?それとも「括弧に入れて」個人のレベルで享受しますか?

>市民の権利上の衝突の解決において国家の介入を一切否定するとなると、それはリバタリアンというよりはアナーキズムでは。

私が、リバタリアンとアナーキズムを混同しているか否か、が論点じゃなく、高橋さん―リバタリアンである―が市民の自治を認めるか否かが論点なのです。私は「市民の権利上の衝突の解決において国家の介入を一切否定する」なんて一言も言っていません。
ポルノ的表現が市民の間で議論を巻き起こしたとき(実際、巻き起こっている)、高橋さんはお上にお伺いを立てればいいと思っているわけですか?そうじゃない、対抗言論だ、というなら「表現の自由」にヒモはついてくるわけです。それによって市民が自治する「思想の自由市場」が立つのだと思います。
(そして、その対抗言論のよって立つところが人権であるなら、他者の人権を軽んずるような発言をしたり、その発言を擁護したりすれば、自らの根拠をほり崩すだけです。「ああ、やっぱり単に利害関係があるからそう言ってるだけなのね」と)

>レイプレイの話題で、規制派が陰に日向に圧力を掛けているという文脈で、そんなぬるい解釈は通らないでしょ。だいたい貴方だってゲッベルスにたとえているでしょうに。

「責任」の解釈に齟齬があったのは認めます。ゲッベルスも例示が不適切でした。彼はクリエイターというよりプロデューサーですね(エロゲ業界にもプロデューサー的立場はあるでしょうから、全く無関係ではないですけど)。
私が意図したのは、批評は作品にとどまるべきで、それを作った側に言及するのは不可なのか?と問いかけることでした。
「責任」という確かに高橋さんの危機意識を慮ることができていませんでした。その点は申し訳ない。
ただし、もう少し「責任」の概念を共有するために、話を詰めておきたいです。

>>もし、「批評に限定する」ことから外れているとすると、それは何を意味するんでしょう?
>社会的責任を追及したり法規制などを検討すること。

私としては法規制は検討しませんが、作家だって社会の中に生きている職業人なのだから、多かれ少なかれ社会的責任を持っていることは当然なのではないでしょうか。パン職人はパンがまずければ、「このパンはまずい」と言われるだけでなく、「お前んとこのパンは何だ!」と問い詰められることもあるわけです。エロゲが表現しているのは架空の出来事ですが、商品として流通し、消費されるという実体もあるわけです(高橋さんも商業作家としての顔をお持ちであると思います)。ですから、それを作ったことに対する社会的責任はやはりあると思うんですが。
なお、私は虚構と現実の区別が(ある程度は)つきますので、ゲームの登場人物のレイピストを(現実の)警察に通報しようとは思いません。それと同様に、フィクションの登場人物としての作家に(現実の)社会的責任を負わせようとは思いません。
しかし、ゲームの中でレイピストが時には警察に逮捕されることがあるように、フィクションの中の作家がフィクション世界での社会的責任を負っていると描写されることはおかしくないと思います。
たとえば「世間の良識を逆撫でするような小説を書いたため、世間から吊るし上げにされる作家。しかし、彼は己の芸術的魂を信じ、表現活動を続けていくのである」……なんてストーリーのフィクションにはそれなりにリアリティがあると思うんですが。
高橋さんは作家には社会的責任なんてそもそもないので、そんなのはフィクションだけのありえない話だ、と考えるのでしょうか?
それとも「社会的責任」の意味合いがまだ、私と高橋さんでずれているんでしょうか?
私としては基本的人権の尊重と、自分の言動、関与したものに対する説明責任くらいの意味で使っています。

     2009/12/20 02:34 >「このパンはまずい」と言われるだけでなく、「お前んとこのパンは何だ!」と問い詰められることもあるわけです。

いや、その2つ同じ所だろw単なるクレームで次のフェーズに移行したわけではない。
それは娯楽作品であるなら「駄作、つまらん」で終わりますよねw

>フィクションの中の作家がフィクション世界での社会的責任を負っていると描写されることはおかしくないと思います。

おかしいですよカテジナさんとだけは言っておく。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/20 02:35 それから、高橋さんの「作者の責任」という文章を読ませていただきました。
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20081209#p1
これを読むと、責任の扱いに関しては、あまりフィクションとノンフィクションの区別をする意味があるようには思えません。
追記部分に即して言うと、(フィクションとしてじゃなく)現実の自己の意志表明として「表現の法的規制はすべきでない」と言っているのに、読者によっては「こいつ、表現の法的規制を主張してやがる!」という間違った感想を抱きうる…のではないでしょうか?
「執筆者には読者がどのように書かれた物を受け止め影響されるかについてコントロールする権利が一切無いからこそ、責任も一切負わないのではないか」。一部、書き直しましたが、このように考えるなら、非フィクション―報道、演説、意見表明などなど―も、同じことなんじゃないでしょうか。
非フィクションに関しては、書き手は読者がどのような感想を抱くかコントロールする権利があるとか、読者が間違った感想を抱かないようにする責任があるとか、非フィクションであれば読者は100パーセント間違いのない読解ができるであると、考えているのでしょうか。
ポストモダンの理論では「テクスト解釈は無限の可能性をもつ」とか「作者は書いたものの意味を制御できない」というものがあるといいますが、この理論ではフィクション/非フィクションの区別はなかったと思います。
僕は、フィクション/ノンフィクションに関わらず、誤読を誘うもの、多様な解釈がありうるものから、ほとんど解釈の余地がないものまで色々あるのが当然だと思います。そして、あるテクストを通じて誤読が発生したとしたなら、それは読者だけではなく、書き手にも責任があることだと思います。そして、読者にも賛成するか反対するかはさておき、書き手の意図を読みとる努力は要求されてしかるべきだと思います。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/20 02:50 パンが味についての感想で、クレームはそのパンを製造し、販売した社会的責任を問うものです。
そして、パンが市民生活を危うくするようなものなら、たとえば食中毒を起こしたりしたら、行政処分を受ける(食品衛生法による規制)。
ある作品が市民社会において問題を起こせば、それなりのクレームを受ける。「頭に爆弾を載せたムハンマド」というマンガを新聞に乗せると社会的責任を問われる(問われた方が開き直るのは勝手ですよ、念のため)。風刺漫画はノンフィクションだろ、と言われるかも知れないけど、『聖☆おにいさん』も国によっては、そういう風に責任の問われる可能性はあるんじゃないかな。「絶対になりません」って言えるだけの根拠ある?

>おかしいですよカテジナさんとだけは言っておく。

しかし、ガンダムシリーズの中で敗戦の将が責任を取らされる場面は何度も見た気がする。これは軍律によるものなのかな?だとしたら法的責任か。
つうか、「おかしいですよカテジナさん」ってセリフ自体がカテジナの責任を問うてるものなんじゃないの?

MituboshiMituboshi 2009/12/20 05:03 >そして、パンが市民生活を危うくするようなものなら、たとえば食中毒を起こしたりしたら、行政処分を受ける
「ユダヤ人は市民生活を危うくするから社会的責任を取らなければならない(だから絶滅してくれ)」、「障害者は市民生活を脅かしているから社会的責任を取らなければならない(だから生まれてきたら殺す)」ってことですね、わかります。
そのロジックをあらゆる物事において、何の疑いも無く飲み込んでいるから怒られているんですよ。それは歴史上に存在した殆ど全ての差別思想に通じている。差別行為を正当化する理屈に、「市民生活を危うくするから」って但し書きは高確率で備えられますよ。
確かに食品の提供者は、安全な食品を提供する義務を持ってますよ。でもそれは不衛生な食品はそれ自体が健康被害を出すと判明しているから。そこに表現の自由は関わりがない。
そして表現者は、市民生活を脅かさない絶対安全な表現を提供する義務を背負うべきではない。それが表現の自由の侵害であるから。
「被害者のいない犯罪は犯罪ではない」、この言葉の意味を理解できていないなら、勉強しなおしてきなさい、と。
あと、カテジナへの台詞は、ザンスカール帝国への批判の意味合いもあるでしょ。あれは典型的な恐怖政治と一党独裁の体制。
あ、仮面ライダークウガの逸話に、「主人公も暴力を振るったんだから責任を取らなければならないのでは?」として、最終的に死亡する展開もあったそうです。ただ、プロデューサーが視聴者に配慮して結局変更されたわけですが、あなたの言い分だとどちらが正しいんでしょうね?

マルセルマルセル 2009/12/20 05:31 まー、一言で言ってしまえば、所謂「はてさ」の「市民的自治」に反対している人たちは、「はてさ」の主張が「在特会」に見えているということだと思いますよ。

在特会が「在日朝鮮人の特権が市民生活を危うくしている」ならば、この議論におけるはてさの主張は「フィクションにおける表現の自由の特権が市民生活を危うくしている」というわけです。
つまり、どちらの主張もある種の藁人形的批判というか、まぁ在日の特権やフィクションにおける特権の問題も多少はありましょうけど、「在日に対する差別」や「政府におけるフィクション規制」というリアルな差別の現状を鑑みるに、どこからどうみてもバランスの欠いた批判にしかみえないということです。

だいたい、hit-and-runさんがここでグダグタ書いている「フィクションにおける社会的責任」なんぞ、ことエロゲに限って言えば、そんなの昔から散々「エロゲは女性差別的だ」だとかサブカル評論家たちから延々と論じられ、
都や自治体といった「公共」に賊する(誤字にあらず)お偉いさんたちから毎回「社会的責任」を問われ続け、挙げ句の果てに自民党のお偉いさんからも業界に圧力を加えられているわけですから、これ以上どう責任を取れというんですか?

あんたらは既に「市民の公共圏圧力」によって散々弱めつけられているエロゲ業界やその作家さんたちを相手に「社会的責任を逃れようとしている」とずーっと論じているんですよ?あなたちは自分たちの主張の正しさを訴える前に、その主張を訴える相手がどのような過去を背負っているか、少しは認識した方がいい。そう言う人たちから見れば「在特会」における「在日朝鮮人批判」とはてさの「フィクション批判」は全く同じモノとしか見えない。

gryphongryphon 2009/12/20 07:35 自分の勝手な興味に結びつけますが(テーマには沿っていると思いますけど)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E9%A2%A8%E5%88%BA%E6%BC%AB%E7%94%BB%E6%8E%B2%E8%BC%89%E5%95%8F%E9%A1%8C

なんかは、もし日本で発生したらどう扱うべきでしたかね。

gryphongryphon 2009/12/20 07:42 ああ、少し言及がありましたね。「社会的責任」とはこの事件でイスラム社会が起こした抗議(何しろ世界的で、膨大かつさまざまです)のどのへんまでを言うのかはいろいろあると思いますが。

gryphongryphon 2009/12/20 07:48 映画「靖国」批判も、批判者は「私たちはあの映画の社会的責任を、社会的に問うているのだ」と正当化できるのではないかと。その背後には右翼の暴力(例=街宣車の騒音)の恐怖があるのだろうという反論もありえるだろうし、実際に映画館の上映中止はそうだと思いますが、日本のイスラム批評や風刺の少なさ(デンマークの新聞に連帯するメディアは殆ど無かった)も、「悪魔の詩」翻訳者が惨殺された恐怖が影をおとしているとも解釈できるでしょうし

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/20 09:27 hit-and-runさん:
>なんかこれまでと言ってることが違うような気がしますが……。
どこが? ずっと同じこといってると思うんですが。

>あと、メディア効果論は私にとってはどうでもいい論点です。
だったらメディアの効果について議論をするのはやめたほうがいいと思います(苦笑
というか、これはないわw

>「書いてあることの信憑性に責任を取らないと自分から宣言しているもの」。通常、フィクションにはそういう意味は含まれていないと思いますが。
では、「この物語はフィクションであり〜」という定型文はなんのためにあると思います?

>写実主義文学は?
写真を撮ったからといって魂が抜かれるわけではないと思いますが。

>確か、高橋さんは「名誉毀損」によって表現が規制されることは認めていましたよね?
そうですね。著作権侵害で規制されることも認めています。名誉毀損も著作権も、社会情勢とか市民感情とか読者の反応とかの問題ではない、具体的加害者と被害者の関係の話です。俺が言ってるのは「法で規制すべきはそのような個別具体的権利侵害だけだ」というものですよ。

>一部、書き直しましたが、このように考えるなら、非フィクション―報道、演説、意見表明などなど―も、同じことなんじゃないでしょうか。
いいえ、違います。フィクション=内容の信憑性についての無責任宣言であり、そのような認識が出来ない状態で提供されている情報は、真に受けられる可能性があるからです。これが「現実と虚構の区別」です。

>この理論ではフィクション/非フィクションの区別はなかったと思います。
そうですよ。「だから」どんな風にとっぴなものがあるかわからない解釈の責任を絵空事として区切るために、最近は多くのフィクションが無粋な断り書付きで提供されるようになってるんです。フィクションであるかどうかは、解釈の問題にするのはまずいんです。虚偽報道と虚偽小説の区別が出来ないのはまずい。

>パンが味についての感想で、クレームはそのパンを製造し、販売した社会的責任を問うものです。
風評被害ってご存知です? 「メディア効果論に興味ない」と言い放つ方がメディアの効果について一席ぶって、それで何か社会的な評判が下がることがあるとしたら、それは、食べもしないでまずいと騒いでるようなものではないでしょうか。

>「頭に爆弾を載せたムハンマド」というマンガを新聞に乗せると社会的責任を問われる(問われた方が開き直るのは勝手ですよ、念のため)。

http://tkido.com/blog/587.htmlから股引用、「表現の自由を脅すもの」の一節。
>もう一つのやり方は、この宣告を野蛮で行き過ぎとして撥ねつけるが、犯罪そのものは撥ねつけないというやり方である。人の心を傷つけた人達は、多分追い出すか、公衆の面前で辱めるか、仕事を辞めさせるか、強制的に黙らせるかすべきであるが、しかし、死刑にするというのは、万引きで人の親指を切り落とすようなもので、これはあんまりであるというのである。これこそ大多数の西欧のインテリが選んだか、あるいは今選ぼうとしている道である。もしこの道に従うならば、我々はホメイニの判定を承認したことになり、ただ宣告の量刑についてのみ言い争うということになる。もしこの道に従うならば、我々は、原則的に言って、心を傷つけるようなものは抑圧されるべきであるということを受け入れることになり、それでは心を傷つけるものは何か(ポルノか、ロバートマップルソープの同性愛写真か、黒人に対する誹謗か、ダーウィンの進化論か、共産主義か)を巡って争うだけとなる。

>風刺漫画はノンフィクションだろ、と言われるかも知れないけど、
ご存命の実在人物への風刺である場合は、ことによっては名誉毀損で訴えることも出来るでしょうね。それ自体は否定しませんよ。ただまあ、自由主義国の政治家はあんまりそういうことはしないだろうけど。かっこ悪いから。

>『聖☆おにいさん』も国によっては、そういう風に責任の問われる可能性はあるんじゃないかな。
名誉毀損で訴えることは無理でしょうから、まあ、宗教的な罪に問う形になるんでしょうな。そういうのを肯定できる感覚で議論されても、僕は自由主義を前提に議論してるんで、それでは話がかみ合うわけがありません。そういう可能性は国によってはあるでしょうね。そんなものを自由主義者として肯定してはいけないと思っています。殺人はそこかしこにあふれていますが、だからって殺人を肯定していいわけじゃない。

>高橋さん―リバタリアンである―が市民の自治を認めるか否かが論点なのです。
市民の自警団的圧力によって法的に保障された自由が脅かされてはいけない、と、多くのリバタリアンは考えると思うのですが。自治努力はあってもいいでしょうが、それは抑圧や排除にならない範囲の、自由な交渉のレベルにおいてです。ダーティーハリーを市民の自治だと思ってしまえるセンスに脱帽です。彼がやっているのはリンチ(私刑)ですよ? 生きる死ぬのレベルの話にしなくても、例えば例の着物の帯職人の話なんかも、あれが理想的な自治としてスルーされるのなら、ムラ社会と区別が付かないのではないでしょうか。ブコメにつけてらっしゃる方がいましたが、最小の自治の単位はそれこそ家族、家父長制ですよ。そこに法と人権のメスが入らずして何が自由主義、何が個人主義、何がフェミニズムか。
法の外、をアウトロー、に読み替えたのはなるほどちょっと意地悪ではありますがね。あなたたちのやり口は、こちらから見るととても危なっかしく、――というより、実効性がないだけで、発想としてはとっくに踏み越えているように見えるのです。

傍聴席傍聴席 2009/12/20 09:53 >マルセルさん

この種の話で自治、モラル、公共圏なんて言い出す人は松文館裁判をどう捕らえてるのか気になるところです。

あれが正当な全く問題ない社会的責任の追及だと思えるならもう話す事はないんですよね。発端となった背後関係も含めて。
エロ漫画を描く仕事をレギュレーションに従って執筆してたら逮捕されたでござるって、洒落にならん出来事がまかり通ってもいいってことですから。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/20 13:03 うーん、だんだん議論をつづけるのが堪えるようになってきました(高橋さんもでしょうが)。

>では、「この物語はフィクションであり〜」という定型文はなんのためにあると思います?

フィクションだからです。前から言ってると思うですが、フィクションの中で殺人事件が起ころうとそれ【だけ】なら私は問題にしない。でもフィクションが人種差別的テーマというテーマを語っていたり、ストーリーの中で特定の宗教信者への作者の偏見が露呈しているような場合なら、私は作品も批判しますし、作者の見識を問うでしょう。それは作品批評という形をとることもありえるだろうし、出版社に押しかけて作者や出版社の意図を問うということもあるでしょう。僕はそのような作品に対しても法的措置を取ろうとは思いません。
高橋さんは、「フィクション=内容の信憑性についての無責任宣言」と考えるので、人種差別的な内容のフィクションでも作者になんら責任はないと考えるのでしょうか。だとすれば、「この物語はフィクションであり〜」というフレーズは、差別思想を広めるための絶好のエクスキューズになりそうですが。ここでいう「責任」は説明責任や倫理的責任とお考えください。

>俺が言ってるのは「法で規制すべきはそのような個別具体的権利侵害だけだ」というものですよ。

「書いてあることの信憑性に責任を取らないと自分から宣言しているもの」がどうやって、「個別具体的権利侵害」を為しえるんでしょうか。「責任を取らないと自分から宣言している」だけで、実際には責任があるんじゃないでしょうか。私が言ってるのは主に説明責任についてですが、「書いてあることの信憑性に責任を取らないと自分から宣言している」にも関わらず、実際には法的責任を負わされる場合もある、と。
そして、私はある種の表現を「法で規制すべきだ」という話は全くしていません。
ところで名誉毀損や侮辱罪にもモアスピーチで対抗せよってリバタリアン【も】いるようですね。

>フィクション=内容の信憑性についての無責任宣言であり、そのような認識が出来ない状態で提供されている情報は、真に受けられる可能性があるからです。これが「現実と虚構の区別」です。
>「だから」どんな風にとっぴなものがあるかわからない解釈の責任を絵空事として区切るために、最近は多くのフィクションが無粋な断り書付きで提供されるようになってるんです。フィクションであるかどうかは、解釈の問題にするのはまずいんです。虚偽報道と虚偽小説の区別が出来ないのはまずい。

ということは、多くの非フィクションは「このドキュメントは非フィクションであり〜」と断り書きがされていないので、フィクションとして読まれてしまう場合もあるわけですね。
またどんなとっぴな解釈もありえるなら、「この物語はフィクションであり〜」という断り書きが「真に受け入れられない」可能性だけ排除するという根拠もなさそうですから、その場合は作者の責任が問われることになるんじゃないですかね?
ちょっと言葉遊びをしてみましたが、高橋さんの理屈ではそうなるということで、私としては、読者が誤読することについてはフィクション/非フィクションの区別はなく、その誤読の責任の様相は様々であるとしても、書き手側や読み手側が一方的に断罪されたり、免責されることもないと考えます。

>風評被害ってご存知です?

存じてます。それに対しては、まずモアスピーチで対抗すべきだと思いますが、法的なアクションをとることもできます。モアスピーチを優先するのは市民の自治を尊重するからです。すぐに法的なアクションをとろうとすれば、市民生活の中にさらなる権力の介入、法的規制を招きかねないからです。

「表現の自由を脅すもの」について。
私は「忌まわしい」と言うかもしれません(言わないかもしれない)が、その言葉に法的拘束力を持たせようとは思っていません。

>名誉毀損で訴えることは無理でしょうから、まあ、宗教的な罪に問う形になるんでしょうな。そういうのを肯定できる感覚で議論されても、僕は自由主義を前提に議論してるんで、それでは話がかみ合うわけがありません。

僕はすでに「責任」の意味を言明しています。それを無視して「法的責任」のみ限定して話を進めているのが高橋さんです。僕自身の定義からいうと、高橋さんは『聖☆おにいさん』を見た誰かが作品や作者について「忌まわしい」という権利を奪っているように見えます。

>市民の自警団的圧力によって法的に保障された自由が脅かされてはいけない、と、多くのリバタリアンは考えると思うのですが。自治努力はあってもいいでしょうが、それは抑圧や排除にならない範囲の、自由な交渉のレベルにおいてです。ダーティーハリーを市民の自治だと思ってしまえるセンスに脱帽です。

僕は「市民の自治」としか言っていません。そこにダーティーハリーのようなヴィジランティズムを当てはめて、曲解したのは高橋さんです。僕がダーティーハリーを市民の自治として示したことがあるなら証拠を出してください。
僕のコメントはフィクションじゃないのですが、この曲解についての責任は誰が負うべきなんでしょうね。

>ブコメにつけてらっしゃる方がいましたが、最小の自治の単位はそれこそ家族、家父長制ですよ。

なんで?なんでそうなるの?
市民の自治を家父長制やダーティーハリーの自警主義のようなものにしないために、公共権の話が重要になってくるんです。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090615

最後に傍聴席さんへ。
私は、そしてはてサの圧倒的な多数は松文館裁判の有罪判決に批判的です。ご安心を。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/20 13:43 >出版社に押しかけて
「押しかけて」はあんまりいい意味に使わない言葉なので、偽悪でないなら避けたほうがいい表現かなあとは思います。普通に手紙を送ることから始めてはいかがか。たぶんほとんどの商業コンテンツには、感想用の葉書があるか、連絡先くらいは書いてあるはずです。

>高橋さんは、「フィクション=内容の信憑性についての無責任宣言」と考えるので、人種差別的な内容のフィクションでも作者になんら責任はないと考えるのでしょうか。
何度もそう言ってると思うのですが。その責任というのが、例えば黙らせるとか職を失わせるとかの社会的に追求されるような責任である場合の話ですがね。
で、その「説明責任」が、いついかなる時どんな風に「押しかけ」られても応じなければならないと強制されるものであるのならば、そんなものはないと思いますよ。それじゃ総会屋丸得ですよ。説明責任というものが社会的に認められるべきなのだとしても、そのあり方には一定の枠や型が必要だと思います。
倫理的責任は、責任を問われている人の倫理的判断に最終的に帰するところだと思うので、一般的には論じられないかと。

>差別思想を広めるための絶好のエクスキューズになりそうですが。
思想の自由は“絶対”です。たとえその思想がどんなに間違っていても。あくまで「表現」にともなう「被害」が問題なのです。だから、思想が広まることに焦点を当てるのは本筋からずれているのでは。

>「書いてあることの信憑性に責任を取らないと自分から宣言しているもの」がどうやって、「個別具体的権利侵害」を為しえるんでしょうか。
著作権侵害と名誉毀損の勉強をしてください。どちらも書いてあることの信憑性とは関係のない問題です。

>ところで名誉毀損や侮辱罪にもモアスピーチで対抗せよってリバタリアン【も】いるようですね。

そうですね。名誉毀損や侮辱罪に刑事罰はそぐわないんじゃないかと考えている人もいます(著作権侵害にもいます)。俺は違いますが、耳を傾ける必要のある意見だとは思います。

>ということは、多くの非フィクションは「このドキュメントは非フィクションであり〜」と断り書きがされていないので、フィクションとして読まれてしまう場合もあるわけですね。
例の田中某氏の騒ぎでは、フィクションと断っていなかったがために現実にやったことだと解釈されて大騒ぎになってたわけですね。、何も説明せずに、形態にあまり気を使わずに発表すると、フィクションでもノンフィクションだと誤解されてしまう可能性は十分ありますし、あの場合は無理もないことだとは思います。だから最近はみんな無粋な断り書きを書くんです。誰もかっこいいと思っては書いてませんよ。

>またどんなとっぴな解釈もありえるなら、「この物語はフィクションであり〜」という断り書きが「真に受け入れられない」可能性だけ排除するという根拠もなさそうですから、その場合は作者の責任が問われることになるんじゃないですかね?
そういう主張をやってみたらいいと思います。まず通らないと思われているから、ああいう裏書きが社会的に通用してるんだと思いますがね。

>存じてます。それに対しては、まずモアスピーチで対抗すべきだと思いますが、法的なアクションをとることもできます。モアスピーチを優先するのは市民の自治を尊重するからです。すぐに法的なアクションをとろうとすれば、市民生活の中にさらなる権力の介入、法的規制を招きかねないからです。

いやいやちょっと待って。直接具体的に被害が出る問題ですよ。縛るなら絵空事より先にまずそっちですよ。なんでそんな及び腰なの? 風評に対してされる尊重よりははるかに、フィクションは尊重されていいはずですが。

>私は「忌まわしい」と言うかもしれません(言わないかもしれない)が、その言葉に法的拘束力を持たせようとは思っていません。

「法の外で」、「公衆の面前で辱めるか、仕事を辞めさせるか、強制的に黙らせ」られるべきだと考えている人もいるように見えるんですよね。貴方はそうじゃないというのなら僕も安心できますが。

>僕がダーティーハリーを市民の自治として示したことがあるなら証拠を出してください。
貴方にブクマを付けていたD_Amonさんによるとそれは「保守リバタリアン」だそうですが、では貴方は特に反応しなかっただけで、苦い顔だったわけですね。了解です。

>市民の自治を家父長制やダーティーハリーの自警主義のようなものにしないために、公共権の話が重要になってくるんです。
あなたたちの考える「公共圏」が抑圧弾圧排除のアウトソーシング機関でなければいいのですがね。

YagokoroYagokoro 2009/12/20 21:35 おー、まだ続いてたんですね。読み応えがありました。
「公共圏」がマジックワードになってしまっているのが気になるところです。まったく実態が見えない。その言葉を使っている人がみな内実を説明しない、というか出来ないんじゃないですかね?

hit-and-runhit-and-run 2009/12/21 03:27 だんだん話が収束してきましたね。気のせいかもしれませんが。

>何度もそう言ってると思うのですが。その責任というのが、例えば黙らせるとか職を失わせるとかの社会的に追求されるような責任である場合の話ですがね。

結果として黙らされたり、職を失わされる(もちろん、法的拘束力抜きで。念のため)人が出てくるかも知れませんが、それ自体が目的ではありません。僕としては「作者の見識を問う」だけです。(法的規制ではなく)社会的な圧力により、執筆活動を続けられなくなったとしたら、それは「思想の自由市場」競争がそれだけ苛酷だったということです。
したがって、「例えば黙らせるとか職を失わせるとかの社会的に追求されるような責任である場合」【ではない】ので、たとえフィクションといえど、物語の内容が差別的なものであれば、作品や作者はその責任を免れない、ということに高橋さんも同意する、と。
これで一つ合意ができました。

>その「説明責任」が、いついかなる時どんな風に「押しかけ」られても応じなければならないと強制されるものであるのならば、そんなものはないと思いますよ。

その「説明責任」は、いついかなる時どんな風に「押しかけ」られても応じなければならないと強制されるもの【ではない】ので、その存在を高橋さんも受け入れる、と。
高橋さんがなぜ「説明責任」に、そこまで厳しい条件を課そうとするのかよくわかりませんが(私はそんなこと言ってない)、ともかく、これでまた一つ合意ができました。
ちなみに僕自身は「(問われた方が開き直るのは勝手ですよ、念のため)」と書いたのですが、当然、黙殺するのも問われた方の自由です。

>思想の自由は“絶対”です。たとえその思想がどんなに間違っていても。あくまで「表現」にともなう「被害」が問題なのです。だから、思想が広まることに焦点を当てるのは本筋からずれているのでは。

そりゃ、「思想の自由」は絶対ですよ。たとえば誰かさんが予防拘禁肯定思想を持っていても、思想するだけではそれを裁けない。でも、誰かさんがそれを予防拘禁肯定論として表現した途端、それは批判を受ける(少なくとも、その可能性はつねに開かれていることを認めねばならない)。「思想の自由」は絶対です。また、表現には「息をつく空間」が与えられるべきです。しかし、息をついた瞬間に「思想の自由市場」で淘汰されてしまうこともあるわけです。「思想の自由」は絶対ですが、「表現の自由」はそうではありません。高橋さんも名誉毀損など法的規制は認めているわけで。ここで問題になるのが「被害」の概念ですが、これも「責任」概念のように齟齬があると思います。後ほど触れます。

>著作権侵害と名誉毀損の勉強をしてください。どちらも書いてあることの信憑性とは関係のない問題です。

じゃあ、いくら「書いてあることの信憑性に責任を取らないと自分から宣言」してもあんまり意味ないじゃないですか。フィクションかノンフィクションかに関わらず、また書いてあることの信憑性に関わらず、表現は名誉を毀損することが可能である、ということは高橋さんも認めている、と。
これまた一つの合意ができましたね。
先に、「責任」については合意が出来ているので、「フィクションであろうとなかろうと、作品や作者はその表現の責任を問われる可能性がある(だからといってただちに法の裁きを受けるわけではないが)」ということで、ほぼ全面的な合意に達したと思いますが、念のために「被害」概念を検討してみます。
繰り返しますが、高橋さんも名誉毀損など法的規制は認めているのですね。「被害」の概念、これも「責任」概念のように齟齬があるんじゃないでしょうか。高橋さんは法的に救済されるものが「被害」であり、法的に救済されないものは「被害」ではない、と考えているのでしょうか?
セクハラは強制わいせつとして立件され、裁判で認定されるまで「被害」ない、いじめは暴行罪や脅迫罪として立件され、裁判で認定されるまで「被害」はない、というふうに。高橋さんは、そうじゃないと思いますが、どうでしょう?
フィクションによって名誉が毀損される可能性を認めるならば、フィクションによって法的には名誉毀損とは認定されないけれど、自尊感情を傷つけられることも可能性としてあるでしょう。ならばそれを被害と呼んではいけない理由が何かあるんでしょうか。「『被害』という語の使用は法律用語としてしか使っちゃダメ」という法的規制はなかったと思いますので、表現の自由ですね。
とりあえず、これで「フィクションであろうとなかろうと、作品や作者はその表現の責任を問われる可能性がある(だからといってただちに法の裁きを受けるわけではないが)」という合意は成立しましたね。
こうなってしまえば、まあ後は微細な論点なんで。

>田中氏の件。
フィクションでも彼は大学から注意を受けましたね。その内容は人権を軽んじる発想で映像作品を制作・公開したことに対してか、それとも「世間を騒がせた」ことに対してか。それは明らかではありませんが、私は前者であってほしいと思います。後者はどうでもいいことです。
なお、あれがノンフィクションだとすれば法的な裁きを受けることになったと思いますが、そんな場合でも「社会的責任」「道義的責任」を錦の御旗に、田中氏の人権を侵害するような「炎上」は容認できません。これは「表現の自由」を錦の御旗に差別的言辞をなす者たちを批判するのと同じことです。

>そういう主張をやってみたらいいと思います。まず通らないと思われているから、ああいう裏書きが社会的に通用してるんだと思いますがね。

これは「どんなとっぴも誤読もしかねない読者」「書き手は読者の読み方をコントロールできない」という高橋さんの想定とは矛盾しますね。それとも裏書だけは間違いなく書き手の意図どおり読んでくれるという例外規定なんでしょうか。まあ、「社会的に通用する」表現は誤読されることが少なく、一方、難解であったり、曖昧であったりという表現は誤読されやすいということだけだと思いますが。そして、誤読の責任は書き手と読み手のどちらにもあるでしょう。当然、ケースによって責任の軽重は違いますがね。

>いやいやちょっと待って。直接具体的に被害が出る問題ですよ。縛るなら絵空事より先にまずそっちですよ。なんでそんな及び腰なの? 風評に対してされる尊重よりははるかに、フィクションは尊重されていいはずですが。

フィクションが名誉を毀損することが可能なんだから、フィクションが風評被害を作り出すことも可能なはずですよね。だからフィクションと風評とは独立の概念で、排斥しあうことはない。で、風評被害かどうかは高橋さんの基準では、個別的具体的に被害があるかどうかを見ていかないといけないはずです。しかし、裁判どうしても長期化するし、それだけ時間をかけた結果、原告の訴えが棄却される場合もある。だから、個人的には話し合いや対抗言論で解決した方がベターだとは思います。これなら原告が被害を法的に証明する必要もないですし。もちろん「法に訴えてはいけない」なんて私は一言も書いてません。法に訴えたい人はそうすればいいし、私はそれを支援したり、批判したり、そもそも無関心だったりするでしょう。

>「法の外で」、「公衆の面前で辱めるか、仕事を辞めさせるか、強制的に黙らせ」られるべきだと考えている人もいるように見えるんですよね。貴方はそうじゃないというのなら僕も安心できますが。

「法の外」というのは誤読を招きやすい表現ですね。失礼しました。「アウトロー」という意味ではなく、「法によって規制されていない領域」というほどの意味です。さて、場合によっては、批判対象を公衆の面前で辱めるか、仕事を辞めさせるか、黙らせたいと願望することはあるでしょうし、そのように表現することもあるでしょう。しかし、私にはそれを強制する法的根拠も権力もありません。フィクションとノンフィクションの区別も大切ですが、意見と事実の区別も大切ですね。「鳩山は辞任すべき」という意見を出せば、たちまち鳩山が実際に辞任するというものでもありません。小説家が「筆を折れ」と言われて「表現の自由を(法的に)規制するのか!」なんてことも言わないでしょう。普通は。

>貴方にブクマを付けていたD_Amonさんによるとそれは「保守リバタリアン」だそうですが、では貴方は特に反応しなかっただけで、苦い顔だったわけですね。了解です。

別に苦い顔はしていませんが、id:D_Amonさんのコメントに対しては特に意見はありません。「ダーティ・ハリー」が「保守リバタリアン」かどうか、私には判断がつかないからです。ただ、イーストウッド自身はリバタリアンのようですし、『リバタリアニズム読本』という本では「リバタリアンな映画」として「ダーティ・ハリー」と「許されざる者」が取り上げられているようですよ。私もググっただけなので、「反面教師として」ということかも知れませんが。
高橋さんは「耳を傾ける必要のある意見」だとは思わなかったということで。

>あなたたちの考える「公共圏」が抑圧弾圧排除のアウトソーシング機関でなければいいのですがね。

そうならないように不断の努力を重ねていきたいものです。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/21 07:30 >だんだん話が収束してきましたね。気のせいかもしれませんが。
「語るに落ちる」発言はこれまでも何度もあったと思います。多分貴方が気づいてないだけで……。

>結果として黙らされたり、職を失わされる(もちろん、法的拘束力抜きで。念のため)人が出てくるかも知れませんが、それ自体が目的ではありません。
結果として死んだり大けがをする(もちろん法的拘束力抜きで。念のため)人が出てくるかも知れませんが、それ自体が目的ではありません。
……生じる結果には責任を持ってください。

>それは「思想の自由市場」競争がそれだけ苛酷だったということです。
思想の自由市場は、私的制裁によって「結果」害を及ぼすのが自由、って意味じゃないと思いますがね。表現には自由を与え、フェアな商品競争(表現自体の競争)で勝負して、市民に選ばれ勝ち残る表現こそが優れている、というものだから。

>高橋さんがなぜ「説明責任」に、そこまで厳しい条件を課そうとするのかよくわかりませんが(私はそんなこと言ってない)
「結果」黙らせたり、職を失わせることを前提としたヤクザまがいの恫喝を防ぐためですが、貴方にはそういう感覚が全くないのはよく分かりました。
さすがに、「表現の自由市場」という概念の解釈としてはかなり珍妙だと思うんですが。「結果」黙らせたり、職を失わせる活動は、表現の自由では保障されないと思いますよ。政治活動の自由はあるでしょうけど、表現とは別カテゴリでしょ。

>でも、誰かさんがそれを予防拘禁肯定論として表現した途端、それは批判を受ける(少なくとも、その可能性はつねに開かれていることを認めねばならない)。
そうですよ。僕もやりましたね、批判を。そして、議論が行われ、説得力のあるほうが市民に選ばれる。それが表現の自由市場、それで話は終わりです。

>しかし、息をついた瞬間に「思想の自由市場」で淘汰されてしまうこともあるわけです。
「結果」職を失わせたり黙らせたり殺したり怪我をさせたりするような実力行使は、表現の商品力で勝負していない、「表現の自由市場」への不当な介入です。

>じゃあ、いくら「書いてあることの信憑性に責任を取らないと自分から宣言」してもあんまり意味ないじゃないですか。
著作権侵害と名誉毀損はね。

>高橋さんは法的に救済されるものが「被害」であり、法的に救済されないものは「被害」ではない、と考えているのでしょうか?

被害があれば法的に対処すべきです。そして、現行法は、普通に思いつくような被害はほとんど全てカバーしているように思いますが。

>セクハラは強制わいせつとして立件され、裁判で認定されるまで「被害」ない、いじめは暴行罪や脅迫罪として立件され、裁判で認定されるまで「被害」はない、というふうに。
著作権侵害は、なんらかの理由で起訴されなくたって、該当することをやってる限りは著作権侵害でしょう(著作権者が容認してる場合は条件を満たさないことになるので著作権侵害ではありませんが)。強姦は仮に訴えられなくたって本人が合意してない限りは強姦です。「結果」相手の職を失わせたり黙らせたり殺したり傷つけたりも、たとえ何らかの理由で(たとえば「怖くて」)訴えることが出来ずとも、それ自体が合法になるわけじゃないでしょう。「仮にそうなったとしても、そこに公権力が介入することは否定してないだろ。アホか」 アホはてめーだよ。それ、レイパーの論理だよ。ヤクザまがい。やったもん勝ち、通らばリーチ。他人を批判する前に自分を省みろクソが。

>そんな場合でも「社会的責任」「道義的責任」を錦の御旗に、田中氏の人権を侵害するような「炎上」は容認できません。
2ちゃんねらーのイナゴ行為によって「結果」職を失ったり(ryは人権侵害だと思うんですけどね、立派に。加害者が多すぎてそうそう立件出来るもんでもないでしょうけど、これも通らばリーチで容認?

>これは「どんなとっぴも誤読もしかねない読者」「書き手は読者の読み方をコントロールできない」という高橋さんの想定とは矛盾しますね。
矛盾しませんよ。やってごらんって言ってるんだから。「通りかねない」は「必ず通る」じゃありませんからね。そういう訴訟を起こして、それで何か君の意に沿うような判決が出たら、フィクションの断り書きは無意味ってことになって廃れるかもね。シュリンクラップ契約の実効性を裁判で検証してみる、みたいな話だな。

>フィクションが風評被害を作り出すことも可能なはずですよね。
フィクションと断ったら、普通は風評にはならんでしょう。架空のお店の風評被害は成立しません。
実在のお店に対してこそ風評に意味がある。例えば、メディア効果論に興味がないと公然と言い放ちながらメディアの効果について表現のプロに対して議論を挑み、言葉の端々に恫喝的な文言を織り交ぜて気づかない鈍感な人がいかにもやりそうなことです。

>しかし、裁判どうしても長期化するし、それだけ時間をかけた結果、原告の訴えが棄却される場合もある。だから、個人的には話し合いや対抗言論で解決した方がベターだとは思います。
ヤクザ丸儲け論ですね。加害側がしたり顔で言う理屈じゃないと思うけどな。貴方は自覚がなさ過ぎる。

>しかし、私にはそれを強制する法的根拠も権力もありません。
でもイナゴ行為で圧力掛けたり、徒党を組んで出版社に押しかけたりの実力行使で「結果」そのような現象を起こすことは可能でしょうね。

>ただ、イーストウッド自身はリバタリアンのようですし、
映画俳優の思想と映画の登場人物の思想は分けましょうね。イーストウッドが、毀誉褒貶あった「ダーティーハリー」の後どのように思索を深めていったかは、これはsk-44氏なら面白く語ってくれるところでしょう。

>『リバタリアニズム読本』という本では「リバタリアンな映画」として「ダーティ・ハリー」と「許されざる者」が取り上げられているようですよ。
リバタリアニズムはかなりバリエーションが広いです。アナーキズムもまたバリエーションが広いです。重なり合う領域もあるんですけどね。僕は最小国家論に立つので、国家は余計な仕事はするな、でも国家がすべき最低限の仕事(強権行使)は国家がきちんとしろ、市民が勝手にむちゃくちゃするな、市民がコミュニティのローカルなルールで互いの行為を制約してもいいが、それは相互の合意に基づき自由に離脱可能なコミュニティである場合に限られる、というものです。これはポピュラーなリバタリアンのあり方の一つであり、ダーティーハリーはどう考えてもこの条件を満たしません(結果私刑警官に撃ち殺されることに同意があるとは思えませんからね)。貴方の考えるやり口は、さて、どうでしょうね?
>そうならないように不断の努力を重ねていきたいものです。
うん、とりあえず、自分の書いた物を読み直して、おかしくないかな、と問い直すところから始めたらいいと思う。努力。
個人的には、「これはひどい」タグを付けたい所なんだけど。これで反省の色が見えずひどくなるようならさすがにお話にならないので、打ち切るよ。そういう意味では「収束してきましたね」。収束って言うか発散のような気がするが。

     2009/12/21 11:16 >そうならないように不断の努力を重ねていきたいものです。

おかしいですよ。カテジナさんと言った意味が分かってもらえなかったようだ…
わざとやってんのか無自覚で鈍感なのかわからんけど
どちらにしても反吐が出る。
最初からこういった無礼な態度が気にはなってたけど、もう限界かな?
あなた自身気づいてないから上記の戯言をいえるんだろうけど、相当な差別・侮蔑発言を繰り返してる。
ちょっとどういう立場の人間なのか気になってくるほどに。
こういうと批判や議論に耳を貸さないのはおかしいと言うのだろうけど、最低限の礼儀と知識とやたら他者に「責任」を課したいのなら、まずは自分の発言くらいは「責任」持とうよ。
Takahashiさん本当にお疲れ様でした。

sugarisugari 2009/12/21 14:52 >>多くの非フィクションは「このドキュメントは非フィクションであり〜」と断り書きがされていないので、フィクションとして読まれてしまう場合もある

上記の現象が一番発生しやすいのは、4月1日ですね。
その日は、一般的に嘘と真実が入れ替わる日で、その日の内に「嘘みたいな真実」を伝達したいなら、「これは真実です(ネタ記事ではない)」の但し書きは絶対に必要。
4月1日以外の日常では、それと反対に「これは虚構です」の但し書きが必要とされてますよね。

それから、書き手やメディア母体の方向性、属するカテゴリも、内容がどういう物なのか判断する情報足りえます。
例えば2次元ポルノであれば、それは「18禁」と言うカテゴリに属する媒体です。
そこで扱われる情報をどう受け取るべきか、本来ならば読み手がきちんと考えられるはず。

観客観客 2009/12/21 15:13 「俺は差別と黒人が大嫌いだ!」を真顔で言う人間を初めて見ました。
ホントにいるんですねこういう人。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/21 16:58 いや、これで完全に収束(終息?)しました。
高橋さんの意見を逐条的に検討していきたいところですが、重要な部分のみ。

>「結果として死んだり大けがをする(もちろん法的拘束力抜きで。念のため)人が出てくるかも知れませんが、それ自体が目的ではありません」
>……生じる結果には責任を持ってください。
>「結果」黙らせたり、職を失わせることを前提としたヤクザまがいの恫喝を防ぐためですが、貴方にはそういう感覚が全くないのはよく分かりました。
>さすがに、「表現の自由市場」という概念の解釈としてはかなり珍妙だと思うんですが。「結果」黙らせたり、職を失わせる活動は、表現の自由では保障されないと思いますよ

「差別的だ!」という批判によって、当該の作品絶版・作者断筆という「結果」が生じたとします。その「結果」に対して「やりすぎだ!」「言葉狩りだ!」という批判を加えて、作品を復刊し、作者の復権させることできます。復刊した作品により傷つけられた人は「安易に復刊するな!」とさらに批判し……という状況は当然あるしょう。
「名誉毀損や侮辱罪も法的規制じゃなく対抗言論によって処理するべき」という意見を「一考に値する」とおっしゃった高橋さんならご理解いただけるかと思います。
それよりも重要なのは、何事かを表現した「結果」生じた出来事については「責任」を負うべきだ、という意見を高橋さん自身の言葉として語っていただけたということです。
<<
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/sk-44/20091212/1260586483
NaokiTakahashi id:kogarasumaru 表現の自由を主張するな、というのは規制の正当化と何も変わらないので、たとえ差別表現の正当化につながっても、表現の自由の主張は許されるべきです。
hit-and-run ここで言明してたんだね。「表現の自由」のコストとして差別も正当化される。しかしそのコストを支払うのは自由の主唱者・受益者id:NaokiTakahashiではない。「誰に石を投げるかは自分で決める」のだから。そういうことね
<<
>>
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/h.hatena.ne.jp/hokusyu/9259266169312186180
NaokiTakahashi id:hit-and-run なんらかの具体的人権侵害にならない限りは差別表現の自由を認めますよ(留保があるのは、例えば名誉毀損とか侮辱罪とかはありうるから)。コストと言うよりは、表現の自由という基本的人権の一部として
<<
この意見は撤回されるんでしょうか。
いや、「具体的人権侵害にならない限りは」という留保がある、というならお聞きしますが、私がある作品を批判して、作者が作品を絶版にしたり、断筆したりするのは「具体的人権侵害」になるのですか。私はそんなこと一言も言ってないのに、高橋さんが持ち出した「ヤクザまがいの恫喝」という条件なしで考えてください。つまり、強要罪や脅迫罪などに当たらない場合です。高橋さんの論に従えば、そのような「結果」をもたらしたとしても、その批判は「表現の自由」として尊重されるはずです。
しかし、そのように「表現の自由」を行使した結果、生じた出来事には責任がともなうのは当然のことです。「当然の帰結だろ」、「自分の主張が受けいれられた場合の帰結にどう対処するか、って問題なんだから。自分の主張が持つ含意に責任持てない人間は、それこそ黙っててもらうしかないだろ」。
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090615/p1

「……生じる結果には責任を持ってください」
「表現の自由にヒモをつけるな!」

……なんて、私は言うつもりはありません。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/21 17:13 >その「結果」に対して「やりすぎだ!」「言葉狩りだ!」という批判を加えて、作品を復刊し、作者の復権させることできます。
後で損害賠償を払うから人権侵害してもいいってもんじゃないでしょうに。

>「名誉毀損や侮辱罪も法的規制じゃなく対抗言論によって処理するべき」という意見を「一考に値する」とおっしゃった高橋さんならご理解いただけるかと思います。
俺はその立場じゃないしね。「職を失わせる」とか「絶版に追い込む」とかは問題が名誉毀損の比じゃないと思うけどな。気楽に考えすぎだよ。

>私がある作品を批判して、作者が作品を絶版にしたり、断筆したりするのは「具体的人権侵害」になるのですか。
出版社に押しかけ圧力を掛けて出版停止に追い込んだら、具体的人権侵害になりうるだろうよ。加害者も被害者も被害も加害行為も明確でありうるからな。もちろん場合によるだろうが、君はその辺ほとんど留保なくしゃべってるように見えるから、当然危惧されてしかるべきだと思うんだが。
ていうか、それが問題ないのなら映画「靖国」に右翼が圧力掛けた例だって批判できなくなるんだが?

>つまり、強要罪や脅迫罪などに当たらない場合です。
じゃあ「押しかける」って表現はやめたほうがいいと思うよ。平和的に手紙でも書きなさい。

というか、ひとたび加害者側に回ったときの貴方の理屈は、あまりにもヤクザすぎて普通にヤバいんですが。もしかして、この展開でまだ自分が被害者側だと思ってます?
皮肉のつもりで何かつぶやいてるようだけど、俺が指摘してるのは普通の人権侵害の話だし、普通の法治主義の話で、ここまでくるとリバタリアニズムすら前提してないよ? まあ、無政府主義者ではないことは前提してるけど。

hit-and-runhit-and-run 2009/12/21 22:02 ヘイトスピーチや女性差別は「普通の人権侵害」だと思いますが。
さて、在特会が京都の朝鮮学校に押しかけた事件で、朝鮮学校側は告訴するようです。高橋さんはこの裁判の結果、原告の訴えが棄却された場合、人権侵害はなかったと考えるのでしょうか。
あるいは、在特会の行動は現実だから裁判結果によらず人権侵害だが、彼らが主張内容を小説やマンガという形式にして配布、流通させ、その目的を達成しようとするなら、それは人権侵害ではないと考えるのでしょうか。
高橋さんは「差別の自由」を擁護する。しかし、その結果発生する人権侵害に責任はないという。「表現の自由にヒモをつけるな」とはそういう意味のはずです。それって差別への加担とはどう違うんでしょうか。ヤクザでいえば、手先に汚れ仕事をさせて自分では直接手を下さない黒幕って感じ。
なお、私は在特会の言動を法的に規制するべきではないと思います(それがフィクションであれ、ノンフィクションであれ)。なぜか?

>ていうか、それが問題ないのなら映画「靖国」に右翼が圧力掛けた例だって批判できなくなるんだが?

この高橋さんの問いかけとも関わってくるんですが、だからといって、右翼思想や排外主義者の言論を法的に取り締まることには反対です。もちろん、彼らの行動が暴力沙汰になれば公権力が介入するでしょう。しかし、そうじゃない場合なら、彼らの言論を「法規制しないとして、それから」言論で対抗していくしかないでしょう。右翼の言論を法規制すべきではない、という「自分の主張が受けいれられた場合の帰結にどう対処するか、って問題なんだから」。
逆に、「差別の自由」を擁護して、なおかつその結果にコミットする義務はないという高橋さんは、自らの主張の危うさに気が付いていてそう言ってるんでしょうか?非常に不思議に思います。

tari-Gtari-G 2009/12/21 23:08 まだ続いていたのか。すごいしつこいな。

とても全部読む気にはなりませんが、見た範囲でもみんなにも言われてるけど、hitさんは、まず自分の言動を振り返ってみないと。

例えば意見の異なる他人に「死ね」を連呼をするのは、現行法でもかなり問題あるとは思いません?さすがに在特会ですら、「死ね」は言ってなかったんじゃないかな。

ご自分の言動の中の、在特会をも上回る面がある剥き出しの暴力性についてなんの疑問もないのだろうか。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/21 23:14 >ヘイトスピーチや女性差別は「普通の人権侵害」だと思いますが。
既に専門家がやっている実際の議論を読んでみるといいと思います。

>なお、私は在特会の言動を法的に規制するべきではないと思います(それがフィクションであれ、ノンフィクションであれ)。なぜか?
ええー、それはないわ。発言はともかく行動は普通にいろんな罪に問えそうなんだけど。

>この高橋さんの問いかけとも関わってくるんですが、だからといって、右翼思想や排外主義者の言論を法的に取り締まることには反対です。
俺が言ってるのは、具体的な犯罪行為を罪に問えってことなんですけどね。問題は彼らの右翼思想ではなくそれに基づいて実際にやってる行為なわけで。押しかけるとかね。

>逆に、「差別の自由」を擁護して、なおかつその結果にコミットする義務はないという高橋さんは、自らの主張の危うさに気が付いていてそう言ってるんでしょうか?非常に不思議に思います。
たぶん読んでる人の100人中99人は、危ないのはあんただ、と思ってると思いますよ。実際的な行為を何一つ掣肘しないのに、表現だけはあげつらおうという発想は理解できません。

というか、そろそろ話打ち切りたいんですが。もうどうしようもないなこの人、って思ってるんだけど、突っ込まないとヤバそうなネタを次々新しく提供してくれるのでなかなか終われない。

な・ま・えな・ま・え 2009/12/22 01:33 >もうどうしようもないなこの人、って思ってるんだけど、突っ込まないとヤバそうなネタを次々新しく提供してくれるので

てめえの理論武装が穴だらけだからだよ、愚物!
単に能力不足で傑作を書けないだけなのに、「表現規制があるから」なんて所に責任転嫁すんのは見苦しいぞ、無能が。

NaokiTakahashiNaokiTakahashi 2009/12/22 09:00 匿名で中身のない罵倒を書き逃げするしか出来ないクソに擁護されても嬉しくないと思うぞ、まともな人たちはw

YagokoroYagokoro 2009/12/23 01:33 ま、まさか在特会の狼藉よりフィクションの内容を問題視する人がいるとは…。ひょっとして思想が行動を免罪するっていう考え方なのかな?サヨクの暴力はきれいな暴力とか。(笑)

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