|
||
正直、彼らと議論を続ける意義を感じません。もう手を引きます。
もう今後一切彼らと表現規制についての議論はしないし、彼らの政治思想に言及することもしないつもりです。その意義も感じません。
最後に、hit-end-runさんとの以下の会話の中で、この辺は語る意義があるかなあと思ったので、書いておこうと思います。
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20091217/p1#c1261021969
hit-and-run ああ、わかりました。倫理的に問題がないと思って陵辱エロゲを作ってるわけじゃなく、倫理的な問題があると知っててあえて陵辱エロゲを作ってるわけね。これで大分見通しが良くなりました。お答えありがとう。
NaokiTakahashi 見通しって言われてもなあ。まあ、何か分かったんならそれでいいけれども。倫理的に問題があるフィクションをきちんとフィクションという枠の中で作る/受容することは、倫理的に問題がないと考えているよ。それは、作品自体に倫理的に問題があることとは別問題。倫理的に問題のある作品を、カッコに入れて(個人のご勝手のレベルで)楽しむ知性が必要だということね。
hit-and-run え?じゃあサザエさんの家父長制を批判する話はどうなるの?
NaokiTakahashi それは作品批評でしょ? まさか、それでサザエさん視聴者や長谷川町子批判をするつもりだったの?
hit-and-run 逆に、フィクションでありさえすれば、作り手の責任は一切問われないって考えるの? 反ユダヤ映画は批判すべきだがゲッベルスはイノセントだと。
NaokiTakahashi なるほどね。そういう発想なわけですか。エントリを挙げます。多分これがこの話題の最後のエントリになると思う。
最初に落ち穂拾いをしておきます。ゲッベルスは作家としての責任を問われているわけではないでしょう。この場合、レニ・リーフェンシュタールのほうが適切な例示ではないでしょうか。
彼女が撮ったのは記録映画であって劇映画ではありませんので、やや違う問題ではあるのですが、であっても、映画作品という形を取っている限りにおいて、単にリーフェンシュタールを悪だと決めつけることが絶対的に正しいのかは僕には正直疑問ですし、実際その点については様々な議論があると思います。
ところでhit-and-runさんはD・W・グリフィスの「國民の創生」というアメリカ映画をご存じですか?
「映画の父」と称えられるグリフィスと「ナチの協力者」として死ぬまで断罪され続けたリーフェンシュタールの違いは、なんだったのでしょう。劇映画と記録映画の違いなのか。アメリカとドイツの違いなのか。それとも、勝ったか負けたかの違いなのか。……最後のは、敢えて書きますがね。本来ならこういう考え方はよくないとは思うのですが。
とりあえず言えることは、どちらも歴史に残るレベルの天才映画監督だということですね。
閑話休題。