この話は、人によっては不快に思われる描写がたまに入ります。
1話 ○○○○○○を食べるまで
私は気がつけば知らない場所にいた。
バイト先の更衣室にいたはずだ。
現にバイト先の制服に、ロッカーに仕舞おうとしていた荷物を持っている。
バイト先は祖父が経営する高級料亭だ。料理というか、食べるのが好きで好きで仕方がないため、料理上達のためにバイトをさせてもらっていた。うちも寿司屋だが、寿司屋を継ぐのはあまり望ましくない。私はあらゆる料理が好きだから。将来は何でも作れる料理人になりたいので、手始めに和食を極めようと、修行も兼ねてバイトさせてもらっていたのだ。
立地は決して、自然豊かな場所ではない。政治家も使うような、都会の高級料亭だ。私は確かに都会にいたのだ。
だが私を囲う木々は苔むして、幹も太い。樹海と言っていいだろう。
そんな場所で、私は既に半日もさ迷っていた。
夢だ夢だと自分に言い聞かせるが、疲労に筋肉の痛みに、とても夢とは思えない。
今日は政治家の先生が来ると聞いていた。その関係でテロに巻き込まれて気を失い、どこぞの山に捨てられた?
そんなはずはない。なぜいきなり厨房の人間を眠らせる必要があるのか。何より私は厨房脇の更衣室の中だった。建物の構造的に、外で何かあって、気づかずいきなり眠らされるということはあり得ない。何か薬が使われたのだとしても、違和感もなく一瞬で眠るような事などないだろう。
「何だってんだ」
鞄の中には愛用の包丁一式が入っていて、今は一番頑丈な出刃包丁を気休め程度に持っている。
疲れ、適当な木の根元に座り込み、鞄の中からミネラルウォーターを取り出して一口飲む。
足が痛い。体力はある方だったが、道無き自然の中を歩いて平気なほどの体力はない。
「おじいちゃん……」
いつも優しい祖父を思うと涙が出た。みんなはどうしているのか。ここにいるのは私だけなのか。
厨房にいた他の人達はどうなったのだろうと、木々の枝葉に覆われた空を見る。
もうすぐ日が暮れる。
地面に触れる。冷たく、湿り気を帯びた土。見知らぬキノコ。ギャアギャアと鳴く極彩色の怪鳥。
明らかに日本ではない。
日本に、あのような鳥は生息しない。あんな鳥は見た事も聞いた事もない。むしろここは本当にこの世か?
「くそっ」
ここは夢か現か、この世かあの世か。
夜になればどうなるか。
悩んでいると、かさりと、真後ろから小さな葉が擦れる音がした。
慌てて振り向けば、手に近い位置に猫ほどはある大きな蜥蜴がいた。
私はそれに出刃包丁を突き立てる。
指した場所が悪かったのか、即死せずにビクビクのたうち、やがて血を垂れ流して動かなくなる。
「夕飯は確保、と」
そのまま立ち上がり、地面に落ちた枝を拾いながら歩く。
未成年のためたばこは吸うわけではないが、何かと役に立つためライターを持っているから、火付けに困る事はない。
問題は夜だ。
夜行性の肉食獣ぐらいいるような気がする。
「…………くそっ」
夢であっても夢でなくても、やる事をやらねばならない。
日が暮れる前に大量の枯れ枝を集めた。
蜥蜴を焼いて食べた。水場があればいいのだけど、あるのは大切な飲み水だけ。
血抜きして、塩をかけて焼いたら意外に美味しかった。
塩が切れて、バイトの前に買って鞄に入れていた物だ。別にサバイバルを予定していたわけではない。
さすがに胡椒はない。今は塩だけでも有り難い。まったく私は運が良いのか悪いのか。
翌朝、無事に日の出を見てまだ夢から覚めていないことに絶望しながら、昨日の蜥蜴の残りと、やたらとでかい芋虫を焼いて食べてみた。あまりの美味に私は目を見開いた。
芋虫は食べたことがあったから抵抗はなかった。昔から食べられる物は何でも食べる人間だ。嫌悪感など微塵もなかった。それが食べられる物であるからだ。美味ければそれがゲテモノだろうが、私にとって関係の無い事だった。
さすがにゴキブリだけは抵抗があるけど。
私は何でも食べる。食べる事がすべてだった。普通に食べられる物を食べる。調理する。食べられる物に食べられない物はない。全ての味を知りたいと、料理人を目指していた。
人は私を変だというけど、こんな時に迷いが生まれないのは、良い事なんだろう。
「芋虫もこんなに味の差があるのか……」
トカゲ、芋虫。美味しかった。
捕まえられそうにもないが、あの極彩色の鳥も美味しそうだ。
「食べ物ならいくらでもあるか。生き物が生きられるんだから当然だけど。
ああ……水が欲しいな」
結局、水は見つからなかった。
その晩も無事に過ごす事が出来た。
次の日の昼も無事だった。その夜も。
ここに来てからもう三日、さ迷った。
水場は見つけられなかったが、食べ物から最低限の水分を取っているので生きている。ただ喉は渇いている。疲れているが、生きる気力はある。ここから抜けだしたら、まともな調理場で、美味しかった食材を調理したかった。
ああ、料理したい、食べたい。
それにはここを抜ける必要がある。
野生動物は意外にもどうにかなった。群れでなければ、こちらが怯まず、大きな音を立てれば逃げていく。野生動物とは臆病なものだ。
今までは。
「悔しい」
睨み合う狼のような動物達。
相手は群れ。こちらは弱っている。
彼等にとって私は獲物でしかない。
食われる。
食うのが至上の喜びであり、自分が常に美味い物を食べるために料理人を目指す私が、食われる。
「はは……」
わけの分からない場所で、なぜここにいるか理由も分からず食い殺されるのか。
「食材の分際でっ」
食材。
狼を食べる事があるのは知っていた。
どんな味なのだろう。
こんな所で死ぬぐらいなら、この疑問を晴らしたかった。
「食ってやる」
食われるなら、食い返してやる。
死なばもろとも。
包丁を握りしめる。
喉から嗚咽にも似た笑いが漏れる。
殺傷力なら柳刃の方が高い。出刃はもう欠けてしまった。刃が欠けている事は、殺傷力にはあまり関係ないけれど。
両手に包丁を構え、狼と対峙する。
狼は吼え、飛びかかる。
そこからよく覚えていない。
出刃を叩き付け、別の狼に噛まれ、己で噛みつき、目の前が霞み、誰かの声が響き、気がつけば、ベッドの上にいた。
「何にしても生きてて良かったわね」
女性に頭を撫でられ、私は大人しく頷いた。
私を助けたという人物を、穴が空くほど見つめながら。
「ほら、もう大丈夫だから、気を抜いて良いのよ」
そう言って笑う女性に、見覚えがあった。
その背後にあるテレビ。
そのテレビの字幕は、見たことがないようで見た事のある……。
「あたしはメンチ。あんた、狼に襲われてたのよ。覚えてる?」
私は目を見開いて『メンチ』を見た。
メンチだ。間違いなくメンチだ。この変としかいいようのない髪型と抜群のスタイルは、間違いなくハンターハンターのメンチだ。私は少女漫画よりも少年漫画の方が好きで、人並みに漫画を読んでいた。
コミックは持っていないが、友人の家で一通り読んだ事がある。
思わず再び意識を手放しかけ、ベッドに倒れ込んだ衝撃で意識を取り戻した。
腕が痛い。幸い利き手ではなかったけど、すごく痛い。
「無理するんじゃないわ。まだ横になってなさい」
狼に噛まれた傷だ。狂犬病、という言葉が頭に過ぎり、それよりも漫画の登場人物が目の前にいるという事の方が重要だ。
それでテレビを見ていなかったら、ただのそっくりさんとか、コスプレですますけど、テレビにあの文字が出ていたから、ここがあの漫画で画かれていた世界である可能性を高くしていた。あのテレビの中でさえ見た事のない鳥も、説明が付く。
「あんた、なんであんな所にいたの? あの格好、ジャポンの料理人でしょ」
私は横たわる自分の身体を見下ろした。生成りのワンピースを着ている。
それはいいが、自分の身体から靄のような物が出ているのに気付いた。
(え、何とかって孔が開いている?)
「な、何これ」
苦しくはないので、無意識のうちにどうにか出来たようだ。ストーリーは覚えているが、細かな事まで覚えるほど読み込んではいないからはっきりとは言えないが、オーラをどうこうしなければ大変な事になったような気がした。
「それは後で説明するわ。だから落ち着いて」
説明してもらえると聞いて安堵した。
「は、はい」
「あんな所、普通は迷い込む所じゃないわよ。けっこう長い事迷ってたでしょ? 密猟者かと思ったけど、違うみたいだし」
ここがどこなのか。それはまず頭の片隅に置いておく事にした。
私は見知らぬ場所に突然飛ばされた一般人である。それに間違いはない。
メンチがいる。孔が開いている。見覚えのある独特の文字が見える。
そんなこと、今はどうでもいい。
「わ、わかりません。気付いたら……あそこにいて」
ここにいるという事実だけを今は見るべきだ。
メンチは私の言葉を聞いて顔を顰めた。
「気付いたら?」
「私、お店にいたんです」
「誘拐されたの?」
「更衣室にいて、荷物を片付けようとしたらあの森に立っていました」
メンチさんは顔を顰め、呟いた。
「念能力に目覚めたのかしら? あんた、それが見えるようになったのはいつから?」
「今です」
「じゃあ、誰かの……それで精孔が開きかけてて……?」
ぶつぶつと呟くメンチさん。
ああ、そうそう、精孔だ。
「とにかく、気付いたらあの森にいたって事ね」
「はい」
気付いたら漫画で描かれていた世界にいました、とは言えない。
「あんた、名前は」
「木下綾乃……アヤノです」
「アヤノね。どこに住んでるの? ご両親は?」
「どこ……」
どこと言われても困る。
「聞いちゃいけない事だったかな……ごめん」
「い、いえ、そんなっ」
ここでない世界にいます、とは言えない。だから分からないで通すしかない。説明してどうなる事でもない。今はまだ、知らない振りをすることにした。今はハンターハンターの知識すらない振りをしよう。話しても信じてもらえない。私なら信じない。病院を探してあげる。だから言えない。
「帰る所は……」
そもそも、帰り方が分からない。移動系の念能力で帰れるのか。異世界に行く念能力など、存在するのか。
「あんた、まだ小さいのに苦労してるのね……」
私が悩んでいると、ますます勘違いをしたメンチさんが、ベッドに横たわる私の頭を撫でた。
気は強いけど優しいお姉さんってところかな。
「まあいいわ。それの事も説明してあげるけど、今は休んで。
ああ、そうそう。あんたが食ってやるとか言ってた狼、煮込んでみたけど食べる?」
問われ、私は驚きながらも頷いた。
食べられることなく、食べてやれる。
それが力。
力があれば食べられる。食べたければ力を付ける。漫画のメンチさんはそんな感じだった。
私はメンチさんの差し出した狼の煮込みを口にした。
憎らしいオオカミも、今は見目麗しき料理でしかない。
「美味しい。硬そうだと思ったけど、絶妙ですね」
「でしょ。にくったらしい奴も、こうなっちゃえば可愛いもんでしょ」
「はい。手間暇かけただけ、可愛くなりますもんね」
「そうそう。あんたも料理人みたいだし、気が合いそうね」
合うに決まっている。
漫画の中で最も共感を覚えたキャラ、それがメンチさんだった。
可愛くて、スタイルが良くて、食を追求する姿勢。
私が知るこの世界の中で、私と最も近いのが彼女であろう。そんな彼女に出会えたのは、神の導きなのだろうか。
「あたし、美食ハンターやってるの。行く当てもないなら、よかったらあたしと来る?」
「え……」
私は自分の耳を疑った。
「まあ、弟子ってことになるのかな? ガラじゃないけど、それほっとくわけにもいかないし。何よりも、料理人の事は料理人が見るのが一番だからね」
出会っただけではなく、この待遇。
戸籍もない私にとって、彼女はまさに女神であった。
なんて優しい人なんだろう。
「よ、よろしくお願いしますっ! 私、美食ハンターになりたかったんです!」
私が申し込もうと思っていたのに、相手の方から申し出でくれた事に驚き、気付けば起き上がって頭を下げていた。
「あっつ」
「ちょ、だから寝てなさいって」
私は変な風に手をついてしまい、痛みで再び横に倒れた。
枕に頬を埋め、ふぅと息をつく。
メンチさんはまだ若い。確かハンター試験の時は二一歳。しかし今はまだ十代に見える。
十代で弟子を取ろうなんて、無謀にも程があるような気がするけど、そんな事はどうでもいい。
「わ、私、どうしても食べたい食材があるんですっ!」
「へぇ。目標があるのは良い事ね。その代わり、ジャポン料理食べさせてねっ!」
「はい」
私はこの幸運に、傷む手を合わせ、生まれて初めて心の底から神に感謝した。
ずっとずっと夢だった。
それが叶う可能性が出てきた。
「食べてみたかったんです、キメラアント」
え? と首を傾げるメンチを無視して、私は神に感謝した。
キメラアントだけではない。
様々な謎の生物。それらを思い、私は興奮で打ち震えた。
いつから原作が始まるのか覚えていないが、メンチさんがまだ二十歳を過ぎているように見えないから、余裕はあるはず。あとでメンチさんの年齢を聞けば、計算できる。確か若干21歳と書いてあった。
さらに前年にはヒソカが暴れてくれるので、その情報さえしっかり睨んでいれば、問題ないはずだ。
キメラアントを食べるための力を付ける準備期間があるのだと分かり、私は先に待つ地獄のようなバイオハザードを思い、恍惚と笑みを浮かべた。