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2007年03月31日

佐藤栄作と赤尾敏の知られざる友情

佐藤栄作と赤尾敏の知られざる友情

 私が一番許せないと思うのは、政治権力と暴力が通じていることである。右翼であれ暴力団であれ、無抵抗の市民が彼らの暴力で圧殺されるようであればこの世は闇だ。それを取り締まり、国民の人権と自由を守るのが国家権力の責務であるのに、その国家権力が暴力ともたれあっているならば、問題はもっと深刻だ。だからこそ政治家と右翼や暴力団の癒着が人一倍厳しく問題にされなくてはならないのだ。しかし現実はそうではない。また一つ、この国の支配者と暴力の関係が明らかにされた。

 赤尾敏という右翼活動家がいた。1951年に親米反共の右翼団体「大日本愛国党」を結成した人物である。1960年に社会党委員長の浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢(やまぐちおとや)らを門下生に持つ。

 その赤尾と佐藤栄作元首相が友情関係にあったという事を私は初めて知った。3月24日の毎日新聞「近耳遠見」で岩見隆夫が教えてくれた。岩見は、75年6月に行われた佐藤元首相の国民葬の際に、時の首相である三木武夫が暴漢に殴られた事件に言及し、その時の暴漢が赤尾敏の門弟であった事を明らかにしている。その背景について岩見氏は次のような石原慎太郎の言葉を引用して説明している。すなわち石原はその著書「国家なる幻影―わが政治への回想」(文芸春秋社)において次のように書いているという。

 ・・・(三木元首相を殴った)暴漢は赤尾敏氏の門弟だったと聞いた・・・国葬という声を踏みつけ、国民葬などという体験ですましてしまった三木総理への憤りを、赤尾氏は満座の前で披瀝したに違いない。世間が佐藤氏と赤尾氏の知られざる友情をつまびらかにされることはなかったが、私には納得気がした・・・

 岩見はまた、赤尾がまだ生前の時に佐藤家を頻繁に訪れていたことや、佐藤は赤尾の応援者であったことなどを、前掲の石原の著書や「佐藤栄作日記」(朝日新聞社)を引用して明らかにしている。

 私は思想としての右翼も左翼も排斥するものでは決してない。この日本をよりよい国にし、まじめで勤勉な国民の生活を守る政治の実現に向けて、あらゆる思想が切磋琢磨すればいいと思っている。しかし山口二矢の浅沼刺殺事件に見られるように、異なる思想を暴力で排除する事だけは絶対に許してはならない。それは民主主義の自殺である。この考えについては右翼も左翼もない。立場を超えて等しく日本国民が共有すべき普遍的な考えであるはずだ。だから総理や政治家という支配者が暴力を容認する人物や組織と深い関係にある事は厳しく追及さるべきであろう。

 岩見氏は、「近聞遠見」を次のような言葉で締めくくってお茶を濁している。

 ・・・そんな過激な右翼活動家が、二人の首相(佐藤、三木元首相)の間に介在していたのも、戦後政治の一断面である・・・

 残念だ。「政治と暴力はいかなる理由があっても両立させてはならない」と何故断言できなかったのか。


Political Leaders and Rightwing Groups In Japan

 This might not be a peculiar phenomenon in Japan. Political leaders are more often than not have an intimate relation with rightwing groups or the mafia and they use violence to oppress the opposing rivals.

 This has not to be accepted by any means in a democratic society. In this context it was shocking to know through the article of Daily Mainichi of March 24 written by political commentator Takao Iwami that former Prime Minister Eisaku Sato, one of the longest and most powerful Prime Ministers in post war period, was in a close relationship with Mr. Bin Akao, a leader of rightwing group of Big Japan Patriotic Party. One of the members of that group once assassinated a leader of the opposition political party.

 Mr. Iwami alluded in that article that in the past this kind of unwelcome relationship did exist but he didn’t mention whether that relationship continues to exist today or not.

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2007年03月31日

一億総評論家時代の落とし穴

一億総評論家時代の落とし穴

 いつか書こうと思っていたことがある。それは昨今のテレビの報道番組、政治番組についてである。このブログの読者の中にはメディア関係者もいると思う。あるメディア関係者がこう言っていたことを思い出す。「俺たちを怒らせると後が怖いぞ。マスコミを使って叩くからな」と。驚くべき傲慢な発言だ。しかし叩かれても失うものを持たない私にとっては無意味だ。

 かつてテレビが一般家庭に普及し始めた60年代前半に、評論家の大宅壮一はこれを一億総白痴化だと評した。それにならって今日のテレビを論ずるとさしずめ一億総評論家の感がする。どの時事番組を見ても、専門家、アナウンサー、政治家、芸能タレントが入り混じって好き勝手な評論を言い合っている。

 私はその風潮を一概に否定するものではない。「世間に知恵がついてきて、やりにくくなってきた」。これは外務官僚時代の同僚が私の前で語った言葉である。しかしこれは外務官僚に限ったことではない。あらゆる省庁の官僚、いや政治家を含めた権力者すべてに共通した本音であろう。彼らが一番困るのは、情報が一般国民に共有されることによって自分たちの特権が失われることである。すなわち情報を独占することによって仕事の質の低さを覆い隠して来た、それが出来なくなって仕事に厳しさが求められるようになってきた。日常茶飯事のように表面化している今日の数々の醜聞は、当たり前のように行われてきたずさんな仕事の実態が、情報公開や内部告発の一般化によって表面化しただけのことだ。だからメディアが情報を視聴者に提供し、それについて誰もが勝手なことを論じ合う風潮は、それ自体は歓迎されるべきである。

 しかしである。昨今のテレビに限って言えば大きな弊害がある。はじめから意図して作られた醜悪な討論番組はもちろん言語道断であるが、それはまだ罪は軽い。番組を作る方も、出演者も、ふざけた娯楽番組であるということを承知の上で、仕事の為に、あるいは売名で、あるいは高額なギャラほしさのために、身を貶めているからだ。見るほうもそれを承知で、馬鹿にしながら見るからである。

 問題は一見まじめな時事番組、報道番組における一億総評論家の風潮である。大騒ぎして政府批判をするくせに、権力者にとって真に都合の悪いとろにまでは決して踏み込まない。問題提起はするが、是正の為の追及を徹底的に行わない。国民の不満のガス抜き効果で終わってしまっている。それは結果として権力者に加担することにならないか。そういう気がしてならない。


Too Many TV Political Talk Shows But None of Them Really Confronts With The Government

 When we watch TV political talk shows, which are now flooding at every channel, it seems as if all of 100 million Japanese, not to mention journalists, politicians, bureaucrats, scholars but singers, entertainers, talents or even amateurs, become commentators.

 This phenomenon itself is not bad at all. As the knowledge and information be shared widely among people it is natural that people tend to express their view and criticize things. This can play the role of checking the wrong doing of the rulers.

 The frustrating thing of recent TV shows, however, is that commentators never reach the point of real criticism. If their comments end up with only absorbing the anger of the TV viewers they might support the rulers in a sense they stop indicting the ruler to the end. That is dangerous.

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2007年03月30日

現実が先行し法がそのあとを追いかけている今の日本

現実が先行し法がそのあとを追いかけている今の日本

 3月25日からその一面で連載が続いている東京新聞の特集記事「変貌する自衛隊」は、国民が一読すべき重要な特集である。なかでも25日の第一回の記事は衝撃的だ。 こんな事が行われていた事をどれだけの国民が知っていただろうか。すこし長くなるが要約して引用する。

昨年11月、航空自衛隊のC130輸送機が米軍基地に着陸しようと高度を下げたところだった。「ピー、ピー、ピー」突然、操縦室に警報が響いた。同時にボン、ボン、と鈍い音を残しておとりとなる火炎玉のフレアが機外に自動発射された。「右だ!」機体が傾き、急激に右へ旋回する。続いて左旋回。さらに右旋回、左旋回と警報が消えるまで切り返しは続いた。

警報機はミサイル接近を探知すると鳴る。イラクに出回っているのは旧ソ連製の地対空携帯ミサイル「SA7」だ。熱源のエンジンめがけて飛び、機体近くで炸裂する・・・バクダッド便を経験した乗員は同じ感想を抱くという。「これは訓練ではない。実戦なのだ」・・・イラク特措法に基づいてクエートに派遣されている空自部隊約200人は、日本政府の決定により昨年7月31日からバクダッドへの飛行を開始した。そこで求められたのは「ミサイルからの回避行動」。それまでは一度もなかったことだ。

警報が鳴り、回避行動をとった回数について、空自幹部は「頻繁にある」と驚くべき証言をする。「空自が狙われているのか」との問いに、統合幕僚監部運用二課長は「撃たれたことは一度もない」と断言する。それでは機械の誤作動なのか。昨年12月に帰国した一佐は「『分からない』というのが正確な答えだ」

 昨年9月、首相官邸。安倍官房長(当時)のもとへ空自幹部が報告に出向いた。
 幹部「多国籍軍には月30件ぐらいの航空機への攻撃が報告されています」
 安倍「危ないですね」
 幹部「だから自衛隊が行っているのです」
 安倍「撃たれたら騒がれるでしょうね」
 幹部「その時、怖いのは『なぜそんな危険なところに行っているんだ』という声が上がることです」
 安倍「ああ、それなら大丈夫です。安全でないことは小泉首相(当時)も国会で答弁していますから」・・・

 この記事によって米国の戦争のために日本の自衛隊が戦地に赴いている事が証明された。日本の防衛とは何の関係もないにもかかわらず、同盟国の戦争を支援するため戦地に自衛隊が派遣されている。これはれっきとした集団的自衛権の行使である。安倍首相は、ここにきて急に「(現行憲法の中で集団的自衛権の行使が可能となる)解釈の余地があるか検討してみる」と言い出したが、少なくとも今日までの憲法9条の解釈では集団的自衛権は認められていない。現実が先行しているのだ。

 メディアや国民の関心は陸上自衛隊がサマワから撤収してから急速に薄れてしまった。その裏で日本政府は航空自衛隊による米軍支援を続け、その活動の詳細を公表せず、論議を封印したまま7月に期限切れとなるイラク特措法の延長を図ろうとしている。米国の上下院議会が米兵の早期撤収を可決したと言うのにである。
 そういえば26日の共同通信は、米国防総省高官が、日本海上に配備する次世代ミサイル(SM3)は米国へ向かうミサイル(テポドン2)を撃ち落すことを想定していると共同通信の取材に応じた事を報じていた。これも集団的自衛権の行使を当然視した発言だ。

 現実がどんどん先行し、その後を追って、解釈改憲、条文改憲が行われていくのだ。日本政府は現実と法のギャップを覆い隠すために、早晩改憲に踏み切らざるを得ない。あらゆる手段を講じて国民投票による国民の承認を確保しようとしてくるに違いない。

 しかしどのような宣伝、広報、情報操作を政府が行おうと、「今憲法を変えることは米軍の戦争に巻き込まれる」という単純・自明な真実を国民が直視すれば、まともな国民であれば、「ちょっと待ってくれ。それはおかしいんじゃないか」と思うはずだ。

 戦後60余年の歴史の中ではじめて、政府と国民のガチンコ勝負の時が来る。一人の国民でも、バラバラな国民でも、反対票が集まると大きな力となる。国民のたった1票で政府の違憲を裁く事ができる。日本を米国の軍事支配から救うことが出来るのだ。


Actual Policy Comes First. The Constitution Follows It After.

 Amid the fierce protests from peace loving people of Japan Former Prime Minister Koizumi dared to send Japanese Ground Self-Defense Force to Iraq in the name of humanitarian and reconstruction assistance. But at the same time Air Self-Defense Force was also sent to Iraq for supporting US military operation.

 Since Ground Self-Defense Force was withdrawn completing their job in last July media seldom reported Japan’s involvement in US war in Iraq and therefore Japanese people seem to have lost their interest in Iraq war.

 The series of special articles of Tokyo Shinbun starting from 25 March, however, reminded us that Air Self-Defense Force continues or even strengthens its support US war.

 Prime Minister Abe who succeeded Mr. Koizumi last September takes over the policy of sending Air Self-Defense Force to Iraq and even extends its tenure for another two years.

 The article of Tokyo Shinbun of 25 March so clearly tells Japanese people the reality of Air Self-Defense Force’s activities in Iraq. The activity of Air Self-Defense Force is nothing to do with defending Japan and Japanese people but only supporting US war against Iraq.

 This obviously violates the article 9 of Japan’s Constitution which limits Self-Defense force’s activity only defending Japan and Japanese people.

 This means actual policy goes beyond the current Constitution. the Japanese Government has to either stop her support of US fighting in Iraq or to amend the Constitution enabling Self-defense Force to fight overseas for US 's war.

 SinceJapanese Government believes Japan-US military alliance comes first she takes it for granted to discard the Article 9. On the other hand lots of Japanese people believe the Article 9 has protected Japan from being involved in wars.

 If Abe Government passes the controversial National Referendum Law and tries to amend the Constitution a showdown between the Government and the Japanese people who are against the amendment will be unavoidable. This might be a historical moment. If the people wins its is a sort of the firts people's revolution of Japan

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2007年03月29日

閑話休題 イラク帰還兵のさけび

閑話休題
イラク帰還兵のさけび

 3月26日の毎日新聞「風に吹かれて」 in the U.S.A.から、米国イラク帰還兵(25歳)の言葉を引用したい。日本の若い自衛隊員諸君はこの言葉をどういう思いで聞くであろうか。

 自衛隊員も、私も、そしていまやほとんどの日本国民が戦争というものを知らない。しかしこの米国の帰還兵のように、自分がイラクの戦場へ一兵卒として行かされた時の事を想像することはできる。そう思って次の言葉を噛みしめることはできる。

進軍した最初のころ、終戦を知らないイラク兵が撃ってきた。撃ってくるから、もちろん殺した。そのうち夜に攻撃されるようになった。体温を感知する赤外線ゴーグルをつけて民家を捜索していると、近づくイラク人が見えるんだ。何度も、何度も、来る。殺したイラク人の遺体を運んだ・・・おれは隣にいる男、仲間のために戦った。だが、友人は死んだ。なぜ妻子がいる友人が死んで、独り者のおれが生き残ったのか、分からない。

帰国してから眠れなくなった。夜中に叫び声をあげ、汗をかいて起きる。遺体を運ぶ夢を繰り返しみる・・・酒を飲んだ。麻薬を始めた。両親は「違う人間になった」と嘆いた。元軍人の父に説明しようとしたが、わかってもらえなかった・・・星条旗に包まれたひつぎ、墓地、砂漠などを見ると、フラッシュバックに襲われる。でも、ここ(ホームレス収容所)には同じ経験をした元兵士がいて話ができる。一人で我慢しなくていいんだ

 もちろん、この米国帰還兵たちの犠牲になったイラク人側の無数の叫びがある。平和過ぎる日本に身を置いてやたらに好戦的な言辞を叫ぶ連中には、この悲惨な声が聞こえないのか。ロサンゼルスからこの記事を発信した国枝すみれ特派員は、そう我々に問いかけているに違いない。

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2007年03月29日

人材バンク構想をわらう

人材バンク構想をわらう

 今日29日の各紙は、人事院が28日に発表した「国家公務員の民間企業への再就職状況をまとめた年次報告」(いわゆる天下り白書)を報じていた。その記事には元同僚であった各省の官僚が役員や顧問でさまざまな会社に天下っている一覧表がついていた。それを見ながら元同僚たちの顔を思い浮かべた。あいつがこんなところへいっているのか、いい思いをしているなあ、しかしろくな仕事もなく、つまらん人生だなあ、などの思いが浮かんでは消える。たしかに天下りは官僚の甘やかしだ。これほどまでに世の中の雇用形態や雇用事情が様変わりしているというのに、旧態依然とした官僚の再就職保証が手付かずで残っている事は驚きである。そしてそれはとりもなおさずこの国の官僚支配、官僚天国の醜悪な姿を浮き彫りにしている。

 世間は天下りの実態についてどれほどわかっているのかと思う。天下りには大別して二つの種類がある。もちろんそのいずれもが官僚甘やかしで、一刻も早く全廃されるべきである。

 ひとつはキャリアの早期天下りである。これは同期生が幹部になる50歳前後から、幹部になれなかった者に対する救済のような形で与えられるポストである。出世という名誉を得られなかったかわりに生活面での厚遇を保証するというものだ。年下の上司の下で働くことが当たり前の民間企業にくらべ、なんという甘やかしであろうか。

 もうひとつは60歳を過ぎて定年退職したあとも保証される再就職である。これはノンキャリアにも当てはまる。

 いずれの場合も、最終ポストの軽重によって優遇度に差はあるというものの、70歳過ぎまで色々な職場が既得権益のごとく用意されている。

 天下り先は、純粋な民間企業の場合と、各省庁の関連団体やそのまた孫団体のような機関への再就職の場合の二通りがある。前者は当然利権と結びつく。後者は税金泥棒となる。

 このように考えると天下り防止策として連日新聞を賑わせている「新人材バンクの創設」なるものが、いかに甘っちょろい、馬鹿げたものであるかがわかるだろう。それは「各省庁の押し付け的な天下りをなくす」という、天下りのごく一部分のみをいじくろうとする目くらましに過ぎない。おまけにその人材バンク創設には税金を使った予算措置を講じるというのである。不透明きわまりない。それさえもいつから導入するかで政治家や官僚が大喧嘩しているのである。話にならない。

 3月28日の朝日新聞「経済気象台」に、的確な意見がのっていた。「・・・この人材バンクで天下りの何を根本から変えようと言うのか・・・まずやるべきは、独立法人などの縮小、廃止である・・・併せてやるべきは民間企業への公務員の再就職期間の強化・延長である。ゆめゆめ解除などしてはならない。もしそれらを抜きにして人材バンクを立ち上げるなら、それはおそらく官にとって最も都合のよい天下り促進機構になってしまうだろう」

 当然過ぎる意見だ。ひとつだけ付言してこの不愉快な天下りに関する私のブログを終えることとする。「天下りを規制すると優秀な人間が集まらなくなる」とか、「官僚の優秀な知見を民間で活用すべきだ」などという意見が必ず出てくる。この考えこそが天下りがなくならない元凶なのである。優秀な人間や、志のある人間は、天下りなどなくても官僚を目指すものだ。仮に天下りを廃止したから優秀な人間が集まらないのであれば、所詮は官僚という職業はそういうものであると世間に見られているのだ。そんな組織は縮小すればいいだけの話だ。官僚の優秀な知見を民間が必要とするなどという意見に至っては民間軽視もはなはだしい。親官庁とのパイプ以外に官僚の古手にどんな知見があるというのか。国家権力を手放した官僚がいかに使い物にならないかは、民間企業が一番知っているはずである。その民間企業が、国家権力にゴマをすっておいしい目をさせてもらおうとする浅ましい考えのない企業であれば。


About Abolishing So-Called Descending From Heaven Practices

 In Japan public servant is neither public nor servant. They are aristocratic and masters. Amid the severe employment situation in Japan only bureaucrats or public servants enjoy favorable treatment. They are guaranteed to stay untill 60 years old and even after they retire they are offered new posts by governments. They go to either private companies which governments ask to accept or various subsidiary organizations which governments create st the tax-payers' money. indeed It is Descending from Heaven posts.

 It is natural that people are so angry at this practice and ask the government to abolish this. Mr. Abe, who is so desperate for recovering his decaying popularity, made it clear that he would introduce the measure to redress this unpopular practices. He seems to faces, however, a strong resistance from the bureaucrats.

 As a compromise he try to establish a new company which facilitates retiring bureaucrats to get a new jobs in the private companies. This idea itself is nothing but spoiling bureaucrats. In Japan bureaucrats are the strongest.

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2007年03月28日

「質問主意書」新党をつくろう

「質問主意書」新党をつくろう

 このブログの読者の中には間違いなく官僚がいる。だから本当はこんな事を書くと警戒されてしまうのだが、それを承知で敢えて書く。「質問主意書」新党を国民はつくるべきだということを。

 質問主意書は国会法74条にもとづいて国会議員が内閣に対して行う文書による質問である。内閣は閣議決定を経てその答えを議長を通じ7日以内にその議員に文書で答弁しなくてはならない。

 これを有名にさせたのが鈴木宗男である。一人政党の新党大地には国会での質問時間は割り当てられない。それを逆手にとって鈴木宗男は質問主意書を連発したのだ。残念ながら鈴木宗男の質問は外務省に対する嫌がらせのような次元の低い質問がほとんどであった。だからメディアも国民もこの質問主意書の本当の重要性に気づいていない。しかし、もし国会議員が国民に代って政府のさまざまな政策についてまじめな質問をし、政府を追い詰め、政府の答えをメディアを通じ国民に情報公開したらどうか。おそらく最も有効、かつ強力な情報公開の手段となるであろう。

 3月28日の日経新聞に、今大騒ぎをしている天下り問題に関する政府答弁書の記事が出ていた。国家公務員の天下りについて、政府答弁は「国民の目から見て押し付け的なものも含まれている」と認めたうえで、「官製談合等の背景には押し付け的なあっせんがあったであろう」と踏み込んだのだ。この表現をめぐっては、閣議決定の前の各省次官会議で次官の一部から反対の声があがりいったんは閣議決定見送りの観測も浮上したが、総理官邸側の判断で押し切ったという。そんな経緯があるほど政府を追い詰めた質問主意書であったのだ。無所属の国会議員である江田憲司衆議院議員が質問主意書を提出したからこそ、政府を追い詰められたのだ。

 いまや国会審議は完全に空洞化している。一方において自民党の八百長質問が延々と続き、野党の質問に対しては、政府はまともに答えようとはしない。共産党や社民党の弱小野党はろくな質問時間を与えてもらえない。こんな中での国会質問は茶番である。そんな質問を繰り返すよりも、良質で鋭い質問主意書をどんどんと政府にぶつけ、政府の政策を追及するほうがはるかに効果的である。

 そのためには国会議員に頼まなければならない。しかし大部分の国会議員は政党に属しているために、必ずしも国民の知りたい事、聞きたいことをそのまま質問してくれるとは限らない。しかも質問の手柄は所属政党のものになる。これでは本物の質問にはなりえない。

 だから新しい政党をつくるのだ。もっぱら国民に代って質問主意書を政府に提出し、その答えを国民に届ける役目を果たす国会議員を一人国会に送り込むのだ。たとえば私が何らかの形で国会議員になったとしよう。直ちに「質問主意書」新党を立ち上げて国民に呼びかける。国の政策について知りたいことはないかと。あるいは国民の中から有識者を集め良質の質問を作っていく。そしてそれらをどんどんと政府にぶつけていってその答えを国民に情報公開する。国民との連絡はすべてインターネットで行えばよい。自らのHPで公開してもよい。既存の政党に属さないので自由に何でもできる。国民の支持が広がれば複数の政治家を当選させることができるようになるだろう。政権政党など目指す必要はない。国民の声を代弁し、どの政党が政権をとろうとも、政府を監視し続ける「質問主意書」政党に徹すればいいのだ。国民の支持が広がり複数の優秀な政治家を擁するようになると、キャステイングボートさえ握れるようになるかも知れないのだ。これこそが私が考えるまったく新しい政党なのである。

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2007年03月28日

「沖縄密約」訴訟の判決に思う

「沖縄密約」訴訟の判決に思う

 3月27日、東京地裁は、「沖縄密約」を否定した日本政府を相手取った元毎日新聞記者西山太吉氏の損害賠償の訴えを、「除訴期間(権利の存続期間、20年)を過ぎており、賠償請求権は消滅している」として棄却した。

 この事件については若干の説明を要する。沖縄返還協定で定められていた返還地の復元補償費400万ドルの米軍負担を日本政府が肩代わりするとの密約の存在が明らかにされたのは72年の国会審議における野党議員の質問からであった。しかし密約の存在の有無という本質的な問題がはぐらかされ、西山氏が外務省の女性職員をそそのかして極秘電信文を入手したというスキャンダルに世間の関心が集中した。西山氏は機密漏洩罪で起訴され、78年の最高裁判決により懲役4ヶ月執行猶予一年の刑に服する事が確定した。ところがその後2000年5月に密約の存在を裏付ける公文書が米政府の秘密解除により明らかにされた。西山氏は05年4月、「密約を否定した日本政府により名誉を傷つけられた」として損害賠償を求める訴訟を起こしていたのだ。その後06年2月に密約の当事者である吉野文六元アメリカ局長が北海道新聞などに密約の存在を認める発言を行うまでに至った。ここまで事実が明らかになったにもかかわらず、政府、外務省は一切なかったといい続けている。そんな中での西山訴訟であり、今回の東京地裁の判決であったのだ。

 この判決については次の三点を指摘しなければならない。ひとつはこの国の司法が政治権力に完全に屈服しているということだ。すなわちこの国の裁判官は政府に不利になる判決を決しておこなわない。一部の良識ある裁判官によって政府の犯罪が裁かれることがあっても、それは極めて例外であって、そのような判決を行う裁判官は批判され、左遷される。遺書まで書いて正しい判決を書かなければならないのだ。しかも、大方の裁判官の卑怯なところは、訴訟の内容を正面から受け止め、審理を尽くして政府弁護の判決を下すのではなく、今回のように訴えの資格がないという理由で退ける態度である。つまり裁判官の良心から逃げているのである。私は自衛隊のイラク派遣違憲訴訟の原告の一人として、この現実を目撃してきた。

 二つ目は黒を白といい続ける政府、外務省の脆弱さである。きょう(28日)の読売新聞はその社説で、「密約がなかったというこれまでの政府の答弁をもう撤回してもいい時ではないか」と書いている。あの読売でさえ、麻生外務大臣の「密約というものはございません」、小泉前首相の「外務大臣の答弁した通り。おかしいとは思っておりません」という答弁を、「言い張るな」と言っているのである。政府や外務省が、その時の判断が国益上正しかったと思うのであれば、米国の公文書が公開された時点でその存在を認めるべきであったのだ。その勇気さえ持たない今の政府、外務省の態度は、米国、英国を含め世界がイラク戦争の間違いを認めている今になっても、ただ一人「正しかった」と言い続けている態度とまったく同じである。事実を認める勇気がないのである。自らの政策に自信が持てないのである。後ろめたさを引きずり続ける政府や外務省は、やがて精神の荒廃を来たして内部崩壊していくであろう。

 三つ目はこの西山事件の重要性を深刻に報道しない大手メディアのジャーナリズム精神の放棄である。インターネットの急速な発展によって既存の報道メディアはやがてその存在価値が失われていくと言われている。おそらくそうなっていくであろう。権力におもねり、権力者の不正や真実の追究を怠るジャーナリズムはもはやジャーナリズムではない。彼らの行き着く先は娯楽番組だけになるのだろう。「やらせ」がここまで広く、深く浸透しているということはそういうことなのだ。嘘でもなんでも面白ければいいのだ。これはジャーナリズムではない。

 西山氏は、「勝ち負けの問題ではない。違法な秘密の問題性を発信し続けていく。最後までやる」と控訴の意向を明らかにしたという。私は一面識もないこの西山氏の勇気に喝采を送りたい。さまざまな権力の不当な犠牲になっている人たちはこの西山氏の苦しい戦いに支援を送るべきだ。正しいことを言い続ける者にはいつか必ず報われる時が来る。嘘を言い続けるものたちは自らの嘘の重みに耐えられず崩壊する時がいずれ来る。少数派がいつの日か多数派に逆転する日が来る。今の日本の混迷は、日本がその限界点に近づきつつある事を示しているような気がするのである。

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2007年03月27日

みのもんたのセクハラ事件とこの国の正体

みのもんたのセクハラ事件とこの国の正体

 これから書く事は「みのもんた」という報道人の醜聞についてではない。もちろん個人攻撃ではない。この問題の対応にこの国の正体を見た、その事を書きたいのだ。それは一つには強者に弱く弱者をいじめるこの国の後進性であり、もう一つはその体質を象徴するこの国の大手メディアの姿勢である。

 みのもんたがセクハラを行ったのは間違いない。個人的体験からそう断言できる。次の文章を読んでいただきたい。これは昨年の11月29日に展望社という出版会社のHPに寄稿した私の文章である。

 皆さんは、毎朝のニュース番組であるみのもんたの「朝ズバッ!」をご承知だと思う。私はみのもんたが特段好きという訳ではないが何故か憎めない。しかしそんな彼でも許せない発言を見逃すわけにはいかない。

 あれはジャパンカップで、ディープインパクトが勝った翌日だったから11月27日の「朝ズバッ!」だったと思う。ディープインパクトはこの勝利の後、今年最後のGIレースである有馬記念を最後に引退する事になっている。そしてその後は種牡馬として第二の人生(馬生?)を送ることは競馬ファンなら誰でも知っている。

 みのもんたはそのことを茶化して「うらやましいなあ、男冥利に尽きる」と発言した後、隣の若い女子アナウンサーに、「どういう意味だかわかる?」とニヤニヤしながら質問した。そのアナウンサーは戸惑いながら一生懸命言葉を選んで答えていたが、みのもんたは執拗に「それは具体的にどういう意味か」とたたみかけたのだ。言葉に窮した女子アナウンサーを前にみのもんたは最後に、「それを種付けというんだ」と言い放った。

 これをセクハラと言わずしてなんという。朝早くからこのようなみのもんたの増長振りを全国放送で聞かされた私は不愉快であったが、もっと残念だったのはこの発言をたしなめるメディアがまったくなかったことだ。あるいは私が見落としているのか、あるいはこれからどこかのメディアがこれを取り上げるのか、それはわからない。しかしもしこのみのもんたの発言がこのまま何も無かったかのように封印されるとすれば、私はこの国のメディアのふがいなさを糾弾せざるを得ない。弱いものいじめはいくらでもするが視聴率を稼げる人気者の不始末は見過ごす、それが今のメディアに違いない。

 今回の事件から明るみになったみのもんたのセクハラはもっとひどいようだ。周囲の間では皆が知っていた。それにもかかわらず放置されていたという。

 この問題を最初に報じたのは4月5日・12日号の週刊女性セブンだ。その後に週刊フライデーや週刊ポスト、週刊アサヒ芸能などが報じている。しかしテレビや大手新聞は不思議な沈黙を守っている。まるで腫れ物にさわるようだ。 

 私がどうしても許せないのが、セクハラの被害者である女子アナウンサーを悪者にするかのような報道姿勢である。例えば3月27日の日刊ゲンダイなんかはひどい書き方をしている。被害者である女子アナを実名で報道した上で、彼女の評判について「上司とも同僚ともうちとけないタイプですね。飲みに誘っても断る事が多くて、同僚も誘いづらいといっています。」と貶め、あげくの果ては、「(みのは)仲間とわいわいやるのが大好きだからね。セクハラといってもみのには悪気がなかったんじゃないかな」などという関係者の弁護発言を引用する。あべこべだろう。この女子アナには何の非もない。100%被害者だ。それにもかかわらず、左遷され今肩身の狭い思いの毎日を過ごしているのだ。天下の視聴率男「みのもんた」様を困らせた悪い女と言われているに違いない。

 権力に弱いメディア、強者の不正を告発したり強者の立場を悪くするような言動をした者に対する軽蔑とバッシング、そしてなによりも、権力者の都合の悪い事はすべてをうやむやにしてしまう隠蔽体質。みのもんたのセクハラ事件は、今日のこの国の病を見事に示している。


Sexual Harassment of a Famous TV Commentator in Japan

 A weekly magazine scooped that Mino Monta, one of the most popular TV commentators in Japan committed a sexual harassment to his colleagues.

 This scoop must have been a sensational scandal but strangely enough none of the major TV or newspapers did follow up this scoop and now the scandal seems to be silenced. Mino Monta continues to appear in TV as if nothing has happened. The victim of the sexual harassment kept silence as if she was forced to do so.

 This strange phenomina so clearly illustrate Today’s Japan. Firstly the status of women in Japan is so weak even today in Japan. Secondly media are weak and flattery to the power. Mino is one of the most popular commentators in Japan and media have taken advantage of his popularity for their lucrative programs. More importantly Japanese people are generous about the scandal of the powerful man while they are harsh toward the weak's misbehavior. In short this incident shows Japan has not yet been a true democratic country.

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2007年03月26日

閑話休題 経済的自立のすすめ

閑話休題
経済的自立のすすめ

 若い人たちから助言を求められることがある。今なすべき事はなにかと。そんな時に私はこう答える事にしている。なるべく早い段階で経済的自立を確保するように目標を設定しろと。最低限の生活を確保できれば、あとは自分の好きな事をしながら人生を送る事が出来る理想的な人生を追求できるのだ。なによりも精神の自立が得られる。自分に正直な発言が出来るようになる。要するに自分を解放できるのだ。定年になってから自由になっても、それはもう遅いのだ。

 なぜ私がいきなりこんな事を書くかというと、3月22日の毎日新聞に出ていた、北海道大学教授(行政学)山口二郎氏の言葉に大いに頷くことがあったからである。山口氏はこう言っている。


(かつては)自立した市民が、腐敗した官僚や自民党を乗り越え、民主政治を作り出すというイメージを持っていた。その市民は、やはり安定した職を持つ存在です。それが新聞を読み、テレビの報道番組を見て、批判的知性を持つ。そういう民主主義を考えていました・・・この議論は、戦後の経済成長と再配分の蓄積で人々が中流意識を持てたからこそのものでした。その蓄積を食い潰し、なりふり構わぬ新自由主義が展開されると、市民の生活は相当に陥没してきた。私が想定してきた市民は実は非常に脆弱なもので、もう一回、生活をきっちり確保しないと、民主政治がどうだなんて議論はできないと考えています。

山口は、小泉改革なるものによって格差がひろがり、一握りの金持ちの裏で大多数の経済的弱者が生まれてしまった、その弱者は健全な政治的批判力を失い、強者の乱暴な言動にあこがれる、かくして日本の社会は右傾化した閉塞社会になってしまったというのだ。為政者の思う壺だ。

 経済的自立の重要性は、清沢きよし(さんずいへんに列と書く)という戦前の反戦外交評論家の生き様をみれば頷ける。2月25日の日経新聞の「日記をのぞく」という連載でつぎのような興味あるエピソードを私は見つけた。

反戦、反軍国主義を訴えた清沢は内閣情報局から執筆を禁止され原稿料が途絶えた。そんな時どうやって暮らしていたかというと、株式の配当にたよったほか、所有地を畑にして暮らしたという。言論人としての独立を守るためには経済的自立、つまり生活基盤の安定が大切であると清沢は考えていたのだ。それがあればこそ、孤立を恐れずに自分の信念を訴え続けられるのだ。

 上記の二つの引用は、政治活動や言論活動に限られるものではない。今日を生きるあらゆる人間に共通して当てはまる事だと思う。まず自分の手で継続的、安定的な必要最低限の経済的自立を確保することだ。その後は無限の可能性が広がる。大金持ちを目指すのも良い。清貧に甘んじるのも良い。自然と共生する人生を求めるのも良い。自分で納得できる人生を自分の手で選ぶ事が出来るのだ。そしてそのような自立した生活が出来る者こそ人生の勝者なのだ。金の多寡では決してない。

 日本外交が行き詰まるのは米国から自立できないからである。米国に逆らったら怖いと言う幻影におびえているからである。その檻から解き放たれた時、日本は大空を自由に飛べるようになる。日本も日本人ももっと自分を信じるべきだ。そして檻を破る勇気を持つべきなのである。

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2007年03月25日

官僚のつくる法律に支配される国民生活

官僚のつくる法律に支配される国民生活

 24日のブログに続いて、もう一回だけこの国の不条理な政治システムについて書きたい。

 賢明なる読者のはたして何人が、ゲートキーパー(門番)法案なるものが23日の衆院本会議で可決されたことを知っているだろうか。私はもちろん知らなかった。24日の東京新聞「こちら特捜部」を読むまでは。

 いつものことながら東京新聞の「こちら特捜部」の特集記事は、国民に重要な問題提起をしてくれている。今回は犯罪収益移転防止法案という難しい名前の法案(俗称ゲートキーパー法案)について我々に注意喚起している。

 この法案は、反対派にとっては密告義務化法案と呼ばれているらしい。共謀罪法案、個人情報保護法と並んで、テロ対策強化の名目で猛スピードで導入されようとしている権力法案である。(政府はOECDの合意に基づいて国内法を整備しなければならないと例によって国際的要請を強調するが、OECDの勧告は決して拘束力のあるものではない。立法化の動きを見せていない国も多い)。

 具体的には、犯罪組織のマネーロンダリング防止を目的として、金融機関、不動産業者、貴金属商など38業種を「門番」とし、①顧客の本人確認②取引記録の7年間保存③犯罪の疑いのある取引の監督官庁への通報などを義務付け、違反すれば罰金を科すというとんでもない法案である。

 東京新聞は「デスクメモ」でこう締めくくっている。「犯罪収益の疑いのある客のことを通報しないと、懲役や億単位の罰金の危険(がある)。それにおびえた業者が無実の客を通報するケースが心配だ。客は通報の事実を知らされないから、弁明も出来ない。「疑い」も抽象的だ。厳罰化やマイノリティー白眼視の空気が強まる中、この制度がモンスター化する危険はないか」

 私がここで問題にするのはこの法案の是非ではない。この法案はその一例に過ぎない。我々国民の生活に多大の影響を与える法律案が、我々の知らないところでどんどんと作られ、十分な審議もなく成立し、気がついたら我々の行動を縛っている、この現実である。いくらその法律に不満を抱いても、成立してしまったらもはやどうにもならない。この不条理な現実を読者と共に考えたいと思うからである。

 この国では法案をつくるのは官僚である。官僚がつくる訳だから、官僚に広範な裁量を与え何でも出来る抜け穴を必ず設ける。本来立法は国民に選ばれた政治家が、国民のために行うものであるはずなのに、今の政治家は選挙と政権争いに明け暮れて、法律をつくる暇も能力もないのが現状だ。

 与党の殆どの政治家は中身もわからずに採決の時だけ出席して票決に参加するだけだ。民主党は第二自民党だからチェック機能を果たせない。いまや極端に少数政党になった共産党や社民党の議員は、数少ない議員が100本を超える法案を読むだけで精一杯だ。ほとんどパンク状態なのである。しかも国会質問の時間さえろくに与えられない始末だ。国会での議論が形骸化しているのはこのためだ。そして最後は数に任せた強行採決だ。なにしろ、存在しない浄水器や、飲んでもいない還元水を平気で口にする閣僚が、何の咎めもなく放置される国会なのである。チェック機能は完全に失われている。

 地方選挙が始まった。参議院選挙もその後に控えている。しかし既存の政治家や政党がどんなマニフェストを作っても、どんな奇麗事を叫んでも、今の政治システムが続く限り、国民の真の利益は決して守られることはない。政治が国民と乖離したところで、政治屋と政治評論家の飯の種にさせられているのだ。無党派層が増えるのは当然である。彼らはけっして政治に無関心なのではない。今の政治に期待が持てないからである。どうすればこの現状を変えることが出来るだろうか。意見を聞かせて欲しい。


Japanese People Are So Disappointed with the Current Political Situation

 This year Japanese people face crucial elections, i.e. election of local governments in April and the national election of the Upper House in July.

 According to the recent polls, however, the percentage of the people who do not support any of the existing political parties now becomes bigger than ever. The people who don’t support any political party now outnumber the people by far who support the LDP, the biggest government party.

 The major reason of this nation-wide apathy toward politics comes from the fact that the LDP lost the support of the Japanese national and yet it stays in the power. The biggest opposition party, the Democratic party is a mini-LDP which fails to demonstrate a clear cut alternative platform against the LDP’s. The Socialist Party and the Communist Party, which show the alternative, are too ideological and cannot attract the sympathy of the general public.

 But these are not the only reason of the political apathywhy. The more serious derives from the fact that it is bureaucrats , not the legislators, who virtually draft every bills neglecting the wish of the people. The politicians are too busy to win the next election and they are all preoccupied with winning the political power. They rubber stamp the draft bills prepared by bureaucrats. No matter how strong opposition parties are against bills, the government party finally resorts to the violence of majority. No wonder Japanese people become apathetic. How about your country?

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2007年03月24日

国民の手の届かないところで日本の風景が変えられていく

国民の手の届かないところで日本の風景が変えられていく

 外交批評しかできない私が様々なテーマに口を出すのはおこがましいとは思うが、もと官僚として、官僚のやっていることは手に取るようにわかるので、口を出さずにはいられない。
 次の二つのテーマは日本の風景(単に景色だけではなく日本という国の姿という意味)にかかわる大問題だと思う。それを、国民の反対を押し切って、あるいは官僚の裁量で、どんどんと進められていっていいのだろうかと思う。国民はもっと声をあげてよい。

1.公的資金を使った農地集約
 3月22日の朝日新聞は一面トップでこのニュースを報じていた。すなわち政府(農水省)は2008年度から公的資金(税金)を投じて全国の市町村に「農業再生機構」(仮称)を順次設置し、耕作放棄地(遊休地)の利用権を買い取って株式会社など新たな農業の担い手にまとめて売却する仕組みをつくるという。

 これは農業を大規模化して競争力を強化するのが目的であるという建前になっている。しかしその実体は日本の農業のアメリカ化である。企業の大規模農業参入を助けるものだ。かつてコメ自由化が大きな国際問題になったとき、農林省(当時)の構造改善課長は私に言ったものだ。農家を守るのは、日本の田園風景を残すことです、日本のふるさとを守ることです、と。それは嘘であったということだ。日本の田舎が、大型農耕機が走り回る米国の景色に変わっていく。そんな政策を国民が許したというのか。

2.暴走する裁判員制度導入
 いつのまにか法律が通り、平成21年度からいよいよ裁判員制度が導入されるという。最高裁が電通と結託して裁判員制度の宣伝をしている。そう思っていたら今度は企業までこれに協力し始めた。

 3月22日の産経新聞は、トヨタ自動車やアサヒビールなど、政府に協力的な大企業を使って、各社の社員名簿から裁判員役の職員を選び、模擬裁判を実施すると報じた。模擬裁判に協力する会社はほかに、三菱東京UFJ,東京電力、三井不動産、資生堂などであるという。いずれも政府に従順な大手企業ばかりだ。

 世論調査では国民の8割近くがこの裁判員制度の導入に反対している。それはそうだろう。まともな人間なら、刑事裁判で人を裁くことなどしたくないはずだ。そのためにプロの裁判官がいるのだろう。量刑をテーマにした模擬裁判では人によって量刑が分かれるという。一般市民の判断を取り入れて不平等、不均衡にならないか。

 そもそも何のために裁判員制度が導入されなければならないのか。導入を急がなければならないのか。「国民が刑事裁判に参加することにより、裁判が身近でわかりやすいものとなり、司法に対する国民の信頼向上につながる」ことが目的だという。余計なお世話だ。そんな暇があるくらいなら現行の裁判の質を高める努力をすべきだ。

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2007年03月23日

外国人投資家を非課税扱いする法的根拠を問う

外国人投資家を非課税扱いする法的根拠を問う

 少し前の記事になるが、気にかかっていたのでここで取り上げたい。それは3月17日の日経新聞にのっていた、次のような記事だ。

政府は外国人投資家が保有する地方債の利子収入にかかる所得税や法人税を2008年1月から非課税にする。現在は日本で利子の15%が源泉徴収となっているうえ、海外でも課税されるため。税制改正で外国人投資家が保有しやすくし、投資家の多様化につなげるのが狙い・・・地方債は地方自治体が歳入の不足を補うために発行する債券・・・外国人投資家の保有分が非課税の国債にくらべ、地方債は利回りが高い場合が多く、「超長期債を中心に外国人投資家のニーズがある」(みずほ証券アナリスト)

 要するに地方自治体の財政赤字を埋め合わせるため15%の利子所得免税という差別的優遇して地方債を買わせる(融資させる)という事だ。しかしそれは妥当か。日経新聞の記事は政府と結託して国民の目をそらしているということはないのか。

 この記事を読んで次のような素朴な疑問を抱いた。
まず頭に浮かぶのは、こんな税制上の不平等待遇を法的根拠なく行政の裁量でできるのかと言う事である。我々は民主主義の大原則として、国民の基本的人権や私有財産にかかわるあらゆる政府の行為は、法律なくしてはこれを行えないと聞かされてきた。だからおそらく根拠法があるのだろう。しかし問題は、法律は官僚が作り、その法律が官僚に強大な裁量権をゆだねているという、この国の官僚支配のからくりにある。この記事によれば、「海外でも課税されているため」ということを一つの言い訳にしているが、それは二重課税防止条約で処理すればいいことだ。私は気づかなかったが既に国債については非課税になっているらしい。いつ、どんな根拠でそれがなされたのか。その時議論は起こらなかったのか。国の財政は地方に負けず劣らず赤字である。だから財務省の役人が海外に出張して国債を売り込んでいることは報道で知っていた。しかし非課税にしているとは知らなかった。地方債がそれに続くのは時間の問題だったわけだ。地方債の主管庁は総務省(旧自治省)である。縄張り争いからも財務省に遅れをとるわけには行かないのだ。

 もう一つの質問が国債、地方債という借金を外国人投資家にゆだねる事に危険はないのかということである。日本の国債、地方債はそのほとんどが日本人の手によって保有されているから、いくら債務が増えても(外国人は日本が破産してもお構いなしに債権を取り立ててくるかもしれないが、日本人の場合は日本のためを思うから)安心だと、ついこの間まで聞かされてきた。もはやそんな事を言っていられないほど債務問題が深刻になったということだろうか。日経の記事によれば07年度の見込みでは外国人投資家の保有残高は1%にも満たないという。しかしこれが急速に増えない保証はない。

 それにもまして、やはり15%の非課税と言う不平等さだ。外国人投資家といってもそれが法人である場合はその原資は日本人が出資している場合が多い。投資の世界では黒い目の外国人投資家が常識だ。金を持った日本人投資家が優遇されるということではないのか。その裏には官僚と投資会社と資産運営に余念のない金持ち日本人の三者のもたれあいの危険が残る。もう一つの格差が日本人の間で生まれることにならないか。


Some Thoughts on Japanese Government’s Recent Decision of Tax Exemption Treatment for Foreign Investors

 The Nikkei Journal of March 17 says that Japanese Government will introduce tax exemption treatment from the beginning of 2008 for foreign investors who hold local governments’ bonds. In other words interest income tax of 15% will be exempted.

 Reading this article it occurred to me the following fundamental questions:

 Firstly it is not clear that on which specific law the government( in this case the Ministry of Internal Affairs) is allow to introduce such discriminatory tax measures. There might be a law which I am not aware of. But even if the relevant law exists it is so certain that the law gives the bureaucrats an ample scope of discretion so that bureaucrats can decide virtually everything. In Japan any law is drafted by bureaucrats and lawmakers (parliamentarians) pass the law without understanding the contents.

 Secondly it is dangerous to invite foreign investors to purchase Governments’ Bonds because they are so volatile to cash bonds. They don't care whether Japan defualts or not.At the moment the percentage of foreign investors share is negligible but it might be increasing quickly.

 Thirdly the definition of foreign investors is so vague. It is widely known most of the money which foreign investors operate come from Japanese investors. Therefore an unequal treatment occurrs between the rich and the poor. In any event this new policy measures contains a danger of collusion among bureaucrats, financial companies and so-called foreign investors.

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2007年03月22日

参院選出馬を目指す佐藤元先遣隊長の発言の軽さ

参院選出馬を目指す佐藤元イラク先遣隊長の発言の軽さ

 このブログを書き始めた時、私はそれを英語に要訳して世界に発信しようと考えた。日本で何が行われているかについて世界中の人々に知らせようと考えたからだ。

 しかし、自分がどうしても書きたいと思うテーマが、必ずしも世界の関心になりそうもないと思えることが多い。それを英訳にしても外国の人たちにはピンと来ないだろう。そう思うと英訳をする気が起こらない。英訳をしたり、しなかったりすると、悲しいかなたちまち英訳することが面倒になってくる。そういう訳で「閑話休題」が増えてくる。これもその一つである。そう思って読み流しいていただきたい。

  週刊現代の3月31日号に、「ひげのイラク先遣隊長」として有名になった佐藤正久氏の「イラク秘話」なるものが出ていた。彼は最近講談社からイラク自衛隊「戦闘記」を上梓したらしい。その宣伝をかねて同じ講談社の週刊現代が宣伝インタビューを載せたということだ。立派な営業活動に文句を言うつもりはない。

 さらに言えば、佐藤正久氏は夏の参院選に出馬すると報じられている。おそらく全国比例区で出馬して自民党票の上積みに貢献し、自らも100万人の自衛隊とその家族の票を集めて当選するのだろう。今度の出版は、名前を売り込む為にタイミングよく出版されたものに違いない。これら一連の講談社と佐藤氏の連係プレーについても、私がとやかく口を挟む筋合いのものではない。

 しかし私は心から残念に思う。佐藤氏の週刊現代ノインタビューで答えている内容を読んで、いくら大衆受けの柔らかい話を意図的にしたにせよ、それがあまりにも低俗で不謹慎なのだ。サマワで最初に迎えてくれたのが日光浴を楽しむビキニ姿のオランダ女性兵士だったというところからから始まって、イラク女性に一目惚れされて追っかけられた話や、砂糖たっぷりの紅茶や羊、鶏、魚、ヨーグルトなどの食事を連日イラク人から勧められ、「自分がもっとも恐れたのは、迫撃砲でも自動車爆弾でもなく、糖尿病でした」と臆面もなく喋るその無神経さに目を疑った。その後に続く話も、「サマワの人々にプレゼントするため110頭ぶんの予算を防衛庁に要求しただとか、部族長に気に入られて自衛隊が架けた橋の命名をサトウブリッジとしてくれた事を、「やばいなあ」と思いながら、ありがたく受け入れたとか、安全上の理由からひっそりと宿営地を後にしたら現地のイラク人スタッフが帰国したと知って号泣した、だとか、見開き2頁のインタビュー記事すべてがこの調子の自画自賛と与太話で埋め尽くされているのだ。皮肉をこめて言えば、「これは米国が始めた不当なイラク戦争に対する冒涜だ」などと言いたくなる。

 佐藤氏は一体何のためにイラクへ行ったと思っているのだろう。「海千山千の部族長たちと渡り合った私は、国会の部族長たちとも伍していけると自負しています」などという選挙演説の言葉でインタビューを締めくくっている佐藤氏は、参議院議員になって何をするつもりなのか。この発言は国会への冒涜ではないのか。

 おりしも来日中のペース米軍統合参謀本部長は21日、会談した久間防衛相に対し、「テロとの戦いに日本が積極的に参加している事を評価する」と述べたという。これを各紙がコメントなしで報じている。しかしこの発言は看過できない重大なだ。これは佐藤氏ら陸上自衛隊がサマワで人道支援のふりをしている裏で、航空自衛隊が米軍の輸送、補給を支援していることに感謝したものだ。日本の自衛隊がバグダッドなどの戦地に出て、テロと戦っている米国を支援する集団的自衛権の発動をしている事を公然と認めた発言である。あくまでも人道援助であるとか、自衛隊がいくところは非戦闘地域だ、などと国会で言い続けた小泉前首相の発言がまっかな嘘であったという事を、米国の最高司令官が公然と認めたわけである。

 なるほど、そういうことだったのか。佐藤氏の週刊誌での与太話も、この不都合な事実から国民の目をそらす、仕組まれた芝居であると解釈すれば合点がいく。政治家になってしまえば、もはや文句を言わせないということなのだ。分かっていながら彼らに加担した週刊現代の責任は重い。

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2007年03月22日

閑話休題 石原真理子のアメリカ女囚生活125日と日本外交

閑話休題
石原真理子のアメリカ女囚生活125日と日本外交

 石原真理子というタレントが、米国滞在中にストーカー行為で二度も逮捕され、125日もの間拘留されていたという事実が発覚しこれが芸能ゴシップとしておもしろおかしく報じられている。しかし私はこのゴシップ報道とはまったく別の観点からこの石原の体験を眺めている。

 週刊大衆の4月2日号で石原真理子が芸能レポーター梨本勝のインタビューの中で話している米国での収容所生活とそれに至る顛末を読んで、私は即座に最近読んだ「アメリカ監獄日記―無実の囚われ人の大冒険」(高平隆久著、草思社)を思い出した。

 この本はLA在住のコンピューター技術者であった著者が、日本から連れてきた恋人に裏切られ、彼女のでっち上げの被害届けのために、ある夜身に覚えのない罪状でいきなり逮捕され、ろくな取調べのないままに拘置所に入れられ話から始まり、釈放までの8ヶ月の司法闘争の体験を綴った実録の書である。

 一見すればなんとも間抜けな話なのであるが、それ以上に深刻な問題をこの体験談は提起している。それは米国における警察、裁判のいい加減さであり、もっといえば米国という国の残酷なまでの不条理さである。そしてそのような国で生活し続ける米国人の精神的強靭さである。それは悪くいえば鈍感さであり、強者、金持ちと、弱者、生活破綻者との格差のすさまじさでもある。

 米国で「本物の生活」をした経験のある者であれば、私の言わんとしている事がわかるはずだ。米国という国は光と影が極端な国だ。金銭に余裕があり、背後に国や企業と言う後ろ盾があり、表面的な付き合いをしている限りにおいては、これほど自由で快適な国はない。しかし一歩利害関係に足を踏み入れ、ましてや敵対関係に入るならば、そしてそれを個人の交渉力で解決しようとすれば、これほどいい加減で、無法、理不尽な国はない。ほとんどの滞米経験者は、というより100%の一時的滞米経験のある日本人は、日本人と付き合い、日本食に囲まれて、日本の方ばかりに顔を向けて暮らしている。それを私は批判する気はない。それほど米国社会の中に入り込むことは容易ではない事を知っているからだ。

 一般の日本人であるならそれでいい。ところが日本の国益をあずかる政治家や外務官僚までもがまったく米国の中に入り込めていないのである。米国が分かっていないのである。米国人との間にパイプが築けていないのである。その努力をしていないのである。

 ここからがこのブログの本題である。今、日本外交は拉致問題や慰安婦問題で米国に裏切られ、途方に暮れている。それはいままでの日米外交が如何に表面的な外交であったかを白状しているようなものだ。私は慰安婦問題については安倍首相をはじめとするいわゆる右翼的な立場をとる者と意見を異にする。しかし同時にまた今回の米国議会に置ける対日非難決議の動きについては、この背景にある日本叩きの政治的意図を見逃さない一人である。

 かつて私が外務省の課長として南アフリカの黒人差別問題を担当していた時に、国際世論の不当な日本たたきがあった。その火付け役は米国のメディアだった。なぜ日本の対南ア政策を不当なまでに非難するのかと米国の特派員に尋ねたことがある。その答えが、「本社からの指令である。嘘でもいいから日本批判の記事を送って来いと言われている」というものであった。米国の南アフリカ政策こそ人種差別的であった。その非難の矛先を米国に向かないように日本をスケープゴートにしろということなのだ。

 このような米国の本音に腹を立てて日本人同士が内輪で喧嘩していても始まらない。国を挙げて米国に対処しなければならないのだ。そしてその責任はもちろん日本の指導者と外務官僚にある。

 しかし彼らは、世襲や特権にあぐらを書いて、表面的な付き合いしか米国として来なかった。利害に絡んだ死に物狂いの交渉を一度たりともすることなく、最後は国民に犠牲を押し付けて米国のごり押しを呑んできた。そのような底の浅い外交を、「日本と米国は価値観を最も共有する国だ」とか「日米同盟は最重要だ」などという言葉で覆い隠し、ごまかしてきたのだ。そのむなしさが分かっているからこそ、「イラク戦争は間違っていた」(久間防衛大臣)とか、「青い目、金髪だったら駄目よ」(麻生外相の21日長崎県講演での発言)、などというような腹いせ交じりの本音が、間欠泉のように口をついて出るのである。このあたりで国民に真実を知らせ、国民の支持を得て、国が一丸となって日米外交を進めていかなければ、日本は大変なことになるだろう。米国の悪い側面ばかりを押し付けられる国になるであろう。

 すくなくとも石原真理子は、「すべてが晴天の霹靂」という不条理の中で米国の女囚監獄に125日も拘留され、いじめや監獄の寒さに耐え最後は女囚たちと交流が出来るほどの体験に耐えた。自殺しそうになった環境を一人で乗り越えた精神的強靭さを持っていた。石原真理子こそこれからの日米外交にふさわしい人物なのではないかと冗談交じりに思う。少なくとも外国人特派員協会で米国語で受け答えていた彼女の外交術は、下手な外交官のそれよりもはるかに優れていた。

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2007年03月21日

イラク攻撃から4年が過ぎた

イラク攻撃から4年が過ぎた

 米国のイラク攻撃開始から4年がたった。米国に引きずられて自衛隊まで派遣した日本は、何も得ることなく、国民を分裂させ、後悔の念ばかりが残った。しかも「苦しい時こそ助けの手を差しのべるのが真の友人だ」と言って支援したその米国に、いまや日本は外交で見捨てられつつある。その反省の自覚があるからこそ、メディアもイラク問題についてほとんど触れようとしない。

 何を今更イラク問題でもなかろうと思う。しかしイラク攻撃から4年が過ぎた今、やはりこのブログで一言書いておかねばならない。

 米国のイラク攻撃の誤りをここであげつらう気はない。4年たった今も、日々悪化するイラク情勢を前に政権末のブッシュ大統領が苦悶している姿を思い起こすだけで十分だ。ラムズフェルド前国防長官の後を受けて責任者となったゲーツ国防長官の姿がメディアにまったく登場しなくなった。そう思っていたら、18日CBSのインタビューで次のように語っていた。「我々がやっていることは基本的に(イラク政府が自立するための)時間稼ぎ。これが戦略目的のすべてある」(3月20日読売新聞)。これがすべてを物語っている。

 イラク攻撃の誤りを指摘した自らの正しさを宣伝つもりはない。少しでも中東情勢を知っていた者であれば、誰しもがあの時の米国のイラク攻撃に気づいていたはずだ。

 そのイラク攻撃を「正しい」と公言して支持した小泉前首相は勿論のこと、それに追従した官僚、財界人、御用学者、有識者、そしてメディアは、潔く自らの誤りを認めるべきである。

 なぜ米国は誤ったのか。米国のイラク攻撃の真相にもっとも肉薄した内部告発本が昨年10月米国で発売され100万部のベストセラーとなった。ワシントン・ポスト紙の記者ボブ・ウッドワードの手によるSTATE OF DENIALがそれだ。その翻訳が日本経済新聞出版社から「ブッシュのホワイトハウス」という題名で日本でも発売された。上下二巻、七百数十頁に及ぶウッドワードの「ブッシュのホワイトハウス」を私は週末を使って通読した。そしてあらためてブッシュ大統領とその政権の罪の深さを思い知った。あくなき権力欲。真実を見ない、聞かない、傲慢さ。異論を申し立てる者を遠ざけ、排除する狭量さ。平然と嘘をつくあつかましさ。権力内部のあくなき競争と面従腹背。そしてなによりもゴルフシャツ姿で市民を空爆する非人間的米国指導者の姿が、そこにはあった。

 そのようなブッシュ政権と運命を共にした小泉前首相の五年半はまた、小泉政権そのものがあたかもブッシュ政権と相似形の姿を見せて、日本を欺き、破壊した五年半であったと思う。しかもその米国が変わりつつある今、日本は変われないままに、ブッシュの米国にさえ取り残されようとしているのだ。

 この期に及んでも、「あの時は大量破壊兵器が存在する疑いが確かにあった」、とか「米国を支持した事は当時の判断では正しかった」などと強弁する者がいる。彼らこそ、渾身の力を振り絞って書かれたボブ・ウッドワードの「ブッシュのホワイトハウス」を読むべきである。当時のブッシュ政権のおそるべき稚拙な戦争決定過程を知って慄然とするであろう。そしてまともな判断力のある者ならば、何も知らずに米国を支持したおのれの軽薄さを認めざるを得なくなるであろう。

 「ブッシュのホワイトハウス」の中でどうしてもここで一言触れておきたい箇所がある。それは占領の直後にイラクの治安回復と復興を任された退役陸軍中将ジェイ・ガーナーに関する記述の部分である。ガーナーは破壊した後のイラクについて何の計画も持たないブッシュ政権の手でイラクへ派遣され、混乱のままわずか一ヶ月で更迭された人物だ。何から手を着けていいかわからない混乱の中で、ガーナーを支え、共に苦労をした末に非業の死を遂げた奥参事官(当時)と井上書記官(当時)もまた日本政府からイラクへ放り込まれた。「いったい何のために自分はバクダッドに派遣されたのか。何をしたらいいのか誰もわからない混乱状況だ。自分でなすべき仕事を見つけるしかない」そう報告していた奥参事官の悲鳴を、駐レバノン大使であった私は聞いていた。彼はまたガーナー中将の突然の更迭に憤慨していた。「米国はいったい何を考えているのか」と。それから半月後、奥参事官たちは非業の死を遂げる。その真相はいまだに明らかにされていないが、あらゆる状況証拠から、私は混乱した米軍による誤射の犠牲だと思っている。その真実がどうであれ、はっきりしていることは奥、井上という前途洋洋たる二人の外交官は、米国のイラク占領の実態を把握することなく、ただひたすらに対米協力の姿勢を内外にアピールしようとした当時の外務省幹部の犠牲者だったということである。彼らの無念さを思うと悔しくてならない。

 ボブ・ウッドワードは、3月24日号の週刊現代のインタビューの中で、次のように語っている。

「日本はブッシュから真実を知らされないままイラクに行った」

これこそ今の日本外交の本質をついている言葉だ。

ブッシュ大統領は国民に対して真実を語らなかったことが最大の問題なのだ」

 これこそ小泉前首相が謙虚に耳を傾けなければならない言葉なのである。

 イラク問題の総括は日本ではまったくなされないまま、時と共にうやむやのまま忘れ去られようとしている。それを許してしまうにはあまりにも大きな歴史的間違いである。


Bob Woodward’s Book of State of Denial Indicts Japan Went to Iraq Without Being Informed of the Truth

 Four years have passed since US attacked Iraq. It is now so obvious that US cheated the world when she said that attacking Iraq was justified because Iraq had MDW and Saddam Hussein was linked with Al- Qaida, therefore terrorist threat to US and the world was imminent. More importantly the situation of Iraq has been getting worse year after year and now Iraq is in a state of civil war which US doesn’t have any solution for.

 Even if under such circumstances Japanese Government and bureaucrats, opinion leaders and the media, who defended Bush’s war on Iraq, still insist that it was a right decision to support US at that time.

 Bob Woodward’s Book of State of Denial, its translated copy is now published in Japan, so vividly tells us that Bush administration concealed the truth and mislead the US citizen, not to mention Japan and the world.

 Bob Woodward told in the interview of the Weekly Gendai magazine that Japan went to Iraq without being informed of the truth from US. This alone is enough to indict Japan’s Diplomacy which is nothing but a carbon copy of US’s one.

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2007年03月20日

閑話休題 どこまで米国の不法行為を見逃すのか

閑話休題
どこまで米国の不法行為を見逃すのか

 私は、2月20日の私のブログで、米軍が赤坂の国有地をヘリポートとして不法占拠し続けている事、これに対し国がなんらの手を打てないで泣き寝入りしている事を書いた。今度は米国大使館である。土地賃貸料を9年間も未払いにしている。それを国は見過ごしてきたのだ。

 3月17日の読売新聞が16日の衆議院外務委員会での照屋寛徳議員(社民)の質問とそれに対する国側の返答を報じていた。それによって赤坂の国有地にある米国大使館(敷地約1万3000平方メートル)の土地賃貸料を、米国大使館が1998年以降9年間も日本側に支払っていない事実が判明した。財務省が確認したのである。

 しかも97年まで米国が支払っていた賃貸料も年間1平米当たりわずか200円弱であるという。日本側が1998年に賃貸料アップを米側に求めたところ、米側は合意しなかったばかりか、それ以来支払いを拒否したというのである。驚くべき屈従だ。しかも未払いはこれだけではない。これをフォローした日刊ゲンダイ(3月20日)は「嘉手納基地の爆音訴訟の賠償金も、NHKの受信料も納めていません」という照屋寛徳事務所のコメントを掲載している。

 「明らかに公平を欠いている。きちんと調べて(米国側と)交渉したい」(麻生外相)

 「米国側と交渉中で、その中身は言えない」(財務省理財局)

 「日本政府とは真剣に協議を続けている」(米国大使館ボイル報道官)

 我々はこの関係者の言葉を忘れてはならない。照屋議員には近いうちに再度質問をしてもらって、この問題の顛末の落ち着く先を、国民に代わって追及してもらわなくてはならない。そして何よりも日本のメディアはこの米国の不法行為の事実とその後の交渉経過を国民に知らしめる努力をしなければならないのだ。

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2007年03月20日

首都を守れない迎撃ミサイルが全国に次々と配備される現実

首都を守れない迎撃ミサイルが全国に次々と配備される現実

 防衛問題や安全保障問題の話になると、一般の国民はとたんに難しいと思ってしまう。私も軍事専門家ではない。しかし技術的、専門的な事などほとんど知らなくても、根本的なところを見る目があればいいのだ。それは常識があればできる。大切な事は、「おかしい」と思ったら、それを一歩進んで自分の頭で考えてみることである。

 3月18日の朝日新聞は、わが国の本土を守る防衛システムが、ついに国内にはじめて配備される事を報じた。埼玉県にある航空自衛隊入間基地に3月末までに最初のパトリオットミサイル3が配備されるという。今後2010年度までに段階的に全国16箇所の航空自衛隊基地に、パトリオット3が配備されていくことになる。

 全体で1兆円とも言われるこの迎撃ミサイルシステムが、本当に本土防衛の役割を果たすのか。それはもちろん素人の一般国民にはわからない。しかし本当のところは自衛隊もわからない。米国でさえもわからないのだ。なぜならば技術力が開発途上であるからだ。配備しながら開発を進めるといった見切り発車であるからだ。

 そもそも今回日本国内に配備される地対空迎撃ミサイルシステムというものは、3月16日の私のブログで書いたように、敵国から発射されたミサイルを海上に浮かべたイージス鑑のミサイルが撃ち損ねたものが、本土に向かって来て、それを着弾する間際に撃ち落すという離れ業の迎撃ミサイルシステムである。撃ち損じたら、確実に本土に被弾する。それが都心に被弾すれば壊滅的被害を受けることは間違いないちなみに3月20日の読売新聞は、宇宙工学アナリストの試算であるとして、核弾頭を搭載した弾道ミサイル(広島に投下されたウラン型爆弾の約10倍の威力のものを想定)が永田町を直撃した場合には、約200万人が即死、約100万人が重度の放射線被爆をこうむるとしている。実際はそれよりはるかに犠牲は大きいに違いない。

 このような破壊的な核弾道ミサイルを今の技術では確実に防ぐ事は出来ないというのに、今回日本に配備される地対空迎撃ミサイルシステムには、それ以前の問題として根本的な欠陥がある事が、この3月18日の朝日新聞の記事は教えてくれている。

 すなわち今回導入されるパトリオット3の防御範囲はわずか半径20キロという。だから入間基地に置いたぐらいでは皇居は愚か東京都心さえもまったく守れない。それは横田基地に置いた場合も同様である。だから平時は自衛隊基地に配備しておくとしても、迎撃の際は必要な場所に展開させなくてはならない。ところが都心の何処に展開できるというのか。自衛隊内部で真剣に考えた結果、民間の土地借り上げの手続きにかかる時間や、市民生活に与える影響、経済的補償問題など、困難な問題が立ちはだかり、結局は自衛隊基地や駐屯地に展開する他はないという結論になったという。つまり今回決定された配備計画では東京の中心地は守れないのである。それどころか国民の生命が十分に守れないのだ。

 私は3月16日のブログで、敵地から発射されたミサイルを、日本が導入した最新のイージス鑑では迎撃できないという実態が明らかにされた事を指摘した。今回の朝日新聞の報道は、本土に着弾しようとするミサイルを迎撃するというギリギリの防衛さえ、米国から導入しようとしているシステムでは技術的に不可能である事を証明したのだ。

 一体何のために総額1兆円もかけて米国の迎撃ミサイルシステムを導入しようとしているのか。国会はこの事実を国民に説明する義務があると思う。日本の防衛予算は米国軍需産業への資金協力の為にあるのではない。防衛政策は一握りの防衛族や外務・防衛官僚の独占物ではないのである。


Japan Are Forced to Introduce Useless Missile Defense System by US

 A series of recent Japanese papers’ articles revealed that the new missile defense system, which former Prime Minister Koizumi committed President Bush to introduce to Japan, is practically useless.

 Roughly speaking Japanese missile defense system is composed of two parts. One is the missile defense system to shoot down the enemy’s missiles from floating battleship immediately after they are launched. According to Tokyo Shinbun of March 16 the new system SM3 can only detect and trace the missile approaching closely and it cannot defend the missile just launched from the North Korean mainland.

 One the other hand the Asahi Shinbun of 20 March reports that the locations of another part of missile defense system, i.e. PAC3, which is expected to shoot the enemy’s missiles, missed by the SM3 and therefore landing to the mainland of Japan, are finally decided and the first system will be set up by the end of March at the Japanese Defense Forces’ base in Saitama Pref.

 The effective radius of the PAC3, however, is only 20 kilo meters. Therefore it cannot defend the most important area of Tokyo such as Imperial Palace, Parliament , Prime Minister’s Office etc.

 In short the whole missile defense system which Japanis introducing from US at the cost of 10 billion US dollars is practically useless. The Japanese Government should tell this appalling fact to the public.

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2007年03月19日

リニア実現に意欲を見せるJR東海の葛西会長

リニア実現に意欲を見せるJR東海の葛西会長

 3月19日の読売新聞に、葛西敬之JR東海会長の次のような言葉がのっていた。読売新聞のインタビューに答えたものだ。

東京―大阪間を約一時間で結ぶリニア中央新幹線について、「国や自治体をあてにして前に進まないのは良くない。東海道新幹線で得た利益をリニア建設に使う・・・(JR東海は山梨県内の実験線を3550億円かけて2016年度までに42.8キロに延伸する計画であるが)これで東京―名古屋間の7分の1、東京―大阪間の10分の1が出来る。実用化はさらに10年以上先になる・・・(リニア中央新幹線が開通すれば)東京―大阪間に飛行機は飛ばなくなるであろうが、羽田空港などで空いた発着枠で海外便などが増えれば、日本のためになる

 この記事を読んだ私は半年前に新幹線で隣に座り合わせた見ず知らずの男性の言葉を思い出した。その男性は、日本のリニア新幹線を中国へ輸出しようとするプロジェクトの関係者であると名乗っていたが、その彼が問わず語りに私に次のような事を話したのだ。

 「日本のリニア技術はもう十分に実験を重ねいつでも実用化できるところまできている。ところが日本の財政状況を考えると、日本での実用化はもはや殆ど不可能となった。さすがの国交省(旧運輸省)もあきらめた。そうである以上これを無駄にするのはもったいないということで、リニア技術を欲しがっている中国に渡して早く実用化してもらったほうがいい(註:中国はすでに上海の飛行場から市内までの数十キロをドイツの技術を使ったリニアで実用化しているが北京―上海間1000キロの間をリニアにするという計画が、通常の新幹線導入を飛び越して検討されているという)、そう国交省も方向転換した。しかしこの話を小泉首相のところへ持っていったら見向きもせずに拒否された。中国という言葉を出したとたんに不機嫌な顔をされた。やっと小泉さんが退いて安倍首相になったと思ったら、今度はJR東海の葛西会長が強い反対を示した。中国への協力などとんでもないということらしい。リニア技術に関わった者や日本の車両メーカーなどは日中協力に積極的であるが、何しろJR東海は鉄道関連の国内関係企業にとっては大変なお得意先であり、その会長の意見には誰も逆らえない・・・

 読売新聞の葛西会長のインタビュー記事を読んで、その後の日本の国内事情について思いをはせた。葛西会長はあくまでも日本でのリニア新幹線の実現に執念を示していると見える。国交省も方針を変えたのかもしれない。あるいはそれを推進する利権目当ての国会議員や反中国の国会議員が動いているのかもしれない。リニア新幹線は、政府の「イノベーション25戦略会議」の中間報告の中で、20年後の普及が期待される近未来技術の一つとして本年2月の中間報告に盛り込まれているという。

 私がこのブログで言いたいのはリニア新幹線建設の是非ではない。葛西敬之という国鉄職員出身の一財界人に与えられた権力の大きさについてである。そもそも国鉄は本当に民営化されているのか。いくら東京―大阪間の新幹線がドル箱であるからと言って、その利益をリニア建設に使うなどという発言を一私企業の会長が言えるのか。そんなに儲かっているのなら、運賃を値下げして乗客に還元すべきではないのか。

 葛西会長は就職先に国鉄を選んだ理由に、「東大出身は出世が早いですよ」と失くした学生証明書取りに行った荻窪駅の助役に言われた経緯を公言している。

 国鉄分割民営化後にJR東海の会長になった葛西氏は、トヨタの奥田相談役などと並んで財界を代表する親米派論客として読売新聞などを通じて発言してきた。安倍政権の下では国家公安委員会委員や教育再生会議有識者のメンバーに名を連ね、治安、教育などの国の基本に関わる政策立案に関与している。

 葛西氏のJP東海は昨年4月にはトヨタや中部電力と共同出資して日本で初の全寮制エリート学校「海陽学園」を名古屋につくった。そして今度のリニア新幹線の名古屋導入発言である。

 葛西氏は読売新聞のインタビューの最後で、「・・・国や自治体を排除するのではなく、ルート設定や用地の取得などで協力を仰がねばならない」と付け加えている。国策会社と言わんばかりだ。ここまで特定の私人に富と権力を集中する事が放置されていいのか。日本の人材はそんなに貧困なのか。それとも今の日本は特定の人間同士の間で、富と権力がたらいまわしにされてはいないか。その傾向がどんどん強くなっているような気がする。

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2007年03月19日

国民投票法案の強行採決を前にして

国民投票法案の強行採決を前にして

 都知事に期待する政策の世論調査で、「福祉と医療」が圧倒的に関心が高い事からもわかるように、憲法問題についての国民の関心は薄い。国民は目先の生活をどうするかで精一杯なのだ。ましてや改憲手続きを定める国民投票法案について国民はどれほどの関心と知識を持ってこれを眺めているのだろうと思う。だから、今日のブログでは、あえて国民投票法案について書きたい。

 どうやら安倍首相は国民投票法案を強行採決する腹を固めたようだ。いかなる法案であれそれを強行採決するということは民主主義の根幹を踏みにじるものであるが、小泉前首相の国会軽視と、それにだまされた国民の総右傾化は、自公政権のごり押しを容認する無力感を国民に植え付けてしまった。国民の無力感は国会の論戦を不毛化させる。100%虚偽答弁をしている閣僚を弁護する安倍首相を、国会は追及できない。こんな国会は今までにはありえなかった。もはや自公政権がその気になればどんな重要な法案でも、最後は強行採決をすれば通ってしまうのだ。

 しかし私はこの国民投票法案だけは通させてはいけないと思う。それはその内容があまりにも改憲に傾き過ぎた不公平なものであるからだ。これは改憲に賛成したり、反対したりする以前の問題である。この事をズバリと指摘しているのが3月16日の読売新聞に見られる西修駒沢大学教授の寄稿論文である。西教授は、「公正なルール作り必要」という見出しの「論点」というコラムの中で、次のように自民党が自らの国民投票法案を強行採決しようとしている事を危惧している。

 すなわち憲法改正の手続きを定める国民投票法は、「本来ならば、もっとはやくこの法律が制定されているべきであり、(遅ればせながらであっても)立法府の不作為を解消できる点では評価できる」という、改憲論者の持論を展開しながらも、それは「政争の駆け引きの材料とすべきものではなく、全有権者が参加する憲法改正論議の土俵を設定するという極めて重要」なものであるが、「与党修正案の内容を見る限り公正なルール作りになっていない」と明言しているのだ。西教授が指摘する次の二点は特に重要である。

 その一つは、公務員法で禁止されている「政治的行為」が、国民投票法案については、それに当たらないとして自由に放置されている点である。裁判官、検察官、警察官などを含むすべての公務員が一般国民と同じく憲法改正の賛否に、自由に、積極的に、組織的に活動できるとなれば、それが改憲に向けて大きな影響を与えていくことは誰でもわかる。憲法は公務員が国民全体の奉仕者であることを明記し、「政治的中立性」を求めている。このことは最高裁の判例も認めている。この基本的な「枠組み」を外せば、「社会全体が喧騒と混乱に陥ることになろう」とさえ西教授は警告しているのだ。

 第二点の不公正さとして、西教授はマスコミ報道についての一切の規制を設けていない点を上げている。周知のように今日におけるマスコミの国民に対する影響力は絶大なものがある。とくにテレビ、ラジオの影響力は大きい。マスコミが権力者側に組して改憲を扇動するような報道をしたら、憲法について確固とした定見の無い国民は、やすやすと改憲になびくであろう。だからこそ「公平な報道を促す規定が必要ではないか」と西教授は強調しているのである。

 実は強行採決されようとしている自民党の国民投票法案は、そのほかにも多くの点で改憲しやすい法案になっている。それどころか手続法の枠を超えて憲法解釈に影響を与えるような制度変更の規定さえ盛り込まれている。その逐一をここで説明する余裕は無いが、ここで指摘したいのは、冒頭でも指摘したように、あらゆる重要法案が国民に十分知らされないままに、無気力で低次元の国会において次々と強行採決されていくという現実である。

 改憲を行おうとする安倍政権にとっては、公正さを捻じ曲げてでも改憲しやすい手続法を作り、いつの日か憲法改正法案を国会に上程する時は、それが国民の過半数の支持で承認される事を、100%の確立で確保しようとする作戦を立てるであろう。その一方で改憲に反対する人たちは、いかなる内容で、国民投票法案を成立させてしまえばあとは一気に改憲まで突き進んでしまうからと、手続法である国民投票法そのものが悪であるとして、その成立を阻止しようとする。

 私はこのブログでは、敢えてその両者のいずれの立場にも立たずに、改憲を支持する学者の間からさえ、自民党が強行採決しようとしている国民投票法案が危惧されている、この重大性を指摘したかったのである。これから強行採決までの間にメディアのなすべき事は何か。それは改憲、護憲の意見の対立を繰り返し報道する事ではない。まともな改憲論者さえ疑義を呈する自民党の国民投票法案の不備を徹底的に報道し、国民に周知させ、議論の尽くされないままに重要法案を強行採決させようとする安倍政権の誤りと、それを許す機能不全の今の国会を追及する事なのである。


Prime Minister Abe Seems to Decide to Pass the Bill of National Referendum on the Amendment of Article 9 of the Peace Constitution

 Since the sweeping victory in the General Election of September 11, 2005 under the former Prime Minister Koizumi’s Government the Liberal Democratic Party holds an overwhelming majority in the Lower House of The Diet and any bill has been passed finally by majority votes regardless the strong opposition in the Diet.

 Prime Minister Abe seems to decide finally to pass the controversial bill of National Referendum which leads to the Amendment of Article 9 of the Peace Constitution, the biggest political issue in Japan’s post war political history.

 Nowadays more than two thirds parliamentarian of both the Lower House and the Upper House, which is the requirement of any Constitutional Amendment, are supporting the Amendment in one way or another. Therefore it will depend finally on the judgment of Japanese public to approve the Amendment or not in the National Referendum voting. According to the current Constitution majority votes in the referendum are needed to approve the Amendment.

 What should be argued here is not whether The Japanese Peace Constitution be amended or not. The draft bill which Abe Government tries to pass by resorting to his party's overwhelming majority is so unfair and misleading so that the indifferent and ignorant public tend to approve the Amendment.

 In this context it is noteworthy that Professor Nishi of Komazawa University, who is well known for supporting amending the Constitution, criticized in the Yomiuri Shinbun of March 14 the draft bill of Abe Government saying it is not fair and biased. This Professor Nishi's contribution article also warns the media that they should inform the public more frequently an in more detail manner the contents of draft bill so that the public will be more aware of the importance of the role of Referendum Bill itself.

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2007年03月18日

閑話休題 都知事選と週刊金曜日の投稿記事

閑話休題

都知事選と週刊金曜日の投稿記事

 私がブログを再開したのが1月9日であった。今日は3月18日であるから2ヶ月半が過ぎたということになる。私はニュースのない週末こそブログを書こうと思って始めた。それは、週末はニュースがなくなり暇をもてあます、そういう時こそ何か読みたいと思う人は多いと思うからである。事実私がそうである。だから読者の為に休日も書き続けることにしたのだ。幸いにも今日まで一日も休まず書き続けることができた。いつか途切れる時が来るとは思うが、いまのところ「意地でも書き続けて見せる」という気力はある。

 私は文字通り一人で、自らの手で、このブログを書いているので、このブログが途絶えた時は私に何かが起こった時だ。それは怠慢になったり、時間が無かったり、旅行したり、あるいは体調が悪くなったり、事故にあったりした時だ。離れている家人や親しい知人などは、私のブログが更新されている事を確認して、ああ、元気にしているなあと知ることになる。これからも途切れることなく書き続けられればと願うばかりである。

 ところで、私はブログを書くときは、自分の意見を述べることよりも、興味深い報道を通じて真実に迫ろうとすることに心掛けている。読者が、私が見つけた情報に接し、私の問題提起に関して、自分なりの意見を持つ、その手助けになればいいと思って書いている。読者の中には私の主張が強く出過ぎているという声もある。それは私の未熟さのせいであると反省する。このブログは、あくまでも読者が自分の意見を持つようになるための、情報提供、問題提起であり、刺激剤なのだ。そう思って書いている。

 私の意見について言えば、異論をぶつけられても私は一向に構わない。逆にまた同調する人たちからの励ましの意見を寄せられたからといって、その人たちと一緒になって何かをするという気持ちもない。私は生来の身勝手な人間であり、人とつるんだり、論争したりすることが嫌いだ。だからこのブログも言いっぱなしのブログである。しかしそれでは読者に対してあまりにも一方的であると思って、私に対する一対一のコミュニケーションの連絡ならメールで出来るように、ブログの管理人に頼んで作って貰っている。

 それを使って助言や、誤りの指摘や、箴言をくれる読者に対しては、私はこれを歓迎し、ありがたく受け入れ、そしてできるだけこまめに返答を書くことにしている(面倒になって書かない時もあるが)。これまでに、わずか数人程度ではあるが、明らかに議論を吹っかけてくる読者がいた。それが建設的で学ぶものがある意見ならいざ知らず、ただ喧嘩を売るようなものであったので読了することなく削除した。このブログは議論をする為のものではないし、また私はその時間的余裕も無い。この点はあらかじめ読者の皆様にはご了解願いたい。

 さて前置きが長くなったが、これから書くブログに限っては、その方針を逸脱し、論議を呼ぶ事を覚悟で、東京都知事選挙や今の政治状況についての私の意見をストレートに書いてみたい。勿論この場合も私の一方的な意見を述べるだけであって、読者との議論をするつもりは無いことは同様である。この点あらかじめご了承願いたい。

 さて私は、今回の都知事選はまったく盛り上がらないものになってしまったと思っている。浅野が出て石原と対決する構図が出てきそうになった時は、これを歓迎し、浅野を応援したいと思った。それは石原の再選に反対だからだ。その思いは今も変わらない。

 しかし今は浅野を応援することさえそれほど熱心でなくなりつつある。誰が勝ってもいい、都知事選などもうどうでもいいという思いのほうが強くなりつつあるのだ。石原の三選は好ましくない。しかし反石原の三人を見ていると、誰が良いか、特段の強い意見を持てなくなった。浅野が一番ましだろうとは今でも思う。それは浅野が一番石原に勝てそうだからだ。政策的には吉田が一番反石原ではっきりしている。しかし私が都民であったら吉田に入れる気はしない。「共産党では勝てない」というだけではない。入れたいという気がおきないのだ。黒川は、思った以上にいいことを言っている。まじめに都知事になる気があるのか疑わしいので黒川にも入れないが、石原と黒川の対決だったら、本当は面白い。黒川が保守だとか、同業者の建築家である安藤に石原が贔屓したから反発して立候補した、などというのは私には気にしない。むしろ人間臭くてよい。彼は本気で選挙戦を戦う気があるのかという疑問が付きまとう、だから入れる気にならないだけだ。

 こんな調子が続くと、結局は石原が勝つのだろうという気がする。それは私にとっては残念なことだ。しかし、もはや、それとても、かつてのように腹は立たないようになった。それほど熱気が感じられない選挙になりつつあるということだ。特定の候補者に、特別の利害関係から肩入れしている人たちは別にして、一般の国民、都民の多くは私のような考えではなかろうか。

 こう述べた上で、さらにもう一歩踏み込んで私の意見を述べてみたい。四人の候補者がテレビの前で自己アピールをしているのを見ながら、自分なりに考えた。その結論はこうだ。この選挙、ないし討論をつまらなくしたのは、一つには反石原候補が乱立し、しかもその候補の中に自他共に認める強力な反石原候補がいないからだ。これが最大の理由であろう。菅直人とか田中康夫とか細川護煕などの反石原候補者が早い段階で名乗りをあげ、石原との一騎打ちになっていたならば事情は異なったと思う。

 二つ目に盛り上がらないのは、メディアも識者も、そしてなによりも候補者が、政策論を重視するという愚を犯しているからだ。その事と関連するのであるが、共産党候補やその支持者が頑張っている理由に、「浅野も石原も政策においては大差ない、石原都政を否定する政策を一貫して明言している候補者は、共産党の吉田だけである」というのがある。これは思い上がりであり、勘違いだ。吉田の唱える政策は確かに石原の政策に対するアンチテーゼを示している。私も多くの政策において賛成だ。しかし、それを吉田や共産党がまるで自分の専売特許のような顔をして主張すればするほど鼻白むのだ。吉田の政策に賛成する都民がいるとしても、それを共産党の吉田が言うから反対する、と考える都民や国民は多いと思う。人を動かすのは、最後は政策ではなく、感情である。それが選挙であり政治だと思う。

 政策論に関して更に言えば、私は選挙にマニフェストが必要だと強調する意見にまったく与しない。国会議員でも首長でも、識者でも、今はあたかも「マニフェストを重視しない者は人にあらず」のごとくだ。なにしろそのまんま東までもが、マニフェストで勝ったなどと言い出す始末だ。

 しかしそれは違う。私は官僚だったから言うわけではないが、マニフェストなどは、ちょっと小ざかしい官僚が鉛筆を舐めれば誰でも書ける作文に過ぎない。その程度のものなのだ。しかもマニフェスト実現の目安として必ず持ち出されるのが数値目標であるがこれが、また官僚的発想なのである。数値目標が達成されたからと言って暮らしはよくなるのか。都政が良くなるのか。そうではないだろう。政治というものは官僚的なるものとの対極にあるものだと思う。

 そもそも政策の違いを見て候補者を決めるという一般都民がどれほどいるというのか。4人がテレビの前で政策論争を議論すればするほど、政策の違いが曖昧になり、4人の違いがわからなくなる。時間が来て討論番組が打ち切られた後で、決まって感じる後味の悪さは、皆もっともらしく言い合って自分を売り込んで見せるが、結局誰を入れたら良いか分からないほど心に響くものが残らないからだ。そして共産党の吉田の、「石原政策を変えるには自分しかいない、だから自分こそが選挙で選ばれるべきだ」という傲慢さだけが印象に残る。かくしてますます都知事選から気持ちがはなれていく。このような報道番組がこれからも毎日のように繰り返されると思うと憂鬱になる。

 この事と関連し、3月9日号の週刊金曜日に出てい興味深い投稿を紹介したい。雑誌の編集をしている70歳の自由業の読者は要旨次のように書いているのだ。

私は長年の「週刊金曜日」のファンです。意見に共鳴できるし、あまりにも情けない今の政治状況やジャーナリズムの堕落を見ると、週刊金曜日の果たす役割は大きいと思う。だから一生懸命週刊金曜日をまわりの者に宣伝しているのだが、講読者数が一向に伸びないのが残念だ。その理由は、「けしからん」と言い放ち、「俺たちだけが正しい」と説いている週刊誌になっているからだ。これでは「自画自賛のための集団」に終わってしまう。強弁や言い訳に終始するのではなく、一人また一人と民意を広げていく、地道な努力を続けていくことが求められているのではないか

 週刊金曜日の編集関係者は社民党支援者であるという印象を持つが、彼らもまた共産党と同じ愚を冒している。いわゆる左翼、護憲勢力とひとからげにされる人たちの限界だ。共産党と同じく社民党も、一般市民はその名前を聞いただけで、距離を置く。特に社民党は自民党政権と連立を組んで事実上解体した政党だ。民主党に行けなかった社会党左派が残って作った党であるから再生は不可能だ。

 結局のところ、護憲や反戦、反権力、正義、弱者の味方、などといったテーマを自分たちの独占物であると錯覚している人々である。それでいて、いやそれだからこそ、社民党と共産党は統一して政権党に挑まなければならないのに、統一どころかこの期に及んでも争っているのだから、どうしようもない。

 このような政治状況では無党派が増えるはずだ。無党派の中には、既存の政党のどれに投票するか決めかねているが最後はどれかの既存政党の候補者に投票するという人もいるだろう。初めからまったく政治には無知、無関心の、民主主義の権利を放棄した愚か者もいるであろう。しかし今の私のように、入れたくても、入れたい政党がないではないかという、政治に愛想をつかした人も多いと思う。そういう人たちにとっては今日の日本の政治状況は耐え難いほどの苦痛である。新しい政治を渇望する。

 今度の都知事選がどういう結果に終わろうとも、そして4月の地方選挙がどうなろうとも、問題は7月に行われる参議院選挙であり、その結果起きるであろう政界大再編の動きである。しかし、よほどのことがない限り、自公体制は崩れないであろう。これほどまでに自公政権の失政、悪政が重ねられても、それを倒すべき対立政党が存在しないからだ。民主党は政権交代ができる政党ではない。だからと言ってその他の野党が国民の支持を得て票を伸ばすとは思えない。わずかばかりの議席を増やしたところで、彼らは自分たちの党勢を伸ばして喜ぶかもしれないが、一般国民から見れば益はない。

 もはや日本の政治や政治家は最大の不良債権である。私たちの税金を使う一方でそれに見合う利益を国民になんら還元できないでいる。その一方で国家権力を独占し、政権政党の政治家は、我々の暮らしや経済活動を左右する法律を官僚と組んで一方的に作っていく。野党の政治家は、それを阻止するには少なすぎる。無力すぎる。

 私は既存の政治や、政治システムを全否定して、彼らが独占している国家権力を我々の手に取り戻す事のできるまったく新しい政治システムを作らなければならない時が来ていると本気で思っている。

 どうすればそれが可能か。どうすれば、自分の当選や、自分の利権を優先することなく、国民のために政治ができる政治家を出現させることができるのか。私はいまだその答えを見つけ出すことが出来ない。参議院選挙の後で起きるであろう政治的大混乱でさえ何も新しい物をもたらさないだろうと思う。しかしひょっとして何かが動きだすかも知れない。そこにかすかな希望を託したい。すべては参議院選挙後であると思っている。

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2007年03月18日

因縁の日米証券攻防劇

因縁の日米証券攻防劇

 53億円を粉飾したライブドアが上場廃止になり、その責任者である堀江貴文が二年半の実刑判決を受けた今となっては、組織的に経常利益を190億円も水増した日興コーデイアルの上場が維持され、金融庁、証券取引等監視委員会はもとより検察がまったく動かなかった事は、誰が見てもおかしい。

 その背景については色々な事が言われているが、はっきりしている事は米国金融資本が最後は利益を独り占めするに違いないと、私は数日前のこのブログで書いた。その直後に、日興コーデイアルグループの第2位株主(保有比率4.82%)であるみずほコーポレート銀行が、保有する株式のすべてをシテイに譲渡すると発表した。日本の証券市場をめぐる日米の攻防は、もはや揺ぎないまでに米国の勝利で終わろうとしている。

 しかし日本の大手銀行が米国の大手証券会社を買収しようとしていた時期もあったのだ。20年前の事である。それが米国の激怒にあって、不合理なまでに日本は譲歩させられた。その時点で今日の証券市場支配の日米逆転の構図が決まったのだ。

 この攻防劇を3月14日の産経新聞で編集委員の田村秀男氏がドラマテイックに描写している。それを私なりに脚色してここに再現してみたい。

1986年10月、ワシントンの米連邦準備制度理事会での公聴会で(米国証券会社のゴールドマン・サックスを買収しようとして公聴会に招致された)住友銀行の専務が、か細い声で、台本通り証言する。

「住友には証券業界進出という野心は一切ありません」

身長2メートルを超すボルカー議長ら居並ぶ幹部は、小柄な日本人のグループを威圧するような口調で、

「 I’m mystified.(意味が分からない)」とたたみかけた。(筆者註:この時のやり取りの詳細は田村の記事だけではよくわからないが、米国証券業界に進出する気がないのなら何故巨額の資金を投資するのか、米国の金融常識では理解できない、嘘をついているのではないか、というような追及を厳しく受けたのではないか、それに対して説得力のある反駁を英語で出来ない住銀の専務が引き下がったのではないかとし容易に想像できる)

結局、住友銀行はゴールドマン・サックスに議決権のない5億ドルを出資させられる羽目になる。資金繰りで苦境にあったゴールドマンは立ち直ったが、住銀はゴールドマンとの合併による証券会社設立計画まで放棄させられ、証券業界進出への道を断たれた。

当時日本の金融界は85年9月のプラザ合意後の円高と株式増資ブームによるジャパンマネーパワーを武器に米国金融界に買収攻勢をかけようとしていた。住銀はその先駆けだったのだ。だが、ワシントンは米国法を盾に日本の銀行の証券業を断固阻んだ。米国への出口をふさがれた日本の金融界は、以降、日本の株式投資、不動産融資に集中し、バブルを膨らませ、自滅していった

 それから20年たって、当時のゴールドマン幹部の一人であったロバート・ルービンは今やシテイグループ経営会議の議長である。そのゴールドマン・サックスが日興コーデイアルグループへのTOB(株式公開買い付け)を仕掛け、子会社化を狙ってきたのだ。ちなみにルービンとはクリントン政権下で大統領補佐官(経済担当)、財務長官を務めたあのルービンである。

 このルービンについては更に因縁めいたエピソードがあると田村は続ける。97年の9月、アジア各国の経済を崩壊させつつあったアジア通貨危機対策で、橋本内閣は、大蔵省(現財務省)の「アジア通貨基金」構想を閣議決定しかけたが、「官邸は直前になって大蔵省幹部にあきらめろと言ってきた」(元大蔵省幹部)という。この時財務長官であったルービンは、米国が仕切る国際通貨基金(IMF)体制を損なうという理由で猛反対し、中国の同調を引きだした。孤立した日本は敗れた。ちなみに橋本はそのわずか3ヶ月前の1997年6月、ニューヨークで講演し、「米国国債を売り飛ばしたいという誘惑に何度もかられたことがある」と口を滑らし、ルービンを怒らせている。

 以上の日米証券業攻防ドラマを述べた後で、田村は言うのである。日興コーデイアル買収については、上場維持になって株価がつりあがり、TOB価格が急騰してゴールドマン・サックスに一見不利になった。米国のことだから再びごり押しをして巻き返してくるであろう。いくら「日米同盟」を謳っても、金融だけは相手の言うとおりにならない」米国である・・・と

 しかしそれは違う。ゴールドマン・サックスは少々の株価上昇ではびくともしない。確実に日興コーデイアルを手にし、その後会社を建て直して企業価値を高め、莫大な利益を回収するシナリオは出来ているに違いない。米国は、「金融だけは相手の言うとおりにならない」国なのではない。「金融についても日本を支配する」国なのだ。日本に対して米国が譲歩する事はない。日本は最後はすべて米国の要求を飲ませられる国になってしまった。そういう日米関係が「日米同盟」の真実の姿なのである。

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2007年03月17日

外貨準備を自由に運用できない日本の財務省

外貨準備を自由に運用できない日本の財務省

 3月17日の日経新聞に「日本の財務省が中国の外貨運用に神経をとがらせている」という記事を見つけた。この記事の持つ意味は深い。

 3月9日、中国の金人慶財務相が、1兆億ドルを超える世界最大の中国の外貨準備を「効率的に運用する」新会社を設立すると発表した。不動産や海外油田などへの投資を積極的に行うのではという憶測が、直ちに世界市場を駆け巡った。

 このように外貨準備を投資に回す動きは、実はシンガポールや韓国にも見られる。すなわちシンガポールは政府投資公社を通じてヘッジファンドなどリスク資産への投資を拡大しつつあり、韓国も韓国投資公社が先進国株に外貨準備を振り向け始めている。

 ひるがえって日本の外貨準備は07年2月末時点で約9050億ドルと中国についで世界第二位である。なぜ日本の財務当局はこのようなアジア諸国の動向と一線を画し、その殆どを米国債購入一辺倒で運用し続けるのか?

 財務省は05年4月に外貨資産の運用方針を発表し、「流動性・安全性への最大限の配慮」を強調した。「外貨準備は為替相場への介入や不測の国際決済に備えた資産であり、運用の巧拙を問うものではない」、「元本割れの恐れのある運用などできない」(財務省国際局筋)という訳だ。見事な嘘だ。

 日経新聞の記事は、日本の場合は外貨準備の運用の多様化を急がなくてもよい別の理由があるとして、5%弱で推移する米国債金利と日本のゼロ金利の差からくる確実な利益を指摘している。それが真の理由であると日経新聞は本気で思っているのだろうか。決してそうではない。日経は本当の理由を知っていても書かないのだ。

 なぜ日本の金利が事実上ゼロに据え置かれ、米国金利との利ざやを放置して来たのか。問われるべきはそこだ。日本の外貨準備の大半が米国債購入につぎ込まれてきたのは、米国の政治的圧力に屈したのだと言われて久しい。それを正当化するために意図的に日米金利格差が国策として維持されてきたのではないのか。

 日本は米国債を売り飛ばして外貨準備を自由に運用できないのだ。今では故人となった橋本龍太郎元総理は、97年6月、ニューヨークの講演の場で、苦しい日本の財政事情を思うと「私は何回か米国債を売却したい誘惑にかられたことがある」と失言し、ダウを一時的に暴落させ、米国側要人を怒らせたことがあった。米国の橋本に対する評価は急落し、それ以来米国債の話は日本ではタブーとなった。日本の外貨準備は米国連邦準備理事会の金庫にそのまま管理されており、日本が自由に使えない仕組みになっているという説もまことしやかに囁かれているほどだ。

 そうだとすれば、いまや外貨準備世界一の中国が積極的に外貨準備を運用することに、日本の財務省当局が神経をとがらせている理由はよくわかる。なぜ中国にできて日本にそれができないのか。その答えは必ずしも「慎重な運用をしなければならない」からだ、という表向きの理由だけではない。米国の身勝手なエゴを相手にせず、自国の国益を優先させるという自主外交力があるかないかの差に他ならないのだ。


The Contrast Between China And Japan Regarding the Effective Investment of Foreign Currency Reserves

 Now China is the number one owner of foreign currency reserves of over 1000

 billion US dollars while Japan is the number two whose foreign currency reserves exceeds 900 billion US dollars.

 The policy of investing that foreign currency reserves, however, is totally different between China and Japan.

 Recently Chinese Government announced that she will set up a new investment company to make best use of China’s foreign currency reserves. That means China will invest her foreign currency reserves in real estates, overseas oil developments and others.

 On the other hand Japanese Government repeatedly says to the public that Japanese Government cannot take a risk to lose its foreign currency reserves. Instead of looking for a better opportunity to make use of foreign currency reserves Japan has been spending almost all Japanese foreign currency reserves for purchasing US treasury bonds.

 It is said that the interest rate of US bonds has been around 5% and that is far higher than Japanese almost zero interest. That is why Japanese Government purchased US Bonds which is reliable and yet brings enough profits.

 Nobody in Japan believes this explanation or rather excuses. It is so widely conceived that US Governmentconstantly pressures Japanese Government to purchase US treasury Bonds so that Japanese foreign currency reserves will compensate for the huge financial deficit of US economy. Indeed the Japanese zero interest has been politically arranged so that money tends to go to the US financial market of around 5% interest rate. MoreoverJapanese Government is requested by US Government not to sell the US Bonds.

 Why China can use their foreign currency reserves at their own will and seek for the best return of investment while Japan uses her huge foreign currency reserves for only purchasing US treasury Bonds ? That difference comes from the difference of leadership.

 Chinese leadership simply attaches more importance to the national interest than the interest of US, while Japanese leadership always attaches more importance to US interest rather than their own national interest.

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2007年03月17日

共存、共生できない国になる悲しさ

共存、共生できない国になる悲しさ

 外資による日本の企業買収、合併のニュースが報道されない日はない。この傾向は今後も加速度的に進んでいく事は間違いないであろう。

 問題はそれに対抗するかのように、日本企業同士の「喰うか喰われるか」の競争が表面化してきたことだ。最近では大丸と松坂屋の経営統合が発表されていた。

 この百貨店の統合に関する3月17日付の夕刊紙日刊ゲンダイの記事を読んだ私は深く考えさせられた。企業買収や統合をめざすということは、共生を拒む事ではないのか。他社との共存よりも他社に勝つか負けるかばかりを考えることではないのか。そしてそれはこれまでの日本人が暗黙のうちに大切にしていた何かを捨て去る事ではないのかと。

 日刊ゲンダイの記事はこういう記事である。経営統合を発表したその日、両社のトップが、「新会社に参加したいパートナーがいれば検討する」という思わせぶりな発言をしたという。この発言の裏に隠された真意について、それは大丸奥田会長の次のような野望にあると、流通業界関係者は指摘しているというのだ。

 一つは地方の有力百貨店を吸収することである。仙台の藤崎、岡山の天満屋、鹿児島の山形屋、広島の福屋あたりを新ホールデイングカンパニーの傘下に置けば、全国主要都市に店舗を持つ巨大グループが誕生する。これら地方百貨店は、高島屋、三越、伊勢丹などのメガ百貨店に早晩乗っ取られるよりも、新ホールデイングカンパニーの傘下に入ったほうがマシだと判断するだろうという読みからくる、地方百貨店取り込み作戦である。

 二つは百貨店を核とする「日本を代表するリーデイングカンパニー」を目指すということである。スーパーばかりか、コンビニ、専門店、ショッピングセンターなどをグループ化し、セブン&アイやイオンに対抗できる巨大流通グループを築く作戦である。

 要するに大丸・松坂屋の統合は「最初の一歩」に過ぎない。新パートナー募集が不発に終われば、次の一手はM&Aに変わる可能性を秘めた統合劇がスタートしたのだという。

 私はこの記事を読んで何とも言えない気持ちにさせられた。確かに、企業経営者にとって自らの会社の強化、拡大を図る事は当然なのであろう。会社の収益性を高め、マーケットシエアを大きくする事に成功する経営者は「優秀な経営者」として評価される。優秀な経営者はマスコミを賑わし、その発言は政治的、社会的に影響力を持つ。しかし昨今の企業買収劇を見ていると、それは共生、共存という、「日本人が大切にしてきたもの」を心に痛みなくあっさりと捨て去るということではないのかと思えてくる。そこまでしてビジネスに成功することが、そんなに立派なことなのだろうかと疑問の一つでも呈してみたくなる。

 その昔私がまだ小さい子供の頃、母に手を引かれて、住んでいた町に出来た雑貨店に、夕暮れ時によく買い物に行った事を思い出す。今日のような巨大なスーパーのほうが物は豊富で便利かもしれない。しかしあの時の母に買ってもらったアイスキャンデイーを舐めながら帰った至福の気持ちを感じることはない。

 成果主義だけが全てのようになった社会が人の心を貧しくさせてしまったのではないか。嫌いな奴や競争相手とも共存していく、そんな心の余裕が日本人から失われつつあるような気がして悲しいのだ。


Japan Seems to Lose Its Traditional Virtue, Co-Surviving

 Nowadays the news of merge and acquisition by foreign capital funds has been reported everyday.

 It is sad to see that influenced by and resisted to this US style The Bigger The Stronger survival game Japanese business leaders also seem to become so desperate for merge and acquisition of other companies.

 Recently Japanese department stores of Daimaru and Matsuzakaya announced their integration. The remark of Mr. Okuda, chairman of Daimaru at the announcement of the integration made other leaders cautious. Mr. Okuda said that we are welcoming any partner who is interested in joining with our new company. This remark alludes that the integration this time is not the end but beginning of Mr. Okuda’s ultimate ambition. That is to say the ultimate integration of all major distribution business in Japan.

 Under the principle of what is called new economy, the bigger the stronger, it is natural that every leader of company tries to acquire other companies or tried to avoid being merged. The leader who can make profits and enlarge the company size are appraised and respected in the business world.

 Nontheless many Japanese feel uneasy with this winners almighty attitude. Japanese might feel such idea will destroy the traditional value of Japanese virtue of co-surviving or co-existing.

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2007年03月16日

ミサイル探知のできないイージス鑑を米国から買わされている日本

 ミサイル探知のできないイージス艦を米国から買わされている日本

 3月16日付の東京新聞に貴重なスクープを見つけた。米軍再編の一環であるミサイル防衛システム強化に協力しろと日本は米国からイージス艦の追加導入を迫られた。その一隻が、15日に海上自衛隊の鶴舞基地に配備された。ところがその新型イージス艦「あたご」に、なんと弾道ミサイルを探知、追尾する能力がないことがわかったというのだ。北朝鮮のミサイル脅威のために導入したはずの追加イージス鑑にその能力がないというのでは、これはもう殆ど冗談だ。

 自衛隊海上幕僚長の言い訳がふるっている。「あたご」の建造が決まった2002年段階では、米国は最新式イージスシステムであるベースライン7しか製造していなかった、だからそれを導入するしか選択の余地はなかったというのだ。

 これについては若干説明がいる。イージス艦とは通常の戦艦に高度の対空ミサイル防衛システム(イージスシステム)を搭載した戦艦の総称である。戦艦は日本の造船企業が国内で建造するが、イージスシステムは米国から購入することになっている。

  これまでわが国が導入してきた4隻のイージス艦は、いずれも、北朝鮮から発射されるミサイルを日本の領海から探知、追尾する能力を持つ従来型システムであるベースライン4もしくは5を搭載している。しかし最新型のベースライン7は近距離の航空機を探知する役割に限定されており、弾道ミサイルの探知能力は付与されていないというのだ。日本としてはベースライン4または5を購入したかったのだが、それが製造されていなかったのでベースライン7を購入するしかなかったというのだ。

 とりあえずは従来型のミサイル防衛能力を持つイージス艦「みょうこう」を、「あたご」と一緒に舞鶴基地に配備し、米国のイージスシステム開発状況を見ながら「あたご」へのミサイル防衛能力を付加することを考えていきたいという。なんといういい加減な装備状況であるのか。

 一隻のイージス鑑に搭載されるイージスシステムの購入費は数百億円といわれる。一隻のイージス鑑建造費は約1000億円といわれる。当面何の役にも立たないイージス艦の導入のために、こんな巨額の税金が米国と日本の軍需産業に支払われているのだ。しかもこの東京新聞のスクープがなければ、我々はまったく知らされずじまいであったのだ。しかも軍事装備の導入はブラックボックスだ。米国には言い値で売りつけられ、国内軍需産業と防衛省の癒着は談合と天下りの巣窟である。

 おりしもシーファー駐日米国大使は14日都内で講演し、日本の負担は少ないと防衛予算の増額を迫った。米国はGDP比で4%であるのに日本は1%に満たない。国民一人当たりの負担は十分の一だと文句を言ったのだ。当たり前である。戦争国家米国と憲法9条を持つ日本は当然予算の使い方が違う。

 このシーファー大使の言葉はわが国の将来を如実に物語っている。ただでさえ日本経済は破綻に瀕しているというのに、米軍再編に本格的に協力させられるようになると日本国民の生活は軍事費の負担で押しつぶされてしまう。戦争で人命を落とす前に、日常生活そのものが苦しくなっていくのだ。今は何としてでも憲法9条を変えてはいけないことがわかるであろう。これは右翼も左翼もない。国民が等しく共有すべき目の前の危機なのである。

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2007年03月15日

トヨタは危険な競争相手

トヨタは危険な競争相手

 このブログで一度は取り上げたいと思っていたのであるが、2月28日付の日経新聞が米国自動車産業の重鎮であるロバート・ワッツGM副会長のインタビュー記事を掲載していた。その中で彼はトヨタの事をこう述べているのだ。

「・・・トヨタの利益の大部分は米国から。それは円安に支えられている。米政府は円安への不満を無視しているようだが、欧州は心配し始めた・・・」
「・・・(トヨタを)友人とは考えていない。一番の競争相手。危険な競争相手とも見ている」
「(フォードがトヨタとトップ会談をした事について聞かれ)ムラーリ(フォード社長)はトヨタへの大げさな称賛をやめた方がいい。かつてGMもそうしていたが、やめた。」

 日本では殆ど注目されていないが、このGM副社長の発言は凄い発言である。抑制された言い方をしているが、その裏にはむき出しの敵意が満ち溢れている。この言葉を知って、さぞかしトヨタは震え上がったことであろう。

 なぜ私がこのラッツの言葉を思い出したかというと、今日(3月15日)の日経新聞に、トヨタの奥田碩相談役が、在日米国商工会議所から2006年のパーソン・オブ・ザ・イヤーに選ばれたという記事を目にしたからである。社長、会長時代に工場建設などで米国の雇用機会創出に貢献したことなどが理由だという。これは喜ばしい出来事である。トヨタもこれを素直に喜んでいい。しかし同時に米国という国を決して見くびらないことだ。米国という国は、追い込まれた時は一転攻勢に転じる国だ。その場合は一致団結する国だ。もはやトヨタは今まで以上に米国の顔色を伺わねばならなくなった。米国のほめ殺しで米国に逆らえなくなったのだ。

 私は1997年から2000年までデトロイトの日本総領事をしていた。デトロイトは米国自動車産業のメッカである。そして自動車産業はベースボールと並んで米国のシンボルである。その米国の自動車産業を日本車の輸出急増が脅かした。いわゆる日米自動車貿易摩擦である。日本車が米人労働者によって叩き潰された。これに慌てた日本の自動車業界はこぞって生産地を米国に移し、米国で走る車は米国産とし、地域住民の雇用を向上させ、あるいは資本提携、技術提携を重ねて米国自動車産業との一体化に努めた。その甲斐あって貿易摩擦は沈静化した。

 あれからわずか十年、今日では状況は様変わりだ。北米市場のシェアでトヨタはGMに迫る勢いだ。日本車のシェアはついにビッグ3を凌いでしまった。当時日本車のシェアが3割を超えると「虎の尻尾を踏む」といわれて、「これだけは守ります」と現地の邦人関係者が言っていたのを思い出す。しかしいまでは4割を超えてしまった。

 もはや日本車の優秀性は米国民が認めだした。米国の政治は金融資本に支配され自動車産業の政治力は凋落しつつある。だからかつてのような対日批判はおこらないだろう。そう日本側がたかをくくっていると大変なことになる。冒頭のラッツGM副会長の言葉は、その懸念が懸念でなくなる時が来るかもしれないと警告を発しているのだ。

 米国の怖さを一番良く知っているのは奥田碩相談役その人であろう。日経新聞によれば授賞式の場で、創業家の豊田章男副社長が社長になる可能性を聞かれた奥田氏は、「非常にデリケートな質問で答えられない」と前置きした上で、「21世紀リーダーシップの条件は神の足音が聞ける人。トヨタに何人いるか知らないが、その中から選ぶことになる」と答えて周囲を煙に巻いていたという。

 トヨタにとっては神とは米国のことではないのか。奥田氏は小泉前首相以上の米国支援者なのではないか。だからこそ米国追従の小泉前首相を最後まで支援したのではないのか。今度の受賞はそのご褒美なのではないのか。冗談半分でそう思うのである。

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2007年03月14日

格差社会の根源がここにある

 格差社会の根源がここにある

 3月13日の紙面を賑わせたのは日興コーデイアルの上場維持の決定である。その同じ日の新聞の片隅に小泉前首相を最高顧問に迎えたシンクタンク「国際公共政策研究センター」の発足会が都内の一流ホテルで極秘に行われたというニュースがあった。一見何の関係もないこの二つの記事に、私はこの国の格差社会の根源を見るのだ。

 格差社会の根源は、自由経済の行き過ぎにより弱肉強食の結果生ずると思われがちだ。しかしそれは違う。公正、平等な条件で自由競争が行われるのであれば、例え結果に差が出ても納得がいく。その格差は不当なまでに醜悪にはならない。

 ここ数年で日本経済は巨大な外資に支配されるようになった。それを可能にするルールの変更とその恣意的な運用によって、権力者とそれに擦り寄る大企業が勝ち組になる仕組みが出来上がってしまったのだ。権力者とは、日本の政権政党とそれを支える官僚組織であり、日本の権力の後ろでシナリオを書く米国である。野党や弱小者が絶対的に不利な仕組みになってしまったのだ。

 日興コーデイアルが犯した利益水増しの虚偽報告は悪質で意図的な経済犯罪である。しかも組織的な犯罪である事を会社の内部調査も認めた。その時点で誰もが上場廃止は不可避と考えた。日経新聞でさえも一面でそう報じた。西武鉄道もカネボウもライブドアも、粉飾記載で上場廃止にされた。しかし日興コーデイアルだけは、東京証券取引所の「裁量」で上場維持が決定された。十分な調査をすることなく「不正経理が組織的、意図的に行われたとまではいえない」と東証が裁量で判断した。検察が動く気配もない。なんという不透明さであることか。

 その背景についてはさまざまな事が語られている。しかしハッキリしていることは政府がそれを認めたということであり、最後は外国資本が得をするということだ。権力に近い限られた者だけが情報を共有しておこぼれにあずかる。情報ひとつで関係者が手にする資金は膨大なものがある。その陰で情報に踊らされるおびただしい一般投資家の損失がある。

 こんな日本にした最大の功労者は小泉前首相である。改革という名の下に、弱者を切り捨て、大企業優遇のルールを次々と作り出していった。その見返りとして財界は、小泉前総理に対し 退任後の優雅な生活を保証したのだ。マスコミを完全にシャットアウトして行われたシンクタンクの発足会においては、トヨタほかの発起企業4社から各一億円、その他会員80社からは各2000万円、合計20億円が集まったという。人前に姿を見せない小泉前首相が、めずらしく出てきて愛嬌を振りまいたという。一切が公表されていないが巨額な顧問料が小泉前首相に支払われるに違いない。その原資は従業員が毎日深夜まで汗水たらして働いて儲けた金である。ホワイトカラーエグゼンプション導入を唱え、「過労死は自己責任だ」と公言するお友達とワインを楽しむ小泉前首相の生活費となるのだ。

 日本国民が、まったく別の世界に住んで、まったく別の価値観で生きるようになった。皆勝ち組になろうとして権力に擦り寄る。不正があっても声をあげず、見て見ぬふりをするようになる。かくして、権力者はますます強くなり、格差はますます広がっていく。満員電車で毎日通勤しているサラリーマンは、これが「官から民へ」の正体であることを知らなければならない。格差社会の根源がここにある。

※参考ページ・・・東証: 監理ポスト割当ての解除 -(株)日興コーディアルグループ -


 Japan Became a Winner-Take-Them-All Society

 I read with much interest two articles of March 13’s Newspapers. One was the news about Nikko Cordial Investment Company’s survival in the market. The other was the establishment of a new think tank which was created by Japanese major companies for the honor of former Prime Minister Koizumi. At a glance these two articles are totally unrelated. But I saw the common elements underlying behind these two articles. They symbolize a winner-take-them –all society of Japan today.

 People tend to think that recent rich and poor divergence of Japanese society is merely a result of free market competition. But that is not the case. A real reason comes from the monopoly of power and information by the rulers and their innner circles. The rulers mean the Japanese Government and major enterprises. behind them US and its money exists as a real ruler.

 Nikko Cordial could survive because rulers wnt it. While other similar companies who committed a economic crime of window dressing settlement were all deprived of the right to stay in the stock market. Nikko Cordial was alloed to stay.Many speculations circulate but one thing sure is that Japanese Government tolerated this and eventually financial companies, particularly US funds, will gain at the cost of individual investors.

 It was former Prime Minister Koizumi who changed Japan so drastically into the a winner-take-them-all society by making new rules which are favorable for big companies and US funds, in particular. A new think tank collected donation of total amount of 2billion Yen (17million US dollars)from major companies. Mr. Koizumi was welcomed as an honorary President of that think tank. A considerable amount of fee is paid to him like as a reward for his contribution to make Japan favorable for big enterprises and US funds. Comanies's donation come from the hard working of their employees whose salary is hardly increased. Everyone tends to flatter the power and establishment shutting their mouths and closing their eyes against unfair and unjust practices. thus the strong will get stronger and the weak will get weaker. This is the real reason of divergence between the poor and the rich.

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2007年03月13日

金正日が謝罪したという嘘

金正日が謝罪したという嘘

   見落としていたのであるが、3月4日の産経新聞で、日本人拉致に朝鮮労働党幹部が関与していた、というスクープが報じられていたという。その報道によると、この幹部は朝鮮労働党対外情報調査部のカン・ヘリョン元副部長である。金総書記との関係や経歴から、日本の警察当局はカン元副部長の動向や日本人拉致との関連を調べていたが、蓮池薫氏が警察当局に対し、「面識があった」と証言していた事により、捜査の局面が大きく変わったという。
   私がこの事を知ったのは、本日(13日)発売の週刊誌アサヒ芸能3月22日号を読んだからだ。鈴木宗男事件の「国策捜査」で有罪判決を受け現在控訴中の外務省主任分析官である佐藤優が、この記事に触れて拉致問題の解決に向けた今後の日本の対応策について鋭く問題提起をしていた。
   佐藤が指摘するようにこのスクープの意味は大きい。もしそれが事実であれば金正日総書記は小泉前首相に嘘を言ったということだ。金正日総書記側近の犯罪を彼が「知らない」では済まされないからだ。
思い出してほしい。02年9月17日の日朝首脳会談において、金正日総書記は小泉前首相に対し、「(拉致)は特殊機関の一部が妄動主義、英雄主義に走って起こした」と「謝罪」した。そう我々は聞かされてきた。そして金正日総書記に謝罪させた事を小泉元首相側は大手柄であると喧伝した。当時のメディアで、金正日発言の胡散臭さを批判したメディアはひとつもなかった。しかし、そもそもこの金正日総書記の発言が、どこで、誰に対して、どのような表現でなされたものであるか、我々はいまだに正確な事を知らされていない。メディアは外務省の結果報告の記者ブリーフィングを流したのであろうが、それは外務省がたくみに加工したものである。極秘の会談の全貌が正確に明らかにされることはあり得ない。
  そもそも、報道されて来た金正日総書記の「部下が勝手にやった事で、自分は知らなかった」という発言そのものが不透明だ。それがどうして謝罪になるのか。この北朝鮮の外交的発言を都合の良いように「謝罪した」という解釈をして国民を欺いてきたからこそ、北朝鮮に「解決済みである」と開き直られるのだ。それに反論できなくなるのだ。
ところが今回の産経新聞のスクープによって、その金正日総書記のみせかけの謝罪発言そのものが嘘であった事が明らかになった。これはチャンスが到来したと捉えるべきだ。そして直ちに外交攻勢に転じるべきだ。金正日総書記が「拉致を認め」、「謝罪した」から平壌宣言に合意したという今までの説明が根底から崩れる事になる以上、もう一度最初から拉致問題と日朝国交正常化の交渉を始める必要が出てきたのだ。
   拉致問題をめぐる日朝交渉はもはや官僚同士の無意味なにらみ合いの段階をとっくに通り越している。あの時、小泉前首相が拉致問題の真の解決を願って訪朝したのであれば、日朝交渉が完全に行き詰まり、安倍首相も外務省も打つ手がなくなった今こそ 自らが責任を果たすべきではないか。金正日総書記を訪問し、02年の9月17日の原点に戻ってもう一度最初から交渉し直す事を提案すべきではないのか。「拉致問題は首脳会談でしか解決できない、だから自分が訪朝したのだ」と自慢げに話していたのは小泉元首相だったのである。あれほど自尊心の強い小泉前首相が、だまされた事が明らかになっても憤慨しないのはどう考えてもおかしい。再交渉を自らの手でおこなう気持ちが起こらないのなら金正日と闇取引をしたという疑惑に信憑性がでてくる。その不名誉を晴らす為にも、小泉前首相は今こそ自らが前面に出て、この問題を自分の手で動かすべきだ。それが政治家というものだ。


Kim Jong-il’s Lie Was Revealed.

The Sankei Shinbun of March 4 scooped that one of the inner circle of General Secretary of North Korean Labor Party Mr. Kim Jong-il was responsible for abducting Japanese nationals. The national Police Agency got this information from one of the returned abducted Kaoru Hasuike.
If this article of Sankei Shinbun is true Mr. General Secretary Kim told a lie to then Prime Minister Koizumi when he visited North Korea in September 02.
At that time it was reported that Mr. Kim apologized for the abduction saying some of the his deviated staff did a wrong-doing without his permission.
Now it turned out that a high ranking aides of Mr. Kim Jong-il was involved in the well organized abduction operation.
A bilateral negotiation between Japan and North Korea on the issue of abduction has been deadlocked for long time. It is a time for Mr. Koizumi to visit Mr. Kim and ask him whether he told a lie or not. Only former Prime Minister Koizumi can ask this question to Mr. Kim because it is a matter of Koizumi’s personal pride as a politician and a leader of Japan.
If Mr. Koizumi has a pride and sense of guilty for the families of abductees it is difficult to imagine that mr. Koizumi keeps silence and does not show any sigh of interest on this issue. In order to clear the dark rumor that he secretly made a deal with Mr. Kim to close the abduction issue for the sake of honor of achieving historical diplomacy of normalizing relation with North Korean relation, Mr. Koizumi has to move this negotiation forward by his own hands.

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2007年03月12日

右であれ左であれ、わが祖国日本

右であれ左であれ、わが祖国日本

   新聞の書評につられて週末に一冊の文庫本を買って読んだ。「右であれ左であれ、わが祖国日本」(船曳建夫著、PHP新書)という表題の本である。その表題は、英国の作家ジヨージ・オーウェルの評論集 My Country Right or Left の邦訳からとったという。
社会主義者のオーウェルはまた反戦主義者でもあったが、第二次大戦が始まり、ヒトラーの侵攻を目のあたりにして、「私は心の底では愛国者であって・・・戦争を支持するだろう。できれば、自ら戦いもするだろう」と従来の立場から一歩踏み出した。徹底した平和主義者であれば一貫して戦争に反対するはずだ。オーウェル自身もそうした平和主義者を非難するのではなく、むしろその立場を支持した。しかし自分は、そこから一歩踏み出して、「右であれ左であれ、わが祖国」と宣言したのだ。
  著者船曳はこのエピソードを引用しつつ、国家を論ずる時の基本目的は、右であれ左であれ日本の「国益」を最大化することでなければ議論は空転する事、その場合「国益」を「他の国の国益」よりどこまで優先するかであるという事をこの本の中で論じている。
  この本の内容を紹介するのがこのブログの趣旨ではない。この本に指摘されている二つの論点から導き出される日本の国益について、右であれ左であれ、意見に違いはないという事を、彼の書いている二つの箇所を引用して例示したいだけである。
  彼は、今日のテロ問題が、すぐれてアメリカの問題であると明言している(181頁)。これは私が常に強調してきたところである。すなわち、「テロ問題はすべての国と国民にかかわる世界的な問題であり、あらたな世界秩序が編み上げられていく長期的な問題である」と我々は思い込まされてきた。だからテロ問題の解決に協力することが国際的な義務であるかのように思ってしまう。しかし今日のテロ問題の本質はこよなく米国的な問題なのであると彼は言う。それは米国とイスラエルに向けられたアラブの反米武装抵抗であり、米国の資源、産業、金融支配に対する後進国からの暴力的な反発なのである。私は「テロとの戦い」とは、米国の、米国による、米国の為の戦いであるといい続けて来た。ところがそういう意見を正面から述べる日本の論者はいなかった。テロ問題は「すぐれてアメリカの問題」であると断じた船曳の論評は、私が日本の評論の中ではじめて目にするものである。
  他方において、海外派兵に対する日本の態度について彼はこう書いている(161-164頁)。すなわち日本が自衛隊の海外派遣に消極的だったのは、1991年の湾岸戦争の時が初めてではない。かつて日英同盟に基づいて英国が欧州戦線への陸軍派兵要請を求めてきた時、日本の指導者は「遠い危険な地域で人命を失うおそれががある」と考えて断り、英軍輸送の護衛のための巡洋艦と駆逐艦の派遣にとどめた。法的にも軍事的にも派兵が可能であったにもかかわらず積極的に協力しなかった事をどう解釈すればいいか。日本という国は自国の保存を最優先し、世界の利益という理念に欠けている面があるのではないかと疑問を呈するのである。
  この二つの船曳の問題提起から導き出される疑問は、小泉前政権下から急速に進められようとしている米軍再編への協力を、国益という見地からどう考えればよいかということである。これが小泉前首相の個人的な私益に基づいてものであるのなら、あるいは米国に守ってもらうためには米国の要求は何でも聞くしかないという日米同盟絶対視論者の考えから由来するものあれば、まだ分かりやすい。議論以前の問題であるからだ。
    しかしまじめに国益というものを考えた時、日本とは無関係の「すぐれてアメリカの問題」であるテロとの戦いに、日米同盟における英国の要請や湾岸戦争における世界の期待でさえ、応ずる事のなかった陸軍兵士(陸自自衛隊)の海外派兵(派遣)を、今行う事が果たして日本の国益であるのか、という根本的な疑問にどう答えればよいのか。
  それがイラク戦争の時のように、最も安全な地域を探し当てて復興支援に限定する分にはまだ許される。後方支援に徹するのであればそれもいいだろう。
  しかし日本は今後米軍再編に協力する形で「テロとの戦い」への本格的な参加を米国から強要されるのである。日本は間違いなく米国の戦争の盾とされる。自衛隊は米軍の先兵隊とさせられる。日本の指導者にその自覚があるのか。自衛官を殺し、殺させる覚悟があるのか。それが国益なのか。右であれ左であれ、わが祖国日本の国益を考えた時、答えは一つである。

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2007年03月11日

保守同士の内輪喧嘩がはじまった

保守同士の内輪喧嘩がはじまった

  ここにきて、慰安婦問題をめぐる日本の対応について、保守同士が喧嘩を始めだした。その典型が11日のフジテレビ報道2001である。毎週、保守、体制派、右翼の人物が集まってエールを交換し合い、竹村健一が駄目押しの御用、親米コメントを説教するワンパターンの番組であるが、この日は趣が異なった。慰安婦問題と拉致問題について、麻生外相をゲストに呼んで、日本外交の失敗について司会者と竹村健一がたたみかけたのだ。さすがの麻生外相も気色ばんで反論する一幕もあった。
  しかしこのような保守同士の意見の対立がみられるようになったのは、フジテレビのこの番組に限らない。週末に流されたテレビや新聞に多く見られた現象である。
   慰安婦問題は、安倍首相みずからがかつて河野談話を見直すべきだと主張していた程の、いわゆる歴史認識をめぐる典型的な右翼、左翼の対立問題である。右翼はとにかく左翼を叩いていればよかった。しかし米国議会において慰安婦問題に関する非難決議が成立しそうになり、政府の強硬姿勢が腰砕けになった。それにともなって、日米関係をこれ以上悪化させないためにこれ以上事を荒立てるべきではないと戦術変更もやむなしとする現実派と、誇りを失ってはならないとする国家主義者に保守、体制、右翼の者たちが分裂しつつあるのだ。
   このような保守派、体制派、右翼同士の争いは 米国の不当な対日外交がこれからもますます増えていくに従って、広がっていくであろう。歴史認識や北朝鮮外交にとどまらず、対中外交、米軍再編、に関する米国の法外な協力要請、米国産牛肉の輸入再開圧力など、日本が米国に裏切られ、搾取される問題が今後も続出していく。それらを前にして、それでも日本は米国に従属し続けなければならないのかという根本問題が保守、体制、右翼の中でますます表面化していく。左翼は黙って高みの見物を決め込めばいいのである。


The Comfort Women Issue Now Became the Issue Among The Conservatives

  The issues of Japan’s responsibility concerning historical misconduct of militarism, including the comfort women’s issue, will be the major controversy between the conservatives and the liberals or putting it into more ideological term between the right and the left.
Now the comfort women’s issue seems to become the issue among the conservatives.
The Japanese Government and conservatives people of Japan was against the movement of US Congress to pass the draft bill of Japan’s Comfort Women’s Issue due to the fact that the draft bill was not based upon the accurate historical fact.
But once the US media started criticizing such attitude of Japan unfair and the senior staffs of US Government said they cannot defend Japan, Japanese Government and bureaucrats changed their attitude and stopped criticizing. This change of Japanese Government's attitude infuriated the rightist people in Japan and they started to criticize the Government and the bureaucrats.
The split among the conservatives who are in principle supports the Government’s pro-American policy will be coming more to the surface as US is making light of Japan and attaches more importance to China than US – Japan alliance.
The leftist people who have been always the target of attack by the rightists will be better to watch such a split of the conservatives and enjoy watching it.


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2007年03月10日

イラク政策の転換を模索し始めたブッシュ政権

イラク政策の転換を模索し始めたブッシュ政権

  今日10日からバクダッドで開かれるイラク安定化のための高官級会議と、その後4月に予定されている閣僚級会議に、日本のメディアはもっと注目すべきである。
  ブッシュ政権は泥沼化したイラク情勢を自らの手で解決出来ないことを自覚し始めた。そして、みずからの失策から生じたイラク情勢の混乱の責任を不問にし、「イラク情勢の安定化は、利害関係国すべての共通の責任である」と主張して名誉ある撤退をもくろみつつあるのだ。北朝鮮問題と同様に、ブッシュ政権が見せる外交の方向転換である。
   もっとも最近のブッシュ政権に明確な外交政策などありはしない。よく言えば、「あらゆる可能性を排除しない柔軟性」ということになるが、ありていに言えば無責任、支離滅裂ということである。だからもちろん今度の会議がうまくいく保証はない。成功するシナリオは存在しない。
  しかし苦しいのは米国のブッシュ政権だけではない。イラクのマリキ政権はもはや自分の力でイラクを安定化させる事は出来ない事を知っている。シリアのアサドやイランのアハマドネジャドは本気で米国と戦って自滅する覚悟はない。サウデイアラビアやエジプト、ヨルダンの為政者は米国の中東支配がこれ以上進む事によって高まる国内の反米感情が自らの政権を脅かす事を心底恐れている。そしてなによりも、イラク市民や国際社会はこれ以上の流血に疲れ果ている。要するに世界が皆、イラク問題にお手上げなのだ。そこに、あらたな動きが出てくる可能性を見る。
   今度の会議の重要性は特に次の二つの観点から明らかだ。その一つは、中間選挙の大敗にもかかわらず強硬姿勢を崩さなかったブッシュ政権が、テロ支援国と非難してきたイランの出席する国際会議に同席し、場合によっては二国間協議も行いかねない動きをみせていることである。米国務省のマコーマック報道官は7日の記者会見で、「そのような(米国とイランが会議で接触する)機会を利用していくつもりだ」、「ライス長官は逃げも隠れもしない」などと答えている。
   もう一つは、その参加国の顔ぶれである。テロ支援国家であるイラン、シリアの出席が懸念されていたが最終的には参加する事になった。アラブの親米大国であるエジプト、サウデイアラビア、ヨルダンの三役が揃い踏みで参加する。イラク北部のクルド人を掌握するトルコも参加する。安保理五カ国とEU、アラブ連盟、イスラム諸国会などの国際機関も参加する。要するに中東情勢を左右するすべての役者がそろうのだ。
   かくして北朝鮮問題についで中東問題についても日本は蚊帳の外におかれることになる。国益を損なってまでブッシュのイラク戦争に協力したにもかかわらず、日本は肝心なところでは関与させてもらえない。そして無能な外務省は、こちらから頼み込んで参加するという積極性も能力もない。4月の連休における安倍首相の中東外遊を早々と発表し、中身のない「中東問題への日本の貢献」振りをアピールするというパフォーマンスに奔走するだけである。その頃には中東情勢は激変しているかも知れないというのに。
  せめて日本の中東専門家や中東駐在のメディアはこの会議に注目してほしい。そしてこれからのイラク情勢、中東情勢がどのように急転していくのか、そして日本の中東外交が取り残されてはならない事について、日本国民に警鐘を乱打して欲しいと思う。

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2007年03月09日

慰安婦問題を騒ぎ立てても日本は勝利しない

慰安婦問題を騒ぎ立てても日本は勝利しない

   慰安婦問題について私はこのブログで論ずるつもりはない。不毛な論争に時間を使いたくないからだ。しかしこれだけは言っておきたい。「慰安婦は強制されたものではなかった」といくら騒ぎ立てても日本は勝てないと。これは私の言葉ではない。日本の為政者たちが最大の味方であるとあがめ奉る「米国要人」の言葉なのである。
   米国の日本専門家としてもてはやされている人物にマイケル・グリーンという男がいる。アーミテージに次ぐ米国内での屈指の知日家、日本専門家であると喧伝されている男だ。
   日本を専門とする米国人の中で、米国内で影響力のある主流の人物は、まず居ない。だからアーミテージといい、その弟子のマイケル・グリーンといい、日本人がもてはやすほど米国中枢において高い評価を得ているわけでも、影響力があるわけでもない。にもかかわらず、日本の政治家や官僚は、この二人をまるで米国政府の代理人のごとくあがめ奉り、その発言を神の声のごとく引用する。彼らと懇意である事があたかも米国通であるかのように自慢げに話す。なんと貧弱な日米関係であろうか。そういえば小泉前首相の次男は、家庭教師よろしくマイケル・グリーンに面倒を見てもらう形で、米国のシンクタンクの一つである戦略国際問題研究所(Center for Strategic and International Studies)で修行をしているらしい。
  その、日本の味方であるマイケル・グリーンが、慰安婦問題で、「日本を弁護できない」と次のように述べているのだ。読売新聞のインタビューに答えたもので、3月4日の読売新聞が掲載していた。以下に抜粋して引用する。

記者      (自民党議員の一部が)河野官房長官談話の見直しを議論しているのをどう受け止めるか。
グリーン 仮に決議案が採択されたとしても、米国の日米同盟に関する政策に与える影響はゼロだ。米メディアの報道も今のところ低調だ。しかし、日本が反発すれば事態は悪化する。共和党や民主党の一部議員が、決議案の問題点に気づき、修正や廃案をめざして動き始めたが、日本の政治家が反発すると収拾が難しくなる。日米とも政治家がこの問題に関与すれば国益を損なう。
記者      安倍首相は「(旧日本軍の)強制性を裏付ける証拠はなかったのは事実だ」と発言している。
グリーン    安倍政権の外交政策、特に国連での対北朝鮮制裁決議案採択や、中韓との関係改善に向けた首相の指導力は、ワシントンでも高く評価されている。ただ、慰安婦問題は、高いレベルが政治介入すれば、かえって複雑化する。強制があろうとなかろうと、被害者の経験は悲劇で、現在の感性では誰もが同情を禁じ得ない。強制性の有無を解明しても、日本の国際的な評判が良くなるという話ではない。
記者    昨秋、下院で開かれた公聴会で靖国神社問題について証言し、日本の立場に理解を示したが、この問題では批判的なのか
グリーン  慰安婦問題で議会に呼ばれたら、残念ながら日本を擁護できない・・・慰安婦問題では被害者女性だけが同情され、日本が政治的に勝利することはない。

   マイケル・グリーンは日本語をあやつる曲者だ。日本人の心理をくすぐるコツを知っている。だから、インタビューの中でも、「米議会がこの問題に関与する事は大きな間違いだ」と言ってみたり、安倍政権の外交はワシントン(米政府)で評価されていると持ち上げてみたり、慰安婦問題に関する決議案が採択されても日米同盟関係に影響はないなどと、日本人を安心させるような言い方を はじめにしてみる。
しかし彼は米国人だ。物事を曖昧にはしない。間違った事を言って後で責任を取らされるようなことは決して言わない。彼の本心は後半部分にある。彼は慰安婦問題については日本を弁護しない、出来ないと言っているのだ。
   日本政府の慰安婦問題への対応はこれで決まりである。いくら論争をしても日本に勝ち目はない。米国の反発を招くだけだ。マイケル・グリーンさんがそうおっしゃっているのだ。
   慰安婦問題で威勢のいい事を言っている右翼の連中は日本の国益を良く考えたほうがいい。日本の国内で、慰安婦問題に理解を示す政治家や識者を威勢良く罵倒する事は勝手である。しかし米国へ行って、米語で、奴らに同じ事を言ってみるがいい。勇ましい事を言ってみたらいい。勝ち目のない戦を米国に挑んだ日本は、その結果どうなったか。愚かな経験は一度だけでよい。慰安婦問題に限っては、私はマイケル・グリーンに賛同する。


Michel Green, Former Assistant to the US President for National Security, Said Japan Never Wins On the Issue of Comfort Women

   Liberal Democratic Party’s rightist parliamentarians demand Abe Government to take a stronger position on the issue of comfort women, a sex slave during Japanese occupation period. They insist Japanese militarism has never forced women to serve as sex slaves. They say that the accusation by the US Congress is based on the inaccurate insistence by politically motivated Korean Americans. Many Japanese nationalistic people support that opinion and ask Japanese Government to take an action to challenge that protest.
Many Japanese people including myself think it is wrong that Japan denies its misconduct during the war and we should observe the decision once Japanese Government adopted on the issue of our militarism’s mistakes during the war so that any misgivings about the sincerity of that official apology be incurred.
Unfortunately there cannot be a consensus on this issue and fierce debates are endlessly continued among Japanese people.
In order to stop such a futile debates among Japanese themselves an order from God is needed and that is a voice of America. Any Japanese, particularly Japanese Government, bureaucrats and conservatives people and rightist people, are so submissive to the American order.
A guy named Michael Green, a former assistant to the US President for national security, said in an interview with The Yomiuri Newspaper of March 2 as follows. Michael Green is an American official who is supposed to be an Japan Hand and every Japanese respects what he says. The endless debate on the comfort women issue in Japan now has to be stopped.
“ I cannot defend Japan when it comes of the issue of comfort women. Japan can never wins a battle over this issue.”

 

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2007年03月08日

私は小泉前首相の言動を監視し続ける

私は小泉前首相の言動を監視し続ける

 3月8日の日経新聞はつぎのような記事を載せていた。

安倍晋三首相は7日夜、都内のホテルで小泉純一郎前首相、自民党の中川秀直幹事長と夕食をともにしながら懇談した。小泉氏は首相に「自信を持ってやりなさい」と助言。7月の参院選について「万が一負けても参院選は政権選択の選挙じゃない。堂々と胸を張って『野党の主張にも耳を傾けてやります』と(言えばいい)」と述べ、責任論にこだわる必要はないとの認識を示した・・・2月20日に(自民)党の会合で「目先のことには鈍感になれ」と間接的なアドバイスを送ったが・・・表立ってエールを送り始めた格好だ。
小泉氏は「首相は何をやっても批判されるから、一切気にする必要はない」と指摘。官邸と党側に「すき間風」が吹いているとの指摘には「おれが首相の時なんか全部暴風雨だった。官邸と党が一体となって大きな台風をどんどん吹き荒れさせたらいい」などと熱っぽく語った

 小泉氏が昨年9月に首相をやめてから、はやいものでもう半年が経つ。しかしこの間の小泉氏の言動については殆ど伝わってこない。私は後述する意図があって、小泉氏のその後の言動については、漏らすことなく公開情報をフォローしてきたが、わずかに伝えられる小泉氏の言動は、「本会議のほかは国会にも出席せず、議員会館にも顔をださず、当面は政治的活動を控える」、とか「海外へ移住する準備をしている」とか、「結婚するかもしれない」とか、「林真理子や奥谷礼子などがつくっている仲良しクラブ『不機嫌な会』に出席してワインを空にした」などというゴシップ記事ばかりだ。それと、今回のような政局に関する内輪の発言ばかりが報じられる。そこには山積する政策課題に関する政治家としての見識を述べる発言は皆無である。

 書くほうも書くほうであるが、見方によってはそれだけ小泉氏が内容のない活動しかしていないということであろう。

 私は、世間の一般の評価とは異なり、小泉前首相の政治実績に対しては全面的にこれを否定するものである。その政策のすべてが日本にとって甚大な悪影響を与えたと考えている。小泉政権の5年半は日本にとって失われた5年半なのだ。

 だから、小泉氏が首相を辞めた後に噴出し始めたあらゆる深刻な問題について、小泉氏がどのような思いでこれを見ているのか、報道はそれを小泉氏に問いただし、小泉氏の答えを引き出して、そしてそれを国民の前に報道してもらいたいと思ってきた。それを期待して、新聞などで報じられる小泉氏の言動を監視し続けてきたのである。しかし前述のように彼に関する報道は空っぽである。

 イラク状況は悪化の極みである。朋友ブッシュ大統領の政策は米国民の支持を失った。拉致問題の行き詰まりは小泉・金密約が原因で完全に行き詰まっている。「命をかけた」郵政民営化は問題が不徹底な形で進められ米国からも文句が出てきたが彼のコメントは一言も聞かれない。行政改革は一向に進まず官僚のあらゆる不正が噴出している。日本経済はますます米国資本の草刈場と化し、国民生活が犠牲になりつつある。国民皆保険制度の崩壊が確実に進んでいるというのに政治はなんら打つ手を示せないでいる。こう考えていくと「改革」を絶叫した小泉政治とは、とんでもないいかさまだったことが分かる。

 今こそ小泉氏に問いたださなければならない。しかしメディアは問いたださない。もっとも問われても小泉氏は答えないだろう。いや答えられないのだ。

 しかしこのまま小泉氏の責任を追及せずに済ますわけにはいかない。メディアの報じる小泉氏に関するゴシップ記事に目を奪われる事なく、我々はこれから深刻化する内外の諸問題のすべてはその原因が小泉政治にあるという原点にたち戻って、その責任を検証しなければならないのだ。小泉氏はお得意の政局発言に終始し、問題から逃げようとするつもりだろう。しかしそうはいかない。たとえメディアが小泉人気を維持させようとしても、そのような太鼓もち報道が非難される日が遠からず来ると思う。小泉氏はみずからの犯した誤りの責任から逃れるわけには行かないのだ。


Former Prime Minister Koizumi Never Talks About Policy Issues Japan Now Faces

 Six months have been passed since former Prime Minister Koizumi stepped down but there were no report about what he thinks about the policy issues Japan now faces. Instead、 all articles about Mr. Koizumi are either gossips or his remarks about political battles.

 Infact all serious issues Japan now faces, namely Iraq war, North Korean issues, Invasion of US capitals to Japanese economy, growing divergence between rich and poor etc. are originated from Koizumi’s pro American, new liberal policies.

 Therefore the media should ask Mr. Koizumi about his view on these issues and report it to the public instead of reporting meaningless gossips and political comments.

 Mr. Koizumi will not answer even if the media might ask. As a matter of fact he cannot answer because he did not understand what he did during his 5 and half years tenure. Nevertheless the media has to ask him. We should not let Mr. Koizumi escape from his wrong policies.

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2007年03月07日

拉致問題は国をあげて解決する時が来ている

拉致問題は国をあげて解決する時が来ている

 六カ国協議のフォローアップとして拉致問題に関する日朝作業部会が始まった。北朝鮮の硬直的な態度を見ていると楽観は許されないが、こんどこそ拉致問題に関する進展が見られる事を心から期待する。もはや国をあげて解決する時が来たと思う。

 私はこれまで拉致問題についての私の考えをあらゆる機会を捉えて発言し、書いてきた。イラク問題と並んで、いやむしろそれ以上に、この拉致問題の早期解決を重視し、その解決を願って来た一人である。

 いつまでたっても解決の見通しが立たない拉致問題に振り回される拉致被害者の家族の姿を目にする事は、耐え難く悲しくつらい。これほどむごい事はない。これほど人の心をもてあそんできた外交はない。

 結果がどのようなものになるにせよ、私は拉致問題は今度の話し合いで一つの方向が見えると思う。米国が北朝鮮の核問題に一つの結論を出そうとしている以上、日本がいつまでもこの問題を引きずる訳には行かないのだ。日本政府は、結局は、「拉致問題の解決に向けて前進した」という形を作り上げ、北朝鮮との国交正常化に向けて舵を切っていくだろう。そして共産党や社民党の左翼政党はこれを歓迎するであろう。しかしそのような形で拉致被害者の家族の期待を裏切ることがあってはならない。

 そうなる前にもう一度だけこの拉致問題についての私の考え方を述べることとする。これが拉致問題について私が書く最後の文章である。

 なぜ拉致問題が正しく解決しないのか。それはもちろん極悪、非道な北朝鮮の金正日体制のせいである。しかし同時にまたその金体制に向かい合う日本側の指導者たちの基本姿勢に根本的な矛盾があるからでもある。

 それは一言でいえば、国民の生命、人権よりも、国家の利益を優先する日本の与野党の政治家、官僚の論理があるからだ。その国益という言葉の裏には、政治家や官僚の名誉欲、出世欲、責任逃れといった邪心が隠されている。拉致被害者の救出の為に何が一番重要で、効果的か、という視点が欠け、問題の処理が不透明なところだ大きな問題なのである。

 3月7日の朝日新聞、ニッポン人・脈・記において、拉致問題の核心をつく記事が書かれていた。拉致問題は、小泉前首相の訪朝をきっかけに表面化し、今でこそ国民の関心をひく大きな外交問題になっているが、それまでは政治家も官僚もマスコミもほとんどこの問題に目を向けなかったと、その朝日の記事は指摘している。その通りである。いやそれどころか、政党や政治家の政治的取引としてこの問題が隠蔽されて来たのだ。そして出世の為に政治家に取り入る外務官僚や警察官僚の幹部が、このような政治家の取引に加担してきたことが読み取れる。

 拉致問題を掘り起こしたのは、ごく少数のジャーナリストや議員秘書であった。彼らは拉致の存在に気づいた時点で、これは許せないと素朴な正義感を持ったのだ。大阪朝日放送の石高健次(56)は、92年に「楽園から消えた人々 北朝鮮帰国者の悲劇」というドキュメンタリーを放映した記者であるが、その取材の過程で石高は拉致問題に気づく。そして拉致問題の裏づけ取材で韓国を訪れた時、韓国の情報機関の高官から、バトミントン帰りの13歳の女の子が拉致されたらしいという話を聞く。95年のことだ。それ以来石高は横田めぐみさんを支援し、めぐみさん救助に向かって動く。しかしこの石高の活動は広がりをみせることにはならなかった。共産党の参議院議員橋本敦(78)の秘書だった兵本達吉(69)もまた拉致問題を追った一人だ。マルクス主義者の兵本にとって「社会主義の北朝鮮が(拉致などということを)やるはずはない」のだが、それでも「何かおかしい」と思って調査を進める。その兵本は、最後は日本共産党を除名される。産経新聞の阿部雅美(58)は78年の日本海海岸でのアベック蒸発をみずからの足で調べて80年に「外国情報機関が関与?」と一面トップで報じた。しかし政府も警察も反応せず世間は「虚報」扱いして終わった。

 実は、私のところにかつてあるメールが寄せられたことがあった。あの時どうして勇気を出して拉致問題を追及しなかったのかと、警察官であった父が自責の念に駆られながら死んでいった、という事実を私に教えてくれたメールであった。

 歴史に「もし」はない。しかし、もし、もっとはやく拉致問題が国民の前に明らかにされていたらと思う。いや、今からでも遅くない。この国の政治家や官僚が、いままでの経緯やしがらみ、おのれの間違いを素直に反省し、私心を捨てて本気で拉致問題を解決しようとする覚悟があれば、いたずらに拉致家族を苦しめることにはならなかった。その結果がどうであれ、拉致問題の交渉はもっとはっきりとしたものになっていたはずだ。あまりにも隠し事が多いのだ。

 もう一度問う。なぜ拉致問題はいつまでたっても解決できないのか。なぜ日本政府は今になってもこの問題の解決に本気で乗り出さないのか。

 左翼政党とその政治家は北朝鮮との国交回復をイデオロギーの立場から一貫して主張してきた。北朝鮮との関係を重視するあまり、北朝鮮の犯罪を否定し、正面から取り上げようとしなかった。

 その一方で、自民党には、そのような左翼政党との馴れ合いがあった。国対政治という言葉で象徴される自民党と左翼政党の底辺における癒着は、自民党までも、北朝鮮との国交回復実現を優先させた。90年の金丸・田辺の訪朝や、99年の村山訪朝団がその典型例だ。

 その延長上にあったのが小泉訪朝であった。拉致問題の幕引きと引き換えに一気に長年の懸念である国交正常化の実現をはかろうと急いだ。しかし、そのような小泉前首相の賭けは、見事に裏目に出てしまった。図らずも北朝鮮の非道が国民の目に明らかにされた。そのあまりの残酷さに一般の国民感情が素朴な拒否反応を示した。拉致家族に同情した。

 天の配合とでも言うべきこの予想外の展開は、小泉前首相にとってはまことに癪なものであった。小泉前首相のよこしまなもくろみを見事に砕いた。そこまではよかったのであるが、密約を反故にされた北朝鮮の怒りを買って「拉致問題は解決済み」であると言わしめることになった。ここに至って問題解決がこじれてしまった。本来であれば、小泉前首相や飯島は、そしてその経緯を承知している安倍首相や外務官僚は、自らの誤りを率直に認め、平壌宣言を白紙撤回して、国民の理解を得る形で、国交正常化交渉と拉致問題の根本的な同時解決に向けて、仕切りなおして誠意ある交渉を始めるべきであったのであるが、小泉前首相の面子と意地にかけて、訪朝が間違っていたとは言えなかったのだ。

 小泉前首相の不誠実な外交を糾弾すべき立場にある共産党や社民党は、イデオロギー上のしがらみからそれをしなかったばかりでなく、小泉訪朝と平壌宣言を評価するという、倒錯した対応に終始したのだ。

 拉致被害者の家族にとって不幸だったのは、彼らを支援する政治家が、韓国、中国に強硬姿勢をとる自民党保守派となったため、いたずらに経済制裁の強化に走ったことである。経済制裁が奏功するのであれば私も経済制裁の強化に賛成である。しかし残念ながら今の北朝鮮にとってそれは逆効果であるばかりでなく、北朝鮮に「解決済みであったのに信義を裏切ったのは日本側である。それを制裁強化などと認めることは許せない」という倒錯した口実を与えるだけとなった。

 本来は小泉前首相の裏取引を追及し、それを小泉前首相らに認めさせ、改めて小泉前首相に金正日との直談判を強く求めるべきであるのだ。この点の正当性は、小泉前首相が引退した後も変わらない。それどころか小泉前首相が引退したからこそ、強く詰問すべきだ。そして訪朝を求め、自らに手で解決するよう迫るべきだ。官房副長官として小泉訪朝に同行した安倍首相こそ、小泉前首相に迫るべきだ。そして小泉前首相が「今となっては自分にとって何のメリットもない」と言って、責任逃れをするのであれば、安倍首相自身が拉致家族を引きつれて北朝鮮に乗り込み、再交渉を始めるべきなのである。もちろん金正日はそれに応じないであろう。しかし応じないことの非道を世界に向けて訴え続ければいいのだ。正義は日本にあるのだから。

 北朝鮮との国交正常化を主張してきた左翼政党とその政治家や左翼主義者たちも、さすがに今となっては北朝鮮を正面から弁護する事はできない。しかし彼らは自らの間違いに口をつぐんだまま、そして、この期に及んでも、友好的な関係を保ってきた北朝鮮の金政権を正面から批判する事無く、悪いのは日本の過去の侵略と韓国人の人権蹂躙であるという事をことさらに強調し、日朝国交正常化こそが拉致問題解決の近道であると強弁を繰り返すのである。

 北朝鮮との国交回復を急ぐのは歴代の自民党政権の指導者も同じである。しかしその理由は、左翼政党のそれとは根本的に異なる。過去の反省には消極的であるにもかかわらず、歴史的偉業を成し遂げたいという野心は強い。その矛盾を最もよく体現していたのが小泉前首相であったのだ。だから私は小泉前首相の訪朝を厳しく糾弾してきたのである。

 歴代の自民党の指導者は、しかし、拉致問題という難題が立ちはだかっている為に、北朝鮮との国交正常化を急ごうとしなかった。国交正常化の偉業を達成したいのはやまやまだが、国民の生命のかかっている拉致問題の解決にはあくまでも慎重な態度を崩そうとはしなかった。

 そんな中で国交正常化に食いついたのが小泉前首相であったのだ。小泉前首相に本当の意味での国交正常化への熱意があったわけでは決してない。靖国神社参拝にあそこまでこだわるような人物に国交正常化を手がける資格はない。訪朝直後に行うべき拉致被害者の家族への報告を、福田官房長官にさせるような人物が、拉致被害者家族の気持ちを思いやって拉致問題解決に取り組んだわけでは、決してない。北朝鮮から森善朗元首相に対して出されていた訪日要請を、自分の手柄にしようと横取りしたに過ぎなかったのだ。訪朝をためらっているうちに首相を辞めざるを得なくなった森元首相とは対照的に、首相になったばかりの小泉前首相は都合よくそれに飛びついたのだ。ただそれだけである。

 その小泉前首相の功名心を、出世にはやる外務官僚が「国交正常化を実現できればノーベル平和賞ものですよ」とくすぐった。拉致被害者の家族を前にして、「わずか十人程度の命のために国益をそこなうことがあってはならない」と口走った外務官僚の言葉こそ、彼らの本音を見事に表現しているのだ。そしてそれは今も変わらない。外務官僚の頭にあるのは、こじれてしまった拉致問題に早く幕引きをして、日朝国交正常化という光のあたる部分に早く突き進みたいのだ。

 繰り返して述べるように、日朝国交正常化に進みたいのは左翼政党も同じである。そして、歴史認識などの違いで明らかなように、左翼政党のアジア外交は自民党のそれとは根本において異なるにもかかわらず、国交正常化という一点において奇妙な利害の一致があるのだ。かくして拉致問題は与野党の対決問題とはならなかった。奇妙な事に小泉前首相の訪朝は共産党と社民党の評価する外交的成果であり続けた。このことが拉致問題解決に対する日本の北朝鮮に対する交渉上の立場を弱くした。北朝鮮はこの弱みを知っているからこそ、日本に対する強硬姿勢をとることが出来るのである。

 私がどうしても納得できないのがこの左翼勢力の小泉訪朝擁護である。そもそもが魂のない官僚の作文でしかなかった平壌宣言であったのに、そしてその平壌宣言さえも北朝鮮に一方的に反故にされたにもかかわらず、今でも平壌宣言を評価し、維持し続けるのが小泉、安倍政権と左翼政党なのである。

 左翼政党とそれを支持する人たちは、私が小泉前首相の訪朝を批判するたびに、あれは小泉前首相の功績だと強く反論する。イラク戦争反対や改憲反対では私の言動に評価を与えるこれら左翼の人たちは、拉致問題になると一転して私を激しく攻撃する。

 しかし私は、拉致問題に関する小泉外交の批判を緩めるつもりはない。なぜならば小泉前首相の北朝鮮との裏取引こそが、拉致問題の根本的解決をここまで阻害した元凶であると確信するからだ。「拉致問題は解決済み」と北朝鮮に言わせる口実を与えたのは小泉前首相に他ならないからだ。

 私には左翼も右翼もない。正しいと思った事を主張するだけだ。だから右翼的な月刊誌「諸君」がその最新号(4月号)で川人博という人権弁護士の論文を掲載し、左翼勢力からあがめられているカンサンジュという在日韓国人の国際政治学者はまるで「金正日のサポーター」のようだと批判するのを目にした時、確かにその通りであると川人弁護士に共感をおぼえるのである。カンサンジュ氏の国際政治や平和に関する考え方に共鳴するところの多い私ではあるが、こと拉致問題に関しては私は彼の主張をまったく評価しないのである。

 要するに拉致問題の不幸な点は、国民の素朴な一般感情とは別のところで、あまりにも政治的に扱われてしまったことにある。拉致家族にとってイデオロギーなどはどうでもいいことだ。ここまで明らかになった北朝鮮の拉致という非道な犯罪を、日本の政治家たちはなぜ解決できないのか、助けを求めて叫んでいるわが子や兄弟をなぜ救えないのか、という無念さに尽きる。この無念さを平然と聞き流すことの出来る日本人がどこにいるというのか。

 それではどうすれば解決できるのか。直ちに解決できないまでも、どうすることが正しい外交であるのか。それは一方において、日本として過去の誤りを正しく謝罪し、それを贖うあらゆる措置をとる用意があると北朝鮮側に、国民や世界が見える形で提示するべきである。この点については、過去の反省を潔しとしない右翼の考え方と私の考え方は根本的に異なるであろう。

 しかしこの反省と謝罪は、単なる一方的な反省や謝罪ではなく、日本の謝罪に関する曖昧な態度を反日の口実として外交的に使うという中国、韓国の戦略を封じるという意味からも、必要であると私は考える。その意味で私の考え方は、謝罪ばかりしていればよいという左翼の姿勢とは一線を画すものであるし、中国や韓国に毅然とした態度を見せるべきであるとする右翼の考え方にも通じるものがある。要するに、日本国家として疑義のない形で明確に謝罪と反省を行うべきと言う私の考えは、たとえば拉致問題や領海問題などで毅然とした外交をするために、戦略的見地からも必要不可欠であるということなのである。

 この反省と贖罪を行った上で、北朝鮮の拉致という国家犯罪については妥協の余地なく断固とした態度で北朝鮮にその解決を迫るのである。国際社会に見える形で北朝鮮の人権蹂躙を非難するのである。

 私はもはや拉致問題は、この国の指導者が直接交渉の正面に立って、拉致被害者の家族と一緒になってこれを行う時期に来ていると考えている。官僚や大使が出る幕はとうに終わっている。そこまでの決意と覚悟をこの国の指導者は持つべきである。

 できれば小泉前首相に拉致家族を率いて訪朝してもらい金正日と直談判をさせたい。もちろん金正日はそれを受け入れないであろう。解決済みであると言い張るであろう。だからこそ小泉前首相が直接に金正日と交渉して拉致問題の交渉の仕切り直しをさせるのだ。世界が見ている前でどちらが正しかを判定させるのだ。小泉前首相が世界の前で過去の誤りを謝罪し補償を提示し、その一方で拉致問題の解決を迫る時、金正日は逃げる事は出来ないであろう。ごまかす訳にはいかないであろう。もし小泉前首相がそれをやりたくないというのなら、その時こそ安倍首相は小泉前首相の外交から決別し、自ら率先して金正日総書記と渡り合うのだ。日本の国民はもとより世界の国民は喝采するであろう。

 最後に、米国のペースに安易に同調し、拉致問題と核問題を結びつけた六カ国協議に乗ってしまった事が根本的な誤りであったことを強調したい。核問題は米国や核保有国が発言権を握っている問題である。それに引き換え拉致問題は日本が最大の利害関係国であり最強の発言権を持っている問題だ。自ら有利な問題を切り離して交渉することは外交の鉄則である。

 拉致問題は、右翼、左翼を問わず、あらゆる政治家が国民と一体になって解決すべき時に来ている。これ以上拉致被害者の家族の心をもてあそぶのはもはや犯罪ですらある。

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2007年03月07日

NATOとの協議で話す事はアフガンの治安回復の見通しである

NATOとの協議で話す事はアフガンの治安回復の見通しである

 アフガニスタンの治安維持と復興の為に、日本が「地域復興チーム」に参加するようNATOに期待されている事、そしてそれは危険をともなうので日本は応じることは出来ないだろう、という事を、私は5日のブログで書いた。翌日の3月6日付毎日新聞は、アフガンの状況は復興支援どころの話ではない事を教えてくれた。

 その報道によれば、3月5日、アフガニスタンの首都カブール北方のカピサ州で、北大西洋条約機構(NATO)が率いる国際治安支援部隊(ISAF)が武装勢力の攻撃を受けて応戦したという。その際に民家を誤爆して民間人9人を殺したという。それどころか4日にも、アフガンのジャララバード郊外で米軍主体の国際治安支援部隊が攻撃され、米軍の発砲で市民ら16人が死亡したという。その際に現場を撮影していたAP通信の地元記者がカメラを米兵に取り上げられて映像を消されたという。アフガンはまさに戦闘状態が日常化している。そして戦争で真っ先に犠牲になるのが真実である。我々はアフガンで何が行われているかさえ満足に知らされていないのだ。

 本日から東京で「地域復興チーム」への協力に関する日・NATOの高級事務レベル協議が開かれている。このようなアフガンの状況で日本がアフガンの「地域復興チーム」へ人を派遣する事ができるはずはない。それどころか復興支援の資金協力さえもできる状況にはないのだ。

 アフガンの戦闘状況を体験した事のない外務省と防衛省の官僚たちは、資金援助の大盤振るまいでお茶を濁して日・NATO協議は終わらせようとする事だろう。しかしそうさせてはならない。NATOとの協議においてはアフガンの治安回復の見通しについて徹底的に話し合うべきだ。混乱の原因とそれを解決する方策について意見を戦わすべきだ。そしてその結果を国民の前に正直に情報公開すべきである。

 メディアは政府が「与える」会議の報告をそのまま垂れ流すのではなく、この協議で何が語られたか、約束されたかを、自らの力で突き止めて、それを国民に正確に報道する義務がある。我々は今行われている日・NATO協議の報道について目を凝らして読見抜く必要があるのだ。


Almost Everyday NATO-Led ISAF Fighting With Afghan Resistance

 I wrote in my March 5 blog that Japan will never send any Japanese national to PRT in Afghanistan because the danger of being killed and killing people is much bigger than that in Iraq.

 The following day of March 6, the Mainichi Shinbun reported us that NATO ISAF was fighting with Afghan armed resistance almost everyday and killed many innocent Afghan people.

 At the Japan- NATO high official consultation which starts today in Tokyo Japanese cooperation with NATO operation in Afghanistan will be discussed as a follow-up of PR Abe ‘s speech in January in Brussels saying, “ Japan ihas no hesitation of sending its Self Defense Force overseas.”

 It is said, however, that Japan will cooperate with NATO only through financial contribution to the reconstruction of Afghanistan. Under such circumstances of fighting occurring everyday, even, however, even financial cooperation will be inappropriate. Recovering security stability should be achieved first.

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2007年03月06日

財界がつくる政策研究機関の最高顧問になる小泉前首相

 財界がつくる政策研究機関の最高顧問になる小泉前首相

 3月6日付読売新聞に次のような記事を見つけて思わずわが目を疑った。

小泉前首相の首相秘書官を務めた飯島勲氏は5日、都内で講演し、小泉前首相が途上国との外交関係の強化に貢献するため、トヨタ自動車やキャノンなどの大手企業がつくる政策研究機関の最高顧問に月内に就任することを明らかにした・・・出席者によると、飯島氏は現在の外交について、「G8(主要国)を中心とした大国主義だ」と批判した。そのうえで、小泉前首相は研究機関の最高顧問に就任した後、中東、南米、アフリカなどを訪問し、日本との交流を発展させることに尽力するという見通しを示した

 私のこのブログを飯島氏や大手企業の責任者が読んでくれることを心から期待する。このブログは彼らに対して書いているのだ。勿論小泉前首相に対してもである。

 「米国との関係さえ良ければその他の国との関係もよくなる。その他のどんな国との関係が良好でも、米国との関係が悪ければ国益は損なわれる」と国会で繰り返し強調していたのは誰だったのか。そのような日米同盟絶対主義者である小泉前首相が、どうして反米感情を高めている中東や南米との交流を発展させることが出来るというのか。

 小泉前首相はかつて厚生大臣の時、アフリカのジンバブエという国を訪れ、ムガベ大統領に会うことが出来なかった事を怒り、「こんな国への援助は打ち切れ」と大使を怒鳴りつけた。たかが一閣僚の分際で訪問国の大統領に会えなかったからと言って激怒する。それはアフリカ蔑視ではないのか。そのような不遜な人間に、どうしてアフリカとの関係強化が出来るというのか。

 自らの師であった福田赳夫元首相がつくったOBサミットへの出席を頼まれた小泉前首相は、面倒だと即座に断っているのである。

 そもそも小泉前首相は自ら認めているように、「政局」の人であり「政策」の人ではない。いくら総理を辞めたからといって、国会審議はもとより、議員会館にも出て来ない小泉前首相からは、およそ政策に関する話は伝わってこない。伝わってくるのはテレビタレントの息子から綾小路きみまろの本をわたされたと喜んで吹聴したり、セレブ大好き人間の林真理子や「過労死は自己責任の問題だ」と言うような奥谷礼子たちとつるんで会食を楽しんでいるとか、最近では「支持率を気にするな」、「鈍感力が大切だ」と安倍首相に助言したとか、そんな類の話しばかりだ。恥ずかしいと思わないのか。

 そんな人物が政策研究機関の最高顧問になって何をするというのか。出来るというのか。大手企業の責任者ももう少しまじめに考えたほうが良い。貴重な会社の金をもっと有意義に使ったほうがよい。日本には有望な若い学者が多くいる。研究資金に苦労しながら地道に研究を重ねている多くの研究者がいる。そういう若者の育成の為にこそ予算を使うべきではないのか。それこそが日本の将来に貢献する企業の責任ではないのか。大企業と言えども、役割を終えた政治家の暇つぶしや売名行為に会社の金を無駄遣いする余裕はないはずである。それよりもなによりも、会社の為に汗を流して働いている社員に会わせる顔があるというのか。

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2007年03月06日

一枚の写真ー米兵の誤射で両親を殺されて泣き叫ぶ少女

 一枚の写真ー米兵の誤射で両親を殺されて泣き叫ぶ少女

 3月6日の毎日新聞に小さな記事を見つけて嬉しくなった。そして悲しくなった。あの時の悲しさと怒りを二年ぶりに思い出した。

 毎日新聞のその記事は、国際フォトジャーナリズム大賞の第一位に米国写真家クリス・ホンドロス氏(36)の写真「在イラク米軍夜間パトロールの惨劇」が選ばれた事を、その写真とともに報じていた。

 残念ながら私は写真をブログに転載する技術を持ち合わせていない。この写真は05年1月に、イラクのアルアファルでパトロール中の米兵に両親を誤射されて泣き叫ぶ一人の少女の絶望的な表情をとらえている写真だ。暗闇のなかで泣き叫ぶ少女のまわりだけが照明に照らされて明るい。血まみれの少女の側には暗闇の中で立っている米兵の大きなブーツと機関銃が明かりに照らされている。そういう写真である。

 私がこの写真を始めて目にしたのは、JR駅構内の売店で購入したニューズウィークを読んだ時だった。その時の悲しみと怒りを私は05年1月の私のブログで次のように書いたものだ。少し長くなるがここに引用させていただきたい。

・・・・05年1月30日―メデアを読む
 どこまで殺せば気が済むのか

 日曜日(30日)の夕暮れどき、東京へ向かう横浜駅の構内でニューズウィーク日本版(2月2日号)を買い求めて列車のなかでパラパラトと頁をめくった。最後のほうにさしかかったところで手が止まった。目が釘付けになったのだ。暗闇のなかで明かりに浮かんだ幼い女の子がしゃがみ込んで泣いている。大きな口をあけて大声で(もちろんその声は紙面からは聞こえてこないのだが)泣いている。あたりは血だらけで、その女の子の手や顔は血にまみれている。隣には米軍兵と思われる男のブーツが映っている。

 「突然の悪夢」と題された短い写真説明にはこう書いてある。

 1月18日、イラク北部のタルアファル。パトロール中の米兵の銃撃を受けて父親と母親が殺され、泣き叫ぶ少女。

 その記事はこう書かれていた・・・国民議会選挙を前に緊迫度を増すイラク・・・夕暮れが近づいた時、1台の車が走ってきた。米兵はいつものように車内を調べるために手振りで車を停止させようとした。車が止まらなかったため、米兵は威嚇射撃をした。車はそれでも止まらなかった。数秒後、米兵が車に銃弾を浴びせかけた。車はそのまま交差点に突っ込んだ後、ようやく止まった。米兵が近づくと、車内からは子供の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。後部座席に5人の子供が乗っており、運転していた父親と、助手席にいた母親は息絶えていた。車から連れ出された少女は「なぜ私たちを撃ったの?武器は持っていないのに!ただ家に帰る途中だったのに!」と泣き叫んだ・・・

 私はもう一度写真を見つめた。少女の血まみれになった泣き顔を凝視した。涙がとどめなく流れてきた。人目をはばからず泣いた。なぜこんなことが許されるのか。イラクの国民議会選挙を成功させる事がこの子の涙より重要とでもいうのか。

 学生の頃、ドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んで感動した場面を思い出した。主人公のアリョーシャに向かって兄のイワンが次のように述べるくだりである。・・・もし未来の永遠の調和のために、この子供の苦しみが必要であるとするならば、自分はそんな高い入場料を払わねばならぬ未来社会への入場券は突っ返すだろう。幼い受難者のいわれなき血の上に築かれた幸福など、自分は絶対に受け入れることができない。自分は喜んで神を認めるし、神が世界を造ったことも認めるが、罪なき者がいわれなく苦しむ不合理に満ちた、神の造ったこの世界だけは絶対に容認する事が出来ない・・・

 ブッシュのイラク占領を憎む気持ちを今ほど強く感じたことは無い。この写真をブッシュの娘に見せてやりたい。二期目の大統領就任式の前夜、数名のボデーガードを引き連れて一晩で40万円も使って飲み明かし、就任式に大あくびをしていたブッシュの娘に、一瞬にして両親を奪われ、一人ぼっちで残された幼い命の悲しさと悔しさを見せてやりたいのだ・・・・・・

 あれから二年以上もたったのだ。イラク情勢はさらに悪化している。そのあいだにもどれだけの犠牲者がうまれていったことか。

 私はあの時イラク戦争に大声をあげて反対してよかったとつくづく思う。おかげで私は平和主義者になることができた。戦争に反対する強い意見を持てるようになった。誰がなんと言おうとあの戦争は間違いであった。そして、その米国と軍事同盟を強化する日本はどう考えても誤った道を突き進んでいる。日本の指導者や官僚、学者、財界などがどのような理屈をならべたてようと、米国と協力して戦争国家に進もうとしている日本をなんとしてでも食い止めなければならない。この当たり前の事を私は叫び続ける。この一枚の写真が私を誰にも負けない勇者にしてくれたのだ。

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2007年03月05日

もう一つのごまかしーアフガン復興に関する日本のNATOへの協力

 もう一つのごまかしーアフガン復興に関する日本のNATOへの協力

 3月7日に東京でアフガニスタンの復興支援をめぐる北大西洋条約機構(NATO)との高級事務レベル協議が東京で開かれるらしい。協議の焦点はNATO主導の国際治安支援部隊(International Security Assistance Force)が文民とともに治安維持と復興支援にあたる地方復興チーム(Provincial Reconstruction Team)へ日本としてどのような協力をするかにある。

 きっかけは安倍首相が1月に訪欧した時、NATO本部で「自衛隊が海外で活動する事をためらわない」と格好をつけたことにある。アフガンにおける犠牲に手を焼いているNATO各国は加盟国以外の国が負担を分担してくれることには大歓迎だ。果たして日本は安倍首相の大見得切った手形をどう落とすつもりだろうか。

 正しく理解する為に、まず基本的用語を整理してみる。

 北大西洋条約機構とは、ソビエト連邦を中心とする東欧共産圏に対抗する目的で1949年に出来た西側軍事同盟である。89年のレーガン・ゴルバチョフ会談(マルタ会談)による冷戦の終結と、91年のソ連崩壊によって、NATOはその存在意義を失う。あらゆる組織の常として、生き残りのためにあらたな役割を作り出さなければならなかったNATOは、92年のボスニア・ヘルツエゴビナ内戦、99年のコソボ紛争という域外に介入するようになり、テロとの戦いが始まってからはついにアフガニスタンにまでNATO軍を派遣するに至るのである。

 国際治安支援部隊とは2001年12月の国連決議に基づき、アフガニスタンのタリバン、アルカイダに軍事的に対抗する目的で作られた部隊である。当初はカブール周辺におけるアフガニスタン国軍の支援という形で派遣されたが、2003年9月10月の国連決議で地方まで展開するようになった。当初は英国、トルコ、ドイツといったNATOの有志加盟国が半年ごとに順番で交代して指揮をとっていたが、これら指揮国の負担が大きかったため、2003年8月の決定でNATOとして指揮をとることになった。

 地方復興チームとは軍隊と文民援助専門家を一体化させた紛争地域における新しい支援形態で、2003年にアフガニスタンではじめて派遣された。今はイラクにも派遣されている。アメ(復興援助)とムチ(軍隊)を使って中央政府の権威を地方に拡大し、反体制に対する抑止力と治安の安定化を図るという、こよなく内政干渉的なものである。

 以上から明らかなように、これら一連の活動は、米国とのテロとの戦いに協力するNATOが中心となった対テロ戦争なのである。戦争に終わりが見えない中で、負担増に苦しむ米国、NATO諸国が、その負担を日本にどう分担させるかというのが今回の協議である。日本は大見得を切った以上どう対応するつもりか。

 しかしイラクの復興支援と違って今回の協力は危険度において格段に高い。

 まず、PRTの派遣地はアフガニスタンである。アルカイダが隠れているアフガニスタンの地方である。イラク復興支援の場合のように、イラクで最も安全な場所を必死で探して派遣したようなごまかしは出来ない。しかもその安全なサマワでさえも危険から逃げ回っていたのである。アフガンの場合はそうはいかない。

 次にPRTの任務である。地方復興チームという言葉にごまかされているがこれはれっきとした戦闘チームである。アフガンの治安を回復する為に地方における反体制の抵抗を抑止する目的で派遣されるのである。殺し、殺されることになる。

 だから3月4日の毎日新聞が報ずるように、「NATO内には日本の人的貢献への期待もあるが、日本は当面、資金面での支援にとどめる」、「自衛隊はもちろん、文民がPRTの非軍事分野へ参加することもあり得ない」ということになる。

 政府は都合のいい時だけ憲法9条を持ち出す。憲法9条に基づいてつくられた現行のテロ対策特別措置法では、戦闘地域への人員派遣は禁じられていると弁解する。冗談もいいところだ。政府はもうこれまでに十分憲法違反を繰り返してきた。現行のテロ特措法が不十分であれば、いつでもあらたな法律を強行採決で通せばいいのである。

 対米従属でテロとの戦いに加担してきた日本はいよいよ追い詰められてきた。自衛官が戦地に赴かねばならない圧力が現実の物となってきたのだ。

 しかしこればかりは日本は応じないであろう。あの小泉前首相でさえ、たとえ盟友のブッシュ大統領に頼まれても、応じなかったであろう。日本は平和に慣れすぎて来た。戦地で殺し、殺されることを覚悟せよと命ずる指導者は今の日本にはいない。ましてや日本の安全保障とは何の関係もない米国のテロとの戦いで犬死することを甘んじて受ける自衛官がいるとは思えない。そんな自衛官に安倍首相の面子のために犬死せよと命じることの出来る司令官がいるというのか。

 国際協力、復興支援という言葉でごまかしてきたイラクの自衛隊派遣であった。そもそも戦闘中の地に復興援助する必要がどこにあるのか。まず治安回復であろう。平和がくれば復興は一挙に国際社会が行う。アフガニスタンはイラク以上に混乱しているのだ。治安回復こそ焦眉の急だ。そんなアフガニスタンにどうやって自衛隊を出すというのか。

 国会で追及されるべきは安倍首相のNATO本部での発言である。ふたたび嘘をつこうとしているのかと。


 How Does Japan Respond To the PRT in Afghanistan At the Coming Consultation with NATO ?

 When PR Abe visited Brussels in January and said at the headquarter of NATO, “ Japan never hesitates to send its Self Defense Force overseas” NATO welcomed this hoping Japan would share the burden of NATO in Afghanistan.

 From 7th March a high official consultation between Japan and NATO will start in Tokyo on Japanese cooperation for the Provincial Reconstruction Team in Afghanistan.

 According to the report of the Mainichi Shinbun of March 4, however, Japan will respond to NATO that her cooperation limits to only financial one. In other words Japan will never send Self Defense Force nor civilian experts to Afghanistan.

 The excuse of not sending any personnel to Afghanistan is tthat he Article 9 of Japanese Constitution prohibits sending Self Defense Force to disputed area. But in effect Japanese policy makers are so afraid of the public opinion which is so allergic to any Japanese national's killing other nationals or being killed by other nationals

 This is indeed a dilemma which Japanese leaders are facing with. Japanese leaders try to strengthen Japan US military alliance but they never wants to run a risk to kill Japanese nationals in the battlefield.

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2007年03月04日

閑話休題 政治的活動は人生の脇役でしかない

閑話休題 政治的活動は人生の脇役でしかない

 これから書くことは文字通り閑話休題である。政治問題、社会問題とは何の関係もない。そのつもりで読み流して欲しい。

 私は、誰に命令される事もなく、好んで毎日せっせとブログを書いている。メディアの裏側に潜む権力者の「いかさま」を喝破し、政治家、官僚、その他あらゆる権威の言動に嘘はないか、メディアは正しく真実を伝えているかについて、私なりの思いを伝えたいと思って書いている。できれば世界中の読者に読んでもらいたいと思って英語で要訳までつけている。好きでやっている事とはいえご苦労なことだと自分でも思う。

 しかし毎日書きながら、自分の残された人生はこんな事をするためにあるのだろうかと疑問を持ち続けて書いている。毎日書いていて決して楽しくないのだ。

 ちなみにアクセスは少しずつ増えつつあり一日6000程度になった。いずれ一万は超すだろう。「この程度のアクセスで世の中を啓蒙できるのか」などという不遜な事を少し前にブログに書いた。その事を反省している。私は勝手に書いているだけだ。その私の一方的な独り言を読んでくれる人たちが一人でもいる事に感謝しなくてはいけないのだろう。その読者のためにこれからもしばらく書き続ける。

 二ヶ月間で私にメールをくれたのはわずか155人である。それもそのはずである。私はこのブログで読者と論争する気はまったくない。読者からのメールは私しか読む事は出来ない。一対一の対話である。読者間の広がりは起こらない。もっとも私は寄せられたメールには殆どに返事を書いてきた。幸いであるというべきか、当然というべきか、寄せられてくるメールはすべて激励のメールである。私の考えに反対の意見を持つ読者は私に噛み付いてもどうしようもないと思っているのだろう。批判的なものは来ない。私と考えの違う読者はやがて離れていくに違いない。それでいい。世に出回っているブログの中にはアクセス数を競うあまりクリックしてくれと頼み込んでいるものがある。何を考えているのかと思う。またブログの中には、ふざけたり、茶化したような表現を使うものがある。私は、時として言葉が激しすぎるということはあるかもしれないが、最善の言葉を選んで私の考えの全てを表現しようと努めている。書いた物を何度も読み直し、表現を推敲して掲載している(それでも誤字、脱字が避けられないところが情けないのであるが)。毎日真剣に書いているのである。

 話が脱線した。本題に入ろう。155通のメールのなかで、「天木さんとビジネスをはじめたい」というメールが最近届いた。私はそのメールをうれしく思った。勿論私はその読者とビジネスを本気ではじめたいと思っているわけではない。その読者も具体的に何かをオファーしているわけではない。私に寄せられるメールのすべてが政治的なメッセージであるのに対し、そして私はそのようなメールを歓迎するのであるが、この人のメッセージは、「天木さん、政治批判もいいけれど、世の中もっと面白いことがあるよ。金儲けをしようよ。天木さんと一緒ならビジネスで成功すると思うから」というものであった。もちろん言葉遣いはこの通りではない。もっと上品である。しかし私にはそう聞こえたのだ。そしてそれが嬉しかったのだ。私は毎日政治的なブログを書き続けているが、政治的なことなど本当は生きていくうえでどうでもいい事だと思い始めている。だからこのメールが嬉しかったのだ。

 実は私は外務省を首になってから、生計を立てる必要性に迫られ、一人で起業して金儲けの可能性を探ってきた。そして今のところすべてに失敗し、あるいは騙されて、つくづく自分の人生は官僚しかなかったのだ思い知らされている。その意味でこのメールを寄越した読者の「天木さんとならビジネスで成功すると思う」という見立ては、完全に外れているのである。しかし、失敗の連続であるとはいえ、私は官僚時代には味わった事のない生きがいのある人生を送っている。生きている実感をかみ締めながら生きる事が出来るようになったのだ。「政治的発言よりももっとほかにする事があるはずだ、それを一緒にしよう」というメッセージが私の心に響いたのは、まさにその通りであると思うからだ。

 我々は限られた人生を何のために生きているのか。その答えは勿論人さまざまである。しかし私を含めて大半の人は食べるために日々一生懸命働いている。少しでも成功し、出世をし、お金を稼ごうとして生きている。そこに喜怒哀楽のすべてがあり、人生があるのだ。世襲議員のように政治活動しかしなくても食べていけるような人間には本当の人生はわからない。

 個々の人間の営みに比べれば、政治は必要悪のようなものだと思う。人々の生活がうまく行くように、あるいは不正がないように、更には敗者や弱者が救済されるように、そういった社会的仕組みをつくることが政治である。そして何よりも、人々が一度しかない人生を送る為の最低条件である「平和な社会」を確保することこそ政治のつとめであるのだ。

 つまり世の中の主役は一人一人の人間の人生である。政治は脇役なのだ。ところが最近のメディアを 見ていると政治や政治家があたかも主役のように扱われている。それはおかしい。世の中がうまく行っていれば、そもそも政治など要らないのである。ましてや政治家が法外な手当てを貰って特権を享受することなどは間違いなのである。

 残念ながら現実の世の中はうまく行っていない。そこで政治の役割もまた必要になってくる。しかし我々は原点に立ち戻ったほうが良い。政治の事ばかりを考え、政治的活動に係わることが偉い事、重要な事ではない。政治に関心のない事が悪いことではない。政治家や政治評論で飯を食っている連中は、そこのところを自覚するべきだ。自分たちのやっていることは、まじめな個々人の人生に比べれば立派でも尊いことでも何でもないのである 

 例えば政権交代である。それが出来れば民主党は嬉しいであろう。しかし我々国民にとっては政権交代が目的ではない。政権交代が起こると少しはまともな政策が期待できるのではないかと期待するだけだ。我々の関心は唯一つ、良い暮らし、平和な暮らしができるかどうかなのである。どんな政権であろうと、どんな首相であろうと、そういう社会を確保してくれさえすれば それでいいのである。

 護憲運動にしてもそうだ。憲法9条を守ろうと声高に叫ぶ事は、特に安倍政権の下では憲法9条が放棄されるかもしれない危険性があるので、重要ではあると思う。しかし問題は、憲法9条を守る事が出来たとして、その後に日常生活にもどって平凡な生活をすることこそ重要なのである。政治的な活動を生きがいとしている一部の人たちは、環境、人権、差別など次々と政治的テーマを見つけて、終わることのない政治活動を続けようとするかもしれない。しかしそれは本当の人生ではない。人生で一番重要なことは、平凡な日常生活を、楽しく、仲良く、面白く、人に迷惑をかけずに生きていくことである。退屈な人生を行き続けることである。苦しい人生を生き抜くことである。

 世界には、それさえ出来ない人々がいる。そしてそれは政治が悪いのだ。日本はそういう国に比べれば恵まれている。しかし最近は日本もそういう状況に近づきつつあるのではないか。政治は必要悪でしかないが、それが悪政になりつつあるのではないか。そうさせてはならない。私がブログを書く意義があるとすれば、悪政を監視することなのだ。そう思って面白くもないブログを私は書き続けていく。自分がなすべき人生、ほかにある筈だと思いながら。

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2007年03月04日

国民投票法案の廃案を訴えるだけで憲法9条を守れるのか

 国民投票法案の廃案を訴えるだけで憲法9条を守れるのか

  3月3日の朝日新聞にきわめてタイムリーな記事を見つけた。憲法9条を守ろうとする護憲勢力の間で、あくまでも国民投票法案の廃案を訴える人々と、国民投票によって改憲案を葬るべきだという人々に意見が分かれているというのだ。
  様々な思考を経て、最後に「憲法9条は一字一句変えてはいけない」という結論にたどり着いた私は、今となっては誰よりも強い護憲論者になった。だから改憲の試みはあらゆる手段で阻止したいと思っている。
  国民投票を実施するための手続きを定める国民投票法案が成立しなければ、もちろん国民投票は実施できない。憲法改正には国民の過半数の承認が必要であると現行憲法で謳われているから、国民投票が実施できなければ改憲はできない。その限りにおいて私は国民投票法案成立反対の人たちと行動をともにしている。
  しかし私は国民投票法案の成立阻止が全てであるかのように声を張り上げるよりも、憲法9条を変えようとする事がいかに間違っているかということを一人でも多くの国民に気づかせる努力を重ね、どんな改憲案が出てこようと、どんな国民投票法が成立しようと、国民の一票でこれを拒否して見せる事によって、すなわち文字通り国民の手によって、憲法9条を守る事に全力を傾けるべきだと思うのである。
  私がそう考える理由はいくつかある。自民党と民主党が国民投票法案を成立させることで一致している以上、国民投票法案を国会で成立させないとする試みは奏功しない。それどころか、何があっても反対だと叫ぶばかりでは、一般国民は離れていくであろう。
  更に言えば、「改憲をさせない為に、手続法である国民投票法案を成立させない」と主張するのでは、これもまた一般国民の理解は得られないであろう。今の憲法には改憲条項が存在する。国民投票が規定されている。それを無視して国民投票法さえもつくらせないというのでは、やはり一般国民の目には硬直的と映る。
  これらの理由は、しかし、たいした理由ではない。本当の理由はこれから述べることにある。
私は憲法9条が守られるかどうかは、一部の熱心な護憲主義者の「運動」によってではなく、日頃政治にはあまり関心のない一般国民が「今の憲法のほうが良い」、「憲法を変える必要はない」と素直に考え、判断するかどうかにかかっていると確信している。だから一般国民が「おかしい」と思うようなやり方では憲法は守れないと思っている。国民投票法案成立阻止の政治運動は、護憲の戦いの「本丸」ではない。いや「本丸」にしてはならないのだ。
  考えてみるがいい。権力者の改憲の試みを、権力を持ち合わせていない一般市民が自らの一票で否定するならば、これこそ民主革命、市民革命と呼ぶにふさわしい出来事となる。そのような形で日本国民が憲法9条を守ったならば、世界は拍手喝さいを送ることであろう。護憲を目指す人々は、一致団結してその快挙に向かって国民運動を起こす努力にすべてを傾けるべきなのである。
  私がこのような意見を述べると、とたんに批判してくる護憲活動家や護憲政党が現れる。あいつは協調性がなくいつまでたっても官僚臭が抜け切らない奴だと攻撃してくるのだ。
「官僚的である」という意味が唯我独尊という意味であれば、確かに私は官僚的だ。常に自分は正しいと思っている。そんな傲慢な人間でなければ、時の最高権力者である小泉前首相に、「イラク戦争を支持したあなたは間違っている」などと正面から批判できなかったであろう。しかし私がどんなに傲慢であろうとも、憲法9条の前には頭を地面につけて跪くのだ。憲法9条を守るために人知れず地道な活動を続けている人たちに限りない畏敬の念を抱くのである。
  見ているが良い。戦争国家米国がいかに力で世界を押さえつけようとしても国際情勢はそんな米国を決して許さないであろう。安倍政権が米国の言われるままに憲法9条を放棄しようと頑張ってみても、客観情勢はますますそれを許さないようになっていくであろう。「できるものならやってみろ」と突き放してやらせればいいのである。我々は堂々と改憲のおろかさを指摘し続ければよいのである。一般国民に分かり安い言葉で訴え続ければいいのである。それでも改憲案を政府が提出してくるのであれば、そしてそれに賛成する国会議員が多数出てきたとしても、我々は自らの一票でそれを拒否すればいいのである。
  改憲を進める指導者やそれに同調する政治家は必ず恥をかくことになる。政治生命を失う事になる。そうさせようではないか。正義は我にあるのである。

    Article 9 of Japanese Constitution Should Be Maintained By National Referendum

     PM Abe announced he would like to amend the Article 9 of the Japanese Constitution , which prohibits Japan to engage a war, within his tenure so that Japan can fight a war with US.
Although the popularity of Abe Cabinet has been decreasing consistently and people starts thinking Abe Cabinet won’t last long, Abe’s declaration of amending the Article 9 made pro-Article 9 people got mad and let them to take various actions against it.
According to The Asahi Shinbun of March 3, however, pro-Article 9 people are split into two groups, i.e. a group who insists to let the draft bill of national referendum aborted on one hand and a group who insists to let the government submit the amendment draft to the Diet and veto it by a national referendum.
The current Japanese Constitution says that any amendment has to be approved by a majority of national referendum votes. Despite of this constitutional requirement procedural law for national referendum does not exist and the government hastens to pass the bill at the current session of the Diet. Thus the bill for national referendum is one of the confrontational bill.
I am one of those who believe that Japan should be proud of the Article 9 of Japanese Constitution and it should be maintained. In order to achieve this goal I think we should attach more importance to campaigning among the public that the Article 9 be a shield from the aggressive demands from US to join in the US War against Terror than appealing to the parliamentarians not to pass the bill of national referendum. Because I believe it would be a civil revolution for the first time in Japan's history if people of Japan veto the Government's trial to amend the constitution. Let it happen.

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2007年03月03日

浅野史郎氏を応援したい

 浅野史郎氏を応援したい

 東京都知事選絡みの報道にはうんざりしていた。だから私は自分のブログで書く気が起こらなかった。しかし浅野氏の立候補が決まった。これで一応選挙らしくなった。そこで一回だけ書くことにする。

 私は地方選挙については関心がない。誰が首長になろうとも、ましてや誰が市会議員、県会議員になろうともどうでもいいと思っている。唯一関心があるのは、その結果が国政選挙に影響を与えて日本の政治が変わるかどうかであるが、それさえも過去の地方選挙をみれば殆ど期待は持てないことが証明済みである。官僚支配と中央集権が徹底している日本にあっては、地方から国を変えることは無理なのである。

 私の都知事選に関する唯一の関心は石原再選が阻止できるかどうかである。というのも私は石原都知事の言動に不快感を持ってきた一人であり、ましてや最近噴出してきた石原都知事の都政を私物化してきた醜聞を見てこれ以上石原都政を放置してはいけないと考えるからだ。それでも三選を目指そうとする石原都知事の老醜には、人生を完全燃焼出来なかった者の哀れささえ感じるのであるが、それでも、というかだからこそ、再選させるべきではないと思っている。そもそも今度の選挙で、身内や利益享受者は別として、一体どんな都民が好んで石原に投票するのだろうかと思うぐらいだ。

 しかし対立候補がいつまでたっても出てこない。今こそ出番であるのに対立候補を出せなかった民主党にはいまさらながら失望させられていた。だからますます東京都知事選などどうでもいいと思っていた。そこへ浅野史郎前宮城県知事が立候補宣言をした。これでやっと選挙らしくなってきた。

 といっても浅野史郎氏の事を詳しく知っているわけではないし、煮え切らない対応を見ていると、一体彼は何を狙っているのかという気にさせられていた。公式表明を延ばす事によってメディアの露出度を高め、少しでも有利に選挙戦を戦おうとする姑息な戦術かとも思うと嫌になる。そもそも官僚をながらく勤め、その後に政治家や首長になろうとする厚かましい連中に志のある純粋な者はいない。元官僚の私が言うのだから間違いない。もっとも浅野氏はその中でも最もましな人物の一人だろう。だから私は浅野氏の立候補が決まった後にやたらにネットで流される浅野氏に対する誹謗や批判については、まったく相手にしない。あの種の匿名の投稿は、特定の政党を熱烈に支援する者による意図的なものであるか、あるいはまったく無責任な批判の為の批判であるからだ。

 そういうわけで私は浅野氏の立候補を歓迎はするが、だからと言って熱狂的に彼を応援する気にはならなかった。ところがたまたま見ていたインターネットで彼が2003年8月に埼玉新聞で次のような発言をしていた事を知って考えが変わった。

 ・・・選挙事務所には得体の知れない人たちが集まっていて、普通のおばさん、おじさんは、選挙に直接かかわる事はありえない。そんな中で選挙に大きな関心と興味を持てといわれても無理な話である
 ・・・知事選挙の候補者としては、特定の応援団は持たない方がいい。恩に着なければならない人はつくるべきでない・・・「誰のおかげで知事をやれているのか」と圧力をかける個人、団体は欲しくない。知事として、進むも地獄、退くも地獄といった選択を迫られたとき、頭に浮かぶのが、県民の群像であるのと、特定の人間の顔であるのとでは、どちらが勇気を鼓舞されるか。

 知事になってからは、選挙の時の敵よりも、味方の方が怖い。借りはつくらない方がいい。恩義を感じるなら、県民一般であるべきだ。そういうふうに思える選挙ができたらいい・・・

 「無党派」が選挙のテクニックになってはならない。いかにしてすり寄ってくる利益集団を排除するか、借りを作らないか、という覚悟の上での選挙であるべきである。

 知事になってからは、隠し事のない、真の意味での情報公開を本気でやることが必要だ。その為にも正々堂々たる選挙に心掛けるべきである・・・

 こういう事を2003年8月の時点でしゃべっていたという事を知って私は浅野史郎という人物を俄然評価することになった。もしこの言葉が額面どおりの浅野氏の考え方であるとすると、そして今もその考えに変わりがないとすれば、彼はまさしく私が求めていた新しい政治家像であるからだ。既存の政党、政治家はもとより政治に群がる人々からも一線を画し、まったく政治に関係のない一般の群集に目線を向ける、これこそが今の無党派層の多くが求める政治家なのであると私は考える。

 こういう発言をする浅野史郎という候補者が現職の石原都知事に勝てるかどうかはわからない。勝ったとしてもどれだけの票差をつけるかによってその後の状況も違ってくるだろう。さらにまた勝利した後の浅野氏がその後の状況の変化でただの政治家に変身しないとも限らない。しかしそれでも私は浅野候補を応援したい。

 それにしても日本共産党の対応には驚いた。石原都政打倒のためにてっきり候補者を下ろすのかと思っていたら、浅野知事を自民党政治と同じであると批判し、日本共産党が推薦する候補だけが正しいと志位和夫委員長がまじめ顔で話していたのだ。私の共産党に対する評価はこれで決定的に失われた。かつて自民党と連立を組んで安保条約を容認した社会党に対する私の評価が地に落ちて再び戻る事がないのと同様である。

 我々はもう一度胸に手をあててよく考えたほうがいい。自民党、公明党はもとより民主党、共産党、社民党、どの政党についても、心から支持できる政党であるかと。選挙に勝つためにこれら政党にしがみついている政治家を本当に信用できるかと。 

 浅野氏には、今度の選挙で圧勝して、日本にまったく新しい政治をつくってもらいたい。そのきっかけをつくってもらいたいと願うのである。

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2007年03月02日

給与に見合った仕事、仕事に見合った給与

 給与に見合った仕事、仕事に見合った給与

 3月2日の朝日新聞の首相動静欄に原口幸市日朝国交正常化交渉担当大使が麻生外相らとともに安倍首相を訪れたとあった。その右横の外務省人事異動欄に中島明待命大使が2日付で査察担当大使に任命されていた。

 普通の読者であればこの二つの記事を何の疑問もなく読み過ごしてしまうであろう。しかし私は、この二つの記事を見て、大使の仕事とその給与の適正さについて考えてしまうのだ。

 例えば大リーグで投げる松坂の給与が一億ドルと聞くと驚く。テレビタレントが一回の出演で何千万円を稼ぐと聞くと法外であると思う。しかし彼らは間違いなく体を張って労働をしている。他の人には真似の出来ないサービスを提供して消費者のニーズに応えている。ところが仕事もしないのに給与をもらい続ける場合はどうだろう。最近では市役所の職員がほとんど勤務実績がないのに給与を受け取っていたとして問題になったばかりだ。

 外務省の大使の中には、外国に常駐するいわゆる特命全権大使のほかに、この新聞で報じられているような日朝国交正常化交渉や査察といった個別の問題を扱う、いわゆる担当大使が何人かいる。彼らは給与に見合った仕事をしているのであろうか。その給与は仕事に見合っているのだろうか。

 日朝国交正常化交渉が一年にどれくらいの頻度で行われているかを外務省の資料で調べてみた。1991年に第一回交渉が行われ、2002年の小泉訪朝直後に12回目の交渉が行われたという。平均すれば年に一回程度だ。しかも日朝交渉はながらく中断していた時期があり、第9回目の交渉は実に7年半ぶりに2000年に再開されている。一度も交渉をすることなく日朝国交担当大使の給与をもらい続けていた大使が何人もいたということだ。

 小泉訪朝により拉致問題が表面化して以来、確かに日朝交渉は頻繁に行われるようになった。しかしその中心は拉致問題、核問題であり、交渉の責任者は田中均、藪中三十二、佐々江賢一と言ったアジア大洋州局長である。

 原口大使はかつて米国がイラク攻撃をした時、これを支持した小泉前首相の対米従属外交に奔走した元国連大使である。その論功行賞かどうかは知らないが、あがりのポストである国連大使を2004年末に終えた後も査察担当大使を経て2006年2月に日朝国交正常化担当大使になった。そして一度だけ日朝政府間協議を行ったのはいいが、拉致問題の行き詰まりの為それ以来日朝国交正常化交渉は開かれじまいであった。今回の六カ国協議の合意により一年ぶりに作業部会が開かれることになったのだ。原口日朝国交正常化担当大使の名前が一年ぶりに報道されたのだ。一体その間にどんな仕事をしていたというのか。かつての国交正常化担当大使の中には、ゴルフや国内視察に時間をつぶし、一年に一回行われる交渉の直前に出勤して担当者から話を聞いただけで交渉に臨んだという逸話もあるぐらいだ。

 このように常時仕事がある訳ではないのに月額百万何十万円もの大使給与を全額もらい続けている大使が他にも多く存在する。沖縄担当、地球環境担当、国際テロ担当、イラク復興支援等調整担当、北朝鮮半島エネルギー開発機構担当、北朝鮮核問題担当、関西担当、人権担当、国際貿易・経済担当などがそれだ。仕事がないわけではない。しかしそれは年に限られた回数しか行われない交渉や会議に出席する為の大使であったり、駐在していることそのものが仕事であったりする大使である。しかも彼らが担当する仕事はいずれも外務省の中で担当局長という最高責任者がおりその下に多くの課長や担当官がいるのだ。

 実はこれら担当大使は、次の大使のポストが決まるまで時間稼ぎをしている大使なのだ。世の中はリストラの風が吹き荒れている。ホワイトカラーエグゼンプションが導入されて残業手当がカットされるご時世だ。担当大使の廃止できない行政改革、外務省改革などはでたらめもいいとこなのである。

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2007年03月01日

米国が核兵器全廃を唱え出す日

 米国が核兵器全廃を唱え出す日

 サピオ3月14日号に、アメリカ外交の重鎮たちが核兵器全廃を唱え出したという記事を見つけた。1月4日付ウオールストリートジャーナル紙に、「核兵器のない世界」という論文が掲載されたというのだ。その論文は「米国がリーダーシップをとって核保有国との多国間協議により核兵器廃絶を実現せよ」という驚くべき主張であるという。もっと驚くのはその執筆者の顔ぶれである。4人の共同執筆者は、キッシンジャー元国務長官、シュルツ元国務長官、ペリー元国防長官、ナン元上院軍事委員長であるという。いずれもアメリカの外交、国防政策の最高責任者であった超党派の重鎮である。

 サピオの記事に従ってその論文を要約するとおよそ次のごとくである。

冷戦期には核兵器は抑止の手段であったので安全保障政策に不可欠であった。しかし現在は北朝鮮やイラン、さらにはテロ組織が核兵器を持つおそれがある。彼らは冷戦期の米ソのような戦略的均衡が図れない。このままでは危険極まりない新たな核の時代への突入を余儀なくされる・・・北朝鮮とイランの核問題の解決のためには、当事国と全核保有国に加え、日本、ドイツを加えた交渉を開始すべきである・・・核兵器のない世界という目標達成に向けた具体的手段を主張することは、米国の倫理的伝統に合致する大胆なイニシアチブとなる

 この論文を書いたのは反戦、反核主義者ではない。戦争国家米国の重鎮たちである。キッシンジャー、シュルツ氏は冷戦を戦い抜いた力の外交の信奉者であり、ペリー氏に至っては、北朝鮮の核開発を阻止させる為に米国は戦争も辞さない強い覚悟で臨むべきであると最近まで主張していた人物である。その米国の重鎮たちが、核兵器全廃を唱えだしたのである。驚くべきことである。

 勿論彼らは今の米国の政策責任者ではない。中間選挙に敗れてもなお強硬姿勢を変えないブッシュ政権にとっては理想論でしかないと思われがちだ。しかしこの論文の主張を軽視しているととんでもないことになるかもしれないのだ。

 米国の中東政策の唯一、最大の目標はイスラエル、米国の安全保障である。その為にはどのような犠牲を払ってもテロとの戦いに勝つことだ。その為には反米テロを撲滅し、反米テロ支援国を攻撃することだ。反米テロ組織に核を渡さない約束さえすれば北朝鮮にも譲歩する国だ。そんな米国は、強硬姿勢よりも核全廃のほうが核攻撃を受ける危険性がより少ないと判断すれば、その政策を一変させる。それが米国だ。金・ドル交換性の停止や台湾と国交断絶をして米中国交を図るなど、我々は米国の政策の豹変を嫌というほど見てきた。小型新核兵器を開発してまで反米テロを壊滅しようとしているブッシュ政権が核兵器全廃を主唱するなどということはおよそ考えられないと思うのが普通だ。しかしそれが突然起こり得るかもしれないのだ。私がこの論文を知ってそう思うのは、次の理由からだ。

 かつて私がレバノンの大使を勤めていた時、パレスチナ難民の若者は私に「今、俺たちに核兵器があれば、何のためらいもなくイスラエルに向けて撃ち込むんだが、持っていない事が残念でならない」とまじめな顔で話した事があった。このパレスチナの若者ならずとも、反米テロ組織に核が渡ったら、その時こそ核兵器が使われる時だ。それを一番知っているのが米国だ。だからこそ米国はどんな犠牲を払っても反米テロを根絶しようとしているのだ。テロ組織に核兵器を渡さないためにあらゆる手段をつくそうとしているのだ。

 しかし反米テロ組織を完全になくすことは出来ない。反米テロ組織にいつかは核兵器が渡ることは避けられない。ブッシュ政権が、ある時点でそう考えはじめないとは限らない。米国は現実的な国だ。豹変する国だ。核兵器の被害を防ぐ最善の方法が、テロ組織の根絶やテロ組織に核が渡ることを防ぐ政策よりも、地球上から核を全廃するほうがより確実であると考えても不思議ではない。核兵器がなくても通常兵器で圧倒的な力を誇る米国である。核兵器の全廃を実現したほうが米国は有利であると気がつく時が来るかも知れないのだ。

 本来ならば日本外交が率先して言い出すべき核兵器全廃を米国が言い出した時、またしても日本は米国に裏切られる事になる。そうなる前に日本こそが核全廃を世界に訴えるべきなのだ。そういう柔軟な発想が外交には必要なのである。

 ところがこの論文を大手新聞やマスコミが報じたり論評した形跡はない。それどころか国内の議論は、北朝鮮の核の脅威ばかりが強調され、日本も核保有をすべきだという議論ばかりが報道される。米国が北朝鮮と手を組もうとしている事が明らかになっているのにである。
 
 日本の官僚も政治家もマスコミも、驚くべき怠慢であり、思考停止である。あらゆる可能性を視野に入れて最善の政策を考えるべきである。


 Someday US Government Might Advocate Total Ban On Nuclear Weapon

 Japanese magazine SAPIO of March 14 edition reminds us that US ex-foreign policy makers, namely former Secretary of States Henry Kissinger, George Shultz, former Secretary of Defense William Perry and former Chairman of US Senate Committee on Armed Services Samuel Nunn jointly announced their proposal of total ban on nuclear arms in order to avoid the tragedy of human being.

 This proposal seems to be too idealistic and optimistic taking current world situation into consideration. Bush Administration, which maintains the hard line policy towards Middle East despite of the defeat of the mid-term election, does not seem to listen to this proposal.

 Nobody knows, however, that someday all of sudden US Government advocates a total ban on nuclear weapons. From the point of seeking for the best option for US and Israel to avoid the damage from nuclear attack, US might realize that getting rid of nuclear weapons from the earth is better than killing all the terrorists from the earth or blocking every possibility of terrorists’ obtaining nuclear weapons.
It is no secret US suddenly changes its diplomatic policy so drastically. Japan who always follows US diplomacy has to be watchful for the betrayal of US diplomacy.

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