<sui-setsu>
菅直人首相は就任記者会見で「政治の目標は人々の不幸を最小化することにある」と述べた。首相と付き合いの長い記者に聞くとこの「最小不幸社会論」は菅さんの前々からの持論だそうである。
この考えの起源はハーバード大学で政治哲学を教えたジョン・ロールズ教授の政治哲学にある。NHK教育テレビで同じハーバード大学のマイケル・サンデル教授の「白熱教室」がいま、爆発的人気だが、8回目の講義でこの問題を取り上げている。
最小不幸論に対置されるのが功利主義の哲学者ベンサムの「最大多数の最大幸福」論だ、ロールズはこれを否定した。多数派の利益を求めると少数派=弱者の利益が無視されがちだ。最も恵まれない人々の利益を最大化するよう努めるのが「正義」というものである、と。
これではチンプンカンプンだろうから、サンデル教授の「これからの『正義』の話をしよう--いまを生き延びるための哲学」(早川書房)をお勧めする。番組効果でベストセラーの上位という。菅研究に必読の一冊だ。
それはさておき、菅さんは「最も恵まれない人々の利益を最大化する」ことを希求するのに、首相の座についた途端、「分配の政治」から「財政再建」に重点を移すと表明するはめになった。「最小不幸論」が「現実主義」に道を譲った?
そう見えるが、しかし、これまでの民主党の政策が「最小不幸論」だったかどうか、疑問である。
親の所得水準が1億円だろうと、その子どもに月1万3000円を配っているが、それが不幸を最小にすることとどう関係するというのか。高速道路を無料にすると不幸は最小になるのか。
民主党政治は決して最小不幸論に立脚していたわけではなかった。それどころか、バラマキで「最大多数の最大幸福」をめざす正反対の政党だった可能性がある。
「不幸を最小にすること」=「福祉を最小にする」ことだとは思わない。しかし、バラマキ福祉でないことは確かである。財政再建に本気で取り組むのなら、本当の弱者に的をしぼった「不幸を最小にする福祉」に切り替えていく必要がある。
それにしても、日本の首相の自慢は血統だけかと思っていたら、20世紀の知の巨人・ロールズにつながる政治哲学を語る人が出てきた。とてもめでたい。「最小不幸論」は市民運動家だった菅さんが、実践の中で確信をもつに至った政治信念だろう。「不幸を最小にする政治」。悪くないと思う。(専門編集委員)
毎日新聞 2010年6月16日 東京朝刊