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[8778] 【習作】怒りの日‐永劫回帰の環を超えて‐(Dies irae ss)
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 22:46
これは『Dies irae‐Also sprach Zarathustra‐』の二次創作です。
独自設定・独自解釈有り。
オリキャラ有り(二名ほど)。
厨二病路線全開。
などと地雷要素満載なので勇気あるスコッパーの方々が読まれる際は、充分に注意した上でお読みください。

*冒頭部分を若干微修正。
*修正版ことdie Wiederkunft発売前の構成の為に本編との矛盾があり。
*随時設定等にも修正入れながら投稿しようとは考えています。
*誤字・脱字が酷かったので修正



 この世に偶然という名の奇跡は非ず。
 有るはただの必然という名の枠組みの中にのみ収められた絶望のみ。

 どれ程の選択肢、どれ程の分岐点が有るように思えても、所詮それらは全て見せかけ。
 ただ予め定められた答を“選らばされる”結果にしかならぬ予定調和に過ぎない。

 男は告げる。滑稽だ、と。嘲笑い、そしてそれ以上に虚無で塗り固められた絶望を抱きながら。

 人とは所詮敗北者。誰もが囚われ人。皆、運命(ゲットー)という牢獄より外を知らぬ籠の中の鳥であると。
 全ての勝利や栄光も虚構に過ぎず。
 全ての敗北や恥辱も充てつけられた役割に過ぎない。

 男は問う。諸君らはそれで満足か、と……

 是と唱えるもの、ソレ即ち運命に屈し隷属を受け入れた奴隷。生きているとは間違っても呼べぬ劣等種。
 否と唱えたもの、ソレ即ち運命に反逆し許容を良しとせぬ愚者。されど抗う術を持たぬ夢物語に焦がれるに過ぎない蛮勇。

 所詮はどちらを選ぼうが結果は変わらない。否を唱えられるものには確かに見込みは有る、が虜囚であることが変わらない以上はそれ以上でもそれ以下でもない。

 故にこの世に奇跡は無く、有るのは認識すらも許されぬ絶望だけ。

 そうして誰もが繰り返す。何百何千何万何億……数えることに意味のないほどに、誰も彼もが繰り返す。
 運命という敗北を。予定調和という茶番劇を。

 自覚無き道化役を。誰も彼もが演じている。


 だからこそ、だからこそその最たる道化たる男は問うのだ。

 己が唯一畏敬抱いた盟友と心奪われた少女の為だけに描いた脚本。否と唱え運命に屈する事を良しとしなかった者達へと誘いをかける。

 ならば諸君ら、このオペラへと参加するだけの覚悟はあるか、と……。

 運命への隷属を良しとせず、敗北者で終る事を拒むというのなら。
 共に血に彩られたこの恐怖劇(グランギニョル)に参加してみる覚悟はあるか、と。

 覚悟ある者に対しての参加資格は唯一つ。

 そう――未来永劫、戦い続けられるか否か。
 悪魔と呼ぶに相応しき、獣の軍勢、その呪われしたてがみの一本一本を編む為だけの血肉となれるかどうか。

 永遠の負け戦の先にある、満願成就の夜を迎えるその日まで暗闇の底の雌伏に耐えることができるかどうか。

 参加資格は唯一つ。
 選べる選択肢は二つ。
 戦うか、否か――

 さぁ、諸君らの答えは――






 1945年、5月1日――ドイツ、ベルリン。

 後に第二次世界大戦の終焉を契機づける事となる千年帝国落日の一幕。
 赤軍に蹂躙され、虐殺され続け陥落寸前となった燃え上がる首都ベルリン。

「……終わりか」

 呟く言葉は燃え上がり崩れ落ちる建物の崩壊音、虐殺の憂き目にあい逃げ惑い叫び続ける住民たちの悲鳴、そして鳴り響くことの止まぬ銃撃と戦車の進軍の音に掻き消され消えていく。
 だが別にそれもどうでもいい。呟く言葉に意味は無く、この光景も後の歴史的に意味はあろうとも己自身にとってはそれ程重要というわけでもない。
 所詮は予定調和、定められた舞台活劇における進行の一幕にも等しい。
 何故なら、彼がこの光景を見続けるのは別に“初めて”というわけでもない。

「……それでも、別に見飽きると感じるほどに渇いてもいないが」

 ただ感傷を一々に抱くほどに鮮度の高い感情を今更に抱けないというだけ。
 結末が分かりきっている物語を繰り返し見続けていれば飽きが来ない道理もまた無いというだけだ。
 それでもまだ己は充分にマシな部類だろう。至高と崇め忠誠を誓っている己が主の苦悩に比べれば……否、比べることすらもおこがましいか。
 そんなことを思い頭を軽く振りながら、彼は炎で燃え上がり虐殺の銃火飛び交う市街をまるで散歩でもするように歩き始めた。
 そこかしこから悲鳴と怒号、そして銃声が鳴り響くホロコーストの舞台の最中を、臆するどころか気にかけた様子すらも無く、まるで平然とした態度のままに進み続ける。
 因みに、彼が纏う服装はかの悪名高きドイツSSの将校服……唯一、正規の部分と異なる箇所は刻まれた紋章が鉤十字でも髑髏でもないという一点くらいか。
 だがどちらにしろ、陥落寸前である自国の首都の中で、ドイツ憎しと迫りたてる赤軍たちにしてみれば本来ならば真っ先に吊るし上げられ、殺されても文句は言えない部類の姿であるはずだ。
 だというのに、燃え盛る市街をただ黙々と歩き続ける男の表情には恐れの一片すらもありはしない。それは此処で誇りと共に潔く玉砕の覚悟を固めている……という類の表情ですらも無い。
 ただ淡々と、何の問題も恐れも憂いも抱く必要など無い、脅威が己の身へと降りかかることなどあるはずもない……死ぬことなどありえない、そう確信しているかのような表情だった。

 そんな微塵の恐れも動揺も何一つ見せずに黙々と歩いていた男の足が不意に止まる。
 男が無表情な視線を崩さぬままに見据える前方……そこにふと男の関心を多少なりとも引く存在が居たからだ。

「大丈夫か……軍曹殿」

 言葉とは裏腹に抑揚の一つも感じさせぬような言葉を、駆け寄るわけでもなく歩いて近付き見下ろした兵士へと彼は投げかける。
 ドイツ兵……恐らくはこの帝都守護の為に駆り出された人員の一人なのだろう。戦車の砲撃にでも巻き込まれたのか、一見して致命傷と確認出来るほどに手遅れな負傷を負っていた。
 相手の階級は辛うじて無事だった階級章にて確認できたが、それもこの場においては彼にとってはどうでもいいことだ。どちらにしろ、この兵士はどうかは知らないが彼自身にはこんな肩書きにはもはや意味が無い。
 ……ましてや、既に死んでいるはずの人間ならば尚更のこと。

「……じゅ……准……尉…殿…われ…わ…れ……の…祖国…は……」

 まだ眼が見えているのだろうか、こちらの階級章から階級を確認したのだろう兵士は震える手をこちらに必死に伸ばしながら口腔より血泡を零しながら問いかけてくる。
 兵士が何を言おうとしているのか、凡その見当は彼にも付いていた。……否、これが繰り返しだというのなら尚更か。

「先刻、総統閣下が逝かれたとのこと。……軍曹、残念ながら我らドイツは此度の戦争には敗北したようだ」

 自身でも今更という他にないような事実を承知の上で、しかし無慈悲に死の間際の軍曹へと彼は告げた。
 軍曹は男に告げられた自国の敗北という事実にもはや分かっていながらも、改めて目を見開いたように驚きながら、次に激しく血反吐を吐いて咳き込みかける。
 男はだがそんな自国と愛する者たちを護る為だけに戦ってきたのだろう忠勇の兵士に対してすら何ら感慨を現した表情を見せることも無く、ただ淡々と間もなく息を引き取るであろう軍曹を見下ろし続けるだけであった。
 もはや男がどのような相手であろうと軍曹には関係なかったのだろう。命も尽きる間際に彼が途切れ途切れの言葉で紡ぎだしたのは彼自身の本音だった。
 祖国を愛する愛国者の一人として、同胞たちや戦友、そして家族を護る為だけに只管これまで戦い続けてきたということ。
 だがそれすらも全て無残に破壊され、奪われ、ただ惨めにこれから敗北者として死んでいくしかないという悔しさ。
 その無念の言葉の数々を彼は軍曹を淡々と見下ろしたまま、ただ黙して聞き続けた。
 内容自体は特に殊更に感慨を抱くほどでもない、今この瞬間においてならばありふれていると言っても良い一兵士の人生であり本音に過ぎない。
 こうして今も赤軍に蹂躙され続けている兵士たちの中には、この軍曹と同じような背景を持っている者などごまんといるだろう。
 だからこそ、男にとってこの軍曹の一個人としての事情も背景も今更においては何ら関心を抱くべきものですらない。
 それでも男にとってこの軍曹に関心を抱く一点があるとするならば、これ以外の何ものでもない。

「軍曹、君はそうしてまた私にその話をするのだな」

 ポツリと漏らしたその言葉、それは仮面のような無表情を崩す素振りの一切も見せなかった男が表した相手に対して向けた唯一の本音だったのかもしれない。
 男が言った言葉の意味など分からなかったのだろう、無理も無いとは言ってから男自身もまた思ったことだ。
 あくまでも同じ光景だと知っているのは自分だけであり、この軍曹にとってはこれはまだ知らないことのはずなのだから。
 故にこそ死の間際でこちらの言った言葉の意味が分からず戸惑う軍曹に気づいた男は何でもないと首を振って告げた。
 そう、この軍曹にとっては何の関係も無いこと。少なくとも彼の主観では。
 全ては定められた予定調和、忌まわしき環の内で繰り返され続ける茶番劇だ。
 それでも少なくともこの軍曹にとっては間もなく終ろうとしているとしても一度限りの人生だ。
 ならば此処は彼の主観を尊重してやろうと思うのもまた慈悲というものか。

 ……ああ、私は幾度この軍曹にこんな同じ慈悲を抱いたことやら。

 皮肉にも思うその考えをとりあえず脇に置きながら、今は台本に則っているとでも言っていい問いを再び自分は彼へと告げるとしよう。

「――勝ちたいかね、軍曹?」

 相も変わらずの淡々とした態度を維持したまま、しかし相手にとっては唐突と言って良い問いであろう言葉を彼は軍曹へと投げかけた。

「………勝ち………た……い………?」

 ゴボゴボと血泡を吹き出しながら、それでも不思議そうに問いかけてくる軍曹へと男は肯定の頷きを示す。

「そうだ、軍曹。勇敢なるドイツ兵、祖国と同胞、そして愛する者たちを護る為に命を懸けて戦ってきた君へと問うている。
 ……君は、このままこの敗北と死を良しとするのか?」

 無念ではないか、悔しくはないか、認められないのではないのか。
 この敗北が必然であろうとも、最初から決まっていたような結末に過ぎないとしても。
 その茶番劇の舞台の上で、退場を決められた登場人物その他の一人として呆気なくその運命を受け入れねばならぬということが。
 そしてそれを諦観し、永劫の敗北者をまた繰り返し続けていかねばならないことが。

「君の人生は何の意味も価値も示されることすらなく、定められた運命の予定調和に乗っ取って此処で終ってしまう。……そんなことが認められるかね? 敗北の辛酸を永劫に繰り返し舐めさせられ続ける事を君は良しと受け入れられるのか?」

 そのようなふざけた運命、狂った予定調和など打ち壊したいとは思わないか。
 本当の勝利という美酒を味わってみたいとは望まないのか。

「此度が敗北したというのなら、次の戦で勝てば良い。よしんば次もまた敗北するというのなら次の次で勝てば良い。百度繰り返して負け続けようと、千度繰り返し負け続けようと、万度繰り返し負け続けたとしても、その先を続けて勝てたのなら、それは間違いの無い勝利だ」

 一度で良い、そうたった一度勝てれば良い。
 永劫に等しい敗北をこれから先も続けることになろうとも、その先の果てでただの一度でも自分たちが望む勝利を収められるならば……それで全ては救われる。
 そう、敗北を認めず、勝利を諦めることなく戦い続けることが出来るのならば。

「軍曹、君に選ばせてあげよう。これから先も永劫に続くであろう敗北の戦争、しかし次の次の、或いはその次の次の、更にその次の次の、いつかは来るであろう勝利を掴む戦いへ君は参加するのか否か。選びたまえ」

 戦うか、否か。
 敗北という諦観を踏破し、勝利を掴む為に戦い続ける永劫の負け戦の一員へと加わるかどうか。
 彼はただ軍曹へとそれを問いかける。

「軍曹、君は――勝ちたくはないか?」

 敗北などもはや飽きてしまっただろう?
 そう告げる男の表情が初めて軍曹の前で変化を見せる。
 何ら感情の一片すらも表さぬ無表情だったその顔には、今ではこれ以上無いというほどに穏やかで優しげな笑みが浮かべられていた。
 それは間違いなく、契約を持ちかける時に見せる悪魔の表情だっただろう。
 軍曹もそれは分かっていたのだろう。笑みで見下ろす男に対し恐れを抱くようにブルブルと震えていた。
 恐ろしい、人間として持つべき当然の恐怖心を正常に働かせている軍曹は正しい。
 此処で頷くことが、その差し出す契約書にサインを記すことがどのような末路を辿ることになるのか。
 ……知ってはいないが、確かに知っていた。

「それが死の間際とはいえ目覚めてしまった君の既知感だよ、軍曹」

 まるで心を読み取ったかのように告げてくる男の言葉にまたしても軍曹は恐れおののく。
 この男は……いったい何者だと言うのだろうか。

「私は……そうだな、これは首領閣下の称号ゆえに本来ならば僭称になってしまうのだが今回は特別に良いだろう。
 そう、私は――――」

 軍曹の耳元へと男は口を近付け囁くようにその言葉を告げた。

 ――悪魔、メフィストフェレスとでも言ったところか。そしてさしずめ君はファウストと言ったところだね。

 内緒だよ、そんな茶目っ気でも見せるような笑みを携えながら言ってくる男の姿が、この時軍曹にも相手の言葉通りの姿に見えた。

 伝承に曰く、契約を持ちかける時の悪魔ほど優しい存在はおらず、そして如何様な契約内容であれ一度交わした契約を破棄することは絶対に許されない。
 ……だがそれでも、悪魔は絶対に契約を遵守するのもまた事実だ。
 軍曹にとって眼前の笑みを浮かべて見下ろすこの黒衣の男は恐ろしい、それは間違いない。
 だが同時にどのような恐ろしい存在であれ、そして契約であれ、軍曹には確かに魅力的に映っていたこともまた事実だった。有り体に言って、この悪魔に惹かれていたのだ。

 ――勝ちたくはないか?

 このような問い、聞かれるまでもない。勝ちたい、それは当たり前のことだ。
 このような屈辱、このような無念、このような敗北、ただ恨まれ、蔑まれながら、一方的に世界の敵と汚名を着せられたまま死ぬことに、それが自分だけでなく、自分が護ろうとしたもの全てにも同じように課せられる事にどうして納得が出来よう。
 自分は、こんな無様な敗北を、最期を遂げるために戦ってきたわけでも、生きてきたわけでもない。
 勝利を、勝利でしかこのような納得のいかぬ結末を覆せぬというのなら――

「……か……勝ち……たい……ッ……!」

 自然と本音が、悪魔に向けて了承を示す契約の言葉が漏れ出ていた。
 我らに勝利を、己に勝利を。
 ジークハイル……ジークハイル……ジークハイル!

「ジークハイル――了承した軍曹。では再び共に戦おう、いつか既知感(ゲットー)を超えるその日まで」

 瞬間、男がそう告げ契約が交わされたのと同時だった。
 これまで男と自分が存在していた瓦礫と化したこの場に地の底から響いてくるような怨嗟の声が鳴り響き始める。
 それだけではない、もはや視力すらも失いかけていた軍曹の眼前で、自分と男を取り囲む周囲が青白く発光し始める。
 死者の怨念、霊魂が彷徨い出現し始めた……そんなオカルト染みた事実すら、今の軍曹は不思議と受け入れられることが出来る気がした。
 目の前の男の周囲を浮遊する魂と思われる青白い光たち、それらが次の瞬間には瞬く間に全て吸い取られるように男の体の中にヘと溶け込んでいく。
 ……喰っているのだ、魂を。
 忌まわしき光景を目撃した軍曹ではあったが、それでも顔に恐れはなく、むしろ男を見上げるその顔には畏敬にも似た念すら浮かび上がっていた。
 自分もまた先の魂たちと同様にこの男に喰われるのだろう。
 そして未来永劫、勝つまで戦い続ける。魔人の軍団――その獣の鬣の一本となって。
 恍惚感すら表情に浮かべ、その栄誉へと最期に浸りながら軍曹の魂もまた男へと喰われていった。


「……これで何度目だろうか、軍曹。君を再び喰らったのは」

 願わくば、これで最後にしたいものだと思いながら男は赤く燃える空を見上げていた。
 自分を含め、この千年帝国の帝都には十を超える魔人が存在している。
 一騎当千……否、それすら軽く凌駕する彼らにとってはこのベルリンもまた最初から自分たちへと捧げられた供物に過ぎない。
 故にこそ、今頃はそこかしこで他の魔人たちもまた儀式の成就と余暇の為に赤軍たちを、或いは自国の捧げるべき民達を各々で殺し続けている最中であろう。
 人の理を超えた悪鬼である彼らに常識の範疇の武器は通用しない。機関銃でも砲弾でも戦車でも、空爆であろうとも自分たちを殺すことなど出来はしない。
 故にこそ、本当ならば彼ら全員がその気にさえなってしまえば赤軍五十万とて返り討ちにしようと思えば出来ないわけではないのだ。
 ……尤も、そのようなことはしないし、してしまえばこれから先に待っている段取りが崩れてしまうことになる。
 故にこそ、主が命を下すその時までは程々に済ませる。中には多少やり過ぎるきらいの者が仲間内にもいるから心配ではあるのだが、兎に角、連中には上手くこのベルリンを陥落させてもらわねばこちらも困るのだ。

「……だが、そろそろか」

 見上げる空は血と炎と黒煙に彩られたものとなっていた。
 鉤十字(スワスチカ)の刻印を映し出しているところから考えても、既に儀式は八割方成功を収めていると見ていい。
 敵も味方も含めたこの帝都にて尽きる魂の総量を鑑みれば、充分に聖櫃創造の糧とはなっていることだろう。
 かつて幾度となく繰り返した予定通りの運びとはいえ、それでも間もなく始まるであろうアレを思えば主ならば飽きず美しいと感じることなのだろう。
 そんなことを考えていたその時だった。

『総員傾注! 我らが主、偉大なる破壊(ハガル)の君の御前である。その御言葉、黙し、括目して拝聴せよ!』

 恐らくは全ベルリンの全市民の耳へと届いているであろう女傑の言葉。
 突如として鳴り響いた己が上官でもある者の言葉を聞き、彼はいよいよかとその足を進めながらしかし視線だけは逸らすことなく空を見上げ続ける。


 赤く、赤い、燃え盛るベルリンの天(ヒンネム)。
 そこに君臨し、忘我となったベルリンに住む住民、兵士たちを見下ろしているのは輝く獣。
 たなびく鬣のごとき髪は黄金。
 総てを見下す王者の瞳も、やはり黄金。
 この世の何よりも鮮烈であり華麗であり、荘厳で美しくもあると同時におぞましくもある黄金。
 人の世に存在してはならない、愛すべからざる光の君。

 彼ら人を超えし魔人たちを絶対の力を持って束ねし、魔人の頂点に君臨する支配者。
 総勢十三の騎士を率い、黒円卓を治める最強の魔人。
 ―――メフィストフェレス。

 その傍らに侍るのは、輪郭の曖昧な影絵のごとき男であった。
 老人とも、若者とも、いかようにも見れるその外見は、隠者のように地味であり頼りない。
 だが一瞬すらも逸らすことなく見上げ続ける彼には、実はこちらの男の方こそが心よりの敬愛と忠誠、己が総てを捧げると決めた主でもあった。
 ―――メルクリウス。

 この対照的な二人こそ、彼らを見上げる総ての存在を凌駕する魔人の中の魔人。怪物の中の怪物。
 黒円卓――聖槍十三騎士団第一位と十三位。
 首領と副首領。


「――卿ら」

 ベルリン……否、まるで世界の総てを睥睨するように、黄金の髪の男の口が開く。

「己の一生が、すべて定められていたとしたら何とする」

 総ての忘我した人々の耳へと響くその声に含まれていたのは、まさしく魔性。

「勝者は勝者に。敗者は敗者に。なるべくして生まれ、どのような経緯を辿ろうとその結末へと帰結する――。この世界の仕組みとやらが、そのようになっていたとしたら何とする。
 ならばどのような努力も、どのような怠慢も、祈りも願いも意味は無い。神の恵みも、そして裁きも、全てそうなるように定められているだけだとしたら……卿ら悪魔の子、世界の敵として滅ぼされんとしている者たちは、一片の罪咎なしに犯され、奪われ、踏み躙られているに過ぎない。
 この、忌むべき法則(ゲットー)の環の中で」

 男が紡ぐ問い、投げかけるその言葉の意味を果たして本当の意味で理解して聞けている者が何人いるだろうか。
 唐突に切り出す内容に何を言っているのかと、運命論者の妄言と鼻で嗤い切り捨てることが出来る者は……しかしこの場にはいない。

「死すらもまた、解放ではない。永劫、そこに至れば回帰をなし、再び始まりに戻るのみ。そして卿らの始まりとは、犯され、奪われ、踏み躙られる敗北者としての始まりだ。
 ゆえにこの後も無限に苦しみ、無限に殺され続けるだろう。そのように生まれた以上、そのようになるしかない。
 それを口惜しいと――思うか否か」

 その内容がどれ程にこの場、この状況において馬鹿げていると言えるほどに突飛なものであろうとも、余人に有無を言わせぬ魔的な強制力が、紡ぐ男の言葉には秘められていた。

「それを覆したいと――思うか否か」

 おまえたちは無限に苦しみ、無限に殺され続けると。
 それは最後の審判を告げる喇叭のように、絶望的な説得力を持って聞く者の胸に浸透していく。
 魔的なまでのカリスマ。一種の極限状態を利用した洗脳はさして珍しくもないが、この場における規模と人員を鑑みれば異常と言う他にないだろう。
 さながら神話の竜や魔獣の咆哮と同等の、強力な精神干渉効果を持つ魔法の声。
 常人ならば聞くだけで恐慌、あるいは魅了され、弱い者なら昏倒しかねない絶対的な力の波。

 人に非ず。
 黄金の獣。
 黒太子。
 忌むべき光。
 破壊の君。

 彼を飾る言葉は全て、例外も無く魔の言霊を帯びたものばかり。
 男が命じる。

「思うならば、戦え」

 不遇の人生を変えたければ、魂を差し出せ。

「運命とやらいう収容所(ゲットー)に入るのを拒むなら」

 敗北主義者の汚名を濯ぎたいと願うなら。

「共に戦え」

 契約書のペンを執れ。名を記し、血判を押せ。
 それは悪魔の誘惑以外の何ものでもない。
 黄金の男は遙か高みから、地を這う者どもに問いかけた。

「卿ら、何を求める?」

 答えは聞くまでもない。

 勝利を(ジークハイル)。
勝利を(ジークハイル)。
勝利を我らに与えてくれ(ジークハイル・ヴィクトーリア)

「承諾した」

 男の、非生物的なまでに整った麗貌に、深い亀裂が刻まれた。
 ドクトル・ファウスト曰く、誰がどう見ても笑いにしか見えないが、同時に誰がどう見ても笑っているようには見えない異形の微笑み。

 ――愛すべからざる光(メフィストフェレス)。

 魂と引き換えに願いを叶える悪魔の銘がそれであったか。
 それは先の男が僭称と称して示して見せた紛い物とは似ても似つかず。
 正しく、本物の悪魔そのものにのみ許された証。

「ならば我が軍団(レギオン)に加わるがいい」

 決定的なその言葉が紡がれたその瞬間に、異変が起きた。
 銃を持つ者はそれを口に。
 刃物を持つ者はそれを胸に。
 何も持たぬ者は火の中に。
 撃ち、刺し、飛び込み、自殺する。

 百人が、千人が、万人が、異常な速度で死んでいく。その魂が、黄金の男へと残らず吸い寄せられていく。

 帝都を貪り尽くす大虐殺(ホロコースト)。

 おそらく、これが初めてではない。
 彼は今まで何十万、何百万という魂を喰らってきている。
 天摩する方陣は、その仕上げと言ったところか。
 自らを慕い、敬い、救いと助けを求める兵と民を捧げる生贄の祭壇。
 それは何と凄惨で、陰惨で、恐ろしくも――

「……美しい」

 それは紛うことなき賞賛を表した呟き。

「まさに悲劇……あなたを慕い、あなたが守るべき者達が、あなたのせいで死んでいく。あなたはそれを嘆き、喜び、自らの力へと変えるだろう。
 我が友――私がこの滑稽な人生で、ただ一人畏敬の念を抱いた獣殿……あなたはこれから何を成す?」

 それまで黙して語らず、ただ傍に控えていた影絵の男が口を開いた。

「あなたはいったい何を求める?」
「愚問だな」

 影絵の男の言葉に対し、黄金の男は眼下を睥睨していた視線を傍らの相手へと移しながら応える。

「法則の破壊と超越……私に道を指し示したのは卿だろう。もっとも、他に個人的興味がないでもないが」
「それはいったい?」

 興味深いと続きを促がす影絵の問いに黄金は平然と答える。

「法則を創った者」

 何でもないと言わんばかりの態度で告げたその言葉に、影絵は納得したように頷きを見せる。

「なるほど、すなわち」

 神か、悪魔か……
 どちらにしろ、まさに大それた発言だと思わずにも本来ならばいられぬが、他ならぬこの黄金の男が告げた言葉なのだ。ならば納得もしよう。
 くつくつと喉を震わせ、影絵の男は微笑した。

「私は優秀な“生徒”を得て幸せだ。エイヴィヒカイトを正しく理解出来ているのは、現状、あなたとアレくらいだが、しかし其処から先へと至れるだろう存在は、やはりあなただけか」

 我が従僕は本来その為の役割を担った存在でもなければ、眼前の人智を超越した獣と比べるまでもないことではあるが、分かりきっている認識といえど、改めて知るにはこれはこれで趣もある。

「いや、素晴らしい。この瞬間だけは、何度経験しても飽きがこない。それだけに正直名残惜しくもありますが……」

 幾度繰り返し続けてきた光景とやり取りか、もはや彼自身もまた忘れてしまったことではあるが、この瞬間はたとえ既知でも心が躍る。
 乾いた心に潤いが満たされていくのを感じることが出来る。数少ない救いでもあるそれを心の底から愛おしいと男は思う。

「行くのか、カール」

 影絵の男の言動からその真意を理解できたのだろう、黄金の男もまた確信を持って問いかけてはいるものの、それ故にこその名残惜しさもまた垣間見させていた。

「ええ、その名も置いて行きましょう。いずれ、必ず逢えるはず」

 再会を確信するかのような響きの言葉を持って、影絵の男もまたそれに応える。

「半世紀もすれば東方のシャンバラが完成する。そこに私の代理を用意し、後のことは我が下僕に命じておきますゆえに、あなたの下僕達の遊び相手にでもすればよろしい」

 そう告げながら影絵の男はチラリと眼下を見下ろす。
 そこから見上げていたのは、先の軍曹の魂を喰ったあの黒衣の男。
 心底からの敬愛を表すように、恭しく跪き頭を垂れて礼を示す己の下僕たる男の姿に影絵は満足そうに頷きを示した後、もう一度その視線を眼前の黄金へと戻す。

「今回の契約で、あなたの魂は他に比類なき強度を得た。聖櫃創造の試行も果たした以上、怒りの日まで“こちら”に留まる理由はありますまい。クリストフのこともある。
 万全を期すために、幾人か“あちら”に連れて行ってはいかがです」

 影絵の言葉に心得ているように黄金は頷きを示し、その視線を再び眼下のベルリンへと向けなおす。
 彼が示す視線の先にいるのは忠実なる下僕にして、とりわけ精強の騎士でもある三人の魔人だ。

「無論、もとよりそのつもりだ。ザミエル、シュライバー、ベルリッヒンゲン……彼らを共に連れて行こう」
「結構、それは隙のない人選だ。……というより、あの三人以外では、今のあなたに随伴することも適わぬか」

 かの黄金の男の力は、もはや人のソレを超えてしまっている。彼の配下の魔人たちもまた人を超えし存在ではあるが、それでもこの黄金の獣と比べれば天と地ほどの開きが生まれてしまっている。
 別格と称される幹部……かの名を上げられた三人の大隊長くらいにまで達していなければ、もはや共に在る事すらも難しかろう。
 故に妥当というには妥当すぎる人選と采配。既に知っていたことでもあるし、改めて聞くまでもなかったことだなと男は今更ながらに思った。

 まるで共にチェスに興じるかのような口調で言葉を交し合う二人の魔人。
 その様子を評して、まるで兄弟のようだと配下の者達からは思われているが、むべなるかな。この二人には共通の、強いて言うなら突き抜けた達観性があったのも事実だ。

 悲劇も、喜劇も、あらゆることも、芯から心を動かされるには値しない。
 ただの冷笑でも、感情麻痺によるものでもなく、存在が磨耗しているかのような……奇妙な“老い”。


 だがそれすらも互いに理解し合い、共感しあうことが出来る、不可侵とも呼ぶべき主たちの友情。
 それに嫉妬を抱くなどもっての他とは思いながらも……しかし、羨ましさを浅ましくも感じずにはいられぬことを彼――ヨシュア・ヘンドリックは自覚していた。
 黄金の獣の傍らにて何処か楽しげな様相も顕に見せる己が主のその姿。
 敬愛し、崇拝し、絶対の主であり師であり、父のようにも慕う影絵の男は、決して己の前ではあのような表情を見せはしない。
 逆に他の黄金の男の部下たちならば、己の主たる存在とまるで唯一対等のように振舞う影絵の男の方こそを、身の程を知らぬ化物と忌み嫌おう。
 しかしヨシュアだけは違う。魔人の軍勢……聖槍十三騎士団、黒円卓とも呼ばれる集団に席次すらも設けられぬはぐれ者であるが故にか、己が主たる副首領を務める男のみをただ只管に信奉し、付き従い続ける。
 それが己が主と同様に、彼もまた他のメンバーから蛇蝎の如く忌み嫌われる直接の原因ともなっているのだが、そんなものはヨシュアにとっては省みる必要すらもない些事だ。
 首領閣下たるあの黄金の獣に対しての忠誠……彼もまた黒円卓に席次を有さぬ者であれども聖槍にて聖痕を刻まれた魔人の一人としてそれはある。
 ただ心の底から信奉する真の主は、その傍らの影絵の男の方であり、その忠誠もまたそちらの方に勝るというだけ。
 魔人の中でも一際の異端たることに自覚はあるが、それもまた些事。己は己として、主より与えられている命をただ果たすのみ。ただそれだけのことだ。


「ではまたいずれ、獣殿。再び我らがまみえる時こそ、互いの目的が成就すると祈りましょう」
「否、成就させると誓うのだ。傍観するだけでは何も掴めん。卿の悪い癖だな、カール」

 再び、振り向きながらされど最後の別れの言葉を告げる影絵の男に対し、黄金の男ははっきりとした態度で首を振りながらそう言い返す。
 何者にも屈さず、己が言葉と誓いを当然の達成すべきことと認識する獣のその言葉に、彼もまた苦笑を浮かべながら、心得たように頷き返した。

「……確かに。であればここに誓いましょうか」

 次こそは、勝利を我が手に掴む事を。
 この呪われた永劫回帰の環を破壊し、既知感(ゲットー)を必ずに超えて見せる事を。
 カール・エルンスト・クラフトとしてではなく、メルクリウスとしてそれをここに誓うことを。
 彼は眼前の黄金の獣へと微笑みと共にそれを告げた。



 この日――世界を敵に戦い続けた髑髏の帝国は壊滅した。
 当時、随一の科学力を有していたこの国が、裏では常軌を逸した魔術儀式を実践していたというのもまた、真偽はともかく有名な話である。

 その申し子たる選ばれた超人達……彼らのために収集された数多の秘宝。
 それらが何処にいったのか、そもそも本当に実在していたのか、未だもって不明である。



 ――そして現在。

 2006年、11月29日――富士、青木ヶ原樹海。


「……かくして六十年、我々は待ち続けた。各々が抱いた誓いを果たすその時を、怒りの日の到来を、ずっと待ち続けてきた」

 淡々とそう昔語りを終える自らの師の傍らで、頭を垂れ跪く従者の姿を取ったままに櫻井螢は黙してそれを聞き終えた。

「年寄りの昔話に付き合わせてしまってすまないね、螢」
「いえ、最若輩の我が身においては貴重なお話でありましたので」

 穏やかに微笑みかけながら告げてくる師の労いに、微動だにすらしない態度を維持したままにただ彼女はそう応え直すのみであった。
 今から六十一年前……十一年前に闇の深淵へと踏み込むこととなった彼女の歴史などよりも更に半世紀も昔にあたる闇のはじまりの話。
 これまでも幾度か断片的にこそ眼前の師から聞き及んでは来ていたが、かのベルリンの落日の真実を聞かされたのは今日が初めてだった。
 ラインハルト・ハイドリヒ……メフィストフェレスこと黒円卓の首領とその盟友たる師の主にあたるらしい副首領メルクリウスの旅立ちの逸話。
 六十年前のかの日から、今日……否、これより始まる怒りの日まで至る為の戦争の幕開け。
 遂にここまで来たのだという事を螢は改めて胸中にて思い直した。

「私がこの話を何故に今更語りだしたかは……分かるね、レオンハルト」

 己を名ではなく黒円卓の称号で呼んできた主の言葉に応えるように、螢は下げていた頭を上げて師を見上げる。

「はい。半世紀の積み重ねのない最若輩たる我が身が、それでも黒円卓に……ハイドリヒ卿へと忠誠を示すのにどうすれば良いか」
「それは?」
「まずは実績を伴った実力の証明」

 師――ヨシュア・ヘンドリック=アルベルトゥス・マグヌスの促がしに淀むことなく螢はハッキリとそう答える。
 聖槍十三騎士団、黒円卓第五位レオンハルト・アウグスト……それが現在の彼女の肩書き。
 だが魔人の巣窟にして、徹底した実力至上主義と強烈な選民思想を自負として成り立つこの組織が最若輩の日本人……言ってみれば黄色い劣等たる小娘に地位を保障するほどに甘いはずがない。
 事実、幾度か他のメンバーとの面識はあれども、決して彼女に友好的な団員はいなかったし、この地位すらにも疑問を掲げる輩とている。
 日本人の外様でしかない彼女では、文字通り日陰者という地位に甘んじるほかには今までなかった。
 だが、これより始まる戦争……怒りの日へと至るために行うべき大儀式(アルス・マグナ)においてはそのままではいられない。
 叶えるべき悲願が、取り戻すべきものがあったが故に血に塗れ、人を捨て、魔人にまで堕ちたこの十一年があったのだ。
 確かに、彼ら先達の半世紀以上の雌伏に比べれば、たかが十一年という螢にとってのこれまでは短くも感じよう。
 されど、他の団員たちを相手にしてすら決して劣らぬだけの決意と覚悟、悲願を叶える為の貪欲なまでの欲求が螢にも存在している。
 これだけは誰にも邪魔はさせない。故にこその黒円卓の一員らしい実力を伴った証明を彼女はこれから打ち立てねばならないのだ。

「そして、我が魂を含めた全てを捧げる事を証明した、聖痕による誓いをここに」

 黒円卓の盟主たるかの黄金の獣への絶対の忠誠。
 面識は皆無であり、又聞きによる人物像でしか掴めはしない。
 だがどのような人間……否、その称号通りの悪魔であろうとも、魂を含めた全てを捧げろと要求してくるなら、それでも構いはしない。
 捧げよう、魂も忠誠も、望むもの全てを必要な分だけ好きなだけに。
 それで己の悲願を叶えてくれるというのなら……惜しくはない。

 その螢の答えに問うた側である師は満足したように、微笑を浮かべながら静かに頷く。
 悪魔と決して違えられぬ契約を交わした人間を、まるで祝福するかのように。
 否、文字通りのこれは眼前の魔人からの祝福なのだろうと螢は受け取った。
 だがどちらにしろ、これでもはや後戻りも出来ない。……最初からする気もなかったが。

「では共に始めるとしよう、レオンハルト。かの戦の続きを」

 もう一度、今度こそ勝利を得るために。
 師より告げられるその言葉に櫻井螢は無言をもって、しかし肯定の姿勢にてそれに答えた。



「ご無礼をお許しください。そしてお久しぶりです、聖餐杯猊下。ヴァレリア・トリファ首領代行」

 恭しく礼節に乗っ取った臣下の礼を尽くし、頭を垂れて跪く師の傍らで、同様に螢もまたその男の足元で跪き頭を垂れていた。
 かの覚悟の有無を確認させられた問答より数刻後、この場に赴いた本当の意味を果たすべく彼女たちは此処に居た。
 死の森とも称されるこの樹海は、今炎によって燃え盛り、三人の人物を照らし出していた。
 一人は自分、もう一人は己の師、そして最後の一人は――

「――ええ、お久しぶりです。アルベルトゥス卿、あなたもお変わりなきようで何よりです。……そちらはレオンハルトですね、あなたのことも覚えていますよ。キルヒアイゼン卿の跡を継がれた際にはまだほんの子供でしたが……美しく、そして強くなられましたね」

 穏やかな微笑と態度をもってそう告げるは、僧服に眼鏡をかけた金髪の神父。
 彼らがこの場において出迎える事を目的としていた件の人物その人である。

「恐縮です。そしてご無礼の程のご容赦を。この場にあなたをお呼びしたのは我々の意向です」

 神父に投げかけられた言葉に答えるように、師に代わり跪いたまま螢は相手へとそう答えなおす。
 先程、名もなき洞窟から突如として噴出した気の奔流が、周囲数十メートルの木々を薙ぎ倒し燃やしていた。
 ここは気穴と呼ばれる世界中に網目のように広がる地脈と地脈を繋ぐ場でもある。
 先程、その場より出てきたのが眼前の神父なのだが……これは相手にとっても意図した事態と言うわけでもない。
 そもそも神父はこれを用いて地球の裏側から別の場へと直接に移動する算段だったはずだ。
 だが螢はそれを師と共に自らの意向でルートを捻じ曲げ、此処に呼び出したのだ。
 無論、それは理由があったからこそ行ったことでもある。
 二言三言の言葉を交わしあいながら、螢はそれを神父へと説明する。
 謝罪と共に行う行為の正当性と必要性の説明。
 その地……シャンバラに神父が足を踏み入れるにはまだ早いということ。
 螢が説明を続けるのを神父も師であるヨシュアも黙して聞き届けた。
 神父もまたその説明を聞き終え、異を挿む心算もないのか納得したように頷いた。
 彼にとっても予定外でこそあれ、これもまた些事に過ぎない。
 重要なのは、この場に居る者たちにとってはたった一つだけ。

「ではこれより――共に戦の続きを始めましょうか」

神父が告げてきたその言葉、それのみが全てを物語っている。
 そう、最初から重要なのはその一点のみ。

 彼らが長年に渡り待ち、備え、そして温めてきた至高の出し物を披露しようという、ただそれだけのこと。
 さあ、幕開けだと跪き頭を垂れた姿勢のまま口の端を歪め持ち上げる師の横顔を螢は確かに垣間見た。

 演目は恐怖劇(グランギニョル)。
 殺して殺して殺し尽くす。
 奪って犯して捧げよう。
 勝利を我が手に。
 我らのものに。
 何故なら――

「――神、これを欲したもう。忠誠こそ我が名誉」

 師に習うように彼女もまたそう誓いの言葉を口に出す。


 彼らは何度でも繰り返す。
 百万回でも、百億回でも、那由多の果てまで戦い続ける。
 そうするように誓った以上、そうするようになるしかない。

 聖戦(クルセイド)のスローガンを唱える少女に、彼女の師と神父はただ祝福を贈る様に微笑を返す。

 ――この時。
 今宵この場所で、世界を滅ぼす軍団(レギオン)が胎動を開始した。
 与えられた師からの役割を達成する使命感に幸福を感じながら、此度の戦にこそ勝利を確信しながら、男はただ笑う。
 笑いながら、胸中にて歌うように繰り返す。
 来るべき怒りの日、その到来を待ち焦がれるように。


彼の日こそ 怒りの日なり
Dies irae dies illa,

世界を灰に 帰せしめん
solvet saeclumn in favilla,

ダヴィデとシビラの 預言のごとく
teste David cum Sibylla.

大地は血を飽食し、空は炎に焦がされる。

人は皆、剣を持って滅ぼし尽くし、息ある者は一人たりとも残さない。
男を殺せ。女を殺せ。老婆を殺せ。赤子を殺せ。
犬を殺し、牛馬を殺し、驢馬を殺し、山羊を殺せ。

――大虐殺(ホロコースト)を。
目に映るもの諸々残さず、生贄の祭壇に捧げて火を放て。

この永劫に続く既知感(ゲットー)を。

超えるためなら総て焼き尽くしても構わない。






[8778] ChapterⅠ-1
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2009/05/15 23:43
 時間が止まればいい。
 そんな風に一度は思ったことはないだろうか。
 人生における最良の瞬間など人それぞれだし、死ぬ瞬間にでも振り返ってみなければそれが本当にそうだったかどうかなど分からない。
 けれど少なくとも、この時間が、この瞬間がずっと続いてくれれば……そんな思考が時に過ぎったことがある人間というのは結構いるのではないだろうか。
 少なくとも、沢原一弥は己と同じ穴の狢……似たような麻疹病持ちのご同類を知っていた。

 そいつはかつてこんな事を言ってきたことがある。


 ――楽しい時は瞬く間に過ぎるというなら、積極的に楽しまないようにしてその瞬間を引き伸ばす。


 随分と後ろ向きで保守的な姿勢、そう思わなかったわけではない。
 だが一弥もまたそいつ――藤井蓮が言ったその言葉の意味が分かる気がした。
 大切だから終って欲しくない、しがみ付いてでも守り通す。
 平平凡凡な毎日であろうが、それが居心地が良いからこそ、それを維持し続ける。
 堅実、と呼んでもいいのかは分からない。しかし蓮のその考え方に一弥がある種の共感を抱いていたというのも事実だ。
 額縁にでも飾ってでも、フィルムに収めてでも、切り取って残しておきたい無上の瞬間。
 成程、それを現在だと認識する蓮の考え方は面白いし、よく分かる。
 ……何せ、それは密かに自分もまた思っていたことだったから。

 平凡な、大きな変化もない、普通に学校に通い、普通に友達と馬鹿やって、そして普通に時間を意味もなく消費し続けていく。
 現代日本の病んだ若者らしく、沢原一弥はそんな生活がこの上もなく好きだった。

 物事というのは維持が一番難しい。壊すのは簡単で一瞬で出来るが、しかし元通りに復元するにはかなりの時間が掛かるし、もしかしたら完全な復元そのものだって出来ないことがある。
 だからこそ、壊さないように、壊させないように、それを必死に維持し続け、守り続けるというのは本当に難しい。
 普段は意識もしていないからそうは感じていないだけ、しかし一度でもそれを気づかされてしまえば本当にそう思うということがよく分かるだろう。
 ……どうしてかだって? そんなの簡単なことさ。

 要するに、自分たちは不意に思ってもいなかった形でそれを気づかされたからだ。



「じゃあおまえら、たとえば自分の人生を小説だと考えてみろ」

 それが全てをぶち壊したあの馬鹿野郎があの日に切り出した最初の言葉。

「マンガでもゲームでも何でもいいが、とにかく一人称語りで進む長編だ。自分をその主人公だと考えろ」

 揺り籠から棺桶まで続く物語。些細なものから大事なものまで、自分に絡むあらゆる人物・事件を纏めた大河長編。
 人生をそういうものと仮定しろと、あの馬鹿野郎――遊佐司狼は言ってきた。

「そこで質問。今自分が綴っている小説は、実際のトコ面白いのか?
 主人公として、おまえらはキャラが立っているのか?」

 昔から唐突にわけの分からない事を言ってくる奴ではあった。幼馴染みとして長い時間を一緒に過ごしてきて、その中でも司狼はとりわけ変わり者だったのは理解していた。
 ……いいや、理解している心算だった。

「文法が怪しいとか、語彙が貧弱だとか、そういうスキルのことを言ってるんじゃない。ただ物語(ドラマ)として、売りになりそうな華なり棘なり毒なりを持っているか。さらに同じジャンルを囲った中でも、抜きん出ている何かが有るか」

 だが結局の所、その認識が甘かった。
 だからあんなことになってしまった。
 馬鹿野郎の訳の分からん理屈で全てを壊されてしまった。

「自分がやらなくても、他の誰かがやるような人生なら生き続ける意味が無い。こんなところやそんなところで、誰でも出来るような生き方(ジャンル)やっててもしゃあないだろう」

 悪かったな、そしてそんな生き方の何処が悪いんだよとも正直思った。
 そんな不満をこちらが抱いていたのを察したのだろう、肩を竦めたおどけた態度を見せながら司狼は言葉を続けていく。

「ツレと駄弁って馬鹿やって、女作ったり部活やったり、悪くはないけど珍しくもない。そんなの日本中の同年代がリアルタイムで経験してる。
 オレは別に、数が多い事を馬鹿にしてるわけじゃないぜ。要はそれだけ、選びやすい道だって言いたいのさ。
 選択肢があるように見せかけて、実は人生、一本道なのかもしれないってな」

 自分たちが自ら選び、そうして過ごしてきたはずの生き方を司狼はそう否定した。
 つまり、選んでいるのではなく――選ばされているのではないのかと。
 ……だが、仮にそうだとしてもそれの何が悪いんだ。
 司狼の言い分に納得のいかない気持ちをこの時に強く抱いたのを一弥は覚えている。
 そして程度の差こそあれ、それは蓮も同じだと思っていた。

「少なくともこの国じゃあ、最大公約数が強いだろ。出る杭は打たれる。天才は孤独。ハブられる馬鹿。いじめカッコ悪い。まあ、それは現実的な解釈で理屈つけた場合の話で……
 オレはなんてゆーかな、デジャヴるんだよ。これ、前にもやったんじゃねーのかなぁって。
 楽しくないんだ。新鮮味がない。前にも読んだことある気がするんだ、この人生(はなし)……だから、おまえらに協力して欲しいんだよ」

 楽しくない……司狼がそう言い切った時、ああやっぱりなと思わなかったわけでもない。
 少なくとも、確かにこの男には自分たちと日常を過ごす上でそんな風に密かに思っているのではないだろうかと、ある種の予兆のようなものを感じてはいた。
 物事を冷めた視線で、たまに熱くなったり楽しんでいるように見えても、ふとした瞬間に急に興醒めした様な表情をこいつが浮かべたことがあるのを知っていた。
 何で急にあんな表情を浮かべたり、テンションが変わるのか……成程、先の言い分で少しだけだが分かった気はした。

「……何を?」

 協力しろという言葉の意味を問うように尋ねる蓮の言葉に、司狼はニヤリと悪ガキが何か企むような時の笑みを浮かべながら言ってきた。

「フラグ立てとフラグ折りさ」

 一弥はこの言葉を聞いた瞬間、司狼が何をしようとしているのか、朧気ながらも嫌な胸騒ぎから分かりだしていた気もした。
 蓮はこの時にどう思っていたのだろうか……

「言ってもわかんねえかもしれねえなぁ」

 少なくとも、ろくな事じゃないと言う事だけは分かっていた。
 ああ、司狼。おまえ要するに――

「だっておまえら、好きだろ退屈(それ)。何もかもが既知の範疇。一から十まで同じ事を生まれて死ぬまで繰り返したい。――そんなキ○ガイ、他に知らんし」

 おまえの考え方の方が余程そうだろうが、反感と共にそんな感情を抱いたのをよく憶えている。

「特に蓮、俺の話に出てくるおまえは、なんかズレてるトリックスターみたいなもんなんだよ。……一弥か? おまえも似たようなもんだ。その二号ってところか」

 二番煎じのトリックスター。
 そもそも物語にトリックスターは二人もいる必要は無いし、しかも後付け舞台装置のような役割という認識を押し付けられて喜ぶような奴はいない。
 それは当然、一弥もまた同じだった。
 だがそんな不満を抱くこちらを気にした様子もなく、本題だと言わんばかりに司狼は話を続ける。

「そんなおまえらをここでどかせば、話が変わってくるかもしれない。
 んな顔するなよ、おまえらだって分かってるだろ」

 目を逸らすな、そんな風に司狼は聞きたくもない言葉を続ける。

「オレらはガキの頃に、色んなもんから弾かれてる。
 本来なら、気楽に学園ドラマやってられるような身分じゃないんだ」

 それが何を指して言っている言葉だったのか……よく分かっている。
 忘れたわけでも、忘れたかったわけでもない。
 けれど、出来ればあまり思い出したくは無い、そんな忌まわしい過去。
 確かに、あれを忘れてしまうことは罪になるのだろう。……だが、憶えていても得になるようなことでもないだろう。
 罪を犯した者の身勝手な価値観、ああ確かにそうだろう。
 けれど思い出しても結局は傷つく者以外は出やしない。それは確定的と言っていい。
 だったら、わざわざこの瞬間に古傷抉り出さなくたって別にいいだろう。
 痛みに悶えて喜べるような、そんなマゾヒストじゃないんだから……

「そして、だからこそ今まで普通(それ)をやってきた。なのにデジャヴが止まらない。
 ……挫折もんだぜ。泣きたくなる。だから根性なくて悪いけどよ、オレは抜けるぜ。もう付き合わねえ。
 人生は短い。エンディングが来る前に、選択肢の総当りをやらせてくれ。
 この一本道、絶対に別ルートがあるはずだ。オレはそれを探したい。結果がたとえ、バッドエンド一直線でも――」

 未経験のルートなら、乗ってみる価値はある。

「だったらここで、おまえらと切れるってのもなかなか面白いと思うだろ?」

 それは見飽きたいつもの笑み。
 気負いも何もない、気だるげでふてぶてしい遊佐司狼らしい笑み。
 だからこそ、こいつが唐突にこんな訳の分からない事を語りだして、次にはあんな馬鹿げた暴挙に出たことには驚き……しかし、何処かで納得し……そして何よりも腹立たしかった。


 何の予兆もなく挨拶代わりのように、思いもしない司狼から繰り出された不意打ちの拳。
 見事に鳩尾へと食い込んだソレは、洒落にならない激痛と衝撃を一弥へと与えながら、急激にその意識を奪っていく。

「悪いな、おまえは保険だ。眼が覚めた時、それでもオレらが生きてた時は一応後のこと頼むわ」
「……し……ろ…う……て……め……え………ッ!?」

 気を失う最中、それこそ恨みを込めた視線で司狼を睨みつけながら一弥は彼へと手を伸ばす。
 行かせてたまるか……ああ、たまるものか。
 そんな一抜けなんて卑怯なこと、自分で勝手に滅茶苦茶にしておいて、全部放り投げて逃がすなどさせてたまるか。
 おまえは俺たちの日常の一部なんだと、手前勝手にいなくなるなと。
 逃がしてたまるか、おまえはここにいろ。俺たちと一緒にいろ。
 そう必死にそんな思いを込めながら、司狼の体を掴もうと一弥は必死に手を伸ばすも……

「――悪いな。もうおまえとオレじゃあ、生き方(ジャンル)が違うんだわ」

 あっさりと、未練すらも見せることなく司狼は伸ばす手をすり抜け、かわしてしまった。
 何も掴むこともないままに、宙を僅かに彷徨ったその手は、やがて一弥が意識を失い倒れ込むのと同時にバッタリと途絶えてしまった。
 意識を失う直前、洒落にならない馬鹿げた喧嘩を始めた親友二人の姿を見ながら一弥が思ったことなど、司狼への恨み言だけだった。



 そうして次に沢原一弥が目を覚ました時には、既に全てが決定的なまでに手遅れとなってしまっていた。
 普通、素手での喧嘩というものには限度がある。
 矢尽き、刀折れるというか、とにかく普通ならば拳が握れなくなり、足が使えなくなるなりした時点で終了だ。
 いい戦いだった、おまえ強かったぜ……そんな一昔前の不良の決闘を例えに出すわけでもないが普通は拳で激しく語り合うなり何なりした後は、そうやって互いを健闘し合い讃えあったりするのが青春のお約束だ。
 だというのに、この馬鹿どもときたら……

「……馬鹿が、てめえらのやってることなんて喧嘩じゃないだろ」

 少なくとも、現代日本においてはここまで度が過ぎているとしか言い様のない潰し合いを喧嘩と定義付けるには問題がありすぎるだろう。
 どう見ても……否、どこから見ても殺し合いの一歩手前。バリートゥードの試合でもここまで過激なものは無いだろう。
 とにかく、まるでもはやボロ雑巾とでも呼んだ方が良い凄惨な姿に互いを変えた馬鹿二人を一弥は救急車を呼んで病院へと直行させた。
 ……いや、正確には救急車を呼んだのは一弥ではない。むしろ無様にダブルノックダウンしている馬鹿二人と同様に伸びていた彼を起こして救急車を呼んでくれたのはたまたまこの現場を目撃してしまった知り合いの先輩だった。
 氷室玲愛……一弥たちが上級生で唯一親しい交友関係にある先輩の彼女が、呑気に気絶していた一弥を叩き起こし、ついでに馬鹿二人のために救急車を呼んでくれたのだ。

「驚いたよ。藤井君たちは血塗れで共倒れしてて、沢原君は呑気に傍で昼寝してたんだもの」

 独特の内心を読めない淡々とした態度で後にそう語ってくれた玲愛の言葉に、一弥は好きで眠っていたわけじゃありませんと理由を説明した。
 尤も、一番最初に司狼にのされたのだと情けない事実を説明したところで、

「ふぅん、確かに沢原君は一番最初にやられちゃいそうなキャラだね」

 まるでそれがデフォルトのように彼女の口から告げられた時には、男としてのなけなしのプライドが本気で傷ついたのはここだけの秘密だ。
 まぁ氷室玲愛のことについては後に置いておくとする。
 問題だったのは彼女ではなく、むしろ別の人物だった。

「一弥!? 蓮が…司狼が…大怪我したって!? ねえ何で!? 嘘だよね!?」

 連絡を受けて病院に駆けつけた自分たち幼馴染みカルテットの最後の一人にして、紅一点でもある綾瀬香純はそう泣きながらこちらにしがみ付いてきて何があったのか説明を求めてきた。
 大切な幼馴染み二人……内一人は彼女自身が昔から好いている蓮なのだ。香純の動揺は相当なものだった。
 一弥も何とか言葉を選びながら宥め落ち着かせようとしたのだが……結局はここでも一弥は大した役にも立てなかった。
 司狼の暴挙を止められず、蓮も守れずに、香純が泣くのを止めてやることもできない。
 何から何まで役立たずで、本当に何も出来ぬまま情けなく、渦中にいながらも部外者同然でしかいられなかった。
 ずっと四人、これからも仲良くやっていける……そこに先輩も含めて、五人でいつまでも普通の学園生活を送るはずだったのに。

 時間が止まればいいと思った。
 あの日、あの時より以前に、全てが台無しになってしまったあの瞬間よりも前で。
 平凡で退屈で、それでも飽き飽きしても楽しいと思えていたはずのあの日常で。
 ……時間が、止まっていてくれたなら。
 無いものねだり、ありえるはずもない、土台無理な奇跡。
 それでも、全てが壊れてしまったと思ったあの瞬間に沢原一弥は強くそう願わずにはいられなかったのだ。

 それが私立月乃澤学園を突如震撼させることとなり、彼らの在るべき筈の日常が終ってしまったとある事件の概要だった。



 藤井蓮と遊佐司狼の殺し合いにも等しい乱闘騒ぎから一週間。
 香純は連日蓮の見舞いに病院へと足繁く通い、一弥もまた未だ木乃伊男のような全身包帯姿の蓮の様子を見に病院へと顔を出していた。
 司狼はあれから三日も経った頃にどういうわけか何処かへと消えてしまった。怪我の度合いならば蓮同様に瀕死の重傷、絶対安静が当たり前だというのにあろうことか病院を脱走してしまったのである。

「……いっぺん死んだ方が良いんですよ、あの馬鹿は」
「の割には、心配そうな顔をしてるね」

 そんなことありませんよ、と氷室玲愛の指摘を沢原一弥は鼻を鳴らして不貞腐れたような態度でソッポを向きながら否定する。
 因みに二人が並んで座っているのは、件の事件の現場ともなった学園の屋上のベンチである。
 あの事件以前から、玲愛とは他の連中と一緒に此処で昼食を共にするのが日課だった。一弥としてはあの時間もまた何よりも貴重な瞬間であったはずの日々だ。
 此処もまた密かなお気に入りのスポットだったというのに……本当に、司狼の奴は最悪な記憶を上書きしてくれたものだと考えただけでも苛立たしかった。
 事件から一週間、蓮の容態を近況報告も兼ねて昼飯を同席する最中に玲愛へと話していたのだ。

「食事中にするような話でもないけどね」
「そう思って控えてたのに、自分からその話題振ってきたのは先輩ですよ」

 玲愛の歯に衣着せぬ物言いに、多少呆れた心地にもなりながらそう返す一弥。
 並んで座り隣でどう考えても内容物の組み合わせを致命的に間違ってるようなサンドイッチを黙々と食べ続けているこの不思議な雰囲気を持つ先輩を、改めて大物だと一弥は思い直していた。
 それなりに彼女にとっても親しい(と思っていてもらいたい)後輩が渦中にあった事件だったのに、瀕死の二人を見ても慌てることなく冷静に救急車を手配し、事件後においても動揺の素振りらしきものも見せない。
 ましてや事件の現場となり進んで誰も近寄ろうともしないこの屋上で、たとえ自分が来なかろうとも一人黙々と昼食をとり続ける。
 ……冷たいわけでも天然というわけでもないのだが、掴みどころがないとしか言い様がなく改めてソレを認識してしまうと接するにも戸惑いを覚えていた。

「どうしたの、私の顔をジロジロ見て。……惚れた?」
「……とっくの昔から、とか仮に俺が返した場合は先輩どうする心算なんです?」
「結婚して」
「展開早っ!」

 無論、冗談を前提としたやり取り(だと信じたい)なのだが、本当に氷室玲愛はあの事件からも、まったく変わった様子も無い。
 ……正直、香純のように別人かと言わんばかりにまで落ち込まれるのに比べれば、変わらないでいてくれる安心感を抱かせてくれる彼女には感謝しているのだが……

「……もしかして先輩、俺に気ぃ遣ってくれてます?」

 だとするなら申し訳なくも感じたりはするのだが、

「どうして? 何で私が沢原君に気を遣うの?」

 しれっと何を言っているのかと心底からの疑問を抱くような表情で尋ね返されれば流石にへこむというものだ。
 ……やっぱりこれが彼女の地なのだろうと、感じなくてもいい気疲れと共に一弥は漸くそれを判断した。



「……楽しいな」

 あれだけの馬鹿をやっておいて、死ぬかもしれない瀕死の状態で尚、遊佐司狼という名の馬鹿はこの状況をそんな一言で片付けた。
 ……馬鹿か、何が楽しいものか。こんな血生臭い凄惨な光景、面白くも楽しくも無いに決まっている。
 だというのに、そうであるはずなのに、ボロボロに歪んだ司狼の顔に浮かんでいた表情はこの上もない爽快な笑みだった。
 あんな笑顔、自分たちと居た時にも滅多に見せなかったというのに。
 本当に、おまえは俺たちよりもこんな馬鹿げた末路の方が重要で満足なのかよと腹立たしくなってきた。
 全てを勝手にぶち壊して、香純まで泣かせるようなことをしておいて――

「こっちに来たけりゃ、いつでも言えよ」

 なに勝ち誇ったようにそんな戯けた事を言い出すのか。
 ……おい、司狼。違うだろう。
 自分が先に進んだみたいなことを言っているが、結局おまえは平穏に耐え切れずに堕ちただけじゃないか。
 だからこそ、そんな風に勝ち誇るなんて勘違いであり、お門違いだ。

 いいか、司狼。
 来る云々じゃねえんだよ、帰ってきたいならおまえの方こそ這い上がって来いよ。
 ……ムカつくが、助けが欲しいってんなら手を差し出してやってもいい。
 やっぱりおまえがいなきゃ、俺はともかく、蓮や香純が寂しがるしな。
 友達少ない先輩だって、きっとそう思ってて許してくれる。
 だからな、司狼。反省したんなら帰って来いよ。
 DQNみたいな言動かましてないで、自分の居るべきホームグラウンドを思い出せよ。
 一人で勝手に投げ出して、面倒臭いことばっか俺に押し付けて逃げるなよ。
 なぁ司狼、お前の居場所は――

 そう思いながら沢原一弥は背を向けて去っていく遊佐司狼に手を伸ばしながら必死に呼びかける。
 しかし司狼は振り返らない。こちらの言っていることも聞こえていないのか、立ち止まる様子も速度を緩める様子すらもなく、漆黒の闇の向こうへと進み続けていく。
 まるで奈落の底へと自ら進んで堕ちていくように。

「……んでだよ」

 届かない手を伸ばし、振り返ろうともしない司狼の背中へと、それでも苛立ちを含みながらも必死に一弥は叫び続ける。

「何でだよ!? おまえ何でそんなに簡単に全部捨てられるんだよ!?」

 腹立たしかった、許せなかった。
 こうしていざとなったら、吹っ切ってしまえば、未練すら残さずに軽々と捨て去れるほどにあいつにとって自分たちの価値とはその程度のものに過ぎないのか。
 幼少時から共に重ねてきたはずの、確かにあったと信じていたはずの自分たちの絆は、こんなに簡単に終ってしまうものなのか。

「おまえ何なんだよ!? 何がしてえんだよ!?」

 所詮はこんな夢の中で言ったところで詮無きことだというのは承知の上。
 けれど、それでも納得しきれずに、未練がましかろうと、湧き上がる苛立ちと悲しみをぶつけずにはいられなかったのだ。
 だからこそ、あらん限りの力を込めて一弥は司狼の背へとそう怒鳴り散らす。
 不意に、それがいかなる理由でかは分からない。
 司狼の足がピタリと止まると共に、ゆっくりとこちらへと振り向いてくる。
 あのいつも通りのふてぶてしい、何の気負いも見せない憎たらしいまでの不敵な面に皮肉気な苦笑を浮かべながら、初めて司狼はこちらに向かって口を開いた。

「だから、言っても分かんねえって……ただ、この街に住んでいたら――」

 司狼が何かを言っている。
 だが最後の部分の言葉が、どうしても聞き取れない。
 それどころか、意識が段々と眠りから覚醒へと浮上していくのが自覚できた。
 夢が終る、この馬鹿がいなくなる。
 それが分かったからこそ、抵抗するように必死になって司狼に向かって手を伸ばす。
 意味なんて無い、こんなことをしたところで無駄であることくらいは分かっていたが。
 それでも……女々しい自己満足だと思われようが、それでも俺は――

 しかし夢から覚め、司狼の姿が途切れるその瞬間まで、結局一弥の伸ばした腕を司狼が掴むことはなかった。



 事件から一ヶ月近くが経過した。

「よぉ、随分と元気そうになってきたじゃないか」

 蓮の入院しているこの本城総合病院へと彼を見舞いに訪ねるようになってこれで何度目か、入院当初から比べてみれば驚異的と言ってもいいような回復力で段々とだが蓮の容態も回復しかけていた。

「……あれ、香純の奴は来てないのか?」

 相部屋の病人仲間からはすっかり勘違いされて冷やかされるようになった世話女房の幼馴染みが居ないというのは訪ねてきた一弥にとっても少し驚きだった。
 彼が蓮を訪ねて来た時には大抵付属物のように先に来て蓮のベッドの傍で椅子にでも座っていたのだが今日はその姿を見かけない。

「あいつならトイレに行ってるよ。それに別に四六時中張り付かれてるわけでもないし」

 ベッドに横になった包帯姿の蓮の言葉にさいですかと一弥は頷きながら、傍らの椅子を引いて遠慮なく座る。

「経過はどうだ?」
「……見ての通り。大分良くはなってるけど、それでも後一ヶ月は入院生活確定かな」
「……いや、あれだけの怪我で全治二ヶ月って、おまえ本当に人間かよ」

 蓮の言ってくる言葉に、それこそ一弥は驚きながら呆れたように溜め息を吐いてそう言葉を返す。
 驚異的と言ってもいい回復を見せているとは聞かされていたが、これ程とは正直驚きだった。

 左頬骨及び、上顎骨、下顎骨骨折。右眼底骨骨折。鼻骨骨折。左鎖骨完全骨折。左上腕骨、及び左中手骨不完全骨折。
 右肩脱臼。右尺骨、中手骨及び手根骨完全骨折。右肋骨三番四番不完全骨折及び、五番六番複雑骨折。左肋骨四番五番六番完全骨折及び、七番八番複雑骨折。
 右大腿骨不完全骨折。右脛骨、左腓骨及び、両中足骨完全骨折。その他、捻挫、打撲、擦過傷及び裂傷、全身合わせて四十八箇所。

「……ダンプカーと喧嘩でもせんと普通ここまではならんだろ」

 明らかにステゴロの喧嘩で負うには限度の超えすぎた負傷だった。
 因みにあの馬鹿野郎もこれと同等の傷を負っていたはずなのだが、手術後三日と経たぬうちに姿を眩ましてしまったのでどうなったかは分からない。
 恐らくは脱走した理由は医者嫌いのあいつのことだ、見ず知らずの他人に自分の体を如何こうされたくなかったとか、そんな下らない理由に違いない。
 それこそ、どこぞでもうのたれ死んでいるのではなかろうかとも思わないわけではないのだが……やはり、それを否定したいという思いもあった。

「……いや、正直な話、あの馬鹿が死んでるところを想像できないだけか」

 ポツリと漏らした一弥の言葉を聞き拾ったのだろう、蓮が怪訝な顔つきでこちらを見てくるが何でもないと首を振る。
 ……もうよそう。あの馬鹿のことを考えてたって仕方のないことだ。
 そう割り切って軽く頭を振りながら、見舞いの品として買ってきたフルーツの詰め合わせからリンゴを取り出し丸齧りを始める。

「……おい、それ俺の見舞いの品だろ」
「俺が自腹で買ってきたんだから、一つくらい喰ったところで別に良いだろうが」

 どうせ全部喰いきれるほどの体力だって戻ってないだろうし、と半眼で呆れる蓮の視線も気にせずにリンゴの咀嚼を一弥は続ける。
 喰うかとついでにバナナを差し出し尋ねてみるも食欲がないと蓮はそれに首を振って返すだけだった。
 会話らしい会話をすることもなく、ただ淡々と無為とも思える時間が病室内で経過していく。
 元々ベタベタと馴れ合うようなことを好む人種ではどちらもない。一緒に居ても会話もせずに互いに好き勝手なことをしているというのは司狼を含めて今までだって彼らが取ってきた時間の共有方法でもある。
 沈黙は美徳、古い価値観だが一弥はその考え方が嫌いでもない。蓮も話しかけてこられても応対するのに疲れるのだろう、黙って好き勝手しているこちらを放っておいてボーっとした表情のまま窓の外を眺めていた。
 リンゴと幾つかの果実を食し終え、香純が差し入れと持ち込んできていた成年用グラビア雑誌を拝借してページを捲っていたその時だった。

「――あれ、一弥も来てたんだ?」

 不意に聞こえてきた聞きなれたその声に視線を雑誌のページから声が聞こえてきた方向……病室の入り口にヘと向ける。
 そこに立っていたのは彼らが通う月乃澤学園の制服を着て、特徴的なアホ毛(本人の前でそう言うと怒る)を一本伸ばした……まぁ充分に可愛いと評されても問題ない顔立ちをした同年代の少女。
 綾瀬香純……自分たち幼馴染みカルテットの紅一点であり、最も騒がしい人物でもある。

「……いや、一応最も常識人ではあるんだろうけど」
「ん、何か言った?」

 再びポツリと漏らす独り言に反応したのか首を傾げる香純に一弥は何でもないと首を振る。
 先の認識の通り、一弥も含めて蓮も司狼も常識人かと問われれば首を傾げられるだろう。自覚はあるし、ご同類を見ていればそれもつくづく実感できるので文句を言う心算は無い。
 ……まぁ、それでも普通をだからこそ愛していたいのだが。
 そんなどうでもいい思考を振り払いながら、一弥は立ち上がって近付いてきた香純に席を譲ってやった。

「じゃあ、そろそろ俺は帰るわ。観たいテレビの再放送があるし」
「もう帰っちゃうの? 折角、久しぶりに顔出したんだしもっとゆっくりしていったら」

 立ち上がり帰ると告げた一弥の言葉に香純はどこか残念そうにそんなことを言ってくる。
 ……いや、折角だからおまえら二人っきりにしてやろうと気を遣ってるんだよ、等とは思っていても当然口にはしない。
 自分が居たところでお邪魔虫なだけ、蓮も一々二人も相手にするのは疲れるだろう。

「元々、ちゃんと生きてるかどうか確認に来ただけだしな。……ああ、それとその果物の詰め合わせ、ちゃんとそいつに喰わせといてくれよ。高かったんだし」

 尤も、あれは香純に蓮の看病で「はい、あーんして」等のお約束のラブコメを進行させてやるための小道具として買ってきたものだ。
 精々良い機会なのだから有効活用してくれれば自腹を切った甲斐もあると一弥は思ってもいた。
 あの一件以降、蓮の前ではどうしているのかは知らないが、香純が深く落ち込んでいるのを一弥は知っていた。
 献身的に蓮の看病をすることで余計な事を考えないようにしようともしているのだろう。その健気さには正直脱帽ものだが、だからこそ長い付き合いでもある以上出来るだけ彼女のことは応援し、報われてもいいじゃなかろうかとは思ってもいた。

“おまえ、完璧にギャルゲで言う親友ポジションだな”

 以前からそんな立ち位置ではあったのは自分でも自覚していた。
 だからこそ、何時の事だったか急に司狼が揶揄するようにそんなことを言ってきたのを思い出した。
 ……うるせえよ、別に自分でも構わないって思ってるんだからどうでもいいだろ。

“別にそれでどうとか言う心算は無いがな、引き立て役の脇に徹して、そんな人生でテメエの人生に主役らしい活躍がこの先に待ってるのか?”

 そんなことで人生、芯から楽しむことが出来んのかよ。
 あの時、からかいを込めてあいつはそう言っているのかとも思っていたのだが、今にして思えばあれは一弥に対して司狼が抱いていた不満や苛立ちだったのかもしれない。
 ……いや、あいつのことだから恐らくそうなんだろうとは思う。とことん自分が主役でなければ我慢ならないような我の強い奴ではあったし。
 司狼から見れば自分もさぞ煮え切らない奴とでも見えていたんだろうなと一弥は思い直した。
 ……まぁ、別にいいさ。そう思い直して首を振り、最後にもう一度二人に別れを告げながら病室を出て行く。

「煮え切らないなら、煮え切らないなりの味だってきっとあるさ」

 別に悔し紛れと言う訳でもない。
 けれど気がつけば、誰に向けて告げていたのかそんな本音をポツリと漏らしている事に漸く一弥は気づいていた。


 時間が止まればいいと思っていた幸せだった日常の崩壊から一ヶ月。
 冬に突入した自分たちの季節はのっけから最悪の方向に転がっていることを今になって一弥は漸くに自覚し始めてもいた。
 そしてそれと同時、まだまだこれから先、最悪なことがこの冬には続けて起きそうだという嫌な予感も同時にあった。
 それは本当に救いようもないような破滅的で、悲劇的な……
 そんな災いの到来を彼は朧気ながら感じずにはいられなかった。

 そして最悪なことに、沢原一弥の嫌な予感というのはこういう時にだけよく当たるのだ。
 そう……本当に、まるで今までに何度もそう繰り返してきたかのように――



ChapterⅠ L'enfant de la punition




[8778] ChapterⅠ-2
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 22:50
 あれから更に時間は流れ、そろそろ藤井蓮の退院が近付いていた。
 退院祝いにでも何か買ってやるか……そんなことも殊勝に考えていた沢原一弥であったが手持ちの金の少なさを改めて自覚し、それも十秒で断念する。
 まぁ元々向こうにしてもそんな祝いや何やらといった類の概念を好む傾向でもない。
 退院おめでとう、とでも口頭で伝える程度でも充分だろうと判断する。安い友情だが述べて儚く金が無ければそれもまた致し方ないものである。
 それに香純や玲愛ならば退院祝いと言えば何かやるだろうと思うから、そちらに任せたほうが適任だとも言えるだろう。野郎よりも女の子に祝われた方が嬉しいのは当たり前、適材適所、世の中の真理である。

「……にしても、もうあれから二ヶ月か」

 暦の上では十二月……師走といわれる年末の慌ただしい月へと突入しようとしている。
 時が経つのは本当に早いものだ。時間が止まることなどありえないのだから当然のことではあるのだが、やはり無常だとも思わないわけではない。
 変わることが悪いと言う心算は無い、変化が無い世界などツマラナイだけだし、停滞して成長が止まった時点で生物というものの価値は失われる、そんな風に言われる言い分だって否定しようとも思わない。
 ……けれど、やはり変わって欲しくは無い。変わらないでいて欲しいと願うことがあったとしても、それは許されないことなのだろうか。罪なのだろうか。

「まぁ……それこそ、こういうのを未練がましいって言うんだろうな」

 そんな自覚くらいは有る、そんな呟きを漏らしながら一弥は主無き遊佐司狼の部屋の中で一人立ち竦む。
 無断侵入なのだが知ったことか、そもそも二度と戻ってくる心算は無いであろう人物の部屋なのに、律儀に掃除をしてやっているのだから文句を言われる筋合いも無い。
 そんなことを言い訳にしながら一弥は元親友兼幼馴染みだった男の部屋を掃除とは名ばかりに物色していた。
 ヘソクリでも隠していようものなら腹いせにパクってやろうとか邪な考えもあったりしたのだが生憎とやはりそんなものはありはしなかった。……まぁ最初から期待もしていないが。
 そもそも自分はなんでこんな馬鹿野郎の部屋を掃除してやっているのか……理由は簡単だ。香純に手伝えと頼まれたからだ。
 どちらかと言えば無精な性格の一弥は進んで掃除等を行うことは余りない。それが自分の部屋ではなく他人の部屋ともなれば更に尚更だ。
 だというのにそれにも関わらず何故あの馬鹿野郎の部屋を頼まれたからとはいえ掃除をしているのか、これは香純を放っておけなかったというのが最大の理由だ。
 この二ヶ月近くの間、香純は律儀に何度か蓮と司狼の部屋を掃除していたのは知っていた。世話焼き女房気質で一応はしっかりものだ、主たちが帰って来た時に部屋が綺麗でなければ色々と問題もあるだろうとも考えていたのだろう。
 馬鹿ではあるが昔からその辺りはしっかりと気を配れる娘ではある。だから香純が自ら望んで自主的にそういったことをしていたとしても別段おかしくはないし、好きにやれば良いとも思っていた。
 ただ流石に蓮の見舞いや世話なんかで色々と疲れているであろう最中で、男の部屋を二つも掃除しているという大変手間のかかる姿を見ているのも忍びない。
 あの当初の落ち込み具合や、今だって消えてしまい帰ってこない司狼のことで思うことだって色々とあるはずだ。
 香純を支える……そんな大それた手間のかかかる、しかも配役違いのことをやろうなどとは自分でも思っていない。けれどやはり幼馴染みの誼で手伝えることくらいは手伝ってやろうとも考えていた。
 だからこそ、掃除くらいならば別に問題ないかとも思い手を貸していたのだが……。

「……でもやっぱ腹立つよなぁ。どうして俺があの馬鹿の部屋の掃除をしてやらなきゃならんのか」

 今更言うには遅すぎるみっともない愚痴だとは自覚していたが、掃除機を掛けている最中に眉間に皺を寄せた不機嫌な表情も顕にしながらそんな呟きを一弥は漏らしてしまっていた。
 何度かこれまで香純が掃除をしてくれていたからだろう、司狼の部屋のくせに主不在のままな為か驚くほどに散らかっても汚れてもいない。
 故に本格的な大掃除を実行に移す必要も無く、掃除機を掛けたり窓を雑巾で拭いたりその程度の事をしていれば事足りるのが救いと言えば救いだった。
 大した時間をかける必要も無く、掃除自体は不満を漏らしながらもきっちりと終らすことができた。
 壁越しに聞こえてくる音から判断するところ、どうやら蓮の部屋を掃除している香純はまだ作業を続行中のようだ。意外にも凝り性なのか、それとも愛のなせる業なのかは知らないが、どうやら彼女の方は本格的な大掃除染みた作業へと突入しているようであった。
 手伝いに行った方が良いのだろうか、そう考えなかったわけではないが行っても邪魔になるだけかと判断し、此処でおとなしく暇を潰しておくことにした。
 とは言っても、暇潰し=司狼の部屋の物色となるのだが、それとて一弥の趣味に合った目ぼしい物が見つかるわけでもなかった。
 元々雑多なものを持ち込んでは放置という訳の分からない思考をしていた男でもある。とりあえず興味を持ったものを手に入れて、興味が無くなれば見向きもしないなどと言う実に清々しいまでの消費者気質を持っていた男の所有物の数々だ。何でこんなものが有るんだと首を傾げたくなるようなものまで幾つかあった。
 それでもだからといって目を惹かれる、興味を抱けるという物が数多くあったわけでもない。結局、一弥が発掘したのはバイク雑誌数冊とデスメタルのCD程度のものだった。
 ヘッドホンを耳につけオーディオプレイヤーにCDを入れる。耳に流れてくるのはタイトル通りにノリの激しくけたたましい、そして冒涜的とも言えるような過激な歌詞をシャウトするデスメタル。
 あまり一弥の趣味に合ったものではなかったし、ヘッドホンで聞くには喧しすぎる類の音楽ではあるが贅沢を言っていても仕方が無い。他のを発掘するのも面倒だ。
 とりあえずベッドに寝転び雑誌を広げ、音楽を聴きながら香純の掃除が終るまでの時間を浪費していく。
 実に生産性の無い時間の無駄遣い、時が止まって欲しいと願っていながら、これは何たる矛盾だろうか、そんな皮肉に気づいたのは掃除が終わりこちらを呼びに来た香純に気づいてからのことだった。



「今日はありがとうね。手伝ってくれて」
「まぁ、暇だったし。別に構いやしないがな」

 そんな言葉を交わし合いながら香純と二人、向かい合って座りながら彼女が淹れてくれたコーヒーを口に含む。
 ほろよい苦さ、やはりコーヒーはブラックに限るななどとどうでもいい思考を展開しながら、随分と綺麗になったものだなと蓮の部屋を見回す。
 掃除が終わりとりあえず二人は皆の溜まり場とも化している掃除を終えたばかりの主不在の藤井蓮の部屋へと戻り休憩タイムへと突入していたのだ。
 香純の労いの言葉に大したことはないと答え直しながら、自分と違い随分と綺麗にした部屋の様子を褒めてみると香純は照れたように喜んでいた。

「やっぱさ、もう直ぐ蓮も帰って来るんだし、ちゃんと綺麗にしとかないとね」

 香純の言葉に一弥もまぁそれもそうかと頷いた。だがあの朴念仁のことだから、これだけ綺麗にしてやってもそれにちゃんと気づくかどうかは少し心配と言えば心配だったが。

「これも愛の成せる業だな」
「ちょ、一弥! ヘンなこと言わないでよね!?」

 ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべながらそれこそからかい混じりに言ってやったその言葉に香純は真っ赤な顔も顕に躍起になって反論してくる。
 その態度こそが返答そのものだろうというのに、まぁそこら辺は可愛い奴だなとは正直に微笑ましく一弥は思っていた。
 ……そう、香純へは一弥もある種の保護者のような愛情があったのは事実だった。
 香純は幸せになっていい、幸せになる権利がある。
 そして自分にはその手伝いをしてやらねばならない理由……否、義務であり責任があった。
 一度彼女から大切なものを奪ってしまった当事者としての責任が。

(……司狼、てめえだって同じだったはずなのによくもていよく逃げてくれやがったな)

 それを考えれば腸が煮えくり返るような苛立ちも湧き上がってくる。責任放棄で勝手に逃げ出したその部分だけは一弥にはどうしても許せそうになかった。
 だが香純を目の前にそんな顔をしているわけにもいかない。それは充分に分かっていたからこそ無理矢理にでもそれを押さえ込む。
 話題を変えた方がいい。自分で振っておきながら何と無様な失態かと情けなく思わないわけでもないが、こんな内心を彼女の前で維持し続けておくのは流石に拙い。
 そう思ったからこそ、一弥は話題を別のどうでもいいような適当な雑談へと変えていく。弁論の立つ方では無い故に話題の転換を無理に変えるのは苦労したがそれも何とかなった。
 兎に角、何でもない適当なことへと話題を変えてそちらに意識を向ける。学校のこと、部活のこと、そしてどうでもいい世の中の出来事。
 そんなことを話し合って一時間近くが経った頃、コーヒーもとっくに飲み終えそろそろお暇かと話の最中にも脳裏で機を測っていたその時だった。

「……もう直ぐ蓮は帰ってくるけど、司狼はどうしちゃったんだろうね」

 不意に、いきなりポツリと香純が言ってきたその言葉に一弥も浮かべていた笑みをピタリと固めてしまっていた。
 遊佐司狼があの騒動の後に姿を消して二ヶ月近く、考えてみれば確かに本当に彼が何処で何をしているのだろうかとは心配に思わないわけでもない。
 学園には既に退学届けを提出していたというのは知っていたが、それ以降に彼の消息を掴む情報が得られたわけでもない。
 それに自分でもあの部屋を掃除しておいて何であるが、既にもう司狼があの部屋へは二度と戻ってくる気が無いことは……即ち、自分たちの前にもう姿を表すつもりが無いことは朧気ながらも理解はしていた。

 自分たちとは切れる。
 あの日、あの屋上であいつは自分たちへとはっきりとそう告げ、あんなことまで本気で実行に移したのだ。
 一度こうと決めたことはやり遂げる、そんな融通の利かぬ頑固さ、逃げる事を良しとしない意志の強さ、捻じ曲がる事を認めない負けず嫌いの塊のような男だった。
 遊佐司狼という男の本質を理解していればしているほど、沢原一弥もまた彼が選んだこの結果ゆえに後はどうなるかくらいは分からなかったわけではない。
 それは蓮も恐らくは同じだろう。いや、彼の方が自分以上によく司狼のことは理解しているのかもしれない。

「……蓮にもさ、司狼のことは訊いても何も答えてくれないし」

 香純の言ってくる言葉にそれもそうだろうなと一弥は納得もしていた。
 やはり蓮も理解してしまっている。司狼がもう戻ってはこないということは。
 そしてだからこそ、蓮はそれを受け入れてしまったのだろう。未練も何もかもに決着をつけてしまっている。あいつとは切れた、道は違えたのだと納得してしまったのだろう。
 妙なところで律儀で潔い奴なだけに……いや、そうだからこそそうしないと日常に戻ってこれないとでも考えているのではないだろうか。

 やはり蓮と自分は似ているようで決定的に違うなと一弥は思った。
 彼には物事を受け入れられる、納得し、決着を付けられる、見切りと諦めをつける時にはつけられる強さがある。
 だが一弥にはそれがない。表面的には納得した素振り、受け入れた振りは見せるものの、やはり女々しい未練を捨てきれない。浅ましく、みっともないまでにしがみ付きたいと願ってしまう。
 それは致命的なまでの弱さだろうとも思った。

「……それでも、そんな強さなら俺は欲しくねえよ」
「え? 何か言った?」

 ポツリとみっともなく漏らしてしまった独り言に香純が驚いたようにこちらを見ながら聞き返してくる。
 最近こんなパターンが多くなったと苦笑を濃くしながら、何でもないと首を振って誤魔化した。

 兎に角、香純はまだ司狼が戻ってきてくれる事を願っている。それは一弥もまた共通する思い……否、願いだ。
 あんな奴でも……否、あんな奴だからこそ自分たちの日常という幸福には必要な奴だったのだ。

「……選択肢の総当りをやるんだとさ」

 こちらが突然言ってきた言葉の意味が分からないと言った様子で首を傾げる香純へと一弥は言葉を続ける。

「とりあえず何でもかんでもやろうと決めた事をやってみる事にするんだって、あの馬鹿は言ってた。多分、今はその選択肢の総当りの真っ最中なんじゃないのか」

 どちらにしろ迷惑な話であり、きっと碌なことはやっていないだろう。
 下手をすれば……下手をしなくても手っ取り早い犯罪などに手を染めている可能性だって高いだろう。
 妙なカリスマ性みたいなものもあるし、あれで腕っ節だけは強い、しかも馬鹿そうに見えて頭も切れるという性質の悪さ。
 身近に存在しすぎていたせいで忘れていたが、遊佐司狼という男はそのベクトルの方向性はどうであれ、所謂一種の『天才』などと呼ばれる人種だ。
 神様もあんな性質の悪い奴に余計な才能を持たせて悪趣味としか言いようが無いが、だがそれだけにあいつらなら今頃それこそ不良連中でも纏め上げてその頭になっていたとしても可笑しくはない。
 自分たちと過ごしていた時とは無縁だった刺激という快楽に酔いしれているのだとしても或いは納得は出来よう。
 だが……

「……まぁ、あいつの飽きっぽい性格は知ってるだろ。その内、その選択肢の総当りとやらをやり尽くしたら、もしくはそれこそそれにも途中で飽きてひょっこり戻ってくるかもしれないぜ」

 無論、恐らくはその望みが限りなく薄いだろう事くらいは言っている当人にも分かっていた。
 そしてそれは聞いている香純だって或いはそう思ってもいたのだろう。
 しかしそれでも、それを願いたいと思っていたのはどちらにとっても事実。

「……うん。そう、だよね。……あいつも、その内きっと戻ってくるよね」
「ああ、文句は戻ってきた時に溜めに溜めた分をぶちまけてやればそれでいいさ」

 どちらにとっても、これは恐らくは諦めを抱ききれない故に、みっともなくしがみ付いたままでいたいが故に、そうしていることを許して欲しいと互いに思わせるための傷の舐め合いにも等しい浅ましい行為だ。
 だがそれが分かりきっていたからと言っても、やはり納得が出来るものでもなかった。
 ……そう、納得なんてしたくなかった。
 煮え切らない、本当に煮え切らない情けなさだと沢原一弥は自分でも深く思っていた。思い続けていた。





 何もかもを知ってしまっているということほど地獄に思えることは無い。
 既知感。
 忌まわしきこの呪いに捕らわれ幾星霜の時を過ごしたか。
 どのような美酒を飲もうと。
 どのような芳香を嗅ごうと。
 どのような音楽を聴こうと。
 どのような美女を抱こうと。
 既にそれらは知っている範疇。経験の中に存在する過ぎ去った残滓に過ぎない。
 これ程の皮肉、これ程の屈辱、これ程の苦痛が他にあろうか。

 人は未知を体験せずして生きられない。

 それもそうだろう。
 繰り返すということがいかに苦痛であることか。
 それは幼年期から大人へと成長していくに従って尚更に強まっていく。
 何故なら人の人生の意義とは、未知を知りそれを既知へと変えていく作業こそが本質であるべきなのだから。
 だというのに未知を知らず、知っていることばかりの世界でどうして生きているなどと言えるだろう。
 どうして己が本当に存在していることを実感できるのか。

 生きてはいないのだから死ぬことも出来ない。
 始まりが用意されていない以上、終わりを迎えることすらも出来ない。
 地獄……ああ、地獄だ。これ程の地獄は他に存在しないだろう。

 そして私の主はまさに言ってみればそれの究極的立場に居た。

 至高であり、永劫であり、そして超越的存在たる我が師。
 稀代の賢人、空前にして絶後の魔術師、世界の真理に最も近いとされた者。
 ヘルメス・トリスメギストス。

 私はあなたと出会い、あなたの叡智に触れ、あなたに救われ、あなたに心酔した。
 私の全てはあなたの為にあり、あなたに捧げ、恐れ多くもその一助の欠片となれることだけを望んでいる。
 だがそれも結局は叶わぬ夢、分不相応な不可能な願い。不可侵の聖域へと踏み込もうとする冒涜的行いに過ぎない。
 あなたは私を笑うのだろう。愚かにも大空と太陽に魅せられ、それに近付こうと無謀にも目指し大地へと堕ちたかのイカロスと同じように。
 おこがましい願いを抱く、身の程知らずたるこのあなたの愚かな従僕を。

 ああ、しかし我が師、我が主よ。
 あなたは至高、あなたは永劫、あなたは全知。
 だがそれ故に、あなたは憐れだ。とても悲しい、とても救われない、そんな存在だ。
 何もかもが既知の世界で、私などでは及びもつかぬ想像もできぬほどの苦悩の中で生きている……否、生きているということすら証明できないあなた。
 私はあなたを敬い、讃え、そして忠誠を誓い、全てを捧げてあなたに尽くす。
 けれど、そうしたところであなたの救いにはならない。あなたはかつて私を救ってくれたというのに、あなたを私が救うことが出来ない。
 何たる不公平、何たる理不尽、そして何たる悲劇で喜劇で、そして茶番劇であることか。
 主、我が主、ヘルメス・トリスメギストスよ。
 私が生涯で唯一、敬い、尊い、そして全てを捧げ、憎んだ我が恩人にして仇敵よ。
 私はあなたを救いたい、あなたをその苦悩から解放したい。
 忌まわしき既知感、永劫回帰の環たるこのゲットー。
 あなたを捕らえ、あなたを縛り、あなたを苦しめている原因がこれだというのなら。
 私はこれらを許さない。未来永劫、どれ程の時と犠牲を払おうが、必ずや破壊してみせよう。
 ――あなたの為に。

 だから私はあなたの下僕、あなたの人形、あなたのオペラを進行させる狂言回し。
 あなたが脚本を描き、特等席から見物するこのオペラを私は必ずあなたへと成功という結果と共に捧げてみせる。
 それが敬愛するあなたへと私が唯一に行える恩返しであり、復讐なのだから。
 だから主よ、どうかそこから見ていて頂きたい。
 我が忠誠と名誉にかけて、私が彼らと共に見事に踊るその様を。
 我らが悲願が成就へと至るその時――怒りの日まで。

 何度でも何度でも、百億回まで繰り返そうとも。
 未だ捕らわれているこの牢獄より、あなたを解放する為に――。



「そしてだからこそマルグリット、麗しき断頭台の姫君よ。あなたという存在に改めて感謝の念を捧げさせてもらいたい」

 仰々しいとも言えるほどの最上級の礼節に則った振る舞い、貴人へと頭を下げて跪くかのようなその姿。
 ヨシュア・ヘンドリック=アルベルトゥス・マグヌスが行っているのは、まさに先程彼自身が言った言葉通りのその行為。
 諏訪原市の市街の外れに当たる場所に存在する博物館。草木も眠る丑三つ時、静まり返った深夜の館内にて行われているその光景。
 黒衣を纏った男が展示品たる断頭台へと向かって跪くその奇異なる姿。恐らくは、何も知らぬ第三者がこれを目撃したのならば、さぞ新たなる怪談のネタともなっていたことだろう。
 だが生憎と静まり返る館内にはこの男以外に人は居らず、明日の朝日が昇るまで誰かがこの場に現れることもありはしない。
 既に人払いは済ませている。主と同様に崇拝し、感謝の念を抱く存在、恩人とも呼べる“彼女”との対面に無粋な闖入者の発生など決して許されるものではない。

「あなたという存在の発見が我が主にとってどれ程の救いとなったことか。あなたがいたからこそ我が主は絶望に染まりきることもなく在り続ける事が出来た」

 それが自分ではなかったことに残念と思う気持ちは無論ある。が、それは主が唯一畏敬を抱き盟友と定めたかの黄金の獣との友情と同様におこがましくも己がごとき従僕が嫉妬を抱いてよいものではない。
 分を弁え、忠誠を誓っているからこそ、主が敬うものには下僕たる己もまた同様……否、それ以上の礼節を示すことは責務でもあるとヨシュアは思っていた。

 思い出すのはかの十八世紀。
 あの日、あの時、あの瞬間、あの地にて。
 主が打ちのめされるほどに魅せられ、心奪われ、彼女を見初めたあの瞬間。
 全てはあれから始まった。かの出会い、かの敗北こそが自分たちにとっての真実のスタート地点でもあったのだ。
 究極の異端、二つとない呪われし至高の存在、人類最美にして最悪の魂。
 忌まわしき永劫回帰の環より唯一人だけ外れた特異点。

「主はあなたを救う事を望まれておられる。それは同時に私の望みでもある。故にマルグリット、あなたとあなたの番い……ツァラトゥストラが主賓で主役のこのオペラ。主があなたとかの黄金の獣の為だけに脚本を取られたこの恐怖劇(グランギニョル)。私は主に命じられた舞台装置として、必ずこれを成功させることを誓いましょう」

 それこそがあなたへと捧げるべき恩返し。
 その為の半世紀の雌伏であり、研鑽であり、準備だったのだ。
 この忌まわしき永劫回帰の環を超える為に、怒りの日の成就の為だけに全てを捧げて今日まであり続けた。

「間もなくあなたにお目に掛けよう。主があなたの為だけに用意して、作り上げた、至高の首飾りを。呪われたあなたに愛を与える為だけに存在する番いを」

 あなたを愛し、あなたを穢す、あなただけの所有物。
 主と黄金の獣、そして己の悲願を叶える為に存在する捧げられし贄、救世主(メシア)を。
 もう直ぐ、そうもう直ぐ必ず逢わせてみせる。
 そしてそこから始まるのだ。二人の運命の出会いこそ、怒りの日への始まりの瞬間。

 そしてその始まりから幕を開ける恐怖劇こそ、彼が全てを費やしてでも必ずに成功させる使命を背負った至上命題。
 ヨシュア・ヘンドリックが至高の観客たるメルクリウスへと披露するオペラ。
 忌まわしき永劫回帰の環を破壊し、超える為に行わねばならない大儀式。
 それに成功を示すことでこそ、我が名誉たる忠誠は証明されるのだから。

「観ていてください、我が主。あなたの忠実なる下僕は、必ずやあなたの描いたこのオペラを最高の形であなたへと提供してご覧に入れます」

 くつくつと喉を震わせ笑いながら、魔人は言葉にならぬ言葉を持って開幕を告げる。

 ――さぁ、恐怖劇(グランギニョル)の始まりだ。








 都合、凡そ二ヶ月。
 暦が丁度今年の最終月たる十二月へと突入したその日。
 彼――藤井蓮は長い入院生活から漸くに退院することとなった。
 あの親友との決定的訣別と化した血みどろの喧嘩より二ヶ月。
 当初は本当に死ぬ……いいや、別に死んでも良いとすら思っていたものだが、皮肉なことにも無事に生き延びてしまった。
 無論、救急車を呼んで助けてくれた一弥や玲愛には感謝してるし、入院中には香純にもまた確かに世話になったとは思っていた。
 しかしあれだけ、凡そ自分でも思う限り一生分に値するような分まで暴れまわった為であろうか。暫くは何もやる気が起きず、世間のことも上の空。
 自分自身のことすらどうでもいい……まさにそんなよろしくない精神状態だったにも関わらず、身体の方は医者が驚くほどの回復力を見せたのだから皮肉なものだ。
 ……そう言えば、一弥もまた同じように呆れていたか。
 まぁ、それ自体はどうでもいい。
 本音を言えばまだもう少しくらい入院生活を続けていたかったのだが、全快した奴を遊ばせておくベッドの余裕は無いらしく、治ったのなら速やかに退院しろと放り出されることになってしまった。
 実に残念だったのだが仕方ない。自分が此処に居るせいで不利益を被る人が出るというのも寝覚めが悪いし困る。故に仕方ないので退院通知を受け入れて、速やかに退院することを蓮は受け入れた。

 自分の事情はどうであれ、地球は周り、時間は流れ続けている。
 終ったことは、もう戻らない。
 ……それがたとえ、どのようなものであろうと例外は無い。
 この二ヶ月にも及ぶ入院生活で、蓮が唯一と言ってもいい悟り、受け入れた真実がそれだった。
 今は前向きに、今後のことだけを考えて……。
 やれるやれないは別としても、必要に迫られているという事実は認めなければならない。
 そうでないと話にならない、前に進めない。
 故に、気を取り直して新たなる再スタートを退院と共に藤井蓮は決意し、歩き出した。




 秋が終わり冬がやって来た。
 浦島太郎の退院日が今日であることを改めて思い返しながら、沢原一弥は今頃あの二人はどうしているだろうかと屋上のベンチに寝転がりながら考えていた。
 因みに今日は先日司狼の部屋からパクってきたデスメタルをMDに収めたプレイヤーを持参し、イヤホンを耳につけながらけたたましい音楽に身を委ねている最中でもあった。
 やはり相変わらず好きになれそうにない音楽だ。そんなことを改めて思っているというのにどうしてそんなものを持参して聴いているのか。
 理由は簡単だった。他に現状で聴こうとも思っているものがない為だ。文句をつけながらも惰性で聴き続けている自分のような奴はさぞ鬱陶しくみっともない奴なのだろうとは自覚していた。

「珍しいね、沢原君の方が先に来てるなんて」

 大音量の音楽に紛れ、抑揚の低いその声は聞き流されそうになりかけるものの、聴き拾うことは出来ていたのでイヤホンを外しながら寝転がっていた頭を上げる。

「こんにちは、先輩」

 そう言いながら寝転がっていたベンチより起き、横にずれて座り直す。
 隣に遠慮する様子も無く当然のように玲愛が座り、早速昼食のサンドイッチを食べ始めるもののまぁこれも見慣れたいつもの光景だ。気にする必要は無い。
 一弥もまた購買で買っておいたパンを取り出すと共に封を切って噛り付く。カレーパンの適度な辛さが舌を刺激し心地良い。

「……ん? 何すか、こっちジロジロ見て?」

 もしかして惚れました、などといつかの冗談を返すように言ってみようかとも一瞬思いはしたもののどうせ上手を行かれて逆にからかわれるのは目に見えていたのでやめておくことにした。賢明な判断をしたのだと自分でも思っておくことにする。
 だがよくよく見てみれば、彼女が見ているのは自分ではなく自分が食べているカレーパンであることに一弥は気づいた。
 何故、玲愛はこうもカレーパンを凝視しているのか……まさか食べたいのだろうか?
 そんな疑問を抱いていたその時だった。

「沢原君、お昼はそのカレーパンだけ?」

 急に尋ねてくる玲愛の質問の意図が分からず、戸惑いながらも一弥は「……はぁ、まあそうですけど」等と言葉を濁しながら肯定するのみであった。

「駄目だよ、男の子がお昼ご飯をそんなもの一個で済ませようなんて」

 沢山食べないと大きくなれないよ、などといつもの態度のまま母親のような事を言ってくるのに一弥は更に戸惑った。

「……はぁ、でも食欲もあんまりないんで」
「そんなだから、遊佐君に簡単にのされちゃうんだね」

 自分でも気にしていた事を急に的確に言われグサリと傷ついた。
 古傷を抉るような事を言い出して、この人はサドなのかと思いかけたその時だった。

「はい、コレあげるからちゃんとしっかり食べて大きくなりなさい」

 そう告げて次に玲愛はポケットより新たなサンドイッチを取り出すと共にそれをこちらへと渡してくる。
 為すがままに渡された物をまさか突き返すわけにもいかないので、仕方が無く受け取る。
 ……どうでもいいことだが、毎度毎度のお馴染みたる先輩の制服のポケット。あれにはいったいどれ程の物がどれだけ収納されているのか。某猫型ロボットの四次元ポケットではないが興味は尽きなかった。
 一度さり気なく尋ねたこともあるのだが、

「女の子の秘密に迫るような無粋なことはするものじゃないよ」

 等と窘められ、はぶらかされて誤魔化された。
 いつかその秘密とやらに迫ってみたいものだというのは一弥のここだけの秘密である。

 閑話休題。
 まぁ、それは置いておくとして、しょうがないのでカレーパンを食べ終えた一弥は貰い物たるサンドイッチの封を切り口へと運ぶ。
 咀嚼した瞬間、盛大に顔を歪めて思わず玲愛の方へと一弥は振り向く。

「ちょ、先輩! これ何なんすか!?」
「サンドイッチ。起源はサンドイッチ伯爵がポーカーをしながらもランチを取れるようにという考えから始まった食べ物で――」
「んなこと訊いてるんじゃありませんよ! 俺が訊きたいのはこの挿んである内容物についてです!」

 サンドイッチという食べ物はそもそも何なのか、その起源を語りだす玲愛の言葉を遮って一弥は叫ぶようにそう尋ねて、齧ったサンドイッチの内容物が見えるように玲愛へと突き出していた。

「単なるキムチ梅干サンドじゃない。おかしなこと訊いてくるね、沢原君は」

 平然と何でもないことの様に言ってくる玲愛に、一弥は幽霊でも見たと言わんばかりの表情も顕にしながら、露骨な溜め息を吐く。

「……先輩、どう考えてもこのサンドイッチは内容物が致命的に間違ってますよ」

 まるで狂気の沙汰だ、そう告げてくる一弥の意見にすらしかし玲愛は平然と、

「ウチの購買のサンドイッチって斬新な組み合わせに富んだ物が多くて評判だからね。でも沢原君、こんなのまだまだ初心者用の序の口だよ」

 そんな切り返しをしてくる彼女に、一弥はもういいと疲れたような溜め息を露骨に見せつけながら、諦めたようにしょうがないので喰いかけのサンドの咀嚼を再開する。

「でもですね、俺はこんなフロンティアスピリット溢れる怪奇食料喰うくらいなら、王道でも普通に平凡な食い物を食べたいですよ」
「贅沢だね、沢原君は。食べられる物が有るだけでも幸福なことに気づかないといつか後悔するよ」
「……いや、それは確かに正論ですけど……つーかそもそも先輩が無理矢理押し付けてきたゲテモノじゃないっスか」

 そんなやり取りを続けながら、しかし平穏とも呼べる昼食の時間は過ぎていく。




「それで、今日は確か藤井君が退院してくる日だったね」

 昼食も終わりまったりとした余韻に浸る最中に玲愛が言ってきた言葉に一弥もそうですよと頷いた。

「香純の奴、今日は蓮の迎えに行くんだって学校までサボる気合の入れようですよ」
「恋する乙女は強いって証拠だね」
「いや、まったくです」

 とはいえ蓮もまさか香純が学校をサボってまで迎えに行くなどとは思ってもいないだろうから今頃面食らっているのではなかろうかと予想する。
 というより昨日退院前に見舞いに行き、荷物の片付けとか色々手伝っていた時に言っていたが、香純が迎えに来るまで待っているのはダルいから先に帰る心算でいるようではあった。
 それを予見していたのか、先手を打って奇襲を敢行した香純の方が今回は上手だったという事だろう。
 南無三……それともこの場合はAMENの方が良いのか。兎に角、蓮の方には身に訪れるであろう不幸に同情し、祈っておいてやる事を友情の形とすることに一弥はした。
 まぁしかし一弥の本音を言ってしまえば、この際二人でデートなり何なりしてちょっとはその仲を前進させろと言いたくはあった。

「……これも良い機会ってやつなんじゃないですかね」

 苦笑と共に零す一弥の言葉に玲愛は淡々としたそのいつもの独特とした態度を変える様子も無いままに、

「そうだね。もう遊佐君もいないんだし、少しはあの二人も素直になった方がいいよ」

 唐突にそんなことを言ってきた。
 思わず一弥は見上げていた青空からその視線を玲愛の方へと向け直す。

「……どういう意味っスか?」

 尋ねている言葉、そして彼女を見据えている視線も、普段の彼女相手には考えられないような厳しく不機嫌なものになっていることには気づいていた。
 先輩を相手に失礼、そう自分に言いきかせようとは一弥もしているものの、しかしやはりその態度の険しさを上手く抑えられそうにもない。
 だって先程の言い分、先輩はまるで――

「――まるで遊佐君がいなくなった方が二人の仲の為だ、そう言っているように思ったから?」
「……ええ、失礼ながら」

 堂々と言ってくる玲愛に不機嫌も顕にしながら一弥は頷いた。
 駄目だとは思っていても、どうしても苛立ちは収まってくれない。
 先輩も先輩だ、どうしてそんな事を言ってくるのか。頼むから、俺を不機嫌にさせないでくれ。
 そう内心で願っていた儚い一弥の願いも、しかし玲愛は無情にも切り捨てるようにその言葉を続ける。

「私はいつかはこうなるんじゃないかとは思ってたよ。遊佐君みたいな人種は明らかに君たちみたいな人種とは異なるし、合わない」

 あんたに俺たちと司狼の何が分かる!?
 思わず怒鳴り散らしそうになるその言葉を、しかし何とかギリギリで理性を持って制止する。
 玲愛を相手に怒鳴り散らすような暴言、ましてや八つ当たりのような苛立ちの叩きつけだけは絶対に死んでもやりたくなかった。

「……分かってます。分かってましたよ……先輩に言われるまでもなく、それくらいは」

 けれども思わず彼女から顔を逸らし、悔しげに苛立たしいそんな言葉を漏らさずにはいられなかった。
 そう、玲愛に言われるまでもないのだ。
 自分たち四人の中で、司狼がどれだけ一際異端だったかを。
 そして彼女の言う通り、あいつがああいう性格で変われず、こちらもこちらで譲れないものがある以上は、いつかはあんな形でぶつかり合い道を別つほかにないことくらいは。
 ……分かっていた。ああ、分かっていたさ。
 けれど――

「……それでも、今までは上手くやってこれてたんだ。これからだって、きっと上手くやれたはずなんだって、そう願いたいのも間違いなんですかね」

 誰にだって俺の幸せを否定する権利なんてあるはずないじゃないか、そう怒鳴り散らしたい気分でもあった。
 それ程に、もう二ヶ月も経って蓮だって戻ってくるというのに、未だに一弥はそんな思いを引き摺り続けていた。

「確かに、それが沢原君の願いなら、誰にもソレを否定することは出来ないね。……でもね、沢原君。君がそう思ってるように、遊佐君だってそう思っていたからあんなことをしたんじゃないの?」

 その言葉に一弥はハッとなって俯いていた顔を上げる。
 ……玲愛の指摘したその言葉を改めてあの時の司狼と重ね合わせながら思い直す。


 一弥が一弥の幸せとして、現状の維持……そこに司狼の存在も含まれて成り立っていたように。
 逆に司狼にとっては、それこそがこの上もない苦痛だったのならば。

「……俺が望んだ幸せは……あいつにとっての幸せじゃなかった……」

 当たり前である認識だが、それを改めて一弥は気づいた。
 己の視点、観点からしか見てこなかった、考えてこなかった願望としてではなく。
 ならば司狼の視点、観点から捉えたその光景、抱いた思い。
 ……そして、出した結論。

「……それじゃあ、やっぱり先輩の言葉通り俺達は結局噛み合う筈もなかったってことかよ」

 悔しいし認めたくも無い事実。
 けれど……目を逸らせない、誤魔化すことは許されない真実。
 道は違えるして違えたのだというその提示。

「……蓮の奴、じゃあこれが分かってたから諦めたってことか」
「たぶん、そうなんじゃないのかな」

 ……ああ、みっともない。何だか泣きたくなりそうだ。
 そんなどうしようもない、悲しさが溢れ出てき始めるも、しかし男としてのなけなしの意地がそれを必死に押し留めさせる。
 よりにもよって先輩を前に泣くなど、そんなみっともなくて情けない真似は死んでも出来ない。
 だから耐えた、ただ只管に一弥は耐え続け、そして無理矢理にでも一応この場でくらいは区切りを付ける為に悲しみを押さえ込んだ。
 全てが分かっていたのか、玲愛は何も口出ししてくることもないまま、ただ黙ってそれを待ち続けていてくれた。



[8778] ChapterⅠ-3
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 22:53
「落ち着いた?」
「……ええ、何とか。それに色々とすいませんでした」
「いいよ。私の方も説教臭くなっちゃったから」

 いや、彼女がああ言ってくれたからこそ自分は漸くに気づけたのだ。だからこそあれで良かったと思うことが今の一弥には出来ていた。

「ありがとうございました、先輩」

 初めて先輩らしいことをしてもらった、そんな感謝の念も同時に込めながら一弥は正直な気持ちで礼を述べた。
 別に構わない、そうは言ってくる玲愛であったが、その表情がどことなく照れたように赤い気がするのは気のせいか。

「まぁ兎に角、今は綾瀬さんのデートの成果を期待するだけかな」

 気を取り直したように玲愛が言ってくる言葉に、一弥もそうですねと頷く。
 ただ一弥もまた気を取り直して考え直したが、しかしよくよく考えてみれば問題だって結構ある。

「……でもデートって言っても、あいつらマトモにそんなの行えるだけの金持ってないんじゃないんですかね」

 今更ながらに思い出した当然の問題点、それも目下において無視は出来ない大きな部類のものだ。
 現代日本、それも若者の逢引に先立つものも無しにそれを全うできるなどとは到底思えなかった。
 しかし一弥の抱いたその不安に対し、しかし玲愛は問題ないと首を振りながら告げてきた。

「こんなこともあろうかと、綾瀬さんには博物館の展覧会のチケットを二人分、渡しておいたから」

 それは妙に渋いチョイスではあるものの、しかし気が利いているのも確かである。
 やるな先輩、と一弥も感心したような目で玲愛を見る。どことなく控えめなその胸を張るように誇らしげに彼女が見えるのは気のせいだろうか。
 しかしここで一弥もふとした疑問を抱き、それを思わず彼女へと尋ねていた。

「……ところで先輩、その展覧会って何がメインでやっているんですか?」




 『世界の刀剣博覧会』……聞いた瞬間から嫌なタイトルだとは思っていた。
 だがやはり文字通り、来て見て思った結論は述べて気分が悪いの一言に尽きた。
 藤井蓮は一種の刃物恐怖症だ。金属で作られた物を切断する用途で使用される道具の類……これに気分の悪い嫌悪感を抱かずにはいられないのだ。
 幼少期のとある出来事に端を発するトラウマなのだが、こればかりは未だに治っていないし、これから先も治る見込みがあるかすらも蓮当人にすら分からなかった。
 ……或いは、この無意識にも抱いている罪の意識が消えない限り――いや、一生消えることなどないのだろうが――この恐怖症は治ることはないだろう。
 まぁそれでも別に構わないか、とは蓮自身もまた思っていたことだし、受け入れていたことでもあった。確かに生活面においては包丁も持ってないのだから実生活においては不便であるが、それで別に死ぬわけでもない。
 元より自分たちだけで墓下まで持っていかねばならない秘密でもあるのだから、この不便さくらいは受け入れて折り合いを付けていかなくてはとは思っていた。

「……けど、それとこれは別だろ」

 チケットをくれた先輩に悪気は無い、彼女には教えていないし知らないのだから当然ながら彼女を責めるのはお門違い。
 分かってはいるのだが、それでもこう不満というか、愚痴というか、そんなものを漏らさずにはおられないのが現状の藤井蓮の心境だった。

「見て見て、蓮! あの剣、本当に面白い形してるよね」

 上機嫌で展示品を納めたショーケースの前にて言葉を上げる香純に、蓮は露骨とも言えるおざなりな態度も顕に面倒臭げに答える。

「はいはいそうですね、面白いね」

 丸っきりの棒読みそのもののやる気もテンションも皆無の蓮の態度が不満なのだろう、香純は頬を膨らませる不機嫌な態度も顕にしながらこちらへと近づいてきて怒鳴る。

「ちょっと蓮! 何よその態度は!? 勝手に白けられてたら、一人舞い上がってるあたしが馬鹿みたいじゃない」

 元から馬鹿だろう、とか返したら間違いなく鉄拳が返ってくる事だろう。退院早々に痛い目に合いたいとも思わないし、それは言わないでおいてやるかと蓮は思った。

「……ちょっとあんた、何か失礼なこと思ってない?」
「さてな、気のせいだろ。後、館内じゃ静かにするのがマナーだぞ」

 妙なところで鋭い香純の疑わしげな視線をのらりくらりとかわしながら、とりあえずどうしたものかと蓮は考える。
 本音を言ってしまえば、あまり長居はしたくない。デートだの何だのと、剣道部員ということも相まってか、香純は妙にテンションが高く上機嫌だが、生憎と蓮の方はその対極であったし、そもそも彼女のテンションにも付いていけない。
 洋の東西を問わずに集められ、展示されている古今の刀剣の数々。確かに美術的にも価値もあれば、普段は目に出来ないような珍しい物だって目にできよう。
 だが生憎と刃物が苦手な藤井蓮にとってはむしろこの場は針の筵、お世辞にも気分が高揚するような空間であるはずもないのだ。
 退院早々から精神衛生上よろしくない事態だ。これならもっと退屈な美術品の類を気紛れに観賞する方がまだ実りは有るし精神の安定にも繋がろう。
 そう思っていたからこそ、蓮は溜め息を吐きながら香純へと疲れたように告げた。

「俺ちょっとあっちで休憩しとくわ。おまえは好きに見て回って来いよ、俺はゆっくり待ってるから」

 そう告げて休憩スペースとして設置されているのだろう、会場の隅にあるベンチの方へと歩いていく。
 香純がなにやら言って呼び止めているが、聞こえない振りをする。正直、疲れたというのは本音だ。少し休まねばあいつの相手だって身が保たない。
 やれやれだと何度目になるか分からぬ吐息を吐きながら、蓮は辿り着いたベンチへと腰を下ろす。
 ふとそうして改めて館内を見回すが、やはり当然のことながら平日の館内など客は疎らである。
 しかも若者……自分たちのような年代の学生など殆ど見かけない。まぁ当然と言えば当然なのだろうが。
 やれやれ、何で俺はこんなところに居るのかねと今更ながらにそんなどうしようもない考えを抱き、適当な暇潰しへと思考に埋没しようとしたその時だった。

「――よろしければ、隣に座っても構いませんか?」

 不意に告げられてきた言葉にハッとなり視線を上げる。
 見ればそこに見知らぬ男がこちらを見下ろしながら柔和な笑みを浮かべていた。
 長身痩躯、黒を基調とした服装に、整った鼻梁と、眼鏡の奥に隠された鋭利な視線。男にしては珍しく長い灰色の髪を三つ編みに編んでいるといった髪型。
 ざっと見たところの年齢はまだ若い、多く見積もっても三十を幾ばくか過ぎているかどうかといったところか、下手をすればもっと若いのかもしれない。
 そして流暢な言葉遣いではあるものの、見るからに日本人では無い。外国籍の人種の見分けなど蓮には出来ないが、少なくとも東洋人でないことだけは間違いないだろう。
 美術館に居るには相応しい人種なのか……それはどうなのかは分からないが、それら以前に蓮が男を見て抱いた感覚というのは何ともいえない奇妙なものであった。

 ――懐かしさ。

 何故そのようなものを記憶を掘り返しても明らかに初対面であるはずのこの男に抱いたのかは分からない。
 けれど思わずそんな郷愁にも似た思いを感じ、蓮は数瞬の間それでも呆然と男を見上げている他になかった。

「ん? 私の顔に何か?」

 ジロジロとこちらが凝視している視線に疑問を抱いたのか、男は少し困ったような表情を浮かべながら首を傾げてそんなことを尋ねてくる。
 不躾に相手を見ていたこと、それを慌てて悟った蓮はすいませんと謝罪を告げながら目を逸らし、身をずらして男が座れるスペースを作る。
 ありがとうございます、などと崩さぬ柔和な笑顔と共に告げながら男は蓮の隣へと腰掛ける。
 どうでもいいことだが、ベンチはまだ空いているのがあったし、わざわざこちらの隣に座る必要などあったのだろうかと蓮が疑問を抱いたのはその後のことだった。

「いやそれにしても結構な興味深い展示品の数々ですね。気に入られた展示品などはありましたか?」

 外国人は日本人と比べても気さくであり、コミュニケーションを取ってくることにも躊躇いを抱かないというのは共通の概念なのだろうか。隣に座った男は機嫌もよさそうな声も顕にそんなことを尋ねてくる。
 どちらかといえば奥ゆかしさを美徳とする、古い日本人的価値観……まぁ自分はその中でも極めつけに人付き合い等があまり得意でない人種だが……の蓮にとっては男への対応も正直戸惑ったものであった。
 まさか刃物は苦手で気分が悪いんです、等と言ってしまえばそもそもじゃあ何でこんな場所に居るのかと思われそうなのであれなのだが、しかしお気に入りも何もあったものではなかった。
「……はぁ、まぁ」等と日本人らしい要領の得ない曖昧な言葉濁しで誤魔化そうかとも思っているのだが、男は益々食いついたような視線と表情と口調でこちらへと迫ってくる。

「これだけの逸品の数々、これらを作った名工たちは如何程の努力と研磨を持って己が作品を作り上げたのでしょうね。……正直に申し上げるなら、これらの作品も無論の事ながら私はこれらを生み出した作り手たちの才能そのものこそが愛でるべき芸術なのではないのかとも思っています」

 嬉々とした様子で訊いてもいないそんな価値観を披露してくる相手を蓮はどうしたものだろうかと苦笑いを浮かべながら対応を測りかねていた。
 愛でるべきは芸術品ではなくそれを生み出す芸術家たちの才能……成程、蓮とてその言い分は分からないわけではないが、さりとてだからどうなのかとも思うものに過ぎない。
 自論を語るのは自由だし結構だが、それをこちらに聞かせて何がしたいのか……そもそも何故自分なのだろうかと蓮は辟易していた。
 折角、香純と別れて一休みできるかと思っていたのに新たな変人の登場に蓮はそれこそどうしたものかと困り果てていたその時だった。

「ちょっと蓮! 勝手に何処か行かないでよ!」

 先程館内では静かにしろと言ってやったはずだというのに、それすら忘れたのか聞き慣れたそんな大声と共に近付いてくるもう一人の厄タネ。
 蓮には正直この香純の登場がこの事態をちゃんと改善に導いてくれるという予感をどうしても抱けず、思わず諦めたように溜め息を漏らさずにはいられなかった。
 隣に座り相も変わらずの熱弁を振るい続けていた男も香純の登場には気を取られたのか、

「おや、もしやお連れの方で? これは可愛らしい彼女さんが居るというのに申し訳ありませんでした」

 香純とこちらを見比べながら、そんな超絶に致命的な勘違い発言をしてくる男に、それこそ蓮はやれやれだと否定の仕草として首を振ろうとしたのだが……

「え、彼女だなんて……いえ、そんなことあったりなかったりしますけど……」

 いやんなどと恥かし気に身をくねらせながら満更でもないといった様子で男の言葉に受け答えしているバカスミ。
 ねえよ、と思わず突っ込んでやろうと口を開きかける蓮を無視して何やら意気投合し始める二人の変人ども。
 何かを言おうと口を挟むも無視、清々しいほどに二人だけの会話に突入した変人たちに置いてけぼりにされ蚊帳の外にされた蓮。
 ……最悪だ、やはり色々な意味で最悪だ。
 分かりきっている事実を今更ながらに認めながら、もうどうにでもなれと蓮は二人の会話が終るのをただ黙って待ち続けた。



「……成程、つまりお二人はそちらの……えっと藤井さん? の退院祝いにデートにやって来たと」
「はい、そうなんですよ~。それでヘンドリックさんは今日はどうしてこちらへ?」
「ヨシュアで結構ですよ。私は……まぁ、探していたとある展示品がこちらの博覧会に展示されていると聞き及びましたのでそれを見に来ていたんですよ」

 そんな会話を交わしながら前方を歩いている二人の後に続きながら蓮はやれやれと再びこっそり溜め息を漏らしていた。
 ヨシュア・ヘンドリック……この自分に話しかけてきて香純とすっかり仲良くなった変人はその探していた展示品とやらを見に行く為に館内を移動中であり。
 面白そうだから自分たちも(無論蓮にその気は無かったが拒否権も無かった)一緒に見に行っていいかという香純の提案に相手も是非と受け入れた為に連れ立って行動中というわけである。
 別に蓮は何を見せられようがどうでもいい心算ではあった。どのような類であれ今日この場に展示されている物は例外なく刃物ばかりなのだから、どれを見たところで気分が悪くなるだけである。

「何よ蓮、不貞腐れてないでアンタもこっち来て一緒に喋りなさいよ」

 ヨシュアと共に進んでいた香純が後ろを歩くこちらに振り返りながら、そんな不満そうな言葉も態度と一緒に告げてくる。
 だがどうしろというのか、元々人付き合いは苦手な部類だし、見ず知らずの相手と共に興味も無いことで会話を弾ませるなど……そんな高等技術を藤井蓮に求められても困る。
そもそも振り返ってみても何でこんなに自分たち(特に香純)はこのヨシュアとかいう男と気づけば打ち解けているのか、どうにも振り返ってみてもおかしくはないか。
 そんなことを思いながら、蓮はチラリとその件のヨシュアへと視線を向ける。
 すると瞬時に眼が合ってしまった。何かとでも不思議な様子で首を傾げてくるヨシュアに蓮は目礼を返しながら、何でもないと首を振る。

 ……一体何なんだろうか。先程からこの男を相手に感じているこの正体不明の違和感は。
 郷愁にも似た懐かしさ……ありえるはずもないはずのそんなものを見ず知らずの相手に感じるなど自分はどうかしている。
 とりあえず気のせいだと自身にも言いきかせながら、さて香純の言葉にどう返してやろうかと思っていたその時だった。


「――在りました、これですよ」


 不意に前方を歩いていたヨシュアが立ち止まると共に口を開いて告げたその言葉。
 俯くに近かった視線の蓮はその言葉に視線を上げて前方を見据え――

 ――“それ”を、見た。


 館内の隅、普通にコースを歩いていたらまず誰も見つけられないような死角。
 フロアの構造上、こんな所に展示物が置いてあるとは信じられないようなその場所に“それ”はあった。

「……ギロチン?」

 思わず呟いた蓮の言葉にヨシュアは嬉しそうな笑みを浮かべながら「ええ、そうですよ」と肯定の頷きを示す。
 どうでもいいが見ている物と相まってか、今の彼が浮かべている笑みは先程までの人の良さそうな類の笑みとは別種の……得体の知れない不気味さを感じるものであったが故に思わず背筋がゾッとしてしまっていた。

 ギロチン……つまりは断頭台。罪人の首を刎ねる為に用いられたとされる処刑器具。
 眼前のこの空間の主賓のように鎮座しているソレはまさにそれそのもの……尤も、刃だけは取り外された形で置かれているのだが。
 巨大な刃。他の刀剣の類とは一線を駕する寒々しいまでのシンプルさ。
 何の装飾も外連もなく、ただ首を刎ねる……その一点のみを追求し設計され作成され、そしてその用途にしか役に立たない物。……しかし、その一分野においてならば、他のどんな物よりも特化し、洗練された鋼の塊でもある。

 ……何故こんなものが此処にある?
 それが藤井蓮が抱いた正直な感想でもあった。確かにこれも刃物と言われれば刃物だろう。しかし、明らかに他の展示品と比べても性質が余りにも違いすぎる。少なくともこれは武器でもなければ祭具でもないはずだ。
 明らかに場違いの違和感、異質感……それをこんなにも感じずにはいられないというのに――

 ――だというのに、どうして俺はこんなにもコレから目を離せずに魅せられているのか。


「うわ! 大きい……ってこんなのまで展示されてたんですね。あたし全然気づきませんでした」

 一通り見て回っていたはずの香純であったが、此処が館内でも見つけにくい死角であったのも原因か、初めて見るそのギロチンに驚いたように目を見開きながら言葉を上げていた。

「えーっと、何? ボ、ボイス……?」
「Bois de Justice(ボワ・ド・ジュスティス)――正義の柱という意味のギロチンの正式名称ですよ。因みに、フランス語です」

 展示物の名称が書かれているプレートを読めずに苦労していた香純に、横合いからヨシュアがそんな訂正を入れてくる。
 香純はそれに感心したように成程~などと呑気に頷いている。

「マクシミリアン・ロベスピエールはご存知で?」
「……恐怖政治の?」

 続いて急に訊いてくるその人名に戸惑いながら、けれど確か世界史で習ったはずの有名な人物の名前だということを思い出した香純はその人物のことかと問い直す。
 香純の言葉にヨシュアは満足したようにええと頷きながら続きを答える。

「フランス革命の中心人物の一人にして、自身が敷く恐怖政治の反対派を次々と処刑していった男……これはね、その彼を処刑したギロチンなんですよ」

 皮肉なものですね、そう笑うヨシュアの言葉の意味が分からないわけでは無い。
 確かに数多の人々を断頭台の処刑台へと送り込んだ死刑執行人が、その自身の最期もまた同じようにその断頭台で首を刎ねられたのだというのだから、洒落にもなっていない。

「……何か胡散臭いですね。信憑性は確かなんですか?」

 思わず思っていた本音を嬉々とした表情を浮かべているヨシュアに対して蓮は言ってしまっていた。
 血生臭い逸話を持つ曰く付きの逸品をまるで上機嫌に見上げる男の態度に僅かばかりの不謹慎だとも思う反感もまたあったためだ。
 睨んでいるのに近い蓮の視線を真っ向から受け止めながらも、しかしヨシュアはその相変わらずの態度を決して崩そうとはしなかった。
 これが先程までの人の良さそうだった男と同一人物だろうか……思わずそんなことを思いかけていたその時だった。

「……まぁ、確かに胡散臭いと言われても仕方がありませんね。信憑性云々も此処に書いてあろうと本当にそうなのかは真偽の程は分からない。……ましてやこれは処刑器具ですからね、趣味が合わず気分が悪くなるのも致し方ない」

 フッと笑みを浮かべながら交差していた視線を自らで逸らしたヨシュアは、そんなことを言いながらその視線を眼前のギロチンへと戻す。

「有名な一説ですが、ギロチンとは最も慈悲深い刃だとも言われています。一瞬の苦痛さえ与えず、計算された角度と速度と重さをもって、罪人の首を斜めに絶つ」

 電光石火、刹那の死……成程、言われてみれば確かに慈悲深い。遺体の惨さと大量の出血が凄惨さを印象として与えているが、しかし実際にやられる方からすれば絞首刑に比べれば遙かにマシなのかも知れない。
 ……尤も、

「……ですが、それも斬首された人間が苦痛を感じる暇も無く絶命するという過程の上での話だと思いますけどね」

 ギロチンを見上げるヨシュアの背に蓮は苦々しい皮肉を承知でその言葉を告げる。
 これもまた有名な一説だ。
 ギロチンで殺される人間は本当に苦痛を感じてはいないのかどうか……。
 化学者アントワーヌ・ラヴォアジエが自らが処刑される際に行ったという実験。
 首を刎ねられても自分は生きている間は可能な限り瞬きを続けておく、だからそれが本当に行われているか確認してくれとラヴォアジエは民衆に呼びかけた。
 彼の頼みを受け入れた民衆たちは、ギロチンで首を刎ねられる彼の眼を精一杯に追い続けた。
 そしてその民衆たちは確かに確認したのだという、首を刎ねられてもその数秒間の間、瞬きを続けていたという彼の目を……。

 つまりギロチンで首を刎ねられても、その直後には死んでいないため途方も無い激痛を彼らは感じているのではないのか。
 しかしこれは筋肉の痙攣によるものに過ぎないとされ、斬首の瞬間の血圧の変化に意識は奪われると言われており、意図的な瞬きは不可能というのが通説でもある。

 どちらにしろ真偽の程は定かではない。何せ首を刎ねられればどっちみち死んでしまう以上、痛かったかどうかなど首を刎ねられた当人にも訊き様がないのだ。
 実際、それでも確かめてみたいというのなら実際に首を刎ねられてみるしかない。尤も、それは命を代償に差し出さねばならなくなってしまうが。

「……どちらにしても過程の話ですね。確かに、首を刎ねられてみなければ分からない以上はこの仮定の論議に意味はありませんね」

 ヨシュアが振り返らずに言ってきた言葉に蓮とてこれ以上ムキになって議論しようなどとは思っていなかった以上、そうですねと答えて納得を示しておくことにした。
 別にギロチンの慈悲深さの真偽など、自分にとっては何の関係も無いはずのことだ。

「ですがね藤井さん。私があなたにこれを見せたかったのは、ロベスピエールのような俗物の首を刎ねた真偽云々を目的としてのことじゃない。……この断頭刃はね、もっと重要で奇跡のように呪われた、ある少女の首を刎ねた逸品だったからですよ」

 急にヨシュアが言い出したその言葉に、蓮はいったいどういう意味かと問い直そうと口を開きかけたその瞬間だった。

「そしてその時から“彼女”はこれに宿ってしまった。いや、彼女の魂は元々最初からこのギロチンとあるものだった。生まれながらにこれに祝福されていた宿命として。
だからこそ、あなたと彼女を逢わせる為にはどうしてもコレをあなたと逢わせる必要があったんですよ」

 振り返り変わらぬ笑みを見せながら男が告げる訳の分からない言葉の数々。
 そもそも“彼女”とは誰だ? いや、アンタはいったい何を言って――――



 声……そう、声が聞こえた。
 何処の誰のものなのか、歌うように響く聞いたこともないはずのその声。
 聞かなければよかった。無視すればよかった。
 ……そして、見なかったことにすればよかったんだ。
 反射的にその視線を、こちらを見ている男の後ろ――忌まわしい刃が置かれたその場所へと目を向けさえしなければ……


 ギロチンの前に立つ、浮世離れした異国の少女。
 その口から紡がれているのは、藤井蓮にとって忌詞。
 何故、おまえがそんな事を知っている? そして俺と同じだと?
 白皙の肌に赤い断線。コントラストが目に焼きついて離れない。
 それは珊瑚の首飾りのようでいて、しかし紛うことなき斬首刑の痕であった。

 思えば、これが全ての始まり……




『やぁ、彼女はどうだね――ツァラトゥストラ』




 俺と彼女はこうして“奴ら”に出逢わされた。




「――ん! 蓮! ちょっとしっかりしなさいよ!?」

 耳元で大声で怒鳴れ、そしてガクガクと激しく肩を揺さぶられることで漸く藤井蓮はハッとなってその意識を忘我の彼方から呼び戻された。

「…………香純?」
「ちょっと大丈夫なの? 気分悪いの? 顔真っ青だよ?」

 心配そうにこちらの顔を覗きこむように接近してくる香純に、仰け反って距離を取りながら何でもないと彼女を引き離し頭を振る。
 ……今のはいったい?
 そう心底からの疑問を抱きながら恐る恐る再びギロチンへと視線を向けるも……やはりそこにはもうあの少女はどこにも見当たらず、それどころか――

「……あれ、ヘンドリックさんは?」
「あ、ほんとだ。……何処行ったんだろう?」

 あの長身の男もまた影も形も見当たらぬように消えてしまったことに驚きながら、二人で周囲を見回し、彼の名を呼んでみるも何処にも見当たらなければ返事もない。
 まるで最初からそんな人物などいなかったと言わんばかりの……怪異を経験したような薄気味の悪さが広がってくる。
 先程からの事といい、いったい何が起こっているのか……否、起きたのか。
 全て分かることもないまま、釈然とした薄気味悪い得体の知れない後味の悪さを感じながらも、結局その後に二人が博物館を後にしてもまたそれは変わることはなかった。



 藤井蓮たちが去ったその場所、ギロチンが置かれたその場へと音も無くふらりと現れたのは先程まで彼らの前から唐突に姿を消していたヨシュア・ヘンドリックである。

「さて、マルグリット。どうだったかね? あれがツァラトゥストラ……我が主があなたの為に用意したあなただけの首飾り、あなたの番いだ」

 この出会い、お気に召してはもらえたかなと断頭刃を見上げ微笑むその男に現れている感情はこの上もないほどに愛しさを顕にしたもの。

「恐らくは、今宵からは毎夜彼には出逢えることだろう。私はあの方とは違ってそちらには介入できないゆえ分からないが……彼もまた君とその場を気に入ってくれるのではないのかな」

 主の手引きで恐らくは彼女のことは夢の中ででも語って聞かせるのだろう。己にはそこまで介入する力を持っていない以上、その辺りは主任せになることは心苦しいが……元より彼らの間へのこれ以上の介入は越権行為だろうと思い直す。
 己は己、ただ与えられた役割、ステージにて道化役と狂言回しを務めるだけ。

「……さて、その為にはそろそろ動かねばならぬのだが」

 端役とはいえ色々と上手く機能してもらわねばならぬ小道具、そして舞台を彩る他の役者たちもまた続々とこのシャンバラへと集い始めている。
 上手く立ち回り、事はスムーズにそして完璧に進めていかなければならない。
 指揮権は聖餐杯の下にあるが、元よりあってなき存在である自分には特例としてのある程度の自由と権利は認められている。尤も、それに納得して大人しく従うような獣の爪牙は存在しないことくらいは承知の上だが。
 だがそうだとしても彼らにも彼らの役割をこなしてもらう必要はあるのだ。本人たちが望む望まないに関わらず。

「……現状でこちらがある程度自由に動かせる手駒は螢と、それから……」

 指折るように持ち札の数、その有用性を確認しながら、さてこれらをどう切っていくかをもう一度最終確認も兼ねて検討する。
 やはり現状では一番その有用性と共に信頼し任せられるのは弟子でもある櫻井螢だが……しかし、彼女を扱うのにも色々と制約が多いのも事実。
 そして師弟であり信頼をしているからとはいえ、それだけで自分たちは成り立つような関係でないことくらいもよく把握できている。
 恐らく、舞台のからくりに気づいてしまえばいずれ彼女も……

「……だが、やはり今は彼女に動いてもらうのが一番都合が良いのも事実だ」

 聖餐杯がどこまで許容するか、そして彼がどこから自分の思惑の為に仕掛けてくるかは現状様子見ではあるが焦って全てを台無しにしてしまっては目も当てられない以上、ここは慎重に動いておくべきなのだろう。

「……だが、永劫回帰の環を破壊するのが目的だというのに、予定に沿った行動を取らねばならぬというのは何と皮肉で矛盾したことか」

 これも未だ既知感(ゲットー)の地獄の中に捕らわれたままなのか。
 ……まぁ良いだろう。そう思いヨシュアはその笑みをより深くする。
 先程までの慈悲深い類のものとは趣の異なる凄惨で獰猛な、そして挑戦的且つ破滅的な、ある種の狂的なそれは笑みだった。

「勝つのは私であり、我が主だ。それは絶対に変わらない。ああ、変わらせなどしないとも。……だからツァラトゥストラ、君は精々――」

 ――彼女と共に頑張って踊り、そしてこの恐怖劇(グランギニョル)を彩ってくれ。

 それだけが、魔人が彼へと期待する願いでもあった。




『Je veux le sang,sang,sang,et sang.
 血、血、血、血が欲しい。

 Donnons le sang de guillotine.
 ギロチンに注ごう、飲み物を。

 Pour guerir la secheresse de la guillotine.
 ギロチンの渇きを癒すために。

 Je veux le sang,sang,sang et sang.
 欲しい物は、血、血、血……』


 永劫に続く黄昏の浜辺。
 白皙の肌に金紗の髪、透き通るように澄んだ碧の瞳をした少女はただ歌い続ける。
 彼女が唯一知る、彼女の全てと呼んで良いその歌を。
 旅人が歌ってくれと自分に望んだその歌を。
 彼女は歌う。歌い続ける。
 唯一人、永劫の環から外れてしまったその浜辺で。
 丘の向こうに鎮座するギロチンの刃を見上げながら。
 歌う、歌う、歌い続ける。
 ずっと今までそうしてきたように。これからも恐らくはそうし続けていくのだろう。
 ずっと変わらぬままに、望まれるままに。
 呪われし断頭台の姫君は歌い続ける。
 歌っていればその内に、またひょっこりとあの旅人が逢いに来てくれるだろうと信じて。

 ……だが、今宵彼女のこの浜辺を訪れたのは今までとは打って変わった別人物。
 あの難しい事を言うが、けれどとても優しい不思議な旅人ではなく、それでも彼とも良く似た別の人物。
 そう、その少年は――


 ――その少年は自分の前で、断頭台によって首を刎ねられる。


 彼はいったい誰で、何処から来て、そしてどうして首を飛ばされるのか。

「……あなたは、誰?」

 物言わぬ胴から離れたその首に、少女は歌以外ではじめて己が言葉を持ってそう尋ねる。
 苦悶と驚愕に目を開き、死んでしまっている少年の首は決してソレに応えることは無かったけれど――


「――彼がツァラトゥストラだよ、マルグリット」


 自分が知っている唯一の自分以外の声が耳に届き、彼女は顔を上げると共にその声が聞こえた方向へと振り向いた。
 そして確認した彼を、自分の名を唯一人だけ呼ぶその人物の名を、彼女もまた同じように呼ぶ。
 歓迎の、そして今日はどんなお話を聞かせてもらえるのか、そんな淡い期待を持ちながら。

「――カリオストロ」

 少女に名を呼ばれたその旅人は微笑む。
 限りない慈愛と敬意、そして親しみを込めながら。
 茫洋とした曖昧な輪郭の、その影絵の男……カリオストロと呼ばれたその男は微笑む。
 少女……この世で彼が唯一打ちのめされ、そしてそれ故に感動し、跪き、そして慈しみ愛すと決め、そして必ず救うべきであるその少女に。
 愛しい愛しいマルグリット。人類最美にして最悪の、その断頭台に呪われた究極の異端たる彼女。
 彼女へとカリオストロはただ微笑みながら、今宵もまた語って聞かせる。
 彼女が主賓で主役となるそのオペラ、その首の相手こそが君にとっての唯一無二のパートナーだと。
 カリオストロの言葉の意味が分からないと首を傾げるマルグリット。無理も無い、今は彼女も分からないだろう。だがそれで良いのだ。
 いずれ分かる……そうなるようにこの舞台は出来ている。

「焦ることはないさ。これからは、毎夜彼とは逢うことが出来るのだから」

 ゆっくりと気づき、言葉を交わし、触れ合い、そして理解していけば良い。
 自分はただ観客として、そのオペラの様子を特等席から見物させてもらうだけだ。
 我が従僕にはその為に全てを任せた。後はそれを上手くやるかどうかはアレの腕次第だろうが……元よりその点においてはあまり心配はしていない。
 だがどちらにしろ、今宵の二人の出会いこそが始まりなのだ。血塗られた逢瀬であれ、これより幕開けするのが恐怖劇であるのならば、何ら問題は無い。いや、むしろ相応しい。


「では獣殿。半世紀前に交わした我らの誓い……いよいよ果たすことといたしましょう」

 願わくば、これが最後の挑戦になることを祈り、そして成功を願いながら水銀の王は高らかに宣言する。
 半世紀ぶりの出し物。己が趣向に凝らしに凝らして書き上げた脚本。そのオペラの始まりを。



 ――では、今宵の恐怖劇(グランギニョル)を始めよう。



[8778] ChapterⅠ-4
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 22:56
「……先輩、そりゃあチョイスが悪過ぎる」
「どうして? 伝説の妖刀とか掘り出し物が出たりしてるかもしれないし面白いと思うけど」

 いやそうじゃなくて、と沢原一弥は困ったように頭を押さえながらどう言ったものかと悩む。
 ……てか伝説の妖刀って本気で言ってるんですか、とかそっち方向の話題に逃げようかとも考えた。
 だが悪気は無かったとはいえ、一応言っておいた方が良いのではなかろうかとも考え直す。蓮の為にも、玲愛自身の為にも。

「……アイツ、ヒカリモノの類が駄目なんですよ」

 その友人にとって一種のトラウマと言っても良い事実を。
 そのトラウマを植えつける原因になったであろう者の一人として、内容までは詳しく話せなくとも蓮が刃物アレルギーであるという事実くらいは伝えておいた方が良い筈だ。また勘違いや誤解で似たような展開になってしまえば流石に酷だとも思うし……。

「……刃物が駄目ってこと?」
「そう。一種のアレルギーって奴なんですかね、それも重度の。アイツ、だから家には包丁だって置いてないくらいですからね」

 本人的には別に無くても困らないと言っているし、実際香純が飯を作ってくれているので現状不自由はしていないが、それを除いても藤井蓮の刃物嫌いは徹底している。
 一弥には如何こう言う資格も無いし、仮に香純が何を言おうと聞き入れようとはしないくらいなのだから逆に彼女自身も諦めているが、それはまぁ凄いものなのだとだけ一弥は玲愛に伝えておいた。

「……だから、今度からはあんまりアイツの前で刃物出したりとか、その手の話題も避けてやってくれれば本人的にも助かると思いますよ」

 ……尤も、今後にそんなシチュエーションがあるのかどうかすらが不明だが。
 一応、頭には入れておいてもらった方がいいだろうと思い一弥は玲愛へと話したのだ。
 しかし一弥の話を聞き終えた後、玲愛の方はというと……

「そう……じゃあ今頃藤井君は泣きそうにでもなってるのかな」
「少なくとも、気分悪いとか言ってテンションマックスな香純の対極な状態にはなってるんじゃないですかね」

 頭でも抱えて勘弁してくれとでも嘆いている蓮の姿はどちらにも容易に想像することが出来た。
「もしかして悪い事したかな?」
 珍しくもそんな事を言ってくる玲愛の姿に新鮮さを覚えながらも、まぁ先輩も知らなかったんだし仕方がなかったんじゃないですかと一弥は適当にフォローを入れておく。
 別に蓮も恨んだり根に持つような男でもない。彼とて知らなかった玲愛を責めるようなこともしないはずだ。

「気になるなら明日会った時に一言謝っとけばそれで充分なんじゃないですかね」

 友達なのだし、それで充分だろうとも一弥は思っていた。
 自分たちの間柄なら、それで充分だろうと……。



「……ところで沢原君」
「ん、何ですか? 先輩」

 昼休みもそろそろ終るという時間、一弥にとっては数少ない心休まるまったりとしたその時間がそろそろ終るのかと惜しんでいたその時だった。

「ソレ、何聴いてたの?」

 氷室玲愛が純粋な興味という疑問を抱き指差して尋ねてきたのは、一弥が彼女が来るまで聞いていたイヤホン。
 中身は……先日司狼の部屋から拝借してきたデスメタルだ。
「……コレ、ですか……?」
 そう言いながら彼女にも見えるように一弥はイヤホンを持ち上げる。
 若干躊躇いを憶えていたのは、やはりその曲の内容を彼女に教えても良いのだろうかということである。
 何せコレは――

「ふーん、なかなか良い曲だね」

 戸惑いを覚えていた一瞬の隙を突かれたのか、気がつけばプレイヤーごとイヤホンまで彼女に奪われていた。
 一瞬の早業……いったいどうやったんだよと疑問にも思いながら、まぁ聴かれたならばそれはそれで仕方が無いかとも一弥は早々に思い直した。
 ただ……

「……良い曲って、先輩……英語のヒアリングの成績の程は?」
「洋画の字幕って邪魔だよねっていつも思ってるよ」

 ペラペラってことじゃねえのかよ、と思わず突っ込みたくなってくるのを抑えながら、ならば彼女はそのけたたましいメタルが何を叫んでいるのかということはハッキリと分かっていることなのだろう。

「……思いっきり、神様冒涜してる歌ですよ。それ」

 仮にも……そう、仮にも教会住まいである彼女がそれで良いのかと心底疑問にも思う。
 氷室玲愛、何を隠そうこの諏訪原市にただ一つある本格的な教会に住む、所謂ところの神に仕える人ではなかったのだろうか。

「……そんなんじゃあシスターが泣いちゃいますよ?」

 彼女にとって母親と姉代わりになるであろう巨乳のシスターを思い浮かべ呆れながらに一弥はそう告げる。
 だがそんな事を言われてすら玲愛は平然とした様子も崩さぬまま、

「大丈夫だよ。リザもあれで案外こういうの好きだし」
「マジですか!?」

 おいおい良いのかよ諏訪原教会のキリスト教徒共は、と思わずツッコミたくなってきた。……というか既に思わず突っ込んでしまっていた。
 因みにリザとは件のシスターの名前である。
 玲愛の言葉がどこまで本当なのかは分からないが、少しだけ想像してみる。
 デスメタルを大聖堂で高らかと鳴り響かせながら、それに熱中するシスターと玲愛の姿を……。

「……信者が見れば卒倒もんだな」

 いや確実に、お布施とか寄付とかしてくれる人は居なくなるのではなかろうかと真剣に危ぶむ。
 いやそれ以上に哀れなのは、そんな罰当たりな信徒を持ってしまったキリスト本人なのだろうか……。
 どっちにしろこれ以上想像したり考えたりするのは止そう。関係ないことのはずなのに頭が痛くなってきたり悲しかったりして少し呆れてしまうので。

「……ねえ沢原君、これのCDは持ってる?」

 良かったら貸してくれないかな、と尋ねてくる玲愛にさてどう答えたものかと一弥は少しだけ迷う。

「……せめて自分の部屋で、ヘッドホンかけて聞いてくださいね」

 それを条件とするなら貸しても良いかと一弥は思った。主に教会のモラルとキリストの心労の程を護ってやる為の措置としての条件であった。
 因みに、これはあくまでも司狼の物なので持ち主の許可も無く勝手に貸し出すのも普通ならばモラル的に褒められたことでもない。
 だがお前の物は俺の物的なジャイアニズム……というより、勝手に行方を眩ませて戻ってくる心算も無いような奴の事などどうでもいいかと考えている辺り、一弥とて人の事を言えた性格でもなかったのだが。
 とりあえずはじゃあ明日にでも貸しますとだけ約束を交わしたところで、昼休みが終る予鈴が丁度鳴り響いていた。



 シャンバラ。
 半世紀以上前、魔人たちが狩猟場として用意したその地へと櫻井螢もまた舞い降りていた。
 現存する獣の爪牙の中においても最若輩、黄色い劣等と蔑まれる新参者の日本人である彼女にとってもこれは久方ぶりの帰郷ともなるのか。
 尤も、生まれこそは日本だが幼少期より長らく海外を師に連れられて流離っていた螢にとっては抱くべきはずのその手の感慨なのであろうが……生憎と、そんな気分にもなれない。
 この地には“彼”がいる。それが分かっていたからこそ、この地を訪れたならば直ぐにでも真っ先に会いたくはあった……が、それも許されないことは分かっていた。
 だからこそ、こうしてやり場も無い無様な想いを持て余しているのが現状だった。

「……滑稽ね、私も」

 フッと自嘲にも近い笑みを皮肉気にも呟きながら、螢は眼下に聳える諏訪原市を見下ろす。
 彼女が現在いるのは諏訪原市屈指の観光スポットの一つであるこの街全体を見渡すことも可能な高層建築物――諏訪原タワーの最上階である。
 此処は彼女たちがこれから行う大儀式においても重要な役割を担っている要地でもあるのだが、下見がてらに戯れに足を運んだというのが本音だった。
 恐らく此処は自分の担当にはならない。師と聖餐杯がどのような順序で事を進めていくのか、未だ詳しいことは知らされていないが、それは追々と明かされていくことなのだろう。
 担当地か否か云々そのものは些事だが、何れは此処も戦場……否、狩場である以上は染まってしまうのだろう。
 この夕暮れが染める赤とは違う意味合いの赤を以ってして……。
 誰がそれを行うにしろ、そうなるのは確実だ。それに一々憂いを抱いていてもきりが無くなるだけ。
 ……否、最初からそもそも憂いなど抱く資格が自分には無ければ、それを抱こうなどという殊勝さすらもおこがましい。

「……私は選んだ。自らの意志で、こうあることを」

 叶えたい願い、それがあるからこそ人を堕ちて魔人へと成り果てることすら了承したのではないか。
 十一年前、そう既にあの日に自分は悪魔と契約を交わしてしまっているのだ。今更にそれを反故にも出来なければ、そうする心算すらもありはしない。
 だからこそ、自分は今、此処に立っているのだろう。

「―――」

 呟いた言葉は或いは誰かの名であったのか。しかしそれは形として結ばれることもなくタワー内の人々が発する喧騒の音に紛れて消えていく。
 それで良いと螢自身もまた思っていたし、ありえないことではあるが誰かに万一聞かれる事になってしまえばそれはそれで酷く罰が悪いし不愉快だ。
 だからこそ、コレで良い。己に残った最後の人間らしい心をそうして自らで押し殺しながら、彼女もまた狩人の一人として始まりを静かに待ち続けることとする。

 人殺しは死ぬまで人殺し。外道は死んで尚も外道。
 ならば人から外れた魔人は魔人らしく、獣の爪牙の一人としての自覚を抱きながら待ち続ければそれでいい。
 即ち、狩りの夜を。戦争の再開を。
 その為だけに自分たちはこうしてこの地へと集い始めているのだから……。

 間もなく、この街の夜もまた血で染まることだろう。
 恐怖劇(グランギニョル)の始まりに相応しい、禍々しくも毒々しい、されど鮮烈な幕開けを持って。

 その時をただ、櫻井螢……否、聖槍十三騎士団黒円卓第五位レオンハルト・アウグストは、ただ静かに待ち続ける。




 諏訪原市。
 政令指定都市にも定められ、海と山に囲まれているというやや孤立した立地条件ではあるものの、国内有数のアミューズメントパークや巨大タワーなどが存在する為かそれなりに栄えた地方都市でもある。
 人口は凡そ八十万ちょっと、だが人数以上に面白いのはこの街の入居者数と退去者数、更には死亡数と出生数までの総合比率が±0になっており、総人口が十年ほど前から変わっていないということだ。
 後、これは真偽も定かでない噂だがこの街の総人口数はとある親衛隊の隊員数と同じであるとかないとか……。

 だがそんな真偽も定かでない噂と、街の立地条件とも相まってか、この街はある皮肉を込めてこんな風に呼ばれることもある。

 通称“収容所(ゲットー)”

 ……縁起でもない。ならば自分たちの末路はそれこそガス室送りとでも言いたいのだろうか。
 自分や司狼みたいな奴らならば、ある種そういった囚人扱いを受けようとも仕方の無い部分はある。だが街の住民全てが一括りにそのように揶揄されるのは気分が悪い。
 だからこそ、沢原一弥はこの噂や呼び方をいつも酷く嫌っていた。


 まぁ、何はともあれ地方都市諏訪原の夜は長い。
 無論、不夜城や眠らない街などとまで言う心算もないが、それでもそれなりに栄えている街特有の夜の華やかさというものがあるのもまた事実だ。
 そして此処――市の名所の一つとも数え上げられる諏訪原海浜公園から見える夜景はまさにそれを象徴するかのような光景である。
 海沿いにあるこの公園は緑豊かで遊具が沢山ある主婦が子供を連れて公園デビューを果たすような類のものではなく、どちらかと言えばデートスポットとして名高い名所である。
 此処から見える遊園地などのレジャーランドやショッピングモール、そして大きな橋は夜景として映し出される時にはそれこそちょっとしたものなのだ。
 それ故にだろう、よく夜遅くまで夜景を眺めながら盛り上がるカップルとそれを覗く覗きの常習犯、果ては痴漢まで多発する地帯となっていることは自治体が頭を痛める悩みともなっている。
 沢原一弥はその上記のどれにも属さない……けれど此処から見える夜景が好きな地元民として此処をよく訪れていた。
 まぁ大半は夜景を眺めるのは実はついでであり、橋の袂の辺りまで蓮や司狼と一緒に単車を転がし遊ぶのが主目的だったのだが。
 どちらにしろ、今宵も此処を訪れる事になった一弥の主目的がどちらであったかは……実の所、彼自身にもよく分からなかったりした。

 藤井蓮の退院日、それが今日であることが分かっていたからこそ一弥は彼らが下宿しているアパートで蓮と香純、二人の帰りを学校から戻った後も待っていた。
 だが思ったよりもデートが盛り上がっているのか、中々待っていても帰ってこない二人に一弥は待ち続けているのも飽きてきた。
 腹も空いてきたことだし、また明日にでも会えるだろうと思った一弥はそのまま夕飯を外で食いにいくがてら久しぶりにバイクでも転がそうかと思い至った。
 久しぶりに風を感じた心地良さと溜まっていたストレスの発散にもなったのか、気づけば市内を無目的に時間も忘れてバイクで走り回っていた。
 ……いや、きっと忘れたかったのは別の事なのだろう。昼間、玲愛と話した内容とこれまで自分なりに考えていた事、それらと正面から素直に向き合うにはまだ彼の心は踏ん切りが付けないでいたのだ。
 だからこそ結局、こうしてかつての思い出を反芻させるような行為へと浸りながら、努めて何も考えないように逃避のドライブを続けていたのだ。

「……けど、やっぱそれも虚しいよな」

 時間も忘れてそんな逃避に没頭していた心算だった。……がそれもまた所詮は文字通りの『心算』でしかなく、完全に振り払うことなどそもそも出来るはずもない。
 結局は呟き漏らしたその言葉の通り、余計に虚しさが積もるだけだということを認め、だからこそ帰って寝ようと考え直した。

 ……最後に、気に入っているあの夜景を見に行くがてらに、定番コースとなっているあの橋の袂……そこをゴールに踏ん切りを付けよう、そう思ってこの海浜公園まで一弥はやってきた。
 全ては前へと進む為、これを最後に自分も新しくこれからの人生を歩みだそう……格好つければそんな自己陶酔めいた思いを抱きながら、彼は橋の袂へ行く前に公園の路肩でバイクを停め、そこから諏訪原の夜景をぼんやりと眺め続けていたのだ。

 予感はあったのだ。
 気温は薄ら寒いはずなのに、どうにも気味の悪いくらいにどこか生温かい雰囲気を感じていたし、胸中でも何か拙いものがあるのではないかと虫の知らせめいた嫌な予感を感じ始めてもいた。
 何よりも公園自体が十一時過ぎという時間帯とはいえ、人っ子一人もいないという普段ならばありえないような何処か得体の知れない様相であった。
 ……だからこそ、ここまで悪い前振りが揃っていたのだから潔くこのまま帰っていた方がきっと自分の為にだってなっていたのだろう。
 けれど……

「……沢原君?」

 偶然にも彼女たちと出会ってしまったこと、そして自分自身の踏ん切りの悪さ。
 これらが逃げ帰るタイミングを潰してしまい、彼は日常より外れるその切っ掛けに関わらざるを得なくなった。



 不意に背後からかけられた思いも寄らなかった聞き慣れたその声に一弥は思わずハッとなって振り向いた。

「……先輩? それにそっちは……シスター?」

 一弥が振り向いた背後、其処に居たのは昼間学校で一緒だった氷室玲愛、そして直接に顔を合わすのは久しぶりだが、彼女が住んでいる教会に共に住んでいるシスター、

「あら、沢原君。お久しぶりね」

 ニコリと聖母のような穏やかな微笑と共にそんな言葉を告げてくる、泣き黒子に眼鏡をかけた巨乳(玲愛曰くサイズはぼいんぼいんのFカップ)の女性。
 リザ・ブレンナー……それが彼女の名であった事を一弥は瞬時に記憶の底から掘り返してくる。

「……どうしたの? こんなところで?」

 彼女たちには普段からの当然の組み合わせなのかもしれないが、一弥からすれば目にするのが久方ぶりになる二人揃ったその光景に戸惑いを覚えている最中にも、玲愛の方がこちらに向かってそんな問いを投げかけてくる。

「え?……あ、ああ、ただのドライブですよ。久しぶりに風を感じようかとも思いましてね」

 戸惑いから立ち直りながら慌てて一弥はそう玲愛に答えながら己が跨っているそのバイクを軽く叩いて示す。
 玲愛は一弥の答えを聞き、こちらと単車を交互に見比べた後に納得したように頷いた。

「そう。態々、バイクを走らせて此処まで覗きに来たんだね」
「いえ、違いますって」

 失礼なボケをかます玲愛に一弥は高速でツッコミを入れた。
 本当に此処ら辺はカップルが夜中にアレでナニとか本番始めたりするお世辞にも風紀が良い場所とも言えないのでそれを見物する覗きも多発している。
 一弥としても間違ってもそんなものを熱心にバイクに乗ってやって来てまで見物するご同類にはされたくないので真剣にそれだけは否定する。
 冗談とはいえ玲愛にだけはそんな風に見て欲しくないという淡い純情少年のピュアな思いとかも自分にはあるのだから。

「駄目よ、玲愛。沢原君をからかったりしたら」

 妹を窘める姉のようなやんわりとした態度で注意を入れてくれるFカップに一弥も援軍を得たとばかりにそうですよと頷く。
 リザが一弥の味方をしたことか、或いは一弥がリザと意気投合を示しているのが不満なのか、注意された玲愛の表情はどこか面白くなさ気でもあった。

「沢原君はリザの味方をするんだね」
「まぁ、そりゃあ不名誉な誤解を冗談でも言ってくる先輩に比べれば、シスターの方がそれこそ救いの女神ですよ」
「所詮Bカップはお遊びでFカップの誘惑には勝てないって事ね……ショック」

 あまりショックを受けているようにも見えない態度でよよよとわざとらしく泣き崩れる仕草を見せる玲愛にどう答えたらよいものなのかと一弥は呆れと共に頭を抱える。

「そりゃあやっぱ大きい方が何かと良いですよね」

 とかこんな本音を言おうものなら明日以降に学校でどんな報復をされるか恐ろしくて堪ったものではない。
 困ったようにとりあえず助けを求めてリザの方に視線を向ける一弥だが、リザの方はと言えばそんなこちらの様子を微笑ましそうに観ていて助けてくれそうな素振りもない。
 結局、どこまで本気かは分からない玲愛を立ち直らせるのに一弥が暫し心を折って心労を溜め込んだことは言うまでもないことだろう。


「で、お二人も散歩で此処に?」
「ええ、此処から見える夜景が好きだから、よく玲愛と二人で観に来るのよ」
 一弥の問いに機嫌がよさそうに答えているのはシスター・リザ。
 単車より離れ、とりあえず近くに座れるベンチがあったのでそこに腰を落ち着けながらシスターとの会話をすることになった一弥。因みに、玲愛はこちらの相手にはもう飽きたのか、興味本位を優先させたのかバイクを停めた場所に残ったまま、それを興味深げに眺めている。
 下手に弄ったりしないだろうな、とあの先輩のことだからやりかねないと心配でもあったがシスターが話しかけてくる以上はそちらの相手も無碍には出来ない。
 よってキョロキョロと傍目に見ても分かるほどに忙しなく玲愛の方にも視線を向けている一弥が可笑しかったのか、リザはクスクスと笑い始めた。

「ごめんなさいね、玲愛と話をしたかったと思うのに私ばかりと話をさせてしまって」
「あ、い、いえ! 先輩とは普段から学校で話してますし、シスターと話をするのも久しぶりだから全然構いませんよ」

 リザの言葉に慌てて彼女の方に視線を戻し、上ずった声でそれを否定する一弥ではあったが先の行動までを見る限りでも説得力はあまり見られない。
 だがリザは気分を害した様子も無く、それよりも先程以上に嬉しくなった様子でこちらへ向かって問いかけてくる。

「玲愛とはいつも仲良くしてくれていて本当にありがとう。……あの娘、学校でもちゃんとやってる? あなた達のことは良く話してくれるんだけど、その辺りのことはどうにもあまり話してはくれなくて……」

 やはり保護者としては色々と心配な事もある、そんな風な憂いを含めた表情での問いかけに一弥はどう答えたものかと迷う。
 学校での玲愛……先輩であり学年も違うという事もあり、昼休みや放課後に接点を持つ以外では普段の彼女がどういう人物なのかと言われても一弥には正直よく分からない。
 その辺りはそれこそ彼もまた人伝の風聞でしか聞いたことはないが……少なくとも、悪い噂の類が流されているといった様子が無いことだけは確かだ。
 尤も、一弥自身もそうだが玲愛もまた他人とあまり積極的に接点を持ちその輪の中へと交わっていこうというタイプではない。
 その日本人離れしたクォーターでもあるという麗しい容姿や身に纏う独特の雰囲気から、近寄り難いという認識を持たれているのは確かだろう。

「でも先輩を慕ってる……って言うか、憧れてる人も校内じゃ結構多くいますよ」

 それだけは事実だ。そうでなければ間違っても月乃澤学園の裏ミスなんかには選ばれはしないだろう。
 近寄りがたい、侵すべからざる高嶺の花という周囲の認識があるのは確かだが、だからこそそれが良いのだと支持するコアなファンが多くいるのも事実だ。
 故にこそ表ミスである(こちらの方が到底一弥には信じ難い認識なのだが)綾瀬香純と人気を二分する学園のマドンナ(?)でもあるのだ。
 ……どちらもその本性を知ってしまっている一弥にしてみれば何ともなぁと思わないわけではないが、それでもその集計投票には一応彼もまた玲愛の方へと票を入れた側だ。

「まぁ人気云々は置いといても、俺は先輩と一緒に居られて楽しいとは思ってますよ」

 それは蓮や香純、そして今は居なくなってしまったが司狼だってきっと思っていたことのはずだ。
 五人で過ごしていた屋上でのあの一時が、他の何よりも尊く思えていた沢原一弥にとっては尚更のことだった。
 尤も、こんな小っ恥かしいこと本人を前にはからかわれる格好の釣り餌にしかならないので正直に言う気はないが、シスターには内緒だと念押ししておけば大丈夫だろうと思って口を漏らしたのだが……

「あらあら、まあまあ……ですって、良かったわね? 玲愛」

 ニコリと嬉しそうに言ってくるリザの言葉に、それこそ「へ?」と思わず間抜けな声を上げながら一弥はリザの視線の先、己の座っているベンチの真正面へと視線を戻す。
 其処には何とも表現し難い(照れているのかもしれない)表情で氷室玲愛が其処に立っていた。
 結局はシスターとの会話に夢中になっていて、彼女がバイクを見るのに飽きてこちらに戻ってきているのに気づかなかった己の迂闊さを一弥は初めて自覚した。
 先の恥かしい告白をどうやら聞かれてしまったらしい、それを認識した瞬間それこそ思わず赤面しそうになってくる一弥だったが、

(く、クールだ! クールになるんだ! 落ち着け、沢原一弥ッ!)

 必死にクール、COOL、KOOLになるんだと自身へと一弥は言いきかせる。隙を見せればそれが最後、明日の学園生活から待っているのは先輩に弄くられからかわれる玩具扱いの日々だと、そうなるのはゴメンである以上、此処は何とか華麗にスルーを決め込まなければ――

 そう必死に内心で一弥がテンパリ続けていたその時だった。

「…………ありがとう。沢原君」

 俯いてよく顔が見えぬまま、それこそ聞き間違いかと儚く消え入りそうな小さな声で玲愛はポツリとそのような呟きを漏らして離れていく。
 それこそどんなからかいの言葉が来るのかと、それに全身全霊の迎撃を示す所存だった一弥にしてみれば拍子抜けもいいところだった。
 それどころか、自分が彼女に言われるには縁の無さそうな言葉だっただけに、幻聴だったのではとポカンと呆ける他に無かった一弥である。
 リザはそんな両者をそれこそ微笑ましげに見ながら、

「若いって良いわねぇ。これからもあの娘のこと、よろしくお願いね。沢原君」

 最後にそれだけを告げこちらの肩をポンと一つ叩いた後、リザは玲愛を追って行ってしまった。
 一人取り残された一弥だけが、訳も分からず付いていけぬまま呆然とその場でベンチに座り続けていた。




 玲愛とリザの二人が行ってしまって数分後。
 漸くに、さてこれからどうしたものかと停めていたバイクの元まで戻ってきた一弥は、当初の目的どおりに橋の袂まで行ってみるか、それともこのまま帰るかで少しだけ悩んでもいた。
 心に踏ん切りを付けるという自分なりの決着を優先するのなら、その行為に意味は無くとも当初の目的を完遂する為にソレを行うこと自体は悪くない。
 ……しかし、今あちらの方角には玲愛とリザの二人が先程向かったばかりなのだ。
 気まずい。それが何故かは理屈としては一弥自身にも分からない。だが事実として先の出来事の直後に玲愛と再び顔を合わせるのはどうにも抵抗があった。
 彼女の様子が少しおかしかったから……照れているようにも見えたそんな玲愛にもう一度会った時に今度は何と言えばよいかが分からない。
 無論、彼女のことだから先の事など何も無かったように次に会えばいつものようなしれっとした態度を取る可能性の方が高いだろう。その方が彼女らしいとも一弥とて思う。
 だが男は女ほどにそんな器用にはいかない。ましてや悩める純情ボーイである沢原一弥ならば尚の事。

「……俺って本当に度胸ねえよな」

 男としての情けなさを自嘲を込めた呟きと共に認めながらも、さて本当にどうしようかと再び下らない時間の浪費に没頭しかけた瞬間だった。

 ――悲鳴が響く。

 それこそ何事かと一瞬心臓が跳ね上がるほどに驚きながら、一弥は慌ててその悲鳴が聞こえた方向……先程、玲愛たちが向かっていった場所へと振り返る。
 しかも先程の声は…………シスター?
 漸くにそれが理解できた直後には、一弥の身体はそれこそ反射的に動いていた。
 すぐさまに傍らのバイクへと飛び乗り、かっ飛ばす勢いで愛車を彼女たちが向かっていった方向へと全速力で向かわせていた。
 いったい先の悲鳴は何事か、それこそ……まさか痴漢でも出てきて襲われたのだろうか。
 彼女たちに只事でない身の危険が起こっている、その理解は焦りとなって一弥に二人の救出へと全力で向かわせる。
 間に合え、それこそ心の底からそう叫びだすような勢いで一弥を乗せたバイクはものの数分で彼が当初目指していた目的地……彼女たちが悲鳴を上げたその場へと辿り着く。

「先輩!? いったいどうしたん―――」

 強引な停車で単車を停め、飛び降りるような勢いですぐさまに発見した玲愛の傍らにまで駆け寄りながら、そう叫びかけ……その言葉すら最後まで言い切れずに途中で止まる。

「…………え?」

 それこそ先の言葉を中断してまで次に出てきたその言葉は、間の抜けた呟きにしかならなかった。
 むしろマトモな言葉を形成できるほどの余裕を失うほどに、目の前に広がっているその光景に目を奪われて思考は麻痺したかのように停止してしまっていた。

 ……コレハナンダ?

 それが麻痺した思考の中で、比較的マトモな形となって沸きあがってきた第一の疑問。

 ――赤。

 眼前に広がる鮮烈なその色合いは、しかし闇夜の中では思わず怖気を走らせるほどに禍々しく、毒々しい。
 一種の破滅的な芸術性……正常とはかけ離れた異常というカテゴライズの中でならば或いはコレをそう捉える輩が居たかもしれない。
 尤も、そんな輩は間違いなく狂人という括りに纏められる存在なのだろうが。
 どちらにしろ、ソレを見てそうとは取れなかった沢原一弥は、一応世間一般的な認識から言えばまだマトモと称される部類だったのだろう。
 その鮮烈な色合いに目を奪われ、思考を止められた一弥が次に感じたのは吐き気を催すような急激な気持ちの悪さ。
 後に同じくソレを目撃した氷室玲愛は、ソレを見てコルクを抜いたばかりのシャンパンのようだったと言ったが……成程、それはなかなか的確に的を射た表現だ。
 かくいう沢原一弥もまた後にそう言われてみればと振り返ってみても(振り返ってみたくなど本来ならばないのだが)同じような表現がしっくりくると思った。

 壁と床、その一面にぶちまけられ展開されている鮮烈な赤の世界。不快に鼻腔をくすぐる鉄錆びめいた生温い臭い。
 血の海という比喩表現を本で目にすることはあれど、事実は小説よりも奇なり、よもや本当にその通りだと納得させられることになろうとは思わなかった。
 ……そう、それは文字通りの血の海だった。
 ここまで流れてくるのではないか、そう思わせるような水とは質が微妙に異なる粘性を含んだ生温かい赤い液体が領土を広げるように展開し続けており、その中心部に存在しているのは不恰好なオブジェが一つ。
 最初、それこそ一弥はこの場所が薄暗かったことも相まって、ソレがいったいなんであるのか即座には分からなかった。
 本来の形から一部が欠けた不完全さがあったというのも要因だろう、正常な形としてならば見慣れていて珍しくないはずだと言うのに、ある一点が欠けているというだけでそれは酷く見慣れない不完全な異物と化していた。

 神は人間を己が姿を模して作り上げたのだという。
 完全であるはずの神を模して作られた人間は、またその形を指してだけ言うのならば、それは完成しているものだとも言えたのかもしれない。
 故にこそ、欠けるということは完成を崩されると同義であり、嫌悪を発生させやすい現象でもある。
 人は不完全を嫌う。それ故に形の上だけでもよりよい完全を目指そうとする。
 誰も彼もが容姿を時に気にするということは、或いはそのように思っているからかもしれない。
 無論、これは単なる沢原一弥個人の考え方に過ぎず、世間一般の認識とは乖離を要する異質な思考だろう。
 けれど異質ではあれ、多少は道理の本質を突いているのも事実。
 だからこそ、一弥はソレを漸くに本来どのようなモノかということを改めて認識したその際に、同時にこの形は欠けてしまった不完全さだとも思った。
 恐らくはこの一点、コレが形の上では不完全であるという一点だけは玲愛とリザも、否、誰も彼もがそれこそソレ当人だって思うことだろう。

 ……そう、その首が欠けた首無し死体の人間という形においての不完全さを。

「……首って、結構飛ぶんだね」

 玲愛のこの場においても尚動揺の様子が分かり辛い淡々とした呟きが耳へと届く。
 何を言っているのかと、それこそその首無し死体に目を奪われていた一弥が彼女へと視線を向け直すその先で彼女はゆっくりとその指を前に出して指し示す。
 その動作に釣られるように一弥もまた彼女の指し示すその先へと視線を向かわす。

 ――眼が合う。

 誰の?……決まっている、その首無し死体のその本来あるべき所に無いその首とだ。
 不完全なオブジェと化した胴体……そこから少しだけ離れた位置に転がっているソレこそがその首無し死体の首なのだろう。
 驚愕か苦悶か、遠目では判断し辛いが見開かれてこちらを睨み付けているかのような生気という輝きを失ったその目は、まるで伽藍堂のような虚無に塗り潰されていた。
 不気味だとか気持ち悪いだとか、そんな不謹慎な感慨を即座に抱く余裕すらも無い。
 ただただ、未だ麻痺したようにその光景に目を奪われて唖然としていた。

 世界が狂っているのか、それとも狂っているのは己なのか。

 もう二度と見るはずなど無いと思っていた光景、かつてのあるトラウマを想起させるかのような類似したその似姿。

『オレらはガキの頃に、色んなもんから弾かれてる。
 本来なら、気楽に学園ドラマやってられるような身分じゃないんだ』

 あの馬鹿のそんな言葉を思わず思い出してしまったのは、それこそ当て付けだったのではなかろうか。
 違う……これは、こんなのは違う。
 ジャンル違いだ、ありえない、ありえてはならない。
 だってこんなものとは無縁になるために、だから自分たちはあんな――

「――沢原君」

 傍らから突如かけられたその言葉に、それこそビクリと飛び退くように振り返りながら視線の先の彼女を確認し……漸く、暴走しかけた思考に強引に歯止めが掛かる。

「とりあえず、このままにしておけないし警察に連絡するから」

 沢原君はリザを診てあげていて、そう言われて漸く一弥はシスターが気を失って倒れているのに気付いた。
 電波の通りが良い場所へと移動するためか、携帯を取り出してこの場から少し離れ始める玲愛の行動に促がされるように一弥もまたシスターの下へと駆け寄り抱き起こす。
 神に仕えるシスターにそれこそスプラッターそのもののこの光景はきつ過ぎたのだろう、恐らくはあの叫び声を上げた直後からショックで気を失っていたのだろう。
 とりあえず彼女をこれ以上この場に居させるわけにもいかない。地面に寝かせるわけにもいかないし、園内のベンチに寝かせ直そうと思い一弥は彼女を背負う。
 背中に当たる尋常ならざる逸品の感触に本来ならば至福の感慨を抱きたいのだが状況が状況である。そこまで不謹慎にもなれなければそんな余裕すらも無い。
 リザを背負った直後、ふと流れた視線は再び孤独な首と視線を合わせかけるも即行で強引にもソレを逸らす。
 目を合わせてはならない。合わせてしまえば取り込まれる、戻れなくなる。ジャンル違いへと外れる気がない以上は是が非でもそれだけは拒んだ。
 ……そう、これはジャンル違い。俺の日常では無い。
 そう言いきかせながら逃げるようにその場から離れ、警察が駆けつけてくるその時まで余計な考えを抱かないように無心になってリザの介抱だけを続けた。

 狂っているのは世界なのか、はたまた己の方なのか。
 壊れてしまったのは日常なのか、それともそれを支えとするしかなかった自分なのか。

 どちらにしろ、その問いの解を現状において沢原一弥は有していない。故に分からない。
 だがそれでも、後に振り返ってみてもここが始まりだったのは間違いないと一弥は思ってもいた。
 この夜、この時、この惨劇の目撃が……全ての始まり。

 何かかが狂い、何かが壊れ、そして何かから踏み外した。
 後戻りもやり直しも聞かない最悪への踏み込み、そのスタートラインこそが間違いなくこの場面からだった。



[8778] ChapterⅠ-5
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2009/06/30 01:57
「それじゃあ、同じ事を聞く事になって悪いとは思うんだけどもう一度最初から話をしてくれるかな?」

 悪いと思っているなら何度も同じ話を繰り返させるな、そう本音で思っていたとしても相手の心象を悪くするだけの下策であるのは分かりきっていたので、何とかその言葉と思いを胸中にだけに押し留める。
 どちらにしろ、ある程度は覚悟の上だったとはいえこれ程までにしつこく根掘り葉掘りと聞き出さされ、何度も説明しなくてはならない面倒さに沢原一弥は完全に辟易してさえいた。
 あの殺人現場を発見し氷室玲愛が警察に連絡を入れて直ぐ、警察は飛ぶような勢いで駆けつけてきた。
 あっという間に現場は封鎖され、捜査員や鑑識が大量にその場で慌ただしく行動し始めるというサスペンスドラマのような光景に圧倒されている他に無かった一弥たちだが、通報者であり第一発見者でもあるという事実からもそうすんなりとは帰してはもらえなかった。
 所謂、市民の義務たる捜査協力……有り体に言えば発見までの状況を詳しく聞きたいのだという任意同行の要請。
 とても状況的に断れる雰囲気で無かったということもあり、一弥たちはこんな深夜に警察署まで連れて行かれ、こんな味気の無い空間たる取調室で事情聴取中ということだ。
 恐らくは別室で玲愛の方もまた自分と同じような状況に陥っていることなのだろう。あの先輩に限って萎縮した姿だとかは想像し難いものではあったが、いつものような淡々としたあの独特な受け答えを刑事を相手にもしているのだろうか。
 因みに、死体を直接目撃し倒れてしまったリザ・ブレンナーは体調の事や彼女自身の様子も考慮され、簡単な事情聴取を一通り済ませた後に先に教会へと送り帰されている。
 現状、残って刑事たちの相手をせざるをえないのが一弥と玲愛の二人となっているのだが……

(……やっぱ、疑われてるのかねぇ)

 正直、この取調べのしつこさと刑事たちのこちらを窺う視線から見ても一弥は自身が容疑者としても見られているのであろう事を何となくだが察していた。
 こちらの話を何度も聞き返したり応対してくる態度そのものは紳士的であり丁寧だとも言えるだろう。ドラマのように「お前がやったんだろう!」とか怒鳴りながら胸倉掴まされたりだとか、強烈なライトを当てられるだとかそういったことはされていない。
 対応してくる刑事にしても決して穏やかそうな表情を崩しもしなければ、声一つ荒げようともしていない。餓鬼であるこちらに対しても実に丁寧な言葉遣いで接してくれている。

 けれど、分かるのだ。

 穏やかな笑みを浮かべているその裏で、紳士的な態度を崩そうともしないその態度の裏で、こちらを見据えてくるその視線の奥に。
 疑い、紛うこと無きこちらの説明する言葉の中に徹底的に穴が無いかを詮索する強い猜疑心が見え隠れしているのを一弥は感じ取っていた。
 まぁ状況が状況、死体が死体であり、発見者が発見者だ。疑いたくなる気持ちというのは職業分を抜きにしても当たり前かとは一弥とて思う。
 何せ、あんな現場に居た理由すら偶々散歩に出掛けていて偶然発見しました、ではそれも当然であるとはいえる。
 殺害方法からしても犯人がマトモな人間だとは思えないが、現状あの時間帯での現場において他に不審者が目撃されたという情報も出てきていない。
 なればこそ捜査の基本たる第一発見者からまず疑ってかかるというのも至極道理ではある。
 ……道理ではある、がこちらにしてみれば堪ったものではないというのもまた事実ではあったが。

 幸い……と言っても良いかどうかは不明だが、少なくともこの三人の中で最も疑われているのは自分であろう事だけは彼女たちの事を考えれば少しホッとするべきことだ。
 シスター・リザに関しては本人自身のあの容態や先に送り帰されたという事実から見ても容疑者としてはそう強く見られていないだろう。
 氷室玲愛にしても、取調べで刑事たちにどんな受け答えをしているかは分からないが、死体の殺害方法がアレであることから鑑みても……女の、それも玲愛のような華奢な腕で首を切断することが可能かどうかは疑わしい。
 そうなると消去法。疑いやすい男でありあの場に居た理由もまた曖昧な沢原一弥が最も怪しく映り疑われるのもこれもまた仕方ないというものだろう。
 甚だ遺憾であり、いい迷惑だとは思うのだが……。

 だがどちらにしろ今回の殺人事件に関しては自分は無関係だ。
 一弥自身に被害者との面識も無ければ、殺害などした記憶だってありはしない。
 ……そもそも、殺人などというものは先にも述べたが自分の物語にとってはジャンル違いもいいところ。間違ってもそんなものに今更進んで関与しようなどと思うはずもない。
 それこそ司狼の奴なら、退屈しのぎだとか言って或いはこんな馬鹿げた事をやりだしかねない可能性も……まぁ無きにしも非ずだが、自分は違う。
 絶対にやっていない、そうこの刑事たちにも何度も同じ質問をされることによる苛立たしさから二度ほど思わず言ってやったりもしたのだが、それも上手くはぐらかされている。
 流石に向こうはこの手の事に関しては専門でもあるプロ、素人の自分がどうこう言いくるめられる相手ではない。
 反抗的な態度を取ろうとも相手の心象を悪くするだけで、益々疑われるだけなのは明白。
 故に仕方ないので、こうしてもう何度目になるか分からない事情聴取を続行中というわけでもある。
 罪など犯してなくとも思わずゲロってしまうという話は聞いたことがあるが、少しだけだがその意味が一弥もこの時に分かる気がした。


 結局、事情聴取は明け方にまで及び、そこで漸く一弥は玲愛共々解放された。
 刑事も眠たいだろうに仕事とはいえ熱心だと呆れる一方で、今日も普通に学校があるのだという事実にごっそりと疲労を感じずにもいられなかった。
 結局、被害者を殺害した凶器(日本刀もしくはそれに類似した刃渡り60cm以上の鋭利な刃物と推定)が現場から見つからなかったことや、自分たちもまたそのようなものを保持していなかったという事実などからも、一応は疑いの程は少しだけ晴れたということらしい。
 尤も、事件の詳しい情報などは口外しないようにという諸注意や、また話を聞きに行くこともあるかもしれないといったような口振りから見ても完全には疑いが晴れたというわけでもないのだろう。
 別にこちらとしては解放さえしてくれればそれで良い。やっていないものはやっていないのだから堂々としていればそれでいいともある種の開き直りすら芽生えかけてもいた。
 家まで送っていこうかという刑事の提案を丁重に断りながら、とりあえず警察署から出てきた一弥は上りかけている朝日を前にしながら思い切り体を伸ばす。

「久々のシャバの空気だぜ」
「……いえ、別にそんなこと言ってもなければ思ってもませんよ」

 こちらの隣に立って、さぞこちらが言っているようにボソリと言ってくる玲愛に一弥は思わず突っ込む。

「お勤めご苦労様です。アニキ」
「いや、だから捕まった事も無ければ豚箱に入れられた事もありませんって」

 というかアンタの方が年上だろうが、と思わずツッコミを続けているのだが玲愛は相変わらずの態度を崩そうともしない。
 結構、長時間の取調べには流石に参っているのではなかろうかとか色々と心配もしていたのだが杞憂だったということだろうか。
 恐らくは警察の取調べなんて初めてだと思うし、殺人現場の目撃……しかも死体の状態が状態である。
 普通なら彼女くらいの年齢の女性なら精神的ダメージだとかそう言ったものを後のトラウマになるようなレベルで抱えるものではないのだろうか。
 むしろ正直に卒倒したリザの方が普通といえる状況だろう。

「……先輩って思った以上にタフなんですね?」

 蓮と司狼の一件を思い出し今更かとは思いもしたが、改めてこの先輩は強い人なのだなと一弥は思い返してもいた。
 だが一弥のその言葉に対して玲愛はふるふると首を振りながら、その顔を俯かせてしまう。

「……そうでもないよ。結構、ショックだった」

 落ち込んだようにそう言ってくる玲愛の姿があまりにも今度は普段の彼女とはかけ離れていただけに一弥もまた戸惑いを顕にもしていた。
 やはり何だかんだと言って彼女も女の子。凄惨な現場や長時間の取調べ……彼女自身は疑われてはいなかったとしても、自分と同様の時間まで拘束されていた事を考えれば、彼女はもしかしたら自分の共犯者としてでも疑われていたのかもしれない。

「………先輩」

 だとするなら申し訳ない。そしてどんな言葉をかければ彼女を慰められるのか。
 そうかつてない程に真剣に一弥が悩んでいたその時だった。

「かつ丼、出してもらえなかったし」
「そっちかい!」

 って喰いたかったのかよアンタは、と思わず先程までの己のシリアスを返せと一弥は玲愛へとツッコミを入れていた。



 夜明けの街並みの中を氷室玲愛を乗せた沢原一弥のバイクが走っていた。
 とりあえず警察の自宅までの送迎を断った二人は、今日も学校があるので一旦自宅へと戻ることにした。
 倒れて先に帰っているリザの事が心配そうであった玲愛を見て、流石に殺人事件現場に遭遇した直後でもあり彼女一人で帰らせることも出来るはずがない。
 故に一弥は彼女を後ろに乗せてやり、教会まで送っていく事にした。
 バイクに乗ったことが無い様子の玲愛は乗せていくという一弥の提案に一も二も無く了承を示した。
 二人乗りでバイクを走行させ、背中にピッタリと密着しているものに一弥が感じたことと言えば……まぁあの非常事態であったとはいえ感じたあのFカップとは比べるべくもない感触の虚しさであり悲しさだった。尤も、本人を前に言えばどんな酷い目に合わされるか分かったものではないので彼女には秘密であるのだが。
 そんなこんなでBカップの感触を大して楽しめもしないままに、気付けば一弥の運転するバイクは教会の前にまで辿り着いていた。

「ありがとう、送ってくれて」

 そう礼を言いながらバイクから降りる彼女に、どういたしましてと一弥は返しながら、久しぶりに目にする教会を見て改めてデカイ建物だと感慨を顕にしてもいた。特にシンボルともいえる十字架あたり、アレは結構な値打ち物ではないのだろうか。

「それじゃあ、また学校で」

 教会の扉を開けながら振り返り言ってきた玲愛の言葉に、一弥は視線を彼女の方へと戻しながら彼女の言った言葉に驚いてもいた。

「……先輩、今日も登校するんですか?」

 自分は眠いから帰って一眠りに就いてサボる気満々だったというのに随分と真面目で律儀な先輩だなと一弥は思った。
 けれど彼のそんな言葉に対しても、玲愛は当然だとでも言った様子で、

「これでも三年生だしね。それに……今日から藤井君も復帰するんでしょ?」

 玲愛の言葉に一弥もまたああ成程と納得した。
 確かに昨日退院したのなら、蓮の学園への登校はきっと今日からということになるだろう。
 彼女も後輩として蓮を可愛がっていたことや、何よりも凡そ二ヶ月ぶりの顔見せともなれば眠たかろうがちゃんと学校へは行こうというものか。

「授業中に寝たら駄目ですよ?」
「それはこっちが沢原君に言う台詞」

 俺今日はサボりますから、とは切り返しにくい雰囲気だったということもある。
 それに何より、

「それじゃあ、また学校で」

 もう一度同じ言葉を告げながら、氷室玲愛は別れもそこそこに教会の中へと入っていってしまった。
 結局、明確に登校しないとは言えないままに玲愛と別れて一弥は教会を後にした。
 ……まぁ、別に彼女にサボるだの何だの一々言う必要など無かったのだが。



 漸くに帰宅するなりベッドへと直行。突っ伏すように布団の柔らかさに眠気を誘われる心地良さを味わいながら、沢原一弥は眠りへと落ちる。
 夢は見たくなかった。きっと己の見る夢などろくなものが無いものばかりだということを知っていたから。
 だからこそ夢すら見ない深い眠りへと望んで沢原一弥は落ちていく………。


 次に彼が目を覚ましたのは丁度昼過ぎ。
 願ったとおりどうやら夢は見なかったようだ。無論、起きてすぐに忘れただけという可能性も無きにしも非ずだが。
 しかしながらそんなことを考えていても意味がなければ時間も無駄。覚醒した意識は二度寝という気分にもなれない。
 さりとてやる事はないというのも問題だった。……今から登校すれば午後の授業には出られるであろうが、今更重役出勤というのも面倒と言えば面倒である。

「……テレビでも見るか」

 一瞬、氷室玲愛の顔が脳裏へと浮かんだがそれについては努めて考えないことにする。別に彼女の言葉に応えたわけでもなければ、今から登校しても昼休みだって終る時間帯でもある。どの道彼女と会えるわけでもない。
 明日で良いだろう、そう自分に言いきかせながら気分転換で点けたテレビ。映った内容は丁度お昼のワイドショー。

「……って早速かよ」

 思わずゲンナリとそう呟いてしまったのはその内容……つまり、昨夜の殺人事件がもうネタとして取り扱われているのだ。
 正直、もう関わり合いにはなりたくない。面倒ごとは沢山だという意識からチャンネルを即行で変える。
 時代劇の再放送がやっていた。しかし番組は水戸黄門、それも以前に視た事のある話だった。これもチャンネルを直ぐに変えることにする。
 ……と言っても、真昼間にやっているテレビ番組など別段に面白いというものもない。少なくとも昼ドラはドロドロし過ぎていて苦手だし見る気にもなれない。
 結局、テレビは点けてみたはいいが直ぐにまた消してしまった。また振り出しに戻った一弥はどうしたものかとベッドに寝転がる。

「……暇だ」

 何だか人生を無駄に損している気分になってくる。タイムイズマネー、時間の貴重さが少しだけだが改めて実感できた気がした。
 そういえばとふと思い出しチラリと視線を向けた先……そこに置いてあるのは一枚の音楽CD。
 司狼の部屋からパクってきたデスメタルのCDだ。

「……先輩に貸す約束、してたんだっけ?」

 疑問系で独り言にせずともちゃんと覚えていた約束だが、何故か口からそんな呟きを漏らしてしまっていた。まぁ気分の問題だし、それはそれでいい。
 ……そう、約束だ。これは彼女との間の約束。

 約束は果たさなければ意味が無い。

 そう、ことその一点に関しては自分も並々ならぬ拘りがあるというのも事実だ。
 こうみえてどんな些細なものだろうが約束だけは反故にしたことがないのが沢原一弥にとっての密かな自慢でもあった。
 だからこそ、明日貸すと昨日の内に約束してしまっている以上、今日貸さなければ約束を破ったことにもなってしまう。
 それは……駄目だ。うん、駄目だ。
 何故だとかそんな事は二の次に、自分の精神衛生上それが宜しくないのだ。そういうものなのだから仕方が無い。
 強引な理屈で理由を補強しながら、しょうがないと言わんばかりの態度で、誰が見ているわけでもないのに見栄を張るように制服に着替え始める。
 鞄を持つ。約束の物をその中に放り込みながら、戸締りだけはしっかりと確認しながら部屋を出る。
 何だかんだと言いながら結局登校という選択肢を選ぶ他に無かった自分自身に呆れながら、沢原一弥は遅めの登校へと就いた。



「ちょっと一弥、昨夜は何処行ってたのよ? 連絡取ろうにも繋がらないし、待ってたのにちっとも帰ってこないし……挙句の果てには、こんな時間に漸く登校?」

 何考えてんのよアンタは、と登校するなり顔を合わせた綾瀬香純から早速ガミガミと文句を言われるこの事態にウンザリするように溜め息を一つ吐く。
 朝から……いや、考えればもう昼か。兎に角、登校早々にこのように文句をぶつけられれば重役出勤の気分も台無しである。

「ちょっと一弥、聞いてるの?」
「聞いてない。それで蓮は?」

 聞き流していた香純の言葉に適当に受け答えをしながら教室中の視線を走らせるが、今日から登校しているはずの幼なじみの姿が見当たらないことから、一弥は香純へとその疑問を尋ねていた。
 聞いていない発言に思わずムッとして爆発しかけていた香純であったが、振られた話題がこと藤井蓮に関することとあればそちらが優先させるのは乙女心とやらが成せる業なのだろうか。
 どちらにしろ、蓮の話題であろうと彼女の不機嫌な様子は変わらない。むしろ悪化してもいた。

「知らないわよ。アイツ、折角お昼誘ってあげたのに一人でどっか行っちゃうし」

 口を尖らせて不満を述べてくる香純の様子に、いったい何の事かと首を傾げる一弥であったが、長い付き合いでもある。よくよく考えれば何となくではあるが事情が察せられないわけではない。

「もしかしてアイツ……ハブられてるのか?」

 事件が事件である。二ヶ月という時間が経過しているが……否、時間が経過しているからこそより顕著になっているのかもしれない。
 要するに、藤井蓮は腫れ物扱いを受けている……そういう事なのだろう。チラリと自分と視線が合ったクラスメイトたちが即行でその視線を逸らす様子から見てもこれは明らか。
 噂が噂を呼び、恐ろしい不良のようなイメージが蓮へと定着してしまっているのか。あまり不良もいない学園なだけに異端となってしまったのか。

「でも、アイツの事だから全然気にしてないんだろ?」

 一弥の言ってきた言葉に食いつくように香純がそうよと勢いよく頷いてきた。
 まぁ蓮の性格を考えれば想像はつく。基本、事なかれ主義を貫こうとする彼は害意を加えられない限りは周囲の腫れ物扱いなどどうでもいいと思っているに違いない。
 元より自分たち幼なじみや氷室玲愛のような例外を除けば、進んで他人と友好関係を持とうとしない人物でもある。今更周囲の扱いなどだからどうしたとでも開き直っているのだろう。
 別にそれがそれで蓮の持ち味だとは思うし、一弥もまた程度の差こそあれあまり人の事を言えた性格でもない。だからこそ蓮の考えが分からないわけでもない。
 だが逆に周囲からの人気も高い、加え本人自身も社交的と言って良い性格をしている香純などからすれば理解も納得も出来ないのだろう。それ故に不満を抱いている。
 昔から正義感が人一倍強いという一面もある、正義は必ず勝つものなのだとどこまで信じているかは測りかねてはいるが、基本的に理不尽や不正には納得いかずに物申すような人物が綾瀬香純でもある。
 それが香純らしいと言えば香純らしいのだが……こればっかりはどうしようもないのも事実だ。

「……まぁ今は抑えとけよ」
「でもこんなの納得いかない」

 ピリピリと苛立ちも顕にする香純。やれやれと一弥はそんな彼女に呆れながら、この一言だけは聞いておくことにした。

「じゃあお前は一体全体何に怒ってんだよ? 蓮を腫れ物扱いしてる連中か? それともそんな扱い受けててもまるで気にしてないアイツ自身か?」
「全部。それにそれだけ分かってる癖して大したリアクションも見せないアンタにもよ」

 さいですか、と了承の態度を見せながらもいい加減ウンザリしてきていたのも事実なので適当に彼女との会話を打ち切って一弥は自身の席へと向かう。

「一弥、冷たい。……あたしたちたった四人の幼なじみなのに、何でそんなに他人事みたいに接せられるのよ」

 背中に香純から納得いかないと言わんばかりの文句が飛んできたが答えはしない。
 きっとこれは考え方の違いだから言ったところで意味が無いと思った、ただそれだけだ。
 蓮がそれで良いと思ってるなら、その選択を尊重してやった方が良い。無論、香純の心情も分からないわけではないが、それでクラスに波風を立ててしまうのも、結果的には蓮にとっては不本意になる。
 そう思ったからこそ、彼がこれで良いと思っているなら無理矢理にそれを壊すようなことはしない方が良いと思ったのだ。
 司狼の時に思い知った自分の幸福と他人の幸福の価値観が必ずしも同じにはならないという認識、それが分かったからこそ、もうあの手の繰り返しはごめんである。
 臆病なだけかもしれないが、これ以上今が壊れてしまうこと……それを恐れたからこそ沢原一弥はこのスタンスを選んだのだ。


 結局、昼休みが終わり午後の授業が開始され、そしてそれすら終って放課後へ至ってすら、藤井蓮は教室には帰ってこなかった。



「アイツったら一体何処に行ったのよ!?」

 うがーと喚くように不機嫌な香純に取り敢えず落ち着けよと一弥は宥めにかかる。
 重役出勤を堂々とかました自分が言うのも何ではあるが、確かに復帰初日から午後の授業は全てボイコットなどとは……随分と大胆な真似をするものだと少し感心してもいた。

「アイツなに考えてるわけ!? このままじゃあ絶対に留年しちゃうわよ!」

 確かに約二ヶ月の入院生活による欠席に今回のサボり。続くようなら出席日数等の関係で本当に留年してしまう危険性が無いわけでもない。
 しかしながら蓮とて流石にその気は無いであろうと一弥は思ってもいた。少なくとも成績面ならば自分や香純などより蓮の方が余程優等生だ。進学校という対面と、成績さえしっかりしていればお咎めは割りとないというこの学園の校風を考えれば、内申がどうなっているかは別にしても先の面さえ気をつけていれば何とかなる。

「……いや、むしろアイツだって留年だけは死んでもゴメンだと思うぞ。心情的に」

 少なくとも来年この目の前の女を先輩扱いしなければならないような状況など、自分なら絶対にお断りだ。
 蓮にプライドや面子が残っていて冷静な判断を下せるというのなら、そのような愚挙は犯すまい。

「……何か物凄く失礼なことを思われてるように感じるんだけど?」
「気のせいだ。まったくの。いや全然」

 ジト目で睨んでこちらの内心を疑ってかかってくる香純の言葉を適当に受け流しながら、まぁこんな日だってあるだろうと一弥は香純の説得にかかる。
 自分だって今日はサボろうと本気で思っていたし、実際昼まではその心算だったのだ。蓮だってきっと午後の授業をサボりたい気分にでもなったのだろう。
 そんなものだから気にする必要もなかろうと説得してみたのだが香純の不満は収まりがつかないらしい。
 何を始める心算なのかと見ていると、何やら蓮の机の上に千切ったメモをテープで貼り付ける作業に彼女は勤しんでいる。
 こいつは一体何がやりたいのか、そう呆れながら貼り付けたメモの内容を見てみると呆れた溜め息を思わず吐く他になかった。

『この馬鹿、あんたなんか留年しちゃえ! うがーっ!!』

 今日日、小学生だってもう少しマシな文面を書こうものだと思うのだが、割と真剣に書いて何やら満足しているようなのでその姿に更に呆れるほか無かった。
 きっと蓮がこれを見たらこう思うに違いない。

 心配するな香純。少なくともお前よりは成績が良い。

 そう思いながらメモをゴミ箱にあっさり棄てる蓮の姿が一弥には容易に想像が出来た。


 それで気が済んだのかどうかは知らないが、香純はそのまま部活に行くなどと言ってきた。
 流石にそれは一弥も止めようとした。幾らなんでもニュースを見ていないとは思えないし、ホームルームでも担任がちゃんと言っていたのだから。

「殺人鬼がうろついてるかもしれないんだぞ? 遅くならない内に早く帰れよ」

 部活など……こんな状況でそんなものをやり出そうとする女など少なくともこの綾瀬香純以外には沢原一弥も知らない。
 どう考えても馬鹿げている。自ら危険値を増やすような行動は頭が良い行動だとはお世辞にも言えない。
 ましてや、直接的に死体を見た者としてならば尚更に、である。

「でもさ、ここで奥義を習得しておいたら殺人鬼と出くわしても退治できるかもしれないし」

 何が奥義か、確かに竹刀を持った香純の強さが半端ないものだとは良く知っているし、自分だって敵わないとは思うが、それでも所詮は素人の域を出ない。
 あんな殺しを行うような頭のイカレテイル殺人鬼を相手に通用するとはとてもではないが思えなかった。
 だからこそ、その提案は却下させ無理矢理にでも帰らそうと思ったのだが……

「するったらするのー! 練習はサボりたくないのー!!」

 駄々を捏ねる子供のように言う事を聞かず、そのまま剣道場まで行ってしまった。
 バカだバカだと、今まで司狼や蓮と一緒に三人で散々バカスミなどとからかってきたが、一体あのバカ娘は何をムキになっているのか。
 だがああなれば自分が一体何を言ったところで聞き入れはしないということも長い付き合いからよく分かってはいた。
 だから自分ではどうすることも出来ないのだが……

「……しゃあねえな」

 やれやれだと、実に面倒臭いと言わんばかりの溜め息も顕にしながら、一弥は仕方が無いと蓮を探すことにした。
 教室に鞄を置いたままにしている以上、流石に帰ってはいないと思うのだがはてさて何処でサボっているのか。
 一番可能性の高い場所は――



「……やっぱ此処にいたか」

 校舎屋上、備え付けられているベンチの一つの上で呑気に眠っている幼なじみの姿を発見し、やれやれと一弥は溜め息を一つ吐く。
 思ったとおりの初っ端からの当たりクジだが……むしろ他に選択肢らしいものも無い以上、当たって当然なのだから大して嬉しくもない。
 というより午後からずっとこんな寒空の下でコートを着ているとはいえ眠っているなど、今度は風邪でも引いて医者の世話になりたいのだろうか。

「おい、起きろ! 風邪引くぞ」

 ドンッとベンチの足を軽く蹴って揺らしながら、そう声をかける。
 眠り自体が大して深くは無かったのか、思った以上にあっさりと蓮は身じろぎしながら目を覚まし始めた。

「……一弥、か?…………学校、来てたのか?」
「まぁな。所謂ところの重役出勤ってヤツだ」

 眠け眼を眠そうに擦りながら、しかし大した寝ボケをかます様子も無く蓮は身を起こしながらそんなことを一弥に言ってきた。
 一弥もまた適当な受け答えを示しながら、蓮が完全覚醒するのを待つ。

「…………寒っ」
「当たり前だ。十二月の寒空の下で昼寝なんぞかましたら普通に体も冷えるっての」

 コートの裾をしっかりと掴んで着込みなおしながら震える蓮に、一弥は呆れたような溜め息を吐きながらそう言ってやった。
 風邪を引いてないようなのは幸いなことだが、もうやらない方が賢明だと忠告しておくことにした。
 蓮も言われるまでもないといった様子で、分かっていると頷き返してくる。十分に懲りたといった様子だろうか。
 さて、起きてくれたならそれはそれで良い。さっさと用件だけ告げて目的を果たさせてさっさと帰りたい気分だった。
 事情を説明し、さっさと香純を連れて帰るように伝えようとする一弥の言葉を遮って蓮は言ってくる。

「……殺人事件の現場、目撃したんだって?」

 先輩から聞いたのだろうということは直ぐに想像が付いた。まぁ恐らくはこんな所で寝ていたところから考えても、昼からずっと此処にいて、玲愛と話でもしていたのだろう。
 ああいうことでも割とあっさりと話してしまいそうな雰囲気が玲愛には確かにある。自分が一緒に居たことも含めて、暴露していたとしてもおかしくはない。

「先輩、怒ってたぞ。自分は眠くてもちゃんと登校してるのに、同じ立場のお前が堂々とサボってるのを知って」

 蓮が言ってきた言葉にそうだろうなとは一弥も思っていた。もしかしたらそこら辺の愚痴まで付き合わされたのだとすれば、その点に関しては蓮にも申し訳ないなとは思う。
 まぁそこら辺に不満など抱くような人だったのかとは少しだけ一弥は驚きもしたが、逆の立場で考えてみれば、確かに腹立たしくも思いはするか。

「後でちゃんと謝っとく」
「そうしといた方が無難だな」

 そんなやり取りを続けながら、もうこの話題はここら辺で良いだろうと態度で打ち切る。
 自分たちにとって殺人事件などというワードが関連する話題は好ましいものではない。十一年前の事もあれば尚更に。

「香純が息巻いて道場で練習してるから、さっさと止めて遅くならない内に帰らせてくれ」

 物騒な時期だから、と敢えて直接的表現だけは避けて蓮へと頼み込む。
 蓮の言葉なら恐らく聞き入れるはずだから、きっとこの選択がベストのはずだ。

「……ああ、まぁ何となくだが了解はした。……で、お前はどうするんだ?」

 一緒に帰るのか、そう誘ってくる蓮に確かに三人一緒に帰るというのも久しぶりだし悪くもないと思ったりしたのだが、

「悪い、ちょっと用事が残ってる。それ済ましたら勝手に帰るから二人で帰ってくれ」

 尤も、直ぐに済むかもしれないし、もう今日は果たせないかもしれないが、どちらにしても約束は約束だ。登校の主目的を果たさぬままに帰るわけにもいかない。
 そうでなければわざわざサボろうと思っていた考えまで覆して登校してきた意味も無いのだから。

「分かった。まぁ遅くならない内にさっさと帰れよ」

 物騒みたいだから、そう言ってくる蓮に分かっていると頷き、一弥は彼に背を向けて屋上から去る為に歩き出し、

「ああ、そうそう。言い忘れてた」

 そう言って一度だけ立ち止まり、蓮の方へと振り返りながら一弥は彼へと言うべき筈だったその言葉を告げた。

「退院おめでとう。もう怪我なんてするなよ」
「……それ、昨々日の退院前にも言ってたぞ」

 そうだっけと聞き返す一弥に、蓮はそうだと言い返す。
 まぁ別にもう一回言おうが良いじゃないかと誤魔化しながら、とりあえずこれで蓮を含めた日常が戻ってきたはずだと一弥は胸中で安堵していた。
 それが錯覚に過ぎない事を思い知るのには、そう時間の掛からないことではあったのだが、それでもこの夕暮れの屋上までは、少なくともそう一弥は思ってもいたのだ。



 早々に人気を失った校舎の内部を徘徊しながら沢原一弥が当然のように思ったのは一つの事実確認。
 即ち、やはり殺人事件などというものは日常を破壊する異物でしかないのだろうということ。
 普段ならば十二月の放課後といえども、部活やら何やらで校舎に残っている生徒というのはそれなりの数がいる。
 特にこの月乃澤学園は進学校ではあるが、サッカー、バスケット、剣道などの部活動においては全国クラスの成績を誇っている所謂名門でもある。
 部活動に注いでいる力というのは大きい。まぁだからこそ名門や強豪たりえる成績を残せているのかもしれないが。
 兎に角だ、普段ならばそのサッカー部やバスケ部などを中心に健全な青春の汗を流す学生たちの姿、または進学校らしく受験に備えて勉強に励む学生たちの姿……それら諸々の学生たちによって彩られた放課後こそが、常の姿であるはずだった。
 それがどうだろう、殺人事件という本来ならば自分たちには無縁であるべき出来事が一つ発生した途端にこの伽藍堂じみた無人の校舎の姿である。
 人間が一人死ぬことはそれくらいに重いことなのだろうか。

「……いや、違うな」

 人間一人が死んだことがこの事態を引き起こしたのではない。
 自分たちのテリトリーたる日常の直ぐ傍ら……そこで起こった異常事態だからこそこうなったのだろう。
 考えてみれば当たり前の事でもある。遠くの戦争より近くの殺人事件……不謹慎ではあるがどちらに自分たちが脅威を覚えるかと問われれば、それも明らか。
 人間というのは実に都合の良い生き物で、海の向こうで何百人死ぬことよりも、隣で誰かが一人死んだ方が余程関心を持つ。
 齎される脅威の度合いの差異……つまり他人事で無ければ無い程に真剣に考え、警戒心も抱くというものだ。
 別にそれが悪いとは言わないし、間違ってるとも思わない。むしろ生きている者ならば誰もが持つ当たり前の判断。

「要するに、自分がそうなるのはゴメンだってことだな」

 偉そうに語っていても仕方が無いし馬鹿らしい、故に早々に現状への結論を一言で済ませながら同時に、徘徊していた足を止める。
 主だった思いつく限りの場所へは足を運んでみた。だが結果的には収穫なしという結論が待っていただけだった。

「……やっぱ、もう帰っちまったのかな」

 当たり前と言えば当たり前の答えでもある。
 そもそも彼女は自分が今日来てはいないと思っていたはずだし、何より元々放課後に顔を合わせるというのも稀なことでもある。
 ましてや少なからず今話題の殺人事件とは一般の人間よりも少しばかり深く関わったばかりでもある。事態への警戒度を察するなら、他の誰よりも真剣に抱いているのは当たり前というものだろう。
 確かに行動に奇矯さが目立つことも多いが、わざわざ人気の無い校舎に何の目的も無く残っている可能性というものの方が低い。
 放課後になって早々に既に下校しているというのが自然な結論に違いはない。

「……仕方ない。また明日だな」

 悪いのは自分だし、今日の分も含めて明日に纏めて謝り、目的を果たせばいいかとポジティブに一弥は考え直す。
 約束を反故にしてしまったことや、登校した目的が果たせなかったという結果は残念ではあるがそれも自業自得と潔く受け入れよう。
 そう結論付けながら、沢原一弥はそこで氷室玲愛の探索を打ち切ることにした。



 流石に冬にもなると日が落ちるのも早い。
 少しばかり念入りに校舎を徘徊し時間を取りすぎた結果か、学園を出る時間帯が六時を過ぎていたことも相まってか、すっかり太陽は地平線の向こうへと沈み、空には月が浮かんでいた。
 まぁ別に悪いことではないと思う。ド田舎でもないのだし街灯に照らされた街並みまでもが闇に沈んでいるというわけでもない。
 それに闇自体が嫌いというわけでもない。夕暮れ時の方が短くなってくれるというのならむしろ冬は嫌いではない。
 黄昏の夕暮れ時というのはあまり好きではない。鮮やかに染め上げる鮮烈な赤は嫌な記憶しか思い起こさせはしないから。
 だからこそ、むしろ夜がさっさと来てくれる方が個人的には好ましい。黒は全てを染め上げて隠してくれる。不都合なことも、嫌なことも、目を逸らしたいことも。
 だから夜はむしろ嫌いではない。夜の長い冬は個人的にも好きだといっても良い。
 ……体を震わすこの寒ささえ除けば。
 蓮がそういえばコートを着ていた事を思い出し、明日からは自分も着ていこうかなと少し思いながら歩いていたその時だった。

「失礼。尋ねたいことがあるのですが少し宜しいですか?」

 そういきなり問われてきたことに驚きながら、呼び止めてきた声の方へと沢原一弥は振り向いた。
 そこに立っていたのは一人の少女。年の頃は凡そ同年代、艶やかな長い黒髪に充分に美人と評して良い端整な顔立ち。
 これ程の美人なら一度見ればそれこそ忘れないレベルなのだろうが生憎と同じ学園の生徒でも無さそうなら、街で見かけたこともない。地元の住民ではないのだろうか。

「……え、ええ。何ですか?」

 臆する必要など何処にも本来ならば無いはずなのだが、その何処か超然とした感じがある凛々しさとも相まってか、思わず気圧されたように一歩引いてしまいながら受け答えの返答を出してしまっていた。
 だが少女の方は気圧されているこちらの様子など微塵も気にした様子も無く、先に言った尋ねたいこととやらを早速に切り出してきた。

「諏訪原海浜公園にはどちらへ向かえば行けますか?」

 あまりにも旬すぎるワード、それも良くも悪くも自分にも縁深い地名でもある。
 どうしてそんな場所へ行きたいのか、思わずそんな理由を尋ねようかとも考えたが、相手の発している硬質で鋭利な雰囲気がそれを尋ねさせるのを躊躇わせた。

「……あ、ああ。それなら――」

 仕方が無いので一弥は口とそれから方角を指し示した手振りなどで公園の方角を少女へと丁寧に教えた。
 少女もこちらの説明で行き方はだいたい把握できたのか、成程と一つ頷き理解を示しながら、

「助かりました。この街へは最近越してきたばかりでまだ地理には不慣れなので」

 だがお蔭で何とか向かえそうだ、そう言って礼を告げながら少女は用件が済んでこれで終わりだといった様子で早々に立ち去っていこうとする。
 先程教えた公園方向へと早速向かう心算なのだろう、目礼を示し傍らをすれ違っていく少女の姿に思わず一弥は見惚れてさえいた。
 印象的な長い艶やかな黒髪が流れていくのを思わず目で追いながら、同時に鼻が嗅ぎ取った微かな香り。
 香水の類なのだろう……そういうのに疎い一弥には無論銘柄など分かるはずもなかったが。
 だが香水と共に嗅ぎ取った別種のこの臭いは……


「ライオンハート――ユニセックスだね。凛々しいって感じかな」


 直ぐ傍らから聞こえてきた思ってもいなかった人物のその声に、一弥は思わず奇声を上げながら咄嗟に飛び離れてもいた。

「……その反応は、流石にちょっと傷つくかな」

 不満そうにジトっとこちらを睨んでくる氷室玲愛のその姿に、しかし驚きで心臓かバクバクと高鳴り、酸欠の魚のように口をパクパクと動かす他に無い一弥には咄嗟に何も言うことができなかった。
 というより頭が混乱しかけてもいた。そもそも何故彼女がこんな場所にいるのか、もうとっくに帰ったのではなかったのか。

「今晩は。サボり魔さん」
「……こんばんは、先輩。……後、心臓に悪いです」

 いきなりの不意打ち、流石に今回ばかりは肝が冷えた。殺人事件の現場を目撃した時とは別の意味合いで激しい動揺が走って仕方が無かった。
 だが玲愛の方はといえばこちらのそんな様子を気にした風でもなく、飛び離れたこっちへと当然のように近付いてくると共に、

「心臓バクバク?」
「……ええ、お蔭様で」
「私もドキドキ」
「……いや、手ぇ導かなくていいですから」

 さり気なくそんな会話を交わしながら自称Bカップへと触らせようとする手をやんわりと解き、深く溜め息を吐く。

「残念。意外に身持ち固いね、硬派なの?」
「初心なだけです。……それと後輩相手にこれ逆セクハラですよ」
「サービス精神」
「要りませんって」

 思わずコントのようなやり取りを交し合ってしまったが、何ら取りとめもないいつも通りの会話のようなものなのでそれはそれで別に良い。
 問題があるとすれば……

「……先輩、帰ったんじゃなかったんですか?」
「キミの方こそ、今日は学校サボったんじゃなかったの? なのに制服姿」

 補導されるよ、などと言ってくる玲愛にさてどう説明したものかと悩んでいたその時だった。

「ん」

 そうして、おもむろに手を差し出してくる玲愛の行動にそれこそ一弥は首を傾げる。
 いつも唐突に奇妙な言動を見せることはあるが、今回も取り分け一弥には彼女が伝えたいことは理解不能なままだった。

「“ん”じゃ分かりませんよ。日本語でちゃんとお願いします」

 こちらの要求を聞き入れたのかどうか不明だが、伝わらなかったことに少しだけ不満を見せながら仕方が無いといった様子で今度は彼女は言葉で言ってくる。

「ナイトになりなさい」

 それこそ唐突な言葉の意味が分からず、再び思わず「は?」と首を傾げてもいた。しかし玲愛の方は一弥のそんな姿すら殊更に気にした様子も見せぬまま続きの言葉を告げてくる。

「命を懸けなさい」

 これまたご大層な要求、というかハードルがかなり高くないだろうか。

「……えっと、とりあえずどういうことで?」
「か弱い乙女を守りなさい」

 聞き返す一弥の言葉に淡々とそう返してくる玲愛。どうでもいいが何故に命令口調?
 そうは思いながらも、やはり沢原一弥とて氷室玲愛とは長い付き合いである。彼女の言動や現状を考慮に入れながら、自分なりに彼女が言いたい事を要約すれば……

「……つまり、家まで送れと?」

 コクリと頷く玲愛を見て、やっぱりそういうことかと彼女の言葉の意味が解読できたことが少しばかり嬉しくもあった。
 まぁ昨日の今日でもある。元々彼女に用事が有ったのだしその辺りに関しては願ったり叶ったりであったのも確かだ。
 良いですよと答えるこちらに満足気に頷きながら、されど差し出してくるその手を彼女は下ろそうとしてこない。
 疲れるだろうにとそんなことを呆然と眺めやりながら思っていた時だった。

「誓いの口づけは?」
「んな恥かしいこと出来ません!」

 宝塚歌劇団みたいなことをやれと言われて了承できるはずがない。加えて、姫君の手の甲に口づけを交わす騎士の真似事など往来でやるには羞恥プレイ過ぎる。第一、自分はそう言ったキャラには似合わなさ過ぎる。
 断固拒否の姿勢を見せる一弥につまらないといった視線も顕に見せてくる玲愛の様子に、それこそ本気で内心疲れながら呆れていたのはここだけの秘密である。



[8778] ChapterⅠ-6
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 22:58
 今朝はバイクで辿ったその道を、夜になって今度は徒歩にて進み続ける。
 奇妙な感慨に捕らわれかける己の心を何でもないと振り払いながら、言いつけ通り姫君をエスコートする騎士の役割を果たしながら沢原一弥は氷室玲愛を連れて進む。

「とは言っても、本当に何か出ても先輩を守り通せる自信はありませんけどね」
「私が逃げる時間くらいは稼いでね」

 まぁ必然的にその下りにはなろうが……本当にこの人なら自分に任せて躊躇い無く逃げそうだから何とも言えない。
 寧ろ、自分の方が彼女を守ることも忘れて真っ先に逃げそうなものだと思いもするのだが、彼女はその辺りは考慮に入れていないのだろうか。

「沢原君はお人好しだから、何だかんだ文句を言っても人を放っておけない性格」

 よく分かっているような口振りで言ってくる玲愛。せめてお人好しではなく、好い人と言って欲しいものだが。
 だがどちらにしろ、一弥は己をお人好しとも好い人とも思っていなければ、そんな風に他人から見られたいとも思っていない。
 何故なら……

「そう言ってますが俺ってこれでも結構薄情ですよ? 結局、自分が一番可愛いとも思ってますし」

 精々含めて身内くらいしか無茶を発揮してでも守ろうとか助けようとは思えない。赤の他人に親身になれるほどに自分が人間出来ているとも思っていなかった。
 結局は線引きである。ラインを引いた内側と外側の区別で総ての物事、優先順位を決める。単純で利己的な思考だがずっとそうしてきた。
 ラインの内側なら助ける、守る。どんな手段を使おうとも。
 ラインの外側なら状況次第、傍観し、或いは見捨てたり知らん振りをするのが大半だ。
 このどちらかしかない。単純で二択に分けることで必要以上に背負わない代わりに、大切なものだけは失いたくない……要するに、沢原一弥の生き方とはそういうものだ。

「でも少なくとも藤井君や綾瀬さん……それに遊佐君には親身。彼らは特別扱いみたいだけど?」
「そりゃあ……まぁあいつらは付き合いも長いですからね」

 物持ちも続ければ愛着が湧くのだ、そう適当に誤魔化しはしたが一体何処まで彼女を騙せていることやら。
 否、浅はかなこちらの言動程度に惑わされるほどに氷室玲愛という人間は易くはない。そうでなければここまで頭の上がらない力関係はそもそも成立してもいない。
 きっと総てこちらの言動などお見通し、それで敢えて分かっていて彼女はこちらを試すようにからかっているのだ。
 彼女のこういうところは苦手だ。本心を見透かされて逃げ道が無いように錯覚させられ、酷く居心地の悪い気分にもなる。
 先輩らしいといえば先輩らしいのだろうが……正直、もう少し何とかならないだろうか。

「いつも仲良し幼なじみ集団……けど、キミのそれは信頼や友情と言うよりは依存だね」

 ご尤もだ、そう玲愛の指摘を内心では正直に受け止めている。
 そう、自分のこの蓮や香純や司狼へと向けているモノは、彼女の言う通り信頼や友情などと言うご大層で上等なものではない。
 酷く利己的で保守的な価値観、まさにそんなものだ。少なくとも、沢原一弥が己を己として成り立たせる為にはあの三人が絶対に不可欠なのだ。
 あの三人を無くしては沢原一弥は沢原一弥でいられなくなる。それが充分に分かり、恐れを抱いているからこそ、だからこそソレに拘る。
 四は一つ欠け三になってしまった。何よりも神聖で不可侵であったはずのソレは、自分が思っていた以上にあっさりと儚く脆いものでしかなかった。
 だからこそ、これ以上の欠落は許されない。守る、守らなければならない。
 それが沢原一弥自身の存在意義であり、そして贖罪でもあるとすれば尚の事。
 だからこれ以上、己のラインの内側に入り込む異物は――

「そう言えば、さっきの彼女。随分と美人さんだったね」

 急に話題を百八十度変えてくるのはこの人の悪い癖でもある。
 だがお蔭で悪い方向に脱線しかけてもいた思考が急速に彼女の言葉で建て直しを受けて復帰する。
 話題も話題であり、先程から頭の片隅からどうしても離れないモノがあったのも理由の一つだ。

「美人さんって……あのさっきの子のことですよね?」
「そう。沢原君の心を盗んでいったライオンハートの君」

 ルパンかよ、と思わず突っ込んでしまったが目の前の自称銭形は前言を撤回するだとかそういう心算は無いらしい。
 やれやれと首を振りながら誤解している玲愛へと一弥は告げる。

「確かに美人だとは思いましたよ。……けどね、心なんて盗まれてませんよ」

 むしろ少しビビッていたくらいだ。そんな甘酸っぱい感情を抱く余裕すらも先の彼女と対峙していた間は無かったと言っていい。

「その割には鼻の下が伸びてた」
「伸びてません。いや絶対に」

 玲愛の指摘してくる言葉にそんなはずはないと断固否定を示す。とはいっても、本当にそうだったかどうかなど一弥自身にとて確証は無いのだが。
 だが少なくとも……

「……俺はむしろ、怖いとか思わず感じてたくらいです」
「……怖い?」

 玲愛の鸚鵡返しに一弥はコクリと頷いた。
 そう、怖い……これはあの時の正直な沢原一弥の本音でもあった。
 何故とかどうしてだとか理由や理屈を求められても答えることは出来ない。だが少なくとも、先の少女に思わず感じてしまったソレは本能が正直に訴えてきたもの。
 ……そう、例えるならば自身の天敵と対峙してしまった時に生物が感じる本能的な危機感。
 あの凛々しいとはいえ華奢と言っていいような少女の姿に何を怯えているのかと笑われそうではあるが、それでも少なくとも自分では覆せそうにない絶対的な何かを感じずにはいられなかった。
 それに彼女のあの眼と、そして件の香水に隠されていたにも関わらず僅かに嗅ぎ取った気がしたあの臭いは――

「……兎に角、彼女みたいなのは俺のタイプじゃありません。俺はもっと……何て言うんですか、清純派? もっと大人しくてお淑やかな女の子がタイプなんですよ」

 適当に誤魔化しながら先の少女の話題を強引に打ち切る。
 もう会うことは無いだろうが、己の精神衛生上的にもあまり記憶に残しておきたくはない相手だ。
 本能的な忌避感とでも言おうか、兎にも角にもこれ以上のこの話題は好ましくない。
 だからこそ方向性も違うであろう話題へと適当に口走って変更させてみたのだが……

「つまり、私みたいなのがタイプ?」
「…………」
「何、その沈黙……凄く失礼な気がする」
「……いえ、中々にスパイスの効いた冗談だと思ったもので」

 殴られそうになったので慌てて身をかわす。
 殴れなかったことが不満そうな表情でジト目で玲愛が睨んでくるが、一弥は苦笑いで受け流す他に無かった。
 まったく……冗談がキツイ、だろう。

「安心してください。先輩にそんな邪な想いを抱くほど恥知らずな後輩じゃありませんから」
「そう? 後輩が思わず劣情を抱いてしまうような魔性のお姉さんを目指してる心算だったんだけど、魅力不足?」

 んなもん目指さんでくださいと呆れながらに一弥は玲愛の言葉に首を振る。
 やはりBカップは駄目なのだろうか、などと胸の話題に直結してブツブツと悩み始めている玲愛に、この人は本当に掴みどころが無いと正直に思いもした。
 まぁだからこそ、話していても飽きない。そう正直に思うことも出来るのだろうが。

「まぁ恋愛感情云々は抜きにしても、先輩には色々と感謝してますから」
「そう。まぁお姉さんに慰めて欲しい時はいつでもいらっしゃい」

 出来ればそのような機会は訪れないに限るのだが、一応の誘いだからと適当に受け答えを返しておいた。本当に、何処まで本気か分からない人である。

「まぁ沢原君の好きな人は別にいるのは分かってたけど」
「!?……そ、そんなのいませんよ。ええ、全然ッ!」

 いきなり言われたその言葉に不覚にも動揺して反射的に言い返してしまい、ニヤリと邪な笑みで返してくる玲愛の顔を見てしまったとそこで漸く思い至ってしまった。
 度し難い失態、自ら墓穴を掘ろうなどとは……

「大変だね。三角関係も」
「……何の事か図りかねますね」
「キミたちは本当に複雑な関係だね。神様も……うん、本当に残酷だ」

 なんなら今度一発代わりに殴っといてあげるよ、などと言ってくる教会住まいの彼女の言葉にそれで良いのかよと呆れるのと同時に、彼女が本当に何処まで知っているのかが気になっていたというのも事実だ。
 少なくとも、好きとか云々とかそういった部分は別としても……常に気に留めている人物が居ないわけでもないのは確かだ。
 だが今まで素振りに微塵も(少なくとも自分では)見せた心算もなかったし、玲愛がそんな風に把握しているなどとは思ってもいなかった。
 だからこそ動揺が走っているわけでもあるのだが。

「安心していいよ。私は誰にも口外するつもりもないし」

 そう言ってきた彼女に思わずホッとするも、それ自体が彼女の言葉そのものを認めるようなものだとも思い、慌ててそれを自制する。
 ……そう、そもそもこのような感情を抱いて良いはずもなければそれを認めることすらあってはならない。
 そうでなければ沢原一弥は己を己として成り立たせることが出来なくなる。
 それが理解できていて、それを恐れているからこそ、一弥は玲愛の指摘してきたこの感情だけは否定しなければならないのだ。

「あんまり肩肘張って思いつめてばかりいない方がいいよ。そういうのって疲れるから」

 どこまで把握しているのかは本当に分からないが、彼女の言っていることが正論であり、そして事実その通りであるというのも確かだ。
 故にこそ、反論云々が出来るはずも無く、その言葉にただ一弥は頷く他になかった。



 それから以降、適当な雑談を表面上でこそ交わし合いながら、そろそろ教会が近付いてきたのを一弥は察し、そろそろ本来の目的を果たさなければならないなと思い返し実行に移すことにした。

 そう、約束とは果たされなければ意味が無い。

「先輩、昨日約束していたコレ」

 そう言いながら鞄から取り出し、彼女へと渡したのは一枚のCD。
 昨日、貸すことを約束していた例の物……本来ならば遊佐司狼の所有物であるはずのソレだ。
 わざわざこれを渡す為にサボりを撤回してまで登校したのだ。ここで渡さなければそもそも行動の意味が無くなる。
 ……何より、約束を破るという行為自体が沢原一弥にとっては避けるべきことなのだから。

「……ああ、そう言えば昨日話してたね。良いの?」
「どうぞ。どうせ司狼のですから聞き飽きたら売っ払おうが捨てようが好きにしてください」

 非常に人としてとてもではないが褒められざるべき事を口走っているのだがそれもどうでもいい。
 一弥にしてみればコレは司狼へのささやかな復讐も兼ね備えた行為なのだから。
 どうせ文句をつけてくる相手もいない。分かっていればむしろ清々する。
 ……あぁ、清々ついでに言うならば、

「ヘッドホンで聞けって言ってましたけど、むしろ礼拝堂ででも大音量で鳴らしてください」

 自分で昨日は自重しろと言っていたが気が変わった。実に勝手な言い分だが、神様とやらに何故だか腹立たしい気分を抱いてきているのも確かだ。
 だからこそ、

「一発ぶん殴るより、余程いい嫌がらせでしょう?」

 ニヤリと笑って告げる一弥の言葉に、玲愛も言っている言葉の意味が分かったのか心得たと同じような笑みを浮かべながら頷いてくる。
 揃いも揃って罰当たりな不信信者二名の誕生である。

「沢原君も意外と分かってきたね」
「お蔭様で。先輩にすっかり影響されちまいましたから」

 そう軽い調子で言葉を交わしあい、思わず笑みも浮かべあう悪ガキのような姿を互いに曝しあいながら、夜も遅くなってきて物騒ということもあり、それではと別れを告げる。

「気をつけて帰りなさい」
「ええ、先輩こそちゃんと戸締りはしっかりしてくださいよ」

 まさか教会に乱入してくる殺人鬼だとは思えないが念には念を入れておいた方が良い。異常者には理屈というものが大概は通用しないものだから。
 背を向けて教会の中へと入っていく玲愛の姿を朝と同じように見送りながら、一弥はさてとと軽く身を伸ばしながら、自分もさっさと帰った方が良いのだろうなと結論付ける。
 そう、夜は物騒だ。特に最近……極めつけの昨日からのことを思えば尚更に。

「平和な夜ってのは来ないものなのかねぇ……」

 呟くまでも無く、それが当分はこの街に訪れることが無いであろう事は予感ではあるが感じ取ってはいた。

 寧ろ益々に惨劇の様相を深めていく……その更なる災厄の到来は彼が予感しているよりも直ぐ近くにまで来ていた。




「――来た」

 ポツリと櫻井螢が呟いたのはつい今し方に感じ取ったその気配がより確実に、そして濃厚なものとしてこのシャンバラに踏み入って来たことを感じた為でもある。
 獣を狩る為に狩人(ハンター)が、半世紀前から血に餓え、爪牙を磨き尖らせてきた狂犬たちがやって来たのだ。
 間もなく、この街の夜は染まる。
 赤く、紅く、血の色によって鮮明に。
 八十万という命の数が何一つの例外すらなく刈り取られ、喰らい尽くされる。
 それが彼らが……そして己もまた求めてきた戦争だ。
 戦争……そう悲願を成就させるための大儀式とも呼んで良い宴の始まり。
 出遅れも乗り遅れも本意ではない。だからこそ、始まりさえ迎えたならば一切躊躇はしないし立ち止まる心算もまたない。
 覚悟は既に固めてある。その為の姿勢において年寄り連中に遠慮や気兼ねを抱く心算も毛頭ない。
 だからこそ、殊更に卑屈になることもなく、さりとて挑発を向けるわけでもなく、ただ淡々と同胞を迎え入れるその事実としてこの言葉だけを彼らには贈ろう。
 ……尤も、こちらのことなど同胞意識も歯牙にも持たぬ者たちには不要な言葉なのかもしれないが。

「ともあれ、ようこそシャンバラへ」

 恐らくは師もまた迎えに出て彼らに同じ言葉を言っているのではなかろうかと想像しながら。



「ようこそ――お待ちしていましたよ、お二人とも」

 諏訪原市に入るための入り口にあたる高架上。
 その橋の上にて僧服に身を包んだ金髪に眼鏡の男が歓迎を示す態度でそう告げる。

「本当にお久しぶりです、ベイ中尉にマレウス准尉。月並みですが、本当に相変わらずのようですね」

 穏やかと評して良い、知己の旧友へと向けるかのような言葉に答えるのは二人の黒衣を纏った人物。
 だが凡そ、人の形をしてはいても身に纏うその気配、その発する臭いはとてもではないが人と評するにはあまりにも躊躇いを覚えずにはいられない。
 その言葉を発している神父自身も含め、対峙し合う三者は総じて人と呼ぶことは憚られた。
 それも当然か。彼らは人であった人にあらず。常識の埒外にある理外にその身を置く魔人。人を殺すことはおろか喰らい尽くすことに特化した生粋の人喰い。
 呼吸し、徘徊する、生きた災厄とさえ言って良い存在だ。

「はンッ」

 神父の口にした言葉に対し、それこそくだらないものだと言うように鼻で笑い飛ばしたのは黒衣の内の一人。まだ容貌的には若者と言って良い男である。

「相変わらずってぇことは、昔のまま進歩ねえって言いたいのかよクリストフ。言葉選ばねえと死ぬぞてめえ」

 凡そ礼節の欠片も言葉の節には込められていない無頼そのものの物言い。だがそうであっても少なからずの同胞には理解を齎す彼流の親しみを込めた言葉であったのは、向けられた当人を含めこの場の誰もが理解していたのは確かだ。
 男――白蝋のような人とは思えぬ肌をした一見した優男だが、しかしだからといって彼を貧弱などと思おうものがいるとするならば、それこそ愚行の極みだとも言えるだろう。
 例えるなら大型の爬虫類。体温をまるで感じさせない冷たい肌色は、しなやかさを伴っているその肉体とも相まり、なにより発する獰猛な獣然としての物腰がその隙の無さを拍車を掛けて強調している。
 白面外道。ブラッドサッカー。戦場で数々の恐怖と共に恐れ戦かれた忌み名の数々は決して伊達や酔狂で彼をそう成り立たせているわけではない。

 カズィクル・ベイ――聖槍十三騎士団、黒円卓の第四位。現存する獣の爪牙においても最強の一角と評されるに相応しい魔人としての貫禄が彼には確かにある。

 対して――

「ごきげんよう神父様。あなたは本当に変わってないわね。少し怠けすぎなんじゃないかしら」

 鈴を転がすような声を発し笑うのは、その声の印象が示す通りに一見するなら可憐な少女。
 その声も、姿も、鬼気を自然と発する魔人たちの邂逅場たるこの場において最も不釣合いと言っても良い人物なのだろう。
 実際、同じ黒衣を纏い、同じ鬼気さえ発していないならば、凡そとてもではないが彼女もまた人外羅刹の一人だなどと誰が思おうか。
 しかしながら、事実として彼女もまたこの場に存在するに相応しい魔人の一人。
 美しさの裏に猛毒を隠し持つ花。典型的なその見本とも言って良い存在。

 マレウス・マレフィカム――聖槍十三騎士団、黒円卓の第八位。かつてのドイツ古代遺産継承局……通称アーネンエルベに初期から在籍し、自身もまたまだ魔導に精通した齢だけならば騎士団においても最年長に分類させる生粋の魔女でもある。


 両者共に半世紀の雌伏の時を乗り越え、こうしてこの地へと集ってきた生粋の殺人狂にして亡霊。人と呼ぶのも憚られる狂気の人喰いたちである。
 そんな彼らを同胞として迎え入れるその神父、彼もまた……否、その格と人から乖離した異質さを鑑みれば、或いは先の二人すらも凌駕しかねないのも事実。

 クリストフ・ローエングリーン――聖槍十三騎士団、黒円卓の第三位。幹部不在となった現組織において最高指揮権を与えられている首領代行でもある。

「私はしばらく、隠棲していたものでしてね。まぁ怠けているのも今に始まったことでもなし、一応それなりの理由もありますが、説明責任を求めますか?」

 尤も、それすらおくびにも出さぬ自らを無能者然と演出した振る舞い。彼の真意がどこにあり、何を目的としたものなのかはさしもの二人にも読み取れないようではあったが。
 それにそもそも……

「要らねえよ、知った仲だ。堅苦しいのはやめようぜ。
 俺が知りたいのは一つだけだ。今、シャンバラには誰と誰が入ってる?」

 ベイが切って捨てるようにそう言った通り、そんなものには興味は無い。
 互いに不都合な干渉を起こしてこない限りにおいて、黒円卓は同胞の動向などに一々関与などしない。
 故にこそ、早速というか本題のみにさっさと入ってもらった方が都合が良い。
 自分たちは半世紀以上も待たされたのだ。いい加減、お預けにはそろそろ限界というものだ。
 ベイの視線と態度、そしてマレウスもまた見せる同様の態度から、クリストフもまた成程とそれに対しては頷きを示す。
 狂犬たちにこれ以上もったいぶるのは我が身に対しての危険でもある。早々にこれは答えた方が良さそうか。

「レオンハルト、ゾーネンキント、バビロンにトバルカイン……そしてあなた方お二人の計六名ですよ、ベイ中尉」

 しかし、ベイの問うたその言葉に答えたのは、口を開きかけたクリストフを差し置いて言葉を発してきた別の人物。
 自分の言葉を取られたクリストフは元より、ベイとマレウスもまたその言葉には聞こえた方向へと関心とそして僅かながらの殺気も込めながら振り向く。

「……何だ、居やがったのかよ? ハエ野郎」

 不機嫌そのもの、それどころか露骨な殺気すら隠すどころか収めようとする素振りすらもなく闇より出てきたもう一人の新参者へとベイは言葉を向ける。

「あらアルベルトゥス、あなたまだ生きてたのね?」
「ええ、お蔭様で。それにしてもマレウス准尉、此度は随分と可憐なお姿ですね」

 オブラートに包むも何も無い直球の嫌味を受けて尚、まったく自然に受け流しながら言ってくるアルベルトゥスの言葉にマレウスは嫌味も通じないのかと言わんばかりにつまらなさ気に一瞬鼻を鳴らしながら、しかし表面上だけは友好的な笑みを浮かべて言ってくる。

「あら、ありがとう。結構この姿って気に入ってるからお褒めに預かり光栄だわ」
「六十年前の貴婦人然としたあの姿もお美しかったが、その姿は姿で勝るとも劣らずといったところでしょうか」
「あらいやだわ。そんなに褒めてくれなくても結構よ。あなたなんかに褒められても全然嬉しくないし」

 笑みとは裏腹に交わす言葉の節々の込められている嫌悪の類は露骨な程に棘に満ちたものばかり。
 相当にマレウスに自分が嫌われていること、それをアルベルトゥスは改めて実感する。
 まぁこの辺りは彼女に限った話ではないが。

「おい、誰の許可とって話に割り込んできてんだよ。あんま調子乗ってっと殺すぞ」

 こちらはこちらで露骨と言うレベルですらない、直球の喧嘩腰。自分から言葉をかけているにも関わらず、会話など交わしたくもないという矛盾した理不尽とも言っていい拒絶感をありありと発している。
 先のクリストフに向けて言ったある種の親しみを込めて呟いた無頼の言葉ではない。言葉通りの本質を指し表した殺意を込めた言葉である。

「お二人とも、彼もまた同じ同胞。仲間内での喧嘩はご法度ですよ」

 ベイとマレウスが顕著に示す殺気と態度に、やれやれだと言った様子でクリストフが仲裁に入る。
 ……尤も、それは彼の立場上において仕方の無いことでしかなく、言葉の表面上以上の思いなどまったく込められていない事務的な態度は明らかであったが。


 見事なまでの嫌われぶり。アルベルトゥス当人もまた予想していた事とはいえ、ここまで露骨ならこれはこれである種清々しいと本人自身までもが思ってしまうほどの徹底さだ。
 別にこれはこれで自然ともいえるものだから、今更にアルベルトゥスの方にしてもこれで不快感を抱こうと思うはずもない。
 彼らの自分嫌い……否、自分を通しての師を嫌悪しようとする態度は半世紀も前から当たり前のことであり、今に始まったことでもない。

 元来、我の強い己こそ最優を自負する魔人たちが黒円卓などという組織の元で轡を並べることが出来た理由とて、かの黄金の獣への畏怖と忠誠、そして水星への許容し難き憎悪があってこそ。その共通点のみが、彼らにとっては共有すべき価値観であり、同胞意識だ。
 それを持ちえず、それどころかかの水星などを事もあろうが崇拝しているような狂人をどうして彼らが誉ある黒円卓の同胞と迎え入れることが出来ようか。
 そして認め難きことではあるが、かの水星が自分たちでは未だ及びもつかぬ領域に位置する魔人であるということもまた事実。それ自体すら度し難いほどに腹立たしい現実だ。
 易い代替意識であろうと、遙か高みに存在している妬ましい化物と、直ぐ傍らに存在しているその二番煎じの狂信者。矛先がどちらに向けやすいかを考えればそれも明らか。
 無論、かといって当の水星自身を決して許容など出来るはずがないのもまた彼らなのだが。


 どちらにしろ、彼――アルベルトゥス・マグヌスは黒円卓にあって黒円卓にあらず、彼らにとっては決して同胞などと認めることは出来ない異端でしかなかった。


「兎に角、先に彼が言った通りの人員が今現在シャンバラに待機している団員の全てです」

 それに対して了解したと頷くベイとマレウス。いささか子供染みた態度だが、決してアルベルトゥスだけは視界に収めようとすらしない徹底した態度だった。

「つーか、クリストフ。てめえは何でシャンバラ入りしてねえんだよ」

 目と鼻の先にある諏訪原市、それを目前にして尚この場で待機を続けているクリストフの行動が解せないといわないばかりにベイが問い返す。
 最高指揮権を預かっていて、此度の戦争の指揮官でもある人物が足を踏み入れず、兵たちだけが待機している様など……少なくともベイの価値観で言えば茶番もいいところ。
 段取りの説明と指揮官不在のままでは祭が始められるはずもない。

「私は後四、五日は此処で待機しているよう……そちらのアルベルトゥス卿に頼まれてもいますので」

 向けられる矛先をクリストフは今度はやんわりとした態度のまま、件の人物の方へと変更させた。
 自分の口からは説明する気も無い。クソいけ好かない野郎の声をまた聞いて視界にも納めなければならないという事実に辟易しながら、ベイは相変わらずの不機嫌かつ鋭い視線を件の人物の方へと向ける。

「で、そいつはどういうことだ?」
「発言の許可が頂けるので?」
「おう、許す。だからさっさと手短に且つ理解できるように説明しろや」

 出来なければ殺す、と本当に有限実行しかねないような物騒な態度で拳をボキボキと鳴らしながら、ベイは相手の返答を待つ。

「正確な現状を説明するなら……未だシャンバラはその機能を完全には目覚めさせてはいません」
「……つまり、儀式の場としては未だ不完全って事かしら?」
「然り。本来ならばヴァルキュリア……キルヒアイゼン卿が捧げられた第一のスワスチカが開くことでシャンバラはその機能を活性化させ始めるのですが今のところ現状では……」
「まだスワスチカが開いていない。開くにはもう少し時間が掛かる?」
「そういうことです。そして聖餐杯猊下は我らの中では格別の存在力を有したお方でもあります。猊下の認識如何に関わらず――」
「不安定な場へ予期せぬ影響を与えかねない。だから念には念を入れて、シャンバラが上手く機能してくれるよう安定するまで神父様には外で待機していてもらいたい……そういうことね?」
「はっ。ご理解いただけて何よりです」

 いつの間にやらマレウスの方が会話を交わして確認を取っている始末だが……まぁ魔女である彼女の方が儀式だの何だのには詳しいし、別にソレは構わない。
 ベイもまた二人の会話のやり取りで凡そではあるが問題点は理解できた。クリストフもまた納得しているのだからこの場で待機しているのだろう。だからそれもどうでもいい。
 どうでもいいが、それでも問題があるとするなら……

「……なんだぁ、なら俺たちはそれまでてめえの指揮下で動けって事なのかよ、副首領代行補佐殿?」

 此度のシャンバラの儀式において任命されている相手のそのふざけた肩書きを呼びながら、ベイは納得できるかと言った様子で睨みつける。
 百歩譲ってクリストフならば首領直々に指揮権を譲渡されているので納得も出来よう。しかしよりにもよってあのクソ野郎が碌な説明すらせずに特別権限というふざけた理屈で例外的な指揮権をこの男に与え、それが当然のように認められているという事実に納得できるはずがない。
 少なくとも、眼前のこの男が自分に命令できる資格を有しているなどとベイにはとてもではないが認められるはずもない。
 それは恐らく、マレウスとて同様。
 しかし――

「中尉、これは首領代行としての私の命令でもあります。承服の拒絶は黒円卓……否、ハイドリヒ卿への叛意と捉えかねられませんよ」

 クリストフが割って入ってきたその言葉に、それこそベイはアルベルトゥスに向けていたその視線を今度は彼の方へと叩きつけるように向け返していた。
 怒気……否、それは純然な殺気が内包された苛烈なまでの眼光。
 しかしクリストフはそんなものを向けられて尚、何ら臆した様子は見せない。仮にも現状の黒円卓を預かる最高指揮官。首領代行の肩書きは伊達で決して背負えるものではない。

「忠誠こそ我らが名誉。その意味をよもやお忘れではないでしょう」

 気に入らない、承服出来ない云々ではない。
 従え、それが事実上のハイドリヒ卿から命じられている要請ならば……例え無頼を気取るベイであれ、よもやマレウスにしても拒否の選択肢そのものがありえない。

「……ククク、ああ、分かったよ。オーケイ、了解した。
 クソッタレ、俺だって首領に喧嘩売ろうなんざ大それたことはしやしねえよ」

 そもそも既に半世紀以上前のあの出会いの時に、彼らは完全に黄金の獣のその力を前に完全な屈服を強いられている。
 魂に直接刻まれたといっていいあの悪魔の恐怖を前に、己のプライドを持って立ち向かえる無謀な愚者は黒円卓には存在していない。
 それに何より、カズィクル・ベイは誰よりも早くあの獣に忠誠を誓った爪牙だ。自らのアイデンティティとさえ言えるその自負もまた、そのような考えを許すはずがない。
 故にこそ、クソ忌々しいことこの上なかろうとも、これを覆すことは不可能。

 忠誠こそ我らが名誉。その誓いの言葉がある限りは……


「で、俺たちには何をさせる気だ? 掃除でもしとけばそれで良いのか?」
「掃除っていうか狩りでしょ? そのメルクリウスが遣すって言ってた件の代理……それを狩るのが目的って事で構わないのかしら」

 元々その目的の為に自分たちは呼ばれていたはず。
 忌まわしい副首領の代行……生死の有無を問わず見つけ出して狩りとる、これは儀式の成就にならぶ彼らにとっては最優先目的の一つであるはず。

「ええ。とりあえずはレオンハルトにこの件に関しては一任しておりますので、新兵に経験を積ませ顔を立ててやるという意味合いにおいてもよろしくお願いします」

 ベイとマレウスの問いに答えるようにクリストフがそう言ってくる。
 アルベルトゥスが口を挟んでこないということは、彼の監修するシナリオにおいてもそれに異存は無いということなのか。

「レオンハルトって……確かヴァルキュリアの抜け番で入った……」
「ええ、私がエイヴィヒカイトを教え込んだ不肖の弟子です」

 マレウスの言葉を継ぐように今度はアルベルトゥスがそう答えてくる。
 彼の弟子、十一年前にかのヴァルキュリアの後釜で入った少女……

「あなた達も面識はおありでしたね。あのお嬢さん、アルベルトゥス卿が十一年という手塩にかけて育てた甲斐があったのか、なかなかどうしてたいしたモノになっていましたよ」

 クリストフもまた保障するように言ってきたその言葉に、二人もまた興味が湧いたように成程とある種の好戦的な視線をその件の人物の師である男へと向ける。

「恐縮です。ですがまだ若輩であるのも事実、皆様の方から是非ともそのフォローの方があればと図々しくも願うばかりで」

 メルクリウスの弟子の弟子。十一年前に己が空き座につくこともせずにこの男が外部から引き入れて一から育て上げたという相手。それは是非とも――

「二人とも。分かっているとも思いますが、彼女の存在は黒円卓には必要なのです。くれぐれも十一年前の繰り返しのようなことは起こさぬよう、お願いしますよ」

 不穏な雰囲気を二者が発していたのを察するように、やんわりと釘を差す言葉を二人へと向ける神父。
 両者もまた分かっているといった様子でそれには受け答えを示す。……尤も、本当に何処まで分かっているかなど内心知れたものでもなかったが。

「ええ、それはもう分かってるわよ。ねぇ、だからこそアルベルトゥス、彼女の事はわたしに任せてはもらえないかしら?」
「それは願ってもない申し入れです。ではわが不肖の弟子、准尉にお預けしてもよろしいのですかな?」
「ええ、勿論。せっかくの女同士ですもの、仲良くしたいわ」

 それはアレもまた喜ぶでしょう、そう言いながら笑顔で言葉を交わしあうマレウスとアルベルトゥス。だがその笑顔と言葉のやり取りの裏にどれ程の打算が酌み交わされていることなのか。
 くだらない、鼻を鳴らし切り捨てるようにベイはそのやり取りから興味を失う。
 要はその黄色い劣等たる小娘がどの程度まで喰いで甲斐のある存在へと成長しているのか。ベイにとってはレオンハルトへの関心などその程度のもの。
 果たしてクリストフとてこの件にはその内心でいかな企みを企てていることやら。



「では、ともあれ盟約に従い此度の儀式……各人がその役割を果たしてくれることを願います」

 そう神父が締め括ると共に、開幕の宣誓を投げおいた二人がシャンバラへ向かってその足を進めていく。
 今宵より早速、彼らは狩りの夜をはじめようという心算なのだろう。

「……これで良かったのですね? アルベルトゥス卿」
「ええ。猊下には真にご不自由ばかりおかけし、このような事まで頼む次第となり大変申し訳なくは思っております」

 この非礼の程に対する詫びは必ず後ほどに、そう恭しい態度で告げてくるアルベルトゥスにしかし神父は構いませんよと穏やかな態度を崩すことなくそう告げる。
 そう、ハイドリヒ卿からは指揮権を任されると共に彼の便宜は可能な限りは図るように命じられていたし、今はまだ己の独自の目的を持ってしてもこの展開はある種望ましくもある。

「お互い、これからも協力し合っていきたいものですね」

 無論、最終目的を異としている以上はいずれは別たれる道。
 クリストフ……ヴァレリア・トリファのその目的にとっては重要なのはいかにこの男を上手く利用し、どこまでこの男はおろか……あの悪魔たちすらも出し抜けるか否かだ。
 決して容易だとはトリファ自身もまた間違っても思っていない。が、それでもやり遂げねばならない目的と理由が彼にはあった。
 その為ならば――

「……ところでアルベルトゥス卿。あなたは副首領閣下の代替……つまりは“ツァラトゥストラ”の正体をご存知なのではありませんか?」

 副首領メルクリウスが腹心。その全権を委任されている黒円卓の異端。
 ある意味では自分以上にこの儀式に深く関わっているこの男が、未だツァラトゥストラの正体を掴みかねているというのはどうにも信じ難い。
 自分たちに黙っているだけで、或いは接触している可能性とて――

「さて、私も流石に主からはそこまで詳しく教えられてはおりません。我が主の代替がどのような人物か……流石に興味は湧いているのですがね」

 けれど直に時が満ちれば自ずと会えるものだ、そんな言動でのらくらりとかわしてくる相手の真意は果たしてどこにあるのか。
 やはり喰えない男だ。負ける心算は無論の事ながら無いとしても、侮ってかかれる相手でもない。
 出し抜くには、随分と骨が折れそうだというところか。
 だがどちらにせよ……

 どちらにせよ、私の贖罪は誰にも邪魔はさせない。
 そう、例え何人たりとも絶対に、だ。

 改めて胸中でそれを確かなものとして感じながら、トリファは眼前の男に対して挑戦の意すら込めてその言葉を告げた。

「お互い、悲願の成就を希望しながら頑張りましょうか」




 まったくもってその言葉の通り。聖餐杯猊下はよく分かっておられるとアルベルトゥス・マグヌスもまた笑みをもってそれに応える。
 実に喰えない男……その振る舞いの裏に隠した、道化を気取りながらも隠し研ぎ澄ます牙は決して侮れるものではない。
 クリストフだけではない。ベイにしろマレウスにしろ、どちらも己程度が御しきれる程度に易い存在で間違ってもあるはずがない。
 大仕事……実に大変で気を遣い、手間取るものとなりそうだ。
 だがその苦労があってこそ、奏でられるそのオペラは怒りの日を彩るには相応しいものとあるはずだ。
 クリストフ然り、ベイ然り、マレウス然り、きっと彼らは皆自身の本意不本意に関係なく最高の演奏を奏者として奏で上げてくれるに違い。
 そういう無上の瞬間を想像すること、それは堪らなく甘美と極上に満ち溢れた幸福をアルベルトゥスに与えてくれる。
 故にこそ、彼らには期待し……上手く踊ってもらいたい。そうあるべきであるような、相応しい踊りを見せて欲しいと思う。
 そうでなければ主役の登場とその演奏に対しての引き立てにもならないのだから。

 アルベルトゥスが此度の怒りの日において真の主役でありメインの奏者と定めているのは僅か三名のみ。

 一人は我らが黒円卓の首領、聖槍十三騎士団の第一位にして“愛すべからざる光(メフィストフェレス)”の称号を持つ黄金の獣――ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ。

 二人目は呪われし断頭台の姫君、我が主が生涯で唯一人心奪われ、その魂を必ず救うと誓った人類最美にして最悪の魂、罰当たり娘――マルグリット・ブルイユ。

 そして三人目、彼こそが此度のオペラの最重要人物と言って良い真の主役、我が主がその全てをかけて作り上げ後継とまで定めた彼の代替、副首領代行ことツァラトゥストラ――藤井蓮。


 この三人、この三者こそがメルクリウスがこのオペラの果てで邂逅を望む真の主役たちである。
 だが黄金の獣は未だ向こう側、魂の旅から帰還を果たしてはいない真打としての役割どころ。彼の登場は未だ先と言って良い。
 マルグリットも同様だ。何は兎も角、ツァラトゥストラが力を付けて目覚めてくれないことにはそもそも彼女は舞台に立てない。
 だからこそのツァラトゥストラ……彼には一刻も早い覚醒を果たしてもらわなければ困る。
 そうでなければ潰される。残酷なまでに、無慈悲に、容赦も救いも無く徹底的に。
 黒円卓のメンバーにとってメルクリウスほどに忌まわしい己の人生において関わってきた中での汚点は存在しない。
 なればこそ、屈辱的なその事実を抹消し、払拭する為ならば、たとえ此度の儀式そのものが破綻をきたそうとも彼らは躊躇いすら抱かないことだろう。
 黄金の獣への叛意と紙一重であろうとも、それでも彼らにとって水星という存在は度し難き存在だ。
 それが例え本体の爪の先程度の歯牙にもかける必要性すらない、脆弱なものであれ、それを潰せばかの汚点が払拭できるというのなら、彼らは躊躇いを抱くことも無くそれを実行することだろう。
 本気で馬鹿馬鹿しく呆れた自尊心への保守的行動だが、それを本気で実行に移す連中だからこそ始末が悪いのも事実だ。
 卵から孵りもしていない状態の雛を彼らの下らないプライドの保全の為に潰されるのはアルベルトゥスからしてみれば堪った事ではない。
 だからこそ、出来れば早急にツァラトゥストラの保護を行いたくもあるのだが……それを自分がするのはルール違反であり、またそれはツァラトゥストラが何者なのか、その正体そのものを教えているようなものだ。
 カドゥケウスという目晦ましは現在も上手く機能している……が優秀な戦争犬たちの嗅覚をいつまでも誤魔化しきれる程に高い保障もまた期待されてはいない。
 レオンハルトの顔を立てるようにと上手く行動そのものは誘導した心算であるが、新参者の劣等に気を遣うほどに彼らに気配り精神があるとも思えない。

「……ある意味、この序盤こそが最大の山場か」

 ポツリと呟きながら、実に厄介な状況ではあると珍しくも内心で苦々しくも思う。
 自分が蒔いた種は……はたして上手く芽吹いて機能してくれるのか。
 それが今は最大の焦点かとも自分なりに考えながら、アルベルトゥスは空を見上げた。

 綺麗な夜空である。ああ実に良い夜だ。
 こんな夜だからこそ、確かに戦争の幕開けには相応しい。
 半世紀ぶりの宴の開幕に心躍らせているのは何も彼らだけではない。
 自分もまた同様に、稚気が溢れる子供のように心がはしゃいでいるのは間違いない。
 見てみたい、そうずっと心から望んでいることもまた事実。
 自分を震わす、主を震わす、見たことも無いだろう未知。
 今はそれがただ狂おしいまでに欲しい。
 それを正直に思いながら、彼はその言葉を呟く。
 自分たち亡霊に相応しい、髑髏の帝国の残党が、黄金の獣の鬣の一房が呟くには相応しいその言葉を。


『我らに勝利を(ジークハィル・ヴィクトーリア)』




Der L∴D∴O in Shamballa――6/13

Ⅱ:Tubal Cain
Ⅳ:Kaziklu Bey
Ⅴ:Leonhard August
Ⅵ:Zonnenkind
Ⅷ:Melleus Maleficarum
ⅩⅠ:Babylon Magdalena


Swastika――0/8



【Chapter1 L'enfant de la punition――END】



[8778] ChapterⅡ-1
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 23:02
 贖えない罪など無い。
 清算できない過去など無い。
 取り戻せないものなど無い。
 理想と信仰は圧倒的な暴力と理不尽を前に死に、拠り所であったモノは絶望によって駆逐された。
 今から遠く、半世紀以上も昔のことだ。
 そう……昔のこと。過去、過ぎ去った出来事だ。
 しかし、だからといって終われない。だからといって諦めることは出来ない。
 あの子達は笑っていた。笑っていることが許された純真無垢であるべき者たちだった。
 決して、下らない思想と理不尽な暴力によって、選別されて死を与えられて良い者達では決してなかった。
 ……そう、決してなかった。

 主の下においては誰もが皆平等。等しく愛されて然るべき存在。

 そう、決してアーリアやユダヤなどという下らない区切りをもって、自種を優良種と理由付ける為だけの劣等という差別によって殺されて良い者達ではなかった。
 だがあの子達は殺された。無残に無慈悲に、そしてこの上もなく残酷に。
 自分はあの子達を助けられなかった。主はあの子達を救ってはくださらなかった。
 等しく誰もが生きて良い筈だった子供たちは、悪魔たちの慰み物として捧げられた。
 捧げたのは自分。選んだのも自分。
 言い訳はしない。弁明もしない。開き直りもしない。
 ただその結果を受け入れ、己の中の信仰と神を殺し、自ら悪魔の下へと舞い戻った。
 復讐と贖罪、例え己の未来永劫を捧げようとも絶対に果たさねばならぬソレを成し遂げる為に。
 もう一度、あの子達の笑顔を取り戻す為に。

「……その為なら、私はなんだってやりましょう」

 それがどれ程に人道から外れた外道の所業であれ、主の教えそのものに唾を吐き捨てる背信と背徳に塗れた行為であれ。
 関係は無い。知ったことか。既に神は死んでいる。絶対たる悪魔が滅びることは無かろうと、居もしない神は己もあの子たちも決して救ってはくれない。
 だからこそ一人、己一人で成し遂げる。その道が艱難辛苦に満ち溢れた苦行の道であればある程、己の贖罪という行動は確固としたものとなっていく。
 そしてその先にこそ、自分が望んだ、守りたかったものが待っていてくれるはずなのだから。
 例え自身が愛する者たちから認められず、非難を受けようともこれだけは譲れない。
 妄執だ狂気の沙汰だと幾らでも嗤えばいい、蔑めばいい。
 だが例えどんな困難が、そう運命すらも自身の前に立ちはだかる壁になったとしても。
 その総てを凌駕してでも、自分はただこの贖いの道を進むだけ……
 その為ならば――

「私は悪魔にでも何でもなってみせようじゃありませんか」

 神のいないこの世が地獄であることは証明されている。救いなど何一つ無いことすらも既に思い知らされている。
 全知全能たる父なる絶対者は、しかし救済者足りえぬ無能者に過ぎない。
 そんなものは要らない、殺してしまえばいい。
 無能な神が罪ならば、願いを叶えるだけの力を持ちそれを与えてくれる悪魔の方が百万倍もマシというもの。
 常識や倫理という建前をどれだけ堅固に鎧おうと、人間が最後に縋りつくのは本能であり感情だ。
 ならば自分はソレを優先させ、果たすべき事を必ずにやり遂げる。
 どれだけの繰り返しになろうとも、未来永劫を捧げてすら永遠に。

「そう、贖えない罪など無いのです」

 それを望み、それを証明することが今の彼に残された己の中の唯一の人間性だった。




ChapterⅡ Xenophobia




 毎夜、夜毎に目にする悪夢。
 首が飛ぶ、血が飛び散る。
 何処かで誰かが、どういう理由かその意味も必然性も分からぬまま。
 死ぬ、殺される。断頭という忌むべき処刑方法によって。
 血の海に君臨する殺人鬼……彼ないし彼女の正体不明のこの人物がどうしてこんなことをしているのか、その理由は分からない。
 私怨か仕事か快楽か信仰か、どれにせよ人を殺すなどという狂気の沙汰、マトモな人間が行えるはずも無い。
 ならばこの殺人鬼はマトモではないのだろうか?……ああ、そうだろう。きっとマトモじゃない。
 病んでいるのか壊れているのか狂っているのかは知らないが、そんな方法で人を殺し続けるこの人物を狂人以外の何と断定できようか。
 吐き気がする。やめてくれ。そんなに人が殺したいなら他所でやってくれ。
 俺の近くでさも当然のように、俺の夢の中にまで踏み入ってきて見せ付けるようにそれを行うのはやめてくれ。
 ジャンル違いのそんな光景を見せられても、俺にはどうしようもないんだから。
 だからこれ以上、好き勝手やりたいって言うんなら何処か他所で――

 血の海の中で狂気に染まるその殺人鬼へと、聞こえない事を承知でウンザリするようにそう怒鳴り散らそうとしたその瞬間だった。
 まるでテレビのチャンネルを切り替えたように目に映る風景そのものが移り変わる。

 先程までの夜に染まったしかし見慣れた街である諏訪原市ではない。
 黄昏の浜辺。水平線を暁に染める広大な海。
 そして丘の向こうに玉座のように鎮座する忌まわしき断頭台。

 あぁ、また此処か。
 先程とは別種のウンザリするように溜め息が、絶望という感情を含んでやってくる。
 夢の続き、夢の終わりたる終着点。
 狂った恐怖劇(グランギニョル)の後にいつも辿り着く光景。お決まりの幕引き。
 そら、予想通り。例の歌が聞こえてくる。


『Je veux le sang,sang,sang,et sang.
 血、血、血、血が欲しい。

 Donnons le sang de guillotine.
 ギロチンに注ごう、飲み物を。

 Pour guerir la secheresse de la guillotine.
 ギロチンの渇きを癒すために。

 Je veux le sang,sang,sang et sang.
 欲しい物は、血、血、血……』


 おぞましくも美しいその澄んだ音色と響く声。
 耳朶を震わせ聞き逃すことを許さない、不思議な強制力を持ったその歌声。
 成程、旅人がやみつきになり聞き惚れるというその理由、あながち分からないわけではない。
 そんな思いと共にその歌声を発する主をその目に留める。
 流れるような金紗の髪、白皙の肌、透き通るような澄んだ碧眼。
 身に纏うは襤褸同然のようでありながら、まるで舞踏会で着こなす一張羅然のように連想させるのは、きっとその姿が少女にとっては他のどの服よりも似合っているから。
 マルグリット。呪われし断頭台の姫君。罰当たり娘。
 彼女について知っていることは多くない。否、むしろ何も知らないと言ってすらいいのだろう。
 彼女が何者で、此処が何処で、そして何故そんな歌を歌うのか。
 何もかもが分からない。問おうにも答えは返ってこない。
 何故ならそもそもいつもその前に――

 気がつけば身動きがまるで出来ない拘束された状態。
 遙か頭上には冗談のような鋭利さを連想させ、強調させる断頭刃の存在。
 いつものようにいつもの結末。
 訳も理由も必然性も、それら何の意味も分からぬままに断頭台に固定され、今まさに首を刎ねられんとする己が姿。
 助けを呼ぼうにも、少女にそれを願おうにもそれら全てに意味は無いことはもう幾度目かになるかの同じやり取りで証明済み。
 だからこそ、結末はいつも同じ。
 空が赤い。黄昏の空、まるで血濡れのようなその光景。
 酷く不快で気持ち悪い。最前の殺人の光景を思い起こせば尚のこと。
 加え、己もまたこれから同じ末路を辿ろうというものなら。

 最悪、ああこれはこの上もない最悪の悪夢だ。
 だからこそ、もういいだろう。さっさと解放してくれ。
 そう諦めと共に思った直後、少女の歌う歌が終わりを迎える。
 ギロチンの刃がそれを見計らったように落ちてくる。己の首を断つ、ただその目的一点の為に。
 結末はいつも同じ。そう、同じ悪夢、同じ末路だ。
 それを絶望という諦めと共に受け入れながら、悪夢の中で藤井蓮は断頭台にその首を刎ねられ、夢の終焉へと至った。



「……目覚め、最悪」

 なべて気分はその一言に尽きる。
 ここのところ安息とは程遠い、気味の悪い悪夢の続く日々。
 いい加減、そろそろ本格的にノイローゼ染みてきて少しヤバイとは自分でも思っている。
 しかしどうしようもないのもまた事実。カウンセリングでも受ければまた少しマシになるのかもしれないが、大きな期待は持てないし、周りは必要以上に心配するからそういう事態も出来れば避けたい。
 結局の所は手詰まり、本当にままならない……そう藤井蓮は目覚めても変わらぬ諦観の溜め息を吐きながらベッドより身を起こした。
 睡眠とは休息を取るための行為であるはずなのに、逆に寝て起きた方が疲れ切っているというのは如何なものだろうかと正直思う。
 酷い矛盾、酷い憂鬱、本当に朝から幸先はよろしくなかった。

「ちょっと蓮! いつまで寝てるの!? もう朝よ、さっさと起きない!」

 そんな母親みたいな口やかましい声が今度は間をおかず朝っぱらから壁越しに聞こえてくる。
 近所迷惑だとかそういうのはちゃんと考えた方がいいぞ、そんな事を思っていたその矢先、壁からニョキリとこちらの部屋にまで這い出てきて侵入してくる影一つ。

「あのなぁ、何度も言ってるがちゃんと扉を使え。バカスミ」

 呆れたようにそう生え出てきた人物……部屋越しに空いている大穴から侵入してきた幼なじみであり隣人たる綾瀬香純へと蓮は告げる。

「あー! それ禁句だって言ったでしょうが! この蓮タン!」

 NGワードを朝っぱらぶつけられて怒ったのか、言い返すように香純もまた蓮にとってのNGワードをぶつけてくる。
 流石に悪夢から目覚めて間もない、気分の上でも憂鬱としてささくれ立ってもいた時である。いつもなら聞き流す蓮の方も少しばかり機嫌が悪い今は上手くスルーも出来なかった。
 お互い罵声をぶつけ合うように睨み合いながら対峙し、口を開こうとしたその瞬間だった。

 ガチャリと蓮の部屋の玄関の扉が開く音がする。
 間も置かぬまま中へと入ってくる足音が聞こえ、二人もそこで漸く部屋へと入ってきた人物へと同時に振り返った。

「おはよう。腹減ったしさっさと朝飯にしようぜ。……って何やってんだ、おまえら?」

 不思議そうにこちらを凝視して振り返っている両者に彼――沢原一弥は一体何事かと不思議そうに首を傾げながら尋ねていた。



 沢原一弥、遊佐司狼、藤井蓮、綾瀬香純、元より幼なじみ四人組としてつるんでいたこの四人が月乃澤学園への進学の為にこの街へと引っ越してきて借りたアパートが、奇しくもこの順番で横並びの部屋割りとなった。
 元より幼少より見知った仲、今更大した気兼ねをするような関係でもなし。故にこそ引っ越してきてからもこの部屋割りと並び自体には何の問題も無かった。
 沢原一弥の視点から見れば、だが。
 大きく被害を被ったのは藤井蓮だった。まぁ香純や司狼を隣の部屋としてしまった時点で、この結果はある意味では予想済みのことでは確かにあった。
 事件が起きたのは凡そ一年前くらいだっただろうか。
 夜中、突如として蓮の隣の部屋である司狼が、

『格ゲーやろうぜ』

 などと言いながら突如部屋の仕切りたる壁に大穴を開けて彼の部屋へと侵入してきたのだ。
 昔からの慣習か、蓮の部屋はメンバーの溜まり場ともなっているお約束とも言っていい場所だ。司狼の突然の思いつきでもあり、彼の無精そのものを表した行動ではあったが、本人に言わせて見るところによれば、

『だってメンドくせーだろ? 一々扉使って往復するのって』

 だからショートカットを兼ねて壁に穴を開けたとの事。常識とか躊躇いとか、そう言ったものを歯牙にもかけずハンマー一発で即行動に移ったアイツは、ある意味男らしいと言えば男らしかったのかもしれない。
 そういうわけで、蓮の部屋には司狼の部屋と繋がったトンネルが一晩で出来上がってしまったのだ。
 しかしこの事件、これだけでは終らなかったのはまぁお約束と言えばお約束だったのだろう。
 翌日になって、突如香純までもが司狼だけズルイなどと言い出して、ホームセンターで工具を買い揃えて同じようなトンネルを今度は香純側で作ってしまったのだ。
 当然ながら蓮は困惑、司狼は爆笑、そして一弥は呆れる他になかった。
 因みに、一弥だけはこの事件において何ら行動らしい行動もなかった。それも当然ではある。隣は司狼だけだし、そもそも溜まり場は蓮の部屋がお決まりであり、一弥の部屋が活用される機会などというものも殆ど無い。一弥にしても司狼にしても、互いの部屋に意味も無くトンネルを開通させるほど無駄な労力を発揮したいとも思わない。
 蓮の部屋からは司狼の部屋を挿んで離れているということもあり、必然的に一弥が玄関から蓮の部屋を訪れるのはいつもの事だ。
 だがそのいつもの事をしてくれる常識人がもはや彼一人だけとなってしまったという事は、大家が見れば間違いなく卒倒するか叩き出されるような様相へと部屋を変えられた蓮にとっては悲しい事実であったのだが。


 そんな中でのいつもの朝の光景。かつては四人の人間が共に共有していたその空間と時間は今や三人だけのものとなってしまった。
 寂しいだとかそういう感情以前に、しっくりこない物足りなさのようなものを思わず感じてどうにも落ち着きにくいのは、それだけに欠けてしまったものが今まではあって当然と許容されていた為なのだろう。
 直に慣れる、人間とは何だかんだと状況に適応していく生き物だ。だからこそ直に慣れる、慣れて三人であることが当然のようになっていくのだろう。
 誰もがそれを理解してそう思っていたし、受け入れてもいた。一番積極的且つ変化が薄いのは蓮。欠けてしまったピースの喪失をもはや当然のものと受け入れ、踏ん切りを付けているのだろう。だからこそその言動は既に三人の中でもかつてのように自然なものだ。
 表面上こそ受け入れて自然体を装っているのは沢原一弥だ。何だかんだと言いこの光景を受け入れる事を決めた心算ではいるようだし、表面上でもそうしている。だが内心に未だ燻っているものの全てに決着がついていないというのは、時折垣間見せる様子から容易に想像できる。
 そして最も受け入れられていない者、未だ表面上にすらそれを隠しきれていないのが綾瀬香純だった。喪失したものへの執着か、かつていた者が座っていた今は空白のその席を頻繁に視界へと入れるその様子は痛みに耐えるかのように寂しげなものだった。
 朝食という朝の風景一つを取ってもこの様だ。一年前には不変と信じて疑わなかったものの変貌はあまりにも大きな戸惑いや蟠りを彼らへと与えていた。
 尤も、朝っぱらからいつまでもそればかりに囚われていても仕方がないというのは事実だ。失ったモノは戻ってこない。……仮に、失ったものがどのような理由からか戻ってくるようなことがあってしまえば、

 ――それは最初から価値などまるで無かったものと何が違う?

 少なくとも、藤井蓮は自らの価値観と照らし合わせてそう思っていた。
 喪失とは辛いものだ。だがそうである故に貴くはある。少なくとも、痛みと悲しみの大きさはそのまま失ったものへと自身が抱いていた正当な価値でもある。それ以上でも以下でもなく、事実としてその結果と価値は付属する己の感情や思い出をもまた裏切りはしない。
 二つとない、少なくとも代替というものが効かないものであればある程、その価値に対する正当な受け入れはしなくてはならない。少なくとも蓮はそう思っている。
 代わりなど無い、代わりなど要らない、だからこそソレは貴く、価値があり、決して汚されていいものではないのだ。
 遊佐司狼という腐れ縁の親友を誰よりも正当に評価している蓮だからこそ、己が決めて選んだこのこれからに後悔や迷いという要素を含みたくはない。そうしてしまえば、かつての司狼との思い出の数々すらも汚してしまうと思ったから。

(……って俺は何で朝っぱらから司狼のヤツなんぞの事を振り返ってるのか)

 ここのところの悪夢の見すぎで本当に頭でもおかしくなってしまったか、そんな危惧を思わず真剣に抱きながら、沈黙の食卓を嫌って蓮はテレビのスイッチを点けた。
 朝早くから元気にカメラに惜しみない笑顔を提供しているニュースキャスターのプロ根性に感心しながら、天気予報で今日は晴れであることを確認する。
 十二月になるとそういつまでも晴ればかりが持続してくれるとも限らない。温暖化を懸念される昨今ではあるが、ここ諏訪原市でも毎年十二月になれば雪くらい降る。クリスマスくらいまでには一度くらい雪が降るようなこともあるだろうか、そんなどうでもいいような事に思考を割いていたその時だった。

『――殺人事件の続報です。昨夜、諏訪原市でまたしても頭部を切断された死体が発見されたとの事で――』

 BGM代わりに流していたはずのニュースが、その流しだした話題によって一気に朝の一時の安らぎの時間を嫌な沈黙で蹂躙していく。
 確かに……これは少々迂闊すぎたのかもしれない。最早遅いし、今更チャンネルを変えることになど意味も無ければ露骨過ぎると諦めながら、朝っぱらから景気の悪い話を提供するテレビの画面を蓮は思わず睨んでいた。
 この諏訪原市内で起こっている連続殺人事件、未だに解決どころか犯人の正体さえ掴み切れていない現状であれば、高確率でニュースでその話題が流されるのは当たり前。
 それも自分は夢という形でそれを見たばかりだったというの……迂闊すぎるにも確かに程があった。
 殺人事件の話題で自分たちが住んでいる地元が取り沙汰されても嬉しくないのは当たり前であり(そんなもので嬉しがるようなヤツは人間として不謹慎すぎるが)、ましてや殺しの内容が内容である。
 グロ耐性の無さそうな香純では、やはり案の定と言っていいように流されてくる情報を聞き取るなり顔を青くしている。やはり勝ち気で男勝りな部分があろうと彼女の本質がか弱い少女に過ぎない事を証明している証拠であった。
 また一弥の方はと言えば、香純ほどに顔色が悪いとかそういう様子では無いが、それでもどこか険しい……というより不機嫌そうな表情でニュース画面を睨むように見つめている。
 ……そう言えば、コイツと先輩とシスターは最初の事件の時の第一発見者だったかという事を今更のように蓮はふと思い出していた。或いはフラッシュバックのようにその時の光景が……或いは、それより以前の“あの時”の事を――

「……本当に物騒だよな。怖いくらいだ」

 ポツリと一弥が呟くように漏らしたその言葉に、自分自身が迂闊にも過去に引きずりこまれそうになっていたのをハッとなって蓮はギリギリ戻ってくる。

「どうせなら学校も休校になってくれねえものかな」
「……いや、ウチは進学校だし保護者とかも五月蝿そうだからそれはないだろ」

 尤も、それは蓮個人が予想する考えに過ぎず、今日登校すれば明日から休校などという事態にも必ずしもならないとは言い切れない。
 生徒に犠牲者が出てからでは遅い……そう考えられていたとしても確かにおかしくは無い。

「それに休校なんてなってみろ、氷室先輩にも会えなくなるぞ」

 場が重くなることや殺人事件寄りの話題に比重が寄りすぎるのを嫌って、若干に矛先をずらした話題を蓮は一弥へと向けていた。
 尤も、氷室玲愛の名前を一弥に出してみたところで、

「まぁ、それで暫くからかわれることも無くなるってんなら、あながち悪くないかなとは思ってたりもする」

 嘘つけ、何が思っていたりもするだ。あれで割と彼女とのコントのようなやり取りを一弥が他の何よりも気に入っているものの一つとしていることを蓮は良く知ってもいた。
 何だかんだで自分も香純も二人の漫才のようなやり取りを見るのは面白くて好きなのだ、それを台無しにされても困る。
 藤井蓮にとっては、アレもまた自身が愛すべき確かな日常の一つなのだから。

「先輩に会ったら今おまえが言ってたこともちゃんと伝えといてやるよ」
「それはマジで勘弁してくれ。あの人、報復が予想できなくて逆に怖いから」

 そんなやり取りを続けながら、ふと気になったので蓮は先程から言葉を発していない香純の方へと視線を向ける。
 自分と一弥のやり取りなど聞こえていないように彼女は黙ってテレビの画面を見つめたままだった。
 テレビでは殺人事件の報道こそ終わったものの、同時に先月辺りから市内で活発化しているという不良グループの起こしている問題事を報道していた。
 殺人事件に比べれば、程度は可愛いものなのかもしれないが一般市民からしてみれば迷惑以外の何ものでもないというのもまた事実。
 彼女が持つ少々歪な正義感がそれを許さじと燃え上がっているのだろうか……そんな疑問を抱きながら彼女の表情を覗き見るもそれも違う事を瞬時に察した。
 そうではない。今流れている不良の報道など香純の頭の中には流れ込んでも来ていないのだろう。
 今の香純はどこか沈痛な表情で呆然としたまま、テレビだけを見つめているという行為を行っているに過ぎなかった。
 きっと殺人事件の報道でそうなってしまったのだろうというのは何となくだが直ぐに理解できた。
 彼女が事件にどうしてそこまでのショックなり何なりを受けているのかは蓮にも分からない。……分からないが、これが彼女にとってはよくない傾向だというのだけは分かる。
 だからこそ、

「おい、香純」
「……え? 何、蓮?」

 思わず呼びかけたこちらの言葉にハッとなった様子で香純は慌てて振り向いてくる。
 だが何かあるのかと聞き返してくる香純に、反射的に呼びかけてしまっただけの蓮に続く言葉は何も無かった。
 一応、十秒ほど珍しく真剣に考えてみた後、

「いや、ただ何となく呼んだだけだ」

 結局、しれっとした態度でそんな言葉を返すだけだった。
 からかわれたと判じたのか、香純は「うがー!」などという年頃の婦女子にあるまじき奇声を発しながら 殴りかかってくる。
 蓮はそれをひょいとかわす。朝っぱらから騒ぎ出す二者を見て一弥は呆れたように溜め息を吐いている。
 ……少しだけ、いつも通りの平穏たる日常の姿がそこに取り戻されていた。



「それは多分、所謂予知夢というやつだよ」
「予知夢……ですか?」

 学校、昼休みの屋上にてベンチに腰掛け並んで座る藤井蓮と氷室玲愛。
 玲愛の言ってきたその言葉に、蓮は多少の戸惑いを態度へと顕にしながらそう問い返していた。
 蓮の言葉に玲愛はコクリと頷く。

「そう。藤井君は人が殺されるという未来を事前に夢で予知できる超能力者。凄いね、テレビに出たらいい」

 そんな事を真顔で平然と言ってくる玲愛に蓮は呆れたように溜め息を一つ吐く。

「スプーン曲げるくらい出来たら、それも良さそうですけどね。……まぁ兎に角、貴重なご意見をどうも」

 おざなりにそんな礼を返す。それにしてもよりにもよって超能力者はなかろう。あんなものは大抵トリックがあるインチキでしかないというのが蓮の自論だ。
 客寄せパンダにも大道芸人にもなる心算がなければ、自分のような人間がそんなものになれるなどとそもそも思っていない。
 だからこそ彼女の言ってきた言葉は蓮にしてみれば言っては何だがてんで期待外れで陳腐なものでしかなかった。

「まぁ何かやる気の無い顔だね、キミは。私の説に不満があるなら言ってみなさい」
「いや……不満て言うか……」

 そもそもやる気の無い顔だ云々などとは彼女だけには言われたくない。自分などよりそちらの方が普段余程そんな感じであろうに。

「信じられない?」
「って言うんじゃなくて、先輩の何て言うか……空気に話しかけるみたいな口調で言われてもピンと来ないよ」

 若干しどろみどろとなりかけながらも、若干の懐疑を表情へと見せた玲愛へ蓮はそう答えた。
 そもそも、こんな会話をしていた発端は何だったか……それを今更ながらに思い返してもいた。


 朝のやり取りを終えて、いつものように三人で学校へと登校し、こうして昼休みとなるまでいつものように過ごした。
 学校でも件の殺人事件の噂で持ちきりという現状は蓮としてはよろしくなかったが、さりとて彼らにそれをやめろと言えるわけでもなし。
 放置し適当に休み時間ごとに一弥や香純の相手をして時間を潰しながら、いつものように訪れた昼休み。
 香純は学園での友人たちと一緒に昼食を取るといい蓮もまた誘われたが、当然断った。またそこで香純がしつこく渋ろうともしたのだが、友人たちを無駄に待たせるのは悪いぞと忠告してやったのを驚くほどに素直に聞き入れた香純は、不承不承という様子を見せながらも引き下がった。
 次にもう一人の幼なじみである沢原一弥についてだったのだが……彼は今日日直として何やら手間取る仕事を昼休みに教師から押し付けられた様子で、既に教室から姿を消していた。
 必然的に一人となった蓮だったが、さりとてそれで寂しいと思えるほどに自身がまた殊勝ではないことも理解していた。
 さて昼食を何処で取ろうかと自然と足が向かったのが例によっていつもの屋上。
 十二月の寒空の下で、相変わらず一人でベンチに座ってサンドイッチを食べていたのが氷室玲愛だ。
 自然いつものように彼女の隣へと同席させてもらいながら昼食へと入ったわけで……。

 交し合う雑談に、不意に思わず今己を悩ませている例の悪夢の事を話して相談しようとしたのはどうしてだったのか……今になってはその理由も良く分からない。
 兎に角、例の殺人事件の現場を目撃しているような夢ばかりをここのところ見ているのだということを蓮は彼女へと話してしまっていた。
 そしてその話を聞き終わった彼女の方が結論として返してきたのが、先の予知夢云々という話だった。


「そうか、それは困ったね。どうしよう」

 ちっとも困っているようには表面上見えもしない態度でそのように言われても蓮とて返せる言葉は無い。
 沈黙が自然と発生する中で黙々とサンドイッチを食べていた玲愛の動きがピタリと止まる。

「……ふむ、これは失敗。不味いからキミにあげるよ。クリームツナサンド。この学校の購買は色々とチャレンジャーだね」
「これ買うあたり先輩も充分チャレンジャーだと思うけど……」

 そう言いながら渡されたサンドイッチを仕方無しといった様子で受け取る。
 生クリームにフルーツを組み合わせたサンドイッチなら蓮も見たことがあったが、これは生クリームとツナを組み合わせるという狂気の沙汰としか言えない逸品だ。何かこう混ぜるな危険とかそんな風にしか言えないくらいコメントにはちと困る。
 甘い物は苦手という面もある、さて本当にコレは食えたものだろうかと適当に玩びながら蓮は玲愛へとずれていた話題を修正にかかる。

「それより、さっきの続きだけど――」
「夢の話? だったら私の意見は言った通りだよ。それとも事件の話かな?」

 割と本気で予知夢云々の話は彼女にとっては真面目な答えだったのかもしれない。そんな事を玲愛の態度を見て思いながら、振られた新たな話題へと関心もまた移る。
 ……あながち、こちらの方も無関係というわけではない。むしろ直結する。

「どっちかって言うと両方」
「藤井君、キミは女の子とご飯食べてる時にそういうグロい話題を振るのが趣味なの?」

 若干ではあるが……そう自分たちのような彼女とそれなり付き合いの長い親しい人間にしか分からないような僅かな変化ではあったが、彼女が振られた話題に不満を示しているのが少し珍しくも蓮は思った。
 ……まぁ普通は彼女が言った通りのものなのだが。

「先輩はグロ耐性があるでしょ? それに大抵のことじゃ動じないかとも思って。一番最初の殺人事件、アレの第一発見者って一弥と先輩だったんでしょ?」

 最初に聞いた時は驚いたし、今朝の一弥の様子でもそうだったが、全ての始まりと言っていいその事件に最初に関わったのは彼女と一弥だったはずだ。
 過去の一件がある一弥とてそうだが、彼女の方もまた異常事態と呼んでも過言ではない場面に出くわしているというのに大した動揺や変化を見せてはこない。
 慌てふためく氷室玲愛の姿などというものは確かにお目にかかったことがないとはいえ、日常からかけ離れた事態に出くわしても変わらない彼女には自然とそんな考えや態度を取ってしまうというものだ。

「……ふむ、まぁそうだけど。キミ、綾瀬さんにもこういう話してたりするわけ?」
「いや、香純には何も。アイツ、あれで意外と心配性だし怖がりだから」

 普段の活発さや全国レベルの剣道の腕前で誤解されがちだが、綾瀬香純という人間の本質は驚くほどに脆くて儚い。それを自分や司狼や一弥は良く知っている。長い付き合いだ、彼女をそうさせてしまったという原因が自分たちにある事を鑑みれば、この手の話題を彼女の前で上げること自体が宜しくない。

「気を遣ってるんだね」
「そうじゃなくて、喧しいんですよ。アイツが絡むと無駄に話がでかくなるし。その点、先輩になら何を話しても大した問題にはならないでしょ?」

 玲愛の言い分を適当にはぐらかしながら、香純へと逸れかける話題を何とか修正する。
 何だかんだと言って鋭い先輩には、あまりこの手の部分にだけは踏み入って欲しくは無い。

「まるで私が部屋の壁か何かみたいな言い方するのね。それはちょっとだけ、なってみたいような気もするけど」

 なってみたいのかよ、と思わずツッコミそうになりかけるも自分は一弥ではない。こういうのはアイツの領分なので自分では敢えてやらずに抑える。
 ツッコミ待ちをしていたのか、少しばかり期待が外れたように目でこちらを見てくる玲愛であったが、蓮がそれ以上リアクションを見せる心算が無いのを悟ったのか、仕方が無いといった様で話を再開し始めた。

「この前、私が首無し死体を見た時の話、あれをキミにしたのもそう言えばお昼時だったっけ?」

 思い出すようにそう問いかけてくる玲愛の言葉に蓮もまた頷く。
 つい先日のことだし話題も話題で驚きもした、早々にあの時のことは忘れていなかった。

「そう。だからお相子ってことで。そもそも、何で俺にあんな話を?」
「だって藤井君、グロ耐性ありそうに見えたんだもん。後キミ、綾瀬さん達以外に友達いないし。話しても吹聴されなさそうだから」
「……後ろ半分は兎も角、前半分は何を根拠に言ってるんですか?」

 歯に衣着せぬ率直な言葉は彼女らしいと言えばらしいし、別段それをムキになって否定しようとも敢えて思わない。
 しかしグロ耐性有りと適当に決め付けられているのも堪ったものではない。だからこそ、そうでないならその根拠を聞きたかったのだが……

「遊佐君とお互いあれだけボロボロになるくらい喧嘩するものだから、血とか平気なんだろうって思ったの」

 まぁそう言われてしまえば仕方が無い……と思わないわけでもないが大きな誤解だ。
 思い出すのも気分が悪いから嫌なのだが、司狼の馬鹿は兎も角としても自分は好きであれだけ無茶苦茶な喧嘩をしたわけでは決して無い。
 少なくとも、司狼が半ば本気で殺す気でかかって来たものだから、こちらも殺されない為にも必死になって全力で応戦する他無かった。
 まぁ確かに、最後の方は痛みで感覚が麻痺して、アドレナリンの過剰分泌やら必要以上の興奮で形振り構わない無茶苦茶な状態になっていたことは蓮自身も認めているし反省もまたしている。
 だがだからといって、あんな殺し合い染みたものが大好きだとか……ましてや血が平気などと言うわけでは断じてない。
 一弥もアレはアレで血に対しては勝るとも劣らぬ苦手意識を持っているが、蓮とてそれは同様である。自身の体質である刃物アレルギーだってそもそもはそちらに起因するものでもあるわけだし……

「…………」
「食べてる?」
「……ええ、クソ不味いですね。このクリームツナサンド」

 忌まわしい鉄錆び臭い血の味を思い出しかけ、払拭するようにこの奇怪なサンドイッチを食べてみたものの、こちらはこちらでやはり味の方も狂気の沙汰だ。
 二度と同じ物を先輩から渡されても喰うまいと蓮は心に固く誓った。

「良かった。藤井君と味覚を共有できて嬉しいよ。ついでにお互いの秘密も共有してるね、私たち」

 そんな事を本当に嬉しいそうなのか判断しづらいいつもの態度(まぁ言葉通りに本当に嬉しいのだろうが)で言ってくる玲愛の言葉に、蓮もまた皮肉の効いた笑みを浮かべながらそれに答える。

「ええ、色気の無い秘密でプラトニック万歳ですよ。……それで先輩」
「お悩み相談?」
「いや、夢云々はただの与太話。ていうより、独り言みたいなもんなんで適当に流してください。兎に角、今何かと物騒じゃないですか? お互い夜道に気をつけましょうね、って話をしようかと」

 これ以上のこの話題の進行に意味は無い、そう判断した蓮は話題の打ち切りを行うことにした。
 与太話だとして本当のことじゃないというように断ったのは、勘の鋭い彼女を相手にこれ以上下手に踏み込まれて来られても困る為だ。それに万一、彼女からこの話が香純あたりに漏れるようなことがあれば色々と面倒にもなる。
 だからこそ、この話はこれでお終いだと蓮は玲愛へとその言動をもって告げていた。

「そうだね。私としては一時的に学校閉鎖した方がいいんじゃないかって思ってるよ。冬は日が落ちるのが早いし、夕方まで拘束されるのも堪らない。何だったら藤井君、今から私と校長室まで責めに行く? 実は前から彼の頭はカツラじゃないかと思ってたのよ」

 しかし玲愛の方はその話題を今度はそんなトンデモナイ方向へともっていく。
 校長室への突撃を誘いかけてくる玲愛に蓮が当然呆れたのは言うまでもないだろう。

「……校長のハゲ疑惑がこの件と何の関係があるんですか?」
「弱味を握って脅そうと思う。兎に角、そういう青春っぽい一ページを実はやってみたかったの」

 どんな腹黒い青春だよ、と思わず呆れながら当然のことだがそんな嫌な青春の一ページを思い出に加える心算は少なくとも蓮にはなかった。

「俺と先輩で?……そういうのは正直、一弥とやってくださいよ」

 少なくとも、自分と彼女が行うよりはいつもの漫才コンビである二人でやってもらった方が蓮としてもしっくりくる。
 無論、一弥は一弥でこれを聞いてもお断りだと言いそうではあるが……

「それじゃあいつも通り過ぎる。藤井君とやるからこそ、意外性№1の凄いコンビになると私は見てる」
「意外性って言うか……異次元って言うか……」

 少なくとも自分自身ですらそんなコンビを蓮は想像できなかったし、あまり進んでしたくもない。

「一見大人しそうなタイプの方がテロは成功しやすいし、効果があると私は思うの」
「いや、テロってアンタ……」

 なに平然とサラリと物騒な事を口走っているのかと、それこそ思わずツッコミを入れながらそんな心算は自分の方には毛頭ない事を蓮は玲愛へと答える。

「やらないの?」
「やらないですよ! 俺は基本ノンポリなんでそういうのは柄じゃない」

 少しだけいつもこんな人を当然のように相手している幼なじみの事を見直してもいた。
 兎に角、氷室玲愛の相方は自分のような人間では手に余る。適材適所、餅は餅屋と言われるようにそれは自分の領分ではない。

「つまんないな。一般的で現代っ子な主張をするのね」

 珍しく不満を顔へと表す玲愛に、そんなにテロをやって自分を共犯者に巻き込みたいのかよと呆れながら、蓮は玲愛へと自らの自論を持って返答とした。

「悪いことじゃないでしょう? 退屈とか普通とか、俺は好きですよ。そういうの。……ま、それしか出来ないやつの強がりなのかもしれないけど、嫌う理由も特に無いし、波風立てるようなのは司狼みたいなのに任せておけば良いんですよ。劇的な経験とか別にしてみたいとも思わないんで」

 そう、普通が一番なのだ。
 退屈だろうと刺激が少なかろうと、そこには確かに変わらない安心と平穏が約束されている。
 元より多くの事を望むような性格でもなければ、そんな環境でも生きていない。
 ツマラナイ、そう他者から鼻で笑われようがそんなものは個人の価値観であり、その他人の言うつまらなさこそが藤井蓮にとっては何よりも愛おしむべきものだ。
 だからこそ、今のような時間が永遠に続けばいい。時間が止まってくれればいい。
 誰もが一度はかかるような麻疹のようなもの。ただ自分はずっと罹っていたいと思っている……否、願っているだけ。

 ――時よ止まれ、おまえは美しい。

 それが藤井蓮にとってのあるべき願い、ただそれだけだということだ。

「だいたい俺は……ああっと、次の時間確か移動だったような。何処だっけ?」

 気がつけば余計なことまで口走ろうとしていた自分にハッとなり蓮はそこで言葉を切って白々しいのを承知ではあったが殊更に思い出したかのような別の話題へとすり替える。
 玲愛もこれ以上はこの話題へと踏み入ってくる心算もないのか、話を合わせる様に返してくれてきた。

「私が知るわけないよ」
「ですね……何かもうめんどくさいな」
「だったらサボる? 付き合うよ」
「良いんですか?」
「私は平気」
「じゃあ――」

 何だかんだで授業に出る気にはもうなれない。先輩もこのままサボりに付き合ってくれるというのなら、それこそお言葉に甘えても良いかもしれない。
 甘い誘惑へと誘われるように蓮もまたそれを承知しようとした瞬間だった。

 直後、タイミングを見計らったようにかかってくる携帯電話の着信音。

 発信者は……まぁやはり見る間でもなく予想通りの人物。
 無視しようかとも思ったが取るまでコールを止めないことは目に見えていたし、何よりこれを取らなければ取らなければで後が色々と五月蝿いのは目に見えてもいる。
 どちらにせよ、最初から選択肢などと言うのは限られたものでしかないのだ。

「はい――」
『ちょっとアンタ! 何処行ってるのよ!? 次の授業、視聴覚室だって忘れたの!?』

 電話を取るなり第一声としてがなり立ててくる香純の怒鳴り声。
 予想通りと言えば予想通りではあったのだが……やはり喧しいというのも事実。
 予め受話器からは耳を少し離すという予防策を取っておいたとはいえ、マトモに聞いていれば耳鳴りは避け切れなかっただろう。
 自身の判断の正しさに改めて確信を抱きながら、蓮は仕方ないので受話器越しに荒れている香純の相手をしてやることとした。

「えぇ……ああ~っと、そうだっけ?」
『そ・う・よ! アンタ入院してた分、日数足りてないんだからちゃんと出ないと留年しちゃうよ!? したいの留年? したいんか!? あたしに一人で卒業しろって……そう言うのかぁぁああああああ!!?』

 適当にはぐらかそうと思うよりも早く、想定した以上の喰いつきで受話器越しにがなり立てて来る香純の怒声。ハッキリ言わずとも喧しい。隣に座っている玲愛にまでありありとその声は聞こえている始末だ。
 それにしても彼女が叫んでいる内容……完全に一弥の存在がハブられている部分には正直な同情を抱く反面、内容自体はむしろそれなりに悪くない気もしてくる。

「……う、うん……いや……そう言われると、それも結構魅力的だな」
『何ぃぃいいい!?』

 思わず漏れ出てしまった本音を聞き拾った香純が更なる怒りのヴォールテージを上げていくのが受話器越しであれありありと想像できた。
 これは後が面倒だろうなと思う反面、一弥あたりが仲裁に入ってフォローしてくれないものだろうかと少しだけ期待する。
 ……まぁ、あまり期待は出来ないだろうが。

「あー、えっと……すみません。何か五月蝿いのが喚いてます」
「大変だね、藤井君も」

 流石に隣の玲愛にまで漏れ聞こえている香純の狂態に関してはフォローを入れておくべきだろうかと、通話した状態のまま隣の玲愛の方へと視線を向けてそう説明しておく。
 彼女の方も香純の状態を容易に想像できているのだろう、心得ているといったように同情的な言葉を言ってきてくれているのだが……どこかそれが楽しそうにも見えるのは邪推が過ぎるのだろうか。

『ちょっと! 今そこに誰か居るの!? って言うかそこ何処? 誰と居るの?』

 まるで夫の浮気現場の場所を詰問してくる恐妻のようなドスの効いた香純の問いに、蓮がどう答えるべきかと躊躇していた矢先に玲愛が先手を打ってきた。
 嫌な予感はしていたのだ。彼女がどこか邪悪そうな笑みを浮かべ、その目を鋭く光らせるのをその瞬間に確認してしまった時から。

「いやぁ、ばかぁ……駄目よ、そんなの……声が出ちゃう~」

 突如としてそんないきなり聞けば誤解を招くしかないような言葉を受話器越しに聞こえるかのような声でありありと叫びだした玲愛の姿に、蓮の思考は一瞬止まる。
 恐らく、与えられた衝撃は蓮もそうであるが……携帯の向こうの相手の方はそれの比ではなかったことだろう。

『!? うぉおおおおおおい!! アンタ、一体何さらしてくれとんじゃああああ!?』

 間違いなく、一部の隙も無い程に、徹底的且つ救いようの無いほど完璧に、誤解されて釣られた馬鹿の叫び声がかつてない声量で携帯の向こう側から発せられてくる。
 ……頭が痛い、もう色々と細かくは言いたくないし考えたくも無いので蓮の結論はそれに尽きた。

「いや、駄目! そんないきなり……やめて、藤井君! このままじゃ――」
『せ、先輩ッ!? ちょ、アンタ――』
「わたし……あん、やだぁ……無理矢理、こんなの……」
『蓮~~ッ! アンタって奴はぁぁあああああ!!』

 馬鹿が盛大に釣れた事が嬉しいのか、興が乗ってきたのかは知らないが、益々アピールするように調子に乗ってエスカレートしていく玲愛の悪戯に、面白いほどに食いついて怒りの限界突破を更新していく香純。
 そろそろ止めないと後で本当に自分の命の保障は無い。……とはいえ、もう手遅れのようにも思えるが。
 兎に角、これ以上の茶番はウンザリ且つ面倒であり、ややこしいだけだ。ストレスを溜め込むような趣味だって蓮には無い。
 故にこそ、前触れも無く即行でそこで蓮は携帯の通話を打ち切り、リダイヤルを香純の方がしてこないように電源まで切った。
 溜め息を吐く。重い、重い溜め息だった。

「酷いよ! 変態!」
「……先輩」

 もう携帯を切っているというのに未だノリノリの演技を続けている玲愛に、いい加減止めろと声をかけるも聞く様子も無い。

「でも……でも…私……そんなことされたら…おかしくなっちゃう!」
「聞けよ、電波」
「誰が電波よ。藤井君、キミは時々目上の人に対する言葉遣いがなっていないと、私は思うの」

 ウンザリして漏れ出た本音の暴言を、しかし玲愛は瞬時に演じていた痴態とは百八十度温度差の異なった通常時の状態へと戻って瞬時に言いきかせてくる。
 ちゃんと聞いてんじゃねえのかよ、と思わず胸中で勢いよく毒づきかけるもそれすら蓮はしかし押さえ込んだ。
 ……何だかもう色々と疲れた。どっと押し寄せてきたこの虚しさと気疲れは、或いは今朝以上の憂鬱さすら自分へと抱かせているのかもしれない。

「だったら年上らしい態度で接してくださいよ、最後まで」
「純朴な後輩をからかう魔性のお姉さんを目指してみたんだけど……もしかして、変だった?」
「全然似合ってないですね」
「そうなんだ。ごめんなさい、ここはそういうのが受けるのかなって思ったから、頑張ってみたんだけど……うん、分かったよ。もう少しHボイスを練習する」
「いや、そういう意味じゃなくて……」

 駄目だこの人、全然分かってない。それとも分かって言ってるのだろうか?
 どちらにせよ、やはり彼女の相手は色々と疲れて自分では荷が重過ぎる。それを改めて実感しながら、初めて沢原一弥へと大きな共感と尊敬の念にも似たものを抱かずにもいられなかった。
 だからこそやはり、先輩の相手はアイツに一任し、ちゃんと手綱も握っておいてもらおうと改めて思った。
 そんな友人関係で、蓮が一つの大きくて深い結論へと至ったその直後だった。

 キーンコーンカーンコーン、と間の抜けたチャイムの音が校舎へと響き渡る。

 予鈴ではない、これは本鈴。昼休みの終了であり午後の授業の始まりを告げる証でもあった。
 結局、どっと疲れる昼休みだったなと蓮が胸中にてこの休み時間を振り返り結論付けていたその時だった。

「本鈴が鳴っちゃったね。それでどうする?」
「……やっぱりサボるのは無しの方向で」
「今から行っても遅刻だよ?」

 玲愛の問いに対してベンチから立ち上がりながら返答を返すものの、更に返ってきたのは当然の事実である指摘だ。
 遅刻……まぁ確かに本鈴がなっている以上はそれにもはや間違いは無い。
 だがだからといって蓮はさして気にしてはいない。むしろ――

「その方が都合が良いんですよ。香純も出会い頭に暴れるわけにはいかないだろうし」

 これから先の彼女への対応を考えれば、相対する事を予想しただけでも面倒であり憂鬱になってくるが、しかし放置はそれこそ傷口を広げることにしかならない下策。
 出来ればこちらから先手を取って迅速に且つ無駄なく誤解を解くほうが理想的だし、そうする方がいい。
 だからこそご機嫌取りも兼ねてちゃんと今からでも授業には顔を出しておいた方がいい。それに玲愛にも説明したが次は出会い頭が一番危険だ。その一番危険な時期の相手の殺意を逸らせる授業中ほど理想的な時間も無い。少なくとも、教師が面前に居る内は己の命は保障されている。後は一弥にでも取り入って協力してもらい何とかしよう。
 ……打算的? 悪く思わないでくれよ、誰だって命は惜しいもの。それを護る為の当然の努力ですよ。
 誰に説明するわけでもなく内心でそんな打算的なプランに言い訳がましいことを告げながら、自分とは違い相変わらずベンチを立つ様子も無い玲愛へとふと蓮は尋ねかけていた。

「……先輩はどうします?」
「私は折角だからこのままサボる。三年生だしね。もう授業なんてあってないようなもの」
「そうですか、それじゃあ」

 まぁ彼女の言い分も尤もだ。そこら辺は本人の自由でもあるし好きにすればいいと思う。
 ……そう言えば、先輩はこれから先の進路はどうする心算なのだろうか。そんな疑問がふと思い浮かびもしていた。
 進学なり就職なり、そりゃあある程度は考えているのだろうしもう決めてもいるのだろう。月乃澤学園が進学校であり、彼女も教会住まいだと考えれば就職よりは進学という可能性の方が高い。
 だが同時に、何故だかは分からないが彼女からはそんなどちらの未来もまた想像し難かったというのは確かだ。
 おかしな錯覚であり、不吉で不謹慎ではあったが何故だか蓮には今の彼女が――

 ――未来など無い、今だけしかない存在のようにも見えてしまった。

 そんなことあるわけないというのに、己の不謹慎さに改めて苛立ちながら頭を振ってその不吉な考えを振り払う。
 そんなはずはない。……あぁ、そんなはずないだろうに。

「……ん、どうかした?」
「……い、いえ。何でもありません」

 こちらの様子を流石におかしなものと認識したのか、どこか不思議そうに首を傾げて問いかけてくる玲愛の問いに蓮は慌てて誤魔化すようにそう返答する。
 そしてこれ以上ボロを出すのも拙い、そんな逃げるような考えから屋上から下りようと踵を返すも、

「ねえ、藤井君」
「はい?」

 階段の扉を開けようとノブを握り回そうとしたのとほぼ同時だった。
 相変わらずベンチに座ったまま、こちらへと声をかけてくる彼女へと蓮も思わず振り返っていた。
 玲愛はそれこそ変わらぬ様子のまま、それこそいつものような平然な態度そのものとした口調のままに――

「さっきの話、普通がどうとかって話だけど……キミはそれしか出来ないんじゃなくて、それすら出来ないんじゃないのかな?」

 唐突に彼女が言ってきたその言葉に、それこそ心臓がその時ドクンと高鳴りもした。
 いつもいつもと思うことなのだが……相変わらず、彼女は物事の本質を突いた時の言葉が鋭すぎると蓮は思う。
 有り体に言って、心臓に悪い。

「どっちにしろ、似合わないこと言ってるなって思ったよ」
「そんなこと言ったって……似合う似合わないと、好き嫌いは別でしょ?」

 彼女の指摘に何とかそう言い返すだけで、後は逃げるように蓮はドアを開くとそのまま階段を下りて屋上を去っていく。
 逃げるように……そう、本当に逃げるように、だ。
 今日一番、言われた言葉の中でやばかったものだと言うことは蓮自身もまた理解していたし、そしてだからこそあれ以上にマトモに言い返せる言葉も生憎と彼は持ちえていなかった。
 だからこそ、結局はあんなことを言い返すことしか出来ない。
 無様だな、それをそう正直に認める反面で――

 それでも、出来ないと言われようが、似合わないと告げられようが、自分がそれを手放せないし、手放したくもないことだけは確かだと藤井蓮は確信を抱いてもいた。



[8778] ChapterⅡ-2
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 23:04
「……成程、一応自覚はしてるんだ」

 藤井蓮が立ち去った屋上、一人残された氷室玲愛は最前に去っていた扉の方へと視線を向けていたそのままに、やがてそのようことをポツリと呟いていた。
 忠告紛いの指摘……否、事実上は警告のようになってしまったし、彼もまたそのように受け取ったのだろうか、一応はこちらの言わんとしていることは伝わったらしい。
 理解が出来たということは、それは自身でもそう認識している自覚があるとも言うことだ。僥倖とも言っていい。あの手のタイプは稀に無自覚なタイプも存在し、えてしてそういった者の方が不安定であり危うくもある。
 しかしながら藤井蓮はちゃんとした自覚は持っている様子である。ならば今はそれだけでも良いだろう。多くを求めるには今の彼では余りにも酷というもの。
 それは藤井蓮だけではない。彼にとってもそうであり自分にとってもそうである数少ない友人である沢原一弥や綾瀬香純にも同じ事を言える。
 彼らは蓮よりも強くは無い。その精神性の脆さは藤井蓮や遊佐司狼の強さと言ったものとは比べるべくも無い。
 故にこそ、出来ればあの二人の方に関してはもう少し慎重に見守るべき立ち位置に居た方が良いのだろう。

「……それにしても、悪夢か」

 ポツリと呟いていたのは先程蓮から聞き出していた相談の内容である。
 己の立場上、色々と気になることや懸念に対して符合することも多いのだが、出来ればそうであっては欲しくないという思いが強い。故にこそ、性急な判断は下さずに現状は様子見……そしてこの事は決して他言せぬ方が良いだろう。
 万一、“彼ら”のような存在に知られてしまい巻き込まれるようなことだけはあってはならない。そう玲愛自身も固く決めていたのだから。
 だが蓮達のほうはまだ良いだろう。日常に固執し、逸脱する事を忌避する彼らが余程の事情も無しに進んで外れるようなことはないはずだ。可能性を零とは無論断定も出来ない、が現状維持を続けていれば今のところも問題は無いはずである。
 日常があり続け、彼らがそれを望み続ける限りは彼らはまだ安全。
 むしろ問題があるのは……

 そこで玲愛は徐に携帯を取り出すと共に、ある番号へと躊躇うことなくかける。
 コール音が数度鳴り、待たされた後に受話器から目的の人物が応じる声を確認する。

「もしもし、どう元気してる? 藤井君も綾瀬さんも沢原君も態度に出さないけど寂しそうだよ。あぁ、私は別にどうでもいいけど。……うん……うん……そう、じゃあ仕方ないね。いや別に先輩としては後輩の心配もしないといけないのかなって思ったから、深い意味は特にないよ。……ああ、ごめん。キミはもう私の後輩じゃなかったっけ? こういうの今更鬱陶しいとか思ってる?……そう、良かった。だったら元先輩として一つだけキミに忠告」

 電話越しの相手と接触を持つのは凡そ幾日ぶりのことであろうか。
 相も変わらずの様子は健在といった口振りであり、事実その通りなのだろうとは玲愛もまた思っている。
 実際、あれだけの事があった後であろうともこの会話をしている人物が豹変してしまうという姿そのものが想像の埒外でもある。
 それに変わってしまえば、あの時の騒動とそれによって傷ついた者たちの意味すらもきっとなくなってしまうだろう。
 だからこそ、この相手が相変わらずで変わらないということは氷室玲愛としては別に良い。本音で言えばどうでもいいとも言えることでもあるが。
 けれども自分で先程言った通りに元後輩であり、一応は知った仲でもある。老婆心めいた忠告といわれようともこれは告げておかないわけにはいかない。
 今更彼が何処でのたれ死のうとも関係は無いが、それでもその結果に悲しんでしまう者たちも少なからずいる。
 そしてその悲しむ者たちのそんな姿を、玲愛としても出来れば見たくはなかったから。

「それはやめた方がいい。でないと……死ぬよ?」

 だからこそ忠告……否、これもまた事実上の警告であるこの言葉を躊躇うことも無く玲愛は相手へと告げていた。
 しかしそれを告げられた相手の方はといえば――


『そりゃあまた随分と物騒だねぇ、先輩。アンタ、オレにそういうの逆効果だって知ってるんじゃなかったっけ?』


 まるで臆した様子など欠片ほどの素振りも見せず、むしろ楽しそうにそんな事を問い返してくる。
 まぁこの通話相手――遊佐司狼の性格を鑑みてみれば、むしろ妥当と言えば妥当と言える返答だ。これで臆するような者ならば、そもそも初めから渦中に飛び込もうなどという愚行を犯そうともしまい。

「知ってるよ。だけど、だったらどう言えば良いのかな? きっと楽勝すぎてつまんないからやめときなさいって言ったらキミはそれでやめるの?」
「いいや」
「でしょう? だから忠告。キミは少し空気読もうとしないところがあるから。誰もが皆キミみたいにいつもアッパーじゃないんだよ」

 思わず会話の中で歯に衣着せぬ本音をぶちまけながら、根気よく……と言って良いかは分からないが一応は諭すようにそう言ってみる。
 ……尤も、これで大人しく諭させられてくれる可愛い性格なら、誰も彼にここまで手を焼かされるといったことにもなっていないのであろうが。

『っは! いつもダウナーな人に言われてもねぇ。まぁ、いつもご親切にどうも……ってか先輩さぁ、何か知ってるような言い草だね』

 額面以上にはやはり予想通りに受け入れてはもらえていないようだ。おざなりな口振りからもそれは明らか。
 むしろこういう時だけ利き過ぎる嗅覚が早くもこちらから情報を嗅ぎ取ろうとして来ているらしい。
 狩りを楽しむ餓えた猟犬の知り合いがこれ以上増えるのも好ましくないが、残念ながら彼はまだそれに足りえていない。むしろ足りる前に潰えるのがオチだとも玲愛は見ている。
 だからこそ、そうならないように忠告をしているのだがちゃんと伝わっていない様子であるのは明らかでもあった。
 しょうがないと思いながら、少しだけの脅しも兼ねて情報を提示してあげることとしよう。

「知ってるよ。キミが捕まえようとしているヤツの犠牲者、見ちゃったからね。アレには関わらない方が賢明。人間の首をチョンパしちゃうような変態なんか、相手しない方が身の為だよ。藤井君たちはそこら辺ちゃんと弁えてるみたいだけどね」

 敢えて蓮達を引き合いに出すことでどうかとも思ったのだが……やはりこれにもあまり効果は無かったらしい。

『あいつらはノリが悪いんだよ。生の変態拝めるなんざ、そうあることじゃないだろうに。アンタ、映画とか見るタイプ? ホラーとかパニックとかに出てる連中、進んで危なそうな場所に出向いてるだろ? でないと話が始まらない』

 始まるも何も無い。むしろ始めるなと言っているのだが、どうやらこちらとあちらの認識の齟齬と言うものはそこまで酷いものらしい。
 そこまで生の変態を拝むのに固執しているのもそうだが、それならそれで一度自分を鏡で見てみた方が良いのではとも正直思う。きっとそこにそのご要望通りのものが映っているはずだ。

「それで、キミの役どころは犠牲者A?」
『オレ的にはヒーロー狙ってたりするんだけどねぇ……まぁ、そりゃあいいやどっちでも。とりあえず忠告は受け取っとくよ……ただ、こっちも仕事なんでね。やる事はやらないと』
「……仕事? キミは探偵でもやってるの?」

 司狼の思わぬ返答を前に、それを疑問に思い問い返すも返ってきたのは呆れたような返答でしかなかった。

『あー違う違う、そんなんじゃない。これはただの好奇心。言ったろ、先輩? 生の変態拝めるなんざそうあることじゃねえってさ。つまり、結局ん所、火遊びだよ。だったら火傷くらいさせてくれないと、張り合いが無いって話』

 頭のネジでも二、三本外れていないと言えないような台詞をさも堂々と言ってくる司狼には、さしもの玲愛も本格的に呆れる他なかった。
 藤井蓮が現代日本の一般的な普通すぎで突き抜けた価値観持ちだとするなら、こちらはその逆ベクトルである。
 反社会的且つ刹那的な享楽主義者……否、一種の狂った破滅願望持ちだと言っていいのかもしれない。
 ……やはり彼だけは違う。その本質は蓮達とは致命的に噛み合わない、むしろソレは彼女自身にも馴染みがあり忌避するあちら側の存在に近いとさえ言える。
 何てことは無い。既に彼は決定的に壊れていて後戻りも出来ない、そして本人自身もまたする気は無いのだ。
 だからこそこんな説得は端から無意味。柄にも無く自分はどうやら無駄な事をしてしまったようだ。

『……んじゃまぁそういうことで。ああ、この番号、来週辺りには変わってると思うからメモリー残してても意味ないぜ』
「分かった、消すよ。どの道、キミはもう皆と関わらせない方が良さそうだし」
『さっきは戻ってこないのーとか言ってなかった?』
「話してて気が変わったの。キミ、やっぱり一人だけジャンルが違うよ」

 そう、ジャンル違い。結局はなべてこの一言に尽きる。
 だからこそ、もう仕方が無い。これが今生の別れとなろうがそれならそれで別にいい。既に遊佐司狼は氷室玲愛の日常には致命的に存在し得ないものにまでなってしまっている。恐らくはそれは蓮達にとっても同様。
 これ以上の無理な接近は互いを傷つけることにしかならず良い事など何一つも無い。諦めて、自分たちとは違うもの、遠いものとして棲み分けを付けた方がそれが互いの為になる。
 ならばこそこの別れも必然。そもそもやはり崩壊と終局は二ヶ月前にそうなるように成されていたのだ。言わばコレは遅すぎるその確認も同じ。
 故にこそ氷室玲愛は諦めた。そして認識の程を改めなおした。

 もはや、遊佐司狼という男は自分たちにとっては異物。そして遠い存在なのだと。

 藤井蓮はそれでもこの事実を受け入れよう。
 けれど綾瀬香純や沢原一弥はきっと受け入れられまい。だからこそ、残酷だろうが彼ら自身が気づき、それによって傷つく前に、そうなる可能性はここで絶っておくべきだ。
 それが不器用ながらも氷室玲愛の己の愛した日常の守り方でもあった。

『健気だねぇ。……まぁあいつらとは長い付き合いだし、一応は先輩にも世話になったからこっちからも忠告しとくけど、止めといた方がいいぜ。アレの一途さだけはオレでも呆れるほどに頑固だしね』

 きっと先輩じゃ手に余る……そう揶揄するように言ってくるが、彼が誰を指して自分との間のことでそう言ってきているのか、分からなかったわけでもないし、興味が無いわけでもないが敢えて聞こうとも思わない。
 そもそも、彼へと抱く自分のソレは司狼が揶揄する類のものとは異とするものだ。ベクトルは同じかもしれないが、その本質はまったく違う。
 だからこそ彼のその忠告は彼女にしてみれば的外れなものでしかない。
 尤も、この事をこうしてわざわざ彼に説明する気もない。面倒だし、勘違いをしているようならそれはそれで構わない。吹聴するような輩でもないし、関係を絶つなら手っ取り早く放置で充分だろう。

「わざわざご忠告をどうも。……どうせだから、私も最後にキミに個人的な気持ちを言っておくことにするよ」
『無礼講の本音トーク? いいねぇ、オレも先輩のそういう率直なところは嫌いじゃないし、最後になるかもしれないならむしろ是非とも聞いておきたいね』

 上機嫌でそんな事を言ってくる司狼の態度に、きっと罵詈雑言の類をぶつけたとしても笑いながら愉快に受け入れるであろう事は容易に想像できた。
 或いは、そういう言葉や感情こそを彼は求めているのかもしれない。
 ご期待に添えるものではないが、まぁ近いものであるのは事実だ。相手の方もOKだと言ってきている以上、ならば遠慮も要らないだろう。

「ねぇ遊佐君――キミはやっぱり、一度死んだ方が良いのかもしれない」

 馬鹿は死なねば治らない。昔から言われている真理を突いた言葉でもあると思う。
 尤も、彼の場合は死んでも治らないだろうなと思ったのは、その言葉を告げて通話を切った後になってからだったが……。



 一度死んだ方が良いかもしれない。
 今生の別れの言葉となるかもしれないというのに随分とキツイ一言だことで。
 ……だが、確かに氷室玲愛が自分に言ってくるには相応しい言葉であったのも事実だ。

「ふむ、成程……そりゃ確かに」

 だからこそ上機嫌で上質のソファーへと改めて身を沈めながら、納得したように遊佐司狼は頷いていた。
 いや事実ご尤も、まったくもってその通りで。
 愉快さが込み上がってきてそれが思わず表情へと出かかったそんな時だった。

「馬鹿は死ななきゃ治らないって? 中々人を見る目があるね、面白そうな先輩じゃない」

 部屋の中、カタカタと打ち込まれるキーボードの作業音に混じって、パソコンが鎮座する方向より聞こえてくる若い女の声。
 先の言葉の意味が可笑しくてたまらない、そう分かるほどに上機嫌めいた言葉に司狼もまたニヤリと同質の笑みを浮かべながらそちらへと言葉を返す。

「だろ? まぁ知り合いの中じゃ話せる方だ。オレと蓮がやりあった後、病院に運んでくれた人だしなぁ。この間、一応礼の電話を入れたんだよ」

 彼女が自分の携帯の番号を知っていた理由というのは種を明かせばそれが理由だ。
 あの時、一応の保険としておいた一弥が予想以上に役に立たなかったものだから、余計な借りを作ってしまうこととなってしまったのだがそれでも借りは借りだ。礼の一つも入れないほどに司狼とて恥知らずというわけでもなかった。

「でも別に、そんなことする必要なかったみたいね」
「あぁ……ありゃどうも蓮たちが本命でオレはオマケって感じだし。つーか、むしろ邪魔者くせえし……酷くないか? もう関わらせたくないって何だよ」

 そもそもあいつらとの付き合いが長いのは自分の方だし、蓮達も彼女の所有物というわけでもない。……まぁ尤も、自分から叩き潰して切り捨てた関係について今更未練たらしく文句を垂れ流そうなどという格好の悪い事をする心算も更々無いが。
 まぁいいさ、もう終わったことだ。そう司狼の中ではあの時のことも蓮達との関係についても既に一応の決着は付いていた。
 それに今はあいつらよりも夢中になって関わりたい対象もいることだし……

「いやその気持ちはよく分かるんだけど。アンタ、自分が無害だとでも思ってるわけ? もろ有害じゃん」
「おーおー、じゃあ何でおまえはオレと居んだよ? っていうかそれより、何か分かったのかよ、エリー」

 自分を有害呼ばわりしてくる先程からの話し相手――エリーと呼んだ少女へとその話題はいいからと目下の最優先事項の方へと話を引き戻す。
 パソコンで作業をしていた少女――エリーは司狼からのその言葉に座っていた椅子を僅かばかり横へとずらして彼へと画面が見えるようにしてやりながら現状について説明を始めることとした。

「うーん、それがねぇ……警察パーだね。未だに何も掴めてない感じ丸出し。策が無いから人海戦術? まぁそれが妥当って言えば妥当だけど。これ捕まえるって言うより、犯人を出張らせないって布陣だよ。……名付けて、臭い物には蓋フォーメーション。実にこう保守的な…能率よりリスクに棘尖らせてるね。司狼、アンタこういうのどう思う?」
「間抜けの腰抜け、付き合いきれん」

 ソファーから起き上がりこちらに近づいて来て画面を覗き込みながら、鼻を鳴らしてつまらなさ気に言い捨てたのが司狼の感想だった。
 彼らしいといえば彼らしい感想、事実自分もその通りだと思ってエリーもまた頷いていた。

「同感。けど実際、ここまでガッチガチに固められたら、犯人は当然としてあたしらも動けないよ。どうする?」

 それが目下においても問題であるとエリーは考えてもいた。
 警察は確かに無能だ。……が無能であろうと実行している布陣に関しては堅実であり鉄壁だ。言った通りに一目見てもそこに穴が無いというのは確かなことでもあった。
 これでは手が出せない以前に動けない。勝てなくても負けない状態を作るということに関しては日本の警察の有能さをこれはある意味証明していた。
 ……尤も、これでは面白くなくてこちらも困るのだが。

「簡単だろ、穴開けろ」

 しかしながら、エリーの説明と画面に映されている現状を前にしてもこの男は些かも揺らぐ様子など見せない。
 それどころか簡単すぎる答えだと言わんばかりに、つまらない問題の答えをあっさり解くのと何ら変わらぬ態度で当然のようにそんなことを言ってきた。

「ん? それはつまり……ウチの連中を動かすってこと?」
「手足は動かさないと意味無いだろ」

 何を当たり前の事をと言った様子で、司狼は画面に映っている諏訪原市内の現在の警察の配置図の一点を指差しながら、

「乱闘でも窃盗でも放火でも何でもいい。それをそうだな……ここからここ、暇な奴をかき集めて西側を集中に起こさせろ」

 要するに撹乱だ、と説明しながら司狼は何でもないことの様に言うが常識的に考えてもとてもではないが褒められるような行為ではない。
 しかしエリーという少女は司狼のそんな指示に対してすら抵抗や躊躇いどころか違和感すらも見せることはない。まるで同意すべき当然の事とでも言うようにそれをあっさりと聞き入れている様子だった。
 何てことはない。この場にいてこの男と共に行動をしている時点で、彼女もまた彼の同類……凡そマトモではないというだけだ。

「その隙に、後はあたしらは東側で変態の出番を待つ?」
「いいや、正直……警戒がどうだのリスクが何だの真っ当な理屈が通じる相手だって保障も無い。もしかしたら祭り真っ最中の西側に出てくるって事もあるかもしれない。隙を作って、今回は傍観だ。
いったいどういう種類の変態かそれで分かるし、パニクってるポリと違ってこっちは自作自演なんだ。上手くすりゃあご対面できる奴もいるだろうさ」

 淡々と予定を詰め合わせるように作戦の目的を語り合う二人だが、内容が内容である。
 司狼の言い分、それはまるで――

「つまりアンタ、舎弟を餌代わりに放り込むわけ? 一人二人、試しに殺させてみようって?」

 直球の疑問、仮にも彼らがどういう関係で結ばれている存在であろうが、凡そマトモであるならばそれは思わず眉を顰めさせて然るべき類の質問のはずだ。
 しかし――

「悪いかよ?」

 ――しかし、先にも述べたが彼らは凡そマトモでは無い。
 故にこそ何の躊躇いも見せずに当然の事の様に問い返す司狼であり、

「いいや、サイコー。アンタのそういう碌でもない所、あたしは好きだよ」

 それを当然のように受け入れるのがエリーという少女でもあった。
 仲間を切り捨てる事を堂々と憚ることも無く受け入れている彼らだが、その異常な考えはしかし彼らの内に限っていえば異常でも何でもない。
 司狼にしろエリーにしろ、そして彼らをカリスマのように担ぎ上げている舎弟や取り巻き連中にしろ、求めているものは所詮刹那的な快楽に過ぎない。
 自分を酔いしれさせ、乾いた心に潤いを満たさせ、退屈という忌むべきものを払拭させる。それだけを目的とした集まりである。
 要するに、噛み砕いていってしまえば彼らにとっては仲間とは、自分の快楽を満たさせる為に用いるべきもの。
 だからこそ有効活用の方法が切り捨てであろうとも、大なり小なりの差異こそあれど何ら間違ったものとはならない。
 利用する者もされる者も、どちらもそれらの承諾を前提とした上での付き合いだ。
 彼らにとって大事なのは愛でも友情でもなければ、ましてや信頼などというものですらない。
 己をいかに退屈させずに楽しませるか、それだけのものでしかない。
 それを当然のように認識し、受け入れているからこそ二人はここに居て、そして舎弟たちもまた二人へと従っているのだ。

「確認しとくけど今回あたしもアンタも出ないんだね?」
「見つけられずに見つけるって基本も、偶には守ってみるさ」
「出向いて叩く……オッケー、実に効率的」

 自分たちは警察とは違う。守るべきは市民の安全や生活でもなければ平和でもない。
 だからこそ利用できるものは何だって利用して、要するに自分たちが楽しめればそれでいい。
 悪ガキの理屈でしかないが、事実その通りの存在が自分たちでもある。
 それを認めているからこそ、憚る心算すら何一つありはしない。

「それで顔写真なり何なり撮らせてこっちに送れば、素性の特定なり何なりはおまえにとっちゃ楽勝だろ?」

 司狼の信頼を置きながらも、どこか面白そうに試すように言ってくる言葉にエリーは当然だといったようです自信満々にただ頷く。
 それで変態の顔が分かったなら、素性を見事に割ってやる自信が彼女にはあった。

「じゃあさっきの件、手回しておくよ」
「そしたら後は――」

 ――箱を開けてみてのお楽しみだ。

 そうニヤリと笑いながら楽しそうに呟く司狼。
 事実、今の司狼は楽しんでいた。かつての蓮達といた頃に比べても別種の快楽ではあるが、こちらの方が活き活きと羽を伸ばせているというのも確かだ。
 選択肢の総当り、フラグ立てとフラグ折り、そしてバッドエンド一直線だろうとも未知のルートへの探求。
 それらはまだまだ終わっていない。いいや、まだまだ終わらせない。
 まだ足りない、全然満たされていない。デジャヴる絶望感を未だ完全には消し去りきってはいない。
 だからこそ進む。振り返らずにノンストップで、思うが侭に進み続ける。
 いつか終わりが来るその時に、本物の満足感を手に入れるその為に。

 ……さて、この変態は果たして自分にそんな満足感を与えてくれるのか。
 分からない、だが分からないからこそ楽しい。期待する余地がある。

「……あぁ、先輩。やっぱりあんたの言った通りみたいだわ」

 馬鹿は死ななきゃ治らない……否、恐らくは死んでも治らない。
 だからこそ、今はどうせなら死ぬくらいの馬鹿げた事へと首を突っ込んで楽しんでみよう。それがあの日からずっと続いている遊佐司狼の目的であり願望でもあった。




 そこは暗い部屋……否、空間だった。
 灯がないというわけではない。蛍火のように微量であれ視界を確保する程度の照明の類は設置されている。
 しかし、灯そのものに存在意義としての主張がない……言ってみれば、その空間自体を支配している闇の強さに負けているのだ。
 例えどれだけ火を焚こうと、千の蝋燭を或いは用意しようとも、この空間を支配する闇だけは決して駆逐できない。
 それは陰ではない。この空間そのものに座する者たちが保有している闇こそがこの空間の闇そのものと同義だからだ。

 すり鉢状の広大なコロッセオを連想させる空間。無骨な造りでありながら同時に壮麗さを抱かせる、まるで城のホールとでも思えそうなその雰囲気。
 その中心は円卓。濡れ光る漆黒の大円卓である。
 席は十三。その席へと至る為の経路も十三。それは事実上の、この円卓がたった十三人の為だけに用意されたことの証明でもあった。
 十三……古来より不吉を連想させる最も有名とも言える数字。様々な凶兆を指し示す事柄の多くに関わってくる数字でもある。
 そんな不吉な数字と同数の数を保有するこの円卓も……成程、その席に座する者たちが人外羅刹に連なる魔人たちだというのならば或いは納得できよう。

 総数十三の席、内埋まっているのは現状で六つのみ。
 Ⅱ(ツヴァイ)、Ⅳ(フィーア)、Ⅴ(フュンフ)、Ⅷ(アハト)、ⅩⅠ(エルフ)、そして……
 主を得て満たされている席は凡そその五つ。唯一の例外であるⅩⅢ(ドライツェーン)の席のみは完全に気配が死んでいると言っていいのに関わらず、その傍らに侍るように席には着かずに立っている者がいるのみ。

「今夜、聖餐杯猊下がシャンバラ入りされることになります」

 沈黙する黒円卓に口火を切ってそう告げたのはその例外……ⅩⅢの席の傍らで侍る者、ヨシュア・ヘンドリック。黒円卓の番外位たる異端。称号はアルベルトゥス・マグヌス。

「あら、シャンバラが安定するまではクリストフに入ってこられるのは困るんじゃなかったかしら?」

 その宣告に応えたのはⅧの席に座する魔人、ルサルカ・マリーア・シュヴェーゲリン。黒円卓の第八位。称号はマレウス・マレフィカム。

「大方、腹の底で何企んでるかも分かんねえようなヤツを放置しとくのも拙いって、流石に代行殿も思ったんじゃねえのか」

 揶揄するようなあからさまな嘲笑でそれに続いたのはⅣの席の主、ヴィルヘルム・エーレンブルグ。黒円卓の第四位。称号はカズィクル・ベイ。

「それは些か口が過ぎる暴言ではないのか、中尉殿」

 ヴィルヘルムの言葉に注意をもたらすかのように鋭い言葉を投げかけたのはⅤの席へと座したこの黒円卓においては最も若い獣、櫻井螢。黒円卓の第五位。称号はレオンハルト・アウグスト。

「あ? おい、新参。てめぇ誰に向かって舐めた口利いてる心算だよ?」

 螢の口出しが癪に障ったのか、まるでチンピラのような態度で、しかしソレの比ではない圧倒的な威圧感を叩きつけながらヴィルヘルムは彼女へとサングラス越しに鋭い睨みを利かせる。
 が、それに臆する様子はそれを直接に叩きつけられた当人……櫻井螢にあるはずがない。むしろ相手の無頼の態度に対しまるで挑戦的な姿勢を崩そうともしない。

「私は言葉通りの事実を言ったまで。耳が遠いのか理解力が衰えているのかは知らないが、私の言葉にそれ以上も以下も意味は付属されてはいない」

 あからさまな挑発。だがそれはヴィルヘルムという男にしてみれば叩きつけられた挑戦状も同じだった。
 ……面白い。実に面白い。師匠が師匠なら弟子も弟子……否、あの師匠あってこそのこの弟子か。
 どうやらいずれにしろ新参者の黄色い劣等はやはり礼儀というものを弁えていないらしい。
 首領と副首領、それに三人の大隊長たる五人を除けば、黒円卓に明確な序列は存在しない。……が、だからといって本来の円卓の意の通りそれは誰もが平等というわけではない。
 むしろ逆、そもそも五人の幹部を別格とした序列が指し示されているように徹底した実力主義こそが黒円卓の実態。発言権の高さはそのままその各々が有する実力に比例する。
 それを見ていうならば、今では形骸化した旧ドイツ兵としての階級は別としても、黒円卓の四位たるカズィクル・ベイが有する序列は決して低くは無い。
 半世紀前には生まれもしていないような新参者のましてや劣等に、舐めたタメ口や態度を許してやるほどに彼は寛容な性格もしていなかった。
 ならば行き着く結論は一つしかない。

「殺すか」

 実にアッサリとまるで今晩のディナーの内容を気楽に決めるかのような態度で、ヴィルヘルムは螢を殺害対象に認識する。
 即座に発せられる殺気。まるで実在の鋭利さを伴っているかのような鋭い殺意は闇が支配するこの空間を、更に昏く重いものへと変えていく。
 ヴィルヘルムが拳を鳴らしながら席を立ち上がる。それと対峙する螢もまた真剣な面持ちで、しかし勝るとも劣らぬ鋭い殺気を発しながら同じように席を立ち――


「はーい、ストップ! 終了~! ベイもレオンも此処での喧嘩はご法度だよ。矛を収めなさい」


 パンパンと刹那の後にはぶつかり合いを始めかけていたようなタイミングで拍手を鳴らすように制止の声と共に割って入ったのは、可憐な少女の容貌を有する赤毛の魔女。
 ルサルカ・シュヴェーゲリンの言葉に、ヴィルヘルムと螢、両者の視線がそれぞれ彼女に向かって集まる。

「あら、そんな情熱的な視線で見つめられたら照れちゃうわね」

 ニコニコと少女の笑みと態度を崩さぬルサルカは、無言にて邪魔をするなと叩きつけてくる二人の殺気をマトモに浴びているというのにまったく臆していない。
 常人であれば即座に発狂もののレベルであるにも関わらず、しかし同種の魔人である彼女にしてみればそれは日常で交わされる挨拶とさして変わらぬ程度のものであるらしい。

「……おい、マレウス。邪魔するってんならてめぇだろうが俺は容赦しねえぞ」

 殺気だけでは分かっていないと判じたのか、引っ込む様子のないルサルカへとヴィルヘルムは苛立ちを叩きつけるような口振りでそう彼女へと低く唸るような言葉を投げかける。
 しかし、ヴィルヘルムからの事実上の最後通牒とも取れるような態度を示されたところでルサルカの態度はまるで変わらない。

「あら、怖ーい。ベイったらそんな威嚇するようなことしないでよ。わたし、臆病だからついつい助けを呼んじゃうわよ。ねぇ、バビロン」

 そう言ってルサルカが唐突に言葉を振ったのは今まで殺気だったこの騒動の中ですら我関せずとも言ったように沈黙を保ち続けていた二つの席の一角、ⅩⅠの席の主である。

「……あなた達のじゃれ合いに関わる心算なんてこっちにはないわよ。巻き込まないで欲しいくらいなんだけど」
「あらバビロンったら冷たいわねぇ。わたしたち、たった十三人の仲間なのにもっと助け合うって精神を持った方が良いと思うんだけどなぁ」
「あなたに言われるというのもどうかと思うけど……確かに、此処で暴れられるのは迷惑だし困るのは事実ね」

 そう言いながらバビロン・マグダレナの称号を有する黒円卓の十一位に連なる彼女は、その視線をルサルカからヴィルヘルムの方へと向け直す。

「ベイ、これ以上どうしてもレオンとじゃれ付きたいって言うのなら別に止めはしないわよ。……ただ、彼がそれに大人しく黙っているか、そして止められるかどうかの自信は私には無いけれどもね」

 そう告げてバビロンがチラリとその視線を促がすように差し向けたのはこの場において主を有する最後の席。黒円卓の第二位を冠するその席へと座している主だ。
 流石にバビロンからのその忠告に加え、その席の主……トバルカインの称号を持つその者が発している雰囲気は、無頼を気取るベイとて容易く無視は出来ない。
 それも当然である。この場において純粋な騎士団員個人としての実力ならヴィルヘルムは間違いなく突き抜けた力を有している。
 だが、そんな彼であろうともその人物……トバルカインを相手にするには流石に分が悪いというのも事実だった。さしもの彼でも正面からやり合えば勝率は半々。
 直接的な因縁を持っていない化物と、この場で早々に潰えることすら覚悟して潰し合う程のリスクをヴィルヘルムとて見出していないというのも事実だった。
 先のシュピーネからの下らない忠告もある。水星に借りを返さぬままに終わる心算も今の彼には毛頭ない。
 ならば結論として辿り着くのは――

「――チッ!」

 苛立たしげに露骨な舌打ちを吐きながら、ヴィルヘルムは立っていた自身の席へと大人しく腰を下ろし直した。
 彼が矛を収める態度を示したことにとりあえず円卓全体に張り詰めていた緊張感が多少は軟化した様子ではあった。

「レオンハルト、擁護は大変嬉しくはありましたが、あなたもまた迂闊な火種を蒔く様なことをしてはなりませんよ」

 これからは多少はもう少し慎重な態度で事は穏便に済ませるように、そう忠告を示すヨシュアに心得たように螢は素直に頷いた。
 彼女の側にも注意をすることで、とりあえずはヴィルヘルム側の顔も最低限は立てたかのような儀礼的なやり取り。
 むしろそちらの方が余計に下らないと言った様子で彼は不機嫌そうに鼻を鳴らしてはいたが……。


「それで、話を戻すけどクリストフが今夜シャンバラに入ってくるのは本当なの?」
「ええ、聖餐杯猊下には今宵よりシャンバラ入りしていただき、後に予定通りに我らの指揮をしていただく心算です」

 それが決まり事だとでも言ったようにルサルカの問いにヨシュアは答える。
 あの時、彼女たち二人がシャンバラに入る時とはまったく違う返答にルサルカが怪訝を示したとしてもおかしくはない。

「シャンバラが機能を開始し始めて安定するまではクリストフに入ってこられるのは困るんじゃなかったのかしら?」

 クリストフ・ローエングリーンことヴァレリア・トリファ首領代行が目と鼻の先にまで来ていながらシャンバラ入りをしていなかったのはそれが理由であったはず。
 彼女たちがシャンバラ入りして既に数日が経過していたが、ルサルカから見てもこの地は入った当初と変化があるようには思えない。
 ここでクリストフの勇み足によって何らかの不備が万一にでも起こってしまえば、この待ち続けた半世紀そのものの時間すら水泡に帰しかねない。
 それは黒円卓の誰もが望んでもいないことのはず。ましてやこの眼前の水星に狂信している男ならば尚の事の筈だ。

「……ええ、確かに万一の事があればという危惧は私も猊下へと進言しました」

 ですが、と少々苦笑の色合いを濃くしながらヨシュアはクリストフへと言われた言葉を彼女にも説明した。
 そう、あの神父は水星の従者たる彼へとあろうことかこう言ったのだ。


『副首領閣下が布かれた術理に万一などと言う穴があるとお思いですか? 仮にも、あの方の恐ろしさを誰よりもご存知のはずのあなたならばそれは尚更でしょう』


 だからこれ以上は待てない。待っていることにも意味が無ければ、そもそも万一などということはありえない。
 仮に万一が本当に起こってしまったならば、それは副首領メルクリウス自身の底が知れたということの何よりの証明。
 それこそ事実上のヨシュアにてみれば挑発されたに等しい言葉でもあった。かといって、全幅の信望を寄せる敬愛する師が底の知れた存在などと言うことを認めること……つまりヴァレリア・トリファの言い分の否定をヨシュアが行えるはずもない。
 故に、半ば押し切られる形となって聖餐杯……クリストフ・ローエングリーンことヴァレリア・トリファのシャンバラ入りは今宵決行されることとなったのだ。

「あらあら、クリストフも言うものねぇ」
「あの野郎、昔からああ見えて意外とふてぶてしい野郎だからな」

 ヨシュアが言い負かされた結果だったということが痛快な事実なのか、ルサルカとヴィルヘルムはそれを聞き随分と上機嫌にもなっていた。
 ヨシュアとしても今更にそんな二人に対して言うことは無い。己を嘲りたいというのなら好きなだけそうしてくれればそれでいい。元から己はそういう役割であり、嘲られ侮られている方が後々に動きやすいというのも事実である。

「オーケイ、なら狩りのついでに代行殿を俺らで出迎えてやろうじゃねえか」

 ヴィルヘルムが言ってきたその言葉に、他の者の視線が再び彼へと集う。
 どういう風の吹き回しか、馴れ合いなどと言う言葉からは最も縁遠いはずの無頼が言い出すにはそれは随分と不似合いな言葉であった。

「迎えは私が行く心算でしたが……中尉たちにはまだ狩りが途中だと思っていましたが?」
「言ったろ、ついでだってよ。どうせ今夜も外回りだ。ならもののついでに野郎を総出で迎えてやるのも偶には悪かねぇ、そう思っただけだよ」

 それに、と怪訝に問い返したヨシュアに対してヴィルヘルムはその端整ともいえる顔立ちを獰猛な獣のソレへと変えながらハッキリ言ってくる。

「勘に過ぎないがよ、今夜は何か面白いことが起こりそうな予感がするんだよ。散々外で待たされて退屈してただろうクリストフにもそれに混ぜてやろうって思ってよ」

 獣としての……否、その獣を狩る側である狩人としての直感なのか、ヴィルヘルムは何かを期待しているような楽しげな口調でそんなことを言ってくる。
 だがそれを妄言だなどとヨシュアとて軽んじてはいない。むしろ彼が言っている何かが起こるというその言葉には充分に一考の余地があった。
 シャンバラ入りをしてツァラトゥストラを追い詰めるヴィルヘルムとルサルカの狩りが始まって数日、確かに未だに標的との接触は果たせていない。
 だがそれも時間の問題だろう。優秀な猟犬である彼らは確実にツァラトゥストラへと迫っているのは事実。早ければ今日明日中にでも標的へと接触しかねない。
 螢という抑えを用意し、カドゥケウスやその他の保険があるとはいえ、それがどこまでこちらの思惑通りに上手く機能してくれるかは分からない。
 現段階ではこの二人にツァラトゥストラを本気で潰されかねないという危惧がある。
 仮にも今夜だけだとしても、自分が彼らと共にいることでツァラトゥストラへと彼らが至るのを少しでも遅らせることが出来ると言うのなら――

「……良いでしょう。では猊下への迎えは私とレオンハルト、そしてベイ中尉とマレウス准尉の四人で向かうということで宜しいですね」
「決まりだな。てめぇ含めてぞろぞろ連れ立って行動するのはあれだが……まぁ今夜くらいは我慢してやるさ」

 面白いものも見れるかもしれないしな、とヴィルヘルムは納得したように頷くと共にもう議論は終了だと言わんばかりに席を立っていく。
 彼に続くように他のメンバーもまた続々と席を立ち、通路を通って各々の闇の中へと消えていく。
 ただ独り、主無き席の傍らへと立つヨシュアだけが無人の円卓の中に取り残される。
 ……さて、ヴィルヘルムが予感しているという面白いものとはいったい何だというのかそれをヨシュアもまた少し真剣に考えながら、彼もまた予感のようなものを感じ取っていたのは事実だった。
 或いは、今宵にまたこの恐怖劇(グランギニョル)の参加者が新たに増えるのかもしれない。

「……主、これらも総てあなたにとっては既知の範疇なのでしょうか」

 元よりそうだと分かってはいたが、改めてそう思わず意味もなく問いかけずにはいられなかった。
 或いは、こんな問いを主へと投げかけるのもまた初めてではなく、繰り返されてきたものなのではなかろうかと思いながら。

 だがどちらにせよ、永劫回帰の環を破壊することはやはりまだまだ容易には行きそうにない。その確信だけはヨシュアにとっても確かなものでもあった。



[8778] ChapterⅡ-3
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 23:06
 夜は狩りの時間だ。そして自分は獲物を狩る狩人。
 その存在意義も必然性も何故と求められたところで的確な正答を自分自身で示せるわけではない。
 それでも自分は狩人だ。……そう今はただ“彼”の代理を務めねばならない存在。
 “彼”……そう全てはあの少年の為に行っていることであり、これは結果的に“彼”を護ることへと確実に繋がっていくステップなのだ。

 ――故に、迷わない。

 躊躇わず、恐れず、そして後悔すら微塵も抱かずただただ只管に、与えられた役割としてのこの務めを遂行する。
 斬首、人の首を斬り落とす慈悲深くも忌まわしいその行い。
 嘆願も慈悲も非難も怨嗟すら、獲物から向けられるありとあらゆる末期の感情の全てを振り切り、逆に蹂躙して殺して殺して殺し尽くす。
 全ては“彼”の為だけに。“彼”を護り、そして“彼”を強くする為にこれ以外の方法などありはしないから。
 そして自分はその為だけの装置として今ここに存在しているのだから。
 だから――


 そうして今宵もまた一人。自らの手を血で染め上げた代償の形としてこの場に作られたものこそがこの首無しの死体。狂気の芸術、背徳のオブジェ。
 ……また一つ作り上げた己が罪のその確たる象徴。

「…………」

 沈黙を持ってそれを見下ろすソレを作り上げた張本人――この諏訪原で連続殺人鬼と世間より認定された存在の胸中に去来する想いは何なのか?
 使命をまた一つ遂行し終えたことによる達成感か、或いは罪の意識や後悔に苛まれた慙愧の念か、また或いは一つの生命を己が手で蹂躙しきったことへの悦楽か。
 沈黙を保つ殺人鬼……しかしそれに当て嵌まる想いはその三つの内のどれでもなかった。最初の二つの感情、それを微塵も抱いていないというわけではないのかもしれない。
 しかし表面上に浮かび上がり滲み出ているその思いは、それらを窺わせぬほどに恐ろしいまでに無色で塗り固められた虚無のようでもあった。
 無機質……例えるなら温かみを喪失した感情の欠落した機械。首切り装置。

 ――ギロチン。

 かの人の首を断つという目的のみを追求して作られた処刑器具。今の殺人鬼は例えるならそれが一番近いような気もする。
 ただ淡々と、ただ黙々と、喚くことも騒ぐことも、ましてや怒る事や悲しむ事すらも無く、斬首というその行為のみを存在意義として成り立つ一つの個。
 それがこの連続殺人鬼の正体……否、本質としての在り方なのかもしれない。

 そんな凄惨な死体と血の海を作り上げ、その場の支配者のように君臨していた殺人鬼が、しかし次の瞬間には弾かれたようにビクリと体を震わせたかと思えば、間髪も入れぬままに急速にその場からの離脱を始めた。
 離脱、そう逃走である。これまで幾人もの人間の首を冷酷にも跳ね飛ばしてきた殺人鬼が、獲物を狩る側の筈の狩人が、その様を脱兎の如くに様変わりさせていた。
 何故? その理由はその存在、この場へと近づいて来ている気配を感じ取ってしまっていれば当然のことでもあった。

 ――鬼が来る。

 殺人鬼と世間より評されるその身がそう評するのもあまりに滑稽さを感じないわけでも無いが、むしろこの場へと近づいて来ている存在の方こそが、自分などより余程この呼称も適切というものだろう。
 即ち、自分のような借物でも紛い物でも、代理というわけでもない純粋な意味での本物。
 夜に蠢き、闇に存在し、そして人を喰らう生粋の人喰い(マンイーター)達。
 人外羅刹の魔人。本物の狩人。
 やって来る。それが今この場へと近づいて来ている。その狙いは当然……自分だ。
 如何様の目的を持ってこちらに狙いを定め、そして狩りたてようとしているのか。その正確な理由は殺人鬼もまた知らない。
 だが確実に分かることがあるとするならば、それは彼らがこちらを狩りたてるべき明確な獲物と定めているということ。
 そして正面から対峙しようものならば、己程度では生き残ることすらありえない圧倒的で理不尽且つ出鱈目な存在であるということだけ。
 故に、逃げる。全力で、全速で。脇目も振らず、無様であろうことすら承知の上でそれでも只管に、必死になって逃げ続ける。
 完全に立場が逆転した狩られる側。綱渡りのように段々と追い詰められていることを自覚している逃走劇であろうとも、それでも今は逃げ続けなければならない。
 死ねない、死ぬわけにはいかない。恐怖や己の命を死守せんとする本能が促がす自己保存への思いも確かにあるが、殺人鬼にはそれ以上に根底にある確固とした理由があったから。
 即ち“彼”……そう自分が護らなければならない、自分にとって己の命以上に大切で愛しいあの存在を護る為に。
 此処で死んでしまえば、殺されてしまえば“彼”を護れない。もうこれ以上に“彼”を強くしてやることもできない。
 それでは駄目だ、ああ駄目なのだ。足りない、まだ全然欠片ほども足りていない。
 今のままの“彼”では、この程度の命を喰らいきった程度のストックでは、まったくにあの魔人たちには到底及ばない。その末路は瞬く間の蹂躙以外にありえない。
 それでは駄目だ。絶対に駄目だ。不許可だ、認めない。
 “彼”が死ぬこと、“彼”が殺されること、“彼”を奪われること。

 ……そんな事、断じて許しはしない。

 護る、そう自分が護る。護らなければならない。強くしなければならない。
 それ以外に、この先に“彼”が生き残れる道が無いのだから。
 だから……
 だから――

「――」

 愛おしむように気付けば漏らしていたのは“彼”のその名前。
 失うわけには、奪われるわけにはいかないその存在。
 護る……絶対に、絶対に護りきるのだ。
 だから今は逃げる。逃げ延びて、命を集めて力を増す。
 “彼”を誰にも負けないように強くしてやるその為に。
 だから必ずに此処から無事に、奴らから絶対に逃げ切ってみせる。
 そして殺す。まだまだ人を殺し、その命を喰らい、魂を集めて力を得るのだ。
 その為ならば……ああ、どれ程の大罪を犯すことすら恐ろしくも無い。
 そしてだからこそ、コレはきっと錯覚なのだ。何かの間違いなのだ。
 目から流れ落ちている、生温かい水のようなこのナニカ。
 その流れ落ち続けているソレを、無造作に強引に拭い去りながら。
 全ての想いを盲目的に“彼”の為だと帰結させながら。
 首狩りの殺人鬼は逃げ去るように夜の闇の中へと紛れていった。



「司狼、出たよ。タワーの傍にある公園だ」
 待ちかねていたその第一報。遊佐司狼はソファーに寝転がっていたのをエリーからのその言葉に弾ける様に飛び起きた。
「つーことは西側かよ。……期待裏切らねえな、このキチは」
 仕掛けは上々、お目当ての獲物はどうやら掛け値なしと言っていいくらいにぶっ飛んだ思考をしてやがるのだろうと言うことがこれで証明された。
 まぁその方が面白い。祭好きのイカレタ変態……良いねぇ、大いに結構。
 そんな爛々と目を光らせ嬉々とした表情も顕にする司狼の姿を見たエリーもまた愉快そうにその表情を同種のものへとしていたが。

「警察より先に死体は見つけられたけど、犯人は見てないってさ。どうする?」
「画像は?」
「届いてるよ」

 映せ、そう躊躇いもせずに即座に促がしてくる司狼の言葉に応えるように、エリーもまた一つ頷くと共に慣れた手つきでパソコンを操作していく。
 ものの数秒でエリーが立ち上げているパソコンの画面にカメラが捉えた現場の映像がありありと映し出される。

「うわっ、グロイねこれ。恐怖の表情がホラー爆発」

 画面に映し出されているのは首を飛ばされた本物の首無し死体である。
 スプラッター映画などで映される精巧な偽物でもなければ、グロ映像としてのモザイク修正すらかかっていない生の首無し死体の映像。
 エリーが示す言葉の通り、これは一見すればトラウマ物と言ってもよさそうな凄惨さである。恐怖に歪んだ切断された首の方とも合わされば、尚更といえるほどの。
 これでも見た目は充分に美少女で通用しそうな年頃の少女である彼女だが、しかしその言葉とは裏腹に嬉々とした感情すら含まれた言葉尻がその映像に彼女が今興奮しかけているということを司狼へと即座に察せさせる。
 ……まぁかく言う自分とて他人の事を言えた義理でも無いが。

「アンタ、こういうの好きでしょ?」
「変態か、オレは?……へぇ、本当に首チョンパだな」

 一緒にすんなよと笑いながらも、しかし司狼もまた興味深げにその映像を見ていたのもまた事実だった。
 理屈ではない、本能的な部分でこれを作り上げた当人の腕に見事なものだという感心を抱いていた為でもある。
 やはりこの変態、見込み通りの掛け値なしのキ○ガイで間違いないようだ。ますます興味が湧いてきた。

「おい、現場のヤツと電話は繋がってんだろ?」
「うん」
「貸せ。……おい、おまえ……どれくらいポリが来るのを邪魔できる?」

 エリーから受け取った連絡用の携帯電話へと受話器越しの部下へと彼は真っ先にそんな質問をぶつけていた。
 電話越しの相手もいきなりそんな事を尋ねられるとは思ってもいなかった様子で若干の戸惑いを見せていたが直ぐにそれに答える。

『あ、はい……二十人くらいが手分けして近所のコンビニ強盗やってますんで……もう暫くは……はい、一時間くらいは引っ張れると思いますんで』

 手下からのその言葉にそれだけ時間を稼げれば上等かとも司狼は頭の中で計算し、そして画面に映されている首無し死体の映像をもう一度見て結論を下した。

「よーし。ならおまえ、ちょっとそのグロイのの周りを調べてみろ」

 いきなり言い出した司狼の指示に携帯越しでも分かる程の動揺を手下が示しているのは容易に想像ができた。
 だが構うことなく司狼は続ける。

「まぁ素人のオレらが勝手に現場弄ったところで意味なんて無いかもしれないが、それでもこの件始まって以来の迅速な発見だ。変態の手がかりが残されて無いとも限らない」
「まさに素人の浅知恵だと思うんだけど? 今度はあたしらが警察に疑われるよ」
「そうなったらそうなっただ。……それにな、気になるんだよ。今回は悲鳴を上げて直ぐに現場に駆けつけて押さえたってのに変態は既に逃亡の後。いくら目撃されるのを恐れての事にしたにしても行為の後の余韻も何もありゃしねえ。……んなもん感じる暇すら無い事情があったのかもしれない、そうは思わねえか?」
「……言いたい事は分からないわけじゃないけど、考えすぎじゃない? そもそもその根拠は?」

 懐疑的な視線と態度、そして言葉で尋ねてくるエリーにしかし司狼はまるで当然と言わんばかりの口振りで答え返す。

「んなモン勘に決まってるだろ」
「……勘、ってさぁアンタそれ正気?」

 呆れたように言ってくる彼女にしかし司狼は微塵もその態度も先の言葉への自信すら揺るがさない。
 ソレは何故か? そんなものは決まっていた。

「元から変態世界に賢しい理屈を求める方が無粋だろ? 考えるよりも感じろ、要するに脊髄反射で生きてるような連中にはこっちも感性で当たった方が存外に的を射てるって場合がある」

 常識や理屈なんていうものは共有するバックグラウンドの存在があって初めて成立するものだ。
 この手の倫理だの常識だの、その他諸々が致命的に欠落しているような変態を相手に、こちらのルールを求めたところではいそうですかと素直に応じるメリットが相手の方には無い。
 だったら変態側の狂気や感性だとかにこちら側から触れてやった方が、まだ把握にかかる手間や時間もマシというものである。

「……そんな理屈わざわざ並べなくてもさ、ご同類の価値観に素直に触れてみたいんだって言いなよ」
「うるせえ、言ってろ。……おい、兎に角だ。おまえはこっちが言った通りに――」

 エリーとの会話を打ち切りながら、改めて手早く部下へと指示を下そうと、もう一度携帯電話の方へと耳を当てたその瞬間だった。

『……ああ……あああ……ああ……あああ』

 受話器越しに聞こえてくる手下の声。その様子が少しおかしいことに瞬時に気付いた司狼は、いったい何があったのかと報告させようとしたその瞬間だった。

「おい? どうした? いったい何が――」
『あ……あ…あぁ……あぎゃぁぁあああああああああああああ!』

 爆発するように響いてくる受話器越しの絶叫。そして同時に聞こえてくる肉を切り裂くような耳障りで不快な音。
 正確に状況を司狼が掴み、その思考を冷静にもう一度再構築するよりも早く、断末魔越しに携帯電話が拾ってくる音が彼の耳へと届いてくる。



「主よ、彼らに永遠の安息を与え、絶えざる光もて照らし給え」

 そう朗々と響くように死者への鎮魂を神への祈りとして捧げているのは僧服を纏った一人の神父。
 今し方、彼の仲間が口封じにと問答無用で殺してしまった若者へと聖職者としての最低限の責務だといった様子で行った行為だった。
 ……尤も、堕落司祭とまで仲間内で揶揄させる彼の行いなど当人以外の目から見れば皮肉以外の何ものとも映りはしていないのだろうが。
 事実、この現場に集っている人外羅刹の魔人たちは如何程の関心すらもそれに見せてはいなかった。

「さて、これはどうしたものですかね? この若者、どう見ても我々の探し人ではありません。かと言って、司法機関の人間とも思えない。単なる不運な一般人か、それとも……実際のところはどうなんでしょうか、アルベルトゥス卿?」

 これも我らが副首領閣下が定められたシナリオの一部なのか、そう問いかけてくる聖餐杯……ヴァレリア・トリファことクリストフ・ローエングリーンの言葉にアルベルトゥスは恭しい態度を以ってそれに応じる。

「はて、私も我が主のシナリオの全てを微細に至るまで把握しきっているわけではありませんので、これが予定調和かイレギュラーかどうかというのは判別しかねているのが現状です」

 恭しい態度を装いつつもまるで真意を掴ませようともしない曖昧な口振り。当然、クリストフが望んでいた返答にはそれは程遠い。
 しかし互いに視線を交差させるように見据えていたところで、この相手が自らに本心を曝け出してくるなどという都合の良い展開が無いこともクリストフは理解していた。
 故に沈黙の後に自ら視線を外した神父はただ溜め息を一つ吐きながら、事の本題を別のものへと移す。

「まぁ良いでしょう。どちらにしても大勢への影響とて無い些事には変わらないでしょうしね。……ただし、ベイ」
「あ、何だよ?」

 月光に照らされその精緻な白貌を映えさせる黒衣の男へと、神父はその次に視線を変えながら静かに告げる。

「あなたは些か乱暴過ぎていけません。この若者、殺さずとも記憶を無くしてもらえば良かったと思いませんか?」

 神父が窘めるかのように告げる言葉が示すように、この若者を出会い頭に問答無用で殺してしまった下手人たる当人の行いは彼が望んだものからは程遠いものだった。
 しかしカズィクル・ベイの称号を頂くこの男にしてみれば、ましてや告げた相手が相手でもある。戯言や世迷い言としか受け取れないというのもまた事実だ。

「おいおい何を今更、七面倒臭いこと言ってやがる」

 形だけの堕落司祭が本物の聖職者染みた気色の悪い発言をしてくることに、本当にベイは相手が半世紀で気でも狂ったのかとすら思ってもいた。
 そもそも自分たちにとって人喰いは宿業。喰らえば喰らうほどに力を増し、より高みへと、望みへと近付くその行いに歯止めをかける必然性が感じられない。
 ましてやこの地はシャンバラ……大虐殺(ホロコースト)を承認された自分たちの為だけに用意された狩場の筈である。
 劣等の一匹や二匹を挨拶代わりに軽く殺してしまおうが、そんな事に気を留める必要性すら何処にもありはしないではないか。

「ボケたか、クリストフ? よりにもよってテメェが言うには似合わなさ過ぎな台詞だぜ、おい」
「ベイ、猊下に対しての口の利き方に気をつけろ」

 ベイの皮肉を込めた軽口、その反論を咎めるように割り込んできたのはまたしてもレオンハルトの声であった。
 まったく一々突っ掛かってくるこの鬱陶しさ、先の咎められた一件で些細なものとはいえ気分をイラつかせていたベイにしてみればそれは火に注がれた油も同じ。

「黙ってろ、新参。あんましつこく喚いて来るならテメェもついでに殺すぞ?」

 故に返すその言葉もまた無頼そのものの言い分。まして言葉に込めたその意味は決して単なる脅しなどではなく、気分次第でそれを行うことすらに躊躇いを抱く心算すらもなかった。
 あの円卓の議場においては結果的に納めたが……しかしかといってアレで懲りただとか自重をするだとかそんな生温い思考を彼が抱いていたわけでもない。
 気兼ねや気後れ、そんなものに顔を立てるほどに牙を失った老いた獣に成り果てた心算などベイには一切無い。
 たとえ形の上では同胞だろうが、黒円卓の意図するべきでない行いであろうが関係ない。
 目障りなようなら殺す、その考えを覆す気も更々無かった。

「いつでも何処でも頼もしいカインが護ってくれると思って、あんま調子乗ってんじゃねえぞ、この雌猿が」
「貴様……ッ!」

 鼻を鳴らすように当てつけられた侮蔑。レオンハルトにとってそれは充分に激昂に値するものだった。
 肌がひりつく様な鋭利な殺気をレオンハルトが向けてきたことに、ベイは軽く口笛を鳴らしながらこの手の話題に関して相手が予想以上に沸点が低いのだということに逆に少し驚いてもいた。
 ……どちらにしろまぁいい。それにこちらの方が優等生面した態度よりかは余程そそいでくるというもの。少しベイの食指が反応していたのも事実だった。

「何だ、やるのかよ? レオンちゃんよぉ」
「……そこまで死にたいようなら今すぐ私の手で殺してやるが?」

 上等、そうニヤリと笑いながらベイも、そしてレオンハルトもまた相手の動きに反応して先手を取ろうと行動しかけたその時だった。

「レオンハルト、ベイ、お止めなさい。あなた方が戦うことを了承した覚えが私にはありませんよ。……それに、騒ぎをこれ以上派手にし過ぎるのは好ましい事だとは思えない」

 まったく血の気の多い連中だと呆れたように溜め息を吐きながら、激突寸前の両者の仲裁にヘと入ったのは首領代行。
 神父のその言葉に次の瞬間に獣同士の喰らい合いを本気で行おうとしていた両者の動きがピタリと止まる。

「待ちきれなくて血が騒ぎ、逸ってしまう……その思い分からないわけではありません。ですが何度も言っているように同胞同士の喰らい合いで黒円卓の席を潰し合う様な行為を認めるわけにはいきません」

 忠誠こそ我らが名誉。
 十一年前の繰り返しを行うにはまだ早すぎる。余計な揉め事は起こすな、と神父は両者に対して言外で告げていた。

「これはあなたとて同意見でしょう? アルベルトゥス卿」
「ええ。全ては我らが首領閣下の御為に。聖槍十三騎士団の、そして此度のシャンバラでのこの大儀式(アルス・マグナ)では大前提のルールです」

 それを破る者は例え何人たりとも許されはしない。そうアルベルトゥスもまた語ってはいた。
 此度の全てが言うなればメフィストフェレスと契約を交わしたファウストも同じ。契約を違えるような勝手な行いは許されはしない。
 それはかの黄金の獣への反逆とまた同じである。

 そしてそれは水と油のように致命的に噛み合わぬこの両者にとっても決して軽視は出来ないものであったのも事実。
 特にベイ。首領……ラインハルト・ハイドリヒという男を直に知っているからこそその恐ろしさの意味はよく分かっていたのもまた事実だ。
「…………チッ! ああ、そうかよ。勝手にしろ」
 再びの理不尽なお預け。シャンバラに入って来て以来定着化したかのようなこのパターンが忌々しくて仕方が無かった。
 八つ当たりとしか言えない様に苛立たしげにベイは傍らの自らで殺したその遺体を乱暴に蹴り飛ばした。
 死体とはいえたったの蹴り一つで、それは公園の端まで飛んでいくというとんでもない飛距離を出してもいた。

「物に……それに死者の亡骸に八つ当たりとは感心できませんね、中尉」
「黙れよ、堕落司祭。いい加減、いつまでも善人ぶってんじゃねえよ、気色悪い」

 ベイのあまりにも乱暴な行いに注意を告げるクリストフの言葉を、しかしベイは鼻を鳴らしたようにあっさりと振り払いながら聞く耳を持とうとはしない。
 折角の狩りの夜、それも漸くに追い続けていた獲物まで後一歩という距離にまで辿り着いたというのに今日はケチの付きっぱなしである。
 実に面白くも無い、そんな風に不機嫌にベイが苛立ちを溜め込みかけていたその瞬間だった。

「まぁまぁ、皆落ち着きなさいよ。それにベイの言い分にだって一理はあったみたいよ」

 そうこの場では場違いと思えるような嬉々とした声を以って今度は場の注目を集めたのは黒衣に身を包んだ赤髪の魔女――マレウスであった。

「だってあの子、こんな物を使ってたのよ。見逃せないわぁ」

 そう言いながらマレウスが皆に見えるように掲げて示したのは、先ほど死体が握っていたのを取り上げた携帯電話である。
 その目敏さを見る限り一人だけ冷静に場を見守りながら色々と観察に取り組んでいた様子だ。

「知ってる、これ? アナクロのあなたには分からないかも知れないけど、今の世の中大分便利になってるのよ」

 そんな事を今時の若者のような態度を以って振舞いながら告げてくる実年齢は二百七十を軽く超える魔女の言葉に、神父が苦笑にも似たものを密かに浮かべていたのはここだけの秘密である。
 だがどちらにしろ、彼女が示して見せたその事実、その意味を察せられぬほどに鈍い者もまたこの場にはいなかった。

「どうやらこの場の状況を何者かに伝えていたようですが」

 レオンハルトが告げたその言葉に神父もまた興味を持ったように頷きながらそれに応じる。
 しかもそれだけではなかった。マレウスは嬉々とした表情で持っている携帯電話を見ながら状況を説明する。

「これまだ通話中みたいなんだよねぇ。ちょっとお話してもいいかな?」

 同意を促がすマレウスの言葉に頷きを示す者はいなかったが、逆にそれを拒む者もいない。
 いやそもそも、既に眼前の魔女がその気になっている行為に水を差すほどに物好きな者が居ないだけというのが正しいか。

「ヤッホー、聞こえるー? あなた誰かなぁ? アハハ、まぁ誰でも良いんだけどさ、とりあえず近日中にベイが挨拶に行くからね。精々楽しませてあげて頂戴、参考までに写真送ると、こんな顔の二枚目だから」

 勝手に物事を決めて話を進めていくが、随分と相手にとっては不幸としか言えない死刑宣告を告げているマレウスの姿はやはり偽り無き魔女のそれであろう。
 口封じ……というか事情を知ってしまった者達、自分たちの存在を知ってしまった者達、それらを始末せねばならないのは当然の措置ではあるが、引っかかっている事が神父にも無いわけではなかった。

「はい、チェキラ☆」

 そう言いながら鬱陶しそうに顔を顰めているベイの強面を愉快気に撮影しているマレウス。興が乗っているのか、ふざけているのか、ついでに自分の顔まで撮影していた。

「オマケにレオンも――」
「私はいい、くだらない真似はやめろマレウス。それで猊下」

 マレウスからの撮影をキッパリと拒絶しながらレオンハルトがクリストフへと促がしてくるのは今後の行動指針。
 具体的にはこの携帯電話越しの相手の始末をまずどうするのかと言ったところ。取るに足らない存在なのか、或いは自分たちに敵対する何らかの背後関係を持った連中なのか。
 副首領が戯れに組み込んだお遊びかどうかは不明であるが、一つ此処は珍しくも自らで動いてみるのも悪くはないだろう。アルベルトゥスが自分が動くことでどう対処してくるか、これはその今後を見据えた実験ともなるであろうから。

「うーん、やれやれ。どうにも事を荒立てるのがお好きな方々だ。……まぁ血が騒ぐのも、待ちきれないのも分かりますがね。よろしい、ではその彼ないし彼女へと伝えなさい」

 彼が言ってきた言葉はこの場の者達……少なくともベイ、マレウス、そしてレオンハルトの三者にとっては些か予想外のことだったのだろう。珍しいといった様子でクリストフへとその視線を集中させる。

「あれ、それってもしかして……」
「珍しいな、アンタ自らが行くのかよ?」
「あなた方にはあなた方の役目があります。その間、雑務は私が引き受けましょう。宜しいですね? それでは――」

 マレウスとベイの言葉にまるで当然の事だと言った様子で応えながら、本題を受話器の向こうの正体不明の何者かへとある種の挑戦の意も込めて神父は告げる。



『電話越しのあなた、何の目的があってのことか存じませんが、総てを忘れるなら特別に見逃してさしあげましょう。ただし引かぬというのなら、明晩教会へとお出でなさい』

 先程までこちらをそっちのけでコントと呼ぶにも物騒なやり取りを勝手に続けていた連中が、遂にこちらへと矛先を向けて来た事に司狼もまた真剣に身構える。
 どうやら藪を突いて蛇が出て来たのか……別種の、それも掛け値なしにヤバそうな変態どもに絡まれることになってしまったこの事態に、流石に司狼とてその全てを冷静に受け入れられていたわけでもない。
 だが兎にも角にも状況を判断するためにも情報が欲しかったのも事実。故にこそ口も挟まず沈黙を持って連中の情報を聞き拾う行為へと徹してきたのだ。
 それを今も続け沈黙を保つこちらに彼らがどのような評価を下しているかは不明だ。或いはビビッて声も出てこないのだという情け無い姿でも想像しているのか。
 どちらにしろそんなものは些事でしかないことは直ぐに分かることとなった。何故ならこちらへと告げてきている言葉から滲み出てきている傲慢さがそれを如実に物語っていた。
 こちらが何者であれ、そしてどのように思っていようと連中には関係が無いのだ。興味が無いといってもいい、どうでもいいのだろう。
 それは先の開口一番に告げてきたふざけた言葉からも容易に汲み取れた事実だ。

『私はクリストフ、聖槍十三騎士団、黒円卓三位、ヴァレリア・トリファ=クリストフ・ローエングリーン。これでも一応神父ですので、怖がらずとも良いですよ』

 自称神父などと名乗り穏やかさをアピールでもしている心算なのだろうが、生憎と変態相手には敏感な司狼のセンサーにそのような誤魔化しは通用しない。
 ……そもそも恥かしげもなく堂々とそんな団体名を当然のように名乗ってくる辺り、相手が今絶賛売り出し中の殺人鬼にも負けず劣らずのキ○ガイである事など容易に想像ができた。
 これはいよいよもってヤブヘビは確定か、と名乗り返すわけでもなく聴きに徹している沈黙に構わず相手は早々に話を進めていく。

『では御機嫌よう、願わくば――』
『神に祈っても意味が無えって神父が教えてくれるとよ』
『じゃあね~。生きてたらまた会いましょう』

 まるで言いたい事だけを言った様に一方的にそれだけを告げてきながら、相手は通話を切ってしまった。
 後に残ったのは未だ沈黙を続ける司狼とエリーのその二者のみ。


「……で、これは些か予想外の展開だったけど、どうする?」

 とりあえず一服と煙草を取り出し火を点けている司狼を横目にエリーがそんな事を聞いてきた。
 彼女としても驚きはあるのだろう。……がそれ以上に滲み出してきている感情があるのもまた容易に察せられた。
 司狼は思う。やはりこの女と自分はつくづく似た者同士だと。まぁだからこそつるんでいてウマが合うのだろうが。

「マジでヤベえな。何だこの面白すぎる展開……堪んねぇぞ、おい」

 くつくつと肩を震わせながら告げる言葉に含まれていた感情……当然、それは恐怖などというモノではない。
 むしろその逆。歓喜……そう、漸くに巡り合わせてきた理想の展開だ。
そう、これだ。こういうのを散々待ち続けていたのだ。
 殺人鬼すら霞んでしまうような掛け値なしの変態集団の登場……ヤバイ、今晩は興奮しすぎて眠れないかもしれない。

「ホント、楽しそうだね。アンタは」
「おまえだって同じだろ? なぁ、マジで連中何だと思う? どんだけヤバイんだろうな? オレたちもしかしなくても口封じの皆殺しか?」

 まるでそれが現実になるのを望んでいるかのような熱に浮かされた司狼の歓喜。……本当に、相手も自分たちがどんな馬鹿に火を点けたのか恐らくは分かっていないのだろうなとエリーは苦笑を浮かべていた。


「お、早速写メが来やがったな。……へ~、やっぱこいつら掛け値なしの変態だな。見ろよ、エリー。本当に見るからにって奴だ。本物の登場だぜ」

 そう楽しげに告げながら放り投げるように司狼が渡してきた携帯。そこに映っているのは先程の写メが送ってきた相手の姿である。
 二枚の写メ、それぞれに写っているのは二人の人物。
 一枚目は軍服と思われるような黒衣を纏ったサングラスを掛けた白髪の男だ。充分に端整と言って良い顔つきではあるものの、隠す素振りも見せない凶暴さと相まってか、チンピラめいて見えてしまうのはある種のご愛嬌と言ったところか。

「……多分、コイツがさっき言ってたベイって奴だね。へ~、何かアンタのご同類って感じじゃん」
「アホか。んなキチとオレを一緒にすんな。オレの方が余程良い男だっての」

 堂々と憚る様子も見せずに言ってくる司狼に対し、エリーは「はいはい、言ってなさいよ」などと適当に流しながら次の写メへとその視線を戻す。
 二枚目に写っていたのは先程の凶悪そうな外見とは対照的な可憐とも呼べそうな赤毛の少女である。……尤も、制服なのだろう先の男と同じその服装や、滲み出している食虫植物めいた妖艶さが、エリーの女の勘にこの少女もまたマトモでは無さそうだという事を告げていた。

「どっちもよ、夜中とはいえそんな格好でよく表を歩けたもんだ。生粋のコスプレマニアじゃないってんなら、本物かもしれねえな」

 むしろその本物である事こそを望んでいるかのような司狼の口振りにエリーもまた同意をするかのように頷く。
 ……恐らく、否、間違いなく連中は本物だろう。

「確か聖槍十三騎士団、黒円卓とか連中言ってたな。……こいつらの顔に連中の名前からアングラの方で正体とか掴めそうか?」
「あたしに言ってんの? まぁ任しときなよ。これだけ素材が揃ってて、そういう連中だって言うんなら、明日までには連中の正体だって掴める筈だよ」

 ネットの海は広大だ。それに探す所を探せば情報と言う物は幾らでも沸いて出てくる。しかも連中はどうやら相当にきてる連中でもあるようだし、尚更だろう。
 アンダーグラウンドのサイトを巡れば直ぐにでも引っかかってくれるはずである。
 さて、連中はいったい何者なのだろうか。

「いよいよ楽しくなってきやがったじゃねえか」

 上機嫌に呟く司狼の言葉に同意するように、エリーの顔にもまた笑みが零れていた。



 全ての流れは予定調和に則って順調に進行していっている。
 ならば今宵のこの出来事もまた師の描いたシナリオの上での進行なのだろう。
 いよいよもって役者は舞台へと出揃ってきているらしい。スワスチカが開ききり、ツァラトゥストラが覚醒するにも未だ早いが、なべて事も無しに進んでいるのだろう。
 相変わらずに師の先見の明……いや、これは永劫回帰の呪いとも言っていいものなのだろうから称えることこそ侮辱に繋がりそうなので今はそれを控えよう。
 さて、ではこの時点で自分はどう動くべきなのだろうか。傍観に徹し、必要な場合に望ましい方向へと状況を誘導していくのが主な役割だが、この場合はどちらに付くべきなのか?
 ツァラトゥストラかそれとも彼らか。どちらか一方は最低でも見守りながらフォローへと回っておく必要も出てくるだろう。
 だが直接的にツァラトゥストラへと干渉を禁じられている自分が彼へと張り付いていてもやはりそれは意味は無い。むしろ猟犬たちに獲物の正体を教えている間抜けも同じ。
 ……ならば、やはり彼らの方に回るのが良策といったところだろうか。ツァラトゥストラの盟友、自分と同じように既知感に苛まれた憐れなる凡人。実を言えばかの存在には色々と興味は抱いていたのだ。
 聖餐杯にやり過ぎで排除されでもしたら勿体無い。儀式の破綻を防ぐ事を考慮しても、やはり彼をここで失うような事だけは避けておきたい。

「マスター、どうなされましたか?」

 不意に思考の海へと没頭していたこちらをサルベージするような言葉を投げかけてきたのは自分がエイヴィヒカイトを教え込んだ愛弟子だった。

「何でもないよ、螢。では我々も帰還しようか」

 穏やかにそう表面上は受け答えしながらも、彼女に課すべき役割についても思いを馳せる。
 この現状で彼女へと最も望んでいる役割、それはツァラトゥストラを護る為のベイたちへの牽制。
 無論、ツァラトゥストラの正体は彼女にもまだ伏せているし、彼女の実力がベイとマレウスを完全に制することが出来るものだとも到底思っていない。
 ……が、無いよりはマシ。そしてマレウスの狡猾な野心は愚かな先走りはしないであろうし、ベイとて無頼ではあるが先を見越せぬほどの向こう見ずというわけでもないはずだ。
 ならば現状でも彼女は充分にストッパーとして機能してくれるはずである。
 恐らくは未だシャンバラに到着していないシュピーネ。聖餐杯は彼にツァラトゥストラの正体を調査するように頼んでいるのであろう事を予想しているので、その正体がばれるのも時間の問題だろう。
 だがそれでも時期を鑑みれば恐らくはそれとて第一のスワスチカの解放……そしてツァラトゥストラの覚醒と丁度重なってもくるはず。問題は無い。

「……何から何まで掌の内、か。やはりあの方は恐ろしいな」
「マスター………?」
「いや、何でもない。くだらない独り言だ」

 怪訝を見せる螢にヨシュアは首を振りながらソレに苦笑と共に答える。
 そして同時に胸中でも思う。
 これだけの配置、流れを持って順調に事を進めているというのに、それでも未だに永劫回帰の環を破壊するには至っていないのだというその事実を。
 流石に此度が何度目の挑戦になるのかまではヨシュアも認知はしていない。……が、百億回は繰り返してまだ一歩及んでいないことだけは明らかなのだろう。
 ならば完璧とも自身が思っているこの流れとて、或いは完璧であるが故に師にとっては既知の地獄の内でしかないのかもしれない。
 それを考えてしまえば……やはり勝利は未だに遠い。
 やはり進行役を任せられた道化としても、慎重さを廃止してでもならば何らかの動きを見せるべきなのだろうか。
 だが重要なるこの序盤で下手を打ち、進行すべき流れを害してしまうことは師も望んでいることではないはずだ。
 ……ならば、やはりここはまだ様子見か?
 焦る必要は無い。繰り返しやって来た事だというのならそれを慎重に間違いないようにこなすこともまた必要であるはず。
 己のデジャヴに苛立ち、感情に任せた先走った行動を起こす事こそ愚策であるはずなのだから。
 だからこそ、此処は慎重に。慎重に向かうべきだろう。
 間違いは許されない。失敗は犯すこともあってはならない。
 全てを完璧に、予定通りに。
 ヨシュア・ヘンドリックは自身に言いきかせるように改めてソレを胸中にて誓い直した。




「……だからこそゲットーを越えられない。ふむ、我が従僕も少し認識がずれ始めているようだ」
「カリオストロ……? どうしたの?」
「ああ何でもないよ、マルグリット。まぁ、このままでは少々困るが、現時点ならば問題は無いものだと思っている」
「……よく、分からないよ?」
「今は君が気に留めることでもないさ。それより、彼は今宵もまた来たのだろう?」

 永遠の黄昏に支配された浜辺。襤褸を纏った金髪の少女と言葉を交わす影絵の男。
 アレッサンドロ・ディ・カリオストロことメルクリウスにとって、此度の挑戦にかけている期待はそれなりに大きいものがある。否、幾度の挑戦ごとにかけてきた期待は変わらずに大きいのだ。
 だがそれでも最後は届かない。百億回を繰り返そうとも、望む最後の一点に条件が全て出揃わないのだ。
 まぁ世界の法則そのものを敵に回して破壊しようとしているのだから、そう簡単に成し遂げることが出来ないということもまた承知の上でのことではあったが。
 だがしかし、永劫回帰への反逆であるというのに、予定調和……既知感の地獄の深みへと繰り返すごとに段々と嵌りかけている様子の己が従僕の姿には少々情けなさを感じ始めてもきていたが。
 これではまたいつかのようにクリストフに出し抜かれる結果になるのではなかろうかと思わずにもいられなかった。
 まぁ、アレ一人に全ての期待をかけているわけではない。進行役でもあり道化でもあるアレが舞台に対して役割を持った装置の一つではあることに変わりは無いが、だからとはいえ主役のような活躍を望んだことはかつて一度たりとも無い。
 奮起し、ベストを尽くしてもらう必要があるが、その為にも相応しい道化役として踊ってもらわねばならぬだけだ。
 そして真の主役たる彼らが踊るべき相応しい舞台の成立を、その為に用意したはずの駒である。

「どちらにしろ、自らの介入を禁じた観客である私は見ているだけに過ぎないが」

 運命という言葉に例えることは自分にとっても皮肉以外の何ものでも無い。
 がそれでも敢えて、その言葉を以って例えるとするならばこの一言に尽きる。

「大事なのは運命がそのように選ぶことだ」

 種は蒔こう。水を与え、環境も整えよう。されど芽吹き、実を結ぶか否か……それはこのオペラの役者たち次第だ。
 自分がそれを行ってしまっては意味が無い。価値もなければ、その全てが台無しにもなってしまう。
 それでは駄目だ。盟友との誓いも果たせなければ、愛しき君を救うことすら出来はしない。
 だからこそ、傍観に徹する。唯一の役割たる観客、そのスタンスを自分は崩すわけにはいかない。
 不甲斐無い、頼りにならないままでは困る以上、己が代理にも早く役割を果たすべく目覚めてもらいたいものであるのだが。

「……まぁ、どちらにしろ今は待とう」

 百億回など優に繰り返した。既知感しかないこの地獄も苦痛でこそあれ自分を狂わせきるにはまだ猶予もある。……否、この部分だけはこんな事を始めている時点でとっくに狂ってしまっているのかもしれないが。
 まぁ待ち続けるという行為にはなれている。それだけは事実だ。故に、今は待とう。

 だが待ち続けるのは慣れてはいるが、好んでいるというわけでもない。

 それが本心としての事実であることもまた変わらない。だからこそ焦がれている。
 未だ遠い、その未知へと至る為の終わりというものを……。



[8778] ChapterⅡ-4
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2009/08/29 17:55
 12月4日。1日から続いていた連続殺人事件の犠牲者が遂に七名に達した。
 新聞やテレビなどの各種マスコミは挙って戦後類を見ない凶悪かつ残虐な事件と定めてこれを大々的に取り扱っていた。
 何でも専門家の話によれば犯人は欧米型のシリアルキラーに類する者なのだそうだが、遺体からセクシャルな部分が持ち去られてはいないだとかいう件から、その犯人像については大きく意見が分かれているらしい。
 まぁお偉い専門家でもない一学生の身分から言わせて貰えるなら、首をチョンパする時点で変態でしかないだろうというのが沢原一弥の認識であったのだが。

「先輩はどう思います?」
「さぁね。というかキミの方からそんな話題を振ってくるのも珍しいね」

 実に食事時にも相応しくない……そう言ってくる氷室玲愛のその一言に一弥はいえいえとその首をキッパリと振る。

「だってずっと昨日からあいつらのせいで疲れてるんですよ。殺伐とした話題だってしたくなりますよ……先輩のせいで、ね」

 だから責任とってアンタも何かしら償え、そうニコリと笑みを浮かべながら玲愛へと一弥は言外にそう告げていた。


 沢原一弥は激怒していた。
 必ずやかの悪逆非道の自称魔性の女なる氷室玲愛を糾さねばならないと決意していた。
 その為に覚悟を決めて登校し、この昼休み、逃がすことなく彼女と対峙していたのだ。
 そう、全ては昨日の悪夢。
 馬鹿に釣られた馬鹿から馬鹿を護る為に巻き込まれ、自らも馬鹿みたいに苦労をした。
 その苦労、その恨み、此処で晴らさずにおくべきか。


「青筋浮かべてニコリと笑って、キミも結構器用だね」
「お蔭様で、そりゃあもう苦労人ですから。……で、他に言うことは?」

 逃がすかと言わんばかりに笑みを浮かべながら決して話題だけは逸らさせない。
 昨日の悪ふざけ……その一番の割を喰った身としては諸悪の原因たる彼女には是が非でも報いを受けさせねば気が済まなかった。

「……もしかして沢原君、怒ってる?」
「嫌だなぁ先輩。もしかしなくても怒ってるに決まってるじゃないですか」

 何を今更、そんな爽やかさすらアピールする素振りを見せながら返答する一弥の態度に、玲愛も漸くに理解が出来たのか成程と言った様子で頷く。
 相手の本気具合が理解出来たのだろう。玲愛の方は漸くに折れたように項垂れると共に珍しくそのシュンとした態度で一言。

「……そっか。ごめんね、藤井君と浮気して」
「そこじゃねえよ! つーか誤解されそうな発言をしないでください!?」

 此処に至りまだボケに逃げる玲愛にまたいつものようにツッコミを入れてしまう一弥。
 ……駄目だ、そうじゃない。また相手のペースにさせてどうするというのか。

「酷い、やっぱりBカップは遊びだったのね」
「はいはい、俺も大艦巨砲主義ですからBカップは遊びで結構。……そうじゃなくてですね、まだボケに逃げる気ですか? 先輩」

 いい加減にしてください、そう逆に項垂れた力無き呟きを漏らす沢原一弥。
 柳に風、という言葉があるがここまでのらりくらりとかわされ続ければいい加減にうんざりもしてくるというもの。
 意気込んで糾弾に臨めば臨むほど、脱力させられるとはいかがしたことか。
 自分のやっている事が馬鹿らしくもなってくる。俗に言うところの白けると言うやつだろうか。
 そんな様子の一弥に対し、しかし玲愛は平然とした様子でこちらの肩を慰めるかのように叩いてきて一言。

「しょうがないわね。お姉さんが慰めてあげましょうか」
「……いい加減、犯すぞこのアマ」
「わー怖い。誰か助けてー。此処に強姦魔がー」

 思わず珍しくも彼女を相手に口汚い言葉を口走った一弥に、玲愛はまるで懲りた様子も見せずにそんな棒読みの台詞で助けを呼んでいる始末。
 元からそんな度胸などありはしないが、それすらも見据えてのこの態度だ。こういう時の先輩は実に性質が悪いと一弥は思う。
 社会的に不名誉な単語で叫ばれもし誰かに聞かれ誤解されでもしたら自分は社会的抹殺も同じだ。
 故にこそ電光石火の速さで慌てて彼女に対して頭を下げて収めてもらいにかかる。
 平身低頭……それは無様な威厳や意気込みもまるでないヘタレた姿だっただろう。

「分かればよろしい」
「はい、すいませんでした。…………って、この立場何かが間違ってません?」
「別に。実にいつも通りだと思うけど」
「……はぁ、さいですか」

 もういい加減疲れてきた。今日こそはこの自称魔性の女に天罰をと半ば意気込んでいたというのに見事なまでのこの返り討ちだ。
 ……ああ、俺ってヘタレだなぁと一弥は改めて思った。

「まぁそういうポジションだし」
「……他人の思考にさも当然のようにツッコミを入れんで下さい」

 顔に出てしまっていたのを目敏く読んだのだろうが、本当にこの人何者だよと改めて思う。
 こうして沢原一弥の数少ない氷室玲愛へのリベンジは情けない返り討ちで終わってしまった。
 ……まぁ、人はこれをお約束と呼ぶのだろうが。
 世の理不尽を改めて深く思い知り、少年はまた一つ大人となった。つくづく喜ばしくも無い成長と悟りではあったが……。



「……にしても、休校になりませんでしたね」
「そうだね。事件に巻き込まれてからじゃ責任も取れないはずなのに、大人ってそういう所は別に考えるから」

 登校してから四時限まで、ずっと自習と平行した朝からの職員会議にて下された結論。それこそが先程の校内放送だった。
 もしかしたなら暫く休校、今日はもう昼までで帰れるんじゃないか……そんな密かな淡い期待はしかしながら先の放送でその全てが結局は霧散した。
 即ち、授業は今日を含め明日からも午後から平常通りに行う。部活動等は暫くの間禁止として放課後は即座に帰宅すること、というのが主な内容であった。
 一弥としても休みになる期待の方が大きかった分を考えれば、これには落胆の思いを抱かずにいられないのは事実。
 だが玲愛の方がここまで痛烈な皮肉をいってくるのもまた予想外と言えば予想外ではあった。

「……大人の事情って奴なんですかね、大変だ」
「都合のいい言葉でもあるけどね、それって」

 ご尤も、そう頷きながらも愚痴愚痴と教師たちが決めたことに文句を言うのが目的ではない。
 今日の彼女との昼食の目的は昨日の復讐(果たせなかったが)もそうだが、別の用件で訊きたい事があった為でもあった。

「先輩、一つ訊きたいんですけど」
「沢原君もお悩み相談? 私はキミたちの都合の良いカウンセラー扱いか何かなのかな」

 その口振りから察するに、やはり昨日の蓮とは何がしかの話をしていた様子であった。
 読みは正しかった、そう思う一方であまり当たっていて欲しくも無い読みであったのも事実だが。
 一弥とて蓮とは幼なじみとして香純や司狼と共に二十年近い付き合いがある。それ故に隠していてもこの所彼の様子がおかしい事くらいは察せられていた。

(けど俺たちじゃなくて先輩に相談してるあたり、こりゃ深刻ってことか)

 他愛も無い悩み程度なら自分たちに真っ先に打ち明けるだろうが、本当に重たいことや真剣な悩みは一人で抱え込もうとするのが藤井蓮だ。
 本当に大切なものは自分からは遠ざけて護る……そういう古臭くて不器用な考えを抱くような奴である。だからこそ自分たちに決して打ち明けようとはしなかったのだろう。
 ならばどうして先輩には打ち明けたのか、彼女もまた蓮にとっては大切な存在な筈である。……ならば、何故?
 そんなもの、決まっているではないか。

「……先輩は俺たちなんかよりも余程頼りになりますしね」
「あまりそう思っているとは思えない口振りだけど」
「そんなことありませんよ」

 そう見えるなら、それは恐らくこちらの抱いているみっともない嫉妬がそう見えさせてしまっているのだろう。
 実際、何処まで情けないのかと軽く自己嫌悪に陥りそうにすらなっている。

 そう、結局はそういうことだ。氷室玲愛に比べれば自分や香純は藤井蓮にとっては酷く頼りなくて脆いのだ。
 司狼の一件、恐らくはあの辺りから蓮はそれに気付いたのだろう。だから余計な心配をさせないようにと気を遣ってあいつは自分たちではなく先輩を頼った。
 情けないし、正直悔しいとも思う。結局あいつから見れば自分たちはお荷物なのだろうか、と。
 司狼ほどに対等に見ようなどとは思ってはくれないのか、と。
 みっともない嫉妬、そんな感情を改めて自覚せずにはいられなかった。

「……藤井君が何を相談してきたのか、訊かないの?」

 それを少し意外だとでも言った様子でこちらへと尋ねてくる玲愛に、一弥は見くびらないで欲しいとその首を振った。

「アイツは俺たちじゃなくて先輩を頼った。それだけアイツから信頼されてる先輩が、ほいほいと俺を相手にアイツの悩みなんて吹聴したりしないでしょう?」

 少なくとも氷室玲愛はそんな人間ではないことくらい知っていたし、だからこそ先輩として素直に尊敬してもいるのだ。
 だからこそ最初からその相談内容を尋ねようなんて思っていない。訊きたかったのは何かを相談したかどうかのその事実確認だけだ。
 そしてその目的は果たされた、ならばこれ以上は相手も望んでいない以上無暗矢鱈と踏み込むべきものではない。
 己の分を弁え、そっとしておくことも大切だとつい先日に学んだばかりだ。

「少なくとも藤井君にとってキミと綾瀬さんは私よりも大切。それは事実なんだから喜んでいいとも思うけど?」
「喜べませんよ。……大切な奴に大事な事を隠し事にされる事ほど辛いことってないですよ」
「それは単なるエゴ。独占欲が意外に強いね、沢原君は」

 歯に衣着せぬ毒舌も、しかし今はハッキリそう言われた方がどこか心地良い。
 だからこそ、苦笑ではあったが玲愛の言葉に一弥は応える事も出来た。

「これでも自分じゃ慎ましやかな心算ですよ。多くを望んだ事だってない心算だし」

 今が永遠に続けばいい、そんなどうしようもない青臭くて土台無理な執着を抱いている時点でもしかしたならば確かに慎ましやかとは程遠いのかもしれない。
 しかし少なくとも、今以上のものなど何一つとして望んでいない。この現状を愛し、保持すること以上に求めているものなど何も無いはずだ。
 何でもかんでもと全てを欲しがるような欲を懐いた事だってない筈だ。

「そうかな? 私から見れば沢原君は何でもかんでも欲しがっているようにしか見えないんだけど?」
「手厳しいっすね。……でも、俺は何も今以上に望んでることなんて無いですよ」

 そう告げる一弥の言葉に玲愛はそこが違うのだと首を振る。
 前提条件が違っている、思い違いなのだと。

「沢原君は今自分にあるものの全てを欲しがってる。執着してる。……遊佐君の一件があってからそれが顕著になってるよ」

 今あるものの手にしているものの全てを失いたくない、そう指摘されて確かに一弥はそれを否定できない。
 だがそれは別に欲張りなんかでもなく、当然の考えなのではないのだろうか。

「……何も失いたくないってのが欲張りだって事ですか?」
「そう。何かを得るためには何かを失うのは当然だし、逆に何も得られなくても一方的に失うことがあるのも人生」

 確かに少し理屈っぽくはあるがそれは当然の事実ではあるだろうとは一弥も思う。

「私が見てる限りじゃ、沢原君は何でもかんでも護ろうと手を伸ばして行ったり来たり。大切なものを見定めて絞り切れていない、諦めて踏ん切りをつけるって事が出来ていない。
 だから大切なものをちゃんと護り切れずに空回って逆に失っている……それがキミの現状だと私は思う」

 要するに……

「大切なものはちゃんと絞って、割り切るって事をした方がいいと思う。じゃないとキミはいつか何も護り切れずに本当に大切なものを失うことになるよ」

 そう改善を促がしてくる玲愛の言葉に、一弥は何と返せば良いのかも思い浮かばずにただ沈黙する。
 言いたい事を言い終えたので後はどうでもいいのか、玲愛は座っていたベンチから立ち上がり扉の方へと向かって去っていく。
 去り行く彼女の姿がどことなく不機嫌そうに見えたのはこちらの単なる錯覚だったのだろうか。
 ただ最後に一言、彼女は去り行く間際に、

「キミはちょっと優し過ぎる。でも優しいだけじゃ誰も護れないし幸せにも出来ないよ」

 そう告げ終わると反応も待たずに彼女はそのまま階段を下って行ってしまった。
 彼女の言ってきた言葉の意味を、一人取り残された屋上で沢原一弥はいつまでも考え続けていた。
 気が付けば昼休みの終了を告げるチャイムがいつの間にやら鳴っていた。



 休校にしなかったのならば自分の練習をする権利だって奪えないはずだ。
 些かの超理論を展開しながら綾瀬香純は今日の放課後も部活に出て一人でも練習を行うのだという。
 この所の悪夢にずっと悩まされ続けテンションが下がっている藤井蓮としてはこいつは何と戦っている心算なのかとほとほと呆れながらも、しかし放って帰るということも出来ないので仕方なく今日も付き合う以外に無かった。

「一弥、おまえはどうするんだ?」

 昼休み以降様子のおかしい(五時限目を遅刻してきたことからも)様子の沢原一弥へと蓮はそう訊いてはみたものの返ってきたのは予想通りと言えば予想通りの返事だった。

「……悪い。今日は先に帰る」

 視線を合わせようともせず無理に笑おうとするのは何がしかの知られたくない事を誤魔化そうとする時の沢原一弥の悪い癖だった。
 どうやら自分同様に何かを抱え込んで悩んでいるのだろうか……他人の事を言えた義理では無いものの不器用な奴だと蓮は思う。
 相談にでも乗ってやるべきなのか……尤も、自分の抱えている問題に決着どころか解明の道筋すら見出せていない自分の現状にあまりそんな余裕が無いのも確かなのだが。
 それでもこいつや香純が笑っていないということは蓮にとっても都合が悪い。言ってみるならば死活問題でもある。
 最も身近な日常であるこいつらまで変わってしまっては、それを必死になって維持しようとしている蓮自身の努力も何もかもが報われない。
 だからこそ、自分の都合の為……言い方は悪いが、それでもその為にもこの幼なじみたちには今まで通りにいてもらわねば困るのだ。

「……あんまり一人で悩んでないで、香純や先輩に相談するのも一つの手だぞ」
「……悩んでるって、決め付けるなよ」
「見ててバレバレなんだよ。隠してる心算ならもう少し上手く隠せよ」
「……おまえにだけは言われたくない台詞だな、それ」
「俺はいいんだよ」

 そう、まだ自分は良いのだ。まだこっちはもう少し余分にタフだから耐えられる。
 けれど一弥や香純は違う。図太く見えるしそう振舞ってはいるが、その実、中身は繊細で脆い。こちらが見ていて不安になるほどに。
 だからこそ一弥や香純のような奴らは一人で悩みを抱え込むなんていう似合わないことはするべきではないのだ。
 そのこちらの言い分の全てが伝わったかどうかは分からない。がやはり不満そうな顔つきは納得しかねていると言った所だろうか。
 まぁ素直にこちらの言い分を全て聞き入れるほど可愛い性分な奴でも無い。今はこの程度でもマシと思っておくこととしよう。

「ちょっと蓮! 練習時間が無くなっちゃうじゃない、早く来なさいよ!」
「ああ、すぐ行くからちょっと待ってろよ!……ああ、それで何だっけ? まぁ兎も角、何なら先輩にでも相談してみたらどうだって事で、一人でウジウジいつまでも悩んでるなよってことだ。――それじゃあな」

 また夜に、そう最後に告げて呼び急かす香純の元へと蓮は向かっていった。
 本当に一弥がこちらの言い分を素直に聞き入れるのか、胸中にはそんな微かな心配を残し続けながら……。



「……その当人相手に説教受けたんだっての」
 不貞腐れたように呟く言葉は力も覇気もまったく無く、まるで吹かれれば飛び消える塵の様に儚く消えていった。
 放課後、早々に帰宅するようにと出されたお達しに逆らうことなく帰宅する生徒たちに混じりながら、沢原一弥は学校を後にしようとしていた。
 帰ってすることがあるわけでもない。手持ちの金に困っていない(無論、だからと言って贅沢が出来るわけでも無いが)理由からバイトも今はやっていない。
 予定というものがポッカリと空いた今この時間、殊更に意欲的に掲げられるような目的も沸いてこない。……いや、何時にも増して鬱陶しい欝さ加減だけが拍車がかかった状態だと言えるだろう。
 それでもそれを無理矢理にでも払拭しようと思うのならば、やはり蓮や香純たちと一緒に居て離れない方が良かったのだろう。
 だが結局はそれを選ばなかったのは昼休みに玲愛から言われた言葉……それを自分なりに考えながらも未だにハッキリとした決着もついていない為でもある。

 彼女は以前言った。自分の蓮たちへと抱いているソレは友情と言うよりはむしろ依存に近いものだと。そして自分自身でも納得していたが故に自らでもまたそれを是と受け入れ、肯定した。
 今回もまた彼女は言ってきた。自分は何でもかんでも欲しがり、失くさないように執着しようとしているだけだと。……この言葉もまたその通りだとは思っているし、受け入れてだっている。執着……そう、その思いを依存同様に偽ろうとは思わない。人の感情に貴賎云々などという尤もらしい事を持ち込もうとは思わないが、自分が世間一般的に充分にみっともない部類に分けられる人間だという自覚だってある。
 今更自分自身に見栄を張り続けたところで意味が無い。……浅ましい。ああ、沢原一弥とは浅ましい人間なのだろう。

 ……だがそれでも、浅ましかろうが譲れないものだってあるのだ。
 それが自分にとっては今であり、それを構成してくれる日常の全て、そしてその核ともなっている存在こそが自らがラインの内側と定めた大切な者たちだ。
 彼らの事が大切だ。失いたくないという愛おしさに偽りは何一つだって無い。
 そして大切だからこそ……

「……俺には、やっぱり優劣なんてつけられませんよ」

 正確に言えばつけたくない。ラインの内側の護るべきものだというのなら、それら全てを等しく尊重していきたいと思うことに間違いがあるとは思えなかった。
 だからこそ、玲愛の言葉は一弥を強く迷わせてもいた。
 彼女は言う。大切なものは絞って、もっと割り切るべきなのだと。そうでないと何も護り切れはしないと。
 優先順位をつけるべきだ、そう彼女は言いたかったのだろう。少なくとも一弥は彼女がそれに近いニュアンスを含めて言った言葉だったのだと認識している。
 ……彼女の言い分は分かる。が分かるからと素直に納得して受け入れられるものかといえば残念ながらそうもいかないだろう。

 仮に、あなたに絶対に裏切ることなど出来ないくらいに互いに信頼しあった親友と、心の底から幸せにすることを誓った仲睦まじき恋人がいたとしよう。
 もし……ありきたりな極端な例ではあるが、もし仮にこの二者の内どちらかしか助ける事を選べない事態が起こったとする。ならばあなたならばどちらを助けるだろうか?
 固く誓い合った友情を重んじ親友を選ぶか?
 深く混じ合い捧げた愛を重んじ恋人を選ぶか?
 あなたならばいったいどちらを選ぶだろうか?
 無論、こんなものは極限過ぎた無茶な選択なので実際に考え結論を出そうという行為そのものがナンセンスなのかもしれない。
 これが一弥自身にとってもそのまま対人関係で当て嵌まるというわけでは無論ないし、氷室玲愛とてここまで行き進んだ取捨選択を促がし覚悟を求めているというわけでもない。
 しかしながら要するに、先の質問に対して所謂“普通”にカテゴライズされるべき一般人がまず懐く疑問があるならばそれは共通のもののはずだ。

 即ち、そんなものは選べない。或いは、そんな選択は考えたことも無い。

 沢原一弥にとってしても、結論を言ってしまえば同じようにそうであるというだけ。
 彼にとってラインの内側の存在とは選ぶようなものではないのだ。選定は既に内側と外側の区分の時点で終わっているのだから。
 彼にとってラインの内側の存在とは大前提としてその全てが欠かせない大切なものなのだ。それは藤井蓮然り、綾瀬香純然り、遊佐司狼然り、氷室玲愛然り……と全て変わらない。
 蓮の為ならば司狼は切り捨てられるのか?
 ……否。
 香純の為ならば先輩を蔑ろにしてしまっても構わないのか?
 ……否。
 そう、否なのだ。それが一弥にとっては当たり前なのだ。彼にとって大切なものの図式に不等号は成り立たない。全てをイコールで繋げようとする。
 皆が好きだ。だから皆が大切、皆を護りたい。
 今までずっと当たり前のようにそれが当然の認識として成り立ってきていたし、それに対しての不都合など何一つ無かった。
 それが乱されるようになった……危機感を初めて抱くような物事の狂いの切っ掛けとなったのは遊佐司狼が唐突に自分たちと切れるなどと言って起こしたあの事件だ。
 あれが一弥にとって全てをおかしくさせるノイズを生み出す原因ともなった。等しく大切であったはずのもの、欠ける事など考えたこともなかったあって当然のモノの日常からの消失。一方的とも言える手切れ。
 今でも時々思う。そして後悔する。あの終わりとは本当に回避できなかったものなのだろうかと。
 遊佐司狼……蓮と香純と同様に自分にとって最も大切な者であるはずだった人間の一人。沢原一弥を沢原一弥として成り立たせる為に欠かせないはずの要因(ファクター)の一つ。
 そうであったはずだというのに、それは唐突に失われた。永遠を望んだ幸せは呆気ないほどに泡沫の夢と散ってしまった。
 氷室玲愛はこちらを諭した。それは価値観の相違だと。自分と彼では重んじ尊び、そして護り優先すべきものが決定的なまでに違ったのだと。
 それを一弥は悲しくとも納得し、そして受け入れた。……受け入れた心算ではあった。
 だが心の底ではずっと望んでいたのだ。或いは、と。もしかしたならば、と。滑稽で浅ましい妄執と鼻で嗤われようが構わない。蓮ならば唾棄すべき価値観だと不快に眉を顰めよう。
 だが例えそうであったとしても一弥は願っていたのだ。失ったものが、奪われてしまったものが、いつかは元通りに戻ってくれると。幸せを取り戻すことは出来るはずだと。
 だからこそ、今までずっと司狼が戻ってくる事を心の底では望んでいた。帰ってきてくれと天に願いすらしたこともあった。
 遊佐司狼という馬鹿は、それでも沢原一弥にとっては大切であり、蓮たちとも等しいはずの存在であったからだ。
 だからこそ、全てを壊した原因であるはずの司狼に怒りは抱いたにせよ、一度たりとも憎もうとだけは思わなかった。……思おうともしなかった。
 一弥にとって司狼は大切な存在であり、間違っても憎しみを抱くような対象では決してなかったのだから。故にこそ、今でも司狼に対しての一弥の価値は蓮たちと何ら変わるものでもない。

 ……だが、そうだとしても仮に、ならば司狼が再び自分たちの前に現れた時はどうなのだろうか。
 無論、それが自分にとっても望むべきかつての日常への回帰であったというのならば是非も無い。喜んで司狼の帰還を受け入れ、迎え入れよう。
 だが逆に、司狼がそれとはまったく逆に……そう、今あるかろうじて残り成り立っている幸福の形たる、日常たる今を壊すような要因を持ち込んできたとしたらどうだろう。
 無論、彼がこちらを心底憎んでいない限りはそんなことをしてこないとは分かっているし、そもそもありえないようなことだが、仮にも例えとしてそうだとする。
 他ならぬ遊佐司狼が、自分にとって大切な存在であるべきはずのものが、同様の存在たる蓮たちにとって災禍を齎す。自分の拠り所を壊そうとする。
 ……許せるだろうか、それを? 
 否、断じて否。許せるはずが無い。許していいはずが無い。それが蓮たちにまで向けられているというのなら尚の事。
 ならば蓮たちを護る為に、愛すべきこの日常を護る為に……自分は彼を排除するのだろうか? それが出来るのだろうか?
 平等に大切だと定めたはずのものを、蓮達を護る為とはいえ、それが出来るのか?
 蓮達を選び司狼を切り捨てる、そんな事が本当に自分に可能なのか……?

「………」

 重い沈黙は頭の中をその問題だけに絞り、フル回転して思考してみても答えが出なかった為でもある。
 或いは、出なかったのではなく、出したくなかっただけかもしれないが。
 玲愛もここまで重く考えさせようとしていたわけではないだろう。しかしながら、一度深く考え出そうとすれば、納得いくまでとことん考えなければ収まりのつかない悪い癖を持っているのもまた沢原一弥であった。大抵はドツボに嵌り結局は有耶無耶のまま答えも出せない。今回も恐らく同じだが、己の存在意義にも関わる事が事なだけに嵌っていく深さもまた深淵なものとなりかけていた。
 そうしてご他聞に漏れず、彼もまた深く考え出すと周りのことが見聞きできなくなる性分な者の一人でもあった。
 故に遠大(と少なくとも自身では思っている)なその思考に囚われていた彼を唐突に現実へと引き戻したのは、

「危ないよ、それ以上進むのは」

 聞き慣れた言葉と共に肩を掴まれ、一弥は俯いていた顔を上げると共に立ち止まる。
 その瞬間、丁度信号の切り替わった合図に従い停まっていた車が動き出して目の前を通過していく。
 ……呼び止めてもらっていなければ、それこそ危うく気付かぬままに交差点へとそのまま踏み出していた所だった。

「考え事をしだすと周りが疎かになる……キミの悪い癖だね。改善した方がいい」
「……すいません」

 言い返す言葉も無い。事実迂闊だったのは自分だったのだから全て彼女の言う通りでもある。
 だから正直に謝りながら、一弥は一瞬だけ躊躇いつつもやがて意を決したように振り向いた。

「珍しいね、藤井君たちとは一緒じゃないの?」

 当然のようにそこに立っていたのは氷室玲愛。彼女はこちらが一人だという事を疑問に思うようにそんな事を尋ねてくる。
 あの昼休みの一件とは打って変わったいつも通りの彼女の態度……正直、それに戸惑いを覚えなかったわけではない。
 彼女にとってはよくある後輩への説教の心算だったのかもしれないが、一弥からしてみれば今は少しばかり彼女と顔を合わすという事には戸惑いもあった。
 それを彼女が察していたかどうかは分からない。……いや察しの良い彼女に限ってまさか気付いていないということもあるまい。露骨に正面から向き合うのを避け視線を合わそうともしないこちらの態度を見ればそれも明らかであろう。
 言葉は無い。何を言っていいのかも分からない。正直、彼女相手にこんな奇妙な緊張感……居心地の悪さを抱くというのも滅多にないことだ。
 テンションが決して高いともいえない、お世辞にも常人の感性とも思えない言動も目立ちはするが逆に慣れてしまえばそちらの方が心地良くもある。何を考えているか正直読めない彼女を相手することはいつもは徒労すらも同時に抱こうとも楽しいというのは偽り無き事実だ。
 だが今のような状況、戸惑い、接し方を迷っているこの状態では逆に彼女が何を考えているか分からないというのは不安でもあり怖くもある。
 だからこそ切っ掛けになる何らかの一言を切り出すことにすら強い躊躇いを覚えずにはいられなかったのだ。

「……ヘタレの後輩君。信号、もう変わってるよ」

 ご尤もな相手の言い分に振り返れば確かにいつの間やらもう信号は切り替わっていた。また赤へと変わる前にさっさと渡った方がいいだろう。心なしか……否、確実に玲愛の方も言動でそれを促がしてきている。
 交差点を渡る一弥の後ろから隣へと並び直しながら玲愛は黙々と歩いている。相変わらずに横目で盗み見るような真似は出来ても何かしらの声をかける度胸も何もありはしなかった。
 ただ無言のまま、交差点を渡りきる。そのタイミングを見計らったように信号もまた再び切り替わっていた。
 黙々とただ並んで歩き続ける。互いに言葉は無い。いつもなら必要性がなかろうとも場繋ぎに何がしかの話題を振ろうともしてみるのだがそれも無いという現状も改めてみれば奇妙なものではあった。

「……それで質問には答えてくれないの?」

 前を向いたままこちらに視線を向けるわけでもなく、しかし足を止めるわけでもなく隣を歩いたまま唐突に玲愛が切り出してきた言葉の意味が一弥には一瞬分からなかった。
 一分近い間を空けそれが漸くに交差点の前で彼女が訊いていた質問なのだということに思い至る。

「……あ、ああ……はい、あいつらならまだ学校、ですけど?」
「放課後は速やかに下校って言われてなかったっけ?」
「……ええ、そうなんですけどね。ただ香純の奴がほら……あんな性格でしょ?」
「成程。放課後に居残り練習をする綾瀬さん、藤井君はさしずめその付き添いってところなのかな」
「……ええ、その通りです」

 多少ぎこちなくはあるが会話そのものは成立していることにはどこかホッとしていた。このまま普通に会話も出来ないのだろうかと少しばかり真剣に危ぶんでいた事もあり、だからこそそれは救いともなっていた。
 ……どうやら昼休みの件については今は触れないでいてくれるらしい。正直、それは助かる。

「それでキミは? 二人を放置して一人寂しく帰宅中ってところみたいだけど」
「……寂しくってのはあれですけど、まぁ……先輩の言う通りですよ」
「付き合ってあげないの?」
「……遅くなると物騒じゃないですか。怖いのはゴメンです」
「一人でいる方がよっぽど危ないとも思うけど」

 それはその通りだが、しかし玲愛自身にだってそれは言えることだろうに。
 それに夕暮れ時とはいえまだ日は落ちきっていない。殺人鬼が徘徊するのは夜だろうなどというのは安直な決め付けに過ぎないのだろうが、それでも幾らイカレタ変態でも日がある内に堂々と動くようなリスクは犯さないはずだ。……保障は無いが。

「……そういう先輩はどうなんですか? 先輩だって一人じゃないですか」
「そうだね。だから頼りにしてるよ、ナイトさん」

 ……それはつまり、いつかのように教会まで送れと言っているのだろうか。……いや、そう言っているのだろう。
 まぁ送っていくくらいは別に良い。居た所で頼りないことくらいは自分でも目に見えていてもこんな物騒な時期に女の子を一人で帰すというのも薄情というものだ。
 日頃何かと世話になっているという理由もある。……恩返し、という訳でもないが偶には先輩に頼りにされるというのも悪くは無い。

「……保障は出来かねますけど、まぁ俺なんかでいいんなら」
「そう、ありがとう。じゃあお礼にお茶くらいご馳走してあげるよ。リザもまた沢原君とは会いたがっていたみたいだし」

 それはどうもと思いながら、そういやあの夜以降シスターとは顔を合わせていない。色々と心配もしていたのだが玲愛があまりにも普段と変わらぬ様子のせいで大丈夫なのかとも思いかけてもいたのだが、お見舞いにも丁度良い機会だろう。
 少しだけ欝だった気分を払拭させながら、沢原一弥は氷室玲愛と一緒に教会への道を歩いて行く。
 赤に染まる黄昏の景色は好きではないのだが、それでも今だけはそれを気にならないでいられる程度には機嫌が良かったのかもしれない。
 ……本当に、我ながら現金な性格だとは自分でも思う。




 こと剣道に関して言うならば、綾瀬香純はそれに対して決して手抜きや妥協という姿勢を見せはしない。
 ストイックを絵に描いた様な心持ち、その姿勢は確かに見る者に凛とした気高さと力強さ、そしてある種の侵しがたい神聖さのようなものすらも懐かせる。
 だからだろうか、こうして竹刀を持ち練習に励み、そして試合に臨む彼女は特に下級生の女子を中心として絶大な人気を誇っている。
 伊達にミス月乃澤(表)などとは持て囃されていないということなのだろうか。綾瀬香純という人間の本質を嫌という程知っている藤井蓮からすればむしろそれは酷いギャップ差のようなものとしか思えないが。
 まあ兎に角、彼女が剣道に対してひどく真摯に、そして限りなく真剣に取り組んでいるということ自体は事実だ。蓮からすれば三日も持たぬような弛まぬ練習や努力は決して伊達や酔狂のような易い感情で務まるものではない。
 故にこその、この月乃澤学園剣道部が誇る全国レベルでの上位入賞者なのだろうが……。

 まあ尤も、皆が認めるその彼女の強さに関してもあの悪友から見れば随分と違うものであるらしいのだが。
 何せ遊佐司狼曰く、本当に強い奴は何もしなくたって強いらしいので。

『最初から強い奴にはリハも稽古も必要ない。武道は弱い奴が強くなろうとする手段で、だから精神論が幅を利かすのさ。礼に始まり礼に終われって――そういう具合に』

 元から誰に何を習うわけでもなく、大抵の事は高水準のレベルでこなせる天才という人種から見れば、そういうのは酷く滑稽に映っているのかもしれない。

『もとが弱いから力に耐性無いんだろうな。自分を律するのが最優先で、それが出来なきゃ破綻する』

 司狼はそれを哀れすぎるとかつて評した。そして同時にそれもまぁ仕方の無いことではあると言った様子で受け入れてはいたようだが。
 昔からそんなものだとは思う。所詮天才に凡人の苦悩など理解できない。出来が違いすぎる……そう、ある種のジャンル違いとも言って良いああいう連中にはそこら辺を根本的に理解しようとしても不可能だろうし、そして進んで理解しようなどとは物好きにも思わないだろう。
 だから凡人である香純や一弥と、天才である司狼では昔から考え方や認識そのものが噛み合わない事の方が多かった。
 では自分はどうだったか……さあ、どうだろうか。確かに司狼とはあの二人に比べれば蓮の方が噛み合っているといえば言えただろう。無論、それも完全ではなかったし、蓮自身も自分を天才などという人種とはほど遠いものだとは認識していた。
 故にこそ、司狼の考えや価値観を本当の意味で完全に共有できた者は今まで居なかったと言っていい。

 そしてだからこそ、司狼に言わせれば香純はそっち系であり、夢を見て背伸びしているウサギちゃんであるらしい。
 観賞用の愛玩とするならばそれもまた微笑ましくはある。実際、司狼は香純をそのように認識していたはずだ。
 けれど綾瀬香純という少女の本質と向き合うならばそうも言ってはいられない。何せ見ていて無理をしているというのは明らかなのだから。

 司狼は言った。『おまえ、責任とってやれよ』と。アイツをあんな風にして夢を持たせるようなことをしたのは自分なのだから、と。
 大きなお世話だ、そうムカつくしたり顔を思い出しながら蓮は胸中で毒吐く。
 おまえがそれを言えた義理でもないだろう、と。
 そもそも責任を取れというのなら、それは“あの一件”に関わった全員が共通して持つべき認識だ。
 そう、俺と司狼と一弥。
 香純を除いた幼なじみ三人が犯してしまった罪、アイツへと懐く負い目。
 早々にそれを身勝手に放棄した司狼にだけは言われたくなどなかった。
 つくづくアイツは自分勝手だ。逆に過敏なほどに“あの件”に、そしてその償いへと拘っている一弥の爪の垢でも煎じて呑ましてやりたいくらいだった。

「…………」

 剣道における基本中の基本と言っていい正眼の構え、それを熱心に反復している香純の姿を見つめながら、何を今更司狼のことなどまた思い出しているのだろうかと気付き、不機嫌にそれを追い払う。
 いなくなった奴の事を未練たらしく考えても仕方が無い。今を生きて進まねばならぬ以上、アイツの事を思い出していたって仕方が無いことだろうに。
 そう、もうこの日常の中にアイツは居ないのだから、アイツの事を考えるという行為ほど無駄な試みはない。
 居なくなってしまった奴のことよりも、もっと大切に思い優先しなければならない人間が少なくとも藤井蓮にはまだ残っていた。
 この永遠を願いたい己が居場所の中核を成す掛け替えの無い者たち。司狼などと比べれば彼らの方が今は余程大事だ。
 だからこそ、まずはこの安らぎを維持するためにも彼らを護らなければならないのだが……

(……その護る立場が妙なもの抱え込んで悩んでたら世話も無いな)

 毎夜毎夜と己を蝕んでいく悪夢。殺人鬼の残滓と断頭台へのエンディング。
 自分がソレを夢で見てしまえば、現実に誰かが死ぬ。
 まるでありきたりなホラー小説のネタのようではあるが、危惧を抱くほどに厄介であるのも事実だった。
 悪夢と現実に起きている事の因果関係。
 そんなものはあるのだろうか、本来ならばまったくの無関係、ただの偶然と一笑に伏すべき事こそ現実的であり、後腐れだって無い解答のはず。
 だがそう思う一方で、先輩に示唆された予知夢などという馬鹿げた可能性。
 ……いや、それすらも超える更に馬鹿げた一つの答を自分が導き出していたのも事実だった。
 尤も、これだけは絶対に自分でも違うと思っているし、認める気だってありはしないのだが。
 何せあまりにも馬鹿げていれば、どこをどう探したって自分の身の内にはそんなことをする意味も理由も見当たらなければ、ましてや必然性や願望などというものですらあるはずもないのだ。
 そう、馬鹿げている。

(それこそオカルトなんかのありきたりなネタだろうに。アレが実は夢なんかじゃなくて、俺が行っている事なんだっていう馬鹿げた解答は)

 そんな下らない狂気は間に合ってもいなければそもそも必要性すらない。今この時の永遠を願っているというのに、それを自らでぶち壊すようなことをどうしてしなければならないというのか。
 ……だからこそ、違う。俺じゃない。絶対に俺じゃない。
 それだけは違うと、香純が稽古を終えるその時まで藤井蓮はそんな考えばかりを懐いては振り払うという行為を続けていた。


「お世話になりました」
 最後にそう一礼を律儀に示しながら、練習を終えて道場を後にする香純に付き従うように藤井蓮もまた帰宅の途へと就く。
 恐らく学校に不認可で居残った生徒であるため下校もまた自分たちが最後発組であるのは間違いないだろう。先に帰ったはずの一弥はもうとっくに帰宅している頃だろうか。
 まだ時刻は黄昏時、太陽は地平線の向こうへと没してはいないが流石にこれ以上残っていれば教師陣に目を付けられるのは確実だ。余計なしがらみや面倒事へとなる前に早々に帰った方が良いだろう。
 ましてや名実共に要警戒を呼びかけられている殺人事件が発生している市内でもある。身の安全を考えればそもそも何が賢明であるかなども明らかであろうに。

「おまえさ、練習頑張るのも結構だけど程々にしとけよ」
「そんな文句言ってる割には蓮だって律儀に付き合ってくれてるじゃん」
「そりゃな、こんな物騒なご時勢ボディーガードも無しじゃ何かと色々不安だろう」
「あ、それって蓮があたしのボディーガードしてくれてるってこと?」

 ……何嬉しそうにそんなトチ狂った事言ってるんだこいつは?

「いや、おまえの腕に期待してる側だから。俺は」
「な!? ちょっと何よ、それ!?」

 ガヤガヤとそんな傍から見ていても喧しいやり取りを繰り広げながら歩いているが、時間帯に見合わぬ静寂さを見せる下校路ではそれも少しばかり目立っていたのも事実だった。
 流石に殺人事件が市内で続いているという事態には皆それなりに危機意識のようなものを持っているのだろう。出歩いている人間も疎らなら、その歩いている者達にしても周囲に対して警戒をしているような、急く態度も明らかだった。
 ついこの間までは日本ではありふれた何処にでもある街並みだったはずなのに随分な変わり様ではあると思ってはいた。
 何気ない当たり前であったはずの日常、平和が侵食されているかのような不快感を懐かないかと言えば嘘になるだろう。
 一刻も早い殺人事件の解決と、そして気味の悪い己を蝕むこの悪夢からの解放を願わずにもいられない。
 そんな事を思考の端で考えながらも、香純との舌戦をそろそろ打ち切ろうと思っていたその時だった。
 ふと何やら騒がしい言い争いのような声が聞こえてきて、それに対して蓮はその視線を思わずそちらの方へと向ける。
 交差点の向こう側……見る限り何やら揉め事が起こっているのは明らかだった。

 黒い服装の金髪の外国人、それがどうやら道を歩いていた女性へと声をかけて何やら問題にでも発展したのだろう。言い争い……というには一方的に男の方が相手にされていないようにも見えるのだが、追いすがろうとして殴り飛ばされている光景が映し出されていた。
 ……まぁ無理も無いとは蓮とて思わないわけではない。何せ今は時期が時期だ。見る限りに不審者のような相手を前に殺伐としたこの街の住人たちがそれ程に余裕を持って対応してやること自体が難しいのは明白。
 殴られて痛そうであり、色々と気の毒だと思わない部分が無いわけでもないのだが……しかし運が悪かったと言ってしまえばそれだけの事にも過ぎないはずだ。
 そう、あくまでも藤井蓮の観点からすれば、だ。

「ハロー、ヘイミスター」

 まるで見てもいられないといった様子でいきなりに大声を上げだしてその不審者に声をかけ始めた隣の馬鹿はしかしそうではなかったようだ。
「おい、やめろよ」
 彼女が何を考え何をしようとしているのか、長い付き合いから蓮とて凡そのことは理解できた。
 しかしながらかと言ってそれに無論の事ながら賛同できないのも当たり前。進んで面倒事に関わろうなどという神経が蓮には理解できなかった。
「いいじゃない。あの人、困ってるみたいだし。日本人なら困ってる人を見捨てるようなことはしちゃいけないんだからね」
 さも当然のように日本人に対しての善意のハードルを上げる発言をしながら、やめさせようとする蓮の言葉を遮って、再び発音も文法も怪しいといわざるを得ない英語で精一杯に男へと呼びかけ続ける香純。
 ……こういうところが幼なじみの他のメンツとも違う彼女の美点の一つでもあり、同時に厄介な点でもあるのだ。
 香純の熱心なラヴコールに漸く気付いたように、男はその顔をこちらへと向けてくる。……視線が合ってしまった。
「……おい、大丈夫かあの外人」
 ひょろひょろと頼りない足取りのままに、しかし真っ直ぐにこちらへと向かってくる男。途中、横断歩道や信号というものが目に入っていないのか走行中の車から罵声やクラクションが鳴り響いていた。
 ……本気でやばい相手じゃないだろうな、場合によっては香純の手を無理矢理に引っ張ってでも逃げる算段を密かに立てながら、覚悟を決めて蓮は近付いてきた男と対峙した。




[8778] ChapterⅡ-5
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 23:10
「……ふぅ、これくらいで良いですかね」
「ええ、ありがとう。それにしてもごめんなさいね、玲愛を送ってもらっただけじゃなくてこんな事まで手伝わせてしまって」
「いえ、良いんですよ。自分から言い出したことですし」

 シスター・リザから言われた言葉にいえいえと首を振りながら沢原一弥はそう言葉を返す。
 そもそも言葉通り自分から言い出した事でもあるし、何より先輩には日頃から何かと世話になっていることも多かったのだ。ましてやこんな美人の手助けもできると言うのなら、この程度の手伝いくらい苦の内にも入らない。

「それに最近は掃除する機会も多かったですから、こう見えても手馴れたもんですよ」

 若干胸を張って自慢げに告げてみるものの、その対象が野郎の部屋ばかりだというのは突き詰めていけば虚しくなるので考えるのはやめる。
 兎に角、リザが喜んでくれて良かった。それだけでも今は充分に見返りのある報酬だと思うことが出来た。
 そしてそんな達成感の余韻に浸りながらも、ふと気になっていたことを一弥はリザへと尋ねる事にしてみた。

「……ところで、その帰ってくるっていう神父さんはどんな方なんですか?」

 そもそも現状の事の発端とも言って良い人物。まるでその人物像や何もかもを聞かぬままに適当に請け負った手伝いではあったのだが、こうして終わってみれば段々と気にもなってくるというものだ。

「……ヴァレリア・トリファ神父、でしたよね?」

 まるで女性のような名前だなと失礼ながら思いもしたのだが、シスター曰く彼女にとっても古い友人でもあるというその人物。果たしてどんな人物なのだろうか。
 お目にかかる前に色々と彼女に聞いておきたいと興味も持っていた。

「神父ヴァレリア? そうねぇ、彼はね――」

 まるで古い記憶を引っ張り出してくるかのように件の人物の事を話し始めるリザ・ブレンナー。
 一弥は静かに彼女の言葉へと耳を傾けていく。



 元々は氷室玲愛を教会まで送り届ける、それだけが沢原一弥の任された仕事であるはずだった。
 一応、茶くらいは出してお礼にもてなすと玲愛は言ってはくれていたものの、大した期待はしていなかったし、何よりそんな気兼ねをする必要も無いと断ろうかとも思っていた。
 しかし教会に着いた時に会ったリザが思った以上に元気そうだった事と、彼女の方からも上がっていけと招かれた事を無碍にすることも失礼かと思い教会へと入れてもらった。
 正直、何度か足を運んだことはあるのだが……やはり此処は自分のような人間が立ち入るのは場違いだと思ってしまったのは事実だ。
 居間に通され、銘柄にも疎い紅茶をご馳走させてもらったのだがその雑談の最中に、ふとリザが漏らした言葉がそもそもの始まりだった。

 ――今日、神父が帰ってくる。

 彼女が言った神父という単語。そう言えばと此処が教会でありながらそれに該当する人物を今まで目にしたこともなかったという奇妙な事実。
 思わずどういうことですかと興味本位に問い返してみたところ、返ってきたリザの説明がこれだった。

 何でもこの教会には自分と共に神父が一人住んでいた。しかしながら十年以上も前、とある理由から海外へと行ってしまったのだという。
 しかしながら最近街を騒がしている殺人事件、実際にその現場に彼女たち自身が遭遇してしまったという事実とも相まって、男手も居た方がいざという時には頼りになるかもしれない……そう思って件のその神父を呼び戻したのだという。

 賢明な判断と言えばそうなのだろうとは一弥も思った。実際、本格的な欧州建築の教会であり二・三十人は暮らせる規模の建物でありながら、玲愛とリザの二人しか住んでいないという事実自体が奇妙であり、そして無用心だとは前々から思っていたことでもある。
 二人の身の安全を思えば、その神父とやらが殺人鬼相手に如何こうできる云々は置いておいたとしても傍には居た方が良いだろうとは思えた。
 そんなこんなでその神父の帰還があるという事と、その為にまだ出迎えの準備があるという事を聞き、何かと普段から世話になっているし手伝う事はないだろうかと申し出た。
 リザは最初それを断ろうとしていたものの、

「良いじゃない。猫の手でもあった方がマシだって言うし、沢原君でも多分役くらいは立つよ」

 玲愛が助け舟を出すように促がしてくれたのに対して折れたように、シスターはそれを承諾してくれた。
 正直言って、玲愛の方は多分進んで扱き使える相手を逃がしたくなかったというのが本音なのだろうが、まあそれも別に良いだろうと一弥は思ってもいた。
 偶にはこういう事も悪くない。しかも今のような精神状態ではこういった事も何らかの気晴らしにもなるかもしれない。そう思って早速とその神父が使うという部屋の掃除を行ったのだった。



「……成程ねぇ」
 ヴァレリア・トリファ神父か、と先程までリザから聞いていたちょっとしたエピソードを思い返しながら一弥は教会内部を歩いていた。
 部屋の掃除が終わり他にやることも残っていないと告げられ、晩餐に招待するから是非よばれていってくれと言われたので、断るのも失礼かと思いそれを受け入れた。
 だが考えてみればその場合、自分の分の晩飯も作っていてくれるかもしれない香純に連絡した方が良いかとも思い携帯をかける為に一旦建物の外へ出ようと思って徘徊していたのだが……どうやら、道を間違えたらしい。
 それなりに大きな建物ではあるものの内部構造がそれ程複雑な建物というわけでもない。そうでありながら道を間違えてしまうというのは、少々浮かれすぎていた証拠だろうかと思い返しいかんいかんと気持ちを引き締めなおす。
 とりあえず勝手口だとかそういう場所は分からないし、そんな場所を使って良い筈も無いので正面の礼拝堂から表に出るのが正解だろうと目指していたのだが、気付けばその反対方向たる行き止まりまで歩いてきてしまったらしい。
 どうやら十字の形をしていると思われるこの教会、俯瞰した図を思い浮かべるのならばラテンクロスの上端が目指すべき礼拝堂で、今居るここは反対側の下端、その終着点とも言える場所だ。
 結構歩いたはずなのに直ぐ着くはずだった礼拝堂に中々着かない時点でおかしいと気づくはずだったというのに、我ながら随分間が抜けていると反省する。
 気を取り直して一弥は回れ右、その反対方向たる礼拝堂へと向けて再び歩き出した。



 真っ直ぐに歩き間もなく今度は間違いなく礼拝堂の前へと辿り着いた。
 後はこの扉を開けて礼拝堂へと入り、そのまま正面から外へと抜ければ良かったのだが……

 その途中、礼拝堂の中で沢原一弥の足は止まってしまっていた。

 静寂に支配され、黄昏の西日が僅かに入り込んできている礼拝堂。
 その神父が立つべき教壇、飾られた御子像を前に祈るように手を組んで跪き目を瞑る少女が一人。
 それが氷室玲愛である事に気付いたのは、呼吸をすることも忘れるかと思うほどに息を呑んで暫し呆然と見つめ続けたその後にだった。
 制服から着替えたのだろう、私服に変わったその姿が新鮮に思うのも確かなことであったが、それとは関係ない部分、触れるどころか踏み込むこと、声をかけること自体が冒涜とでも思わずに懐かせるかのような、穢れの一切を含まない神聖ともいえた絵画の一場面とも言えそうなその雰囲気にまず呑まれた。
 陽光に照らされて輝きを放つ銀髪。三世クォーターだという日本人離れした端整な顔立ち。……陳腐な表現でまるで恐縮だが、それでも本物の天使のようだとも馬鹿らしくも一弥が思ってしまったのは事実だ。
 当然の事実ではあったのだが、やはり先輩は美人なんだなとそんな事を考えながらただただ彼女のその姿から目が放せなかった。

 考えてみれば彼女も教会で生まれ育った身。ならば尚の事、神に祈りを捧げるだとかそういった事を日常的に行っていたとしてもそれは別段におかしなことと言う訳でも無い。
 キリストを殴っておくだとか、礼拝堂でデスメタルを大音量で鳴り響かせるだとか、実に罰当たりで破天荒な奇矯な言動が目立つが、本来ならばこちらの姿の方が彼女にとっては当たり前のはずであり、そして似合うとも思う。
 ……まぁ、要は思わず見惚れていたという事実をグダグダ表現しただけのだが珍しくもいいものが見れたのだと正直に思いもしたのは事実だ。

 そんな一弥の不躾に近かった視線……否、気配にでも気づいたのか祈っていた玲愛が不意にそのポーズを崩したかと思えばこちらの方へと視線を向けてくる。
「そんなに見てても別に面白いものでもないと思うよ」
 相も変わらずのしれっとした態度のまま、見られていたことに不快を抱いていただとか気にしていただとかそういった様子も無く言ってくる氷室玲愛。
 一弥は視線を向けられ声をかけられたことにハッとなりながらもそれに対して苦笑を浮かべながらも首を振る。

「……いえ、充分な目の保養をさせていただきました」
「そう? じゃあ見物料五千円」
「…………」
「くれないの?」
「……金取るんですか?」
「最近の教会は慈善事業でやってられないから」

 愛だけじゃ喰いっぱぐれる世知辛い世の中なんだよ、と身も蓋も無く平然と言ってくる玲愛の姿に、先程の俺の感動を返してくれと肩を落とす一弥。
 まぁ兎も角、どれだけ天使と見間違うトチ狂った錯覚を抱こうとも、やはり先輩は先輩ということなのだろうというのが結論だった。

「幻滅した?」
「……まぁ、ほんのちょっと。でもいつもの先輩らしくてむしろ安心しました」
「祈ってるのは柄でもなくて似合わない、そう沢原君は言いたいわけだね」
「いえいえ、そんな事思ってませんから」

 むしろあれを見て似合わないと思う奴の方がおかしいと思う。
 それくらい、何ていうか彼女が綺麗だったのは間違いの無い事実だとは一弥も思っていた。……尤も、それを口にする度胸など彼にはありはしなかったが。

「……何を祈ってたんですか? やっぱ神父さまが無事に帰ってきてくれることですか」

 リザから聞いた話だと、件の神父は玲愛にとっての名付け親であり、同時に幼少期においての育ての親でもあったという。
 シスターの目から見ても玲愛は神父に懐いており、神父もまた彼女を可愛がっていたのだという。
 きっと仲の良い父娘だったのだろうというその光景は、想像してみるだけでも微笑ましいもののようにも思えた。

「あの人はきっと殺したって死なない。だから無事を祈るだとかそんな事しなくても大丈夫」

 物騒な言い回しだが、恐らくは彼女なりの対象へと親しみを込めた信頼の言葉なのだと一弥は思った。
 実は少し照れているのではないだろうか……ならば少しは可愛いものだとでも思うのだが。


「――ねえ、沢原君は神様を信じているの?」


 唐突に、まるで話題を変えるように告げてきた玲愛の言葉に一弥はその瞬間、そう尋ねてくる意味が分からずに若干戸惑った。
 別に熱心に信仰している宗教があるわけでもなく、クリスマスも正月も、その他行事も諸々に例外なく祝う節操の無い日本人にご他聞にも漏れず類する身としては何と答えるべきか迷った。
 宗教の勧誘ならお断りです、神の家で彼女を相手にそう茶化して返すことが許されるような場面でも雰囲気でもないのは彼女の様子を見ていれば明らか。
 だからこそ真剣に答えようと思ったところで……しかしどう答えていいのかも分からずに返答に戸惑う。
 だがこちらが返答しないことに対して大した関心を元々抱いていなかったのか、玲愛はその視線を一弥から離すと共に正面の御子像を見上げながらポツリと告げた。

「――私は神様なんて一度も信じた事も無いし、神様に対して祈ったことなんて一度たりともないよ」

 先程のあれもただの形だけのものに過ぎず、神に対して抱く感情も願いの類も何一つあったわけでもないと彼女は告げてくる。
 唐突な爆弾発言、彼女がいきなり何故そんな事を言ってきたのか……氷室玲愛ではない沢原一弥には分かるはずも無い。
 ただ……彼女は何かに不機嫌に苛立っているようにも見え、同時にらしくもない姿であるようにも思えた。

「神父さまが私の名付け親だってリザからは聞いた?」

 振られたその言葉に一弥は戸惑いながらも頷く。
 先程シスターから聞いて知った話。彼女の友人でありながらも今日までは知りもしなかったその事実。

「テレジア……でしたっけ?」

 一弥の言葉に玲愛はただ黙って頷いた。
 天からの贈り物(テレジア)――彼女の誕生は彼らにとって希望そのものであり、その感謝も込めて贈られたのだというその洗礼名。
 彼女は愛されて生まれてきたのであり、そしてそれ故に何処か羨ましくも思えていたのだが、それはこちらの勝手な勘違いだったということだろうか。

「……先輩は自分の名前が嫌いなんですか?」

 尋ねていいことなのかどうか戸惑いはしたものの、意を決してそう尋ねる一弥。
 しかし、彼女はそれに対し何の返答もしてこなかった。肯定でも否定でもなく、ただ沈黙という答のみを示してきただけだった。
 教会に暮らしているからといって必ずしも信心深いわけではない、ましてや神様だとかその手の事柄に信仰や愛を抱けるわけでも無いということなのだろうか。
 彼女が稀有なケースかどうかは分からないものの、しかしこれ以上は迂闊に踏みこめる話題というわけでもないのは確かだ。
 逆にだからといってはいそうですかとこのまま話題を流すのも後味が悪すぎる。
 こんな時に気の利いた言葉の一つも言えない自分の不器用さに苛立ちに似たものも抱こうかともしたその時だった。

「あら玲愛、それに沢原君も此処に居たのね」

 居心地の悪い雰囲気を発していた礼拝堂。そこに再び唐突に足を踏み入れてきた闖入者……もとい、そもそもこの教会の住人たるリザ・ブレンナー。
 彼女の登場に固まっていた場の雰囲気も唐突に日常の元へと戻ろうとしているかのようであった。

「玲愛、晩餐の準備は出来た?」
「もう終わってるよ、リザ。後は神父さまが帰ってくるのを待つだけ」

 リザの問いに先程までの態度からは一変したいつもの態度で答える玲愛。
 唐突な変化に一弥は呆然としながらも、しかしヤブヘビで蒸し返すのも拙いだろうと空気を読み、話の流れに合わせる事にした。

「……あれ? 先輩って料理作れたんですか?」

 いつも昼は購買のサンドイッチ一択のはずの彼女、弁当を作って持ってこないのかと以前一度尋ねた時には料理が出来ないと答えたのを覚えているのだが……。

「沢原君、料理を作るだけが晩餐の準備だと思ってるの?」

 少し呆れたように言ってくる玲愛。どういう意味かと訳も分からず首を傾げた一弥にリザが可笑しそうにクスクスと笑いながら教えてくれた。

「仕込みは全部私がやっておいたのよ。玲愛に頼んだのは食器出しとかそういった部分よ」

 ああ成程と一弥もその説明に合点がいったように頷いた。
 確かに皿出しなら料理が作れなくても出来るし、準備と言えば準備だ。
 普段から自分と司狼が飯時に言い張っていた言い分とまったく同じその事実に、彼女も同類だったのかと可笑しくなって思わず笑ってしまった。

「失礼な人だね、沢原君」
「……あ、いえ、すいません。……ただちょっと同じ穴の狢に親近感が湧いたもので」

 笑われたことが不満な様子を見せる玲愛に、笑いを抑えながらもそう返す一弥だったがやはり言葉の意味が分からない様子で首を傾げていた。

「それにしても神父さま、そろそろ着いてもおかしくないはずなんだけど」

 少し心配だといった様子で呟くリザ。玲愛は相も変わらずに心配は要らないといった態度であったが。

「私は表に出て待ってみることにするわ。直ぐ其処まで来ているかもしれないし」
「じゃあ私も付き合うよ」

 リザの言葉に玲愛もまた付いて行く様に彼女の後を追う。一人残されても仕方が無いし、そういえば香純への連絡を忘れていることを思い出し、一弥もまた慌ててその後を追った。



 ヴァレリア・トリファ。
 そう名乗った教会が目的地なのだという神父を連れ立って、藤井蓮と綾瀬香純は目的地へと向かって歩いていた。
 目的地まで目と鼻の先という所までやってきて、一方でその傍らに聞いていた神父の話というのも佳境に入っていた。
 何でもテレジア……これは氷室玲愛の名前でありこの神父が名付け親であるらしいのだが、兎も角、彼女と再び会えるという事実に喜びはせていると言った様子であった。
 メキシコの辺境に飛ばされ苦節十年余り……感動の再会は迫っているとでもいった様子なのだろうか。

「きっと将来は美人さんになるだろうと、信じて疑いませんでしたが……いや、そうですかそうですか。テレジアはやっぱり人気者になりましたか」

 まるで愛娘の成長を喜ぶかのような感慨深い感動を示すトリファ。まぁ確かに美人でありコアな人気もあると教えたのは自分だが、しかしそれが彼の想像しているものと寸分違わずに直結しているかは蓮には保証できない。
 むしろ日独クォーターで教会に住んでいる、ネジの狂った感じの人……そういう意味で有名だと教えた方が良いのだろうか。
 それくらいあくの強い個性も無しに、伊達に裏ミス月乃澤なんて称号が与えられるはずもないわけだし。

「なあ、表ミス」
「はい?」

 蓮の呼びかけに何を言っているのか分からないといった様子で首を傾げる香純。
 香純が表で玲愛が裏……それが毎年学校の男子連中が裏でやっている人気投票の不動とも言っていい結果だった。
 正直、連中の眼が腐っているとしか思えないのが蓮の思うところだが、面白がってかどうなのかは知らないが、司狼と一弥もそれぞれ一票入れていたのを思い出す。
 確か司狼が香純に、一弥が玲愛に入れていたはずだ。……義理かどうかは知らないが物好きな奴らだと蓮は正直思ってもいた。

「ともかくここまで来たんだし、話し込んでないでさっさと中へ入ろうぜ」

 十二月の肌寒い黄昏時に、どうでもいい会話でいつまでも外で談笑しているのを好むほどに物好きという性格でもない。
 さっさと入るのに限るというものだろう。一応、関係者の神父も居るのだし不法侵入にはなるまい。

「愛しのテレジアに、早く逢いたいんだろ神父さんも」
「ええ、それはもう当然です」

 蓮の促がしにトリファも逸った様子も顕に見せながら同意し、歩く速度を速めていく。
 それに付いて行く最中、神父はまるで懐かしむように言葉を紡いでいく。

「まだ幼かった彼女を残してここを去るとき、身も世も無く泣かれましてね。私も一緒になって泣いたんですが、結局リザから叩き出されてしまいましたよ。あなたの目は何だか危ないだとか、そんな失礼極まる理由でです」

 自分の知っているシスターとは随分とキャラが違うなとも思いながらも、一体何をやらかしてこの神父は追い出されたのかと少し呆れもした。

「まったく、あの方は私を何だと思ってやがるんでしょうかね。よりによって十年以上もメキシコの辺境に飛ばされるとは流石に予想しませんでしたよ」

 しかし蓮がそんな事を密かに思う一方でも、神父の方はと言えば忌まわしき過去とやらの回想に余念が無い様子でその口振りには段々と熱がこもって来ている様子だった。

「しかし、しかしですね、こうして帰ってきた以上は、もう彼女の好きにはさせません。今後はこの私が責任をもって――」


「テレジアをお風呂に入れてあげましょう――とか、どうせそんな事を考えていらっしゃるんでしょう、あなたは」
「もちろんですっ――って、……え、えぇ?」

 不意に、割って入ったその言葉に盛大に頷きを示しかける神父ではあったが、直ぐに違和感に気付いたのかその言葉は唐突に止まり、そしてその身は凍りついた。

「お帰りなさい、神父ヴァレリア。相変わらず愉快なお話を捏造するのがお好きですね。なかなか楽しませていただきましたよ」

 ニコリと笑いその場に現れ唐突にそう告げたのは、青い瞳のぼいんぼいんのFカップ……もとい、眼前の教会の尼僧であるリザ・ブレンナーその人である。

「ぇ、あ、ぁ……うぇ……」
「あら、どうなされたんですか神父さま。お顔の色が優れませんね。よければお薬を差し上げますけど」

 滑稽な程に顔を青褪めさせ、ぶるぶると震える神父のその姿に、最前までの強気なその様子は微塵ももはや残ってはいなかった。
 魚のように口をパクパクさせながら、言葉も告げられないと言った様子ではあったもののそれでも少しだけ動揺から回復したのか、慌てて彼女の言葉に首を振り否定を顕にしていた。

「そ、それであの、つかぬことを伺いますが、いったいどの辺りから私の話を……」

 恐る恐ると言った様子で、一片の希望に縋るかのように尋ねる神父ではあったが、しかしシスターはその笑顔を微塵も崩すこともなくハッキリと、

「そうですねぇ、『結局リザから叩き出されてしまいました』――の辺りでしょうか」

 神父の最後の希望を根こそぎ粉砕するかのような答えを返す。
 一番聞かれては不味い部分をハッキリと聞かれていたのだ。もはや神父にとってこの世に神も仏も無いんだろうなと他人事のように蓮は思っていた。

「まったく、人聞きの悪いことを言わないでくださいませんか。私はただ、玲愛の身の安全を考慮しただけなんですけど」

 真っ青になって後ずさるトリファを、そう言いながら逃がす様子もなく笑って詰め寄るリザ。……どうでもいいがシスターも楽しんでいるんじゃないのかと少し思う。
 まぁそれは置いておくとしてだ。ところで……

「あれ、一弥? 何で此処に居るの?」
「こっちの台詞だ。おまえらこそどうして神父さんと一緒なんだよ?」

 蓮の気持ちを代弁するかのような先んじた問いを、シスターと共に現れた沢原一弥へと向ける綾瀬香純。
 逆に問い返すように一弥がこちらにそんな事を聞き返してくる。

「まぁこっちは色々とあったんだよ」
「そうか。まぁこっちも似たり寄ったりだ」

 説明は色々と面倒だったので省いた。一弥の方もならばと同じような返答を返してきたが、まぁ良いだろう。あちら側で展開されているような問い詰めを自分たちも行いたいとは思えない。

「ちょっと、二人だけで納得しないでよ!」

 納得というか面倒だから適当に説明放棄という妥協へと至っただけなのだが、それが香純にだけは不満らしい。まぁそんなもの知ったことでもないのだが。
 そんな事よりはと、気になっていた神父たちの方へと蓮はその視線を再び戻した。

「ですから残念ながら神父さま、玲愛とお風呂は諦めてくださいましね。あなたも仰っていたように、彼女はもう淑女なので。それにそもそも……」
「私、別に泣いたりしてない。
 泣いたのは、私にお風呂を断られたそっちの方だけ」

 リザの言葉を引き継ぐようににべもなく冷たく言い放つ神父にとっての愛しのテレジアこと氷室玲愛。
 彼女の普段以上にどこか蔑むかのような冷たい拒絶は神父にとって余程ダメージが大きかったのか、

「そんなぁ、そんなことはないでしょうテレジアっ!」

 必死になって彼女に詰め寄ろうとするが逆に彼女は神父が近付いてくるのを拒むかのように露骨に後ろへと下がる。
 酷い嫌われぶりだな、そう思いながら先程からの彼女たちの言葉から蓮は結論を導き出す。

「つまりこの人が追い出されたのは、それまで一緒に風呂入っていた先輩に断られたのが原因だと?」
「あー、成程。よく聞くタイプの話だね、ご愁傷様」
「同情も救いもあったもんじゃないな」

 蓮の言葉に続くかのように追い討ちの言葉を投げかける香純と一弥。
 神父も流石にグサリときているのかショックで項垂れた様子であった。

「女の子は、大人になるのが早いんですよ。神父ヴァレリア」
「ということだから、いつまでも恥かしいことをやってないで早く中へ入りなさい。藤井君と綾瀬さんも、一緒にどう?」

 シスターに続き玲愛が締め括るかのように最後にそう告げる。
 彼女からのお誘いの言葉に香純が自分たちは良いのかと尋ねるも、リザは問題ないと言った様子で快諾を示す。

「沢原君も一緒なんだし、あなたたちも是非よばれていってちょうだい」

 そう言ってくるリザの言葉に蓮はどういうことかと視線を一弥に向けるも、そういうことだといった様子で肩を竦める動作を見せるのみ。
 だからどういうことかと思っていたその時だった。放置されていた神父がまた五月蝿く騒ぎ始めたのは。

「のおおぉぉぉぉ、あなた方は揃いも揃って、なぜ男の純情を分かってくださらないのですかッ!
 藤井さん、そしてそこの御仁、あなた方ならば私の気持ちを理解していただけますよね? 以前はお嫁さんになるとまで言ってくれた愛娘から、掌返したように冷たくされるこの切なさがッ!」

 そう言いながら同じ男だとか言う部分だけで同意を求めてくる神父の言葉に、蓮と一弥は互いに目を見合わせながら、頷きハッキリと、

「いや、別に」
「全然そういうことは思わないけど」

 そもそも娘なんていなければ未婚でもある彼らに分かるようなことではない。
 まぁ、神父には確かにご愁傷様と言ってやるくらいの気持ちを持ち合わせていないわけでもないが、だからといって全面的に同意なり何なりを示すほどにどちらも変態ではない。
 ……まぁ、娘を持つ父親ならば誰もが通る道なのでは無いのか、と思うのが正直な本音だった。

「おぉ、何たる無知! 何たる罪! 主よ、この哀れな少年たちを赦したまえ。彼らは何も分かっていないだけなのですっ!」

 それでも納得のいかないと言った様子で失礼な事を言ってくる神父だが、今後も彼が分かっていることとやらが自分たちにも分かることなどと言うことが無いであろうということだけはハッキリと分かった。

「遠慮しないで、ぶっ飛ばしていいから」
「右の頬を殴られたら、左の頬を差し出すのが好きな人よ?」

 本来ならば家族である彼女たちにまでそのように言われる始末。
 結局、何だかなぁと眼前の神父に対して、その変態度も含めて改めて呆れるほかに無い藤井蓮であった。



 その後、招かれた晩餐の後に会話で華を咲かせた時の事だった。
「いつの間にか、すっかり遅くなっちゃったな」
 蓮の言ったその言葉に一弥も気付き時計に目を向けてみれば、驚いたことに時刻は九時前になろうとしていた。
 夜の長さに比べればまだまだ宵の口もいいところかも知れないが、此処が教会という事を考えれば結構な時間になるのかもしれない。
 教会の朝は早いとはよく聞くし、あまり長居し過ぎるのもまた迷惑となるだろう。名残惜しいことこの上ないがあまり彼女たちに迷惑はかけたく無い。
 客人である三人はこんな時には共通見解のように導き出せる結論に従って、そろそろお暇した方が良いだろうとその準備を始めた。

「じゃあ、あたしたちそろそろお暇しますから」
「もう帰るの? もっとゆっくりしていけばいいのに」

 香純の言葉に逆に玲愛の方が名残惜しいとも言った様子にそんな事を言ってきてくれたがしかしその言葉に甘えるというわけにもいかない。

「これ以上厚かましいのも何なんで。……神父さんもこの有様ですし」

 蓮が苦笑と共にチラリと向けた視線の先……そこにはワインをがぶ飲みして前後不覚となりぶっ倒れたトリファ神父の惨憺たる姿があった。

「……情けない人」
「……泣きながら寝ちゃってるね」

 同情も何も無い玲愛の冷たい一言と、苦笑を浮かべる香純のその言葉。
 きっと辛いことがあって飲まずにはいられなかったのだろう、そう彼の名誉の為にその内心を補完しておくことに一弥はした。

「ホント、困った人ね」

 呆れたようにシスターにまで容赦の無い言葉を言われているトリファに、流石に可哀想だと若干の同情を抱きながらも、彼のこれからの前途多難であろう道程を祈っておくことにする。

「三人とも、今日は色々とごめんなさいね。今後は彼も此処で暮らすようになるから、また迷惑をかけるようになるかもしれないけど」
「いいえ、そんな、迷惑なんてしてませんよ。あたし面白い人、好きですから」

 まぁ香純に懐かれるくらいだ、あの言動もそうだが根本的に悪い人間では無いだろうと一弥もまた思っていた。
 それは蓮もまた同様であるようだった。

「あんまり甘くすると、一緒にお風呂入ってくれとか言いだすよ」
「……う、それは流石にちょっと嫌かも」

 経験者が語る言葉である以上その通りなのだろうが、確かにその変態の部分だけは出来れば何とかして欲しいとは思う。



 それから、泥酔してしまったトリファ神父をこのままにしておくのもどうだかということになり、男手を代表した蓮が彼をリザの案内の元で部屋まで運ぶ事になった。
 蓮が戻ってくるまでの間、礼拝堂で残った三人である一弥、香純、そして玲愛は雑談で時間を潰しながら彼の帰りを待っていたのだが……

「……遅いね、藤井君」

 待てど暮らせど中々戻ってこない蓮の現状に、玲愛がその事実を指摘するかのようにそう告げてくる。
 そして待ちくたびれた不満を爆発させるように香純まで蓮が遅い不満を愚痴り始める始末であった。

「じゃあ、俺がちょっと見てきますよ」
「そうして、それが沢原一弥を見た最後の姿になろうとはこの時私たちの誰一人として考えもしていなかったのである」
「……俺は殺人事件か何かの次なる犠牲者ですか?」

 仮にも神の家とも呼ばれ、しかも言った本人が寝起きし暮らしている教会内で殺人事件など笑えもしないのでやめてほしい。

「いや何か状況的にこう言った方が盛り上がるかとも思って……お約束?」

 首を傾げて可愛く聞かれても頷けもしなければ当然ながら納得も出来るはずも無い。
 こんな若い身空で殺人事件の被害者Aなど冗談でもなりたいはずがない。
 少なくとも、執着してまで守り通したいものが残っている内は。

「……兎も角、それじゃあちょっとアイツを探して来ますんで、二人は此処で大人しく待ってるように」

 相手にするのも疲れたので適当にそう会話を打ち切りながら、蓮を探しに礼拝堂を出る。去り際に、相も変わらず呑気そうに女子二人は手を振って見送っている始末であった。
 ……ホント、色々と泣けてくる。



 十中八九、アイツも男の子としての冒険心にでも屈したのか、大方教会の中でも探検しているのだろうと当たりはつけていた。
 まぁ尤も、蓮よりも先にそれを行った一弥自身がそれを言える偉そうな立場でも無いが、しかし逆にだからこそ蓮が凡そどの辺りにいるのかは察しが付いた。
 司狼や香純でもあるまいし、まさか空き部屋の中を覗こうなどという非常識なことはしないはずである。だとするならば、精々廊下を歩いている程度と言ったところだろう。
 結構内部の広さ自体は驚くほどだが、その建物の構造事態は複雑怪奇というわけでもなくむしろ一本道化しているのも同じ単純なもの。
 単に歩いて探検するだけならば、ラテンクロスの上端に位置する礼拝堂の真逆……突き当りである最下端がゴールといったところだろう。
 もう辿り着いているのか、或いは引き返している最中かはしらないがこのまま歩いていけば道の途中でかち合いもするだろうと一弥は進み始めた。


 そして予想通り教会の最下端、その突き当りとなって壁の前に藤井蓮は立っていた。
 数刻前の自分とまるで同じだなと若干の呆れた溜め息を吐きながら蓮へと声をかけようとしたその時だった。

「あれ、藤井さん……それにそちらは沢原さんじゃないですか」

 丁度、一弥と蓮を挟んだ間にある一つの扉からいきなり出てきたヴァレリア・トリファがそう不思議そうに左右を見回し両者を確認しながらそんな事を言ってくる。
 ……いや待て待て、アンタいったい何処から現れた?

「どうしました? お二人とも礼拝堂に行かれたものだとばかり思っていたのですが」

 そう言ってくるトリファ神父であったが、正直その当人の唐突な登場の方に驚いている始末であった。
 確か彼の部屋は三階の一室。当然此処からはかなり離れた場所にあるはずである。今日その部屋をシスターに頼まれて掃除したばかりなのだからよく覚えている。
 ならば自室に運ばれたはずの神父が何故このような所にいるのか……蓮が間違ってその部屋に運んだりしたのだろうか。
 否、シスターが先導していたのだからまさかその様な事は無いはずだ。……ならば何故、どうしてそんな部屋から彼は出てきた?
 理解の出来ない事態に面食らっていたのはどうやらこちらだけではなく蓮も同様であったらしい。彼を自室に直接運んだはずの当人からすればこの状況での登場は尚更にありえないのだろう。
 しかしながら、それでも状況への立ち直りと適応は一弥よりも蓮の方が流石に早かった。

「いえ……というか、此処は忍者屋敷ですか?」

 まぁ当然と言えば当然と思わず抱いてしまいそうな直球の疑問を蓮はトリファへとぶつけていた。トリファからしてもそう問われることはまるで予期していたかのように若干の苦笑を浮かべながら蓮の問いへと答えてくれた。

「まぁ秘密の抜け道があるのは事実なんですが……教会とは、大概そういう造りになっているんですよ。知りませんでしたか?」

 当然ながら知る由も無い……がまぁ他ならぬその教会に暮らし眼前で実証した神父がいる以上、嘘ではないのだろう。
 トリビアが一つ増えたな、そんなどうでもいい事を思いながらも神父と蓮の様子を一弥は窺うことにした。

「それはともかく、復活早いね。シスターからどうやって逃げてきたわけ?」

 蓮の言っている言葉から察するに、どうやらあの神父はシスターを怒らせてしまうような事をしたらしい。懲りない人である。
 蓮の問いに神父は若干引きつった笑いを見せながらも、それを正直に答え始めた。

「まあ、彼女は生真面目な人ですからね。騙すのはそう難しくはないんですよ。水が欲しいとか言って、その隙に」

 まぁちょろいものですよと誇らしげに胸を張る神父。だがそれはそれで後の傷口を広げているだけではないのかと正直思いもした。

「でも、まだ逃げ回ってる最中ですから、黙っていてくださいね。今見つかったら、私半殺しにされちゃいますから」

 そんな凶暴なシスター、ある意味見られるものなら見てみたいと思わないわけではないが、それは流石にトリファが可哀そうなので彼に同調しておくこととしよう。
 ……ところで、そんなシスターを怒らせるような何をこの神父はやらかしたのだろうかということの方が気になりもした。

「俺はいいけど、神父が嘘吐いたら駄目なんじゃ……」
「ですから、御内密にお願いしますよ。シスターにも、神様にも」

 蓮のご尤も言い分にしかし念を押すようににっこりとした笑みを見せながらもそう言ってくるトリファ。……正直、こんな神父で本当に良いのだろうかと呆れもする。
 流石は氷室玲愛の名付け親とでもいったところだろうか。

「ところでお二人は、どうしてこのような場所に?」

 そんな事を一弥と、そして恐らくは蓮もまた考えていたと思われるその時だった。
 神父からすれば当然の疑問とも呼べるその問いがこちらへと投げかけられてきたのは。

「ん……その何ていうか迷ったみたいで」

 別に吐かなくてもいいだろうに嘘を吐いたのは探検していたことが彼なりに後ろめたいと思ったことであったからなのか。
 確かに蓮らしいと言えば蓮らしい。だが、その嘘はこの場合、ちょっときつくないかと思いもしたが。広くはあるが迷うほどの構造でもないし、この建物。

「……まぁ、こっちはその蓮が戻ってこないから探しに来たところです」

 フォロー、になっているのかも分からないが、そう合わせる様にしかし正直に一弥の方はトリファへと告げる。
 二人の返答に成程と言った様子で納得したように頷くヴァレリア・トリファ。

「ではお二人とも、私が礼拝堂の方までご案内いたしましょう」

 いや別にこっちは迷ってたわけではないんだが……そう思いかけるも面倒臭いのでまぁいいかとそれで一弥は納得することにした。
 神父が先導し歩き始めるのに追従してその背を追う蓮と一弥。

「……そう言えばさ、さっきみたいな抜け道って他にもあるの?」

 興味を抱いていたのか、蓮が先を歩く神父へとそんな問いを投げかける。一弥としても実は興味があったことなだけに実際どうなのだろうと同様にその返答に期待していると、

「は……? そんな事に興味がお有りなんですか?」

 他意も含んだ様子も無い純粋な疑問として顔だけをこちらへと向け直しながら問い返してくる神父の言葉に「……まぁ、多少は」と返しておくこととした。
 蓮の返答にふむと頷いた後、神父は平然とした態度のままそれに頷き、

「確かに他にもいくつかありますが、そう楽しいものではないですよ。そもそも脱出口の類ですから、陰気ですしね」

 そう答えてくる。
 脱出口……本当に忍者屋敷みたいだなと思いながら蓮は続けて問いを投げかけていた。

「脱出って、何から?」
「敵です」

 即答されても困る見事な返答にどう反応していいのか互いに視線を交し合う蓮と一弥。
 ……いや、敵って誰よ? それが両者の正直な感想だった。

「何と言うかですね、教会というのは古来から籠城場所に使われることが多いので、これはその名残と言いますか、半ば建築様式の一環ともなっていますので。
 まぁ兎も角、起源が起源ですのであまり雰囲気の良いものでもありません。幽霊とか出そうですよ。平気ですか、幽霊?」

 説明しにくい話題なのか、まるでそれを逸らすようにそんな事を言ってくるトリファであったが怖がらせようとしていたとしても話題が陳腐すぎる気がしないでもない。
 幽霊ねぇ……そんなものが本当にいるなんて思えないのだが。

「……苦手」

 蓮が返すその言葉は、しかし蓮自身も本気で信じているとかそういった可愛げのある理由からではない。
 蓮が幽霊を苦手とする理由など、怖い云々ではなく、殴っても効かないだとかもっと物理的且つ直接的な身も蓋も無いような理由からだ。
 ……まぁ、確かに自分の力ではどう足掻こうがどうにも出来ないような脅威が恐ろしいと感じるのは人間として当然のことではあるのだが。

「ふむ、でしたらここらで探検もやめておきなさい。元気がいいのは結構ですが、古い建物には時に良くないものも混じります。……お分かりですね?」

 蓮の返答に満足したようにそう返してくる神父の言葉を聞き、何だかんだと言いながらもやはり蓮の下手糞な嘘はばれていたらしい。
 それも当然か、この手の事に関してはむしろ本職である。のらりくらりと惚けた態度を装うともその本質は案外、鋭い人なのかもしれない。
 もしかしたら結構な狸なのかもしれないな、この時に初めて沢原一弥はヴァレリア・トリファという神父に対し、無害で間の抜けた善人というイメージ以外にも別の印象を抱き始めていた。



「訊きますが、あなたは何をしているんです?」
「えー、あー、その、私はですね。テレジアのご学友である彼らにちゃんとした挨拶をしなければと思ったわけでありまして……決してあなたから逃げようとしたとかそんなわけではなく……ああごめんなさいすいませんもう二度と逃げませんから許してください」

 礼拝堂の教壇前、腰を手にあて仁王立ちするシスターを前に長身を屈めながら平身低頭に必死になって謝罪を行っている神父の姿。
 シュールな光景と言えそうではあるが、実際その成立が間の抜けたものであることも考えればどうにも呆れる他に無いのも事実ではあった。
 意気揚々と蓮と一弥を礼拝堂まで連れて来たトリファ神父、だがそこには待ち構えるように彼を探していたシスター・リザが居た。
 自ら蜘蛛の巣へと突っ込んだようなその事実に逃げ場もなく、結局彼自身が最も恐れていた捕縛と言う事態へと落ち着いたわけである。
 大人たちの説教風景をどうしたものかと見ている蓮達からしてみれば、この事態が随分とコメントもしづらい手持ち無沙汰であったというのも事実であった。

「……まぁ、何ていうか」
「あまり深く考えない方がいいよ。世の中そういうものの方が多いと思うし。しかもあの二人は結構な変態だし」

 だから考えるだけ無駄だから放っておけと言ってくる氷室玲愛。仮にも彼女にとっては家族同然の者達であろうに随分な言い分である。

「けど先輩、やっぱり気の毒だし止めてあげた方が……」
「いいから放っておいてあげなさい。細かい事を気にする人は嫌い」

 ……いや嫌いって、と思わず突っ込みを入れかけるも何処かいつもと違ってそわそわとした様子の玲愛をおかしいと一弥は思った。
 何と言うか今の彼女は機嫌が悪いと言うか、触れて欲しくないものから必死に目を逸らさせようとしていると言うか……トリファ神父が帰ってきて以降、何だかずっとこんな様子である。
 あまりにも珍しい彼女の態度……こういう様子は世間一般的に何と言うんだったか。

「……もしかして先輩、恥かしがってません?」

 何と言うか一番近い表現を挙げるなら、授業参観などで恥かしい身内を見られた時の子供とでもいうのか。
 それでも残る年長者としての威厳がそれを必死に悟らせないように冷静を装おうとしているというか。
 兎に角、今の彼女はそんな感じに見えてしまったのだ。

「……沢原君、キミは一度眼科に行った方がいいね。それとも頭の病院の方かな」

 随分と棘のある酷い返しではあるものの、それが益々図星を当てられたのを必死に隠そうとしているかのようで一弥にはむしろ微笑ましく見えた。
 珍しくもある姿だが、こんな姿も新鮮で可愛いとは正直に思う。いつもからかわれる側の身としては偶にはこんな彼女を堪能するのも存外に悪くは無い。
 それに……

「今のそういう先輩や、いつもの態度の先輩の方が俺たちは好きですよ」

 あの礼拝堂で祈りを捧げる神秘的な様子の先輩も綺麗だったのは確かだ。神を信じていないという何処か厳しい態度のその姿にも色々と思うことはある。また時折してくれる説教や忠告にしてもありがたいとは思えている。
 けれど……やはり自分たちが惹かれ尊敬を抱ける先輩というのはいつもの先輩なのだと正直に思えた。

「……誕生日、近いらしいですね」
「え?」

 こちらが唐突に言ってきた言葉に驚いたように目を丸くする玲愛の姿に、構わずに一弥は言葉を続ける。

「シスターに聞きました。25日……クリスマスらしいですね」

 元々神父を呼び戻そうと思った理由の一つが、彼も含めてそれを祝うためだというのは神父の話を聞いた時に一緒に聞いていた。
「……ああ」
 だがやはりあの時の礼拝堂の一件の時のように何処か浮かばない顔をやはり見せる玲愛。
 クリスマスと言う誕生日といい、テレジアという洗礼名といい、キリスト教徒としては最大の祝福を受けているかのようであるにも拘らず、それを望まないかのような態度を示す玲愛の真意は今の一弥には分からない。
 だがそれでも少なくとも――

「――誕生日パーティーやりませんか? クリスマスもキリストも関係なく、ただ先輩の誕生日を祝ってわいわい皆で騒ぎましょう」

 祝うべきはキリストではない、ただ友人として彼女の誕生日を皆で一緒に祝おうと一弥は玲愛へとそう誘いかける。
 きっとただの彼女として騒げば、神様云々の祝福だってどうだってよく思えるようになるのではないか、そう思えたからだ。

「プレゼントやサプライズも皆で色々準備しますんで……まぁボチボチ楽しみにしていてくださいよ」

 そう笑って、嫌なことは考えないように忘れてしまって、ただ楽しく一緒に騒ぎましょうと一弥は彼女へと告げた。
 ずっと今まで考え続けて、彼女を笑わせる為に言えそうなのはこれくらいしかないと思って、しかし駄目元は覚悟の上ではあったがそれでも期待を込めて誘ってみたのだが……。
 結果は――

「――――」

 ただ言われた言葉の意味が分からないといった様子で呆然と珍しくも驚き目を丸くする表情を浮かべていた彼女だったが、それでもやがて……

「嬉しいよ。ありがとう」

 楽しみにしておくといった様子で、裏の無い柔らかな表情で彼女は笑ってくれた。
 ついつい見とれながら、この笑顔が見たかったのだということを改めて一弥は正直に思うことが出来た。
 ……また一つ、反故には出来ない大切な約束が出来たその瞬間だった。


「いいですか、そもそもあなたみたいにだらしのない、いい加減で嘘つきな酔っ払いは、若い人たちの情操教育上よろしくありません。私から逃げたいと仰るなら、今度は南極辺りにでも飛んで頂こうと思うのですが」
「ちょっと、南極ってあなた、それシャレになってないですよ。私に死ねと仰いますか? おお神よ、なんで私の周りはいつもこういう――」
「なんです?」
「魅力的な、女性しか……いないのでしょうかねぇ………」

 ……ところで、あの二人はいつまであんなやり取りを続けているのだろうか?



「どうも、ごちそうさまでした」
「それじゃあ、気をつけて帰ってね」
 笑顔を浮かべて礼を告げる香純の言葉に答えるように玲愛がそういって見送りの言葉をかけてきてくれた。
 さて、そろそろ本当にこれ以上は迷惑になってしまうのでさっさと帰った方が良いだろう。そう思いながら三人揃って外へと向かって歩き出そうとしたその時だった。

「三人とも、この辺りの夜道は暗いから、明るいところまで送らせてくれないかしら」
「あの、シスター……それはもしかして私に行けと?」

 リザが呼び止めながら心配気に言ってきたその言葉に、しかし引きつるように恐る恐るとした態度でそう彼女へと問いを投げかけたのは他でも無いトリファだった。
 しかし彼女は彼のその問いに対してすらニッコリと笑みを向け返しながら、

「ええ、そうですよ。どうやら元気が有り余っていらっしゃるようですし」

 そう当然のように告げてくる。
 だがそれに承諾を示すことが当然出来ないのがトリファ側の思いであり、

「……むぅ、しかしですね、私などがいたところで何の役にも立たないと思うのですが」

 殺人鬼の物騒な噂を聞いていれば夜に外へと出ることに二の足を踏むのを或いは間違ったことでもない。
 直ぐ其処までとはいえ、帰りの道はトリファにとっては一人なのだから怖いと言って行くのを渋ったとしても別にそれは仕方の無いことだとも思う。
 だからこそ出来るだけ自分は役に立たないのだという事をアピールしようとしているトリファであったのだが、しかしリザからしてみれば、

「盾代わりくらいなら、充分果たせるんじゃないかしら」

 にべもない一言で済ませようとしている。青い顔で必死になって口をパクパクさせながら何とかそれを必死になって回避しようとしている神父ではあったが……自業自得とはいえこれ以上苛められ続けるのも可哀想というものだろうか。

「一応、男手なら足りてますからそんなに気を遣わなくたって大丈夫ですよ。そんなに遠いわけでもないし」

 そう蓮はやんわりと二人の間に割って入りながら告げる。
 自分と一弥、それに女とカウントするにも少々華の無い香純などという三人組だ。街が物騒な状況であることは間違いの無いことだが、それでも何かが起こっても対処は出来る面子だろうとは思ってもいた。

「それに、神父さんが盾になるのは先輩とシスターの為なんでしょう?」

 強度と信頼性に保障は無いが、それでも彼女たちには大切な盾のはずである。万一があり傷物にでもしてしまえば流石にこちらも寝覚めが悪いわけでもあるし。

「そう! そうです! その通り!」

 その言葉を待っていたと思ったように声を上げて蓮に同調を示す神父、その姿は本当に現金なものだと正直呆れもした。

「それに私、実は長旅の疲労が溜まっていまして、お役に立てそうもありません。ああ、残念だなぁ、悲しいなぁ、やっぱり旅費をケチって安い飛行機に乗ったのがまずかったのかなぁ。シートがどうにも小さくて、こう体をずっと丸めていたものだから節々が痛いんですよ」

 そうベラベラとここぞという言い訳を並び立てる神父の姿に、玲愛は呆れたようにただ一言。

「爺くさいね」
「実際、皆さんよりは歳ですからねえ」

 わざとらしく目元なんかを拭い、情けない声を上げているが……何と言うか言葉の節々がむしろ言い訳臭く逆に聞こえてくるのだが……。
 だがそこまで渋る神父の様子にシスターもまた諦めたように溜め息を吐いていた。

「まぁ、腰痛とか二日酔いに気をつけて。先輩は風呂とか着替えとかを気をつけて。シスターは胃腸薬と頭痛薬を欠かさずに」

 テキパキと的確な忠告を三者へと向けながら、ならば本当に今度こそお暇しようと蓮は二人を促がして最後の別れを彼らへと告げる。

「俺たちは、幽霊と殺人犯に気をつけて帰りますから。さようなら」
「また明日」
「ごちそうさまでした。それじゃあまた」

 蓮に続き香純と一弥も別れの言葉を告げながら、礼拝堂の外へと歩き出す。

「うん、ばいばい」
「これからも、玲愛と仲良くしてやってね」

 玲愛とまるで彼女の母親のような――実際、母親代わりではあるのだろうが――言葉を返してくれるのに会釈を返しながら扉の向こうの外へと三人は出て行った。


 ――と。
「藤井さん」
 不意にそう呼び止められ、教会から出た直後に蓮は立ち止まって背後へと振り返った。
「すみません。言い忘れていたことがありまして。……少しだけよろしいでしょうか?」
 ヴァレリア・トリファからのその言葉に、一体何の用事だろうかと蓮は首を傾げる。

「はい、申し訳ありませんが。お二方……彼を暫くお借りしてもよろしいでしょうか? 時間は取らせませんので」

 ニコリと笑いながらそう告げられれば、香純にしても一弥にしても否とは言えない。ただどうして蓮だけなのだろうかと疑問に思いはするが。
「あたしたちがいたら駄目なんですか?」
「そういうわけではないんですが……いえそういうことになるんですかね。ご理解いただけると助かりますが……」
 疑問に思う香純の言葉に苦笑を浮かべながらそう返してくるトリファ。理由が分からないが、まぁ蓮にだけ用があって自分たちには聞かれたくないというのなら、それは仕方の無いことだとも思いはする。
「そういうことだ。俺たちがいたら話しにくい何かなんだろ。直ぐ済むって言ってるんだし文句言わずに向こうで待っていようぜ」
 一応は空気を読みながら、気にはなりはしたがそれでも自分たちが関わるべきことでもないのだろうと一弥は判断し、離れて待っていようと香純を促がす。

「すいません。ご理解いただけて助かります、沢原さん」
「いえ……でもまぁアイツ抑えて待ってるのも大変なんで、出来れば早めに終わらせてもらえれば助かります」

 そうトリファに返しながら、ほら行くぞと彼女の襟元を引っ張りながらズルズルと引き摺ってその場を離れていく。
 香純が納得いかないといった様子で喚いていたが聞く耳持たずにそのまま強制的に一弥は彼女を連れて行った。


「ちょっと一弥、あたしたち除け者にされてるのに何でアッサリ従ってるのよ!?」
「除け者って……まぁ神父さんにも蓮だけに訊きたい何かがあったんだろ。邪推したって仕方ないだろうが」

 もうちょっと空気読んで大人の対応を身に着けろよ、と呆れたように香純へと告げながら十メートル程距離を取って一弥は香純と共にそこで待機していた。
 神父が蓮に何を訊こうとしているのか、それは一弥とてまったく興味の無い事柄だと言うわけでも無い。けれど本人がそうしたいと思っていることを無理に暴き立てるような無粋な事をしても仕方が無いだろうと判断したに過ぎない。

「……こういう時だけ一弥ってさ、妙に大人ぶって理屈屋になるよね」
「……逆におまえは空気読めなさ過ぎてちょっとどうかと思ったりするけどな」

 減らず口を応酬し合って互いに口を尖らせてソッポを向くが、決してそれはお互いの仲が悪いだとかそういった理由からではない。
 単なるスタンスの違いというだけ……互いに蓮に対して抱いているソレはそうかけ離れたものというわけでもない。
 香純は思慕に類似した彼に対しての信頼と不安、一弥は友情を建前とした物分りと信頼を装っているに過ぎない。
 どちらも五十歩百歩、言ってしまえばまだまだ子供だ。香純はただ正直なだけでそれを隠そうともしていないだけであり、一弥は大人ぶってそれを見せないように必死になっているだけだ。
 それが彼女なりの、そして彼なりの在り方だというだけ。どちらが正しくどちらが間違っているかなどという問題でも無い。ただ……

「……まぁそこがおまえの美点でもあるのは事実だけどな」
「何よ、何か言った?」
「……何も言ってねえよ」

 臆病な自分と違い、おまえはだからそのままでも良い……そう思っているのは確かだ。
 空気を読めない部分は確かに蓮に時に煙たがられる原因となったりすることもある。だがそれを補って余りある眩しさと勢いがあるというのも確かな事実だ。
 そこが綾瀬香純の最大の美点であり、そして変えるべき部分では無い以上はそのままでいればいいとはちゃんと思っているのだ。
 ……まだ足りない部分は、自分がちゃんと補ってやるから。
 昔からそういう立ち回りなのだ。司狼みたいにたった一人で蓮と付いて行って対等であることも出来ない身である以上、せめて二人で協力して出来るだけ補って彼らに近付こうとずっとそうしてきた。
 ……司狼は確かに居なくなってしまったが、それでもそれは変わらない。否、だからこそ変えてはいけないのだと思っていた。
 いつか……そう、いつかこいつらがお互いに素直になって向き合えるようになるその時までは、蓮がそのポジションを代わってくれるその時くらいまでは自分が香純のことは支えて守ってやろうとずっとそう思ってきたのだ。
 その自負と責任は今もずっと代わっていないとそう思っている。
 例えこれが贖罪にもなりえない自己満足に過ぎなかろうとも、それでも――

「――その時くらいまでは、俺だけでも傍にいてやるよ」

 ……まぁ、いい加減に蓮にそろそろバトンタッチすべき時期なのではなかろうかと最近は特に思うようにもなっていたのだが……。

「だからさっきから何をぶつぶつ言ってるのよ?」
「何でもない独り言だから気にするなっての」



 ヴァレリア・トリファが藤井蓮へと尋ねてきた質問というのは彼にしても予想外のものであり、若干面食らう結果となった。

 ――即ち、自分たちはこの街の生まれなのかどうか?

 ……何故そのような質問をしてくるのかは分からなかったが、答は否だ。自分たち四人はそもそも今の学校に入学する際にこの街へと越してきた口に過ぎない。
 諏訪原市を田舎とは言えないが、元々蓮達の実家……正確には香純の実家がある自分たちが生まれた街は、此処に比べればやはり田舎だ。
 故にこそ、進学の為に地方都市へと上京してきたというのはそれ程珍しい事でもないはずだった。
 そもそもどうしてこの街を選んだのか……それすら何故だったのかは今ではもう思い出せないが別段そこは気にするところでもないだろう。
 兎に角、正確に言えば自分たちもまた外様なのかもしれないが、やはり自分たちが住んでいるこの街に愛着が無いというわけではない。
 だからこそ、殺人事件が起こっている為に田舎に帰省する様に勧めてくる神父の言い分にはいそうですかと頷けたわけでもない。
そもそもこちらは出席日数が色々と危険な学校もある。休校にもなっていない以上、それを放り出して帰るわけにもいかない。
 その他にも帰れない……というかあまり帰りたくない理由というのもあるのだが、それはこの神父を相手にベラベラと語るようなことでもない。
 故にこそ、蓮はトリファの帰省を勧めるその話をやんわりと断った。……聖職者であるとはいえ、どうしてそこまでそれに彼が拘っているのかは蓮にもよく分からなかった。

 ……だが少々、いや、かなり辟易としながらも同時に意外だとも思ったのはヴァレリア・トリファというその神父の他人のことばかりを気にしようとしていたその様子だった。
 聖職者というのは存外そんなものなのかどうかはよく分からないが、少なくとも蓮の目から見ればトリファのそれは逆にこちらが彼を心配させるレベルのそれだ。
 他人にばかりかまけて、肝心な自分を疎かにする……身近に分かり易すぎる同類が居てそいつの事を良く知っている身からすれば、この神父もまた同類のように思えてならなかった。
 まず自分の事を第一に。そういう風にしていかないと、世の中とは上手く回らないもののように思える。全てが半端で片手落ちになりかねないというか……見ていて逆に大丈夫かと不安になってくるのだ。
 要するに、この神父は沢原一弥とまるで同じように見えて仕方が無かった。
 その旨を神父に言ってみると、彼は意外だと言った様子で、

「……ほぅ、では彼もそういった性格なのですか?」
「……まぁね。だから見てて心配っていうか、あんま無理するなって言いたいっていうか」

 兎に角、他人を心配するのも結構だがもう少し自分もまたそうやって他人に心配されているということにも気づいた方がいいと思うのだ。

「何でもかんでも誰でもに気を遣ってたって仕方が無いと思うんだけどね、俺は。もっと人生は他人の為じゃなく、自分の為に割いた方が充実すると俺は思うよ」

 強すぎる責任感はいずれ背負った者へと耐え切れない重みを齎し、支えきれずに潰してしまう危険性がある。
 それに贖罪だとかそう意識は立派ではあるが……それは逆にそれ以外の道を省みることも出来ない一種の逃げのように思えてならなかった。

「……私の古い友人にも、あなたと同じ事を言った人がいましたよ。彼は臆病な私にとって、憧れの対象でしたが……」

 蓮の一弥とそしてトリファ自身にも向けたその指摘に対し、彼が苦笑と共に返してきたのはそんな言葉であった。

「残念なことに、そういう人ほど早世しやすい。生きる速度が私のような者とは違うんでしょうね。……お蔭でよく置いてけぼりをくらいます」

 まるで凡人ではそれに付いて行くのも難しい。だから必死になって追いかけるしかないのだとでも言わんばかりの言い分だった。
 蓮にしてみれば人には人のペースがあるのだから、無理をしてまで極端に合わせる方が逆に両者の為にならないのだろうと思うのだが……まぁそんな事を言ったところで仕方が無いのだろう。

 だがそこから始まりかけた自分に向けた説教じみた言い分は、正直言われたところで仕方が無いし大きな誤解だ。
 そもそも神父や一弥ほどに己が人間出来ているとも蓮は正直思っていない。
 いつだって単純に、これでも自分を第一に身勝手に生きている心算だ。
 だからこそありがたい説教ならミサの時にでも顔を出すからその時にしてくれ、とこの話をもはや打ち切ろうとしていたその時だった。

「藤井さん、最後に一つ」

 まだ何かあるのかと思いながら、今度はどんな質問だよと若干ウンザリしながら耳を傾けたその時だった。

「あなたは先ほど、田舎には帰らないと仰った。それについて――ご両親は心配なされていないんですか?」

 ……両親?


 ――何だソレは?


「……心配も何も、会った事なんてないよ。俺が赤ん坊の頃に死んでるって聞いてる」

 自分にとってまったく縁の無いその単語と、閃光のように駆け抜けた何かの疑問。
 しかし思考はそれらを全て打ち消し、半自動的とも言っていい素振りで自然にその言葉を自らの口へと紡がせていた。
 ……まるで都合の悪いその部分を自らに決して意識させないといったように。

「そうですか。これは申し訳ない。失言でしたね」
「いや……」

 気持ちの悪い違和感を努めて意識しないようにしながら、同時に両親であろうと何であろうと顔も知らない人間の死を悲しむことなど出来るはずも無いと、その部分を自らの内の何かが必死にそう強調させる。
 別段特別なことで無いはずの人間の心理……ましてや最初からそうであった自分にとってはある種当然とも言える当たり前の価値観。
 だが藤井蓮にとってそうであるその思考も、ヴァレリア・トリファにとっては決してそういうわけではないらしい。
 何せ――

「では、逢いたいと思いますか? もしそれを叶える方法があるというのならば?」

 ――何せ、そんな唾棄すべきふざけた事を誘いかけるように言ってきたのだから。

 当然、そんなトリファの言葉に対し藤井蓮が示すべき答など一つしか存在しない。
 そう、当たり前だ。そんなもの――


「そんな気持ちの悪いこと、思わないし願わない。
 ――そういうのを望む奴は、頭がおかしい」


 度し難い、理解し難い、そして馬鹿馬鹿しすぎる考えであり価値観であろう。
 愛に狂っている。死を軽く考えすぎている。
 素晴らしい価値観――ハッ、冗談だろう?
 おぞましい、むしろ究極的にそんな考えはおぞましいと思わざるを得ない。
 だって、そうだろう。失くせば取り返しがつかないからこそ、人はそれを大事と思えるのだろう。
 簡単に代替で成立してしまうものにどれ程の価値があるというのか。
 ならば戻ってくる失せものになど皆価値など無い。
 総じてゴミクズ以下の唾棄すべき、無価値なるものだ。

「なくしたのに戻ってくるものなんて、そんなもの――最初から価値が無いものと何が違うんだ?」

 少なくとも、藤井蓮ならばそんなものは認めない。絶対に受け入れることも無いだろう。
 それが例え……綾瀬香純や沢原一弥、氷室玲愛に……遊佐司狼であったとしても。
 死者になってまで無様にもう一度戻ってくるというのなら、せめて彼ら自身の尊厳と、共有した掛け替えの無い想い出にかけて、黙って再殺という道を躊躇いなく選ぶだろう。

「墓から這い出てくるのは、何であれ化物(ゾンビ)だよ。親でも友達でも恋人でも……そんな気持ち悪いものには変えられないし、変えちゃいけない。
 ……少なくとも、俺はそう思ってる」
「…………」


 ハッキリと自らの価値観を叩きつけるようにトリファの言い分を真っ向から否定した蓮。
 だがそれ故に彼は気づかなかった。
 一瞬、それこそ刹那と言えるほんの僅かなその時間において……眼前の神父がその少年に対して芽生えかけたその殺意を全力で悟られもせぬように押し留めねばならなかったことを。
 致命的なまでに食い違う価値観、そして“決して共感など得られるはずもない”境遇と立ち位置。
 悪魔へと憧れるその男にとって、しかし極端すぎるその正論は決してその胸に響くことは欠片もなかった。


「……なるほど、確かにその通りなのかもしれませんね。
 重ねて失礼。それでは、ミサの時に来ていただけるならば、続きはその時にでも」
「……分かったよ」

 最後にそう言葉を交わしあいながら、蓮とトリファは教会前で会話を終えて別れた。
 色々と互いに思うことはあり、引っかかることも多々あった。
 それでも、それは気にすることではない。
 トリファへと抱いた新たな疑念を打ち払うように頭を振りながら、待ちくたびれた様子の連れ二人の下へと藤井蓮は急いで歩き出した。



「……成程、中々に正鵠を射た物言いだ。君はどう思った螢?」
「…………」
 先程の二人の会話をまるで楽しむように傍らの愛弟子へと問うのはヨシュア・ヘンドリック。
 茶番かとも思われた一部始終であったが……中々どうして面白い。
 少なくとも、無自覚ではありながらかの聖餐杯を相手に彼の存在理由そのものを真っ向から否定しようとは……命知らずとも言うべきか、流石に少し肝を冷やした。
 だがそれ故にこそ……やはりあの少年は主が作り上げた素晴らしき後継なのだろうとも思った。

「どう、とはつまり、彼の意見に対してですか?」

 弟子の蔑視にも近き冷たき視線を前にしても、ヨシュアはただ楽しげに然りと頷き彼女の反応を窺う。
 ヴァレリア・トリファ同様……彼女にとっても先の言葉は決して一笑に付すというわけにもいかぬはずの言葉だ。
 まして、自分はそのように彼女を育てたのだ。ならば尚の事、どういった反応を示してくれるのか見てみたかった。

「別に何も。思想は個人の自由です」
「だが何も失ったことの無い甘ちゃんの意見だ……そう欠片とも反感を抱きはしなかったのかな?」

 怒りを顕に品の無いヒステリーを起こさせるほどに頭足らずには育てていない。だが十一年の過程の中で懇切丁寧に根付かせてやった闇は決して先の少年の言葉を軽く受け流すなどということは出来ないはずである。
 それでも表面上はクールなその態度を崩さないというのなら……いやはや良く成長してくれた。随分と聞き分けの良い子になってくれたではないか。

「兎も角、君が抑えてくれて助かった。僥倖だったのはカインに先の言葉を聞かれなかったことにあるのかもしれないが――」
「――マスター、いい加減お戯れが過ぎるのでは?」

 こちらの口上を遮るように冷たい視線と言葉を告げてくる螢。
 ……やはり怒ったか、だがそれでいい。それでこそ我が愛弟子だ。
 氷のように研ぎ澄まされた冷酷さより、彼女の気性は炎のように激しく滾るそれこそが本質だ。外面を取り繕おうが、やはりその本質を大事にすべきだろうと常々思う。
 そうでなければつまらない。踊る役者が大根では見ていてくださる主にも申し訳が立たない。

「確かに失言だったな、すまない。……だがクールなそれも結構だがその本質を君はもっと大事にするべきだ」

 もっと自らのエゴには貪欲に。賢しく無理に隠そうなどとはせずありのままを見せるべきだ。
 欲しいものは奪ってでも手に入れろ。他者を踏み台にし、その全てを貪り尽くす事を赦されるのは強者のみの特権だ。
 良い夢は長く見させてやるに限る……これは自分なりの弟子へと注ぐ愛情でもある心算だった。


 屈折した人形を溺愛するかのような感情。吐き気すらも抱く汚らわしい倒錯した遊び心。
 常々形式上は、師と仰ぎはしているものの、重ね重ねこの男へと抱く感情は嫌悪感と殺意以外の何ものでもない。
 十一年前から今日に至るまで、否、この先においても能力面以上の信頼をこの男へと螢が抱くことなど決してないだろう。
 自分にチャンスを与えてくれたのはこの男であったのは事実だ。だが同時に、自分から大切なものの全てを奪ったのがこの男であったことも間違いの無い事実なのだから。
 殺せるものならば殺したい……十一年間、その感情が途切れたことは一度だって無かった。
 だがそうであると同時に、この男が螢の悲願にとってはどうしても欠かせなかったというのも事実だ。この男の囁きに乗って人をやめたのも、彼女にとっては他に選択肢が無かったが故にでもある。
 だからこそ、今はまだ殺せない。
 けれど悲願が成就し好機が訪れたならば――

「――おっと、私にそれを向けるには些か時期尚早ではないかな?」

 どうやら先の少年の言葉と、眼前の男のからかいに自身で思っていた以上に苛立ちが溜まっていたのだろう。僅かとはいえ殺気が漏れでてそれに気付かれてしまったらしい。

「……申し訳ありません」
「いや、確かに少々こちらも遊びが過ぎた。……余興を前に年甲斐もなく心が逸ってしまっているらしい」

 いやはや歳はとりたくないものだ、そんな戯言をほざく男の言葉を聞き流しながら螢はただ努めて無感情に指示を待つ素振りを示すのみ。
 これ以上からかっても面白い反応をこちらが見せることも無い事を悟ったのだろう、わざとらしくそれを惜しむような素振りを見せた後に、他の団員の前で見せるいつもの態度へと戻って彼は命じてきた。

「ではあちらの事は君に任せる。ベイ中尉とマレウス准尉がやり過ぎるようなら止めるように。私は猊下と共に昨日の彼らを此処でもてなそう」
「……マスターはあの少年がツァラトゥストラだと?」
「さあ、どうだろうね。その辺りの判断は君に任せる。後で報告はしてもらうが、今は自身で思ったように動くといいさ」

 君の手並みを見てみたい、まるで成長した弟子の出来の程を見極めようとするような師の口振り……まぁ事実、試されているというのは事実なのだろう。
 別にそればそれで構わない。味方など最初から誰もいなければ必要だとすら思っていない。
 精々こいつらを利用して、自分は叶えるべき願いを叶え、取り戻すべきを取り戻す……ただそれだけだ。
 その為ならばいいだろう、存分に滑稽に踊ってもやるというものだ。

「では成すべき事を成すべき時に。……案ずる事はないさ、それを信じて続けていれば君の願いは自ずと叶う時がくる」

 だから精々に励めと送り出す師の言葉にただ無言をもって答えとし、櫻井螢は間もなく始まる恐怖劇の舞台へと臨む為に夜の闇へと消えていった。


「さて、少々戯れで焚きつけてみたものの……これでどう舞台が動くことやら」
 それで事が上手く運ぶならばそれでよし、変わらなくともそれならそれで構わない。悪い方へと転ぶことだけは勘弁願いたいものだが……自分ごときの投じた一石にかき乱されるほどに師の描いた筋書きは陳腐でもあるまい。
 だからこそ、今宵はまぁこの程度でも構わないだろう。程よく誰もが心を逸らせ滾らせている。いつも以上に舞台が少々過激に赤に染まったとしても、それならそれで仕方も無いといったところか。

「……どちらにせよ、幕開けはここからだ」

 ツァラトゥストラもレオンハルトも、ベイもマレウスもクリストフも……そして自分もまた評価を下せるような立場ではない。
 観客の飽きない演目を、目を離させない最初の掴みをしっかりとアピールせねばならないというだけだ。
 どちらにせよ、これで舞台に役者は揃い、同じ舞台の上で役者たちは邂逅するのだ。

「たとえ見飽きたものであれ、せめてあなたとあなたの盟友、そしてあなたの愛しき女神への暇潰しになる事を祈って」

 それでは、今宵の恐怖劇(グランギニョル)を始めよう。



[8778] ChapterⅡ-6
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 23:13
「う~ん、すっかり遅くなっちゃったね。やっぱ少し遠慮した方が良かったのかな?」
「物騒だし、そうした方が良かったかもな」

 教会を出ての帰り道。星が輝く夜空の下、坂道を下る最中に上機嫌に言葉を発する綾瀬香純に藤井蓮もまた腕時計で時間を確認しながらそう答える。
 時刻は十時。何だかんだと長居をしてしまったかと思う一方で、深夜というほどに遅い時間というわけでもないのは事実だ。
 だが例えそうであれ、そして郊外に近いという事実を差し引いたとしても出歩いている人間が誰もいないというのはまず間違いなく例の事件が影響しているのだろう。
 自分たちにしてみても些か警戒心が緩すぎるのは自覚していたことでもある。先の一時の時間の余韻をもう少し楽しんでおきたいという未練はあるが、それでも無警戒のままでは危険だというのもまた事実だ。
 遠足は帰るまでが遠足……ではないが、最低限の気の引き締めくらいはしておく必要とてあるだろう。

「でも、ま、あたしは心配なんてしてないよ。いざとなったら二人が護ってくれるんだろうし」
「俺らはむしろおまえに期待してるんだけどな。今でも毎日放課後に稽古してるんだし、実際俺たちよりおまえの方がずっと強いだろ」

 そんな事を考えていた最中にも、視界の端では香純と一弥のそんなやり取りが継続中であった。気楽な奴らだなと思う一方で、ついでに一弥の意見に蓮は全面的支持を示しておきたかった。
 だが男子連中のその揃いも揃っての雰囲気が気に入らないのだろう、情けなさと呆れを半々と言った様子でブレンドした態度も顕に香純は告げてくる。

「……あのねぇ、あたしは竹刀もって無いと大した事は出来ません……っていうかさぁ、この状況でそういうこと言うかな、普通? 見栄でもハッタリでのやせ我慢でも、”俺たちが護ってやるぜ”……くらい言ってよね! あたし、か弱い女の子だよ!?」

 憤慨した様子も顕な香純の言い分に、しかし蓮と一弥も揃いも揃って、

「……何処に居るんだ? そのか弱いってのは?」
「少なくとも、身近にそんな希少種がいてくれたなら放っとかない心算なんだが」

 なぁ、と両者ともに顔を見合わせ同意するように頷き合う薄情な男子連中の言い分に、自称そのか弱い女の子たる香純が更に騒ぎ出したのは言うまでも無い。

「あ・ん・た・ら・ね~~~ッ! 此処に居るでしょうが! あんたらの目の前に!」

 ああもう! いっつもこれだよ……と予想通りのパターンを返してくれるあたり、やはりこいつはおちょくり甲斐があると思う。
 そう直ぐに喚きだすからオモチャにされているのだと言うのに、いい加減少しは気づけよとも思う。
 まぁその辺りこそが逆にこいつの魅力というべき部分なのかもしれないが。

「ホント、アンタたちってデリカシーが無いって言うか、空気が読めて無いって言うか……なんかこう、お約束? こう来たらこう返すだろうってマニュアル。偶にでいいから守りなさいよ」

 いや、そのマニュアルとやらに則ったありふれた王道パターンを返してみた心算だったのだが……後、空気読めてないとかはおまえにだけは言われたくないと正直に思う。

「おまえベタだもんな」
「単純でワンパターンとも言うしな」
「シャラップ! と・に・か・く! ひねくれてたって良いことなんて無いんだからね。謎とか伏線とかトリックとか。そういう小賢しいのはスッパリやめるの。どこかで見たような王道で、先が読めるけどその分安心。そんな人生の方が振り返っても絶対に楽しいし、素敵だと思わない? ね?」

 こちらのからかいを打ち切りながら熱弁と共に同意を求めてくるその言い分……何だかんだと言いながらも、そういうのが嫌いじゃない……むしろそういうのこそを望んでいるというのは二人とて同じ思いだ。
 だからこそ、それをからかい混じりに否定しようとは思わない。

 何処かで誰かがやっているような、何から何まで既知の範疇たるそんな人生(はなし)。

 それが至上の幸福、願いでもある自分たちにしてみれば、それを否定しようなどという思いは……ましてや打ち壊そうという思いだってありはしない。
 それは間違いの無い彼らにとっての心からの真実。

「……確かに」
「そうかも、な……」

 正直にそれだけは同意するように返してくる二人を見て、喜びながら顔を綻ばせる香純の眩しい笑顔。ベタな表現で恐縮だが、これが太陽のような笑みとでも言ったやつなのだろうか。夜には少々いつも以上に眩しくも見えてしまう。

「でしょ、よーしそれならもう一回! 改めて訊こうかなぁ。あたしが危なくなったら二人は……って痛た、ちょっとぉ、いきなり止まらないでよ!」

 上機嫌にやり直しを要請しようとしていた香純であったが、前方を歩いていた蓮が急に立ち止まったせいで背中へとぶつかり、文句を言ってくる。
 しかし蓮の背中越しに何を見ているのかと前方へと視線を戻すと共に、直ぐに目を見開いて驚きの叫びを香純は上げていた。

「どうしたの……って何よあの凄い車!?」
「……多分、アメ車かな」

 前方十メートル程坂を下った所に停車している一台の車、車種は恐らくキャデラック……随分と金のかかる車であることもそうなのだが、何より見る限りでもそのド派手な仕様そのものが悪趣味の一言に尽きた。

「外装真っ赤って……凄えな、あれ」

 感心というよりは呆れと言った方が強いのだろう、一弥の呟いた言葉に蓮もまたこの時ばかりは即座に同意できた。
 正直、持ち主の神経を疑わざるを得ないような狂った自己主張……むしろあんな物を公道で走らせては注目の的だろうに。
 いや、目立ちたいからあそこまでの悪趣味な仕様なのかと考え直す。きっとあの車のオーナーには羞恥心とかその辺りが致命的に欠如しているのだろう。
 そんな適当な事を考えていたその時だった。

「……誰、あれ? 知り合い?」
「……違う」

 気付けばその趣味の悪い真っ赤なキャデラックのボンネットに腰掛けていた一人の女、その人物がこちらを見上げていたのに気付く。
 ショートカットにライダースジャケット。際どいミニスカートにロングブーツという出で立ちは、良く言えば活動的。悪く言えば単に柄がよろしくないというタイプだろう。
 しかしそんな表面的なものではなく、藤井蓮がある種の既知感を覚えたのは彼女の目だった。挑発的で挑戦的で、それでいてどこか面白がっているようなあの目。
 知っている。嫌なほどに心当たりのある一人の人物の姿が脳裏へと過ぎる。

「……似ている」
「……蓮?」

 思わず無意識の内に零してしまっていたその呟き。それを聞き拾ったように一弥がこちらへと視線を向けていたが、生憎と女の方へと視線が釘付けとなっていた今の蓮はそれに気づく余裕もなかった。
 女はゆっくりとボンネットから立ち上がってくると共にこちらへと近付いてくる。それをただ目を離さぬままに見続けていた蓮であったが――


「ふふ、またいずれね――藤井蓮君」


 ――傍らを通り過ぎていく交錯の際、ポツリと耳元にそう呟き残していく女の一言。

 ハッとなって通り過ぎて行った女の後姿を追うように気付けば蓮は背後を振り向いていた。
 しかし女の方はといえばこちらには振り向く様子も無いままに、そのまま坂道を登っていく。
 咄嗟に呼び止めようかと声を上げかけるも……それをして何になるという考えが踏み止まらせ、結局は無言のまま相手を見送ることになった。

「……今の女、何か言ってたか?」

 一弥と……その様子では香純も同様なのだろう、すれ違い様に耳元に囁かれた再会を匂わすかの様な言葉はどうやら自分しか聞き拾えてはいなかったらしい。
 どう説明するべきかもややこしかったし、何よりも名指しで言われたのは自分だけだ。あの女が何者であれ、トラブルを持ち込むような輩だと言うのなら対処は自分がするべきだ。
 故に――

「……いや、何でもない」

 だからこそ二人には心配させないようにキッパリと首を振りながら、さっさと帰ろうと促がして立ち止まっていた歩みを再開させる。
 一弥も香純も未だ納得した素振りを見せてはいなかったが、こちらが何もこれ以上喋る気が無いことだけは察したように表面上は頷きながら、帰路へと着き始める。
 そう、今はこれでいい。そう自分自身でも納得させながら、それでも藤井蓮の脳裏へと残っていた二つの疑問は消えることも無いままに残ることとなった。
 一つは、何故あの女は自分の名前を知っていたのかということ。
 もう一つは、女が上がっていった坂の上……あそこには先程辞してきた教会ぐらいしか無いはずなのに何をしに行ったのか。
 疑念は決して消えることなく、そして夜の闇は益々に深まっていく。



「でもさ、あの神父さま素敵だよね。お父さんみたいな感じがして」
 教会からアパートまでの道中、そして帰ってきてからも香純がメインの話題に上げ続けていたのは今日知り合った神父のことであった。
 帰宅後、就寝前に少しだけ蓮の部屋へと皆で寄って雑談を交わしていたのだが、思いの外に上機嫌な様子で香純の言葉は続く。

「ちょっと頼りないし変人ぽいけど、なんか愛を感じるじゃない? あたし結構羨ましいな」

 ……羨ましい、か。
 香純がこのように語ること、ましてや他者を羨ましがるというのもまた珍しい。……それが“お父さん”という存在であると言うのならば尚更に。
 綾瀬香純は父親を亡くしている。……もう十一年も前のことだ。
 藤井蓮もまた同様に両親がいない。沢原一弥には二親は健在だが……しかしだからといって殊更にそれを語るものでもない。
 兎角、親関係に関する話題はご法度とまではいかなくとも、それは自分たちの中では避けるべき話題として暗黙のルールになっていたのは事実だ。

「蓮はどう思う?」
「ん……」

 そんな二人のやり取りを言葉を挟むことなく見つめながら、蓮が今その胸中に如何な思いを巡らせているのかは正直こちらにも分からない。
 ただ下手に口を挟むべきでも無いし、こんな時にそんな資格は無い。そう思っていたからこそ一弥はただ傍観に徹するのみであった。

「いいんじゃないか、仲良さそうで」
「だよねっ」

 他人の事だというのに、それを我が事の様に心から喜べる香純の姿を見るたびに思う。やはり彼女に自分たちにとっての良心なのだろうな、と。
 眼前ではホームシックがどうだの、香純の母親に会いたいかどうかなどで話題が盛り上がっているが、一方で一弥もまた自分の家族について考えていた。
 諏訪原に上京してきて以降、盆正月も蓮たちと一緒にこちらで過ごしマトモな帰省の一つもしていない程に親不孝だが、それでも気が向いた時などに電話でだが連絡を取り合う程度のことはする。こちらの近況、田舎の近況……そんな他愛無い程度の雑談を交わすくらいには何の問題も無い。
 だがそう思う一方で、極力家族との話を避けようとするのは……やはり自分だけがという負い目のようなものを感じずにはいられなかったというのも事実だ。
 特に、香純を目の前にしてはそれは尚更にと深まってもくる。

「ねえ一弥、一弥だってそんな事知らなかったよね?」

 急にそんな物思いに耽っていた最中だった、その香純から話題を振られて一体何の事かと状況も読めずに戸惑う一弥。
 彼が話を聞いていなかったことにやれやれと呆れた様子も見せながらも、しかし得意ぶった様子で香純が話題の説明をしてきた。

 何でも昔、香純の父親が蓮を養子にしようとしたのを香純の母親が猛反対したのだという。理由はそんなことをすれば蓮と香純が結婚できなくなるから。
 しかし蓮がそれに対して突っ込んだ言葉が迂闊だった。三親等以内の血族でも無い限り、養子だろうが何だろうが問題ないだろう、と。
 すかさずにこんな時だけ耳聡い香純はここぞと突っ込んだ、どうしてそんな事を知っているのか?
 蓮の返答、常識の範疇。香純の言い分、あたしもお母さんも知らなかった。
 わざわざ調べたのかどうか、そしてどうして調べたのかをしつこく訊く香純に対して蓮はマンガで知ったと言っているが、蓮があまりマンガなど読まないことは自分たちも良く知っている事実だ。
 ……まぁ、何だ。要するに香純が言わせたいことはアレなのだろうと一弥も予想は出来ていたが、あまりツッコミが過ぎると蓮相手にはヤブヘビになりかねないというのも理解していた。
 引き際くらい見極め、また五月蝿くならない内に場は治めた方がいいのだろう。蓮がもう少し素直にでもなってくれればこんな苦労はしなくても済むのだろうが……まぁそれにしたって今に始まったことでもない。

「ああ、それか。……それなら、俺が教えてやったんだよ」
「一弥が? 何で?」
「近親相姦に興味があってな。ボーダーラインがどの辺か気になって調べたんだよ」
「……この変態ッ! 不潔ッ!」
「うるせえな、人の趣味だ。とやかく言うな」

 自分が望んでいたものとはかけ離れ過ぎた返答に、まるで軽蔑するかのような視線と言葉で怒ってくる香純。無論、こちらは冗談で言ったのだが間に受けてしまったらしい。
 泥を被るにしても今回は些か不名誉に過ぎたな、そう思う一方で貸し一つだからなと視線で蓮へと告げるものの、何と蓮の方はと言えば知らぬ素振りであっさりと目を逸らしてしまった。
 ……この野郎、と思う一方でやはり自分の立ち位置などつくづく割りの合わないものだと身に染みて実感が出来たのも事実だ。

 だがそう思う一方で、やはり今の環境というのは実に心地良いと言うのも確かだ。
 いつまでも、こんな馬鹿馬鹿しくて下らない、そしてありふれたものに過ぎない当たり前の日常である退屈な日々、これがずっと続けば良いと心から思った。
 きっと今以上の幸せなんて、これから先にだって無い筈なのだから。


 そして少年の思うその思いは事実であり、そして抱く儚き願いが叶うべくも無いものだというのもまた事実だった。
 狂気が、もう間もなく辿り着くその恐ろしい狂気が、それを徹底的に打ち壊していく。
 日常が奪われる、幸福が破壊される。
 血で染まった絶望の、崩壊の夜が幕を明けようとしていた。



「……失敗したな」
 己の迂闊さ……というか間の抜けた物忘れにはウンザリともなってくる。
「課題終わらせるのを忘れてたなんて……馬鹿か俺は」
 子供の頃、遊ぶのは宿題を終えてからにしなさいと小学校の担任に言われたのを沢原一弥は思い返していた。
 まったくもってその通り……少々考え無しに浮かれすぎていた。
 明日には提出しなければ不味いレポート課題……蓮や香純がもう提出したのかどうかは知らないが、一弥はまだ提出していなかったが故に、こうして徹夜覚悟で仕上げねばならぬことになってしまったのだ。

「……しかもこういう時に限って、間の悪いことが重なるっていうか」

 ウンザリしたように溜め息を吐きながら一弥は握っていたシャーペンを静かに置いて呟く。「芯が切れた……」と。
 いったいどんな運命の悪戯か、神様は俺に絶対恨みとか持ってるだろうと思いながらも部屋中を漁るがシャーペンの芯のストックが見つからない。他のシャーペンにしても全て芯が切れているという意味不明な事態だ。
 いくらなんでもありえんだろう、そう笑いたくもなってくるのに笑えもしない事態。ああ、実に最悪というのはこんな現状なのだろう。

「……コンビニ、行くか」

 それしか他に選択肢が無い以上、ブツブツと渋っていても現状は改善へと転ばないのも事実だ。
 まさかシャーペンの芯を買いに行って件の殺人鬼と遭遇、殺される……などいというのはいくらなんでも笑えないので絶対に避けたい事態だ。
 お守りでも持っていこうか……交通安全と書かれたソレにどれ程の加護が備わっているかは不明だが無いよりはマシだろう。
 尤も、最近はその神から見放されているような気がしてならなかったのだが……。
 兎に角、覚悟を決めて出かける決意をして沢原一弥は財布とお守りをしっかり持った事を確かめながらドアを開いた。
 時刻は正に深夜。もう蓮も香純もとっくに眠ってしまっていることなのだろう。
 それを正直に羨ましい、そして妬ましいとも思いながら沢原一弥はアパートを出て近くのコンビニを目指して夜の街へと繰り出した。

 ……後に、この時ほど課題など放っておいてどうして眠っておかなかったのかと心底後悔することになることに、この時は露ほどにも気付くことすら無かった。



 殺人事件が市内で発生しようが、その犯人が未だ捕まっていなかろうが、コンビニの24時間営業というものは継続して行われている。
 人の深夜徘徊もめっきり減ってしまった現状では商売もあがったりだろうなという他人事そのものの考えを抱きながら、自分はその物珍しい客へとなっているわけなのだが。
 しかも買いに来たのがシャーペンの芯である。流石にこれだけ深夜に購入するのも店員から変な目で見られそうで嫌だったので目に付いた他の日用品なども合わせて購入した。
 まぁどちらにしろ、物騒な夜である。長居は無用という意識と恐怖が帰宅を逸らせる後押しとも相まって、コンビニを出て真っ直ぐに沢原一弥はアパートへと帰る心算であったのだ。


 ――そう、偶然にも“彼女”をその目で見かけさえしなければ……


「……香純?」
 思わず首を傾げながら自信なさげにそう呼んでしまったのは、こんな所にこんな時間にどうして彼女がいるのか理解できなかった為だ。
 しかもその足取りはふらふらと頼りなさげなまるで夢遊病者のソレである。寝ぼけている……? 否、それにしたって彼女がこんな深夜に外へ出歩くなど今まで無かったことのはずである。
 それに何より……

「……見間違い、だよな?」

 自分の声がそれを肯定したくて必死なほどに震えているのが嫌でも理解できた。
 先程見かけた香純らしき少女のあの姿――

 ――そう、まるで体に赤いペンキでも浴びたかのような鮮烈なあの色合い。

 市内の現状、そして先に見た光景……それらが一弥の脳裏に嫌な考えを瞬間的にでも連想させてしまったのも或いは無理からぬことか。
 だがそんなはずはないと、馬鹿げたその考えを否定するように一弥は必死になって強く頭を振る。
 まさか……まさか、そうありえない。
 香純がそうだというのも尚更なら、彼女にはそんな事をする動機だって無いはずだ。

「……違う。……絶対に、違う」

 香純ではない。香純であるはずが無い。そもそも、自分や司狼のような者ならばいざ知らず、無関係で何も知らないはずのあいつが……汚れることなんてあってはならない自分たちの良心がそんな馬鹿げたことをするはずがない。
 だから違う。あれは香純ではない。香純であるはずがない。
 何度も何度もそう頭の中で己へと言いきかせながら、それでも無意識の内にそれは真実を確かめんとせんためか……沢原一弥は綾瀬香純らしき少女の後を追いかけ始めていた。



「見失ったか……?」
 諏訪原市内の路地裏は場所によっては多分に入り組んだ迷路染みた部分もあるのだが、どうやら香純を追いかけ踏み込んだこの場所こそがそうなのだろうと一弥は思い至った。
 表通りの方ならばそれなりに道には詳しい……がここら一帯の裏通りともなるとジャンル違いで踏み込もうとも思わないということもあってか地理には明るくない。
 司狼ならばこういった場所ですら或いは詳しいかとも思ったものの……居ない奴の事を考えても今は仕方が無い。
 兎に角とやたら辺りを無暗に探し回るというのも危険なのかもしれないが、そもそも尾行だとかそういった経験も無い一弥にはセオリーも分からない。
 道に迷ってそれこそ迷子にでもなりそうな不安が無いわけでもなかったし、それこそ治安も余りよろしくないこの辺りをうろつくこと自体が危険なのかもしれないが、ジッと止まっているわけにもいかなかった。
 意を決して、一弥は路地裏の奥へと進んでいく。先程の彼女が香純ではない単なる見間違いだというその確証を欲さんとする為に。
 だが……

 どれ程うろつき回ったであろうか。黴臭く不気味とも言っていい狭くて暗い道を、進んできた方向だけは覚えながら前へ前へと進んでいく。
 香純はおろか誰にも会わないという事実、暗闇の奥底へ一人嵌っていくかのような状況に不安や恐怖が決してなかったわけではない。
 だがそれでも、一度始めてしまったこと、そして抱いた疑念を払拭しないことには安心もしようがないという事実から、なけなしの勇気を奮い立たせて進んでいた。
 それが不意に、全てを台無しにされる形で唐突に終了させられる。

「………え?」

 間の抜けた自身の呟きはやけにその空間ではハッキリと耳に出来た。
 狭い道を奥へ奥へと進んでいた最中に、不意に辿り着いた開けた空間。そこで目にした光景に理解が追いつかずにそんな呟きを漏らす他になかった。
 赤い……そう、赤くて紅い、真っ赤な光景。
 鼻腔をくすぐる鉄錆びめいて粘ついて不快な臭いと空気。
 転がっているのは自分とそう年の頃は大差ないであろう若者。ただ一点自分と違うところがあるとするならば、それは胴と首が切り離されているという部分くらいか。
 そう、不完全な形。忌むべきオブジェ。数日前に目にしたものと何ら変わらぬ焼き直し。
 首切り殺人のその現場。前と違うところが唯一あるとするならば……

「……か……すみ……?」

 自分の声が情けなく震えているのがハッキリと分かった。きっと鏡を見れば泣きそうな己の顔が写っていることだろう。
 どうしてだとか何でだとか、問い詰めたい疑問はいくらでも沸いてくるが、結局はその全てが湧き上がってくる激しい感情の渦でごちゃ混ぜになって、要領も得ない混沌としたものとしかならなかった。
 それでも……それでも、認めたくないこの事実の中でハッキリと分かる感情があるとするならばそれはたった一つだろう。

「……嘘、だよ…な………?」

 この現実――殺人現場に君臨するこれを作り上げた張本人と思わしき血塗れの綾瀬香純のその姿を、決して認めたくはないという悲しみだけだった。
 違う、こんなのは絶対に違う。認めない、絶対に認めない。
 何かの間違い……いや、きっとこれは現実なんかじゃない。
 夢だ。きっと性質の悪い夢……悪夢に違いないのだと、そんな逃避へと思わずにも走ろうとしたその瞬間だった。

「……あ、かずやぁ」

 正気なのかも疑わしい、いつもの意志の強い光もまるで見えない虚ろな瞳がこちらへと振り返り、それを真っ直ぐに見据えながら呟く。
 いつも呼んでくれている自分の名前を。口許を見ているだけで不快になってくるような歪な形に歪ませながら、こちらの名前を呼んでくる。
 こんな彼女の姿は嘘だ。見たくは無い……決して、決してあってはならぬはずの姿だ。

「……香純、嘘だよな。これ……何かの、間違い……」

 思わず駆け寄りたい衝動をグッと押さえ込みながら、次から次へと溢れ出てくる感情に思うように言葉が紡げず、どもりそうになりながら、それでも精一杯に一弥は血に塗れた香純へとそう問いかける。
 こんなものは何かの間違いだと、違うのだと、その一言さえ言ってくれるならそれでいいと思った。
 彼女が自分ではないとハッキリ言ってくれるなら、例え彼女以外にはこの光景を作り上げた存在がありえなかったとしても、自分は違うと信じよう。
 彼女の味方として、彼女を護る為に、彼女を信じ続けよう。
 だからお願いだ。頼むから……本当に、お願いだから「嘘だ」と言ってくれ。「違う」と言ってくれ。
 そう言ってもらわないと……俺は……

 しかし泣きそうな顔で必死に嘆願する一弥とは打って変わって、赤に染まった香純はただその虚ろな表情のままゆっくりと一弥の方へと近付いてくる。
 その血に染まった手を、掲げるようにこちらへと向けながら、まるで何も感じていないかのような目のままに段々とこちらへと近付いてくる。
 彼女が何をする心算なのか、自分をどうする心算なのかも一弥には分からなかった。
 否、どうでもよかったと言った方がいいのかもしれない。信じられない絶望に麻痺しきった頭では、もうマトモな思考だって形成できてはいなかった。
 彼女が自分を殺すはずがない……そんな都合のいい馬鹿げた考えに縋っていたわけでは決して無い。むしろ尋常ならざる彼女の様子ならば、自分もまた殺されたとしてもおかしくないとすら分かってもいた。
 死にたいと思っていたわけではなかったが、しかし恐怖に駆られて逃げようという選択肢もまた頭の中に浮かんでこなかったのも確かだ。
 ただただ目の前の現実が認められずに、これが無理矢理にでも都合の悪いだけの悪夢だと思って夢から覚めてほしいと逃避したかったのだ。
 だからこそ、近付いてくる香純の動きに合わせるように自分もまた誘われるように彼女へと近付いていく。
 距離を縮める……五メートル……四メートル……三メートル。
 段々と距離を詰めていく中で、チリチリと肌が粟立つ様な感覚は、或いはこれから我が身を襲う脅威に敏感に反応した無意識による警告だったのかもしれない。
 だが沢原一弥はそれに気付かず、否、無理矢理にでも無視して香純の元へと近付いていく。彼女に手を伸ばすために。手を掴んでこんな相応しくない場所から彼女を連れ帰る為に。
 だから一歩、もう一歩と近付いてくる彼女に合わせて自らも距離を詰めていき――

 一メートル半。それが今の彼女の斬首の間合いであることにすら気付かぬままに踏み込む。
 瞬間、相手が十年以上の長い時間を連れ添って来た大切な友人だということも気付かずに……否、“使命”に支配されている今の彼女にとってはそれすらも歯牙にかける必要も無い、躊躇うことすらも無い些事なのか。
 確実に一つだけ分かることがあるとするならば、この瞬間、綾瀬香純は沢原一弥へと躊躇うことなく斬首の刃を解き放った。
 当然、常識の枠外に存在する理外の力、不可視たるソレに気付くはずも無い一弥では防ぐことも避けることも出来るはずもなく。
 首狩りの刃は狙い違わずに真っ直ぐに彼の首へと迫り――



「――それ以上踏み込むと、あなた死ぬわよ」



 不意に、後ろから尋常ならざる腕力と勢いで思い切り襟元を引っ張られ強制的に引き戻される。
 刹那の瞬間、それがあと少しでも遅れていれば確実に沢原一弥の首は胴体とは繋がっていなかったことだろう。
 本人自身も気付きもしていないことではあったが、強制的に斬首と言う運命を覆されたその事実……不意打ちによる力技に理解が追いつく暇も無いままに、引き戻されそのまま倒れこむように尻餅をつく。
 引っ張られて後ろ向けに倒れこむ彼と入れ替わるように、交差して前へと出て行く一人の人物。
 印象的な艶のある漆黒の長髪に、鼻腔をくすぐる覚えのある香水の匂い。

『ライオンハート――ユニセックスだね。凛々しいって感じかな』

 脳裏に過ぎったのはあの日不意打ちでそう言ってきた氷室玲愛のその説明。
 ああ、確かにコレには覚えがある。この匂い、この感じ……あの時に感じた本能的な違和感と恐怖、時間は随分経った筈なのにまだ忘れていない。
 もう二度と会うこともないだろう……そう思っていた、否、或いは本能的にそう願っていたその対象との予期せぬ再会。

「……あんたは……?」
「死にたくないなら、大人しく下がっていなさい」

 こちらの呆然とした呟きに答えるように、否、これは鬱陶しいから遮ろうとしているだけなのであろうビシリと突きつけるように言ってくるはっきりとした鋭い声。
 見かけからしてそうなのだろうが、身に纏うその雰囲気とも合わさってそれが相手からのこちらに対しての明確な拒絶の意思だと言うことは直ぐに理解できた。
 何故彼女がこんなところにいるのか、そもそも何を言っていて何者なのか、それら全てが分からぬままに本能的に感じたことは一つだった。

 きっとこの少女は自分にとってとても良くないモノだ。

 それが誤魔化すことなくハッキリと抱くことの出来た、沢原一弥の再会したその少女への正直な印象であった。



 何故、助けたのか。
 自分でもそれを行った明確な意味……それを櫻井螢は掴みかねていた。
 眼前の少女――恐らくはこのシャンバラで話題沸騰の連続殺人鬼なのだろう――の凶行。
 偶然、と本当に呼んでいいのかは分からないが狩りの現場の目撃とその凶行の次なる場面への立会い。
 あのまま放っておいたならば、この少年は確実に少女が振るうその不可視の凶刃によって何人目になるのかも不明な犠牲者へと連なっていたことなのだろう。
 別に助ける必要も、義理も義務も何も無かった。見殺しにして放っておいたとしても何らそれは螢自身のデメリットとなるものではない。むしろ無関係で余計な目撃者の始末ともなり都合も良かったはずだ。
 エイヴィヒカイトを少女が振るった以上、眼前のこの少女こそがツァラトゥストラ……自分たちが追いかけていた獲物であることは間違いないはずだ。彼女の餌が増えてしまうことを案じてそれを防ごうとしたという意図があったわけでもない。
 見たところでも活動位階、喰らった魂の量すらたかが知れている脅威にも満たない存在の糧が一つ二つ増えたところで大差は無いはずだ。気に入らないベイの言い分に則っても、このシャンバラで人が何人死のうが彼女にとっても知ったところではない。

 ……ならばこそ、どうして助けた?

 チラリと後ろで無様にも尻餅をついている少年の姿を確認する。
 先程の教会で、聖餐杯たちの晩餐に招かれていた客人ではあるものの、別にそれ以上でも以下でも無い普通の人間だ。無論、顔見知りであるはずもない。
 何ら縁も無い同年代であろうと言う部分しか特に思うことも無い少年。その姿にしろ雰囲気にしろ、平和ボケしたこの国の若者らしいと言えばらしいだろう。
 何ら感慨を抱く必要性すらない、眼中にもないムシケラと言ってもいいような存在だ。
 だからこそ自らでも首を傾げたくなる、こんな見るからに危険と分かる相手に間抜けにも何やら無防備に近付いていた馬鹿をどうして自分は助けてやらねばならなかったのか。

「……まぁいい」

 それはしかし後でも考えられること。今はそんな小事に感けている場合でもない。
 そんなものよりももっと優先せねばならない、散々探し回った獲物の発見……こちらこそが最重要で優先されるべき事柄のはずだ。
 螢はそう思いながらその視線を少年から真正面の少女の方へと戻す。血に塗れ、ハッキリとしたこちらへの警戒も顕にするその姿を逃さぬようにしっかりと捉え直した。

「はじめまして、で良いのかしらね? ツァラトゥストラ」

 我らが聖槍十三騎士団副首領メルクリウスが此度のシャンバラの儀式の為に用意したという代替。
 ベイやマレウスが血眼になってまで探し続け、潰すことに執着しきっている対象がまさか自分と歳も変わらぬ少女であったということは正直に意外だと思った。
 師の見立てではあの少年であるかのようでもあったが、あの男が読みを外すというのも珍しいことだと思う。
 まぁどちらにしろそれもまた今はどうでもいい。まずは折角に見つけたこの獲物、今宵こそ逃がさぬようにしっかりと捕縛するだけのこと。

「あなたに直接的な恨みは無いけど、抵抗する心算なら少々手荒い扱いになるだろうから覚悟はしておいてね。……まぁ、ベイやマレウスよりはマシだと――」

 そんな紡ぐ螢の言葉を遮るように少女が唐突に動いてくる。
 はした魂を食い漁った程度とはいえ、それなりの強化はされているのだろう。素人に毛の生えた程度の活動位階の動きではあるが、それでもそれは常人を優に上回るには充分過ぎる速さと切れがあった。
 何かしらの武術の類でも修めているのか、問答無用で間合いを詰めてくるその動きは螢の目から見てすら中々に様になっていた。
 副首領と直接的な面識の無い螢には彼女が所有している聖遺物が一体何であるのかまでは判別できない。だが薄っすらと感じられる右腕に備わっているソレは、先の攻撃とこれまでの狩りのやり口から鑑みても凡その見当は付いていた。
 それに師がかつて言っていた言葉もまた不意に思い出していたという理由もある。
 即ち――

 ――ツァラトゥストラとは黄金の獣の下僕たる自分たち騎士団員、そのことごとくを処刑する為だけに用意された駒であるということ。

 血塗られた斬首の執行人。呪われた化物を狩る為に生み出された呪われた化物。
 振るうその得物はならば一つ、それは容易にも想像が付く処刑器具。

「――断頭刃。血塗られたギロチン」

 その正体を推し量る一言を呟いたのとほぼ同時、尋常ならざる速度で間合いを詰めた少女から自身の首を目掛けて放たれる不可視の刃。
 しかし常人では視認不可能なソレも、同じ聖遺物の使徒たる彼女の目には捉えることもまた可能。
 螢が見てすら惚れ惚れする綺麗な軌跡を描きながら迫ってくる刃、それを彼女もまた活動状態の己が聖遺物を持って弾く。
 金属同士の激しくぶつかる甲高い音と舞い散る火花。光の極端に薄いこの路地裏の奥でそれに照らされながら、眼前の殺人鬼は初めて防がれたのであろう己が刃の不発に動揺が走っているのは明らかだった。
 これが副首領の代行と言うにはあまりにもお粗末と思わなかったわけでもない。だが事情は知らぬが、幼少時よりこれを呑み殺戮に明け暮れた自分とは違い、所詮は即席の素人に高望みを抱いても仕方が無い。
 ベイやマレウスのように過剰なまでの副首領に対しての嫌悪感も無い螢は、だからこそ己が慈悲と思うやり方で早急にケリをつけることにした。
 今まで絶対を誇っていたのであろう斬首の刃、それが防がれたことが余程にショックだったのだろう。我武者羅に次々と活動状態の刃をこちら向けて叩きつけてくるがそんなものが通用するはずも無い。そのことごとくを弾き飛ばし、今度は自ら間合いを詰めた螢の拳が容赦なく少女へと叩き込まれる。
 所詮は活動位階でしかない少女と創造位階まで上り詰めている螢とでは積み上げた経験も、保有する力の総量も段違いだ。同じ活動状態であろうとその拳の威力は容易く相手の防御を上回る。
 叩きつけられた拳に直撃し、吹き飛ばされた少女が壁へと思い切りぶつかったが、この程度で決着がつくほどに易くない程度の相手であることは承知の上。
 故にこそ、間髪入れずに追撃する拳と聖遺物の一撃を持って行動不可能になる程度のダメージは叩き込む。
 そう思って蹲った状態から立ち上がろうとする少女へと間合いを詰め、拳を振り下ろそうとしたその瞬間だった。

「――香純ッ! 逃げろッ!」

 突如、背後から叩きつけるようなタックルを浴びせられそちらに対して意識が逸れる。
 常人の攻撃程度で揺らぐはずもなく、ダメージどころか一ミリたりとも動かされたわけでもなかったが、それでも螢が思わずに隙を許してしまったのは少年の突然のその予期せぬ行動があったからこそ。
 ……何故いきなり、よりにもよって自分が助けなければ殺されかけていた少年が自分の邪魔をしてくるのか。
 鬱陶しさと苛立ち、不意に邪魔を入れてきた横槍に不快も顕にしながらしがみ付く少年を振り払おうとしたその瞬間だった。

 迂闊、という言葉が珍しくも脳裏に走ったのは事実。
 たとえ取るに足らぬ、実力差も開ききった活動位階に過ぎぬ相手とはいえ、それでも同じ聖遺物を扱う使徒。
 しかも仮にも特別とも名高い副首領の代替として用意された存在だ。
 窮鼠猫を咬む、鼬の最後っ屁であろうとも油断していれば何が起こるかも分からぬのが戦いというものだ。
 それを証明するように、蹲っていた少女はこの瞬間の隙を突くように立ち上がると同時にその刃を乾坤一擲と化してこちらへと叩き込んでくる。
 反応に遅れたのは魔人に堕ちて以降、身に降りかかる脅威の類があまりにも少なかった油断があったというのも事実だ。
 咄嗟に聖遺物で防ごうとするのも間に合わず、その一撃は螢に直撃し、彼女の防御を上回ってその身を捕まえていた少年ごと叩き飛ばした。

 ――量が質を圧するなどということが通るばかりではない。

 かつて得意気に師が説いていたその言葉を思い出したのは、たかが知れたと侮った相手の聖遺物の思いもしていなかった威力に手傷を負わされたが故にか。
 どちらにしろ、弾き飛ばされ距離が離れ、体勢を崩してしまったというのも事実だった。
 その一瞬の隙を突くように、相手は動く。更なるこちらへの追撃――

 ――ではなく、それは反転した逃走だった。

 初動の遅れと開いた距離、そして地理に明るくない不慣れな地形が相手の追い風となってしまったのもあった。脱兎のごとくに逃げ出した相手を逃がさずに追走しようにも振り切られ、結果的には逃げられることとなってしまった。


 取り逃がした路地裏の最中で、失態に沸き立ってくる苛立ちを押さえ込むことにそれなりの労力を有したのも事実だった。
 だが取り逃がしてしまったものは仕方がない。深く呼吸をすると共にその苛立ちを体外へと吐き出しながら、その事実を受け入れた螢は追ってきた道を戻る為に歩き出した。
 まだ後始末が残っている。それを果たしておかないわけにもいかなかった。



 香純が危ない。
 少女の正体だとか自分が殺されかけただとか、そういったもの以上に、否、それすらも些事と思わせるほどに無意識にも沢原一弥の体を動かしたのはその事実だった。
 大切な幼馴染み、自分が護り支えてやらなければならない贖罪の対象。
 彼女だけは傷つけさせない、泣かさない、悲しますようなことは許さない。
 ただ只管に、それだけは譲れないものとして構築されてきた十年以上にも及ぶ関係が、彼を動かしていた。
 正直、眼前の少女たちが何をやっているのか、そのことごとくが理解の外であり訳も分からなかったがそんなことも関係ない。
 或いは先の瞬間に命を救われていたのかもしれないが、たとえ恩知らずと罵られようともそんなものは関係ない。

 ただ、彼女を傷つけるような事態は絶対に認めないし許さない。

 だからこそ飛び出した。押し倒して香純の逃げる隙を作ろうとラグビー選手のようなタックルを見よう見真似で叩き込んだ。
 結果的に、その細身の体を微塵も揺るがすことも出来なかったという事実はショックであり驚愕をも抱いたが、そんなことも無視して精一杯に叫びを上げた。

「――香純ッ! 逃げろッ!」

 おまえはこんな所にいてはいけない。こんなものに関わっちゃいけない。
 自分でも言ってただろう? どこかで見たような王道で、先が読めるけどその分安心。そんな人生の方が振り返ってみたら楽しいって。
 ちゃんとそれを歩めよ、幸せになれよ。おまえは……おまえだけはちゃんと幸せにならないと駄目なんだ。
 おまえと蓮だけはちゃんと幸せにならなくちゃいけない、させなければならない。
 ずっと抱いてきた使命感にも等しいそれが一弥を動かし、彼女をこの場から逃がそうと必死に抗う。
 彼女をこの場から逃がすまで、彼女を狙っているこの少女だけは決して離さない、と。
 力づくで引き剥がされようとするのを、噛み付いてでも必死になって抗おうとしていたその瞬間だった。
 しがみついていた少女の体が吹き飛ばされるように、香純から距離を取って飛んでいく。
 当然、一弥もまた彼女を掴んでいた以上、それは同様。むしろ背中から尋常でない速度で吹き飛ばされ叩きつけられる少女の下敷きになってしまいむしろダメージが大きかったほどだ。
 全身に走った激痛と衝撃に顔を苦悶に歪ませながら無様にのたうつ自分自身に、先程死んでも離すものかと決意した意気込みは何処に行ったのか本気で情けなくなってくる。
 動けない自らの視界の端では、あんなに足が速かったのかと思わずに驚いてしまうような速度で、香純がこの場から脱兎のごとく逃げ出していくのが確認できた。
 それに安堵を抱いたのも束の間、起き上がった少女が香純を逃がさないというようにその後を追っていく。
 追わせるかと思って邪魔をするため立ち上がろうと力を込めるも、ダメージが抜けきっていないのか、思うように立ち上がれなかった。
 漸くに、一弥が立ち上がることが出来たその時には、既にその場には自分と首を刎ねられた死体以外の何も残されてはいなかった。




 逃げる、逃げる、逃げる。
 思考の端に次々に上り、実行するべき行動はそれだけだった。
 今はただひたすらに逃げるしかない。狩人から獲物へと、狩る側から狩られる側へと転落したその屈辱の事実を噛み締めながら、それでも彼女は自らに敗走を科すほかには無かった。
 鬼だ、鬼がきた。狩人たる自分を狩るものが、本物の魔人たちが遂に目の前に現れた。
 まったくに相手にもならなかったという現実、開きの有りすぎた絶望的とも言える実力差に、湧き出てくる震えを抑え込む事も出来ない。
 あれは強い、あれは怖い、あれは危険だ。
 勝てない、そう本能的に思わせるほどに、戦意を根こそぎから叩き折られかねないほどに圧倒されながら、それでもそれを仕方が無いと思わせるほどの敗北感を抱かさせられずにもいられない。

 ……仕方が無い?

 疾走し逃走を図る最中に無意識にも抱いていたその感情に、しかし彼女は瞬間的に思い留まる。
 仕方が無い?…………違う、そんなことはない。
 そんなことあっていいはずがない。許されていいはずが無い。
 そのような諦め、敗北主義を抱くことなど己には許されない。
 当然だろう、何故なら自分は――

「――を護らなきゃ」

 走る最中にポツリと呟いた事実が示すその通りに、その目的が、誓いがある限り、そんな無様な考えがまかり通っていい道理は彼女の中にはない。
 護らなければならない。強くしなければならない。決して死なせるようなことはあってはならない。

 “彼”を自分は絶対に護らなければならないのだ。

 その為には殺されるわけにもいかない。だから今は逃げる。無様だろうがみっともなかろうが、そんなものは一切関係ない。
 プライドなど捨ててしまえ、そんなものより優先すべきものが自分にはある。
 だから、それを護り通す為に逃げ続ける。逃げ続けて、更に強くならなければならない。
 “彼”を強くする為に、“彼”を護る為に、“彼”の敵を殺す為に。
 そう、殺さなければ……殺さなければ“彼”を護れない。
 あいつらを、あの化物どもを殺す為にはもっと強くならねばならない。こんなものでは全然足らない。それは先程、身をもって教えられたばかりだ。
 だからこそ、だからこそ強くならねば、強くなってあいつらを殺す……その為に必要なモノは何だ?

「……まだ、足りない」

 そんなものは決まっている。分かりきっている。知り尽くしている。
 だからこそ、毎夜毎夜、“彼”が寝ているその内に自分はそれを行ってきたのではなかったのか。
 つまりは殺人……もっと正確に表すならばその魂の収集。
 殺せば殺すほど、魂を溜め込めば溜め込むほど、自分は強くなれる。“彼”を強くしてやることが出来る。
 だからもっと殺さねば、魂を集めなければ、今のままでは全然足らない、不足している。
 あの化物どもには全然届かない。勝てない。このままではいけない。

「……足りない……足りない……全然……足りないよ」

 ぶつぶつと呟く自らの言葉はこの現実を如実に物語っている。
 だからこそ彼女は、追っ手を撒いた事を確認した後に立ち止まり、その視線をある方角――海浜公園の方へと向ける。
 最近はめっきりと減ってしまった深夜徘徊者たちではあるが、まだあそこになら獲物はいるかもしれない。
 本来ならば、もう今宵は大人しく帰還した方が或いは賢明であるのかもしれない。化物どもが一人ではない以上、奴らの仲間と遭遇するリスクもあった。
 けれどそれでも、リスクを犯してでも、今は一匹でも多い獲物の収穫……魂集めを行うべきだという思いが勝った。
 このままではジリ貧、こちらを追い詰める狩人どもに仕留められるのも時間の問題という危惧もあったが故に。
 せめて……せめて、自分が奴らに狩られるそれまでに一つでも多くの魂を集めて“彼”を強くしてやる為に。
 狂気に染まった無償の使命感に突き動かされながら、それが“彼”を護ることに繋がることなのだと心から信じて、彼女――殺人鬼、綾瀬香純は次なる獲物を求めて夜の街を駆け出した。



[8778] ChapterⅡ-7
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2009/09/10 21:51
「……追いかけてきたの?」
 そう呆れたように櫻井螢が呟いた理由は、来た道を戻りかけていた途中にて、バッタリと先の少年と遭遇したが故にだった。
 自分かそれとも取り逃がした先の少女か……どちらを追いかけてきた心算かは知らないが、行動そのものが安直且つ迂闊過ぎるだろうと思わなかったわけではない。
 少年が何故あの少女を必死に助けようとしていたかは知らないが、あの少年は少女にとってただの獲物でしかないであろうというのは先の一件からしても明らかだった。
 にも関わらずこうして後を追いかけてきたという相手の奇行。彼女からしてみれば首を傾げるには充分であり、同時に手間が省けたと言うのもまた事実だった。
 螢にしてみてもあの場面で邪魔をされたという事実や、不用意な目撃者は消してしまった方が良いというような理由から、少年を殺すべき理由は幾らでもある。
 要するに、

「わざわざ殺されに自分からやって来るなんて、あなた随分と物好きなのね?」

 こちらが言ったその言葉の意味を察したのだろう、バッタリと出会い、立ち止まり対峙していた直後から見せていた少年の緊張と警戒は更に強張ったものへとなっていく。
 別に相手が警戒しようが逆に無抵抗であろうが彼女自身には関係無い。やろうと思えば次の瞬間には造作も無く相手を殺せる自信が彼女にはあった。
 だからこそだろう、やろうと思えば直ぐにでも出来たというその理由があったからこそ、自分にしてはらしくもない戯れへと何の気の迷いからか興じてしまったのは。

「私、櫻井螢。よければそちらの名前も教えてもらえないかしら」

 戯れに、少しこの少年と話をしてみるのも面白いかもしれない。そんな事を思っての唐突な名乗りだった。
 しかし少年の方からしてみればやはりこちらへの警戒は解けないのだろう。一瞬拍子抜けした表情を浮かべながらも、直ぐにそれを改めた面持ちへと戻しながら、しかし決して名乗ろうとはしてこない。
 素性がばれるような情報を提示しない心算なのだろう……間の抜けた行動を取っているような頭足らずの割にはその辺りはしっかりしているらしい。
 いや、狩られる側である場合が大多数である小動物の方が自身の危機に対しての警戒度は強いとも言うし、この少年はそれに当て嵌められるだけかもしれない。
 まぁ別に良い。所詮は戯れ、是が非でも引き出すような情報の類と言うわけでもない。

「じゃあ話を変えようかしらね。……ねえ、あなたは何が目的なの?」
「……目的?」

 螢の次の質問に対しては、今度は沈黙ではなく問い返すという反応を示してきた。
 どちらかと言えば、それは質問の意味が良く分かっていないといった様子であるようだった。

「そう、目的。わざわざ殺されるのが分かりきっているのに自分からこちらを追ってきた。正直、私からすれば理解が出来なくてその意図を測りかねているのだけど」
「……別に、おまえを追っかけてきたわけじゃねえ」
「私じゃなくて彼女の方だとしても結果は同じでしょう?……まさかとは思うけど、さっき自分が彼女に殺されかけてた事にも気付いていないのかしら?」
「…………」

 沈黙で誤魔化している心算なのかもしれないが、強張った表情が答を雄弁に物語っている。顔に正直に感情が出るタイプには駆け引きも賭け事も向いたものではない……そんな典型的なタイプであるようだ。
 まぁそれもどうでもいいか。兎に角、先の少女に自分が殺されかけていたという事実くらいは気付いているようだ。
 ……だがそれならば逆に、尚の事解せぬと思える部分もあった。

「彼女はあなたを殺す気だった、そしてあなたは彼女に殺されかけた。……ねぇ、だったらあなたはどうして彼女を助けようなんて行動に出たの?」

 どうして私の邪魔をしようとしたのか、それは先の一件についての糾弾とも同じだった。
 あそこでこの少年が邪魔さえしなければ、あの少女を取り逃がすようなことはなかった。
 新参者で外様である螢からしてみれば、黒円卓にて面白くも無い汚点を作らされた原因がこの少年にあるわけだ。
 表面上は冷静でありクールを気取っている彼女だが、内心では少年に対してそれなりに腹立たしい思いを抱いていないというわけでは決してない。
 八つ当たり……とも違うが、腹いせの報復に問答無用に殺してやろうと思うほどに狭量ではないが、それでも今生かしてやっている理由とて所詮は一時の戯れ。
 問いの返答次第では殺してもいいか、そんな風に思っていたというのも事実だ。
 そんな自らの命の瀬戸際だと言う自覚があるのかないのか、正直、次に少年が答えてきたその返答は螢にとっては予想の範疇を超えたものだった。

「……それが、俺のやらなきゃならない事だったからだ」


 ――それが、私のやらなければならないことだから。

 それは彼女の誓い。十一年前、人から魔人に堕ちる覚悟を抱いて尚も揺るがせなかった櫻井螢が櫻井螢であるための誓い。
 忠誠という黒円卓に、黄金の獣へと捧げた偽りのソレとは違う、櫻井螢にとっての果たさねばならない反故には出来ない本当の誓い。
 何故だろう、言葉のニュアンスが似ていたせいという理由なのではあろうが、それでも眼前の少年と十一年前の己の姿が被って見えてしまったのは事実だ。

「――――」
「……何だよ?」
「……いいえ、何でもないわ」

 虚を突かれたといった様子が顔に出るのを押さえ込めていなかったのだろう、こちらを見て怪訝そうに首を傾げる少年に、瞬時に取り繕った仮面を付け直して何でもないと首を振る。
 ……まったく、つくづく理解し難い。
 それが眼前の少年へと櫻井螢が抱いた正直な認識である。
 そしてそれは同時に、この相手の処遇をどう扱ったものであろうかという迷いでもあった。
 ハッキリ言ってしまえば殺してしまっていいだろう。むしろ目撃者を出さない為にも、自分たちに都合の悪い行動を取られないようにする為にもそれが一番効率的だ。
 ……尤も、見るからにもただの学生のようであり、司法機関の人間でもなさそうなら自分たちに敵対する何らかの勢力の者と言う訳でもないだろうというのは明らかではあったが……。
 そんな敵にも劣る雑魚、否、それ以下のムシケラと言って良い様な相手に一々感けている暇もないのも確かだ。こう見えて忙しいのだ、自分たちは。
 なればこそ尚の事、後腐れも無いようにこの場で直ぐに殺してしまった方が賢明だろうとも思うのも当然のこと。
 だがその一方で先の少女……ツァラトゥストラとこの少年が知り合いである様子なのも間違いないと言うのも事実だ。
 ツァラトゥストラを釣り上げる餌……正直、先に殺されかけたところを見る限りではそんな都合の良いモノにすらなりそうにないのだが。
 むしろこれから彼女を狙おうとする時に、再び邪魔をしてこないとも限らない。……否、この様子だと間違いなくそうするだろう。

「……利用価値も無い目障りなだけのムシケラ、か」

 ポツリと呟いたこちらの言葉に、それが自分を指して言われていることだとちゃんと理解しているのか、正直、そうであるようにも見えない。
 やはり始末した方が良いだろう。そう結論を傾けさせながらも、期待などしない一応と言った様子で螢は最後に少年へと事務的に問いかけていた。

「一応聞いておくけど、さっきの少女……香純、だったかしら? 彼女について私が尋ねたとしても正直に答えてもらえる?」
「――ッ!? お断りだッ!」

 予想通り、まぁ最初から期待すら抱いていなかった結果なだけに落胆もない。
 むしろ、先程に迂闊にも少女の名前を叫んでしまっていたことに漸くに気付いたようである。ベイやマレウスならばこの少年のような者を見れば間違いなく、間抜けの劣等と嘲笑うことなのだろう。
 同じ日本人という意識があるから彼らのように嘲笑わないというわけでもないが、どちらかといえば嘲笑と言うよりも呆れの対象であると言った方がより近い。
 さて、戯れもそろそろ充分だろう。今夜はもうツァラトゥストラの発見は無理かもしれないが、あまりベイやマレウスから目を離したままでいるのも色々と問題である。彼らと合流しに向かった方が良いだろう。
 そう結論付けたからこそ、さっさと済ませてしまおうと会話を打ち切って行動に移ろうとしたその時だった。

「……おまえ、アイツをどうする心算だ?」

 こんな時になって向こうの方から今度は問いかけてくるなど……無視しても別に良かったのだが、未だ戯れからの切り替えが自分で思っている以上に出来ていなかったらしい。

「さあ? 別に正直に答えてあげる義理なんてこちらにもないと思うけど」
「……アイツを傷つける心算だっていうんなら、許さねえぞ」
「…………」

 ……許さない、か。
 それはいったい誰に向かって、どのくらいの力と覚悟を持って言っている心算なのだろうか。
 ハッキリ言って―――――不愉快だ。
 何の力も無い、口先だけの無力な、それこそ黄色い劣等の身の程知らずな喚きごと。
 理不尽に奪われるということも経験などしたこともないだろう甘ちゃんの戯言。
 目障りで耳障り……ああ、見ていると聞いていると苛々してくる類のものだ。
 こんな弱者の妄言になど付き合ってやる義理も無い。
 なればこそ、やはりこういう輩にはハッキリと教え込んでやらなければ気が済まない。
 だから――

「そう、じゃあ――――あなた、死ぬでしょうね」

 ハッキリとそう告げて少年から背を向けて歩き出す。
 先程の決断とは打って変わった真逆の選択と行動。
 少年にしてもこちらの行動が思っても見なかったことだったのか、背後からまだ呼び止めるような声をかけてくるが応えてやる義理も無い。
 それでも一度だけ足を止め振り返ったのは、告げてやるべき言葉がまだ残っていたためだ。……そう、大事な言葉が。

「今夜みたいな事をまたする心算なら、あなたは次こそ造作も無く殺される」

 それが自分の手によるものか、或いはベイかマレウスか、別の誰かかもしれない。
 ……ひょっとしたら、その彼にとって護るべき対象の少女に手による可能性だって大いにある。
 だがどちらにしろ、そんなことはどうでもいい。
 櫻井螢がこの甘ったれた少年へと告げたいことはそんなことではない。大事なのは――

「大言を吐こうがあなたは所詮無力な人間。きっと何も出来ないまま全てを奪われ、殺されてそれで終了。……きっとその様は、大層滑稽なんでしょうね」

 だから今は殺さない。
 精々場違いなジャンル違いとして、無様に滑稽に足掻けばいい。
 どうせ何の力も無いこの少年には何も出来ない。無様に奪われ、己の無力を呪いながら死ぬしかない。
 この捧げられた狩場たるシャンバラに、怒りの日の贄へと選ばれた人間の一人としてその運命を全うする他にないのだ。
 力も無いくせにほざく言葉のなんと滑稽であることか……それをハッキリと自覚し、絶望を抱いた時に、縁があれば自分が殺してやることにしよう。
 だから精々それまで――

「――私を失望させない程度に、無様に足掻けるようなら足掻いてみなさい」

 それこそがこの少年の、与えられた役割とも言うべきものだろう。
 そう告げながら、櫻井螢は少年へと背を向けて今度は振り返らずにこの場を歩き去っていった。



 言いたいことだけ一方的に告げて、さりとてこちらに反論させるような猶予も許さぬままに櫻井螢と名乗った少女は目の前から立ち去った。
 正直、対峙している最中ですら生きた心地がしていなかったのが、最後の方の彼女の様子には思わずゾッとして後ずさり、怯まずにもいられなかった。

 ――アレは危険だ。

 遊佐司狼のようなある程度分かりやすい人種とは別のベクトル……否、次元違いのヤバさだ。
 沢原一弥の本能へと警鐘を鳴らした、生物的な天敵とも言えそうな、逆立ちしても抗えない理不尽な暴威。
 明確な害意こそこちらには向けてこなかったが、きっと牙立てる対象としてこちらが認識されれば造作も無く殺されるであろう確信が一弥にもあった。
 ……それが分かっていたからこその、あの最後の言葉だったのかもしれない。

「……ッ! 畜生……何なんだよ、あのジャンル違いはッ!?」

 苛立たしげに足元の小石を蹴り飛ばしながら、訳も分からず思わず毒づかずにもいられなかった。
 あの女といい香純といい一体何がどうなっているのか、これは本当に現実なのか。
 悪い夢であるならば醒めてほしい……希薄に感じる現実感と共にそう願わずにもいられないが、一向にこれが夢ならば醒めるという兆候もない。
 最悪だ……実に最悪で、どうすればいいのかも分からぬ事態だった。

「――そうだ! 香純!?」

 先の櫻井とかいう女とのやり取りに時間と気を取られて失念していたが、何よりも優先すべき幼馴染みの少女の事をハッとなって漸く思い出す。
 今は彼女を探さなければ。探して……いったいどうしてしまったのか、その理由を問わないといけない。
 あれは一体何だったのか、本当にこの諏訪原市を騒がしている首狩り魔は彼女なのか。
 認め難い現実ではあるが……それでも、彼女が本当にそうだと言うのなら。

「……護らなきゃ」

 護らなければ、彼女を護らなければならない。
 彼女自身が犯してしまった罪から。
 殺人鬼を血眼になって追っているであろう警察から。
 ……そして、得体の知れないあの女から。
 綾瀬香純を害するであろう全ての存在から、彼女を護らなければならない責任が沢原一弥にはあった。
 だからこそ走り出す。立ち止まってはいられない。
 アパートに戻ったのか、それともまだ夜の街を彷徨っているのか。
 どちらにしろ、今は彼女を探さなければ、護らなければならない。
 それが自身の贖罪だという使命感に駆り出されながら、沢原一弥は綾瀬香純の姿を求めて駆け出した。


 日常を狂わせ破壊する狂気、夜がその深さを益々に増す一方でそれもまた止まることなく加速し続けていた。




 そうして、首は切断される。
 ぐるんと回って、ガチリと再び挿げ替えられた頭部と意識と共に、藤井蓮がその目に捉えたのは鮮烈な赤。
 血の海……そしてそこに転がる惨殺死体。
 斬首によって首を刎ねられ……それどころか五体までもが引き裂かれた者の末路。不恰好なオブジェが彩る日常から乖離した忌むべき光景。

 ……これは、何だ?

 先程まで見ていたビジョン。夢遊病者のようにさ迷い歩きながら、自分が自分でないように、けれど自分が目にしているとしか思えない生中継。
 殺人の実況を夢として見続けていた結果としてこの光景があるからこそ、尚更に藤井蓮は自身が嫌悪し否定していたはずのその可能性へともう一度至らずにもいられない。
 即ち――

「……俺が、やった……のか…………?」

 呆然と、違うと本来ならば全身全霊を持って否定を示したい。
 だがこの場に自分がいるという事実、目にした映像と結果たるこの惨状。
 激しい動揺が走るばかりで理解が現状に追いつかないとあっては、そう呟かずにもいられなかった。
 願わくば、一言でいいから「違う」とそう誰かに否定をしてもらいたいと思いながら。
 だが――


「――違うのかよ?」


 ――今宵、慈悲深き神など存在しないことを証明した、それは答だったのかもしれない。

 思ってもいなかった自分ではない何者か、第三者の返答に驚愕が走ったこともまた事実であったが、それ以上に体の奥底からその声を聞いた瞬間に鳴らしだした警鐘があった。



 『――さて、獣が来るぞ。退くか進むか選びたまえ』



 何処かで聞いたことがあるようなその声に促がされるように、藤井蓮は自分の言葉に答えた第三者の声の方向から瞬間的に飛び離れていた。

「……なっ」

 思わず間の抜けたそんな言葉を自分自身で発してしまったのも、或いは無理も無い。
 ただひたすらに驚愕していた。
 声をかけてきた相手に――ではなく、その相手から飛び離れる為に蓮自身が動いた飛距離に、だ。
 確かに全身で思わず反応してしまった。しかしだからといって自身で予測していた距離を遙かに上回る距離の跳躍を結果的にしてしまったのだ、無理も無い。

「ほぉ……」

 だがそんな自分自身の体の変調に驚いている蓮を尻目に、それを同じように目にした男もまたそんな興味深げな態度を見せていた。
 白蝋のような肌をした、軍服のような黒衣を纏った長身の男。
 無論、藤井蓮にとっては見知らぬ相手だというのは間違いない。

「良い反応してるじゃねえか、ガキ」

 にこやかに、穏やかとも言えそうな上機嫌な言葉と態度。十メートル近い距離の跳躍や、何より足元のバラバラ死体を見てすら何らそれは変化の兆しも見せない。
 そんなものはどうでもいい、意に介さぬと言った様子も顕に、ただ白貌の男は蓮だけをそのサングラス越しの眼に捉えているようであった。

「――――ぁ」

 その男に見据えられた瞬間、否、真正面から対峙したその瞬間からか。
 即座に脳天から足先まで、背筋を駆け抜けていった悪寒は筆舌に尽くしがたいものであった。
 ヤバイ、ヤバイ、ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ――――――ッ!?

 こいつは危険だ。掛け値なしの脅威である、そう本能が最大限の警鐘をが鳴り立て続けていた。
 獣が来るぞ……誰かが告げてきていたその言葉を思い出す。
 恐らく、眼前のこの男こそがそれなのだろう。
 身に纏う濃厚な人外の殺気。桁違いの威圧感。
 こいつは人間じゃない。別のもっと危険な何かだ。
 それを間違いの無い結論として抱かせるには充分すぎた。

「よぉ、何か言えよガキ。こっちは気ぃ遣って、わざわざ猿用の言葉で話してやってんだからよぉ。――口利けねえ、ってわけでもねえんだろう」

 だったら何か喋ってみろよ、一人で話してても馬鹿みたいだろうが……そう促がしてくる相手の言葉に、しかし答えられるだけの余裕が今の蓮にはなかった。
 完全に相手に呑まれていた。気圧され、喉も詰まった状態では呻き声の他に言葉らしい言葉も紡げそうにも無い。
 その様子に埒が明かぬとそう思ったのか、やや落胆するかのような態度も顕にしながら男は一歩こちらへと踏み出してくる。
 本能が最大警報でそれに対して喚き立ててくる。

 ――逃げろ、喰い殺されるぞ。

 その導きに抗おうなどと微塵も思うはずもなく、蓮は即座にそれに従いこの場から離脱を図る為に先程と同様の、否、それ以上の跳躍を行おうとするが――

「ばぁ」
「――ッ!?」

 その試みは、背後にいた少女によって阻止された。
 信じられないことに、全身全霊を込めた火事場の馬鹿力とも言っても良い筈の彼の勢いはしかし、少女のこちらの胸板をそっと抑える細腕一本を弾くことすらも出来なかった。

「ねえ、何で逃げようとするのかな?」

 蓮を細腕一本で抑え込んでいるその少女――男と同じ黒衣を纏った赤毛の少女は、どこかからかうように楽しげにそんなことを問うてくる。
 しかしながら、そんな問いに答えている余裕など蓮にはあるはずもなく、ただ必死に少女によって抑え込まれた信じられぬその圧力を跳ね返そうと全力で抗う。
 だが、それも所詮は梨の礫。どれだけの力を込めようと根本的な馬力が、その内に秘める力の総量が桁違いとでも言った様子でまるで覆すには至らない。
 だがそれでも、蓮の必死な抗いを見てまるでそれに興味を抱いたとでも言った様子で少女は鈴の音のように転がる言葉をその愛らしい口許から紡ぎだして発する。

「ねえベイ、この子、面白いわ。わたしのナハツェーラーに抗おうとしてるみたいよ」
「へぇ、そりゃまた頑張るこった」

 ベイと呼ばれた男は少女が言ってきた言葉にニヤついた笑みを浮かべながら答えた。
 それはまさしく嘲笑。無駄でしかないその行為、逃げられるはずなどないだろうと言外にて雄弁に物語っているのも同じであった。
 圧倒的な逃れられぬ絶望感、それを藤井蓮は抱かずにもいられなかった。



「ツァラトゥストラ……だったか? メルクリウスの代理にしちゃあ、えらく役者不足にも思えるが」

 正直、拍子抜けにも似た感情を抱かずにもいられなかったのは事実だ。
 ヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイにとって、あのクソがどれ程の自信作を用意しているのかとも思っていれば、ただの劣等の小猿ではないか。
 これでは喰いで甲斐もなければぶち殺し甲斐も何もありはしなかった。こんな外れクジを引かされる為に、幾夜も使い走りをさせられたのかとも思えば、逆に腹立たしくもなってくるというものだ。

「どうする、マレウス? 遊んでみるか?」

 尤も、この様では軽く撫でるだけでも壊れそうだ。
 それ程に眼前のそれは脆く、脆弱にベイには映っていた。
 まったく、つくづく舐めてくれる。これはアレか? 自分たちの相手などこの程度で充分だとでも言うあのクソ野郎からの皮肉か何かか?
 ……だとするなら、随分と舐め腐ってくれたもんだなぁ。

「そうねぇ、鉄は熱い内に……何だっけ? この国の諺だったように思えるんだけど」

 そう問い返してくるマレウスの言葉にベイは知るかと鼻を鳴らす。実際、猿の言葉に興味など欠片も無かった。
 そんなことよりもだ、自分と同様、大なり小なりこの副首領閣下の代替サマにはマレウスとて同様に思うことはあるのだろう。
 サディストのニヤリとした趣味の悪い欲求が、その瞳の奥に垣間見させているのをベイもまた気付いていた。

「あんた、ら……」

 そんな時だった。眼前のツァラトゥストラと思わしきその少年が漸くに口を開いてこちらへとアプローチを取ってきたのは。
 尤も、みっともなく震えているその様は威厳も何もあったものではなかったが。
 本当にこいつがあの水星の代役なのか、そんな疑念が湧き上がってもいたその時だった。

「なんだ……? 俺に、一体何の用だ?」

 この期に及んでまだ惚けているのか、だとするなら或いは本当にあいつの代役としては大した役者かもしれないとは別の意味で思う。
 だがそういう風にも見えないのも確か……判断に迷う、実に面倒だった。

「へぇ~、普通なら意識も保ってられずに気絶するはずなんだけど、言葉までしっかり喋れてるなんて、あなた、結構凄いね」

 これはもしかしてもしかするかも、何だかゾクゾクしてきたと楽しげに身を震わせているマレウスの言をそのまま信じるなら、このガキはただの人間ではないのだろう。
 ……まぁ、その辺りはベイもまた常人より少々外れかけてもいた先の相手の動きを見て確信してはいたのだが。
 だが人間の枠組みからは外れかけているとしても、人外の領域から見るならばあまりにも弱過ぎる。
 メルクリウスの代理だとするにはありえない、そう思えるほどにあの本物の化物とは比べるべくもない矮小さだった。
 ムシケラよりは上等だが所詮は雑魚……だからこそ本当に本物なのかどうかが疑わしいのだ。

「あれって、あなたがやったの? 雑で荒いし綺麗じゃない……少なくとも、わたしの知るあいつの趣味とは合わないとも思ってるんだけど」

 マレウスの目をもってしてもそう思わずにいられないのだ。だからこそ尚の事に判断に困るのである。
 挙句の果てには確証へとこちらを至らせる明確な答えが用意されていないというのも問題ではあった。

「メルクリウスの聖遺物が何だったのか、わたしたちの誰一人として知らないのよ。だから、あれだけじゃ特定できない。あなた、あいつの代理なの?」
「もしそうなら、野郎の聖遺物もこれと似たような物なのか?」

 エイヴィヒカイトという複合魔術、そして聖遺物。
 自分たちに師匠気取りで授けてきたその力。黒円卓に座する他の同胞たちのそれが何であるかは知っていても、それを授けたあの男だけは最後まで自分たちにそれを見せもしなかった。
 ゲームの審判者でも気取ってるのか、或いは単なる出し惜しみ、知られぬ事こそが強みであったのか。
 どちらにしろ、恐らくはあの首領ですらメルクリウスの聖遺物の正体は知らなかったのではないだろうか。
 まったくの興味が無い、というわけでもないのは確かだった。

「知らない、俺は……」

 だがやはりこちらの期待に添った答えを言う心算も無いのか、少年の口から出てくる言葉はそんな期待外れもいいところな台詞。
 否、それどころか……

「思えない……殺しなんか……」

 やっていない、そう告げるように必死に否定の素振りなどを示してくる。
 それにはベイはおろかマレウスもまた、まるで拍子抜けと言ったように一瞬言葉も無かったかと思えば……

「はっ、くはは、ははははははははははははははは」
「あはっ、あはは、あははははははははははははは」

 二人揃って、高らかに笑うその衝動を収めることは出来そうにはなかった。
 だがそれも致し方ない。何せ傑作な回答ではないか。
 殺していない、殺したくはない、そうこいつは言ったのか?

 ……何だそれは? アホかこいつは?
 殺してない?……見る限りのこの状況で何をほざくか。
 殺したくない?……殺せば殺すだけ力の増す聖遺物の使徒が何を世迷言を。
 ああ、もういい。もう充分だ。結構、茶番は終わりだ。

「くく、ははは、そうかそうか、おまえ違うか。そうだよなぁ、ああ、そうだろうとも、面白え。
 ――面倒くせぇな、身体に訊くかよ」

 最初からやはりこうしておけば良かったのだ。
 吹っ切れたようにそう思いながら、ベイは少年の腹を無造作に蹴り飛ばす。
 苦悶の声を上げながら、まるでボロクズの様に吹き飛んでいく少年を、ベイはゆっくりと追いかけ始めた。



 相手からすれば、それは大した力を込めた心算も無い適当な一撃だったのかもしれない。
 だがそれを喰らった当人たる藤井蓮からしてみれば、それは驚異的なダメージであったのは事実だった。……アバラの4・5本が確実にもっていかれた感触のある、それは半殺しも同然と言って良い状態だった。
 激痛が走る全身で地面にのた打ち回りたいのをギリギリで抑えながら何とか上体を起こそうとした瞬間……

「よぉ、それでもう一度訊くんだけどよ」
「ギィッ―――!?」

 容赦なく左肩を踏みつけられる。ギシギシと音を立てながら関節が破壊されていくのを最中に男――カズィクル・ベイはこちらを見下ろしながら言葉を発する。

「聖遺物は何だ? てめえは何処でメルクリウスのクソと繋がってやがるんだ?」

 正直、相手の言葉など聞いていられない。電流が走ったかのように駆け抜けていく激痛、明滅する視界……気が狂いそうだった。

「おいおい頼むぜ、サクサクいこうや。
 実際、拷問は得意じゃねえんだ。俺が相手してる内に吐かねえと、おまえあっちの馬鹿女に本格的なの喰らわされっぞ」

 苦悶にのたうつ蓮を見下ろしながら、しかしその軽薄さを隠そうともしないベイの言葉の節々に込められているのは嘲笑と侮蔑、そして底の知れない嗜虐心。

「ちょっと失礼ねぇ、馬鹿って何よ?」

 しかしながら答える余裕など無い蓮の代わりにベイのその言葉に答えたのは、先程馬鹿女呼ばわりされたマレウス・マレフィカムの方であった。
 ……まぁ彼女にしてみれば脳筋の相方にそのように呼ばれること自体が不名誉であり不満であるが故の口振りだったのだが。

「いーわよ。じゃあ手伝ってあげないんだから。あなたも偶には繊細な仕事っていうのをしてみればいいのよ」

 一種の芸術たる拷問……ベイのような粗雑な輩にそんなことは出来るものかといったそれは反感の態度。
 すっかりへそを曲げたマレウスの様子にやれやれと思いながらも、しかしベイの方はといえばそれに些かも困った様子は無い。
 ムシケラを潰す、それを加減をしてなどというのは彼にしてみても面倒極まりない作業であるのは確かだ。しかし、このところずっと続いていたお預けによる欲求不満に比べれば、当り散らす対象が出来ただけでもまだマシというもの。
 頭さえ残しておけばマレウスならば何とかするだろう、そんな楽観的な思考もあったが故にベイには気兼ねする心算など微塵も無かった。

「――ッァァッ!」

 ガキリと嫌な鈍い音を立てながら次の瞬間、己の左肩が踏み潰された感触を蓮は確かに感じた。……尤も、実際は本当に骨折したのか或いは脱臼だったのかは分からなかったが。
 しかしどちらにしろ、左肩から腕の先がピクリとも動かなくなったのだけは確かだった。

「ちく……しょう!」

 やりたい放題にこちらの身体を破壊しようとしてくる相手の理不尽さに反感が爆発した蓮は、反射的に右手で相手の足首を掴み何とかどかそうと力を込める。
 だがまったくビクともしない。それどころか、蓮が自分の足首を掴んだことにピクリと反応したベイは、その表情を不快そうに歪める。

「おい、触んじゃねえよ。気色悪ぃ」

 猿の臭いがうつるだろうが……そう吐き捨てながらベイは何と片足だけで蓮を持ち上げる。
 60キロ以上は軽くある自分を軽々と片足の力だけで持ち上げる相手の尋常でない力に蓮の顔が驚愕に染まったのは言うまでもない。
 しかしベイはそんな驚く蓮を無視したまま、廻し蹴りの要領で自分の足を掴んでいる蓮を振り回し、力任せに引き剥がした。

「――が、はぁッ!」

 為す術も無く引き剥がされた蓮はそのまま7・8メートル飛ばされ、海沿いの柵へと思い切り叩きつけられる。
 衝撃で咳き込みながら、洒落にもならない現状の理不尽さに本格的に死の恐怖が湧き始めた蓮は何とかして逃げる方法は無いかと考え始めるも――

「だったら、海にでも飛び込むか?」

 尤もその様じゃあ溺れちまうのがオチだろうがな、とニタニタと笑いながらこちらの思考を読んだように告げて近付いてくるベイ。
 そのサングラス越しに見据えている眼の奥に燻った感情は、段々と嗜虐から苛立ちへと変わり始めてもいた。

「なあ、あんまりシラケる反応するんじゃねえよ。役者こいてんならたいしたもんだが、気の長い性分じゃねえんだ。もったいぶられるとどうでもよくなる」

 事実、あまりにも歯応えの無い相手の態度に、早々に飽きがきはじめていた。眼前のこの少年には今のところベイの食指を動かす愉しみが何一つ見出させていないのも事実だった。

「最後だ。てめえの聖遺物は?」

 だからそろそろ仕舞いにする。態度と言葉を最後通牒に、蓮の真横にあった鉄柵を蹴り曲げながらベイは淡々とその本題を促がす。
 しかし蓮にしてみれば本当に何を問われているのかが分からないのだ、答えようがあるはずもない。
 あまりにも理不尽な状況、訳の分からない展開、意味も意義も無く潰されようとしているこの現実。
 ふざけるな、嫌だ、……“こんな展開は知らない。”
それが藤井蓮にとっての心からの解答。
 ならばどうする? 逃げることも許されず、どうしようもない相手を前にしたこの現状、それでも覆す術があるとするのならそれは――

「残念だな、ガキ。……時間切れだ」

 遂にその瞬間、ベイの方の忍耐もまた切れたのは同じ。拷問する気ももはや失せたと、そう雄弁に語る態度として、熊手のようなトドメの一撃が振り下ろされる。
 自身へと迫るソレをまるでスローモーションのように見上げながら、もはや藤井蓮に選択の余地は無かった。
 この訳の分からぬ理不尽な現状、これから己もまた先の死体と同様のものへと変えられようとするこの現実。
 冗談じゃない、殺されてたまるか。壊されてたまるか。
 身体の奥底に眠っていた意地汚いまでの生存本能が、渇望が、自らの身体に一本の鋼の芯を入れていくのを確かに感じ取った。
 動け、避けろ、足掻きぬけ――

 ――そもそも俺は、こんなところで、まだ死ぬはずじゃないんだから。




『やるかね、ならば助言をしよう』


 不意に脳裏へと駆け抜けていく何処かの誰かのその言葉。覚えがあるようで覚えのない誰かのその声は、まるで忠告のように抗う蓮へと告げてくる。


『彼は現存する爪牙の中でも一・二を争う。
 人の業ではどう足掻こうが、斃せぬよ』



「……ほぉ」
 先程まで倦怠と苛立ちを顕にしていた男の顔に、初めてそれ以外の別の感情が表れていた。
 即ち、興味。微塵とはいえ動かなかった食指をほんの僅かとはいえ反応させたその事実。
 素手でベンチを抉りぬき、地面までをも穿った腕を引き戻しながら、カズィクル・ベイがその視線を見据えていたのは、自らのその一撃を先程かわして見せたその相手。
 ツァラトゥストラ……と疑わしき、されど雑魚に過ぎなかったはずの対象がこの土壇場でこちらへと見せて見せたその動き。
 かわした……無論、本気の一撃でなかったのは当たり前だが、それでも死にかけの素人を相手にかわされる程にまで手を抜いたものでもなかったはずだ。
 だが事実として、この腕は獲物を外して空を切り、それを逃れて見せた相手は体勢を立て直しながら戦闘態勢へと移行しようとしていた。
「……面白ぇ」
 ニヤリとその笑みが自然と獰猛なものへと切り替わっていくのをベイ自身もまた自覚していた。



『ゆえに、さてどうするねツァラトゥストラ。
 此処で彼を実験台に、私の秘法を習得するかね?』

 退くか、進むか――


 ――私に未知を見せてくれ。


 先程から頭に響いてくる正体不明の謎の声。幻聴なのかどうなのかは知らないが、一々に答えてやっているほどの余裕が無いのも確か。
 頭はぐらつき、今にも体は倒れそう。三半規管が揺さぶられ、平衡感覚まで狂っている。
 コンディションは最悪であり、お世辞にも格好がついているとも言い難い。
 だがそれでも――

「――躱せた」

 絶体絶命だった窮地の中、それでも確かに成功させた一つの事実を確かめるように藤井蓮はそう呟く。
 そして同時に、今の相手の一撃も、そしてさっきまでの攻撃も、威力は洒落にならないがそれでも決して躱せない速度でないことをはっきりと確信する。
 これならば……恐怖に竦みさえしなければやれる。否、この状況では他に選択肢なんてものが存在しないのも事実。
 戦うしかない、そんな決意と共に視線を決して外さぬよう前方の相手へとしっかり定める。

「ふん、ちったぁ俺好みの展開になってきたかよ」

 まるでそれを楽しむように、ニヤリと笑う相手のソレは、正に肉食獣と同義のもの。
 しかしそれは裏返せば、ベイ自身もまた漸くにこの狩りに愉しみを見出し始めてきたことの証明でもあった。
 こちらと同様に相手もやる気は充分と言ったところ。恐らくは背を向ければ瞬間に殺されるのを分かりきっている以上は、蓮がするべき事は相手の隙を見出してそこを突くという一点のみに定められた。
 負傷は大きいがまだこれならいける。この程度は司狼との喧嘩の際に既に経験済み。いや、あの時に比べればまだ生温くむしろ軽傷。やってやれないなどということはない。

 ――戦え。

 突破口を開くしか生き残る術が無いのなら、今はそれに全身全霊を込めて傾けろ。


『よろしい。ならばまず、君の思うようにやってみたまえ。力の差を知るということもまた必要なれば』


 頭の中の声からもどうやらお墨付きが出たようだ。尤も、まるで見下すような上から目線のその言い分は不快そのものでしかなかったが。
 どちらにしても、ならばやってやるさ。そう決意を固めると共に蓮はベイを相手に身構える。

「なぁマレウス、こいつ殺すぞ。文句はねえな?」
「駄目って言ってもどうせ聞かないんでしょ?……いーわよ別に、あなた昔からそんなだしね。ただ――」
「――頭は残せ、か。まぁ善処してやらァ」

 尤も、あんま自信はねえけどな……そう笑いながら相方に了承を取ったそのやり取りで、相手も本気でこちらを殺す心算であるのは確定したということか。
 うすら笑いを浮かべながら近付いてくるベイ、やるならば先手必勝、そう判断した蓮が動きかけたのを見計らったように――

「ああ、ちょっと待ちなさいよ。どうせやるなら、もっとやる気が出るようにしてあげるわ。
 例えば、あなたさぁ……」

 呼び止めニヤつくマレウスの言葉と笑みに、蓮の胸中で嫌な予感が加速度的に高まっていく。

「今夜、ついさっきまで教会にいたんだよね?」

 果たして、それは現実味を帯びた最悪へと形を変えていく。

「んだよ、そうだっけか」
「そうよ、だったら手っ取り早いじゃない」

 ……やめろ。

「逃げるとか誤魔化そうとか、そういう気を起こさせないようにしてあげるから、もっと死に物狂いで頑張ろうよ」

 待て、おまえら何を言ってやがる。何を言おうとしている。

「あなた、自分が痛いのには鈍そうな感じだし、こういう状況の方が火ぃ点くんじゃなぁい?」
「ああ、成程」

 ドクンドクンと早鐘を打つ鼓動の中で、聞き間違いを願う儚い蓮の思いを粉砕するように、赤い魔女は楽しげに告げた。

「もし逃げたら――あなたの友達、皆殺しにしちゃうからね」

 瞬間、爆ぜた。
 駆け抜けるように脳裏の再生されるのは今日の出来事。教会で過ごした楽しかった時間。
 香純を、一弥を、先輩を、シスターを、神父を。
 俺が愛する俺の日常を構成する大切で掛け替えの無い人たちを――

 ……殺す?

 ふざけてんじゃねえぞ、てめえら!
 それ以上、別銀河に存在してる方がお似合いなジャンル違い共が、その口の端にも上らせんじゃねえよ!
 断じて許さぬという思い、怒りの炎が蓮を動かし、力づくでマレウスを黙らせようと殴りかかるも――


「――まあ待てよ」


 あっさりと、割って入るようにこちらの首を掴んだ白貌がそれを阻む。

「どうしたおい、急に勇ましくなったじゃねえか。つっても、女相手にキレる男ってのはいただけねえな。度量が知れるぜ」

 飄々とからかうような態度と言葉、軽いノリであるようだが、それでも渾身の突貫を造作も無く止められ、動くこともままならない蓮の方からすれば堪ったものではない。
 だがそれでももはや臆さない。それ以上に上回る怒りが活動力となって束縛する戒めを解き放とうと全力で抗おうとする。
 しかしそれを見て益々に愉しげに顔を歪ませたのは掴んだ相手――カズィクル・ベイの方である。
 その気になれば少し力を込めるだけで、このまま頚骨を圧し折ることすら造作も無い。
 だがそんなつまらないことはしない。当然だ、簡単に終わらせるようなことをしてしまっては意味が無い。
 折角の暇潰し、退屈凌ぎが無くなってしまうではないか。

「ふん、逃げ打とうって気が無くなったんなら、追加で俺からも発破をくれてやろうじゃねえか。
 もう質疑応答は終了だ。こっから先は口以外で語り合おうぜ。……力、見せろよ」

 ……力? と意味が分からず思わず首を傾げる蓮を一切無視したまま、ベイは段々と逸ってくる血の滾りも顕に興奮しかけた口調で続けていく。

「心配すんな、手加減してやる。“武器”は出さねえし、片手だけでやってやっから、おまえは銃でもナイフでも念力でも呪いでも、なんでもいいから使ってみろや」

 餌なら餌らしく、噛み締めるに値するだけの味を引き出せ。
 目覚めてないってんなら、無理矢理にでも目覚めさせてこっちにぶつけてみせろ。
 兎に角……ああ、兎に角! 何でもいいから取って置きってのを見せて楽しませろ。

「おまえが実際何者だろうと、要は遊べるかどうかだしよ」

 オモチャならオモチャらしく、楽しませる要素を全力で引き出せ。
 遊びは愉しくなくっちゃ、何の意味もないんだからよぉ。

「暇してたんだ、長いこと。待つってのは辛ぇよなぁ。
 もうシケた祭じゃ満足できねえ。だからよ――これは最後のチャンスだ」

 そう随分と長い間、暇だけを持て余してきたのだ。
 六十一年前の、世界を巻き込んだあの祭が終わって以降、ベトナムも湾岸も中東も、たいした退屈しのぎにすらなりはしなかった。
 死にたいくらいの倦怠感の中で、それでもあの時の祭の高揚が忘れられなかったから、あの時に交わした約束を果たす必要があったから、あのクソ野郎をまだぶち殺していなかったから!
 屈辱にも等しかったこの退屈に満ちた半世紀を只管に雌伏となって耐え続けたのだ。
 あぁ、本当に……本当に長いお預けだったんだぜ。
 だからよぉ――

「俺にここまで譲歩させて、萎えるオチつけやがったらおまえ……」

 ぐいと引き寄せながら、当然の代償の結果として相手へとそれを肝に銘じさせる。



「この街、地図から消しちまうぞ」



「――――」
 当てられた圧倒的な威圧感、どす黒く渦巻く相手の正体不明の何らかの感情……これは憎悪なのか?
 兎に角、眩暈と吐き気を思わずに起こしてしまいそうな、密度の高すぎるその感情の波と告げる言葉に、蓮もまた本能的に確信した。

 ――こいつは本気だ。

 ここで自分が進退を誤れば、先の言葉通りのことを躊躇い無く実行に移すだろう。
 それが実現可能なものかは疑わしいが……ここまで堂々と発する禍々しい鬼気を感じ取ってしまえば、それもまた本能的に信じざるを得なかった。
 こいつはやる、間違いなくそれをやる。
 どうしようもなく間違いなく情け容赦なく防ぎようもなく良心の呵責もなく嬉々として笑いながら総てを総てを総てを壊して殺して根こそぎ刈り取り粉砕すると。
 確信する。

 俺の大切な日常を、未知で塗りつぶして侵略しようとする異物。

 こいつは間違いなく―――――藤井蓮にとっての敵だ!
 ならば、戦い、排除しなければならない。


「……そうだ」
「あん?」

 ポツリと呟いた蓮の言葉を聞きとがめる様に、怪訝にベイが眉を顰めたその瞬間だった。
 躊躇いも容赦も無い、全力の右拳による一撃を即座に叩き込む。
 その反動を利用して飛び退り距離を取る。……尤も、掴まれていた首を無理矢理引き剥がした代償として皮膚が裂け、出血が起こってしまったが。幸い、動脈は無事のようだ。だからといってそれに楽観視出来る状況でもなかったが。
 それに……

「ぐぅっ……!」

 思わず蹲りそうになる痛みを無理矢理抑えながら、右拳の状態を確認する。
「……マジかよ」
 苦々しく漏れた呟きは、先の一発で右手の骨が砕けてしまったことへの確信。そして――

「何だ今のは? やる気あんのか、おまえ」

 まるで岩でも殴ったような衝撃を感じていたが、あれ程の一撃を叩き込んですら微動だにどころか負傷一つ見当たらない、無傷そのものの相手の姿。
 不機嫌そうに顔を顰めるその理由は、殴られた事よりも、その殴った一撃がまったく効いていない事への不快の現れのようであった。
 事実、ベイとしてはもったいぶった後に漸く一撃かましてきたかと思ったのに、それが(彼からすれば)蚊の刺す様なものでしかなかったのだ、拍子抜けもいいところだ。
 そもそも存在密度に天と地ほども差があるというのに、普通の喧嘩の延長線上のような認識しか抱いていないとはどういう心算なのか。
 苛立ちも顕に、まだ火付きが悪いのかよと一歩を踏み出しかけたその時だった。

「ベイ、分かってると思うけど」
「ああ、すっこんでろ、マレウス。ご指名は俺だ」

 念を押すように言ってくる彼女を一言告げて、下がらせる。
 分かっている、ちゃんと心得ている、やり過ぎるなんてことはしない。
 所詮は戯れ、それくらいはちゃんと理解している。これが戦いとして成立するほど上等なものでないくらいは承知の上だ。
 だがそれでも――

 ――刹那の時でも、この倦怠を払拭するに足る展開を期待するくらいは、問題ないだろう?



「――ギィッ!」
 鈍い音を立てながら、苦しげな呻き声と共に外れた左肩を無理矢理嵌め直す。
 続いて砕けた右拳を無理矢理ねじって矯正。
 まだ感覚があやふやな足には、そこらの木切れを無理矢理に突き刺して覚醒させた。
 正直、戦闘の前段階で既に半死半生たる様だが、文句も言っていられない。どうせ仮に五体満足だったとしても状況がそう変わるわけでもない。
 なればこそ、覚悟を決めろと今一度、藤井蓮は己へと言いきかせる。
 退いてはならない。退くわけにはいかない。
 俺が愛する俺の日常、それを構成する大切な人々。
 香純を、一弥を、先輩を、シスターを、神父を。
 その他の名前も分からぬ学校の連中も含めたこの街の総てを。
 それを維持する為なら何だってやってやる。知らないものなんか何も要らない、予想外の展開なんて求めてもいない。
 司狼とは違う、選択肢の総当りなど望んでもいない。
 ただ一つの人生、退屈な一本道を。
 それで構わないから――だからこそ、それをしがみ付いてでも護る。
 だから――

「だから――邪魔なんだよ、おまえ」

 ジャンル違いが、のうのうと俺の話に割り込んでくるな。
 そう強く、睨みつけながら吐き捨てる。


『つまり、それは君にとって総てが既知であるという――』


 脳裏で未だ過ぎってくるその言葉を振り払いながら、彼我の戦力差も顕な、一方的にしかならぬ戦いとも呼べぬソレへと、蓮は自ら進みだした。
 己の愛するべき日常、永遠を願う既知なる世界を護る為、未知なる脅威へと立ち向かう為に――



[8778] ChapterⅡ-8
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 23:17
「聖槍十三騎士団黒円卓第四位、ヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイだ。名乗れよ、ガキ。戦の作法も知らねえのか」

 高らかに己が名と属する集団の名を名乗り上げる。
 それは古来より続く、戦いに正当性と神聖さを求める為の一つの作法。
 ヴィルヘルム・エーレンブルグにとっても慣例に等しいそれではあるが、それでも半世紀ぶりの黒円卓としての戦なのだ、名乗らぬ訳にもいかない。
 そしてこちらがこう名乗る以上は、この名とこの座に対峙するに相応しい資格と気概を相手もまた見せなければならないのはもはや義務に等しい。
 尤も――

「生憎と……知らないな」

 慣例だろうが流儀だろうが、義務だろうが資格だろうが一切関係ない。
 あちらにとっての正当性が何であれ、侵略者にこちらから合わせてやる心算など微塵も無い。ましてや、こちらの素性がばれるような情報を知られてしまえば、それは自分に関わっている者たちすら芋吊る式に巻き込まれかねない危険性がある。
 故にこそ、きっぱりとした口調で吐き捨てるように藤井蓮は相手の要請に明確な拒絶を返した。

「名前を知りたきゃ吐かしてみせろよ、白髪野郎」
「――面白ぇ!」

 劣等に戦の作法を求めること自体がそもそもの間違いだったか……であるとしても、切り返してきたその気概だけは気に入った。
 ならば上等、遊んでやろうじゃねえか……カズィクル・ベイの嬉々とした鬼気は明確な殺気へと姿を変えていく。

 野獣の咆哮めいた叫び、そしてそれと共に相手から繰り出されてくる右の掌底。
 いや、それはむしろ鉤爪。獲物に突き立て引き裂かんとする獣の繰り出す致命の一撃。
 直撃すれば即死は免れない、であるからこそ空を切り裂き迫る相手のソレを、蓮は胴をねじ切る勢いで身体を捻りながらギリギリで回避――

「ぐぅ―――ッ!?」

 ――否、完全には躱しきることは出来ず、ほんの僅かだが掠ってしまう。
 だがそれだけでごっそりと服の胸元が引き裂かれたかと思えば……信じられぬことにそれだけでは収まらず、背後の街灯が握り潰されて圧し折られていた。
 明らかに人間業ではない相手の膂力。先の信じられない頑強さとも合わされば、ますます対峙する相手の化物具合が顕著にもなってくるというもの。

「はははっ」

 カズィクル・ベイは己が手で作り上げた結果に戦慄する相手を見ながらただ笑う。その気になれば追撃をかけて相手を屑肉に変えることなど造作も無い。それでもあえてそれをしないのは、この遊びという現状と先程に相手にも言ってやった手加減というルールを己に課せていればこそ。
 だからこそ後退して距離を取る相手をただ愉快気に見ながら笑うのだ。
 一方、藤井蓮からしてみればそれは舐められているにも等しい現状ではあったが、同時に僅かと言えども付け入るチャンスであったのも事実だ。本気になられる前に突破口を見つけ出す……蓮の取るべき選択はそこにしかない。
 攻撃は絶対に喰らうわけにはいかない、これは前提条件。次にあの相手の出鱈目な頑強さだが……幾ら堅いとはいえ目や関節のような鍛えようもない急所は必ず存在するはずだ。
 そこを何とか突く……戦術と算段を冷静に取り纏めながら動こうと思ったその時であった。

「へぇ、こりゃあ驚きだ。さっきに続いて二度連続かよ、ド素人に躱されるほど手ぇ抜いた心算も無かったんだが……俺が日和っちまったのか、それともおまえがやるのか――」

 ――どちらにしろ、まだまだ遊べそうじゃねえか。

 ニヤリと笑いながら更に密度の増す相手が発するプレッシャー。当てられて怯みそうになるのを必死に抑えながら蓮は相手の挙動を見逃さぬよう全神経を集中させる。
 その様子にそれでいいと笑いながら、ベイは告げる。

「おい、次はもう少し速くいくがよぉ……てめぇ、簡単に死ぬんじゃねえぞ?」

 宣告と同時、ゆらりと弛緩した動きを取りながら再び侵攻を開始したベイ。
 その動きから蓮が抱いたのは一つの確信。
 こいつは格闘技だとかそんな上等なものではないというその一点。
 ただ無暗に速く、異常に重い。習って覚え、修めたような努力次第で誰でも辿り着けるような境地、技術体系には目もくれぬ、血濡れで叩き上げたかのような暴力。
 恐らくこの男は練習や修行なんてしたこともなければ、そんな上等な概念すら持ち合わせてはいないのだろう。
 仮想敵など百万殺そうが所詮は仮想。実戦こそが全て。
 工夫は弱者の特権だと言わんばかりのその型も何も無い力任せなだけの一撃は、如実に強者独特の傲慢さを滲み出させていた。
 蓮の脳裏に過ぎったのは二ヶ月前のあの屋上。
 血濡れで自分たちとの縁切りを告げたふてぶてしい馬鹿の顔。
 ……ああ、良く知ってる。てめぇみたいなタイプと戦うのなんて何も初めてじゃない。
 だから――

 ――死ぬ気で躱せ。

 まず活路はそこから見出す。頭の命じる指示に従い、胸骨ごと心臓を抉り取らんと放たれた相手のその一撃を、脇の下へと通してロック。
 極めたら折る、躊躇いを抱かずにそれを実行するべく即座に渾身の力を込めるも――

「で?」
「――ッ!?」

 スピード、タイミング共に完璧であり二度は同じことも出来ぬと思って成功させたはずの完璧ともいえたカウンターであったはずだった。
 ……しかし、相手の挑発と共に促がしているその誘いとは対称に、折るどころかまるでビクともしていないと言うこの現実に蓮の顔に驚愕が走る。
 体格にだってそう差があるわけでもない。にも拘らず崩すことすら出来もしない。鋼の芯でも通しているようなその相手の関節の強度に蓮が信じられぬといった面持ちで臍を咬んだとしてもあるいはそれも仕方なかった。
 だがそれはベイからすれば拍子抜けであったのもまた事実。故に続く言葉に含まれていた感情などただただ失望のみ。

「取らせてやってこの程度かよ。こりゃあ見込み違いだったか?」

 出来るものならば腕の一本も景気づけにくれてやるのも許してやろうかとは思っていた。傷つく可能性が……死へと近付く要因あってこその戦なのだから、それを与えてくれると言うのなら是非もなかった。
 だが結果はやはり無駄、肩透かしと言っていい相手の稚拙で猪口才であり非力なその様。……興が殺がれるし、正直萎えかけてもいた。
 だがベイがそんな失望を抱く一方でさえ、蓮からすれば必死な抵抗をやめられるはずもない。ならばと、そのまま股間を蹴り上げる巴投げへと戦法をシフトする。
 関節が駄目なら急所を潰す。これならば腕力の差も関係ない。

 ――しかし、怖気が走る音と共に潰れたのは藤井蓮の足の方であった。

「どうした、おい? これで終わりか? 根性見せろよ」

 つまらなさ気な態度も顕に、薙ぐ様に刈り上げられるベイのアッパー。
 蓮は咄嗟に腕を交差させて防ぐも――

「ガッ、グァ―――ッ!?」

 威力を殺せず、そのまま吹き飛ばされる。脳をシェイクされた衝撃に、堪らず嘔吐感が沸き上がってくる。
 思わず蹲って血反吐を吐き出す、ゼイゼイと荒い息を何とか整えようとしながら蓮は身体の被害状況を確認する。
 先の一撃で両手が圧し折られ、金的を狙って蹴りを繰り出した足も逆に折られていた。最初の遭遇時に折られたアバラ、内臓に浸透してきたダメージも深刻化している。
 これじゃあまったくあの時と同じだ。退院したばかりなのに随分と好き勝手にこちらの身体をぶち壊してくれたものだと理不尽な相手への怒りも沸き上がってくる。

(……だが同じってことなら、まだ――)

 ――まだ、やれる。

 まだこれくらいの負傷、痛みは知っている。既知の範疇だ。
 ならばまだやれる。まだ戦える。
 立て、戦え――護る為に。
 自らへとそう言いきかせ、闘志を奮え立たせながら藤井蓮は立ち上がった。
 それを見たベイはただただニヤついた笑みと余裕を崩す様子も無く、再び陽炎の様な鬼気を発しながら、獲物を駆り立てる肉食獣のごとく襲い掛かってきた。

 刈り上げるかのような下段からのクロー。それが頂点で制止したかと思えば間髪入れずに叩き落してくるバックブロー。横薙ぎの一撃に、再びの返し刃。
 続く攻撃の数々は先のベイ自身の宣言通りに片手ばかりのもの。
 にも拘らず、それは速く、鋭く、そして重い。一つ一つ、その全てに込められていたのは致命の威力のみ。
 防御など不可能――掠っただけで肉を削ぎ、血飛沫を散らせていく死の旋風。
 躱せない……いつまでも躱し続けられるレベルではない。
 運動力学を端から無視した片腕だけの多角攻撃。それ自体が無茶苦茶なら、更に繰り出すそのスピードすらも徐々に上がっていっているのはどう説明すればいいのか。
 ギリギリで一撃を蓮が躱すたび、次に繰り出す一撃をその速度を越えたものとしてベイが繰り出していたのは事実である。
 彼からすればこれは遊びながらも測っているのと同じ。どれくらいの速度ならばまだ躱せるのか、次なるこの速度には対応できるのか、これが限界ならば少しは死ぬ気で超えて見せろ、と――。
 既に目で追えるレベルではなくなった暴威の嵐の中、藤井蓮が頼れるのは勘――死線ギリギリで発揮される本能だけだった。

 ……だがどんな物事にも定められた限界というものはある。
 最大限の本能を発揮し回避に徹する蓮の動きは確かに評価に値した。……しかしそれでもそれは所詮、常人の限界。ジリ貧は免れない。
 そしてそれはとうとう彼を追い詰めるようにやってきた。
 これまで一定のテンポで速度を上げながら繰り出されていたベイの猛攻。しかし彼自身も単調になった戯れに飽きたのか、埒も明かぬ現状への梃入れだったのか、やおら次の瞬間には一気に数倍の速度と化した一撃を叩き込んでくる。
 それに蓮が抗える術はもはや残っておらず――

「がッ――!?」

 直撃していれば間違いなく即死だった。故に、直撃を免れたのは運以外の何ものでも無い。折れた右足が自重を支えきれずに転んだ……無様なことだが結果的にそれによって命を救われた。

「おいおい、てめぇも男だってんならしゃんと立ってろよ」

 偶然が起こしたその無様な回避方法が気に入らなかったといった様子で呆れたように倒れているこちらを見下ろしながら告げてくるベイの言葉に、蓮は即座に反応して飛び離れる。
 足に力を込め直し、しっかりと直立し態勢を整えながら、相手が攻撃をいつ再開してきてもいいように身構える。
 このままではいずれ負ける。元よりスペック差からして天と地ほどもの開きがあったのは事実だ。相手がこうして遊びで来ていなかった即座に殺されているのはもはや間違いない。
 ……そう、殺される。相手はこちらを殺す気できている。

 殺す気できている相手をこちらも殺さずに如何こう出来るなどという甘い考えは……元より殆ど持ってはいなかったが、完全に捨てた方がいいだろう。

 蓮が今までの覚悟とは別の質の覚悟を決め直したのを察したのか、それを見たベイもまた愉快気にその表情を更に喜悦へと歪ませる。

「漸く殺る気になってきたってわけか? 劣等の分際で、そもそも俺を相手にそんな甘い覚悟で臨んで来てる方が馬鹿げてるんだよ」

 マジで殺すぞてめぇ、と挑発か警告か捉えるのも判断しかねる言葉を口汚く罵りながら、ベイは再びこちらへと向かって攻撃を再開しようと言うのだろう動き出し始める。
 相手の動き、その一挙一足を逃さぬように集中して追いながら、組み上げた作戦と共に蓮は相手へと告げた。

「本当に死んでも……恨むなよ」
「上等だぁ! 殺れるもんなら殺ってみせろよ、劣等ッ!」

 その挑発に自ら乗るように喜色すら浮かべながら迫り来るカズィクル・ベイ。
 藤井蓮は身構えながらその動きをしっかりと捉え――



「……クソッ、マジで何処に行っちまったんだよ、あいつら」
 苛立ち混じりの毒吐きが思わず漏れてしまうのも、この現状が何一つとして自分の願う方向へは転がってくれていないからだと沢原一弥は憤慨していた。
 むしろ状況は最悪、都合の悪い方向にばかり転がり始めている。

「香純もいなけりゃ、どうして蓮までいねえんだよッ!?」

 綾瀬香純を探す為、足代わりのバイクを取りにアパートまで一旦戻った時、一縷の望みも抱きながら香純も戻ってきているのではなかろうかと密かに期待していた。
 だがそんな都合の良い展開などまるであるはずもなく、香純が部屋へと戻った形跡は無く……それどころか最悪なことに隣室の蓮までもが姿を消していた。
 事情を話すかどうかはどうあれ、兎に角、彼女を探すのを手伝ってもらおうと思って寝ているだろう蓮を叩き起こそうとしたのだが、返事がまるでない。
 鍵を開けっ放しにしていた司狼の部屋の空いた壁から蓮の部屋に乗り込むも、寝ているはずの彼までもが居なくなったもぬけの殻たる部屋があるだけだった。
 思ってもいなかった最悪の事態に混乱しながら、それでも二人に万が一の最悪な事態も起こらないとは限らないと想像し慌てて部屋を飛び出してきたのだ。
 その件の殺人鬼当人たる香純の影響か、人の気配が殆ど減った街の中をバイクを飛ばして二人の姿を求めて探し回ったのが、結局収穫は無かった。
 捜索範囲の中心に置いていた繁華街から離れた一弥は、一旦路肩にバイクを停車しながら今度は何処を探せばいいか必死になって考えていた最中であった。

「……犯人は現場に戻る、とか言うが……」

 殺人現場であったあの路地裏、あそこに香純が戻ってくる可能性は正直に見積もってもやはり低いだろう。
 どういう理由かは分からないが、あの櫻井螢とかいう謎の女も香純を追っている。もしかしたならば、再び繁華街へと戻って遭遇することを恐れて別の場所へと離れたのか。
 ……だがそれならば次は何処へ向かう? 香純は何処へ逃げるというのだ?

「……海浜公園?」

 自分が最初に見つけた忌まわしいあの第一の殺人現場……あれもまた香純が作り上げたのかと思えば、正直泣きたくもなってくる。しかし今はまだ弱音を吐いていられる場合でもない。それが分かっていたからこそ、もう一度自ら叱咤させ奮い立たせる。

「……あそこなら、人がいる……か?」

 正直、殺人事件が発生する以前の諏訪原市ならばこの時間帯にも人は居ただろう。カップルなり覗きなり痴漢なり、夜になっても盛るあの手の輩には困らなかったスポットだ。
 しかしそれは言うまでもなく以前の話。今は解決してもいない連続殺人事件の真っ最中、ホテル代をケチってまで命を危険に曝す可能性も覚悟であの公園で盛るようなカップルなどいるのだろうか?……まぁそういうのが燃えるシチュエーションだと盛るような変態が必ずしもいないとは流石に断定できないが。
 しかし普通に考えても今はいないはずだ。この間、殺人事件の現場になったばかりの場所に嬉々として近寄る物好きは早々いないはずである。
 香純が無差別に人を殺しているのだとしても、そんな閑散としているだろう場所で来るかも分からぬ獲物を相手に待ち伏せなどしているのだろうか?

「……普通ならありえないと思うんだが」

 しかし正気かどうかも疑わしいとはいえ相手はバカスミ、正直こちらの考えなどまるで考慮にも入れぬ奇矯な行動を取るような奴である。
 それに僅かでもいる可能性を考慮して、蓮の方が居ないともいいきれない。

「やっぱ行ってみるしか―――ッ!?」

 そう考えを改めながら、今は藁にも縋る思いで淡い可能性にかけて行ってみようかとバイクを公園の方角へと向けたその時だった。
 ドクンドクンと急激に虫の報せでも感じ取ったかのような心臓の高鳴りが、全身から沸きだってくる嫌な予感が満ちていく。
 それは本能が鳴らす警鐘だったのかもしれない。

 行くな。今行くと、殺されるぞ、と……。

 何故そんなものを感じ取ったのかは分からない。けれど自分の中の何かが、それを本能的に危険だと判断して全力で訴えかけてきているのだ。
 あの場所には行くな、危険だ、と。繰り返すようにそんな制止を呼びかける嫌な予感だけが気持ち悪くなるほどに膨らんでいく。
 それは一種の恐怖ともなり、沢原一弥をその場に押し留めようともしていた。

『そう、じゃあ――――あなた、死ぬでしょうね』

 先の櫻井螢から告げられたその不吉な言葉すらも思い出したかのように脳裏へと過ぎっていく。
 あれは決してからかいやふざけて言った訳ではないだろう本気の言葉のはずだ。
 何となくだが、先の香純に殺されかけた一件のことも考えればそれは己の未来を暗示しているかのようにも思えた。
 けれど……

「……それが、どうした」

 それは小さな呟きではあったが、それでもハッキリと意思のこもった言葉でもあった。
 沢原一弥にとっての本音。それ以上でも以下でもない本気。譲ることなど不可能な彼にとっての不可侵たる指針。
 ああ、それがどうした?
 そこに香純がいるかもしれない、蓮がいるかもしれない。二人が危険かもしれない。
 例えそれが“かもしれない”に過ぎなかろうとも、それは一弥からすれば見過ごせない、駆けつけずにもいられないハッキリとした危惧でもある。
 あいつらを護る、絶対に自分の命を懸けたとしても。護らなければならぬ責任が、自分にはある。
 ならばその為に命を捨てる事になったとしても、何が惜しいものか。
 元より十一年前から既に、蓮に罪を背負わせ、香純から大事なモノを奪ってしまったあの時から、この命はその贖罪の為に使わねばならないと決めている。
 だったら――

「……行くしか……ねえだろうがッ!?」

 無論、これが杞憂であって欲しいとは思っているし、仮に本当に一大事の事態でも簡単に死にたいわけでもない。
 二人の為に命を捨てることに惜しくはなかろうとも、出来れば死にたくないと思う程度には沢原一弥は臆病であり半端者だ。
 だからこそ自分なりに勇気を振り絞り、格好をつけながらバイクを疾走させ願っていたのはたった一つの祈りだけだ。
 どうか、二人が無事で何事もありませんように。

 微妙に二つになっている願いだが、どちらにしろ彼の天に願うこの思いに意味は無い。
 一番願うものがいつも最悪の形で裏切られて叶わない、いつだって沢原一弥の人生の転換期とはそんなものばかりだったのだから……。



 手足を折られたこの状況、生身ではまるで歯が立たぬという事実。殺らなければ殺られるだけだという現実。
理解の悪い劣等の頭なりに漸くにそれを認めたのか、

「――で、次はいったいどんな手で来る心算だ劣等ッ!?」

 非力な猿の分際でこちらを殺すと謳った以上、さぞ上等な手段でも思いついたかと思いながら、カズィクル・ベイは裂帛の怒号と共に相手を目掛けてその一撃を叩き込む。
 ギリギリまで引きつけながら、それを何とか飛んで躱す藤井蓮をベイはアスファルトを砕いた拳を引き抜きながら即座の追撃へとかかる。
 マタドールの真似事にしては随分と無様、所詮はやはり口先だけかと失望も顕にしながら追いすがってくるベイを前に、蓮は街路樹をまるで盾にでもするかのようにその背後へと回り込む。

「阿呆がッ! んなもん盾にもなるかよッ!」

 相手の選んだ稚拙な城壁による防御を嘲笑うかのように豪腕一閃。それごと叩き潰すと言わんばかりの横殴りの一撃が街路樹を破壊する。
 己の胴回りはあろうかという街路樹が真っ二つとなり木っ端と砕け散る。盾代わりに相手の攻撃を凌ぐ傍らで相手の常識外れの攻撃力に改めて蓮の全身に戦慄が走っていた。
 しかし蓮にしても慄き、そして臆してばかりもいられない。固めた覚悟を己を支える基盤として、計算通りに運ぶ事の中で即座に行動へと移る。
 即ち反撃、相手を斃す……殺す覚悟を持って繰り出す己の攻撃へと。
 宙を舞う木片、その中から瞬時に使えそうな物を選別。先端が尖り、相応の太さが有り、武器として使えそうな形状の物。
 即座に選択を終えた目的の木片――これを即席の武器へと変えてそれを相手へと向けて繰り出す。
 両手が折れたこの状態、唯一使用可能な左足に渾身の力を込める。身体を捻り宙へと身を飛ばし胴回し回転蹴りの要領で踵と木片が垂直になるように合わせて目的のポイントへと叩き込む。
 狙いは喉元、即席の杭と化した木片はこちらの蹴りだす勢い、そして向かってきたベイ自身との勢いも合わさって必殺の威力とタイミングを持って突き立てられ――

「かはっ」

 ――しかし、結果としてベイが迎えてきたのは馬鹿にしきったその嘲笑。

 事実、自ら躱す事もなくその攻撃を受け止めたベイは、その突き立つ杭までをも逆に先端から粉々に砕いてしまった。
 信じられぬその結果、その光景に蓮の顔が驚愕に見開く。
 しかしそれすら痛快だと言わんばかりにベイはただただその嘲笑を収めることもない。
 当然だろう。確かに大した曲芸だったのは事実。恐らく二度やれと言ったところでもはや出来まい。
 この身がエイヴィヒカイトによって強化された肉体でなければ、確かに先の一撃を持って或いは殺せていたかもしれない。
 だが、それもまた常識内の暴力に過ぎず、言ってみれば圧倒的な威力不足に過ぎない。
 それに何より――

「串刺し公(カズィクル・ベイ)を串刺しにしようなんざぁ――身の程をしれや劣等ッ!!」

 怒号と共に繰り出す一撃は、今までのものに比べても遙かにその威力も速度も桁違いに増したもの。
 あろうことか串刺し公を名乗ったこちらにチンケな杭で挑むなどという馬鹿をやらかした相手だ。身の程を弁えぬ劣等にはキツイお仕置きもまた必要だろう。
 懲罰と返礼を込めて叩き込んだその拳を、蓮は死に物狂いとなって何とか躱す。
 無理矢理に身体をねじり、地面に叩きつけられるのを覚悟で自ら飛び込む。
 結果的に即死の一撃を免れはしたが、死に体で行った無茶な回避運動はそのままその反動をボロボロの蓮の身体へと叩き込んでいた。
 アキレス腱が切れ、砕け散った木片の欠片までもが逆に蓮の左足へと突き刺さっている。……完全に左足までもが潰されてしまっていた。
 ここまでして駄目なのか……人殺しは御免だが、それでもそれを覚悟してまで放ったはずの起死回生を懸けていた一撃。
 それすら通用しない絶望を感じ取りながら蓮は倒れこんでいたその視線を上げた。

「……ふん、それにしても解せねえな。おまえ、本当にその程度かよ?」

 繰り出す攻撃のことごとくを粉砕、それを遙かに上回る蹂躙をもって圧倒したベイはしかしつまらないものでも見るような目で蓮を見下ろしながら告げる。

「そこらの喧嘩自慢に毛が生えた程度の力でどうにかなると思うほど間抜けじゃあるめえ。キレたもん勝ちが罷り通るご都合主義はよぉ、シュライバーみたいな反則馬鹿以外には起こせねえんだ。おまえにそういう素質はねえよ」

 例え本当にこの劣等がメルクリウスの代理であったとしても、それだけは断言できるとベイは確信していた。
 やりあって分かったが、こいつにはそれだけの狂気が足りない。あの狂った馬鹿のアレを一つの才能とも捉えようものなら、古今東西、世界中を探したところであの殺戮の申し子に並べる奴などいやしないだろう。他ならぬベイでさえ一歩及ばぬのを屈辱と共に認めているのだから。
 だからこそ、このド素人には自分やアイツのような才能は、狂気は無い。己を一個の兇器と化し殺戮の為だけに力を振るうといった性格でもないのだろう。
 ならばボロボロになったこの状況、出し惜しんでるわけでもなく、こうも無謀な突貫を続けてくるのはそんなネジの外れた狂気以外の何が該当するのか。

「それとも、くくく……カミカゼ主義ってやつなのか? 相変わらず東洋人はワケ分からねえなぁ。気合で勝てれば、てめぇら戦争に負けてねえよ」

 そう、想いなどという精神的な何がしかで戦いに勝てるなら苦労はしない。
 出来ないからこそ、それをハッキリと理解していなかったからこそ、頭の足りない無謀さでてめぇら猿共は負けたんだろうが。
 半世紀以上も経ってるってのにつくづく学習しねえ劣等どもだなとベイは鼻で嗤う。
 侮蔑をありありと込めた嘲笑と視線、それに見下ろされながらもしかし相手を見上げる蓮の瞳は未だに死んではいなかった。
 この瞬間、一分一秒の刹那すら惜しむようにその思考が展開し続けていたのは反撃の糸口。
 もはや敗北は確定しきった状況、覆すことは明らかに不可能と断言されてもおかしくはない現実の中で、それでも生き汚いと罵られようが蓮はそれを手放そうとはしない。
 諦めてたまるか、殺されてたまるか、死んでたまるか。

 ――まだ、俺はこんな所で死んでしまうような存在ではないはずだ。

 根拠や確信があるわけでもない。傲慢や慢心がそんなものを抱かせていたわけでもない。
 だが事実として自分は“知らない”、ただそれだけが分かるのみ。
 そう、此処でこの男を相手に殺される――そんなエンドを藤井蓮は知ってはいない。
 だからこそ死なない、必ず生き延びる手だって残されているはずだ。
 それを掴み取る為に、その方法、糸口を必死になって探し出そうとしていたのだが……

「……気にいらねえな」

 ポツリと、頭上から呟かれたその一言。短く低く静かな声ではあったが、しかしそこに込められていたのは明確な苛立ちだった。
 事実、瀕死の獲物を見下ろす狩人には既に先程までの対象を心底にまで侮蔑しきっていたその嘲笑は消え失せている。
 挿げ替えるようにその端整な白貌に浮かび上がっていたのは隠す心算など更々ないのであろう不快さも顕にした苛立ちのみ。

「てめぇ、何だその面は?」

 気にいらねえ、再び舌打ちと共にベイが蓮へと示している不快を示した態度に彼の方が思い当たる理由などあるはずもない。
 だがそんなことはベイの方からすれば関係が無い。そのしつこさも生き汚さも相手が普通の獲物であったならばむしろその歯応えは賞賛に値しただろう。
 しかしながらこの劣等は普通ではない。少なくともベイはそう認識をした上で遊んでいた。
 先程までは半信半疑、否、むしろ予想以上に歯応えのないその無様さに本当は外れなのではないのかと本気で考え始めてもいた。
 しかしこうして相手が見せているその面、その眼つき、その奥底に持っているであろうある種の確信を見取り考えを急激に改め始めてもいた。

「まるで自分が死ぬはずなんてない……俺がてめぇを本当に殺せねえとでも確信してるような面しやがってよぉ」

 気に入らない、ああ気に入らない。それを見たことで急速に記憶の底から掘り返されてくる既知感がその苛立ちを更に加速させていた。

「覚えがある……ああ、その気にいらねえ眼つきはよく知ってるぞ」

 クソ野郎――メルクリウスとそれはまったくに同じもの。
 あの影絵のように面構えもハッキリとは終ぞ記憶は出来なかった朧な印象の中で、しかし滲み出るように嗅ぎ取っていたあの不快さだけは忘れられない。
 否、むしろ記憶どころかその存在すら消去したいにも関わらず、それも出来ないと言った方が正しい。
 だがそれについては今はいい。問題なのは――

「――てめぇ、あのクソと丸きり同じ眼つきじゃねえか」

 即ち、このヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイを見下しきったその態度、その確信。
 自分ではおまえを殺すことなど出来ないと、まるで言い切ったかのような舐めてくれた態度。
 侮辱……ああ、こいつは酷い侮辱だ。
 そしてそれは同時に――

「つまり、殺れるもんなら殺ってみろって……てめぇはそう言いてぇって事でいいんだよなぁ! ああっ! メルクリウス――ッ!?」

 ――最大限の挑戦だと、そう彼は判断した。


 怒鳴り声と同時、膨れ上がった殺気が爆発するように物理的なプレッシャーすら感じ取れるほどの勢いで叩きつけられる。
 半ば呆然としながらも、それでも常人なら卒倒しかねない気を当てられながら意識の手綱を手放さずに済んだのは、或いは覚悟を固めていたからか。
 しかしかつてないレベルの殺気を滾らせ、赤光を爛々と放つ視線を持って踏み出してくる相手に蓮は咄嗟に動くことも出来なかった。
 死が、迫ってくる。
 回避も、誤魔化しも、逸脱も許さぬ、明確で圧倒的な有無を許さぬ物理的な死が己のこの先に終焉を与えようと迫ってくる。
 甘んじて受け入れる以外に咄嗟に出来る事も何もない、死ぬはずなどないと確信していたはずの蓮の身にすら一瞬それを強制的に抱かせたその瞬間だった。

「蓮―――――ッ!!」

 深夜の公園、殺気を顕に振舞う眼前の暴君以外に音を発するものなど何も無いと思われたその中で、アスファルトを削るような勢いで加速と共に近付いてきた車輪音。
 直ぐ傍らを駆け抜けるように一陣の風が駆け抜けていったかと錯覚したその瞬間だった。

 鋼鉄の騎馬を駆る様に、沢原一弥がその自らが運転するバイクで眼前のカズィクル・ベイへと勢いよく突撃したのは……



 沢原一弥がその尋常ならざる雰囲気……公園内に禍々しく充満した殺気を感じ取ったのは敷地内に入って直ぐの事だった。
 発生源からかなりの距離があるはずだというのに、自分のような凡人にまで咄嗟に卒倒を行わせそうなむせ返る得体の知れない気持ち悪さ、本気で嘔吐しそうになったほどだった。
 これ以上は進むな、本能が最大限の警鐘をノンストップで鳴らし続ける中でそれでもそれに抗ったのは、自分の大切なものがその渦中にあるのではないかという危惧があればこそ。
 己を奮い立たせるように自らの内へと何度も言い聞かせながら一弥はその近付けば死以外にはありえないだろう殺気の源泉の元へと近付いた。
 そしてそこでハッキリと見てしまった。

 黒衣を纏った白貌のバケモノ……それに今にも殺されんとしている大切な幼なじみの姿を。

 その光景は沢原一弥の中の最後の一線を踏み越えさせるには充分すぎた。
 躊躇いどころか思考すらなく、ただ身体がそれを行うべき当然のものとして動いた。
 この瞬間を限定してのみ表すなら、彼は一個の機械と化していたともいえた。
 アクセルをフルスロット、ギアを最大限まで上げて、進むべき進路も確定。
 躊躇・迷いの一切を頭の中より排除し、ただ雄叫びのように護るべき大切なその存在の名を呼びながら飛び出した。
 その奥にいる自分の世界を脅かす異物、それをただ一心に排除する為に。



 結果、沢原一弥の駆るバイクが見事にカズィクル・ベイへとその突撃を成功させたのは事実だ。
 だが――

「――あ? んだてめぇは?」

 しかし、その結果として待ち受けていた光景もまた無情な現実に過ぎなかったが……。

 沢原一弥が駆るバイクの特攻、その車体を突き立てる牙に見立てた奇襲の突撃も、しかしベイからしてみれば脅威にも何もなりはしないのは当たり前のことに過ぎなかった。
 こちらをひき潰そうとでも狙っていたのか、その迫る前輪を無造作に片手で軽々と受け止めながら、ただ彼が視線に込めていた感情は退屈であり……そしてそれを上回る規模の苛立ちだ。
 それも当然、訳の分からぬ外野がいきなりの乱入……それも自らが怒りを顕にしようとしていた手前にである。
 例え相手が礼節を弁えぬ劣等人種……黄色い猿であろうが、否、それだからこそ尚更に爆発寸前だった怒りは更に増してしまうというものだ。

 結果的に言えば、沢原一弥の行ったその行動は――

「俺をバイクで轢き殺そうなんざ……シュライバーの馬鹿じゃあるめぇし本気で出来るとでも思ってたのかぁ!? ああ!?」

 ――怒れる魔人の怒りの火に更なる油を注いだ行為でしかなかった。


 怒号と同時、尋常ならざる握力は掴んでいたバイクの前輪を容赦なく握り潰す。
 それどころかそのまま受け止められ宙に浮いたままとなっていたその車体を運転手ごとベイは力任せに地面へと叩きつける。
 金属の軋む音と共に衝撃が強すぎたのか、そのまま車体は呆気なく破壊……どころか爆発し炎上してしまった。
 愛車の上から衝撃と爆発で容赦なく吹き飛ばされ地に叩きつけられた沢原一弥の方はと言えば、受けたダメージが大きすぎるのか悶絶したままその場を立ち上がることすら出来ない。
 炎上する車両の向こう側から、まるで幽鬼のように無造作に歩み出てきたカズィクル・ベイは、そのまま倒れている一弥に近付いていくと共に無造作に踏みつける。

「ギィ――――ッ!?」

 容赦なく骨が粉砕される激痛と衝撃に一弥は痛みにのた打ち回ることすら出来なかった。それすら許さぬと踏みつけたその状態のままベイが足を退けていない為でもある。
 蟻でも見下ろすように一弥を一瞥したベイは露骨な苛立ちを顕にした舌打ちと鼻息も荒くその苛立ちの矛先を別の対象へと向けていた。

「おい、マレウス。てめぇ、猿の外野の乱入なんざ許してんじゃねえよ」

 殺気すら籠もった不快を顕にしたベイの言葉に、しかし未だ悠然と観戦を決め込んでいた赤毛の魔女はただ鈴の音色のような声を笑いへと変換しながら返すのみ。

「だってさぁ、急な乱入だったんだよ? わたしだって驚いてるくらいなんだから」

 マレウスのその言葉に嘘を吐けとベイは不快気に鼻を鳴らす。
 最前、メルクリウスへの怒りで瞬間的に我を忘れていたこちらは兎も角、強かなこの女が周囲への警戒……ましてや侵入者の発見の有無に気付いていなかったはずがない。
 仮にこの魔女の言い分を信じてやったとしたとしても、疾走するバイクを横槍から排除するくらいの芸当がこの女に出来ないはずが無い。
 分かっていて、全て見越した上でこの魔女はワザとこの劣等がこちらへ乱入するように見逃したのだ。
 悪戯を成功させたかのような得意気な顔つきを隠そうともしていないにも関わらずに、しかもその言い分である。白々しいにも程がある。
 尚更に増してくる苛立ち、それを発散させるように踏みつけている足の方にベイは更なる力を込める。
 一弥がそれに更に絶叫を上げたことでむしろベイの不快さは更に増す結果になっただけであったが……。

「……で、何だコレは?」
「さぁ、見たところ彼のお友達ってところじゃないかしら」

 ベイの問いにマレウスがチラリと蓮の方へと視線を向けながらそう答えてくる。
 蓮の方はと言えば唐突な状況の急変に未だ理解が完全には追いつけていない。
 それどころか、ただ分かっている事実……このままでは一弥があのバケモノに殺されかねないという事実に顔を青褪めさせているだけだった。

「ベイ、やっぱりあの子、お友達を傷つけられる方がダメージ大きいみたいよ」
「ハッ、猿共の仲間意識か。くだらねえ」

 だが、とベイは一度区切りながら蓮の方へと視線を向けて嘲笑いながら告げる。

「おい、ガキ。俺は言ったよな……これで萎えさせるようなオチ付けやがったら許さねえってよぉ」

 そう言いながら更に踏みつけている足に力を込める。一弥はもはや呻き声を上げる気力も無いのか苦悶にのたうつのみといった状態である。
 やめろ……震える声で何とかそう呟こうとする蓮だったが言葉が上手く紡げない。
 その無様さを嘲笑うように見据えながら、ベイは足を退かし今度は無造作に一弥を掴みあげながら告げた。

「ペナルティだ。そこでこの劣等が死ぬ様をしっかり見学しとけ」

 宣告と同時、無造作にその腹へとベイは拳を叩き込んだ。
 一弥の口から血塊が吐き出される光景……それを見て初めて蓮の中で今までにかつてない怒りが爆発する。
 殺してやる、そう相手への憎悪や憤怒を抱くのが先だったが、しかしそれは即座に一弥を先に助けなくてはという安否へと移り変わった。
 すぐさまに駆けつけようと動きかける――も折れた足のせいで這うようにしか進めない。
 無様なその姿にベイの嘲笑が木霊する。

「おいおい、どうした? 足が折れてて進めねえのか? 早く助けにきてやれよ、オトモダチが死んじまうぞ?」

 そう言いながらベイは一弥を掴んでいた手を放す。宙に浮いていた一弥が地面へと落ちようとしたその瞬間だった。

「そら、これでまた距離が開いちまったなぁ!」

 宣告と同時、ベイの放った蹴りが一弥を蹴り飛ばす。
 吹っ飛んでいく一弥の後を、嘲笑と共に蓮を一瞥だけした後にベイは無造作に追いかけ始める。
 怒り狂いたい、叫びだしたい想いを必死に堪えながら、蓮は這って開いた距離を必死に再び詰めようと追いかける。
 だが絶望的に距離が遠い、速さが足りない。
 まだ拷問もどきで嬲っていてトドメを刺そうとはしていない様子とはいえ、あのバケモノの怪力に一弥がいつ殺されてもおかしくなかった。
 ベイが再び一弥を掴む。もはや意識は無いのか体力も気力も根こそぎ蹂躙されたのか一弥に抵抗の素振りは無い。むしろもう死んでいるのではないかと蓮は恐れていた。
 ベイの拳が一弥へと叩き込まれていく。血飛沫がまるでこちらにまで届かんばかりに真っ赤に周囲を染め上げていく。

 一弥が殺される。
 日常が壊される。
 大切なものが――奪われる。


「ふざ……けんなぁぁああああああッ!」

 こんなものは認めない、絶対に許さない、あってたまるか。
 傍から見れば無様で仕方が無かろうが関係ない、そんなものすらどうでもいい。
 ただ蓮が怒りと共に求めたのは力。
 一弥を助ける力を。
 日常を護るための力を。
 この既知の世界を未知で埋め尽くそうとする侵略者たちを排除する力を。

 藤井蓮は、狂おしいほどにまでそれを欲するように叫んだ。


『――では、ここで私の秘法を使ってみるかね?』

 声が、ここではないどこかから、知っているのに知らない誰かの声が響いてきた。




Dies irae, dies illa,
Solvet saeclum in favilla:
Teste David cum Sibylla.

Quantus tremor est futurus,
Quando judex est venturus,
Cuncta stricte discussurus!

Tuba, mirum spargens sonum
Per sepulcra regionum,
Coget omnes ante thronum.

Mors stupebit, et natra,
Cum resurget creatura,
Judicanti responsura.

Liber scriptus proferetur,
in quo totum continetur,
Unde mundus judicetur.

Judex ergo cum sedebit,
Quidquid latet, apparebit:
Nil inultum remanebit.

Dies irae, dies illa,
Solvet saeclum in favilla:
Teste David cum Sibylla.

Quid sum miser tunc dicturus?
Quem pattonum rogaturus,
Cum vix justus sit securus?

Rex tremendae majestatis
Qui salvandos salvas gratis,
Salva me, fons pietatis.

Recordare, Jesu pie,
Quod sum causa tuae viae:
Ne me perdas illa die.

Quaerens me, sebisti lassus:
Redemisti crucem passus:
Tantus labor non sit cassus.

Justus judex ultionis,
Donum fac remissionis
Ante diem rationis.

Ingemisco, tamquam reus:
Culpa rubet vultus meus:
Supplicanti parce, Deus.

Qui Mariam absolvisti,
Et latronem exaudisti,
Mihi quoque spem dedisti.

Preces meae non sunt dignae:
Sed tu bonus fac benigne,
Ne perenni cremer igne.

Inter oves locum praesta,
Et ab haedis me sequestra,
Statuens in parte dextra.

Confutatis maledictis,
Flammis acridus addictis:
Voca me cum benedictis.

Oro supplex et acclinis,
Cor contritum quasi cinis:
Gere curam mei finis.

Dies irae, dies illa,
Solvet saeclum in favilla:
Teste David cum Sibylla.

Lacrimosa dies illa,
Qua resurget ex favilla
Judicandus homo reus:
Huic ergo parce, Deus

Pie Jesu Domine,
dona eis requiem.
Amen.


 それはどこか聞いたことのあるレクイエム。
 歌が……歌が聞こえる。
 黄昏の浜辺。呪いという名の祝福を受けた、最美にして最悪の歌姫の歌声が。
 毎夜毎夜と聞き続け、首を飛ばされる終焉と共に終わる歌。
 それは藤井蓮にとっての――



『君は、既知感というものを経験したことがあるだろうか』

 告げる言葉はこの夜には既に聞き慣れたといっていい何処かの誰かのその声。
 酷く懐かしく、知っているはずなのに、自らが思い出すことを拒否しようとするようなこの声。
 ……ああ、そうか、と藤井蓮はふと気付く。
 要するに、俺はこの声の主が嫌いなんだ。
 そんな結論へと抱く中で、それを一切気にした様子も無く、既知感とやらの説明を長々と続けていく男の声。

 五感・六感に至るその全てにおいて知っているというその感覚。
 あらゆる事象・経験は既に経験した残滓に過ぎぬというその言い分。
 どのような幸福にも喜びがない代わりに、どのような恐怖にも恐れを抱かない。
 自分だけの楽園。永遠の刹那。

『大局的に観るならば、それこそが時間という概念の否定ではないだろうか』

 真なる意味で失うものは何も無い。己をとりまく有象無象は無限に死んで無限に生まれる、それと同じ。
 例えるならば水車。水はただ汲まれ続け、流れ続け、回り続けて繰り返すだけ。

『人も世界もそういうものだと自覚したらば、何を恐れることがあろうか』

 そう、故にこそそこに喜びも恐れも何もありはしないのだと声は言う。

『君は日々の感動なぞ求めてはいまい。
 未知を渇望する私とは異なり、既知を是とするのが君の本質であるが故に』

 ああ、その通りだと蓮は思う。
 だからこそ、この声の人物と己は相容れない。どれほど同じで似ていようとも、その本質は致命的に否なる者。
 故にこそ、気に入らないのだ。
 だが今はそのような己の瑣末な感情に構っている暇も無い。声の人物とてそれを知った上で持ちかけているのだろう。随分と性格が悪いと正直に思う。
 だがそれすら気にした様子もなく、その声は誘いかけるように告げてきた。

『さあツァラトゥストラ――。
 君の願いを叶えるために用意した、贈り物を受け取ってはくれないか』

 “彼女”は君と逢う為に、君は“彼女”を使うために。
 この世に生まれてきたのだから。
 例えるならば、それは運命の恋人とも呼べるものだと楽しげに声は告げる。

 泡沫の光景の中、移り変わる様に蓮の視界に次に映し出されたのは一人の少女。
 見覚えがある。あり過ぎる。……当然か、毎夜この少女とは出会い続けていたのだから。

『忌まわしい娘。呪われた娘。哀れな娘。罰当たりな娘。
 彼女を憎み、彼女を愛せ。彼女を護り、彼女を壊せ。
 彼女は世界の特異点。摂理の埒外に身を置く存在。
 死者であって、死者ではない。この世の概念から外れている存在』

 まるで憎むように、愛おしむように、慈しむように、畏れるように。
 少女を語るその声に含まれていた感情は、凡そ余人には理解しかねる得体の知れない激しい感情。
 だが声の主にとって、この少女こそが唯一無二の存在だということくらいは蓮にも理解が出来た。
 声は語る。彼女を表すその言葉を次から次へと。
 即ち永劫、即ち無窮、即ち不滅なるもの、即ち神性、即ち無限、即ち死後の生――
 そして行き着く結論こそ――

『――エイヴィヒカイト』

 ポツリと静かに低く、そして短く……しかしながらそれを誇るように。
 男はソレを語り始める。

『聖遺物を操り、法則を破壊する術こそがエイヴィヒカイト。
 私が編み上げ、盟友とその下僕たちに授けた秘法の銘がエイヴィヒカイト。
 しかしその真なる後継者は君をおいて他にない。
 君に彼女を与える事が、その証明だと思って欲しい。
 そう、例えば――』

 好き勝手に訳の分からない説明を述べながら、次に唐突に移り変わった場面は現実のあの光景。
 白貌の魔人が今まさに、その爪牙を持って己の大切なものを奪わんとしているその瞬間。
 蓮にとって視線は一弥を離れはしないが、生憎声の人物からしてみればそちらはどうでもいいらしい。
 むしろ促がすように見せたいのはその魔人の方。

『彼を見ろ。今にも君の大切なものを喰い殺さんとしている彼もまたエイヴィヒカイトを操る一人。
 千を超える魂を喰らい、自己を強化している獣の爪牙を名乗る一人』

 どういう種や仕掛けを持っているかは未だに理解不能だが、兎に角、しかし声が告げる眼前の相手は自分では歯が立たなかった化物だ。
 しかしそれを否定するかのように声は告げた。

『だがそれは、今の君が太刀打ちできない相手だという意味ではない。
 聖遺物は魂を求める故に、彼らは殺せば殺すほど、喰らえば喰らうほど強くなる』

 故にこそ、現存する爪牙の内に置いてならば、彼が一・二を争う存在であるのは事実だと声は肯定する。
 カズィクル・ベイは確かにそれだけに見合う魂を喰らってきている、と。

『しかし私は、数が質を圧するなどと説いたつもりは毛頭ない』

 それを彼らは正確に理解していない、嘆かわしいことだ。
 まるで出来の悪い教え子たちを憐れむかのようなそれは言い分だった。

『よろしいかね、ツァラトゥストラ――。
 私が君に贈るのは、人類最美にして最悪の魂。
 彼女と共にある君が、たかだか千や二千の雑魂ごときを、凌駕できぬはずがあるまい。
 断言しよう。
 君が“完成”した暁には、我が盟友に匹敵する存在にすらなるだろうと。
 ……私は、その時が待ち遠しい』

 まるで、否、これは絶対に自慢というやつなのだろう。
 しかも勝手に人を物扱い……つくづく気に入らないと蓮は思う。
 しかし、それも気にした様子も無く、どこか声は興奮に逸った口調で続けていく。

『故に彼女の魂と、魔法の言葉を贈らせてくれ』

 それが最悪のプレゼントだということは、凡そこの時に藤井蓮もまた予想できていた。
 だがそれでも構わない。甚だ不愉快、言ってることも理解不能だが、それでもこの絶望的状況を打開できる術を、力をくれるというなら是非は無い。
 使えるものならば、今は何だって使ってやる。
 だから本当に何とかできる力があるってんなら――それを寄こせ。

 これは契約。
 破滅を約束された悪魔と交わす、今この最高の刹那を護る為の契約だ。
 ならば――




『Verweile doch, du bist so schon.
時よ止まれ――おまえは美しい 』




 ――確かに、その言葉ほど相応しいものもないだろう。




『まずは初回サービス、私が手本を見せよう』
 上手く憶えたまえよ、などと気取った教師ぶった口振りに鼻を鳴らしながら、何でも良いから早くしろと蓮は急かす。
 無限に感じる刹那――秒を幾百幾千幾万幾億にも切り刻み、もはや停止にも等しい虚の空隙の中で行われた奇妙な会話。
 この声が何者で、この状況が何なのかなど分からない。
 だが自分の意志とは関係なく、今ならば身体が動く。
 魔人の爪牙が一弥へとトドメを突き立てんと迫るその瞬間もまた、その結果には辿り着けぬように停まっているにも等しい状況。

『今こそ疾走と共に駆け抜ければいい』

 背中を後押しするような声に導かれながら、蓮は立ち上がると共に駆け出した。
 己の内外で流れる時間の致命的な差異――その中を駆け抜ける蓮は遂に一弥にまで到達する。
 抱え込むようにボロボロの彼を掴み上げると同時、離脱の為に再び駆け出し始める。

『ついでだ、慢心している彼にこれは良い薬だろう』

 悪戯を楽しむような声が聞こえてきたと同時、右腕が己の意志とは関係なく持ち上がり一閃。
 一体何事かと戸惑う蓮に声は気にするなと何処か楽しむように告げてくる。

『それよりもだ、今のこの感覚を忘れぬよう。君はこれから精進せねばならない。まぁ尤も――』

 ――今は、一+一を二にするのが先だろうがね。

 そんな訳の分からぬ言葉に首を傾げようとしたその瞬間だった。

『時間だ。君の時間は通常の流れの中へと戻る。サービスはこれきり、後は自分で切り抜けたまえ』

 唐突に、無責任とも思える声がそう言い切った瞬間だった。
 時が――動き出す。
 無論、完全に停止していたわけではないのだが、蓮からすれば停止にも等しかった状態からそれは突然元の時間の流れに放り出されたのも同じだった。
 距離を幾分か離した背後から、地面を穿つ轟音が鳴り響く。
 思わず振り返ったそこで蓮が見たのは、獲物へとトドメの一撃を空ぶったことに初めて困惑らしい表情を浮かべた白貌の魔人の姿だった。



 一体何が起こったのか、相手は何をしたのか。
 身の程知らずの劣等に遊びを含んだ見せしめのトドメを行おうとしたその瞬間だった。
 己の放つ一撃が確実に命を絶つ……その拳を振り下ろした瞬間に当然のように確信していた。

 ――だが、それが今覆された。

 空振り地面を粉砕したその行為自体もそうだが、知覚も出来ずに横合いから半死人に獲物をかっさわられた事自体が間抜けの極み。

「……てめぇ、何をした?」

 問うて正直に答えるとは思っていなかったが、それでもその相手を睨み据えながらベイはその問いを発していた。
 だがその瞬間――

「……ベイ?」
「あ? 何だ、マレウ――」

 観戦を決め込んでいたマレウスが思わず目を見開きながらその彼の名を呟く。
 怪訝そうに彼女へと振り返りながら言葉を紡ごうとしていたベイの言葉は途中で止まる。
 彼自身もまた気付いたように自らの手を額へと持っていき……

「……くはっ、ははは……はーははっはっははは、ひゃはははははは」

 狂ったように笑い出す彼の狂態は蓮たちはおろか、マレウスまでもが思わず呆然と見ている他にない。
 だが外野の視線などまるで気にした様子もなく、ベイはその爛々と赤光を発する視線を喜色すら浮かべながら再び蓮たちへと向ける。
 実際、外野云々の視線などどうでもいい。もっと面白い事実がこの眼前には存在している。

「やりやがった……やりやがったじゃねえか、劣等!」

 それを愉快とでも言うようにベイは高々と笑う。
 その端整な白貌、その視線を隠していたサングラスはない。真っ二つにそれは切られて彼の足元に落ちている。
 それだけではない、その額には一線の切傷……そこから流れ白貌を僅かに染め上げていたのは彼自身の赤い血。
 一太刀……そう、先の劣等を助け出した手際も含めてどうやったのかはベイ自身も分からない。
 だがこの事実として、この結果が自身の眼前にある。
 正体不明の手際、聖遺物も不明。
 憎むだけでは到底足りぬあのクソ野郎……メルクリウスの相手は代理。

 だが間違いなくこの瞬間、藤井蓮はカズィクル・ベイにとって確かに彼の“戦争”の相手と認識された。

「――面白ェな!」

 瞬間、長々と上げられた哄笑と同時にそれは爆発した。
 殺気……そうとしか呼べぬが、そう呼ぶことすらも躊躇われる圧倒的なプレッシャー。
 物理衝撃すら伴う鬼気が、突風めいた威力をもって蓮の身体へと叩きつけられる。

「面白ぇ、面白ぇ面白ぇ面白すぎるぞこの虫ケラ劣等野郎!
 何だよ、やればちゃんと出来るじゃねえか。そうだよなぁ、そうだよなぁ! 例え猿でも男の子だ。そうだよそういう意地をもったいぶらずに最初から見せてろよ!」

 漸く、面白いオモチャを見つけた。
 鬼気でありながら稚気を滲ませる串刺し公は今までにない最大の歓喜をもって蓮を……獲物を見据えた。

「いいなぁ、いいぜおまえ。そそるぜ喰いてぇ堪んねぇ! 串刺して引き裂いて引き毟って、吊るして晒して啜ってやらァッ!」

 藤井蓮には到底理解不能と言っていい正体不明の歓喜。
 眼前の男が何かに歓び、同時にそれと同じくらいに何かに激昂している。
 押し寄せてくる殺意の波が、蒸発する血液が、蓮の視界を赤く染め上げていく。

 獣が駆ける。歓喜と憤怒を同時に混載した哄笑を上げながら、先程の比ではない勢いで迫ってくる。
 不味い、蓮とて咄嗟にそう確信したからこそ、何とかしようと動きかけるも――

「――ぐぅッ!?」

 先程までの停止に等しい時間の流れも、疾走できた万能感も既に身体からは失われている。
 それどころか、やはり先程の自分がやってのけた行為そのものが無茶の極みであったのか、ガタがきたように身体が満足にも動いてくれない。
 その間にすら獣は問答無用で迫ると同時、その爪牙で一弥もろともにこちらを引き裂かんと振り下ろしてくる。
 蓮にそれを回避はおろかもはや防ぐ術すらも残っておらず――

 ――殺られる!?

 ありえるはずもないはずの、その確信すらも咄嗟に強制的に抱かされ……



「ベイ……おまえは何をしている?」

 鋭利ながら、僅かな苛立ちを含んだ冷たい声。
 それこそ咄嗟に一弥を庇うように彼を覆いながら、覚悟を決めてそれに耐える為に瞑っていた目を恐る恐る開けると同時に響いてきた声だった。
 眼前には猛禽の爪のような状態で膠着したカズィクル・ベイの手。
 致死を込めて放たれたのだろう凶腕の一撃は、それこそ直撃していれば自分もろとも庇った一弥すらも粉砕していたことだろう。
 それを確信させる一撃……それを横合いから掴んで止めていたのは艶やかな長い黒髪の一人の少女。

「……何のつもりだ、レオン」

 静かに低く、しかし先程とは別種の感情……苛立ちを含んだベイの言葉が紡がれる。

「てめぇは何故、俺の楽しみを邪魔しやがる?」
「まずこちらの問いに答えて欲しいな、カズィクル・ベイ中尉殿。
 おまえは、いったい何をしている?」

 触れることそのものが死を招く、爆発寸前の爆弾のような危険さを露骨に連想させるベイの詰問に対しても、返す少女の言葉は臆す様子も欠片も無い冷たく響いた問いだった。

「何をしているか、だと?」

 ハッと露骨に蔑む様子も顕に、まるで当然の事だと言った様子でベイは少女の問いへと答えなおす。

「見て分からねえのか、遊んでんだよ。
 こいつがそうだって言うんなら、試験にもなるわなぁ。……だから、邪魔するんじゃねえよ」

 俺のオモチャだ手を出すな、そう傲慢さも顕に荒々しく告げるベイの返答に対して、少女の彼を睨む眼は、更に細く冷たいものへと変わっていく。

「なら、彼は合格だろう。経緯はどうあれ生き延びた」

 キッパリとそう告げながら、既に傷痕も修復された白貌を睨み据えながら更に本題を続ける。

「先の問いには、おまえの行動が我が師や聖餐杯猊下の意向を逸脱しているからだと答えよう。更に言うなら、この件に関してはお二人より私に一任されている。こちらの指揮には従ってもらいたい」

 少女が告げた指揮という単語、そこに反応したようにベイの赤眼は初めて眼前の蓮から少女へと移る。

「俺が、おまえの指揮下にあるだと?」
「猊下から聞いていないとは言わせないぞ。理解できなかったのなら、もう一度私から分かりやすく言ってやるが?」

 冷たくそう告げると同時、蓮の眼前で掴み止められているベイの腕がギチギチと軋むような音を立て始める。
 少女が更に握った腕に力を込めている証拠なのだろうが……正直、先程までほぼ全ての攻撃をことごとく無力化された蓮からして見れば、到底信じられぬ現象でもある。
 こんな華奢な少女の繊手にどれ程の怪力が込められているのか。
 或いは、この少女もまたやはり眼前の男と同類なのか……?

「彼に関して、おまえに生殺与奪の権利は無い。これ以上逆らうなら、黒円卓に対する叛意と見なすぞ? おまえの名誉は忠誠ではないらしいからな」
「――――」

 少女が最前まで以上に冷たく告げたその言葉……男にとって警告とも言えるのだろうそれにベイはただ沈黙を持って答えとする。
 それが返答……そう蓮もレオンと呼ばれていた少女もまた思っていたその時だった。

「くはっ………」

 思わず漏れ出た、そう思わせるような笑い。
 同時、もう辛抱ならんと言わんばかりに再び笑い始めたカズィクル・ベイ。
 蓮もレオンも怪訝と呼べる表情をありありと浮かべながら相手のその様子を見続けていた。




「面白ぇ――叛意ときたか。了解、了解したよお嬢ちゃん」

 まったく、劣等ってのは俺を笑い殺す気でもあるのかとつくづく的外れたジョークの数々にヴィルヘルム・エーレンブルグは笑いを抑えきれない。

「黒円卓が生まれた時に生まれてもいなかった奴に言われたらお終いだが、お前が正しい。ああ正しいとも。名誉は大事だよなぁ、名誉はよぉ」

 忠誠こそ我らが名誉。
 かの黄金の獣の聖槍より賜った聖痕の誓いが示す通り、獣の爪牙としてそれは何よりも遵守せねばならない事柄の一つだ。
 ましてや己はカズィクル・ベイ。黒円卓の第四位にして現存する爪牙の筆頭でもある。ならばそれは尚更に大事であり、ベイにとってのそれは誇りも同じ。

 ……その俺が黒円卓への……黄金の獣への叛意?

 面白い、面白すぎるジョーク。だが面白すぎるせいか逆に笑えない。
 ましてやそれを言ってきたのは新参者、四半世紀も生きてはいない黄色い劣等だ。
 劣等……猿の分際で高らかにあろうことかこの自分にそんな事を言ってきたのだ。
 最高のジョークじゃないか。

「だからこのガキの事はもういい。知らん。バラそうが、逃がそうが、股座開いて乗っかろうが好きなようにするがいいやな。だが――」

 そう言うなら、もう別にいい。惜しいとは確かに思うが構わない。
 興も殺がれたし、正直白け過ぎた。だからもうこの際、今はこの劣等も放置で構わない。
 ああ、そこにはもう何の異議も無い。
 だが――

「おまえはなんで、俺に触れてる?」
「……何?」

 これだけは放置できないだろう。猿風情が汚い手で己の手を当然のように掴んでいる。
 ああ、それは許しちゃいけねえよなぁ――――!

「てめえは、劣等の分際で、何を馴れ馴れしく俺の身体に触れてやがるって言ってんだよォッ!?」

 瞬間、今まで溜め込んできた怒りを解き放つように、ヴィルヘルムは己が力を解放していた。



 一瞬、相手が何をいきなり言い出したのか流石に止めた側である櫻井螢もまた怪訝に思ったその瞬間だった。
 爆発する怒気、顕になる殺気。
 瞬間とはいえ、“形成”されたカズィクル・ベイのその力――

「――――ッ!?」
「――が、ぁ」

 咄嗟だった故に形振り構ってはいられず、手荒い扱いになってしまった。
 しかしベイに殺されかけていたその少年……とその少年に抱えられているもう一人の先程出会った別の少年。
 彼らを手加減はしていたが力任せに突き飛ばす以外に方法は無かった。
 派手に吹っ飛んでいって衝撃と痛みに呻いているが、そうしていなければ命の保障は無かった以上、ここは大目に見てもらうほかない。
 螢自身にしてみたとしても、ギリギリであり危ないところだったのだから。

「……やってくれるな。死にたいのか、ベイ?」

 現状の黒円卓では禁じられているはずの同胞殺し……尤も、相手はこちらを同胞などとは欠片も思ってはいないのだろうが……どちらにせよ、相手は今、黒円卓で定められていたルールを破り、こちらに牙を向けてきたのだ。
 短気や好戦的でなかろうとも、命を脅かされた以上、そう温厚に対応する心算も螢にはない。

「そりゃあこっちの台詞なんだよ。四半世紀も生きてねえチンケな猿が、誰にタメ口利いてやがる」

 そしてどうやら、逆鱗に触れてしまった様子である相手もまたそれを抑える心算は毛頭ないといった様子だった。
 互いに一触即発の睨み合いの中、先に口を開いたのは螢。

「殺す気だったのか?」

 問いの意味は自分も含めた、先の少年たちに関しての事柄でもある。
 螢の問いを鼻で嗤う様にベイは冷やかに切り返す。

「それはてめぇが防ぐんだろうが、レオンちゃんよぉ。結果的にはそうなってるじゃねえか」

 だがそう自分が動いていなければ、少年たちが死んでいたのは事実。そして死んでいてもおかしくはなかった。
 殺すな、そう先程命じたばかりだというのに早々の命令違反。

「…………」
「くく、かはははははは……濡れたか? 勃ったか? 発情中か?
 猿同士で乳繰り合いてぇんだろうが劣等野郎。見ててやるから淫乱しろや」

 品性も何もあったものではない下劣な挑発。乗ること自体が甚だ不愉快ではあるものの……こいつが危険であり、邪魔な存在だというのも事実だ。
 ルールを乱す輩は儀式の成就を妨げる不穏分子も同じ。そしてそれは櫻井螢の願いを邪魔する障害であることも同じ。
 ならば……早い内に排除するのも一つの手だ。

「……殺すか」
「やってみろよぉ!」

 相手もそれは了承済みの様子、ならば構うまい。
 新参だの劣等だの、舐められてばかりもいられない。現存する最強の爪牙様とやらを仕留め、こちらの箔付けへの踏み台となってもらおう。

「……そろそろ、ここで一つスワスチカを開いておくのも良いだろう」
「同感だなぁ。新参、てめぇの命で責任持ってちゃんと開けよォッ!」

 咆哮と同時、先手必勝とばかりに踏み込んでくるのはカズィクル・ベイ。
 その爪牙に見立てた掌程の一撃……流石に受ければダメージは免れないだろう。
 だがそんな単調な軌道の一撃、わざわざ貰ってやるほどこちらもまたお人好しではない。
 瞬時に、見切り、躱す。同時、そのすれ違い様に各種急所へと正確な打撃を次々と打ち込んでいく。
 流石に櫻井螢もまた聖遺物の使徒。ベイ同様に魂を強化されたその身体による攻撃は何の庇護も無い通常の藤井蓮の一撃とは違い、ダメージが皆無というわけでもない。
 尤も――

「効かねえよ! そんな温い攻撃なんざなぁっ!」

 物ともしないという勢いで身体を旋回させるベイ。繰り出した拳を弾き飛ばされた螢に向かい再びその爪牙の一撃を繰り出さんと迫る。
 しかしそれに対し、叩きつけてくる相手の一撃……その腕を躱しながら掴むと同時、そこを支点に引っ張り自身も飛び出した膝蹴りがベイの顔面に迫る。
 直撃……そう螢もまた確信し、故にこそ頭部を砕く心算を持ってそれを繰り出したはずだった。
 だが――

「―――ッ!?」
「ハッ、堅さ自慢で俺に勝てると本気で思ってたのかよ?」

 瞬間、迫り来る一撃に対し、ベイは逃げるどころかその彼女の膝を目掛けてヘッドバットをかますように自ら叩きつける。
 威力負けし、吹き飛ばされたのは螢の方であった。無論、相手もまた完全に無傷というわけでもなく、衝撃で若干蹈鞴を踏んでいたが。
 だが螢の方は打ち負けて吹き飛ばされながら、それでも危なげもなく着地は成功させたものの、膝に走る痺れに思わず舌打ちが漏れる。
 膝を破壊されたわけではない。よしんば破壊されたとしても聖遺物の使徒の回復力ならばそう時も要せずに元通りになる。
 問題は、負傷ではない。仕留めにかかった一撃で逆に打ち負けてしまったその事実だ。

「おいおい、舐めてんのかレオンちゃんよぉ。てめぇと俺じゃ経験(キャリア)も喰らってきた魂も段違いだっつーのが理解出来てねえのかぁ?」

 これだから劣等は、そう嘲笑い見下す相手の言い分……しかし大変不快で不本意だが、一理あるというのもまた事実だ。
 格上、そう確かにヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイは、櫻井螢を上回るそんな存在であるのは事実だろう。
 実力では一歩及ばない……流石にカインと並ぶ爪牙最強の看板は伊達では無いということか。

「……だが、届かないわけでもない」

 戦いにほぼ絶対というものはない。師から叩き込まれた戦闘理論と攻防を交わした螢自身の感覚から見ても、これは絶望的に埋められぬ差というわけではないはずだ。
 創意工夫のやり方次第で下せる、そう螢が考えていたその時だった。

「――で、いつまで出し惜しんでるつもりだよ?」

 ベイがさっさと出せと顎で促がす仕草を持って告げてくるその言葉。
 当然、彼の言葉の意味が螢に分からぬわけではない。

「俺を本気で殺るつもりだってんなら、さっさと聖遺物を出せよ。ソレ以外で俺を殺れるなんて戯けた錯覚抱いてるわけでもねえだろうが。……それともあれか、俺が先に出してやらなきゃお嬢ちゃんはビビッて出せないのか?」

 拳をバキボキと露骨に鳴らしながら、間合いを詰めて告げてくるその挑発。
 良いだろう、元より殺す心算だ。相手からもその許可が出ている以上、躊躇ってやる義理もまた螢にもないのは事実だ。
 故にこそ、その挑発に乗るように、櫻井螢は虚空に“あるモノ”を掴むように構えて静かにその一言を紡ぐ。

『Yetzirah
  形成 』

 瞬間、燃え上がるように螢の手元に現れたのは一振りの炎を纏った剣。
 この国特有の刃物……刀よりも古い、古代において祭儀に用いられた剣と酷似した形状の武器である。
 これこそが聖槍十三騎士団黒円卓第五位、レオンハルト・アウグストこと櫻井螢が保有する聖遺物。

「――緋々色金。これが私の聖遺物。さぁ、私は抜いてやったぞカズィクル・ベイ」

 おまえも出すなら早くしろ、炎の剣を構え告げる螢の挑発に相手もまた面白いと鼻を鳴らしながら獰猛な笑みと共に同じく一言。

『Yetzirah
  形成 』

 瞬間、ヴィルヘルム・エーレンブルグを中心に発する闇は、彼の体の至る所に赤黒い異物を次々と生み出していく。
 それは杭。相手を串刺し、その血を飲み干し、亡骸を吊るし上げる、彼にとっての処刑武器。
 カズィクル・ベイが誇る聖遺物、今まで数々の魂を喰らってきたオーダーメイドのその一品。
 闇の賜物(クリフォト・バチカル)……そう呼ばれる串刺し公と恐れられた偉人の血をベースに作り上げられた聖遺物だ。

「……その下劣な性格そのままの、禍々しさ溢れる姿だな」
「そいつはどうも。だがなレオン、その棒きれでてめぇは本気で俺に勝つつもりかよ」

 笑わせると見下す全身凶器。確かにその姿に比べれば、己のこの一振りは或いは脆くも相手には見えるかもしれない。
 しかし――

「心配無用だ、ベイ中尉。貴様はその棒きれで朝陽を待たずに燃やし尽くされる」

 螢のあからさまな挑発返し、それにベイはあえて乗りながら高々しく叫んだ。

「面白ぇ! 俺を燃やし尽くすってんなら、ザミエルくらいの火力はちゃんと持って来いよ!?」

 そう叫びながら、その腕を振るい飛ばすのは全身より生えている無数の杭。
 ハリネズミのように生えるソレを容赦も呵責も一切無く、カズィクル・ベイは次々に繰り出していく。
 対する螢は正眼に剣を構えると同時、迫り来る杭を片端から切り捨て、本体を両断する為に駆け出した。
 異能を振るう魔人たちの戦いは、いよいよと白熱したものへとなっていく。



 ……アレは何だ?
 激痛が走り朦朧としている意識の中、霞む視界の端で行われている異能の戦い。
 先程までの相手云々が既に常識離れしたものであったが、それにしても今行われているのは更に輪をかけて度が過ぎた出鱈目だ。
 少なくとも、藤井蓮の知る常識の枠内にあのような異形の凶器を種も分からぬ方法で出現させる手品は存在しない。
 否、存在してはいけないとそれは言ってもいいだろう。
 黒髪のレオンと呼ばれていた少女が振るっている炎を纏う剣もそうだが、ヴィルヘルムだかベイだかいう男が全身から生やしているあの杭……あれらは一体何だというのか。
 一目見た瞬間、それでも蓮が確信できたのはただ一つ。
 アレらは危険だという、本能が警鐘鳴らしたてる警戒のみ。
 だがそう思う一方で、自分の頭の中の何処かが告げていたのもまた確かだった。

 俺はアイツらが扱っているアレを知って――

「……うぅ……ッ……れ……ん……」

 微かな呻き声と共に起こる身じろぎ。それが少女に押し飛ばされた拍子に吹き飛び隣で転がっている沢原一弥のものと気付き、蓮はそちらに漸く意識が向いた。

「か、一弥……大丈夫、か……?」

 足が折れて這って近付かなければならないのがこの上もなく歯痒く感じる。だがそれでも大切な幼なじみの安否が気になる以上は愚痴っている暇も無い。
 たった数メートルの移動に大幅な労力を伴いながら、それでも一弥にまで辿り着いた蓮は彼の容態を確認する。
 素人目に見ても恐らくは重傷。それもそうだろう、あれだけバケモノじみた男の怪力に嬲られたのだ、生きているだけでも運が良かったとも言える。
 兎に角、早く一弥を病院に連れて行かなければ危険だ。そう思った蓮は折れて移動もままならない自身の足と身体に鞭打ちながら、それでもやるしかないと一弥を背負って動き始める。
 幸い、奴らは内輪もめか何かの殺し合いの真っ最中。既にこちらの事など忘我の彼方なのか完全に意識の埒外だ。
 ならば今が最後にして最大の好機でもある。今の内に、今ならば逃げ――

「ばぁっ」

 ――と、そこでまたしても立ち塞がるように現れる少女を装う赤毛の魔女。

 当然、眼前の人物の登場に蓮の脳裏に絶望が広がったのは言うまでもない。
 不味い、完全にこいつの存在を忘れていた。今まで日和見を決め込んでいたとはいえこいつもまた男の仲間であることは間違いないのだ。このまま自分たちを見逃すなど……そんなこちらに都合の良すぎることあるはずもない。
 ならばどうやって切り抜ける? 焦る思考の端でその方法を高速で必死に探そうとする蓮を他所に、マレウスと呼ばれていた少女は鈴の音を転がしたような笑い声と共に言ってくる。

「そう警戒しなくたっていいって。わたし、あなたたちに危害を加えるつもりなんてないし」

 そう言いながら覗き込むように膝を折ってこちらに視線を合わせながら、マレウスは告げてくる。

「それどころか、質問の返答次第であなたとあなたのお友達、助けてあげてもいいわ」

 急にそんなことを言ってきた相手の意図が分からず、困惑を示す蓮。しかしマレウスはそれに気にした様子もなく、既にその質問とやらに勝手に移行していく。

「ねぇ、あなた……さっきベイ相手に何をしたの?」

 表情と口調そのものは可憐を装った外見相応の愛嬌にも満ちたもの。しかしその本質、そのこちらを逃さぬ視線と発する雰囲気は食虫植物めいた妖艶で……そして恐ろしくも感じる得体の知れない気味の悪さだ。
 ゴクリと生唾を思わず飲み込みながら、対峙する少女からせめて視線は逸らせないものかと抵抗しようとするも、何故かそれが許されない。
 己がそれこそ正しく、その妖花に捕食寸前で囚われていることを蓮はそこで初めて自覚した。

「わたしも目を離したつもりもなかったし、しっかり見てたんだよ。それこそベイだって耄碌してない限り同じでしょうね。……けど、よく分からなかった。気付いたらあなたはベイからお友達を取り戻していた。しかもそれだけじゃなく――」

 そこで一旦区切りながらマレウスがその手に掲げてこちらへと示してみせたのは真っ二つにされたサングラス。
 先程まで、確かにベイが掛けていたそれであり、そして同時に――

「――コレ、それとベイの額の傷。君がやったんだよね?」

 まるで傑作だと言わんばかりに楽しげに言質を取ってくるマレウス。
 正確に言えば、一弥を助けた行動とは違い、そちらは蓮の意志でやったものではない。
 しかも、どちらにしろどうやったかすら当人の蓮だって分かっていないのだ。
 そんな蓮の内心を知ってか知らずか、どちらにしろある種の興奮すらもしているようなマレウスの言葉は止まらない。

「凄いよねぇ、カッコ良いよねぇ、一体どうやったのかな? それがあなたのエイヴィヒカイト? どんな聖遺物を使ってるの? ううん、それよりも――」

 瞬間、それこそ息が止まるかと思った。否、実質止まっていた。
 それどころか、意識を手放さずに済んでいたのが何たる僥倖かと言ったところか。

「――アレって、あいつに教えて貰ったんだよね?」

 その言葉を告げたその瞬間、その一瞬のみは確かに眼前の少女もまたあの時に襲い掛かってきたベイと寸分変わらぬ存在であった。
 圧倒的な興奮と高揚……そしてそれに勝るとも劣らぬ激しい憎悪。
 それが彼女自身が言葉の中に出した「あいつ」とやらに向けたものなのかは知らないが、それは凡そ尋常な感情ではなかった。
 あいつ……彼らが言っていた言葉から察するならばメルクリウスか? それが何処の誰かなど蓮にはサッパリ分からないが、それでもハッキリと理解できることがあるならばただ一つだ。

「……人違い、だ」

 蓮が告げたその言葉に、マレウスはそれこそ「え?」と言った驚きも顕にその表情をポカンとする。恐らく、蓮の言った言葉の意味が理解できなかったのだろう。
 舌打ちを吐きながらも、もう一度、無駄を承知の上でそれでもハッキリ分かるように蓮はマレウスへとその答えを再び告げる。

「俺は……おまえらの言う、メルクリウスだか何だかなんて、知らない」

 知りたいとも思わない。
 ハッキリと告げる蓮のその言葉に呆気に取られていたマレウスはやがて――

「あはっ………あはは……あははははははは」

 まるで最高に笑えるジョークでも聞いたと言わんばかりに腹を抱えるように笑い出すマレウス。
 その様子に蓮は警戒を顕にしながら、その視線を離さない。
 ベイのようにいきなり襲い掛かってきた場合は、何とかしなければ、せめて一弥だけでも命懸けで護らなければと決意を固めていたその時だった。

「……あは……ははっ……あぁ、お腹痛い。……本当に、面白いこと言い出すね、君?」

 未だ肩を愉快気に震わせながらも、それでも何とか笑いだけは収めた様子でマレウスの方からそんな言葉を投げかけてくる。
 その眼に宿り蓮を捉えて離そうとしないのは、掛け値の無い興味。どうやらその一心であるようだった。

「うん、合格。わたし、君が気に入ったよ。だからぁ――」

 そう言いながらゆっくりとマレウスの手がこちらへと伸びてくる。身構え振り払おうかと咄嗟に抵抗しかけるも、その相手の動作は優しげでありながら有無を言わせぬものだった。
胸から腕へ、そして足へ……全身の負傷箇所へと添えるように差し出されてきた後に残るのは何とも言えないこそばゆいとも表現できそうな奇妙な感覚……。

「良いもの見せてもらったし、楽しませてくれたお礼。約束通り、お友達共々わたしが助けてあげるよ」

 ニコニコと笑いながら平然と言ってくるその言葉と同時、添えられていた手が離れたと同時に知覚したその事実に蓮は驚愕する。
 傷が……痛まない?

「いわゆる応急処置なのだ」

 どこか悪戯っぽく、そして同時に自慢げに蓮へと告げると共に、マレウスは次に同様の処置を一弥へと施していく。

「痛いの消してあげるから、後でちゃんと病院に行くのよ。飛んだり跳ねたりしたら駄目だからね」

 まるで親切なお姉さん気取りでそんな事を言ってくる相手の真意……この行動の意図が蓮には理解できない。
 鳩が豆鉄砲でも喰らった、まさにそんな顔をしていたのだろう。それを見たマレウスの方が、

「て、なーによその顔、人が折角親切心出してるのにさ」

 本気なのか冗談なのか、不満気に可愛らしく口を膨らませそんな抗議を示してきていた。
 無論、訳の分からない蓮にコメントの余地はなかった。

「まったく、少しは感謝して欲しいものだよ、美少年くん」

 そちらから問答無用で襲い掛かってきておいて何をいけしゃあしゃあと、などと当然のように思ったりもしたが、相手の言動を測りきれていない以上、下手に刺激するのも危険かと押し黙る。
 それにマレウスの方がどう思ったのかは分からない。ただやれやれと呆れた様子で溜め息を吐いた後、次に彼女が蓮から視線を外して捉えていたのは、未だ異能の殺し合い真っ最中のあの二人の方であった。

「もうちょっとくらい君とお話してたかったんだけど……聖遺物まで抜いてドンパチやってるあっちもそろそろ止めないといけないのよねぇ」

 ほんと脳筋て手間がかかって嫌よねぇ、と蔑む笑いも零しながら告げるマレウスは再びその視線をこちらへと戻してくる。

「じゃあ、名残惜しいけど今夜はこれでお終いにしよっか。ああ、色々とごめんなさいね。教会がどうとか、あれ冗談だから。てゆーか、そんなこと出来るわけないし」

 あっけらかんと、先程火点けと称して告げてきた挑発を撤回するマレウスの言葉に、それこそ蓮が何かを言い出すその前に、彼女の指がピタリと眉間へと突きつけられる。

「ほんと君、面白いよねぇ。……食べちゃいたいくらい。じゃあ、またいずれ会いましょうか美少年くん――ううん、ツァラトゥストラ」

 同時、蓮の身体は制御を失い、力無く地面へと崩れ落ちていった。
 それを満足気に確認し、頷きながら、赤毛の魔女は何事かを気の抜けた声で言いながらあの殺し合いをしている二人の方へと近付いていく。
 その結末を最後まで見届けるその前に、藤井蓮の意識は急速に途切れていった。



「はぁいはぁーい、終了撤収―、ほらそこ、いつまでジャレてんのよぉ。やめてくれないとわたし泣くよー泣いちゃうよー、わたしが泣くと大変だよー、だから仲良くしよーよー」

 間の抜けた赤毛の魔女からの仲裁の言葉。
 だがそれを投げかけられた死闘に意識を投じる二人の魔人が返答と抱いた感想は奇しくも同じもの。
 即ち――

 ――知るか、阿呆。

 そう、今更そんなチャチな仲裁一つでどうして止められるというのか。
 もう既に、自分たちには火が点いてしまっている。
 下らない外野からの妄言に感けている暇すらも無い。

「――てめぇだってそうだろう、なぁレオン!」

 その絶叫と同時に再び飛ばすは“形成”した杭の群。
 串刺しの穴だらけ、血も魂も啜り取った干乾びた成れの果てへと変える為のその猛撃はしかし眼前の相手が構える炎の剣が尽くに切り裂き、燃やし尽くしていく。
 それだけではなく――

 小さく息を一度吸い込むと同時、櫻井螢は今まで身構えていたその姿勢を更に腰を落とした低い姿勢を保ちながらヴィルヘルム・エーレンブルグに向かい疾走。
 獲物を瞬時に狩りたてる為に疾走する捕食獣を連想させるその動きは、超人的脚力の恩恵も伴い、瞬時に彼我の距離の差を踏破する。
 下段から振り上げるように切り払われる緋々色金。灼熱を宿す剣先がヴィルヘルムの身体に生えた杭を斬り飛ばしながら、白貌の髪の一房をも切り取っていく。
 首から上の部位を斬り飛ばす意図で振り抜いた一撃……それをギリギリで躱しながらヴィルヘルムが表した表情は笑み。

「――面白ぇ!」

 ハッと小さく鼻を鳴らした笑いを飛ばしながら、一歩下がると同時にお返しとばかりにヴィルヘルムが繰り出したのは拳の先端に生やした杭。
 螢は咄嗟に緋々色金の刀身にて受け止めるも拮抗は一瞬。力負けと同時にその身ごと弾き飛ばされる。
 その姿をただ見送る――などと戯けた甘いことをヴィルヘルムがするはずもない。
 追撃だと言わんばかりに射出した杭の群が、宙を吹き飛んでいる螢へと向かって殺到していく。
 宙を弾き飛ばされていた態勢から、空中にて器用に瞬時に態勢を立て直した螢は迫る死棘の数々を握る緋々色金によって全て薙ぎ払う。
 宙にて追撃を薙ぎ払った螢は、そのまま着地と同時に再びヴィルヘルムへと向かって疾走。
 焼き直しのように繰り返してくる相手の特攻に、それこそヴィルヘルムの顔に侮蔑の笑みが浮かんだのは言うまでもない。
 特攻を敢行してくる螢に対し、ヴィルヘルムは真っ向から逃げる心算は毛頭ないと示すように待ち受ける。
 相手がこちらの間合いへと踏み込んできたのと同時だった。
 ヴィルヘルムはその長い足――先端に杭までプラスしたリーチの長さをもって真正面から突撃してくる少女を串刺しにせんと繰り出す。
 相手のリーチ外からの攻撃に螢は迷うこともなく跳躍。杭を蹴り出して来たヴィルヘルムの一撃を躱す。
 だがそれは同時に逃げ場のない宙へと自ら身を晒したのも同じ。

「バカが! 串刺しにしてやるよぉ!」

 宣言と同時、前方跳躍してこちらへと向かってくる少女にヴィルヘルムは今までの比ではない数の杭を相手へと叩き込むべき一気に解き放つ。
 元より、空中に身を晒す螢に逃げ場は無い。ましてや繰り出された杭の数は例え超人的身体能力と動体視力を有する聖遺物の使徒であれ、無傷で裁き切れるものではない。

「……ああ、無傷ならばな」

 だが最初から彼女の頭の中に、この眼前の魔人を相手に無傷で勝てるなどと都合の良い考えなどありはしない。
 仮にもカインと並ぶ実力者……肉を切らせて骨を断つ、それくらいの考えは最初から織り込み済みだった。
 故に、迫り来る死棘の猛攻、それを螢は致命傷を避ける必要最低限のものだけを選別して切り払い、他の襲い掛かる攻撃には歯を食いしばって耐え凌ぐ。
 勢いを落とさず、怯むこともなく真っ直ぐに、そのまま一気にヴィルヘルムを刃圏の間合いへと捉える。
 同時、再び翻り振るわれた灼熱の剣。
 流石のヴィルヘルムも相手が被弾を前提にしてまで攻撃を仕掛けてくる覚悟だとは予期していなかった。迎撃の為に繰り出した杭の残りでは緋々色金を防ぐには足らず、そして間合いを外して回避しようにも迫る刃の方が速い。

「ッ!?……やってくれるじゃねえか、劣等」

 苦々しく、しかし同時に何処か歓喜すらも同等に含んだ呟きによって、ヴィルヘルムは螢の繰り出した攻撃による功績を素直に認めた。
 咄嗟に防御の為に伸ばした左腕……その二の腕に喰い込みながら傷口を焦がすように熱を発しているのは緋々色金の刀身である。
 一太刀……同じ聖遺物の使徒といえど四半世紀も生きていない黄色い雌猿が小賢しくも証明してみせた功績。
 どうやらこの半世紀、思った以上に己もまた倦怠の中で腑抜けていたことも反省の余地ありだが、それでもこのヴァルキュリアの後釜が示して見せた実力はハッタリではない。

「……っつてもまぁ、俺の方がやっぱ強えがな」
「――ッ!?」

 ニヤリと笑いながらヴィルヘルムがそう告げたのと同時だった。白貌の魔人は更に動けば深く食い込む刃など物ともせず、そのまま近距離で対峙したまま固まっていた相手へと問答無用の拳の一撃を叩き込む。
 殴り飛ばされ螢が吹き飛んでいくのと同時に、嫌な音を立てて抜けていく緋々色金と蒸発し切らなかった血液の残りが血の線を引きながら一緒に離れていく。
 痛みはそれなりにある。血を流したというその事実にも色々と思うことはあるがそれも今はどうでもいい。
 それよりも――

「気概は認めてやるがよぉ、レオンちゃん。まだ温ぃんだよ。この程度の熱で俺を燃やそうなんざ……まさか本気で言ってんじゃねえだろうな、ああ!」

 そう猛る恫喝を顕にするヴィルヘルムに、吹き飛ばされた螢は再び構えを戻しながら無言のままに戦闘続行の意志を示すように対峙してくる。
 まだまだやる気は充分ということらしい。当然のことではあるが……まぁ上等だ。

「てめぇ、まさか位階は“形成”止まりなんてことはねぇだろ。チマチマ小手先でやり合うのも面倒だ。――出せよ、切り札をよぉ」

 それとも今度はこっちから出してやろうか、と再び挑発を示してくる相手に、螢は再び相手の意図していることを理解する。
 要するに、“活動”、“形成”と来た以上、次はそろそろ本気の全力でのぶつかり合いを相手はご所望らしい。
 爛々と赤光を放つ鋭い眼光が、切り札を見せてみろと挑発的に誘いかけている。
 元より螢とて“創造”も使わずに眼前の男に勝てるなどとは思っていない。向こうの面倒な攻撃のことも考慮して、そろそろ使用も視野に入れながら動き出そうとした瞬間だった。


「――だからぁ、わたしはさっきから終了って言ってるでしょうが。こんな簡単な言葉も理解出来ないのかなぁ、あんたたち筋肉バカは?」


 踏み出しかけていた螢の足がビクリと強制的に止まる。それは迎え撃つように動こうとしていたヴィルヘルムもまた同様だったらしい。

「マレウス、てめぇ……ッ!」

 忌々しそうにヴィルヘルムが睨みつけながら呟くのは、螢ではなくもう一人の乱入者の呼び名。
 視線のみ動かせる螢もまたヴィルヘルムが睨んでいるその方向を同様に鋭い視線で睨み据えた。

「何よ、命令に違反してるのはあんたたちでしょ? わたしはそれを止めてあげてるのに、八つ当たりしてくるなんてお門違いだと思うんだけど」

 制止を無視された事に腹が立っていたのか、不機嫌そうな眼つきと口調でヴィルヘルムを相手に怯むこともなく意志を示すルサルカ・シュヴェーゲリン。
 齢三百に近しい魔女はその普段は猫を被るように戯れに隠しているその本性を垣間見せながら二人の同胞たちへと告げる。

「ジャレあう程度だってんならまだ可愛いもんだから大目に見てあげるけど、聖遺物まで持ち出してやり合うなんて馬鹿でしょ、あんたたち。下手したら同胞殺しの禁忌に触れてもおかしくないわよ、ソレ」

 非難するように告げる事実……禁忌という言葉の意味を理解できる二人にとってもそれは易々とは無視できぬものであったのも確かだ。
 聖槍にてこの身へと刻まれた聖痕。これは決して単なる飾りではない。
 黒円卓への……黄金の獣への忠誠、身も心も捧げることをもってして形とするソレは、現実として確かな効力を有した言うならば戒め。
 ソレを破ることは黄金の獣への裏切り……そして裏切りは浄化という形を持って粛清されるいわば呪い。
 彼の存在への叛意と一度でも認識されれば、この誓いの聖痕はこの身を焼き尽くす裁きへと変わってしまうのだ。

「ヴァルキュリアやカインみたいに本気でなりたいってのなら止めないけどね、そうじゃないならこの辺で大人しく分別持って収めなさいよ」

 だから皆仲良くしようよ、と先の老獪な魔女の雰囲気を瞬時に一変させるように笑みを浮かべてそんな戯けた事をルサルカは告げてきた。
 ここまで勢いよく火が点き始めているのに、燃え上がる前に消せ……それは螢はともかくとしてヴィルヘルムにとっては早々に納得しがたいことでもあった。
 しかしながら誓いは絶対だ。ヴィルヘルム自身の誇りと名誉にかけてもそれは違えられない。
 眼前の獲物への怒りと餓えた闘争心。拮抗するように存在するのは黄金の獣へと対する畏怖と忠誠心。
 鬩ぎ合うヴィルヘルムの内心にて選び取った結果は……


「……チッ、何だか一気に白けやがったな、畜生」

 苛立たしげに盛大な舌打ちと共に、拘束されていたその動きが自らに戻るなり、ヴィルヘルムは形成していた武器を消して螢に背を向けた。
 それはつまりこの場はこれにて収めるという手打ちを表した彼の返答だった。
 まだ機会はある。祭りは始まったばかりなのだ。
 レオンもあちらで転がっているガキを含めても、まだまだ充分に狩りたてる機会は残っている。
 早々にカインやヴァルキュリアのような間抜けの仲間入りなど……カズィクル・ベイの誇りが決して許しなどはしない。
 だからこそ、ここは退いてやる。己の方から、格上の度量を見せ付けてやる為にも。

「俺ァ帰るぞ。後はてめぇらの好きにしろよ」

 もう興味も無い。つまらないし、白けた。もう知るか。
 まるで不貞腐れた悪ガキそのままの態度も顕に、白貌の魔人は現場を振り返りもせずに帰還の途へと戻っていく。
 昂ぶったり、興醒めしたり、怒り狂ったり、歓喜したり、また白けたり。
 自分でも感情を持て余す今宵の結果に舌打ちを吐きながら、それでも己の中の獣の飢えがまだまだこれっぽっちも満たされてはいないことをヴィルヘルム・エーレンブルグは自覚してもいた。



「あらあら、不貞腐れて帰っちゃったよアイツ」

 クスクスと笑うようにそう言ってくるルサルカに螢は無言で応じるのみ。
 戦いに水を差されたという結果……ヴィルヘルムほどでなかろうともそれに不満を持っていないわけでもなかったのだ。

「あなたも見かけや態度によらず随分と好戦的よね。アルベルトゥスがそんな風に育てたのかしら?」

 からかうようなその物言い、こちらへの探りすらも含めただろう問いかけに答えてやる義理も無い。
 無言を返答とする螢を呆れたように溜め息を吐いて見せながら、ルサルカはやれやれと言った様子で告げてきた。

「ほんと無愛想よねぇ。わたしたち相手は兎も角としてもさ、明日からの新生活にそのままっていうのも何かと不味くない?」

 どうせならもっと明るいキャラ路線でいこうよ、などと訳の分からぬ事を言ってくるルサルカの言葉に、どうでもいいと言った様子で漸く彼女の方へと逸らしていた視線を戻しながら告げた。

「あなたの方こそ、戯れが過ぎて本来の目的に支障をきたしかねない問題だけは起こさないようにお願いしたいわね」

 師と聖餐杯が決めた配役、任務とはいえ、この油断ならぬ眼前の魔女と共にこれから任務をこなさねばならぬというのは憂鬱以外の何ものでもなかった。

「あ、酷ーい。折角人が心配して色々気にかけてあげてるのに、そういう態度は誉められたものじゃないなー」

 別にそちらに褒められたい等という戯けた考えは最初から微塵も持ち合わせていない。むしろ大きなお世話だ。
 面と向かって言ってやろうかとも考えたが、これから先のことを考えればあまり亀裂を深めすぎて険悪な関係になるというのもよろしくはない。
 故に仕方ないので、それはどうもと言った程度の適当な返答のみを示しておく。
 それよりも、だ。

「あなたも帰還しなくていいのか? ベイ一人を放置しておくのも危険だと思うが」

 あの言葉通りの白けた様子を見る限りでは、真っ直ぐ帰還しそうではあるが、帰り際、途中に八つ当たりに余計な騒動を起こさないとも限らない。
 連続首狩り魔の一件でただでさえこの街は今緊迫感に包まれてもいる。これ以上の余計な騒動は自分たちにとっても今は歓迎すべきものではない。

「分かってるわよ、死体の処理が済んだらわたしもそろそろ帰るわ。……けどレオン、あなたは残ってどうするつもり?」

 チラリとその視線をあちらで気を失って転がっている少年たちへと向けながら、ルサルカは笑う。

「わたしさぁ、あの子達……特に君が助けた美少年くんの方が少し気に入っちゃってさぁ。抜け駆けとかあんまりされたくないんだよねぇ」

 牽制を顕に告げてくるルサルカのその言葉に、螢は案ずるなと言った様子で首を振る。

「私も彼らに手出しをするつもりはない。目を覚ますまで様子を見ていた方が良いだろう? だからそれまでは残る。それだけだ」



「気がついた?」

 不意に意識を取り戻した藤井蓮の視界、それを淡々とした態度も顕に覗き込むようにそう様子を尋ねてきたのはあの黒髪の少女であった。
 ……確か、レオンと少女が呼ばれていたのを蓮は思い出す。
 そうだ、とハッと気付いたように周りを見回す。そこには眼前の少女以外には沢原一弥と……他には、誰も居ない?
 あのヴィルヘルムと名乗った白貌の男も赤い髪の少女の方も、その姿は影も形もありはしない。
 そしてそれどころか――

「……死体、は?」

 自分が殺した(?)と疑わしき惨殺死体。その亡骸どころか血痕まで無くなっている事実に蓮は戸惑う。

「処理はマレウスがやった。それからベイも、今はあなたとあなたの周りに興味を無くしたようだから心配は要らない」

 安心させているつもりなのか、そんな言葉を投げかけてくるレオンだが、その発する雰囲気そのままの素っ気無さも相まっては安心できる保証など何処にも無い。
 そもそもあのヴィルヘルムと争っていたようではあるもののこの少女とて連中の仲間であろうことは間違いないはず。

「…………」
「どうかした?」

 押し黙ったこちらを静かに観察するように視線を向け、問いかけてくるレオン。
 しかし警戒しながら沈黙を保つこちらにやがて埒が明かぬと判断したのか、その視線をこちらから一瞬、傍でまだ気を失ったままの一弥に向けたかと思えば、

「今夜は、もうそこの彼も連れて帰りなさい」

 言われた言葉にはいそうですかと従えるはずも無論ない。確かにこんな得体の知れない連中とは係わり合いになりたくもなければ知りたいとも思わない。
 けれどこれが一時的に去ったに過ぎない脅威である以上は、そう簡単に警戒など解けるはずもなかった。
 そんな蓮の感情など知ってか知らずか、或いはこちらの考えなどはどうでもいいのかレオンが次にこちらに言ってきたのは随分とふざけた台詞でもあった。

「忘れろ、と言っても無理でしょう。忘れてもらっても困るけど、今日のところはもうあなたに用はない」

 今日のところは……などと言ってくるということは、これから先においてのこの連中が自分たちにとっての明確な脅威であるのはやはり明らか。
 どうすべきか、そんな事を考えている間にも少女はその視線をチラリと向こうで大破している一弥のバイクを眺めながら一言。

「せいぜい交通事故にでも気をつけることね」
「なっ……」

 他意はない、そう本人は思っているのかも知れないが、先程までの状況等も合わせて見ればあからさま過ぎる言い方に警戒どころかむしろカチンとくるくらいだった。

「身体は平気?」
「…………」

 しかし変わらずお構い無しとでも言ったように、平然とまた話題を変えてくる相手の態度には、蓮とて続く文句を口に出すことも出来ない。

「平気みたいね。立って帰るくらいは出来るでしょう。まぁ、向こうの彼を連れて帰る余力がないなら、こちらで手伝ってあげてもいいけど」
「要らない。それからそいつに触るな」

 そう言いながら手伝おうかと一弥に近付きかけたレオンを、蓮は牽制する様に言葉を投げて止める。
 先程助けてくれたことや現状の相手の言動を見る限りでもこちらに害意は無いのだろう。
 しかし得体の知れない奴に大切な幼なじみを近づけさせることを拒む蓮は、相手と一弥の間に遮るように立ち塞がる。
 その態度で少女の方も凡そ察したのだろう。「そう」と相変わらずに素っ気無い一言で納得したように大人しく引き下がる。
 まだ相手を多少警戒しながら、自身の重たい身体に鞭を打つ覚悟で気絶している一弥を背負う。
 起こそうかとも思ったが……この現状、眼前の少女のことや云々で説明を出来る精神的余力はありそうにも無い為、このまま帰るまでは眠っていてもらうこととしよう。
 そう思いながら少女を最後に一瞥した後に背を向け、ここから立ち去ろうと歩き始めたその時だった。

「ああ、それとあなたの名前は?」

 何故か急に思い出したとでも言うようにいきなり問いかけてくる少女。
 本当に、その好き勝手すぎる言動にはいい加減ウンザリしてくる。

「……教えるわけないだろう」

 こちらの身元がばれるような情報をどうして突然襲い掛かってきた得体の知れぬ連中に教えねばならぬのか。
 先程の男相手にも最初に言ったが、お断りだ。

「ベイのことなら、心配ないと言ったはずだけどね」
「おまえを信じろって?」
「こんな嘘を吐いて、私に何か得があるなら教えて欲しい」

 ……まぁ確かに、そう言われれば或いはその通りなのかもしれない。
 しかしだからと言って、やはり教えてやる義理だって無いはずなのだ。

「自己紹介、しないの?」

 随分とこの一点にしつこく拘ってくる相手の物言い。
 いい加減に面倒だと思った蓮は、ならばと振り返りながら若干挑発気味に相手へと言葉を返す。
 そう、あのふてぶてしい態度を一度だって崩したことの無い幼なじみをイメージしながら。

「他人に名を尋ねる時は、まず自分から名乗るもんだろ? 学校で習わなかったか?」

 これでどうだと思いながら言ってやったその言葉。
 それに対して相手は後半の部分に僅かばかりとはいえ反応を示したかとも思えば……

「……それもそうね。確かにあなたの言う通りだわ」

 まるで納得したようにあっさりと頷いてくる始末。
 何だそりゃと反応するよりも前に、少女は相変わらずの態度のままだったが続けてその口を開き告げてきていた。

「螢……櫻井螢。どうでもいい名よ、もうあまり呼ばれないし」

 あっさりとまるで何の執着も持っていないと様子も顕に、自らの名前を名乗る少女……櫻井螢。
 自分自身でどうでもいいと言っていたが、本当にどうでもいいと思わせるその態度には若干の疑問もまた蓮に抱かせていた。
 まぁそれもまた今はどうでもいい。向こうの事情など知らないし、知りたくもない。
 それにしてもと蓮が困ったのは、相手があっさりともったいぶりもせずに先に名乗ってしまったことだ。
 別にこちらは名乗るなんて一言も言っていないが、それでも挑発とはいえ言い出しっぺはこちらだ。
 相手にだけ名乗らせ、自分は名乗らないというのも……些か古風な価値観を持つ藤井蓮からすれば決まりが悪いのも同じ。
 故に――

「藤井蓮……ただの学生だ」

 一応、偽名を使おうかとも一瞬考えた。
 けれど結局、蓮は自らの本名を仕方なさげという態度も顕にしながらではあったが、気付けば名乗っていた。
 当面の危機は去った、相手の言葉を額面通りに受け止めて気が緩んでいたのか。或いは眼前のこの櫻井とかいう少女が日本人であったことにでもどこか安心してしまったのか。
 ……どちらにせよ、あまり頭のいい選択ではなかったことを名乗った後にしみじみと思った。

「そう、じゃあそっちの彼は?」
「それとこれとは別だ。俺が教えていいことじゃない。知りたきゃ本人に直接訊けよ」

 背負った一弥の名前の方もついでに知ろうという魂胆だったのか、しかしそこはピシャリと蓮ははっきりと拒絶の意を示す。
 自分が名乗ってしまった以上、それこそ下手をすれば一弥とてもはや芋づる式は避けられないかもしれない。
 しかし最後に残った一線が、それでも出来るだけ彼を巻き込ませないようにと蓮へと踏み止まらせたのだ。

「……訊いたけど教えてもらえなかったんだけどね」
「? 何か言ったか?」
「いいえ、何でもないわ」

 ポツリと言った何事かを聞き逃した蓮は尋ね返していたが、あっさりとした態度でそう返されれば何も言う言葉も無い。きっと言葉通りにどうでもいいことだろうと蓮は判断した。

「そんなことより、ベイとマレウスの気が変わらない内に帰りなさい。これ以上怖い目には遭いたくないでしょ?」
「俺は……」

 話題を変えるように螢が告げてきたその言葉。
 怖い目……今宵遭遇したその事実に蓮の中で改めて反芻する恐怖。
 あの化物のような男に殺されかけ……一弥もまた殺されかけ。
 奇妙な声に従って自らが得体の知れない力を振るい……。
 いいや、それ以前にまず一つ。大事なことがあっただろう。

「俺は、人を……」

 殺し――

「殺したのかもしれないし、殺してないのかもしれない。
 後から来た私には、正直何とも言えないところだわ」

 櫻井螢の物言いは決してこちらを気遣ったり慰めたりだとか、そんな優しい態度でも言葉でもない。

「ただ、彼らは筋金入りの外人嫌い(ゼノフォビア)だから、あなたを人間だなんて思っていないわよ。ここでいつまでも愚図愚図してて、またそんな奴らに捕まりたいの?」

 酔狂ね、なんて言ってくる相手の言葉はむしろ警告だ。
 これ以上、痛い目や怖い目を見たくないのなら、この場からさっさと去れとこの少女は言ってきているのだ。
 言われるまでもない。これ以上の面倒事はごめんだ。

「それとも、私に家まで送ってほしいのかしら」
「………ッ」

 それこそ冗談じゃない。これ以上、こんな奴らと関わってたまるか。
 そして大切なこいつらを関わらせてもたまるか。
 そう思ったからこそ、ハッキリと櫻井螢を睨みながら藤井蓮は告げた。

「余計なお世話だ。ああ、帰るよ」
「そうした方がいい。じゃあね、藤井君。また会いましょう」

 生憎と、こちらは二度と会いたくも無い。

「……気安く、呼ばないでくれ」

 だからこそ吐き捨てるようにそう告げて、藤井蓮は沢原一弥を背負いながら踵を返す。
 その背中を見送るように、櫻井螢はただ無言のままに肩をすくめるだけだった。



 帰路、どうしようもない苛つきに襲われたのは言うまでも無いだろう。
 どうしてこうなった? 何で俺が……いいや、俺たちが?
 訳の分からない状況、理不尽な襲撃、常識外れの暴力と現象の数々。
 得体の知れない連中の何を勘違いしているのかも分からない物言い。
 聖槍十三騎士団だの、ヴィルヘルムだの、櫻井螢だの。
 エイヴィヒカイトだの、メルクリウスだの、ツァラトゥストラだの。
 さっぱり意味が分からない。誰か教えてくれと叫びだしたいくらいだった。

 不調の身体に鞭を打ちながら、それでも気を失った沢原一弥を背負ったままに無事家まで帰れたのは、或いは奇跡と言ってよかったかもしれない。
 一弥のポケットから鍵を取り出して開け、彼の自室のベッドに放り込んできてそれで一区切り。
 そこまでその重労働を行えたのが限界だったのか、自室になだれ込むように入ると同時に玄関口にて吐き気に襲われぶちまける様に嘔吐。あれほどボコボコにされて吐いたというのに胃の痙攣はちっとも治まってくれない。

「おっ―――げぇ―――ッ」

 ボタボタと盛大に零れる胃液。酸っぱい臭いが鼻についてますます不快さが増す。
 こんなに汚してしまったら掃除が大変だ。朝、香純が起こしに来る前に何とかしておかないと。これで説教なんて目も当てられない。

「はあ……ぁ……ぅえ……っ」

 己の反吐を片付ける作業を必死に行う。途中、耐え切れずに洗面所で再び二度も吐いてしまった。
 これでいいか、と念入りに片付け終えて一区切りと共に肩で息をした疲労の中、思い出したのは一人の少女の顔だった。

「香純……」

 今頃、隣の部屋でぐっすり寝ているのだろう。がたがた騒がして起こしてしまわなかっただろうかとふと不安にもなる。
 あいつは自分が人を殺したかもしれないことも、一弥と一緒に妙な連中に襲われたことも当然知らない。
 ……今、彼女にそれを知られることを何よりも恐れている蓮の恐怖も。
 知られたくない。知られてはならない。
 だから今夜のことは、一弥と一緒に何とか隠し通す。
 ……そう言えば、あいつはどうしてあの場にやってきたのか?
 それもまた思い出したように気になりもしたが、今はどうでもいい。というより、そこに思考を回すだけの余力が無かった。
 ただ今は……香純にだけはこの異常を知られてはならない。
 それだけが藤井蓮の遵守せねばならぬ誓いだ。
 もはや胃液すら出なくなった状態で、そんな決意も新たにしながらボロボロの服の袖で汚れた口許を拭い取る。
 ふと気付けば、奇妙な事に返り血と思わしき血痕は何処にも付着していなかった。それどころか、一弥もそうだったが、自分の身体もまたあれ程嬲られたはずの負傷が消えてしまっていた。
 応急処置……そうマレウスとかいう女は言っていたが、これではむしろ完治だ。

「……まったく」

 これもまた常識外れ、ありえないことだ。
 益々訳が分からなくなる。いっそのこと、全部が全部夢であってくれたなら……そう願わずにもいられない。
 そんな虫のいい叶うはずも無い願いを考えつつ、服として機能しなくなったそれを脱ぎ捨てててゴミ箱へと放り込んだ。
 そして、若干迷いはしたものの蓮は壁の穴から香純の部屋を覗いてみることにした。

 香純は――いた。
 すやすやとベッドの上で呑気な寝息を立てながら眠っている。
 その姿を確認して、よかったと心からの安堵が沸き上がってくる。

 そして同時、その安堵へと抱かれるように限界に達した蓮の意識はそこでブラックアウトした。



[8778] ChapterⅡ-9
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 23:21
 時間と場所は暫し前後する。
 これより語られるは、表舞台の裏側で進行していたもう一つの恐怖劇。
 真なる舞台の役者として、其処に立つ資格があるかを決める言わばこれはオーディション。
 審査員を務めるのは、この舞台の上で役者たちを現状統率する役割を課せられた責任者。そして舞台袖からそれを見物する監修。
 挑むは日常を非日常に、既知の中より未知を求め渇望する一組の男女。
 さて、果たして彼らがこの恐怖劇の新たな役者になり得るかどうか……

 それはまた、これから踊る演目と役者たちの演技次第。
 それでは、もう一つの恐怖劇の幕を開けよう――




 コツコツと石畳の上を踏み鳴らすように響く靴音。
 それを発しているのは先程、あの坂道にて藤井蓮たちとすれ違った一人の少女。
 名を本城恵梨依。親しき者にはエリーと呼ばれることを望む、その発する雰囲気と外見には似合わぬ結構な家柄のお嬢様でもある。
 尤も……

「ああ、あたしだ」

 取り出した携帯電話、その向こう側で指示を待つ舎弟たちへと指示を出すその姿は昼のお嬢様ではなく、夜の不良娘のそれではあるが。
 器用に使い分けている二束の草鞋。二つの顔。けれど、本人としてはどちらかと言えばこちら……“夜”の自分の方が己が生きているという実感を深く持てる。
 理由は堅苦しくなくていいこと。そして退屈を払拭するだけの刺激(スリル)が満ちていること。
 そして何より――

「――今から司狼がヤりに行く。あんたらは敷地内に誰も入れたりしないように」

 己を飽きさせない相棒の存在、というのが何より大きいだろう。
 あいつと出会うまで、それ以前もそれなりには楽しくやっていた。だがあいつと出会って以降、更に楽しみが増した。
 ……同時に危険もまた比例するかのように跳ね上がったが、それとて是非も無いことに過ぎない。
 兎に角、自分たちは今、これから最高に危険でイカした火遊びに首を突っ込もうとしているのだ。
 そこに余計な横槍はいらない。舞台を汚すような異物はお呼びじゃない。
 これはだからこそ、その為に出した指示。

「それから学生服着た三人組が直ソッチに行くだろうから、チョッカイかけずに通すこと」

 そしてあいつの身内……まぁあれが噂のと色々興味が湧いてもいる。個人的に色々と話をして見たいという欲求もあった。
 けれど、今夜は少々間が悪い。それはまた別の機会ということにしておこう。
 何せ自分たちがこれから行おうとしている事と言えば……彼らにとってすればそれこそジャンル違いと言うやつなのだろうから。

「後は、そうだねぇ……アシがあるヤツはゾッキーの真似事でもやってなよ。何でもいいから音出して、カモフラージュするのを忘れずに。でないと――」

 ふと其処で言葉を区切る。
 静寂に支配されていたはずの夜の郊外。日本という国ではあまりにも聞き慣れぬ異音が今、盛大に響き渡ったからだ。

「――夜の郊外で流石に銃声は響きすぎる」

 ほーらね、と呆れた苦笑も同時に浮かべながら、そう指示だけ告げるのを最後にエリーは携帯を切って教会へと向かって歩き出した。
 先に派手に始めた相棒の、その無茶苦茶さ加減を今夜も存分に見学する為に。
 多分、今夜はいつも以上にあいつは自重しないだろう……そう思う予感が彼女の脳裏には薄っすらとあった。
 ……或いは、これもまた既に知っていることなのかもしれないなとも思いながら。



「こんばんはー、神父様。昨日招待されたんで、遠慮無くお邪魔させてもらったけどよ」

 傲岸不遜、神の家とも仮にも呼べる建物に、深夜にも関わらず乱入同然の殴り込みを仕掛けたその男はただ気楽な口調で眼前にて倒れている神父へと告げる。
 その手に握るは無骨に黒光りした一丁の大型自動式拳銃。扉を蹴り破るように建物内へと入ってくるのと同時に、躊躇うこともなく眼前の神父へと弾丸をお見舞いした凶器でもある。
 出会い頭に過激すぎる挨拶……しかし彼――遊佐司狼にとっての挨拶はこの程度では決して終わらない。
 銃弾で倒れ伏している神父を前に、司狼は再び徐にその手に持つ銃を構えたかとも思えば――

 ――瞬間、躊躇うことなく残る全弾を盛大に神父の身体へと撃ち込んでいく。

 先の一発ですら死んでいたとしてもおかしくは無い。オーバーキルそのままの己が行いに対して反省も躊躇も何一つ示さず、それどころかむしろその表情を更に愉快気なものへと変えながら司狼は続く神父の死体に言葉を投げかける。

「まさかあんた、天に召されたとか言うなよ? こんなもんで――」
「えぇ、……まぁ多少驚いたというのは確かですがね」

 しかし司狼の言葉を途中で遮るように、そう言葉を挟んできたのはあろうことかその眼前に倒れ伏していた人物の言葉。
 凶弾に倒れ死体になれ果てていた……凡そ常識の枠内ならばそうなっていなければむしろおかしいにも関わらず、しかしその当人の方はといえば何ら問題ない様子も顕に立ち上がってくる始末。
 その信じられぬ異様な光景を目にしても、しかし司狼の方はと言えば「ひゅう」とでも感心したような口笛を鳴らしていた。
 まるで神父が立ち上がることを想定――否、確信していたかのようなその言動。
 それには流石に神父の方がピクリと反応し、若干怪訝も顕にした視線を相手に向けるものの、その相手の方はまったく気にした素振りも見せない。
 何とも言えない豪胆さ、中々のふてぶてしさには感心か呆れか……正直、評価にも迷うというもの。

「今時随分と型破りな若者ですね。その銃、この国で易々と手に入る物ではないでしょうに」

 自分に凶弾を見舞った凶器。この国では明らかに法規制の対象となる異物を当然のように所持、そしてあろうことか躊躇いもせずに発砲までしてくるとは……暫し離れていた内にもこの国と、そしてそこに住まう若者もまた随分と物騒になったものだと思う。
 だが平然とそんな呆れた様子で肩を竦める神父だが、傍から見ればその異様さは異常なベクトルの方向性とも合わさり遊佐司狼の比などではない。

(……何せ向こうさん、司狼の銃をマトモに喰らって無傷そのものなわけだし)

 たいした出鱈目ぶりではないかと、現場に辿り着き状況を確認したエリーの方が逆に内心で呆れていた。

 司狼の持っている拳銃はイスラエル製、デザートイーグル50AE。
 ハンドキャノンの異名を持つ、自動式拳銃としては今尚も世界でも最強クラスの威力を誇る掛け値なしの凶器である。
 その銃弾を全弾……それも触れ合うほどの至近距離から喰らっておいてあの平然とした態度である。普通なら、野生の猛獣であろうが致命傷は免れ得ない。

 やはり普通ではない……否、むしろ怪物と呼んだほうが正しいだろう。
 司狼も喜悦を浮かべ平然とした態度は崩さないが、その辺りは間違いなく察しているはずである。


「まったく、神の家の前で無体な事をするものです。……確かに招待したのは私ですが、このような真似を許した覚えはありませんよ。あぁ、ほら……今ので折角の一張羅が台無しじゃないですか」

 招待客の致命的に礼の欠いた蛮行が嘆かわしかったのか、招待主である神父の方がそんな文句を口にしてくる始末。
 だが司狼の方はそんな戯言に付き合う心算も無いといった様子で本題をあっさりと切り出していく。

「聖槍十三騎士団、ロンギヌス・サーティーン」

 司狼が唐突に告げてきたその単語に、神父の方もまた道化を気取るその仕草を唐突に止めるようにピクリと反応する。
 それは昨夜、携帯越しにその神父自身がこちらへと名乗ってきた組織名。
 当然、予習は済ませてある。そんな顔も顕にしながら司狼は鼻を鳴らすと同時に告げた。

「所謂――Lezte Bataillon(最後の大隊)。……おたくらそうゆう団体さんなわけだ」

 ネットのアンダーグラウンド、その深部にて未だに根強く生き残る伝説的なオカルト。
 アンダーグラウンドの深部に存在する、所謂賞金首と呼ばれる者たちが紹介されているサイト。
 しかしその真実は、大金をはたいてでも抹殺しておきたい人間……いや、人間失格者たちのリストが、それこそピンからキリまで網羅されている。
 その中でも危険度SS。簡易な経歴を閲覧するだけで法外な値段を要求されるお尋ね者のハイエンド……それこそが、

 彼ら――眼前の髑髏の帝国の亡霊を名乗る魔人たちである。

「ルサルカ・シュヴェーゲリンにヴィルヘルム・エーレンブルグ。昨日ご丁寧に写メを送ってくれたのはこいつらだろう?」

 そう言いながら司狼が懐から取り出して神父の足元へと放り投げたのは、昨夜の内に件のサイトから情報を得てリストアップした簡易な経歴書。ご丁寧に顔写真まで添付されていた。

「ドイツ古代遺産継承局、通称アーネンエルベの初期メンバーに第36SS所属武装擲弾兵師団の元中尉。……たまげたぜ、送られてきた写メとネットの写真が丸っきり同じだったんだからな」

 自身の足元に転がったそれを拾い上げながら目を通す神父へと、司狼はその正体とその驚きを口に出して説明していく。
 六十年前から今も尚、懸賞金が懸けられて今に至るもその額が上がり続けている。その名高き悪名と経歴、事実を見れば驚きだが、当時の若さを保ったままだということはいかなることなのか。
 先の銃弾をモロに喰らっても平然としている事実とも合わされば……これは中々に信じ難くも認めざるを得ない正真正銘のオカルトというやつだろう。

「で、ヴァレリア・トリファ神父。アンタの額はその二人の五倍はあったな。おっかない事に更に上の奴もいたようだけど」

 司狼が言ってきたその言葉に温和をそれでも崩そうとはしていなかった神父の雰囲気に初めて鋭利な圧力が加わる。

「見たのですか、それを」
「へへへ、いやー間抜けなことにそこで金が尽きちゃってね。賞金首の情報見るのに金取られるなんて随分と理不尽な気がするよなぁ」

 しかし気付いているのかいないのか……否、そのふてぶてしさを察するならば気付いていて当然無視したまま平然と気にした様子も見せずに答えを返しているのだろう。
 遊佐司狼のそんな態度、在り方に未だ懐疑的な部分を若干残しながらも、しかしヴァレリア・トリファは納得したように持っていた経歴書からその視線を司狼へと戻した。

「ふむ、確かに。ですがあなたも奇怪な人格の持ち主ですね。私や彼らの経歴を疑いもせずに信じている様子なのは勿論のこと、先程からまるで恐怖も驚きも窺えない」

 明らかに常識外の事実の数々、それに臆するどころかむしろ楽しむような様子も顕にする。
 命知らずの単なる馬鹿なのか、或いは何がしかのこちらに対抗できる切り札を隠し持った大物なのか。
 正直、判断にも迷うというもの。

「銃で撃っても死なないからって?」
「ええ、それは狙いを定めて引鉄を引くだけで女子供でも大の男も殺傷し得る便利な道具だ。故にその使用者たちは大様にしてこんな思いを抱きます……銃さえあれば、誰でも殺せる」

 からかうように返してくる司狼に、トリファは試す意味合いも込めた挑発も兼ねてそんな言葉を嘲るように返した。
 それに対して司狼は――

「……成程」

 ――ハッと鼻を鳴らしたかと思えば同時、再び弾を詰め替えた銃弾をこちらへと向かって発砲してきた。

 避けるまでも無い。彼もまた魔人、故に常識の枠内の武器など通用しないそう眼前の相手に分かり易く証明してやる為にあえて銃弾を躱すことなく直撃。当然、無傷。
 だが――

「はン! 確かにそうかもなっ!」

 しかし司狼の発砲は止まらない。続けて次弾。効かない事など端から承知の上、関係あるかという態度も顕にトリファから見れば無駄でしかない行いを更に続けていく。

「つまり、アンタはこう言うわけだ。自分は人間じゃない」

 そう、人間じゃない。これ程の威力のハンドガンの銃弾を受けているにも関わらず平然とし、六十年前から老いることもなく生き続けてきた様な連中がマトモな……否、そもそも人間の範疇に入るという考え方の方が異常か。

「だが、だからっていったい何を驚くって言うんだ? 多少珍しい生きモンの相手をしてるってだけで、この展開は想定の範囲内だろう?」

 そう、そもそもそういう連中を求めてきたのだ。こいつらは自分たちが求めてきたものにピタリと一致する。それに歓喜を抱けばこそ、恐怖を抱く必要性も意味も無い。
 仮に恐怖があったとしてもソレは――

「――むしろ極上のスパイスだろうッ!?」

 そう叫びながら銃弾では埒が明かぬと察したのか、司狼は発砲を続けながら眼前の神父目掛けて疾走。そしてその眼前の相手に取り出したある物を叩き付けた。

「警棒型のスタンガンときましたか。……どうやら相当の高電圧をかけているようですが、この程度の物で死ねるなら私はとっくに死んでいます」

 片腕で叩き込まれてきたソレを防ぎながら確認の呟きを漏らすトリファ。
 違法改造で常人なら卒倒どころか死んでもおかしくないレベルの電圧を叩き込んでやっているというのに、言葉そのままに相手は平然としたものだった。
 やはりこれも効かないか……それは予期していたことではあったが、ならばこそ尚更に湧き上がってくるのは失望ではなくやはり歓喜。
 いいねぇ、そうでなくちゃ面白くねえよ。そんな感情も顕に示す司狼をトリファは静かな表情のまま一瞥する。

「あなたも中々奇矯な人種ですが振るう暴力は常識の範疇から脱け出ていない。さて、他に出し物はありますか? 私は気の短い性分じゃありませんがそう暇でもない身です。万策尽きたというのなら――」
「――連れない事言うなよ、神父だろ?」

 戯れを打ち切ろうかと思いかけた声を遮るように司狼が発したのは貪欲なまでに更なる刺激を渇望した興奮した声である。
 まるで若い頃のベイやシュライバーにもどこか似ている……思わずそんな考えすらも一瞬脳裏に過ぎらされたトリファは、ならば仕方がないともう少しだけ眼前の迷える子羊に付き合ってやろうという慈悲を抱いた。

「ほぅ……ではどうすれば満足するのか。意地や面子に拘る人種とも思えませんがね。若者よ、質問させていただきますが、あなたの求めているものとは?」

 その無謀な狂気は何を支えにこうまで破滅への道を駆け抜けることを加速させているのか?
 だが……そんなもの、遊佐司狼にとっては端から決まりきっていたことでしかない。

「簡単さ、レア度が高いって事は価値があるって事だろ? 
……デジャヴるんだよ、いつもいつも何見ても何喰っても何やってもッ! 新鮮な驚きなんざ何一つ感じられない。……だから、頼むわ。協力してくれ神父様、ありえない変態ならありえない展開を見せて聞かせて教えてくれよ! 誰にでも出来る当たり前のことなんかじゃぁ、オレのデジャヴが止まらない!」

 そう、忌まわしいこの既知感。
 これを払拭する、ただその為だけに今日まで駆け抜けてきた。
 長い間くつろいできた日溜りの場所、繋ぎとめていた絆すらも自ら叩き壊してでも、それでも進まずにはいられない。
 未知を渇望せずにはいられない。
 遊佐司狼が遊佐司狼として、最後の最期まで笑って己が道を駆け抜けるためならば、例え何を擲ってでもこれだけは譲ってはならない。
 ……なぁ、だからこそアンタらはオレの答え……ゴールなんだろ?
 だったらチェッカーを切るその瞬間を、最高の心地良さを味わうことを邪魔立てするなよ。

「たとえ死んでも?」
「それが未経験のオチならありだろう?」

 無論、是非もなし。
 むしろ見っとも無く無様に滑稽に、そんな経験したこともない終わりだって言うんなら充分に一見の価値がある。
 見飽きたものを何度も続けるくらいなら、むしろ見たこともないものを一度きりででもスッパリと終わらせて欲しい。

「例えバッドエンドだろうが、それが未経験のルートだってんなら乗る価値は充分にある。違うかい?」

 遊佐司狼の誘うようなその刹那の炎を垣間見せた言葉に、漸くトリファもまた納得したように成程と頷いた。
 これで凡その判断がついた。つまりこの眼前の少年の正体とその目的が。
 実に信じ難いことであり、トリファにしてみれば理解不能も甚だしい価値観ではあるが……それでもまぁ、この奇縁と戯れに乗じてみるのも悪くない。
 ここで己がこう選択することを、あのアルベルトゥスがどのように対処するのかも見てみたい。
 故に――

「……成程。ふむ、つまり結果は二の次。得難い経験が得られればそれで良いと。……ふむ、分かりました。神父として迷える若者には道を説かねばなりませんね。しかし、やはり神父として自己より圧倒的に劣る者を打ちのめす訳にもいきません。そこで――」

 そうして掴みとめていた相手の警棒型スタンガンをアッサリと手放しながら、眼前の司狼によく理解できるようにその手を数度開いて閉じる動作を示しながら告げる。

「――まずは片手のみ。武器は使わず、それだけでお相手しましょう。あなたの言うデジャヴとやら、超えたければ相応の強さを示しなさい」

 平然と当然のように神父の告げたその言葉に虚を突かれたのは、無論ながらそんな言葉を言われた当人である遊佐司狼である。
 何せその言い分は彼からすれば……

「……そりゃあオレ程度、敵にもならない雑魚だって言ってるのかい?」

 そう言われているのと変わらないのだから。
 当然、喧嘩自慢の悪ガキである司狼からすれば挑発されているようなものだ。
 しかし、それに対して神父の方はと言えば――

「どころか本来なら視界にすら入らない虫けらですよ。こうして会話をしているだけでも光栄に思って欲しいですね」

 ――平然と、そんな事実をアッサリと口に出してくるのみ。


 ……成程、こいつは随分と舐められたものである。
 この遊佐司狼、相手を舐め腐ったことは数あれど、己を舐め腐られた経験など生まれてこの方、一度だってない。
 いいぜ、神父様。その挑発最高に笑えてくるよ。
 へへへ、と最初はゆっくりしかし段々と激しく、堪えきれぬように高らかな笑いを上げだす司狼。つられた様に神父もまた同様に笑い声を上げ始める。
 二人の哄笑が唱和したように、深夜の礼拝堂へと高らかに響き渡っていく。
 そして――



「面白えよ、クサレナチ野郎―――――地獄でジークハイル歌わせてやらぁッ!!」



 瞬間、見計らったように叫びだしながら遊佐司狼はその手に持つ拳銃を盛大に相手に対してぶちまけ始める。
 それは正しく、戦闘開始の幕開けを告げた鐘の音でもあった。



 甲高い銃声の音が立て続けに礼拝堂内で高らかに響くのを皮切りに、翻るように燭台の蝋燭の炎に照らされた空間の中で、激しく動き回る二つの影。
 エリーは戦闘が始まると同時、流れ弾と司狼の邪魔になることを避ける為に素早く隅に引っ込んでそこで観戦を決め込むことにしていた。
 正直、幾ら司狼が凄まじかろうと常識外れのあの化物に本当に勝てるかどうかは贔屓目で見ているエリーの目から見てすら疑わしい。
 それぐらいに、レベルの差は明らかだ。
 事実、今見ているこの瞬間すら、被弾をまるで物ともせずに間合いを詰めた神父が、その宣言通りに片手だけで司狼を壁際まで殴り飛ばしている。
 恐らく車で轢かれたような衝撃が叩き込まれているはずだが、司狼は吹き飛ばされながらも即座に立ち上がると共に嬉々として戦闘を再開している。
 彼の体の異常の理由を知っている彼女からしてみれば、それは別段驚くべきものではない。……ただ、司狼のその異常すらも可愛く思えてきてしまうほどに相手方の異常が更にそれを上回っているだけのこと。
 つくづく常識外れ、やはり本当に化物のようである。
 そう司狼を圧倒する神父の姿を見て確信し直すエリーだが、しかしその様子に恐怖や後悔は微塵も無い。
 それどころか殺されるやも知れぬパートナーの無事を祈るだとか、そんな殊勝さすらも欠片もその様子には窺わせていない。
 ただ本城恵梨依は一心に、逃すことなく焼け付けるように、死闘を演じる遊佐司狼の姿を目で追っているだけだった。

「――止めなくて、よろしいのですか?」

 ――不意に、そんな彼女に問いかけるようにかかってくるこの場には今まで存在しなかった第三者の声。

「……アンタ、誰?」

 別段慌てるだとか恐れるだとか、そんな様子も一切無く平然とした態度のままに声が掛かって来た背後に振り返って尋ねるエリー。
 闇の奥から出てきた己を物怖じもせずに迎える彼女のその態度に、男の方がまいったとでも言うように、肩を竦めた苦笑を浮かべていた程だ。

「失礼。私はヨシュア・ヘンドリック。称号はアルベルトゥス・マグヌス。聖槍十三騎士団、黒円卓の番外位。……あるお方に忠誠を尽くす、一人の道化者でございます」

 以後お見知りおきを、そんな気取った態度で名乗ってきた男をエリーは「へぇ」とただ一瞥するだけであった。
 相手が名乗ってきたことだしこちらも名乗ろうか、そう一瞬思いはしたものの、こういう寒いタイプの男は趣味でもないし別にいいかと考え直す。
 相手……ヨシュアだったか、も別にこちらが名乗らないことには不服も無さそうなので問題は無いだろう。
 それよりも……

「……ってことはアンタもあっちの化物のお仲間なんだよね? アンタの名前と顔、載ってなかったんだけど?」

 確かに、エリーたちも連中全員を把握しているわけではない。
 聖槍十三騎士団、そう名乗っている通りに連中の構成員数は十三人の筈である。
 内、彼らが把握しているのは五人。

 黒円卓三位、クリストフ・ローエングリーンことヴァレリア・トリファ。
 黒円卓四位、カズィクル・ベイことヴィルヘルム・エーレンブルグ。
 黒円卓五位、レオンハルト・アウグストこと櫻井螢
 黒円卓八位、マレウス・マレフィカムことルサルカ・シュヴェーゲリン。
 黒円卓十位、ロート・シュピーネ、本名は不明。

 以上だ。更に正確な情報や顔写真も載っていない二位、六位、十一位と、賞金額と情報掲示料の別格な幹部と思わしき残り五人は兎も角として番外位……何だそれは?

「……みそっかす?」
「……ストレートにそう言われたのは初めてですね」

 まぁそういう認識で結構です、そう苦笑するヨシュアに、ならばそういうものなのかとエリーもそれで納得しておくことにした。
 まぁ、それよりもだ……

「あっちのとご同類ってことは……こんな物は意味ないね」

 一応、いつでも素早く構えて発砲することも可能だった愛銃――コルト・アナコンダを彼女は大人しく仕舞った。
 司狼のデザートイーグルを近距離から受けて平然としているような連中に、こんな物効くはずもないということを分かりきってもいた為だ。
 ご理解が早くて助かります、とその選択肢を大人しく選んだエリーを評価するように微笑み返してくるヨシュアだが、そんなものはエリーにはハッキリ言ってどうでもよかった。

「それで、あちらの彼……お止めしなくてよろしいので?」

 再びそんな問いを発してくるヨシュアにエリーも一瞥だけ返しながら、しかし平然とした態度のままに再び戦う司狼たちの方へと視線を戻していた。



 立て続けに銃弾を発射して弾切れとなった弾装を捨て、新しいのに換装している最中に向かってくる神父。
 それを迎え撃つように司狼が振るうのは警棒型スタンガン。横薙ぎに叩きつけるそれを左手で軽く打ち払いながら握り固めた右拳をこちらの顔面目掛けて叩き込んでくる。
 それをギリギリで躱しながらカウンターの要領で振り上げた蹴りを神父の頭部目掛けて叩き込む。
 しかしミシリと嫌な音を立てながら弾かれたのは、蹴りを繰り出した司狼の足の方である。
 コンクリート……否、鉄柱でも蹴ったかのような堅い感触に顔を顰めながら、装填し終えたデザートイーグルを再び神父目掛けて発砲。
 しかし眼前スレスレでぶっ放した筈の弾丸を平然と避ける神父は、今度は逃さぬように伸ばした腕で司狼の右手首をしっかりと掴む。
 万力で固められたような尋常ならざる握力に手首がミシミシと音を立てる感触よりも早く、そのまま引っ張る片手だけで宙に浮かされ、凄まじい勢いで床に向かって叩きつけられる。
 流石にその威力と衝撃には思わず顔を顰める司狼であったが、二度・三度と続けて叩きつけられ続ければ堪ったものではない。
 しかし脱出しようにも手首を離さぬように握られたこの状態ではそれも不可能。
 舌打ちと同時、瞬時に司狼が取った選択は未だ離さず右手で持っていた銃を離すと同時に左手でキャッチし直し、そのまま手首を掴む相手の腕を目掛けて全弾残らず銃口を密着させた状態から発砲することだった。
 普通なら腕が千切れ飛ぶ……がどういう体をしているのか、千切れるどころか擦過傷の一つすら撃ち込んだ相手の皮膚には存在していない。
 しかし流石にハンドキャノンとまで称される大口径銃弾の連発に衝撃は感じたのか、ガッチリ掴んでいた相手の握力が衝撃で痺れたのか一瞬怯む。
 即座にそれを逃さず力づくで掴む相手の手を振り払う。そのまま追撃を防ぐ為に持っていたスタンガンを勢いよく相手の喉下に貫通させる勢いで突き込む。
 派手な電圧をバチバチと鳴らす違法改造物を手早く放棄し、距離を取る為に思い切り後ろへと跳躍。
 しかしそれだけやられながらもやはりノーダメージの神父は、逃がさないと言わんばかりの追撃に瞬時に動き出そうとする。
 それに対し、司狼が牽制の為に取り出したのは――

「――火炎瓶?」
「ご名答ッ!」

 神父の呟きに正解だと盛大な笑みを見せながら、司狼は取り出した火炎瓶を床に向かって叩きつける。
 瞬時、勢いよく小火とはいえ燃え上がった炎が二人を遮る壁のように誕生する。

「これぞファイアーウォールってか!」
「仮にも神の家で放火など……本当に恐れを知らない若者ですね」
「固いこと言うなよ、ナマグサ。派手に行こうぜ、派手に!」

 炎を前に一時停止し呆れも顕にする神父に向かい、中指を立てた挑発と笑みと共にそう叫びながら発砲を返答とする遊佐司狼。
 激闘は正に燃え上がるように派手なものへとなりつつあった。



「成程、聖餐杯猊下を前にあれだけ器用に立ち回れるとは大したものです。あなたの連れはどうやら充分に我々の側になれるだけの素質がお有りだ」

 実際、大したものだとヨシュア・ヘンドリックは心からの賞賛と共に小さな拍手すらも鳴らしていたほどだ。
 流石はツァラトゥストラの盟友。あの人を外れかけ始めている様子とも合わされば、その将来性は充分と言っていいほどだろう。
 だが――

「しかし悲しいかな。あれではやはりジリ貧。いずれは万策尽きて叩き潰されてしまいますね」

 元より遊佐司狼に勝機は微塵も無い。この上辺の上の拮抗とて聖餐杯が遊んでいるからこそギリギリで成り立っているのが現状だ。
 素質も才覚も充分だが、やはり司狼は未だ常人でしかないのは事実。聖遺物の使徒たる魔人と戦うにはやはり致命的なまでに力不足だ。
 それに……

「あの方は血が苦手でしてね、どうにもその反面、タガが外れれば止まらなくなる性質をお持ちなので実に厄介だ」

 半端に強すぎるというのは逆に弱すぎることよりも不幸になりかねない。
 今の遊佐司狼とヴァレリア・トリファの戦いの現状こそがそれだ。
 そろそろ本気で止めに入らなければ、スイッチの入った神父に司狼は瞬く間に殺されかねない。
 それはヨシュアとしても困る。彼もまた恐らくはこの恐怖劇に必要な大事な役者であるはずなのだから。

「保って後数分といったところでしょうか?……本当に、お止めにならないので?」

 確認するようにエリーへとチラリと視線を戻しながら尋ねるヨシュアに、彼女はさも鬱陶しそうに露骨な溜め息を吐いた後、

「――で、アンタはどうするつもりなのよ?」

 不機嫌も顕にした口調でヨシュアを睨み返すように見据えながら尋ねてくる。
 それにヨシュアは頷くと共に一言。

「私がお二人を止めに入ろうかと」

 その瞬間だった。

 ――銃声が礼拝堂内部に鳴り響く。

 しかしそれは司狼が放つデザートイーグルの物ではない。
 別種の……そう彼女が構えて硝煙を上げているコルト・アナコンダから出たソレだった。

「ふざけんな」

 鼻を鳴らす不機嫌な態度も顕に、銃弾を撃ち込み尚、平然としたままのヨシュアへしかし臆した様子も無いままにエリーは荒ぶった感情も顕に告げる。

「あれは司狼が命を張ってやってる喧嘩だ。関係ない外野が当事者を無視して勝手に決めるな。ここでアイツが死ぬか生きるかはアイツが決める。……邪魔はしないし、邪魔もさせない」

 だから引っ込んでいろと鼻を鳴らしてそう告げるように、もう一発ぶち込むぞと言わんばかりに銃口をヨシュアに向けて、睨むエリー。
 その姿は身の程を知らぬ蛮勇であったことは間違いなかったが同時に――

「……そうですか、それは失礼しました。心よりお詫び申し上げます」

 ――ヨシュア・ヘンドリックにとっては気高いと評価をしても構わなかったのも事実だ。

 実に勇敢なお嬢さんだ。どうやら彼と同様に……否、彼のパートナーだからこそこの気概もまた相応であり当然とも言っていいのだろう。
 気に入った。ヨシュア・ヘンドリックはこの二人はこれからの恐怖劇の舞台に立つには充分な資格を有した役者だと判断した。

「おいおい、エリー。人がバトってる最中に騒いでんじゃねえよ」

 そんな中で、向こうも先の銃声に気付いたのか両者とも戦闘を一時中断した様子でこちらへと視線を向けていた始末だ。
 そして司狼からのそんな呆れたような言葉。自分たちの方が余程騒がしいというのに今いいところだから静かにしていろとでも言わんばかりの勝手な物言いだった。

「ボコられてる、の間違いでしょうが。さっきから見てたけどアンタの方こそ劣勢続きじゃないの」

 エリーの方もそんな司狼へと投げ返すのは棘に満ちた挑発にも近い言葉である。これが本当に応援の言葉かどうかなど恐らくは本人たち以外にはとてもではないが理解できないだろう。

「ハッ、言ってろよ。ここからが逆転シーンだろうが。ヒーローが初っ端から必殺技で相手倒しちまったらツマラナイだろう? それと同じだよ」

 だからしっかり見てろ、ここから逆転劇を見せてやると不敵に笑う遊佐司狼。
 まるで何処から湧いてくるのか、根拠無き自信であれ程までふてぶてしく振舞えるならたいしたものだとエリーも感心する。
 やはり……アイツとつるんでいるのが一番面白い。
 それを改めて実感すると共に、エリーもまた思わず笑みが零れ落ちる。

「じゃあ骨は拾ってあげるからさ、さっさとその逆転シーンってのを見せてよね」



「……お別れの準備はお済みですか?」
「なに、律儀に待っててくれたわけ? そいつはどうも。
オレもアンタが昇天して神様に会った時に言いたい言葉を考え付くまでなんなら待とうか?」
「結構ですよ。既に私の神は死んでいます。仮に私が死んだとしても、私が拝謁する神などというものは存在しませんよ」

 故に不要と返す神父に、司狼もそうかいとただ不敵に笑うだけだった。
 その様子を見て大した余裕だとトリファは思う。戦力差は絶望的、こちらは遊んでいる程度だがあちらは実質死に物狂い、このような状況で先の逆転などという戯言を本気で信じ切っているのだろうか。
 解せない、そう思う反面この少年が掛け値なしの馬鹿ではないのなら、本当に逆転の秘策を未だに隠し持っているとでもいうのだろうか。
 下手糞なブラフ、十中八九、トリファは司狼の言動をそう判断している。
 だというのに、そうであるにも関わらず……こちらに引っかかるものを抱かせるあの相手の態度は何だ?

「……あなたは不思議なお人だ」
「そう? アンタみたいな変態にそう言ってもらうのって褒められてるって取っていいわけ?」

 ああ、褒め言葉の心算でトリファは言っている。それは間違いない。
 まったく本当に……家畜の群れの中にとんだ狼が隠れていたものである。

「……或いは、あなたがツァラトゥストラであったとしても私は驚きはしないでしょうね」

 トリファのその言葉に司狼は意味が分からず「ハァ?」と問い返してくるがそれ自体は実はどうでもいい。
 そもそも既知感に苛まれ、未知を渇望しているこの少年が永劫回帰を肯定する存在であるツァラトゥストラではないことくらい分かっている。
 だがしかしながら家畜の群れの中で生まれた突然変異という珍種……大いに興味深い存在であると言うこと自体は変わることは無い。
 アルベルトゥスもまたそれを肯定しているからこそ、自らこの茶番を見届けようとしているのかもしれない。
 彼もまた副首領メルクリウスが此度の大儀式(アルス・マグナ)の為に何らかの役割を課せられて用意した駒だということだろうか。
 考察に意味は無いことくらいは分かっている。アルベルトゥスに問い詰めようがアレもまた上手くはぐらかす事だろう。
 結局の所、トリファが物事を見極める為に信じられる存在などやはり自分以外にはありえないのだ。
 ならば……

「それを見極めさせてもらいましょう」

 その為ならば、茶番とはいえこの戯れに労するだけの価値は少しはあることだろう。



 さて、どうしたものか。
 エリーにもそして神父相手にも不敵な大見得を切りはしたものの、結局司狼に逆転の為の切り札が残されているかといえばそれは否だ。
 銃もスタンガンも火炎瓶も、手当たり次第に試してみたものの結果は無効、相手に手傷と思わしきものを微塵も負わせる事にも至らない。
 逆に神父の見かけからは信じられぬ威力を有している鉄拳によるダメージが司狼の身体に相応の負荷をかけているのは事実だ。
 正直、司狼自身に痛覚が感じず、モチベーションも最大であろうともこのまま続ければ先に身体の方が付いてこれなくなる。
 故に長期戦はありえない。そもそも相手だってそろそろ締めにかかりたい様子であることから察しても余計な長引かせなど不可能なことだろう。
 ならば――

(……当たって砕けろってか? 無謀だな)

 それは敗北が必至であることを事実上認めているかのようなものだ。
 負けず嫌いの遊佐司狼としては、せめて是が非でもこちらを舐め腐ってくれた眼前のナチ野郎には一太刀浴びせて一泡吹かせたいという欲求がある。
 ならばどうする? 考えろと自らの中で勝算の低い賭けが通る確率を必死に計算し、そして他に策が無いものかを模索する。
 そろそろ睨み合いに痺れをきたしたように、神父の方からこちらに攻撃を仕掛けるべく動き出そうとしている。
 時間が無い、切れるカードも少ない、勝算も極めて低い。
 ないない尽くしでお世辞にも状況は良いとも言えない。
 しかしそれでも尚、自らも応じるべく動き出した遊佐司狼の顔に浮かぶ表情は紛うことなき笑みだけだった。



 神父が再びこちらに向かって踏み込んでくるのを、司狼は今までと変わらずデザートイーグルを乱射しながら応戦。
 当然、神父が物ともするはずも無く被弾も無視したまま凄まじいスピードで急速に間合いを詰めてくる。
 片手のみ、そう戦う前に宣言した約束の通りトリファの攻撃手段はここに至っても愚直なまでの右の無手のみ。
 しかし繰り出す拳の速度・威力共に凡そ凡人が対応出きるレベルの一撃などではない。
 とある原因で、常時興奮状態で異常なまでの集中力を持つ司狼の身体ですら、辛うじて反応できるレベルのものだ。
 頬を掠めるように、それこそ銃弾でも通過していったような鋭い一撃を、司狼はギリギリで躱しながら、姿勢を低く保つ形で自ら神父の懐へと飛び込む。
 密着、同時に心臓部である左胸。零距離を取ったポイントに容赦なく司狼は銃弾の嵐を叩き込む。
 礼拝堂を震わす銃音がけたたましく鳴る度に衝撃で神父の身体が軽く浮く。
 だがそれでも――

「――無駄です」

 冷たい一言と同時、突き込んだのを躱された右拳を引き戻しながら、そのまま首の後ろをガッシリと掴まれる。
 当然、後ろから尋常ならざる握力で締め付けられているので、普通なら圧迫されて瞬時に意識が飛んでいるものである。

「ほう、まだ意識がありますか?」

 それでも尚、流石に苦悶の表情で身体をバタつきながら意識を残す司狼に感心するように観察するトリファ。
 銃弾が切れたのか抵抗は蹴りや拳をそれでも叩きつけてくる荒々しいものではあるものの、その程度の衝撃ではトリファの締め付けが緩むはずも無いのは道理。
 後何秒で落ちるか、トリファがこの時点で関心を持つように司狼を見ながら観察していたのはそれだけだった。
 しかしそれでも司狼は諦めない。当然だ、そんなダサい真似死んだって自分自身が許すはずなどないのだから。
 司狼が懐から取り出したのは投げナイフ。そんなものまで隠し持っているとは用意がいいが例え急所を突こうともトリファからすれば怯みもしなければ傷付きもしない。
 故にこその無駄な抵抗、そう瞬時にトリファは判断。
 事実、こちらの掴む腕、その手首目掛けて力任せに突き刺そうとしているが実質は刺さりもしていない。むしろ安物のそれでは次くらいで逆にナイフが折れることだろう。
 刃物が通らないその事実を漸くに理解したのか、司狼はヤケクソとも見えそうな動作でそのナイフをこちらの顔面目掛けて投げてくる。
 無論、放って置いても刺さりはしないが鬱陶しいので左腕の方でそれを即座に振り払う。
 その瞬間だった。
 ニヤリと苦悶を浮かべていたはずの司狼の表情がそこで初めて不敵な笑みへと変わる。
 僅か数秒、否、一瞬左腕で視界を遮っていたその直後だった。
 再び戻った視界の先で司狼が見せ付けるようにそれをこちらの眼前に晒したのは。

「それは――ッ!?」

 その瞬間だった。司狼はそのまま躊躇うことなくソレ――掲げたスタングレネードのピンを引き抜いたのは。

 叩きつけるように発生と共にぶつかってくる閃光と轟音。それがその刹那にトリファが感じ取った衝撃だった。



「……成程、物理的ダメージも高電圧も炎も効かないというのなら、こちらの視覚や聴覚を狙った方法に切り替えるということですか」

 着眼点そのものは悪くない。流石に聖遺物の使徒に直接的ダメージはないものの、予期していなかった攻撃であっただけに対応に迷いが生じた。
 結果的に締め落としにかかっていた手を思わず離してしまったのは事実だ。

「しかし間が抜けていると言わざるを得ませんね。この至近距離からそれを使えばむしろそのダメージをより強く負うのはあなたの方でしょう」

 事実、眼前にうつ伏せで倒れ伏している意識があるのかないのか……或いは意識はあっても聴覚がやられていて聞こえていないだろう少年を見下ろしながら神父は告げる。
 使うタイミングを間違えた、いやそのチャンスを逸したという方が正しいだろう。これでは無駄に終わった自爆も同然。
 存外に呆気なさ過ぎるオチだ、期待外れの間の抜けた結末に溜め息を零しながら神父は倒れている司狼へと近付き、その手を伸ばそうとし――



「……ほんと、計算違いもいいところだ」



 むくりと突如腕を上げると共にいつの間にか取り出していたもう一丁の銃をこちらの額にピタリと当てると共に、

「なっ!?」

 予想外の出来事に完全に虚を突かれた神父に構うことなく、引鉄を引いた。




 至近距離からピンポイントで脳天目掛けてデザートイーグルの全弾プレゼント。

「……普通なら、脳漿飛び散らせるのが正しい反応だろうが」
「生憎と、我々は普通ではありません。それくらいはご承知の上でしょうに」

 皮肉気……いや悔しげと言った方が正しい感情であろう……に顔を歪ませる司狼に、衝撃で外れていた眼鏡をかけ直しながら平然と言い返すトリファ。

「正直、私にとっては中々刺激的なものでしたよ。まぁ、攻撃手段が圧倒的に稚拙だという欠点がありましたが」

 そう告げながらふらふらと起き上がろうとしている司狼を不思議そうに見据えながらトリファは疑問を尋ねる。

「ところで先程の最後の不意打ち、流石に予期できなかっただけに驚きましたが……あなたはどうやって先程のスタングレネードの衝撃を防いだんですか?」

 そう、先の最後の不意打ち。結果的には無駄と終わったものでこそあれ、それでも気絶しているとばかり思っていたあの状態からすっかり騙されてしまったのは間違いない。
 単なる間抜けな自爆と思っていただけに、どうやってあれを回避して見せていたのかが気になったのだ。

「……見ざる聞かざるって言葉知ってるか?」
「その言葉とこの状況、どういう意味合いがお有りで?」

 簡単なことさ、と司狼は掌に握っていた何かをこちらに向かって放り投げてくる。
 少々軌道がずれて距離も若干足りていなかったソレを、しかしトリファはそつなくキャッチする。

「……耳栓?」
「そう。そいつ耳に仕込んで……後は目を瞑って出来る限り体を逸らして爆発から距離を取ろうとしただけ」

 幸い、スタングレネードの爆発直前にトリファがこちらを咄嗟に離してくれたので、芋虫のように床に伏せることが出来たと司狼は笑う。

「しかしその程度で回避できるほどにアレは甘い設計の道具でもないでしょう」

 非殺傷武器といえば聞こえはいいが、事実スタングレネードの威力が相当にえげつのないものであることくらいはトリファも良く知っている。
 例え床に伏せて耳栓で耳を塞いでいようとそれだけで凌ぎ切れるものでもない。

「……ああ、そうだよ。だから実際、アレ半分以上演技でも何でもなかったし、今だって目だって霞んでハッキリ視えてねえし、耳だってキンキンいっててよく聞こえてねえんだよ」

 だから出来れば聞き取りやすいように大きな声で喋ってくれと勝手な注文を付けてくるかと思えば、しきりに気分が悪いだの吐きそうだなどとぼやいている始末だった。
 その様子には毒気を抜かれたように流石のトリファも呆れた溜め息を思わず漏らす他になかった。
 ……本当にこの男、単なる考えしらずの馬鹿なのか、それともそれすら通り越した本物の大物なのか、よく分からない。
 判断に迷いながらも、しかしトリファが感じた正直な感想は、

「それなりに楽しめました。先程の侮辱は撤回してもいい」

 相手を確かに評価したことを表したそんな言葉だった。

「…………ハッ! だったらオレは虫から鼠くらいには格上げしてもらったのかな?」
「ええ、鼠もどうして馬鹿には出来ない。性質が悪い病気持ちも中にはいる。……実の所、私は不思議でなりません。こんな平和な、眠くなるような国に、どうしてあなたのような人種が生まれたのか」

 普通、飼育箱で野性など生じる筈など無いのですがねぇ等と司狼の皮肉の言葉に逆に自問するかのような首を傾げる態度を示す神父に司狼は知るかと不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。
 事実、これはトリファからしてもあまりにも予想の範疇から逸脱しすぎていた結果だ。これすらも全体の流れからは予定調和だと言い切るならそれは……

「もしかしたら、これも副首領閣下が仕掛けた術の影響なのでしょうか。このシャンバラは超人が生まれやすくなっているのかもしれません」

 そう言葉を発するトリファが見ていた対象は司狼ではない。離れた場所から少年の連れと共に終始こちらを監視していたヨシュアに向けて言ったにも等しい言葉だった。
 無論、聞こえているのかいないのかどちらにせよヨシュアからの態度は相変わらずにあの空々しい惚けたものでしかない。
 食えない狐だとつくづく思う。本当に、出し抜くには手間がかかりそうだ。
 だがそれも今は後でもいいだろう。どうせヨシュアへの対応は今すぐでなくとも出来る。それより今は眼前のこの興味深い対象こそを優先とすべきだ。

「あなたは先程、デジャヴと言った。それについていくつか聞きたい」

 折角の貴重で、そして稀少といえる情報源(サンプル)だ。色々と話を聞きだしておくに越したことはない。

「……いったい、いつからそうなりました?」

 トリファのその問いを聞いた瞬間、司狼はピクリと反応すると共にその表情を先程までのふてぶてしいものから一変した鋭いものへと変えていく。
 無論、そのようなもので臆すトリファではない。故にこそ質問の言葉も止まらない。

「生まれつきではないでしょう? 慢性的な既視感、否、既知感とでも言うべきですか。それに苛まれるなど最上級の拷問だ。私の知人にも同じ症状を訴える者が複数存在しましたが、皆例外なく狂っていましたよ」

――人は未知を感じられないと生きていけない。

 何よりもそれに餓えて狂っていた怪物たちを、そしてその渇望に対しての性質の悪さも良く知っている。事実、この現状こそがそうであり、自分もまたそれを利用する為に一枚噛んでいるのだから。

「現にあなたも生存本能が壊れている。死を以って生たらんとする矛盾に何ら疑問を持たない程に。……答えなさい、いつ、何があなたをそうさせました?」

 或いはそこにこそ、何かしらの答えの片鱗が隠されているのではないか……そうトリファは考えたのだ。
 拒否を許さぬ高圧的とも感じるその問いかけに、しかし司狼はその鋭い表情を崩す様子もなく、さりとて臆した素振りも見せぬままつまらなさ気に鼻を鳴らす。

「……ハッ、別に……ハッキリ自覚したのは連れと喧嘩別れしてからだ。その前からちょくちょくあったが、最初の一回目なんて覚えちゃいねえよ」

 その返答、様子や態度から察しても恐らくは偽りというわけでもないのだろう。
 成程と頷きながら、ならばとトリファはかまかけも兼ねてこんな問いをしてみることにした。


「……ふむ、成程。では私が答えましょう。もしかして――十一年前、ではないですか?」


「――ッ!?」
 瞬間、その言葉に司狼は面白いほどにその反抗的だった面構えを虚を突かれたかのような驚愕へと変化させる。
 その反応、その様子……恐らくは間違い無しだと断定するトリファ。
 同時――

「ふふ、あははは、ふはははは……面白い、これはこれは。やはりそうきましたか、これは楽しい、実に愉快だ」

 傑作だと思わず湧き上がってくる笑いを抑えきることが出来ない。
 これが本当に仕組まれたことだとするならば……いやはや、大したモノではないか。
 副首領、やはり本当に恐ろしい方だ。そうトリファは改めて思った。
 だからこそ――

「――アルベルトゥス」
「ここに」

 トリファが名を告げた事に反応するように、待機していた端から靴音を鳴らして近付いてきたかと思えば、恭しい態度を示しながらこちらへと一礼してくる。
 見事に調教された道化者だ、と存外に自分も言えた義理でもなかったかとその考えを脇へと置きながら彼に対してトリファは命じた。

「気が変わりました。この若者を無事に家まで送り届けて差し上げなさい」
「……宜しいので?」
「ええ、構いません。どうやら大した背後関係も無さそうですし……それに、こちらを恐れず噛み付いてきたその命知らずな無謀さを今回ばかりは評価してさしあげてもいいでしょう」
「畏まりました。猊下の御心のままに」

 トリファの言い分に納得を示したように恭しく一礼すると同時、ヨシュアは司狼の方へと近付いて来ると共に屈みながら手を伸ばしてくる。

「おい、気色悪いだろ。近付く――ッ!?」
「お静かに。それと動かぬようお願いします。……ご安心ください、直ぐに済みます」

 そう言うと共に問答無用で司狼の打撃を受けて腫れ上がった傷口へと触れるように手を翳してきたかと思えば、見る見るとその傷口が消えていく。

「……大した手品じゃない」

 まるで感心したかのような態度で、いつの間にか近付いてきたのかエリーがその様子を興味深げに観察していた。
 しかしそんなエリーの言葉にヨシュアは、

「いえいえ、単なる応急処置です。マレウス准尉ならより完璧で手早い治療を施されるでしょうね」

 などと謙遜するかのような態度で答えてくる。
 どうでもいいがその態度が微妙に嫌味たらしく聞こえるのは自分の邪推が過ぎるのだろうかとエリーはふと思いながらも、当の治療されたまま沈黙を保っている張本人へとエリーはその視線を向けていた。

「……司狼?」
「おい、テメエ」

 エリーが不思議そうに名を呼んでくるのを一切無視したままに、司狼はヨシュアを睨みつけながら静かに抑えた声で呼びかける。
 エリーの方へと向けていたその視線を何ですかとヨシュアが振り向いてきたその瞬間だった。

 ――その顔面に向かって、司狼は容赦なく至近距離からデザートイーグルを発砲した。

 突然のそれには流石に驚いて咄嗟に距離を取ろうと飛び離れるエリーと、こちらも予想外だったのか若干目を見開いて驚いた様子のトリファ。
 そして発砲したまま睨みつけるその態度を改めようとしない司狼と、突然発砲されながらも驚くどころか平然と……否、嬉しそうとも見える態度も顕にするヨシュア。

「……これは驚きました。何か私がお気に障ることでも?」
「それもある……が、それだけじゃねえよ。まさかこんな所でその面また拝むことになると思わなかったんでな」

 吐き捨てるように不快気に言ってくる司狼の言葉に、ヨシュアはニヤリと楽しげにその笑みの度合いを深めていく。

「……ほぅ、よもや憶えておいででしたか。驚きであると同時に、これは光栄だ」
「うるせえよ。……そのムカつく面がちっとも変わりもしてないってことは、テメエも連中の仲間だったってことかよ」

 最悪だと、次の瞬間にでも容赦なく次弾を放ってきそうな不快気、否、それをも上回る憎々しげな態度を示しながら司狼はヨシュアを睨みすえる態度を一向に緩めない。
 嫌われたものだとでもいうように肩をすくめるかのような態度を見せるヨシュアに益々司狼はその不快さを増していく。
 本気で第二弾をそれこそヨシュアに向けて発砲しようと司狼が引鉄へと指先をかけようとしたその時だった。

「これは意外ですね。二人は知り合いだったということですか?」

 割って入るように神父が割り込みながらそんな言葉を投げかけてくる。

「ええ。昔少々……というより二、三度面識がある程度でして、言葉を交わしたのは今回が初めてなのですがね」

 それにしてもまさかこちらの事を憶えていてくれたとはと改めて感心を示すヨシュア。

「興味がありますね。その辺り、詳しくお聞かせいただいても?」
「猊下の命とあらば……と言いたいところですが、直に明らかともなるであろうことです。今は色々と事情もありますし、出来ればまた別の機会に」
「……そうですか。ではその機会とやらが来ることを期待しておきましょう」

 そう告げながらトリファはヨシュアに向けていた視線を今度は司狼へと向ける。

「どうやらアルベルトゥスと面識がお有りのようですが……そちらも話していただく事は?」
「冗談! 誰が胸糞悪くなるようなそんな話題、他人に語ってやる為に穿り返さなきゃならねえんだよ」

 断固お断りだと不愉快そうにソッポを向く司狼に、こちらにもトリファはやれやれと言った様子で溜め息を吐く。

「一応確認しておきますが、そちらのお嬢さんは――」
「――むしろあたしだって訊きたい立場だよ」

 遮るように返してくるエリーの言葉に「でしょうね」と納得するようにトリファは苦笑していた。
 予想外の出来事に、愉快さは鳴りを潜め新たな疑問が深まるトリファだが、その答えを知る者たちがこの態度では恐らくいつまで経っても答えは出ない。
 さりとて力づくで聞き出すなどという方法も考えはしたが……両者ともそれで素直に白状するような可愛らしい性格をしていないのは明らか。
 結局は現状は手詰まり、所謂千日手だ。
 色々と惜しいと思うし疑念も残るが、新たな収穫と興味も湧いた。ならば今宵はこの辺りが引き時と判ずるのが賢明。
 元より先にヨシュアへとそれを申し付けたのはトリファ自身だ。
 ならば――

「では今宵はもうお二人とも帰られると宜しい。……今更、こんな事を言ったところで聞かぬでしょうが、命を粗末に扱うものではありません。これに懲りたなら首を突っ込む事態はもっと冷静に考えてから選ぶべきでしょうね」
「……まるで説教だな」
「当然でしょう、腐っても私は神父です。むしろこういった説教こそが私の本分ですよ」
「ハッ、勝手に謳って電波でも垂れ流してろ、エセ神父」

 吐き捨てるように神父に対して言い捨てた後、エリーを促がして教会から立ち去ろうとする司狼。
 その背中に――

「やはりこれだけやっても、今のあなたに残っている感情は一つだけなんでしょうね」
「………あ?」

 投げかけてきたヨシュアの言葉に不快気に司狼は振り向きながら相手を睨みつける。

「何だ、今度はテメエが電波垂れ流す番なのかよ?」
「屈辱? 不満? いいえ、違いますね。今のあなたが感じているのはそんなものではない。さしずめ……そうですね、言うなれば落胆ですか」

 司狼の言葉を無視するようにヨシュアが続けるその言葉に司狼はそれこそピクリと反応したようにまたしても露骨な殺気をヨシュアへと向ける。
 だがヨシュアの方はまったく気にしていない。むしろ今から相手へと告げるその言葉が楽しくて仕方がないとでも言った様子でニヤリと笑いながら、その言葉を告げた。


「あなたはガッカリしているはずだ。“これは前にも経験した”と、ね」


 瞬間だった、再び素早くデザートイーグルを取り出すと共に、その照準を寸分違わずヨシュアへと向ける司狼。
 その表情に宿っているのは不快さを通り越した怒りだ。

「良い目です。やはり見込みは正しかった。あなたは本当に――」
「うるせえよ、電波野郎」

 吐き捨てるように短くそんな言葉で遮ると同時に、発砲。
 銃弾は狙い違わず、避けようともしないヨシュアに再び直撃する。
 しかし――

「チッ!」
「残念ながら、今のあなたでは我々は殺せない。それをよく考え、理解し、勉強すればいい。……あなたがどんな方法を選ぶのか、私は期待しています」
「その期待で……テメエら皆殺しにしてやるよ」
「出来るというならばご自由に。それを楽しみとさせていただきましょうか」

 圧倒的な相手の余裕。こちらを舐め腐りきった連中の態度。
 ……ああ、デジャヴる。最悪だ。
 最後に口汚く小さく罵った後、チンピラそのままの態度で司狼は連中に向かって立てた中指を露骨に示しながら、今度こそ背を向けて振り返らずに教会を後にしながら宣言した。

「上等だよ、ナチ野郎ども。テメエら絶対地獄送りにしてやるよ」




 教会を後にして間もなく、停めてあるキャデラックにまで戻ろうと歩く司狼に思い出したかのようにエリーは先の出会いの事を口にしていた。

「さっきね、此処でアンタがよく話題にする藤井くんとすれ違ったのよ?」

 先を歩いていた司狼はその言葉に「へ~」と言った様子で軽く反応を示しながら振り返ってくる。
 教会を出てくる時に顕にしていた激昂も、どうやら今は治まったといった様子らしい。

「例の二人も一緒だったんだけどさ、アレ……アンタよりはモテそうなタイプだよね。結局心配かけるくせに隠して更に煽るみたいな」
「……モテるのか、それ?」

 可笑しそうに笑みを零して言ってくるエリーの言葉に、司狼の方がよく分からないといったように首を傾げていた。

「少なくとも、アンタみたいに端から堂々とやる気満々で無茶するヤツには誰も寄り付きはしないでしょうよ。結果的に同じことやるとしても、外面優等生の方が受けは良さそうと思うけどね」

 それは遠回しにこちらを馬鹿にしているのか、そう思ってもよさそうな言い方ではあったが生憎と司狼も彼女とはそれなりの付き合い、その言葉に含んでいる意図ぐらいは直ぐに理解できた。

「つまりアイツはお前のタイプじゃないわけね。何言ってイジメた?」

 やれやれ他人の幼なじみにいったいどんなチョッカイかけやがったのか、と呆れたように……否、むしろ興味でも湧いてきたようにそんな問いを返す司狼。
 彼の言葉にエリーは失敬なとでも言った様子で、アンタじゃあるまいしそんなことするわけないでしょうがと笑みを浮かべながら、丁度坂道を下って見えてきた停車しているキャデラックを指差しながら――

「何って? 別にあたしはただ最初、あの辺に座ってて――」

 瞬間、夜の静寂を打ち破るかのような爆発音と熱に照らされた炎が出現する。
 そう、丁度その瞬間にエリーが指を指した自分たちが停めていたキャデラックから。

「――ッ!?」

 流石に突然のその光景にはエリーも言葉が続かずに目を見開き驚くに他ない。
 轟音の発生と同時に弾かれたように再び前方に振り返った司狼とてそれは同じだった。

「おいおい、オレのキャデラック!?」
「……あれ、メッチャ金掛かってたんだけどねぇ」

 自慢の愛車をお釈迦にされた事実に落胆と憤りを同時に抱く両者だが、直ぐにその視線は鋭く警戒したように細められながら前方に確認した異常を捉える。
 司狼とエリー、二人が見据える炎上した愛車の傍らに立つ二人組。
 相手もまた炎に燃え上がるキャデラックの傍らから坂の途中で止まっているこちらをニヤついた笑みをもって見据えている。
 奇妙にアンバランスな二人組であった。

「あれー? 何か臭うなぁ。この辺ちょっと派手じゃない?」
「何を今更。んなもんよりさっきまで派手に銃撃ちまくってたヤツはあのガキ共か」

 片方は赤い髪に可憐な顔立ちをした幼い外見……それに似合わぬ食虫植物めいた雰囲気を滲み出させている黒服の少女。
 もう一方は端整ではあろうがどこか温かみの欠片もない死蝋を連想させる顔立ちと肌の色をした同じく黒服の長身の男。
 どちらも彼らという存在の正体を知らなかったとしたとしてもその姿を一目見ただけで理解できただろう。
 彼らが掛け値なしに危険で禍々しい、決して出会ってはならない存在だということに。
 無論、昨夜から送られてきた写メ、そして例のアングラサイトで確認した姿から彼ら二人の正体に二人もまた即座に気付いていた。
 最悪の遭遇、この現状の事実を正確に理解しながら司狼もエリーも恐れを抱くことはなかろうとも警戒だけは決して解くことも出来ない。

「ねぇ、そこのあなた達。怪しい人とか見てないかなぁ? 日本で銃なんて撃ってたらお巡りさんに捕まるってわたし聞いてたんだけど?」
「この国、意外と物騒なんだな。乱射魔が大手を振って歩けるのかよ? おっかねえ話だぜ」

 だがそんな司狼たちの様子などまったく気にする素振りもないままに、気安いとも感じられる歩調と口調で近付いてきながらそんなことをこちらへと尋ねてくる魔人たち。
 随分と白々しい連中だ、司狼がそんな風に不快気に鼻を鳴らす素振りも見せながら応じる。

「あーまったく、血の臭い撒き散らしてるジジイとババアが二人もいるくらいだ。物騒通り越してギャグだろ、これは」

 それは挑発の切り返しであったのは事実だが、存外に司狼自身が本音で抱いていたこの状況への感想でもあった。
 ふてぶてしさもまったく崩れぬ言い分と態度、怯えて縮こまるだけの単なる劣等ではないことを漸くに察したようにベイは感心を示すかのような素振りを一瞬見せながらも問いかけていた。

「中々面白えガキだな、おい。クリストフに見逃してもらったのかよ?」

 恐らくは教会にてクリストフがもてなす予定にしていた客人とはこの二匹の猿のことなのだろう。
 こちらを相手に臆す様子も無い素振りからも、それは明らか。
 だがそうだというのなら存外に解せぬと思うことも同時に多々ある。

「の割にはちょっと怪我してるみたいだけど……もしかして、あの神父様と戦ったの? でもだったら、生きていられるはずないんだけどなぁ」

 ベイの疑問に追随するかのような問いを発するマレウス。しかし彼女の言葉もまた道理ではある。
 教会で目立つ負傷そのものは司狼が望んでいないにも関わらず、勝手にヨシュアが治療してしまった。
 しかし細かな服装の乱れや汚れ、小さな傷などはそのままに未だ司狼の外見に残っている。
 その辺りを目敏く気づいた故の疑問。そう、それはまさしく戦闘の残滓なのではないのかと。
 事実、それは彼らの予想通りであり正解だ。だが正解である故にこそこの場合は尚更に解せないのだ。
 自分たちのような人外とこうまで真正面から対峙しながらまったく物怖じも見せない相手の胆力……これは中々のものだ、認めよう。
 だがさりとて、だからと言って一目で看破できるほどに眼前の少年たちが何某かの力を隠し持っているようにも見えない。
 無論、自分たちの同類……聖遺物の使徒などということもありえない。
 彼らは外れているわけでもない普通の人間。ならば戦闘を行ったと思われるクリストフ相手にどのように生き残ったというのだろうか。
 度胸や機転だけで制する事が出来るほどに自分たち黒円卓を率いる首領代行殿は甘くなどない。ましてやただの人間がエイヴィヒカイトを操る自分たち超人に勝てるなどということもまたありえるはずがないのだ。
 ならばどうして……?

「……ヘッ、あのナマグサが。また気色悪い気紛れでも起こしやがったか」
「それが妥当だろうけど……そうだとしてもあなたたち、運が良いわね」

 結論としてベイ、マレウスの両者が抱いた予想は共通する同じもの。
 即ち、代行殿が気紛れに起こした慈悲。
 腐っても聖職者、そんな戯けたことを自負するナマグサではあるが、狂っているクセして時折そんな普通の人間が持つ倫理観のようなものを振りかざすのがあの男だ。
 元々その能力は兎も角として何を考えているのかも読み難い奇妙な男だ。ならばこのような戯けた奇行に彼が走ったにしても二人も「ああ、またか」と思うだけだ。
 ならばこれはそういうものなのだろう。あの男とて掛け値なしの愚物ではない。彼の黄金の獣より黒円卓の全権を預かっている代行、これとて何か考えあっての結果なのだろう。

「でもそうなると、やっぱりわたしたちもあなたたちのことを見逃さなきゃいけないのよねぇ」

 実に惜しい、そんな風に残念だと態度に顕にしながら漏らすマレウスの言葉に、そこで漸く司狼とエリーも眼前の魔人たち以外の異変に気づいた。
 そう言えば先程からいやに静かだ、そうエリーはふと思った。
 彼女は教会に突入する前に、携帯で舎弟どもにある指示を出していたはずなのだから、この場合の静寂というのもかなり不自然であるはずだ。

 彼女は命じた。アシがある奴はゾッキーの真似事でもして出来るだけ騒音を出してカモフラージュをしておけ、と。
 夜中の郊外であろうと司狼が銃を乱射した場合は物騒すぎるから、確かにそう命じていた。
 そして教会から先程出てきたとはいえ、舎弟どもにまだそれを止めるように連絡は入れていない。
 そうであるにも関わらず、郊外を騒がせる騒音など何一つ今は聞こえてこない。それなりに躾はしていた舎弟を選りすぐって集めていたはずだ。こちらの指示がくるまで勝手にそれをやめてしまうような奴らでもない。
 であるにも関わらず、指示も待たずに沈黙を保っているということは……つまり、もはやこちらの指示など聞けない状態になっているという――

「エリー」
「分かってるよ……大丈夫」

 至った結論と現状を鑑みても恐らく答えは間違っていないだろう。
 だからこそ、司狼がこちらを抑えるように名を呼んできたことも、その意図もまた十二分に察することがちゃんと出来ている。
 分かっている。ああ、分かっているとも。このくらいの結果に揺れるほど遊佐司狼の相方を自負する本城恵梨依は甘くなどない。
 だから言われずとも、ここで迂闊な行動になど移りはしない。ちゃんと抑える、その意思を態度として司狼にも見せる。
 司狼もまたエリーが抑えたという事実に、それでいいと頷いた。

「あれ、何だやらないの? 折角男女二対二同士なんだし、面白いと思うんだけどなぁ」
「神父に説教された直後で萎えちゃってるのかぁ? つまんねぇな、敗北主義者がよぉ」

 しかし司狼たちの示すそんな態度に不満を示したのは対峙していた二人の魔人の方であった。
 その彼らの予想通りこの辺りで目障りにうろついていた劣等共を皆殺しにしたのは自分たちだ。
 公園でのツァラトゥストラとの一件……不完全燃焼に終わり火照りを持て余したベイからすれば丁度いい手慰みにもなった。
 けれどやはり正直に言ってまだ足りない。この程度では喰った気にすらなりもしない。
 例え粗雑で下等な一山幾らのムシケラ集団とはいえ、質を求めないからこそせめて量を求めたいというのもある種当然ともいえる欲求。
 クリストフが見逃した猿二匹。上司の顔を立てるためにも自らそれを襲って喰らおうなどという事も出来なければするつもりもない。
 しかしながら、相手から突っかかってきたとしたのなら、それは別。
 身の程知らずの猿に喧嘩を売る相手を間違えたということを教えてやるのも自分たち優良人種が行うべき義務でもあろう。
 だからこそ、ここで相手の方に我慢されてしまえばこちらからは手を出せない故に拍子抜けなのである。
 故にこその露骨なまでの挑発とも言えそうなそんな台詞だった。
 それに――

「おい」

 ――瞬間、司狼がベイに向かって呼びかけると共に発砲。

 躊躇も恐れも何もない、下に見られたことを力づくで否定することを示したかのような相手からの痛烈な返礼。
 だが……

「あん?……アホが、こんなもん俺らに効くかよ。学習しろや、劣等人種」

 この微温湯のような国では異物と言えそうな玩具を躊躇いもなく発砲する度胸。乱射魔としての将来性ならその命知らずな言動とも合わさって認めてやらんこともない。
 だが所詮は彼らにしてみればそんなものはただの玩具も同然。チャチな鉛玉を何百発と撃ち込んでこようが実際に効く筈もない。
 どうせクリストフ相手に教会でやりあって学習させられたはずだというのに……本当に劣等というのは理解力が悪過ぎると言わざるを得ない。

「でもまぁ、中々惚けたガキだ。こんな戯けた国に住んでる割には見所もある。今回だけだ、クリストフが見逃した手前、俺も一度だけ見逃してやる」

 本来ならば授業料にその命を頂く教育を施してやるところだが……ガキが生意気で無鉄砲だというのは古今東西、いかなる国でもそうは変わらない。
 飢えは未だ満たされていない。そそるほどの上物だと食指が動くわけでもないが、それでもここで喰らわないことを躊躇うだけの理由など殆どない。
 それでもカズィクル・ベイの中の何かが己へと囁き続けてくるのだ。

 ――ここでこのガキを喰らうには少し惜しい、と。

 理由など何もない言うなれば直感ではあるが、生憎と本能が囁きかけてきたその言葉が失望という形で外れてきたこともベイの長い人生の中では早々ない。
 いつだって己の直感と力、それのみを自己を形成する柱として生きてきたのがヴィルヘルム・エーレンブルグだ。
 なればこそ、久しぶりに囁きをしてきた己が誘いに乗ってみるのも一興か。
 退屈を払拭する要素、可能性は多いことに越したこともない。これは言うなれば、その為の先行投資。

「……けどなぁガキ、忘れるなよ? 俺を攻撃した以上、次は無え」

 そう、一度は見逃してやる。けれど二度目は無い。
 度胸や気概云々は見所はあれど、身の程知らずな事をした事実自体は変わらないのだ。
 故にその辺りについてはキッチリと釘を刺しておく。

「今度会ったら食べちゃうぞ♪ だからこれに懲りないで、またチョッカイかけてくれると嬉しいな」

 ベイが見逃すことにした事実に同意することにしたのだろう。マレウスもまたそうやってそんな事を言って笑いながら二人をこの場では見逃す意思を示す。
 魔人たちの戯れによって見逃され命拾いした……この現状がそうであるという事実自体は変わらない。
 しかしながら偉そうに、好き勝手に話を勝手に纏めようとしている連中へと司狼は深い溜め息を一つ吐くと……

「つーかよ、おまえら―――車弁償しろよな!!!」

 特注のカスタマイズを施した自慢の愛車。いったい幾らつぎ込んだと思っていやがるのかと憤慨も顕に示しながら相手を怒鳴る遊佐司狼。
 命を見逃されたという直後の事実に対してあまりにも差異のありすぎる惚けた言動。

「あはっ」
「へっ」

 しかしそれは中々に魔人二人の笑いのツボには嵌っていたらしい。

「ハハハ、アハハハ! 面白い、面白いよこの子。気に入っちゃった! また会おうね~」
「俺ら全員の首でも取りゃあ戦車の一万台でも買えるだろうよ。精々、頑張ってみるんだなぁ……フハハハ、ハーッハッハッハッハ!」

 最後に良いジョークが聞けたと言わんばかりの態度で哄笑を残しながら好き勝手に登場したかと思えば去っていく魔人たち。
 当然、司狼にもエリーにも呼び止めはおろか追う事もまた出来なければそもそもしようとも思わない。
 首の皮一枚で繋がった命拾い、その事実は決して変わらないのだから。
 どうやら今夜はこちらが一方的に痛い目を見ることとなった、所謂敗北というやつなのかもしれない。

「……ま、人生こうでなくちゃつまんねえよな」
「とりあえず、連中に効きそうなものでも調べてみようか」

 今、誰も把握していない深い所で街に異変が置き始めている。
 それはきっと、荒唐無稽で馬鹿馬鹿しくて、常識ハズレした悪趣味の極地みたいな物語。
 どうやら自分たちはその登場人物として巻き込まれてしまったみたいだ。
 ……いや、この場合、自ら首を突っ込んだと言うべきなのか。
 正直、それについて後悔の念が無いと言えば嘘になるが……

 それでも求めているもの、目指しているものに、今漸くに手が届き始めているというのもまた事実だ。
 これは未だ既知感の範疇からはやはり脱け出ていないことなのかもしれないがそれでも――

「……進み続けた先の結果に、きっと何かがあるはずだ」

 それが未経験のルートのエンディング……未知である事を信じて。
 十三階段の一歩目を着実に踏み出したにも等しい事実にそれでも笑みすら浮かべながら、これにてもう一つの恐怖劇の幕は閉じる。

 今宵、新たに舞台に上がることを認められた……否、無理矢理にでも上がってきた彼らがどのような役割を演じて、登場人物たちと邂逅していくのか。
 それはまた、新たに幕が上がった舞台での話である。



[8778] ChapterⅡ-10
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 23:25
「……成程、分かった。ご苦労だったね、螢」

 恐怖劇の幕が下りたその後、教会に帰還した螢からの報告にヨシュアはそんな労いの言葉を告げた。
 尤も、それを受けた弟子の方はと言えば相変わらずに愛想もない態度のままであったが。
 まぁそちらはどうでもいい。重要なのは舞台がどう動いたのか、その一点だ。
 彼女からの報告にも随分と興味深いモノがいくつか混ざっていた。ということはそれなりの成功を収めたのだとこれは見てもいいのだろう。

「ところで螢、君はどう思ったんだい?」
「……どう、とは?」

 弟子からの報告は彼女自身の性格とも合わさってか、主観性を廃そうとした客観的報告に努められた事実確認のようなものに過ぎなかった。
 実際彼女がその現場に立ち会った時に何を感じて何を思ったのか……その部分にはとんと触れられていない。
 だからこそ気になったのだ。同じ舞台の共演者だった者として立ち会った時に感じた事……今後のシナリオへの参考と検討も兼ねて是非とも意見が欲しくはあった。

「実際に立ち合い、そしてその少年たちとも直接接触したのだろう? 彼らについてどんな印象を抱いたのか知りたいと思ってね」

 ヨシュアの言葉に螢は数秒ほど訝るように彼の方へと視線を向けた後、

「……いえ、特には」

 そんな言葉を小さく首を振りながら短く告げるのみであった。
 些か落胆したような態度も顕にするヨシュアだが、螢からすればそんな事は知ったことでもない。
 ……だがそれでも敢えて彼らについて自分の方から言う事があるとするならば、

「ですが強いて言うなら……彼らは場違いですね」
「ほう、場違い?」
「もっと正確にうならばジャンル違い、とでも言うのでしょうか。凡そこちらと関わるべき接点も本来ならばなさそうな普通で無害なだけの人間に過ぎないでしょうね」

 あの藤井蓮という少年にしろ、名も知らぬもう一人の彼が護ろうとした少年にしろ、螢が実際に対峙して言葉を交わして思ったのはそんな印象だ。
 正直、副首領と直接的な面識がないとはいえあのような少年がどうしてベイたちからその代替だと疑われているのかも理解不能だ。
 ベイの遊びとやらに火を点けた直接的原因となったその現場を目撃し損ねた彼女にとっては尚更に疑問ではあった。
 もう一人の少年の方など更に輪をかけて断言しても良いほどだ。ただのムシケラだ、と。
 螢からすれば直接的に交戦したあのカスミという少女の方が余程疑わしい……むしろエイヴィヒカイトをああして使った以上、あちらの方こそをツァラトゥストラだとも思っていた。

「……普通、か。その言い方は彼らにとっては幸福なのかな?」
「正常な価値観を持つ人間であるならばそうでしょう。少なくとも、私は自分たちのような存在をマトモと捉えた事は一度だってありません」

 からかうようなヨシュアの言葉にそう螢は冷たく切り返す。
 ヨシュアの方も白々しい苦笑も顕にご尤もなどと肯定してくるが、別にタガの外れた狂人の同意など彼女は微塵も求めてはいない。
 それにいつまでもこのような益にもならぬ問答をこの男と続けたいとも思っていない。いい加減、報告をこうして終えた以上次の指示なり待機なりを命じてさっさと解放してもらいたくもあった。

「そうだな、夜も更けた。これ以上、君を拘束しては今後の行動にも差し支えよう。ご苦労だったね、螢。下がって休んでくれ」
「了解しました」

 漸くに退出の許可が下りたことに内心で思い溜め息を一つ吐く。尤も、外面ではそのような感情はおくびにも出さぬよう努めていたが。
 余計な戦闘まで行ってしまい疲労を感じていたのも事実だ。明日からの己にとっては未知とも言える従事すべき新たな任務の事もある。早々に部屋へと戻って今は休息を取りたかった。
 では、と不躾にならない程度に急ぎながら螢は一礼を最後に師へと示すと共に背を向けて去ろうとする。
 その背中に――

「――ああ、そうそう。一つ言い忘れていた」

 唐突にかけられた声にピタリと螢の足は止まる。
 若干に怪訝ともいえる感情をその表情に表しながら彼女はヨシュアへとまだ何かあるのかと振り向いた。

「先の報告の内容……その君がツァラトゥストラと疑っている少女の件だが、これは他の団員の面々には伏せておいてもらえると助かる」
「……それは、どういう意味でしょうか?」

 現在の自分たちへと与えられた主任務たる副首領の代理――ツァラトゥストラの探索。
 それは他ならぬ眼前の男と聖餐杯から直接に命じられた任務のはずである。
 先のあの少年……藤井蓮の身を出来うる限り護るようにとも取れるような奇妙な指示といい、納得がし難い内容と思えてならなかった。

「それは猊下も同意されている……黒円卓の意向なのでしょうか?」

 少なくともそうでないとするならば、これは少々考えねばならぬことでもある。
 忠誠こそ我が名誉。仮にもベイにそうまで言ってしまっている手前としては、例え師からの指示であろうとも黒円卓に対しての叛意と疑われかねない行いだというのならそれは彼女にとっても避けねばならぬことだ。
 偽りの忠誠であれそれでも意味があるからこそ、命懸けで魂まで捧げる覚悟を持って彼女も黒円卓へと属しているのだ。
 この副首領に心酔している男が組織への逆徒とは疑い難いが、それでも自分の悲願を叶える事への障害になるというのなら……排除とて或いは考えなくてはならないだろう。
 螢の表情と態度に警戒が生まれかけているのを察したのだろう、ヨシュアは苦笑を浮かべながら彼女に向かって首を振る。

「聖餐杯猊下には出来れば黙っていてもらいたい。……が、勘違いをしないで欲しいがレオンハルト、私は常に黒円卓の事を考えて此度の儀式へと臨み、色々と手を打っている心算だよ」
「……この情報の黙秘もまた、結果的には黒円卓の為であると?」
「無論。私の忠誠は常に首領・副首領両閣下の為だけに捧げられている。それは君も良く知っているとは思うが?」

 ……確かに、この狂人の理解し難いまでのその二者への忠誠はもはや狂信のレベルだろう。かの者たちを昔語りに誇らしげに語る彼の目を見た時に何度も螢自身がそれを確信してもいた。
 この男に限って、メフィストフェレスとメルクリウス。この二人への裏切りなどと言う考えだけは断じてない事だろう。
 だがそうであるというのならば尚の事に解せない。それでは彼の言い分はまるで……

「マスターは猊下こそが逆徒だと仰られる心算なのですか?」

 黒円卓の為と謳い、それでも聖餐杯へと決して取るに足らぬとも言い切れぬはずの情報を伏せようというのなら、それはまるで彼を疑っているかのようにしか思えない。
 自分たちの現状の指揮官であるかの代行が背信者? この師と同様に腹の内が読めぬ人物であるとはいえ出来ればそのような疑いを螢とて持ちたいとは思わない。

「滅多なことは言うものではないよ、レオンハルト。あの方は首領閣下に直接に仕え、全権を委任されておられる忠臣、間違っても逆徒などと無礼な疑いを抱いてはいけない」

 けれど螢の内心の疑いを否定するかのようなそんな言葉を言ってくるヨシュア。彼女からすればならば一体どういう事なのかと訳が分からなくもなってくる。

「我らが目指すべき目的は一つだ。……けれど正直に言って、猊下と私ではどうやらそこへ至る為のプロセスに少しばかり差異があるようなのでね」
「……マスターはマスターの主導によって成果を残したいと?」
「私とて人の子、加えて見ての通りの俗物でね。端的に言ってしまえばそういうことだ」

 要するに手柄を自らのものへとしたいのだ、そう師は言ってきているということらしい。
 ……確かに、自身の言うその言葉通りの極めて私的で俗物的な考えだ。
 一歩間違えれば組織の私有化とさえ疑われかねない、お世辞にも看過すべからざる意図だと思わざるを得ない。
 自分の立ち位置としても、ここはつまり下らない派閥争いにでも巻き込まれかねない分岐点とも言える瞬間なのかもしれない。
 さてどうする、櫻井螢。おまえは彼の考えに乗るのか、それとも……

「……失礼ですが、私がマスターに味方する場合のメリットとはなんでしょうか?」

 師弟関係とはいえ所詮それも突き詰めればギブアンドテイクの関係に過ぎない。互いに各々の目的に利用するからこそ十一年前に成立した関係こそが自分たちだ。
 ましてや恩義どころか私怨に等しい感情を抱いている相手へと自分自身の今後の立場を危うくするかもしれぬリスクを負ってまで加担するメリットがあるというのか。
 先程、聖餐杯もまた到達地点は同じと言った以上、それが示せないというのなら別にこの男を切ってあの男の側へと就こうとも構いはしないのだ。
 目的の為ならば自分は何だってやる。どんなものだって利用する。必要ならば師も同胞すらも切り捨てるぐらいの覚悟はある。
 だからこそ――

「かの槍の呪いの全てから君たちを解放する。それを約束しよう」
「――ッ!?」

 その言葉に螢は言葉を失ったように目を見開き彼を見た。
 余程激しい喰いつきを見せたのだろう、ヨシュアは余裕を持った態度も顕に「不足かな?」とでも言った様子でいつもの笑みを見せ付けてくるだけだった。

「……それは、本当ですか?」
「私が一度でも君に嘘を吐いたことがあったかね」

 伝承に曰く、契約を持ちかけてくる時の悪魔は他のどんな者よりも優しい。
 そして、悪魔は決してその契約を違えるという事はしない。
 この男もまた十一年前から、そして現在に至るまで、それだけは同じだった。
 忌まわしきかの偽槍からの解放。
 全てを取り戻すと、愛する者達と再び出会うと決めた螢にとっては勝るとも劣らぬ目的ではある。
 それが本当に叶うと言うのなら……
 この男が叶える手段を提示するというのなら――

「――分かりました。マスターの御心のままに」

 契約の成立を示す言葉と、一礼を螢は恭しくも示す。
 道化と笑いたいならば好きなだけ笑えばいい。
 恥知らずと蔑みたいなら存分にそうするがいい。
 だがどのような侮蔑や恥辱を受けようが、これだけは決して違えられない。
 櫻井螢が櫻井螢として在る為にも――

 ――それが私のやらなければならないことだから。

 ふと、名も知らぬあの少年を相手に思い出していたその誓いが再び脳裏へと過ぎっていた。



「聞き分けの良い子で助かったな」

 螢が退出していったのを確認した後、どこか愉快気とも言えそうな様子と共にヨシュアから漏れるそんな呟き。
 その内心がどれ程反抗的であれ、餌をチラつかせさえすれば簡単に食いついてくれる。
 至極御しやすい……まぁ、あの辺りが可愛いと言うのだろうが。
 トバルカインやヴァルキュリアが今の自分たちを見たならば、さぞ殺意を抑え難い現状なのだろうとも思う。
 しかし所詮死人には何も出来ない。彼らがどれ程この現状を悔やみ、かの少女を憐れみ、そして自分を憎もうともどうすることも出来はしない。

「私が殺したいほどに憎いのだろうな、あの二人は」

 くつくつと喉を震わせ愉快気にそんな笑みと呟きが漏れるのを抑えきれない。
 偽槍によって運命を狂わされた……否、こう狂うべき運命だった彼らにとっては己は万度殺そうがさぞ飽き足らない存在なのだろう。
 それは螢もまた同じ。いずれは牙を剥くだろう弟子の内心を鑑みるならば、せめて出来るだけ長く幸福と思う夢に浸らせてやる事が弟子への愛情というものだろう。
 だからこそ未だ憎悪は熟成期間……それが解放される時、彼女が『真実』を知った時にどのような顔をするのか、それが今からとても楽しみではあった。
 まぁ、螢についてはしかし後でもいい。問題は……

「“カドゥケウス”はどうやら上手く機能しているらしいな」

 螢からの報告、エイヴィヒカイトを扱ったという少女。件の殺人鬼。

「――綾瀬香純」

 運命というものはまさに連環の輪そのものであろう。
 遊佐司狼といい彼女といい……あの時から十一年の時が経過しているもののまったくこちらの思惑通りに順当な行動を起こしてくれている。
 愉快、そう実に愉快だとヨシュアは思う。
 だからこそ、今一時くらいは彼女の献身を尊重し、見守りたい。
 こちらにとっても彼女がそうやって魂を集めてくれる事に関しては都合がいい。彼女が死んでも代わりはいるが……肝心のツァラトゥストラにどれだけの精神的動揺を与えるかは予測がつかない以上、現状維持が今は一番好ましい。
 彼女には精々存分に彼の為にも血に塗れてもらいたい。

「記念すべき幕開けは悲恋の物語をもって、ですか?……本当に、主もお人が悪い」

 しかしそれが主や歌姫、そして黄金の獣の琴線に触れえる余興となるのなら是非もない。ツァラトゥストラ自身が幕開けと共にこちらを憎悪する感情の育成にもそれは拍車を掛けるだろう。
 概ね順調、万事は滞ることなく進んでいく。
 聖餐杯に情報を伏せるようなことをしたのも、目晦ましというよりはそれによって彼がどう動くのか……或いは動かないのか、それを試したかったからだ。

「猊下は逆徒ではない、か」

 自分で言っておいて少し白々しいかとは思った。クリストフ・ローエングリーンの黒円卓での経緯を考えれば、そして彼の壊れきった観念を鑑みさえすれば、その内心が如何程のものかくらいは充分に察する事も出来る。
 摘んだ花を半世紀も経ってまだ惜しんでいるというのもヨシュアからすれば理解し難い愚かしい価値観でしかないが、故にこそのかの狂人の今は成立しているのであろうことくらいは納得できる。

「……猊下、あなたは我が主の描いたこの脚本を出し抜けるとでも本気でお思いなのですか?」

 その執念、決して侮っているわけでも軽んじているわけでもないが……しかしながら無謀としかヨシュアには思えない。
 メルクリウスという存在の強大さと異常性は絶望と屈辱と共に黒円卓に座する者ならば誰もが知っているはずのこと。
 それに敢えて逆らう?……いい度胸だと逆に敬意すら抱いてもいいほどだ。
 遊佐司狼たちを敢えて見逃したことといい、ベイやマレウスに比べればまだ立ち位置は己の側に近いとはいえ、いずれは敵対も避けられまい。
 そうなった時に果たして、

「あなたの執念か私の忠誠か、いったいどちらに勝利の女神は微笑むのか」

 或いは、主のシナリオはどちらを勝利者と選んでいるのか。
 楽しみだ、ああ実に楽しみだ。
 私情で仕事はしない主義だが、仕事に私情を入れてしまう悪癖に火が点いている事にヨシュア・ヘンドリック自身も気づいていない。

 そして対立するかの司祭の執念の程、覚悟の深さがどれ程のものであるのかも……。




 夢を見ていた。
 小さい頃の……凡そ十年以上前の、まだ無力なガキだった頃の自分の夢。
 いや、今だって何一つあいつ等を護る事も出来ていない事実を考えれば図体だけがただ大きくなっただけかと沢原一弥は思い直す。
 そう、あの頃から何一つだって変わっていない。

 赤く染まった蓮。
 罰の悪い顔立ちの司狼。
 そして――

 ――大切なものをなくして泣いている香純。

 ……ああ、そうだ。俺は彼女を泣かせたくなかったんだ。
 俺が下手を打ったせいで瑕を残した蓮に対して償いたかったんだ。
 だから……俺は……


「……うぅ」

 呻き声を発しながら寝返りを一回、その直後ふとした拍子に沢原一弥は朧気ではあったが意識を取り戻した。
 思考は纏まらず覚醒にもほど遠い。そして身体にかかる重たい疲労が瞼を再び閉じさせようと誘ってくる。
 しかし――

「――ッ!? 蓮ッ!?」

 急に引き戻されるように脳裏へと駆け抜けていった映像が無理矢理に彼を覚醒させる。
 ベッドの上から飛び起きるように身を起こしながら、周囲を確認するかのように慌てて左右へと首を振る。

「……俺の……部屋……?」

 一瞬、何かの間違いではないのかと戸惑いながらも、呟いた言葉が自分の現在居る空間の正体であることは変わらない。
 おかしい、どういうことだ?

「……確か……公園で……」

 そう、記憶の中で最後に残っている光景は昨夜の海浜公園での出来事。
 正体不明の白髪の化物……そいつに蓮が殺されかけているのを見て、それを助けようとそいつを相手にバイクで突っ込んで――

「――ッ!?」

 唐突に起こった頭痛に顔を顰めながら頭を押さえる。
 まるでその先の事を思い出すことを拒否するかのような反応。事実、碌な結果にならなかったはずだったという確信のようなものが何となくではあるが存在する。
 そう、結局は自分の行った事など無意味で、そして自分はそのまま逆にあの白髪の化物に殺されかけて――

「……それで、どうなった?」

 そう、頭痛に苛まれる拒絶感へと抗いながら昨夜の出来事を思い出そうと続けてみるが、嬲り殺されかけた途中からの記憶がない。
 多分、その辺りで自分は意識を失っていたのか。だがそれならば――

「――蓮ッ!?」

 そこで漸くこんな呑気な事をしている暇ではないと気づいたように、一弥はベッドから飛び降りると共に部屋の入り口に向かって駆け出す。
 どうしてあの状況から自分が生きているのかだとか、骨も叩き折られていたはずだったのにどうして自分の体は何ともないような無傷そのもので動けるのかだとか。
 それらを一切些細な疑問と放置するように、最優先で部屋を飛び出して急いで駆けつけたのは二つ隣の部屋――藤井蓮の部屋である。
 気づけば自分が翌朝になって部屋で目覚めたように、もしかしたら彼もまた部屋にいるのでは、そして本当に無事かどうかを確かめる為に辿り着き、ノックも何も無しにそのまま勢いよく扉を開け――

「蓮!? 無事か――」
「それじゃあ、まず言い訳があるなら聞こうかな」

 ――部屋の中央で仁王立ちする香純の前に正座させられている蓮の姿を確認した。




「……か、香純……?」
「あ、一弥。起きたんだ、おはよう」

 その光景を前に扉を勢いよく開けた体勢のままに唖然と硬直する一弥に気づいたように、香純が振り返ってくると共にいつもと変わらぬ挨拶を告げてくる。
 ……いつもと、変わらない?

「ちょっと聞いてよ、一弥。蓮ったら、あたしの部屋に穴から上半身だけ出して寝てたのよ。しかもその上半身は裸で!」

 夜這よ夜這と騒ぐ香純だが、生憎といつもならばからかいのネタにでもなろう状況のはずなのだが、今朝ばかりはそういうわけにもいかなかった。
 むしろ……

「……香純、だよな?」
「? 何言ってんの? 香純じゃないならあたしは誰だって言うのよ?」

 おかしな事を訊いてくる、と「アンタまでおかしいんじゃないでしょうね」と半眼の眼つきで疑わしそうに睨んでくる香純。
 どこからどう見ても、それは沢原一弥のよく知るいつもの綾瀬香純の姿である。
 だがそうだとするならば……

「……昨日のアレは何だったんだよ?」
「昨日? アレ?……ちょっと一弥、本気で大丈夫? 何だか顔色が悪いよ」

 思わず零した一弥の言葉を聞き拾ったように訝るような態度で首を傾げながら、次には本気でこちらを心配するかのような態度でこちらの顔を覗き込もうとするように近付いてくる。
 一弥の脳裏に咄嗟に走ったのは、あの血に塗れた伽藍堂の笑みを浮かべていた彼女の姿。

「――ッ!?」

 本能的な恐怖というものであろうか、あの時作動しなかったはずなのに、今になって正常に作動するソレが咄嗟に彼女の接近を拒むように後ろへと勢いよく下がり、手振りで近寄ってくることに拒絶を示す。

「……一弥?」

 流石にそんな反応をいきなり見せられた事に香純が困ったように首を傾げ、戸惑いを顕にしていた。
 ハッとなって自身の反射的に取ってしまった動作に気づいた一弥は、罰の悪い顔を浮かべながら小さな声で謝罪の言葉を告げる。

「……ごめん」
「いや、別に気にしてないけど……でも本当に大丈夫?」
「……あ、ああ。俺は大丈夫だ」

 一体どういう事なのか、口では彼女にそう告げながらも内心では状況も把握できずに既に軽い混乱を起こしかけてもいた。
 昨夜の香純と今朝の香純……普通ならば、昨夜の方のアレこそを性質の悪い夢でも見ていたのかと思いたいところなのだが……

「……一弥、ちょっと良いか?」

 話があると手招きしてくる蓮に気づき、一弥も忘れかけていた最初の目的を思い出して彼の元へと近付いていく。

「あ、何? 男二人で朝っぱらから内緒話?」
「直ぐ済むから、少しそっち行っててくれ」

 ズルイとそれを見て頬を膨らませる香純に、蓮は疲れたようにしっしっと手を払う仕草を示しながら、彼女を話が聞こえない部屋の端へと追い払う。
 不機嫌な様子で歯噛みするかのような睨みに近い視線を背中で感じはしたが、蓮はそれを一切無視したように、ただ一弥の耳元へと本当にコッソリ告げるとでもいった様子で顔を近づけて、

「……後で説明するから、昨日の夜のことはあいつの前では黙っててくれ」

 頼み込むように短く告げてくるその言葉に、一弥は蓮を真っ直ぐに見据えながらどういうことかと問い直そうとする。
 いや、昨夜の件も含めて……そして香純の事についても一弥もまた蓮へと今すぐに話したい事があった。
 しかし……

「兎に角、頼む。あいつにだけは知られたくない」

 協力してくれと畳み込むように頼み込んでくる蓮に一弥も話を切り出そうとするタイミングを逸する。
 そうこうしている間に、

「コラ、男子共! あたしをいつまで除け者にする心算よ!?」

 待つのも限界だとでも言った様子で香純が怒鳴り込むようにこちらに割って入ってきた。




「……蓮の奴、本当に大丈夫かなぁ?」
 心配だと言った様子で出てきたアパートの方へと何度も振り返る香純。
 隣を歩く沢原一弥はそんな彼女の様子を本当にいつもと変わらないのかと若干疑問を抱いた視線を以って見つめていた。
 あの後、香純の手前だったということもあり結局蓮とはそれ以上の話をすることも出来ないままに登校となってしまった。
 しかしながら、蓮は昨日の事もあってかベッドから起き上がるのも困難な様子で体調を崩してしまっていた。
 休んで看病をしようかと心配そうに申し出た香純に対し、少し休んだ後で行くと言い張る蓮に追い出されるような形で二人だけで登校する事となってしまったのだ。
 蓮が体調を崩した原因……恐らくは昨日の男に襲われた怪我が原因なのだろうか。自分同様に怪我を負っていたはずだったのに見る限りにおいてそんな様子もなく、ただ内面的に蓄積したと思われる疲労が顕になったということか。
 一弥もまた正直言えば蓮ほどではないが体調が万全というわけでもない。怪我こそ無くなっており痛みもないが、しかし疲労が溜まっているかのような身体のダルさを自覚してはいる。
 香純には寝たのが遅かったからだと適当な言い訳をしたが、実際、自分も半分は仮病ではないのだからアパートに同じように残って蓮と詳しい話をしようかとも思っていた。
 しかし香純を一人で行かせることを嫌った蓮が、今は香純に付いていてくれとこちらへと頼んできた以上、それを断れる一弥ではなかった。
 故に結局、こうして蓮との情報共有も出来ぬままに払拭されない不安だけを抱えながら香純と共に登校している最中というわけである。

 昨夜の蓮が襲われていた理由、そして連中の正体、あの後に何があったのか。
 いずれは詳しく蓮へと問い質す必要もある。
 だがそれと同時に――

「……香純、昨夜の事で聞きたいんだが」
「昨日の夜? 何かあったっけ?」
「教会から帰ってきた後……蓮の部屋で三人で話をした後についてだ」

 覚悟を決めて慎重な態度を自身でも取るように言いきかせながら、彼にとっては悪夢で片付けておきたいその核心について触れようとする。
 香純は一弥が言ってきた言葉にまた意味が分からないと言った様子で首を傾げながら、

「……あの後? 部屋に戻って直ぐ寝たんだけど……何かあった?」
「……街に出たりはしてないよな?」
「何で? ベッドの上で寝てたんだからそんなの出来るわけないじゃん」

 おかしな事を言ってくるが本当にどうしたのか、と逆に心配そうに香純はこちらを見つめてくる始末だった。
 その態度は長い付き合いの一弥の目から見ても、とても嘘を吐いているようにも思えない。
 ならば昨夜のアレは……本当に何だったと言うのだ?

「一弥、アンタも大丈夫? 何だか顔色が悪いみたいだけど……」

 そう心配するように手を伸ばしてくる香純。今度は拒絶するような真似もせぬままに額へと触れてくる手の温もりを感じていた。
 それはどこか懐かしい、なくしてしまったあの時を思い出させるかのような奇妙な郷愁を一弥へと抱かせる。
 ずっと昔、ガキの頃はそう言えばこうやって香純の方が自分にお姉さんぶった態度を取ってきていた事を一弥は思い返す。

「蓮や司狼もそうだけど……一弥も背が伸びたよね」

 こちらに手を伸ばすのに若干爪先立ち気味なその事実に苦笑するかのようにそんな事を言ってくる彼女に、そう言えば昔は香純に身長で負けていたことを思い出した。

「チビだったクセして、いつの間にかこんなに大きくなっちゃって。……あたしゃぁ複雑ですねぇ」
「タメなのに年上気取りかよ、ババ臭いぞ」
「失礼ねぇ! あたしの方が誕生日早いんだからお姉さんみたいなもんでしょうが!」

 随分と精神年齢が下なお姉さんだな、と一弥は少し呆れて苦笑する。
 どうして……今頃になって、そんな昔の事ばかりを思い出しているのだろうか。
 それはきっと――

「――香純」
「ん、何よ、一弥?」

 意を決して彼女へと真っ直ぐ視線を逸らさずに見つめながら、彼女の名前を呼ぶ。
 香純は不思議そうに、視線を逸らそうともせずに真っ直ぐ見つめられているのが照れ臭いのか、どこか顔を赤くしながら何事かと戸惑っていた。
 一弥はそれを気にした様子もないままに、彼女へと確りと偽らぬように、誓うように、

「――何があっても、俺はおまえと蓮の味方だからな」

 それだけは決して違えはしないことだと言葉にして告げた。

「……アンタ、本当にどうしちゃったの?」

 急に何を意味も分からぬ事を言ってくるのかと心配してくる香純だったが、一弥はそれになんでもないからと首を振った。
 そう、なんでもない。
 なんでもなくていい。昨夜のアレが香純かどうかなどそんな事は関係ない。
 何があっても香純と、そして蓮だけは護る。
 二人を幸せにする、それだけが沢原一弥が十一年前から決めた果たすべき償いであり義務なのだから。
 誓いの言葉が示す通りに、それだけは全うする。
 その為ならば……

 再びまたあの櫻井とかいう女や、蓮を襲っていた連中が現れたとしても――

「おーい、一弥ぁ。聞いてる? って言うかこんな所で突っ立ってたら遅刻しちゃうってば!」

 早く行くぞと急かす香純の言葉に、物思いから現実に戻ってきた一弥は頷いて答えると共に先を行こうとする彼女の後を追って駆け出した。




「おはよう、沢原君」
「おはようございます、先輩。……どうかしたんですか? 元気なさそうですけど」

 珍しく校門を潜り昇降口へと入ろうかという場所で朝早くから出会った氷室玲愛へと一弥は挨拶を返す。
 しかし昨夜からはどこか打って変わったように覇気もない(元から年中ダウナーのようではあるが)様子である彼女にふと疑問を抱く。

「別に。それにキミも人のこと言えた様子でもなさそうだけど……藤井君は?」

 素っ気無い態度……元気が無いというよりはどこか不機嫌という方がもしかしたならば正しいのかもしれない。
 自分たちが帰った後、またあの神父が何か困った事でもやらかしたのだろうかと考えていた時だった。こちらの周囲をキョロキョロと視線を彷徨わせながらそんな問いをしてきたのは。

「……アイツ、今朝はどうも体調崩してるみたいで」
「そうなの、珍しいね。……じゃあ、キミでもいいか」
「……先輩?」

 蓮が居ない事に残念ではありそうだが何処かホッとしたかのような安堵も同時に浮かべていた玲愛だったが、それを不思議に思う一弥へと今度は視線を真っ直ぐに合わせてきたかと思うと、

「……沢原君、転校生が今日やって来ることを知ってる?」

 いきなりにそんな疑問を彼女はこちらへとぶつけてきた。

「転校生? いえ、そうなんですか?」

 自慢にもならないが一弥も蓮や玲愛ほどでないにしても交友関係はそう広いものではない。と言うより、精々が香純とは違いこの二人に毛が生えた程度の交友関係を辛うじて維持している程度だ。
 しかしながら最近は色々と悩みもあったことや、出来るだけクラスでハブられている蓮と一緒にいた方がいいかとそちらを優先していたので、思い切りそういった情報の流れからは隔絶していて久しい。
 今こうしてどこからそんな情報を仕入れてきたのかは知らないが、玲愛に教えてもらうまでそんな話は知りもしていなかった。

「この時期にですか? 学年は?」
「多分、キミたちと同じ学年」

 二年……まぁ三年や一年に比べればまだ奇妙だと言い切る事の程でもないのか。人には人の事情があるのだろうし。
 それにしても同じ学年に転校生、か。二ヶ月前に司狼が退学してしまって席が空いていることを考えれば、もしかしたらウチのクラスに編入されるかもしれないなと一弥はそんなどうでもいい事を考えていた。
 まぁそれは兎も角として、だ。どうしてそんなものに大して興味も抱かなさそうなキャラのはずの先輩が自分へとそんな話題を振ってきたのか。

「転校生が女で美人かもしれない、って言うんで俺をからかうネタにでもする心算なんですか?」

 先手を打って彼女が考え付きそうな事を先んじて言ってみる。もしその通りだとしても……呆れはするが、生憎と今はそれどころじゃない事情があるので彼女の期待には応えられそうにもない。

「確かにそうだね」
「何がです?」
「転校生は女子で……まぁ美人だね」
「あ、そうなんですか」

 なんだ本当に当たったのかと内心で呆れながら、そんな情報を仕入れてきて早速にこちらをからかおうとしている彼女も彼女であるが、別に今はそれに食いつく心算など欠片もありはしない。
 悪いが彼女にもそれは適当に説明しようと口を開きかけたその時だった。

「気をつけた方がいい」

 ただ一言、しかしスッパリと唐突に躊躇する事も無く玲愛はそう言ってきた。
 その言葉は、今の彼女自身の様子とも合わさってまるで警告のようにも聞こえた。

「出来れば関わりにならないよう、近付かない方が身の為。……藤井君と綾瀬さんにもそう伝えておいてもらえると助かる」
「ちょ、せ、先輩――ッ!?」

 一方的に彼女はそんな今までに滅多に見せた事もないような真剣な態度でそう告げると共に、それだけが目的だったのか颯爽とこちらの呼び止めにも答えぬままに行ってしまった。
 いったい玲愛のあの様子は何だったのかと、そして彼女のこの警告紛いの言葉は何を意味しているのか。
 理解できぬまま呆然と、沢原一弥は暫しその場で立ち竦んでいる他になかった。



 結局、玲愛の言ってきた言葉の意味は何だったのか。分からぬ疑問を持て余しつつ、さりとてしかしそれだけに思考を割いているわけにもいかない。
 考えなければならぬこと、対処していかなければならないことは色々とある。そしてそれらは全て一弥にとっては避けては通れぬ問題ばかりだ。
 朝のホームルーム。蓮が不在の教室の中で担任教師が早速に今朝玲愛が言っていたその件の転校生とやらについて説明している。
 彼女に言われたから聞き流すことなく話半分に聞いていたところによれば、何でも本場ドイツからやって来た留学生とやらで、人数は二人。内一人は帰国子女となる日本人だとか。
 それはどうも遠路遥々ご苦労様と思わなくもないし、珍しい事なのだろうが、騒ぎ立てているクラスメイト程に一緒になって騒げる事だとも思えない。
 所詮はやはり他人事に過ぎないからだろうか。正直、そんな転校生のことよりも昨夜の蓮や香純のことの方が今は遙かに気がかりだった。
 故にこそ、名前と顔くらいは確認して後は別に関わらずともいいだろうと考え、それで玲愛の警告(?)にも従った事になるのだろうと結論づけようとしたその時だった。

 後に沢原一弥は思う。この最悪にクソったれた運命とやらが、性根が悪いとしか思えない神様がそんなつまらなくて甘い結果で許すはずもなかったと。
 つまり――

「ルサルカ・シュヴェーゲリンです。日本には着たばかりでまだ馴染んでおらず不備があるかと思いますが、よろしくお願いしまーす」
「櫻井螢です。よろしくお願いします」

 一人は畏まりながらもどこか愛嬌にも満ちた陽気な様子で。もう一方は無駄を省くかのような素っ気無いとも言える淡白な態度で、それぞれ名乗りを挙げていく。
 その姿、その名前を確認した瞬間、沢原一弥が絶句せざるを得ないほどに衝撃を受けたのは言うまでもない。

『そう、じゃあ――――あなた、死ぬでしょうね』

 昨夜、あの時、あの場所で、怖気の走る恐怖と共にこちらへとそう告げてきたあの少女。
 本能が警告する己にとって天敵と呼ぶにも等しい災い。
 俺の日常を、既知を未知によって塗り潰していく異物。

 ――ジャンル違い。

 見慣れた筈の制服に身を包んだ、しかし絶対に相容れられないはずの存在が目の前に確かに存在している。
 その姿、見た目だけは麗しく可憐と呼べるものなのかもしれない。しかしその本質は毒々しいまでの危険な、人すらも食い殺す棘に満ちた妖花だ。
 断絶したかのような意識の中で、一時は過ぎ去ったはずだと思っていた絶望が鎌首をもたげながら戻ってきて囁きかけてくる。

 悪夢はまだ終わっていない、と……。

 花の登場に沸き立つクラスの中、そんな絶望をただ一人自覚して目を見開き震える彼の眼と、あの櫻井という少女の眼が不意に合う。
 彼女もまたこちらの姿には何故か驚いたかのような様子をほんの一瞬垣間見させはしたものの、やがてそれにすら納得したかのように小さな溜め息を吐きながら、頷く。
 そしてこちらに向かってハッキリと声にはならない声をもって――

 ――よろしく。

 そんな皮肉を込めたかのような挨拶をしてきた。
 それは間違いなく、一弥の胸を矢のように射抜いて侵蝕していく絶望的な未知への恐怖(ゼノフォビア)。


 この日、この時、この瞬間、沢原一弥の硝子に等しかった日常の残滓は完膚なきまでに粉砕された。




Der L∴D∴O in Shamballa――7/13

Ⅱ:Tubal Cain
Ⅲ:Christof Lohengrin
Ⅳ:Kaziklu Bey
Ⅴ:Leonhard August
Ⅵ:Zonnenkind
Ⅷ:Melleus Maleficarum
ⅩⅠ:Babylon Magdalena


Swastika――0/8



【ChapterⅡ Xenophobia――END】




[8778] ChapterⅢ-1
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2009/11/14 17:59
 怒りの日は彼の日なり。世界を灰に帰せしめん。ダビデとシビラの予言の如く。



 1945年4月30日。大ドイツ帝国は終焉を迎えようとしていた。
 圧倒的物量差で包囲され陥落寸前のベルリン、帝都を包囲する赤軍50万の輪は徐々に狭まり蟻の子一匹たりとも逃がしはしないといったそれは状態であった。
 悲鳴と銃声と爆音の重奏曲は絶え間なくかつ容赦なく鳴り響き、街を人を根こそぎ破壊し塵殺していく。
 撃ち殺される男たち、蹂躙される女子供、死に行く千年帝国の断末魔、阿鼻叫喚の地獄絵図。
 それは確かに、一時代の終わり相応しい悲劇なのかもしれないが……

「……生憎と、まだ温い」

 それがその眼前で公開されている地獄絵図を見ての彼――カール・エルンスト・クラフトことメルクリウスの正直な感想だった。
 瞬く間に炎の海と化し、死山血河のこの世の地獄と呼ぶに相応しい光景すら、それすらも見飽きた彼からすれば物足りない。
 それにそもそも……

「こんなものでは世界の敵を滅ぼしきる事など……到底出来はしない」

 この千年帝国の帝都を焼き尽くし、其処に住まう民衆の全てを皆殺しに、指導者を片端から吊るし上げようとも、肝心の自分たち魔人を殺しきる事が出来なければ何の意味もありはしない。彼らの言う脅威とやらは無くなりはしないのだ。
 むしろこの現状、劫火に焼かれる無辜の民の嘆きや無念、そして怒りや憎しみの魂が自分たちに一層の力を与えるだけに過ぎない。
 結果的にはむしろ逆、これは我々を更なる高みへと昇華する為の儀式――宴も同じ。
 そんな事を知りもせずもうこの大戦を制した心算なのであろう者達は、逆に滑稽であり哀れでしかない。むしろ自分たちの手で自分たちの首を絞めていることとこれは変わらないのだから。

「本来ならば、彼らを蔑む詩の一つでも捧げてやるべきなのだろうが……」

 どの時代、どの場所でもそうしてきたようにメルクリウスが事の傍観者としてすべき事は今も昔もそうさして変わることは無い。
 だがそれ故に――

「――退屈だ」

 ポツリと呟くその言葉通りの感情……絶望にも近しきそれを尚更に彼は実感せざるを得ない。
 全てが既知の予定調和。万象の全ての物事が予想の範疇に収まる人生。
 ……そんなものにどんな意味があるのか?
 それこそ、先程滑稽だと蔑んだ連中以上に、己のような存在こそが無価値であり無意味にも等しいと彼は思う。
 だがそう自覚ありながらも、未だにそこから逃れきれない。運命の奴隷。
 もう何度、そんな生とも言えぬ生を己は繰り返してきたのか……。
 飽き飽きして眠くなる。だが見る夢すらも予想が付くので寝ても醒めても結局はつまらない。そこに刺激と呼べる未知はどこにも存在していない。
 最上級の拷問、己の生そのものをそう評価すると同時に彼は己の人生そのものが何と徹底的で価値のない、そして馬鹿馬鹿しい物語かとも絶望する。

「私を主人公として戯曲を作れば、きっと歴史に残る劣悪たる駄作となることだろう」

 故にこそ、己は表舞台に立つべきではない。
 もう何度思い至り、そしてこうして改めて結局は辿り着くべき結論であろうか。
 だがどちらにしろ、これは決定事項。この大戦という宴の終わりと共に、自分は舞台の上から退場し、傍観者という名の観客となることを彼は決めていた。
 そして永き時と繰り返しの中でその為に準備していた用意もまた整いつつある。

 ナチスの星占術師カール・エルンスト・クラフト。
 聖槍十三騎士団副首領メルクリウス。
 そしてその他の数多く持つ己が名前とその役割。

 その全てを此処に置いて、今は舞台を去るとしよう。
 義理上その旨、我らが首領殿にも断りを入れねばならぬのだが……さて、彼はこの自分の決断に何と言葉を返す事やら。
 知ってはいるが知らぬ素振りを続けながら、微かな笑みを浮かべると共に彼は眼下の燃え盛る帝都、そしてそれと運命を共にする幾千幾万の一時とはいえ同胞と呼んだ民たちの魂に安らぎを祈る。

「では諸君、ご冥福をお祈りする。――アウフ・ヴィーダー・ゼーエン」




「敗軍の将としての名誉の自決……お見事と言っておこうか、総統閣下」

 先程、拳銃自殺を行った死体を前にそれを見下ろしながら、ただ静かにラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒはそう言葉を告げる。
 尤も、それはその形以上の感情など何一つとして込められてはいない、無感情で冷たいものでしかなかったが。

「しかし下らん死に様ですな、今のあなたには何の魅力も感じない。ただ夢敗れ、絶望し、逃避としての死を選んだ初老の男が此処にいる。……所詮あなたは超人の器では無かったということだ」

 帝国を護る為、首切り役人の忌み名で恐れられた黄金の獣は、元より他のナチス党員たちとは異なり、この今は死した男にカリスマを感じた事もない、信奉者ですらもなかった。
 ただ国のトップにあり、民衆からの支持がある。彼が頂点である事が帝国には都合が良くスムーズにことが運べる。故にこそ、ラインハルトは彼の下で働き続けていた。
 けれど結果的に疎まれ、表舞台より抹殺という形で排除され、裏より見ていればこの末路だ。さぞ無様であり滑稽、この男はこの程度に過ぎなかったのかと失望すら沸いてくるほどだった。

「千年帝国も儚い夢も、その殉死者たちも、今私の部下等が捧げている。いずれ、長官殿や宣伝宰相殿も後を追うことになるだろう。彼らは戦死など出来ぬだろうから、毒でも呷ることになるだろうが」

 軍人としては不名誉極まりない末路だが、あの俗物たちに限って言えば相応しい末路でもあろうなとラインハルトは嘲笑にすらなりきらぬ渇いた笑いを漏らすのみ。
 そう、千年帝国はもう間もなく滅びる。それは避けては通れぬもはや決まってしまった事。
 かつて轡を並べ共にこの国を護る為に戦ってきた敗北者たちを、しかしラインハルトは憐れむということはしない。

「聖槍十三騎士団……私が率いる黒円卓は滅びぬよ」

 そう、例え帝国が連合に負け、結果的には滅びようとも、己が率い指揮する軍勢は決して敗北もしていなければ滅びもしない。
 それが自分と彼らの今や決定的な違いだとも獣は思う。

「あなたの遺志を継ぐ気など毛頭ないが、この大戦で地獄も些か飽和気味とお見受けする。もし順番待ちでお暇ならそこで観覧なさるが宜しかろう。あなたが恐れ、排した男の全てを滅ぼす光景を。無念だろうが然程口惜しくもありますまい。あなたが説いたアーリア人種の優秀性を、結果的に私が証明するのだからな。……まぁ尤も――」

「――あなたは自身をそのような枠には入れていないだろう、獣殿?」

 手向け代わりと告げていたその言葉に、しかし躊躇いもせずに唐突にそう割って入ってきたその声にラインハルトは振り向いた。

「……ほぅ、カールか。卿、今まで何処に行っていた?」

 そこに立ちながらこちらに対しどこか楽しげに微笑みかけてきているのは、影絵のように輪郭があやふやな奇妙な男だ。
 老人とも、若者とも、いかようにも見れるその外見は、隠者のように地味であり頼りない。……尤も、それは余人の目に映る彼の姿であり、ラインハルトが捉えるソレはそうではないのだが。
 舞台も既に幕引きを控え、そろそろ仕上げにかかろうかという時期にふらりと姿を消していた盟友に問いかけるラインハルトの言葉に彼は、

「なに少しばかり見物に。あなたと出会いこれまで属してきた帝国の終焉、多少なりとも感じ入るものがある」

 等と似合いもせぬそんな冗談を言ってくる始末。
 ラインハルトは如何なる時にも変わりもしない友のそんな言動に少しばかり呆れたように肩を竦める。

「戯言を。卿にそのような感傷などあるはずもない。属するなど似合わん言葉だ」

 そう、似合わない。世辞でも皮肉でも何でもなく、純然たる事実としてラインハルトはそう思っていた。
 世界の真理に最も近いとされた魔術師――ヘルメス・トリスメギストス。
 如何なる時代、如何なる場所にも唐突に現れ、奇怪な奇跡や言動を残して去っていく数多の名を持つ永遠の放浪者が何かに属すなど……それこそ似合いもしていない。

「それはあなたも同じだろう。人種などあなたには無意味だろうに。聖槍十三騎士団首領、黄金の獣、破壊の君……あなたはただ一種。一人のみの究極。頂点には横に並ぶ者など存在しない。あなたが何を思い何を成そうと、それはあなた一人のものとなる。共有など誰にも出来ない」

 言い返すかのようなその言葉に言ってくれるものだとラインハルトは若干に苦笑を示す。
 それはこちらを褒めてくれているのか、例えばそう問い返したとしてもきっとこの男は平然とこう返すのだろう。
 単なる事実に過ぎない、と。
 喰えぬし読めぬ男であるが、であるからこそメルクリウスという存在をラインハルトは好ましく思い、常に傍らに置いてきた。頂点に立つ唯一人とこの水星は言いはするが、黄金の獣にとって傍らには常にその当人がいたはずだとも思ったが。

「……故に、そこの総統閣下はあなたを排除しようとしたのだろう。私はその判断を賢明だったと思うがね。実現できるか否かは別として、恐怖に忠実な指導者は優秀と言える」

 チラリとラインハルトの傍に倒れている死体へと視線を向けながら、メルクリウスは言葉を続けてそんな事を言ってきた。
 彼が視線を促がし、そしてその言葉の上へと乗せて漸くにラインハルトもそう言えばと気づいた。
 ここにはこの男の死体があったのだったな、と……。
 元より若干の皮肉を持ってこの男の最期を見届けに来ていて、彼に対して手向け代わりに言葉をかけていた所だったというのにメルクリウスが登場したせいですっかり忘れていた。
 それ程に、ラインハルトにとってかつて総統と仰いだ筈のその男は既に興味は失せ、盟友の存在はそれに勝ったというだけの事だ。

「……成程、ならば私は無能だな。恐怖など今まで感じた事もない」

 最後にもう一度、と死体を見下ろしながらラインハルトは静かにそう告げた。
 事実、友の言葉が正しいのなら……否、今までこの男の言葉の中に間違いなど一つたりともなかったか……自分は指導者としては無能極まりないことになる。
 元来、人が持つべき本能……その中でも恐怖に類する類のものをラインハルトは一度も感じた事が無かったのだから。
 それは超人へとなる前から、一度表舞台において暗殺されかけた時とて同じであった。
 歯応えがないのだ。己に匹敵し、凌駕せんとするものに今までまったく出会えなかった。
 故に、黄金の獣はそういった思考・感情が芽生える機会に恵まれなかったのだ。

「黒円卓は元来そういう者の集まりだったので仕方ないとも存ずるが……あなたはただその中でも群を抜いて強大だったと言うだけだ。運良く、或いは運悪く、どちらだったかとは敢えて訊かないが……」

 他ならぬメルクリウス自身が指摘した事ではある。
 あの黒円卓結成の契機となるべき黎明の時に。

 ――ラインハルト・ハイドリヒは一度たりとも本気を出した事などない。

 他者を圧倒的に凌駕し、君臨する存在でありながらも、そうであるが故に十全の力を出し切れない。
 彼にとって敵とは敵にさえなりきらないのだ。
 闘争に餓えるはずの獣が、その生き甲斐そのものたる闘争に十全の力を振り切れない。それは満足に生きられないのとも同じ、人生そのものの不完全燃焼だ。
 故にこそ、畏敬と共に魔術師はこの獣のことをどこか憐れんでもいた。

「どちらだろうと同じこと。我々は運命と言うゲットーの囚人に過ぎない。良かれ悪しかれ、結果は始めから決められていたものだった……それが卿の持論であろうに」

 そのような憐れみ、気づいているのかいないのか、しかし獣にとっては不要のものに過ぎない。
 そのような感情など無意味であり無益、愉悦にすらも繋がらぬ。
 確かに頂点に存在する自身が本気の力を出し切れぬ事は、甚だ不満である事は間違いない。
 だがそれとて、ならばそれを振るえる機会と場を作ればいいだけの事。
 宿敵と呼べる存在を、世界の果てからでも探し出せばよいだけの事。
 そしてその為に必要だからこそ、彼が教えてくれたこの世界の残酷な真理とやらを、まずは破壊するのだ。
 この世界を巻き込んだ宴とて、その前準備に過ぎないだろうに。

「然り。故に人生はつまらない。事に私が表に出張ると物語は退屈な様相を帯び始める。つい先程も痛感した。誤植は無い方が物語は映える。私が中核に関わらない方があなたの為だ」

 だからこそ、これからも眼前の盟友と共にその覇道を邁進していく心算であったラインハルトにとっては、その言葉は些か唐突なものではあった。
 つまらない、退屈、それらは彼とラインハルトのこの人生そのものへの共通見解であると共に最も共感すべきことであるはずだった。
 口癖にも等しいその言葉が、今更に彼の口から出たとしてもそれは驚くにも値しない事。
 だが――

 ――私が中核に関わらない方があなたの為だ。

 ……これはいったいどういう意味か?
 今までとはどこか雰囲気も違う彼の様子を訝るラインハルトだったが、しかしメルクリウスは気にした様子も無いままに堂々とした足取りでこちらにまで近付いてくる。
 そして眼前にて芝居がかかった動作で恭しく跪くと共に――

「こうして参上したのもそれが理由。聖槍十三騎士団副首領メルクリウス――その座とその名、今この時を以って返上したい。それを許してもらえるだろうか?」



「……つまり卿、私と敵対すると言いたいのか?」

 唐突な脱退の申し出、それをラインハルトはそう解釈した。
 盟友が自分に見切りを付け、対立を望む……この男の意図などその全てが分かるラインハルトではないが、そう考えての申し出かと判断したのだ。
 しかしながら唐突さこそがこの男の専売特許とはいえ、些か今回のコレは流石にラインハルトの理解を超える。
 そして同時に、彼の胸中に言いようも無い奇妙な感情すらも生まれさせる。
 友との決別による悲しみ? その裏切りへの怒り? 手放したくはないという執着心?
 或いは――

 ――眼前のこの男を敵として破壊(あい)してみたいという狂おしいまでの欲求か?

 いずれにせよその感情、当人たる黄金の獣以外の何者だろうともきっと理解する事は出来ないだろう。

「否。敵というのも立派な役割、物語の中心人物と言えるだろう。私が望むのは物語そのものからの退場だ。私はあなたと、あなたの未来を、外側から観測するものとなりたい。言わば、取るにも足らぬ、名も無き傍観者として」

 しかしメルクリウスが返してきた言葉はそんな否定を含んだもの。
 事実、水星にはこの黄金の獣と対立する意思などというものが欠片たりともありはしない。
 少なくとも、彼が抱く獣への友情の性質は彼の破壊という本質のソレとは似て非なるものであるが故に。
 ただ強いて言葉を繕うならば見守りたい……それがメルクリウスの欲求としては恐らく最も近いものだと言えただろう。

「私には神になると言っているように聞こえるがな。……カール、我が友よ。卿はそれほどまでに私の隣が退屈か?」

 敵対ではない、その事実に残念と思ったのかそれとも安堵を抱いたのか、それは黄金の獣当人にしか分からない。
 だが少なくとも、どのような形であれこの男を己の傍らより逃すのはあまりにも惜しいとラインハルトが感じているのだけは事実だった。


『あの人には友人と呼べるような人は誰一人としていませんでした』


 これは後に獣が妻として娶ったその女が、ラインハルト・ハイドリヒという人間がどういう人間であったのかを端的に表すのに言った一言だ。
 事実、これをラインハルト自身が聞いたならば、なるほど的を射ていると或いは笑ったかもしれない。
 少なくとも、妻であった女のその言葉にラインハルトは嘘ではないと答える事だろう。
 頂点に君臨する絶対的な存在、そうであったが故にこその圧倒的な孤独感。
 それに対して何ら痛痒や寂しさを抱く事など終ぞなかったはずの獣が、しかしこの魔術師と出会い、友誼を深めた事によって今その別れを惜しもうとしている。
 変われば人間とは変わるものだ。この得体の知れない男に最も変化させられた己の部分を当てるならば、ここであろうなとラインハルト自身が思う。

 だがそれでも、それがラインハルトが抱いている感情……そうである事は事実だ。
 十全の力を振るう事も出来ず、既知感に苛まれ続けた人生。
 とうに狂っていることは承知の上だが、それでも獣が未だ己の人生に意義を見出し無聊を慰めるに足る存在があるとするならば、このカールと自分が呼ぶ男こそがそれだ。
 己を導き、決定的に狂わせ、更なる高みを見せ、絶望を教えてくれた男。
 己にとって兄弟の様に親しき、そして師でもある男。
 元より何者にも束縛されぬ存在である事は承知の上だが、遂に自分の傍らからも去っていくという事なのだろうか。

「あなたの隣になど誰もいないと、先程に言ったはずだがな。しかし過分な評価を真に受けさせていただくなら、その友情に縋りたい」
「……つまり、決意は固いと?」

 最後確認に問いかけるその言葉にメルクリウスはただ無言。
 しかしながらその無言こそが、彼の答えであり、そして決意の程を窺わせるものであったことは今更に察するまでもなかった。
 存外に頑固な盟友に、ならばこれもまた仕方なしかと、その運命の選択とやらに獣もまた身を委ねる事を決断した。

「まぁ良い。どの道しばらくは私の出番は無いだろう。今宵は新たな戦の幕開けだが、宴もたけなわとなるには時間もかかる。――何年だ?」
「ざっと軽く見ても半世紀。極東のシャンバラが完成するにはそれだけの時間が必要であり、更に加えるなら……私の抜け番が機能するのに足すこと十年」

 都合凡そ六十年余り。
 聖遺物の使徒が基本的に不老である半永久的な不死であったとしても、それは瞬く間というわけにはいかぬ時間だ。
 ましてやそれを齎したメルクリウス自身からの忠告もあるが、肉体が仮に老いずとも中身である魂そのものの老い……劣化は避けきれないものだとするならば……

「長いな。既に十分に退屈な様相を帯び始めているようにも思えるぞ?」

 この男のみがラインハルトの無聊を慰めるに足る唯一の存在だった事を考えれば、それだけの時間の別離をただ待てといわれても逆にその方がラインハルトにとっては苦痛に等しい退屈にもなりかねない。
 それは何と皮肉である事か……

「ふふ……ははははは」

 最初は静かにゆっくりと、しかし段々と堰を切ったように激しく。
 久方ぶりに己が抱いた感情のままに笑う自身の姿をラインハルト自身が奇妙だとまるで他人事のように思う。
 しかしこれで暫くは笑い収めなのだとすれば……今の内に好きなだけ笑っておくのも悪くはないかとラインハルトは思い直した。



 言って微笑むその横顔は神聖にして絶対不可侵。
 輝く鬣の如き髪は黄金。
 全てを見下す王者の瞳もやはり黄金。
 この世の何よりも鮮烈で華麗であり、荘厳で美しくもあると同時におぞましくもある黄金。
 人の世に存在してはならない、愛すべからざる光の君。

 我が生涯で唯一人、畏敬の念を抱いた気高き獣。
 故にこそ、水星の魔術師は思うのだ。

 あなたを失望させるわけにはいかない。
 あなたをつまらない舞台に上げるわけにはいかない。
 だからこそ――

「待つが宜しい」

 あなたに相応しい舞台が整うまで。最高の戯曲が動き出すまで。
 その為ならば、いかような代償すらメルクリウスは厭わない。
 そしてそんな舞台を最前列から観客として観賞する。
 それはきっと心躍る望外の喜びともなるはずだ。
 故にこそ、友として心から今はその時を己を信じて待っていただきたい。

 そう告げながらしっかりとこちらを見てくる相手の眼、それを見てラインハルトもまた了承を示したかのように、笑いを収めながら頷いた。
 よかろう、待とう。
 それが友の望みであり、そして己自身の喜びともまた繋がるというのなら。
 半世紀だろうが一世紀だろうが、それを期待して待ち続ける事もまたよしとしよう。

 故に――

「ではカール、最後の務めだ。共に参れ。
 帝国は滅びる。その断末魔を肴に一つ酒でも酌み交わそう」

 これより半世紀の別離、その前の最後の楽しみとして酒を酌み交わす。
 再会を祈って……などと洒落た事を考えてのことではないが、楽しめるときに最大限に楽しんでおくというのもまた一興だ。
 そう笑いながらキャビネットからワインとグラスを用意すると共に、応接用のソファーへと腰を下ろしながらグラスへと酒を注ぐ。

「これはまた、相変わらず享楽的でいらっしゃる。とは言えそれも一興か。謹んで相伴に預かろう」

 最後に酌み交わす酒の味、既知ではあるがこんな既知ならば或いはメルクリウスにとっても救いではある。
 だが酒宴を前に一つだけ、もう一つ重要な事を伝えねばならなかったので先にそれだけは伝えておく事としよう。そもそもそれを含めて自分は彼に会いに来たわけでもあるのだから。
 その前に一つ、そう切り出すメルクリウスにラインハルトもまたグラスから視線を彼へと戻す。

「これより六十年の間、息を潜めることなどあなたには出来まい? 故に私から友情の証として、ある秘術をあなたに授けよう」
「秘術?」
「左様。聖櫃創造の試行に乗じて、あなたの魂をもう一つ上の位階へと上げられる。手順は追って説明するが、これによってゲットーの縛りから脱することも出来るだろう。とは言え、それは永劫回帰における特異点に過ぎず、ゲットーそのものを超えるというものではない」

 例えるならば、台風の目の中に入るようなものだと彼は笑う。
 そこで一旦言葉を区切った魔術師は訝る獣をどこか試すかのような楽しげな様子も顕にしながらその本題を切り出していく。

「その為に、此処で擬似的な死を経験して頂きたい。無論、擬似とはいえ死である以上、並の魂では戻ってこれんが……あなたは違う。幾百万もの魂を喰らい、今もまた死にゆくベルリンを喰いつくそうとしているのだから」

 あなたにはその資格が充分にある、そうメルクリウスは笑う。
 そして――

「知っておられるか、獣殿? 古今あらゆる宗教・神話において蘇りを果たしたものが何と呼ばれているのかを」

 それ即ち――

 そしてだからこそメルクリウスは楽しげに誇るのだ。
 自らの盟友にして優秀な生徒を、己が手を持ってその領域にまで引き上げる事を。
 それに自らもまた立ち会えることを。

 そして瞬間、相手の言葉とその意図からラインハルトもまた漸くにメルクリウスがそれによって何をしようとしているのかを察する。
 そしてまた、自分に何をさせようとしているのかも……

「面白い。……成程、読めたぞ。卿、それが故にエイヴィヒカイトを組み上げたか。魂を喰らい、永劫回帰の環を乱し、このゲットーを破壊するために。
 ふふ、あははは――私を利用しようと言うのだな?」

 何故あの日、あの時、この眼前の男と自分は出会ったのか。
 そしてあの時、何故盟友としての友誼を結んだのか。
 カール・エルンスト・クラフトがこうまでラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒへと執着し、そしてまた尽力してきたその真意。

「邪推されては困る。が、あなたが言うこともあながち間違いではない。……どうされる?」

 選ぶのはあなた自身。私は道を提示するだけ。
 あの時から今に至るも変わらぬ相手のスタンス。
 それに何を今更決まりきった事を、とラインハルトは笑う。

「愚問だな。何であろうと破壊するのに否はない。ありがたく頂戴しておくとしよう」

 例えそれが或いは己を狂わし破滅へと導くものであったとしてすら、友からの餞別に是非は無い。
 当たり前だ、愛も怒りも悲しみも欲望も憎悪も――ありとあらゆる感情を超越した遙か先にある混沌こそが我らが友情。
 無論、各々の何某かの打算すらそれは織り込み済みだ。

「それは恐悦。もしも一人がお寂しいなら共を付けることも不可能ではない。……尤も、やはり脆弱な魂では戻ってこれないが。
……そう、例えば、ザミエル、マキナ、シュライバー、彼ら程の兵ならあなたの従者も務まりましょう。いかがする?」
「まるで厄介払いのような言い草だな。ふふ、まぁ良い。友の好意だ」

 考えておこう、そう返しながらもそろそろ良いだろうとラインハルトはメルクリウスへと話題の変更を要求する。
 野望も今後の展開も大事と言えば大事。大詰めを控えた舞台で今後の事を打ち合わせておく事もまた必要であるのは事実だ。
 しかし……

「それよりもな、カール。今は杯を手にして欲しいのだがな」

 卿と語る未来もまた悪くはない……が、今は卿との別れの前の一時たるこの現在を楽しみたいのだがな。
 それがラインハルトの正直な思いでもあった。
 そして獣の言葉と態度から水星もまたそれを察したのだろう。

「これは失礼」

 了承を示すように頷きながら、魔術師もまた彼の対面の席へと腰を下ろし、差し出された杯を手に取った。



「私はいつも餓えている。敵を滅ぼし、祖国を滅ぼし、世界を敵に回してもまだ足りぬ。卿は私の飢えを満たしてくれるか?」

 一度たりとも出した事のないその本気。十全に振るえぬ力。
 まだ見ぬこの餓えを心から満たすに足る存在――宿敵。
 壊した事のないモノ。
 黄金の獣がこの水星の魔術師と共に道を歩んで以降、求めているのはいつもソレだ。

「それが私の喜びなれば、必ずやと約束しよう」

 その為に、私はあなたと出会い、あなたに道を指し示したと魔術師は告げる。
 それはメルクリウスからメフィストフェレスへの友情の誓い。

「私はいつも飽いている。敵を謀り、味方を欺き、世界の真理を解き明かしても一向につまらん。あなたは私の退屈を拭ってくれるか?」

 何もかもを知ってしまっている地獄の中。
 死んでいるに等しい人生に、生きていることを実感させてくれる未知の刺激。
 この永劫回帰の環からの解放。
 水星の魔術師が黄金の獣と共に歩む以前から、求めているのはいつもソレだ。

「それが私の役どころなら、踊って見せよう」

 失望はさせん、そう絶対の自信と不敵さを以って獣は笑う。
 それが卿と私が出会った、その真なる意味であったというのなら――是非は無い。
 それはメフィストフェレスからメルクリウスへの友情の誓い。


「カール、忘れるな。卿の魂は何処へ行こうと私のものだ。卿は私の為だけにその術と知略を披露せよ」
「御意に。我が親愛なる獣殿。あなたが指揮する怒りの日、楽しみに待たせていただく。天国も地獄も神も悪魔も、三千大千世界の全てを壊すその日こそ、我らの福音となる故に」


 それこそが我らの望むDies irae(怒りの日)。


「「Prosit(乾杯)」」


 掲げ酌み交わすこの杯こそ、それを誓った新たなる祝いの証。




 故に理解しろ、ツァラトゥストラ。
 君の生も死も、愛も怒りも悲しみも、血も涙も何もかも全て私と彼の為だけにあるという事を。
 忘れるな。思い出せ。君に意志などありはしない。

「何故ならその身は、私にとって究極の――」




ChapterⅢ End of Nightmare



[8778] ChapterⅢ-2
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 23:30
 制圧という言葉を当て嵌めるとしたならば、この状況こそがまさにそれに相応しいとも言えるのかもしれない。

 櫻井螢。
 ルサルカ・シュヴェーゲリン。

 ドイツからやって来たというその二人の留学生の存在は、あっという間に校内の生徒の話題・関心・意識を席巻した。
 一方は陽気で朗らか、人当たりも良い可憐な花。
 もう一方は愛想こそないものの、しかしそれが逆に気高さとして一目置かれた高嶺の花として。
 対象でありながらも、共通するのは余人が遙か及ぶべくもないという圧倒的な存在感。
 ……要するに、あの二人の少女たちはそうした各生徒たちの思惑など歯牙にもかけぬ程にアッサリとこの自分たちが日常と認識していたはずの空間へと溶け込んだのだ。

 さながらそれは趣味の悪い悪夢のよう……沢原一弥にはそう思えてならない。
 どういう訳か、それは彼の幼なじみたる藤井蓮もまた同じであるらしいのだが……

 ――アイツらには出来るだけ関わるな

 蓮が警告するように一弥へと言ってきたのはそんな言葉くらいだ。
 無論、是非もないことではあるが……しかしその詳しい事情を聞きたいと思うのもまた正直な欲求。
 そして香純の事を蓮に話しても良いのかどうかという迷いも……

 そう、今の自分には迷いがある。
 だがこのままではそうであるが故に行動に移れないというのも事実だ。
 だからこそ、決断をしなければならない。
 自分が取るべき選択、歩むべき道を。
 大切なものを護る為に――




「それで? こんな所に私を呼び出して一体何の用なのかしら?」

 黄昏の西日が傾いた校舎屋上、そこで対峙し合いながら腕組をしてそんな言葉で切り出してきたのは櫻井螢。
 そろそろ一週間は経つか、この学校に転校してきたドイツからの帰国子女。
 しかしながら、沢原一弥が対峙し、問い質したいのはそんな彼女の表の顔についてなどではない。
 彼が問い質したいのは……そう、あの日、あの夜に対峙したジャンル違いとしての彼女との話の続きだ。

「下駄箱にこんな物を入れて呼び出すなんて、意外に古風なのね? 沢原君」

 そう微笑すらも僅かに浮かべながら螢が取り出してきたのは何の変哲もない一通の手紙。
 ほっとけ、と吐き捨てるかのように不愉快気に一弥は鼻を鳴らしながら、しかし警戒だけは決して緩めずに一瞬たりとも彼女からその視線を外さぬように見据える。
 傍から見れば丸きし熱視線でも注いでいるようだが、危険な猛獣から目を離せば、油断すれば死を招きかねないのは当然なのだから、仕方がない処置だと自らに言い聞かす。

「それでこれはラブレター? それとも果たし状なのかしら?」
「ふざけた事言ってんじゃねえよ。単なる呼び出し状だ」

 何をトチ狂って前者のような物をこんな女に出すわけもなければ、後者を出すほどに身の程知らずというわけでもない。
 眼前の女は己にとっての掛け値なしの天敵……最悪、この後のやり取り次第では本当に『敵』として認識せねばならないのかもしれないのだ。それに恐怖を抱くと共に、やはり緊張もまた隠しきれなかった。

「……おまえら、何者だ?」
「随分と直球ね」
「まどろっこしいのは嫌いなんだ。はぐらかされるのもゴメンだ」

 だからさっさと答えろ、と言っている己ですらまるで何様の心算なのかというような横柄な態度。
 しかし……

「……足、震えてるわよ?」
「――ッ!? う、うるせぇ!」

 つまらなさ気に相手が指摘したその事実に、ハッとなる。
 驚愕と共に己の臆病さが見透かされたことに羞恥心が沸いてくるが……ここで弱味を見せるわけにもいくかと半ばヤケクソに怒鳴り返す。
 酷く滑稽で無様なその姿、そんな沢原一弥を見て櫻井螢が何を思ったのかそれは分からない。
 ただ彼女は呆れたように溜め息を吐きながら、まるで子供に分かり易く教えようとでも苦心している教師のような態度で、

「そう警戒しなくても、私はあなたに危害を加えるつもりなんてないわよ」

 警戒し過ぎだと窘めるかのように告げてくる。
 しかし、それを馬鹿正直に受け入れられるはずもないのが沢原一弥だ。
 ましてや眼前の少女は、彼からすれば得体の知れない未知の脅威。

「……そんな保証なんて、何処にもないだろ」
「逆に、此処で騒ぎになるのが分かりきっているのに私があなた程度にリスクを負うのを覚悟してまで危害を与えようとしている理由は?」

 そもそもそんなに警戒して疑うならば、こうして二人きりなるように呼び出してきている事すらもどうかしているだろうに。
 故に螢は呆れる。眼前のこの少年はこちらを警戒し過ぎて混乱しているのか、言動が支離滅裂だと。
 もう少しくらいは冷静で頭が回るものかと期待していたのだが見込み違いかと彼女は一弥の評価を下方修正した。

(……どうやら、時間の無駄だったようね)

 内心で失望も顕に漏れる溜め息。己にしても選択を見誤ったらしくもない行動だったかと振り返り反省する。
 要観察対象たる藤井蓮……彼に近しい身内と呼んでいい存在だっただけに何某かの情報を引き出せないものかと期待してこの場にやって来たのだが……

(見る限りにおいても望みは薄い。得られるものなんて無さそうね)

 彼女とて暇ではない。むしろどちらかと言えば多忙の身。
 時間を惜しんでわざわざこんな呼び出しに応じたのにその結果がこの茶番では、ベイやマレウスからどんな嫌味を言われたものか分かったものではない。
 そして彼女にしても茶番劇に望んで応じるほどに酔狂な性格ではない。

「手早く済ませましょう。……それとも、私はもう帰ってもいいのかしら?」

 別に問答無用の力づくでこの場を去るくらいわけもなければ躊躇いもない。
 この少年を相手に徒労を費やすくらいならば、そちらの選択肢の方がむしろ賢明である。
 だがそれでも彼女がそれを行わなかったのは……

「……な、何だよ? 何が可笑しいんだよ?」
「……? 私に言っているのかしら?」

 螢が告げられた言葉の意味が分からずに首を傾げたその問いに、一弥は当たり前だろうがと若干苛立ったような態度で返してくる。
 何をそんなにカリカリしているのか、そう内心で再び相手に対して思いながら、彼が尋ねてきていた可笑しいという言葉の意味にそこで彼女は漸く気づいた。
 ……ああ、成程。そう言うことか。
 櫻井螢は気づく。無意識の内に自分の口許が可笑しげに緩んでいたというその事実に。
 これを怪訝に思っての彼の先の問いか、そう納得しながら螢は一弥に対して戯れにその理由を口に出して告げていた。

「……こういう青春っぽいのって初めてだったから、ついね」

 訳が分からぬといった様子で首を傾げている沢原一弥だったが、それは別に螢にとってはどうでもいい。
 この新鮮と感じた愉快さを敢えて彼に対して説明してやるほどに親切でもないし、そもそもどうでもいいことでもある。
 ただ言葉通り、仮初とはいえクラスメイトに放課後の屋上に手紙で呼び出される……正に一昔前の学園ドラマのようなこのシチュエーション自体が櫻井螢にとっては経験の無かったものに過ぎないというだけ。
 そしてその未知に対し、自分は僅かとはいえ愉快という感情を抱いた。問答無用でこの場から去らずに一応は付き合ってやろうと思ったのも単なるその礼に過ぎない。

「それじゃあ、もう一度初めから聞きましょうか」



 頭が重い、思考が上手く纏まらない。
 そろそろ一週間近く経つ不眠運動による睡眠不足……その弊害が顕著に現れ始めていることを藤井蓮は自覚する。
 しかしながら眠れない。眠るわけにはいかない。
 自分が眠れば人が死ぬ。
 凡そ、信じ難い事ではあるがここ最近の不眠運動の成果が皮肉にもソレを証明してしまっていた。

 諏訪原市を騒がせる連続殺人鬼、首狩り魔。
 ここ最近は連日連夜の事件すら鳴りを潜めたようにピタリと止まってしまっているものの、それが自分が不眠運動を始めたその日からだというのだから笑えない。
 つまり、藤井蓮が抱いている疑いとは唯一つ。

 ――自分が眠った時に人を殺している。

 その最悪な結論を現状では覆せる要素が何一つなかった。
 陳腐な三流ホラーでもあるまいし冗談では無いと思いたいのだが……この現状こそがその答えだ。
 故にこそ、自分は眠るわけにはいかない。そう必死に己へと言いきかせてこんな無茶な事を続けていた。
 無論、完全に一睡もしないなんて行為は出来るわけもないし、そんな事をしても死ぬか発狂するかでしかないのは分かっているので、昼間の授業中に限定して睡眠を取っていた。
 日に多くて二~三時間。休み時間やその他は眠れないので本当に雀の涙程度だ。
 無論、夜は寝ていない。眠れぬ夜ではなく眠らない夜が、朝日が昇るを待ち続ける時間が狂おしいまでに辛い事をここ最近になって初めて蓮は実感した。
 ……だがこのままこんな生活を続けてもジリ貧、いずれはボロが出て瓦解しかねないのは充分に分かっている。
 しかしながら現状ではこれが選べる限界であり、解決策そのものが見つかっていない。
 いっそ狂えれば楽かと考えた事は何度もあるが……そう言う訳にもいかない事情というものが彼にもある。
 その最たるものが――

 櫻井螢。
 ルサルカ・シュヴェーゲリン

 何食わぬ顔で己の日常の象徴たるこの学校に紛れ込んできた異物……未知の脅威。
 あのヴィルヘルムという男とも合わせて、どうやら何某かの理由でこちらを狙っているようである以上は雲隠れをするわけにもいかない。
 そうなれば彼にとってはなくてはならない大切な日常が……大切な者たちが脅かされる危険があった為だ。
 だからこそ――


「眠そうだね、寝不足?」

 不意にかけられてきたその声にハッとなったように舟を漕ぎ掛けていた意識が覚醒する。
 慌てて顔を上げて見上げれば、氷室玲愛がこちらを覗きこむように見つめてきていた。
 夕日に照らされた彼女の銀髪はまるでキラキラと輝く、幻想的で神秘的な雰囲気をこちらに否応なく抱かせる。
 見慣れた美しさ……耐性はあるはずなのだが不意打ちだった事とも相まってか、思わずドキリとした程だった。

「綾瀬さん、頑張ってるね」

 そんな蓮の心情など恐らくは知りもせず、こちらから視線を外すと共に彼女が前方へと移した先で見据えているのは無心に竹刀を振るい続ける綾瀬香純のその姿だった。
 いつもの放課後の居残り練習、剣道場での一幕。
 考え事をしながらそれに付き合い眺めていたのだが、いつの間にか睡魔に屈しかけていたらしい。
 危なかった。そう思い、ホッとした安堵の息を吐くと共に声をかけて起こしてくれた先輩に感謝の念を抱かずにもいられなかった。

「沢原君は一緒じゃないんだね?」
「一弥は……用があるって言ってました」

 最近、前にも増して自分や……否、主に香純から離れないようにとでも言わんばかりに付きっきりの様子を見せてもいたのだが、今日は珍しくも用事があるといって外している。
 あの日、ヴィルヘルムたちに襲われた事への説明……実の所、蓮は一弥へとそれを上手くは説明していない。
 理由も分からず襲われた、連中の正体も分からない……本当にその通りではあるのだが、そう説明しただけだった。
 大破したバイクの事や自分たちが負っていた負傷が治っていた事……こちらもよく分からないと、気がつけばそうなっていたと説明する他にはなかった。
 無論、一弥がこの件で警察に駆け込むのではないのかという恐れと、それを何とか止められないかとあれこれ理由を考えはしたが、結局彼はそんなこともしなかった。
 警察には取り合ってもらえない、そう彼なりに判断したのであろうか。どちらにしろ、自身が殺人鬼である可能性を強く疑っている蓮としても、出来れば今は警察の介入は避けたかった。
 それにあの連中はそれこそ警察なんかに止められるような存在なんかじゃない。そんな恐怖と同時に絶望的な確信があったのも事実だった。
 連中は危険だ、だからこそ自分の大切な者たちを巻き込ますわけにはいかない。
 全て自分の手で、彼らに悟られぬ内に終わらせる。
 それが蓮にとっての理想ではあったが、現状を鑑みる限りは困難極まりないというのもまた事実だった。

「彼もキミも、そうして隠し事にして背負おうとしているけど見ていてバレバレだよ」

 不意に視線は変わらず香純に向けたままに、しかしこちらに対してであろうポツリと漏らしてきたその玲愛の言葉に蓮はピクリと反応しかける。
 ……だが悟らせるわけにはいかない。そんな理性が咄嗟にそれを何とか押し留める。
 どうして珍しくも香純の放課後居残り練習などをいつもは直ぐに帰るはずの彼女が覗きに着たのか。
 何の事は無い、つまり玲愛は香純ではなく蓮自身へと用があった為だ。
 そして彼女の用とは察するところ……自分が今抱え込んでいる問題について何某かの探りでも入れようとでもいったそんなところだろうか。
 干渉し過ぎず適度な距離を互いに護る……少なくとも蓮は玲愛との友人関係においてそれが暗黙の了解として成立していると思っていた。
 にも関わらず、今彼女はそれを逸脱するかのような行いをしかけている。
 それは後輩であるこちらの異常……それを察して案じての事なのだろうか。

「……何の事ですか、先輩?」

 玲愛が来ている事すら気づかない様子のままに熱心に素振りを続ける香純。
 そんな彼女の方へと視線を固定したままに、出来るだけ惚けた素振りを見せるままにそんな返答を行った。

「……そういう所、本当に遊佐君よりも性質が悪いね」

 無論、藤井蓮のその返答が氷室玲愛にはお気に召さなかったのは当たり前。
 彼女から返ってくるその失敬な言葉に含まれている感情の大半は不満に満ちたもの。
 蓮は思う。先輩はやっぱり優しいな、と。

「失敬な。俺はアイツ程自分がイカれてる心算なんてありませんよ」

 だがそうであるからこそ、珍しくも見せてくれる彼女のその優しさは今に限っては都合が悪い。
 巻き込むわけにはいかない。彼女もまた蓮にとっては香純や一弥とならぶ己にとってなくてはならない大切な人の一人なのだから。

「同じだよ。むしろ結局やる事が同じなのに人に心配かけさせる分、キミの方が余計に性質が悪いよ」

 ……それ、一度香純や一弥からも言われた事があったな、と思い出す。
 本当に、この先輩は人を良く見ている。今のような状況では気をつけなければならない。
 改めてそう思い直しながら、

「いいえ、アイツみたいな馬鹿なことする気はありませんって」

 これはある意味本音だ。あんな天職が傭兵やテロリストと言ってやった方がいい奴と同類視されるのは……ましてや、それ以上だなどと危険視されるのは更に心外だ。
 少なくとも、自分は彼女たちを切り捨てて何処かに行こうなどとは考えてもいない。
 いつだって、望んでいる居場所はまどろむ様に心地良い、永遠を願った皆と過ごせる平凡な日常なんだから。

 ……だから先輩、お願いだから。
 そこから出るような危険な事はしないでくれ。大人しく、ちゃんと俺が戻ってくるのを見守っていてくれ。

 沈黙が続く両者。並んで座り見続けているのは夕暮れに照らされた道場の中で一心に竹刀を振り続けている綾瀬香純のその姿のみ。
 玲愛は何も言ってはこない。彼女が何も言ってこない以上、蓮もまた沈黙を保つのみ。
 無為とも思える数分が経過したその後。
 蓮のその態度に玲愛は不満だったのだろう。彼女にしては珍しい露骨に不機嫌な溜め息を一つ吐くと共に、座っていたのを立ち上がりそのまま剣道場を去っていこうとする。
 その間際に……

「藤井君なんて嫌いだ」

 そんな宛てつけのような言葉を残しながら。
 どのような理由であれ、差し出してくれた彼女の優しさを拒絶したのは己自身。
 これもまた当然であるべき報いの言葉か。
 彼女の去っていく後姿を見つめながら内心でだが詫びの言葉を蓮は告げる。
 そして同時に思った。

「……結構効くな、その言葉」

 しかしそれでも今は隠し通す他には無い。それがまた玲愛を護る事にもなるのだと言い訳と諦めの納得と共に、蓮はこの現実を受け入れる他になかった。




 眼前の女は……いや、この女を含めた連中は何者なのか?
 何の目的があってこの街に……自分たちの前へと現れたのか?
 そして――

「……蓮と香純をどうする心算だ?」

 何よりもその一点、その一点だけは沢原一弥にとっては絶対に看過できぬもの。
 故にここだけでも相手から訊き出さねばならない。そんな意図でこの屋上へとわざわざ呼び出したのだが……

「逆に訊きたいのだけど、それを知ってじゃああなたはどうする心算なの?」

 質問に対して質問での返答。当然、一弥にとってそれは望む返答ではない。
 自分の滑稽に強がる横柄を装う態度は他人の事を言えた義理ではないが、それでもそんな返答と試しているかのような相手の態度が酷く気に入らないものであるのも事実。
 舌打ちが思わず漏れる。聞こえなかったのか無視しているのか相手の平然とした態度には変化は無い。
 忌々しい女、そう改めて敵対心と警戒心、そして嫌悪感を高めながら、それでもこちらが質問に答えなければあちらも答えようとはしない様子なので仕方なくに答える。

「おまえらがあいつらに危害を加える心算だって言うんなら……容赦しねえ」
「具体的には?」
「敵対するってんなら……排除する」

 どうやって、と口にこそ出してはいないがそれを出来もしない事だろうにと相手が嘲笑っているのは察せられた。それ程に相手は見え透いた態度だった。
 気に入らないが事実その通りではある。あの白貌の男の化物具合、そしてこの眼前の女からも否応無く感じさせられる絶対的な屈服感。
 自分が勝てるような相手ではない。ああ、それくらい分かっている。

 ――おまえ、喧嘩弱いしな。

 居なくなったどこぞの阿呆がそう笑っているかのように思えていて不快さが増す。内心でうるせえとふてぶてしいニヤケ面の顔を振り払いながら、しかしその事実自体は認めている。
 こと荒事、腕力に頼った暴力なら一弥は蓮や司狼には届かない。正直、あの二人が強すぎるということもあるのだが、それを差し引いても一弥の実力など一般人に毛が生えた程度と言ってもらえればそれは褒められているのと同じだ。
 故に、いつもこれまで蓮も司狼もトラブルが起こったとしても一弥を頼りにした事などは一度たりともない。むしろ蓮達にとっては自分は守る側に位置する存在であった。
 あの時、結局土壇場で怖気づくしかなかった時に二人は気づいたのだろう。
 ……沢原一弥はこういった事に絶望的なまでに向かない、と。
 だがそれでも――

「俺はあいつらを護る、絶対にだ」

 どんな時でも、どのような状況でも、絶対にあいつらに味方する。あいつらを護る。
 そうしなければならない、それだけは変えられない。
 だからこそ、弱いだとか足手纏いだとか護られる側だとか、そんな事は一切関係ない。

「それは彼らが殺人者だったとしても?」

 不意に返されてきたその言葉に、それこそ一弥は目を見開いて息を呑む。
 それが何に宛てつけた言葉であるかくらい、気づけないほど鈍くは無い。
 櫻井螢とてそれは承知の上、であるからこそのこれは揺さぶり……いや、確認か。

「あなたもあの夜見たはずよね。彼女――綾瀬香純さんが人をころ――」
「――やめろ!」

 螢の言葉を大声で怒鳴って遮る。
 聞きたくない。この女の口からその言葉を言わせたくない。
 そんなありえないジャンル違いであるはずの事実なんて……耳にしたくない。
 だがそんな一弥に螢が当然呆れたのは言うまでもない。

「我が儘ね。私たちを拒絶する、彼女が行った事の事実も否定する……随分と面の皮が厚くて、都合の良い性格なことで」

 返す言葉がない。反論する為の言葉が浮かんでこない。
 冷静さを欠いている。思い出したくもないその事実をチラつかされて焦っていた。
 この女は香純が人を■した事実を知っている。自分と一緒に目撃している。
 香純自身はまるであの夜の事を憶えてもいないかのようないつも通りの振る舞いだが、もしこの女に香純自身や他の誰かにあの夜の事をバラされでもしたら――

「私を口封じに殺す?」
「――ッ!?」

 見透かされた、そして出来もしない事だと真っ向から信じて疑ってもいない相手からの揺さぶり。
 思う。それを実行できればどれだけ良いだろうかと。
 しかし出来ない。それだけの力が無いという現実的な問題もあるがそれ以上に――



 ――思い出すのはあの日の光景。
 血で赤く染まった藤井蓮。
 罰の悪い顔立ちで佇むしかない様子の遊佐司狼。
 何が起こったのかその事実についていけずにうろたえるしかなかった沢原一弥。
 そして……赤い血を流して動かなくなってしまったおじさんの姿。

 何かが狂って、何かが壊れてしまった、あの日、あの時の光景。
 意気込んでも、覚悟を決めた振りをしても一線も越えられずに怖気づいた自分。
 自分のヘマのせいで罪を背負わせ、心にトラウマを刻ませてしまった幼なじみ。
 結果として、笑顔を奪って泣かせてしまった彼女。

 ――沢原一弥が犯してしまった償う事もできない罪。


 ――要するに、おまえには向いてなかった。そういうことだろ。

 気にするなと言わないがそれが事実であり結果でしかなかったのだと司狼は言った。
 それがアイツなりの慰めであったのかどうか……否、ただの指摘だったのだろう。
 分かっている。司狼の言いたい事も、蓮が自分をどう思っているかも、香純が必死に何を隠そうとしているのかも皆知っている。
 けれどそれでも思うのだ。許せないと思ってしまうのだ。

 大切な人を護る為ならば何だってしてみせると偉そうに謳いながらも、それでも土壇場になってすら己が手を汚す事をそれでも忌避しようとする己のその浅ましさを。



「無理ね。だってあなた――ジャンル違いだもの」

 見ていて分かる、そういうものだと櫻井螢は告げてくる。
 だから出しゃばるな、邪魔をするなと警告してくる。
 目障りが過ぎると……排除したくなってしまうから、と。

「クラスメイトの誼と……あの夜、立ち会った奇縁から忠告してあげるけど」

 しかしながら、これが最後通告だとハッキリとこちらへと理解させるように彼女はこちらを真っ直ぐに見据えながら告げた。

「――あなたには何も護れない。これはそういう運命なんだから、大人しく受け入れておいた方が身の為よ」

 それが賢い生き方、少しでも長生きできる秘訣だと。
 しかしその言葉とは別に告げる態度が雄弁に物語ってきてもいた。
 力のない弱者がこれ以上出しゃばってくるな、と。



 一方的に言いたい事を告げて、そして打ちのめされて相手が何も言えなくなったのを確認した螢は、そのまま沢原一弥を置き去りに屋上を去る。
 結局、形だけ見れば相手の質問の一切に答えず、逆にその相手の精神を揺さぶっていじめただけのようなものかとその場を去る時になって改めて思った。
 まぁそれもどうでもいい。元よりこちらの素性や目的など語る心算など一切無かったし、知らない方が相手の為でもある。
 いずれはこのシャンバラへとくべられる贄とはいえ、クラスメイトの誼だ。これくらいの忠告は別に問題あるまい。

「随分と優しいのね、レオン」
「……此処でその呼び名はやめてもらいたいな。シュヴェーゲリン、まだ残っていたの?」

 放課後の誰も居なくなったはずの教室。荷物を取りに戻ってきた自分を待ち構えるように入ってきた自分を相手にそう告げてくるルサルカ・シュヴェーゲリン。
 その言葉と楽しそうな態度から察するに、先程の屋上の一件を何処かで盗み聞きでもしていたということか。
 お世辞にも趣味が良いとは言えない覗き屋。大方、先の一件で早速に自分をからかいに来たと言うことだろうか。

「あなたとてそう暇ではないでしょう? 酔狂な事に時間を割くのも――」
「あら、自分は手紙で屋上に呼び出されるなんて楽しそうなことしてたのにわたしにはお説教? ずーるいんだ」

 螢が最後まで言葉を言い切るよりも前に、遮ってそんな言葉を羨ましげな態度も見せながら不満を示すルサルカ。
 態度が露骨過ぎる。演技を楽しんでいるかのようなその様子。

「楽しそうね、あなたは」
「そりゃあ楽しんでるもの。ケイ、あなたは楽しんでないの?」

 任務とはいえ折角の役得、転がってきた青春を楽しまないのは損だなどとルサルカは言ってくる。
 戯言だと、内心ではルサルカの言葉を切り捨てるかのように思いながらも……しかしその心の内では完全に否定し切れていないというのも事実だ。
 転がってきた青春……この仮初の学生生活を表すなら、螢にとっては確かにその通りだ。
 奪われてばかり、そして奪い取ってばかりの血に塗られ、呪われた魔人としての彼女の半生にとってこの生活は味わった事もない未知の体験であることは事実だ。
 或いは、櫻井螢として生まれさえしなければ彼女にも与えられていたかもしれない平穏な生活。
 しかし――

「楽しんではいるわよ、それなりに。……けど、これとそれとは違うというだけ」

 所詮は仮初で転がり込んできた偽りの日常。眩しく映るし面白いとは確かに思っているが、それでも重きを置くほどの価値を見出してはいない。
 否、むしろ見出している暇など無い。それ以上に取り戻さなければならないものが、渇望してやまぬものが彼女にはある。
 そちらの方が優先される、ただそれだけの事に過ぎない。

「だからカズヤ君を振ったんだ?」
「そうよ。それに彼みたいなのは私のタイプじゃないしね」

 ルサルカの戯言に面倒気に同じく冗談で返す。
 まぁ、男の好みとして合わないというのは嘘ではない。ああいう男は見ていてイライラするので好きではないのは事実だ。
 だがそんなことよりも、ルサルカにとっては堅物だとでも思っていた自分が冗談で切り返してきた事実の方に驚いた様子で、一瞬キョトンと呆けていたかとも思えば、次の瞬間にはおかしそうに笑い声を上げ始めた。
 自分たちしかいない放課後の教室に、ルサルカの笑い声だけが響いてくる。いったい自分は何をやっているのかと螢はこの状況そのものに呆れる。
 笑いの波が収まってきたのか、やがてルサルカは未だ可笑しそうにその余韻を滲ませながらもこちらへと楽しそうに告げてくる。

「何だ、あなたも意外と面白いじゃない」
「それはどうも」

 別にこの魔女に褒められようが嬉しくもなければ、それで気を許すなどと言うこともあるはずもない。
 師が何を意図して自分とこの女を組ませているのかは知らないが、元より到底この狡猾な魔女は気を許せるような相手などではない。むしろ警戒して応じるべき相手だ。

「……まぁ冗談は良いんだけどさぁ、レオン。本当にあなたは何も隠していないわけ? ううん、そうじゃないわね。あなたの師であるアイツは……本当に何も隠していないのかしら?」

 抜け目ない魔女。この一週間近くの任務の中で、要観察対象と接触を持つ事でそんな疑問までも抱いてきたということか。
 無論、螢はあの夜にヨシュアから言われた通り……綾瀬香純の一件に関しては誰にも漏らすことなく伏せている。
 聖餐杯にもベイにも……そして眼前の魔女にも、彼女については何も話していない。
 それが師との契約でもあった。……だが、ここ一週間近く彼女と接触してみて螢自身も分からなくなってきているという混乱があるのも事実だ。

 綾瀬香純――螢が睨む限りではツァラトゥストラと思わしき人物。
 無論、根拠はある。彼女はエイヴィヒカイトを使用し、人間の魂を集めている殺人鬼の正体でもあるのだから。
 しかし、師や聖餐杯、それにマレウスやベイたちは逆に彼女ではなく彼女の幼なじみ――藤井蓮こそをツァラトゥストラだと見ている。
 正直に言ってしまえば不可解もいいところ。螢自身があのベイに火を点けた蓮がやったことを立ち会えずに目撃し損ねたという事実はあるものの、その後に助け会話をしてみたところにしてもごく普通の若者という認識以外は抱けそうにもなかった。
 ここ一週間、彼を観察してみてもそれは同様。やはり副首領の代行――ツァラトゥストラだとはとてもではないが思えなかった。
 しかし、それは同時にここ一週間の観察の結果で綾瀬香純へと抱いた意見もまた同じだった。

 全国レベルの剣道の腕を持ち、人当たりも良く活発な性格、器量も良いのでミス月乃澤なるこの学校の女生徒で一番という評価も得ている。
 それとなく接触し、探りは入れてみた。しかしながら馬鹿馬鹿しくなるほどに正義感の強い娘という認識しか出てこない結果だった。
 とても顔見知り諸共に自分を殺そうとしてきたこの街の夜を震わせている殺人鬼と同一人物には見えない。

 ……或いは、全てが演技であるのか、もしくはあの状態は何者かに何らかの方法で操られていたのだとすれば……

 確証など無いが、その方がむしろ一番しっくりくる答えなのではないかと思えるのが結論だった。
 ならば、彼女を操り人を殺させている存在とは何者なのか……

「……さぁ、何の事を言っているのやら。それにあなたたちに隠し事をする意味が私にはないわね」

 どちらにしろ全ては憶測の域を出ない。故にこの問題は一旦内心で打ち切ることにして、ルサルカにはそんな返答をした。
 私には、を強調したのは師の関与の有無をはぐらかす為、そして自分は彼の考えている事など分かるわけがないとアピールする為でもあった。
 矛先をこちらに向けられるのは好ましくない。腹の探りあいでこの狡猾な魔女をいつまでも欺き続けられる自信もない。
 故にこそ餅は餅屋。そういう手合いの相手、その対処はそういうのの得意な本人に直接任せるべきだという丸投げにも近い螢の判断だった。
 これで師が困ったとしても知ったことではないし、これくらいあの男なら上手く切り抜けるだろうと確信もあった。
 そんな螢の内心、思惑をどう受け取ったのかは分からない。少なくとも何も知らないとシラを切る螢の言い分を信じられなかったのか、

「……こういう時、味方を拷問するわけにもいかないっていうのも不便よねぇ」

 そんな物騒な言葉をさらりと呟いてくる始末。

「あ、勿論冗談だから気を悪くしないでね」
「……ああ、分かっている」

 冗談なんかではないことくらいはな、と内心でのみ螢はそう返していた。
 本当に付き合っていくには命が幾つあっても足りない程に危険な連中だ。
 自分自身のことを棚に上げながら櫻井螢が思ったのは、そんな正直な感想だった。




 クラブ・ボトムレスピット。
 諏訪原アンダーグラウンドの中心地とも呼ばれている、無法者達の溜まり場、無頼の地。
 此処には大・小に関わらずあらゆるスネに傷を持った人種が集っている。
 例えば、刑務所・軍基地からの脱走者。
 例えば、密入国者。
 例えば、ヤクザ関連者。
 例えば、警察に追われている売人。
 例えば、家出人。
 Etc……

 数え上げていけば切りもない。そんな行き場を失った者たちにとっての此処は言わば聖地。
 無法を絵に描いた様な無頼の地であり、お世辞にも当然治安が良いなどとは言えない。
 しかしながら、此処にも共通するルールというものがある。
 此処に出入りする者は全員がお互いのバックとならねばならない。つまりは運命共同体、個が全の為に動き、全が個の為に動く。
 此処の住人とトラブルを起こすという事はそれ即ち、此処の住人全てと揉めなければならないということとそれは事実上同じであった。
 単純であるが故の強固なコミュニティ、不可侵の運命共同体。
 それが強力な外部に対しての牽制ともなっており、そのお蔭で一般的な常識や倫理はおろか、日本国憲法すら通用しない一種の治外法権とも化していた。

 そしてそんな物騒でイカレタ奈落の王国――現状、その頂に君臨する王様、群れのリーダーこそが彼――遊佐司狼であった。


「……それで、何か連中に関しては分かったか?」
「今のところはまだ特に。アンタご所望の情報の類は全然だね」

 何だそりゃ、そんな落胆も顕にソファへと身を沈めるように座り込む司狼。
 弛緩したようなやる気も無い態度そのままに天井の照明を見上げているその様子に滲み出ていた感情は紛うことなく退屈の一言。
 実際、あの教会に襲撃を仕掛けて一週間近く経過したその後から彼の様子は決まってこんなものであった。
 新たな獲物を見つけたのは良い……だが、その獲物を狩る為の手段が見つからない。
 これでは動きたくても動けない。態度にこそ顕著には示さないが内に相当なストレスを彼が溜め込んでいるであろう事をエリーは察していた。

「銃でも刃物でも炎でも電流でも殺せねえとなると……後は毒か?」
「完全否定はしないけどさ、アフリカゾウを即死させられる猛毒があったとしてもそれが仮に連中に効くと思う?」

 物は試しと言うし、何にでも挑戦してみるに限るというのは司狼の持論ではあるが、エリーの返答に対してもまあそうだろうなと納得したように頷いていた。
 先日対峙した例の連中。化物集団。
 聖槍十三騎士団。
 黒円卓。
 Longinus Dreizehn Orden(ロンギヌス・サーティーン)。
 Lezte Bataillon(最後の大隊)……
 まぁ呼び名自体はどうでもいい。要するに常識外れの変態集団だということには変わりないのだから。
 問題は、その変態共の常識外れっぷり、これが些か度が過ぎているというだけ。
 そしてそうであるが故に手詰まり、手を拱いているというのが現状だった。

「……こりゃあ戦車でも持ってこないと無理そうか」
「この前キャデラックを廃車にされたばかりでしょうが」

 ああそれを思い出すのは腹立たしいなと司狼は舌打ちを吐く。
 無論、先の言葉も一応は冗談だ。そもそも戦車を用意できるだけのツテが現状無いというのが実に惜しい。
 それにオカルト被れた連中を相手に常識の範疇の武器など通用しまい。それは先の経験から司狼とて痛いほどに理解できた。
 だからこそ用意すべきはもっと別の物。目には目を、歯には歯を、オカルトにはオカルトを、それが妥当だろう。
 問題があるとすれば種類とルール。連中に通用するものとそうでないものの区分け、その共通性。
 ある意味美術品の真贋を問う作業にも似ているかもしれない。司狼たちがやろうとしている連中に通用する武器集めとはそう言ったものだ。

「……まぁ尤も、連中相手に仕組みを理解して、ソレを分捕っちまう方が早えのかもしれないが」

 むしろリスクは大きいがそちらの方が可能性は高そうだ。
 他にどうしようもない状況になれば或いは試してみるのも……

「……まぁそれもいざとなったらだ」

 打てる手段、検討する可能性の候補として保留しておくで今は良いだろう。
 そう考えながら連中や、連中に通用しそうな武器集めに関しての事は一旦脇に置いておくことにして次に司狼が思考を割き始めたのは別の案件。

「エリー、今日も死体は見つかってないのか?」
「ニュースじゃそんな発表も無いね。……警察の方でも同じみたいよ」

 パソコンを使った警察の捜査状況をハッキングしながらのエリーの確認に司狼はそうかと頷いた。
 という事はこれで凡そ一週間、この諏訪原の夜を連日連夜に渡って騒がせていた殺人鬼の方は本格的に休業中であるらしい。
 黒円卓という素晴らしい変態共に絶賛浮気中の司狼ではあるが、無論の事ながらこちらに関しても捜査は継続中だ。
 むしろ沈黙を保って鳴りを潜めている現状とはいえ、面白い情報を掴んでいる司狼としては今はこちらの方が連中よりも関心度が高くなっていた。
 何しろ……

「……まさかアイツだったとはねぇ」

 徹底的に網を張らせた舎弟たちの情報網。そこに引っかかったとある目撃情報。
 その内容と、それを目撃した証言者の述べる相手の容姿から司狼はある人物を容疑者としてその捜査線上に浮かび上がらせていた。
 それこそが彼女……綾瀬香純であった。
 凡そ司狼としても信じられぬ気持ちがあったのは事実だ。それに香純だと断定しているわけでもない。
 しかしながらまるで仕組まれたかのような現状、人物間の立ち位置。
 そして――

「――あのクソ野郎が一枚噛んでるんだとすれば」

 出来すぎた絵図ではあるが、逆に露骨過ぎてあり得ないと一笑に伏すことすらも出来ない。

 綾瀬香純が殺人鬼の正体。
 その殺人鬼の登場とほぼ同じくして表れた聖槍十三騎士団。
 その連中の仲間の一人であるあの男。
 そして十一年前――

 この一致……とても偶然とは思えない。むしろ必然だと露骨に示しているようなものだ。
 まるであの時からずっと定められていたかのような予定調和と言わんばかりの流れ。
 段々と酷くなっていく既知感。
 誘われてでもいるかのように、十三階段の一歩目を上がるのを覚悟でステージの上に自分たちは乱入したのだ。
 ならばこそ、したり顔で見下しているであろう連中に目に物見せてやるためにもここで一手打っておくことも悪くは無い。

「……だとすれば」

 まずは埒の明かぬこの状況に埒を明ける。その為の切っ掛けを作る必要がある。
 となれば……些かまだ早い気もするがこれは再会の時期なのかもしれない。

「エリー」

 相棒である少女の名を呼ぶ。彼女も司狼のその様子から何かしら動く事を察したのだろう。こちらの次の指示は何なのかとそれを待っているといった様子だ。
 橋渡し、水先案内人としてアイツを此処に連れて来る適任は彼女しかいないだろうとも司狼は思っていた。

 そう、疑念が残ったままだというのならハッキリさせてしまえばそれでいい。
 無論、容疑者である香純当人を連れてくるのは論外だし、それこそそんな事をすればそれを知った時に蓮が許しはしまい。だから彼女は除外。
 そうなると彼女の近くに常に居た幼なじみ……自分を除いた残りの二人となるが、こいつらならば何某かの情報の断片くらいは持ち合わせているだろう。
 そしてどちらを連れて来るのか……当然決まっていた。

「一弥を此処に引っ張って来い」

 蓮とはまだ決着が付いていない。自分が望む相応しい再会時期とも思ってはいないし、何よりもお楽しみは後に取っておくに限る。だから蓮もまた除外。
 となれば消去法、残った沢原一弥をターゲットとするのは必然。あっちもあっちで恐らくはくだらない事とはいえこっちに色々と文句を言いたいだろうから丁度良いだろう。
 ……それに、あのクソ野郎の事を教えておいてやった方が良いだろうという思いもあった。
 根性無くて途中で投げ出して下りた、その最後の詫びも兼ねて。

「良いの?」
「構いやしねえよ。オレの名前でも出せばむしろあっちの方からホイホイ付いて来るぜ」

 愚図るようなら力づくでも構わない、そんな追加も態度で示唆する司狼にエリーはやれやれと呆れた様子で溜め息を吐いた。
 しかしながら、と少しワクワクするかのように彼女もまた期待していたのは事実だ。
 到底穏便に済むとも思えない彼らの再会、それが果たしてどのようなものとなるのか?
 自分は直ぐ近くからそれを見物させてもらうとしよう。
 そう思いながら、本城恵梨依は奈落の底への水先案内人となるその旨を了承した。



[8778] ChapterⅢ-3
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2009/11/28 23:27
 暗く狭いその通路……櫻井螢はいつも通りに地上へと出る為にその道を進む。
 今日も今日とていつも通り、計画遂行の任務の為の登校。
 学校へと通う。マレウスと行うそれは実質任務とは名ばかりの螢にとっては茶番も同じ。
 しかしながら、それでも師と上役が己へと望み、そして課した役割だ。
 この目的の達成が悲願への成就へと繋がる、だから己は文句も言わずに任務へと従事する。
 まるで言い逃れるかのような言い訳か、思わずそう思ってしまった櫻井螢は苦笑する。
 ……これでは自分はまるで本当に――

「学校はどうだね、螢?」

 不意に呼びかけられたその声。俯きかけていた視線を上げる。
 前方、人が二人通れれば精々という狭い通路の壁際にて、こちらを待ち構えるかのように立っている一人の男。

「特に問題はありません。マスター」

 ヨシュア・ヘンドリック=アルベルトゥス・マグヌス……己にとって師に該当する男の呼びかけに彼女は努めて表情を平時のものへと戻しながらそう返した。
 これから登校、その矢先にこのような朝っぱらから何用かと若干訝る気持ちが螢より沸き出でたのは言うまでもない。

「……何か御用でしょうか?」
「いや、偶には見送りに出るのも悪くはないかと思ってね」

 つまりは気紛れ……しかし本当にそれだけか?
 師弟の皮を被った関係であれ、基本的に心は許さず常に警戒して距離を取る……他ならぬこの男自身に十一年間で教わった事でもある。
 であるからこそ、また何らかの企みをこの男は立てておりそれに自分を利用しようとしているのではないかと思ったのだ。

「……ん? 私の顔に何か付いているかね?」
「いえ、何でもありません」

 飄々とした態度を決して崩さず、本当に他意はないと言わんばかりの口ぶりではある。だが故にこそ油断ならない。否、油断してはいけない。
 己へとそう常に言い聞かせながら螢はただ無言のままに師の次なるリアクションを待つ。

「遅刻するよ?」
「……行っても構わないので?」
「見送り、と言ったはずだが」
「……失礼しました」

 本当に何もないのか、そう思いながら螢は若干警戒した足取りで脇へと退くヨシュアの横を通過していく。
 その間際、

「今の内に楽しんでおくといい。君にとっては得難く貴重な経験だ」

 そんな戯言をポツリと言ってくる。
 戯言……そう、戯言だ。
 他ならぬこの男がそんな言葉を己に対して言ってくるなど、ある意味では挑発にも等しい物言いだとすら思う。
 しかしそんな感情を螢は表面上おくびにも出す事はなく、

「……お心遣い感謝いたします」

 己もまたその戯言を返答とした。
 つくづくに、救いようも無い程に殺伐としたものを飲み込まねばならない不満。
 朝早くからストレスを溜め込む事に内心で苛立ちすら起こしながら、螢は振り返ることなく地上へ向かって通路を進んでいく。
 ヨシュアは追いかけてくる事も、新たな言葉をかけることもなく、ただ無言、そして趣味の悪い笑みをもってそれを見送っただけであった。



 随分と嫌われたものだ、そう思えば思わず苦笑も沸いてくる。
 つくづく弟子を相手にコミュニケーションが失敗している事を反省と共にヨシュアは理解する。

「……いや、だからこそ楽しくもあるのか」

 どうにも弟子を相手にそんな悪戯心を抑える事が難しい。
 年甲斐の無い不毛な行いだというのに、これはいずれ改善せねばならないかとヨシュアは思う。
 まぁどちらにしろ、自分なりに先の言葉は弟子に対して愛情を込めて言った本心のつもりだ。
 本格的な幕開けが近くなれば、いずれこの『日常』というものすら維持は困難となる。そうなる前に出来うる限りそれを堪能しておいて欲しいと思ったのだ。
 自らでその『日常』を壊すその時に、彼女がどんな反応と決断を取るか……それが非常に興味深いと思えばこそ。

「随分と執着してるみてぇだな、おい」
「これはこれは……こんな朝早くから珍しいですね、中尉殿」

 不意にかけられたその声、振り返れば闇の奥よりこちらに向かってきたのは一人の白貌の男。
 ヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイ。
 夜の世界の己の為に昼の世界の全てを否定したこの男が、このような朝から活動しているというのもまた大変に珍しい。

「如何なさいました?」
「ちょっと尋ねたい事があるんでな、幾つか質問に答えろ」

 事実上の拒否は許さぬ尋問……相手の態度を見ていればそんな様子である事も明らか。
 元より嫌われてはいるが、此処で下手を打ってこの男を相手に余計な火種を抱える事も、関係に軋轢を生じさせる事も得策ではない。故に大人しくそれに従う。

「まず一つ……てめぇ、あの小娘を使って何をする気だ?」
「何を、というのも意図を測りかねますが……この大儀式の成就、それ以外にありませんが」

 無論、その為に手塩にかけて育てたのだ。存分にその分、役割を全うしてもらわなければ困るというもの。

「あれはカインの予備か?」
「その意図が完全に無いとは言い切りません……が、その為だけの存在ではありません」

 ヴィルヘルムからの続けての問いに、ヨシュアは静かに首を振りながらそう答えた。
 十一年前のトバルカインとヴァルキュリアの争い。計画の前段階として行ったあれに則り、ヴァルキュリアの後釜たる第五位に彼女を就かせたが、無論、櫻井の者である以上はあの槍を振るう資格が彼女にもある。

「ザミエルがこの事知ったら、てめぇ多分殺されるぜ」
「確かに……ザミエル卿の怒りを買いかねないのは覚悟の上でしたが」

 しかし来る日の事を想像するのはヴィルヘルムに指摘されるまでもなくヨシュアとて承知の上。
 かの紅蓮のカスパールから怒りを向けられたらと思えば……確かに、それは眼前のこの男に今も向けられているその抑えられた殺気などの比ではないだろう。
 正直、恐ろしい。臆病な自分としてはゾッとして本来ならば想像だってしたくない。
 彼女に慈悲を賜れるかどうか……正直、分の悪すぎる賭けではあるがその辺りは儀式の成就の為にもまだ必要な事が残っている筈であり、その間くらいまでなら生存できる猶予はある。
 それにその段階にまで進んでいれば既に恐らくは……

「てめぇがあの女に殺される時はちゃんと呼べよ? 笑いながら見物してやるからよ」
「それは手厳しいですね」

 ヴィルヘルムの半ば本気の嫌味にこれは参ったといった様子の苦笑で返すヨシュア。
 こちらの返答と態度が気に入らなかったのだろう、ヴィルヘルムは直ぐに不快気に鼻を鳴らしていた。

「次の質問だ。……ツァラトゥストラはあのガキか?」

 これは中々に鋭く、そしてヨシュアにしても都合の悪い質問だった。
 返答はイエス……しかしバカ正直にそう答えるわけにもいかない。
 まるで半ば確信しているかのような口振りだが、ここで言質を取らせてしまえばこの男がどんな早まった行動に出るか予測できたものではない。

「……先に訊く事をお許し願いたいのですが、中尉の見立てでは?」
「まぁ条件次第の半々。他に目ぼしい奴がいねえってのもあるが……そもそも、この俺にあんなことやってくれた以上、あいつが聖遺物の使徒なのは間違いねぇ」

 しかしどうしても腑に落ちない、そんな態度も顕にするヴィルヘルム。

「アルベルトゥス……てめぇ、あのクソ野郎がどんな奴かくらいはよく知っているよな?」

 彼が言うところのクソ野郎――己が主たる副首領メルクリウス。
 無論、あなたよりも遙かに詳しく……そう思ったが口にはせずに頷くに留める。

「アイツは世の中の全てを舐め腐って見下してやがったクソ野郎だ。……ああ、ネジの外れた化物としちゃあむしろ当たり前だったのかもしれねえな。だからこそ、唯一首領とアイツだけが対等だった」

 まるでその事実が酷く気に入らないとでも言わんばかりの口振り。
 形と立場はどうであれ、やはり彼もまた己と同じ忠犬かとヨシュアは再認識する。

「だからこそ解せねえのさ。あの劣等……ちぃと伝手を頼って調べてもらったんだがよ、五代前まで遡っても猿以外の血が混じっちゃいねえ」

 伝手……恐らくはシュピーネ。彼の有するネットワークによる賜物か。
 にしても驚いた、シュピーネと彼が密に繋がった関係というのもそうだが、まさかそんな事まで熱心に調べていようとは。
 ただ単純に暴力を持って相手を屈服・虐殺するだけの頭の回らぬ狂犬ではない。やはりこの男は軽々しく見極めた心算でいる事も危険だとヨシュアは判断する。

「あの皆殺し(ホロコースト)野郎が唯一寛容だったのは自国民程度だろ? まぁ確かに横繋がりの猿共にも甘え部分はあった……が、それでもアイツが自分の代理にレーベンスボルンの落とし子以外に手をつけるなんざ思えねえわけだ」

 それでだ、と此処からが本題だと言わんばかりの鋭い視線をヨシュアへと向けながらヴィルヘルムは尋ねる。

「あそこはおまえとあの淫売の管轄だっただろう。確認しときたいんだけどよぉ……あのガキはてめぇらの管轄と本当に無関係なのか?」

 シュピーネの調べた情報に確証をもてなかったが故の直談判。つまりはそういうことかとヨシュアは判断した。
 確かにメルクリウスの直接の息の掛かった自分があそこに一時在籍し、そしてメルクリウス自身もまたあそこに通いつめていた事は騎士団員の誰もが知っている。
 あれはこの時のための布石ではなかったのか……そう疑われるのも仕方がないということか。

「……残念ながら、私が取り扱った案件の中には彼に関わるものは恐らくは無いかと」
「嘘じゃねえな?」
「この身に刻まれた聖痕に誓って」
「…………そうかよ」

 マジで外れかと苛立たしげに舌打ちを吐きながら、しかしこの場は彼もこれで引き下がる事にしたようだ。
 内心で浮かべる笑みを隠しながら、それは残念でしたねなどと形だけの戯言を返す。
 気に入らないと言った様子で鼻を鳴らしながら、ヴィルヘルムは最後の質問へと移行する。

「最後だ。……で結局、俺らはいつまでお預けなんだ?」

 いつまで待たされるのか、いつになったら“戦争”を始められるのかというそれは催促。
 闘争と血と死に餓えた獣の爪牙たち。そろそろ我慢にも限度があると言った様子だ。
 幕開けは近い。もう間もなくだと言ってもいい。そして始まればきっとこの男は止まる事などありはしまい。
 それは都合が良いと同時に悪くもある。躊躇も無く徹底した破壊と虐殺を行えるその一点に置いてはこの男は素晴らしい。
 だが一度そうやって火が点いてしまえば並大抵の事では止まらなくなる。そして止めるだけの力がこちらには殆ど無いと言ってもいい。
 ハイドリヒ卿への忠義……それに関してはこの男には何の疑いも心配も抱いていない。だが逆に言えば主以外の命には従わない事とそれは同じ。
 今はまだクリストフを介して自分の……首領からの代行権限としてのクリストフの命には従っている。だがそれもいつまで続くかは保障も無い。
 ヨシュアがある意味で最も恐れているのは彼やルサルカの命令無視による暴走だ。
 故にこそ、爆発させない為にも仮初とはいえここで上手く手綱を握り方向性を誘導しておく必要もまたある。

「直に幕開けです。そう待つ事もなく儀式は次の段階へと進めるかと」

 ヨシュアのその言葉にヴィルヘルムは探るかのように鋭く細めた視線をこちらへと向けてくる。
 無論、腹の底などヨシュアも読ませる心算は無い。クリストフに比べればこの男とのこのようなやり取りなどむしろ遙かに容易だった。
 それを裏付けるようにヴィルヘルムも直ぐに諦めたのか、露骨な舌打ちと共に真っ直ぐに逸らそうともしていなかったその視線を若干移動させる。

「期待してもいいんだろうな」
「皆様を待たせた分に見合うだけの価値は保証しましょう」

 そう、種は蒔いた。環境も整えた。収穫の時期も待った。
 彼が求める戦争としてこの街は、そして彼の求めるその敵は充分に機能してくれるはずだ。
 その時に存分に飢えを満たすために踊ってくれればいい。元よりそういった役割を彼には課しているのだ。是非など無い。

「面白ェじゃねえか。あのガキに、それからクリストフの見逃した乱射魔のガキもいる。本当に半世紀ぶりに黒円卓の戦が……あのクソ野郎の言い分を俺の実力で否定する為の戦いが出来るって事だな」

 よりにもよってこのヴィルヘルム・エーレンブルグを相手に言い切りやがった暴言。
 望んだ相手と添い遂げられない、奪われる側の人生。
 冗談ではない、ふざけるな……それを真っ向から否定する事こそが彼が半世紀の年月を倦怠に塗れた雌伏にて待ち続けてきた本当の目的。
 爛々と暗闇の奥で、そのサングラスの向こう側で赤光を放つ視線、浮かべる凶笑。
 滲み出る闘争に餓えた獣の気配は流石に平時で放つには度が過ぎているものだった。
 故にだろうか、

「――ベイ、時と場所くらいは弁えてください」

 やんわりと宥めるかのような口調でありながら、しかし実質は忠言というよりはそれは警告の意を持って発されたかのような言葉。
 あ? と胡乱気な眼つきで呼びかけてきた声の方向……螢が去っていった前方へとヴィルヘルムは視線を向ける。

「おはようございます、猊下」
「ええ、おはようございます。……やれやれ、朝早くから殺気立って何事ですか?」

 どうやらヴィルヘルムの漏れ出る殺気に気づいたのだろう。様子を見に来たとでも言った態度で溜め息と共に尋ねてくる神父――ヴァレリア・トリファ。

「また喧嘩ですか? 欲求不満なのは察しますが時期が時期です。控えてください」
「別にアンタがしゃしゃり出てくることでもねえだろう? ちぃとこちらの副首領代行補佐殿に訊きたい事を聞いてただけだよ」

 なぁ、などと同意を求めてくるヴィルヘルムの態度にヨシュアも仕方が無いので合わせる様にトリファへと首肯にて同意を示す。
 ヨシュアが同意を示した事、そして神父が現れたからか殺気を押さえ込んだヴィルヘルムの様子を見て、トリファもやや訝る様子を見せながらもやがて納得は示してくれた。

「まぁ良いでしょう。……それで? 良い機会ですから質疑応答なら私も応じますが」
「要らねえよ、もう済んだ。アンタに嫌味を言われるのも鬱陶しいからな。出番が来るまでは大人しくしておいてやるさ」

 そうは言いながらヨシュアとトリファを押しのけてヴィルヘルムが狭い通路の先へと進みだした方向は闇の奥ではなく地上への出口だ。

「珍しいですね。まだ日が昇っている内より外出ですか?」
「ちょっとした野暮用だ。心配しなくても面倒事なんざ起こす気もねえし、直ぐに戻ってくるさ」

 トリファの問いに振り返ることもなくそう答えながら、ふざけているかのような適当な手振りを最後に見せながらヴィルヘルムは行ってしまった。
 陽光を何よりも毛嫌いしているあの男がそれを押しても出かける野暮用とは何なのか。興味がないわけでもないが……自身で言った言葉を覆すような男でもない。
 余計な詮索はただでさえ穏やかではない自分たちの関係に亀裂を広める行為にもなりかねない。故にここは放置しておくべきか。
 皮肉にもそれがこの場では一致した両者の結論でもあった。


 それにしても、とヨシュアは先程のヴィルヘルムとのやり取りを思い出しながら思う。
 自らの主たるメルクリウス。彼がこの世の全てを見下しているという評価。
 それは酷く正しい指摘。彼はこの世の全てに失望し、また見切りをつけている。そこに偽りは無い。
 正しい認識、そしてレーベンスボルンの事にまで考えが回っている事といい、成程とヴィルヘルム・エーレンブルグという男がやはり鋭い観点を持つ者だということは間違いない。

(……しかし中尉殿、なればこそとも思いませんか?)

 彼の徹底した選民思想と人種差別主義、鋭く強固であるが故の価値観だからこそ些か短慮に至ったとしか言う他ない。
 メルクリウスを心底から憎みながらも、それでも自分たち聖槍十三騎士団だけは同じようにもまた特別な存在だと思いたいその価値観。

(中尉、あの方にとっては我々もまた大差などないんですよ)

 忠実な下僕たる己を含め、かつて自らが所属したコミュニティの全てすらあの水星の魔術師からすれば些事も同じ。興味・関心の対象外だ。
 メルクリウス……ヘルメス・トリスメギストスが見ているものなど今も昔もただ二人のみ。
 愛しき女神たる呪われた歌姫と唯一人畏敬を抱いた盟友たる黄金の獣。
 あの二者以外の存在など彼からすれば取るにも足らぬ塵芥。何の感慨も執着すら見出す必要なども無い路傍の石も同じだ。

(アーリアだの東洋人だの、ましてやレーベンスボルン云々すらあの方にとってはどうでもいいのですよ)

 そう、どれも大差ない。そしてどれを選んだところで変わりなどない。
 ならばこそ、拘る必要なども無く適当に選別したものを用いようとも彼にとっては充分に効果を見出す事が可能だ。
 絶対の存在であるからこそ、メルクリウスの価値観を全て見通したかのように語るなどと言うことは逆に滑稽そのものでしかない。

 そもそもツァラトゥストラとは彼の後継となるべき存在。
 彼の愛する女神の番いとして、そして黄金の獣と並び立つ為だけに用意された至高の存在。
 そのような下らない選別方法を持って選び取っているものなどとは根本的な出来も違う。

(中尉、あなたが知れば激怒する事実なのでしょうがね。所詮我々など彼の為に用意された――)

「それにしても、彼の勝手には色々と困ったものですね」

 帰結へと至ろうとしていた内心での考えの途中、投げかけられてきたその声にヨシュアはそれを中断して反応する。
 ヴァレリア・トリファがこちらを窺いながらも示して見せているのはベイの振る舞いに対する呆れ。色々と気苦労を重ねているそれは表れでもあるのだろう。

「ご心中お察しします」
「本当に、まるで罰ゲームのようなものですからね」

 あのお方の代行などと言うものはやるものではない、そんな風に気疲れを見せているトリファではあるが、当然それが本音でないことくらいはヨシュアとて承知の上。
 飄々とした道化者を気取る苦労人……上手い仮面を被った食えない上司だが、その内では今の状況、権限・地位とも己の目的の為には是が非でも執着しようとしているのはよく知っている。
 女子供のための嫌われ者。鬼の居ぬ間を狙い、機会を窺っている傍観者。
 十一年前に結んだ協定で一応は今の所、互いへの不可侵と儀式成就の為の協力を保っているが、幕が開ければどこまでそれが続くものなのだろうか。

「まぁベイに関しては構いません。……けれどアルベルトゥス卿、私もあなたにそろそろお尋ねしたいことがあるのですが」

 そうだろうとは思っていた。そろそろこの男も動き出すだろうと……否、動いてもらわねばこちらとしても色々と困るのも事実。
 それにヴィルヘルムにももう間もなくとは言ったが、それこそ或いは今夜にでも始まる可能性は予想以上に高い。
 色々と借りもある。答え合わせに乗じてそろそろ彼にも話しておいた方が良いだろう。

「猊下、今晩お時間を少しいただけますか?」
「構いませんが、何故ですか?」

 怪訝と言った表情を見せるトリファへとヨシュアは笑みと共に告げた。

「少々付き合っていただきたいのです。恐らく今晩――第一のスワスチカが開きますので」

 そして恐らく、ツァラトゥストラもまた目覚める。

 そう告げるこちらの言葉にトリファは一瞬だけ驚きを示した反応を取りながらも、しかし即座に納得したかのように頷いた。

「儀式を次の段階へと進めたいと思います。その為には猊下のご指示を頂きたくも思いますので」
「その為に、この状況に関しての説明をしてくれると?」
「はい。その時期が来たと判断いたしましたので」

 自分の言い分だけでは兵士たちは動かない。正式な上官たる彼の指示なしでは彼らもまた決して納得する事もないであろう事もまたよく知っている。
 だからこそ、まずは眼前のこの代行殿から話を通す。

「……分かりました。中々に興味深そうな展開だ。楽しみにさせていただきますよ」
「はい。猊下のご期待に応えられるよう努力させていただきます」

 トリファに対し恭しくそう言葉を返しながら、今晩の約束を取り付けた二人はそのまま別々の方向へと進みだす。
 ヨシュアは再び夜が来るまで闇の奥へと戻る為に。
 トリファは夜が訪れるまで昼の神父へと戻る為に地上へ。
 どちらにしろ、動き出すのは夜を待ってから。それまでは待つという行為へと戻らねばならぬのはどちらにとっても共通事項ではあった。




 チャイムの音で藤井蓮は目を覚ました。
 目を覚ました……とは言ってもそれも所詮は浅い眠りであり、意識の片隅では起きているのとも同じ酩酊に近い茫洋とした休息期間に過ぎない。
 けれど実際この一週間、こんな気休めに等しい行為であれ、なければとっくに狂っていたところかもしれない。
 それを思えば、雀の涙程度などという表現の仕方とて馬鹿にできたものでもない。
 ……尤も、流石にそろそろ無理が出始めていること自体に間違いはないのだが。

「――蓮」

 沢原一弥が席を立ち、名を呼びながらこちらへと近付いて来る。
 席の前まで来ると同時に、適当に何やら話しかけてきている様だが生憎とその内容は右から左。正直、マトモに聞いていない事も事実ではあるがそちらに理解力を回すだけの余力も惜しい。
 一弥には悪いとは思いながら話半分に彼の言葉を聞き流しながらに考えていたのはやはり例の二人の事だった。
 櫻井螢とルサルカ・シュヴェーゲリン。
 自分たちの日常へと突如紛れ込んできたジャンル違いの異物たち。
 彼女たちの目的や正体が何であれ、この現状が示唆しめしている事実はあまりにも重い。
 少なくとも昼間、学生として此処で自分が過ごす内には連中も何らかの事を起こそうという心算も無さそうではある。
 転校生としてやって来た彼女たちの様子……ここ一週間の監察の結果として判断できたのはそのような事くらい。
 此処を滅茶苦茶にでもするような強硬手段……彼女たちにはそれが可能なのは嫌という程に知っていたし、実際にそれが行われていないのは一先ず安堵すべき状況ではある。

(……けど、俺がもし部屋に引き篭もりでもして学校に来なくなったら)

 連中の目的が仮に自分だと判断した場合、その可能性は充分にあることも理解できる。
 想像するだけで恐ろしい……そしてそれは絶対にさせてはならない事態でもある。
 故に、だからこそ奴らを抑えるストッパーとして自分は奴らから目を離すことも出来ない。
 色々とジリ貧で最悪な状況。このままでは一方的に分が悪くなっていくばかり。
 何とかする必要がある。そしてソレは現状の待ちの姿勢のままでは好転にも繋がる事などありはしないだろう。
 ……ならばこちらから動くか、彼女たちと接触してみる為に。
 危険な行動であるのは承知の上。しかしながら、そうしなければ始まらないというのも事実だ。
 だからこそ蓮はそうすることを前提にしたプランを考える。
 彼女たちと接触を持つ……つまり、他者を巻き込まない対峙の場を作るともいうこと。
 だがどうやって? 昼飯にでも誘う……否、馬鹿げている。
 一番問題なのは周囲の人間――特に香純と一弥――に気取られぬように如何にそうするかという事にある。
 ただでさえあの二人は転校生という立場や、容姿や身に纏う存在感からも周囲からは目立ちすぎている。
 下手に近付こうものならこちらもまた目立つ事態にもなりかねない。
 そうすれば香純や一弥を巻き込む事態にだってなりかねない。それだけは何としても避けなければならない。
 どうにもままならぬ状況に思わず内心で毒づきをしていたそんな時だった。

「――だから蓮、おい聞いてるのか?」

 不意にそんな風に言われながら肩を揺らされてハッとなる。
 気づけばそう言えば正面、そこに沢原一弥が立っていて自分に先程から何かを話しかけていたのだったということを蓮はそこで漸く思い出した。
 不味い、話も何も聞き流して聞いてすらいなかったと、それをどう言い訳したものかと考え始めていたその時だった。

「だからさ、次体育だから……早く出ようぜ」

 どうにも居心地悪げにそうこちらに言ってくる一弥の言葉に気づき周囲を見渡せば、成程、着替えたくても着替える事もできない様子の女子連中がこちらを遠巻きからどうしたものかと言った様子で窺われていた。
 次の授業は体育で、この教室は女子が着替えに使う。
 その事実を漸くに思い出した蓮は若干気まずげに席を立ちながら一弥に向けてボソリと謝る。

「……悪い」
「いや、俺はいいんだけど早く行こう。女子の視線……っつーか、香純の視線が怖いから」

 ボソリと返してくる言葉に異議は無い。一弥の言葉に頷くと共に二人でそそくさと教室より脱出を図る。
 廊下に出るなり互いに一息。……なんと言うか、実に間の悪い時にやってくるおかしな日常の一コマのようなものだと蓮は思う。

「早く着替えに行こうぜ。……って言っても、今日の体育は何やるんだったっけ?」

 一弥の振ってくる問い、知るわけが無い。
 正直、体育の内容云々に余分な思考を避けるような余裕すら今の蓮にはあまりない。
 ……いや、待てよ。体育?
 思わず思い至ったその事実、去り際に教室をチラリと見回すがそこに櫻井螢とルサルカ・シュヴェーゲリンの姿は無い。
 あいつら次の体育には出ない心算なのか、それは何故と思うこと以上に先程まで考えていた問題に早くも答えを出す好機とも思えたのは事実だった。
 ならば蓮もまた取るべき行動は――

「……ん? どうした、蓮?」
「……悪い。ちょっと気分悪いから今日の体育休むわ」

 立ち止まったこちらを怪訝そうな様子で振り返ってきて尋ねる一弥に、蓮はそう言葉を返すと共にそのまま踵も返す。

「え……って、おい蓮!?」

 一弥が呼び止めるように何かを言ってきたが悪いが無視。
 今は一刻も早くこの場より離れて、そのままアイツを――櫻井螢を探し出す。
 もう巡ってくるかも分からない好機、逃すわけにもいかない。
 そう思っていたからこそ、蓮の歩みにもまた迷いはなかった。



 単純にどうして櫻井螢を選んだのかと問われれば、与し易そうだったからと答えるほかにない。
 一応は僅かながら会話を交わしたこともあるということ、そして同じ日本人という事実からも、そう構えることなく向き合えるかもしれないと考えたからだ。
 それに何より、先程廊下の向こう側へとその長い髪の端が消えていくのをチラリと確認できたから、という理由もまた大きかった。
 急いで追わねば見失う、そう思い彼女を追って廊下の向こう側へと渡りながらも、肝心の何と呼びかければいいか、その第一声に今更ながらも蓮は迷う。
 しかし結局、

「――櫻井」

 正攻法で行く以外に思いつかなかった。故にこそ、背後から名を呼んで彼女を呼び止めた。
 こちらの呼びかけが聞こえたのだろう、慌てた様子も無く平然とゆっくりと櫻井螢はこちらへと振り向いてくる。

「……おまえ、体育に出ないのか?」
「…………」

 話の切り出しと同時に正直に怪訝にも思っていた疑問。尋ねはしたものの返答は無言。
 まあそんな対応はある程度予期していたので落胆はない。何より眼前のこの女と友好を深めようなどという心算だって蓮にはない。

「サボるんなら、ちょっと付き合って欲しいんだけど」
「…………」

 切り出す本題。またしても相手は無言。
 その対応の様子に、こいつはいったいどういうつもりなのかと若干警戒を抱く蓮。
 けれど、ここまできて後には退けない。道は前にしかない、そんな意気込みで己を鼓舞しながらも蓮は諦めずに三度声を投げかける。

「なあ、聞いてる?」

 傍から見ればもしかすると物凄く間の抜けた光景に見えるのかも知れないと今更ながらに思いつつも、しかしもはやどうしようもない。
 下手なナンパと誤解でも受けそうな状況に、周りに誰もいなくて本当に良かったと今更ながらにズレた安堵を抱く。
 そんな蓮を見て螢、呆れたかのような小さな溜め息を一つ。
 どうでもいいが馬鹿にされているかのような反応だと、蓮は少しムッとしながらももう一度口を開こうとして、

「驚いた。……貴方、沢原君以上に大胆なのね」

 意外だわ、などと呆れた様子でそんな事を言って漸く口を開いた螢の言葉に阻まれた。
 引っかかる物言い、そう思いはしながらもしかしそれを尋ねるよりも前に櫻井螢の言葉は続けられる。

「だけど、ごめんなさい。せっかくのお誘いだけど乗れないわ。先約がある」

 つまりは蓮の誘いへの拒否。
 落胆だとかそういった感情以上に蓮がまず驚いたのは、

「先約? 学校(ここ)でか?」

 その相手が言ってきたその理由にこそあった。
 つまり彼女は人に会う約束があると言ってきている。しかしながら、彼女と交流を持っている一般生徒などこの学校内にはいないはずだ。一週間それとなく観察してきてそれは確信に近いものが蓮にはある心算だ。
 だとするならば、自然に考えられるのは生徒以外の誰かということ。教師や用務員その他だってまず除外していい。そもそも彼女と関わりのある者が一般人だとは到底思えない。
 ならば……

「……ルサルカと?」
「いいえ」

 消去法で至った当然とも思えた人物の名を挙げる。だがそれすらも彼女は否定する。
 ならば残る候補は――


『聖槍十三騎士団黒円卓第四位、ヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイだ。名乗れよ、ガキ。戦の作法も知らねえのか』


 ――脳裏へと過ぎったのは、あの夜に出会い高らかにそう名乗った白貌の魔人の姿。

 思わずゾクリとあの時の得体の知れない絶望的で理不尽な恐怖とその暴威を思い出し、身震いが起こりかけるのをギリギリで抑え込む。
 争い合っていたような記憶が確か残っていたような気もするが……しかしあの男と一緒に居たルサルカとこの女が共に行動している以上、この女もまたアイツの仲間である事は間違いないのだ。
 もし……もし、仮にアイツが今この学校に来ているとしたら――

「――安心しなさい。別に何をどうこうしようってわけでもないから」

 あの男を思い出し震えるこちらを察したように、螢の方からそんな言葉を蓮へと語りかけてくる。
 それを何処まで信用できたものかと不安を抱きながらも、しかし蓮にもまたどうすることも出来ないのもまた事実だった。
 そんな風に戸惑う蓮を意に介した素振りすらも一切見せぬまま、次に螢がこちらへと告げてきたのは蓮にとっては予期せぬ言葉でもあった。

「悪いけど、デートの相手なら彼女にしてもらってくれないかしら?」
「そういうこと。わたしで良ければいくらでも付き合うわよ」
「――――ッ!?」

 しまった、といつの間にか前後から挟まれる立ち位置となっていた事実に蓮は驚愕しながらも身構える。
 彼女たちに敵意があろうとなかろうとこういう事態は避けたかった。こんな連中、一対一でもキツイのに、二人一緒なんてそれこそ気が触れる。
 そう思いながらも、此処で襲ってくることがないことが分かっていても、蓮は警戒を解こうともせずに壁に背後を預けようとするようにジリジリと下がる。
 その様子を見て、ルサルカが呆れたように溜め息を吐きながら螢に向かって注意でもするかのように呼びかける。

「レオ~ン、あなた何言ったのよ? レンくんが緊張しちゃってるじゃない」
「私は何も。彼が緊張しているなら、それはあなたが原因でしょう。自分の行動を鑑みてみなさい。……正直、あれで好感を持たれていたら彼の正気を疑ってしまう」
「あー、酷いなぁ。何自分だけイイ子ぶっちゃってるのよ、感じ悪い」

 眼前で戯言を交し合っている人を装った異質なナニカたち。正直、どちらにしたって相手に緊張を抱かないでいられるなどという戯けた事が蓮にあるはずもない。
 こいつらは一体何者なのか、既に緊張というには度の過ぎた警戒の態度を見せて考える蓮へと振り向いたのは人外の片割れ。

「ごめんねぇ、レンくん。この子ってば、怖いでしょ? だからわたしとデートしましょ」

 ルサルカからの改めての誘い。けれど正直、怖さ云々などどちらに対しても五十歩百歩だろうと蓮は思っていた。
「…………」
「何よその顔、わたしじゃ不服ー?」
 こちらが黙って強張っている態度に対してそれを不満と判断したのか、年頃の少女のように頬を膨らませてそれに抗議を示してくるルサルカ。
 この少女の正体さえ知らなければ、その仕草もまた可愛らしいものなのかと思わないわけでもない蓮ではあるが……しかしそんな相手の擬態に惑わされるわけにもいかない。
「……いや」
 この一週間で見慣れたものとなりつつあるが、完璧に女子校生を装う彼女には初対面時とのギャップ差もあり未だに戸惑いを時に感じていたのも事実だ。

「ねえ、もう酷い事しないからさぁ……あの時の事は許してよぉ」

 可愛らしく嘆願するかのように言ってくるルサルカの態度。言動から害意が無さそうだと言う事は理解しているが……しかしその態度とて何処まで信用できたものか。
 否、決して信用してはならない。当然の事だろうがと蓮は自身へと言い聞かせる。

「許す許さないは置いといて、櫻井が駄目ならおまえでもいい。付き合ってくれ」

 ここで許さないなどと言った所で事態はややこしくなるだけ。
 それに迂闊に喧嘩を売れるような相手でもない。色々と半信半疑な疑いはこの際、置いておくとしてならば現状での最も妥当な行動へと移るべきだ。

「おいおーい、わたしはレオンの次ですか?」

 尤も、ルサルカ的にはその蓮の言い方に不満があった様子だが、それこそ知ったことでもない。

「あーあ、何で皆レオンばっかりに構うかなぁ。わたしの方がずっと優しく親切に応じてあげるのにさぁ」
「話が纏まったなら私は行くわよ。せいぜい彼を丁重に扱いなさい」

 ルサルカが充てつけのように口を尖らせて示す不満を一切無視した様子で、そう告げると共にこの場にもう用は無いといった様子で踵を返す螢。
 しかしその途中、思い出したかのようにルサルカの方へと振り向きながら、

「それからくれぐれも――」
「はいはい、軽挙は慎めでしょ? 分かってますよそれくらい」

 小言を面倒だと言った様子で遮るルサルカ。彼女の態度に螢は仕方が無いといった態度も顕に溜め息を一つ。

「じゃあね、レオン。あなたも少しここじゃあ可愛く喋るように気をつけなさい」
「そっちの方こそ、猫を被りすぎて滑稽な事に早く気づいた方がいい」

 最後に互いに軽く毒を含んだかのような応酬を交わし合いながら、今度こそ櫻井螢はそのままくだらげに頭を振って、踵を返して行ってしまった。

「藤井君も、よければまた誘ってちょうだい。待ってるから」

 去り際、黒髪を翻して進みながらもそんな言葉を残して。



「やーねぇ、あの子。ちょっと自分が最近モテてるからって態度が露骨に違いすぎない?」

 これだから差別主義者は嫌だ、などと呑気に言ってきているが他ならぬ彼女の方が筋金入りの外人嫌い(ゼノフォビア)だったはずだと櫻井螢から聞いたはずだったが。
 まぁそれ自体はどうでもいい。そんな態度で様子を再び一変させた明るいものへとしながら笑顔と共にルサルカは蓮へと誘いの言葉をかける。

「場所を変えましょ。こんな所で話しているとカスミ達に見つかっちゃいそうだし」

 それはそっちの方が色々と困るんじゃないのか、そう言いたげな態度で促がしてくるルサルカへと蓮もまた無言のまま首肯にて応じる。

「決まりね、じゃあ何処がいい?」
「……屋上」

 咄嗟に思いつき他人に見咎められずにすむ場所など蓮にはそこくらいしか思い浮かばない。
 今は授業中だし、先輩だって居ないはずだから。

「うーん、いまいちムードに欠ける選択ね。さてはあなた、まだデートに慣れてないな」

 しかしルサルカとしてはどうにもその場所は不満であるらしい。
 だがそもそも端からデートなどの心算も無ければ、ムード云々などと戯言を間に受けてやる心算だってない。
 それにあの場所は……自分たちにとっても思い入れの深い大切な場所でもあるのだ。
 已むなしとはいえジャンル違いの異物に踏みこませる事の方が、或いは蓮からしてみれば苦渋の決断でもある。

「しょうがない。だったらわたしが教えてあげます。ほら、腕、こうやって」

 しかしルサルカはそれでも調子に乗っているのか、まるで年上ぶったリードとやらでも見せると言いたげな態度でこちらに近付いて来ると共に、脇を上げるように指示してくる。
 ……腕でも組もうってのか? 冗談じゃない。

「あー、ちょっと待ってよ。一人で行くなんて冷たいよぉ」

 振り払いながら踵を返し、ルサルカを置いて蓮は進みだす。
 背後からそんな声と共に慌てた様子でルサルカが追いかけてくるのが分かった。
 しかし背後で喚いているルサルカの言葉をそのまま黙殺したままに、藤井蓮は階段を上る足を決して止める事もなかった。



[8778] ChapterⅢ-4
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 23:32
「それで用件は?」
「開口一番にそれとは随分な物言いじゃねえかよ」

 月乃澤学園敷地内の校舎外れ、一本の樹の陰で待ち構えていたかのように立っていたその男を確認するなり櫻井螢が切り出した言葉がそれだった。
 そんな彼女に対し男――ヴィルヘルム・エーレンブルグは多少呆れたとでもいった態度でそう返してくる。

「わざわざ私たちの管轄に、それも昼間から踏み込んできたんだ。それなりの理由があって来たのだろう?」
「別に。ただ散歩のついでに寄っただけかもしれねえぜ」

 よくそんな戯言が言えたものだと螢は内心で呆れる。
 陽光に満ちた昼の世界を嫌うこの男に限って、そんな戯けた事があるはずもないくらい分かりきっている。
 からかっているのか試しているのか……どちらにしろ、あまりいい気分にならないのは当然だ。

「何だ、怒ったのか? 存外に忍耐力の無え奴だな」
「おまえに言われたくはないな。……それで、本当に用件は何だ?」

 こちらとて暇ではない。狂人の戯れ事に一々付き合ってやる義理も無い。
 ましてや……

「おまえは此処では酷く異質だ。他の人間に気づかれたらどうする?」

 黒円卓の制服を纏った服装からもそうだが、何より目立つ外見以上にこの男は抑えていても内面に隠し持っている禍々しい気が大きすぎる。
 勘の鋭い者や敏感な者ならば、或いは気分の悪さからその存在を感じ取るということにもなりかねない。
 此処で面倒を起こされては色々と困るのは螢の方だ。であるからこそ、早々にこの男にはこの場よりお帰り願いたいのである。

「はン! 劣等のパンピーに気づかれるほど耄碌しちゃいねえよ。……それとも何か? てめぇ、俺がそんな間抜けだとでも舐めてやがるのか?」

 殺すぞ、と軽く毒づくように脅してくるそのヴィルヘルムの言葉を螢は平然と黙殺する。
 まぁ確かに腐っても黒円卓の一員。そうまで言うならそこまで間抜けでもないというのだろう。その言葉を一応、今は信じてやることにした。
 ならばこそそれはいい。問題は先の言葉通りの何故この男がわざわざこの場所にやって来たのかというその一点だ。

「そう尖るなよ、レオンちゃん。何も此処の連中に手を出そうって訳でも無え。確認したい事が終わったら、お望み通りにさっさと帰ってやるさ」

 俺だって好きで昼間から猿の群れの中になんざ居たくねえしな、などと侮蔑を込めて吐き捨てる彼の言葉に、ならばおまえの相棒のルサルカはその猿の群れで楽しんでいるぞ、とでも言ってやろうかと思った。
 けれど結局はその彼の言葉に対しても螢は無言。差別主義者の言い分に付き合ってやるほどに酔狂な性格をしている心算もない。
 そんな淡白な螢の態度をつれないとでも思ったのか、つまらないと言った様子で鼻を鳴らすヴィルヘルム。

「つまんねえガキだな。可愛げもないようなら猿としても終わってるぜ、おまえ」
「別におまえたちにどう思われていようと私には関係ない。……それとも、私に可愛げがなければ中尉殿には困る事があるのか?」
「ああ、あるね」

 そう言いながらニヤリと口の端を上げたヴィルヘルムは、そのサングラスの奥底にある赤眼を爛々と光らせながら、そっと楽しげに告げる。

「でないと、ぶち殺し甲斐が無えだろうが」

 それでは困るのだ、などと言ってくるヴィルヘルムの言葉に螢も初めて不快さを表へと表しながら目を逸らさずに相手に向かって問う。

「つまり、わざわざ喧嘩を売りにおまえは来たのか?」

 一週間前のあの日の夜、結局は決着が付かなかった戦い。
 不完全燃焼は互いに同じだとは思っていたが、それでも既に手打ちに終わってケリが付いた一件だと螢は思っていたが、どうやら相手はそうでもないらしい。
 つくづく血に餓えた狂犬。呆れと共にどう手間をかけずにいなしたものかと螢は考え始める。

「粋がんなよ、小娘。別に今日はそんなつもりで来たんじゃねえって最初に言っただろうが」

 尤も、そっちもやる気があるというのならば大歓迎だとヴィルヘルムは態度で誘ってきていたが。
 あの夜にルサルカから刺された釘、そして師からの言い分もある。
 何よりこんな場所で真昼間から戦闘を躊躇い無く行おうとするほど櫻井螢は狂人ではない。
 いずれ、もし互いに殺し合う以外に無いような道があるとするならばその限りでは無いが、今は心底気に入らないとはいえ好き好んでこの狂犬を相手にドンパチをやらかす心算すらもない。
 故に、その一件に関しては今は保留だ。

「……それで用件は?」

 結局は振り出しに戻るその問い。
 その言葉を聞いているのかいないのか、ヴィルヘルムはマイペースにその視線を木陰から校舎の屋上へと見上げるように移しながら問う。

「マレウスと話をしてるのはあの時のガキだな?」

 ヴィルヘルムの言葉につられるように螢もまたその視線を彼と同じように校舎屋上へと移す。
 常人ではとても視認出来るはずもない距離だが、しかし彼女の……そしてヴィルヘルムの眼もまた同じようにその姿を捉えていた。
 常人を遙かに超越した五感を有する聖遺物の使徒。故にこそ、彼らもまたその気になって耳を澄ましさえすれば屋上にいる彼らが何を話しているかくらいは聞こえてくる。
 そして恐らくは……

「……マレウスの野郎、こっちに気づいてて言ってやがらぁ」

 まったくこれだから女は、などと呆れを示すヴィルヘルム。
 趣味の悪さ云々を言えば、螢から見ればどちらも五十歩百歩でしかなかったが。




 藤井蓮がルサルカ・シュヴェーゲリンと対峙して尋ねたかった大まかな疑問は次の五つ。

 相手の正体。
 ツァラトゥストラの意味。
 仲間はいったい何処に居るのか。
 この街へとやって来た目的。
 そして――自分をどうするつもりなのか。

 それに対してのルサルカからの返答。

 自分たちは騎士である。
 ツァラトゥストラとは自分たちの仲間の代役、欠番要員のこと。
 ベイに限って言えば気紛れな奴なので分からない。
 自分たちはある約束を果たす為にこの街へとやって来た。
 此処を選びこちらが居たのは偶然であり、どうこうする心算もない。

 以上、端的に纏めた質疑応答の結果がそれであった。


 正直、分かったような分からないような、薄気味の悪い得体の知れない不安だけはやはり拭えそうにもない。
 肝心なところは何一つ分かっていないのだから仕方がないし、下手に地雷を踏みぬきかねない危険を考えれば、探りを入れようともこの辺りが限界である事は理解できる。
 だからこそ大事なのは、これから自分自身がどう動き、どう対処していくかだと藤井蓮は己へと言い聞かせる。
 屋上のフェンスに凭れて深呼吸。落ち着いて、そして覚悟を決める。
 現状での正しく認識すべき考え――決してやはり楽観視は出来ないという事実。
 だからこそ――

「ルサルカ」
「なぁに?」

 真っ直ぐに相手を真剣に見据えながら蓮は相手の名を呼ぶ。
 対峙し楽しげに微笑む赤毛の魔女は、決して崩す事の無い余裕の態度と共にこちらからの次の言葉を迎え入れるように待っていた。
 まるでこちらの度量を試すかのような相手の態度。気に入らないという以前に得体が知れない。
 恐ろしい、そういう気持ちが正直にあるのは事実。だがそれを今は抑え込む。

「おまえが……いや、おまえたちが……」

 脳裏に浮かぶのは己にとっての大切な人達。
 綾瀬香純。沢原一弥。氷室玲愛。
 そして名前もろくに憶えてもいないその他大勢のクラスメイトたち。
 しかし何であれ、その思い浮かんだ全てが蓮にとってはなくてはならぬ、求める既知の中での構成要因でもある。

「もし、此処で妙な真似をする心算なら……」

 だからこそ掛け値なしの大切なものであり、護らなければならないものだ。
 もしこの人外の連中がそれすらも脅かそうというのなら――

「――許さない、かしら? うふふ、本当に勇敢だよね。レンくんは」

 まるでそれを愛でるべきものだとでも言うように、先んじて言葉をかけてくるルサルカ。
 真っ直ぐに逸らす事もない視線と微笑みが捉えているのは、間違いなくあちらを睨んでいる自分だろう。

「あの時もそうだったよね。カズヤくんを守る為にベイを相手に立ち向かった。正しく男の子をしててカッコよかったよ」

 あの時の一件、どうやら相手側は相当に興味を持っていたのか、そんな風に褒めるかのように投げかけてくる言葉と態度に含まれていたのは興味と好意。
 しかし――

「でも――勝てない相手に挑むのが、勇気と言わないことくらいは分かるよね?」

 そう言葉と共に向けてくる微笑み。
 獲物を逃さず、捕食せんとする食虫植物。美しさと同時に棘と毒に満ち溢れた妖花の笑み。
 ゾクリと背中に走った怖気と共に理解する。
 月乃澤学園の制服を纏っていようと、今のこの女はあの夜に黒衣を纏って襲ってきたあの時と同じだと。

 相手が諭すかのように告げてくる言葉の意味。
 無謀、匹夫の勇、愚かな自己陶酔的行為。
 理解はしている。勝てない相手としか戦わない奴はただの腰抜けだが、勝てもしない相手に吠える奴はただの間抜けだ。
 藤井蓮はそれに当て嵌まるのか、と試すかのようにルサルカ・シュヴェーゲリンは尋ねてきているのだ。
 それを理解できている。だからこそ癪ではあるが蓮もまた安易には二の句を継げられないのだ。

「うん、あなたはそんな馬鹿じゃない。だからわたし考えちゃうのよ」

 楽しげに、興味深そうに、探るように。
 可憐な花を想起させる笑みではありながらも、その本質は獲物を逃す事は決してしないと淡々と狙いを定める猟犬の姿勢を保つように。
 こちらを覗き込もうとするようにルサルカは告げてくる。

「もしかしたら、勝てる算段があったりするんじゃないのかなぁ……てね」

 その言葉の真意――あの夜にルサルカの前で蓮が起こしてみせた行動。
 彼女と、そしてカズィクル・ベイの知覚からすらも捉えさせずに沢原一弥を死の凶腕より救ってみせた芸当。
 そしてそれだけでなく、あろうことか――

「ねぇ、レンくん。もう一度だけ訊きたいんだけど……本当に君はメルクリウスとは無関係?」

 あれだけの手際、火事場の馬鹿力などという陳腐な表現だけでは片付けられない。
 何より常識の枠組みより不在したはずの自分たち聖遺物の使徒に手傷を負わすことが出来たというその事実。

「君はどうやってエイヴィヒカイトを身に着けたの?」

 齢三百に近しい魔導に生きた魔女の勘が告げている。
 この少年にはきっと何かがある。……いいや、何かがなければおかしい。
 ベイは猿の血しか流れていない外れと言ったが、しかし本当にそうなのだろうか?
 この少年こそがやはりツァラトゥストラではないのか?
 魔女は思う。知りたいと、暴いてみたいと。
 だからこそ――


 尋ねる魔女が覗き込むように合わせてくる視線。
 何故だろう、それを見据えていると寝不足がぶり返してきたとでも言わんばかりに段々と意識が呆然と遠くなっていく。

「……俺は……」

 自分の口がまるで自分の口ではないように。勝手に言葉を紡ぎ出そうとでもしているかのように……

 だがそんな中で――

 ――エイヴィヒカイト。

 キーとなっているかのようなその単語が急速に彼の呆然とした意識の中で制止をかける。

 二度目となるその言葉。
 あの日、あの夜、あの得体の知れない声が自分へと囁いてきたその言葉の意味。
 それを操る存在こそが、眼前の少女を含めた連中であり、そして自分だと。
 声は同時に告げてきていた。ツァラトゥストラ、声の主の後継となるべき存在こそが自分であり――

『彼女を憎み、彼女を愛せ。彼女を護り、彼女を壊せ』

 珊瑚の首飾のように首に見えるは斬首痕。金紗の髪に紺碧の眼。
 血を渇望する呪われた歌を歌う斬首台の姫君。

「――――ッ!?」

 彼女という悪夢の中で出会った存在。
 それを受け入れるように求めた魔法の言葉。契約の証。



『Verweile doch, du bist so schon.
時よ止まれ――おまえは美しい 』



 そして声に導かれて覆して見せたあの奇跡。
 あれは――


「……そんなもの、知らない」

 考えるな、思い浮かべるな。
 知ろうとするな、踏み入れるな。
 そうすればきっと戻れなくなる。加速度的に狂気は増して、己の願う日常を破壊してしまう。
 だからこそ、それを認めてはならない。
 拒絶、拒否、ただそれを答えと示すように搾り出した声と共に、幼い外見とはアンバランスな妖艶さで誘う魔女の詰問を振り払う。

「……あら、存外に頑固なのね」

 失敗しちゃった、と軽く悪戯めいて舌を出す素振りを見せながら残念そうに引き下がるルサルカ。
 ハッとなって気づいた事態、一体何をこいつはしようとしていたのかと慌てて距離を取る。

「やっぱり意志が固いよね、レンくんは。軽い魅惑(チャーム)を使ってみたんだけど、どうやら失敗しちゃったみたいね」

 ごめんね、などとふざけた言動を見せてくる魔女に、危うく手篭めにされかけていたのかと気づき、益々ゾッとすると共に蓮は警戒しながら後ずさる。

「ごめんごめんってば。もうしないから許してよぉ」

 そんな蓮の態度に悪かったと言った様子で謝ってくるが、これとて恐らくは擬態。油断してはならない。
 油断をすればそれこそ即座に先程のような状況になりかねない。
 ……やはりこいつらは危険だ。

「あーあ、失敗したなぁ。すっかりへそを曲げられちゃった」

 こちらのそんな態度が残念だと言わんばかりの口振り。あんな事をしておいてよく言えたものだと蓮は非難を込めた視線で睨み返す。

「ホント、ちょっとだけ詳しく教えてもらいたかっただけなんだけどなぁ。……けど、初歩の魔術とはいえ弾いちゃったって事は、やっぱり君、ひょっとしたらひょっとする?」
「……知るか」
「つれないなぁー。機嫌直してってば」

 あちらの言っていた己は魔女だとか言う戯けた言い分。しかしそれこそ先程のあれを鑑みるにひょっとしたら本当のことなのかもしれないと改めて思う。
 ヴィルヘルム・エーレンブルグの人間離れした怪力。櫻井螢も確かに同様のものを見せていた。
 それだけではない。あいつらは確かどうやったのか得体の知れない異形の武器を何も無い場所から唐突に出して見せるなんて芸当すらも行っていた。

 偽物(トリック)ではない本物(マジック)。

 こいつらが扱っているものが本当にそうだとするなら、あれが連中や声の主が言っていたエイヴィヒカイトとやらだとするなら……

(……ッ! だから今は考えるな!)

 論点がずれている。大事なのはそこではないだろうと脱線した思考を振り戻す。

「ねぇレンくん。もう何もしないからさぁ、一つだけ訊いてもいい?」

 再びのルサルカからの言葉。相手の眼を見ないように逸らしながら、ふざけるなと怒鳴り返してやろうかと思った衝動を必死になって抑える。
 そうこうしている内に、ルサルカはこちらの様子など気にした素振りすらも見せぬまま、勝手にその質問とやらを尋ねてくる。

「あなた――――自分はここで死ぬ人間じゃない、とか思ってる?」

 その問い、思わずドクンと心臓が一際高く鳴り響いた。
 その質問は初めてではない。何故なら――


『まるで自分が死ぬはずなんてない……俺がてめぇを本当に殺せねえとでも確信してるような面しやがってよぉ』



 あの夜、ヴィルヘルムというあの男が怒りと共に言ってきた言葉とまったく同じもの。
 今になってあの時のあの男と同じように、この女までもがそんな指摘をこちらへと向けてくる。

「何ていうのかなぁ……あなたの目から見える確信っていうか自信? それがそう言ってるようにも見えるのよねぇ。それこそ――」

 ――あのメルクリウスみたいに。

 そう告げてくるルサルカの笑みは、しかし今までのものとは一線を駕した別種のもの。
 それこそ、あの夜に自分へと向けてきたあの恐ろしいソレとまったく同じだ。

「……ああっといけないいけない。我慢我慢……そうよね、あなたは違うんだものね? だったら抑えなきゃ駄目よね」

 そうは言って自らを両腕で抱きしめながらも、それはまるで今にもこちらへ襲い掛からんとしているのを必死に抑えているかのようにも見えた。
 ……否、あの妖花は今理性をもってこちらを捕食しようとする欲求を抑え込んでいるのだ。
 陽光に照らされて映る彼女の影は、まるで気味の悪い錯覚のように異形の形で蠢いている。
 知らず後ずさる……が、背中に当たるフェンスの感触が逃げ場など無いとも告げてきていた。
 凡そ一分近く、早鐘を打つ心臓の警戒に従うように身構える蓮とは対照的に、深呼吸を繰り返しながら自らを落ち着かせようとするルサルカ。

 やがて……

「……何とか落ち着いたかな。ごめんね、怖かったかな?」

 先程までの恐ろしい笑みとは打って変った明るい笑みと言葉。
 見れば異形の怪物めいて映っていた彼女の影もまたそれが幻であったかのように元に戻っていた。
 押し潰されるかとも思えた圧迫感からの解放に、無意識の内に蓮の口から安堵の息が漏れていた。

「本音を言えばね、わたしはあなたとだって仲良くしたいのよ」

 だってあなた可愛いいもの、などと言って浮かべてくる笑みは歳相応とも思わずに蓮にも思わせるものであった。
 しかし……

「けどね、やっぱりあなたの事がまだ良く分からないのも事実だし」

 白なのか黒なのか。強いのか弱いのか。
 本当にメルクリウスの代理なのかそうでないのか。

「だから、俺は……」
「安心して。レオンに合わせてあげなくちゃならないし、おかしなこともしないわ」

 ただし、そう区切りながらこちらに背を向けて彼女は歩き出す。
 思わず去ろうとしているのかと呼び止めようとする蓮。
 しかしルサルカはそうするまでもなく一度だけ振り返ると共に告げてくる。

「でもねぇ、わたし……もう昔とは違うんだよ。今ならザミエルにもシュライバーにも、マキナにだって負けやしない」

 それだけのものを積み重ねてきた、その自負があるとでもそれは言いたげな態度だった。
 言っている言葉の意味が分からずに戸惑う蓮を、しかし彼女は考慮した様子も無いままに再び例の笑みを見せながら告げてくる。

「だからあんまり甘く見てると――食べちゃうからね」

 影が再び少女のものとは思えない異形の形となって伸びてくる。それが蓮の背をつけているフェンスの真横に切っ先が触れたかと思った瞬間、急激に引っ込んでいく。
 驚いて目で追う蓮が確認できたのは、しかしいつの間にかまた普通の形へと戻っていたルサルカの影だけであった。
 いったい先程のあれは何だったのかと尋ねようとする蓮を遮って、

「じゃね、また教室で会いましょう」

 再び擬態であろういつもの明るい態度へと戻ると同時に、そのまま呼び止めるこちらを無視して屋上を去って行った。



「……冗談だろ」
 仲良くしたい? 馬鹿げている。
 呆然とルサルカを見送る他に無かった事実の中で彼女が残していった言葉の意味を反芻しながら、ふと蓮は先の異形の影が触れたであろうフェンスの金網部分へと視線を向け――絶句する。
 見れば、さっきの影に触れられていた部分だけがボロボロになっていた。まるで数十年の歳月が経過したとでも言うように、掴めば錆びごと崩れていく。もうフェンスとしての役割も果たせまい。
 またしても蓮の理解を超えた超常の現象、その痕跡。
 ……もし、もし仮にルサルカがこれと同じ事をクラスでやったとすれば――

「――ッ!?」

 脳裏に浮かぶ最悪の光景を無理矢理に頭を振って振り払う。
 それは……それだけは何としても阻止せねばならないことのはず。
 だがそれをどうやって…………?

「――くそっ!」

 脳裏に一瞬でも過ぎったふざけた考え。
 いっそのこと、自分もまたあいつらと同じだったら良かったのに――
 ふざけた考えだ。認めるわけにはいかない。それこそ己が嫌う日常からの逸脱だろうに。

「……俺は、化物じゃない。メルクリウスだのツァラトゥストラだの……知らない」

 そんなものはジャンル違い、無関係だと必死に言い聞かせる。
 飲み込まれるな、逸脱するな、認めようとするな。
 考えろ、頭を使え、別の何か手段をもってあいつらを排除する方法を見つけるんだ。
 ……だが、どうやって?

「……ちくしょう」

 ずるずると力なく、蓮はそのまま座り込むと共に、大の字を描くように倒れこんだ。
 見上げる十二月の青空は、肌寒い気温とは打って変って澄んだものだ。
 可能ならば、大切な者達と共にあの空の向こうにまで逃げ出してしまいたい。
 そんな到底ありえるはずもない願いを柄にもなく抱きながら、蓮はいつまでも悔しげに憎らしいまでのその青空を見上げ続ける他に無かった。



「前から思ってたんだがよ、あの馬鹿、何であんなに口が軽いんだ?」
 理解に苦しむといった様子で嘆息するヴィルヘルムの言葉に、櫻井螢はさあなと胡乱な態度で首を振る。
 正直、付き合いの長さでは自分などより遙かに長いであろうそちらが分からない事が自分に分かるはずもない。

「よくもまぁ次から次にペラペラ……あれで拷問の専門家ってんだから、信じられねえよな。そう思うだろ?」
「…………」
「おい、レオン。おまえ俺の話を聞いてるのか?」

 沈黙を保ち聞き流すこちらの態度が気に入らないと言った様子で執拗に話を振ってくる男へと螢は仕方なさげに口を開く。

「……ああ。それで? そろそろ本題に入りたいのだが」

 お互いこんな場所で愚痴や雑談、世間話を交し合うような仲でもなければそんな暇な身分でもない。
 現状すらも茶番に等しいと螢は感じているのだ。ならばこそ尚更にさっさと話をつけてしまいたい。

「がっつくなよ。なんだてめぇ、俺と話をするのも嫌って言いたげだな」
「否定はしない。だが必要な案件に関わっているというのならばその限りでもないさ」

 それは言外にだから余計な事はいいから早く話せと急かしているのも同じだった。
 本当に可愛げのない小娘だ、とヴィルヘルムはつまらなさ気に鼻を鳴らしながら、背中合わせに凭れかかっている樹から少しだけ姿勢を正して告げる。

「二・三日中にシュピーネの奴がやって来る。おまえ、あいつと会ったことはあるか?」
「五年前に一度だけ。あまり好きなタイプじゃない」

 ロート・シュピーネ。
 本名は不明。本人曰く、捨てたらしい。
 黒円卓の十位に座する言うなれば同胞だが……当然のこと螢にとってはあまり良い印象も無い相手である。
 人外羅刹の魔人が集う黒円卓の中ではそれ程目立つ人物ではないが、その座に連なる事実の通りに狂人であることだけは間違いない。

「おまえの好みなんざ訊いちゃいねえよ。好かれたくもないだろうしな」

 馬鹿にするかのようなヴィルヘルムの言い分。だがそれはこちらも同じ事だと螢は思う。
 黒円卓などという最悪の集団の中で、それでも彼女が好意を持つ事が出来た人間など今も昔も二人だけだ。それ以外の連中など、正直に言って本来ならば関わり合いにすらなりたくない。

「とにかく、昔の伝手でそのシュピーネにあのガキの事を調べてもらった」

 ヴィルヘルムからの説明。シュピーネを介した調査によるその結果――白。
 彼――藤井蓮はその家系を見る限りでも黒円卓……否、メルクリウスに関わっている可能性は低い。

「…………」
「はン、仲間が増えると期待でもしていたか?」
「……別に」

 そう、そんな事は別にどうでもいい。敢えて言えば彼にとっては幸運だったのだろうとそう思う気持ちがある程度。
 根本からイカレタこんな連中でもあるまいに好き好んで人間など辞めるものではない。
 ましてや……

『おまえらがあいつらに危害を加える心算だって言うんなら……容赦しねえ』

 ああして繋ぎ止めてくれる拠り所が残っている内は。
 櫻井螢から見れば藤井蓮の境遇はまだ恵まれていて、そして救いがあるとすら思えた。

「それよりも、らしくなく勤労だな。彼からは興味を無くしたんじゃなかったのか?」
「あの場では、な。俺を相手にやる事やってくれた獲物だ。あのクソ野郎とも繋がっているのかと思えれば捨て置くなんてするわけねえだろ」

 獲物は絶対に逃がさない。必ず喰らいつき、仕留めるまでその爪牙を突き立てることを決して止めはしない。
 改めて思う。この男は生粋の猟犬だ、と……。

「だが結果的にあいつはメルクリウスの代理じゃなかった。期待値が下がっちまった事実は否めねえな」

 そう言いながら木々に凭れるヴィルヘルムが見せているのは言葉通りの落胆。
 まるで彼こそがツァラトゥストラならば文句は無かったのだが、とそれは言いたげでもあった。
 それを少し妙だと螢は思う。

「どうして彼が違うと言い切れる?」
「あのガキはゾーネンキントの枝じゃねえ。だったらメルクリウスの野郎が関わっている確率は限りなく低い」
「……だが、必ずしもゼロではないだろう?」

 螢の続くその問いにヴィルヘルムは呆れたような溜め息を露骨に吐いてみせる。

「おまえ、あのハエ野郎の弟子のクセしてあのクソ野郎の事は何も知らねえんだな」

 やれやれだ、とまるで馬鹿にされたかのようなその態度に螢は若干不快気に眉を顰めながら反論する。

「マスターから話を聞いてその人物像は凡そだが把握している心算だが?」

 螢が告げたその言葉を聞いた瞬間、ヴィルヘルムは身を振るわせ始めたかとも思えばその直後には高らかと笑い声を上げ始める。
 まるで最高の冗句を聞いたとでも言わんばかりに……実際、ヴィルヘルムにとってはその通りだったが。

「把握? 今、把握って言ったのかお嬢ちゃん? こりゃあ傑作だ。あのクソ野郎と面識すらないおまえが、四半世紀も生きちゃいない劣等が、あいつの事を把握している?
 くくく、かははははは――――アホかてめぇ」

 吐き捨てるように告げたその言葉、それに込められていた感情は限りない憤慨と侮蔑だった。
 粘性を帯びたかのような暗い底の知れない奇妙な感情。
 屈折した嫉妬、許す事のできない恥辱や屈辱。
 それに何より――

「あの化物の事を把握するなんて、理解するなんて誰にも出来やしねえよ。俺もマレウスもクリストフも、シュライバーやザミエル、マキナだってそうだろうさ。
 ……あの人、首領以外の誰にあんな化物の事が許容できるかよ」

 それはてめぇのマスターでもきっと変わらねえぞ、と吐き捨てるように告げるヴィルヘルム。
 並外れた底の知れないイカレ野郎。存在そのものが自分たちにとって禁忌も同じ。
 だからこそ認めてはならない。だからこそ許してはならない。
 聖槍十三騎士団副首領、黒円卓第十三位、メルクリウスとはそんな存在なのだとヴィルヘルムは告げてくる。

「……おまえにそこまで言われれば、おしまいのような気もするが。
 我らが副首領閣下は日本人がお嫌いだったのか?」
「いいや、強いて言うならみんなだ。……けどそこら辺はアルベルトゥスの奴にでも訊けよ。あいつの方が嬉々として語ってくれるだろうさ」

 一々何度もあのクソ野郎の価値観を語りだして不快にはなりたくないという、それはヴィルヘルムからの拒絶。
 色々と腑に落ちないし気にはなりはしたが……まぁ蜂の巣を突く行為と変わらぬ危険な行いをしようと思えるほどに螢とて酔狂ではない。
 故に、この話題に関してはこの場では保留としよう。

「それで、私にそれをわざわざ教えてくれる為に此処に来たのか?」
「まさか。これは前振りで俺がてめぇに確認したいことがあったから来たに決まってるだろ」

 でなければこんな猿臭い場所になど来るものかと吐き捨てるヴィルヘルムに、螢は無言のままならば相手に用件は何なのかと態度で促がす。

「レオン、おまえツァラトゥストラが誰だか知ってるんじゃねえのか?」

 切り出してきたその本題。しかし螢はその表面上にはおくびにも動揺の素振りすら見せずにただ流す。
 裏腹に脳裏に思い浮かべたのはあの路地裏で見えた血に塗れた綾瀬香純の姿。
 藤井蓮がメルクリウスと関わっている可能性は低いとヴィルヘルムは断言した。ならば彼の幼なじみである綾瀬香純も同じではないのだろうかという疑問。
 だがどちらにしろ、彼女に関してはその情報を伏せておくのが師との間に交わした契約だ。故に真偽はどうであれ……

「それが分かっているのならば、とっくに猊下に報告しているだろう」
「本当か? てめぇもアルベルトゥスもクリストフと同じで俺らに何か色々と伏せてるだろ? 隠してるつもりか知らねえが気づいてんだよ」

 下手なカマかけだ。気づいていると言うのならこの男がこんなまどろっこしい質疑応答をするはずがない。
 何かしらの情報の断片を仮に嗅ぎ取っていたとしても、確証までは得ていないはずだ。そうでなければわざわざお伺いなど立てるまでもなくとっくに勝手に動いている。
 そう判断したからこそ、螢はヴィルヘルムの言葉の揺さぶりには乗らない。

「私はお二人より命じられた任務を遂行しているだけだ。邪推されても困る」
「……あくまで白状する気はねえ、と?」
「そもそも白状するような秘密もないがな」

 のらりくらりとヴィルヘルムの追求を躱す螢。埒が明かぬと悟ったのか、その様子に不快気な舌打ちを顕につくヴィルヘルム・エーレンブルグ。
 サングラスの奥の赤眼が敵意にも近い剣呑な光を垣間見せながら睨みすえてくる。
 しかしそれでも螢はそれから逃げようともせずに、逆にその苛烈な眼光を相手に睨み返す。
 凡そ一分近く互いに無言のままそんな状態が続いたかと思えば……

「……チッ、強情な猿だぜ」

 忌々しげな舌打ちと共に先に視線を逸らしたのはヴィルヘルムの方であった。
 こちらからは何も聞き出すことは出来ない、どうやら漸くにそう判断を下したらしい。

「……無駄足だったか。まぁいいさ。レオン、おまえやアイツが何を隠していようが知ったこっちゃねえし、もう面倒だから好きにすりゃあいいさ」

 だがな、とそこで一度言葉を区切りながら……しかしその身より突如発するのは先ほどまでの抑えていた状態の比ではない禍々しい圧迫感。
 それが相手からの威嚇であり警告である事を螢は瞬時に理解する。

「俺たちの……いや、俺の戦争につまらねえケチだけは付けるなよ。ツァラトゥストラもあのガキの始末も、スワスチカの解放だって俺は進んでやってやるさ。だがだからこそ、その俺の楽しみにもし汚え手で横合いからチョッカイ入れて見やがれ、おまえ――」

 ――吊るして曝して嬲って啜って殺してやるよ。

 同胞殺しの禁忌など関係ない。誓いの聖痕が我が身を燃やし尽くそうが知ったことではない。
 気に入らない、許せない、生かしてはおけない。
 だから殺すと、そう有言実行の宣誓じみた相手からの言葉に表面上は努めて冷静さを保ちながら、螢は鼻を鳴らして黙殺する。
 それどころか逆に、

「それがおまえのハイドリヒ卿への忠誠か?」

 精一杯の不敵さで舐められてたまるかという態度と共に逆に問い返す。
 そんな螢の気概をヴィルヘルムはどう評価したのか、楽しげに喉を鳴らしながら昏い笑いを上げてくる。

「そうとも。だが勘違いするなよ、レオン。あの人は俺たちなんか目じゃねえくらいに恐ろしい。不手際晒して逆鱗に触れてみろ……死んでも逃れられない後悔と恐怖ってやつを味合わさせられるぜ」

 それはきっとこの世の終わりすらも超えた恐怖だろうさ、とヴィルヘルムは笑い続ける。
 だがそれを見ながら同時に螢もまた察する。その強気と何処か誇らしげに語る様子の裏側に隠されているであろうその感情を。

 ……即ち、絶対的な畏怖。

「ハイドリヒ卿はそれ程までだと?」
「当然だ。あの人はヤバイ、掛け値なしにヤバイ。俺は首領以上に恐ろしい存在を知らねえよ」

 あの人に比べればザミエルもマキナもシュライバーすら可愛く見える、そうヴィルヘルムは確信を抱いているかのように断言する。

「悪魔……そう、あの人もメルクリウスとはベクトルの違う化物さ。さしずめ、愛すべからざる光の君」

 彼ら人外の魔人たちを束ねる長。最強の魔人。
 副首領が団員たちにとっての嫉妬と憎悪の対象であるとするならば。
 首領は絶対の畏怖と忠誠を捧げるべき対象なのである。
 故にこそのかの称号。

「メフィストフェレス……首領の称号は知っているさ。ならばファウストは?」

 破滅に導く願いを叶えるかの悪魔が彼だとするならば、その契約を結ぶべき対象とは誰なのか。

「この街そのものさ。契約は既にあの時にベルリンで首領とメルクリウスが交わしている。証拠に見ろよ、この街を。これは俺たちのお蔭なんだぜ」

 捧げられる供物の祭壇そのものたるこの街。住民たちはそこにくべられるべき贄。
 そもそもこの街とはただその為だけに成り立った存在なのだから。

「あとは悪魔が出やすいように、地獄を作ってやればいいのさ」
「こんな風にか」

 ヴィルヘルムの言葉に応えるように、螢はその背を預けていた樹の幹を拳で軽く叩いた。
 瞬間、その樹皮がまるで臓腑のように奇怪な蠢きを見せたかとも思えば……それも直ぐに治まった。
 一瞬の怪異。余人が目撃しても目の錯覚かと思うような光景。
 しかし櫻井螢は理解している。この現象が齎している影響の有無を……。

「おまえが何に興奮するのも勝手だが、自重しろと言ったのを忘れないで欲しいな、中尉殿。ここは私とマレウスの領域だ。……侵すなら、それなりの覚悟をしてもらうぞ」

 先程の燃え滾る炎のようなヴィルヘルムからの殺気混じりの警告とは対照的な、しかし静かに熱を発し続ける炎のような、それは螢から彼に向けての警告だ。
 しかしそれを受けてもヴィルヘルムに動揺はない。むしろ嘲笑うように鼻を鳴らして切り返してくるだけであった。

「吠えんなよ、小娘。俺はなぁ……どうにもおまえが此処をスワスチカとして開くとは思えねえんだよ」
「つまり、それは私を舐めていると?」

 その程度の事もこなせない無能とでも認識しているということか。
 そう睨み返す螢にヴィルヘルムは嗤いながら首を振る。

「何、老婆心さ。俺もマレウスも歳だからなぁ、こんなトコにゃ何の感慨も湧かないが……おまえは違うだろう、螢ちゃんよ」

 お似合いじゃないか、その格好。可愛いぜなどと明らかなからかいを込めて嗤い続けてくるヴィルヘルムの言い分を螢は努めて黙殺する。

『学校はどうだね、螢?』

 ……まったく、どいつこいつも揃いも揃って戯言ばかりを。
 ああ、自分のような者がこんな分不相応な立場を任務といえど享受している。人でなしの魔人どもからみれば、さぞ滑稽な酒の肴であろうさ。
 道化と嗤いたければ嗤え。他ならぬ自分自身にとてそんな自覚くらいはある。

「普通に生きて、恋して遊んで泣いて笑って純愛感動青春万歳……低脳な劣等どもが喜びそうな飴玉だらけの箱じゃねえかよ。おまえの憧れだろうがよ」

『今の内に楽しんでおくといい。君にとっては得難く貴重な経験だ』

 ああ、煩わしい。そうとも、言われなくても分かっているさ。
 実際、ここは甘くて温い。ヴィルヘルム・エーレンブルグの言葉通り、櫻井螢からしてみれば飴玉だらけの箱だろう。
 螢がどれ程願おうが手に入れることの出来なかった、諦めて捨てる他にはなかった……そんな憧れ。
 ヴィルヘルムの言葉は正しい。ヨシュアの言葉もまた同様。
 一時の戯れ事、手に入りはしない得難き貴重な経験。
 平穏な日常。
 だが――

「だからよ、体よく夢見てたいならそう言いな。俺が代わりに猿の血で我慢してやるからよ」

 そう言いながらもヴィルヘルムが見せているのは優しさなどではない。
 むしろこれは試している事と何ら変わらない。
 黒円卓に連なる魔人として、獣の軍勢……それを名乗るに相応しき非情さを、覚悟を本当に持っているかという試験。
 分かっている。理解している。……ああ、だからこそ、

「くだらないな」

 吐き捨てるかのように冷たく一言。そして螢は一歩踏み出し前へと出ると共にヴィルヘルムへと振り返った。

「私をからかうにしろ、言葉は選べ。以後、侮辱は許さない」

 小娘、劣等、新参、どのような言葉をぶつけられ嘲笑われようがそんな事は気にもしない。
 だが櫻井螢が人から魔人に堕ちてでも、それでも取り戻すと誓ったその決意と覚悟。
 これを馬鹿にされる事だけは我慢ならない。
 飴玉の詰まった箱のような居場所。
 平穏な日常。
 憧れた青春。

 だが――――それがどうした?

 櫻井螢が櫻井螢として取り戻さなければならないものに比べれば……否、比べるなどと同じ天秤にかけること自体がおこがましい。

「私が奪って、私が取り戻す……それ以外のものに価値などありはしない」

 ありもしなければ見出す心算すらもない。
 その他全ては無価値な塵芥も同じ。そんなものに感慨を抱く心などとうに殺した。
 櫻井螢はもう十一年も前にそうやって人をやめた……魔人だ。

「ほぉ、余計なお世話か。ならおまえ、分かってるよな」

 櫻井螢のその返答に初めてヴィルヘルム・エーレンブルグは劣等や新参、小娘という評価ではなく、黒円卓の同胞として相応しいものかを試すような笑みを向けながら告げてくる。

「愚問が好きだな、それとも頭が悪いのか」

 くだらない、度し難い。ヴィルヘルムもヨシュアもルサルカも、藤井蓮も綾瀬香純も沢原一弥も、その全てが総じて今は癪に障る。
 そんなに自分にしがらみとやらを見せつけ、試したいというのならば見せてやる。己の覚悟を。進むべき道を。
 そして……

「時よ止まれ、汝はかくも美しい――そう言わせてほしいんだろ? いくらでも言わせてやるさ。あまり甘く見るなよ、この私を」

 誓いの契約、魂を捧げる事を悪魔と約束するその言葉。
 先程、ヴィルヘルムはこの街の全てがメフィストフェレスと契約を交わしたファウストだと言った。
 だがそれは自分たち……かの黄金の獣の下僕たる自分たち聖槍十三騎士団もまた同じ。
 その一員が示すべき姿と覚悟を、彼女もまた疑い深い同胞へとこうして見せ付けてやっただけに過ぎない。

「面白ぇ、二言はねえな東洋人?」
「誓って欲しいか、自称アーリア人?」

 試す言い分のヴィルヘルムの言葉に螢が返す言葉もまた、逆にこちらから試すかと言わんばかりの返答。
 ふてぶてしくて身の程知らず。命を投げ出す馬鹿者のそれは態度。

「はは、はははは、ははははははは」

 だが気に入った。中々に面白い。
 無駄足かとも思った散歩も、小娘の存外に退かぬ覚悟とやらを見られたのならば日の光の中でもわざわざ出てきた甲斐もあった。
 ……ああ、そそるぜ。レオン。
 今のおまえなら、それなりの喰いで甲斐がありそうだとヴィルヘルムは嗤う。
 おぞましい彼の嗤いに反応したのか、辺り一帯の小鳥たちが恐れをなしたように慌てた羽音を鳴らしながら一斉に逃げるかのように飛び立っていく。

「そうかいそうかい、こいつはいいぜ。せいぜいマレウスに先越されんなよ」

 最後に、そんな毒にも満たない戯言を一つ螢へとヴィルヘルムは告げてくる。
 その直後、陽光が雲間に隠れたその一瞬の内に、既にヴィルヘルムはその場から消えていた。
 探るまでもなく、気配が急速に遠ざかっていくのを螢は確認する。
 勝手にやって来たかと思えば、勝手に去っていく。本当に勝手な人物だ。
 やれやれだと呆れと苛立ちを半々といった混合具合の溜め息を一つ吐きながら、彼女は静かに呟いた。

「癪に障る」

 この宛てつけられたかのような現状そのものに苛立った、それは一言だった。



[8778] ChapterⅢ-5
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 23:34
 藤井蓮の様子がおかしい。
 それは今更に改めて述べるまでもなく、日に日に彼の様子を追っていけばどう見ても明らかだった。
 あの夜以降、睡眠不足にでも悩まされているのか見ていて顔色がよろしくない。辛抱たまらず何度かそれに対して忠告してみても、

 ――心配要らない。大丈夫だ。

 そんな態度の一点張り。それは明らかに一人で無茶を押し通そうとする時の藤井蓮の悪い癖。
 だからこそ止めなくてはならない。それこそ無理矢理にでも休ませなければ……そう思っていたのだが……

「それも拒否された?」
「……はい。まぁそんなところです」

 氷室玲愛の事実確認に沢原一弥は力無い苦笑を浮かべながら頷いた。

「それで喧嘩になっちゃって、一緒に居ると気まずいから一人で逃げ帰ったと?」
「……いや、単なる口論ですから喧嘩って程じゃないんですが……」

 それでも口喧嘩は口喧嘩か、と玲愛の身も蓋もないその指摘を肯定して一弥は受け入れた。
 いつかの、あの神父がやって来た日と同じように放課後にバッタリと出会って帰り道を同道しているという現状。

「ナイトは要りませんか、なんてそんな恥かしい誘いは初めて受けたよ」
「……半ば冗談で言った心算だったんですけどね。それにナイトになれって二度も言ってきたのは先輩の方じゃないですか」

 自分からはいいのだが、相手から言ってきたらからかうとか……本当に彼女も中々良い性格をしていると思う。

「だからお姫様役を買って出てあげているよ」
「……はい。涙が出るほど光栄ですよ」

 色々と世知辛い意味合いでの涙だったが。兎角、この姫君は心を抉る一撃が鋭過ぎて困る。
 尤も、それを進んで受け入れているに近い身にも思えるが……

「前から思ってたんだけど、沢原君ってM?」
「……なんか最近それを否定できない自覚が芽生えかけてきてるのが哀しい限りです」

 確かに、もしかしたらこんなナイーヴな時に彼女の毒舌にどこか癒されている自分はマゾヒストなのかもしれないと一弥自身も思い始めていた。
 玲愛はそんな自分の溜め息を吐く返答にどう思ったのか、若干だがこちらを見る目を変えたかと思えば、

「……そのさり気に距離取られて歩かれるのって傷付くんですけどね」

 まぁいいですよ俺は変態で、そんな自暴自棄に近い溜め息を吐きながら鬱な気分は益々に広がっている。
 並んで帰宅の途に就く放課後。氷室玲愛を再び教会にまで送り届ける役目を自らに課した状況でふと思った。
 今頃やはり蓮は香純の放課後練習に付き合っているのだろうか、と。
 正直、今の香純から離れるのは危険だし、蓮を放っておくことも出来ないと思っていたのだがつい先程他ならぬその蓮から、

 ――おまえに気遣ってもらわなくても間に合ってる。

 などとそんな拒絶を受けたばかりだ。
 あまり構いすぎてもうざったがられるだけ、過度な干渉は相手の望むべきものでもない。
 時には距離と時間を置く事も必要か、そう自分に納得させる言い訳のように何度も言い聞かせた後に今に至る。
 ……無論、それでも下校したのは櫻井螢とルサルカ・シュヴェーゲリンが下校したのを確認した後に、だ。
 彼女たちが本気になって蓮たちに手を出し始めれば、たとえそれを阻もうとしたところで一弥に何も出来ないであろう事は明白だ。それでも、自分の目の届く範囲の内に彼女たちと蓮たちを共に放置しておくことなど出来るはずもない。
 アイツらは下校した。だから明日までは蓮たちの身も大丈夫なはずだ。ここ一週間の状況からどうしてそんな甘くて戯けた判断を取ってしまったのか。それは分からない。

「……どうやらキミも、一度張り詰めている肩の荷を降ろした方がよさそうだね」

 並んで歩く不景気な面構えの自称ナイトこと後輩を見て何を思ったのか、急に玲愛はそんな事を言いながら唐突に立ち止まる。
 二・三歩ずれて先に進んだ後、玲愛が立ち止まった事に驚いて一弥もまた立ち止まり、そして振り返った。

「……どうしたんですか、先輩?」

 首を傾げて問う沢原一弥、そんな彼に氷室玲愛は何を思ったのか唐突に――

「――デートしようか、沢原君」

 いきなり思ってもみなかったそんな言葉を唐突に告げてきた。



 デート。
 現代日本においては男女(中には同性同士もあるのかもしれないが)が揃って遊びに出かけたりする逢引を総称する言葉だ。

「……それが博物館見学とどうして繋がるんですか?」
「学術的追求。芸術を愛でて教養を育む事を目的とした実に学生らしいデートコース」
「……つまり蓮たちにあげたチケットが余っていた、と?」
「……沢原君、大事なのはデートの場所じゃなくてデートの相手だと私は思う」

 正論ではあるが逃げに徹したなと思わざるを得ない。
 まぁこんな風に相手にエスコート役を奪われ、しかも文句を垂れているようなら司狼あたりから男の度量が知れるぜと笑われそうだからもはや何も言う気は無いが。

「不満なの?」
「いえ、全然。……ただどうして此処なのかなって思っただけです。俺や先輩みたいなのにはジャンル違いじゃないか、とふと思ったもので」

 しかし沢原一弥のその言葉に何を言っているのかと呆れた様子で氷室玲愛は首を振る。

「キミは兎も角、知的な私にはピッタリな場所」
「……さいですか」

 まぁ確かに、彼女の外見だけを見たならばあながちこの場の雰囲気と合っていないかと言われれば否定も難しいところだ。
 無論、彼女のエキセントリックな中身をよく知っている一弥としてはその言葉に失笑を浮かべたい欲求がないわけでもないのだが……よそう、誰だって命は惜しい。
 故に玲愛の言い分に同意するように一弥は頷きを返すのみであった。

「芸術品を無料で観賞できるタダ券だよ。使わないのは惜しい」
「ご尤もな意見です」

 ただ彼女は兎も角、芸術の善し悪しの理解も出ない無骨者に消費されるタダ券に一抹の同情を抱くというだけのこと。
 まぁ良い機会だ。ここは先輩の言葉に素直に従って、その自分に不足している芸術を愛でる教養とやらを育む努力をすることにしよう。
 そう思いながら一弥は展示品を見ながら前へと進んでいく玲愛へと続き展示品を観賞していく。
 確か今開催されているのは前にも一度聞いた通り、『世界の刀剣博物館』とやらであるらしい。成程、その通りに展示品はそんな刀剣類ばかり。
 改めて藤井蓮が此処に来た時に感じたであろう心労を察する。成程、確かにこの場は彼にとっては針のむしろだったのだろう。
 逆に剣道部員でこういうのが好きそうな香純はさぞはしゃいでいたのだろうなと容易に想像が付いて思わず笑みが零れる。
 ……なんだ、あいつららしいデート風景じゃないか。そう正直にすら思う。

「……楽しそうだね?」

 ふとこちらの様子を確認しながら振り返って問いかけてくる玲愛の言葉に一弥も正直に頷いた。

「まぁ、実際見てみれば中々に興味深い物も多いですしね。……先輩は何か気に入った展示品とかありました?」
「駄目だね。ここには曰く付きの妖刀だとか魔剣だとかが無さそう」

 なに探してんですかあんたは、と玲愛のその本気で言っているのか分からない返答に若干に呆れた表情を浮かべながら、彼女と共に展示品の観賞を続けていく。
 古今東西の刀剣の数々……流石に博物館に展示されるだけあってそれなりに芸術品としての価値もある物ばかりなのだろう。
 種類にこそ詳しくはないが、ゲームなどに出てくる武器でポピュラーな名称の剣の類もそこかしこにある。成程、実際はこんな形状をしているのかとそんな感心すら抱く。
 そんな刀剣類……つまりは用途において対象――敵を斬る為に作られたこれらの武器を眺めながら、一弥の中の無意識下の部分が囁きかけてきてもいた。
 つまり――


 ――これらの剣で、あいつらを斬る事が出来るだろうか?


 脳裏にそんな考えが過ぎった瞬間、何を馬鹿げた事をとそんな考えを否定するように首を振る。
 そういう用途の為の道具とはいえ、こんな所にある物があんな化物染みた奴らに通用するとはとてもではないが思えない。
 ましてや……

『無理ね。だってあなた――ジャンル違いだもの』

 脳裏へと蘇ってきたのはあの女のそんな忌々しい言葉とそう告げた時の表情。
 自分のような半端者……臆病者には実力云々以前にそんな度胸も無いだろうと見透かされたそんな言葉。
 あの時、自分は相手に呑まれてそれを即座に否定する事も出来なかった。こうして時を置いて思い出した今ですら……それを否定できるだけの気概を即座には示せない。
 櫻井螢の言い分は正しい。本当に自分は……何処まで行ってもそんなチキン野郎だ。

「…………」

 だがそれでも、それでも失いたくない。護りたい、奪われたくなどないという思いだけは本物だ。
 だからこそ……

(……覚悟を決めろ、か)

 今度こそ、今度こそ本当に土壇場で逃げ出さない為に。大切な者に自分の罪を肩代わりなどさせないために。自分こそが――

「――沢原君」

 不意に呼びかけられたその声にハッとなる。思いつめていた意識を取り戻し慌てて顔を上げてみれば、その視線の先で氷室玲愛がこちらに振り向き立ち止まって見据えてきていた。

「通路の真ん中で立ち止まって考え事をするのはマナー違反だよ」

 淡々といつもと変わらぬ態度のままに軽く注意を入れてくる玲愛に、一弥も「すいません」と頭を下げて謝る。
 尤も、平日黄昏時の博物館などそう込み合っているわけでもない。むしろ客も疎らなもので、学生服姿の自分たちの方が逆に浮いているようにも思え、目立っていた。
 しかし玲愛が指摘した注意は当然のマナーであることも事実。危うく思いつめかけていた自分を現実に引っ張り戻してくれた事もあり、逆にありがたいと感謝すべきでもあった。
 故に礼を述べようかとも口を開きかけるも、それすら待たずに玲愛は再び前方へと戻ると共に歩き出していく。
 機会を逸し、手持ち無沙汰にも似た思いを抱きながら一弥は進んでいく彼女の背中をふと目で追った。
 思う。彼女はいつもああやって迷ったり立ち止まったりしている自分に声をかけて、付いてくるようにと導いてくれている、と……。

「……ありがとう、先輩」

 本当は面と向かって告げなければならない言葉なのだが、やはりチキンな自分では面と向かってなど照れ臭くて言えはしない。
 だからこそ今は……いつかヘタレを返上して面と向かってそう言えるようになるまでの今くらいは、こうして相手に聞こえてもいない呟きを漏らすのがせいぜい。
 それでもいつか――先輩には今までの分も上乗せした感謝の言葉を。
 いつか、告げられるようにもなりたいとも思いながら沢原一弥は前へと進んでいく氷室玲愛の背を追いかける為に進み始めた。



「ありゃまぁ、随分と仲が良さ気なことで」
 下手すれば自分はデバガメなのではなかろうかと本城恵梨依は溜め息を吐く。
 相棒たる遊佐司狼から沢原一弥を連れて来いと言われ、こうして遥々彼を迎えに来たのだが、その当人は随分とレベルの高い美少女と博物館でデート中。
 優雅なものだと思う。まぁ今はまだ接触を持つ事を司狼から禁じられた藤井蓮や綾瀬香純から離れてくれているのは都合が良いのだが……しかし、堂々とデートの邪魔をして彼を連れて行くほどにエリーとて無粋ではない。
 であるからこそ、こうして彼が一人になるのを……つまりは彼らのデートの終了を待っているわけなのだが。

「連中に効きそうな武器がついでに見つからないものかしらね」

 そんな呑気な様子で二人の後を付けながら展示品を物色していた。
 尤も、置いてあるのは古今東西の刀剣とはいえ言ってしまえば美術品。そんな物の中にあの化物連中に効きそうな曰く付きな武器が此処で見つかるとは期待していない。
 であるからこその言うなれば物見遊山なのだが……どうにも飽きがきているのは事実だった。
 大病院の院長令嬢……表の顔はお嬢様とはいえ彼女の本質は不良娘。
 芸術云々を愛でる教養は立場上持ち合わせてはいるが……正直、やはり彼女の本来持つ性質としてこうしたお堅い物たちや場所はやはり合わない。
 荒くれ者やロクデナシの吹き溜まり、酒とドラックとセックス……それらの刺激的快楽を至上とするあの奈落のクラブこそがやはり自分のホームグラウンドかとエリーは思う。
 今頃呑気に自分が彼を連れて帰るのを待っているであろう相棒が羨ましいとエリーは思う。……まぁ、進んで引き受けた役割である以上、文句を言っていても仕方の無いことでもある。

「……まぁ仕方ないか」

 今くらいはこんな役回りも引き受けるしかないだろうとそう自分自身へと言い聞かせながら、本城恵梨依は沢原一弥たちの後を追って博物館の奥へと進んでいった。



 博物館に入場し、展示品の飾られたコースを回って幾ばくかの時が過ぎ……
 大方は見て回ったか、コースに則った見学順に終了の目星をつけるべきかと思いながら視線を何気なく移動させたその時だった。

 ――ふと、目にした一振りの剣に沢原一弥の視線は釘付けとなった。

「――――」

 何故、それに目を留めたのかその正確な理由は自分でも分からない。
 ただ沢原一弥の中の何かが、その発見した展示品から目を逸らす事の出来ない何かしらの思いを抱かずにはいられなかったのだ。
 そう、アレは――――他の展示品たちとは何かが違う。
 何が、と問われても答えられないが、それでも何かが……言葉に出来ない得体の知れない何かがアレにはある。
 言うなれば、そう曰く付き。氷室玲愛が戯れか本気かどうかは分からないが口にしていた妖刀・魔剣とやらの類とでも言うような……。
 憑かれている。そう、言っては何だし感じるだとか見えるだとかそんな断言が出来るわけでもないが、それでもアレは何かが憑いている、そう沢原一弥は思った。
 思わず一歩、続けて二歩……と段々と展示されているソレへと近付きかけ、

「そろそろ出ようか、沢原君」

 急にそう呼びかけられた氷室玲愛のその言葉にビクリと立ち止まって振り返る。
 いや、別にアレを近くで見ようかと思い歩き出そうとしていただけなのだが……どうにも、玲愛に呼び止められたその事実に何故か悪戯でもしようとして見つかったかのような罰の悪さを思わずに感じる。
 それが何故かと問われても一弥には答えられない。けれどそう思ってしまった。そしてまるで氷室玲愛までもがそんな自分を咎めるかのような雰囲気だったのだ。
 ……まるで、アレに近づく事を許さないかのような――

「……え、ええ。そうですね。だいたい見終わりましたし」
「じゃあ出よう」

 そうして出口に向かって進みだす玲愛を追って、背後のその剣に後ろ髪を惹かれるかのような思いを抱きながらも、結局は振り返らずに沢原一弥は彼女と共にその場を後にした。




「思った以上に長居しちゃったみたいだね」
 氷室玲愛がそう言って見上げる空をつられて見れば、日が落ちるのが早い冬とはいえ確かに空には夜の帳が訪れてもいた。
 流石に例年に比べて温暖化だの暖冬だのと騒がれてはいるものの、これくらいの時間にもなると気温は肌寒くも感じる。
 博物館は市街の外れにあるのだが、それでも諏訪原もそれなりに大きな街。冬の夜でも照らす街灯りは健在だ。

「遅くなったらシスターたちが心配してるんじゃないですか?」
「大丈夫だよ。一応、遅くなるかもって連絡だけは先に入れたし」

 シスターは兎も角として、今頃帰りが遅い娘を心配して慌てふためいている神父の姿が想像できたのだが、彼女は問題ないと首を振った。
 まぁもう帰るのだし、此処からなら教会は近い。物騒な時期とはいえ無事に送り帰せるはずだと考えながら、一弥は玲愛と並んで夜道を歩き出す。

「気分転換にはなった?」
「……ええ。色々と楽しめましたよ」

 嘘ではない。実際、デートを行う前と後では抱いていた憂鬱然とした気分も大きく変わっていた。
 リラックス、気分転換……少し肩の荷が降りた様な気がしたのは事実だ。

「ありがとうございました、先輩」

 今ならば、今日のこの礼も兼ねてそんな言葉も自然と口に出来た。玲愛は「ん」などと何とでもないと言った様子を装っているが、よくみれば満更でもないといった様子で得意気にも見えた。

「気分を変えたい時には普段はやらないようなことをしてみる、こういうのも大事な事だよ」
「はい、その辺よく分かりましたよ」

 博物館見学……いや、そもそも先輩とのこういうデートとやらそのものが柄でもないと思っていたのだが、存外に効果の程はあるようだった。

「普段はやらないこと……例えば先輩ならどんな事ですか?」
「叫ぶ」

 簡潔に答えてきたその一言に思わずギョッとして驚く。彼女の方へと視線を向けてみれば何を驚いているのかとでも言った様子でこちらを見返してきていた。
 確かに普段の氷室玲愛ならば絶対にありえまい。
 正直、声を張り上げる彼女の姿などというものを沢原一弥はイメージできない。

「沢原君も偶にはやってみるといい。大声を上げれば、不思議とスッキリするから」
「……聞いた事はありますけど、それ先輩も本当にやってるんですか」
「やってるよ」

 マジかよ、とやはり思わず口に出してしまいそうになるのは、やはりどうしてもそれをイメージ出来ないからだろうか。
 まぁ彼女の言葉を疑う心算は無い。カラオケで熱唱すると気分が良くなるのと同じようなものだろうと一弥は判断した。
 自分は絶叫するようなキャラでもないし、この先にも大声をそう張り上げる場面などあるかどうかは分からないが、玲愛が叫ぶというその光景は一度でいいから見てみたいともふと思った。
 尤も……

「女の子に声を張り上げさせて喜ぶなんて……いい趣味してるね、沢原君は」
「……いえ、何か言葉に含んでる意味合いが違いません?」

 まるで変態を見るかのような視線を向けられ、心なしか並んで歩くその距離も少し遠ざけられた気がしてならない。
 誓って言うがそんな変態嗜好は断じて持ち合わせていない心算だ。

「沢原君はマゾだから、むしろ叫ばされて喜ぶ方か」

 ……もう、何とでも言ってくれ。
 そんな気持ちも顕に疲れたように溜め息を一つ。
 だが、ふと思う。こういった意味での気疲れ、これが随分と今は久方ぶりにも思えて懐かしい。
 己にとって愛してやまず維持しなければならなかったはずの日常だというのに、それが久しぶりに帰ってきたかのように感じ取れてしまうのは、嬉しいと同時にどこか物悲しいとも思えた。
 だがだからこそ――

「――先輩は変わりませんよね?」

 遊佐司狼が居なくなってしまって、おかしな事態がこうして続いていても、それでも自分の前にいる彼女はいつもの態度そのままだ。
 彼女は変わらない。変わらないで日常を維持し続けてくれている。

「変わってほしいの?」
「いえ、とんでもない。今のままで充分です」

 充分すぎる、それがたまらなくもありがたいのだから。

「やっぱりキミはMだね」
「……もう、何とでも言ってください」

 ああ変態だろうさ。こんな変わらぬ毒舌が物凄く今は心地良くも感じられているのだから。
 故にこそ、沢原一弥は願うのだ。

「……ずっと、今のままが続けばいいですよね」

 無論、櫻井螢やルサルカ・シュヴェーゲリンなどの異物を排除し、あの香純の疑いが全て完全に払拭されて、というのが大前提ではあるが。
 昔のように、永遠を願った代わり映えもしないこの日常。
 それがずっと続いて欲しいと切に願う。

「…………そうだね」

 玲愛からもまた少し間を置いた同意の言葉が返ってくる。それが嬉しくも思えた。
 やはり先輩だってこの日常が変わらぬことを願い続けていてくれる、と。
 そしてだからこそ――

「……キミも、遠くに行く心算なの?」

 不意に玲愛が告げてきた言葉にピクリと一弥は反応する。
 彼女の告げるその雰囲気が、まるでそれを咎めているようにも思えたから。

「……先輩?」
「キミも藤井君も、何を隠して思い詰めているのか……きっと訊いたって教えてくれないだろうから訊かないけど、それでも一つだけ言ってもいいかな」

 まるでそれは、聞き分けの無い子供を精一杯に窘めようとでもしているかのように、

「似合わないことはしない方がいい。諦める事や逃げ出す事を恥だって言う人もいるけど、少なくとも私から見ればそんな分からず屋の方が単なる馬鹿だよ。無理して馬鹿なことをしてカッコつけなくても、卑怯で恥かしくても賢く立ち回った方がずっと良い」

 これから自分がやろうとしていること、踏み込もうとしている領域を嫌悪し、それを思い留まらせようとしているかのようでもあった。
 沢原一弥はそんな氷室玲愛からの言葉に返す言葉がなかった。まるで本当に己の内心が見透かされているのではと不安を抱いていたことも事実であり、何より真剣な彼女の様子に口を挟めるだけの覚悟がなかった。

「ジャンル違いな事はしない方がいい。……そんなキミたちを見る方が私は嫌だよ」

 だから――馬鹿な事はするな、とそれは忠告であり警告でもあるように思えた。
 こんなに真剣にこちらを真っ直ぐ見ながら言葉を発する氷室玲愛を見たのは久しぶり……否、もしかしたらはじめてかもしれない。
 だからこそ、そんな彼女の言葉にも頷きたくなる。
 けれど――

「……分かってますよ。先輩が心配するような大それた事なんて何もしませんよ」

 ――それでも、譲れないものがこちらにもあると言うのは事実だ。

 だからこそ、本当にありがたいと思える先輩からのその忠告を……言葉と態度と裏腹に、内心で拒絶する。
 ジャンル違い。櫻井螢に続いて彼女にまで言われてしまった。けれど言われるまでもなく、それくらいは自分でも分かっている。
 けれどそれでも……

 脳裏に浮かぶのは二人の顔。
 藤井蓮と綾瀬香純。
 自分の大切な、護らなければならない幼なじみ。
 償いの対象。

 今、その二人を脅かそうとしている存在が確かに居る。
 自分の大切な日常を、掛け替えの無いものを壊そうとしている奴ら。
 そんな存在を沢原一弥は許容など出来ない。
 だから――排除する。どんな手を使ってでも。
 出来る出来ないではない、これは自分がやらなければならないことだ。
 だから――

 ――ごめんなさい、先輩。

 俺、きっとあなたが言うそんな馬鹿な事ってのをすると思う。
 そんな確信があるからこそ、謝る。
 言葉には出来ないから、せめて心の中だけでは真剣に謝った。


 そうして、そんな沢原一弥の内と外では相反する返答に氷室玲愛は何を感じ取ったのか、

「―――――そう」

 ただその一言。そんな短い一言だけでそれ以上の全てを打ち切った。
 それはまるで、大切だった何かが自分の掌から零れ落ちていくのを諦めるかのように――

「じゃあ、私はもう帰るね」
「送って行きますよ?」
「此処でいいよ。キミは私より大切にしなきゃならない人たちの所に早く戻ってあげなさい」

 送るという一弥の申し出にキッパリと拒否を示しながら、玲愛はそう告げると共に一人踵を返して夜道を進んでいく。
 その背中を追いかけたい衝動に一瞬かられ……しかし理性を持ってそれを抑え込む。
 今更、そんな恥知らずな事が出来るわけがない。それこそそんな事をしてしまえば先輩に対しての侮辱にすらなってしまう。
 本当に尊敬している彼女を相手に、これ以上見っとも無くも浅ましくもなりたくはなかった。
 だからこそ、ただ無言のままに去り行く氷室玲愛のその後姿を沢原一弥は見送った。
 けれどそれでも、一言だけでも告げても言いのなら――

「――俺は、蓮たちと同じくらい先輩の事は大切だって思ってますよ」

 何を今更と聞けば笑われよう。
 都合の良い言い分だというのは自覚の上で、それでも心からそれが本心だと言える。
 そんな妄言にも等しい呟きは、しかし吹く夜風にアッサリと流されて誰に聞かれるまでもなく消えてしまった。
 けれど、それでも良いと思う。その方が良いとも一弥は思った。
 大切な想いは胸の内に確かに残っている。
 これを道標に、蓮や香純を無事に連れて先輩の待っている日常に帰ろうと沢原一弥は改めて誓いを立てた。



 そうして、そんな街外れの夜道に一人残された沢原一弥は考える。
 彼女の忠告を断ってまで、踏み入れる覚悟をしたデッドゾーン。ジャンル違い、未知の領域。
 そこに実際にどうやって踏み入って、そしてどうやって蓮たちを連れ戻そうかと。
 つまりは、どのように連中を排除する方法を見つけ出すかということ。
 玲愛を相手にああも大見得を切っている以上、これで出来ませんでしたでは話にならないのだが、実際に上手いビジョンの一つも浮かんでこないというのも情けない話ではあった。
 であればこそ、まずはどうしたものかと首を傾げて悩み始めていたその時――

「――デートはこれでお終いかな?」

 不意にかけられてきた聞きなれぬその声に驚きながら、咄嗟に背後を振り向いて身構えた。

「ああ、ごめん。驚かせちゃった?」

 視線を向けた先――そこに居たのは自分と同年代程度と思われる一人の少女。
 ライダースジャケットにきわどいミニスカート、そしてロングブーツという出で立ちのショートカットのその少女。
 その姿……確か一度どこかで――

「とりあえず二度目まして、かな。あたしのこと覚えてる?」

 不意にその少女に既知感めいたものを抱いたその理由、少女の発する言葉と雰囲気、そして不意に脳裏に思い出したとある記憶が彼女とは初見ではない事を確信させる。
 そう、会ったことがある。沢原一弥はこの眼前の少女と一度だけ会ったことがある。
 確かそれは……

「……アンタ、真っ赤なキャデラックの?」
「そう、憶えててくれたわけだね。嬉しいよ、ありがとう」

 お蔭で滑らない登場が出来て良かったと少女は微笑みを浮かべながら言ってくる。
 その態度、その雰囲気……挑発めいていながらも、それがどこか挑戦的でその事実すらも面白がっているかといったその様子。
 脳裏に自然とアイツの顔が浮かんだのは単なる偶然か?

「あたしは……エリーでいい。って言うか他の呼び方をされるのは好きじゃない。だからあたしの事は気軽にそう呼んでくれればいいよ、沢原一弥くん」

 気軽に……気安くとも言えるそんな態度での相手からの物言い。その中に自然とこちらの名までどうして知っているかとも思えたその言葉にピクリと反応する。

「……何で俺の名前を知ってるんだよ?」

 二度目とはいえ言葉を交わしあったことからも実質的には初対面も同じ。こちらから名乗りもしていない自分の名前をどうして見知らぬこの少女が知っているのか。
 警戒も顕に睨む一弥。そんな彼の様子を見てエリーというその少女は相変わらずの態度のまま笑っていた。

「アイツからキミやキミのお友達の事は何度も聞いてるからね」
「……アイツ?」

 不意に嫌な予感……否、確信にも近い不安な感覚を抱く。
 エリーの言っている自分たちを知っている『アイツ』とやら。……それが、一体誰の事を指しているのか――


「――遊佐司狼。キミらの幼なじみのアイツ、忘れてないよね?」


 忘れるか、忘れられるものか、忘れてたまるか。
 エリーの口から出てきたその名前。しかしそれを聞いた瞬間に一弥の中を駆け抜けた衝撃は動揺と言うよりむしろ……

「……司狼、が?」

 予感が確信に変わったという奇妙な感情と、そして幾分かの戸惑いでもあった。
 自分たちと切れたはずの居なくなった幼なじみ。今になって、それもこのタイミングでアイツを知っている者が自分の前に唐突に現れたというその意味。

「アイツがさ、キミに会いたいって呼んでるんだ」

 悪いけど一緒に来てくれない、と誘ってくるエリーを一弥は思わず怒りを込めた視線で睨み返した。

「……ふざけんなよ」

 今更……今更になって、全てを滅茶苦茶に壊して、自分や蓮を裏切って、香純まで泣かして出て行ったアイツが今更になって自分に会いに来い?
 ふざけたことをぬかすのも大概にしろと思う。
 確かに戻ってこいと何度も願った。あんな馬鹿げたことをやらかしたとしてもそれでも許してやろうと思ってもいた。
 けれど……

「俺はテメエの都合に振り回されてやるほど暇じゃねえんだ。会いたいってんなら自分から会いに来い…………そう、司狼に言っとけ」

 こんなふざけた代理人を寄こして、勝手な都合で呼びつけようとしているその傲慢な態度が我慢ならない。
 確信すら抱ける。アイツはあれだけやって何一つすら反省もしていないと。
 だからこそ気に入らない。そんな言葉に乗せられて付いて行ってたまるか。
 不機嫌も顕にそう告げると共にエリーというその少女に背を向けて、踵を返して行ってしまおうとしたその時だった。

「まぁまぁ、ちょっと待ちなよ。幼なじみが殺人犯で色々と気が立ってるのも分かるけどさ、もうちょっとこっちの話を聞いてくれてもいいんじゃない?」

 何の事は無い、そんな気楽な様子で開けっ広げに言ってきた呼び止めの言葉。その中に含まれていた無視できないその部分。
 ピタリと一弥の踏み出し始めていた足は止まり、やがて恐る恐ると言った様子で再び彼女の方へとゆっくりと振り返る。

「……おまえっ!」
「怒んないでってば。文句はさ、あたしじゃなくて直接司狼に言いなよ」

 そっちだって色々と積もる話もあるんじゃないのか、まるでそう言いたげな相手の態度に益々不快さが増してきて苛立つ。
 しかし同時に確信もする。どこまで知っているかは知らないが、この女と……そして恐らくは司狼も、他人に聞かれれば色々と不都合なこちらの事情をある程度以上知っている。
 どうやってだとかどうしてだとか、そんな理由は分からない。しかしここで相手の要請を自分の意地で突っぱねる事の方が如何に不味いかくらいは理解できる。
 そう、初めから拒否権などこちらには無かったのだ。

「……何処だよ?」
「何が?」

 こちらの問いに首を傾げて問い返してくるエリー。それに相手にも分かるような露骨な溜め息を吐きながら、苛立ったようにもう一度尋ね返す。

「あの馬鹿が何処に居るのかって訊いてるんだよっ!?」
「ということは、大人しく付いて来てくれるってわけだね」

 他に選択肢なんてないだろうがと内心で毒づきながら、不機嫌な態度を収めもせずに頷きだけは返した。
 そんな一弥の態度にエリーはどう思ったのかは分からない。しかし、相も変らぬふてぶてしいまでのあの馬鹿と同じ笑みを浮かべながら、

「底なし穴」

 そんな言葉を返してきた。
 底なし穴……それが何処を指して例えたものなのかは知らないが、この際そんなものは関係ないかと一弥は考え直した。
 例えそこが何処であれ、今はあの馬鹿に会うためにこの女に付いて行かなければならないのだ。その事実は変わらない。
 だからこそ、

「案内しろ」
「言われるまでもなく。じゃあしっかりと付いておいでよ」

 そう言いながら先導する様に歩き出したエリー。その後姿を睨むように見据えながら一弥もまた遅れぬようにその後へと付いていく。
 底なし穴……どうやらとことん落ちる所まで落ちきったらしいあの馬鹿に、出会ったらその変わっていないであろう不敵な面構えに一発本気でブチかましてやる為に拳を握り固めながら。
 逸っていると指摘されても否定のしようのない感情の昂ぶりに自分でもハッキリとは気付かぬまま、沢原一弥はエリーという少女が先導するその底なし穴へと向かって進み始めた。



[8778] ChapterⅢ-6
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 23:37
 そうやって代わりに何でもかんでも背負われる方がこっちとしては迷惑だ。
 重さに耐えられるほどタフでもなければ強くも無い。むしろそんな無理を見せられる方が危なっかしくて見ていられない。
 だからこそ――

『――おまえに気遣ってもらわなくても間に合ってる』

 そんな拒絶にも等しい言葉を藤井蓮は沢原一弥へと告げてしまっていた。
 言った後についハッとなって、しまったと後悔を抱いたのは事実だが、しかしそれももはや後の祭り。

『……そっか。悪い、出しゃばりすぎた』

 そんな言葉を呟きながら弱ったような苦笑を返してきた沢原一弥。
 打たれ弱いアイツは拒絶という行為に対してあまりにも耐性がない。
 しかも香純とは別の意味合いで精神面が脆い。加えて性質の悪い厄介な気負い癖まである。
 昼間ルサルカに結局圧倒された無力感、現状に対しての焦り、そして睡眠不足の影響が合わさって爆発した苛立ちをあろうことかそんな一弥に対して向けてしまった。
 罰が悪い、そんな苦々しい後悔にも似た気持ちが蓮の中からは未だにどうしても拭い去れていなかった。

「……あれ? 一弥、帰ってきてないね」
「え?」

 香純の放課後練習を終え(ここでもちょっとした一悶着があったのだが)とりあえずこちらもまた様子がおかしく気落ちする香純を適度に煽って鼓舞してやりながら帰ってきたのだが、肝心の先に帰ったと思っていたもう一人の幼なじみはしかし帰ってきていないらしい。
 ……或いは、一度帰宅した後に何処かに出かけたのかもしれない。

「うーん、携帯にも繋がらないし。……アイツ、何処行ったんだろ?」

 心配気な態度も顕に呟く香純。蓮もまたアイツが何か不測の事態に陥っていないか心配になる。
 先の拒絶の一件で曖昧なままに分かれてしまっただけに、尚更に気になりもしていた。
 もしかしたらと脳裏に過ぎるのは、今現在の最大の脅威とも思わしき櫻井螢たちの姿。
 アイツ等がこのタイミングで一弥に危害を加えるとは思えないが……それでも、馬鹿な真似はしていないかと心配を思わずしてしまうのも事実だ。
 とりあえず香純の方は表面上は元気を取り戻して落ち着いた様子には戻っている。なればこそ今度は一弥を探しに行った方が良いのだろうかと考え始めたその時だった。

「あ、一弥からメールが着た」

 香純のその言葉に蓮もまた思わず食いつくように「何て書いてあるんだ?」と尋ねながら近付く。

「どうしたのよそんな勢いよく?……えっと、『知り合いの所に寄って来るので帰りは遅くなると思う。晩飯は適当に食べて帰ってくるから要らない』だってさ」

 知り合いって誰だろうねと尋ねてくる香純に蓮は知るわけがないと首を振る。自慢じゃないがクラスメイトの顔と名前すらろくに覚えていない程に交友関係の狭い蓮が一弥の交友関係など知っているはずも無い。
 香純ほどに顔が広いわけでもなく、自分や玲愛に毛の生えた程度の交友関係しか持っていないだろうとは思っていたが、さりとて蓮が知らない人間や知っていても覚えていないような他人と彼が知り合いであったとしてもおかしくはない。
 むしろここの所どうにも自分や香純にかかりっきりで己の交友関係の維持を疎かにしていたように思えていた一弥が自分たち以外の人間の関係とも修復を行おうとしているのなら、むしろそれは安堵すべきことでもあると蓮は思う。
 どうにもアイツは自分たちばかりを必要以上に優先している。それはあまり一弥自身にもよろしくはないことだろうと危ぶんでもいたのだ。
 これを機にアイツはもう少し自分のことを大事にすることを覚えた方がいいと蓮は思った。
 尤も、本人にそんなことを言っても自分の事が一番可愛いなどと、思ってもいない戯言で否定しようとしてくるのだろうが……。

「一弥は晩御飯要らないのかぁ、じゃあどうする?」

 どうすると言われても自炊を行わない蓮には献立の決定権などあるはずもない。というより面倒だし、そのあたりは炊事を一任している香純の裁量に委ねてもいる。

「別に。俺は何でもいい」
「まぁそう言うと思ったけどさぁ……晩御飯の献立考えるのだって面倒なんだよ?」

 その辺りについてはいつも悪いとも思っているし感謝もしている。口に出して言ったりせず内心に留めてではあるが。

「二人だけならさ、あたしたちも外に食べに行かない?」

 ついでに今夜はパーッと騒ごう、などと促がしてくる香純の態度に多少の戸惑いを抱きつつも、しかし蓮とて殊更に異議を申し立てるつもりもなかった。
 偶にはそういうのも悪くは無い。鬱屈した気分を紛らわせたいという思いが蓮にもないわけではないのだから。
 日が暮れて出かけることは連続殺人犯という存在に対しての危惧とも無視は出来ない関係だが……恐らくはそちらも大丈夫だ。
 櫻井螢たちにしても、ルサルカの言っていた言葉を信じてもいいのなら今すぐにこちらに何かをしてくるということもないはずである。
 今夜くらいは大丈夫。自分でも油断が過ぎる甘い見通し、警戒心が薄れかけているのではないのかという危惧を捨て切れてはいないものの、今はそれを黙って奥底へと仕舞い込む。
 あくまでも日常を逸脱するつもりがないことこそ藤井蓮の願望。なればこそ不自然にそれを躊躇う事は非日常に屈してそれを受けているのではないのかと思う恐怖もある。
 ……だからこそ、今夜の日常くらいは無事に貫き通す。
 それがこれからの非日常に己を誘う未知の脅威を振り払う拠り所にもなる、そう蓮は信じたくもあった。
 だからこそ――

「じゃあ、着替えて出かけることにしようぜ」

 香純の提案を受け入れるように頷きながら、そう告げる。
 日常の維持を願う為の行動が、皮肉にも非日常たる恐怖劇の開幕へと繋がる切っ掛けともなっていたことなど、この時藤井蓮は想像だにしていなかった。




 とりあえず遅くなりそうなことが予想できたからこそ、二人を心配させないためにも遅くなる旨を告げたメールを香純宛へと送っておく。
 蓮にしなかった理由は……まぁ放課後に別れた時の気まずさが尾を引いていた為でもある。
 しかしこれでとりあえずは後顧の憂いも断ち、目の前の問題へと集中できる。
 携帯の電源を切って懐へとしまいながら沢原一弥はこれから二ヶ月ぶりに再会する事となる馬鹿との邂逅に心の内で覚悟を決める。
 今はとりあえずその問題にだけに集中して向き合おう。

 そうして、エリーと名乗った少女に案内されて沢原一弥はその場所へと踏み入った。

「ほら、遠慮しないで入りなよ」

 気楽な言動でエリーが先導し促がすその場所……この諏訪原市のアンダーグラウンドの中心と言える店内はお世辞にも柄が良さそうとは言えない。
 沢原一弥のこれまでの人生において凡そ接点などというものが皆無と言ってもいい異界……ジャンル違いの境界線上の外側の空間。
 自分のような人間からすれば漫画やテレビのような現実味の薄い媒介を通してしか知りえない未知と言ってもいい場所であった。
 居心地が悪い、正直に言わなくともその一言に尽きる事だけは間違いない。

「もしかして、緊張してる?」

 こちらの態度からある程度この場での自分の戸惑い具合を察したのだろう、エリーが尋ねてくるその言葉にはからかいの感情が多分に含まれていた。
 不愉快、当然そのように一弥が感じたのは今更に言うまでもない。鼻を鳴らして彼女から視線を外すようにソッポを向きながら「ほっとけ」とただその一言を返答とする。
 一弥のそんな態度を場違いな粋がりとでも感じたのだろう、エリーはただ益々に面白いとでも言った笑みを深めるだけであった。

「――まぁ、リラックスして。別に捕って喰ったりなんてしないからさ」

 捕って喰われてなど堪るかと内心で吐き捨てるように返しながら、しかしエリーの言葉とは裏腹に一弥が視線を配り観察した店内の人間の様子はそのようにもないように見える。
 大音量のミュージックが流れ、店内を充満している濃い煙(恐らくはとても合法的とも言えぬ類のものではないのか)に紛れながらこちらを遠巻きに窺うように見据えてくる連中の視線は、総じてギラギラと充血した警戒や敵意に満ちたものばかり。
 精一杯に強がる素振りで気にしていないと見せてはいるが、内心ではおっかなくて仕方が無いとしか思えない物騒な店だった。
 あれで度胸が据わっている藤井蓮ならばただ嫌悪を抱きながらも臆すこともなく毅然とあれるのであろうが、生憎と小心者の自分では逆に店の雰囲気に当てられて気分が悪くなってくる。

「……俺にはちょっと刺激が強すぎるな。この店は」
「まぁ、キミみたいな優等生君にはそんなもんだよ」

 ポツリと思わず漏らしてしまったその声を聞き拾われて返された言葉、それに思わず眉を顰めながらも、深呼吸を一つ吐いて自らに落ち着くように言い聞かせながら、エリーに向かって早く連れて行けと顎で促がす。
 そんな一弥の態度に苦笑と共に肩を竦める態度を返すエリー。一々動作の一つ一つがアイツを思い出させるようで癪に障った。

「OKOK、それじゃあ付いておいで」

 そんな言葉をこちらへと返してきながら店の奥に向かって堂々とした足取りで進み始めるエリー。一弥もその後を黙って付いていく。
 底なし穴……この水先案内人がそう評したこの場所の意味が今ならよく分かる。そして見る限りでもこの店……いや、この諏訪原のアンダーグラウンド一帯で強い影響力を持っていると察せられる眼前の少女とアイツが共に居ると言うのなら――

(……馬鹿が、本当に堕ちるところまで堕ちやがったな)

 あの馬鹿の、ふてぶてしくて憎らしい笑みが脳裏に過ぎるたびに怒りが湧き上がってきて仕方が無かった。
 これが自分たちと縁切りをしてまでやりたかった事なのかと、そう不快感を顕にしながら気づけば、エリーが立ち止まってこちらへと振り向いていた。
 見れば彼女の背には一枚の扉。この物騒な店の奥に存在するさしずめVIPルームとでも思わせるその部屋。
 ……此処に、この奥でアイツが待っているのかと沢原一弥は覚悟を決めた。

「確か、二ヶ月ぶりになるんだっけ?……感動の、かどうかは分からないけどとりあえずこの奥にアイツが居るからさ」

 準備は良い? そう尋ねてくるエリーに一弥もただ無言で頷いた。
 一弥の返答にエリーもそれならと判断したのか、相変わらずのどこか愉快気な態度もままに気兼ねもなくその扉を一気に開ける。
 そうして振り向きながら彼女は告げてくる。歓迎の意を込めたその言葉を。

「改めて、ようこそ沢原一弥くん。あたしたちのボトムレスピット(底なし穴)へ」



 そうして、沢原一弥は促がされるままにその部屋へと足を踏み入れ――

 ――そして、アイツと再び対面した。

 それは実に奇妙な気分だった。再びの邂逅を心の何処かで願っていたというにも関わらず、だというのに嬉しさや感動に類する感情が一向に湧いてこない。
 例えるならもっと別の……そう、漸くに拳を振り下ろすべき場所が見つかったと感じるような奇妙な安堵感にも似た気持ち。

「よぉ、久しぶり。相変わらず不景気そうな面してるな」

 VIPルームの中心、透明な机を囲むように並んだソファ(それも一目で上質と分かるほどの高級品)に寛ぐ様に身を沈めながら気楽な態度で手を上げてそんな言葉を発してくる馬鹿。
 それは二ヶ月前の喧嘩別れの事などまったく気にしてもいないかのような、まるであれ以前からすら何も変わっていないかのように錯覚させられる挨拶だった。

 瞬間、沢原一弥は猛然と駆け出すと共にその呑気に座ったまま無防備な相手の顔面を目掛けて加減もしていない拳の一撃を叩き込んだ。



「……おいおい、世間一般でいうところ、こういう再会って普通は頭の部分に“感動の”とかが付くんじゃなかったか?」
「……だったらそっちもそれ相応の挨拶をしろよ」

 一弥のその返答にお堅い奴だと可笑しそうに笑いながら、不敵に殴りかかられてきた拳をあっさりと掴んで防いで見せた遊佐司狼。
 そんな相手に不意打ちが失敗に終わった事を心底腹立たしく思いながら、露骨な舌打ちを相手に分かるようにも吐く沢原一弥。
 遠巻きにそれを見ていたエリーはただ呆れたかのような溜め息を一つ零すのみ。

「何だよ、まだあの時に殴ったことを根に持ってるのか? いい加減、水に流せって。細かい事をいつまでもネチネチ恨んでるようじゃ男の度量が知れるぜ?」

 あれを細かい事などと平然と言い切る相手の暴言。瞬間、一弥の頭は沸騰しそうになるほどの怒りが湧き上がるも、それを何とか全力で押さえ込む。
 そうしていなければもう片方の拳もまた司狼に向かって繰り出していたことだろう。尤も、それすらもこの男はあっさりと防いでしまうのだろうが、それが分かってしまうからこそ尚更に腹立たしく相手を睨みつける他に無い。

「おっかねえ面し過ぎだっての。もう少しクールに行こうぜ」

 傲岸不遜、余裕そのものと言った様子で司狼はあっさりと掴んでいた一弥の拳を離しながら、対面のソファへと顎で座れとばかりに促がす。
 テーブルを蹴り上げてぶつけてやろうか、そんな欲求に駆られながらも、腕力でこの男に勝てるわけがないのを悔しいほどに理解できていた為に、一旦は怒りを抑えながら促がされる通りにソファへと座る。
 漸くにマトモに対話できる準備が整った、そう言わんばかりの態度を示しながらエリーが近づいて来て司狼の隣へと腰を下ろす。
 対面にて向かい合いながら座る三者。並んで座る司狼とエリーの変わらぬふてぶてしい態度は兎も角としても、露骨に不機嫌さを示す一弥は相手を睨みつける事を決してやめようともしない。
 一方的に発する険悪な雰囲気のまま、切り出しが行われずに沈黙が続くのかと思わせたその矢先だった。

「……そいつ、おまえの新しい女か?」
「何だ気になるのか? まぁがっつかなくてもその辺は知りたきゃ後で教えてやるさ」

 チラリと司狼の傍らに座るエリーを一瞥しながら投げかける一弥からの質問と、愉快そうに示した司狼の返答。
 まずは適当な切り出し、というよりはふと見ていて思いついた疑問を発したのだが、返してくる司狼の態度は相変わらずに余裕ぶいていて癪に障る。
 こいつは人の神経を逆撫ですることにかけては天才だと、そう惜しげもなく一弥は眼前の相手を評価しなおすこととした。

「本城恵梨依。苗字で呼ばれるの嫌がられるから、気をつけろよ」
「あのね、だったら何で教えてるのよ」

 エリーこと本城恵梨依は司狼の秘密をばらすかのようなその物言いに、彼に対して不満気な態度で睨むようにそう言い返していた。
 対面で行われている馬鹿どものやり取り……司狼相手に対等にいられるのは大したものだと世辞抜きで正直に思う反面で、改めて紹介された彼女の何かに引っかかりを覚えてもいた。
 本城恵梨依……この名前、改めて聞けば何かが引っかかるような気もするのだが……

「とにかく、前に会ってるんだよな?」
「……ああ、一度だけな」

 それも一瞬のすれ違いのようなもの。相手はともかくこちらは思い出すまで忘れていたような印象だ。
 だが改めて出会った時のことをふと思い出しもすれば気になる事とて色々と湧いて出てくる。
 例えば……

「……なぁ、あの赤いキャデラックの事だけどさ」

 一弥が出したその単語、一瞬司狼は聞いた瞬間に眉を顰める変化を示した。

「……ああ、アレがどうした?」
「いや、アレって本城の――」
「――エリー」

 一弥の言葉の途中で割って入るような訂正を示してくる本城恵梨依。成程、苗字で呼ばれることを嫌う……本人と司狼が言ってきたその言葉に偽りは無いということか。

「……アレってエリーの車なのか?」

 余計な波風を立てるつもりは無い。相手の嫌がることを意識してする程に自分とて意地が悪いつもりでもない。気に入らない相手だがこれ以上また同様の訂正で話の腰を折られるのは面倒だったので、呼び名くらいは相手に合わせてやることにした。
 見ればそれにエリーは満足そうに頷いている。苗字、というか家族に関して何かしらの嫌な思いでもあるのだろうか。

「……ああ、一応はオレの車って事になってたんだが」

 おまえのかよ、と思わず目を見開き突っ込みそうになった。見る限りに馬鹿高い金をつぎ込んだかのような悪趣味な車だったが、二ヶ月前までは普通の学生だった司狼に手を出せるはずも無いものだと思っていた。
 今のここでの生活といい、こいつはいったい何をやって生活の糧を得ているのかと激しく気になる。

「まぁ……別にアレの事はどうでもいいだろ。今はもう無いし」
「無い?」
「廃車になっちゃったってこと」

 言葉を濁す司狼の代わりにエリーが可笑しげに笑いながらそう答えてくる。司狼は思い出すだけで腹が立つといった様子で眉を顰めて鼻を鳴らしていた。
 いったい何があったのか、経緯は色々と気になりはしたがしかし二人もそこにこれ以上触れるつもりは無さそうな態度を示す。

「そんな事よりもだ、あの二人は元気にしてるか?」

 話題を変える、というよりはそろそろ本題に入ろうと言わんばかりの司狼からの問い。勝手なその態度に再び一弥の苛立ちが湧いてきたのは言うまでもない。

「わざわざ訊かなくたって知ってるんだろ?」

 一弥の不機嫌に鼻を鳴らしたその言葉に司狼は不思議そうに首を傾げる。
 予想だにしていなかった相手の態度、それに戸惑いを覚えながら一弥は司狼からエリーへと視線を移す。
 どういうことだ、そう無言ながらも視線で問いかける一弥にエリーは「さあ?」とでも言いたげな肩を竦めた態度を示してくる。
 思わず舌打ちが漏れる。エリーをそうして睨んでいる一弥の様子に気づいたのだろう、ああ成程とでも言った様子で司狼は傍らのエリーへと今度は尋ねていた。

「おまえ、何言ってこいつ連れて来たわけ?」
「別に。司狼がキミに会いたがってるから付いて来て、って言っただけ」
「それでこいつが素直に応じたわけじゃねえだろ?」

 この態度を見ていれば分かると言った司狼の問いに、エリーも察したように仕方が無いといった様子でそれに頷いた。

「そう、断られて帰られそうになったから言ったんだよ。“まぁまぁ、ちょっと待ちなよ。幼なじみが殺人犯で色々と気が立ってるのも分かるけどさ、もうちょっとこっちの話を聞いてくれてもいいんじゃない?”って」

 エリーの言葉に司狼は傑作だと言わんばかりに笑い出し始める。当然、一弥が思わず席を立たんばかりに睨みつけたのは言うまでもない。
 他ならぬ大切なあいつらに殺人犯の嫌疑を向けられ、それを平然と笑おうとするなど彼らの間の絆への裏切り、否、冒涜だ。
 そんな一弥に対し司狼は、

「ああ、悪かったって。そんなに怒るなよ。……ホント、アイツらに対しては過保護だよな、おまえ?」

 行き過ぎるのもあまりどうかと思うぜ、と言わんばかりにそんな戯言を窘めるかのような態度で告げてくる。
 瞬間、テーブル越しに再び一弥の拳が司狼に向かって飛んだのは言うまでもない。

「だからそうカッカすんなって。おまえそんなにキレすぎてるとらしくないぜ」
「……ッ……おまえが……ッ……おまえが、言うなッ!」

 軽く受け止められた拳。怒りが収まらずに更に力を込めて押し込もうとする一弥の様子を見て、司狼は仕方ないと溜め息を吐きながらあっさりと掴んでいた拳を引っ張ると共にそのまま後ろへ回してねじり上げる。
 テーブルを蹴飛ばし、ソファより転げ落ち、司狼に後ろから腕をねじり上げられ思わず一弥から苦痛の呻きが漏れ出る。

「やめとけって。マジの喧嘩でおまえがオレに勝てるわけねえだろ?」
「……ッ!?………司狼ォッ………ぐうッ!?」

 悔しげに司狼を睨み上げるが平然とした態度のまま、相手の軽々しさとは裏腹にこちらの拘束は足掻いたところで一向に解けはしない。
 足掻く一弥を司狼は世話のかかる奴だと言わんばかりに呆れた溜め息を零しながら唐突にねじり上げていた腕を離して、そのまま軽く突き放つ。
 前のめりによろめきながら、苦痛と疲労を感じはしながらも即座に反撃を行おうと拳を固めながら相手へと振り返り――

「――だから、おまえはそういうキャラじゃねえって前にも言ってやっただろうが」

 チャカリと振り返った眼前には突きつけられるように向けられた銃口がお出迎えを示していた。
 拳銃。それも大口径の銃口を鼻先に近距離で突きつけられた経験など沢原一弥のこれまでの人生であるはずもない。
 モデルガンだとか玩具だとか、そんな偽物だと疑う前に当然ながら驚いて反射的に動きが止まり絶句する。
 それで抑止が成功したと判断したのだろう、突きつけた銃口は下げぬままも司狼はニヤリと笑みを浮かべて一弥を見下ろしながら告げる。

「オレは確かに蓮と喧嘩を続行中だが、別におまえとまで喧嘩したいってわけじゃないんだよ。
 分かる? オレ的にはおまえを呼んだ理由だっておまえと話がしたかっただけなんだからよ、許せとは言わねえし、水に流せなんて無理な要求をするつもりもねえよ。
 ただお互いカッカせずにこの場くらいはクールに話し合いましょうって言ってるわけ」

 言ってる意味分かるよな、などとわざわざ一度区切って尋ねてくる司狼の問いに、一弥は悔しげな歯噛みを見せる。
 しかしそれも無視したままに言っている事の意味がこちらも理解できると判断したのだろう、司狼は相変わらずの尊大なその態度のままに顎でソファへと座るように促がしながら憎らしい笑みと共に告げてきた。

「せっかくの二ヶ月ぶりの再会なんだ。今くらいは久闊を叙そうぜ、親友?」

 これ程、友という言葉に吐き気を催す嫌悪感を抱いたのは沢原一弥の人生に置いてこれが初めてだった。



「あーあ、良いの? 完璧に怒っちゃってるよ、彼」
「昔からバカスミに次いで洒落を洒落で片付けられない奴だからな。怒ってくるのもまぁ予想の範疇だ」

 むしろ昔に比べればまだ殊勝な態度を覚えたかのようで大人しくなったくらいだ、と可笑しそうに笑う司狼。
 十年以上の付き合いの幼なじみを分かっていて怒らせて遊んでいる。本当にいい趣味した奴だとむしろエリーは呆れたような溜め息を吐く。
 取り敢えずはゴタゴタ前の向かい合って話し合っていた形にだけは戻った。……そう、形にだけは、だ。
 対面して座る沢原一弥はあれから不貞腐れたような態度でこちらを(というか司狼を)睨んできてはいるもののムスッと押し黙ったまま口を開こうともしてこない。
 すっかりへそを曲げられたんじゃないのかと司狼に耳打ちしてみれば返ってきたのが先の態度だ。
 すっかり一弥をイジメて楽しんでいる司狼に、これじゃあ話が進まないんじゃないのかと話を切り出すように促がすも、司狼はマイペースに一服つくように煙草を取り出して火を点け始める。

「吸うか?」

 先程の殴りかかられた事も、返り討ちにして銃を突きつけたことすら忘れたかのような気楽な態度で対面の一弥にタバコを差し出す。
 一弥はそれに未だソッポを向いた態度のまま不機嫌も顕に、

「要らねえよ。つーか、煙たいから吸うな」

 鼻を鳴らして返すそんな苦情にすら、司狼は愉快そうに笑ったまま一弥の目の前で堂々と煙草を吸っていた。
 露骨な一弥からの舌打ち、それが楽しいと言った様子で上機嫌に笑う司狼、二人のやり取りに再び呆れるエリー。

「……って言うかさ、アンタら仲良いね」

 こうも露骨に見せられていれば羨ましい以前におなか一杯だと辟易するエリーに、司狼は「だろ?」とでも言った様子で肯定するように笑い、一弥は信じられない暴言を告げられたと言わんばかりに呆然とした後、激しく否定を示すかのように眉を顰める。

「……おまえ、眼が腐ってるだろ?」
「はいはい、ごめんなさいね。けどさぁ、初お見合いの場ってわけでもないんだから、そろそろ話し合いに戻らない?」

 一人疎外されているかのようで退屈だ、と一弥の暴言を適当に流しながら場の流れを戻すようにパンパンと両手を鳴らす。
 エリーのそんな促がしに傍らの司狼もまたそろそろ良いかと同意したかのように、だらしなく背凭れに背を預けていた姿勢を、一弥に真っ直ぐ向き合うかのように戻しながら尋ねてくる。

「それで? マジで香純の奴が殺人鬼の正体なのか?」
「んなわけねえだろッ!!」

 思わず司狼のストレートな質問に大声を上げて席から立ち上がりながら否定を示す一弥。
 相手の相変わらずの沸点の低さにやれやれと、とりあえず落ち着いて座れよと促がしながら、司狼は自重せずに再びふざけた次弾を一弥へとかました。

「じゃあ蓮の方なのか?」
「……いい加減にしねえとマジで殺すぞ、テメエ」

 出来もしない強がりを怒りを込めて告げてくる一弥だが、司狼としてもまた乱闘騒ぎになることは面倒ではあったが、これが本題なのだから引くわけにもいかない。
 本当にこいつは幼なじみ馬鹿だと呆れながら、多分次はまた拳が飛んでくるなと思いながら構わず口を開こうとしたその時だった。

「じゃあさ、あの二人は本当に連続首切り殺人とは無関係なの?」

 司狼が構わずに言い過ぎるから相手が怒って話が拗れるのだと、そう言わんばかりに先んじた態度で司狼を制しながら今度はエリーがそんな質問を一弥へと投げかける。

「…………当たり前だ」
「目撃例とかもあるんだけど?」
「――ッ!?」

 エリーの言葉に思わず一弥は動揺し、顔を青褪めさせる反応を見せる。
 思っていることが顔に出やすい。嘘は吐けないし、吐いてもすぐにばれるタイプだとエリーはそんな一弥の様子を見て判断する。
 確かに、司狼が面白がってからかおうとするわけだ。

「オレたちもその殺人鬼ってのを追っててよ、そうしたら色々とキナ臭そうな事態に首突っ込んじまったわけさ。それで色々あって、集めた情報から殺人鬼の正体を割り出してみれば――」
「――もう、いい」

 それ以上は言わないでくれと、まるで観念したかのように疲れきったような呟きで司狼の言葉を一弥は遮った。
 まるでそれは己の罪を暴き立てられて言い逃れも出来なくなり諦めたかのような、絶望的な姿だった。

「まるで自分がやったのがバレたみたいな態度だな?」
「……むしろ、その方がマシだろ」

 どうせ自分は罪人だ。今更背負った罪が増えようともそれは死後の地獄の責め苦の度合いが強まるだけに過ぎない。全て自己責任で諦めだってつけられる。
 ……だけど、アイツらは違う。
 アイツらは自分とは違う。真っ当で、正しく、そして綺麗に幸せに、そんな人生を当然のように歩んでいい権利があったのだ。
 否、沢原一弥にとっては藤井蓮と綾瀬香純がそんな人生を送ってくれることだけが、その幸せを願う事だけが唯一の権利であり救いであった。

 ……それが、汚された。
 壊れてしまった。取り返しがつかなくなってしまった。
 だからこそ一弥は絶望して、それを認めることを拒むようにこの現実を否定しようとすることしか出来なかった。

 そう――

「アイツは……誰も殺してなんか……いない」

 一度は目にして体感すらしたはずのその事実を、それでも必至に否定したくて仕方がなかったのだ。
 その為だったら――

「――自分が代わりに罪を背負うから、ってか?」

 本当に馬鹿みたいに成長していないな、とまるでそれに呆れるように鼻を鳴らして言ってくる遊佐司狼。
 己の生き方と考え方を否定されて馬鹿にされたかと思った。だからこそいつの間にか俯いていた顔を上げて一弥は司狼を睨みつける。
 しかし司狼は一向に気にした様子もなく、嘲笑に近い表情を変える素振りすら見せもしない。そこに先程の楽しげにからかいながらも垣間見せていた相手への親愛の情はどこにもありはしない。
 事実、ただ単なる馬鹿だと言った様子に司狼は一弥を見下しているだけだった。

「相変わらず馬鹿なところは変わんねえな、おまえ」
「……何だと?」

 司狼は沸々と不快さを増していくのを示していく一弥の様子など一切無視したままに、吸っていた煙草の煙を眼前の一弥の顔に吹きかけるかのように吐き出しながら告げた。

「自分が代わりに罪を背負いますから、償いも自分がしますーってか?
 馬鹿だろ、おまえ?
 そうして勝手に他人の不幸を背負って、自分が不幸になりますってのは勝手だがよ。だからってテメエの願望をそれがさも幸福だからって代わりにそうなれって押し付けんなよ。
 テメエのネガティブな不幸自慢を、同情して付き合うのが当然って勘違いして振り回すな。そんなもん振り回された方は鬱陶しくていい迷惑だぜ」

 肩代わりも償いも自分で勝手に背負って、自分だけで勝手に終わらせろ。
 鬱陶しい不幸自慢の理屈を当然のように相手にまで強要しようとするな。
 いい迷惑だ……そう鼻を鳴らして不愉快気に言い切ってくる司狼の言葉に一瞬我を忘れかけた怒りを一弥は抱く。
 おまえが言うなと、一緒に背負うはずだったその責任を根性無くて途中で勝手に投げ出したおまえなんかが言うな、と。
 そう怒鳴りつけようと一瞬口を開きかけ――


『……俺が望んだ幸せは……あいつにとっての幸せじゃなかった……』


 ――脳裏に過ぎったかつて自分自身が気付き呟いたその言葉。

 あれは一体いつ何処でそれに気づいて呟いたのだったか……?
 ああ、あの日――蓮が退院したあの日に学校の屋上で先輩と話していた時に気づかされたことだったかと思い返す。
 そう、自分の望んだ幸せと司狼の望んだ幸せの差異。噛み合わなかった関係と価値観。
 それに納得を示したことを思い出したからこそ、最前まで抱いていたはずの怒りはまるで潮を引くかのように急速に萎み、小さくなっていく。
 後に残ったのは、咄嗟に言い返す言葉を無くしてしまったかのような悔しさと言い負かされたかのような重たい敗北感。

「…………」
「何だよ? いつもみたいに言い返してこいよ」

 誘ってくる司狼の挑発。しかしそれに乗れるだけの気力もまた一弥には残ってはいなかった。
 再びどんよりと項垂れるかのような態度を示す一弥に、司狼はそれが鬱陶しいとばかりに舌打ちを吐く。

「はいはい、とりあえず青春染みた喧嘩は一旦おしまい」

 割って入るかのように手を叩いて告げてくるエリー。
 司狼は言い足りないといった様子で鼻を鳴らしてソッポを向き、一弥に至ってはエリーの言葉に反応すら示していない。
 手間のかかる連中だ、とエリーはこの場で何度目となるのか呆れたように重たい溜め息を再び吐いていた。




「つまりは双蛇の杖(カドゥケウス)だ。意味が分かるかね、螢?」

 そうまるで問題に対する解答の確認を生徒に行おうとする教師のような口振りで、ヨシュア・ヘンドリックは櫻井螢へと尋ねてくる。
 彼女もまた彼のその問いに応じるように頷き、答える。

「頭が二つで、必要に応じて首から上が切り替わる……そういうカラクリだと?」
「その通り」

 理解が早くて助かるとヨシュアは螢の返答に嬉し気に頷く。
 実際、男の様はまるでその事実を誇ろうとでも言わんばかりに高揚としたもの。
 だがそれは恐らく、否、間違いなく弟子の理解力の速さに喜色を現しているのではない。
 この男が誇っているのは自分の弟子ではなく、自分の師……つまりは副首領が代替に対して行っていたその手際に対してだろう。
 実際、大したものだとは螢もまた思う。この男からエイヴィヒカイトの理を教え込まれ、その術理に関してはそれなりの把握が出来ていると思っていた。
 しかしながら流石は本家本元と言ったところだろうか。少なくとも自分を含め、他の騎士団員の誰ですらこのような方法を用いる術などというものは思いつきもしていなかった。

「殺し役と喰らう役の分離……一つの聖遺物を二人で分けて活用したということですか」

 このような発想そもそも思いつきもしなければ、誰にも行う事など出来はしないだろう。
 否、そもそも用途自体が実に悪趣味染みた仕様だ。まるで使い捨てのように気軽で、それでいてそんなものの尻尾を自分たちは本物と信じてまんまと追わされ続けていたのだ。
 ベイもマレウスも事実を知ればさぞ噴飯ものであろう。成程、彼らがここまでどうして副首領を嫌悪するのか……その理由の一端を螢もまた漸くに知れた気がした。

「藤井蓮が喰らう役、そして件の殺し役が綾瀬香純だった。……そして本体――ツァラトゥストラは彼の方と言う事ですね?」

 これならば藤井蓮に師がどうして拘っていたのか、そして実際に自身が対峙した綾瀬香純が何故エイヴィヒカイトを振るえたのか、その意味が理解できる。
 そして綾瀬香純の正体を自分に伏せるように言ってきた理由もまたこれで察する事が出来た。魂を集める殺し役たる彼女が死んでしまうようなことになれば、本体である藤井蓮にとっても不都合な事となる……だからこそ、副首領の代理に肩を持っているこの男は彼女の存在を隠そうとした。
 副首領代行補佐。その肩書き通りの仕事をこの男はこなしてきたということか。
 そんな螢の結論に応じるように、ヨシュアもまた肯定を示す笑みと言葉でそれに答えた。

「正解。完璧だよ、螢。いやはや君のような弟子を持てて私は実に幸せだ」

 最大の戯言をも付加して。
 こちらはあなたのような師を持って実に不幸だ。そんな反感の気持ちで一杯だったがそれ自体は自分の胸の内にだけ押さえ込む。
 それよりも明らかとなった事のカラクリである。これをわざわざこんな所にまで自分を急に呼び出すなり唐突に種明かしのように教えてきたと言う事は……

「今夜、事態が動くということですか?」
「察しが早くて助かる」

 成程、これでまた事態が動くと言うのならそれは即ち――舞台の開幕。
 聖槍十三騎士団の戦争の幕開けということか。
 そして、その為に彼が自分にまた命じる動きは――

「ベイとマレウスの抑えをしろ、というわけですか?」
「いや違う。そちらには猊下に対応してもらうつもりだ」

 ならば何をこの男は自分に命じさせようというのか。
 怪訝な表情をそこで浮かべる螢へとヨシュアは変わらぬ様子のままに告げてくる。

「君にはこのカラクリを彼自身に教えてあげてほしい。きっと始まっても直ぐには状況を理解できないだろうからね」

 しかし教えてやったところで彼もまた綾瀬香純と同様に無自覚であったとするならば、理解など出来ないのではないのかと思った。
 しかしそんな螢の疑問に対してヨシュアは心配は要らないといった様子で首を振る。

「なに君にやって欲しいのは彼に彼女を迎えに行くように促がしてあげて欲しいということさ。彼らはこの幕開けによる勝利者だ。勝利者は賞品を受け取る権利があるからね」

 賞品――つまりは綾瀬香純がこれまでに殺して集めた魂。
 詳しい事は分からないがしかし分割した聖遺物自体を一つに同化させて戻そうということだろうか。

「それにいつまでも1+1のままでは先に進めない。この恐怖劇(グランギニョル)、主役がみすぼらしい一のままでは見栄えも悪かろう?
 それに……早く次のステップを踏んで成長していってもらわなければ、他の役者たちとも張り合えないしね」

 ツァラトゥストラには副首領代行としての役目を果たしてもらわなければならないと彼は語る。
 言いたいことは凡そ理解できた。つまり自分は相手の尻に火を点けて焚き付けて来いということか。

「この舞台の開幕の見届け役をして欲しい。……頼めるかね?」

 要はていのいい使い走りだ。だがそれも構わない。
 頼まれずとも命じられれば黙って従うだけだ。何故なら自分はその為だけに、この時のために十一年も人をやめて待ち続けたのだ。
 漸くに悲願の成就、その第一歩へと踏み出せるのなら是非などあるはずもない。

「分かりました。マスターの御心のままに」

 ――時よ止まれ、汝はかくも美しい。

 既に自分は契約の言葉を交わし、代償すらも差し出している。
 ならばこの先がたとえ破滅であれ、その前に取り戻すものだけは絶対に取り戻す。
 その為ならば……ああ、何だってやってやるとも。

「――おや、レオンハルトも一緒でしたか?」

 そんな中、不意にその投げかけられた言葉を聞き取った螢は背後を振り向く。

「……猊下」
「アルベルトゥス卿だけかとも思っていたのですが、彼女も同席されるので?」

 クリストフ・ローエングリーン。首領代行ヴァレリア・トリファのその問いにしかし答えたのは螢ではなくヨシュアの方であった。

「いえ、これから彼女には動いてもらう事になりそうでしたので猊下には失礼ながら、彼女へと先に説明しておかねばと思いましたので」
「なるほど。では彼女に既にその話を終えたと言う事ですか? 申し訳ありませんね、あなたに二度手間をかけさせてしまったようだ」
「いいえ、こちらにとっても予定通りの段取りですのでお気遣いはなさらずに」

 温厚な態度で言葉を交わしあう様子とは裏腹に、その実、腹の内は相手の動きを警戒した探り合いだ。素人目に見た螢からも直ぐにそれが察せられた。
 生憎、こういったものは自分のジャンルではない。互いに了承しきったことを前提で行っている茶番に付き合う義理もこちらにはない。

「ではマスター、私は先に。猊下も失礼致します」

 そう告げながら彼女はこの場からの離脱を図るために、挨拶だけを告げながら早急にこの場を去ろうと踵を返しかけ――

「そう焦らずともまだ時間はある。どうだい、中に入って件の物を確認していっては?」

 呼び止めるかのようなヨシュアからの言葉。螢もまたピクリと反応して一瞬立ち止まりはしたものの、

「結構です。私は任務に戻らせていただきます」

 固い言葉による拒絶を示してそのまま振り返ることもないままに進みだす。
 この場にはあまり長居をしたくない。ましてやその中になど踏み入りたいとさえあまり思えない躊躇いが螢にはあった。

 何故ならこの場――博物館は十一年前に“彼女”が死んでしまったその場所なのだから。



「やれやれ、申し訳ありません猊下。アレには後で言って聞かせておきますので」
「構いませんよ。……それに此処は彼女にしても因縁浅からぬ場所。長居をしたくない気持ちくらいは察せられます」

 十一年前、この地で己とヨシュアが共謀して起こした一件がヴァルキュリアを没させ、トバルカインを崩壊させたことをトリファは思い出す。
 まだ十にも届いていなかった幼子であった彼女にとって後の人生の全てを狂わされるには充分過ぎる衝撃だった事だろう。
 無論、手引きし引鉄を引いた当事者であるトリファには後悔などない。気の毒にと同情を抱かないということもないが、それでも己の目的の為ならば些事と割り切り振り払う事は容易い。
 そんな非道だったからこそ、あの一件が本格的にバビロンに嫌われる結果となりこの地を去らねばならない原因ともなったのだが。

「懐かしい事です。……しかしキルヒアイゼン卿には気の毒な事をしてしまいました。せめて彼女の冥福と彼女の忘れ形見の無事を今日まで祈ってきましたが」
「ええ。しかし彼女はこの今宵幕を開ける歌劇における最初の立役者となれたのです。恐らくはヴァルハラに至った暁にはハイドリヒ卿より最高の栄誉を賜れることでしょう」

 これ程の祝福が他にあろうかと興が乗ったように熱の籠もった賛美を故人へと送るアルベルトゥス・マグヌス。
 ヴァレリア・トリファはつくづくと思う。この男は狂っている。
 まぁベクトルの方向性はどうであれ自分もまた同じ穴の狢だ。であればこそ、この狂人に非難を向けるつもりも更々ない。
 ヴァルキュリアは気の毒な存在であった。尊い犠牲。自分もまたこの男と同じようにその事実を認識して彼女へと鎮魂の祈りでも捧げるだけだ。
 ……尤も、かの気高き戦乙女は自分たちの向ける祝福などお断りだと熨斗をつけて返すのかもしれないが。

「では参りましょう猊下。この奥にあるモノと一緒に此度のカラクリの真実をお伝えしますので」

 ヨシュアが誘うような素振りをもって博物館の奥へと向かって自分を連れて先導して行く。
 事のカラクリについてはある程度の予測はついていた事ではあるが、ならば答え合わせとさせて頂く事にしよう。
 数時間前、我が子のように愛する娘がこの館内を同じように歩いていた事など知らないままに、ヴァレリア・トリファもまた先導するヨシュア・ヘンドリックの後を追って進む。
 閉館時間を終えて人が居なくなった館内。運悪く今宵見回りを行う事になっていた警備員を躊躇いすら抱かずにその手へとかけながら。
 司祭という神聖な印象を持つはずの役職には酷く不似合いな笑みを、堪えきれずに思わず零してしまうヴァレリア・トリファ。

 ……ああ、私も何だかんだで他人の事は言えないようだ。

 自重が困難になっているほどに開幕の歓喜に逸る心を持つ魔人は、この場にもやはり存在していたというそれは証明の笑みだったのかもしれない。



[8778] ChapterⅢ-7
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2009/12/20 21:28
「聖槍十三騎士団、って知ってるか?」

 先の言い分に打ちのめされ、重たげな沈黙がただ続いていた部屋の中でその雰囲気に、いつまでも構ってられるかと言った様子で沢原一弥へと不意に尋ねてくる遊佐司狼。

「……え?」
「黒円卓とも名乗ってる、頭のイカレタ格好をした連中。知らないか?」

 唐突だった司狼からの問い。意気消沈の状態の一弥では理解が追いつかずにそれこそ間の抜けた戸惑いも顕な問い返しを続ける他に無い。
 しかし段々と、司狼の尋ねてくる固有名詞と直結する存在かは分からないもののある連中の存在が脳裏へと思い出される。

 櫻井螢。
 ルサルカ・シュヴェーゲリン。
 そして、自分と蓮を殺そうとしていた白貌の男。

「――ッ!?」
「……どうやら、その様子じゃあやっぱり覚えがあるみたいだな」

 一弥の表情の変化からそれを読み取ったようにニヤリと笑みを浮かべる司狼。
 あの得体の知れない化物のような連中。今の自分たちの日常を未知によって侵蝕しようとしてきている脅威。

「……何で、おまえが知ってるんだよ?」
「言ったろ? 殺人鬼を追っかけてたらキナ臭そうな事態に首突っ込んじまったってな」

 つまりはこいつらもまたあの連中に襲われたということだろうか。
 だとするなら……

「……止せよ」
「あ?」
「……アイツらはヤバイ。だから首を突っ込もうなんて馬鹿な真似は止せ。じゃないと――」

 ――殺される。

 とはその言葉を紡ぐ事が出来ずに言いよどむ一弥。
 恐怖があった。自分を殺そうとしていたあの白貌の男の暴威が。自分の覚悟を歯牙にもかけずに圧倒して一蹴する櫻井螢の生物としての天敵のような危険性が。
 兎に角、あの連中はヤバイ。常識だ何だのが通用しない理不尽なまでに恐ろしい脅威だ。
 学校という喉元にまで迫っているその危険性とも合わさり、憎らしい奴とはいえ司狼までアイツらの手にかかるのかという恐怖が加われば、きっと自分は耐えられない。
 だからこそ、馬鹿な事は止せと司狼を説得しようとして――

「――だから、もう首突っ込んじまった後だって言ってるだろ? それに、これはオレらが自分で勝手に決めて進んでるルートだ。今更おまえの言い分で変更なんてきかねえよ」

 ニヤリとふてぶてしく、司狼の馬鹿は当然ながらその傍らのエリーもまた同意するかのような態度で答えてくるふざけた返答。
 命を溝に投げ捨てようかという行為。

「……死ぬぞ」
「それが未経験のオチだってんならアリだろ? それにただで殺されるつもりもないしな」

 そう言いながら見せ付けるように先程自分に突きつけてきた銃をこちらへと示してくる司狼だが、一弥からすればそれが玩具でなく本物だとしてもあの連中に効くとはとても思えない。

「そんな顔すんなよ。言いたい事だってだいたい分かるぜ。こんな物があんな連中に効くわけないって思ってんだろ?……まぁ、実際確かに効かなかったのは事実だが」

 その口振り、まさか既に連中を相手に直接に揉めたことがあるだなどと予想していなかった一弥からすれば、その事実と、そしてそれを理解しながら尚もこうして諦めを見せていない司狼の態度に絶句する。

「そう驚くなって。相手は半世紀も前の戦争の時からピンピンしてるような生粋の変態集団なんだぜ? むしろそれくらいじゃねえと相手しててもつまんねえよ」

 それはまるで滅多に手に入らない珍しい玩具を手に入れたと言わんばかりの歓喜すらも滲ませる言葉と笑みだった。
 沢原一弥は今更ながらに当然の認識を己が欠如していたのだということを自覚した。そう、年齢と図体の割りにこの遊佐司狼という男は、否、こいつに賛同を示して傍らにいるであろうこの本城恵梨依という女とも合わせて二人か。兎に角、こいつらは恐れや躊躇いなんてものを知らない生粋の悪ガキなのだ。
 ……しかし、気概だけであれはどうにかなるような相手ではない。それは一弥自身もまた連中に身をもって教え込まれてもいる。
 だからこそ、アイツらが蓮たちを狙っているというその事実に怯えて、どうやればその脅威を振り払う事が出来るのかを模索しているのだから。
 そう、それくらいにあの連中は理不尽で――

「……半世紀も前の戦争?」

 不意に司狼が言ってきたその言葉に一弥はピクリと反応していた。荒唐無稽すぎて思わず聞き流すところだったが、幾ら連中が化物染みた奴らとはいえそこまで……

「まぁ普通は信じられんわな」
「でもね、事実だよ。ネットのアンダーグラウンドじゃあ伝説的なオカルトとして生き残ってるナチスの亡霊――聖槍十三騎士団」

 黒円卓。
 ロンギヌス・サーティーン。
 Lezte Bataillon(最後の大隊)。

 その数々の忌み名は何であれ、莫大な賞金が懸けられ今に至って尚もその額が増え続けているお尋ね者達のハイエンド。
 連中の正体はそんな化物なのだと司狼の言葉に続き補足した説明を続けてくれるエリー。
 正直、幾らなんでも一弥としてもとても信じられない話ではあった。だがあそこまでの常識から逸脱した怪奇の数々を体験してしまえば頭ごなしに全否定を示す事も躊躇われたのは事実だった。

「おまえらの所にも転校生って事で二人ほど潜り込んでんだろ?……櫻井螢とルサルカ・シュヴェーゲリンだったか」

 それくらいは既に調べがついていると言った様子も顕に告げてくる司狼の言葉には一弥も驚き、返す言葉もなかった。
 こいつは自分たちの今の状況を把握していて、その上で自分を呼び出したのだということをここで改めて理解する。

「兎に角だ、そんな物騒な連中がこの街に居座られても正直迷惑だろ? だから市民の皆様を代表して、オレらの手で連中にはお引取り願おうって動いてるわけ」

 つまりはヒーローの仕事を進んでやってるわけだ、と根も葉もないような戯言を言ってくる司狼だが、どれだけ不良との抗争に勝ち実績を誇っているのかは知らないが、あの連中はそんなものとは根本的な格も違う。
 ましてや信じ難いそのオカルト話の通りだと言うのなら……

「……勝ち目なんてないだろ?」
「今の所はな。だが色々試して零じゃないかどうかを証明するにはまだまだ余裕だってある」

 その結果で全て通用せずに殺されるというのなら負け。
 所詮は自分たちなどそこまでの存在だったという証明になるだけ。
 それならそれが結果だろうと、ある種の達観にも近い開き直りが司狼の中にあるのは明らかだった。
 それに言った通り、可能性はまだ零と決まったわけじゃない。そうでないというのなら、まだ別の知らないルートに途中から割り込める可能性だってある。
 それを全部探してからでも諦めるのは遅くないと司狼は言っているのだ。
 ……本当に、勝手で強引で、自分ばかりで先に進もうとする奴だ。
 引き止めたいという思いがある。何だかんだで憎らしくとも、もはや欠けてしまった存在であれ、それでも沢原一弥にとっては遊佐司狼も掛け替えの無い存在だ。
 であればこそ、みすみす死ぬのが分かっている馬鹿な行いなど止めたかったのだが……

「言っとくが、今更おまえにやめろなんて言われても聞く気はねえからな」
「……分かってるよ。どうせ力づくで止めようとしたって聞きもしないだろ」

 むしろ力づくで押し通されるのがオチ、それは先程までのやり取りを見ていても明らかだ。
 だから司狼は止められない。一弥はそれをここで漸くに理解する。
 だからこそ……


「……蓮たちもアイツらに狙われてる」


 ポツリと呟いた一弥のその言葉。聞いた司狼もまた興味を持った様子も顕にその説明を望んでいるかのような態度を示している。
 こんなことをこいつに話してどうするのか、そんな躊躇いが一弥の胸中に渦巻いているのは事実だ。今更に、自分たちを切り捨てたこの男に助けてくれとでも恥や外聞すら捨て去って縋りつけというのか。
 そしてこの男が本当にそんな蓮たちを助けてくれるとでも?

「連中がわざわざツキガクに潜り込んでやがるのは、アイツらが狙いなのか?」
「……分からない。けど少なくとも、蓮と香純は一度奴らに襲われている」

 そして殺されていたかもしれないのだ。その可能性を思えば尚更にゾッとすることしか出来ない。
 司狼にどんなに言われようとも一弥にとっては蓮と香純だけが己の縋りつける最後の拠り所であり希望だ。それを奪われる事は、破壊される事は到底許容出来る筈もない。

「連中の恨みを買うようなことでもしたの?」
「そんなこと……あるわけないだろ」

 エリーからの問いに一弥は首を振りながら否定を示す。
 そもそもほぼ初対面と言っていい状況で襲われたのだ。自分たちの人生においてそもそも登場の要素すらないあんなジャンル違い共の恨みを買う経緯など――

 そこで一弥は漸くにハッとなって気づいた。
 蓮が奴らに襲われていた理由、こちらは確かによく分からない。
 しかし彼女……香純が櫻井螢に襲われた理由は?
 あの場、あの状況、そしてあの時の香純は――
 そして、香純の豹変と連中が現れたその時期は――

「――気づいたか? 連中はどうも件の殺人鬼ってのを追いかけてるみたいだ。殺人鬼が事件を起こしだした時期と連中が現れた時期は凡そ一致する。
 ついでに言えば、こっちは警察より先に発見した殺人鬼の作った現場で連中に舎弟を一人殺られててな、多分連中が殺人鬼――香純の奴を追っかけてることは間違いないぜ」

 問題は何故わざわざ殺人鬼を追ってあんなオカルトのような連中がこの街に現れたということ。
 そして――

「なぁ、何で香純の奴は急に殺人鬼になんかなったんだ?」

 そもそもの原因、その事実自体が未だに信じられない。
 幼い頃からずっと一緒だった幼なじみ。多少融通が利かない歪さを持っているとはいえ強い正義感を持っていたはずの少女。
 藤井蓮のことが大好きだったはずの綾瀬香純。
 ……どうして、彼女は殺人鬼になどなってしまったのか?

「……分から……ない」

 それが一弥には未だに分からなかった。否、分かりたくなどなかった。
 だからこそ、あの夜以来いつもと変わりない様子に戻った彼女を見ているからこそ、あれを単なる見間違いなり悪夢だったりなどで済ませたかった。
 けれど現実に存在している櫻井螢たちをはじめとしたその聖槍十三騎士団とやらの存在。
 そして司狼が指摘してくるその事実。
 ……頭が痛い。頭を抱えて蹲り、全て投げ出して無かったことにしてしまいたい狂おしい衝動へと一弥は駆られた。
 けれど出来ない。それを現実が許さない。司狼が、螢たちが決して許そうとはしてこない。
 だからこそ、何か救いのある解決手段はないのかと狂おしいまでに欲するのだ。
 もしかしたならコイツなら、司狼ならそれを自分に教えてくれるのではないのかという都合の良すぎる頭の悪い望みすら抱きかけていた。
 しかし、そんな一弥に対して司狼は救いどころかもっと残酷な知りたくもない事実を、思い出したくもなかった過去を唐突に告げてきた。



「それと連中の中にな……十一年前に、香純の親父さんとこによく通ってやがった例のアイツがいた。……あの野郎、連中の一味だったみたいだな」



 流石に告げるには自らも当時の記憶を思い出すかのようで罰が悪い。そんな態度も顕に不愉快さを示しながら一応こちらにも教えておいてやるといった様子で告げてくる司狼。
 それこそ聞いたその瞬間には一弥は司狼の言った言葉の意味がよく分からなかった。
 次に段々と言葉の意味を理解していくと共に聞き間違いかとも疑った。
 けれど、珍しく不愉快であれ真剣な顔で告げてくる司狼のその様子に、そこで彼の言ってきた言葉が嘘ではない事を一弥も漸く理解する。
 ……つまり、アイツが、あの男が。
 おじさんが蓮に与えていた仕打ち。それを共同で行っていたはずの、優しかったおじさんを唆したとずっと思っていたあの男が。
 おじさんを俺たちが■したきり現れなくなったあの男が。
 十一年前に、自分たちの全てを狂わせる原因だったであろうあの男が。

「……あいつが、連中の一味……?」
「間違いなく、な。変態集団に相応しくあの時からまったく外見も変わってないムカつく態度で……名前は何て言ってたっけ?」
「ヨシュア・ヘンドリック。アルベルトゥス・マグヌス……とかいう呼び名だったっけ。連中の情報の中に載ってないせいで詳しく分からないけど」

 司狼の物忘れしたような言葉にエリーがわざわざ溜め息を吐きながらしっかりと補足してくれる。
 二人のやり取りはどうであれ、あの名前も知らなかった、もう逢う事もないだろうと忘れかけていた……否、忘れようとしていた男の名前を思わぬところで知る事となった。

 ……ヨシュア・ヘンドリック。

 その男の名前を一弥は今度こそ忘れないように刻み直した。
 新たな恐怖と絶望と共に、しかしそれに拮抗するように生まれてきたのは怒り。
 おじさんを狂わせた、十一年前に自分たちから人並みの幸せを奪ったあの男。
 連中の一味として、また蓮や香純を傷つけようと現れたのだ。
 ふざけるなと思った。許せるかと吐き捨てた。
 何の権限があって自分たちから、自分から、蓮や香純から、当たり前のように享受して良いはずの日常を奪おうというのか。
 そんなもの絶対に許せるかと固く拳を握りこんだ。

「なぁ、ここまできたらむしろ出来過ぎだとやっぱおまえも思わないか?」

 司狼からの問い。その言いたいことは流石に一弥にも分かった。
 だからこそ、それを肯定するかのような頷きを返す。
 殺人鬼に変わってしまった香純。そんな香純を狙ってやってきた聖槍十三騎士団。
 そしてその連中の中にいる十一年前にも自分たちの全てを狂わせた原因ともなった男の存在。
 ここまで露骨に示されれば、この現状はあの時からずっと仕組まれ続けてきた茶番劇の延長のようにも感じられて仕方が無い。
 香純がおじさんを失って悲しみ、蓮が自分の代わりに罪を背負って傷付いた。
 後の人生に尾を引く原因ともなった悲劇。それでもそれを乗り越えてここまでこられた。あの二人はきっと幸せになれる、してみせるとずっと思っていた。
 けれどそれすら、この十一年間の全てすら連中にとっての予定調和だったのだとしたら。

 腸が煮えくり返る。
 どこまで人を馬鹿にして玩ぶのかと怒りが湧いてくる。
 あいつらを自分たちの人生を喜劇の道化の役どころのように玩んだのだ。
 許せるか、許してなるものか。
 認めるか、認めてなるものか。

 自分たちの全てが“選んだ”のではなく“選ばされていた”だなどと。
 そんなこと絶対に――

「……もしそうだってんなら、ふざけろってんだ。オレは絶対に連中を許す気なんざねえ。
 クサレナチ野郎共は全員地獄に叩き落としてジークハイル歌わせてやるよ」

 この忌まわしい既知感とも並ぶ、それはプライドの高い遊佐司狼の全てが虚仮にされていたのとも同じ事だ。
 過去の因縁なんぞ今時流行りもしないフレーズだが、借りはきっちりと返しておかなければ己の沽券にも関わる。

「……司狼、俺も一枚噛ませろ」

 今更この一件から降りることなど出来る筈もない。過去からやってくる忌まわしいしがらみなどで蓮たちの未来を脅かされて堪るものか。
 アイツらに脅威の手が届く前に連中をこの街から叩きだす。二度と自分たちに手出しなどさせないように今度こそ因縁を清算する。
 どんな手を使おうが、今度こそこの手がどれ程の罪に穢れようがあの化物どもに自分たちに手を出した事がどれ程高くつくことかを教えてやる。

「……おまえが? 止めとけよ。優等生君にはジャンル違いの火遊びだぜ」
「おまえらが加えてくれないってんなら、独りで勝手にやってやるさ」

 そう言い切って話は済んだとばかりに席を立つ一弥。
 元よりジャンル違いは承知の上。何から始めれば良いのかさえ分からない。
 けれども蓮や香純はこの件には関わらせない。関わらしてはいけない。
 それはこうして司狼と会う前から最初から決めていたことだ。むしろこの再会自体が予期せぬイレギュラーも同じだった。
 色々と精神的にも打ちのめされたし、未だに司狼の言い分に納得しているわけでもなければ燻っているものもある。
 自分の中で誰に言われようともこれだけはと否定されたくないものもある。
 だからこそ、それを支えに沢原一弥の今はあるのだから。

「……色々教えてもらって助かった。借りは……いつか返すから」
「んな宛てなんかないだろ。期待してねえよ」

 お見通しの相手からの言葉。つくづくに憎らしい態度。
 まるで何も変わっちゃいない馬鹿野郎。
 未だにこいつの事は許せない。許してはいけないこともあると思う。
 だがそれでも……


「……なぁ、帰ってこないか?」


 自分たちとは切れる。そうあの二ヶ月前に示した縁切りを今更にこいつが覆すとも思えない。
 また恐らく自分のこの感情とは別に、香純は兎も角として今更蓮が司狼とやり直すなどということを素直に認めるとも思わない。

 ――簡単に戻ってきてしまうものなら、最初からなかったものと何が違う?

 蓮のその徹底した価値観……分からないわけじゃない。
 それだけ失えば戻ってこないことを訓戒としているからこそ、失わせないように大事に守らなければならないともいうこと。
 そして唯一無二を見出しているからこそ、不出来な代替などというものはそれを汚す事にしかならない。
 藤井蓮が遊佐司狼にそこまでの価値を見出して親友として認めていた。その事は悔しくて羨ましいくらいによく知っている。
 でもそれが蓮の持つ価値観であり、司狼に見出した価値であるのと同じように。

「……おまえ居ないとさ、やっぱり何だか色々と物足りないんだよな」

 それでも、もう一度、戻ってきて欲しい。全てを元通りにしてしまいたいとも思ったその日常の中に居て欲しい存在が一弥にとっては司狼だった。
 だからこそ、もし取り戻せる可能性が僅かでも残っているのなら――

「――悪いけどよ、何期待してるか知らんが、テメエのそれをオレに押し付けられても困るんだがな」

 返ってくる司狼からの答え。
 拒絶……予想通り過ぎた、むしろやはりこれ以外は考えられなかった混じり気も無いストレートなそれは返答だった。
 やっぱりか……否、こう答えなければそれはきっと遊佐司狼ではあるまい。
 藤井蓮が友として認め、沢原一弥がその強さに憧れた――

「……ああそうかよ。だったら勝手にしやがれ」

 だからこそ、この場でこれ以上に見っとも無くしがみ付くのは情けなさ過ぎる。司狼に媚びてるように勘違いされでもしたら最悪だ。
 だからこそ、ふざけて言ってみただけだと言わんばかりの気にしていないといった態度を精一杯に装いながら、背を向けて歩き出そうとして、

「おい待てよ。お土産はちゃんと持って帰れよ」

 呼び止められた司狼の言葉に何を言っていやがるのかと振り向く。
 見ればテーブルの上。そこに乗せられていたのは一切れの紙と一丁の銃。

「……何だよこれ?」
「だからお土産だって。そっちの紙に今の携帯の番号とアドレス書いといたから」

 いや、そっちはまぁ驚きだが別にいい。だがこちらの明らかに法に触れている異物の方は何だというのか。
 紙をポケットに仕舞い、銃に触れてもいいのか恐ろしげに指先が触れるかどうかのギリギリで右往左往している一弥の様子を見て、司狼は呆れたような溜め息を吐く。

「心配すんなって。ちゃんと安全装置掛かってるから暴発なんてしねえよ。まぁ、撃つ時はちゃんとそれ外さない撃てないけどな」

 後、人前で無暗に見せるとポリにしょっ引かれるぞなどと冗談めかした口調で笑いながら言ってくる。
 しかしながら冗談ではない。むしろ……

「要らねえよ。こんな……」

 ……人殺しの道具、とは抱いた躊躇いから口には出せなかった。
 しかしこっちの思惑など別にどうでもいいと言った様子で変わらない司狼は、

「いいから取っとけ。連中相手じゃ気休めにすらならんが、それでも丸腰の見栄えの悪さに比べりゃマシだろ」

 だから今はそれで我慢をしておけ、などと司狼は言ってきた。
 一弥は当然ながらやはり戸惑う。こんな人殺しの凶器、そもそも現実の自らの眼で見たことなど今まで一度だってなかったのだから。
 数時間前、氷室玲愛と共に博物館に行った時と同じ迷いまでもが再び戻ってくる。

 奴らを相手にこの銃の引鉄を引く覚悟があるのかどうか。

 ジャンル違い。出来る筈も無い事だと既に櫻井螢や氷室玲愛から二度も言われている。
 自分はそのジャンル違いに踏み込む覚悟があるのかどうか……

(……いつまでも無限ループやってたって仕方ないだろッ!)

 先程、どんな手を使っても奴らを排除すると誓ったばかり。舌の根も乾かぬ内からまたぐるぐると同じ葛藤ばかりを延々と続けようかという無様さ。
 そんな余裕など残されているような身分でもない。
 朱に交われば赤くなる。連中と自分がジャンル違いだろうが、それでも連中の排除のために必要だというのなら、進んで奴らのジャンルとやらに染まってやる。
 その結果、もう二度と蓮たちのところに戻れなくなったとしても……

「……その時は、その時だろ」

 陽だまりの縁、陰と接する境界線上から蓮たちを見守っていけばそれでいい。
 彼らがその場所にずっと居てくれることこそが自分にとっては一番大切なのだから。
 保身は捨てろ。今度こそ、自ら進んで穢れるぐらいの覚悟を持て。
 そう自分に言い聞かせながら、彷徨っていた手を一度ピタリと止めた後、今度は躊躇いなくしっかりと一弥はその銃を掴んだ。

「今連中に効きそうな武器を集めてる最中だ。ストックに余裕が出来たらいずれおまえにも分けてやるよ」

 だからそれまではその銃で我慢しろなどと言ってくる司狼。
 しかしその言い分はまるで――

「……優等生の俺は入れてくれないんじゃなかったのかよ?」
「何だ拗ねてんのか? はいはい、オレは優しいからな。仲間外れなんてカッコ悪いイジメはやったりしねえよ。ただし――」

 気楽な口調はそこで打ち切り、司狼は一弥を真っ直ぐに見据えながら告げてくる。

「付いてくるのは勝手だがよ、追いつけなくて途中で置いてかれても文句言うなよ。……ああ、後オレは例えバッドエンドでも未経験のオチなら文句なしで突っ切る。おまえの途中下車は自由だが、もし仮に状況次第でそれが出来なかったとしても――」

 ――文句は言うなよ?

 それぐらいの覚悟があって一緒に遊びたいんだろ、とまるで挑発するような笑みすら浮かべる遊佐司狼。
 上等だ。それくらいの覚悟、アイツらを守るために必要だって言うんなら是非も無い。

「いいぜ。ただし例えおまえがバッドエンドだろうが俺はそんなものには付き合わない。必ず蓮たちのいるハッピーエンドに意地でも辿り着いてやる」

 先輩とだってそう約束して別れを告げたのだから……

「上等! なら交渉成立だ。よろしくやろうや、親友」

 こちらが見栄を張って切った啖呵を愉快と笑いながら、遊佐司狼は馴れ馴れしくもこちらの肩を抱いて騒ぎ始める。
 成り行きとはいえとんでもないルートを選んじまったかとも思いながら、しかし一弥には不思議と今は後悔は無い。

 ――必ず、皆で一緒に戻る。

 藤井蓮が、綾瀬香純が、氷室玲愛がいる日常に。彼らの待っている陽だまりに。
 叶うならば、この遊佐司狼と本城恵梨依も共に連れて行けないものかと心の中の何処かで未だに未練たらしく思いながら。

 沢原一弥が夢見たのは、またあの屋上で皆揃って笑うことの出来るそんな光景だった。




「疲れた?」
「結構な」

 綾瀬香純からのその問いに藤井蓮は遠慮もなくそんな言葉を返す。
 実際、外食だけかと思って出かければ何を血迷ったかと本当に今夜はパーっと行くなどと言ってテンションを上げて行動に移った香純に付き合わされ。
 街中まで行って買い物に付き合わされたのを皮切りに、ゲーセンにカラオケ、あれやこれやのその他諸々。
 まるでデートのような事を引きずり回されて付き合いながら、それでも不平不満も口に出さずに今まで付き合っていたのは香純が本当に楽しそうだとも蓮もまた思えばこそ。
 高くつく奢りなども色々あったし、正直に言って荷物持ちすらしんどいのだが……まぁ、これで香純が不景気な面をしなくなるというのなら寧ろ安くついた方かと思い直す。
 何だかんだと言いながら自分もまた香純には甘い。あまり一弥のことは言えた立場でもなかったかと蓮は胸中にて苦笑を漏らす。
 そうして、なんやかんやで両手に余る荷物を担ぎながら連れられた香純の後に付いてくれば辿り着いたのが海浜公園とは……この時期に、しかもこんな時間帯に呑気に出歩いてやって来てしまうとは予想以上に己も危機意識が薄れていたかと少し反省する。

「買いすぎだろ、これ。生活費とか大丈夫か?」
「平気――ていうか気にしない。ストレス解消しなくちゃね」

 買い物でストレスを解消するのは古今東西における女の特権。

「俺のストレスは?」
「今日は荷物持ちじゃなかったのぉ?」

 そしてそんな買い物に付き合わされて振り回されるのが男の甲斐性。
 満面の笑顔と共にそんな意地の悪いことを言ってくる香純に対して、若干癪には感じながらも今宵くらいはそんな甲斐性を見せねばならないかと蓮は諦めた。

「きついなら、ちょっとだけ休憩していく?」
「いや、それは……」

 遊び歩き時間は過ぎ、夜もそれなりに深まってきていた。
 時計を見れば九時五十分。深夜というには些か早い時間だが、それでも夜の帳が深まってくる時間帯である事は間違いない。
 ましてやこの公園にとってこの時間帯と言えば本来ならば、まぁ市が公序良俗に頭を痛ませる原因を色々と生み出してもいるわけで……。
 それでも幸い、と言っていいのかは分からないがそれでもいつもならカップルだらけのはずの時刻と場所も、蓮と香純を除けば他の三、四組ほどがちらほらとも見える程度。
 やはり殺人鬼が未だ捕まらぬ現状、それも死体が発見された場で盛る程には夜の脅威も完全には駆逐できていないそれは証か。
 ……尤も、それでも三、四組でもこんな夜にカップルが現れるようになったのはやはり件の殺人鬼がすっかりと鳴りを潜めて実際の恐怖が薄れた故にか。

「何よ蓮、そわそわして……もしかすると、怖がったりしてるの?」
「……何でだよ」
「ほんとに? 何か態度ヘンくない?」
「…………」

 まったく、こいつはどうしてこういう時に限って勘が鋭いのかと少しだけ危惧と同時に呆れすらも蓮は抱いた。

「大丈夫だって。他にも人、結構いるし。いざとなったらあたしが守るし」

 そう言いながらこちらの腕を掴んで手頃な場所へと座ろうかと歩き出す香純。
 守るなんて言われても正直困るし、それは御免だ。
 普段は一弥と共にふざけて香純の事をボディーガードなんて茶化しもするが、実際、男が女に守られるというのは感心できない。
 むしろ立ち位置は逆だろう。ましてや香純のような奴は危なっかしくて本来ならば自分が守ってやらねばならないだろうとも蓮は思ってもいた。
 口に出してこそ言わないが、そういう守るだの何だのは男である自分の役目だ。

「ま、本当は誰も居ないと思ってたんだけどね」
「…………」
「だからほら、休憩休憩っ」

 先程から……いや、デートというか遊び回っていた時からすっかり上機嫌の香純。今晩くらいはもう放課後のような暗い顔にはなって欲しくはないものだと蓮は思う。
 今日の放課後、いつもの居残り練習で香純が見せた異常。そしてまるでらしくもない態度を続けていたその様子。
 ああいうのは見ている方も気苦しくて堪らない。ましてや一弥に続いて香純にまでそんな風になられては拠り所が無くなってしまうのではと危惧すらも抱きかねない。
 ……要するに、こいつらには笑っていてもらわないと藤井蓮にとっても困るのだ。
 そんな事を改めるまでもなく実感しながら、この場は仕方がないと香純に合わせて促がされるままにベンチへと座る。

「最近事件も無かったし、楽観主義の奴も結構いるみたいだな」
「あたしみたいな?」

 とりあえず休憩の間を保つための適当な話題に、目に付いているカップルたちの事を適当にあげてみた。
 しかし香純は可笑しそうに笑いながらまるでふざけたような態度でそんな事を言ってきた。

「ああ、おまえ筆頭」

 だから適当にこっちもそれに合わせてやることにした。実際、おふざけは兎も角としても今日の香純を見ていればそんな感じではあると蓮は思ってもいた。

「で、それより誰も居なかったら何かあるのか?」
「何もないけど……他に人がいると恥かしいじゃない」

 そう言いながらどこか照れたように若干頬を赤らませている香純。
 やれやれ、長い付き合いで今更二人きりなどそれこそ何度もあったことだろうにとも蓮は少し呆れる。
 別に恥かしい事でもおっぱじめるわけでもないし。
 ……というか、周りはその恥かしい事をおっぱじめてもいる様子ではあった。

「うわ、すごっ」
「おまえはおまえで、何覗きやってんだよ」

 盛っているカップルのお楽しみを目撃しながら、驚きとそれでも怖いもの見たさの興味からか、益々顔を赤らめさせながら覗きをしている幼なじみへとツッコミを入れる。
 ……ていうか、そんな恥かしがってやられていればそんな彼女を見ているこっちの方が逆に恥かしいだろうに。

「だって、目に入っちゃうんだからしょうがないじゃない」
「だったらこっち来いよ。そんな所に一人でいるから、余計なものが目に入る」

 世話の掛かる奴だと呆れながら隣に寄れよと示す蓮に、香純も彼のその言い分には若干呆れたように言い返す。

「あのー、余計って事はないんじゃない? 一応、みんな真剣なんだろうし」
「俺らにゃ関係ないことだろ」

 所詮は赤の他人だ。そんな連中が覗かれるのを上等で盛ろうが藤井蓮からしてみればどうでもいいし、興味も無い。
 だからこそ呆れた溜め息を吐く蓮とは対照的に、しかしやはり気になるのか香純はまだ周りをキョロキョロと見回している。

「わ、わ、見てあれ、始めちゃったよ」
「あー?」
「駄目、見ちゃ駄目っ」
「……どっちなんだよ」

 見ろと言ったり見るなと遮ったり、本当に忙しない奴だと呆れを示す蓮。

「だ、だから、その……」

 もじもじと似合いもしない仕草で一丁前に顔を赤らめさせながらこちらを見てくる香純。
 司狼ならきっと「はいはい、オーケー、思春期ね」などと軽くふざけてからかうのだろうが流石に彼と違い蓮はそこまで鬼ではない。

「隣……座っていい」

 消え入りそうな声で、不安げな態度も顕にそんな事を尋ねてくる。
 見るものが見れば即答ものの初々しさなのだろうが、生憎と蓮からすればそれこそ似合わない仕草を向けられても困るだろうがと戸惑う方が先だった。

「…………」
「ねえ?」
「……まぁ、ヘンなことしないんなら」
「何よヘンなことって、失礼ね!」
「そういうことだよ」

 バッグを振り回して喚きだす香純。実にいつも通りの姿。
 ……そういうのの方が気楽で助かるわけだが。

「こっ恥かしいんならさっさと座れよ。その代わり、暴力禁止な」

 一弥でもあるまいし俺はMじゃない、と誰に言うわけでもそんなどうでもいい事を蓮は胸中で付け加えていた。
 そんな蓮の言い分に香純も頬を膨らませていた。

「……あんたが余計なこと言わない限りしないわよ」
「じゃあ黙っとく」

 誰だって命は惜しい、そういうものだ。
 しかし――

「いーや、それも駄目」

 そんな事を言いながら、また顔を笑顔へと戻しながらこちらの隣へと座ってくる香純。
 本当に表情が直ぐにころころ変わる奴だと少し呆れた。



「……その、さっきはごめんね、色々と」
「ん……ああ」

 並んでベンチへと座りながら、そんな切り出しをしてくる香純。
 正直、何の謝罪かはよく分からなかったが、まぁ道場の事だろうと適当にあたりをつけて蓮は言葉を返す。

「あたしがやったのに片付けとかさせちゃって、ヘンな気とかも遣わせちゃって、こんな時間まで付き合せたりして……」

 ……別に、全部自分で好きに選んでやっていることだ。
 そう思いはしたが、しかしそれを言葉に出して言うつもりは無い。……自分がこいつを気遣ってるなどと、そんな負い目のようなものをこいつに負わせたくはなかった。

「なんか今日、蓮に甘えてばかりだね。呆れてない?」
「別に、いつも呆れてるし」

 半分以上が本音だが、それが自分にとってはこの上も無い救いになっているのは事実だ。

「それに、最初の二つはどうでもいいだろ。おまえ掃除下手だから片付けなんてさせられないし、次のも気ぃ遣ったわけじゃない。
 ……ま、最後のだけはちょっと勘弁して欲しいけど」
「あー、ひどいな。あたしとしては、むしろそこだけ大目に見て欲しいんだけど」
「現在進行中なのにか?」
「現在進行中だからこそだよ」

 そう言いながら香純は蓮の手を取ると共に、何かをそっと握らせる。
 いったい何かと蓮は思わず握らされたそれの正体を確かめようと手を動かす。
 チャラ、と鎖の音。硬質な手触り。

「これは……?」
「プレゼント。迷惑かけたお詫びも兼ねてね」

 そう言ってきた香純からのプレゼント。それを改めて確認する。

「どうコレ、気に入ってくれたかな?」

 少し変わったデザインをしたシルバー製のチョーカー。掌にすっぽり収まるように置かれていた香純からのプレゼント。

「これ、俺に?」
「うん、きっと似合うよ。露店で見かけた時、ビビッてきたから」
「おまえにきても、しょうがないと思うけど」

 あくまでプレゼントする側で、身に着けるとしたならこちらなわけだし。
 ……だが、これはこれで結構良い物かもしれないかと蓮も思い直す。

「高かった?」
「まぁ、ちょっとだけね」

 だろうなと思う。あまり着飾る方ではないが、こういうのがそれなりの値がつく物であるくらいは凡そ予想が付く。
 二万から三万くらいだろうか? 誕生日でもないのに高価と言って良いだろう値段の物を貰うというのも蓮とすればなんか悪い気もして気兼ねを抱く。

「早めのクリスマスプレゼントだとでも思ってよ。気にしちゃうんなら、お返しくれればいいから」
「分かった」

 まぁお返しは必要だろうとは当然思ってもいた。これに見合うものでも何なり見繕う必要が出来た。
 そう言えば、クリスマスと言えば先輩――氷室玲愛の誕生日だ。一弥がクリスマスと彼女の誕生日を兼ねたパーティーを計画していることは知っている。自分としてもそれに手伝うつもりだが、あと二週間ほど先ではあるが、このお返しはその時に一緒に買えばいいだろうかと蓮は思った。
 ……しかし金が無い。バイトも今はしていないし、一弥もこっちに貸してくれるほどに余裕があるかどうかも分からない。さてどうしたものかと現実的なその問題に少しだけ悩む藤井蓮だった。

「とりあえず、ありがとな。なるべく着けるようにする」
「今着けなさいよぉ」

 そう言いながら香純はチョーカーを持ったまま、その手を蓮の首の後ろへと回す。

「へへ、あたしが着けたげるね」
「…………」

 どこか照れ臭げに頬を赤らめながらそう言ってくる香純。
 その気恥ずかしさに釣られたのか、蓮の頬もまた若干に赤らまった照れ臭げだ。
 ガキの頃からの付き合い。異性と言うには身近すぎる距離感。
 ……そして、ある負い目。
 それらが合わさり、藤井蓮は今まで綾瀬香純の事を異性として認識したことは殆ど無かったと言っていい。……いいや、自ら意図的にも努めてそうあろうともしてきた。
 今更、額が触れそうな程にまで急接近されてそれが覆ると言うわけでもないが……しかし、慣れていないシチュエーションだというのは確かだ。
 だから慣れない事は苦手でしたくないのだと、照れ臭く感じる己の感情へと言い訳のように内心でそんな言葉を蓮は呟いてもいた。

「む、あれ、この……」

 上手く着けられないのか、苦戦した様子も顕にする香純に早く終えてくれないかとも思う蓮。

「えっと、ちょっと動かないでね。
 ……あれ、おかしいな。これ、どうなって」
「…………」

 手間取る香純を間近にしながら、その様子に内心でこの不器用めと彼女へと呟く蓮。

「痛っ、おまえ、髪の毛巻き込んでる」
「あ、ごめん。でも動いちゃだめ」

 そうは言われてもこちらとしても髪の毛を毟られるのは堪った事ではない。已むなしだと自らに別に必要も無いのに言い聞かせながら、頭を俯かせる。
 結果、益々香純と接近し、本当に額を合わせる様な形へとなってしまった。

「へへへ……どアップ、可愛いね」
「…………」

 間近で向けてくる香純の笑み。直視するには……やはり流石に照れ臭さが勝るというもの。

「なんでそんなに嫌そうな顔するかなぁ?」
「男に可愛いは禁句なんだよ」

 特に女顔に若干のコンプレックスすらある蓮からすれば、それは大抵褒め言葉ではなく嫌味だと受け取ってしまう。

「そうなの? でも事実じゃん」
「くどいな、おまえも」

 おまえがちゃんと女の子扱いされないと怒るのと同じようなものだ、と内心でだけ返す。
 まったく、たまに女という生き物は可愛い以外の形容詞を知らないんじゃないかとすら蓮は憤慨を抱く事がある。
 もっとカッコいいだの、逞しいだの、色々とあるだろうに。
 ……後それから、たかだかチョーカー着けるのにこいつはいつまで手間をかけてるんだと蓮は思う。

「なんか、いいね。こういうのも」

 まじまじと楽しげにこちらの顔を覗きこんでくる香純。
 能天気で無防備な奴、そんな風に少し呆れる。

「その目、ムカつくから閉じろよ」
「い・や・だ――蓮が閉じたら?」
「絶対嫌だ」
「どうしてよ?」
「身の危険を感じる」
「いたずらとかしないからさぁ」
「それ、100パー嘘だろ」

 信用ならない。そんならしくもなくいつも以上にどこか上機嫌な香純を相手には。
 ……というか、そもそも、

「おまえ、ちょっと今日おかしいぞ。何かあったか?」

 どうして今日に限ってこんなにも、彼女はいつも以上に積極的なのか。

「実は二日目なのですよ」
「アホか」
「アホってなによ。ほんとのことなのに」
「ほんとなら、なおさらそんなの公言するな」

 年頃の娘がはしたない、そう思わず説教を口走る蓮に香純は眉を顰める。

「うわ、おっさん臭っ」
「と思ったけど、やっぱりいいわ。乙女じゃないし」
「なにーっ」

 前言を翻した蓮に向かって聞き捨てならんと噛み付いてくる香純。
 コントのような馬鹿なやり取り。いつまでも続けていても埒が明かない。
 そう思ったからこそ、蓮はうなじの辺りでごそごそやっている香純の両手をそのまま押さえ、そのまま自分で留めてしまった。

「ケチ」
「おまえ、やっぱりわざとやってただろ」

 幾ら不器用だろうと、この程度にいつまでも手間取るわけがない。
 のろのろと先延ばして、こいつはいったい何がやりたかったのかと蓮は呆れた。
 そんな何を考えているのかも分からない、しかしながらどこか作業を終えてしまったことへの寂しさも垣間見させながら、

「うーん、でもそれ、やっぱり似合うよ」

 次にはまた嬉しそうな笑みへと変わって香純はそんなことを告げてきた。
 あたしの見立てに間違いはなかった、などと戯けている香純に蓮は意地が悪いのを承知で胡散臭そうな顔をしながら尋ねる。

「そうか?」
「そうなの! 似合わないものプレゼントするほど、あたしセンス悪くないもん」

 女のファッションセンスなど知らん、とは思いながらもそうまで自信ありげに言ってくるならそうなのだろうと納得してやる事にした。

「それでね、水星なんだって」
「はぁ?」

 急に香純の言い出してきた言葉の意味が分からずに思わず問い返す蓮に、香純は仕方ないといった様子で言ってくる。

「だから、水星。星。マーキューリー。オーケー?」
「……何が?」

 だから単語の意味ではなく、何故それがこの流れと繋がるのかと訊いているというのに、と呆れる蓮に漸く香純も次にその意味が分かる説明をしてきた。

「それのデザイン。お店の人が言ってたけど、太陽系の縮図なんだって」

 もっかい見てみ、などと促がしてくる香純の言葉に従いながらも蓮は自らの首に着けたチョーカーへと改めて視線を落とす。

「ね、そんな感じでしょ?」
「まぁ、言われてみれば……」

 言われてみなければ気づくのは難しいということでもあるが。
 だがしかし、中々に凝ったデザインをしていたのは事実だ。ペンダントトップの装飾は、車輪か歯車、もしくは時計なのかと思っていたのだが、先の言葉を言われて意識して見て見れば、成程、確かに太陽系だ。中心を囲うように、九つの星が円環する形。

「だからそれに合わせて九種類のタイプがあるんだって。それはその水星バージョン」
「……へぇ」

 未だに冥王星が入っている辺り最新モデルというわけではなさそうだが、それでも胸元のその水星バージョンとやらの作りを弄くりながら一応意味の分かった納得を示す蓮。
 だがそうだとしても……

「でも、何で俺に水星なんだ?」

 九種類もあって、星は他にもあるだろうに何故に水星なのか。
 別に香純とて深い意味で選んだわけでもないかもしれないと思いながらも、自分でも不思議と何故かその部分が気になったのだ。
 しかし蓮のそんな問いに香純はどこか当然のような口振りで、

「ぴったりだから」

 そんな答えを返してくる。
 どこが、と思わず問い返す。これでも水星人に知り合いを持った記憶などないのだが。
 そんな訝る蓮に対し、香純はどこか偉そうに鼻を鳴らして、

「まず時間にうるさい」

 唐突にそんな事を言ってきたかと思えば、

「すぐ逃げる。足が速い。そして意外に手も早い」

 次々と欠点なのか長所なのかよく分からない部分を上げ連ねてくる。
 自分のことを言われているのだとは思いながらも、何だよそりゃと内心では少し呆れすらも蓮は抱いてもいた。

「水星はね、盗賊と旅人の星なんだって。あんたちょうどそんな感じ」
「…………」

 やっぱりそれ貶されてはいないだろうかと若干蓮は眉を顰めた。
 だがそんな蓮など気にした様子もなく、香純は鬱積した不満でも打ち明けるかのような愚痴を続けていく。

「あたしや一弥に内緒で、すぐどっか行っちゃうとことか。自覚してる?」
「……一応は」

 言えば必要以上におまえらが心配するから、とは流石に口に出しては言えない。

「なんか距離置いてる感じにスカシてて、ちょっと感じ悪いのは?」
「…………」

 ベタベタするのには慣れていないだけ。別に他意があるわけでもない。それと感じ悪いってのは余計だ。

「司狼と微妙に怪しかったり」
「……おい」

 それだけは断固として否定させてもらう。そういう趣味嗜好性癖は欠片も互いにない。もしあれば自分たちの関係はもっと早くに致命的に終わっていただろうし。

「あたしだけすぐ除け者にしたり」
「それは……」

 おまえにだけは知られたくない。関わって欲しくない。ただそれだけなんだがな。けれどそれをこいつが仲間外れと思っているなら、謝れはしないが少しだけ心苦しい。

「何か悩んでるくせに教えてくれない」
「…………」

 教えられることではない。教えていいことでもない。これくらいの悩みは……自分で背負って何とかするさ。

「ちょっとだけ、悔しいよ」
「香純……」

 返す言葉が見当たらない。だがそういう顔をして欲しくなくて、そんな感情も本当は抱いてほしくないだけなんだが……。
 いや、全ては都合のいい自分に対しての言い訳かと蓮はそれを振り払う。
 なぁ香純、おまえどこまで……

「一弥が言ったんだ。何があっても俺はおまえたちの味方だから、って」

 香純が告げてきたその言葉。……成程、確かにあいつならそんな風に思っているのだろうし、或いは口に出して言うのかもしれない。

「あたしもさ……あたしも、あんたの味方だよ。だから――」

 ――つらい時は、頼って欲しいな。

 そう言ってくる香純。見つめてくる真っ直ぐな視線。
 酷く眩しくて、慣れてなくて、思わず少し目を逸らしてしまう。

「剣道強いんだぜ、あたしって」

 精一杯にそれを誇るように、或いはそれを使って強がるように告げてくる香純の言葉。

「……知ってるよ」

 ああ、おまえは強いさ。けどだからって、そんな強さくらいじゃ奴らを如何こうする事なんて出来やしない。
 否、そもそもあんな奴らと香純を関わらせてはいけない。
 香純だけじゃない。一弥や先輩だってそれは変わらない。

「あたしは蓮の力になりたいよ。忘れないで欲しいな、そこんところ」

 ……力になりたい、か。
 そんな必要はないだろうと胸中で香純の言葉を蓮は否定する。
 何故ならとっくの昔から、綾瀬香純は藤井蓮の力になってくれているのだから。

「だからね、それは戒めなの。勝手にいなくなるなよ、旅人さん」

 そう笑いながら、香純は軽く蓮の胸をとんと叩いてくる。
 下手な一撃を貰うより、それは何倍も胸に効いた。

「司狼……がさ、いなくなっちゃって、あんたまでいなくなったら……あたし、どうしていいか分からないし」
「……まだ、一弥が残ってるだろ?」

 少なくとも、例え司狼や自分がこいつの前からいなくなったとしても、あいつだけは香純の傍を離れはしないはずだ。
 それが分かっていて、いざという時は任せると言う言葉で押し付けようとしているのとも同じだと思い、罪悪感を抱きはするものの、けれどやはりそれに頼ってしまう。
 一弥が香純の拠り所になってくれるはず、こいつの傍を離れるかもしれない躊躇いへの免罪符は決まっていつもそれだった。
 ……ああ、俺は充分に卑怯者だと藤井蓮は自嘲すらも浮かべかける。

「……でも、蓮がいてくれなきゃ、あたし嫌だよ」

 それでもそう言って首を振ってくる香純。
 今は彼女のその仕草と言葉が、蓮にとっては何よりも重い。

「…………」

 俺はおまえにそんな事を言われる資格なんてない。
 そう言って突き放せてしまえば憂いも消せよう。しかしながら、それを行える度胸が生憎と今の藤井蓮にはなかった。
 香純と一弥、それに先輩たちのいてくれる日常。
 そこが何よりも大切で、そして愛おしい。
 それを失いたくはない。壊されたくはない。
 だからこそ、守らなければならない。
 …………守らなければ、ならないが。


 ――そこから離れる事が、自分が逸脱してしまう事が今は怖い。


 だからこそ、こうしてずるずると大切な人たちまで巻き込みかねない危険があるというのに、彼らの傍に居る事をやめられない。
 これはきっと――

「約束、するよね?」

 ――蓮は、何処にも行かないって。

 不意に、香純がこちらへと投げかけてくる言葉。
 蓮もまた俯きかけていた視線を彼女へと徐に戻しながら反応する。
 ここで香純を拒絶する事、日常における接点を断ち切ることには……やはり躊躇いを感じる。
 それが度し難いほどに愚かな甘えなのだとしても、それでも思うのだ。
 俺は人間だ。連中のような化物じゃない。
 その思いを迷わず抱けるのは、香純たちがちゃんと傍にいてくれるから。
 ここで香純を突き放せば、手離してしまえば二度とあの陽だまりに戻れなくなりそうで。
 だからこそ、それが怖くて、何も選べないままになっていて。
 ここまで己の情けなさ、馬鹿さ、間抜けさ、くそったれさを感じたのはいつ以来だろうか?
 ……ああ、それはきっとあの司狼の一件以来かもしれない。

「俺は……」

 せめて、女の前でくらいは空元気を振り絞れる男になれ。
 そう自らに言い聞かせようとしながら口を開き――

「……蓮?」

 不意に襲ってきた眩暈、猛烈な吐き気。
 視界が暗む、平衡を保てずに傾いて闇に侵蝕されていくその中で――

『――お帰り』

 最後に耳に響いてきたのは、あの悪夢の中で聞きなれた歌を紡いでいたのと同じ声だった。

『また逢えたね。カリオストロ』

 歌うようなその少女の声を聞きながら、藤井蓮は唐突にその意識を失った。



[8778] ChapterⅢ-8
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 23:43
『Verum est sine mendacio,certum et verrissium:
 これは疑いもなく確か且つ、これ以上の真実はないというほどの真実である。

 Quod est inferius est sicut id quod est superius,
 すなわち下にあるものは上にあるものがごとく

 Et quod est superius est sicut id quod est inferius,
 上にあるものは下にあるものがごとし

 Ad perpetranda miracula rei unius.
 それは唯一なるものの奇跡の成就のためである』



 永遠を切り取った黄昏の浜辺。
 呪われた断頭台の歌姫がその歌いはじめた傍らで、輪郭も怪しき茫洋な影が徐に指揮者のように両手を掲げる。
 纏う外套が無限の如き広がり、空も海も太陽すらも、黒く黒く覆っていく。
 それは永遠たるこの黄昏の浜辺へと夜を齎し、止まっていた時を強制的に動かしだす。
 徐々に暗転していく世界の中で、祝詞のように響く言葉。

 彼はあらゆる名を持ち、あらゆる時代を流れてきた彷徨い人。
 その影絵の術師が、声なき声で嘯く。
 開幕の調を。

「ではこれより、今宵の恐怖劇(グランギニョル)を始めよう――」



 そうして、ぐるんと視界は回って一周し。
 ガチリと挿げ替えられた首が再びにその目覚めを果たす。

「あ――」

 絡み合い形成される二匹の蛇の杖。その頭部の片割れ。
 殺し役。このシャンバラで彼のために魂を集める役目を持たされた連続首狩り魔。
 出番だ、行かなければ。
 本体の予期せぬ自制行動の結果停滞してしまっていた作業。規定値にはほど遠く。その存在も未だ脆弱。
 これでは“彼”を守れない。
 アイツらを殺せない。
 だから行こう。集めよう。もっと多くの首を切り、もっと多くの魂を奪い、もっともっと強くなろう。
 それが今の自分が行わなければならない使命。

「行ってくるね……蓮」

 傍らで眠りに落ちた愛しい彼。彼女にとっての全てに等しきその存在。
 誰にも傷つけさせないし、奪わせもしない。
 だからこそ、守る為の更なる力を手に入れるために、一時彼の元を離れよう。
 始まれば、きっと奴らもやってくる。ならば尚更に彼を巻き込むわけにもいかない。
 ……それに、何故だろう。やはり彼に今の自分の姿を見られたくもないと思っているこの気持ちは。
 だからこそ、今は彼の元より離れ向かおう。
 自分に課せられたその使命を、躊躇うことなく遂行する為に――




 綾瀬香純は疾走する。……そう、疾走していた。
 凡そ生物が発揮できる限界を超えた瞬発力。それを持続させ風の如くに駆け抜ける。
 その速度、地上最速の生物たる猫科の猛獣が発揮する時速120km――その三倍から五倍強。
 生物が“常識”的に出せる現象を逸脱した行為。だがむべなるかな、事実今の彼女は既にその“常識”より乖離している。悪魔の齎した理法を駆使した人ならざる存在だ。
 駆け抜けるその姿が魔人なら、その行いもまたそれに相応しいと言わざるを得ない徹底とした阿鼻叫喚。
 綾瀬香純はただ走っているのではない。凡そ人の身では出しえない速度で駆け抜けながらその身に宿った力――不可視の刃を生み出して、進行方向上のあらゆる生物を殺し続けていた。
 狂い咲き乱れる血の花。例外なく殺し尽くされていく男に女、子どもに老人、そして動物。
 例外は無い。彼女の駆け抜けるその道は全てを殺す屠殺場であり、進行方向上に存在する全てはその対象たる家畜だ。
 公平に、過不足なく、一つの違いすらもなく。処刑方法は総じて同じ。

 ――即ち、斬首。

 死を巻く旋風と化した彼女。正にその姿は生きた断頭台。己の前に立つ者を例外なく殺し続ける無慈悲な処刑人。
 翼のように広げられたその両手は死女の腕(かいな)に他ならず、その抱擁にかかれば如何なる者も生きてはいられない。
 何故ならこれは処刑のために存在するモノ。
 殺害という行為、ただ一つのその目的にしか役立たぬモノ。
 武器でもなければ兵器でもない。であればこそ、極めてシンプルなそれは誰が扱おうとも属性は変えられず、アイデンティティも揺るがない。

 そう、ならばこそこと殺しに関して、今の綾瀬香純が他の追随を決して許しもしないのも至極当然のこと。

 なればこそ、駆け抜ける己を止められるモノはおらず、己が与える死を避けえるモノなど存在しない。この場の絶対的な生殺与奪権を握っているのは魔人と化した彼女なのだから……。

 ――そう、同じ魔人以外ならば。


「――ッ!?」

 疾走し血の花を咲き乱させる死の行軍の中、後方より急激に迫ってくる人ならざる圧迫感に綾瀬香純は気づいた。
 来た、鬼が来た。獣を狩る狩人が、人外羅刹の魔人たちが、彼を脅かす元凶とも言える存在たちが。
 再びの活動を始めた自分を追ってやって来たのだ。
 今宵こそ、この身を追い詰め逃がしはしないと。いつまでも逃げ回り好き勝手をさせる慈悲など与えはしないと。
 半世紀も昔の妄執を引き摺った鬼たちが、この身を狩り獲る為に迫ってきている。
 その速度、人の身を超えた魔人たる自分と同等――否、それ以上。
 その実力、その執念、喰らい溜め込んできた魂は強靭にして膨大。未だ脆弱たるこの身では比べたところで塵芥の域すらも脱する事も適うまい。
 追いつかれればまともには逃げられない。まともに戦えば数合持たずに粉砕される。
 香純にとっての問答無用の窮地。そんな中、追われ逃げ続ける彼女の選んだ決断は――



 ヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイは歓喜の哄笑を上げていた。
 見つけた。漸くに見つけ出した。探し続けてきた本来の獲物の姿。
 あのクソ野郎が舐めて寄こしてくださりやがった自分たちの遊び相手。副首領閣下の代替サマ。
 最高だ。最高すぎてイカレ狂いそうだ。喜びの余りに加減すらも出来そうにない。
 ああアレを殺そう、壊そう、木っ端微塵に原型や跡形も残す事すら許さずに。
 殺して、嬲って、啜って、晒して、吊るした後に。
 楽しい、それはそれはきっと楽しい。さぞ溜飲の下がる心持ちになるに違いない。
 だからこそ――

「邪魔なんだよ、劣等共がっ!」

 俺の進行方向上に、ゴミの如くに渦巻いてんじゃねえ。
 そう苛立ちを叩きつけるように走行中の車両を頭上から足に生やした棒杭をもって踏み貫く。
 電柱のように巨大なソレへと踏み貫かれた車両はそのままに爆発炎上。それすらも束の間、一瞬にしてバラバラの鉄塊へと風化していく。内部にいた人間は焼かれる以前に風化して木乃伊と化していた。

「……不味い」

 やはり劣等。クズの味はベイの舌を満たすものとしてはほど遠く、なればこそに逸る心と苛立ちを抑制する要素とはなりはしない。
 血もガソリンも水も貫いた対象から根こそぎ吸い上げるその行為を打ち切りながら、ベイはその視界に捉えた逃げる背へと獰猛な獣の笑みを向けて告げる。

「なぁツァラトゥストラ、てめぇはさぞ上等なんだろうな」

 早くそれを味あわせろ、楽しませろと哄笑を上げながら追撃を再開。
 連続してアスファルトを穿つ杭を形成しながら、その上を飛び跳ねて逃げる獲物の背を追い続ける。
 実際の所、追う速度として見るならばベイの出すスピードは到底対象に追いつけるものではない。しかしながらそれでも対象との距離を徐々に縮めていっているのは単純に歩幅の差が圧倒的に凌駕しているためと言えるだろう。
 長さ十メートルを超える杭。それを足より生やして前進を続けるその様は、サイズ自体が人間大のものであれ、傍から見れば巨人の行軍。
 であればこそ、足元の存在などというものに今更彼が省みるはずもなく、次々に踏み潰して進むその後に残るのもまた、ツァラトゥストラが生み出す阿鼻叫喚とは別種の地獄絵図である。

 不幸なのはこの一週間、なまじ事件が起こらなかったということもあるだろう。
 危機感を薄れさせ、夜の活気を取り戻しかけていた街の名所は深夜であっても人が集い、眩いライトで装飾されてもいる。
 そんな中をまるでこの時の為に用意された供物と言わんばかりに、そのことごとくをギロチンと杭が蹂躙していっているのだ。
 血に染まる橋。
 朱色にライトアップされたその姿は皮肉な事に尚も輝きを損なう事もないままに、凄惨美とも言える光景を作り出している。

 そんな百鬼夜行のような怪奇の行軍の印象を、更に如実に抱かせる怪異もまた現れた。
 地響きを踏み鳴らし橋上を揺るがし進むその異形。
 車輪――そうとしか説明できず、そのままの形の、しかし直径五メートルあろうかという巨大なソレがスパイクでアスファルトを砕きながら白貌と共に前方の獲物を追っていた。
 人を、車を残らず轢き潰して轍へと変えていくその様は荒唐無稽なまでの理不尽であり、もはや笑い話にすらもなりはしない。
 常識を逸脱した大きさではあるが、その車輪は刑具――異端審問の時代に使用された拷問器械に他ならない。
 なればこそ、その上に立ち悲鳴と鮮血を生み出し続けている赤毛の魔女はその審問官に他なるまい。

「ふぅん、今日はまた随分と見境ないのね。まぁ、私も派手な方が好きだけど」

 マレウス・マレフィカムの声には愉悦と興奮、そして緋色の媚が混じっていた。
 相棒たる白髪の畜生鬼と同様に、彼女の心を支配し逸らせているのもまた対象へと抱いているその妄執。

「あなたはいつもそうやって、わたしたちを見下しているのね。
 未だに自分が上だとでも思っているつもりかしら」

 であるとするならば、それは度し難き驕りであろう。
 自分たちが積み重ねてきたこの半世紀をもって、認識の修正を行ってやらねばならない。
 獣の爪牙、黒円卓の流儀に則ったやり方で――

「いいわ、わたしが試してあげる。追いかけっこを続けましょう。
 ――ただし、紛い物だったらただじゃすまさないからね」

 魔女を乗せて行軍する巨大車輪の通過跡、そこから放射状に広がっていく食人影(ナハーツェーラー)は瞬く間に橋を覆うと共に、全ての死傷者と破壊された車両の残骸を飲み込んでいく。
 後には何も残らない……なんと馬鹿げて常識外れも甚だしい怪異であろうか。一方的な虐殺とその証拠隠滅。
 ここまで徹底してやられれば、確かに不条理すぎて世人には原因不明という結果を口にせざるを得まい。

「おまえも毎度ご苦労だな、マレウス。細かすぎると老けるのも早いぜ」
「そう思うなら、少しは自重って言葉を覚えて欲しいものね」

 並走しながらの破壊、虐殺、隠蔽。その傍らにて交わされる赤白の魔女と騎士による軽口の応酬。
 今宵、どちらも変わらず劣らぬ上機嫌の原因は無論の事ながらその前方を追い続けている獲物の存在があればこそ。

「無茶言うなよ、長いお預けの後だったんだぜ。がっついちまうのも仕方ねえだろ」
「まぁ、あなたの気持ちも十分分かるわ」

 何せ半世紀。六十一年も自分たちは待ったのだ。
 鬱屈した感情を、拭い去れぬ屈辱に只管に耐え続けながら。
 ならばこそ、この場、この幕開け、相手方への顔見せと挨拶には必要以上に気合を入れてしまうのも仕方が無いというもの。
 よしんば、運悪くやりすぎとなったとしても誰に自分たちを責めることが出来ようか。
 前面に押し出した感情の発露もままに、遂に魔人たちの追走劇に終着点が見え始める。
 逃げるツァラトゥストラ。追うベイとマレウス。
 そして遂にその獲物の背が、彼らの射程距離内へと入った。

「追いついたぜぇ、そこ動くなよォ!」
「ちょっと痛いけど、我慢しなさい」

 号令一過、ベイの右掌より生み出され射出されたのは大人の胴回りはあろうかという大きさの杭。続くマレウスの影からは鋲で武装された鎖の束が一斉に噴出する。
 串刺しか、或いは絡め取られての車裂きか。
 彼らにとっては挨拶代わりの一撃だ。これを決め手に相手を仕留められるなどとは思っていない。
 この相手が本当にあの副首領の代替だと言うのなら、まかり間違っても死ぬはずがないのだから。
 ……もし、仮にではあるがこれで本当に死ぬようなら、逆に言えばその程度の存在は自分たちには用も成さない不要なものともいうこと。
 黒円卓にはそんな劣等を座らせるための席などはない。黄金の獣の下僕として、その爪牙に相応しきものを有さぬ者に与えられる栄光などはありはしない。
 だからこそ、ベイにとってもマレウスにとってもこれは遠慮や呵責も何も無い本気の一撃。創造ではなく形成による一撃というだけで、それ以外は殺す気で放った一撃である事には違いないのだ。
 そう、これで死ぬようなら仕方が無い。ベイのマレウスの目にも任務という目的とは裏腹にそこに光っていたのは打算の込めたそんな相手へと向ける激情だった。

 迫る聖遺物の一撃。常人ならば喰らえば即死。実態を有さぬ死霊の類だとしてもその秘奥はそれを十分に殺傷しうる威力を持っている。
 人であれ、魔であれ、神であれ、戦えば鏖殺。
 それが彼らの振るう理外の力、人外の業たるエイヴィヒカイト。
 修羅の戦鬼のみが振るう禁断の遺産とその攻撃を、無効化する法は事実上存在し得ない。
 故にこそ、二人の魔人の思惑は決まっていた。
 直撃しても死にはしない。だが無事というわけにもいくまい。
 なればこそ相手の取れる選択肢は全神経を集中させての防御か回避。
 その隙を突いて捕縛する。任務だ、生き残るならそれはそれで仕方なかろう。
 だからこそ、二人の立てた予想や方法は決して戦術的に見ても間違ってなどいなかった。対象が本気で生き残るつもりがあるならば他に方法はないとも思われていた。
 そう――


 ――その当たれば必殺必至であるはずの攻撃二つを一切躱さずに受けるなどということさえしなければ。



 実際、無茶な博打この上ない馬鹿げた行いであること事態は綾瀬香純自身にも理解できていた。
 ギロチンに意識のほぼ全てを掌握され、斬首という行為一点に囚われた彼女であれマトモな戦術的思考くらいは残っている。
 であればこそ、とうとう追いつかれてしまった以上、マトモな方法ではこの魔人たちからはどうあっても逃げ切れないことくらいも理解できていた。
 そんな中で放たれてくる相手からの呵責のない攻撃。形成位階のソレに対して未だに活動位階である彼女では防御や回避を用いても完全には凌ぎ切れない。
 そう判断したからこそ、向かってくる攻撃、そして選び取った行動への全てに意識を傾けて他は全て忘我と捨て去る。
 杭が体を貫き、鎖が肌に絡まって引き裂かれる。呪いの凶器をもって繰り出される魔人たちの攻撃は常識に存在する痛みの比ではない。
 それこそ一瞬、耐え切れずに意識が飛ぶかとすら思った。
 しかし――それでも、脳裏に過ぎった“彼”の顔がそんな自分をギリギリで踏み留まらせた。
 自分が死んでも代わりはいる。結果的にここで潰えてもまた新たな代わりが彼のために動くだろう。だが、より多くの魂を集めなければ彼がこいつらに殺されるという事実自体は変わらない。
 そんな事を許せるはずが無い。可能性を是が非でも否定しようとする彼女の怒りは、屈しかけた痛みを凌駕して、再び彼女を奮い立たせる。
 彼を守るのは自分だ。自分の役割だ。愛しさと共に誇りすらも抱く使命感はそのまま爆発的な瞬発力となり香純を後押しする。

 結果、攻撃を耐え切った香純はそのままに、直後その事実に驚愕し無防備となった相手へと目掛けて不可視の刃を叩き込んだ。



「――にィッ!?」
「――嘘ッ!?」

 防御も回避も歯牙にもかけず、どころか被弾を前提に繰り出してきた相手の渾身のカウンター。
 予想を覆され、目の前で見せられた行為に驚愕した彼らは、攻撃直後の硬直とも合わさり見事にソレに直撃――数十メートルもの距離を弾き飛ばされた。
 ベイもマレウスも無事に着地は成功させながらも既に標的は射程距離外。それどころか完全に見失った結果と言っていいだろう。

「……やってくれたわね」

 眉を顰め、臍を噛む苛立ちの籠もったマレウスの呟き。まさかあんな蛮勇じみた狂行を相手が躊躇いもせずに行ってくるなどとは思ってもいなかった。
 当然だろう、何処の世界に放たれた凶弾を躱すことよりも射手を殺傷することを優先する者がいるだろうか。命知らずも度が過ぎればそれは狂気の沙汰だ。
 ……だが結果的に、これは取り逃してしまったというその事実を覆せる言い訳にはならない。
 向こうも手傷は負っただろう。しかしそれは双方同じこと。むしろその覚悟を持って事に臨んできたあちらとは違い、こちらは見事にあちらの行動に引っかかって直撃を受けたのだ。
 先のこちらの攻撃では恐らく深手までは負わせられなかっただろう。それは既にこちらの気配の探知から逃れた相手のその後の動きを見れば明らか。
 ならば、この結果が意味する事は……

「……今のはこっちの負けね」

 痛む傷口に顔を顰めながら、呟く魔女の言葉と表情に滲んでいたのは悔しさと不快さだった。

「肉を切らせて骨を断つ……か。あんまり好きな思考じゃないわね。この国の価値観に毒されちゃったのかしらね。どう思う?」

 傍らの相方――沈黙を続けているベイへとさり気なくそんな疑問を投げかける。

「知るかよ」

 吐き捨てるように立ち上がる白貌。その様子は怒りと屈辱に狂った言葉にするのも困難な獰猛な様相である。

「追うぞ、マレウス。野郎も無傷じゃねえ。今夜中にカタをつけてやる」
「分かってるわよ。こんな目に遭わされて、黙ってられるもんですか」

 散々に追い続けてきた憎らしい相手からの小生意気な反撃。噴飯物の結果と言わずどう言えというのか。
 感じる痛みは新たに受けた屈辱も同じ。聖遺物による一撃が歴史に積み重なれた想念の呪いによる毒も同じであれば、その痛み具合も尚更だ。
 ましてそれは、彼らのような人外の外道にこそ効果を発揮しやすいともあれば皮肉以外の何ものでもなかろう。

「痛い……痛いわ。わたし泣いてしまいそうよ。耐えられない。
 ねえ、ベイ。あなたもそうでしょう? こんな痛い思いなんて、この六十年間してこなかったんだからどうしていいかも分からないわよ」

 半世紀ぶりの痛覚の訴えに顔を顰める魔女。
 だがその一方で傍らの白髪の畜生鬼の方はといえば……

「ああ、痛い。痛いよなぁ。……だがよマレウス、おまえは嬉しくならないか?」

 俺は嬉しいぜ、と逆に狂喜の笑みすら浮かべるベイ。
 実際、久しく忘れていた感覚だったが、あの劣等の小僧、レオンハルトとの小競り合いとたて続けに血を流しているベイは、マレウスとは違い段々と戻ってきているこの感覚に歓迎の意すら抱いている。
 一方的な殺戮をこなすというのも快感だ。しかしながら、闘争の本質はと問われればやはりこれだろう。
 喰うか喰われるか、互いの全存在を懸けて鬩ぎ合うことで生まれてくる緊張感と高揚感。これに勝るものなどやはりあるはずもないのだ。
 ベイの脳裏に過ぎるのは、あの輝かしい戦場の煌きだ。命をぶつけ合うことで散華し、刹那の火花を燃やし合ったあの素晴らしき光景だ。
 その何と美しく官能的であることか。退屈を持て余して餌として抱く女の味などでは到底それに敵う筈も無い。
 そう、これが戦だ。これこそが戦場の醍醐味だ。生きていることを最も充実して感じる事の出来るその瞬間ではないか。
 昂ぶる、熱る、火が点いてきた。股座がいきり勃つ。もう止まらない。
 今宵、漸くに黒円卓の戦は幕を開けたのだ。

「感じさせてもらおうぜ……まだ始まったばかりじゃねえか」

 そう、まだまだ始まったばかり。
 お楽しみはこれからだ。



 そうして開戦に昂ぶる魔人たちが立ち去ったその虐殺の後。
 決死の蛮勇を敢行し、対象への情念だけを支えにその窮地すらも脱した綾瀬香純は、しかし苦しみの渦中より逃れいずる術を持たぬままに懊悩する。
 寒く冷たい海水の中、凡そ五分以上に渡り息を潜めて暴威たちをやり過ごし、再び海面に現れた彼女に浮かび上がっていた疲労は甚大なもの。
 凍てつく寒さが体力を奪い、喰らい浴びた呪いの一撃は沈殿する毒のように未だ己の内部より痛みを発し続けていた。
 しかしながら、彼女を苛む最大の要因はそんな身体的なものではない。千々に乱れ容易な形成すらもままならぬ思考が訴えかけていたのはありとあらゆるマイナス感情。
 彼女は殺人鬼。その意思がどこから正気でどこから狂気かなどということは今更問いかけてみたところで分からない。仮に自身を御せるかで線引きを行うとするならば、間違いなく既に手遅れの狂人であろう。
 殺人への欲求。そんなものは最初から存在していなかったし、嬉々として抱いたことすらもありはしない。むしろ殺しなど、したいかしたくないかで言えばしたくないに決まっている。
 それでも止まらない、斬首という行為をやめる事が出来ない。
 それは何故か……分からない。まるで思考が複数存在するとでもいうように、切り分けられた主観と客観の区別すらも出来なくなっている。
 寒い、冷たい、苦しい、こんなことなどやりたくない。
 まだ足りない、全然足りない、不足している、満ち足りていない。
 もうやめたい。/もっとやらなければ。
 どちらが人として正しくて、どちらが彼女の望むべき事なのか、もはやそれすら分からなかった。
 ただそれでも無意識が促がすままに、疲労の極まる体は覚束ない泳ぎで岸壁に向かって進みだす。
 負った手傷、酷使による疲労、そしてどこからか訴え続けてくる罪悪感。
 吐血した。込みあがってくる痛みと嘔吐感、そして後悔が涙と変わってぼろぼろと頬を伝って流れ続ける。
 辿り着くべき岸は遠く、そこからまた集めなければならない魂はそれを上回る果てしなさで、まだまだこの苦しみは自分を解放してくれそうにはない。
 あたしは何をしているんだろう?
 あたしは何をしてしまったんだろう?
 あたしは何をしなければならないんだろう?
 あたしは……本当は何がしたかったんだろう?
 分からないままに、毒を呷るかのような痛みと苦しみを抱え続けたまま、それでも香純は今やっていることを続けていかなければならない。

 そう、全ては大事な“彼”の為に。
 でも――

「……れ……ん」

 朧気に口より漏れた呟きは愛しい“彼”のその名前。
 “彼”を守るために、助けるために、強くするために。
 まだまだ自分は頑張らなければ……頑張らなければ、いけないのに……

「……たす…けて……れ…ん……」

 どうして、他ならぬ“彼”にそんな望みを抱いて呼び続けているのか。
 もう何もかもが分からぬまま、涙すらも乾ききる殺人鬼へと再び成り果てながら。
 それでも、綾瀬香純は混迷極める殺戮の再開たるその最中に、ずっと“彼”にそんな助けを呼び続けていた。




「――成程、これが彼らの聖遺物ですか」

 夜の帳に包まれ、静寂が支配しきったその空間で静かに呟くヴァレリア・トリファのその言葉は予想以上に大きく響いていた。
 神父が見上げるその視線の先、鎮座するようにその一角の主として君臨するのは赤く血に染まった一つの断頭台である。
 これこそが副首領代行――ツァラトゥストラが聖遺物。
 尤も、まだ完全には同化しきったわけではない。それも時間の問題ではあるが。
 兎に角、これで関門は通過したのだ。第一のスワスチカのもう間もなくの完成も合わせれば進行状況は上々と言ってもいいくらいだろう。

「この場はキルヒアイゼン卿が捧げられた場所でもありますからね。彼女が有していた魂もまた上乗せされているということなんでしょうね」
「然り。どちらにせよ、これでツァラトゥストラは覚醒し、この場のスワスチカもまた開きます。全ては万事、滞りなく進行出来ている状況かと」

 ヨシュアの補足にトリファもまた頷く。副首領の仕掛けたカラクリ……やはりだいたいはトリファの予想のついたものであったが、しかしながら大した仕掛けである事には変わりない。
 恐らくは他のスワスチカの開き方もまた同様。……益々にトリファの睨んだ展開の通りに舞台は進んでいた。

「やはりあの方は恐ろしい。このようなやり方、このような仕掛け、そして予見できていた通りなのだろうこの結果。……我々は未だあの方の掌の上で踊らされているに過ぎない存在だと言うわけですね」

 ベイやマレウスのように露骨なものではなかろうと、神父の表情に垣間見えていたのは穏やかならざる感情だ。井底の蛙を見下ろすその慧眼には未だ曇りもありはしないという証明かのようなこの状況への微かな不安だった。
 覚悟は既に固め、それが困難極まりない挑戦たることも理解出来てはいたことだが……これによって改めて認識させられた。

「これは益々もって余す事の無い全身全霊で取り組む必要も出てきましたね」

 どちらにしろ後には退けない。元より退くつもりもないが、こうして幕が開いてしまった以上、尚更にそう思う。

「では予定通り我々も次の段階へと進む準備を始めましょう。先程、その件の“殺し役”とベイとマレウスが接敵し、取り逃がしてしまったそうですが……こうなると連れ戻した方が良さそうですね」

 尤も、血気に逸った彼らがその性格上素直に戻ってくるとは思わないが。

「では私が参りましょうか?」
「いいえ。あなたが向かえば今のあの二人にとっては逆に火に油でしょう。そちらは私の方で手を打ちます」

 自分自身でも分かっていて言ってきているのか、その存在自体が彼らにとっては喧嘩を売っているのも同じだというのに、それこそ今の頭に血が上っている彼らではツァラトゥストラを前に、先に彼の方を血祭りに上げかねないだろう。
 そろそろ監視役として目についている以上、どこかで排除の必要もあるが……まだ舞台の流れとカラクリが完全には判明していない以上、この男の存在は必要だ。
 故にこそ、話はこちらで取り付けるとヨシュアへとトリファは告げる。どうやらここはシュピーネにでも骨を折ってもらう必要がありそうだ。

「どちらにせよ、各々が全力で力を振るえる場を整えることこそが私の役目です。あなたに手伝わせてしまったのは不徳の極みですが……ここから先は役職に応じた働きをお見せしますので」
「私にとっても猊下への助力は課せられた役目でもありますのでお気遣いなく。それよりも、ここから先の猊下の手腕、大層楽しみにさせていただいていますよ」

 ああ、大いに期待しているといい。それがそちらの望みに沿うものかどうかは分からぬが、それでも首領代行としての、ヴァレリア・トリファとしての振るう手腕に手を抜くつもりは無論の事ながらあるはずもない。
 こちらにも、譲れぬ願いと目的がある以上は……。

「それでは猊下、私も失礼ながらこれにて席を外させていただきたく思います。どうかお許しを」
「それは構いませんが……まだ何かあるのですか?」

 双蛇の杖の説明。そしてその殺し役の活動の再開。
 同化の始まったツァラトゥストラの聖遺物。代替の目覚めとそのまま続く第一のスワスチカの完成。
 儀式の開始としての要素は既に果たした。この上でこの男は未だ何のために動くというのか。

「種を蒔き、芽吹いたであろう最後の芽……その回収へと」

 恭しく礼儀を示しながら告げてくるヨシュア・ヘンドリック。気づいて見れば彼がその手に握っている一振りの剣は――

「……それは“彼女”の?」

 この博物館に足を踏み入れて以降、どうにも引っかかっていた奇妙な違和感。この場に存在する聖遺物たるギロチン。それ以外にそれとは別種に感じていた異なる気配。

「あの時に破壊され、消失したものだとばかり思っていたのですが……あなたが回収し、所持していたのですか?」
「ええ。尤も、今まではそちらのギロチンと同じく、これも展示品として紛れ込ませていたのですが……」

 ギロチンの覚醒に触発され、良い塩梅に整ってくれたとその剣を愛おしむかのような丁重な素振りで擦り、笑みを浮かべるヨシュア。
 予想外のカードを隠していたものだ。やはりこの男は侮れない。改めてその様子を見ながらトリファは内心で警戒を高めてもいた。

「我ら黒円卓にツァラトゥストラ、聖遺物の使徒は既に十分に足りているとも思うのですが、今更に増やす必要が?」

 徒に蒔く種はイレギュラーを生み出し、正常な儀式の流れを阻害する原因ともなるのではと危惧するトリファにヨシュアも頷く。

「猊下の危惧はご尤もです。この戯曲、例え端役であれ相応しき資格を持つ者以外が舞台へと上がる事は許されません」

 メルクリウスが描いたシナリオ。至高の役者たちを揃え、舞台を整えた最高の歌劇。
 そこに不純物が混じる余地などと言うものは存在し得ないは至極道理。
 ならば――

「それを与える者は、至高の役者たる資格を持つと?」
「いいえ。アレ自体はこの歌劇へと混じるには不出来で程遠い。例え、聖遺物を有して使徒となろうとも、この歌劇の役者を務められるだけの資格など本来ならばありません」

 ならばどうして、それが分かっていて何故にそれを与えようとしているのか。

「ならば何故?」
「まだ役者の全てが揃いきっていないからです」

 役者の全て……まぁ確かに、代理を寄こし参加するかどうかも分からない副首領は兎も角として、自分たちより遙かに強大な力と権限を有した上役たちが未だ戻ってきていないというのは事実。だがそれも、これ以降のスワスチカの解放によってクリアしていく手順のはずである。

「大隊長たる御三方や首領閣下ならば……」
「いえ、猊下。あの方々ではありません。あの方々はいずれ戻ってこられますので、今は数に含んだカウントを取る必要もないかと」

 いずれは舞台への登場と共にそうしなければならないだろうが、とついでに苦笑までをも零すヨシュア。
 しかしかの幹部たちの事を言っているのではないのなら、彼の言っている不在の役者とは――

「……まさか“彼女”を?」

 怪訝に満ちたヴァレリア・トリファのその問いにヨシュア・ヘンドリックは――



「……ああ、私です。そちらの様子はどうですか?……ええ、はい……成程、それは重畳。でしたら後は……」

 ヨシュア・ヘンドリックが立ち去ったその場に独り残ったヴァレリア・トリファは徐に携帯電話を取り出すと共に、連絡をつけた相手から状況報告を受けていた。
 報告による流れ、現状の様子……全ては予定通り、問題ない。これならばまず間違いなく理想通りにこの儀式は始まりを迎えることが出来る。
 ヨシュアの言っていたこと、そして移った行動に関しては色々と気になる部分は多々あるが、現状の相手の立場と任務、そしてこの功績を鑑みればその行動を疎外する事は自分の立場上不利になる可能性がある以上、よろしくない。
 仕方が無いという妥協と共にその行動を許し行かせはしたが……果たして、あの男が蒔いて芽吹かせた存在とやらがこれから自分にとってどんな障害になることやら。
 どちらにせよ手出しできぬ以上は傍観しかあるまい。今は好きに泳がせておくが……やはりもう少し早い段階で彼にはこの舞台から退場をしてもらうよう手筈を整えておくべきかもしれない。
 まぁどちらにせよ、トリファにとって警戒すべき要因が増えたであろう事は間違いないのだ。あまり面白い事態とも言えないのは確かだが……これも今は試練と割り切ろう。

「申し訳ありませんがシュピーネ、あなたの裁量でベイとマレウスを抑えてください。私からの命令だと……はい、そういうことで構いませんので」

 そうして予定通りに現状行動の自由が利くシュピーネへと血気に逸った二人を抑えるように指示を出す。
 その性質は騎士団の中では小物という他ない男だが、頭と口の回りは中々に早くそしてしたたかだ。この程度の雑務はこの男に任せておけば問題なく処理し終えてくれることだろう。
 尤も、これでシュピーネに借りを作り、ベイやマレウスからまた不満や不審を買う事になったのかもしれないがそれも仕方あるまい。そういうのを含めての自分の役職だ。

「……やれやれ、やはりあなたの代行などという大役、私に務まりきるものではありませんよ、ハイドリヒ卿」

 実際、運が悪い罰ゲームもこれは同じ。……いや、宛てつけられた忠誠心を試す為の意地の悪い試みなのだろうかと思い直す。
 どちらにしろ、自分はかの悪魔の忠臣。与えられた役割はきっちりと果たさなければならない道化。それは理解も了承もしていることだ。
 だからこそ、怖い上司の怒りを買わぬようせこせこと必死に仕事をこなす他にないのだ。

「……いずれにせよ、じきに分かる事……ですか」

 最前のヨシュアへと尋ねた最後の問い。相手がまたいつものようにのらりくらりとこちらを煙に巻くように答えてきたその言葉をトリファ自身の口から呟く。
 楽しみを後に取っておく性分のようでは、美味しいところを先に別の誰かに取られかねないというのに、悠長な輩の言い分である。
 生憎とヴァレリア・トリファにはヨシュア・ヘンドリックほどの余裕はないし持てない。持とうとも思わない。
 常に綱渡りと同じ緊張感と言うのは精神衛生上よろしくはないが、それぐらいの気概もなしに己の真の願いを叶える事など出来る筈もない。
 だからこそ、自分は忙しい。常にギリギリの部分で、井底の蛙として見下されながら足掻き続ける他にないのだから。
 それが自分の性分だ。女子どもの夢物語を叶えようというのなら、どこかで誰かが見えない部分でそんな骨折りもしなければならないというだけ。
 そこに後悔や迷いはない。そんなものは半世紀以上も前のあの時に、摘んでしまった花と共に全て捨て去ってしまったのだから。
 だからこそ――

「――良いでしょう、今はそれらを含めて全てのこの瞬間を、祝福することとしましょう」

 黒円卓の首領代行として、神父という己の生き方として、そしてヴァレリア・トリファという個人としても。
 祝福を。刈り取られた命に、刈り取られる命に、そして刈り取る命に。
 捧げる側の者として、平等に、その全てに愛を込めた祝福を。

 ふと、この場を去る際にヨシュア・ヘンドリックが残していった言葉を思い出す。

 ――あなたも、本心では暴れたくて仕方がないようですね。

 ……確かに、否定はしまい。己もやはり人外羅刹の魔人に連なる一人。
 あの悪魔へと憧れを抱く、黄金の獣、その鬣の一房だ。
 であればこそ、戦に身を置く司祭としても年甲斐もなくこの幕開けに心を逸らせ期待しているのも純然たる事実だ。
 何はどうあれ戦いを。彼にとっての祈りと救いとはきっとその中に今はあるはずなのだから……




 とりあえず、何かがあったらそれを互いに連絡を取り合って報告する。
 それが遊佐司狼と沢原一弥との協力の見返りに求められた条件だった。
 つまり、蓮や香純たちの傍で待機し二人に関係する何らかの変化……再びの香純の殺人鬼への変貌や例の聖槍十三騎士団という連中が二人にアプローチをかけてきた場合など。
 二人の傍から離れずにそんな予兆がないか逐一監視。もしそれらの兆候が見られた場合はすぐさま状況を司狼へと一弥から報告する。
 その見返りがこれから調べて得られる騎士団の情報や、そして奴らと戦うための武器の提供である。
 要するに、スパイ紛いのことをやれとあの男は言ってきたのだ。当然、まるで蓮たちを騙すかのような行いに躊躇いを抱かなかったかと言えば嘘にもなる。
 これは藤井蓮たちが自分に抱いている信頼や友情への裏切り。そう思う負い目が沢原一弥に彼らに対して一層の罪悪感を芽生えさせる。

 ……そんな中途半端に甘いままで連中に勝てるわけがない。

 これは戦争だと遊佐司狼は言った。この街で何かをやらかそうとしている、そして蓮たちを狙っている非常識の塊たるナチスの亡霊たちと、チッポケな人間たる自分たちの面子や守るモノを懸けた戦争だ、と。
 戦力差は絶望的、状況も後手に回っている、そんな中でそれでもこれから奴らに逆転しようというのなら手段は選んでいられない。
 蓮たちを守りたいという気持ちに偽りはない。最終的に勝てれば何の問題すらも残らない。今度こそ自分たちは平穏な日常をずっと続けられる。
 そんな都合の良い救いのような未来を想像し、負い目を正当な理由で仕方がないのだと言い訳しなければ、沢原一弥は罪悪感を拭いきれなかったのだ。
 そんなことばかりをずっと考えながら、クラブ・ボトムレスピッツを出た一弥は本来ならば帰るべき蓮たちの待つアパートへの帰路に着くこともなく、夜の街を彷徨い歩いていた。
 蓮たちが無事だろうか、それをちゃんと確認しなければいけない。遅くなりすぎては彼らを心配させるし不審を抱かせることにもなる。
 だからこそ、早く帰るべきなのは十分に分かっていたのだが……帰れなかった。情けないことに、あれから時間が経っているのにまだ蓮たちと顔を合わすことが気まずい。あの時に司狼に言われたことが尾を引いているということもある。
 一人になって色々と少し考えたかった。今の蓮たちに自分が抱いている本当の想いとは何なのか。どう考えて行動すればあいつらの為になってやれるのか。どうすれば、あいつらを奴らから守れるのか。
 奴ら……例の連中、聖槍十三騎士団。半世紀も昔の戦争から生き残り続けているナチスの亡霊。非常識の塊たち。自分たちの既知であるべき日常を非日常へと侵食しようとしていく未知の脅威。
 その連中の仲間だと司狼の言っていたあの男。

「…………」

 十一年。人の人生において決して短いとは言い切れぬ時間、自分たちにとってはあの時から今に至るまでにおける過程。
 沢原一弥にとっては負い目と贖罪の日々であったが、それでもその中でも幸せなどというものを勿体無くも享受できたのは蓮たちがいたからだ。
 ある意味において彼らにとっての罪人であるべき自分は、他ならぬ彼らによって救われていたというその事実がある。
 これは借り……否、恩と呼ぶべきものである。贖罪と共に必ずや返さねばならないもの。
 そしてそんな対象であるべき彼らを狙う……どころか運命すらも玩ぶかのようなあの男のちらつく影。
 あの男が全てを狂わせた。優しかったおじさんを、俺たちの幸せだった日常を……全て、狂わせたのはあの男だ。
 そして今再びのこの事態。過去と同じく再びにこの日常を破壊しようとやってきた脅威。
 蓮たちを守るためにも、そして自分自身の感情としても、あの男だけは許せない。必ずこの手で……。
 そう思いながら握り固めていた手を見る。握られた拳。香純のように普段から鍛えているものでもなく、蓮や司狼のように恵まれても強くもない、自分と同じチッポケなソレ。
 無力に近い自分が本当に奴らから蓮たちを守れるのか……尤も、考えるべきではない不安が表面化しかけるのを慌てて首を振る。
 やめろ、考えるな、そんな弱気じゃ最初から何も守れやしない。
 守る……そう、二人を守るんだ。
 改める必要もない自分にとっての拠り所と言っても良い決意を固め直しながら、そろそろもう帰ろうとぶらついていた足を帰路の方向へと向ける。
 二人に会いたかった。会って、笑って、まだここが日常のままだと言う事を確かめたかった。
 そんな逸る心を抑えながら帰る足取りの最中、周りの街中の様子を見てみれば奇妙だともふと思う。
 例の殺人鬼……綾瀬香純がその活動をやめて一週間。街は殺人鬼への恐怖は薄れたかのように以前の夜の活気を取り戻しつつはあった。そんな中でのどうも奇妙に感じる思い。胸中に湧き出てくる嫌な予感。
 不意に携帯の着信音が鳴る。慌てて取り出し相手を確認――遊佐司狼。
 ドクンと心臓が嫌な昂ぶりを不規則に鳴らしだすが、躊躇ってもいられない。慌てて電話に出る。

『どうも早速今夜、一騒動起こっちまってるみたいだぜ』

 開口一番のその司狼の言葉。頭をハンマーで殴られたかのような衝撃。

『パーティーの現場は諏訪原大橋だ。内容はどうにも相当派手にやったらしい』

 諏訪原大橋。街の北部にある遊園地と海浜公園を繋ぐ名所の一つ。そんな所で騒ぎを起こそうなどとてもではないがマトモな神経の持ち主ではない。……いいや、そもそも冗談の塊のような連中にそんなものを求める事自体が間違いか。
 恐らくはやったのは連中――聖槍十三騎士団だろう。だが何故、そんな所で騒ぎなどを起こしたのか。蓮や香純は無事なのだろうか。嫌な予感ばかりが次から次へと湧き出てくる。
 そんな中で、司狼の告げてきた次の一言が沢原一弥から全ての思考と冷静さを奪っていた。

『主役はどうにも例の首狩り魔……つまりバカスミみたいだぞ』

 それを聞いた瞬間、こっちが今何処にいるのだとかそんな続けて問いかけてくる司狼の言葉の全てを断ち切って、沢原一弥は駆け出していた。



 そうして辿り着いた海浜公園の入り口。
 そこに待ち構えるかのように佇んでいたのは――

「櫻井……」
「今晩は、沢原君。些か出歩くには少し物騒な時間よ」

 特に今宵のように血に飢え、闘争に逸る人外たちが闊歩する過激な夜ともあらば。
 睨み付ける沢原一弥の視線に対し、一向にそれに怯む様子も無い動じる素振りすら見せぬままに櫻井螢が口火を切った。

「始まったわ」
「……何が?」
「私たちの戦争が」

 戦争、そう言い切った世界の敵たる髑髏の帝国の制服を纏ったナチスの亡霊。
 歯噛みする、時代錯誤も程々にしろ、と……。
 実際、そう思ったからこそ更に剣呑さを強めた視線を一弥は螢へと突きつけた。

「不満そうね?」
「当たり前だ。テメエらがどんな下らないことを何処でやろうと知りやしないが、この街で俺達まで勝手に巻き込んで好き勝手やってんじゃねえよ!」

 戦争だか何だか知らないが、そんな訳の分からないくだらない勝手を自分たちにまで押し付けようとするな。
 やりたいんならもっと関係の無い遠い場所で連中だけで好きに殺し合って好きに死ねばいいのだ。そんなものに自分たちまで勝手に巻き込もうとするな。
 そんな苛立ちも顕に見せる一弥に螢はただ変わらぬ冷たい視線を向けたまま、

「それは仕方が無いわ。これは元々そういう決まりなんだから」
「……何だと?」
「言ってもあなたには分からないわ。それに部外者が知るようなことでもない」

 部外者……蓮や香純を巻き込んでおきながら、自分だけがまるで蚊帳の外と言わんばかりの勝手な扱い。当然、一弥の苛立ちが爆発したのは言うまでもない。

「ふざけんな! そもそもおまえたちさえやって来なければ――」
「その私たちを呼んだのはあなたのお友達よ。そもそも、あなたのお友達が事を始めたから私たちも約束を果たす為にやって来たのよ」

 一弥の言い分をキッパリと遮る螢。五月蝿くて相手にもしていられないと言った感じのそれは投げやりな態度だった。
 益々に苛立ってくる。どこまでいこうとも好き勝手なその態度。こちらには何一つの選択肢も決定権も与えられてはいないと言わんばかりのその傲慢な言い分。

「兎に角、もう舞台の幕は開いた。どうやら初戦は私たちがしてやられた結果みたいだけど……それでも、始まった以上は私たちも藤井君ももう止まれないわ」


 戦争とはそういうもの。相手を完膚なきまでに滅ぼし尽くさずして終わるようなものではない。終わらせられるようなものでもない。ましてや人ならざる者たちが行う戦争ともなれば尚更だ。
 なればこそ、ここから先は停滞も途中下車も許されない。最後まで、最期まで戦い抜いて勝つことでしか生き残れない。願いを叶える事も出来ない。
 尤も、その結果を櫻井螢は誰にも譲る気は無い。藤井蓮にも、轡を並べる黒円卓の面々にも、そして――このジャンル違いで目障りな少年にも。

「……蓮、だと。香純はどうしたんだよ?」
「心配しなくても彼女はもう私たちの相手じゃない。藤井君がこれから男の甲斐性を見せさえすれば、少なくとも彼女はあなたの所に戻ってこられるでしょうね」

 だからこそ、それで満足してこれ以上は出しゃばってくるなと櫻井螢は沢原一弥へと告げてくる。
 今までは本格的な始まりでなかった故に多少の目障りでも許容してきたが、ここから先の本番に一弥の出る幕などなければ許されもしない。

「それに、あなたじゃ藤井君の足を引っ張るだけよ」

 小物を気遣って自分たちと踊るべき相手が全力を出せないようではこちらとしても困るのだ。願いを叶える条件には互いに全身全霊を懸けて事に臨むことすら含まれているのだから。
 端役すらも許されないムシケラが舞台に上ろうなどというのは、舞台の役者の一人としても看過できたものでもない。
 故にこそ――

「――潮時よ。これ以上、あなたに関われるべき事は何一つない」

 だから、大人しく諦めろ。
 これは最後通告。奇縁とクラスメイトとしての誼。そして櫻井螢の中で殺した最後の良心……不要となったそれをここで使い切るための単なる儀式だ。
 ここから先は正真正銘自分もまた魔人となる。願いを叶えるその時まで、人としての感情など不要だ。ベイやマレウスや師に舐められる要因ともなる以上、どこかで切り捨てておく必要もある。だからこそ、これはそれを消費し切るための言うなれば最後の慈悲だ。
 死にたくないなら、最低限の頭が回る馬鹿でないのなら聞き入れろ。それだけ告げて師からの命を果たす為に藤井蓮に会いに櫻井螢は踵を返して公園の中へと進んでいこうとして――

「――おい、待てよ」

 背後からの呼び止めるその声と、そして向けられてくる敵意。
 まだ何かあるのかと怪訝に思いながらも振り向けば、そこにはこちらに向かって銃を構えた沢原一弥の姿があった。



「……どういうつもりなのかしら?」
「……どうもこうもない。見た通りだ」

 こちらに向かって怪訝そうに問いかけてくる櫻井螢に対し沢原一弥は遊佐司狼から貰ったその銃を彼女に向けて構えながら言葉を発する。

「蓮に……手を出すな」

 今自分がすべきこと、しなければならないこと。それを精一杯に震える自分の体を押さえつけるように言い聞かせる。
 櫻井螢の言い分……当然、納得できるはずが無い。香純がもう狙われないということはどういうことなのかは分からないし、本当に信じていいのかも不明だが、そちらはとりあえず置いておくことにする。
 兎に角、連中の狙いがハッキリと藤井蓮だと口にし、戦争などと言った以上は連中は……この女は一弥にとっての敵だ。
 十一年前と同じ。自分たちの日常を壊し、幸せを奪おうとする存在。
 もう奪われるなど沢山だ。傷付く蓮も涙を流す香純も、そんなものを一弥は許容したりなどしない。
 だから守る。絶対にこの命に代えてもだ。
 そして言って止まるような連中でない以上は……

「私を殺す? その銃で私を撃って?」

 あなたにそれが出来る度胸があるのかと、どこか馬鹿にするかのような嘲笑を返してくる櫻井螢。
 彼女がこちらに対して告げてきたジャンル違いというレッテル。ああ、その通りだろう。自分は根性なしのチキン野郎だ。今だって構えて向けているこの銃すら、引鉄に指を掛けきれずに震えていた。
 人を撃つ……命を奪う、殺すという行為。
 それが大切な者を守るために必要な唯一の行為だというのなら是非も無い。……ああ、是非などないはずだ。
 何度も覚悟を決めてきただろう。迷う暇など無いはずだと、そんな余裕が許される身などでないことは自分自身で一番分かっているはずだ。
 ……なのに、どうして――

 デジャヴる。どうしても十一年前の、あの情けない自分と今の自分を重ねずにいられない。
 ここに蓮はいない。司狼もいない。いるのは自分だけ。
 そして何より、その蓮を守らなければならないからこれを撃たなければならないというのに……

「撃たないの? それとも私は行ってもいいのかしら?」

 どちらでもいいが早くしてくれ、そんなどこかウンザリしたような態度で震えたまま固まっていた一弥を螢は促がしてきた。
 余裕ぶったその態度。撃てるわけが無い、殺せるわけが無い、そんな度胸などそもそもないだろうと決め付けているような相手のその態度。
 ……確かに、だからこそ彼女がこちらをジャンル違いだの部外者だのと言ってくるのがよく分かった。
 事実、今の自分はその通りだ。でもだからこそ――

 ――もう、今までの自分と同じではいられない。

 日常を破壊してくる非日常。それらから日常を守るためには……自分もまた、非日常側に踏み出す他に無い。
 本末転倒、どうしようもない馬鹿な選択。だがこれしかもう残されていない。
 藤井蓮の顔が、綾瀬香純の顔が脳裏へと浮かぶ。
 朱に交われば赤となる。……ならば、自分もまたその赤へと染まってやろう。例え帰るべき居場所たる白に戻れなくなったとしても、その皆がいるべき白さえ守れるならば――

 ――俺は、この女の血で赤く染まろう。

 何か大切なものを自分の中で捨て去ったと同時に、沢原一弥は櫻井螢に向けて構えていたその銃の引鉄を引いた。




 いつの間にか夜空は星空から分厚い雲へと覆われた曇り空へと変わろうとしていた。
 一雨、くるのかもしれない。
 空を見上げその様子を見れば、或いは沢原一弥もまたそんな考えを取りとめもなく抱いたかもしれない。
 しかし残念ながら、彼にはそのような考えを抱く余裕などありはしなかった。
 深夜の公園入り口。そこに鳴り響いたこの国においては非日常そのものだろう銃声。
 硝煙を燻らせる銃口を上げたまま、しかしカタカタと震えていたのはそれを撃った当人たる沢原一弥。
 本物の銃。それを承知の上で撃った。殺す為に。目の前の少女の形をした脅威から大切なものを守るために。
 罪を背負う覚悟で、赤く染まる為に自分は彼女を撃った。
 しかし――

「……まず、三つあなたに謝っておかなければならないわね」

 人殺しの凶器たる銃。そこから発射された銃弾が辿り着く先たるその場で平然と立っている黒衣を纏った少女――櫻井螢。

「正直、ただの学生のあなたが銃なんて物騒な玩具を用意できるわけがない。だから私はそれを脅す為だけに用意した偽物だと思っていた」

 これが謝るべきまず一点、そう櫻井螢は告げてくる。
 命を奪うはずの凶弾、その身に直撃を受けたはずだというのに血の一つすら流す事もなく、それどころか当たった瞬間からすらまったく微動だにしていない様子のまま、

「仮に本物であったとしても、人殺しの凶器たるソレをジャンル違いのあなたに撃てる筈なんてないと思っていたわ。どう見てもあなた、人でなしになるには度胸がなさすぎたもの」

 それが謝るべき二点目だと彼女は静かに告げてくる。
 そして伏せていた目を静かにこちらに向けながらハッキリと一言、

「おめでとう。これであなたも立派な人でなしになれる第一歩を踏み出せたわね」

 言葉とは裏腹にとても祝福が込められているとも思えない皮肉のこもった言葉であった。
 震える沢原一弥。相手が化物だと、こんな拳銃が気休めにすらならないことは司狼からも聞いていた。
 それでも自分の中の大切な何かを捨ててまで、それを振り絞って引鉄を引いた銃弾が当たったはずなのにまったく効いていない。
 脳裏に思い出したのは、バイクの突撃を平然と受け止めて叩き落したあの白貌の男の姿だった。
 そんな驚愕に言葉もなく震える沢原一弥へと、これが三つ目の謝罪だと言うように彼女が告げてきた。

「でもごめんなさいね。生憎と私――あなたが如何こう出来る程度の人でなしじゃないの」

 最後に、それをこちらに向かって彼女が告げてきた瞬間だった。
 視界から一瞬ぶれるように、唐突に彼女の姿が掻き消える。
 それを認識して、漸くに反応に移るよりも早く横合いから銃を持っていた手を思い切り掴まれる。
 反射的に視線を落とせば掴んでいるのは白手袋に包まれた繊手。辿る先に存在するのは黒衣を纏った櫻井螢。
 僅か一瞬で間合いを詰められた尋常ならざる相手の速度。驚愕を抱くよりも先に、

 バキッとまるで木の枝でも折るかのような手振りで握りこまれてくる手と、そして折られた手首の感触。

 発生する熱と痛みが襲ってくるよりも先に、悲鳴すらも上げる暇すら許さずに間髪入れずに腹部へと叩き込まれてきたのは相手の膝。
 折られた手首から手を離され、悲鳴よりも血と胃の内容物を吐き出しながら凄まじい勢いで蹴り飛ばされ吹き飛び、近くの木へと叩きつけられる。
 背中を強打する衝撃に一瞬意識が飛んでいた。当然、立っている事もままならずにまるで土下座のような格好で前のめりに倒れ伏していた。

「がぁ……ッ……あァッ!!」
「やったらやり返される、当たり前のことね。これに懲りたら喧嘩を売る相手はちゃんと考えて選んだ方が自身の為よ」

 そうでなければこの程度で済まなくなる、そう倒れる一弥を見下ろしながら螢は告げてくる。
 その様は強者と弱者の絶対的構図。覆す事など不可能な絶望の表れでもあった。
 軽く仕返した櫻井螢でもあるが、これでもかなりの手を抜いた温情措置でもあった。その気になれば、否、ならずとも本来ならばこのまま殺していて当然でもあるのだから。
 黒円卓の他の者達なら当然そうしただろう。容赦も慈悲もなく、理不尽とも言える圧倒的な暴力をもって生意気に牙を突き立てようとしてきた劣等を駆逐する。

「良かったわね、私が相手で。もしこれがベイやマレウスなら、あなた死んでたわよ」

 逆に言えば、今はこの程度で自分も済ませてやったが……ここから先にまた同じような事を自分たちを相手にするつもりだというのなら、この程度では済まないとも言うこと。
 彼らは螢とは違う。身の程知らずの劣等を相手に慈悲など抱きはしない心無き魔人だ。そして螢自身にしてもかつての気高きヴァルキュリアでもあるまいし、いつまでもそう優しくは馬鹿をあしらう事など出来はしない。
 言葉だけで済ませてやるつもりであったというのに、自ら痛い目に遭う事を望むとは随分と酔狂に満ちた相手だと少し呆れる。
 己にとっての大切な存在がこんな事態に巻き込まれた……同情に値する不幸ではあろうが、お涙頂戴の慈悲が賜れるような舞台でもない。
 元よりこれは徹底した救いなき運命……この少年にもまたそうして諦めてもらう他になど道はない。
 恨みたいなら恨めばいい。自分やこんなシナリオを書き上げた悪魔たちには恨まれる責任がある。尤も、そういった憎悪や嘆きすらも望み、逆に食い尽くして自らの糧とすることそのものが狙いでもあるのだが。
 どちらにしろ最高の悪趣味だというのは螢自身もまた十分に同意していること。怒りの日の贄へと選ばれた運命を呪う事くらいしか初めからこの少年たちに許された権利などありはしないのだから。
 そんなそれすらもどうでもいい考えを振り切りながら、倒れ伏している沢原一弥から視線を切り上げた櫻井螢は、これで漸くに任務を果たせると踵を返しかけ――

「……お…い…ッ……待て……よッ!」

 吐き出す血と共に搾り出すような掠れた声を上げながら、震える体に鞭を打って立ち上がろうとしながら呼び止める沢原一弥。
 櫻井螢は本気で呆れた溜め息を吐きながら振り向いた。

「まだ痛めつけられたいのかしら? それとも、殺されたいの?」

 本気で面倒であり、度が過ぎる目障りともいい加減に認識し始めてもいた。
 いっそ殺してやった方が相手にとっても救いとなるかもしれないなとすら螢は考える。
 だからこそ、

「死にたいならかかってきなさい。死にたくないなら諦めてそこで大人しく寝ていなさい」

 選ぶのはそちらの自由。だが選ぶ以上はその結果に自ら責任を持ってもらう。
 当然の事だ。願うだけで、信じるだけで叶うなどという都合のいい夢物語は現実においての寝言も同じ。
 そのような甘さでは何一つ守れず、手に入らず、奪われ、失ってしまうだけだ。
 であればこそ、覚悟を持って悲願の成就には挑まなければならない。相応に見合うだけの力を有して、だ。
 それすらも無いくせに、ただ子どもの我が儘そのままのような度し難い無様を晒されようが不快になるだけ。
 こちらのジャンルに染まろうというのなら、死ぬくらいの覚悟もなしに踏み入れるものではない。
 そして仮に踏み入ってくるというのなら――

「挑んでくるつもりなら、私はあなたを敵と認識するわ」

 そして即ち、敵とは殺すものだ。それ以上でも以下でもない。
 そしてそう認識するというのなら、もはや櫻井螢が沢原一弥へ与えるべき慈悲も無い。
 それを承知で挑むならばかかってこい、そう彼女は態度で彼へと告げていた。
 そしてその覚悟の有無を迫られた一弥は――


「……そう、それがあなたの答えというわけね」

 本当に度し難い、そんな呆れを込めた言葉と溜め息がそれを見た櫻井螢の返答。
 即ち、無様この上ない震えを見せていながらも、それでも立ち上がって身構えた沢原一弥のその選択へ対しての、だ。
 本当に度し難く愚かしい、酔狂な自殺志願者だ。それとも、よもや自分がそちらを本当に殺さないとでも勘違いしているのだろうかと螢は訝る。
 しかし……

「……蓮に……手を…出すなッ!」

 ふらふらの姿勢に、擦れきった声。無様この上もないその姿。
 しかし……それでも、覚悟はあった。
 こちらを彼の元には行かせないという。こちらを自分が止めて見せるのだという。
 そんな無謀を承知で押し進めようかとしているそんな覚悟。
 櫻井螢はこの戦争の幕開けと共にこの場を戦場だと認識している。そしてどんな相手であれ、戦場で自分の前に立ち塞がり、その障害となろうというのなら、それを敵とも認識している。
 だからこそ先程、この少年に対して自分は最後の忠告をしてやったというのに……結局、この少年はその選択を選んだ。
 ならば相応の覚悟があったものなのだとこちらで判断してしまって構わないのだろう。
 ならば――

「そう、じゃあ沢原君――あなた、私の敵なのね」

 それを運命が望み、そして彼自身も望んでいるというのなら是非も無かろう。
 蛮勇……度し難い愚者ではあるが、命を捨ててまでそんな選択を自ら選ぶというのなら……その決断を尊重し、こちらからもとやかく言うまい。

「聖槍十三騎士団黒円卓第五位、櫻井螢。称号はレオンハルト・アウグスト。
 ……戦の流儀ね。あなたも名乗りなさいよ」

 敵として彼を認識した。ならば相応に見合った対応で臨んでやるのが礼儀というもの。黒円卓の流儀でもある。名誉云々は本心で言えば螢からすれば下らないものでしかないが、それでも郷に入れば郷に従え、だろう。
 まさかツァラトゥストラを相手にするよりも前に、こんな少年を相手に形骸化した名乗りを上げようとは……成程、己もまた酔狂な性格だったのかと櫻井螢はそんな自分自身に呆れてもいた。

「……沢原、一弥……ただの学生だ」

 自分はそんなただの学生に喧嘩を売られて、あろうことか買ったのかと思うと……他のメンバーを血に餓えているなどとあまり蔑視も出来なくなるではないかとも思った。
 まぁいい。それも今は置いておこう。
 だが向こうもこうして名乗りを上げてきた以上、この戦いを止める道理はもはやない。
 大和魂か神風精神か……どちらにせよ、死力を尽くした玉砕覚悟で挑んでこようが彼がこちらに勝てる可能性などというものはありはしない。

 そんな事を思っていた中、沢原一弥が先手を打つようにこちらに向かい殴りかかってくる。

 結果の見えすぎたつまらない勝負ともいえない作業になるだろう。
 せめて手早く終わらせてやるのが慈悲かと思いながら、櫻井螢は挑みかかってくる相手を迎え撃つ。
 自分も随分甘いなと呆れながらも、これが甘さを捨てる儀式ともなるかとふと考え直している自分がいた。



 利き腕たる右手首は圧し折られ、突き立てられた膝はアバラを四、五本は圧し折っているのは間違いない。
 加え、強打した背中を含めたあちこちが痛むし、湧き上がってくる吐き気やその他諸々は立っている事すらも覚束なくさせる。
 しかし、それらの全てを無理矢理に押さえつけ、沢原一弥は櫻井螢に向かって無謀ともいえる突貫を敢行。
 この程度の負傷は白貌の男に殺されそうになった時に負った負傷に比べれば軽傷も同じ、そもそも骨の四、五本程度で怖気づいていては蓮たちを守れない。
 そう、だって蓮はもっと辛い痛みにすら耐えてきたのだ。
 あいつを守ると言いながら、それにすら及ばぬ痛み程度で蹲ったままではいられない。
 だから――

「こんなもん……痛かねえんだよッ!」

 そんな雄叫びを上げながら、櫻井螢へと向かって突撃。左拳を彼女の顔面へ向かって叩き込む。
 まるで単調な作業とでも言うように、殴り込んでくるこちらの左拳に合わせるように、彼女の右拳が叩き込まれてくる。
 互いの拳の衝突。

「――ぐぅッ!?」

 砕けた。彼女の拳を真っ向から受けた左拳。その握りこんだ拳の骨が容赦なく砕けたのがミシリと嫌な軋みの音と溢れ出す出血から理解できた。
 ……尤も、そんな拳の砕けることを認知する激痛を感じるのとほぼ同時に、そのまま力で押し負けて再び吹き飛ばされると共に背中から樹に叩きつけられる。
 桁違い。とても女とは……否、人間とも思えない相手の馬鹿力。

「……うぅ…ッ……この、メスゴリラ…が…ッ!」
「失礼ね。確かに私は化物でしょうけど、その言い方はないんじゃないかしら」

 ああ、訂正だ。これじゃあゴリラに失礼だろうよと内心で苦々しく一弥は吐き捨てる。
 だがそんな口先ばかりで、状況を好転させられる手段を見出せない。
 相手との圧倒的な力の差。分かっていたことだとはいえ……これは本気で絶望的と言ってよかった。
 どうする、そんな焦りの中で対抗策は何かないかと必死に見出そうとする最中にも当然ながら相手はまってくれなどしない。
 駆け抜けてくる漆黒の疾風。認識と同時に既に目の前には間合いを詰めきった櫻井螢のその姿。
 拳が叩き込まれてくる。咄嗟に腕を合わせながら前面にそれを向けて防ごうとするも――

「――ぎぃっ!?」

 ハンマーでも思い切り叩き込まれたかのような衝撃。ガードに差し出した腕はそのまま文字通りに圧し折られた。それどころか腕のガードを浸透するようにそのまま威力が全身に響いてくる。
 慣れない激痛に気が触れそうになる。しかしそんなことも許さぬままに、鉄拳と呼ぶ他にない櫻井螢の拳が容赦もなく叩き込まれていく。
 全身の骨が叩き折られるかのような衝撃と痛み。実際、拳の叩きこまれた箇所のことごとくは骨が圧し折られたに違いないのは直ぐに分かり……だが、逆に段々と分からなくなってくる。
 感じられる痛みの限界を超えたのか、麻痺した痛覚は既に痛みすらも訴えず、叩き込まれてくる衝撃だけを感じる事しか出来ない。
 サンドバックとなった自分。恐らく解放される頃には軟体動物になっているのではなかろうか、などとそんな下らない考えが浮かび上がった直後、

「これで――終わりよ」

 最後に叩きつけ続けていた拳の連打から、掴まれ、一本背負いのようにそのままアスファルトの上へと叩きつけられた。
 全身に走った最後の衝撃。千々切れとなりそうな意識の中、霞む視界のその先に冷たい無慈悲な眼をもってこちらを見下ろす櫻井螢の姿があった。


 それは戦いですらなかった。
 単なる一方的な暴行。人間サンドバック。しかしながら仕方あるまい。元より彼我の差は存在として圧倒的なまでの開きを有し、そしてそれすらも埋めるべき要素も無いままに無謀に挑んだのは弱者の側。ならばこのような圧倒的な暴威をもって駆逐されるのもそれは必然と言う他にないもの。
 相手もまたそれを承知してこんな無謀極まりない、度し難しくも愚かしき酔狂な蛮勇を示そうとしてきたのに間違いはないはず。
 そう思ったからこそ、櫻井螢もまたこうまで徹底的且つ容赦もない制裁を加えたのだ。
 そう、これが戦いである以上、これは互いに承知の上のはずのこと。

「だから、恨みっこなしよ」

 無論、別に恨まれたとしてもだからどうなのだという事でしかないのだが。
 どちらにせよ、速攻で終わらせ既に勝負も付いた。相手はゴキブリ並に辛うじて生きてはいるものの、しかしだからといってもはや如何こう出来るだけの余力を有している状態でないことも明らか。
 邪魔はおろかもはや立ち上がる事すら出来もしまい、そう思ったからこそ些事に等しかったこの勝負とすら言えぬ作業にここで区切りを入れることに櫻井螢はした。
 止めを刺さないのは何故か、とここで問われれば、そもそもアッサリとし過ぎた作業のせいでそんな事を忘れていたという他ない。
 事実、敵と認識したつもりであったのだが、ここまで歯応えもない脆弱さでは逆にこちらの興すらも殺がれて、止めを刺そうという価値すらも見出せなかった。
 だからこそもはや路傍の石も同じ、そう捨て置くように櫻井螢は倒れ伏す沢原一弥から価値も興味も失いながら立ち去ろうとしていたのだが――

「……ざッ、ける……!」

 ボロ雑巾のように成れ果て、倒れ伏したその少年からそんな呟きが漏れ出てきたのは……。



 実際、勝負になどなりはしなかった。
 それは一方的にやられただけ、ここまで圧倒的な力量差を見せ付けられれば、もはや悔しいとかそんな思いすらも湧いてこない。
 しかし、それはここで敗北を認めて諦める事とは別だ。
 負けられない……いや、行かせられない。
 この女を蓮の所には行かせられない。蓮をこんな非日常に巻き込んじゃいけない。香純を悲しませてはいけない。
 守るんだ……二人を、守るんだ。

「……俺たちは……ただ…生きていたい……だけだったッ!」

 特別なんか望んじゃいない。普通でよかった。普通がよかった。
 ただ仲間達と一緒に、いつまでも、いつまでも温かな陽だまりの中で過ごしていたかっただけ。

 ――時間が止まればいいと思った。

 そう望んだのも、それがそんなにも許されないことだったのだろうか?
 頑張って、寄り添って、ただ心安らかにありたかった。
 それは……そんなにも、自分たちには許されないことなのか?
 俺たちが罪を犯したから。蓮が普通とは少し違ったから、だからどうしようもなかったのか?

「……そんなの……理由に…ッ……なるかッ!」

 なって堪るか。堪るものか。
 そんな風に決め付けられて、狂わされることに、納得など出来るものか。

「……つまり、あなたはどうしたいのかしら、沢原君?」

 訳の分からぬ妄言を口走り始めて、尚も喚く。
 理解し難く、見苦しい。諦めが悪いにも程がある。
 どうせ納得しないのは、出来ない事くらいは螢とて分かっている。しかしながら、分を弁えず、度量も知らずに吠え続けられるのは単なる迷惑なだけ。
 吐き出す望みを言ってみればいい。どうせ叶いもしないものではあろうが……。

「んなの……ッ……決まってる、だろうがッ!」

 そう吐き捨てながら沢原一弥は立ち上がる。ボロ雑巾に等しい体に鞭を打ち、尚も通用しないにも関わらず、最後の拠り所のように縋りついている銃を構えながら。

「……愚かね」

 戦闘態勢を示した一弥を一瞥して、抑揚の無い声で螢はそう呟いていた。
 何だかんだと言いながら、結局はここに辿り着く。
 そして何度やろうとも結果は覆らない。これはそういうもの。分かり切ったことだろうに。
 ……いい加減、本当に目障りだ。

「いいわ。そこまでして死にたいというのなら――殺してあげましょう」
「おまえが消えろッ!」

 最後にそんな言葉を応酬し合った後、一弥は構えた銃の引鉄を引く。
 銃口より排出された銃弾が狙い違わずに螢へと迫る。
 奇妙にゆっくりと進む時間の中、その銃弾が相手を撃ち抜く光景を幻視したが――


『Yetzirah
  形成 』


 螢の口より呟かれるその一言と同時、突如彼女の手へと現れ握られる炎を纏った一振りの剣。
 一弥が驚愕を抱くよりも早く、軽く振るわれるその剣閃が迫る銃弾を切り払う。
 その事実にハッとなりながらも、負けじと次々と発砲を続けていくが、その迫る銃弾のことごとくを切り払いながら櫻井螢はこちらに向かって前進してくる。
 焦りと共に引鉄を引き続ける――が、気づけばカチカチと撃鉄の空音が鳴り響き、弾は既に底を尽きた弾切れを示している。
 それにすら気づかぬままに、もうこれしかないのだとそれに泣きそうに縋りつきながら引鉄を引き続ける沢原一弥。
 その様は何と――

「――無様ね」

 吐き捨てるかのようなその呟きが螢の口より漏れ出るのと同時、閃いた剣閃は一弥の握る銃――その銃身を半ばより斬り飛ばす。
 使い物にならなくなった玩具、彼がそれを認識するよりも早く、櫻井螢は彼の足を払い地面へとこかす。
 起き上がろうと上げかける顔――その寸前に、静かに緋々色金の切っ先を突きつける。
 チェックメイト。それ以上でも以下でもない決着。
 後はこのままこの少年へとこの剣先を突き入れれば――



 いつの間にか、雨が降っていた。
 しかしそれにすら注意を向けれぬほどに微動だにせずに固まった状態の二人の姿。
 沢原一弥と櫻井螢。
 後、一歩。それを踏み込めば終わる。
 沢原一弥は櫻井螢に殺される。それで終わり。どうあろうがそれは覆せぬ運命でしかない。

「最後に何か一言、言い残す事はある?」

 遺言の類があるのならば聴こう、そう炎の剣をこちらの眼前に突きつけながら問いかけてくる少女。
 その黒衣とも合わされば、その姿はこの場においては彼にとっての死神だ。
 無慈悲で冷酷、最後の最後までこちらを見下すその態度に如何様の変わりすらもありはしない。
 櫻井螢は最初から最後まで、そうジャンル違いとこちらを認識したままに己を殺すのだろうと沢原一弥は理解する。
 ポツポツとやがて雨足を強めかけている雨。降り落ちてくる水滴は、しかしながら自分の眼前に限っては熱を発するその剣を前に蒸発していっていた。
 酷く憎らしい、そうして見下ろしてくる彼女に対し、歯軋りを発しそうになりながらそう思った。
 自分の命をこれから奪おうかというその事実以上に、こいつは同じように蓮にも危害を加えるはず。
 そうなるかもしれない未来が、堪らなく憎らしい。
 だから――

「――絶対、おまえを殺してやる」

 怨嗟に塗れた恨み言。遺言にするにはあまりにも身の程知らず。それどころか既に叶うはずも無い願い。
 睨みつけながら、そう言ってきた沢原一弥に対し櫻井螢は――

「……そう、それは残念ね」

 ただ静かに、眉一つすら動かさずにそれを受け入れた。
 死に際の恨み言など聞き飽きた。まるでそんな風に冷めた態度も顕に。
 ……いや、違う。

「この土壇場になって、まだそんな事を言えるのだけは大したものだと正直、敬意すら抱くわ」

 櫻井螢がこの時、この瞬間、そんな皮肉な言葉の返しとは裏腹に見せていたのは嘲笑や皮肉でもなければ、ましてや同情や憐れみなどというものでもない。
 何かを、酷く懐かしい何かを思い出しているような、それは郷愁……?

「デジャヴ……マスターの指す既知感とは別種のものだけど、あなたを見ているとどうにもそんな昔と重ね合わせずにもいられないわね」

 そんなもの、不要な感傷に過ぎないのだが……。
 そう自嘲にも見える僅かな微笑を垣間見させる櫻井螢。沢原一弥には彼女の胸中など分かるはずもない。
 しかしながら、その姿は必死に虚勢を張り詰めさせながら、それでも何かを求め続けているかのようにも見えて――

「……けど、私にも譲れないものがあるの。その為なら、悪いけど、例えあなたにとって大切なものであれ関係なく踏み躙らせてもらう」

 だから、その言葉は正しいと彼女は言ってくる。
 こちらを恨み、憎むということは間違ったことではない。むしろ、そうあり続けてくれる方がこちらとしても気楽だ。

「礼を言うわ、沢原君。最後まで私の事を恨んでくれて」

 これで漸く、自分も踏ん切りを付けて最後に残った人間の心を捨てられる。
 人をやめる事ができる。
 それをまるで喜ぶかのように穏やかな笑いを見せる。
 否、沢原一弥はいや違うだろうと思った。
 穏やかに笑った、そう櫻井螢は自分自身でもしたように思い込んでいるのかもしれなかったが、沢原一弥の目から見れば、まるで何かを諦めたかのような哀しい泣き笑いのようにしか見えなかった。
 そう、櫻井おまえ……

「……本当に、人間やめちまって良いのかよ?」
「ええ、まずそうしなければ私の望みも叶わないから」

 だからこれでいいのだ、これでいいのだろうと割り切るように。
 それで話は終わりだと、今度こそ止めとばかりに櫻井螢は沢原一弥に突きつけていた剣を突き込むように握りこみ――


「――そこまでだ、螢」


 不意に、響いてきたその言葉がピタリと彼女の動きを止まらせた。



[8778] ChapterⅢ-9
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 23:47
「マスター…………」
「何をやっているかと思えば、こんな所で油など売って。……いけない子だね、レオンハルト。君に与えた任務はまだ終わっていないだろうに」

 物腰そのものは穏やかさを装いながらも、その発する言葉に込められていたのは咎めの意そのもの。
 弟子の現状とその行いに些か呆れた態度も示しながら、唐突に現れてこちらへと近付いてきたのは一人の黒衣の男。
 ヨシュア・ヘンドリック。他ならぬ櫻井螢が師と仰がねばならない黒円卓の異端者。
 いったい何用でこの場に現れたのか。そもそもどうしてこちらを止めようなどとしてくるのか。
 その登場と目的に螢が疑問を抱いたその時だった。

 パンッと頬を平手で打つ乾いた殴打の音。

 自らの頬へと受けたそれに痛みや衝撃そのものは大して感じはしなかったものの、師から手を上げられたという滅多にないその事実に螢は驚いてもいた。

「君に頼んだ役割はね、確かに瑣末なことではあろうが、形式としては重要な事だ。何事も最初は肝心だと言うだろう?
 ……そんな取るに足らぬ塵芥を相手に遊んで、この歌劇の開幕を引き伸ばすなどという真似は謹んで欲しかった」

 私は酷く残念だ、そう言いながらもう一発、往復の様に彼女の頬を平手で張るヨシュア・ヘンドリック。
 櫻井螢は甘んじて受けるかのように、抵抗の素振りすらも見せずにされるがままにその殴打を頬へと受けていた。

「……申し訳ありません、マスター」
「以後は慎むように。下手なアドリブは舞台の品格すらも下げてしまう恥ずべき行いだ。私は君をそんな恥知らずな役者として、この歌劇に参加させたわけではないのだから」

 謝罪し頭を下げる螢のその言い分に、ヨシュアはそんな言葉を返すと共に早く役目を果たしに行くようにとその身振りで促がす。
 螢はそれに了承を示すように頷きながらも、チラリと自らの眼下の沢原一弥へとその視線を向ける。
 それを見たヨシュアは頭を振りながら口を開く。

「これは私の方で預かろう。君はこんな塵芥などではなく、早く主役の下へと行きなさい」
「? マスター、しかし――」
「反論は聞かない。……頼むよ、レオンハルト。これ以上、あの方々を待たせることは私自身が許せない」

 有無を言わさぬ言動。
 そして同じ魔人であるはずの彼女ですら、咄嗟に気味の悪さを感じずにはいられない相手が発している神経質なまでの妄執。
 彼は螢を見ているようで見てはいない。その本質は、真に捉えているものは、まったくの別種たる得体の知れない何かだった。

「我々は……ああ、これで何度目だ? 百億? いや、それすらくだらないか?……兎に角、半世紀も待って今再びにこの時を迎えた。長い長い……本当に長く待ち望んだんだ。あの方たちも待ち望んでこられたのだ。結果がどう行き着くようであれ、この開幕だけは幾度繰り返そうともケチをつけてはならない。ならないんだよ」

 ぶつぶつと独り言のように呟きながら、得体の知れない狂気を滲み出させる魔人。
 アルベルトゥス・マグヌス――水星の従者を自らにて称する狂人。
 十一年の付き合いの中で、螢は彼の本当の姿と本音の一端を初めて垣間見た気がした。
 今、逸り狂っているこの姿こそ、この男の本質ということなのだろうか。
 潜ったと思った闇の底……まだまだ深淵に至ることにすら程遠いそれが得体の知れない狂気の渦であることを櫻井螢は理解した。

「了解しました、マスターの御心のままに」

 だからこそ、同時に今更ながらこの少年へと憐れみと同情を抱く。
 可哀想に。これからこの男がこの少年をどのように扱うのかはしれないが、一度悪魔の手に渡ってしまった以上、この少年もまた死してすら救われぬ境遇となるのだろう。
 かつての自分とまた同じように。そう螢は思わずにもいられなかった。




 そうして、その場より櫻井螢が立ち去り、残されたのは二人の男だけだった。
 即ち、沢原一弥とヨシュア・ヘンドリック。
 望む望まないはどうであれ、これもまた十一年ぶりとなる、ある意味では一つの因縁の再会とも呼べるもの。

「てめぇ……ッ!」

 沢原一弥からしてみれば、こちらを嘲笑うかのように見下ろしてきているその男は許すことなど出来るはずもない、自分たちの全てを狂わせたと言ってもいい元凶にも等しい存在だった。
 櫻井螢による暴行の負傷さえなければ、即座に立ち上がり、躊躇いもなく八つ裂きにしてやっても尚、憎しみに余りある相手だろう。

「まったく……とんだ失態だ。私自身が蒔いた種であり不手際とはいえ、もう少しで主に申し訳が立たなくなるところだった」

 そう言いながら一弥を見下ろすヨシュアの眼は蔑視にも近い、冷酷で無慈悲なもの。
 ヒトというよりはモノに見せるに近いとも言っていい視線である。

「開幕寸前からこれでは……先が思いやられる。役者としては不出来どころか分不相応この上ないが、舞台装置としての役割ぐらいはしっかりと果たしてもらうぞ」
「……何を…ッ……言って、やがる……ッ!?」

 訳の分からない相手の言い分。身勝手な態度。
 櫻井螢の仲間だか何だか知らないが、確かにこいつも奴らのご同類だと確信せずにもいられない傲慢さの権化とも言えそうな存在だった。
 不快などという言葉ですら言い表せない激しい感情を生じさせずにもいられない。
 だが幕を開き始めた舞台を前に、そんな瑣末事にすら割く猶予などと言うものは残されていない。
 あの朧気な記憶であろうとも、確かに十一年前から何一つ変わっていないその容貌のままに、ヨシュア・ヘンドリックは沢原一弥へとゆっくりと手を伸ばしてくる。

「光栄に思え。本来ならば立つ事すらも許されぬこの至高の舞台の上に、私がおまえを立たせてやろうというのだから」

 その資格を貸し与えてやる、笑っているのに笑いとも見えない、偽りの悪魔の笑みも顕に魔人は告げる。

「おまえの全ては“彼女”の為に、“彼女”へと捧げるその為だけに用意したのだからな。精々、“彼女”の舞を引き立てる役には立ってもらうぞ」

 そして、だからこそ受け取れと魔人が笑みと共に少年の眼前へと掲げたのは一振りの剣であった。
 見覚えがある……そう、あれは今日、博物館で目に留まった――

「いずれ“彼女”へと返還するその時まで、丁重に預かり、扱う事だ」

 そう告げながら、魔人はその剣を眼下の少年へと躊躇いもなく突き下ろした。
 雷光の残影を不思議と脳裏へと過ぎらせながら、沢原一弥は自らに突き立てられんとしているその剣を身に受け――







 いつしか雨が降りしきるその最中、藤井蓮は綾瀬香純のその姿を探し求めるように駆け回っていた。
 例の奇妙な夢。歌姫と旅人の会話とそこから始まる悪夢への開幕。身を委ねるように朦朧となる意識の中でそれだけを見つめ続け……次に気がつけば、独り公園のベンチに横たわっていた。
 先程まで一緒に居たはずの少女……綾瀬香純がいなくなっているという事実に不安と焦燥の中で、彼女を探そうと動き出し――

 ――そしてその直後に現れたのがあの女……櫻井螢だった。

 彼女がそうして告げてきたふざけた真実。
 この連続殺人事件のカラクリとその件の殺人鬼の正体。
 ふざけた妄言。信じれるはずもないデタラメ。
 そう、信じない。信じられるはずがない。
 だって香純だぞ? あのおっちょこちょいで間が抜けていて、お人好しでその癖信じられないくらい本当は打たれ弱い。
 そんな彼女が……人殺し?
 それも他ならぬ藤井蓮の為に犯した殺人などと……。
 ふざけている、間違っている、許容できるはずも認められるはずもない。
 そんなものを蓮は一度だって望まなかった。香純自身だって望むようなことではなかったはず。
 だから……そんなことなどありえない。
 だがそう必死に認めようとしない悪夢のようなこの現実の中で、藤井蓮の目を覚まさせるように櫻井螢はそれが真実だと告げてきた。
 そうして提示する。もはや覆す事はおろか、後戻りもこれはできないことなのだと。
 戦争の開幕を。


『私たちはね、戦争をしに来たの。その為にあなたが欲しい――』


 もう戻れない狂気へと、非日常への加速は止まりはしないのだと彼女は告げてきた。


『だから、乗ってもらうわよ藤井君。もう、あなたの陽だまりなんか、この世界の何処にもない』


 逃げ場はなく、拠り所となるものすらも許さない。
 果てしない狂気と血で塗られた忌むべき未知への誘い。
 そんなもの、蓮にとっては関係ないはずのことだったのに……。

 それでも、櫻井螢の告げる言葉……そしてその事実からは逃げられはしないということを、この時、藤井蓮もまた薄々とだが感じていたのは事実だった。
 だが今は、そんなことよりも――


『あたしは蓮の力になりたいよ。忘れないで欲しいな、そこんところ』


 その言葉を覚えている。
 そう告げて、どこか寂しげに、そして哀しげに笑った少女を覚えている。
 そう、綾瀬香純……今は、彼女のことの方が余程重要だ。
 聖槍十三騎士団も戦争も。
 櫻井もルサルカもヴィルヘルムも。
 ツァラトゥストラもメルクリウスも関係ない。
 そんなものの一切を無視してでも、今は彼女の元へと行かなければならない。
 こんな奴らの妄言になど関わっていられる暇などありはしない。
 そんな蓮の思いを対峙する螢もまた理解していたのだろう。それでいいと頷いた。
 むしろそうしろと、それが望ましいと促がしさえした。
 櫻井螢は告げてきた。

 早く1+1を2に戻せ、と……。
 彼女が身を削って甲斐甲斐しくも蓄え、魔人たちから護りきった“景品”を受け取りに行け、と……。

『男の専売特許じゃない。女から奪い取ってものにするのは』

 揶揄するように、甲斐性を見せろと小さく笑いすらした。
 そうすることで、彼女は元に戻ると。
 彼女をこれ以上巻き込みたくないというのなら、ここからは自分ひとりでやればいいと。
 どちらにしろ、櫻井螢の戯言を抜きにしても藤井蓮にもはや選択肢などと言うものは何処にもありはしない。

『追いかけて抱きしめて慰めてあげないと、男が廃るってものじゃないの?』

 カッコいいところを見せてちょうだい、そんな好き放題なことをのたまいながら、櫻井螢はこちらの呼び止めすらも無視して目の前から去っていった。
 後に独り残されたのは藤井蓮のみ。
 そして胸中における彼の行動もまた既に決まっていた。



「…………ッ」
 噛み締めた奥歯が軋む、唇から血が滲み出るほどに。
 理解の追いつかない、ワケの分からぬこの状況が今の藤井蓮にとっては堪らなくも腹立たしい。
 それこそ最後の拠り所のように握り締めている携帯電話……これすら握り潰して地面へと叩きつけたいと思うほどに。
 そんな欲求に駆られながらも、しかし理性を持って蓮はそれを押さえ込んだ。
 当然だ、それは先程の櫻井螢の言葉を認めるのと同じであり、そして香純の名誉すらも傷つける侮辱でしかなかったのだから。
 事此処に至って尚、藤井蓮は櫻井螢の告げた真実とやらを認めてはいない。
 当たり前だ、香純に限ってそんな事があるはずがない。
 彼女は自分たちとは違う。自分や司狼のような馬鹿ではない。一弥と同じ、汚れてはいけない側の普通であるべき人間だ。
 少なくとも、そうあるべき、そうであるように、そんな日常を望んでそれを守り続けようとこれまでしてきたのだ。
 螢の告げたことが真実などであれば、今までの全てが打ち壊される否定とも同じだ。
 そんなものは認めない。認められるはずがない。
 だからこそ、強く頭を振った後。全てが嘘だと信じるように、震える指先で携帯に登録されている彼女のダイアルを鳴らす。
 応答は……無い。
 どうして出てくれないのか、あいつはこんな時に何をやっているのか。
 早く、お願いだから……。
 お願いだから、おまえの馬鹿みたいな元気で陽気な声を聞かせてくれよ。
 それを聞けさえすれば、俺は……。

「くそ! 何してんだ、あいつ!」

 もう待っていられないと、矢も盾も堪らずに、蓮は電話を掛けっぱなしに香純の姿を求めて駆け出していた。
 近付けばきっとコール音で分かるはず、直ぐに見つかるはずだとそう願いながら……。

 とっくに全身をずぶ濡れに浸した雨の中、数分か……或いはそれ以上か、もしくはその何分の一の時間だったのか。
 兎に角、時間経過の真実など分からぬままに我武者羅に走り続け――

 ――不意に水溜りへと足をとられて転んでしまった。

「――くぁっ」
 自分自身でも逸る気持ちと焦りが生み出した無様この上ない失態に舌打ちを吐きながらも、早く立ち上がらねばと手をつく。
 しかし妙にぬめぬめとしていて粘つき生臭いそれは、鬱陶しいくらいまでに滑り中々上手くいかない。
 服も汚れ、手も滅茶苦茶で散々だ。どうしてこんな赤い色をした気持ち悪い水溜りなんかがあるのかと苛立ちかけ――

「――――」

 ……どうして、夢じゃないんだよ。
 心底に、運命を、神という存在がいるというのなら、それを呪うように泣き出しそうに呻きながら、そんな蓮の耳元に届いてきているのは携帯の着信音。
 聴き慣れた……そう、本当に聴き慣れた、あいつのお気に入りの携帯の着信音。


「ああ、蓮……来たんだ?」


 最後の希望すらも木っ端微塵に砕く声が、それに紛れて耳元へと届き頭蓋に反響する。
 この時に、藤井蓮が思ったことなどもはや察するまでもないことだろう。

 この世に神様なんかいやしない。いたとしても既に死んでいるだろうし、生きているなら俺がこの手で殺してやる。

 どうしてこんなことになったのか。
 どうしてこんなものを目にしなければならないのか。
 今すぐ両目を抉り取って、記憶そのものを抹消したい。
 でないと狂う、己は発狂してしまうだろう。
 少なくとも、藤井蓮にとって今この眼前にある光景は十分それに値した。

 呆けた顔、弛緩した身体。血と雨でずぶ濡れとなり、そして泥や得体の知れないナニカで汚れきってしまった幼なじみ。
 首を断たれ、絶命している名前も知らない何処かの誰か。
 もう、目を逸らす事も、誤魔化すことすらも出来ない。
 遊佐司狼がこの光景を見たらどう思うだろうか? 笑う、或いは怒る?
 沢原一弥がこの光景を見たらどう思うだろうか? 怒る、或いは泣く?
 そして、今これを目にしている藤井蓮自身は――



「……何、してんだよおまえ?」

 呟く言葉は微かに震えはしていたものの、しかしまるで他人のもののように白けるくらいに明瞭に響いていた。
 意識だって同様。明瞭明晰。酷くクリアで、朧でハッキリしていないなどということもない。
 藤井蓮は正常だった、正常であったが故にこの状況に置いて、答えは一つで悔しいくらいに他には言い逃れる要素が何一つ無い。
 血塗れで血の海に、切断された首を片手にぶら下げて佇んでいる綾瀬香純のその姿。
 言い逃れは出来ない。他に答えだってありはしない。
 櫻井螢の告げた言葉は正しく真実だった。
 そして、もう目を背けてきたこれまでの違和感の全てすらも理解しなければならない。

「やって、ないよな……?」

 それでも、それでもそんな真実などいらなかったし、違和感だって錯覚のままに済ませたかった。
 当たり前だ。こいつがそうであるくらいなら、まだ自分が狂っていると思う方が何万倍もマシというもの。
 そう、少なくとも藤井蓮にとって、いやこれは綾瀬香純自身にとっても決して望んでこうなったことではなかったもののはずだ。
 絶対に……絶対にッ!

「おまえ、何もやってないよな? たまたまここでヘンなの見つけたから、なんとなく、その、好奇心で……」

 だからこそ、此処に至ってすら未だにこの事実を認められずに、馬鹿丸出しを承知の発言を藤井蓮は綾瀬香純へと必死に尋ねずにはいられない。
 香純はそれを聞きながら、きょとんとしたままに、不思議そうに首を傾げる仕草を続けるのみ。
 頼むから、そうだと頷いてくれよ。
 無様この上もなく、一言一言吐き出す言葉で死にたくなるような痛みを心に感じながら、自分すらも騙せない、そんな無様な嘘を、それでも彼女に認めて欲しかった。

 ――だが、そんな都合のいい奇跡などというものがこの世にあるはずもない。

『願えば叶うなどという戯言は、女子どもの夢物語と同義同列』

 何処かの誰か……酷く不快な声がそんなことを言ってきた気がしたが、うるさいとそれを強引に頭を振って振り払った。
 知ったことか……ああ、知ったことか!
 開き直りだろうが何だろうが、もはやそんな事は関係ない。
 確かにこれを行ったのが……そして本当に殺人鬼が綾瀬香純だとしても。
 そこに彼女の意志が介在しているなどということがあるはずもない。
 当然だ、香純はそんな奴じゃない。自分たちの中では一番マトモで、そしてこれからもそうでなければいけなかったはずなんだ。
 だから、これは香純が自ら本当に望んで行ったことなんかじゃない。
 櫻井螢だって言っていた。彼女は蓮に魂を供給するためだけの操り人形だったと。
 だから、だから……香純は悪くない。
 法なんかどうでもいい。モラルだって知ったことか。
 この世の誰にも香純は責めさせない。こいつは何一つ悪くない。

 ――本当に?

 殺された人の無念は? 残された遺族の悲しみや怒りは?
 己の中の良心がそんな問いかけをしてくることを蓮自身もまた気づいていた。
 本当に、その部分から目を背けてもいいのか、と……。
 おまえはそこまで傲慢に、そして人でなしであれるのかと。
 また同じことを繰り返すのか、と……。

「だったら……何が悪いってんだ」

 仮に、その罪科を問われるというのなら、再び自分が背負うまで。
 あの時にだってそうしたのだ。そうやって沢原一弥を守ったのだ。
 だったら、今度は同じように香純のことだって守ってみせる。
 俺は手放さないし、傷つけさせない。壊させもしないし、諦めもしない。
 守る……絶対に守ってみせる。この陽だまりを。
 今ここでこいつを守らないと、最後に残った何かすらも崩れ去ってしまう。
 だから――

「……帰ろう、香純。風邪引くぞ」

 けたたましく鳴っている携帯の呼び出し音を切り、出来るだけ微笑むように精一杯に表情に力を込めながら、彼女へと近付く為に一歩を踏み出す。
 香純を、自分にとっての陽だまりを取り戻す。連れて帰る。そう思いながら警戒すらも抱かずに前へと進み。
 だが、次の瞬間――

「――――ッ!?」

 見えない何かが駆け抜けるように振り被られ、蓮の頬を切り裂いた。



『さあ、これこそが序幕の終幕。
 我が盟友と愛しの君へと捧げる歌劇――主役として思う存分に謳え代替』



 脳裏へと響いてくるいつか聞いたその声。
 この上もなく不快で、殺してやりたいと思うほどに憎らしい。
 確信する。こいつが全ての下手人なのだと。
 全てを仕組み、自分たちを巻き込んで日常を破壊した張本人。

 ――メルクリウス。

 ギリッと奥歯を噛み砕かんばかりの憎悪と憤怒を声に対して抱きながらも、実態もなく好き放題に言って見物しているだけの相手をどうにかすることは出来ないし、この状況ではそんな余裕すらもありはしない。
 そんなことよりも、香純が行って見せた不可思議な凶行。それに対処する方がまずは重要だ。
 ……だが、いったい何をされた?
 彼我の差は約五メートル。言うまでもなく、手も足も届きはしないし、飛び道具を投げられたというわけでもない。
 だというのに、事実頬は裂け、そこから出血しているし、先程に確かに感じたソレは鋭利な刃物によるものだ。
 いったい何をどうやれば、そんなことが出来るのか……?
 蓮の脳裏へと思い出されたのは櫻井螢やヴィルヘルム・エーレンブルグ、ルサルカ・シュヴェーゲリンが示して見せた常識外れの異能の数々。
 香純があれと同じモノを所有しているのか……いや、それ以前にそもそもどうして彼女がこちらに攻撃をしてくるのか。

 ――しかし、考えている余裕などというものはありはしなかった。

 再び繰り出される第二刃、不可視の刃による攻撃。
 急速に迫ってくるソレを肌で感じた蓮は咄嗟に横飛びに転がりながらそれを躱す。
 最中、彼の脳裏へと過ぎっていたのは先程の櫻井螢のあの言葉だった。

『男の専売特許じゃない。女から奪い取ってものにするのは』
『これから先は、あなたが一人でやればいい』

 それは、つまり……

「俺が……香純を何とかしろってことかよ」

 彼女を制して、自らが“ソレ”の持ち主であることを証明しろ……そう言っているということか。
 甲斐性を見せてみろとはつまりこういうこと……どこまでもふざけてやがる。
 忌々しい舌打ちをこの状況に対して吐きながら、蓮は必死になって迫り来る不可視の刃の数々を躱し続ける。
 気で感じるだとか軌道を読むだとか、そんなこと出来るはずもない。ほぼ全て咄嗟の勘しか頼りに出来るものはなかった。
 取り敢えずまずは距離を取る。相手の射程がどれくらいかは蓮には分からなかったが、近付けば近付くほど、アレは切れ味が増してヤバイのだということを本能で理解していた。
 だが逃げてばかりでは解決にもならない。そもそも香純を置いて逃げるなどと言う選択肢は藤井蓮の中には最初から存在してはいない。
 焦点がずれたような、濁った瞳の色。状況的に考えても、今の彼女は正気ではない。

 ――操り人形。

 先程に下した結論そのままに、彼女がそうして何者かに操られて殺人を強いられている事は間違いない。
 今、その糸を断ち切らなければ、香純はまた殺人を繰り返すだろう。
 そして、“奴ら”にも狙われ続けることにもなる。

 ……これ以上、そんなふざけた事など絶対にさせて堪るか。

 糸を引いている張本人――恐らくはメルクリウス。忌々しい声の主。
 あいつが香純を汚したのかと思えば狂おしいまでに殺意を抱くが、奴への報復は今は後回し。香純の解放が先決だ。

「香純」

 名を呼ぶ。朧気な様子もままに、焦点も定まらない彼女の視線がこちらへと向いてくる。
 出来るだけ蓮は安心させるように、大丈夫だと精一杯に微笑みながら彼女へと告げる。

「安心しろ――すぐに助けてやるからな」

 もう二度と、おまえだけは巻き込ませない。
 絶対に、おまえを陽だまりに返してやると蓮は覚悟を固めた。
 瞬間、応じるようにきたのは再びの相手からの斬撃。
 咄嗟に後ろに飛んで躱すも、避けきれずに胸元を切り裂かれる。
 そして、それだけでは終わらない。
 続けて四度(見えないので正確な数は本当のところは分からないが)、繰り出され、全身を掠めていく斬風は、直撃していれば間違いなく命はなかった。
 この禍々しさ、殺傷力、そして何より、どんな角度で打ち込もうとも首を断とうと狙ってくる偏執性。
 蓮の脳裏に咄嗟に思い浮かび、そしてピタリと合致したのは悪夢の中で見飽きた忌々しいあの処刑器具。

 ――ギロチン。

 恐らく……いや、間違いなくこの刃はギロチンだ。
 藤井蓮にはそれが分かる。何故と問われても不思議と困るが、知っているのだ。
 転げ回るように走り逃げ続けながら、自らの首を狙ってくるギロチンの刃を蓮は必死で躱し続けていた。
 肌で感じ取ったその軌跡はデタラメ。全国屈指の腕を誇る、剣道有段者でもある綾瀬香純の剣筋とは思えない程に大雑把でデタラメだ。
 しかし逆に言えば、それが時に読み難く、回避しきれずに幾つかの掠った斬撃が段々と蓮の身体を削っていく。
 防戦一方のジリ貧……非常に不味い事態でもあった。

「――ッ、は――」

 息継ぎもままならぬ猛攻。掠める斬り傷の数と深さが段々と増してきて、蓮の全身を赤に、そしてその顔を苦悶へと歪ませる。

「――くぁっ!」

 まるで猛毒。事実、蓮にとってはこの時点では知る由もないが、彼女が振るうはエイヴィヒカイト。呪われた聖遺物による攻撃だ。
 根本的な生命を奪うための外道の秘法は、例え掠り続けるだけだろうとも僅かに生まれた傷口から生命の活力を奪い取り、喰らい続ければ命そのものすらも奪い取れる。
 正しく魔人の業。人の身で抗う術などというものが存在するはずもない。
 そんな発狂しそうな痛みの奔流の中、叫びだしたくなるような恐怖すらも押さえ込んで、藤井蓮がひたすらに耐え続けるのは彼女を助け出すという信念があればこそ。

「どうしたの……?」

 痛みに呻き動きを止めながらも、それでも精一杯に毅然さを保とうとしながら見つめ続けるこちらへと、彼女は不思議そうにそんな呟きと共に首を傾げていた。
 容赦もない斬撃の数々だが、彼女が本当に殺す気で畳み掛けてきていれば……今頃、自分はとっくに殺されていてもおかしくはなかった。
 それをしてこない、つまり彼女の真意は……
 彼女もまた……助けを求めている?
 そう感じればこそ、痛みや恐怖に屈している暇など蓮にありはしなかった。
 とはいえ、このままではジリ貧だ。
 なればこそ、ここは一か八か。覚悟を決めて――
 ……けど、そこからどうするんだ?

 香純を制しなければならないという糞ッたれたふざけた現状。
 具体的にどうやって彼女の目を覚まさせればいいのか、彼には分からない。
 藤井蓮は超能力者でもなければ魔法使いでもない。催眠術だって使えない。
 普通の……そう、普通であり、普通であり続けたいと思う単なる人間だ。
 そんな自分がどうやって、彼女を正気に戻せばいい?
 殴るのか? 蹴るのか?
 馬鹿言え、出来るはずがない。他ならぬ、綾瀬香純に自分が手を上げることなど出来るはずがない、自分自身が許すはずもない。
 彼女は巻き込まれただけの被害者だぞ、何も悪くないのに、何の罪も犯していないのに、ただ藤井蓮と近しい者だったという理由だけで、利用されたそんな被害者だ。
 全て自分の責任、香純は何も悪くない。……そう彼女を庇うように思えば思うほど、尚更に蓮は香純に手を上げる事など出来なくなってくる。
 香純にだけは手をあげたくはない、傷つけたくはない。藤井蓮にとって彼女は掛け替えもない護るべき大切な存在なのだから。
 もし、仮に自分が死ねば彼女が正気に戻ると言うのなら、蓮は躊躇いもなく即座に舌を噛み切ってやることがこの場では出来た。
 それくらいに、藤井蓮にとって綾瀬香純という存在は大きい。

「……なぁ、香純。頼むから、元に戻ってくれないか」

 だからこそ、強硬手段という方法を避けるならば、蓮にとって残されているのはもはや言葉による説得以外にはありえない。

「目、覚ましてくれよ。……こんなおまえ、俺は見るのすら耐えられない」

 正直に言えば、たまに鬱陶しいとかうるさいとかうざいとか、そんな気持ちを欠片でも抱かなかったかといえば嘘になる。
 けれど、それらを含めて香純には感謝をしている。恩を感じている。
 大切な幼なじみであり、友達であり、家族でもある彼女。
 藤井蓮にとって綾瀬香純は遊佐司狼と沢原一弥と等しく大切な、彼が彼であるために必要な存在だった。
 既に司狼を失った蓮にとって、こんな形で彼女を汚されるのは他の何よりも我慢ならないことだった。
 だからこそ、

「香純、帰ろう……」

 そう言って、安心させるように微笑みながら手を差し出す。
 対する香純、先程から呆然とした様子のまま変わりもしない。
 反応の無さは声が届いているから、大人しいのは戦意が失せたから。
 そう思いたかった。無理矢理にそう信じながら意を決して蓮はそのまま彼女へと近付く為に足を進める。
 そしてそのまま、彼女の肩に触れようと手を伸ばす。
 きっとそうすれば、いつもの彼女に戻ってくれると甘い希望を抱きながら。

 ――しかし、それを無残にも切り払うかのように駆け抜ける一閃。

「――ッッ、づぁぁァッ!?」

 右手が中指と薬指の間から、そのまま縦に肩口まで切り裂かれる。
 鮮血が舞う。灼熱の激痛が脳に達し発狂しそうな絶叫を上げかけ。
 しかし、それを無理矢理に蓮は押さえ込んだ。
 大声を上げるんじゃねぇ間抜け、大の男がみっともない。
 こんな痛みが何だ、この程度の傷が何だ。
 自分が苦悩を気取って二人に対して距離を取ろうとしていたその時に、その裏で香純がどれ程のものを抱えて一人で苦しんできた事か。
 彼女を護れもせず、こんな事態に巻き込んで、手を汚させて。
 香純の痛みや苦しみに比べれば、たかが右手が裂ける程度などどれ程のものでもなかろうかと自らに言い聞かせる。
 寧ろこれは報い。万分の一にすらも満たなかろうが、藤井蓮という間抜け野郎が背負って味合わねばならぬ罰だろうがと言い聞かせる。

「……そうだ」

 甘ったれた間抜けは間抜けなりに、ここでケジメをつける必要がある。

『追いかけて抱きしめて慰めてあげないと、男が廃るってものじゃないの?』

 ああ、櫻井。癪だがおまえの言う通りだ。
 その言葉は全面的に正しい。ここで痛みや恐怖で退くような奴は男じゃない。
 そして藤井蓮は男だ、男である以上、ここでやらねばならないことは既に決まっていた。

 彼女を傷つけず、傷を恐れず、傍まで行って抱きしめる。

 それが許しになるとは思わない。否、何の許しにすらもなりはしないだろう。
 だがそれでも、そうしなければならないと蓮は思った。

「……待ってろ、香純」

 もう司狼の時の様なオチは御免だ。
 このままじゃあ一弥にも顔向けできない。
 それに何より、俺自身がこいつを失いたくなどない。
 失くしてしまったものは、二度と取り戻すことなど出来なくなるのだから。
 だからこそ――

 悲鳴を押し殺し、歯を食いしばる。
 開きになった右腕を手首の部分で押さえつつ、蓮はゆっくりと立ち上がった。
 正直、出血は洒落にならない程の量であり、放って置けば失血死してしまう可能性が非常に高い。
 だが、それがどうした。
 そんなものより大事な事が、今は目の前にある。
 ただ一歩。
 そしてまた一歩。
 遅々とした速度ではあるが、それでも飛んでくる不可視の刃すらも一切無視したままに、確実に一歩一歩、藤井蓮は綾瀬香純へと近付いていく。
 腕を飛ばされようが、足を飛ばされようが、首を飛ばされようが。
 例え一瞬先にそうなろうが知ったことか。
 待ってろよ、香純。


 ――今、俺が必ず助けてやるから。


 だからこそ、この腐れギロチン。
 てめぇは邪魔なんだよ、俺に使われる道具の分際で粋がってんじゃねえよ!

「女を盾に取るような真似してないで、香純を放せ。さっさと俺の方に移って来い。
 そいつは、何の関係もないだろうが」
「――――」

 そう啖呵を切るように告げたその時だった。


「……どうして?」

 不意にポツリと香純が呟いた。

「なんで、いつも、そんなこと……」

 それは、本当に危うく聞き逃してしまいそうな程に小さな声だった。
 だけど、今までの人形めいた棒読みとは異なる、生きた声であったことも間違いなかった。
 どこか俯いているのにも近かった視線から香純は顎を上げ、

「どうして、なんでいつもそんなことばかり言うのよ」

 真っ直ぐにこちらをみて、

「どうして蓮は、あたしに気を遣ってばっかり……嫌だよ、そんなの。嬉しくないよ」

 それは熱に浮かされているかのような、それでいて淡々と、笑い混じりに香純は喋り続ける。

「ねえ、そんなにあたし空気読めてないのかな? 大事なところで、あんたの邪魔とかしちゃうのかな?」

 その瞳は未だ朧気なままであり、その顔もまた正気と狂気の境界線上に漂っているかのような表情もままに。

「あたしじゃ役に立てないのかな? あたしが出来る事はないのかな? あたしがあんたを助ける事って、出来ないのかな?」

 それを聞いて蓮の脳裏に過ぎったのは、あの時のベンチでの彼女との会話だった。
 あの時と、そしてこの瞬間。
 こうして彼女が搾り出すように呟いてくる言葉の数々。こちらへの問いかけ。
 綾瀬香純の藤井蓮への本音。

「司狼、いなくなっちゃたし、一弥もどこか余所余所しくなった。……蓮だって、平気な振りをしててもきっと辛いんだと思った」

 ――そう思ったから、あたし頑張ろうと思ったんだよ?

 そうして頑張ろうと、蓮が元気になるにはどうすればいいかを必死に考えて。
 散々悩んで、散々迷って、散々傷付いて。

「……気がついたら、あたしこんな風になっちゃってた」
「――――」

 でも、これで良かったんだよねと笑いながら問いかけてくる香純に。
 蓮は答えられない。答えるべき言葉が何も無かった。


 ……ああ、そういうことなのか。
 蓮の胸中に走ったのは、それこそ彼女に対しての申し訳なさと、苦々しい後悔。
 そして彼女のそんな気持ちに気づいてやれなかった……否、薄々気づきかけていたが、分からないように目を背けようとしていた己に対しての情けなさ、それに対しての怒り。
 遊佐司狼をあの時に失い、己の日常に欠けてはならないものが欠け。
 それでも、変わりたくなくても変わらなければならない。失ったものはもう二度と戻ってくることなどないのだから。
 残された俺が二人を、香純と一弥を護っていかなければならない。
 そう思った。そう背負わなければならなかった。
 そうしないと、そうやって変わらないと、多分自分はもう前に進めなくなってしまうから。

 ――時間が止まればいいと思った。

 いつも、そう考えて、あれ以降もまた何度だってそう思った。
 せめて、今残ったものだけでも、失わなかったものだけでも維持していきたい。
 だからこそ、ここで自分が弱気になったり、立ち止まったりしたらいけない。
 俺が不安になれば二人にまで不安にさせてしまう。
 だからこそ、精一杯に忘れようと、忘れて平気でいようと思い続けた。
 そしてだからこそ、異常を前に彼らを巻き込まないようにと、自分ひとりで背負い込もうとしたのだ。

 ……けど、俺のそのやり方が、その無理の皺寄せがあいつらへの理解や歩み寄りを遠のかせた。
 きっと、沢原一弥も同じだったのではなかろうかと思った。
 ただそれぞれで、同じくせして互いに気を使いあって、不干渉であろうとしたから。

『あたしだけすぐ除け者にしたり』

 その結果、一人頑張ろうと、取り戻そうと足掻いた香純だけを孤独にさせてしまった。

「香純……」

 様ぁない。何から何まで自分の責任、度し難いまでの失態ではないか。
 とっくの昔に止んだ斬風。身体的に新たな傷は生まれずとも、紡ぐ香純の言葉の数々が罪悪感となって、藤井蓮の心を斬りつける。

「司狼の時と同じだよ。関係ないって、今だってあたしに何も教えてくれない」

 ねえ、どうして?
 そう問いかけてくる香純。
 思えば彼女には大事な事、知られては困る事はいつも隠して、そして遠ざけてきた。
 それが一番安全な護り方だとも思ったからでもあるが……何てことはない、それは自身にとって都合の良い言い訳も同じ。
 どんな方法であれ、彼女と向き合わず逃げ続ける限りは、藤井蓮は綾瀬香純を傷つけることしか出来ない。
 分かっている。ああ、分かっている。

「……俺は、おまえを軽々しくなんて扱えない」

 それだけ大きな負い目があるし、何よりそれでもおまえは俺に必要な存在だったから。
 けど、それは……

「むしろ逆だ。俺はおまえが大切だ。だから……」
「同じだよ」

 切り返すように向けられる返答。
 ……ああ、だがその通りだ。
 どれ程言葉で取り繕うが、やはりそれは単なる言い訳にしかならない。

「あたし、いつも悔しかった」

 自分だけがいつも蚊帳の外。大事な事には、本当の事には何一つ関われない。
 関わろうとする事を、許してもらえない。
 関わらせてすらもらえない。

「あたし、いつも羨ましかった。蓮と一緒にいる司狼の事が、ずっと羨ましかった」

 そう言った意の言葉を次々とポツリと呟き続ける香純。
 蓮にはどう返していいのかも分からない。
 それは綾瀬香純からの藤井蓮に向かっての断罪だ。
 いつかは来ると、あの時に……十一年前に予見したその瞬間だった。
 だからこそ、この全ての結果こそがその報い。

 その尻馬に乗るようにやってきた連中に、香純は利用されて汚されてしまった。一弥を巻き込みかけ、危うく殺されかけるところだった。

「…………」

 ……もう、そんなことは沢山だ。
 だからこそ、ここでやらなければならないことは決まっていた。
 そしてその為にも、必要な物があるというのなら。
 そしてそれを手に入れることで、失う代償がどれ程に大きかったとしても。

 ――それでも、藤井蓮は藤井蓮に出来るやり方でしか大切な者たちを護る事が出来ない。

 だから――

「――――」

 無言のままに一歩、再び蓮は香純に向かって歩み寄るのを再開する。
 瞬間、こちらの接近を拒むかのように駆け抜けてくる不可視の斬風。
 その軌跡、初動から到達までの斬線が、蓮にははっきりと見えていた。
 確実に首を断たんと狙った直撃コース。本来ならば喰らえばこちらの首が問答無用で飛ばされることなのだろう。
 しかし――

 藤井蓮は躱さない。躱す必要もないと言わんばかりにそのまま躊躇うこともなく真っ直ぐに前進する。

 当然だ。そもそも“これ”は彼の物。
 彼が振るうべき、彼に与えられた、彼の為の力。
 もうこれ以上、こんなものを香純に振るわせてはいけない。
 こんなジャンル違いを、彼女に持たせたままにしてはいけない。
 これはもう……俺が、ちゃんと受け取るから。
 例えその結果、忌まわしいジャンル違いに自らで染まろうとも。
 全ては自分で決めて、そして選び、背負った責任だ。
 だからこそ――おまえもさっさと俺のところに戻って来い。

「…………え?」

 次に響いたのは肉を断つ切断音ではなく、予想に反した光景に呆気にとられる香純の呟く声であった。
 しかし彼女からすればそれも当然。宙を走る自らが振るう不可視のギロチン。それが蓮の首に当たる寸前で霧消してしまったのだから。

「何で……?」

 信じられないと、再び繰り出すギロチンの刃。
 左右斜め上からのまったく同時に、挟み込むような角度で今度こそと蓮の首へと迫っていく。
 だが……

「嘘……」

 再び、その攻撃もまた先程の攻撃と同じ結果となった。
 ただ信じられないと首を振る香純。このような事態、このような現象、今まで自らでこのギロチンを振るい続けて一度だってあるはずもなかったことだ。
 だからこそ、香純にとってこれは正しく解せない事態。
 しかしながら、実の所、対する蓮とて何かしたというわけでもない。
 実際、彼は何もしていない。ただ覚悟を持って怯む事も逃げる事も無く、前進を続けているというだけだ。
 だが何故か、既にもはや刃は彼の身には届かない。
 まるでそれこそが、本来ならば当然であるかとでも言うように……

「――ッ!?」

 それでもその事実を認め難いのか、蓮の接近を拒むように香純は諦めずにもう一撃、横薙ぎの一閃を放った。
 それを蓮は何を思ったのか、真っ二つにされた右手で受け止めた。

 瞬間、いかなる理由による現象か。腕が飛ぶどころか、傷口が合わさり固定される。

「なんで? なんでなんでなんでどうして?」

 不可解、不理解、認め難し。
 そんな疑問も顕に叫ぶ香純に、蓮は静かに分からないと首を振った。

「けど、もうおまえに、これ以上そんなことをしてほしくないんだよ」

 それは心からの本音。そして……

「力になら、ずっと前からなってるよ。おまえが分かってないだけで、俺、随分救われてる」

 これもまた、掛け値なしの本心からの言葉だった。
 決して嘘ではない。事実、この数日など正にその言葉の通りであり、彼女がいてくれたから、蓮は精神の均衡を崩さずに保ってこられた。

 藤井蓮にとっての大切な……つまらなくて退屈だけど、平凡で退屈な日常の象徴。
 絶対に無くしたくない陽だまり。

「おまえがそこにいてくれないと、俺は帰ってこれなくなる」

 陳腐な表現だが、彼女は己にとっての港、帰り道を照らしてくれる灯台の光だ。
 どれ程の旅で放浪しようと、最後は必ず帰ってこようと目指すべき場所。

「だから頼むよ、おまえはこっちに来ないでくれ。我が儘言って悪いけど、そうしてくれなきゃ、俺はこの先――」

 ――あいつらと、戦えない。

 自分たちの掛け替えのない日常を、手前勝手にぶち壊してくれたあの連中に、それがどれだけ高くつくことなのかを、思い知らせてやらなければならない。

「じゃあ……」

 既に距離は触れ合うくらいに向かい合った近距離。
 眼前に辿り着いた蓮を見上げて、香純は呟く。
 ふっと一瞬だけ、自嘲する様な表情を浮かべながら。



「あたしはやっぱり、蚊帳の外ってことじゃないの」



 ……ああ、結局はその通りだ。
 けれど、それが藤井蓮が綾瀬香純にしてやれる唯一の護り方だから。
 そして、それだけしか出来ないからこそ……必ず、これだけは果たす。
 だから――

「一弥と一緒に待っててくれ。絶対……ちゃんと帰ってくるから」

 二人の下へと必ず帰ってくる。
 そう告げる蓮の言葉を聞き、香純は力が抜けたようにぐらりと身体を傾けさせながら倒れかけるも、蓮は手を差し出して彼女の体を抱きとめた。
 自分に出来る精一杯。自分が出来る精一杯。
 詫びにすらならない自己満足。むしろこの愛しい温かさを今は自分の方が求めたかっただけか。

「あぁ……何かもう、馬鹿みたい」
「ごめんな。本当……こんなことになっちまって、許してくれとも言えないよな」

 でも、大丈夫だから。もう心配するな。

「後は全部、俺が絶対何とかするから」

 全部……必ず、守り通す。
 もう何一つ、奴らには奪わせないし、傷つけさせもしない。
 だから心配しなくていい。安心して全て任せてくれればそれでいい。

「……蓮の馬鹿。あんた全然分かってないよ」

 藤井蓮の言葉に、本当に哀しげに、悔しげに、そして諦めたように彼女は静かに首を振る。

「あたし、あんたが一人で無茶するの、もう止めてって言ってるのに……」

 一番肝心なその部分を、ちっとも変えてくれない。
 本当に頑固で強引で、そして我が儘だ。

「どうして、譲ってくれないかなぁ……」
「仕方ないだろ。そういう性分なんだ」

 古臭い価値観だと蓮とて承知の上だ。
 けれどだからこそ、男として藤井蓮はこの部分を譲るわけにはいかないのだ。
 臆病だから見栄張って、やせ我慢して、カッコつけて、女のために前へ出る。
 この役割だけは逆に出来ない。逆にしちゃいけない。そんな奴を蓮は男として認めないし、生きている価値すらないと思う。
 だからこそ、結局は平行線。
 綾瀬香純の不満と藤井蓮の願い、結局は両立し得ないそれは水掛け論にしかならず、答えも出てくれない。
 だからこそ強引だが、男としてここは蓮が無理矢理にでも前へと出させてもらう。
 けれど結局、この二つは決して共通していないわけではない。
 むしろ根幹は同じ。お互いに失う事を何よりも恐れている。
 ただそれだけという事実。
 だからこそ、出来る事は一つだけだ。
 今まで色んな約束を破ってきて、信用なんてないだろうけど、それでも再びここで彼女へと誓わせて欲しい。

「帰ってくるから……」

 そう、これは約束。そして誓い。
 これだけは違えられないと決めた、護ると決めた大切な者達へと誓うその契約と言ってもいい言葉だ。

「絶対、俺、戻ってくるから……おまえは何ていうか、一弥と一緒に待っててくれよ。あいつが馬鹿や無茶やって、飛び出してこないように……俺が戻ってくるまで、手綱とか握って繋ぎ止めてくれてると助かる」

 だからまた絶対に三人一緒に。
 今度こそ互いを孤独にしないように間違わずに。
 そしてそこから先輩やシスターや神父たちも含んで。
 必ず日常を、永遠を願う既知を取り戻そうと藤井蓮は誓った。
 その蓮の誓いに対して香純は……

「……もう、勝手なことばっかり」

 本当に面倒だよね、こういうの……そう力なく笑いながら。

「だけど、そんな蓮だから、あたしはきっと……」

 終端を結び終えられなかったその声は、しかし憑き物が落ちたかのような穏やかなものだった。
 そしてその言葉と同時、香純の身体から蓮の身体へと移り変わるように何かが伝わってくる。
 それは切り裂かれた右腕へと侵入し、楔を打ち込むように傷口を塞いでいった。
 自らの腕に異物が混ざりこんだ感覚。力を受け取ったという実感。
 同時に、自分が純粋な人間でなくなってしまったという恐ろしさを、蓮は確かに感じた。
 それは外れる事をこれまで拒み続けてきた、愛すべき日常との決別。
 これから加速度的に狂っていくのだろう、忌むべき非日常への誘い。
 上等だ、覚悟は既に固めてある。
 もう逃げない。全てにケリをつけるその瞬間まで、存分に付き合ってやろうじゃないか。
 だが今はそんな自分に対してのことよりも、

「……じゃあ、香純。行ってくる」

 今はそんなことよりも、彼女からそれが抜けたという事実が、彼女があちら側へと帰れたのだというその事実に、心の底から安堵した。

「絶対……勝手に、いなくならないでよ」

 そう呟きながら意識を失う彼女。その言葉に応えるように蓮は香純の身体を今はきつく強く抱きしめた。
 この温もりを忘れないように、この覚悟をなくさないように。

 今宵、藤井蓮の陽だまりから陰へと足を踏み入れた、その旅が始まった。




 そうして、彼と彼女は番いとなった。
 喜んでもらえるだろうか、我が主、そして我らが女神と黄金の獣よ。
 これより彼はあなたの代替として機能する事となる。
 この恐怖劇(グランギニョル)に、主役として。
 彼ならきっと見事に踊ってくれるだろう。このシャンバラにスワスチカを完成させ、怒りの日を実現させてくれることは間違いない。
 困難であろうはずがない。ましてや不可能などではありえない。
 何故なら彼はツァラトゥストラ。
 我が敬愛する主、聖槍十三騎士団第十三位、副首領メルクリウスが代替。
 今そうして目覚めた姿こそなんと――

「――素晴らしい」

 恍惚と、それこそを至上の美と謳うかのように彼の唇より漏れ出た言葉は感極まった賞賛の言葉。

「……マスター?」

 陰よりその一部始終を見届けていた櫻井螢もまた、そんな様子の彼を怪訝そうに……否、得体の知れぬ薄気味悪さを厭う様な視線も顕に見つめていた。
 彼があの少年をどのように処理したのか……些か気にはなっていたことなのだが、この様子ではそれも訊けそうではない。
 感極まった様子も顕な狂人に対して、さてどうしたものかと判断に迷っていたその時だった。

「今宵はここまで。いや実に有意義、素晴らしき幕開けだ。
 きっとかのお方々もお喜びとなられていることだろう。
 君も誇るといいよ、レオンハルト。この素晴らしき開幕の瞬間に立ち会えたというその事実を」

 これで漸く、本当に始められる。
 戦争を。殺したり殺されたりする、魔人たちによる戦を。
 半世紀以上も待ち望んだ、恐らくはこれにて最後にしたい百億回目の試みを。
 今度こそ、我々は永劫回帰の環を破壊し、ゲットーを超越するのだ。
 その為に蒔いた種は、今ここに全て芽吹いた。
 後はそう、盛大に花を咲かせるだけだ。
 そしてその過程であり舞台こそが、この至上の歌劇。

「では我々も戻るとしよう。ここから先はきっと忙しくなる」

 加速度的に狂気は増して、惨劇の様相は深まり、多くの死が生まれる。
 この幕開けまでに起こったもの等の比ではない。
 当然だ、これは戦争なのだから。

「もっともっと、殺したり殺されたりしようじゃないか」

 破壊を。完膚なきまでに徹底とし、救いの一つもあるはずもない、そんな破壊を。
 この世の全てすらをも巻き込んで、終末を再現するのだ。
 壊した事がないものを見つけるまで。
 元に戻す必要すらもありはしない。
 故にこそそれは――

「きっときっと楽しいよ。それは絶対に間違いない」

 我らの手を持って、この世界にDies irae(怒りの日)を下すのだ。
 こみ上げる笑いを必死に抑えながら、けれど抑え切れずに漏れ出る歓喜に身を震わせて恍惚とする狂人。
 櫻井螢はその姿を見て思う。
 彼も、そして彼の同類たる他の面々も、そしてそれを統べる者たちも。
 そして当然ながら、己自身も。
 余人が見れば、正しく嫌悪と恐れを持ってこう評するのだろう。

 ――世界の敵、と……。

 ……まぁいい。別にそれで一向に構わない。
 そうあるようにしか自分たちはなれないのだ。
 そしてこの舞台の上ではそうあるようにも望まれているのだ。
 ならばその役割、演目を全霊を持って踊りきるのが矜持というもの。
 黄金の獣の鬣、その血肉となるべき一房、彼の魔人の『軍勢(レギオン)』の一人としてもそこに異議はない。
 だからこそ、精々……

「……せめて、お互い悔いだけは残らないように努めましょう」

 チラリと振り返り向ける視線の先に居るのは、先程目撃した己と同じ存在へと遂には堕ちた一人の少年。その彼に対しポツリと告げる。
 自分たち黒円卓にとって、誰よりも憎み、誰よりも愛するべき花嫁。
 さて、彼を射止める運命の恋人は自分たちの中の誰になることやらと螢は思う。
 それが例えば、もしも自分であるとするならば……

「……その時は、最高の恋愛(せんそう)をしましょうか」

 彼とならば、或いはそれも悪くはないと、思わずらしくもないそんなことを思ってしまう。
 戯言ではあるが……けれど、そうなるならなるで少しばかりはこの狂気の沙汰も或いは面白くなるかもしれない。
 まぁ、本当のところ自分にとってはそれもまたどうでもいいことなのだが。
 彼女にとって重要なのはただ一つ。
 失ってしまった大切なものを取り戻す。
 どのような手段を用い、どのような犠牲を生み出し、どのような代償を払おうとも。
 誰にだろうともそれだけは譲れない。
 だからこそ、彼女は敢えて己自身へと言い聞かせるように強く命じる。

 自分は剣だ。剣でありさえすればそれでいい。

 ただ強靭に、ただ鋭利に、鋭鋒な剣でありさえすればそれでいい。
 全てを取り戻すその日まで……。
 ただ剣である事を、そう願う少女。
 はたして、そんな彼女へと手を差し伸べる存在がいるのだろうか?
 もし、いるとするならば、それははたしていったい誰なのか?
 どちらにしろ、その答えは何であれ、それが待っているのはこの恐怖劇(グランギニョル)のその先にのみだ。
 故に、彼女もまた進むしかない。
 その結末が彼女にとって、望む望まざるに関わらず。
 加速している狂気の中の一要素として、もう止まる事は許されないのだから。




 そうして、彼女もまた時を同じくして遂にこの忌むべき呪われた歌劇が始まったという事実を理解した。
 始めから決まっていた事、彼女の場合においては他の何者よりもより顕著にそれが示されていただけに過ぎない。
 何故なら己はゾーネンキント。初めから、そうあるように、捧げられるべくして用意された存在だ。
 そう、彼女はいつも一方的に与えられ、そして一方的に奪われるだけ。
 彼女自身の望みはどうであれ、その事実は変わらない。変えられない。変えることなど出来はしない。
 彼女の人生は祝福という名の絶望と共にあり、そしてそれは恐らくこの呪われた身が潰える時までも如何様の変わりもまたないはずだ。
 故に、彼女は怒りも悲しみも抱かない。抱かないようにと常に努めてきたつもりではあった。
 所詮、それらの全てもまた無駄であり、そしてそのようなものを抱く事そのものが、逆に悪魔たちを喜ばせる酒の肴としかならないことを知っていたからだ。
 だからこそ、彼女はただ重く、重い溜め息を吐くだけ。
 これが運命であり、そして自分はそれに抗えず殉じるしかないというのなら――

「――なら、それならせめて彼らだけでも」

 私に救いはいらない。
 けれど、ならばせめて、私の愛する彼らにだけでも一片の救いを。
 この世に神はいない。いたとしても既に死んでいるし、もし仮に生きているというのならむしろ自分が殺してやる。
 だからこそ、これは別に神に対して祈っているわけではない。
 そう、神に対して祈っているわけでは……

 ならば、その彼女の……黄金の礎たるその願いを、救い上げるのはいったい何者なのか?
 いや、そもそもそんな存在が本当にいるのだろうか。
 その答えもまた、この呪われた歌劇の先にしかありはしない。
 どちらにしろ、彼女の思いとは裏腹に、もはや狂気の加速は止められない。



「――そして止められないと言うのなら、むしろ加速させてやればいい」

 厭う事も躊躇う必要も無い。
 それが正しき在り方だというのなら、むしろそうしてしまえばいい。

「例えそれが罪だとしても」

 それを罪というのなら、私は喜んでそれを背負おう。
 下されるべき罰を、いつの日にか甘んじて受けることだろう。

「……いや、私にとって罰とはこの贖罪そのもの」

 私が許し、私が罰する。
 これ以上の罰が、贖いが、そして救いがあるだろうか。
 否、断じて否。
 ヴァレリア・トリファは否定する。そんなものはありはしないと。
 故にこそ、この在り方こそが正しい。己は間違ったことはしていない。
 それを狂気と嗤うならば、好きなだけ嗤うがいい。
 蔑みたいならば、存分に蔑めばいい。
 我が身、我が存在こそが、既にそれに値している。
 そう、半世紀前から、ずっとずっと……
 故にこそ、かの司祭は屑なのだから。

「贖えない罪などない。取り戻せないものなどない」

 彼にとっての拠り所となる価値観、信念、その欺瞞。
 逃げに徹し続け、遂には道化と成り果てたその身が、この開幕の中、胸中で何を望むのか。
 野心? 背信? 或いは――

「――故にこそ、私は悪魔となりましょう」

 かの忌むべき黄金。
 彼が心の底から憎み、畏れ、そして何よりも敬愛する存在。
 彼は今こそ一つ問い質したい。
 絶望として捨て去った神(しんこう)ではなく、主と仰ぐその獣へと。
 恐れ多くは承知の上の、その一言を。

「我が君、私は貴方にこそなりたいのです
 貴方は、それを許していただけますか?」

 それが、それだけが、聖餐杯たる彼そのものの真なる救いなのではないのかと信じて。
 両手両足と脇腹――聖槍に貫かれた証たる聖痕にて、その全身を赤へと染めながら。
 司祭は笑う。笑い続ける。
 先程の己自身が呟いた言葉の通りに。
 止められぬ狂気を、逆に加速させるように――

「主よ、彼らに永遠の安息を与え、絶えざる光もて照らし給え」

 紡がれるこの鎮魂歌こそ、祝福。



 身体が熱い。
 降りしきる雨に打たれ全身をずぶ濡れに浸しながらも、彼――沢原一弥の全身を震わせている原因は外界からによる寒さからではなかった。
 むしろその逆。外ではなく内。己が身体の内部より感じ取れる得体の知れない何か。
 自分を自分ではなくすかのように蝕む、正体不明の違和感。
 酩酊にも近い意識と共に、思考すらも上手く纏まらない。
 それでも本能が確信を抱く一つの恐怖。

 自分が、得体の知れないナニカによって人間でないものへと書き換えられていっているかのような感覚。

 未知への逸脱。
 ゼイゼイと荒い息を吐き、壁に凭れかかる様に項垂れながら、それでも遅々とした千鳥足で行っているのはこの場からの離脱。
 そう、逃げなければ……何処かへ逃げなければならない。
 なるったけ遠くに、人が居ないような、人が来ないような何処かに。
 何故、どうしてと問われても上手く答えられなくて困るが、しかし、それでも分かるのだ。
 本能がそれを無意識にも理解している。
 今、誰かに会えば、自分はきっとその誰かを……

 それは沢原一弥にとって絶対にあってはならない、忌むべき行為。
 だからこそ、それを行わせない為に、そんな状況を起こさせない為に、必死になって這ってでも自分は何処かへ去らねばならない。

「……ちく…しょ…う……ッ……あの、野郎……」

 あの化物、いったい我が身に何をしてくれたのか。
 そして、自分はこれからどうなってしまうのか。
 それに何より、これから蓮たちは……

 分からない。最悪なまでに、分からない。
 進むべき道に光明は見出さず、その先は果てしない暗黒。
 絶望的な忌むべき未知。
 ……もう、自分たちは戻れないのだろうか。
 奪われたという事実、壊されたのだという事実。
 二度とは同じように元には戻らないという現実に、身体を焼き、思考を狂わす苦しみとも合わさり。
 気づけば、沢原一弥の顔は涙で溢れきっていた。
 それは、何一つ護れなかった、無様な敗北者の……涙だった。




 そうして、藤井蓮は気を失った綾瀬香純を担ぎ、家へと戻ってきた。
 今夜、自分と彼女に何があったのか、奴らが何を始めたのか、そしてこれから何が始まるのか。
 恐らくは、全体の一割すらも把握できていないことだろう。
 しかしながら、蓮はそんな現状に対し、その謎に対しての追求よりもこの現実に関しての状況の整理から始める事にした。
 謎は謎。答えを解く要素も無い分からないことに時間や思考や労力を割くより、分かる事を整理する方が理に適っているし現実的だとも思ったからだ。
 それに謎は……いずれこの先に解き明かすべき要素が用意されている、そう何となく予感に近いモノを覚えていたからでもある。
 だからこそ、今はこちらの問題へと目を向けよう。

 一連の連続殺人事件の犯人……綾瀬香純。
 その目的は、櫻井螢の言っていた言葉が正しいと言うのなら、魂の収集。
 詳しい事は分からないが、力を得るためということ。
 そして一番肝心なのが、他ならぬ香純を操っていた犯人。
 恐らくは、この一連の状況の全てを画策しただろう黒幕。

「――メルクリウス」

 その人物が何者であり、何の理由や目的からわざわざ自分などを選んだのかは分からない。
 だが、例え何であれ……ここまでのことをやってくれたのだ。必ず相応の報いをこの手で受けさせてやる。
 右拳を固く握り締めるように、確かな怒りと共にそれを誓う。
 もう、香純にも一弥にも手を出させない。
 もう、この二人だけは絶対に関わらせない。
 帰ってきた時から未だ彼が帰ってきておらず心配だが……兎に角、今宵を新たに改めてそれだけは違えさせないと強く誓う。
 そしてその為に、あの化物染みた非常識な連中……奴らとの戦いも避けきれないというのなら。
 常識を捨て、自らも日常から脱却し、奴らと同じ側にすら踏み込もう。
 奴らがこちらの世界に……自分の大切な人たちに危害を与えないように、立ち塞がる為に。
 異物たる忌むべき未知を、排除する。
 櫻井螢を、ルサルカ・シュヴェーゲリンを、ヴィルヘルム・エーレンブルグを。
 そして他にも集ってきているという奴らの仲間を。
 この街から、一人残らず叩き出す、徹底的にだ。

「……出来るはずだ、今の俺になら」

 ポツリと呟きを漏らすと共に、蓮はその視線を右手へと下ろす。
 この右手には、今確かにギロチンがある。
 奴らを倒すべく、そして香純たちを護るべく手にした力。
 化物には化物を。非常識には非常識を。毒をもって毒を制する。
 不本意であり、最後まで恐れていた選択だが、しかし事此処に至れば後悔はない。
 チラリとその視線を今度は右手からベッドで眠っている香純へと向ける。

「安心しろ。おまえは何も知らなくていい。これ以上、怖い目にも、危ない目にも遭わせない」

 彼女だけではない。
 沢原一弥も、そして氷室玲愛やシスターや神父たちも。
 己が愛する日常の、それを構成する大切な者たち全てを。
 薄汚い化物どもの手など触れさせはしない。
 例え、己のこの考えや行動が独善的だろうが何だろうが、そんなことは知ったことではない。
 正義も道徳も、そんなものが最早介入できる余地など何処にもありはしない。
 香純が大事だ。一弥が大事だ。玲愛たちが大事だ。
 藤井蓮にとって、これに勝る想いなどというモノがあるはずもない。
 彼らを誰にも渡さない、傷つけさせない、悲しませない。
 だから――

「――全部、俺が引き受ける」

 危険も恐怖も、罪や罰すら、何であろうが躊躇わない。
 彼女たちの元には……温かくて綺麗な、その陽だまりにだけは絶対に踏み込ませない。
 だから、全部自分が片を付けて、終わらせて、そして――

「ちゃんと、帰ってくるから」

 当然だ。そう誓い、約束した。
 誓いは果たさなければ意味が無い。
 そのことを蓮はよく知っている。
 そして彼自身、このようなイカレ狂った状況を、闇を己の世界とするつもりなどない。
 俺が生きるのは、生きたいと思うのは……

「おまえらがいて、先輩がいて、つまらない学校があって、うざい悩みとか不安があって……」

 そんな、誰もが知っている、退屈だけど暖かい、かけがえのない日常。
 そこに帰って、そこで生きたい。普通に歳を取って普通に死にたい。
 だからこそ、そんな愛すべき日常に戻る為に――

 ――藤井蓮は非日常へと逸脱する。

 だから少しの間、目を瞑っていてもらえれば助かる。そんな風に思っていたその時だった。

「……ん」

 薄っすらと微かな寝返りと共に、茫洋とした様子のままに、眠たげに瞼を上げる香純。

「……蓮?……ここ、どこ?」
「おまえの部屋だよ」

 恐らくは寝起きでハッキリしていないであろう意識の中でのその問いに、努めて何事もなかったように装いながらいつもの口調で返す。
 正直、それがこんなにも苦労する事などと知りもしなかった。

「体調、平気か? おまえ、いきなり倒れたんだぞ。こっそり酒でも飲んでたか?」

 からかい混じりに問う蓮の言葉に、それこそ香純はその事実がまだ理解出来てはいない様子もままにキョトンとした様子で問い返してくる。

「あたし……倒れたの?」
「ああ、連れ帰るのに苦労した。」
「そう、なんだ……ごめん」
「気にするな」

 やはり、と気づいたその事実に蓮は胸中で安堵の息を吐いた。
 香純は殺しの記憶を忘れている。
 不幸中の幸い……などと言っていいかは分からない。けれど彼女がそんな罪の記憶を抱いて生きていかずに済むことは、蓮にとっては何よりも重要な事。
 こいつの人生に、そんな忌むべき記憶と罪を背負っていく必要などない。
 ……そんなものは、俺だけで充分だ。

「……ねえ?」

 そんな中で不意に、香純が尋ねてくる。

「なんか、前にもこんなことあったよね。司狼がいなくなっちゃう前に……」

 香純の言っている“前”というのは恐らく……

「蓮、あの時と同じ顔だよ。何考えてるの?」

 その彼女の問いに対し、蓮は……

「……別に。なんでもない、たいしたことでもない」

 ただ救いようのない馬鹿が、また馬鹿なことをしようとしているというだけ。
 あの時と、同じように……。
 だがそれは、何度も言うが彼女が知るべきことでも関わるべき事でもない。

 ――本当に大切なものは自ら遠ざけて護る。

 古臭くて、そして不器用であり、どうしようもないが。
 それでも藤井蓮は愚直なまでにそれを行うだけ。

「おまえ脱がして着替えさせたの俺だから、その辺、どう言い訳しようか考えてただけ」

 代わりに、そんな言葉を今は返すだけ。

「ぁ……」

 こちらから言われて、漸くにその事実に気づいたのだろう。
 見る見るうちに香純の顔は羞恥に赤くなっていく。

「ばかぁ……見たなぁ……」
「悪い。……でも雨降ってたから。服も濡れてたしな」

 着替えさせた時、血塗れの服は既に処分済みだ。今度気づかれないように同じ服を買ってきて、彼女のクローゼットの中に入れておく必要がある。

「しょうがなかったんだよ。大目に見てくれると助かる」

 この辺りはやはりガキの頃からの付き合いだろうがお年頃、流石にお互いに気まずいし、羞恥心だってある。
 こんな状況下じゃそもそも役得だのラッキースケベだのがあるはずもない。
 そういうのは、こいつを汚す事にもなると蓮は忌避してもいた。

「……うん。……ありがとう。蓮なら気にしないよ」
「そっか」
「ちょっと、恥かしいけどね」

 それが幼なじみとして、彼女がそう思ってくれている事を蓮は願う。
 彼女が自分に向ける何がしかの感情……薄々はその正体が何であるのか、察しかけてもいる。
 しかし、それを藤井蓮は受け入れるわけにはいかない。
 遊佐司狼や沢原一弥がどう思おうが、何と言おうが。
 藤井蓮の中にある誠意こそが、彼女の想いを拒絶する。
 綾瀬香純は藤井蓮にとっての家族だ。
 大切な……大切な家族。
 俺みたいなロクデナシじゃなくて、こいつを幸せにしてくれる奴がいつかきっと現れる。
 それを信じて、その為に、今はこいつを護る。
 だからこそ、家族にも友達にも幼なじみにも、あんな奴らの手は触れさせない。
 そんなことを理屈並べて考えていたからだろう。これ以上は、ただでさえ下手糞な自分の演技が更に酷くなるだろうと危ぶむ。
 彼女に気づかれるわけにはいかない。だからこそ、少し名残惜しくはあるが……

「もう寝ろよ。それで、何だったらおまえしばらく学校休め」
「平気だよ、心配性だなぁ」
「おまえに言われちゃお終いだ」

 そんな軽口を叩き合いながら、しかしやはり疲れていたのだろう。
 やがてまどろむように彼女は直ぐに静かな寝息を立て始めた。

「安心して、寝てろ」

 おまえの悪夢は終わったんだ。もう何も心配することはない。
 そう、だからこそ後は俺が……

「ぐっ……」

 不意に焼け付くような、まさしく刃物で切られるような灼熱の痛みが首に走る。
 手で触れるか触れないかでそれを確認しながら、成程と納得した。
 つまりこれは、契約の証ということか。
 鏡を見るまでもなく理解出来る。
 首に走る斬首痕。珊瑚の首飾りのようにも思わせるそれには、蓮も見覚えがあった。
 そう、幾度となく見たギロチンで首を刎ねられる悪夢。
 その悪夢の中で、斬首台の傍らで歌うように存在した一人の少女。
 彼女の首に走っているのと同じ、これはギロチンの刻印。番いの証。
 成程、右腕にはギロチン。首には斬首痕。
 確かにこれからやることも思えば、ある意味ではお似合いとも言える様相。

『彼女を憎み、彼女を愛せ。彼女を護り、彼女を壊せ』

 不意に、忌まわしきあの声が告げていたそんな言葉を思い出す。
 藤井蓮にメルクリウスから贈られた、魔法の言葉とその力。
 癪だが、メルクリウスが何を求め、そして自分にどうさせたいのかくらいは理解できた。
 手口もやり方も、そしてこの現状も腹立たしい限りだが……良いだろう。

「利用したければ利用してみろ。こっちもそうするつもりだからな」

 その宣言に、応える声は無論なく。
 ただ静かに、独り藤井蓮は決意を固めるのみ。
 だが、それで構わない。

 明日から始まるであろう、非日常の世界――
 それに負けずに、何が何でも生き残るという決意を。
 今はただ、この首に走る斬首痕へとそれを誓おう。



[8778] ChapterⅢ-10
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:53b56486
Date: 2010/06/25 23:49
「なべて事もなし。経過は上々、万事滞りなく進んでいる」

 予定調和、そう呼ぶに相応しき……否、そう呼ぶ他に無い程に舞台は彼の描いていた筋書き通りに事は進行していた。
 満足かと問われれば……まぁその通りだ。狂いなく理想通りの展開で進んでくれる事は己にとっての大願の成就にも繋がる本来ならば喜ばしき事のはず。
 尤も、新鮮味と呼べる未知がないということは、彼の願望からしてみれば皮肉にしかならないことだが。
 まぁいい。未だ全てが既知であれ、永劫回帰の中に囚われた状態であれ、いずれは脱する。そうする為の予定調和だ。
 逸り過ぎるのはよくない。己が俗物である事は既に承知の上ではあるが、ここは最高の歌劇を見物する観客としても、マナーに則った観賞を保つべきだ。

「聞いているかい、マルグリット。君が退屈していなければいいのだがな。私のオペラはどうだろうか、君の琴線に触れえるかな?」

 これでも最高の舞台と最高のキャストを揃えたつもりだ。
 筋書きそのものは……まぁ陳腐と言われればそれまでかもしれないが、そこはそれを瞑って余りある役者たちの熱演が補ってくれるはずである。
 それなりに手間と時間をかけた。気に入ってもらえるというのなら、それにこしたこともないのだが。
 そう彼――メルクリウスはこの永遠の黄昏の浜辺の中、傍らにてこちらに視線を向けてきてくれている愛しき花へと問う。

「彼はどうだい?」

 気に入ってはもらえただろうか、そう問うてくるメルクリウスの言葉にマルグリットは不思議そうに首を傾げて問い返す。

「……彼? それはいつも此処に来る人?」

 この不思議な流離い人以外に、最近になってこの永遠の浜辺へと訪れてくるようになった一人の例外。
 何となくだが、眼前のこの魔術師とどこか共通した不思議な雰囲気を持った少年。
 メルクリウスは確か、彼の名前をツァラトゥストラと呼んでいたことをマルグリットは思い出す。
 彼女の問いにメルクリウスは然りと頷いた。

「ああ。私の後継者であり、君へと捧げる首飾りだよ。以前、王妃様にお渡しした安物とは根本的な出来も違う」

 それは至極当然、言うまでもなく当たり前の事だ。
 何せこの何よりも敬愛する女神へと捧げる貢物なのだ。込める価値も、そして想いも決して世俗に塗れる安物では許されるはずもない。
 故にこその最高傑作。水銀の王が己が持つ全てを用いて用意した作品なのだ。
 きっと彼女も喜んでくれる、それだけの自負と確信が魔術師にはあった。

「彼は君の為だけに、君は彼の為だけに、この世に生まれてきたのだからね。……さしずめ二人は、運命の恋人とでも言うべきだろう」

 これ程素晴らしい事もないよと微笑むメルクリウスに対して、しかしマルグリットはどこか解せない様子も顕に尋ね返す。

「カリオストロ、何を言ってるのか分からないよ? わたしに恋人なんて出来ると思う?」

 そもそも恋という概念すらもまだ良く分からないという理由もあるが、マルグリットにとってはそれを差し引いてすらもそれ以前の大きな難問がある。
 我が身は他者とは触れ合えない。その温もりも柔らかさも、人が触れて知る事のできるそれらを彼女は一度だって体験した事がない。
 そう、何故なら……

「さて、それは首を斬っても死なない人間がいるのか、という質問かね?」

 彼女は他者とは触れ合えない。
 ギロチンに愛され、ギロチンに呪われ、その魂すらギロチンと共にある歌姫は、その生涯においてただの一度も他者と触れ合うと言う事を経験した事がなかった。
 自分に触ったものはその首と胴体が、正にギロチンにかけられたように切断され、飛ばされる。彼女が万人に忌み嫌われ、罰当たり娘と呼ばれ畏れられた理由がそれだった。
 そこに例外は無い。それが例え、今の彼女にとって唯一の友人であるこの旅人であろうと、その呪いの効力は変わらない。
 それは他ならぬメルクリウス自身もまた告げてきている。
 幾百幾千の言葉を彼と交し合おうと、ただの一度も二人はその互いの身体に触れえた事すらもない関係であった。
 メルクリウスがどう思っているかは分からない。しかしマルグリットにとっては、それは少しだけ物寂しいことではあった。
 そんな彼女に対してメルクリウスは他の誰に向けるよりも優しく慈しむような、穏やかな声で彼女を安心させるように微笑みながら告げる。

「であれば、既に答えは出ているであろう。彼は毎晩のように此処へやって来て経験していただろう」

 最近はどうにもご無沙汰で、彼女に寂しい思いを抱かさせてしまったのであれば反省すべき不手際ではあるが。それでも何にしろ、一つのその成果は事実として他ならぬ彼女自身もまた目撃していること。

「私といえど君に触れればただではすまない。……しかし、彼は違う」

 彼は例え君に首を刎ねられようとも、死なない。
 例え君と触れ合おうとも、彼の首が飛ぶ事もまたない。
 何故ならそういう風に作った。その想いが、愛こそが彼という存在だ。
 故にこそ、あれは君にとって最高の贈り物であり、そして愛する事のできる番い。
 君に人としての温もりと、人としての愛を教えるべき存在。
 君だけが抱きしめる事を許された、君だけの首飾り。
 故にこそ、愛しき花よ。我が最高の贈り物を受け取ってはくれまいか。

「孤独だったろう? 寂しかったろう? そして退屈だったろう? 君には何の罪も無いというのに、そう生まれたというだけで以降の総てを決定付けられた」

 ”生まれ”というものは人を縛る。
 例えそれが本人の望む望まざるに関係なく、そうなるようになされてしまえばそこに本人の意志が介在する余地すらも奪われる。
 それを運命と人が呼ぶとするのなら、メルクリウスからしてみれば、これ程に度し難く許し難き所業というものもないだろう。

「下らん、そして嘆かわしい。なるべくしてなるのではなく、なると定められたものにしかなれぬ人生……そんなものに何の意味があるというのか」

 いいや、あるはずなどない。
 断じて、誓って。
 そうでなければ、それは奴隷にすら劣る、家畜同然の生き方ではないか。
 そのような呪縛など君には相応しくない。
 故に救い出そう。解放しよう。
 我が愛と、我が誇りと、我が存在の全てを懸けて。

 マルグリット、私に君を救わせてもらえないだろうか?

 そして君を救うという事こそ、私自身をもまた救うということに繋がるはずなのだ。
 その確信が、メルクリウスの中には存在していた。
 そして、それを行おうという試みそのものが、

「私はね、マルグリット。その環を破壊したいのだよ」

 結局はそこへ帰結することを、彼は良く知っていた。
 良く知っているからこそ、尚更にそれを行わずにもいられない。

「……破壊? あなたは、運命を……」

 マルグリットのその問いにメルクリウスは静かに、しかし同時に力強く頷いた。

「然り。この永劫に回帰し続ける茶番劇を、無限に繰り返す既知感を。……何を見ても、何を聴いても、何を食しても、何を嗅いでも、何を行い何を感じ、末那と阿頼耶に至っても……私は飽いて飽き尽している」

 もはや狂っている事すらも分からなくなるほどに、この地獄の底を永遠と言っていいほどに自分は彷徨い続けてきた。
 そろそろ、それから解放される時が来たとしても良いはずだ。
 そうでなければ……

「そう、今此処で君と交わす一語一句残らず総てを、その端からこう思うのだよ――これは前にも話したな、と」

 君や彼との素晴らしき想い出の数々すらも、いつかは無価値と変えられよう。
 それはメルクリウスにとって、他の何よりも望むべきことではない。
 しかしそんなメルクリウスの既知感への苦しみも、未知への渇望も、それを知りえぬマルグリットには理解できない。
 根本的に外れている“特別”たる彼女には、この道化の苦しみは分からない。

「それは何か悪いことなの? わたしはよく分からないけど、あなたと話すのは楽しいよ。何度も繰り返せるっていうのなら、とてもとても嬉しいよ。……カリオストロ、あなたはそういう風に思えないの?」

 彼女のその問い、その言葉はある意味においては嫉妬すらも抱かせるほどの羨望をメルクリウスへと生じさせる。
 決して彼女が悪いわけでもなければ、そうであるからこその愛しい彼女なのだが……やはり、この苦悩の共有者や理解者とはなりえない。
 尤も、それでいいのだが。そうでなければいけないのだが。
 まぁ兎に角、それは今語るべきことでもない。それを結論付けながら、メルクリウスはとりあえず先の彼女からの問いに対して静かに首を振った。

「生憎と私の心は俗なのでね。既知を是とし、喜びとするような悟りは生涯開けそうに無い。そして、開くべきではないとも思っている」

 そしてそう思っているからこそ、この苦しみからの解放を願うからこそ。

「だからこそ、君と彼のような者が要るのだよ。是非、我がオペラの主賓となっていただきたい」

 そう誘うように、メルクリウスはマルグリットに対して囁きかける。
 ここまでは自分同様に彼女もまた観客。しかし、この歌劇は彼女の為に書き上げたものであり、無論その役どころは最初から主役として用意している。
 メルクリウスは見たいのだ。この至高の舞台の上でツァラトゥストラと共に踊り、そして歌を歌う彼女を。
 彼女に心を奪われた道化者として、しかし観客として、至高の舞台の上に立つそんな彼女の姿を見てみたいのだ。
 だからこそと、そう依頼するメルクリウスに対して、しかしマルグリットは再び問う。

「あなたは、わたしに何をさせたいの?」

 不思議な不思議なカリオストロ。大好きな彼が誘ってくれるそれがどのようなものかは分からないが、彼がそれを自分に望むと言うのなら、それをしてもいいという気持ちがマルグリットにもある。
 この不思議な旅人はいつも見返り無く自分に何かを与えようとしてくれる。それは嬉しい事であり、そして楽しい事……彼女にとっての救いなのだが、なればこそ尚の事、その恩を少しでも返す事をしてみたいとも思ったのだ。

 そんな純真無垢、穢れなき少女に対して、彼女を愛する旅人は……イヴに知恵の木の実を食べるように唆した蛇のように囁いた。

「我が盟友の旗の下、その下僕たちをヴァルハラへと送って欲しい。君の呪いと彼の試み、触れる者全てを切り裂く斬首の刃で、ホロコーストを、ラグナロクを、永劫回帰(ゲットー)を破壊する怒りの日を、この私に見せて欲しい」

 君ならば出来る。否、君でなければ出来ない。
 そして何より、君にして欲しいからこそ、私は君に舞台の上へと上がって欲しい。
 その為に、その見返りに、……いや、全ては君の為に、愛を込めて用意したそれを贈ろう。

「……君は、彼に逢いたくはないのかい?」

 君に温もりを、愛を与える、君だけの首飾り、君だけの番いに。
 最高で最後の恋物語を、彼と共に紡いでみるつもりはないかね?

「……うん、分からない。けど、逢えると私は楽しくなれるの?」

 純真無垢な少女の問いに、メルクリウスは誇るように頷き返す。

「楽しませよう。アレッサンドロ・ディ・カリオストロ――君にそう名乗った者の総てに懸けて」

 誓って、必ずや後悔はさせないとメルクリウスはマルグリットへと約束する。
 その言葉に、マルグリットは頷き――

「……そう? だったら――」
「ああ、此処で歌いたまえ。甘く切なく、想い人を求める歌を」

 私と盟友、そして君の物たる我が代替へと聴かせて欲しい。
 君が紡ぐ、君だけの、その愛しき歌を――


「――うん」

 弾むような大輪の笑みと共に、斬首の歌姫の歌が永遠の黄昏が続くこの浜辺へと響き渡る。
 至上のアリアを鑑賞するかのような心持ちを見せながら、メルクリウスは満足気に彼女を愛おしむように見つめ続ける。

 英雄の誕生と共に幕は上がった。
 さあ、ツァラトゥストラ。我が愛しの君がお望みだ。
 今より私の代理として、成すべき事を成したまえ。
 この永劫回帰の環(ゲットー)の破壊を。
 彼女を愛をもって抱きしめる事を。
 そして、我が盟友の満たされぬ飢えを満たす事を。
 捧げるべき首は十三。やるべき事は一つ。

 我らが聖槍十三騎士団を、君が血のギロチンに処したまえ。











 怒りの日は彼の日なり。世界を灰に帰せしめん。ダビデとシビラの予言の如く。

「カール……我が友よ。やはり卿はそう動くか」

 ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒは笑う。
 この上もなく満足そうに、嬉しそうに、それを望むように。
 実際、それを望んでいるのは事実。
 半世紀を待たされ遂に幕を上げた友の書上げし戯曲。
 その筋書き、演目は……彼が予見し、そして望んでもいた彼にとっても喜ばしきもの。

「面白い。どだい血塗られた道行き、流血で繋がるのは自明の理だ」

 言うまでもなくこれは恐怖劇(グランギニョル)。そして我らにとっての戦争。
 それが同族同士の獣による喰らい合いだとしても……一興と望むことはあれど、厭うなどということがあるはずもない。
 むしろ、より楽しくなった。今はこの魔城より離れられぬ不自由な身でこそあるが、それこそスワスチカが完成したならば、即座に舞台に上がりたいと逸るほどに。
 楽しみだ……ああ、凄く凄く楽しみではないか。
 卿が用意した卿の後継……早くこの手で壊(あい)してみたい。
 そして彼もまた私を壊(あい)すことを望んでいるはずだ。
 分かっているぞ、カール。それが卿の望む筋書きであろう。
 面白い。

「それが、我らの友情に相応しい」

 壊したり壊されたり、殺したり殺されたり。
 それこそが戦の、戦争の本質、餓えた己が求め続けるその愉悦。

「卿は世界の敵として、この世の終わりを望む者」

 そして私はそんな卿の期待に応え、この世に終わりを齎す者だ。
 終わり、破壊、万物の全てを、三千大千世界のありとあらゆるものを破壊し尽くす。
 愛を持って、この世界の全てを滅ぼしつくそうではないか。

 私の誇る英雄(エインフェリア)たちが、私の率いる軍勢(レギオン)が。
 この世界の下らない神(システム)そのものを破壊し尽くす。

 ……なぁ、カール。それこそ心躍るようだろう?
 これこそが、私が卿へと示す、私の指揮するDies irae(怒りの日)だ。

 故にこそ、我が血肉となりし鬣たちよ。
 私が卿らに望むことはただ一つ。

「存分に狂い、乱れろ。戦はここに幕を開ける」

 そしてこのシャンバラにスワスチカを完成させ、私を呼び戻すがいい。
 そしてまた、その時こそ見せてやろう。我らが望む怒りの日を。
 全てを灰に帰せしめん。ダビデとシビラの予言の如く。

「カール、我が友よ。……あの日に交わした誓い、卿もまた憶えているか?」

 私の飢えを卿が満たし。
 卿の退屈を私が満たす。

 その誓いの通りに、この怒りの日の果てに、再び見えることを信じているぞ。
 故に、その最上の桟敷より、まずは我らのオペラを鑑賞するが良い。
 退屈はさせん。存分に私も踊ろう。

「故にこそ、再び見えしその時は――」

 壊した事がないもの……或いは、自らの友こそが、それに相応しいのではないのかと期待しながら。
 獣は笑う。笑い続ける。
 この歌劇の果てにこそ、己の求めるものが存在するはずだと信じながら。
 大望の成就。盟友との再会を願い、その言葉を口にする。

「ジークハイル・ヴィクトーリア」







Der L∴D∴O in Shamballa――9/13

Ⅱ:Tubal Cain
Ⅲ:Christof Lohengrin
Ⅳ:Kaziklu Bey
Ⅴ:Leonhard August
Ⅵ:Zonnenkind
Ⅷ:Melleus Maleficarum
Ⅹ:Rot Spinne
ⅩⅠ:Babylon Magdalena
EX:Zarathustra Uber Mensch


Swastika――1/8

Museum


【ChapterⅢ End of Nightmare――END】













では一つ、皆様私の歌劇を御観覧あれ。

その筋書きは、ありきたりだが。

役者が良い。至高と信ずる。

ゆえに面白くなると思うよ。



[8778] Chapter Ⅳ-1
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:5e527d24
Date: 2010/06/26 00:02
 眼前に迫り来る絶対の死。
 狂気によって形作られ、そして振るわれる凶器。
 防ぐ術はない。逃れる術もない。
 直撃は死――決定付けられたその未来は変わらない。

 それでも尚、その結果を覆したいと言うのなら――


『君にはそれだけの力がある。術も与えた。
 ならば――やるべき事はただ一つ』

 単純明快、至極口にするまでもない簡単な結論だ。
 脳裏に走る不快な声が告げてくるその言葉。
 藤井蓮は不快気に眉を顰めると同時、声の告げるその意味を理解していた。
 そう、この声――メルクリウスが告げ、そして促している言葉の意味。
 そしてそれが起こすであろう結果。
 それは、つまり……


 ――聖遺物(かのじょ)を使え。


 声、そして必死たるこの状況は、今まさにそれを強制してくる。
 出来うるならば……そう、出来うるならばと蓮もまた別の手段の模索を試みる。
 だが出た結論は皆無。この一点に尽きた。
 是が非でも、番いとなった彼女を用い、そして血で穢す事を奴は、そして奴の仕組んだ運命(ゲットー)とやらは命じていた。
 藤井蓮にとって、これ程に不快なこともない。当然だ、それは彼の中の主義に反する事なのだから。
 彼女……マリィを血で穢してしまうという行為。
 無垢な彼女の心に付け込み、そして道具のように利用しようかという行い。
 例え、彼女が自分をこの血塗られた恐怖劇に巻き込んだ原因の一旦であったにせよ、それでも蓮は、彼女をそんな風には見れないし、扱うことも出来ない。
 守るのは自分。戦うのも自分。血を流し、汚れるのもまた自分だ。
 それを覚悟し、あの雨の夜に傍らの陽だまりから陰の世界へと自分は踏み込んだのだから。
 それを、自分ひとりでやり遂げねばならないそれに彼女を巻き込む……それは、決して許されていいことではないだろう。
 少なくとも、藤井蓮はそれを良しとはしなかった。故にこその、この土壇場での躊躇いだ。

『ならばここで潰えるか? 取るにも足らぬ運命に踏み潰され、価値も意味もなく、守るべきものも守り通せずに、君は終わってしまうつもりかね?』

 ……黙れ。
 そう、黙れと相変わらずに耳障りなその声を蓮は振り払った。
 おまえに言われるまでもない。それくらいは分かっている。
 俺は死ねない。死にたくないし、死ぬわけにもいかない。
 ここで死ねばみんなを……大切な人たちを守れない。
 香純を、一弥を、先輩を、それについでに司狼の奴も……。
 ここで、死んでしまえば、彼らはみんな殺される。この目の前の化け物どもに。
 そんなことは認めない、許さない、断じてだ。
 だからこそ――


 脳裏に思い出すのはあの黄昏の浜辺。
 襤褸の様な衣装をまとい、珊瑚の首飾りのような斬首痕を首に持つ、金紗の髪の彼女。
 マルグリット・ブルイユ――マリィ。
 つい先日、初めて交わした言葉のやり取り。そしてどこか戸惑うようにはにかむ彼女の姿を思い出す。
 自分はやはり、彼女を恨めないし憎めない。
 むしろ、彼女を巻き込みたくはない、そんな事すらも思ってしまう始末だ。
 だからこそ、何も知らない純真無垢な彼女を穢そうというのなら――


 ――その罪は、覚悟は俺が背負おう。


 そんなことくらいしか出来ない自分が心底嫌になってくるが、しかし自己嫌悪に浸る余裕はない。
 この幾百幾千幾万幾億の断割した時の経過の最中にすら、死は既に眼前まで迫り来ているのだから。
 これを覆すには、彼女の協力が必要だ。
 だからこそ、今一度心中で藤井蓮は彼女へと問う。


 キミを使ってもいいか?
 キミをそこから抱き上げるけど、了承してもらえるか?


 彼女に血を見せたくはない。彼女を巻き込みたくはない。
 そんな主義主張に反してすら、それでも彼女に自分の相棒の責を担がせようとするならば、当然己の中の全てを彼女へと曝け出す必要がある。
 それを承知で、それすらも理解の上で、それでも自分と共に戦ってくれるかどうかを、その決断を彼女へと委ねる。
 こんな男に、それでも物好きにも付き合ってくれるというのなら――


 彼女からの答えが返ってくる。
 それは予想するまでもない、やはり当然の結果を示した言葉。
 実際、そもそも彼女にはそれ以外の考え・感情・選択肢の有無すらも有りはしなかったのだから。
 ただ彼女は、かの狂人の心すら奪い、そして焦がれさせた純真無垢な声を持って彼からの問いにこう答えるだけ。
 即ち――


『愛しい人(モン・シェリ)……』

 と。
 その愛しき花からの返答に、ならばと蓮もまた頷いた。
 分かった――そして、ここでキミに誓おう。
 決して、キミを濫用はしない。
 キミを傷つけ、キミを悲しませるような事も、キミにとって不本意となることもするつもりはない。
 強制はしない。ただ、俺の望みに応えていいと思った時に、俺に力を貸してくれ。
 大切なみんなを、そしてキミ自身をも守るために、その力を貸してくれ。
 奴らを、忌むべき未知の外敵たちを駆逐する結晶化した殺意の刃を。
 キミを穢す、罪科を背負い形として、俺はそれを振るおう。
 だから――


『では、今宵の恐怖劇(グランギニョル)を始めよう』


 癪に障るその声に、促されるままに。
 蓮は心中の奥底の彼女の手を取り、抱き上げる。
 この恐怖劇における、己の唯一無二たるパートナー。
 共に踊る彼女へと、彼女と共に契りの言葉を呟いた。




『Verweile doch, du bist so schon.
 時よ止まれ――おまえは美しい 』




 そうして――藤井蓮の右腕にギロチンが落下した。



ChapterⅣ Gregorio



 降りしきる雨は一向に衰えを見せる様子はない。むしろ、この一晩の間に止む事すらも或いはないのかもしれない。
 本来ならば季節は冬の最中ということもあり、雨粒と外気は体から熱を奪い凍てつかせることは間違いない。
 洒落ではなく、このまま雨に打たれるままにこんな夜に傘も差さずに出歩いていれば風邪を引く……否、下手をせずともそれ以上に悪い状況にも陥りかねない。

 だが、沢原一弥の現状は更にそんなものすらをも上回るほどに、その状況は最悪の一言に尽きた。

「……がっ……あぁ……ッ!?」
 おぼろげな足取り、ゼイゼイと荒い息遣い、尋常ではない苦悶に歪みきった表情。
 誰の目から見ても、それは異常という様子と判ずるしかない尋常ではない姿。
 今の気分は?……等ともし通りすがりの誰かに聞かれでもしたら、きっと躊躇いなく彼はこう答えることができた。

 あんたを殺したくなるほどに最悪だ、と。

 事実、沢原一弥の症状は最悪だった。見るまでもない、と言うがむしろ誰にも見られたくはない。
 誰かに会うこと、それを今、一弥は本能的なまでに恐れていた。
 助けを求めたいほどに体調は最悪……しかしながら、誰かに助けを求めれば、その誰かをむしろどうにかしてしまいそうだ。
 己の体を内部から別のものに書き換えられているかのような変調。外部の雨や冷気などものともしない焼き尽くされそうなほどに昂る灼熱感。

 そして……抑え難い理性、自制心の欠如。

 例えるならば飢え。熱砂の砂漠のど真ん中で少量だろうとも水源を求め、それを飲み欲すことを求めずにもいられない衝動。
 そうしなければ、きっと己は保たない。破滅する。正確に、そして無情にありありと想起させるそんな絶望感。
 抗うことはあまりにも難しく、そして、長くは保たないであろう焦燥感。


 そう、沢原一弥は今無性に、誰でもいいから誰かを■したくて仕方がなかったのだ。


「……冗、談…じゃ…ね……ぇ……ッ!?」
 ああ、冗談ではない。そんなことあっていいはずがない。許されていいはずがない。
 そのような異常、人の持つ倫理より外れる禁忌、誰が犯したいなどと思うものか。
 ……思う、ものか……

「――――ッ!?」

 千鳥足のような不安定で遅々としてしか進めなかった足取り。壁に手どころか半身すらも預けるようなもたれ方で進んでいたその途中。
 押さえがきかずにバランスを崩し、倒れこむように転倒。泥水で出来た水溜りに顔面から突入する……最悪だった。
 だが泥まみれに汚れた不快感以上に――

「がぁぁ……ッ……うぇぇ……ああ……げほっ!」

 ビクビクと痙攣を起こすように倒れ付したまま震える身体。うめき声と喉を詰まらせる激しい咳だけが断続的に響き渡る。
 立てない、立とうと思い身体に力を入れようとしているのに、なけなしの霞む意識による脳からの必死の命令を身体は受け付けない、拒絶する。
 こんな所で寝てはいられない。風邪を引くだとか凍死するだとか、そんな危惧以上に危惧するべき恐れがある。
 そう、こんな所で盛大に阿呆みたいに転がっていたら――


「……あの、……大丈夫、ですか?」


 ――不意に、頭上からかかってくるそんな声と覗き込むようにこちらを見下ろす影。


 沢原一弥の心が悲鳴を上げる。声なき声で必死にその誰かへと逃げるように叫び続ける。
 馬鹿がこんな雨の夜に道端で転がっていたら、もしそれを誰かが通りかかって目撃でもしたら……最悪、こんな状況になる。
 一番望ましかったのは誰にも会わないこと、その為の逃避だったはずだ。
 けれどこうして偶然にも人と遭遇してしまった……してしまったのだ。
 せめて、せめてこちらが気づく前に無視、或いは死体と勘違いでもしてくれていいから、即座にこの場から、自分の目の前から立ち去って欲しかった。
 なのに物好きにも親切なこの誰かは、心配したのか様子を伺うように、こちらに近づいてきて声をかけてきてしまった。
 ……ああ、なんて物好きで、そして親切。
 関係ない他人など、己のラインの外側の人間など無視して放置してくれていればいいのに。
 世の中なんて、現代人なんて、淡白で薄情で、事なかれ主義がデフォルトのはずなのに……。
 普段は大切な人たち以外は、そんなどうでもいい他人としか出会ったり、すれ違ったりするだけなのに。
 なのに……なのに、どうして今日に限ってこんな無関係で、何の罪もない――


 ――涎が出るほど美味しそうな、そんな善人が寄ってくるのか。


 もう、我慢の限界だった。
 膨張してはち切れる寸前だった飢餓は、眼前の獲物を認識するのと同時に暴発した。
 飢えて狂った獣そのままに、理性を彼岸の彼方に忘我のように捨て去って、沢原一弥の中の混沌は目覚めを果たした。





 ……雨が、降っていた。
 ずっと、ずっと、降り続いていた。
 正気を取り戻した頃……否、それ以前からむしろこの身は雨に打たれてびしょびしょに濡れ切っている。
 濡れてへばり付く服の感触……気持ち悪い。肌を濡らす雨と冬の夜の外気……寒い。
 そんな本来ならば当然の感覚が漸くに戻ってきた頃。
 しかし、眼前の目にした光景を前に、それらが全て瑣末に感じるほどに、沢原一弥は驚愕していた。
 驚愕……否、これは目の前の光景を、その現実を必死に認めようとはしない拒絶と、そして逃避と言う方がむしろ正しい。

「……あ………あぁ………」

 違う、違う、戦慄く唇は声にすらなっていないそんな言葉を必死に呟こうと震えている。
 見開かれた目からは恐怖、そしてこんなはずはないという頭を振って拒絶するかのような涙があふれ出てきて一向に止まる兆しすらもありはしない。
 目の前の光景が、この現実が、自分が行ったのであろうその結果が……只管に一弥は信じられなかった。
 否、信じたくなどなかった。認めたくすらもなかった。
 只管に、只管に。

「俺……じゃ…ない……違う、俺は……こんなこと――」

 目の前の現実を拒絶する。否定する、こんなことありえるはずがないと頭を振る。
 悪い夢、そう悪い夢なのだとすら自らに必死に言い聞かせようとすらする。
 けれど――

 一面はペンキをぶちまけられたかのような赤。
 文字通りの血の海。そしてそんな中に転がっているのは、五体を引き裂かれ、グロテスクな中身が垂れ出て、或いは覗き見する、そんな不快なオブジェ。
 今月の頭に見た、あの首チョンパ以上に雑で荒くて品もない、被害者の人間としての尊厳の何もかもを弄んで踏み躙ったかのような、力任せの酷い人間の成れの果て。
 己の手を一弥は思わず見下ろす。震えていた、濡れていた、そして……赤かった。
 真っ赤に染まった両手。それどころか、着ている服すらもよくみれば同様。ケチャップ……否、やはりこれもペンキを塗りたくったかのよう。
 誰が見ても明らかだ。本人の拒絶の言葉も、記憶がないなんて弁も何の言い訳にもなりはしない。
 これを行った犯人――つまり、この目の前の人間を完膚なきまでに壊したのが誰なのか?
 壊した……そう、壊して潰して、命を奪って殺したのが――誰なのか?
 語るまでもない。述べる必要すらもない。
 既にこの現実が確固としてそれを示している。
 つまり――

「……俺じゃ……ない」

 ――否、おまえだよ、沢原一弥。

 自身の必死に呟く言葉を否定するように、心の奥底から響いてくる声。
 耳障りで、不快この上ない、囁くようでうざったい。
 誘惑と言う毒に満ちた、破滅へと導く悪魔の声。
 あの日、あの時にも確かに聞いた、俺たちの全てを壊してしまった、正常な道から外れさせたあの忌まわしい声。


 ……己の中の、醜い本音。自分自身の声。


 ――おめでとう。今度は上手くやれたじゃないか。


 あの時は、土壇場で躊躇い出来なかったというのに。
 今度はちゃんと最後までやり遂げることが出来たと。
 心の中の悪魔は、まるで祝福するかのように囁いた。

「――黙れぇぇッ!!」

 叫ぶ。髪を引き抜くかのように掴みながら、必死に力任せに頭を振り続ける。
 黙れ、黙れ、黙れ。
 違う、違う、違う。
 俺じゃない。/俺がやった。
 出来るはずがない。/今度はちゃんと出来た。
 違う。/違わない。
 そんな記憶はない。/関係ない。
 これは何かの悪夢だ。/否、現実を直視しろ。

「……違う……ッ……ちが――」

 涙が溢れた無様な顔で、必死に違うと呟きながら、この現実を認めてたまるかと、悪夢ならば早く醒めてくれてと懇願するように祈ろうとしていたその時だった。
 不意に、目が合った。
 ……誰と? そんなものは決まっている。即ち――

 ――自分が引き裂き、殺してしまったその誰かと。

 引き千切られて転がった首。生気を失い濁った虚ろな瞳が、まるでこちらを見上げるかのように見ていた。
 瞬間、脳裏にフラッシュバックのように過ぎったのはあの光景。
 忌まわしい記憶。血で赤く染まったあのトラウマ。



『オレらはガキの頃に、色んなもんから弾かれてる。
 本来なら、気楽に学園ドラマやってられるような身分じゃないんだ』



 いつかの馬鹿が告げたその言葉を思い出す。
 言われるまでもない。そう、言われるまでもなく、それくらいは分かっている。
 俺が……俺たちが犯してしまったその罪。
 藤井蓮と遊佐司狼、そして沢原一弥が犯して背負ったその過ち。
 決して、彼女――綾瀬香純に許されてはならないその行い。

 そうだ、人が死ぬのを見るのは初めてじゃない。
 十二月の頭に起こった殺人を言ってるんじゃない。
 それよりも前。ずっとずっと前に、既に一度。
 自分たちは――


「……殺、した…………」

 そう、殺した。
 直接も間接も関係ない。誰が手を血で汚したのかは意味をなさない。
 何故なら、あれは三人の罪だったのだから。
 俺たちが、俺たち三人が犯して、隠し、背負った罪。
 そう――


 もう随分と前から、俺たちは人殺しだったじゃないか……。





 そう、もう随分と前から自分たちは既に人間をやめきった化け物だ。
 改めて認識するまでもないそんな事実を、どうして今頃になって改まって認識しているのか、その不可解さに櫻井螢は内心で思わず首を捻っていた。
 だがしかし……ああ、何のこともない。

「感じる」
「ああ、感じるぜ」

 闇の奥、漆黒の大円卓に連なり席を置く者達から響いてくるその呟き。
 第一のスワスチカが開き切った事を確信する、同胞達が漏れ出させている歓喜の念。
 漸くに待ち望んだ戦争の開幕――その証たる感じ取ったその感覚を認知したこと、これが自分に感傷にも近いそんな戯言を考えさせたのかと螢は認識した。
 幕は上がった。愛しい怨敵の誕生と、そして“彼女”の犠牲によって開いた十年越しのスワスチカの発動によって。
 此処から先はもう止まれない。後戻りも出来ない。……尤も、そのような観念をこの場に存在する者の誰が持っているかなど螢は知りもしないことだが。
 どちらにせよ、これにて始まりだ。師の言うところの呪われた血濡れの歌劇――恐怖劇(グランギニョル)が幕を開けたのだ。
 実に悪趣味この上ない、乗り気など進んでなれるものではないが……自分にも悲願はある。文句も反意も示すことなく、ただ忠実に狗の如く役割を遂行する、ただそれだけだ。

「で、これから俺たちはどう動けばいいんだ?」

 その最中、おぞましき歓喜の念の渦巻く魑魅魍魎の集いも同然のその場に、悪魔に忠誠を誓った呪われた狂犬の筆頭が声を上げる。
 問いの先は一人の黄金。期間限定の代替であれ、それでも他ならぬ主に指揮の全権を委任された代行者たる神父。
 ヴィルヘルム・エーレンブルグが向けたその問いに、ヴァレリア・トリファもまたうなずきを示しながらそれに応じる。

「どう動くとは……中尉には既にお考えがお有りで?」

 トリファの問い返す言葉にヴィルヘルムは当然と言った顔つきも顕に頷き返す。

「分かりきった事を訊くんじゃねえよ、クリストフ。決まってるだろうが、条件が整ったなら、即効で発動させる。俺らで片っ端から陣を起こしていきゃいいんだろうが」

 それ以上も以下も無い。そもそもやってやれないことでもない造作も無いことだ。ヴィルヘルム一人ですらやろうと思えば出来ること。ましてや此処に集った面々で事を起こせばそれこそ瞬く間に片が付くだろう。

「あのベルリンのように……ですか?」

 血気逸る狂犬の如きヴィルヘルムの言い分に対し、やれやれと若干の苦笑を示しながらもトリファは彼の進言に首を振った。

「仮にベルリンの再現を結果として果たすことになるとしても順序があります。そう単純に無差別に事を起こすことが得策だとは私は思いません」

 最終的にはこのシャンバラもまた炎に焼かれ血に染まる。その命運は変わらないだろうし、そもそも変えられない。それくらいはトリファとて既に承知の上。
 それでもヴィルヘルムの血気を抑えるように彼の言い分を否定したのは彼なりの考えがあったが故にだ。

「この期に及んで尻込みたぁ情けねえなぁ、代行殿。それともなんだ、てめぇ、俺たち抑えて何か企んでやがんのか?」

 トリファの慎重姿勢をあくまで手緩いと鼻で嗤うヴィルヘルム。そもそもこの開幕に至るまでにすらこちらはかなりのケチを付けられた。これ以上のお預けはいくら調教済みの忠犬と言えども、そうそう長くは我慢できたものではない。
 手際の悪さで本番までをも台無しにされては堪ったものではないのだから。

「企むなどとは人聞きの悪い。……私はただ、慎重にこの舞台の仕組みを見極めようとしているだけですよ」

 半世紀、それ程の長き時を只管に待ち続けたのはこの場の皆が同じこと。首領代行を命じられたトリファとてこの時に懸けた思いは、ベクトルこそ異なれど決してヴィルヘルムやルサルカに劣るものではない。
 何としてでもこの儀式を成功させる……そうでなければ、この六十一年そのものが水泡に帰す茶番と化してしまうのだから。
 だからこそ、見極めが必要なのだとトリファはヴィルヘルムへと進言する。それこそが茶番だろうとヴィルヘルムは鼻を鳴らすが、しかし次にトリファの肩を持つように現れたのは意外な人物だった。

「まぁ確かに、クリストフの言うことも一理あるんじゃないかしら」

 そう神父と白髪鬼の間に新たな一石を投じたのは緋色の魔女――ルサルカ・シュヴェーゲリンであった。

「あ? マレウス、てめぇ――」
「まぁ聞きなさいよ、ベイ。あなただって分かっているはずよ、この手の大儀式(アルスマグナ)は融通が利かないものだっていうくらいは」

 通常、魔術における大儀式とて言ってしまえば他の分野たる科学や思想などともそう大差ない。
 奇跡を起こすにはそれ相応の代価が必要。それは当然であり、であればこそそれを認識すればする程に尚更ややこしくなる。
 手順・法則・公式・条件……一般的な事を成す為の根幹を為すこれらの決まりごと。例え超常の力を扱う魔術とてそれは変わらない。
 起こす奇跡の内容が高次になればなるほどに、発生する制約は、支払うべき対価は、よりそれに見合うものが求められる。
 まして彼らが挑むは黄金練成。この世の法則そのものを大幅に捻じ曲げねばならぬ奇跡である。であるならば、当然のこと求められるものは有象無象の制約の比ではない。

「要するに、クリストフは下手にスワスチカを無差別に起動した結果、手違いで他のスワスチカが発動不可能になったりすることを恐れてるんでしょう?」

 怒りの日への条件は規定の日までに八つのスワスチカの全てを開くこと。
 もし仮に一つでも発動不可能となってしまえば、その時点で自分たちの主が帰還することは不可能となり、それはそのまま儀式の頓挫という結果に終わってしまう。
 そうなってしまえばどうなるか……それこそ自分たちは茶番劇以下の道化と成り果て狂い損だ。そのような事態、到底受け入れられるはずもなければ、許されていいはずが無い。
 故にこそ事は慎重に。まだまだ時間は残されているのだから、確実に一つ一つノルマはこなしていくべきだ、そう神父と魔女は主張しているのだ。

「何かと思えばくだらん理屈ばっかりこねやがってよ……阿呆か、てめぇら」

 しかし論理的に主張する両者に対し、ヴィルヘルムは鼻を鳴らして吐き捨てるように呆れるのをやめようとはしなかった。

「おい、クリストフ。それにマレウス……他の奴らも全員だ。よく思い出せ」

 漆黒の大円卓に席を連ねる己が同胞達を一周するように見渡しながら、ヴィルヘルムは今、彼らにとっての禁忌ギリギリの共通認識へと触れようとしていた。

「メルクリウスの術なんぞに穴なんてねぇよ。忌々しいが、野郎は正真正銘本物のバケモンだっただろうが」

 ざわり、とその一言に闇が揺れる。……否、揺れているのはその闇を生み出している元凶であるはずの魔人たちだ。
 ヴィルヘルム・エーレンブルグが告げてきた言葉、それに異を挟める者はこの場にはいない。

「手順? 法則? ああ、確かにそれはあるだろうぜ。だが、俺らの行動がそいつを壊すっていう確証は?」

 否、そもそもだ……そう区切りながら、一同を相手にヴィルヘルムは禁忌と紙一重たるその言葉を同胞達へと言ってしまった。


「そもそもよぉ、てめぇらはそれを壊せるとでも思ってやがるのか?」


 ヴィルヘルムが言い切ったその言葉。かつてなく闇が、魔人たちがざわめく。
 それも当然、何故なら彼のその言い分とはつまり――


「我々の一挙一動例外なく、副首領閣下の掌の上である……と?」


 魔人たちを代表するかのように、トリファ自らがその言葉を口に出し、ヴィルヘルムへと問い返していた。
 凡そ、幾ら開幕までに煮え湯を飲まされ続け血気逸った状態なのだろうとはいえ、他ならぬあのカズィクル・ベイが宗旨替えでもしたかのようにあの水星を肯定するも同然の言葉を吐こうなどとは、思ってもいなかった。
 それはトリファだけではなくこの場にいる皆もまた同じはずだ。

「そこまでは言っちゃいねえよ。だが事実、ここまでの俺たちは上手い具合に野郎の掌の上で筋書き通りに踊らされてたんだろ。……なぁ、そうなんだろ、アルベルトゥス?」

 この茶番劇同然の顔の突合せ合いも、所詮はメルクリウスからは予想できていた流れに過ぎないのだろうと、そうヴィルヘルムは一際の闇を孕んで沈黙し続けていた忌々しきⅩⅢの席へと視線と言葉を投げかけた。
 彼に釣られるようにして、その場の一同の視線もまたその席上へと移る。

「それとも何だ? ここまでは野郎じゃなくて、てめぇの筋書き通りか?」
「私が? いやはや、滅相もございませんよ中尉」

 己如きが偉大なる主が描かれたシナリオ、それに反することなど出来るはずもないとヨシュア・ヘンドリックは大袈裟な態度と共に口にしてくる。

「そうかい。弟子に隠し玉の玩具に、聞く限りじゃ、色々裏で仕組んでそうだがな」
「仕組むなどとはとんでもない。私は私に課せられた使命を忠実に遂行しているだけですよ。結果、ご同輩たるお歴々の恨まれ役ともなりやすいのが悲しい限りですが」

 いけしゃあしゃあとよくも言う、この場の誰もが恐らく共通に抱いただろう戯言を振りまく狂人に、しかし一同の険のこもった視線は緩まる様子も無い。
 獅子身中の虫、誰もがこの男をこの場ではそう認識している。メルクリウスからの回し者、手引きとして自分たちを舞台の駒としか見ていないことは誰もが知っていた。
 酷く腹立たしく目障り。実力による排除はそれこそ容易に可能だが、上よりその存在を容認されているという、その絶対的な権力の盾がそれを事実上は不可能としており、尚更に殺意が沸き立つのを抑えきれない。

「くだらねぇ御託なんざ聞いちゃいねえよ、ハエ野郎。そもそも俺らはてめぇの企みなんぞに興味もなけりゃ、どうだっていいんだよ」

 そう、この道化者が腹の底で何を考え、何を企み、自分たちに何をやらせようとしているかなど興味は無い。
 ただただ身近でメルクリウスに最も繋がっている犬なのだ。彼がこちらを利用するように、逆にこちらもそれを利用しない手などない。

「一分待ってやるから、要点揃えて洗いざらい知ってることを吐けよ。俺らを躍らせようってんなら、相応の次の台本を用意しろや」

 演目も分からず歌劇は演じられない。故にこそ、役者としての当然の要求。
 即ち、次の舞台の内容を記した台本の提示、である。
 それは即ち――

「てめぇなら知ってんだろ? このシャンバラの仕組みも、スワスチカの解放手順も何もかも」

 仮にも副首領代行補佐。ふざけたその肩書きは飾りではない。飾りではないからこそ、それ相応の権限が許されているのだ。
 役職に見合った仕事をしろ、メルクリウスの意図を教えろとヴィルヘルムは……否、この場に集った黒円卓の面々は要求してきているのだ。
 それに対してヨシュア・ヘンドリックは……


 ……さて、予想の範疇ではあったものの、これは少々不味い事態だ。
 ヴィルヘルムたちの要求は正当性を持つある意味当然とも言えるもの。ヨシュアとてそれを完全に突っぱねることなど出来るはずもない。
 そもそもこの場の雰囲気が許さないだろう。ここで自分が否と首の一つでも仮に振ってみればどうなるか……考えるまでも無い、当然そうなれば次の瞬間には己の身など造作も無く肉塊へと早変わりだ。
 今まで散々ハズレを踏ませ続けたツケ……その借りと欲求不満はこうして嫌なタイミングで顕になったということらしい。
 ままならないものだ、そうヨシュアは内心で盛大な溜息を吐きながら思う。恨まれ役が仕事であり、ある程度の意味を有した役割であるとはいえ、これは少々容赦が無い。
 これはいよいよ己の死期もまた近づいてきているのか、そう思う半面で、ならば是非もなしともまた思っていたのも事実だった。
 ヨシュア・ヘンドリックは死を恐れない。否、そもそもヨシュアにとって死という概念は一般的な認識からとは大きく乖離している故に、恐怖にイコールで繋がらないだけだ。
 この世には死などよりも遥かに恐ろしいものが存在する。それを正しく認識している故に、その痛みは兎も角としても物質的な死を厭う様な感性を彼は持ち合わせていなかった。
 むしろ、死とは彼にとって……否、この場に集っている同胞達にとっても、それは一種の栄光である。彼らに約束されている死後を思えば、教えてやりたくなるほどの歓喜極まる名誉であるとすら思っている。
 彼らにとっての黄金の獣の血肉となる、その鬣の一房としての役割。
 そして自分にとっての我らが女神の新たな地平の礎となれる栄誉。
 どちらもまた素晴らしい。想像するだけで心が躍る。その約束の刻が来た時には、恐らく誰もが感涙を抑えることなど出来ないだろう。

(……故に、死は恐ろしくはない。恐ろしくはないが……此処で死ぬわけにもいかんな)

 大方の種も蒔き、芽吹かせ、そして舞台となる環境も整えた。既に素晴らしき幕開けは成功を収めた。そういう意味で言えば、ヨシュアに課せられた仕事の内の七割近くは既に終了してしまったと言っていい。
 残る仕事もまた些事とは言えずそれなりの意味と価値もある……だが、もうそう長くは自分は舞台の上に立っていられる役者ではない。
 己が演目さえ終われば速やかに退場する、そこに躊躇も未練も無いが、しかし残り三割の仕事を残して舞台を去ることは己の矜持が許さなければ、師に顔向けすらも出来なくなる。
 それに……ここから先の三割は、彼にとって初めての私情で行うことの許された仕事である。ならばこそ、主の認可があればこそ存分に、その期待に応え、舞台を盛り上げないわけにはいかなかった。
 ならば、この場はどのように切り抜けるか。それを真剣に考えないわけにもいかなかった。


「全てを話せ……中尉はそう仰られ、お歴々もまたそれがお望みのようですが……私からそれを語り、諸兄がそれに納得をされるか、その自信が私にはありません」

 その言葉に彼の次の言葉を待っていた全員が、何を戯けたことを言い出すのかと呆れたように溜息を一つ吐く。
 そのような言い訳じみた前口上、この場の誰も望んではいなかった。

「納得などというものは我々が決めることですよ、アルベルトゥス卿。そもそもその判断のために我々はあなたへと情報開示を要求しているのです。……話してはくださりませんか」

 何かを言い出そうとしていたヴィルヘルムを先んじて遮って、黒円卓の総意を代表する形のように示しながら、表面上こそは穏やかな態度でトリファはヨシュアへと促す。
 彼にしても自身の目的から鑑みても、どこまで知れるかなど期待も出来ないが、それでも一端であれこの儀式の本質が知れるというのならば、その好機を逃そうとするはずも無かった。
 故に言い逃れはさせない。誤魔化しもまた許さない。
 メルクリウスが仕組んだこの大儀式。生贄も同然の駒としての自分たちの役割。
 その真意、その確信をここで得られるというのならば是非もない。

「かつて、副首領閣下は黒円卓の全ての者たちへと告げられました」

 怒りの日まで、それぞれ魂を蓄えよ。
 時至れば、それに見合った祝福を与えよう。

 それが彼ら黒円卓にとっての誓い、約束だ。
 実現性と程度の方は未知数だが、それでも釣られて余りあるだけの魅力と確信があったのは事実。
 故に待った、彼らは待ち続けた。半世紀以上もの間を、倦怠と屈辱に耐えて待ち続けたのだ。
 約束の刻は近い。こうして舞台の幕が上がった以上、もう間もなくといっていい。
 喉から手が出るほどに待ち望んでいた瞬間が、もうじき手が届くところまで来ているのだ。それで逸るなと諌められても素直にいかないのは無理からぬこと。
 あともう少し。あともう少しなのだ。
 ならば――

 ――あとどれだけ捧げれば、何を捧げれば、その時はやってくるのだ?

 それを知りたい。だからこそ教えろと彼らは求めてきていたのだ。

「――魂を」

 簡潔に、その一言を円卓に連なる一同を見回しながら、ヨシュア・ヘンドリックは告げた。
 その一言、その単語の意味、そんなものは今更言われずともこの場の全員にとっては分かりきっているはずのこと。
 だからこそ、その先をと急かす一同に、アルベルトゥス・マグヌスはおぞましい笑みも顕に示しながら、ハッキリとこう告げた。

「この場に連なる皆々様の魂を――このシャンバラの上へと捧げていただきたい」



 ざわり、とヨシュアが言い切ったその言葉に、全員の動揺を示すかのようなざわめきが闇の中で広がっていく。

「……それはいったいどういう意味でしょうか?」

 皆を代表するように、口を開こうとした者を制するように手振りで示しながら、ヴァレリア・トリファがヨシュア・ヘンドリックへと向かってそう尋ねた。

「どういう意味も何も、そのままの意味ですが?」

 平然と、いけしゃあしゃあと己の言った言葉こそがまるで当然と言った様子で、逆に不思議そうに首を傾げるかのようにそう問い返すヨシュア。
 無論、それがふざけた言い分以外の何ものでもないことは、この場に集った者たちからすれば当たり前のことだ。
 それも当然だろう。

「……少々、あなたと我々の間では認識の齟齬があるようですね。そこから摺り合わせていってもらえませんか?」

 態度こそは常と変わるぬ温和な神父のそれ。だがヨシュアを見つめるその視線だけは、先とは打って変わって鋭げなものへとなっていた。
 この場に集う全員……少なくともある程度の考察と共にこの状況を予期していたトリファを除けば、この場にいる全員の彼へと向かって告げたい言葉は同じはずだ。
 即ち――

「話が違う……少なくとも、我々が認識していた考えとしては、先のあなたの言葉に対してそう返さずにはいられません」

 それも当然だろう。
 メルクリウスが怒りの日の成就の為に皆へと提示した条件・ルールではそのようなことは、一度も言われていないはずだ。
 半世紀以上の昔であろうとも、それだけは断言できる。重要な部分を聞き逃すほどの間抜けなど、この場に集う者の中には存在しないはずなのだから。

「ええ、確かに主は言ってはなんですがお人が悪い。実際、今になって幕が開いてから言ってしまうなら、あの方はあなた方を謀っていたと言ってしまっても……まぁ間違いありません」

 その言葉に反応するように、席によっては露骨とも言えるほどの殺気が発生し始めてもいた。
 半世紀以上も自分たちは騙され続けていたのか、そんな怒りが爆発したとしても何らおかしくはなかった。

「いえ、私の言い方が悪かったですね。失礼しました。ちゃんと順に説明はしていかなければなりませんね」

 ヨシュアも敏感にそれを感じ取ったのか、この場で爆発されては堪らないと言った様子で手振りで示しながら、即座にそんな言葉を続けてくる。

「まず最初にご安心いただきたいのは、半世紀前に我が主が仰られたことには何の偽りもないということです。
 つまり、お歴々の心配しておられる個々の願いの成就の件……これが嘘偽りだというわけではありません」

 その点に関してはご安心を、などと皆が最も危惧している部分だけは最初に触れるあたり、この男のしたたかさがにじみ出ていたのは間違いなかった。
 とりあえず願いの件に関しては嘘ではない……その一点が明言されただけでも大きかった。即座の怒りによる団員の暴発、それだけは避けられていた。

「私が主が皆様を謀っていたと言ったのは、スワスチカ解放の条件についてです。この部分が、皆様が認知されているのと、主の意図している部分が恐らくは異なっていると思われますので」

 それは先ほど一同が総意で彼へと白状するように要請した、まさにその部分だった。
 再びざわめきが広がる。

「スワスチカの解放とは即ち、その場で大量の魂を一度に散華させること。
 言うまでもありませんが、諸兄の認識としてはその魂とは、この地に根ざした住人達のことを指しているとも思われますが」

 当然だ。そもそもそういう話だと自分たちは聞いている。
 このシャンバラとは、即ちは自分たちに与えられた、自分たちの為だけに用意された、自分たちの狩場なのだ。
 無論、この地に生きる者はその全てが、自分たちが狩る事を前提として、今日まで生きていることを許された家畜も同然。
 故にこそ、この大儀式とは、自分たちの役割とは、今までに用意しておいたその家畜たちから魂を刈り取る作業のはずである。
 それが違うなどと今更言われても、それにはいそうですかと納得できるはずがない。
 そもそも、この大儀式の成就には大量の魂を捧げることは必須事項のはずである。
 その魂を、住人達を刈り取らずして、いったいどこから用意すると言うのか――

 ――そこまで思い至った全員が、その答えへと即座に行き着いた。

 当然だろう、頭の回らぬ愚物に黒円卓の騎士は務まらない。
 そもそもここまで回りくどかろうとも、お膳立てと共に状況を提示されていれば、阿呆ですら嫌でも気づくというもの。
 それにそもそも……第一のスワスチカはどうやって開いた?
 その前例を考えれば、行き着くその答えなど――

「……成程、つまり生贄は俺達の方だったって言いてえわけか」

 忌々しく、吐き捨てるようにそう告げながら、ヴィルヘルムの赫怒のごとき苛烈な視線がヨシュアへと向けられる。
 否、ヴィルヘルムだけではない。凡そ黒円卓に集ったこの場の全ての騎士たちが、彼と同じ感情を持って、ヨシュアへと集うようにその視線を向けてきていた。

「……ハッキリとそう断言するわけではありません。しかし、この地のスワスチカの性質と、我が主の意図ではそれも含まれているというだけです」

 儀式の成就には大量の魂が必要不可欠。
 それを現地調達以外で補おうというのなら、当然それは他にあるところから持ってくるしかない。

「成程、それ故の魂喰らい……副首領閣下がわざわざ我々へとエイヴィヒカイトを授け、そしてあのような指示を我々へと下したのは、或いはこの為だったのかもしれませんね」

 いやそれこそあの外道なら本気でそれを意図していたと言われても、信じられるだろう。
 目の前のこの道化者などが遥かに及ばぬ領域で、あの狂人は自分たちを手駒のように扱い、そう認識している。
 そしてあの狂人と深く懇意にしている自分たちの主……あの黄金の獣ならば、それも良しと臣たる自分たちすら平然とあの男へと差し出してしまうのではないだろうか。
 つまりはそういうこと。そう、最初から自分たちは餌に釣られて間抜けにも、こうしてこの状況へと嵌ってしまったのだ。

「双首領閣下と大隊長御三方を除いた我々の人数は八人……そしてスワスチカの総数も八つ。成程、数は確かに合いますね」

 尤も、それは単純な合わせに過ぎなければ、団員に決められている役割上、必ずしもその言葉通りでは儀式が成り立たないのはそう呟いたトリファ自身がよく知っている。
 少なくとも自分とゾーネンキント……黄金練成に欠かせぬ駒であるべき自分たちまで、ただ単純にスワスチカの要へと割り当てているはずがないのだ。

(……ですがそういう意味で言ってしまえば、確かに私と彼女は彼の言った先の言葉からは逃れられませんね)

 その身を、その魂を捧げる。
 そう、自分と彼女はどうやってもそうして捧げられるべき贄に過ぎないのは、間違いなかった。
 そうならない方法があるとするならば、それは……

「で? それを俺らに教えててめぇはどうして欲しいんだよ。この場で俺らに殺し合えってか?」

 剣呑な態度を隠す素振りもなく、ヴィルヘルムは低く押し殺した怒りを孕んだ声をもって、ヨシュアに対してそう尋ねる。
 それこそ返答次第では、この場でこの地のスワスチカを、眼前のその男の魂で開けさせてやると言わんばかりに。

「……そう殺気立たないでもらえませんか? あくまでも可能性としての話を告げたに過ぎません。
 凡人数百人を捧げるのと、超人一人を捧げるのでは大差ない。……私は諸兄にその一点を認識しておいてもらいたかっただけです」

 だが知っているのと知らないのとでは大違い。
 この儀式の見方も、団員たちそれぞれへと向ける見方も。
 ヨシュアの投じたその一石によって、確かに見事に変えられてしまった。
 確かに仲良しこよしの戯けた同胞意識を抱くほど、彼らは仲間内にそのような信など欠片も持ち合わせてはいない。
 だが少なくとも主である黄金の獣への忠誠。そして怨敵たる水星の魔術師への憎悪。その共通認識と互いへの不干渉さえ約束されていれば、後はどうあろうともよかったはずの繋がりであったことは間違いない。
 しかし今からは、スワスチカの性質と、忌まわしいメルクリウスの意図を知ってしまえば、もはや己以外の全ては油断ならぬ蹴落とすべき競争相手にも近い。
 間抜けにも信頼など置こうものなら、それこそ寝首をかかれてスワスチカの要へと捧げかねられないのだから。
 この場の全員が改めて認識しなおす。
 これは戦争なのだと。
 一方的に相手の生殺与奪の権利を握っている狩猟などではない。
 例えどれほど僅かな可能性だろうとも、魔人である自分たちにもまた、死の危険性が存在している、生き残りをかけた喰らい合いなのだ。
 そう、決して楽観視は許されない。

「……とりあえず理解したわよ。それでだからこそ、メルクリウスの糞野郎はわざわざもう一つの餌のあの子まで用意したってことでしょう?
 ……ううん。もしかしたらわたし達の方があの子の為に用意された餌なのかしらね?」

 ずっと沈黙を保っていたルサルカが口を開き告げたその言葉。
 もう一つの餌、あの子。
 ルサルカが告げるその人物が誰であることくらいは、この場にいる全員ならば理解している。

「そもそもこれはそういうゲームでもあったんだっけ? あいつの用意した代理を見つけ出して殺す……逆にあいつの代理であるあの子はそんなわたし達を殺す。
 メルクリウスからすれば、確かに損はないわよね。どっちが死んだってスワスチカが開くことに変わりはないんだもの」

 副首領代行ツァラトゥストラ。
 自分たちが仕留めるべき、自分たちだけの恋人。
 そして自分たちの為に用意された血濡れの死刑執行人。
 彼が自分たちを殺せば、その結果としてスワスチカは開く。
 逆に自分たちが彼を討ち取り、そしてシャンバラの住民達を皆殺しにしてもスワスチカは開く。
 メルクリウスからしてみれば、操り人形同士の潰しあいなのだろう。彼や首領が悲願とする儀式の成就はどちらが勝とうか成せるのだ。
 損はない。そうメルクリウスたちには何のマイナスもない。ただどちらが勝つか賭けでもしながら、酒の肴に事の顛末まで観戦していればそれでいいのだから。
 逆に自分たちはどうだ? 幕が開いてしまった今更に舞台を降りることなど出来ない。
 否、そもそも許されないし、自分たち自身が許さない。
 聖槍によって刻まれた聖痕による誓いが。
 この時を見越して懇切丁寧に根付かされたのだろう、メルクリウスに対しての抑え難き憎悪が。
 そして何よりも団員達自身が持つ誇りそのものが。
 彼ら黒円卓の騎士に、尻尾を巻いた無様な逃走など、許すはずがないのだ。
 ならばどうする? どうやって生き残る?
 死にたくないというのなら、生きて願いを叶えたいというのなら……
 そんなことは、決まっている。

「要するに、勝てばいいって事だろ?」

 ツァラトゥストラを抹殺し、このシャンバラに住まう住民達をスワスチカへと捧げる。
 約束の刻……怒りの日に、主の帰還と共に、願いを叶える。
 半世紀以上も自分たちをペテンにかけてくれた当事者は……その後にでも殺せばいい。

「簡単な話だ。そもそもエイヴィヒカイトを習得したばかり程度の新兵に、俺たちが負けるわけねえだろうが」

 こんな極東の平和ボケした微温湯のような国でぬくぬくと育った劣等の猿ごときに。
 人を超えた自分たち黒円卓の魔人が、負けることなどあるはずがないのだから。
 そう、負けるわけがない。そうヴィルヘルム・エーレンブルグは確信しているし、それにある意味では好都合だとも思っていた。
 代理だろうが何だろうが、ツァラトゥストラがメルクリウスの看板を背負っていることは間違いないのだ。
 あの真性のバケモノと比べるべくもないのは分かっている。だが例えそうであろうと、あの狂人が自身の代理だと明言している以上は、それを叩き潰せば、他ならぬ奴自身の面子を叩き潰すのも同じだ。
 ならばその好機……いずれ本人自身もぶち殺すとはいえ、前祝をかねてあの代理をぶち殺さない動機などあるはずもない。
 そう、邪魔する者は、立ち塞がる者は、敵対する者は、黒円卓に逆らう者は、そのすべからくは鏖殺しだ。
 問題はない。やる事も何ら変わりはない。
 そう、勝つのは――

「――勝利するのは我ら黒円卓、それに変わりはありません」

 ヴィルヘルムの言葉をまるで引き継ぐかのように、ヴァレリア・トリファが総意を示すかのように、そう宣言した。



[8778] Chapter Ⅳ-2
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:5e527d24
Date: 2010/06/26 00:03
 ふざけるな。
 聖槍十三騎士団黒円卓第十位、ロート・シュピーネの現在の心境を表すべき言葉があるとすれば、それに尽きた。
 実際、あの道化者……アルベルトゥス・マグヌスが暴露した、このシャンバラにおいてのスワスチカ解放におけるルールの真相。
 忌まわしきあのメルクリウスがまるで全てを見越していたかのように意図されたとしかおもえぬ現状。
 何もかもが気に入らない。他のメンバーと同様、シュピーネの心境もまたそこに変わりはない。
 そしてそう思う以上に、尚更に恐怖が勝る。
 そうロート・シュピーネにあったのは憤怒と同時にそれ以上の恐怖だった。
 恐らく彼以上にメルクリウスを……否、あれだけではなくあれを含んだ首領と各大隊長三人を合わせての、総勢幹部五人を恐れている者もいないだろう。
 副首領に対する憎悪、確かにこれはある。首領に対する畏怖と忠誠、これも確かにある。そして各大隊長に対しての嫉妬、これも皆と変わらない。
 だがそれらが全て恐怖に勝る。ただそれだけ、それだけのことではあるが、それだけのことだからこそ、彼は他の団員たちとは大きく異なっていた。
 それも仕方が無い。その恐怖が故に、そもそも彼の目的そのものが他の団員たちのそれとは大きく乖離していたのも事実だったのだから。

 ロート・シュピーネの目的……それは、この黒円卓の掌握にある。
 そもそも彼はその目的のためだけに、わざわざカビの生えたような大昔の約束に釣られる形でこの地へと赴いたのだから。
 かの大戦より半世紀。幹部五人が自分たちを置き去りしてこの世界を去ってより、数多の時間が既に流れ過ぎた。
 残された各人からして見れば、これは退屈を持て余す長すぎる待ち時間。倦怠と屈辱に満ちた雌伏の時期だったことだろう。
 だからこそ、この戦争の再開に彼らはこぞって待ち続けた分の鬱憤すらも合わせて、嬉々とした狂気を振りまこうとしている。
 だがシュピーネだけは違った。彼だけは唯一人、この戦争の再開に対して心躍らせるような感情を持ち合わせてはいなかった。
 それも当然ではあろう。何故なら彼にとっては、この半世紀という雌伏の時間そのものが、むしろ他の団員とは異なり、充実していた日々だったのだから。
 好きなだけ殺し、犯し、奪う。ただ己の欲する本能のままに行動を許された、束縛など存在しなかった自由と呼べた日々。
 かの化物どもの下で、恐怖と屈辱を味わいながら何とか生き延びきってきた日々と比べれば、それこそ天地の差と言い切ってすらいいほどに、救われた時間だった。
 鬼の居ぬ間の日々、期間限定の自由時間……無論、シュピーネとてあのベルリンの陥落時にやがてこの日が来ることぐらいは予想できていた。
 だが……だが、一度解放され、知ってしまった甘い汁の味、それをどうして今更に忘れることが出来ようか。手放すことが出来ようか。
 否、断じて否。冗談ではない。ごめんである。嫌に決まっている。
 そう嫌だ。嫌で嫌で仕方が無い。今更あの化物どもの下に戻るなど……シュピーネにとってはもう死んでも嫌だった。
 だからこそ、困るのだ。受け入れられないのだ。あの五人の……真性の化物どもの帰還など、認められるはずがない。

「そうです、そうですとも……そんなものは許されない」

 許されていいはずがないのだ。
 だからこそ、それを是が非でも阻止する必要があった。
 あの五人の帰還を許してはいけない。彼らを一歩たりとも“こちら側”に踏み入らせてはならない。
 何故なら、例え本体よりの僅かに過ぎぬ片鱗だろうと、あの化物どもはそもそも存在のレベルが違う。
 首領・副首領は言わずもがな。大隊長たちですら、あれと比べるなら聖餐杯はおろか、ベイやカインですら可愛いものである。
 比べることすらおこがましい。実力が違いすぎる。あれは自分たちの力で如何こうなるような存在などではない。文字通りの本物の災厄なのである。
 それをシュピーネはよく知っている。誰よりも彼らを恐怖しているからこそ、誰よりも彼らの危険性を熟知しているのだ。
 力ではどうにもならない。なる相手などではない。ならばこそ……阻止する手段は別のアプローチから試みなければならない。
 幸いそこにこそ最大の好機と救いがあることを、シュピーネは理解していた。
 即ち……この怒りの日を成就するための、シャンバラの儀式そのものである。

「“あちら側”に旅立たれたハイドリヒ卿たちは、このシャンバラの完成なくして戻ってくることは出来ないはず」

 そしてその方法こそがこの儀式の要……そう、スワスチカの解放だ。
 先ほど聞いた忌まわしき真相のその仕組みから考えても、既に自分たちは贄も同然の存在だということは、シュピーネとて理解している。
 そしてそれがどれだけ拙い事態であることかも、だ。

「つまり我々の中の誰か一人がスワスチカの上で潰えたとしても、スワスチカは開いてしまう」

 忌々しいことこの上もない、実に悪趣味な構造。
 そしてそれは同時に、シュピーネにとって都合の悪すぎる状況でもあった。
 既にスワスチカは一つ開き切ってしまっているのだ。これから儀式が続いていけばいくほど、次いで各スワスチカは開いていくことだろう。
 元よりこれはそういうゲーム……それは理解している。凡人数百人だろうが、超人一人だろうが、兎に角その場で大量の魂が散華してしまえばスワスチカは開いてしまうのだ。
 それは即ち、もはや一刻の猶予すらもないと言っているのと同じではあった。
 首領たちの帰還に必要なスワスチカの数は八つ。加えて、聖櫃となるべきゾーネンキントや、玉体を預かるクリストフの存在など必要な要素は多いが……しかしそれは、彼らの完全復活を前提としての話だ。
 そう、完全な復活でないならばその条件とは、思っている以上に高いハードルではないのだ。
 少なくとも、後一つか二つスワスチカが開くだけでも、或いは霊体の一部のみを限定としてもハイドリヒ卿が“こちら側”に戻ってこられる確率は高いのではないのか。
 それこそ最悪、大隊長一人くらいなら戻ってこられるのではないのか。
 そうだとするならば……それは最悪すら尚上回る悪夢そのものだ。
 直接彼らが“こちら側”に一人でも戻ってこられるようになれば、それこそ黒円卓の掌握などと言っていられる場合ではなくなるのだ。
 故に一刻の猶予もない。誰がどれだけ死のうが、例えそれが黒円卓の同胞達であろうがどうでもいいが、死ねばスワスチカが開く以上、呑気に構えていられる時間はない。
 事は迅速に……そう、迅速に黒円卓を掌握し、これ以上事態が進行する前に儀式そのものを止めなければならないのだ。
 しかしながら、それは当然シュピーネ一人の手で行えるものなどではない。自らの聖遺物の力には自負がある。が、同じく手錬れである黒円卓の団員達を全て敵に回しては勝ち目も無い。
 故にこそ、シュピーネは欲していた。ずっとずっと、この戦争が再開されるシャンバラ入りを測る以前から、自身の有効な切り札となるべき駒の目星はつけていた。
 同じ黒円卓の同胞達……否、一時的な結託は構わないが、彼らの目的はシュピーネの真意には沿わない。故に真の意味では己のパートナーとはなりえない。

「そうですとも、だからこそ私には彼が必要だ」

 ――ツァラトゥストラ。

 聖槍十三騎士団黒円卓十三位、副首領メルクリウスの代替として用意された駒。
 我ら黒円卓の恋人にして、我らを殺す処刑人。
 そう、あの少年だ。あの少年の力こそがシュピーネには必要だった。
 故に早急に、ツァラトゥストラと接触し、彼を自分の手駒としなければならない。
 他の者たちがいきり立って暴走を始める前に、誰よりも早くだ。
 だがその為には、当然彼と一対一で対談できる場を設けなければならない。
 用心深い性格たるシュピーネにとって、自身の真意は事を確実に成せると確信できるその瞬間まで、隠しておきたかった。それも当然だろう、ここで自分の思惑を知られれば、団員全てを敵に回すことにもなる。
 焦っては元も子もない。慎重に、しかし且つ迅速に行動を起こさなくてはならないのだ。

 だが、その為にはやはり色々と問題があるのも事実。
 円卓はツァラトゥストラをもう暫し経過観察に留める対応を選んだ。シュピーネとしてもそれは望ましい。
 しかしだからと言って、これをチャンスと即座に直接彼と接触を行おうなどという愚考は犯せない。目立つ行動は他の者たちにも不審を抱かせ、警戒の対象ともなりかねないのだから。
 それにツァラトゥストラと直接的な面識が自身にはないというのも事実だ。
 現状、ツァラトゥストラと面識があるメンバーはカインと自分を除いた全員だろう。しかし面が割れていることにより、少なくともレオンとベイとマレウスは彼に警戒されていることだろう。
 ならば残りのメンバーは言えば、これはこれで問題だ。そもそもゾーネンキントは組織の活動そのものに非協力的だし、バビロンはカインを所有している上に、そもそも女であるあれは信用できない。
 ならば残るは我らが首領代行クリストフ・ローエングリーンになるのだが……あれはれで喰えぬ男であることは警戒を抱くと同時にシュピーネはよく知っている。
 だが直情的なベイや狡猾なマレウス、副首領の狗であるアルベルトゥスやその弟子であるレオンハルトなどに比べれば……消去法ではあるが、彼しか居ないと言うのも事実だ。

「……背に腹は変えられませんしね。それに――」

 まぁ考えようによっては、あれはあれで仮初とはいえ信を置くことに関してはある程度までなら大丈夫だという打算もあった。
 手を結ぶなら、自己と正反対の人種の方が信用できる。
 ロート・シュピーネにとっては変わらぬ自らの持論。この考えから以前はベイを手駒に引き入れられればと接触を持ち秘密裏の協定を結ぼうかとも考えたが、血に飢えた狂犬であるあれはこちらの忠言など聞き入れもしないことがよく分かったので、早々に切らせてもらった。
 まぁベイの事はどうでもいい。問題は聖餐杯……クリストフだ。
 シュピーネには分かる。他の団員達が現状の地位を維持することに固執していると疑っているようだが、それはとんでもない間違いだ。
 他ならぬあの男に限ってそれはあるまい。あの男は権力の座や栄華栄立などというものに塵ほどの価値も置いてはいまい。確かに目的のために利用できるならば、最大限にそれを行使はするだろう。だが真実、あれはそれが必要がないものだったならば、躊躇も無く簡単に手放すことだろう。
 自分がこれほど喉から手が出るほどに欲して止まぬものだというのに、つくづく狂人というものは理解に苦しむ。
 だがそうであるからこそ、あの男は利用できる。信を置くに値する。恐らくあの男とて、自身の目的のためならば、こちらを利用したいはずなのだから。
 故にこそ、クリストフの協力と手引き。今はそれを求めることこそが妥当だろうとシュピーネは判断していた。
 そして丁度そんな時だった。

「シュピーネ、少しお話したいことがあるのですが、よろしいですか?」

 自分の部屋の扉を叩くノックの音、そしてそれに続くように扉越しから聞こえてきたのは、今からこちらから出向こうかと思っていたはずの当人だった。
 シュピーネは即座に扉まで歩み寄ると共に、慎重に扉を開いた。

「これはこれは猊下、何か私に御用ですか?」

 表面上は努めた何気なさを装った応対。眼前の自分たちの上役を勤める代行に対し、シュピーネは自身が思う最大限に紳士的な振る舞いを意識する。
 それは彼に対し、現状に対する不満や焦燥を悟らせぬようにするためでもあった。

「ええ。実はあなたに折り入って頼みたいことがあるのですが……よろしいですか?」

 頼み、首領代行を務める男がこの時点で、自分に頼み込もうとしていることとは何なのか。組織の諜報活動を担う者として、他のメンバーから雑事を任されることの多いシュピーネではあるが、この状況が状況だ、興味はあった。

「……ええ、それは構いませんが……実は猊下、私の方からも少々あなたにお話したいことがありまして」

 クリストフからの要請が何であれ、自分もまた彼に用があるのも事実だ。ならばこの好機を逃すほど間抜けであるはずが無い。
 故にこそ、詳しい話は中ででもと部屋へと彼を招き入れながら、シュピーネは自身の都合の良い事の成り行きを頭の中で組み立て始めた。




 歌劇の幕は遂に上がり、戦争は再開した。
 誕生した新たな英雄――ツァラトゥストラには今後もメルクリウスの意図した通りに奮闘してもらう必要がある。

「……とはいえ、目覚めたばかりの彼が未だ脆弱すぎると言うのも事実だ」

 メルクリウスの後継として、あの呪われた歌姫を振るう彼には、いずれ我らが首領閣下と同じ高みにまで上り詰めてもらわなければならない。
 しかし現状、殻を破って孵ったばかりの雛にも等しい彼では、ベイやカインはおろかクリストフ……否、自分やレオンハルトにすら及ばないほどの脆弱さであることも事実なのだ。
 多少、彼の側には彼を護るために盾となるべき者たちは用意されている……が、根本的な彼自身のステップアップなくしてはそれも意味が無い。

「まずは基礎中の基礎たる“活動”を……他のメンバーと本格的に戦う前には“形成”位階程度までは上り詰めておいて貰わねば困るな」

 無論、“創造”位階が平均とも言える黒円卓の騎士たちを相手に、たかが形成程度ではお話にならないというのは本来ならば当たり前のことではある。
 だがそれは求めすぎても高望みだし、そもそも根本的に『格』の違う特別製たる彼ならば、まだその段階でも何とかなるだろう。
 故に当面の問題は彼を形成位階にまで押し上げること、ここに力を注げばいい。
 その為に必要なのは、簡単に言ってしまえば殺人(けいけん)を積めばいいということなのだが……

「あの性格では、それも望めないか」

 主の代替らしいと言えば、確かに彼は実に主の意図する代替らしい性格をしている。
 こうしてツァラトゥストラと成るまでに、人生の大半を普通の人間として過ごさせてきたという結果もある。
 故にこそ、彼は早々に殺戮の身を任せた選択は選ぶまい。むしろあの意固地な性格だ、聖遺物からの殺戮衝動にすら強引に抗おうとするかもしれない。
 それはそれで興味深く面白いことではあるが……現状で残された時間に限りがあるのも事実。そういつまでも彼の意地に妥協してやれる甘さばかりを見せてはいられない。

「……何より、自らの番いにお預けを続けさせるなど、酷と言うものでしょう」

 大事な大事な主の愛しき花。
 我らが仰ぐ歌姫にして、新たなる世界の玉座に就かせるべき女神を、欲求不満にさせるのは恐れ多いというもの。
 ならばこそ、ヨシュアにしてみてもやはり彼には早々に手を血で染めて、彼女へと生贄を捧げて欲しい。
 その為には――

「――螢」
「ここに」

 短く一言、名を読んだその直後に応えるように、待機していた櫻井螢の声が背後より響く。
 それに満足げに頷きながら、ヨシュアは彼女へと振り返って告げる。

「そろそろ私も動こう。君にも……少し私の代わりに使いに出てもらいたい」




 明けて翌日は昨日の雨が嘘のような快晴となった。
 だがそんな天気とは裏腹に、夜明けを過ぎた辺りから生じ始めた自らの変調によって、藤井蓮にとってはそれどころでもなかった。

「づ……あぁ……!」

 倒れ込みそうになる身体を、無理矢理に壁に手を押し付けて支えながら踏ん張る。
 湧き上がってくる尋常でない奇妙な渇き、理性を捨てて暴れだしたくなるような暴力的な衝動。
 そして何より――


『Je veux le sang,sang,sang,et sang.
 血、血、血、血が欲しい。

 Donnons le sang de guillotine.
 ギロチンに注ごう、飲み物を。

 Pour guerir la secheresse de la guillotine.
 ギロチンの渇きを癒すために。

 Je veux le sang,sang,sang et sang.
 欲しい物は、血、血、血……』


 頭に響いてくる忌まわしいそのフレーズには憶えがあった。
 当然だ、忘れるわけが無い。忘れたくても忘れられるはずがない。
 あの悪夢の中で見続けた、黄昏の浜辺とその丘の向こうに鎮座するギロチン。
 そして金紗の髪に、襤褸の服、珊瑚の首飾りめいた斬首痕。
 ……ああ、間違いない。これは“彼女”の歌だ。
 一字一句間違えることすらもなく諳んじれる。これは藤井蓮の魂に直接刻み込まれていると言っていい、彼女の歌う、彼女だけの歌だ。
 聞くたびに湧き上がってくる自分のものでないような、まるで他人事めいた情動。これが何に起因したものなのか、気にはなるが努めてそれを今は精一杯に無視する。
 聴くな。耳を貸すな。応えるな。欲するな。
 まるで頭の中で響くこの歌の内容こそ、自分自身が心から欲している衝動のようにも感じ、それを恐れて藤井蓮は抵抗するように必死に否定を続ける。
 だが同時に、これがどうにも消え去り難い、自身ともはや不可避の業であることを、蓮もまた薄々とはいえ実感し始めていた。

「……これが、力の代償……だってのか」

 恐らくはそうなのだろう。この耐え難い内から湧き出てくる忌まわしい殺戮衝動。
 他者の血を、肉を、命を、魂を、貪り略奪したいと欲する禁忌の感情。

「……ざ……けんな……ッ!」

 ふざけるな、そう抗うように、声を必死に絞り出しながら激しく頭を振る。
 違う。こんなものは俺の求めるものじゃない。今はお呼びじゃないんだ。出てくるな。
 自身の内に在る、忌まわしい何かへと必死にそう言い聞かす。
 とはいえ、そうして抗うだけでも、それは蓮にとっても気が触れそうなほど精神的な苦痛であったのは事実だ。
 拙い、このままでは遅かれ早かれ気が狂う。大切な皆を護るために、日常から逸脱したと言うのに、自分自身がこの衝動で日常を破壊しかねない。
 脳裏に浮かぶのは綾瀬香純の、沢原一弥の、氷室玲愛の、神父やシスターたちの姿。
 そしてその幻は次に――

 ――彼らの首と胴を斬り飛ばす、忌まわしい光景を幻視させる。

「――――ッ!?」

 違う、違う違う違う違う!
 ふざけるな、ふざけるなよ。そんな光景、望んじゃいない。
 そんなこと、誰がするものか。

「……ああ……ふざ……けるなッ!」

 ドンッと力任せに、苛立ちに任せて、その幻を消し去ろうとするかのように、思わず壁を殴りつけてしまう。
 部屋の中に響く尋常でない音。そして見れば……亀裂が入って陥没した壁。
 加減も考えずに力任せにやってしまったとはいえ、以前の自分では到底出来るはずもなかったはずの所業。
 確実に自分が異常へと変わってしまったことを、改めて様々と教えられたのと同時に、こんな力を尚更に大切な皆へと振るえるわけがないと必死に言い聞かす。

「……兎に角、落ち着け」

 ここは日常だ。まだ日常の中、おまえの出番の舞台である非日常じゃないんだ。
 だから今は黙ってろ、来るべき時に、存分に振るってやるから。
 そう言い聞かせながら、波の強弱があるのか、湧き上がってくる衝動が何とか抑えられるものにまで弱まったことに安堵し、力なく壁へと凭れ掛かりながらずれ落ちるように座り込んだ。
 幸いにも、殴った壁は司狼の部屋側である。とは言っても、音自体は派手に響いた以上、香純が次の瞬間にでも飛び起きてこの部屋に飛び込んでくるかもしれない。

「……あ、壁の穴」

 そう言えばと思い出す自分と彼女の部屋の間を繋ぐトンネル。
 あれをこのまま放置してはおけない。既に藤井蓮がこうしてイカレタ程に日常から逸脱してしまっている以上、陽だまりに置いてきた彼女を必要以上に関わらせるわけにはいかない。
 事が収まるまで香純には何も気づかせない以上、根本的な些細な関わりの部分からとて自重していかなければならない。
 だからこそ、とりあえずあの穴を塞ごうと蓮は立ち上がった。応急処置的に本棚を引っ張って移動させてきて穴の前へと置く。

「……後で、ホームセンターにでも行かないとな」

 これでは心許ない。工具やら何やら材料を揃えて、ちゃんと塞いでおかなければならないだろう。
 忌まわしい殺人の記憶が無い、何も憶えていない今の香純にしてみれば、それこそ唐突とも思えるこの行動に、不審や不満を示すかもしれないが、何とかはぐらかすしかない。
 彼女を騙してばかりと言うのは良心が痛むが……しかし、仕方の無いことだと蓮は必死に言い聞かせた。

「……兎に角、香純も一弥も先輩達も、もう絶対に――」

 ……一弥?
 そう言えばと、今頃になって間抜けにもハッと思い出したもう一人の大切な幼なじみのことが、蓮の思考を席巻し始める。
 あいつはそういえばどうしている? 昨日は帰ってきた様子がなかった。今はもう帰ってきているのか?
 仮に帰ってきていないなら昨日はどこに泊まったんだ? 友達の家? あいつの友達って誰だ?
 考えれば考えるほどに急激に焦りが沸いてくる。当然だろう、蓮にとってはどうであれ昨夜は自身の人生の転換期とも言えた事件があったばかり。
 香純のことだってあるし、それに何よりあいつは……一度奴らとも直接的な関わりを持っている。
 考えれば考えるほど、嫌な予感ばかりが強まる。不安は払拭されない。
 気づけば蓮は飛び出すように、一弥の部屋へと向かって駆け出していた。



「一弥? 俺だ、蓮だ。帰って来てるのか? いるなら返事をしてくれ?」

 そう言いながら何度も彼の部屋の扉をノックする。
 時刻はまだ早朝、気心知れた幼なじみ同士とはいえ、非常識と言えば非常識な訪問なのかもしれない。
 だがどうであれ、今は直接的に彼の顔を見て、その無事を確かめたかったのだ。
 けれど、何度呼びかけ、ノックしようとも応えはない。
 留守、その事実に気づけば益々に嫌な予感は強まるばかりであった。

「そうだ、携帯」

 思い出したかのように蓮は携帯電話を取り出すと共に、登録されている彼の番号へとかける。
 コール音が嫌になってくるほど何度も続く。
 頼むから……頼むから早く出て――

 ガチャ。

「一弥か? 俺だ、れ――」
『おかけになった電話番号は、電波の届かないところか、電源が入っておりません』

 繋がったと思い思わず言葉を紡ぎかけるも、直ぐにそれは留守番電話サービスの音声によってかき消される。
 電話も繋がらない。その事実に、益々藤井蓮の胸中には言い様もない不安が広がり始めていた。




「じゃあ、一弥は放課後の下校までは先輩といたんですね?」
「うん、そうだよ。一緒に博物館を見学した後に、そこで流れ解散って感じだったかな」

 学校の昼休み。屋上にて対峙する氷室玲愛からのその証言が、蓮にとっては現状の幼なじみ失踪前の最後の目撃証言だった。

「彼、今日は学校に来てないの?」
「……ええ、ついでにアパートにも帰ってきてません」

 氷室玲愛からのその問いに、疲れを示すように額に手を当てながら蓮は正直にそう答えた。
 出来れば玲愛にも余計な心配は抱かせたくなかったが、状況が状況だ。それに妙にこういうことには鋭い先輩相手には隠し通すことだって不可能だろう。

「……先輩、あいつから連絡があったら俺にも伝えてくれませんか」

 最後に別れた別れ方が気まずかったというのもある、何かがあったにせよ、或いは単なる杞憂に終わってくれるにせよ、今の一弥が直接に自分に連絡をくれるとは思っていなかった。
 きっとあいつから連絡があるとすれば、かかってくるのは十中八九、香純だろうとは思う。けれど残り一割二割の確率で玲愛へと連絡を入れる可能性だってある。
 だからこそ、先に網をかけておこうと言う配慮だったのだが……

「彼は友達の家に寄るって言ってたんでしょ? 彼の友達は?」
「……先輩、俺が知ってると思いますか?」

 自慢じゃないが(本当に自慢にもならないが)クラスメイトの顔と名前すら未だに把握しきれていないほどに、蓮は他者への関心が低い。
 そんな彼が数少ない友人とはいえ、沢原一弥の交友関係まで把握しているはずがない。それは一弥に限らず、香純や玲愛だって同じだった。

「綾瀬さんは? 彼女は知らないの?」
「……今、一応心当たりに当たってもらってますけど」

 正直、それも期待は持てそうにないのではなかろうかと蓮は思っていた。
 確証があったわけではない。しかし胸に蹲る不安と焦燥そのものがそう告げてきているかのようでもあったのだ。
 そもそも、香純に送られてきたあのメール自体、本当に真実だったのだろうか。アドレスは本人であり、送信されてきた時間は玲愛の話で、彼女と別れてからそう間もない時間らしい。
 けれど、あれが本当に一弥から送られてきたという確証はない。あのメール自体が、一弥の携帯を使った誰かから送られてきたものとも考えられるのだ。

「それは幾ら何でも考えすぎじゃないかな」

 蓮が思ったその可能性を、しかしそれを聞いた玲愛はそう一言で否定した。
 まぁ、普通に考えればそうかもしれない。
 けれど蓮は何も知らない玲愛とは違った。少なくとも、この街に異常を齎そうとしている、それに自分に対しても因縁をふっかけてくる特異な連中の存在を知っている。
 沢原一弥が単なる一般人であったにしろ、自分に近しき人間であったのは間違いない。
 ……ならば、一弥はもう奴らに――

「――藤井君」

 脳裏に走る最悪の光景をそれこそ幻視しようかとも思えた直後、静かにしかしハッキリと自分の名を呼ぶ声に蓮は気づいた。
 気がつけば、こちらを真っ直ぐに見据えてくる氷室玲愛がいた。

「心配なのは分かるけど、焦りすぎだよ。余裕なくしてテンパったままだと、綾瀬さんまで余計に心配させちゃうんじゃないかな」

 その一言に、気づかされたようにハッとなる。
 香純……そう、一弥のことを心配しているのは自分だけではない。彼女だって同じだ。むしろ彼女の方が状況も分からない唐突な事態であっただけに、その胸中の不安は自分よりも勝るのではなかろうか。
 ああ見えて精神的に脆い……何より他人本意なあいつが平気なわけが無い。
 先輩の言う通りだ。ここで自分まで不安定に揺らぎ過ぎては余計に香純の心配を増すだけだ。
 あいつを不安にさせて、独りぼっちにさせて起こしてしまった取り返しのつかない事態を思い出す。
 もう日常に帰して大丈夫だろうとはいえ、あんなのは二度とゴメンだ。

「それに彼がキミや綾瀬さんを悲しませるようなことをすると思う?
 何かがあったのは間違いないと思うけど……もう少し信じて、無事を祈って待っててあげるのも友達だと思うよ」

 尤も、それが本当に正しいことなのかどうかは自分にも分からないが、と玲愛は締めくくる。
 心配をするのは当然だ。だが信じて待つことも大切なんじゃないのかと告げてくる玲愛に、蓮にもまた返せる言葉は無かった。

「藤井君、キミにとって彼は――もう失くしてしまったもの?」
「――違う」

 玲愛からのその問いに、間髪入れずに蓮はそう返していた。
 失くしてしまったもの……違う、断じてそうあるはずがない。
 失ったものは戻ってこない。戻ってこないからこそ、失ってはならない。
 そして蓮は、まだ一弥を失ったつもりはない。
 むしろ失わせないためにこそ、戦うことを選んだのだ。
 一弥も、香純も、先輩も、絶対に自分の手で護るために。
 だから――

「だったら、今はもうちょっと彼が帰ってくるのを信じて、待ってみたらどうかな」

 焦って事を急いでは、大切なものを見失うことだってある。
 今は自分に出来ることから、やっていけばいいのではないのかと玲愛は言ってきているようだった。

「私の方でも心当たりを探してみるよ。連絡が着たら、キミにもちゃんと教える」
「……すみません。よろしくお願いします」
「沢原君もそうだけど、藤井君も色々と気をつけた方がいいよ」
「え?」
「最近物騒だからね」

 それだけを告げて、じゃあと別れを示しながら氷室玲愛は屋上を立ち去って行った。
 後に残された蓮は、呆然とその背を見送りながら、これからどうすればいいのかを考え始めてもいた。


 沢原一弥の失踪。確かにそれは藤井蓮にとっても無視できるはずもない大きすぎる問題だ。
 けれどそれと同程度に、蓮自身の事にも関わってくる切実な問題があったのも事実だった。

「――ッ!?」

 唐突に襲ってきたのは、今朝方にもあった例の衝動。
 波の強弱があり、心配事が他にあったことなどで、一時的に目を逸らし収まっていたものの、やはりぶり返すように再び戻ってくる。
 先ほど玲愛が立ち去ってくれて本当に良かったと思った。極上の獲物である彼女を前に、この衝動を抑え付けておくのはかなりキツイと思えた。
 それは玲愛に限らず香純だって同じだ。このギロチン、かつての使い手に対して何の思い入れもないのか、例え彼女であろうが例外なく衝動を沸き立たせる。

「……ッ……落ち着け……まだお呼びじゃねえんだよ」

 これは殺意と怨嗟の塊だ。そしてそうであるからこそ、自らの存在意義に忠実で、そこに余計な差別は挟まない。
 それこそ蓮がこの衝動に負けてこの手綱を手放せば、瞬く間にこの学校に存在する人間達を残らず斬首にかけることだろう。
 そして藤井蓮はその最悪を望まない。望まないからこそ、その最悪の光景を是が非でも回避すべく理性を総動員させ、無理矢理に衝動を抑え込む。
 ここで屈すれば後が無い。本当にギリギリの人としての分水嶺。
 だからこそ、後が無いからこそ、蓮の理性は衝動に勝りそれを抑え込む。
 ある意味それは、ギリギリまで自身を追い込むことで辛うじて己を保っていると言えた。
 どちらにせよ、危うくあるという事実は変わらない。
 荒く乱れた息を何とか整えながら、何もかもが自分を追い込もうとしているかのような現状を、蓮は只管に呪いたいくらいだった。



 そして放課後――


「……それで、松田君の所にも行ってないんだって」
「……そうか」

 黄昏時の西日が差す教室。二人だけが残ったその場で、香純と蓮は今日一日に当たってみた一弥捜索の結果について報告し合っていた。
 とは言っても、蓮は玲愛に聞いただけであり、その殆どはクラスメイトを中心に一弥と仲の良さそうだった生徒たちに聞き込みを行っていた香純の成果についての報告だった。
 尤も、それだけ頑張ってくれたにも関わらず、やはり一弥の行方は杳として掴めぬ結果に終わってしまったのだが。
 一弥の友人だとかいう松田や土屋などという名前を聞いても、案の定、蓮には誰のことだがさっぱり分からなかった。だが結局、友達であるらしいそいつらに聞いても分からなかったし、連絡も着ていないという話だった。
 それどころか、話によればここ一週間でさえマトモに会話を交わしてすらいなかったという事実が分かったのみ。
 それぐらいあいつは、ここ一週間本当に自分たちに付きっ切りだったというのを改めて思い知らされた。

「玲愛さんは?」
「……放課後、下校途中までは一緒だったらしい」

 しかしそれすら途中で別れたと言われた。
 そして彼女の話とメールの届いた時間からして、あいつがその『友達』とやらの家に寄るといって消えたのはその直ぐ後だ。

「……いったい友達って誰のことなんだろ」

 少なくともその松田なり土屋なる者たちではないだろう。その他の香純が当たってくれた他の友達とも違うはずだ。

「……ツキガクの生徒じゃないのかもしれないな」

 香純の心配気な呟きに応える様に、蓮もまたふと思ったことをポツリと呟いていた。
 今までは友達というからには、この月乃澤学園の生徒だとばかり思っていた。
 しかし何も学校の中だけが彼の交友範囲とは限らない。あいつの性格からして可能性は低いが……外に友人がいないとは限らない。
 尤も、仮に本当にそうだとしても、ならばこそ尚更にそうであれば蓮たちにとってはお手上げということにもなってくるのだが。
 いったいあいつは何処に消えてしまったのか。誰と会ったのか。その分かるはずもない問題に頭を悩ませかけていたその時だった。



「櫻井さんも、その友達っていうのは見てないらしいし」



 ポツリと呟いた香純の言葉の中のその名前に、蓮の思考は一瞬停止していた。

「な……に……?」

 今、何て言った?
 櫻井? どうしてあいつの名前がここで出てくる。
 いやそもそも――あった?
 あいつが? 誰と?

「……櫻、井……?」
「……うん、櫻井さん。昨日夜に街で会ったんだって。何かお互い用事があって急いでたみたいで、理由も行き先も聞いてなかったらしいけど」

 多分、それが一弥を見かけた最後の目撃例だと思うと、香純はそんなことを言ってきた。
 昨日、夜、街、会った。
 櫻井、お互い用事があった、急いでいた、行方は知らない。
 次から次へと沸いて出てきた知らない事実。
 否、それは最も考えたくなかったはずの可能性。
 けれど、香純が言っていることが本当だと言うのなら。
 櫻井が本当に一弥に会っていたというのなら……
 だとすれば――


『思い至る可能性など一つだろう。
 ありえるはずがない……そんな曇ったフィルター越しの結果を、君は既に知っているはずだと思ったが?』


 唐突に脳裏へと響いてくる、聞き覚えのあるあの忌まわしい声。
 ドクンドクンと喧しいくらいの鼓動を打つ早鐘の中で、フラッシュバックのように脳裏へと蘇ったのは、昨日のあの忌まわしい光景。
 土砂降りの雨。呆然とした面持ちの彼女。そして血に濡れた殺人現場。
 藤井蓮のありえるはずがないという思いを、完膚なきまでに裏切り、打ち砕いてくれた最悪の真実とさえ言えたあの結果。
 そう、今更言われるまでもない。
 藤井蓮は既に知っているのだから。

 本当に起こって欲しくないはずの最悪こそを、このくそったれた運命は押し付けてくるのだ。

 目の前に、その実例が今もいるではないか。

「……蓮? ちょっと大丈夫?」

 香純まで既に利用されていたというのに、一弥だけが無事に済む道理など何処にあるだろうか。

「顔色悪いよ? 今からでも保健室行った方が――」

 目を逸らすな。そこに存在する事実を見ろ。
 奴らは、俺を追い込むためなら何だってするはずだ。
 だったら、あいつを利用しないはずが――

「蓮!? ちょっと何処行くのよ!?」

 背後から、呼び止めるように叫んでくる香純の声が聞こえた。
 けれど答えてはいられない。申し訳ないがそれどころではない。
 ただ何もかもが悪い夢だと呪うように、気づけば蓮は教室から勢いよく飛び出していた。




「そろそろ、来る頃じゃないかと思っていたわ」

 黄昏の夕日に照らされた屋上、櫻井螢は階段を上って現れた藤井蓮に対して、言葉通りに待ち望んでいたという態度をもってそう告げる。
 今日一日、一弥の心配や例の衝動を抑えるのに必死で、その存在を努めて思い出さぬよう無視しようとしていた相手。
 しかし、やはりこうなってしまっている以上、この女との対峙は避けては通れぬものであることを、蓮は改めて自覚した。

「よく此処だと分かったわね」
「……まだ下駄箱に靴が残ってた。校舎の何処かにいるだろうとは思ったから、後は――」
「――思い当たりそうな場所から虱潰し、ってわけかしら?」

 まぁそんなところだった。というより、教室以外だと此処以外の場所が思い浮かばなかったから来てみたに過ぎない。
 そして案の定ここにいた。人目を避けたいという点はお互い様だろうし、それに何より向こうもこちらに用があるというのなら、こそこそと隠れているとも思えない。
 結果、自分もよく来る分かりやすい場所にいるだろうと判断したに過ぎなかった。
 兎に角、そんなことはどうだっていい。蓮が彼女へと訊きたいことはそんなことではないのだから。

「一弥をどうした?」

 単刀直入。余計な外連や修飾は何一つ必要ない、要点だけを尋ねた問い。
 相手を睨み据える厳しい面持ちも顕に、そして言外で返答次第では実力行使も辞さないと言う覚悟を持って。
 藤井蓮にとって、今すべてに勝るその問いを櫻井螢へと尋ねかける。
 最も聞きたくない最悪が、せめて否定されることを願いながらそう尋ねたのだが……



「ねえ藤井君、例えばの話だけど……自分の大切な人が死んでしまった場合、あなたならどうするのかしら」

 殺人でも自殺でも事故でも病気でも、理由自体は何でもいい。
 兎に角、大切な人が死んでしまったとする。この場合、自分ならどうするのか。
 そう櫻井螢は藤井蓮を真っ直ぐに見据えながら尋ねてくる。

「おい――」
「――答えてもらえないかしら。少し興味のあることだから」

 こちらの問いに答えもせずにそう逆に尋ねてくる相手に、はぐらかすなと言い返そうとする蓮の言葉すら遮って、螢は彼へとその返答を求める。
 苛立ちが更に増したのは言うまでもない。うるさい、ふざけるな、そんなくだらない話なんかどうでもいい。今はそんな話に付き合ってやれる余裕なんてない。
 ……それとも何だ、その露骨な質問はつまり“そういうこと”を言外で示唆しているつもりなのかと理性すら飛びかねない怒りが沸き立ってくる。

「そう怖い顔しないで欲しいわね、単なる例え話よ。
 私たちくらいの年齢の子なら、こういう話題を好んでするんでしょう?」

 そんなの知るか、興味だってない。
 そう吐き捨てたい気持ちを蓮は言葉にこそ出しはしなかったものの、しかしその彼女へと示す態度では露骨に示してはいた。
 年頃に相応しい話題云々になど興味はない。しかもそんな馬鹿らしい内容ならば更に尚更だ。
 そもそもその仮定自体がふざけている、気に入らない。そうこの手の話が藤井蓮には大嫌いで仕方が無い。
 だってそうだろう。

「……俺は生きてる奴のことしか考えない。死んだらそれまでだ。どうなろうが失ったものは戻ってきやしない」

 故に是正よりも維持を。拾うのではなく、そもそも落とさない。そう考えて彼は常にこれまでの人生を生きてきた。

「仮定だろうが何だろうが、自分の大切なものを失ったら、なんて話すような奴なんかは、そもそも自分にとっての本当に大切なものってのが分かってないんだろうさ」

 本当にそれが大切だと思っているのなら、仮にも失ったらなどといった仮定でその大切なものを貶めるな。

「馬鹿にするなよ。本当に大切なものだってんなら、何で失くした時の話なんかをそもそもする?」

 そこが一番藤井蓮には理解し難いのと同時に、度し難い。
 失くしたものは戻ってこないのだ。どんな理由があろうとも、失えばそれで終わりだ。どんなに似ていて同じ種類の物だったとしても、それはその失くしてしまった唯一とは同一ではないのだ。
 どんなに似ていようが、同じだろうが、それは失くしたものではない。失せ物を不出来に真似て侮辱するだけの単なる偽物だ。
 そんなものに対して一々語ること自体が、滑稽極まりないだけではないか。
 それは物であれ人であれ同じだ。
 だからこそ、そういう話題を振る奴自体が蓮は心底気に入らない。

「それとも何だ? そんな話を好んでするおまえらは、本当はその大切な人って奴自体が要らないんじゃないのか?」

 本当に大切だって言うのなら、例え“もしも”だろうが、そいつを仮定でも死なせることを許容するのか。出来るのか。
 少なくとも藤井蓮にはそれが出来ない。例え“もしも”だろうが、そもそもその“もしも”自体を認めない。
 だからくだらない話題なのだと蓮は一刀の下に切り捨てた。

「……成程、随分と融通の利きそうにない頑固な価値観だけど……それがあなたの考え方だというのなら、よく分かったわ」

 色々と思うことはある、蓮の返答に対して螢もまたそう態度で示してはいたものの、殊更にそれに対して反論なりを示す気もないらしい。
 納得するかどうかは別として、蓮がそういった価値観持ちだということは、螢もまた理解はしたということらしかった。
 別に理解も納得も同意も、そんなふざけたものをこの相手から望む気は、蓮もまた微塵もない。くだらない無駄な問答だとは思ったものの、これで今度は自分の質問に答えてくれるというのなら、目を瞑ろう。

「……ならいいだろう。そんなことより、今度は俺の質問に答えろよ」

 改めて、拒否も誤魔化しも許さない。そんな態度も顕に、蓮は螢を睨みつけながら、先と同じ質問を繰り返した。

「一弥をどうした?」

 この際、他の事は後回し。
 こいつらの正体も目的も、そして自分が抱えているこの得体の知れない尋常ならざる異変すらも今はどうでもいい。
 そんなものよりも大切な、そう、何よりも大切な藤井蓮にとっての最優先であるべき事柄のその一つを。
 それについて何かを知っているというのなら話せ、と……

「香純に言ったんだろ? おまえが最後にあいつに会ったって」

 それが何を目的としたものなのか、そしてその一弥に何かをしたのかすらも分からない。
 返答次第では無論タダで済ます気などない……が、今は何よりもそれ以前の問題だ。
 沢原一弥の安否。
 本当に彼が今も無事なのかどうか、それだけはどうしても蓮は知らなければならない。
 そんな蓮の切実な思いに対して、螢は薄く笑いすらしながら――


「だったら、もうそれはあなたが考えるべきことでもないんじゃないかしら」


 平然と言ってきたその言葉は、確実に藤井蓮の理性に亀裂を入れさせるには充分だった。
 蓮とて馬鹿ではない。その相手の返答、そして露骨なまでの先程の質問。
 それが何を意図的に示唆しているのか、こちらに対して何を告げようとしているのか。
 それが本当に分からぬほどに、そんなに鈍くはないのだ。
 ……ああ、嫌いだ。嫌いなんだよ。
 その手の“もしも”の話って奴は、大嫌いなんだ。
 だから――

「……どういう、意味だよ……?」
「どうも何もそのままの意味よ。さっき自分で言ったばかりじゃない。生きてる奴のことしかあなたは考えないんでしょう?」

 ……ああ、それはつまり――




「だったら、もう彼はそうじゃないんだから、考える意味だってないでしょう?」




 時間が止まればいいと思った。
 いつもそんなことばかりを考えていた。
 人生においての最良の瞬間なんてのは、それこそ死ぬ時にでも全てを振り返ってみるくらいでしか分からないだろう。
 けれど、それでも……こんな時がずっと続いてくれればいい。誰だって、ふとした瞬間にそう思うことが、今までに一度くらいはあるはずだ。
 だからこそ、それを失うのが怖い。その先など要らない。待っている未知が恐ろしい。
 だから、そうならないように……それよりも前に、この最高の刹那で時そのものを止めてしまいたい。
 飽き果てるまで、いや飽き果ててすら……その永遠を欲し、焦がれ続ける。

 それがどうしようもないほどに、青臭くて、そして救い様もないほどに馬鹿げた、それこそガキの我が侭も同然だという事実くらいは気づいていた。

 それでも仕方が無い。だってこれは、言うなればもって生まれてしまった性分。どだい矯正のさせようもないような、くたばるまで完治しようもないような麻疹病である。
 殊更それを自嘲するわけでもなく、そしてそれに対して他者から理解を求めようとは思ったこともない。
 だってそれも仕方の無いことだ。それを望む藤井蓮とは裏腹に、彼と親しき友人達はこぞって真逆の価値観だったのだから。
 綾瀬香純然り。遊佐司狼然り。
 彼らは時の停止など望まない。飽き果てた先の無い永遠より、どれだけ不明瞭でも先が続いているその未来を選ぶ。
 未知など恐れずに、それすらも受け入れるように、強く真っ直ぐに。
 綾瀬香純も遊佐司狼も、後ろに振り向くことよりも、ただ前だけを望み、選び、進んでいくそんな人間だ。
 凡そ藤井蓮のそんな在り方と、彼ら二人の在り方。人間的にどちらが正しく、そして強いかくらいは蓮にだって十二分に理解できていた。
 別に劣等意識を持っていたわけでも、そんな彼らの価値観を厭うていたわけでもない。
 ただ彼らと自分は違うから。
 大切な、かけがえのない存在であることに変わりなどなかったが、それでも埋めようもない溝が自分とあの二人の間にあったのは事実だ。
 理解や共感を彼らに欲したわけではない。……けれど、彼らと自分はやはり違う。共に在り続ける限り、否応も無くそれを思い知らされたのは事実だ。
 だけど――

『俺もおまえと多分同じだと思う』

 だけど――そう、あいつだけは違った。
 香純や司狼と違い、あいつだけは、そんな自分の考えと同調を示す部分が多々あった。
 今が永遠に続けばいい。それこそ叶うなら……時さえ止まってくれとすら望む。
 同じどうしようもないような馬鹿な価値観。みっともないことこの上ない麻疹病にいつまでも罹っている様な成長しないガキ。
 沢原一弥はそんな藤井蓮にとっての、ある意味においての唯一と言っていいご同類だった。
 どうしてあいつが自分と同じようなそんな考え方をしているのか、それこそこの場合はむしろ同属嫌悪でも抱くべきなのだろうか。
 そんな疑問を抱いた時もあった。けれど不思議と、やはり何故か蓮は一弥のことを嫌いにはなれなかった。
 或いは、それこそ本当にどうしようもなく馬鹿げているが、自分は本当は嬉しかったのではないのかとすら思う。
 理解も共感も求めない。そうは思っておきながらも……やはり、香純や司狼と自分だけが違うという事実は、心のどこかに寂寥を抱かせるに足る何かがあったのかもしれない。
 自分だけ何かが欠けてしまっているのだという、その空虚な穴。
 誰にも埋めることは出来ない、埋める術を知らぬそれを、同じ価値観持ちのあいつだけが共有してくれていたというのは、それはやはりどこかで救いになっていたのかもしれない。
 俺はおかしいのかもしれない。俺の価値観は間違っているのかもしれない。
 けれど……少なくとも、たとえどうであれそれが俺だけではなかったのだという事実があった。
 ご同類。同胞。朋友。……別に呼び方なんてなんでもいい。
 ただ一人だけでも分かってくれる理解者がいてくれた。
 孤独ではなかったのだというその事実が、蓮とこの価値観の乖離する世の中を繋ぎとめてくれている大きな理由となってくれていた。
 ……ああ、もう言葉を並べ立てた尤もらしい似合いもしないまどるっこしい言い方はよそう。
 単純に、簡単に、乏しい己の貧弱な語彙で言ってしまえば……
 要するに――

 間違いなく、沢原一弥は藤井蓮にとっての大切な――友達だったのだ。




 生きている奴のことしか考えない。死んだ奴はもうどうしようもない。
 確かに先程自分は相手にそう言って、それをそのままそっくり返すかのような返答を相手は示してきた。
 生きている奴のことしか考えないというのなら、沢原一弥は既に考えるに値しないものへと成り果ててしまったということ。
 ……昨夜の香純との一件を思い出す。
 土砂降りの雨の中、ギロチンの呪いから彼女を解放し、自分が日常から逸脱してしまったあの時。
 それでも立てた一つの誓いがあったはずだった。

 ――必ずおまえらのところに帰ってくるから。俺がおまえらを守るから。

 誓いは果たされなければ意味が無い。
 だってそうだろう。口で言うだけならそれは誰にでも出来る。約束というものは、誓いというものは、それが本当に大切だというのなら、ちゃんと実現できなければただの夢想で終わる裏切りも同じだ。
 だから約束を、誓いを立てたというのなら、それは守らなければならない。
 そうしないと誓う時に成し遂げると抱いた決意そのものにすら意味がなくなる。
 ……ああ、だから俺はそれを守らなきゃならなかったんだ。
 守らなきゃ……ならなかったんだよ。
 あの時に、司狼を失ってしまったから。あいつはもう戻ってこないから。
 せめて残されたあいつらだけは、俺が守らなきゃならなかったんだ。
 ……その為の逸脱だろう? その為の誓いだろう?
 だっていうのに……馬鹿か、俺は。

 ……取りこぼした。
 あの時、確かにそれでも、どうしようもないほどに後戻りできないくらい大切なものは汚されても、それでも大切なものは失わずに済んだと思っていた。
 俺の愛した俺の大切な陽だまりは、確かに守れたと思っていた。
 そしてこれから先は、二度と奴らの薄汚い手では触らせない、そう守ると誓ったはずだった。
 ……その為に必死こいて手に入れたこの力だろう。


 ……なのに、一弥。おまえ……このッ、馬鹿野郎が。
 おまえが死んじまったら……何の意味もねえだろうがッ!
 おまえが欠けちまったら、意味なんてないだろうがッ!
 香純を、先輩を、どうするんだよ?
 俺だってどうすりゃあいいんだよ。
 ……分からない。

 ――生きている奴のことしか、考えない。

 死んだ奴はもう戻ってこない。戻ってこさせちゃいけない。
 家族でも親友でも恋人でも、墓から這い出てくるのは何であれ死人(ゾンビ)だ。
 ああ、そうだ。俺はそんなことを既に神父さんに言っちまったんだぞ。
 俺がどうしようもないくらい頑固だってことも、救いようのないくらいに馬鹿で、この価値観を曲げられないことだって知ってるだろ?
 ああ、そうだ。曲げられない。曲げられないんだ。
 だから失うのは嫌で、絶対に取りこぼすことなんてしたくなかったのに……ッ!
 俺の知らないところで、勝手に死んじまうんじゃねえよ。
 これじゃあそれこそ悔やんでも……悔やみきれないだろうが。




 やはり相当にこの言葉は効くらしい。
 こちらの言ったその言葉に衝撃を受け、間抜けと思えるほどに呆然と立ち尽くす藤井蓮を見て、櫻井螢はそう思う。
 正直、胸のすく何とも言えない気分が沸いてくるというのも事実だ。
 思想は個人の自由だ。ああ、個人の自由だとも。それがどれだけこちらにとって鼻につくようなものだろうが、それが彼の思想だというのなら、それは彼の自由だ。
 そしてだからこそ、こうなった時に、まだそんな価値観にしがみつけていられるのだろうか。
 大切な人を失って、死んだらそれまで……それこそそんなものは、螢から見れば狂った価値観そのものでしかない。
 故人を大切に思うのは自由だ。思い出を美化して守ることも当然といえよう。
 けれど、だからといって、失って、それではいそうですかと諦めがつくか?

 否、そんなことあるはずがない。

 失った人が大切であればあるほど、その失い方が理不尽であればあるほど。
 そんなものは認められない。そのような喪失など受け入れられるはずがない。
 だから求める。どんな方法だろうが、それがどれだけ間違っていようが。
 外道に落ちようが、人をやめようが、悪魔と契約を結んだとしても。
 惜しくはない。そうまでしても、それは取り戻す価値がある。
 運命などという賢しい言い訳で、諦めきれるはずがない。
 どうやってでも、その“もしも”を求め続ける。

 そう、だって彼らを愛しているのだから。
 もう一度、どうしても逢いたいのだから。


「ねえ藤井君、改めてもう一度訊かせて欲しいんだけど」

 だから改めて彼に問おう。
 ご大層でご立派な思想を価値観を、そんな綺麗事を本当にまだ抱き続けていられるのか。
 自分のプライドを守るためだけに、本当に大切な人を諦める(殺す)ことが出来るのか。
 所詮は失ったこともない甘ちゃんなだけで、あなただって私と同じ穴の狢だろうと。

「死んでしまった大切な人が取り戻せるかもしれない……そんなチャンスを手に入れられるとすれば、あなたはどうするの?」

 自らでも底意地の悪い悪魔の囁きだとは承知の上で、それでもあえて興味深いこの問いを彼に向かって問いかける。
 ほら、今のあなたなら、かつての私と同じように、縋り付いてくるんでしょう。
 暗い嗜虐心と共に、そうであるに違いないという確信をも抱きながら。
 櫻井螢は藤井蓮へとそう問いかけていた。




 ふざけた質問だった。
 それはこの上もないほどに、ふざけた質問だった。
 少なくとも、半ば呆然と後悔の海の底へと沈みかけていた藤井蓮にとって。
 それはどうであれ、その馬鹿げた質問が彼に火を点けたのは間違いなかった。
 当然だ。だってそんな質問自体が――

「……馬鹿にしてんじゃねえぞ、てめぇ」

 心底嫌悪も顕にしながら、それこそ吐き捨てるように蓮は螢へとそう告げる。
 予想外の切り返しだったのか、それこそ櫻井螢の表情が驚きで強張る。
 しかしそんなことはこちらの知ったことではない。故に蓮の口もそこで止まらない。

「何度も言わすなよ……失くしたら戻ってこないんだよ! ああ、戻ってこないんだ。
 だから死んじまったら人間は生き返らない。生き返らせちゃいけないんだ」

 こいつもあの神父と同じような、そんなおぞましい質問をしてくるというのなら、同じように答えてやる。

「墓から這い出てくるのは、何であれ死人(ゾンビ)なんだよ。
 おまえはおまえの言う大切な人って奴を……そんな醜い屍に変えちまいたいのか?」

 それこそ死者への冒涜であれ、死んだ大切な人間に対する最大の侮辱で裏切りだ。
 自分自身で、自分の大切なものの価値を自らで貶めている。
 宝石を塵屑に変えようかという、そんな行いも同じだろうに。
 それを本気で素晴らしいとでも思っているのなら……それこそ本当に頭がイカレテいる。
 故に何より我慢ならない。そんなふざけたイカレ野郎が、塵屑を一生漁ってろとでも言ってやりたいような馬鹿野郎が、

「したり顔で、俺のあいつへの価値を測ったような口上垂れてきてんじゃねえよ」

 これは自分のものだ。自分の思いで、自分の価値観だ。
 そしてそれによって見出せた、俺のあいつへの思いだ。
 それをおまえなんかが――

「おまえなんかが、薄汚え手であいつの価値に触れようとするな」

 それだけは許さない。絶対に許さない。
 だからこそきっぱりと、藤井蓮はその悪魔の囁きを真っ向から拒絶した。




 ここまで頑なエゴイズムで拒否を示されれば、流石にこれ以上の押しは無理かということを櫻井螢も悟った。
 節々が色々と気に喰わない価値観だし、正直言い返してやりたいことは多々あった。表面上こそ辛うじてクールさを保っていても、彼女の内面は苛立ちと激情で煮詰まっているとも言えた。
 ああ、やはりとここに至り櫻井螢もまた漸くに理解し、認めた。

 彼と自分は絶対に相容れない。

 価値観もそうだが、その何もかもが自分とは違う。
 そしてそれが致命的なまでに、それらがお互い気に喰わない。
 或いは、自分の人生における乏しい対人関係の中で、彼はそれこそ初めての未知の部類へと分類されることだろう。
 気に入らないし、正直腹立たしい。
 そう思う半面で、こうでなければイジメ甲斐もないとすら思い、或いは期待してすらいる。
 本当に奇妙で、そして不思議な相手だった。
 ああ、それは認めよう。認めなければなるまい。

 そして、そう藤井蓮のことを評価すると同時に、現状の思惑がズレ始めているということも問題といえば問題だった。

 藤井蓮は副首領代行ツァラトゥストラとして目覚めた。
 それはいい。漸くと待ち望んでいたことだし、願ってもいないことだ。
 だがそう改める一方で、彼が未だに非日常側に踏み入れてきていないというのも事実だ。
 本能的なことなのか、呑気にまだ登校を続け、それ故にこの地がアースであることによって、結果的には聖遺物の殺人衝動を未だに押さえ込んでいる。
 正直に言ってしまえば、それでは困る。当然だろう、こちらは獲物が強敵へと成長してくれることを願っているのに、肝心の獲物の方が成長どころか未だに停滞へとしがみ付いている。
 ずっと2のままで、肝心の足し算を続けようとしていない。
 それでは意味が無い。こちらが意図するレベルまで、いつまで経っても彼は辿り着けない。それはこちらにとっても色々と困るのだ。
 だからこそ、殺人を続けて成長するようにと促すつもりだった。その為の丁度いい起爆剤として、沢原一弥を持ち出したに過ぎない。
 本当に彼を大切に思っているのなら、それを取り戻すために力を欲して、求めるはず。進んで人を殺して回って成長してくれるように促せると思っていたのだが……

 ……まさかここまで頑固だとは、正直予想外だった。
 藤井蓮は死者の蘇生など求めない。故にそれをどれだけ目の前で釣り下げて誘っても、餌に興味を示さない。
 しかもその言動を見る限りでも、こちらのやること全てを認める気などないのは明らか。ヒーロー気取りか何だかは知らないが、そもそも赤の他人を巻き込むことを絶対に善しとは認めないはずだ。
 何から何まで、事前に師が予見した通りの返答がそのまま返ってきた。
 故にこれからどうするべきかを迷う。どうやって彼を成長させるのが一番なのかを……



 そして櫻井螢がそんな考えを抱く一方で、藤井蓮もまた彼女を許す気はない。
 沢原一弥……自分の大切な日常の一部だった彼が、本当に……そう、万が一にでも本当に、こいつらの手にかかったというのなら――

「――私たちを許さない?」
「ああ、当然だ。絶対に許すかよ」

 必ず八つ裂きに引き裂いて、一人残らずにその首を飛ばしてやる。
 それこそ、まずはこの女から――
 そう思いながら、蓮が一歩を踏み出そうとしたその瞬間だった。

「恐れながら、それは時期尚早と具申させていただきましょう」

 唐突に響いてきた予想外のその声に、蓮の足はピタリと止まった。
 そしてそれは蓮に限ったことではない。

「……マスター?」

 それは眼前の相手――櫻井螢にとっても予想外であったのか、蓮が見たこともないような若干に驚いた表情で、そんな言葉を呟いてきていた。
 そうして、蓮と螢の視線が揃ってある一点へと向けられる。
 それはその声が聞こえてきた方向。屋上に設置されている給水搭の裏側。

「ご苦労だったね、螢。ここからは彼の相手は私がしよう」

 そう言いながら現れたのは、奴らの制服なのだろう、その漆黒の軍服を身に纏った一人の男。

「……あんた」

 蓮にはその人物に憶えがあった。
 会うのは二度目となるし、その服装も身に纏う雰囲気も何もかもがあの時と変わっていたが、それでも一目で直ぐに分かった。
 ……ああ、そう言えば全ての始まりだったアレに、“彼女”の元に俺たちを連れて行ったのはあんただったな。
 そう思いながら、藤井蓮は苦々しくその相手の名を呟いた。

「……ヨシュア……ヘンドリック……」

 確かに不思議とこの男が奴らの……いいや、あの元凶たるメルクリウスの回し者であったとしても、不思議じゃないと思える奇妙な確信が浮かんでいた。


「はい。もう一度お会いできて光栄ですよ、藤井さん……いいえ、ツァラトゥストラ・ユーバーメンシュ」

 恭しく跪くかのような芝居のかかった動作を示しながら、ヨシュア・ヘンドリックはそう答えてきた。



[8778] Chapter Ⅳ-3
Name: KEIJI◆7d3dd272 ID:5e527d24
Date: 2010/06/26 00:03
「聖槍十三騎士団黒円卓番外位、ヨシュア・ヘンドリック。称号はアルベルトゥス・マグヌス。我らが偉大なる師、副首領メルクリウスにお仕えする忠実な下僕でございます。
 改めましてお見知りおきを、我らが副首領代行ツァラトゥストラ」

 そう言って一礼を示すその仕草は、確かに見ていて恭しい。多少芝居のかかった言動であることが逆に鼻にも付くが、純粋な敬意のみを相手に対して示しているのは、傍から見ている螢にも理解できた。
 故に珍しいとすら内心では少し驚いてもいる。確かに普段から、この男は他者に対する態度は慇懃だ。であるにしても、今藤井蓮へと見せているこの男の態度は、普段他の同胞達……それこそ首領代行たる聖餐杯猊下へと見せる態度以上に、恭しかった。
 それはつまり、それ程この男は彼を……副首領代行ツァラトゥストラを重く見て、尊重しているとも言うことである。
 大方、自らの師の影でも重ねているのだろうか。副首領メルクリウス……その人物に対して狂的な程の忠誠心を抱いているのは察していたが、それは例え彼の代替であろうとも一向に翳る事はないらしい。

「どうやら我が弟子が無礼を働いたようですが、あれもまだ身の程と道理を知りえていないだけの若芽ですので、どうかお許しいただければ幸いなのですが」

 言いたい放題言ってくれているが、別に螢は蓮の許しなど欲してはいない。無論、ヨシュアに対してもまた言わずもがなだ。
 しかし立場は立場か。彼の弟子である自分と、彼の師の代理であるあの少年ならば、彼からして見れば自分より立場は遥かに上と言うことか。
 面白くはない事実ではあるが、元より新参だの若輩だの劣等だの、その手の蔑視や差別には既に慣れきっているので、そこまで拘るつもりもない。
 ただ少し……特別な存在だと目されているとはいえ、あんな少年を相手にへこへことした態度を示している師の姿が、どこか滑稽に螢には映っていた。
 そして蓮の方からしてみても、突然現れたその男の自分への応対の態度に戸惑いを見せているのは明らかでもあった。

「そう緊張なさらずともご安心ください。今日の我らはあなたと事を構えるために参ったわけではありませんので。
 ……それに私の立場は副首領代行(あなた)の補佐役ですので、どちらかと言えば味方とご認識していただければ幸いなのですが」

 それは流石に螢にも聞き逃せない言葉ではあった。
 席次を設けていないとはいえ黒円卓に連なる者が、他ならぬその敵対すべき存在にこそ味方であるなどと言い出したのだ。
 一歩間違えれば……否、もう既にそれは組織に対する反意、逆徒の証そのものではないのかとすら螢は思った。
 それとも、本当に我ら黒円卓にとって、獅子身中の虫そのものであるそのスタンスが、容認されているとでも言うのだろうか。
 一瞬、それこそ螢は迷っていた。口を挟み、他ならぬ師にその真意を問い質すべきなのかと。

「……あんたが、味方?」

 そしてそんな彼女以上に驚き、そしてその言葉を疑うように返していたのは他ならぬそう言われた当人……藤井蓮であろう。
 当然である。眼前のこの男もまた斬首にかけるべき敵である。少なくともその例外はない、と首に刻まれた斬首痕の疼きが示していた。
 それに何より蓮自身の本能が警鐘を鳴らしていた。眼前の男のその言葉を否定するように。
 この男を信じるのは危険だ。初めて会った時からどうしても拭い去れずに抱き続けていた懐疑心。それはこうして相手の正体が判明した今、益々に強まってすらいた。

「左様。あなたとあなたの番いでおわせられる呪われた歌姫。お二方へと助力するようにと、既に半世紀以上前から我が主より命じられておりますので」

 己はただ忠実にその命へと従うだけ、そう示すかのように相も変わらず芝居のかかったその仕草で、恭しく蓮の前へと跪く。

「主って…………メルクリウスか?」
「然り。我らが偉大なる師にして、あなたにとっては父祖に連なるお方です。
 もう幾度か、言葉のやり取り程度はなされているのではありませんか?」

 非常に聞き捨てならない言葉を言っている気もするが、ヨシュアが尋ねてきたその問いには、確かに蓮にも憶えがあったのは事実だ。
 頭の中に唐突に響いてくる不愉快な声……そうであろうと当たりはつけていたが、これで確証が得られた。
 メルクリウス。総ての事の元凶にして、自分たちのかけがえのない日常を破壊してくれた張本人。

「……そいつは、今何処にいる?」
「残念ながらお答えは出来ません。……いいえ、正確に言えば私もまた存じ上げてはいないと言った方が良いでしょうか。まぁ、今はまだお会いすることは叶いませんが、いずれ来るべき時には、あなたと彼女の前にお姿をお見せになるとは思いますが」

 要するに、現状では会う手段が存在しないとも言うことか。口惜しいが、手っ取り早く元凶に直接報復ということも出来ないらしい。
 ……尤も、それとてこの男の言がどこまで信じられるのかということもあるわけだが。
 それに今は奴のことよりも、他にも対応すべきことが山積みでもあった。
 その最たるものが……

「――やはり、随分とお辛そうですね?」
「――ッ!?」

 ヨシュアのその指摘に、蓮は忌々しげに顔を顰めた。
 確かに、この男に言われるまでもない。実際、さっきからずっと身の内の衝動を抑え続けていること自体が骨の折れる作業でもあったのだから。
 斬首痕が焼け付くように訴えている。こいつらを殺せと、その首を刎ねろと。
 怨嗟と憎悪の塊たる呪われたギロチンより伝わってくる衝動。それが段々と抗うこと自体が苦痛となっているのは事実だった。
 故に可能であるというのなら、今此処でこいつらを――

「――先程も申し上げましたが、今の状態のあなたではそれも時期尚早かとも思われますが」
「――ッ!?」

 まるでこちらの内心を読んだと言わんばかりの絶妙なタイミングで釘を刺してくるその言葉に、衝動に駆られかけていた蓮の理性に制止がかかった。

「残念ながら、今のあなたでは我らを殺すことは不可能です。理由はあえて告げずとも容易に察せられるとも思いますが……説明をご希望ですか?」

 自分ではこいつらを殺せない。憎悪する相手からのまるで当然と言わんばかりの指摘は確かに腹立たしいものだ。
 しかしその言葉自体が間違っていないという事実は、蓮とて理解できている。
 未だこいつらには届いていない。
 確かに日常を逸脱する、忌むべき非日常の力を手に入れた。
 しかしながら、奴らと同じ舞台の上に立ったということを実感すると同時に、自分の手に入れた力では未だ奴らに遠く及ばないことは対峙することで思い知らされた。
 こいつらは化物だ。同類の化物になったからこそ、尚更にその危険度が肌で感じて分かるようになってしまった。その彼我の実力差を含めて。
 それこそこいつらか見てみれば、今の自分など卵から孵ったばかりの雛も同然なのだろう。正直、同じレベルの相手などとは間違っても見なしていまい。
 あの時の香純ですら、蓮からすれば異常そのものだったというのに、そうして自分も同じになったはずなのに、こいつらと比べればまだ生温い。
 こいつらは同じ化物でもレベルが違う。十人以上の人間を殺した香純など比較にならぬほどに、きっと人間を殺してきている。
 殺人鬼……否、生粋の人喰い(マンイーター)。
 仮にこの場でこいつらに襲い掛かったとしても、恐らくは造作も無く返り討ちにあう。
 そんな確信があった。そしてこいつらがそんな化物である以上、残りの連中も……少なくともヴィルヘルムやルサルカたちも、こいつらより劣っているなどということは無いはずだ。
 改めて実感する。これから自分が相手にしなければならない連中の化物具合を、その異常性を。

「ええ、あなたのその判断と分別はとても正しい。彼我の差を正確に理解し、無謀な蛮勇には決して身を投げ出そうとはしない。……やはり、あの方の後継となられるべき存在として、あなたは相応しい」

 調子っぱずれな賛辞を贈られてきても、生憎と蓮がそれを嬉しがるはずがないのは当たり前だ。
 こいつらを相手には負けられない。ましてや殺されるわけになどいかない。
 こんな化物どもと刺し違える気などないというのも当然だが、蓮が願っているのはあくまでも日常への帰還だ。こんな非日常の中で死ぬつもりはない。
 ましてや、得体の知れないこの連中はこの街で何かをしようと企てているのは間違いない。櫻井螢は戦争などと言っていたし、ろくなものでない事は明らかだろう。
 であればこそ、蓮にとっての大切な人たちがそれに巻き込まれかねない危険だってある。絶対に彼らを守らなければならない以上、自分がこいつらに負けることも、死ぬことも許されない。
 生き残るために。戻るために。何とかこいつらを斃す方法を考えなければならない。

「ご安心を。既にあなたはその術を手に入れておられる。後は実践し、その糧をもって成長なされるだけ。……なに、そう難しいことでもありません」

 少なくともあなたにとっては……最後にそう締めくくった言葉に、含む物言いがあろうことは間違いなかった。
 ヨシュアが告げてくるその言葉の意味。それは深く追求することは避けたい、藤井蓮にとっては忌むべきものであるはずだというのは、彼自身にも察することは出来ていた。
 それでも、それだけはあえて考えないようにしていた。それを促す自身を蝕む衝動すらも、こうして無理矢理に押さえ込みながら。
 そう、それは絶対に許されていいことではないから。
 しかし――

「奪いなさい、他者の魂を。それを糧に、我々と同じ位階にまで辿り着かれること。まずあなたはそれを優先されるべきだ」

 躊躇うことでも恥ずべきことでもない。
 何故なら、それは我らの誰もが等しく通ってきた道なのだから。
 超人の秘法たるエイヴィヒカイト。魂喰らいを重ね続けるその業は、我々にとっては当然のものに過ぎない。

 ――そう、最も忌むべきそんな言葉を、ヨシュア・ヘンドリックは平然と促してくる。

「凡そあらゆることに共通することでしょう? 積み上げてきた経験は、決して本人を裏切らない。あの方の秘法は基準を底辺には合わせておられない融通の利かないものですが、それでもそれ故に、確かな実績を証明なされている」

 ペラペラとまるで我が事のようだと言わんばかりに誇らしげに喋りだす道化。
 酷く耳障りで不愉快……ああ、それに間違いはない。

「選抜された者たちは、皆すべからくそうあるべくしてなった超人です。
 ツァラトゥストラ、あなたもまたその一人……いいや、あなたに比べれば、それこそ我らも有象無象の凡俗も同然。あの方の後継であり、彼女の番いであるあなたこそが真なる超人となるべき器なのですから。
 それこそ造作も無い。ええ、あなたならば直ぐに辿り着けましょう。我ら獣の爪牙のことごとくを抜き去り、それこそあの黄金の獣と並び立つ高みにまで――」

「――うるせえ」

 耳障りで不快この上ない、これ以上は一秒だって聞く気もない的外れなおべっか。
 何よりも、藤井蓮の禁忌に平然と踏み込んであまつさえそれを強要させようとするその態度。
 何もかもが気に入らない。この男のくだらない口上に、これ以上一秒だって付き合ってやるつもりなどない。

「……何か私が気に障るようなことを言ってしまいましたかな?
 であるならば、謹んで謝罪を――」
「うるせえって言ってんだよ!」

 この期に及んでこの男は、まだ藤井蓮が何故怒りを顕にした理由すらも理解していなかった。
 こいつらにとっては、他人などどれだけ殺そうが、踏み躙ろうが、歯牙にもかけぬ、そんな奪って当然の存在だという認識なのだろう。
 故に蓮は、相手のその忌むべき異常な傲慢さが許せなかった。
 叫びながら、蓮は反射的に感情に任せてまだ黙らない相手を強引にその口上を打ち切らせようと、拳を振り下ろす。
 それは確かに常人から見れば常識外れな速度を有する打撃だっただろう。
 しかし理外の法に強化された超人たる同じ聖遺物の使徒からすれば、決して躱すことも防ぐことも出来ぬ一撃などではなかった。
 そうであるにも関わらず――

「マスターッ!?」

 それこそその光景を、思わず信じられぬと言った様子で、櫻井螢が彼女にしては珍しい叫びを上げていた。
 しかしそれも無理はない。それは螢にとっても、他ならぬ拳を繰り出した蓮本人からしても、およそ予想の埒外だったと言ってもよかった。
 そう、蓮に殴りかかられたヨシュア自身が、避ける事など造作も無いはずのその一撃を、まるで甘んじるかのように受けて、殴り飛ばされたのだ。

 咄嗟に螢はそれこそ反射的に、憎き仇とはいえ同胞たる師が攻撃を受けたという事実に動きかけるも――

「案ずるな、レオンハルト。大事無いよ」

 即座に彼女に制止を呼びかけながら、徐に立ち上がるヨシュア・ヘンドリック。
 頬を殴られるという本来ならば、相手方の無礼そのものである態度にすら憤りを見せる素振りすらもなく、そのまま再び蓮の前にまで進み、恭しく跪いた。

「ご無礼を働いてしまったようで、大変申し訳ありませんでした、ツァラトゥストラ。
 そして……どうやら、私の言い分があなたのお気に召さなかったという事実を深く反省させていただくと共に、一度この場を辞させていただいた方がよろしいかと判断しました。
 お話の続きに関しては、後日、再会したその時に。改めて、その時は此度のような失態の愚は犯さぬ様に肝に銘じておきますゆえに、どうかお許しを」

 深々と頭を下げ、真剣に主の慈悲へと縋るかのように言葉を並べ立ててくるその男の姿に、それこそそれを傍から見ていた櫻井螢もそうだが、真正面からその感情を一心に向けられている蓮もまた、言い知れぬ得体の知れない気味の悪さを感じた。
 それはまるで、蓮を通して蓮以外の別の誰かに謝っているようにも見え、蓮にしてみてもとてもいい気分とは言えなかった。
 本来ならば、相手のそんな言い分を受け入れるなどもっての外であり、この場でこいつらに訊きたい事も、ハッキリさせなければならないこともあり、逃がすことなど出来るはずがなかった。
 にも関わらず咄嗟に呼び止めることを蓮に躊躇わせたのは、ある意味においては有無を言わせない相手のその不気味な態度のせいだった。

「では、今日のところは我らもこれで。帰還しようか、レオンハルト」
「しかしマスター……よろしいのですか?」
「構わんよ。未だ彼に関しては様子見というのは決定事項であり、猊下の了承も得ている」

 故に何も問題はない。帰還を促す師の言葉に躊躇いを見せる螢に対し、ヨシュアは弟子へと言い聞かすように告げて、蓮に向かって背を向ける。
 ここに至り、漸く気圧されていた蓮は正気を取り戻すと共に、去り行く彼らの背を呼び止めようとしかけるも――

「――それでは三日後、もう一度改めてその選択をあなたへと委ねたいと思います。
 その身を苛む衝動と改めて向かい合われながら、もう一度良くお考えください」

 何が正しい選択で、どうすればこの先に生き残ることが出来るのかを。
 提示する三日の猶予の間に、もう一度よく考えろと告げながら。
 ヨシュア・ヘンドリックと櫻井螢は、藤井蓮の目の前から去って行った。



 そうして、その場に独り残される結果となった藤井蓮は、半ば事態の成り行きに呆然と暮れる他になかった。
 みっともなく喚いて、拒絶しながら、しかし奴らを止める術もなく、猶予すら与えられて見逃されて……

「……一弥」

 仲間の安否、その確証すらも得られずじまい。
 無論、櫻井螢の言ったことを信じ切っているわけではない。そもそも自分で見たことしか信じない性分の自分が、あんな女の戯言を信じる道理などありはしない。
 そう、信じない。信じてなんかやるものか。
 あいつはまだ死んではいない。絶対に、死ぬはずなんてないんだ。
 櫻井螢の言ったことなど嘘っぱちだ。あの女はこちらの動揺を誘い、そこにつけ込もうとデタラメを言ったに過ぎないはず。
 沢原一弥は死んでいない。死んでいるはずがないんだ。

「そうだよな、一弥?」

 頼むから、そう信じさせて欲しい。無事に生きていると、そう安心させて欲しい。
 大切な日常の一部たるあいつが、こんなにも早く、それも呆気なく奪われたなんて……そんなことは、あっていいはずがない。

「信じてる。……信じてるから、早く――」

 ――頼むから、早く戻ってきてくれよ。

 香純と一緒に、俺の帰るべき陽だまりとして待っていてくれよ。
 おまえらをちゃんと背中に背負っていないと、俺は――安心して、命懸けで奴らと戦えない。
 死んでも非日常の底に落ち切らないという、諦めの悪い根性も発揮しきれない。
 だから頼むから――

「――ぐっ!?」

 瞬間、首に走る斬首痕より再び湧き出てくる溢れんばかりの殺戮衝動。
 堪らず膝を着きながら、けれどそれに抗うべく必死に押さえ込む。
 この衝動に負けるわけにはいかない。奴らの唆して来た行為なんかに絶対に手を染めてはならない。
 敵である奴ら以外を害することなど、死んでも拒むというように、ギロチンから湧き出る衝動を頑なな鉄の意志で押さえ込み続ける。
 どれ程の間、そうして必死になりながら蹲っていただろうか。十秒、二十秒、或いは一分?
 それこそ体感時間では永劫とも思えるほどに蝕まれたように感じながら、今度も何とか暴発させずにギリギリで押さえ込んだ。
 ……とはいえ、それもまた気が触れる寸前の我慢にも等しかったが。
 いったい後何度、どれだけ自分はこれに耐えねばならないのだろうか?

「……三日後、か」

 奴らがもう一度自分にコンタクトを取ってくるまでに、与えてきたその猶予。
 正直、後三日もこれに耐えねばならないというのは、それこそ発狂してしまいそうな程に自信すらないが、かといってそれに屈するわけにもいかない。

「……何とか、何とかしないと」

 この振り回されている衝動をどうにかして押さえ込んで、そしてまだ遥かに及ばぬ化物たる、奴らに迫れるだけに力をつける。
 考えれば考えるほど、それは途方も無いことのようにも思えたが……

「……それでも、やるしかないんだ」

 逃げ場所なんて何処にもなければ、逃げるわけにもいかない。
 この街で、あの化物どもと唯一対抗できる存在が自分ひとりである以上。
 自分がやるしかない。自分ひとりでやり遂げるのだ。
 元よりそれこそが、藤井蓮の戦いだ。
 そう決意を抱きながら、まだ教室に香純は残っているかどうかを心配しながら戻るために蓮は歩き始めた。
 もう二度と、最も関わらせてはいけない存在である彼女との、これからの距離の取り方をどうするべきか迷いながら……






 ヨシュア・ヘンドリックは震えていた。只管に歓喜に震えていた。
 そう、今この瞬間にこの身の内を震わす衝動はただそれのみだった。
 人生においてこれ程の至福を感じたのはいつ以来だろうか?
 もう随分と永き延命を繰り返し、いい加減に魂も劣化限界が近づき始め、いずれは自壊衝動で先もなく滅びるであろうと予期しながらも。
 それでもこの人生、確かに長生きはしてみるものだという実感をしみじみと感じ始めていた。
 それほどの歓喜をヨシュアへと齎したその理由……それは当然たった一つだ。
 ヨシュアは満足気に、どこか恍惚としているかのような表情も顕に、自らの頬へと触れる。
 それは先程、藤井蓮が怒りを込めて拳を叩き込んできた部分である。
 それをまるで愛おしむように、ヨシュアは甘美なる情を噛み締めながら、先の事実に心を震わせられていた。

 ――手をあげられた。

 余人ならば凡そ正気を疑うことではあるが、それを自らに振るわれたという事実にヨシュアは歓喜していたのだ。
 そう、初めてだ。初めてだったのだ。
 ツァラトゥストラ……偉大なる師の被造物が自分に干渉してきたというその事実が、ヨシュアの心を喜ばしていた。
 ヨシュア・ヘンドリックは心からメルクリウスへと忠誠を誓っている彼の下僕である。彼の意思に従い、彼の考えに沿い、彼のために全てを捧げる、彼の人形……道具である。
 アルベルトゥス・マグヌス。自らの黒円卓での称号、この魔名とて、かの偉大なる師の数多ある名の一つより、役割を持って与えられた、ヨシュアにとっての最大のアイデンティティである。
 故に、彼はメルクリウスの従僕であること、そして彼の悲願成就の為の道具の一つであることに誇りを抱いている。
 しかしながら、それは言ってみれば一方的な彼からの主へと向ける思いに過ぎない。

 カール・クラフト=メルクリウスは、この世の全てを見下している。

 正確に言えば、この世の全てに絶望し、見切りをつけ、万象のことごとくに一切の価値を見出していないわけではあるが。
 それは無論、従僕であり道具である彼に尽くすヨシュアと言えども決して例外ではない。
 かの闇の水星が興味・関心を抱き、執着を持つ存在などこの世においては盟友たる黄金の獣と、そして至高の宝石たるかの斬首の歌姫のみである。
 それら以外の全てに、メルクリウスは価値を見出してはいない。執着を抱くことも無論無く、恐らくは意識の端に留め残しておくことすら稀であろう。
 ヨシュア・ヘンドリックはメルクリウスの従僕であり道具、怒りの日の実現をスムーズに達するためだけに用意された道化であり舞台装置である。
 ただそれだけだ。それだけの存在に過ぎず、決してそれ以上にも以下にもなりえない。
 道化として、舞台装置として、確かにその役割を、機能に信頼を寄せている部分はあるだろう。しかしそれとて、道具が本来持つその役割と機能を当然のように発揮するのが当たり前であると信じる、そんな認識に過ぎないのだ。
 有象無象の塵芥。役に立つのは当然であり、この怒りの日に使い潰すためだけに存在する単なるツール。
 敬愛する主にとって、自分の存在とは正に本当にその程度の存在に過ぎないのだ。

「ああ、それで構わないさ。私はそれで一向に構わない」

 単なる従僕、単なる道具、単なる道化であり舞台装置。
 いずれは平然と、例外なく切り捨てられるそんな存在。
 己の存在意義など、その程度のものに過ぎない。それこそ他者にとっては滑稽以前の、狂いに狂いきった信仰の果てにある滅私だ。
 だがそれでいいのだ。それを主は望んでいるのだ。
 そうあるように機能して、やがてはそうあるべくして終われと、そう命じられているのだ。
 是非もない。この上もなく、それは是非も無く彼にとっては進んで受け入れるべきことだった。
 それで主が救われるというのなら、それで我らが夢見た女神の創る新たな地平が誕生するというのなら――

「――喜んで、私は礎となろう」

 否、己だけではない。
 皆、そうあるべきだ。そうあるべくして終わるべきだ。
 共に死のう、永遠に死のう、皆死のう。
 そうあるべくして全てを御創りに主はなられた。なればこそ、皆それを逆らうことなく受け入れるのは当然というものだ。
 故にヨシュアに迷いはない。躊躇いもない。主の望みたる全ての終わりを、怒りの日に進んで滅びる存在となるために、その為だけに進み続けている。
 例えそれが、主が我が身など気にもかけずに忘我の彼方へと置き去ろうとも、それは変わらない。
 出来れば我が身の最期を見届けてもらいたいとはいえ、あの方がそんなものを気にも留めずに放っておくことくらいは予想が出来ていた。
 恐らくは最期まで、自分は主に期待はおろか意識もされずに、ただ当然のように役目だけを終えて潰える存在と認識されることだろう。
 ずっとそう思っていたし、別段それに不満はないつもりだった。
 しかし改めて……そう先程、かの主の代替と接し、その怒りに触れたことに彼は思いも寄らぬ歓喜を抱かされたのだ。
 ヨシュアが代替たるツァラトゥストラを通してメルクリウスを見て、そして信奉していることは言うまでもない。
 当然、ツァラトゥストラがメルクリウスの代替であろうとも、似て非なる存在ということくらいは、彼の狂信でも区別は出来ている。
 だがそうであろうが、彼にとっては関係ない。ツァラトゥストラもまたヨシュアにとっては忠誠を捧げるに等しい存在であることに変わりはないのだ。
 あれはメルクリウスではない。しかしメルクリウスの意思を代行する存在であることに変わりはない。
 彼に意志など存在しない。彼の愛も友情も絶望も、血も涙も何もかもが全てメルクリウスのためにあることを承知している。
 ならば、彼もまた自らの主である。彼の行動とは、そのすべからくが主の目的に沿うためのものであり、彼の感情とは、主がその目的を成就させるために用意した、主の脚本に則った主が望んだその発露である。
 直接と間接の差異こそあれ、全てはメルクリウスの意思が反映した結果であることに変わりはないのだ。

 先程、ヨシュアはそれに触れたのだ。
 ……触れることが、出来たのだ。
 それ故の歓喜であり、その初体験ゆえに震えている情動である。
 今まで一度たりとも、微塵も向けられることはなかったはずの、主の意思。
 程度はどうであれ、取るに足らぬ一端に過ぎなかろうとも、今まで一度たりとも欲したところで与えられなかったそれが、自分へと下された。
 心震えるというものである。歓喜が止まらぬのも当然。身に余る光栄は、既に未来永劫を代価として差し出してすら、惜しくはないとすらヨシュアに思わせていた。
 それが例え恐らくは既知であろうとも、これならば何億回すら飽きることもなく味わいたいと思えるような、そんなものだった。
 故に、彼は改めて決意をするのだ。

「安心なされよ、ツァラトゥストラ。あなたが憂うことも恐れることも何もない。
 あなたは決して負けぬし、この怒りの日の実現を失敗するなどということもありはしない」

 そう、私がさせない。そのようなことは、私がいる限り絶対にさせない。
 故に誓おう、そして捧げよう。
 あなたへの忠誠と、その勝利を。
 私があなたを導き、あなたを主が待ち望んでいるその高みにまで押し上げよう。

「あなたは超越する人の理であるゆえに」

 故に私が。
 必ず私が――

「あなたを――押し上げよう」

 その為ならば、いかなる手段もいかなる犠牲も厭わない。
 結果的に、新世界をあなたが切り開くそのためならば。
 あらゆる方法を用いて、その実現のサポートへと勤しませてもらおう。
 故に――







 故に、既に己には他の選択肢はない。
 否、仮に他の選択肢が用意されていたとしても、結局はこれを選び取るだろう。
 何故ならこれが、彼の希望に最も沿う結果を出しえる可能性を有していたから。

「……尤も、それ故にまた失ってしまうものも多くなりますが」

 しかしそれもまた取り戻す。
 どれ程の時間とどれ程の代償を払おうが、此度に失うものの全ては、いずれまた必ず取り戻す。新しい代償を再びに支払ってでも。
 そしてそれも取り戻す。ならばまた再び……
 それは考えれば考えるほど、求め続ければ求め続けるほどに、繰り返されて決して終わることのない狂った円環である。
 それこそ正気の沙汰ではない。当然だろう、未来永劫に終わりのない連綿と続く贖罪などというものは、そもそも存在するべきものではない。
 それも当たり前のことである。そこに未来も希望もないのなら、その苦行の道は何を心の寄る辺として進み続ければいいのか。
 贖いというものは、そもそも自らを救うためにあるべきである以上は、そこに救いが存在しなければ行者が歩を進める活力をもまた生まれない。
 結局のところは自らの心を救う代償行為であるべき以上、報われる何かがあって然るべきと望むことは、確かに恥ではないのだろう。

 ――しかしそれは度し難き甘えと欺瞞だ。

 自らを救うため?
 何を馬鹿な。ありえない、浅はかだ。そんなものがあっていいはずがない。
 少なくとも、ヴァレリア・トリファはそのようなものを求めない。
 自己愛から得られる祝福などというものは存在しない。そのような浅はかなもので、仮にもそれを得られたと感じる者がいるとするならば、そんなものは単なる偽物である。
 ヴァレリア・トリファはそれをよく知っている。その果ての結果を、今尚も永劫の業として背負い続けているのだから当たり前だ。
 しかしこの罰は彼にとっての当然の報いだ。背負った十字架の重さも、軋む苦行も、全ては彼が彼であったが故に、背負わねばならないものなのだ。
 これは己が弱さの、そしてそれから目を背け、逃げようとしたなどという度し難い愚行に与えられた当然の結果である。

そう、自らを救うなどと望むこと自体が間違い。

 浅はかな愚行の極み。真実の過ちたる原点である。
 そのようなことを思ったから、そのような結果を望んだから、そのようなものに逃げようとしたが故に、失ってしまったのだ。
 今でも脳裏にありありと蘇る。忘れることはおろか色褪せることすら許されぬ、彼の過ちの結果たる今へと至るその原点。
 彼が真実に心から愛し、故に守らねばならなかったはずの、大切な愛しき花たち。
 痛かったであろう、苦しかったであろう、辛かったであろう……

 ……そして、許し難かっただろう、私の選んだその選択。

 報いは受けねばならない。過ちは正されなければならない。
 罪は贖わねばならない。贖罪者の心を救うなどという戯けたためではなく、真実、犠牲となってしまった被害者を救うためだけに。
 己のためではいけないのだ。自己を惜しんで省みるような醜い愛は、そんなものはあってはならない。
 全ては他者に、捧げるべきは愛する者へ。滅私という概念なくして行わぬ贖いなど、塵屑以下の偽りだ。
 そしてそれは……被害者たちすらもそこに同列に堕する許されざる愚挙である。
 そんなものをヴァレリア・トリファは許さない。断じて許すことなどありえない。彼が真実心の底より愛した花を、そのような存在にすることなど出来るはずが無い。
 故に、彼の贖いに自身を救うなどという卑小な概念が差し込む余地はないし、そのようなものを抱くことすら許しはしない。

 この身は許されざる罪人。
 未来永劫、決して救われぬし、救われていいものではない。
 この贖いの道が救うのは自己などではなく他者。彼が愛した真実を取り戻すために必要な行いなのだ。
 全てに優先し、省みることなく、必ずに成し遂げねばならぬ、彼自身の狂気(せいぎ)。
 邪なる聖道……ああ、そう嗤いたいのならば、幾らでもそうしてくれればいい。甘んじてそれを自分は受け入れよう。
 だが例えそうであろうが、自分は立ち止まらない。果てにある破滅に至るその時まで、狂気の円環の中で、自らの存在意義を愚直に行っていくのみ。
 その為の、始まりとして――


「……ヴァレリア?」

 不意に呼ばれたその声に、ヴァレリア・トリファは内面に沈む思考の奥底から、その意識を外界にまで浮上させる。

「……ああ、リザですか。どうかなさいましたか?」

 努めるまでもなく自然と表情に浮かび上がるのは、いつも通りの人畜無害を絵に描いたかのような神父としての笑みだった。
 それは彼の常における仮面と同時に、ヴァレリア・トリファという存在の持つ素の表情でもある。
 事実、他のどのような表情を浮かべるよりも、この柔和な笑みを浮かべるのがトリファにとっては一番の自然体ともなっていた。
 余人の誰もがこの笑顔を彼の真実と受け入れ、彼という存在を神父という相応しい定義にはめ込んで認識する最大の補助機能でもある。
 ……尤も、

「また新しい悪巧み? あなたも余念がないわね」

 どこか呆れたように、否、嫌悪するようにそんな棘に満ちた言葉を返してくるリザ・ブレンナー。
 彼女を前に、この笑顔に意味は無くなる。それは恐らく彼にとって愛娘同然である、かの少女に対しても同じだろうが。
 そこにあるのは小さな拒絶を含んだ、冷たい嫌悪。藤井蓮たちの前で見せていたような同じく辛辣ではあっても親愛の暖かさがあったやり取りとは雲泥の差の別物だ。
 しかしそれはある意味では当然のこと。そもそも客人を前に今の自分たちの関係を見せること自体があってはならないのだから当たり前だ。
 リザも玲愛も、その本心は己を嫌い拒絶していることくらいは、飄々とした態度を崩さないのとは裏腹に、神父とて重々に理解していた。
 しかしそれも仕方なきこと。それだけ彼女たちに嫌われて仕方ないことを、自分はこれまでに積み上げてきたのだ。
 ……そして恐らくこれからも、自分はそれを積み上げ続ける。
 結果、彼女たちには益々嫌われる。彼女たちを愛するが故に行う選択で、他ならぬ彼女たちからの愛が、己からは遠ざかる。
 ままならないものである。それが己にとっての業であることを承知の上であろうとも、愛する者に嫌われる寂しさを殺しきれるほどには、まだ自分は人を辞め切れていないというそれは証だろう。
 度し難いと、そう正直に思える。己がその甘さは欺瞞であり逃げだ。いずれ早急に矯正の必要がある、彼にとっては看過できぬ部分ではある。

「……テレジアはどうしていますか? もう眠ってしまいましたか?」

 それでもあえてその部分をこの一時は放置して、そんな疑問を彼女に対して投げかけたのはどうしてだろうか。
 それが人外の魔人を率いる者として発した問いだったのか、それとも彼女の父親であろうと出来る限りに努めてきた人間としての問いなのかは、正直トリファ自身にも判別できていなかった。

「ええ。もう眠ってしまったわ。明日も学校があるのだもの」

 リザ・ブレンナーがトリファに対してそう答えたのは、はたして如何様な立場でであったのだろうか。
 氷室玲愛の母として、或いは姉として。
 もしくは……

「そうですか。それは残念ですね、ここのところあまり彼女とゆっくり話す機会がなかったので、少しくらい話をしてみたいとも思っていたのですが……」
「あの子とあなたが何を話すって言うの? あの子に振れる話題もなければ、あの子から振ってくれる話題もないでしょうに」

 それは確かにその通りだと、彼女の指摘を認めるようにトリファは苦笑する。
 事実上の父娘関係の立場であれ、トリファと玲愛では父娘らしい会話を互いに交わすことすらも難しい。
 昔ならばいざ知らず、彼女もまた物事の分別を知るくらいには大きく成長した。喜ばしくも悲しきことに、そうである故に、昔のような純粋な関係にはもはや戻れぬのも明らかだ。
 物悲しいと正直に思う。子離れが出来ていない父親というのは、まさに自分のような男なのだろうなとトリファは自覚する。

「時々、そういった部分ではあなたが羨ましくも思い、そして同時に感謝もしているのですよ、リザ」

 これは得意の諧謔ではなく本心のつもりだ。
 少なくとも、今日まで玲愛が人並みの人生を享受できていた最大の功労者は、彼女の傍を離れずに、常に彼女を慈しみ育ててくれたリザ・ブレンナーその人であろう。
 世間一般から見れば充分に、素直で優しい立派な淑女へと彼女を育ててくれた。トリファはその一点を、リザに心から感謝していたのだ。
 玲愛が今のところもちゃんと日常を過ごせているのは、彼女の存在があってこそだ。

「……随分と遠回しな嫌味を覚えたものね、あなたも」

 しかしそんな神父の謝辞に対しても、シスターの彼へと対する硬質な態度に変わりはない。
 否、むしろ先の言葉によって険の深さが若干に増したと言っていいくらいだろう。

「困りましたね。先の言葉は本心からの言葉通りの意味ですよ。他意はありませんし、そのように邪推されるのは、正直悲しいですね」
「……そう。だとするなら、それは悪かったわね」

 どこまで信じて納得してくれたのかは分からない。だが、表面上は理解を示して険を治めることにしてくれたのにはホッとした。
 別にトリファとて好き好んで彼女との関係を悪化させたいわけではない。これでも本人には信じてもらえぬだろうが、彼女のことは数少ない古き友人として尊重しているつもりだ。
 むしろ、こうして玲愛も含めたこの教会での関係を表せば、偽りの擬似に過ぎなかろうとも掛け替えのない家族であることに間違いはないのだから。

「……でもね、私にも私で思うことはある。あなたは偽善と笑うかもしれないけどね、この十一年は、私にとっても決して偽りのつもりはなかったわ」

 最終的に、他ならぬ娘同然の彼女を傷つける結果となるのは承知の上でも、この十一年間でリザが彼女に注いだ愛に偽りはない。
 それは今も昔も……そして来るべきその日まで、決して変わらぬつもりだ。
 リザ・ブレンナーは氷室玲愛を愛している。ああ、そこに如何程の偽りとて決してありはしない。
 そして偽りなどないからこそ……

「心が痛む……心中を察するとは言えませんし、私の賛同を求められるなど迷惑でしょうから申しませんが、それでも……リザ、あなたの心が複雑に揺れているのは見ていて分かります」
「偽善者の醜い手前勝手な無様さでしょ?……軽蔑してくれてもいいわよ」
「いいえ、しませんよ」

 確かに彼女は偽善者だ。同胞達の誰もがそう認識して嘲笑っているように、トリファもまたリザを偽善者だと認めている。
 玲愛に関すること故に、決して互いにその心情を許容し合うなどということは間違っても出来ない。
 しかしながら、トリファとてそうだからといって彼女の贖いを全否定しようとは思っていない。
 ベクトルと価値観はどうであれ、どこまでいこうが自分たちは同じ穴の狢である。
 同じように贖いを胸へと抱き。同じように娘のことを愛し――


 ――しかし決して、それ故に、同じ選択を絶対に選び取ることはない。


「もうお休みなさい、リザ。あなたも明日も早いのでしょう?」

 早起きは苦手だというのに、学校へ行く玲愛のために付き合って、それに合わせて料理の出来ない玲愛のために朝食を作り、そしていつも笑顔で学校へと送り出す。
 それは正しく世の正常なる母親像。リザ・ブレンナーは氷室玲愛へと愛をもって尽くしている。
 そこに異論は挟めないし、トリファ自身もまた挟ませるつもりなどない。

「……ええ、そうね。もう休むわ。おやすみなさい、ヴァレリア」
「ええ、お休みなさい。リザ」

 結局は有耶無耶のまま、心の蟠りに何一つの解決を見出せないまま。リザとトリファのこの会話による結果など、目を背けたいはずの未来を重く再認識したそれだけだ。
 故に軽い失望を挟んだままに、どこか随分と年老いた老婆のような気疲れすら垣間見せながら、自分の部屋へと戻るために去っていくリザ。
 トリファは変わらぬ笑顔と態度のまま、それを一人静かに見送るだけだった。


 そうして――

「――ですがねリザ、やはりあなたと私の選び取る道は、決して相容れぬものとなりそうだ」

 そうして一人残されたヴァレリア・トリファは、その場で静かにやがて徐にそう呟いた。
 期せずした彼女との会話。改めて認識した互いの目指す先と、その価値観。
 結果、思うことはやはり相容れぬというその一点。
 改めるまでもなく、トリファの狂気(せいぎ)とリザの偽善(せいぎ)は相容れない。
 愛するが故に、そして全ての罪を生み出した責任として身内を差し出すことを選んだその贖罪と。
 愛するが故に、同じ過ちでもう一度愛児を悪魔に捧げることを決して受け入れないその逆心とでは。
 相容れぬ、故にその先へと向かって選び取る道もまた同じようには歩めまい。

「……リザ、決してあなたは私を許さないのでしょうね」

 いや、そもそも許せるはずがないだろう。
 自分が選び取ろうとしているのは、彼女が唯一その偽善を持ってそれでも守りきろうとした、彼女にとっての真実の愛なのだから。
 それを暴き出し、利用し、代わりに捧げて踏み躙ろうとしている。
 古き友であり、妻や妹のようとさえ思った女の、最も大切なものを自分は奪い取ることを既に心で是と決めてしまっているのだから。

「……私にせめて出来ることといえば、彼女たちに悟らせぬようにするくらい」

 酷い偽善である。それこそ彼女を偽善者などと罵ることは決して出来ないだろう。
 だがたとえそうであったとしても、自分もまた譲れぬ道なのだ。
 ヴァレリア・トリファもまた氷室玲愛を愛している。
 故にこそ、決して彼女だけは――

「ですが安心してください、リザ。私の贖罪は未来永劫に繰り返されるものなのですから」

 此度は申し訳ないが、犠牲として捧げさせてもらう。
 しかし、此度の犠牲もまたいずれ自分が贖い、必ずに取り戻してみせる。
 永劫に、繰り返し、何度も何度も何度も何度も何度も何度も――

「――ええ、何度でも。何度でも何度でも何度でも私は救い続けて見せましょう」

 決して、諦めもしなければ投げ出さない。途中で逃げ出すことすらも二度とない。
 この邪な聖道をもってして、未来永劫の贖罪を繰り返し続ける。
 ヴァレリア・トリファ=クリストフ・ローエングリーン。
 黄金の代行。全てを飲み込む黄金の影。
 その姿を見た誰もが、恐らくは彼の破綻しきっているその正気を疑おう。
 しかしその行為ほど無意味なものもない。
 何故なら彼には、既にもう正気などと言う贅沢なものを抱く余地などありはしないのだから。

 贖罪という狂気に囚われ、自己の愛するものこそを真なる破滅へと導く聖人。
 その矛盾した在り方、破綻している論理、盲目なまでの愛。


 ――故にこそ、他の追随を許さぬほどの甘美な旨味を我らへと見せてくれる。


 ああ、故に面白い。
 飽き果てぬ。或いは、最後までと、その狂気(せいぎ)を見届けてしまいたくすらも思わずなってくる。

『励めよ、聖餐杯。その卿の足掻き、私やカールにとっての或いは至上の慰みともなろう』

 自らのお気に入りの愛児の姿をそう評価しながら、黄金の獣は自身が影となろうとしているその存在へと、心からの愉しげな笑みを向けていた。


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