「聖槍十三騎士団黒円卓第四位、ヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイだ。名乗れよ、ガキ。戦の作法も知らねえのか」
高らかに己が名と属する集団の名を名乗り上げる。
それは古来より続く、戦いに正当性と神聖さを求める為の一つの作法。
ヴィルヘルム・エーレンブルグにとっても慣例に等しいそれではあるが、それでも半世紀ぶりの黒円卓としての戦なのだ、名乗らぬ訳にもいかない。
そしてこちらがこう名乗る以上は、この名とこの座に対峙するに相応しい資格と気概を相手もまた見せなければならないのはもはや義務に等しい。
尤も――
「生憎と……知らないな」
慣例だろうが流儀だろうが、義務だろうが資格だろうが一切関係ない。
あちらにとっての正当性が何であれ、侵略者にこちらから合わせてやる心算など微塵も無い。ましてや、こちらの素性がばれるような情報を知られてしまえば、それは自分に関わっている者たちすら芋吊る式に巻き込まれかねない危険性がある。
故にこそ、きっぱりとした口調で吐き捨てるように藤井蓮は相手の要請に明確な拒絶を返した。
「名前を知りたきゃ吐かしてみせろよ、白髪野郎」
「――面白ぇ!」
劣等に戦の作法を求めること自体がそもそもの間違いだったか……であるとしても、切り返してきたその気概だけは気に入った。
ならば上等、遊んでやろうじゃねえか……カズィクル・ベイの嬉々とした鬼気は明確な殺気へと姿を変えていく。
野獣の咆哮めいた叫び、そしてそれと共に相手から繰り出されてくる右の掌底。
いや、それはむしろ鉤爪。獲物に突き立て引き裂かんとする獣の繰り出す致命の一撃。
直撃すれば即死は免れない、であるからこそ空を切り裂き迫る相手のソレを、蓮は胴をねじ切る勢いで身体を捻りながらギリギリで回避――
「ぐぅ―――ッ!?」
――否、完全には躱しきることは出来ず、ほんの僅かだが掠ってしまう。
だがそれだけでごっそりと服の胸元が引き裂かれたかと思えば……信じられぬことにそれだけでは収まらず、背後の街灯が握り潰されて圧し折られていた。
明らかに人間業ではない相手の膂力。先の信じられない頑強さとも合わされば、ますます対峙する相手の化物具合が顕著にもなってくるというもの。
「はははっ」
カズィクル・ベイは己が手で作り上げた結果に戦慄する相手を見ながらただ笑う。その気になれば追撃をかけて相手を屑肉に変えることなど造作も無い。それでもあえてそれをしないのは、この遊びという現状と先程に相手にも言ってやった手加減というルールを己に課せていればこそ。
だからこそ後退して距離を取る相手をただ愉快気に見ながら笑うのだ。
一方、藤井蓮からしてみればそれは舐められているにも等しい現状ではあったが、同時に僅かと言えども付け入るチャンスであったのも事実だ。本気になられる前に突破口を見つけ出す……蓮の取るべき選択はそこにしかない。
攻撃は絶対に喰らうわけにはいかない、これは前提条件。次にあの相手の出鱈目な頑強さだが……幾ら堅いとはいえ目や関節のような鍛えようもない急所は必ず存在するはずだ。
そこを何とか突く……戦術と算段を冷静に取り纏めながら動こうと思ったその時であった。
「へぇ、こりゃあ驚きだ。さっきに続いて二度連続かよ、ド素人に躱されるほど手ぇ抜いた心算も無かったんだが……俺が日和っちまったのか、それともおまえがやるのか――」
――どちらにしろ、まだまだ遊べそうじゃねえか。
ニヤリと笑いながら更に密度の増す相手が発するプレッシャー。当てられて怯みそうになるのを必死に抑えながら蓮は相手の挙動を見逃さぬよう全神経を集中させる。
その様子にそれでいいと笑いながら、ベイは告げる。
「おい、次はもう少し速くいくがよぉ……てめぇ、簡単に死ぬんじゃねえぞ?」
宣告と同時、ゆらりと弛緩した動きを取りながら再び侵攻を開始したベイ。
その動きから蓮が抱いたのは一つの確信。
こいつは格闘技だとかそんな上等なものではないというその一点。
ただ無暗に速く、異常に重い。習って覚え、修めたような努力次第で誰でも辿り着けるような境地、技術体系には目もくれぬ、血濡れで叩き上げたかのような暴力。
恐らくこの男は練習や修行なんてしたこともなければ、そんな上等な概念すら持ち合わせてはいないのだろう。
仮想敵など百万殺そうが所詮は仮想。実戦こそが全て。
工夫は弱者の特権だと言わんばかりのその型も何も無い力任せなだけの一撃は、如実に強者独特の傲慢さを滲み出させていた。
蓮の脳裏に過ぎったのは二ヶ月前のあの屋上。
血濡れで自分たちとの縁切りを告げたふてぶてしい馬鹿の顔。
……ああ、良く知ってる。てめぇみたいなタイプと戦うのなんて何も初めてじゃない。
だから――
――死ぬ気で躱せ。
まず活路はそこから見出す。頭の命じる指示に従い、胸骨ごと心臓を抉り取らんと放たれた相手のその一撃を、脇の下へと通してロック。
極めたら折る、躊躇いを抱かずにそれを実行するべく即座に渾身の力を込めるも――
「で?」
「――ッ!?」
スピード、タイミング共に完璧であり二度は同じことも出来ぬと思って成功させたはずの完璧ともいえたカウンターであったはずだった。
……しかし、相手の挑発と共に促がしているその誘いとは対称に、折るどころかまるでビクともしていないと言うこの現実に蓮の顔に驚愕が走る。
体格にだってそう差があるわけでもない。にも拘らず崩すことすら出来もしない。鋼の芯でも通しているようなその相手の関節の強度に蓮が信じられぬといった面持ちで臍を咬んだとしてもあるいはそれも仕方なかった。
だがそれはベイからすれば拍子抜けであったのもまた事実。故に続く言葉に含まれていた感情などただただ失望のみ。
「取らせてやってこの程度かよ。こりゃあ見込み違いだったか?」
出来るものならば腕の一本も景気づけにくれてやるのも許してやろうかとは思っていた。傷つく可能性が……死へと近付く要因あってこその戦なのだから、それを与えてくれると言うのなら是非もなかった。
だが結果はやはり無駄、肩透かしと言っていい相手の稚拙で猪口才であり非力なその様。……興が殺がれるし、正直萎えかけてもいた。
だがベイがそんな失望を抱く一方でさえ、蓮からすれば必死な抵抗をやめられるはずもない。ならばと、そのまま股間を蹴り上げる巴投げへと戦法をシフトする。
関節が駄目なら急所を潰す。これならば腕力の差も関係ない。
――しかし、怖気が走る音と共に潰れたのは藤井蓮の足の方であった。
「どうした、おい? これで終わりか? 根性見せろよ」
つまらなさ気な態度も顕に、薙ぐ様に刈り上げられるベイのアッパー。
蓮は咄嗟に腕を交差させて防ぐも――
「ガッ、グァ―――ッ!?」
威力を殺せず、そのまま吹き飛ばされる。脳をシェイクされた衝撃に、堪らず嘔吐感が沸き上がってくる。
思わず蹲って血反吐を吐き出す、ゼイゼイと荒い息を何とか整えようとしながら蓮は身体の被害状況を確認する。
先の一撃で両手が圧し折られ、金的を狙って蹴りを繰り出した足も逆に折られていた。最初の遭遇時に折られたアバラ、内臓に浸透してきたダメージも深刻化している。
これじゃあまったくあの時と同じだ。退院したばかりなのに随分と好き勝手にこちらの身体をぶち壊してくれたものだと理不尽な相手への怒りも沸き上がってくる。
(……だが同じってことなら、まだ――)
――まだ、やれる。
まだこれくらいの負傷、痛みは知っている。既知の範疇だ。
ならばまだやれる。まだ戦える。
立て、戦え――護る為に。
自らへとそう言いきかせ、闘志を奮え立たせながら藤井蓮は立ち上がった。
それを見たベイはただただニヤついた笑みと余裕を崩す様子も無く、再び陽炎の様な鬼気を発しながら、獲物を駆り立てる肉食獣のごとく襲い掛かってきた。
刈り上げるかのような下段からのクロー。それが頂点で制止したかと思えば間髪入れずに叩き落してくるバックブロー。横薙ぎの一撃に、再びの返し刃。
続く攻撃の数々は先のベイ自身の宣言通りに片手ばかりのもの。
にも拘らず、それは速く、鋭く、そして重い。一つ一つ、その全てに込められていたのは致命の威力のみ。
防御など不可能――掠っただけで肉を削ぎ、血飛沫を散らせていく死の旋風。
躱せない……いつまでも躱し続けられるレベルではない。
運動力学を端から無視した片腕だけの多角攻撃。それ自体が無茶苦茶なら、更に繰り出すそのスピードすらも徐々に上がっていっているのはどう説明すればいいのか。
ギリギリで一撃を蓮が躱すたび、次に繰り出す一撃をその速度を越えたものとしてベイが繰り出していたのは事実である。
彼からすればこれは遊びながらも測っているのと同じ。どれくらいの速度ならばまだ躱せるのか、次なるこの速度には対応できるのか、これが限界ならば少しは死ぬ気で超えて見せろ、と――。
既に目で追えるレベルではなくなった暴威の嵐の中、藤井蓮が頼れるのは勘――死線ギリギリで発揮される本能だけだった。
……だがどんな物事にも定められた限界というものはある。
最大限の本能を発揮し回避に徹する蓮の動きは確かに評価に値した。……しかしそれでもそれは所詮、常人の限界。ジリ貧は免れない。
そしてそれはとうとう彼を追い詰めるようにやってきた。
これまで一定のテンポで速度を上げながら繰り出されていたベイの猛攻。しかし彼自身も単調になった戯れに飽きたのか、埒も明かぬ現状への梃入れだったのか、やおら次の瞬間には一気に数倍の速度と化した一撃を叩き込んでくる。
それに蓮が抗える術はもはや残っておらず――
「がッ――!?」
直撃していれば間違いなく即死だった。故に、直撃を免れたのは運以外の何ものでも無い。折れた右足が自重を支えきれずに転んだ……無様なことだが結果的にそれによって命を救われた。
「おいおい、てめぇも男だってんならしゃんと立ってろよ」
偶然が起こしたその無様な回避方法が気に入らなかったといった様子で呆れたように倒れているこちらを見下ろしながら告げてくるベイの言葉に、蓮は即座に反応して飛び離れる。
足に力を込め直し、しっかりと直立し態勢を整えながら、相手が攻撃をいつ再開してきてもいいように身構える。
このままではいずれ負ける。元よりスペック差からして天と地ほどもの開きがあったのは事実だ。相手がこうして遊びで来ていなかった即座に殺されているのはもはや間違いない。
……そう、殺される。相手はこちらを殺す気できている。
殺す気できている相手をこちらも殺さずに如何こう出来るなどという甘い考えは……元より殆ど持ってはいなかったが、完全に捨てた方がいいだろう。
蓮が今までの覚悟とは別の質の覚悟を決め直したのを察したのか、それを見たベイもまた愉快気にその表情を更に喜悦へと歪ませる。
「漸く殺る気になってきたってわけか? 劣等の分際で、そもそも俺を相手にそんな甘い覚悟で臨んで来てる方が馬鹿げてるんだよ」
マジで殺すぞてめぇ、と挑発か警告か捉えるのも判断しかねる言葉を口汚く罵りながら、ベイは再びこちらへと向かって攻撃を再開しようと言うのだろう動き出し始める。
相手の動き、その一挙一足を逃さぬように集中して追いながら、組み上げた作戦と共に蓮は相手へと告げた。
「本当に死んでも……恨むなよ」
「上等だぁ! 殺れるもんなら殺ってみせろよ、劣等ッ!」
その挑発に自ら乗るように喜色すら浮かべながら迫り来るカズィクル・ベイ。
藤井蓮は身構えながらその動きをしっかりと捉え――
「……クソッ、マジで何処に行っちまったんだよ、あいつら」
苛立ち混じりの毒吐きが思わず漏れてしまうのも、この現状が何一つとして自分の願う方向へは転がってくれていないからだと沢原一弥は憤慨していた。
むしろ状況は最悪、都合の悪い方向にばかり転がり始めている。
「香純もいなけりゃ、どうして蓮までいねえんだよッ!?」
綾瀬香純を探す為、足代わりのバイクを取りにアパートまで一旦戻った時、一縷の望みも抱きながら香純も戻ってきているのではなかろうかと密かに期待していた。
だがそんな都合の良い展開などまるであるはずもなく、香純が部屋へと戻った形跡は無く……それどころか最悪なことに隣室の蓮までもが姿を消していた。
事情を話すかどうかはどうあれ、兎に角、彼女を探すのを手伝ってもらおうと思って寝ているだろう蓮を叩き起こそうとしたのだが、返事がまるでない。
鍵を開けっ放しにしていた司狼の部屋の空いた壁から蓮の部屋に乗り込むも、寝ているはずの彼までもが居なくなったもぬけの殻たる部屋があるだけだった。
思ってもいなかった最悪の事態に混乱しながら、それでも二人に万が一の最悪な事態も起こらないとは限らないと想像し慌てて部屋を飛び出してきたのだ。
その件の殺人鬼当人たる香純の影響か、人の気配が殆ど減った街の中をバイクを飛ばして二人の姿を求めて探し回ったのが、結局収穫は無かった。
捜索範囲の中心に置いていた繁華街から離れた一弥は、一旦路肩にバイクを停車しながら今度は何処を探せばいいか必死になって考えていた最中であった。
「……犯人は現場に戻る、とか言うが……」
殺人現場であったあの路地裏、あそこに香純が戻ってくる可能性は正直に見積もってもやはり低いだろう。
どういう理由かは分からないが、あの櫻井螢とかいう謎の女も香純を追っている。もしかしたならば、再び繁華街へと戻って遭遇することを恐れて別の場所へと離れたのか。
……だがそれならば次は何処へ向かう? 香純は何処へ逃げるというのだ?
「……海浜公園?」
自分が最初に見つけた忌まわしいあの第一の殺人現場……あれもまた香純が作り上げたのかと思えば、正直泣きたくもなってくる。しかし今はまだ弱音を吐いていられる場合でもない。それが分かっていたからこそ、もう一度自ら叱咤させ奮い立たせる。
「……あそこなら、人がいる……か?」
正直、殺人事件が発生する以前の諏訪原市ならばこの時間帯にも人は居ただろう。カップルなり覗きなり痴漢なり、夜になっても盛るあの手の輩には困らなかったスポットだ。
しかしそれは言うまでもなく以前の話。今は解決してもいない連続殺人事件の真っ最中、ホテル代をケチってまで命を危険に曝す可能性も覚悟であの公園で盛るようなカップルなどいるのだろうか?……まぁそういうのが燃えるシチュエーションだと盛るような変態が必ずしもいないとは流石に断定できないが。
しかし普通に考えても今はいないはずだ。この間、殺人事件の現場になったばかりの場所に嬉々として近寄る物好きは早々いないはずである。
香純が無差別に人を殺しているのだとしても、そんな閑散としているだろう場所で来るかも分からぬ獲物を相手に待ち伏せなどしているのだろうか?
「……普通ならありえないと思うんだが」
しかし正気かどうかも疑わしいとはいえ相手はバカスミ、正直こちらの考えなどまるで考慮にも入れぬ奇矯な行動を取るような奴である。
それに僅かでもいる可能性を考慮して、蓮の方が居ないともいいきれない。
「やっぱ行ってみるしか―――ッ!?」
そう考えを改めながら、今は藁にも縋る思いで淡い可能性にかけて行ってみようかとバイクを公園の方角へと向けたその時だった。
ドクンドクンと急激に虫の報せでも感じ取ったかのような心臓の高鳴りが、全身から沸きだってくる嫌な予感が満ちていく。
それは本能が鳴らす警鐘だったのかもしれない。
行くな。今行くと、殺されるぞ、と……。
何故そんなものを感じ取ったのかは分からない。けれど自分の中の何かが、それを本能的に危険だと判断して全力で訴えかけてきているのだ。
あの場所には行くな、危険だ、と。繰り返すようにそんな制止を呼びかける嫌な予感だけが気持ち悪くなるほどに膨らんでいく。
それは一種の恐怖ともなり、沢原一弥をその場に押し留めようともしていた。
『そう、じゃあ――――あなた、死ぬでしょうね』
先の櫻井螢から告げられたその不吉な言葉すらも思い出したかのように脳裏へと過ぎっていく。
あれは決してからかいやふざけて言った訳ではないだろう本気の言葉のはずだ。
何となくだが、先の香純に殺されかけた一件のことも考えればそれは己の未来を暗示しているかのようにも思えた。
けれど……
「……それが、どうした」
それは小さな呟きではあったが、それでもハッキリと意思のこもった言葉でもあった。
沢原一弥にとっての本音。それ以上でも以下でもない本気。譲ることなど不可能な彼にとっての不可侵たる指針。
ああ、それがどうした?
そこに香純がいるかもしれない、蓮がいるかもしれない。二人が危険かもしれない。
例えそれが“かもしれない”に過ぎなかろうとも、それは一弥からすれば見過ごせない、駆けつけずにもいられないハッキリとした危惧でもある。
あいつらを護る、絶対に自分の命を懸けたとしても。護らなければならぬ責任が、自分にはある。
ならばその為に命を捨てる事になったとしても、何が惜しいものか。
元より十一年前から既に、蓮に罪を背負わせ、香純から大事なモノを奪ってしまったあの時から、この命はその贖罪の為に使わねばならないと決めている。
だったら――
「……行くしか……ねえだろうがッ!?」
無論、これが杞憂であって欲しいとは思っているし、仮に本当に一大事の事態でも簡単に死にたいわけでもない。
二人の為に命を捨てることに惜しくはなかろうとも、出来れば死にたくないと思う程度には沢原一弥は臆病であり半端者だ。
だからこそ自分なりに勇気を振り絞り、格好をつけながらバイクを疾走させ願っていたのはたった一つの祈りだけだ。
どうか、二人が無事で何事もありませんように。
微妙に二つになっている願いだが、どちらにしろ彼の天に願うこの思いに意味は無い。
一番願うものがいつも最悪の形で裏切られて叶わない、いつだって沢原一弥の人生の転換期とはそんなものばかりだったのだから……。
手足を折られたこの状況、生身ではまるで歯が立たぬという事実。殺らなければ殺られるだけだという現実。
理解の悪い劣等の頭なりに漸くにそれを認めたのか、
「――で、次はいったいどんな手で来る心算だ劣等ッ!?」
非力な猿の分際でこちらを殺すと謳った以上、さぞ上等な手段でも思いついたかと思いながら、カズィクル・ベイは裂帛の怒号と共に相手を目掛けてその一撃を叩き込む。
ギリギリまで引きつけながら、それを何とか飛んで躱す藤井蓮をベイはアスファルトを砕いた拳を引き抜きながら即座の追撃へとかかる。
マタドールの真似事にしては随分と無様、所詮はやはり口先だけかと失望も顕にしながら追いすがってくるベイを前に、蓮は街路樹をまるで盾にでもするかのようにその背後へと回り込む。
「阿呆がッ! んなもん盾にもなるかよッ!」
相手の選んだ稚拙な城壁による防御を嘲笑うかのように豪腕一閃。それごと叩き潰すと言わんばかりの横殴りの一撃が街路樹を破壊する。
己の胴回りはあろうかという街路樹が真っ二つとなり木っ端と砕け散る。盾代わりに相手の攻撃を凌ぐ傍らで相手の常識外れの攻撃力に改めて蓮の全身に戦慄が走っていた。
しかし蓮にしても慄き、そして臆してばかりもいられない。固めた覚悟を己を支える基盤として、計算通りに運ぶ事の中で即座に行動へと移る。
即ち反撃、相手を斃す……殺す覚悟を持って繰り出す己の攻撃へと。
宙を舞う木片、その中から瞬時に使えそうな物を選別。先端が尖り、相応の太さが有り、武器として使えそうな形状の物。
即座に選択を終えた目的の木片――これを即席の武器へと変えてそれを相手へと向けて繰り出す。
両手が折れたこの状態、唯一使用可能な左足に渾身の力を込める。身体を捻り宙へと身を飛ばし胴回し回転蹴りの要領で踵と木片が垂直になるように合わせて目的のポイントへと叩き込む。
狙いは喉元、即席の杭と化した木片はこちらの蹴りだす勢い、そして向かってきたベイ自身との勢いも合わさって必殺の威力とタイミングを持って突き立てられ――
「かはっ」
――しかし、結果としてベイが迎えてきたのは馬鹿にしきったその嘲笑。
事実、自ら躱す事もなくその攻撃を受け止めたベイは、その突き立つ杭までをも逆に先端から粉々に砕いてしまった。
信じられぬその結果、その光景に蓮の顔が驚愕に見開く。
しかしそれすら痛快だと言わんばかりにベイはただただその嘲笑を収めることもない。
当然だろう。確かに大した曲芸だったのは事実。恐らく二度やれと言ったところでもはや出来まい。
この身がエイヴィヒカイトによって強化された肉体でなければ、確かに先の一撃を持って或いは殺せていたかもしれない。
だが、それもまた常識内の暴力に過ぎず、言ってみれば圧倒的な威力不足に過ぎない。
それに何より――
「串刺し公(カズィクル・ベイ)を串刺しにしようなんざぁ――身の程をしれや劣等ッ!!」
怒号と共に繰り出す一撃は、今までのものに比べても遙かにその威力も速度も桁違いに増したもの。
あろうことか串刺し公を名乗ったこちらにチンケな杭で挑むなどという馬鹿をやらかした相手だ。身の程を弁えぬ劣等にはキツイお仕置きもまた必要だろう。
懲罰と返礼を込めて叩き込んだその拳を、蓮は死に物狂いとなって何とか躱す。
無理矢理に身体をねじり、地面に叩きつけられるのを覚悟で自ら飛び込む。
結果的に即死の一撃を免れはしたが、死に体で行った無茶な回避運動はそのままその反動をボロボロの蓮の身体へと叩き込んでいた。
アキレス腱が切れ、砕け散った木片の欠片までもが逆に蓮の左足へと突き刺さっている。……完全に左足までもが潰されてしまっていた。
ここまでして駄目なのか……人殺しは御免だが、それでもそれを覚悟してまで放ったはずの起死回生を懸けていた一撃。
それすら通用しない絶望を感じ取りながら蓮は倒れこんでいたその視線を上げた。
「……ふん、それにしても解せねえな。おまえ、本当にその程度かよ?」
繰り出す攻撃のことごとくを粉砕、それを遙かに上回る蹂躙をもって圧倒したベイはしかしつまらないものでも見るような目で蓮を見下ろしながら告げる。
「そこらの喧嘩自慢に毛が生えた程度の力でどうにかなると思うほど間抜けじゃあるめえ。キレたもん勝ちが罷り通るご都合主義はよぉ、シュライバーみたいな反則馬鹿以外には起こせねえんだ。おまえにそういう素質はねえよ」
例え本当にこの劣等がメルクリウスの代理であったとしても、それだけは断言できるとベイは確信していた。
やりあって分かったが、こいつにはそれだけの狂気が足りない。あの狂った馬鹿のアレを一つの才能とも捉えようものなら、古今東西、世界中を探したところであの殺戮の申し子に並べる奴などいやしないだろう。他ならぬベイでさえ一歩及ばぬのを屈辱と共に認めているのだから。
だからこそ、このド素人には自分やアイツのような才能は、狂気は無い。己を一個の兇器と化し殺戮の為だけに力を振るうといった性格でもないのだろう。
ならばボロボロになったこの状況、出し惜しんでるわけでもなく、こうも無謀な突貫を続けてくるのはそんなネジの外れた狂気以外の何が該当するのか。
「それとも、くくく……カミカゼ主義ってやつなのか? 相変わらず東洋人はワケ分からねえなぁ。気合で勝てれば、てめぇら戦争に負けてねえよ」
そう、想いなどという精神的な何がしかで戦いに勝てるなら苦労はしない。
出来ないからこそ、それをハッキリと理解していなかったからこそ、頭の足りない無謀さでてめぇら猿共は負けたんだろうが。
半世紀以上も経ってるってのにつくづく学習しねえ劣等どもだなとベイは鼻で嗤う。
侮蔑をありありと込めた嘲笑と視線、それに見下ろされながらもしかし相手を見上げる蓮の瞳は未だに死んではいなかった。
この瞬間、一分一秒の刹那すら惜しむようにその思考が展開し続けていたのは反撃の糸口。
もはや敗北は確定しきった状況、覆すことは明らかに不可能と断言されてもおかしくはない現実の中で、それでも生き汚いと罵られようが蓮はそれを手放そうとはしない。
諦めてたまるか、殺されてたまるか、死んでたまるか。
――まだ、俺はこんな所で死んでしまうような存在ではないはずだ。
根拠や確信があるわけでもない。傲慢や慢心がそんなものを抱かせていたわけでもない。
だが事実として自分は“知らない”、ただそれだけが分かるのみ。
そう、此処でこの男を相手に殺される――そんなエンドを藤井蓮は知ってはいない。
だからこそ死なない、必ず生き延びる手だって残されているはずだ。
それを掴み取る為に、その方法、糸口を必死になって探し出そうとしていたのだが……
「……気にいらねえな」
ポツリと、頭上から呟かれたその一言。短く低く静かな声ではあったが、しかしそこに込められていたのは明確な苛立ちだった。
事実、瀕死の獲物を見下ろす狩人には既に先程までの対象を心底にまで侮蔑しきっていたその嘲笑は消え失せている。
挿げ替えるようにその端整な白貌に浮かび上がっていたのは隠す心算など更々ないのであろう不快さも顕にした苛立ちのみ。
「てめぇ、何だその面は?」
気にいらねえ、再び舌打ちと共にベイが蓮へと示している不快を示した態度に彼の方が思い当たる理由などあるはずもない。
だがそんなことはベイの方からすれば関係が無い。そのしつこさも生き汚さも相手が普通の獲物であったならばむしろその歯応えは賞賛に値しただろう。
しかしながらこの劣等は普通ではない。少なくともベイはそう認識をした上で遊んでいた。
先程までは半信半疑、否、むしろ予想以上に歯応えのないその無様さに本当は外れなのではないのかと本気で考え始めてもいた。
しかしこうして相手が見せているその面、その眼つき、その奥底に持っているであろうある種の確信を見取り考えを急激に改め始めてもいた。
「まるで自分が死ぬはずなんてない……俺がてめぇを本当に殺せねえとでも確信してるような面しやがってよぉ」
気に入らない、ああ気に入らない。それを見たことで急速に記憶の底から掘り返されてくる既知感がその苛立ちを更に加速させていた。
「覚えがある……ああ、その気にいらねえ眼つきはよく知ってるぞ」
クソ野郎――メルクリウスとそれはまったくに同じもの。
あの影絵のように面構えもハッキリとは終ぞ記憶は出来なかった朧な印象の中で、しかし滲み出るように嗅ぎ取っていたあの不快さだけは忘れられない。
否、むしろ記憶どころかその存在すら消去したいにも関わらず、それも出来ないと言った方が正しい。
だがそれについては今はいい。問題なのは――
「――てめぇ、あのクソと丸きり同じ眼つきじゃねえか」
即ち、このヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイを見下しきったその態度、その確信。
自分ではおまえを殺すことなど出来ないと、まるで言い切ったかのような舐めてくれた態度。
侮辱……ああ、こいつは酷い侮辱だ。
そしてそれは同時に――
「つまり、殺れるもんなら殺ってみろって……てめぇはそう言いてぇって事でいいんだよなぁ! ああっ! メルクリウス――ッ!?」
――最大限の挑戦だと、そう彼は判断した。
怒鳴り声と同時、膨れ上がった殺気が爆発するように物理的なプレッシャーすら感じ取れるほどの勢いで叩きつけられる。
半ば呆然としながらも、それでも常人なら卒倒しかねない気を当てられながら意識の手綱を手放さずに済んだのは、或いは覚悟を固めていたからか。
しかしかつてないレベルの殺気を滾らせ、赤光を爛々と放つ視線を持って踏み出してくる相手に蓮は咄嗟に動くことも出来なかった。
死が、迫ってくる。
回避も、誤魔化しも、逸脱も許さぬ、明確で圧倒的な有無を許さぬ物理的な死が己のこの先に終焉を与えようと迫ってくる。
甘んじて受け入れる以外に咄嗟に出来る事も何もない、死ぬはずなどないと確信していたはずの蓮の身にすら一瞬それを強制的に抱かせたその瞬間だった。
「蓮―――――ッ!!」
深夜の公園、殺気を顕に振舞う眼前の暴君以外に音を発するものなど何も無いと思われたその中で、アスファルトを削るような勢いで加速と共に近付いてきた車輪音。
直ぐ傍らを駆け抜けるように一陣の風が駆け抜けていったかと錯覚したその瞬間だった。
鋼鉄の騎馬を駆る様に、沢原一弥がその自らが運転するバイクで眼前のカズィクル・ベイへと勢いよく突撃したのは……
沢原一弥がその尋常ならざる雰囲気……公園内に禍々しく充満した殺気を感じ取ったのは敷地内に入って直ぐの事だった。
発生源からかなりの距離があるはずだというのに、自分のような凡人にまで咄嗟に卒倒を行わせそうなむせ返る得体の知れない気持ち悪さ、本気で嘔吐しそうになったほどだった。
これ以上は進むな、本能が最大限の警鐘をノンストップで鳴らし続ける中でそれでもそれに抗ったのは、自分の大切なものがその渦中にあるのではないかという危惧があればこそ。
己を奮い立たせるように自らの内へと何度も言い聞かせながら一弥はその近付けば死以外にはありえないだろう殺気の源泉の元へと近付いた。
そしてそこでハッキリと見てしまった。
黒衣を纏った白貌のバケモノ……それに今にも殺されんとしている大切な幼なじみの姿を。
その光景は沢原一弥の中の最後の一線を踏み越えさせるには充分すぎた。
躊躇いどころか思考すらなく、ただ身体がそれを行うべき当然のものとして動いた。
この瞬間を限定してのみ表すなら、彼は一個の機械と化していたともいえた。
アクセルをフルスロット、ギアを最大限まで上げて、進むべき進路も確定。
躊躇・迷いの一切を頭の中より排除し、ただ雄叫びのように護るべき大切なその存在の名を呼びながら飛び出した。
その奥にいる自分の世界を脅かす異物、それをただ一心に排除する為に。
結果、沢原一弥の駆るバイクが見事にカズィクル・ベイへとその突撃を成功させたのは事実だ。
だが――
「――あ? んだてめぇは?」
しかし、その結果として待ち受けていた光景もまた無情な現実に過ぎなかったが……。
沢原一弥が駆るバイクの特攻、その車体を突き立てる牙に見立てた奇襲の突撃も、しかしベイからしてみれば脅威にも何もなりはしないのは当たり前のことに過ぎなかった。
こちらをひき潰そうとでも狙っていたのか、その迫る前輪を無造作に片手で軽々と受け止めながら、ただ彼が視線に込めていた感情は退屈であり……そしてそれを上回る規模の苛立ちだ。
それも当然、訳の分からぬ外野がいきなりの乱入……それも自らが怒りを顕にしようとしていた手前にである。
例え相手が礼節を弁えぬ劣等人種……黄色い猿であろうが、否、それだからこそ尚更に爆発寸前だった怒りは更に増してしまうというものだ。
結果的に言えば、沢原一弥の行ったその行動は――
「俺をバイクで轢き殺そうなんざ……シュライバーの馬鹿じゃあるめぇし本気で出来るとでも思ってたのかぁ!? ああ!?」
――怒れる魔人の怒りの火に更なる油を注いだ行為でしかなかった。
怒号と同時、尋常ならざる握力は掴んでいたバイクの前輪を容赦なく握り潰す。
それどころかそのまま受け止められ宙に浮いたままとなっていたその車体を運転手ごとベイは力任せに地面へと叩きつける。
金属の軋む音と共に衝撃が強すぎたのか、そのまま車体は呆気なく破壊……どころか爆発し炎上してしまった。
愛車の上から衝撃と爆発で容赦なく吹き飛ばされ地に叩きつけられた沢原一弥の方はと言えば、受けたダメージが大きすぎるのか悶絶したままその場を立ち上がることすら出来ない。
炎上する車両の向こう側から、まるで幽鬼のように無造作に歩み出てきたカズィクル・ベイは、そのまま倒れている一弥に近付いていくと共に無造作に踏みつける。
「ギィ――――ッ!?」
容赦なく骨が粉砕される激痛と衝撃に一弥は痛みにのた打ち回ることすら出来なかった。それすら許さぬと踏みつけたその状態のままベイが足を退けていない為でもある。
蟻でも見下ろすように一弥を一瞥したベイは露骨な苛立ちを顕にした舌打ちと鼻息も荒くその苛立ちの矛先を別の対象へと向けていた。
「おい、マレウス。てめぇ、猿の外野の乱入なんざ許してんじゃねえよ」
殺気すら籠もった不快を顕にしたベイの言葉に、しかし未だ悠然と観戦を決め込んでいた赤毛の魔女はただ鈴の音色のような声を笑いへと変換しながら返すのみ。
「だってさぁ、急な乱入だったんだよ? わたしだって驚いてるくらいなんだから」
マレウスのその言葉に嘘を吐けとベイは不快気に鼻を鳴らす。
最前、メルクリウスへの怒りで瞬間的に我を忘れていたこちらは兎も角、強かなこの女が周囲への警戒……ましてや侵入者の発見の有無に気付いていなかったはずがない。
仮にこの魔女の言い分を信じてやったとしたとしても、疾走するバイクを横槍から排除するくらいの芸当がこの女に出来ないはずが無い。
分かっていて、全て見越した上でこの魔女はワザとこの劣等がこちらへ乱入するように見逃したのだ。
悪戯を成功させたかのような得意気な顔つきを隠そうともしていないにも関わらずに、しかもその言い分である。白々しいにも程がある。
尚更に増してくる苛立ち、それを発散させるように踏みつけている足の方にベイは更なる力を込める。
一弥がそれに更に絶叫を上げたことでむしろベイの不快さは更に増す結果になっただけであったが……。
「……で、何だコレは?」
「さぁ、見たところ彼のお友達ってところじゃないかしら」
ベイの問いにマレウスがチラリと蓮の方へと視線を向けながらそう答えてくる。
蓮の方はと言えば唐突な状況の急変に未だ理解が完全には追いつけていない。
それどころか、ただ分かっている事実……このままでは一弥があのバケモノに殺されかねないという事実に顔を青褪めさせているだけだった。
「ベイ、やっぱりあの子、お友達を傷つけられる方がダメージ大きいみたいよ」
「ハッ、猿共の仲間意識か。くだらねえ」
だが、とベイは一度区切りながら蓮の方へと視線を向けて嘲笑いながら告げる。
「おい、ガキ。俺は言ったよな……これで萎えさせるようなオチ付けやがったら許さねえってよぉ」
そう言いながら更に踏みつけている足に力を込める。一弥はもはや呻き声を上げる気力も無いのか苦悶にのたうつのみといった状態である。
やめろ……震える声で何とかそう呟こうとする蓮だったが言葉が上手く紡げない。
その無様さを嘲笑うように見据えながら、ベイは足を退かし今度は無造作に一弥を掴みあげながら告げた。
「ペナルティだ。そこでこの劣等が死ぬ様をしっかり見学しとけ」
宣告と同時、無造作にその腹へとベイは拳を叩き込んだ。
一弥の口から血塊が吐き出される光景……それを見て初めて蓮の中で今までにかつてない怒りが爆発する。
殺してやる、そう相手への憎悪や憤怒を抱くのが先だったが、しかしそれは即座に一弥を先に助けなくてはという安否へと移り変わった。
すぐさまに駆けつけようと動きかける――も折れた足のせいで這うようにしか進めない。
無様なその姿にベイの嘲笑が木霊する。
「おいおい、どうした? 足が折れてて進めねえのか? 早く助けにきてやれよ、オトモダチが死んじまうぞ?」
そう言いながらベイは一弥を掴んでいた手を放す。宙に浮いていた一弥が地面へと落ちようとしたその瞬間だった。
「そら、これでまた距離が開いちまったなぁ!」
宣告と同時、ベイの放った蹴りが一弥を蹴り飛ばす。
吹っ飛んでいく一弥の後を、嘲笑と共に蓮を一瞥だけした後にベイは無造作に追いかけ始める。
怒り狂いたい、叫びだしたい想いを必死に堪えながら、蓮は這って開いた距離を必死に再び詰めようと追いかける。
だが絶望的に距離が遠い、速さが足りない。
まだ拷問もどきで嬲っていてトドメを刺そうとはしていない様子とはいえ、あのバケモノの怪力に一弥がいつ殺されてもおかしくなかった。
ベイが再び一弥を掴む。もはや意識は無いのか体力も気力も根こそぎ蹂躙されたのか一弥に抵抗の素振りは無い。むしろもう死んでいるのではないかと蓮は恐れていた。
ベイの拳が一弥へと叩き込まれていく。血飛沫がまるでこちらにまで届かんばかりに真っ赤に周囲を染め上げていく。
一弥が殺される。
日常が壊される。
大切なものが――奪われる。
「ふざ……けんなぁぁああああああッ!」
こんなものは認めない、絶対に許さない、あってたまるか。
傍から見れば無様で仕方が無かろうが関係ない、そんなものすらどうでもいい。
ただ蓮が怒りと共に求めたのは力。
一弥を助ける力を。
日常を護るための力を。
この既知の世界を未知で埋め尽くそうとする侵略者たちを排除する力を。
藤井蓮は、狂おしいほどにまでそれを欲するように叫んだ。
『――では、ここで私の秘法を使ってみるかね?』
声が、ここではないどこかから、知っているのに知らない誰かの声が響いてきた。
Dies irae, dies illa,
Solvet saeclum in favilla:
Teste David cum Sibylla.
Quantus tremor est futurus,
Quando judex est venturus,
Cuncta stricte discussurus!
Tuba, mirum spargens sonum
Per sepulcra regionum,
Coget omnes ante thronum.
Mors stupebit, et natra,
Cum resurget creatura,
Judicanti responsura.
Liber scriptus proferetur,
in quo totum continetur,
Unde mundus judicetur.
Judex ergo cum sedebit,
Quidquid latet, apparebit:
Nil inultum remanebit.
Dies irae, dies illa,
Solvet saeclum in favilla:
Teste David cum Sibylla.
Quid sum miser tunc dicturus?
Quem pattonum rogaturus,
Cum vix justus sit securus?
Rex tremendae majestatis
Qui salvandos salvas gratis,
Salva me, fons pietatis.
Recordare, Jesu pie,
Quod sum causa tuae viae:
Ne me perdas illa die.
Quaerens me, sebisti lassus:
Redemisti crucem passus:
Tantus labor non sit cassus.
Justus judex ultionis,
Donum fac remissionis
Ante diem rationis.
Ingemisco, tamquam reus:
Culpa rubet vultus meus:
Supplicanti parce, Deus.
Qui Mariam absolvisti,
Et latronem exaudisti,
Mihi quoque spem dedisti.
Preces meae non sunt dignae:
Sed tu bonus fac benigne,
Ne perenni cremer igne.
Inter oves locum praesta,
Et ab haedis me sequestra,
Statuens in parte dextra.
Confutatis maledictis,
Flammis acridus addictis:
Voca me cum benedictis.
Oro supplex et acclinis,
Cor contritum quasi cinis:
Gere curam mei finis.
Dies irae, dies illa,
Solvet saeclum in favilla:
Teste David cum Sibylla.
Lacrimosa dies illa,
Qua resurget ex favilla
Judicandus homo reus:
Huic ergo parce, Deus
Pie Jesu Domine,
dona eis requiem.
Amen.
それはどこか聞いたことのあるレクイエム。
歌が……歌が聞こえる。
黄昏の浜辺。呪いという名の祝福を受けた、最美にして最悪の歌姫の歌声が。
毎夜毎夜と聞き続け、首を飛ばされる終焉と共に終わる歌。
それは藤井蓮にとっての――
『君は、既知感というものを経験したことがあるだろうか』
告げる言葉はこの夜には既に聞き慣れたといっていい何処かの誰かのその声。
酷く懐かしく、知っているはずなのに、自らが思い出すことを拒否しようとするようなこの声。
……ああ、そうか、と藤井蓮はふと気付く。
要するに、俺はこの声の主が嫌いなんだ。
そんな結論へと抱く中で、それを一切気にした様子も無く、既知感とやらの説明を長々と続けていく男の声。
五感・六感に至るその全てにおいて知っているというその感覚。
あらゆる事象・経験は既に経験した残滓に過ぎぬというその言い分。
どのような幸福にも喜びがない代わりに、どのような恐怖にも恐れを抱かない。
自分だけの楽園。永遠の刹那。
『大局的に観るならば、それこそが時間という概念の否定ではないだろうか』
真なる意味で失うものは何も無い。己をとりまく有象無象は無限に死んで無限に生まれる、それと同じ。
例えるならば水車。水はただ汲まれ続け、流れ続け、回り続けて繰り返すだけ。
『人も世界もそういうものだと自覚したらば、何を恐れることがあろうか』
そう、故にこそそこに喜びも恐れも何もありはしないのだと声は言う。
『君は日々の感動なぞ求めてはいまい。
未知を渇望する私とは異なり、既知を是とするのが君の本質であるが故に』
ああ、その通りだと蓮は思う。
だからこそ、この声の人物と己は相容れない。どれほど同じで似ていようとも、その本質は致命的に否なる者。
故にこそ、気に入らないのだ。
だが今はそのような己の瑣末な感情に構っている暇も無い。声の人物とてそれを知った上で持ちかけているのだろう。随分と性格が悪いと正直に思う。
だがそれすら気にした様子もなく、その声は誘いかけるように告げてきた。
『さあツァラトゥストラ――。
君の願いを叶えるために用意した、贈り物を受け取ってはくれないか』
“彼女”は君と逢う為に、君は“彼女”を使うために。
この世に生まれてきたのだから。
例えるならば、それは運命の恋人とも呼べるものだと楽しげに声は告げる。
泡沫の光景の中、移り変わる様に蓮の視界に次に映し出されたのは一人の少女。
見覚えがある。あり過ぎる。……当然か、毎夜この少女とは出会い続けていたのだから。
『忌まわしい娘。呪われた娘。哀れな娘。罰当たりな娘。
彼女を憎み、彼女を愛せ。彼女を護り、彼女を壊せ。
彼女は世界の特異点。摂理の埒外に身を置く存在。
死者であって、死者ではない。この世の概念から外れている存在』
まるで憎むように、愛おしむように、慈しむように、畏れるように。
少女を語るその声に含まれていた感情は、凡そ余人には理解しかねる得体の知れない激しい感情。
だが声の主にとって、この少女こそが唯一無二の存在だということくらいは蓮にも理解が出来た。
声は語る。彼女を表すその言葉を次から次へと。
即ち永劫、即ち無窮、即ち不滅なるもの、即ち神性、即ち無限、即ち死後の生――
そして行き着く結論こそ――
『――エイヴィヒカイト』
ポツリと静かに低く、そして短く……しかしながらそれを誇るように。
男はソレを語り始める。
『聖遺物を操り、法則を破壊する術こそがエイヴィヒカイト。
私が編み上げ、盟友とその下僕たちに授けた秘法の銘がエイヴィヒカイト。
しかしその真なる後継者は君をおいて他にない。
君に彼女を与える事が、その証明だと思って欲しい。
そう、例えば――』
好き勝手に訳の分からない説明を述べながら、次に唐突に移り変わった場面は現実のあの光景。
白貌の魔人が今まさに、その爪牙を持って己の大切なものを奪わんとしているその瞬間。
蓮にとって視線は一弥を離れはしないが、生憎声の人物からしてみればそちらはどうでもいいらしい。
むしろ促がすように見せたいのはその魔人の方。
『彼を見ろ。今にも君の大切なものを喰い殺さんとしている彼もまたエイヴィヒカイトを操る一人。
千を超える魂を喰らい、自己を強化している獣の爪牙を名乗る一人』
どういう種や仕掛けを持っているかは未だに理解不能だが、兎に角、しかし声が告げる眼前の相手は自分では歯が立たなかった化物だ。
しかしそれを否定するかのように声は告げた。
『だがそれは、今の君が太刀打ちできない相手だという意味ではない。
聖遺物は魂を求める故に、彼らは殺せば殺すほど、喰らえば喰らうほど強くなる』
故にこそ、現存する爪牙の内に置いてならば、彼が一・二を争う存在であるのは事実だと声は肯定する。
カズィクル・ベイは確かにそれだけに見合う魂を喰らってきている、と。
『しかし私は、数が質を圧するなどと説いたつもりは毛頭ない』
それを彼らは正確に理解していない、嘆かわしいことだ。
まるで出来の悪い教え子たちを憐れむかのようなそれは言い分だった。
『よろしいかね、ツァラトゥストラ――。
私が君に贈るのは、人類最美にして最悪の魂。
彼女と共にある君が、たかだか千や二千の雑魂ごときを、凌駕できぬはずがあるまい。
断言しよう。
君が“完成”した暁には、我が盟友に匹敵する存在にすらなるだろうと。
……私は、その時が待ち遠しい』
まるで、否、これは絶対に自慢というやつなのだろう。
しかも勝手に人を物扱い……つくづく気に入らないと蓮は思う。
しかし、それも気にした様子も無く、どこか声は興奮に逸った口調で続けていく。
『故に彼女の魂と、魔法の言葉を贈らせてくれ』
それが最悪のプレゼントだということは、凡そこの時に藤井蓮もまた予想できていた。
だがそれでも構わない。甚だ不愉快、言ってることも理解不能だが、それでもこの絶望的状況を打開できる術を、力をくれるというなら是非は無い。
使えるものならば、今は何だって使ってやる。
だから本当に何とかできる力があるってんなら――それを寄こせ。
これは契約。
破滅を約束された悪魔と交わす、今この最高の刹那を護る為の契約だ。
ならば――
『Verweile doch, du bist so schon.
時よ止まれ――おまえは美しい 』
――確かに、その言葉ほど相応しいものもないだろう。
『まずは初回サービス、私が手本を見せよう』
上手く憶えたまえよ、などと気取った教師ぶった口振りに鼻を鳴らしながら、何でも良いから早くしろと蓮は急かす。
無限に感じる刹那――秒を幾百幾千幾万幾億にも切り刻み、もはや停止にも等しい虚の空隙の中で行われた奇妙な会話。
この声が何者で、この状況が何なのかなど分からない。
だが自分の意志とは関係なく、今ならば身体が動く。
魔人の爪牙が一弥へとトドメを突き立てんと迫るその瞬間もまた、その結果には辿り着けぬように停まっているにも等しい状況。
『今こそ疾走と共に駆け抜ければいい』
背中を後押しするような声に導かれながら、蓮は立ち上がると共に駆け出した。
己の内外で流れる時間の致命的な差異――その中を駆け抜ける蓮は遂に一弥にまで到達する。
抱え込むようにボロボロの彼を掴み上げると同時、離脱の為に再び駆け出し始める。
『ついでだ、慢心している彼にこれは良い薬だろう』
悪戯を楽しむような声が聞こえてきたと同時、右腕が己の意志とは関係なく持ち上がり一閃。
一体何事かと戸惑う蓮に声は気にするなと何処か楽しむように告げてくる。
『それよりもだ、今のこの感覚を忘れぬよう。君はこれから精進せねばならない。まぁ尤も――』
――今は、一+一を二にするのが先だろうがね。
そんな訳の分からぬ言葉に首を傾げようとしたその瞬間だった。
『時間だ。君の時間は通常の流れの中へと戻る。サービスはこれきり、後は自分で切り抜けたまえ』
唐突に、無責任とも思える声がそう言い切った瞬間だった。
時が――動き出す。
無論、完全に停止していたわけではないのだが、蓮からすれば停止にも等しかった状態からそれは突然元の時間の流れに放り出されたのも同じだった。
距離を幾分か離した背後から、地面を穿つ轟音が鳴り響く。
思わず振り返ったそこで蓮が見たのは、獲物へとトドメの一撃を空ぶったことに初めて困惑らしい表情を浮かべた白貌の魔人の姿だった。
一体何が起こったのか、相手は何をしたのか。
身の程知らずの劣等に遊びを含んだ見せしめのトドメを行おうとしたその瞬間だった。
己の放つ一撃が確実に命を絶つ……その拳を振り下ろした瞬間に当然のように確信していた。
――だが、それが今覆された。
空振り地面を粉砕したその行為自体もそうだが、知覚も出来ずに横合いから半死人に獲物をかっさわられた事自体が間抜けの極み。
「……てめぇ、何をした?」
問うて正直に答えるとは思っていなかったが、それでもその相手を睨み据えながらベイはその問いを発していた。
だがその瞬間――
「……ベイ?」
「あ? 何だ、マレウ――」
観戦を決め込んでいたマレウスが思わず目を見開きながらその彼の名を呟く。
怪訝そうに彼女へと振り返りながら言葉を紡ごうとしていたベイの言葉は途中で止まる。
彼自身もまた気付いたように自らの手を額へと持っていき……
「……くはっ、ははは……はーははっはっははは、ひゃはははははは」
狂ったように笑い出す彼の狂態は蓮たちはおろか、マレウスまでもが思わず呆然と見ている他にない。
だが外野の視線などまるで気にした様子もなく、ベイはその爛々と赤光を発する視線を喜色すら浮かべながら再び蓮たちへと向ける。
実際、外野云々の視線などどうでもいい。もっと面白い事実がこの眼前には存在している。
「やりやがった……やりやがったじゃねえか、劣等!」
それを愉快とでも言うようにベイは高々と笑う。
その端整な白貌、その視線を隠していたサングラスはない。真っ二つにそれは切られて彼の足元に落ちている。
それだけではない、その額には一線の切傷……そこから流れ白貌を僅かに染め上げていたのは彼自身の赤い血。
一太刀……そう、先の劣等を助け出した手際も含めてどうやったのかはベイ自身も分からない。
だがこの事実として、この結果が自身の眼前にある。
正体不明の手際、聖遺物も不明。
憎むだけでは到底足りぬあのクソ野郎……メルクリウスの相手は代理。
だが間違いなくこの瞬間、藤井蓮はカズィクル・ベイにとって確かに彼の“戦争”の相手と認識された。
「――面白ェな!」
瞬間、長々と上げられた哄笑と同時にそれは爆発した。
殺気……そうとしか呼べぬが、そう呼ぶことすらも躊躇われる圧倒的なプレッシャー。
物理衝撃すら伴う鬼気が、突風めいた威力をもって蓮の身体へと叩きつけられる。
「面白ぇ、面白ぇ面白ぇ面白すぎるぞこの虫ケラ劣等野郎!
何だよ、やればちゃんと出来るじゃねえか。そうだよなぁ、そうだよなぁ! 例え猿でも男の子だ。そうだよそういう意地をもったいぶらずに最初から見せてろよ!」
漸く、面白いオモチャを見つけた。
鬼気でありながら稚気を滲ませる串刺し公は今までにない最大の歓喜をもって蓮を……獲物を見据えた。
「いいなぁ、いいぜおまえ。そそるぜ喰いてぇ堪んねぇ! 串刺して引き裂いて引き毟って、吊るして晒して啜ってやらァッ!」
藤井蓮には到底理解不能と言っていい正体不明の歓喜。
眼前の男が何かに歓び、同時にそれと同じくらいに何かに激昂している。
押し寄せてくる殺意の波が、蒸発する血液が、蓮の視界を赤く染め上げていく。
獣が駆ける。歓喜と憤怒を同時に混載した哄笑を上げながら、先程の比ではない勢いで迫ってくる。
不味い、蓮とて咄嗟にそう確信したからこそ、何とかしようと動きかけるも――
「――ぐぅッ!?」
先程までの停止に等しい時間の流れも、疾走できた万能感も既に身体からは失われている。
それどころか、やはり先程の自分がやってのけた行為そのものが無茶の極みであったのか、ガタがきたように身体が満足にも動いてくれない。
その間にすら獣は問答無用で迫ると同時、その爪牙で一弥もろともにこちらを引き裂かんと振り下ろしてくる。
蓮にそれを回避はおろかもはや防ぐ術すらも残っておらず――
――殺られる!?
ありえるはずもないはずの、その確信すらも咄嗟に強制的に抱かされ……
「ベイ……おまえは何をしている?」
鋭利ながら、僅かな苛立ちを含んだ冷たい声。
それこそ咄嗟に一弥を庇うように彼を覆いながら、覚悟を決めてそれに耐える為に瞑っていた目を恐る恐る開けると同時に響いてきた声だった。
眼前には猛禽の爪のような状態で膠着したカズィクル・ベイの手。
致死を込めて放たれたのだろう凶腕の一撃は、それこそ直撃していれば自分もろとも庇った一弥すらも粉砕していたことだろう。
それを確信させる一撃……それを横合いから掴んで止めていたのは艶やかな長い黒髪の一人の少女。
「……何のつもりだ、レオン」
静かに低く、しかし先程とは別種の感情……苛立ちを含んだベイの言葉が紡がれる。
「てめぇは何故、俺の楽しみを邪魔しやがる?」
「まずこちらの問いに答えて欲しいな、カズィクル・ベイ中尉殿。
おまえは、いったい何をしている?」
触れることそのものが死を招く、爆発寸前の爆弾のような危険さを露骨に連想させるベイの詰問に対しても、返す少女の言葉は臆す様子も欠片も無い冷たく響いた問いだった。
「何をしているか、だと?」
ハッと露骨に蔑む様子も顕に、まるで当然の事だと言った様子でベイは少女の問いへと答えなおす。
「見て分からねえのか、遊んでんだよ。
こいつがそうだって言うんなら、試験にもなるわなぁ。……だから、邪魔するんじゃねえよ」
俺のオモチャだ手を出すな、そう傲慢さも顕に荒々しく告げるベイの返答に対して、少女の彼を睨む眼は、更に細く冷たいものへと変わっていく。
「なら、彼は合格だろう。経緯はどうあれ生き延びた」
キッパリとそう告げながら、既に傷痕も修復された白貌を睨み据えながら更に本題を続ける。
「先の問いには、おまえの行動が我が師や聖餐杯猊下の意向を逸脱しているからだと答えよう。更に言うなら、この件に関してはお二人より私に一任されている。こちらの指揮には従ってもらいたい」
少女が告げた指揮という単語、そこに反応したようにベイの赤眼は初めて眼前の蓮から少女へと移る。
「俺が、おまえの指揮下にあるだと?」
「猊下から聞いていないとは言わせないぞ。理解できなかったのなら、もう一度私から分かりやすく言ってやるが?」
冷たくそう告げると同時、蓮の眼前で掴み止められているベイの腕がギチギチと軋むような音を立て始める。
少女が更に握った腕に力を込めている証拠なのだろうが……正直、先程までほぼ全ての攻撃をことごとく無力化された蓮からして見れば、到底信じられぬ現象でもある。
こんな華奢な少女の繊手にどれ程の怪力が込められているのか。
或いは、この少女もまたやはり眼前の男と同類なのか……?
「彼に関して、おまえに生殺与奪の権利は無い。これ以上逆らうなら、黒円卓に対する叛意と見なすぞ? おまえの名誉は忠誠ではないらしいからな」
「――――」
少女が最前まで以上に冷たく告げたその言葉……男にとって警告とも言えるのだろうそれにベイはただ沈黙を持って答えとする。
それが返答……そう蓮もレオンと呼ばれていた少女もまた思っていたその時だった。
「くはっ………」
思わず漏れ出た、そう思わせるような笑い。
同時、もう辛抱ならんと言わんばかりに再び笑い始めたカズィクル・ベイ。
蓮もレオンも怪訝と呼べる表情をありありと浮かべながら相手のその様子を見続けていた。
「面白ぇ――叛意ときたか。了解、了解したよお嬢ちゃん」
まったく、劣等ってのは俺を笑い殺す気でもあるのかとつくづく的外れたジョークの数々にヴィルヘルム・エーレンブルグは笑いを抑えきれない。
「黒円卓が生まれた時に生まれてもいなかった奴に言われたらお終いだが、お前が正しい。ああ正しいとも。名誉は大事だよなぁ、名誉はよぉ」
忠誠こそ我らが名誉。
かの黄金の獣の聖槍より賜った聖痕の誓いが示す通り、獣の爪牙としてそれは何よりも遵守せねばならない事柄の一つだ。
ましてや己はカズィクル・ベイ。黒円卓の第四位にして現存する爪牙の筆頭でもある。ならばそれは尚更に大事であり、ベイにとってのそれは誇りも同じ。
……その俺が黒円卓への……黄金の獣への叛意?
面白い、面白すぎるジョーク。だが面白すぎるせいか逆に笑えない。
ましてやそれを言ってきたのは新参者、四半世紀も生きてはいない黄色い劣等だ。
劣等……猿の分際で高らかにあろうことかこの自分にそんな事を言ってきたのだ。
最高のジョークじゃないか。
「だからこのガキの事はもういい。知らん。バラそうが、逃がそうが、股座開いて乗っかろうが好きなようにするがいいやな。だが――」
そう言うなら、もう別にいい。惜しいとは確かに思うが構わない。
興も殺がれたし、正直白け過ぎた。だからもうこの際、今はこの劣等も放置で構わない。
ああ、そこにはもう何の異議も無い。
だが――
「おまえはなんで、俺に触れてる?」
「……何?」
これだけは放置できないだろう。猿風情が汚い手で己の手を当然のように掴んでいる。
ああ、それは許しちゃいけねえよなぁ――――!
「てめえは、劣等の分際で、何を馴れ馴れしく俺の身体に触れてやがるって言ってんだよォッ!?」
瞬間、今まで溜め込んできた怒りを解き放つように、ヴィルヘルムは己が力を解放していた。
一瞬、相手が何をいきなり言い出したのか流石に止めた側である櫻井螢もまた怪訝に思ったその瞬間だった。
爆発する怒気、顕になる殺気。
瞬間とはいえ、“形成”されたカズィクル・ベイのその力――
「――――ッ!?」
「――が、ぁ」
咄嗟だった故に形振り構ってはいられず、手荒い扱いになってしまった。
しかしベイに殺されかけていたその少年……とその少年に抱えられているもう一人の先程出会った別の少年。
彼らを手加減はしていたが力任せに突き飛ばす以外に方法は無かった。
派手に吹っ飛んでいって衝撃と痛みに呻いているが、そうしていなければ命の保障は無かった以上、ここは大目に見てもらうほかない。
螢自身にしてみたとしても、ギリギリであり危ないところだったのだから。
「……やってくれるな。死にたいのか、ベイ?」
現状の黒円卓では禁じられているはずの同胞殺し……尤も、相手はこちらを同胞などとは欠片も思ってはいないのだろうが……どちらにせよ、相手は今、黒円卓で定められていたルールを破り、こちらに牙を向けてきたのだ。
短気や好戦的でなかろうとも、命を脅かされた以上、そう温厚に対応する心算も螢にはない。
「そりゃあこっちの台詞なんだよ。四半世紀も生きてねえチンケな猿が、誰にタメ口利いてやがる」
そしてどうやら、逆鱗に触れてしまった様子である相手もまたそれを抑える心算は毛頭ないといった様子だった。
互いに一触即発の睨み合いの中、先に口を開いたのは螢。
「殺す気だったのか?」
問いの意味は自分も含めた、先の少年たちに関しての事柄でもある。
螢の問いを鼻で嗤う様にベイは冷やかに切り返す。
「それはてめぇが防ぐんだろうが、レオンちゃんよぉ。結果的にはそうなってるじゃねえか」
だがそう自分が動いていなければ、少年たちが死んでいたのは事実。そして死んでいてもおかしくはなかった。
殺すな、そう先程命じたばかりだというのに早々の命令違反。
「…………」
「くく、かはははははは……濡れたか? 勃ったか? 発情中か?
猿同士で乳繰り合いてぇんだろうが劣等野郎。見ててやるから淫乱しろや」
品性も何もあったものではない下劣な挑発。乗ること自体が甚だ不愉快ではあるものの……こいつが危険であり、邪魔な存在だというのも事実だ。
ルールを乱す輩は儀式の成就を妨げる不穏分子も同じ。そしてそれは櫻井螢の願いを邪魔する障害であることも同じ。
ならば……早い内に排除するのも一つの手だ。
「……殺すか」
「やってみろよぉ!」
相手もそれは了承済みの様子、ならば構うまい。
新参だの劣等だの、舐められてばかりもいられない。現存する最強の爪牙様とやらを仕留め、こちらの箔付けへの踏み台となってもらおう。
「……そろそろ、ここで一つスワスチカを開いておくのも良いだろう」
「同感だなぁ。新参、てめぇの命で責任持ってちゃんと開けよォッ!」
咆哮と同時、先手必勝とばかりに踏み込んでくるのはカズィクル・ベイ。
その爪牙に見立てた掌程の一撃……流石に受ければダメージは免れないだろう。
だがそんな単調な軌道の一撃、わざわざ貰ってやるほどこちらもまたお人好しではない。
瞬時に、見切り、躱す。同時、そのすれ違い様に各種急所へと正確な打撃を次々と打ち込んでいく。
流石に櫻井螢もまた聖遺物の使徒。ベイ同様に魂を強化されたその身体による攻撃は何の庇護も無い通常の藤井蓮の一撃とは違い、ダメージが皆無というわけでもない。
尤も――
「効かねえよ! そんな温い攻撃なんざなぁっ!」
物ともしないという勢いで身体を旋回させるベイ。繰り出した拳を弾き飛ばされた螢に向かい再びその爪牙の一撃を繰り出さんと迫る。
しかしそれに対し、叩きつけてくる相手の一撃……その腕を躱しながら掴むと同時、そこを支点に引っ張り自身も飛び出した膝蹴りがベイの顔面に迫る。
直撃……そう螢もまた確信し、故にこそ頭部を砕く心算を持ってそれを繰り出したはずだった。
だが――
「―――ッ!?」
「ハッ、堅さ自慢で俺に勝てると本気で思ってたのかよ?」
瞬間、迫り来る一撃に対し、ベイは逃げるどころかその彼女の膝を目掛けてヘッドバットをかますように自ら叩きつける。
威力負けし、吹き飛ばされたのは螢の方であった。無論、相手もまた完全に無傷というわけでもなく、衝撃で若干蹈鞴を踏んでいたが。
だが螢の方は打ち負けて吹き飛ばされながら、それでも危なげもなく着地は成功させたものの、膝に走る痺れに思わず舌打ちが漏れる。
膝を破壊されたわけではない。よしんば破壊されたとしても聖遺物の使徒の回復力ならばそう時も要せずに元通りになる。
問題は、負傷ではない。仕留めにかかった一撃で逆に打ち負けてしまったその事実だ。
「おいおい、舐めてんのかレオンちゃんよぉ。てめぇと俺じゃ経験(キャリア)も喰らってきた魂も段違いだっつーのが理解出来てねえのかぁ?」
これだから劣等は、そう嘲笑い見下す相手の言い分……しかし大変不快で不本意だが、一理あるというのもまた事実だ。
格上、そう確かにヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイは、櫻井螢を上回るそんな存在であるのは事実だろう。
実力では一歩及ばない……流石にカインと並ぶ爪牙最強の看板は伊達では無いということか。
「……だが、届かないわけでもない」
戦いにほぼ絶対というものはない。師から叩き込まれた戦闘理論と攻防を交わした螢自身の感覚から見ても、これは絶望的に埋められぬ差というわけではないはずだ。
創意工夫のやり方次第で下せる、そう螢が考えていたその時だった。
「――で、いつまで出し惜しんでるつもりだよ?」
ベイがさっさと出せと顎で促がす仕草を持って告げてくるその言葉。
当然、彼の言葉の意味が螢に分からぬわけではない。
「俺を本気で殺るつもりだってんなら、さっさと聖遺物を出せよ。ソレ以外で俺を殺れるなんて戯けた錯覚抱いてるわけでもねえだろうが。……それともあれか、俺が先に出してやらなきゃお嬢ちゃんはビビッて出せないのか?」
拳をバキボキと露骨に鳴らしながら、間合いを詰めて告げてくるその挑発。
良いだろう、元より殺す心算だ。相手からもその許可が出ている以上、躊躇ってやる義理もまた螢にもないのは事実だ。
故にこそ、その挑発に乗るように、櫻井螢は虚空に“あるモノ”を掴むように構えて静かにその一言を紡ぐ。
『Yetzirah
形成 』
瞬間、燃え上がるように螢の手元に現れたのは一振りの炎を纏った剣。
この国特有の刃物……刀よりも古い、古代において祭儀に用いられた剣と酷似した形状の武器である。
これこそが聖槍十三騎士団黒円卓第五位、レオンハルト・アウグストこと櫻井螢が保有する聖遺物。
「――緋々色金。これが私の聖遺物。さぁ、私は抜いてやったぞカズィクル・ベイ」
おまえも出すなら早くしろ、炎の剣を構え告げる螢の挑発に相手もまた面白いと鼻を鳴らしながら獰猛な笑みと共に同じく一言。
『Yetzirah
形成 』
瞬間、ヴィルヘルム・エーレンブルグを中心に発する闇は、彼の体の至る所に赤黒い異物を次々と生み出していく。
それは杭。相手を串刺し、その血を飲み干し、亡骸を吊るし上げる、彼にとっての処刑武器。
カズィクル・ベイが誇る聖遺物、今まで数々の魂を喰らってきたオーダーメイドのその一品。
闇の賜物(クリフォト・バチカル)……そう呼ばれる串刺し公と恐れられた偉人の血をベースに作り上げられた聖遺物だ。
「……その下劣な性格そのままの、禍々しさ溢れる姿だな」
「そいつはどうも。だがなレオン、その棒きれでてめぇは本気で俺に勝つつもりかよ」
笑わせると見下す全身凶器。確かにその姿に比べれば、己のこの一振りは或いは脆くも相手には見えるかもしれない。
しかし――
「心配無用だ、ベイ中尉。貴様はその棒きれで朝陽を待たずに燃やし尽くされる」
螢のあからさまな挑発返し、それにベイはあえて乗りながら高々しく叫んだ。
「面白ぇ! 俺を燃やし尽くすってんなら、ザミエルくらいの火力はちゃんと持って来いよ!?」
そう叫びながら、その腕を振るい飛ばすのは全身より生えている無数の杭。
ハリネズミのように生えるソレを容赦も呵責も一切無く、カズィクル・ベイは次々に繰り出していく。
対する螢は正眼に剣を構えると同時、迫り来る杭を片端から切り捨て、本体を両断する為に駆け出した。
異能を振るう魔人たちの戦いは、いよいよと白熱したものへとなっていく。
……アレは何だ?
激痛が走り朦朧としている意識の中、霞む視界の端で行われている異能の戦い。
先程までの相手云々が既に常識離れしたものであったが、それにしても今行われているのは更に輪をかけて度が過ぎた出鱈目だ。
少なくとも、藤井蓮の知る常識の枠内にあのような異形の凶器を種も分からぬ方法で出現させる手品は存在しない。
否、存在してはいけないとそれは言ってもいいだろう。
黒髪のレオンと呼ばれていた少女が振るっている炎を纏う剣もそうだが、ヴィルヘルムだかベイだかいう男が全身から生やしているあの杭……あれらは一体何だというのか。
一目見た瞬間、それでも蓮が確信できたのはただ一つ。
アレらは危険だという、本能が警鐘鳴らしたてる警戒のみ。
だがそう思う一方で、自分の頭の中の何処かが告げていたのもまた確かだった。
俺はアイツらが扱っているアレを知って――
「……うぅ……ッ……れ……ん……」
微かな呻き声と共に起こる身じろぎ。それが少女に押し飛ばされた拍子に吹き飛び隣で転がっている沢原一弥のものと気付き、蓮はそちらに漸く意識が向いた。
「か、一弥……大丈夫、か……?」
足が折れて這って近付かなければならないのがこの上もなく歯痒く感じる。だがそれでも大切な幼なじみの安否が気になる以上は愚痴っている暇も無い。
たった数メートルの移動に大幅な労力を伴いながら、それでも一弥にまで辿り着いた蓮は彼の容態を確認する。
素人目に見ても恐らくは重傷。それもそうだろう、あれだけバケモノじみた男の怪力に嬲られたのだ、生きているだけでも運が良かったとも言える。
兎に角、早く一弥を病院に連れて行かなければ危険だ。そう思った蓮は折れて移動もままならない自身の足と身体に鞭打ちながら、それでもやるしかないと一弥を背負って動き始める。
幸い、奴らは内輪もめか何かの殺し合いの真っ最中。既にこちらの事など忘我の彼方なのか完全に意識の埒外だ。
ならば今が最後にして最大の好機でもある。今の内に、今ならば逃げ――
「ばぁっ」
――と、そこでまたしても立ち塞がるように現れる少女を装う赤毛の魔女。
当然、眼前の人物の登場に蓮の脳裏に絶望が広がったのは言うまでもない。
不味い、完全にこいつの存在を忘れていた。今まで日和見を決め込んでいたとはいえこいつもまた男の仲間であることは間違いないのだ。このまま自分たちを見逃すなど……そんなこちらに都合の良すぎることあるはずもない。
ならばどうやって切り抜ける? 焦る思考の端でその方法を高速で必死に探そうとする蓮を他所に、マレウスと呼ばれていた少女は鈴の音を転がしたような笑い声と共に言ってくる。
「そう警戒しなくたっていいって。わたし、あなたたちに危害を加えるつもりなんてないし」
そう言いながら覗き込むように膝を折ってこちらに視線を合わせながら、マレウスは告げてくる。
「それどころか、質問の返答次第であなたとあなたのお友達、助けてあげてもいいわ」
急にそんなことを言ってきた相手の意図が分からず、困惑を示す蓮。しかしマレウスはそれに気にした様子もなく、既にその質問とやらに勝手に移行していく。
「ねぇ、あなた……さっきベイ相手に何をしたの?」
表情と口調そのものは可憐を装った外見相応の愛嬌にも満ちたもの。しかしその本質、そのこちらを逃さぬ視線と発する雰囲気は食虫植物めいた妖艶で……そして恐ろしくも感じる得体の知れない気味の悪さだ。
ゴクリと生唾を思わず飲み込みながら、対峙する少女からせめて視線は逸らせないものかと抵抗しようとするも、何故かそれが許されない。
己がそれこそ正しく、その妖花に捕食寸前で囚われていることを蓮はそこで初めて自覚した。
「わたしも目を離したつもりもなかったし、しっかり見てたんだよ。それこそベイだって耄碌してない限り同じでしょうね。……けど、よく分からなかった。気付いたらあなたはベイからお友達を取り戻していた。しかもそれだけじゃなく――」
そこで一旦区切りながらマレウスがその手に掲げてこちらへと示してみせたのは真っ二つにされたサングラス。
先程まで、確かにベイが掛けていたそれであり、そして同時に――
「――コレ、それとベイの額の傷。君がやったんだよね?」
まるで傑作だと言わんばかりに楽しげに言質を取ってくるマレウス。
正確に言えば、一弥を助けた行動とは違い、そちらは蓮の意志でやったものではない。
しかも、どちらにしろどうやったかすら当人の蓮だって分かっていないのだ。
そんな蓮の内心を知ってか知らずか、どちらにしろある種の興奮すらもしているようなマレウスの言葉は止まらない。
「凄いよねぇ、カッコ良いよねぇ、一体どうやったのかな? それがあなたのエイヴィヒカイト? どんな聖遺物を使ってるの? ううん、それよりも――」
瞬間、それこそ息が止まるかと思った。否、実質止まっていた。
それどころか、意識を手放さずに済んでいたのが何たる僥倖かと言ったところか。
「――アレって、あいつに教えて貰ったんだよね?」
その言葉を告げたその瞬間、その一瞬のみは確かに眼前の少女もまたあの時に襲い掛かってきたベイと寸分変わらぬ存在であった。
圧倒的な興奮と高揚……そしてそれに勝るとも劣らぬ激しい憎悪。
それが彼女自身が言葉の中に出した「あいつ」とやらに向けたものなのかは知らないが、それは凡そ尋常な感情ではなかった。
あいつ……彼らが言っていた言葉から察するならばメルクリウスか? それが何処の誰かなど蓮にはサッパリ分からないが、それでもハッキリと理解できることがあるならばただ一つだ。
「……人違い、だ」
蓮が告げたその言葉に、マレウスはそれこそ「え?」と言った驚きも顕にその表情をポカンとする。恐らく、蓮の言った言葉の意味が理解できなかったのだろう。
舌打ちを吐きながらも、もう一度、無駄を承知の上でそれでもハッキリ分かるように蓮はマレウスへとその答えを再び告げる。
「俺は……おまえらの言う、メルクリウスだか何だかなんて、知らない」
知りたいとも思わない。
ハッキリと告げる蓮のその言葉に呆気に取られていたマレウスはやがて――
「あはっ………あはは……あははははははは」
まるで最高に笑えるジョークでも聞いたと言わんばかりに腹を抱えるように笑い出すマレウス。
その様子に蓮は警戒を顕にしながら、その視線を離さない。
ベイのようにいきなり襲い掛かってきた場合は、何とかしなければ、せめて一弥だけでも命懸けで護らなければと決意を固めていたその時だった。
「……あは……ははっ……あぁ、お腹痛い。……本当に、面白いこと言い出すね、君?」
未だ肩を愉快気に震わせながらも、それでも何とか笑いだけは収めた様子でマレウスの方からそんな言葉を投げかけてくる。
その眼に宿り蓮を捉えて離そうとしないのは、掛け値の無い興味。どうやらその一心であるようだった。
「うん、合格。わたし、君が気に入ったよ。だからぁ――」
そう言いながらゆっくりとマレウスの手がこちらへと伸びてくる。身構え振り払おうかと咄嗟に抵抗しかけるも、その相手の動作は優しげでありながら有無を言わせぬものだった。
胸から腕へ、そして足へ……全身の負傷箇所へと添えるように差し出されてきた後に残るのは何とも言えないこそばゆいとも表現できそうな奇妙な感覚……。
「良いもの見せてもらったし、楽しませてくれたお礼。約束通り、お友達共々わたしが助けてあげるよ」
ニコニコと笑いながら平然と言ってくるその言葉と同時、添えられていた手が離れたと同時に知覚したその事実に蓮は驚愕する。
傷が……痛まない?
「いわゆる応急処置なのだ」
どこか悪戯っぽく、そして同時に自慢げに蓮へと告げると共に、マレウスは次に同様の処置を一弥へと施していく。
「痛いの消してあげるから、後でちゃんと病院に行くのよ。飛んだり跳ねたりしたら駄目だからね」
まるで親切なお姉さん気取りでそんな事を言ってくる相手の真意……この行動の意図が蓮には理解できない。
鳩が豆鉄砲でも喰らった、まさにそんな顔をしていたのだろう。それを見たマレウスの方が、
「て、なーによその顔、人が折角親切心出してるのにさ」
本気なのか冗談なのか、不満気に可愛らしく口を膨らませそんな抗議を示してきていた。
無論、訳の分からない蓮にコメントの余地はなかった。
「まったく、少しは感謝して欲しいものだよ、美少年くん」
そちらから問答無用で襲い掛かってきておいて何をいけしゃあしゃあと、などと当然のように思ったりもしたが、相手の言動を測りきれていない以上、下手に刺激するのも危険かと押し黙る。
それにマレウスの方がどう思ったのかは分からない。ただやれやれと呆れた様子で溜め息を吐いた後、次に彼女が蓮から視線を外して捉えていたのは、未だ異能の殺し合い真っ最中のあの二人の方であった。
「もうちょっとくらい君とお話してたかったんだけど……聖遺物まで抜いてドンパチやってるあっちもそろそろ止めないといけないのよねぇ」
ほんと脳筋て手間がかかって嫌よねぇ、と蔑む笑いも零しながら告げるマレウスは再びその視線をこちらへと戻してくる。
「じゃあ、名残惜しいけど今夜はこれでお終いにしよっか。ああ、色々とごめんなさいね。教会がどうとか、あれ冗談だから。てゆーか、そんなこと出来るわけないし」
あっけらかんと、先程火点けと称して告げてきた挑発を撤回するマレウスの言葉に、それこそ蓮が何かを言い出すその前に、彼女の指がピタリと眉間へと突きつけられる。
「ほんと君、面白いよねぇ。……食べちゃいたいくらい。じゃあ、またいずれ会いましょうか美少年くん――ううん、ツァラトゥストラ」
同時、蓮の身体は制御を失い、力無く地面へと崩れ落ちていった。
それを満足気に確認し、頷きながら、赤毛の魔女は何事かを気の抜けた声で言いながらあの殺し合いをしている二人の方へと近付いていく。
その結末を最後まで見届けるその前に、藤井蓮の意識は急速に途切れていった。
「はぁいはぁーい、終了撤収―、ほらそこ、いつまでジャレてんのよぉ。やめてくれないとわたし泣くよー泣いちゃうよー、わたしが泣くと大変だよー、だから仲良くしよーよー」
間の抜けた赤毛の魔女からの仲裁の言葉。
だがそれを投げかけられた死闘に意識を投じる二人の魔人が返答と抱いた感想は奇しくも同じもの。
即ち――
――知るか、阿呆。
そう、今更そんなチャチな仲裁一つでどうして止められるというのか。
もう既に、自分たちには火が点いてしまっている。
下らない外野からの妄言に感けている暇すらも無い。
「――てめぇだってそうだろう、なぁレオン!」
その絶叫と同時に再び飛ばすは“形成”した杭の群。
串刺しの穴だらけ、血も魂も啜り取った干乾びた成れの果てへと変える為のその猛撃はしかし眼前の相手が構える炎の剣が尽くに切り裂き、燃やし尽くしていく。
それだけではなく――
小さく息を一度吸い込むと同時、櫻井螢は今まで身構えていたその姿勢を更に腰を落とした低い姿勢を保ちながらヴィルヘルム・エーレンブルグに向かい疾走。
獲物を瞬時に狩りたてる為に疾走する捕食獣を連想させるその動きは、超人的脚力の恩恵も伴い、瞬時に彼我の距離の差を踏破する。
下段から振り上げるように切り払われる緋々色金。灼熱を宿す剣先がヴィルヘルムの身体に生えた杭を斬り飛ばしながら、白貌の髪の一房をも切り取っていく。
首から上の部位を斬り飛ばす意図で振り抜いた一撃……それをギリギリで躱しながらヴィルヘルムが表した表情は笑み。
「――面白ぇ!」
ハッと小さく鼻を鳴らした笑いを飛ばしながら、一歩下がると同時にお返しとばかりにヴィルヘルムが繰り出したのは拳の先端に生やした杭。
螢は咄嗟に緋々色金の刀身にて受け止めるも拮抗は一瞬。力負けと同時にその身ごと弾き飛ばされる。
その姿をただ見送る――などと戯けた甘いことをヴィルヘルムがするはずもない。
追撃だと言わんばかりに射出した杭の群が、宙を吹き飛んでいる螢へと向かって殺到していく。
宙を弾き飛ばされていた態勢から、空中にて器用に瞬時に態勢を立て直した螢は迫る死棘の数々を握る緋々色金によって全て薙ぎ払う。
宙にて追撃を薙ぎ払った螢は、そのまま着地と同時に再びヴィルヘルムへと向かって疾走。
焼き直しのように繰り返してくる相手の特攻に、それこそヴィルヘルムの顔に侮蔑の笑みが浮かんだのは言うまでもない。
特攻を敢行してくる螢に対し、ヴィルヘルムは真っ向から逃げる心算は毛頭ないと示すように待ち受ける。
相手がこちらの間合いへと踏み込んできたのと同時だった。
ヴィルヘルムはその長い足――先端に杭までプラスしたリーチの長さをもって真正面から突撃してくる少女を串刺しにせんと繰り出す。
相手のリーチ外からの攻撃に螢は迷うこともなく跳躍。杭を蹴り出して来たヴィルヘルムの一撃を躱す。
だがそれは同時に逃げ場のない宙へと自ら身を晒したのも同じ。
「バカが! 串刺しにしてやるよぉ!」
宣言と同時、前方跳躍してこちらへと向かってくる少女にヴィルヘルムは今までの比ではない数の杭を相手へと叩き込むべき一気に解き放つ。
元より、空中に身を晒す螢に逃げ場は無い。ましてや繰り出された杭の数は例え超人的身体能力と動体視力を有する聖遺物の使徒であれ、無傷で裁き切れるものではない。
「……ああ、無傷ならばな」
だが最初から彼女の頭の中に、この眼前の魔人を相手に無傷で勝てるなどと都合の良い考えなどありはしない。
仮にもカインと並ぶ実力者……肉を切らせて骨を断つ、それくらいの考えは最初から織り込み済みだった。
故に、迫り来る死棘の猛攻、それを螢は致命傷を避ける必要最低限のものだけを選別して切り払い、他の襲い掛かる攻撃には歯を食いしばって耐え凌ぐ。
勢いを落とさず、怯むこともなく真っ直ぐに、そのまま一気にヴィルヘルムを刃圏の間合いへと捉える。
同時、再び翻り振るわれた灼熱の剣。
流石のヴィルヘルムも相手が被弾を前提にしてまで攻撃を仕掛けてくる覚悟だとは予期していなかった。迎撃の為に繰り出した杭の残りでは緋々色金を防ぐには足らず、そして間合いを外して回避しようにも迫る刃の方が速い。
「ッ!?……やってくれるじゃねえか、劣等」
苦々しく、しかし同時に何処か歓喜すらも同等に含んだ呟きによって、ヴィルヘルムは螢の繰り出した攻撃による功績を素直に認めた。
咄嗟に防御の為に伸ばした左腕……その二の腕に喰い込みながら傷口を焦がすように熱を発しているのは緋々色金の刀身である。
一太刀……同じ聖遺物の使徒といえど四半世紀も生きていない黄色い雌猿が小賢しくも証明してみせた功績。
どうやらこの半世紀、思った以上に己もまた倦怠の中で腑抜けていたことも反省の余地ありだが、それでもこのヴァルキュリアの後釜が示して見せた実力はハッタリではない。
「……っつてもまぁ、俺の方がやっぱ強えがな」
「――ッ!?」
ニヤリと笑いながらヴィルヘルムがそう告げたのと同時だった。白貌の魔人は更に動けば深く食い込む刃など物ともせず、そのまま近距離で対峙したまま固まっていた相手へと問答無用の拳の一撃を叩き込む。
殴り飛ばされ螢が吹き飛んでいくのと同時に、嫌な音を立てて抜けていく緋々色金と蒸発し切らなかった血液の残りが血の線を引きながら一緒に離れていく。
痛みはそれなりにある。血を流したというその事実にも色々と思うことはあるがそれも今はどうでもいい。
それよりも――
「気概は認めてやるがよぉ、レオンちゃん。まだ温ぃんだよ。この程度の熱で俺を燃やそうなんざ……まさか本気で言ってんじゃねえだろうな、ああ!」
そう猛る恫喝を顕にするヴィルヘルムに、吹き飛ばされた螢は再び構えを戻しながら無言のままに戦闘続行の意志を示すように対峙してくる。
まだまだやる気は充分ということらしい。当然のことではあるが……まぁ上等だ。
「てめぇ、まさか位階は“形成”止まりなんてことはねぇだろ。チマチマ小手先でやり合うのも面倒だ。――出せよ、切り札をよぉ」
それとも今度はこっちから出してやろうか、と再び挑発を示してくる相手に、螢は再び相手の意図していることを理解する。
要するに、“活動”、“形成”と来た以上、次はそろそろ本気の全力でのぶつかり合いを相手はご所望らしい。
爛々と赤光を放つ鋭い眼光が、切り札を見せてみろと挑発的に誘いかけている。
元より螢とて“創造”も使わずに眼前の男に勝てるなどとは思っていない。向こうの面倒な攻撃のことも考慮して、そろそろ使用も視野に入れながら動き出そうとした瞬間だった。
「――だからぁ、わたしはさっきから終了って言ってるでしょうが。こんな簡単な言葉も理解出来ないのかなぁ、あんたたち筋肉バカは?」
踏み出しかけていた螢の足がビクリと強制的に止まる。それは迎え撃つように動こうとしていたヴィルヘルムもまた同様だったらしい。
「マレウス、てめぇ……ッ!」
忌々しそうにヴィルヘルムが睨みつけながら呟くのは、螢ではなくもう一人の乱入者の呼び名。
視線のみ動かせる螢もまたヴィルヘルムが睨んでいるその方向を同様に鋭い視線で睨み据えた。
「何よ、命令に違反してるのはあんたたちでしょ? わたしはそれを止めてあげてるのに、八つ当たりしてくるなんてお門違いだと思うんだけど」
制止を無視された事に腹が立っていたのか、不機嫌そうな眼つきと口調でヴィルヘルムを相手に怯むこともなく意志を示すルサルカ・シュヴェーゲリン。
齢三百に近しい魔女はその普段は猫を被るように戯れに隠しているその本性を垣間見せながら二人の同胞たちへと告げる。
「ジャレあう程度だってんならまだ可愛いもんだから大目に見てあげるけど、聖遺物まで持ち出してやり合うなんて馬鹿でしょ、あんたたち。下手したら同胞殺しの禁忌に触れてもおかしくないわよ、ソレ」
非難するように告げる事実……禁忌という言葉の意味を理解できる二人にとってもそれは易々とは無視できぬものであったのも確かだ。
聖槍にてこの身へと刻まれた聖痕。これは決して単なる飾りではない。
黒円卓への……黄金の獣への忠誠、身も心も捧げることをもってして形とするソレは、現実として確かな効力を有した言うならば戒め。
ソレを破ることは黄金の獣への裏切り……そして裏切りは浄化という形を持って粛清されるいわば呪い。
彼の存在への叛意と一度でも認識されれば、この誓いの聖痕はこの身を焼き尽くす裁きへと変わってしまうのだ。
「ヴァルキュリアやカインみたいに本気でなりたいってのなら止めないけどね、そうじゃないならこの辺で大人しく分別持って収めなさいよ」
だから皆仲良くしようよ、と先の老獪な魔女の雰囲気を瞬時に一変させるように笑みを浮かべてそんな戯けた事をルサルカは告げてきた。
ここまで勢いよく火が点き始めているのに、燃え上がる前に消せ……それは螢はともかくとしてヴィルヘルムにとっては早々に納得しがたいことでもあった。
しかしながら誓いは絶対だ。ヴィルヘルム自身の誇りと名誉にかけてもそれは違えられない。
眼前の獲物への怒りと餓えた闘争心。拮抗するように存在するのは黄金の獣へと対する畏怖と忠誠心。
鬩ぎ合うヴィルヘルムの内心にて選び取った結果は……
「……チッ、何だか一気に白けやがったな、畜生」
苛立たしげに盛大な舌打ちと共に、拘束されていたその動きが自らに戻るなり、ヴィルヘルムは形成していた武器を消して螢に背を向けた。
それはつまりこの場はこれにて収めるという手打ちを表した彼の返答だった。
まだ機会はある。祭りは始まったばかりなのだ。
レオンもあちらで転がっているガキを含めても、まだまだ充分に狩りたてる機会は残っている。
早々にカインやヴァルキュリアのような間抜けの仲間入りなど……カズィクル・ベイの誇りが決して許しなどはしない。
だからこそ、ここは退いてやる。己の方から、格上の度量を見せ付けてやる為にも。
「俺ァ帰るぞ。後はてめぇらの好きにしろよ」
もう興味も無い。つまらないし、白けた。もう知るか。
まるで不貞腐れた悪ガキそのままの態度も顕に、白貌の魔人は現場を振り返りもせずに帰還の途へと戻っていく。
昂ぶったり、興醒めしたり、怒り狂ったり、歓喜したり、また白けたり。
自分でも感情を持て余す今宵の結果に舌打ちを吐きながら、それでも己の中の獣の飢えがまだまだこれっぽっちも満たされてはいないことをヴィルヘルム・エーレンブルグは自覚してもいた。
「あらあら、不貞腐れて帰っちゃったよアイツ」
クスクスと笑うようにそう言ってくるルサルカに螢は無言で応じるのみ。
戦いに水を差されたという結果……ヴィルヘルムほどでなかろうともそれに不満を持っていないわけでもなかったのだ。
「あなたも見かけや態度によらず随分と好戦的よね。アルベルトゥスがそんな風に育てたのかしら?」
からかうようなその物言い、こちらへの探りすらも含めただろう問いかけに答えてやる義理も無い。
無言を返答とする螢を呆れたように溜め息を吐いて見せながら、ルサルカはやれやれと言った様子で告げてきた。
「ほんと無愛想よねぇ。わたしたち相手は兎も角としてもさ、明日からの新生活にそのままっていうのも何かと不味くない?」
どうせならもっと明るいキャラ路線でいこうよ、などと訳の分からぬ事を言ってくるルサルカの言葉に、どうでもいいと言った様子で漸く彼女の方へと逸らしていた視線を戻しながら告げた。
「あなたの方こそ、戯れが過ぎて本来の目的に支障をきたしかねない問題だけは起こさないようにお願いしたいわね」
師と聖餐杯が決めた配役、任務とはいえ、この油断ならぬ眼前の魔女と共にこれから任務をこなさねばならぬというのは憂鬱以外の何ものでもなかった。
「あ、酷ーい。折角人が心配して色々気にかけてあげてるのに、そういう態度は誉められたものじゃないなー」
別にそちらに褒められたい等という戯けた考えは最初から微塵も持ち合わせていない。むしろ大きなお世話だ。
面と向かって言ってやろうかとも考えたが、これから先のことを考えればあまり亀裂を深めすぎて険悪な関係になるというのもよろしくはない。
故に仕方ないので、それはどうもと言った程度の適当な返答のみを示しておく。
それよりも、だ。
「あなたも帰還しなくていいのか? ベイ一人を放置しておくのも危険だと思うが」
あの言葉通りの白けた様子を見る限りでは、真っ直ぐ帰還しそうではあるが、帰り際、途中に八つ当たりに余計な騒動を起こさないとも限らない。
連続首狩り魔の一件でただでさえこの街は今緊迫感に包まれてもいる。これ以上の余計な騒動は自分たちにとっても今は歓迎すべきものではない。
「分かってるわよ、死体の処理が済んだらわたしもそろそろ帰るわ。……けどレオン、あなたは残ってどうするつもり?」
チラリとその視線をあちらで気を失って転がっている少年たちへと向けながら、ルサルカは笑う。
「わたしさぁ、あの子達……特に君が助けた美少年くんの方が少し気に入っちゃってさぁ。抜け駆けとかあんまりされたくないんだよねぇ」
牽制を顕に告げてくるルサルカのその言葉に、螢は案ずるなと言った様子で首を振る。
「私も彼らに手出しをするつもりはない。目を覚ますまで様子を見ていた方が良いだろう? だからそれまでは残る。それだけだ」
「気がついた?」
不意に意識を取り戻した藤井蓮の視界、それを淡々とした態度も顕に覗き込むようにそう様子を尋ねてきたのはあの黒髪の少女であった。
……確か、レオンと少女が呼ばれていたのを蓮は思い出す。
そうだ、とハッと気付いたように周りを見回す。そこには眼前の少女以外には沢原一弥と……他には、誰も居ない?
あのヴィルヘルムと名乗った白貌の男も赤い髪の少女の方も、その姿は影も形もありはしない。
そしてそれどころか――
「……死体、は?」
自分が殺した(?)と疑わしき惨殺死体。その亡骸どころか血痕まで無くなっている事実に蓮は戸惑う。
「処理はマレウスがやった。それからベイも、今はあなたとあなたの周りに興味を無くしたようだから心配は要らない」
安心させているつもりなのか、そんな言葉を投げかけてくるレオンだが、その発する雰囲気そのままの素っ気無さも相まっては安心できる保証など何処にも無い。
そもそもあのヴィルヘルムと争っていたようではあるもののこの少女とて連中の仲間であろうことは間違いないはず。
「…………」
「どうかした?」
押し黙ったこちらを静かに観察するように視線を向け、問いかけてくるレオン。
しかし警戒しながら沈黙を保つこちらにやがて埒が明かぬと判断したのか、その視線をこちらから一瞬、傍でまだ気を失ったままの一弥に向けたかと思えば、
「今夜は、もうそこの彼も連れて帰りなさい」
言われた言葉にはいそうですかと従えるはずも無論ない。確かにこんな得体の知れない連中とは係わり合いになりたくもなければ知りたいとも思わない。
けれどこれが一時的に去ったに過ぎない脅威である以上は、そう簡単に警戒など解けるはずもなかった。
そんな蓮の感情など知ってか知らずか、或いはこちらの考えなどはどうでもいいのかレオンが次にこちらに言ってきたのは随分とふざけた台詞でもあった。
「忘れろ、と言っても無理でしょう。忘れてもらっても困るけど、今日のところはもうあなたに用はない」
今日のところは……などと言ってくるということは、これから先においてのこの連中が自分たちにとっての明確な脅威であるのはやはり明らか。
どうすべきか、そんな事を考えている間にも少女はその視線をチラリと向こうで大破している一弥のバイクを眺めながら一言。
「せいぜい交通事故にでも気をつけることね」
「なっ……」
他意はない、そう本人は思っているのかも知れないが、先程までの状況等も合わせて見ればあからさま過ぎる言い方に警戒どころかむしろカチンとくるくらいだった。
「身体は平気?」
「…………」
しかし変わらずお構い無しとでも言ったように、平然とまた話題を変えてくる相手の態度には、蓮とて続く文句を口に出すことも出来ない。
「平気みたいね。立って帰るくらいは出来るでしょう。まぁ、向こうの彼を連れて帰る余力がないなら、こちらで手伝ってあげてもいいけど」
「要らない。それからそいつに触るな」
そう言いながら手伝おうかと一弥に近付きかけたレオンを、蓮は牽制する様に言葉を投げて止める。
先程助けてくれたことや現状の相手の言動を見る限りでもこちらに害意は無いのだろう。
しかし得体の知れない奴に大切な幼なじみを近づけさせることを拒む蓮は、相手と一弥の間に遮るように立ち塞がる。
その態度で少女の方も凡そ察したのだろう。「そう」と相変わらずに素っ気無い一言で納得したように大人しく引き下がる。
まだ相手を多少警戒しながら、自身の重たい身体に鞭を打つ覚悟で気絶している一弥を背負う。
起こそうかとも思ったが……この現状、眼前の少女のことや云々で説明を出来る精神的余力はありそうにも無い為、このまま帰るまでは眠っていてもらうこととしよう。
そう思いながら少女を最後に一瞥した後に背を向け、ここから立ち去ろうと歩き始めたその時だった。
「ああ、それとあなたの名前は?」
何故か急に思い出したとでも言うようにいきなり問いかけてくる少女。
本当に、その好き勝手すぎる言動にはいい加減ウンザリしてくる。
「……教えるわけないだろう」
こちらの身元がばれるような情報をどうして突然襲い掛かってきた得体の知れぬ連中に教えねばならぬのか。
先程の男相手にも最初に言ったが、お断りだ。
「ベイのことなら、心配ないと言ったはずだけどね」
「おまえを信じろって?」
「こんな嘘を吐いて、私に何か得があるなら教えて欲しい」
……まぁ確かに、そう言われれば或いはその通りなのかもしれない。
しかしだからと言って、やはり教えてやる義理だって無いはずなのだ。
「自己紹介、しないの?」
随分とこの一点にしつこく拘ってくる相手の物言い。
いい加減に面倒だと思った蓮は、ならばと振り返りながら若干挑発気味に相手へと言葉を返す。
そう、あのふてぶてしい態度を一度だって崩したことの無い幼なじみをイメージしながら。
「他人に名を尋ねる時は、まず自分から名乗るもんだろ? 学校で習わなかったか?」
これでどうだと思いながら言ってやったその言葉。
それに対して相手は後半の部分に僅かばかりとはいえ反応を示したかとも思えば……
「……それもそうね。確かにあなたの言う通りだわ」
まるで納得したようにあっさりと頷いてくる始末。
何だそりゃと反応するよりも前に、少女は相変わらずの態度のままだったが続けてその口を開き告げてきていた。
「螢……櫻井螢。どうでもいい名よ、もうあまり呼ばれないし」
あっさりとまるで何の執着も持っていないと様子も顕に、自らの名前を名乗る少女……櫻井螢。
自分自身でどうでもいいと言っていたが、本当にどうでもいいと思わせるその態度には若干の疑問もまた蓮に抱かせていた。
まぁそれもまた今はどうでもいい。向こうの事情など知らないし、知りたくもない。
それにしてもと蓮が困ったのは、相手があっさりともったいぶりもせずに先に名乗ってしまったことだ。
別にこちらは名乗るなんて一言も言っていないが、それでも挑発とはいえ言い出しっぺはこちらだ。
相手にだけ名乗らせ、自分は名乗らないというのも……些か古風な価値観を持つ藤井蓮からすれば決まりが悪いのも同じ。
故に――
「藤井蓮……ただの学生だ」
一応、偽名を使おうかとも一瞬考えた。
けれど結局、蓮は自らの本名を仕方なさげという態度も顕にしながらではあったが、気付けば名乗っていた。
当面の危機は去った、相手の言葉を額面通りに受け止めて気が緩んでいたのか。或いは眼前のこの櫻井とかいう少女が日本人であったことにでもどこか安心してしまったのか。
……どちらにせよ、あまり頭のいい選択ではなかったことを名乗った後にしみじみと思った。
「そう、じゃあそっちの彼は?」
「それとこれとは別だ。俺が教えていいことじゃない。知りたきゃ本人に直接訊けよ」
背負った一弥の名前の方もついでに知ろうという魂胆だったのか、しかしそこはピシャリと蓮ははっきりと拒絶の意を示す。
自分が名乗ってしまった以上、それこそ下手をすれば一弥とてもはや芋づる式は避けられないかもしれない。
しかし最後に残った一線が、それでも出来るだけ彼を巻き込ませないようにと蓮へと踏み止まらせたのだ。
「……訊いたけど教えてもらえなかったんだけどね」
「? 何か言ったか?」
「いいえ、何でもないわ」
ポツリと言った何事かを聞き逃した蓮は尋ね返していたが、あっさりとした態度でそう返されれば何も言う言葉も無い。きっと言葉通りにどうでもいいことだろうと蓮は判断した。
「そんなことより、ベイとマレウスの気が変わらない内に帰りなさい。これ以上怖い目には遭いたくないでしょ?」
「俺は……」
話題を変えるように螢が告げてきたその言葉。
怖い目……今宵遭遇したその事実に蓮の中で改めて反芻する恐怖。
あの化物のような男に殺されかけ……一弥もまた殺されかけ。
奇妙な声に従って自らが得体の知れない力を振るい……。
いいや、それ以前にまず一つ。大事なことがあっただろう。
「俺は、人を……」
殺し――
「殺したのかもしれないし、殺してないのかもしれない。
後から来た私には、正直何とも言えないところだわ」
櫻井螢の物言いは決してこちらを気遣ったり慰めたりだとか、そんな優しい態度でも言葉でもない。
「ただ、彼らは筋金入りの外人嫌い(ゼノフォビア)だから、あなたを人間だなんて思っていないわよ。ここでいつまでも愚図愚図してて、またそんな奴らに捕まりたいの?」
酔狂ね、なんて言ってくる相手の言葉はむしろ警告だ。
これ以上、痛い目や怖い目を見たくないのなら、この場からさっさと去れとこの少女は言ってきているのだ。
言われるまでもない。これ以上の面倒事はごめんだ。
「それとも、私に家まで送ってほしいのかしら」
「………ッ」
それこそ冗談じゃない。これ以上、こんな奴らと関わってたまるか。
そして大切なこいつらを関わらせてもたまるか。
そう思ったからこそ、ハッキリと櫻井螢を睨みながら藤井蓮は告げた。
「余計なお世話だ。ああ、帰るよ」
「そうした方がいい。じゃあね、藤井君。また会いましょう」
生憎と、こちらは二度と会いたくも無い。
「……気安く、呼ばないでくれ」
だからこそ吐き捨てるようにそう告げて、藤井蓮は沢原一弥を背負いながら踵を返す。
その背中を見送るように、櫻井螢はただ無言のままに肩をすくめるだけだった。
帰路、どうしようもない苛つきに襲われたのは言うまでも無いだろう。
どうしてこうなった? 何で俺が……いいや、俺たちが?
訳の分からない状況、理不尽な襲撃、常識外れの暴力と現象の数々。
得体の知れない連中の何を勘違いしているのかも分からない物言い。
聖槍十三騎士団だの、ヴィルヘルムだの、櫻井螢だの。
エイヴィヒカイトだの、メルクリウスだの、ツァラトゥストラだの。
さっぱり意味が分からない。誰か教えてくれと叫びだしたいくらいだった。
不調の身体に鞭を打ちながら、それでも気を失った沢原一弥を背負ったままに無事家まで帰れたのは、或いは奇跡と言ってよかったかもしれない。
一弥のポケットから鍵を取り出して開け、彼の自室のベッドに放り込んできてそれで一区切り。
そこまでその重労働を行えたのが限界だったのか、自室になだれ込むように入ると同時に玄関口にて吐き気に襲われぶちまける様に嘔吐。あれほどボコボコにされて吐いたというのに胃の痙攣はちっとも治まってくれない。
「おっ―――げぇ―――ッ」
ボタボタと盛大に零れる胃液。酸っぱい臭いが鼻についてますます不快さが増す。
こんなに汚してしまったら掃除が大変だ。朝、香純が起こしに来る前に何とかしておかないと。これで説教なんて目も当てられない。
「はあ……ぁ……ぅえ……っ」
己の反吐を片付ける作業を必死に行う。途中、耐え切れずに洗面所で再び二度も吐いてしまった。
これでいいか、と念入りに片付け終えて一区切りと共に肩で息をした疲労の中、思い出したのは一人の少女の顔だった。
「香純……」
今頃、隣の部屋でぐっすり寝ているのだろう。がたがた騒がして起こしてしまわなかっただろうかとふと不安にもなる。
あいつは自分が人を殺したかもしれないことも、一弥と一緒に妙な連中に襲われたことも当然知らない。
……今、彼女にそれを知られることを何よりも恐れている蓮の恐怖も。
知られたくない。知られてはならない。
だから今夜のことは、一弥と一緒に何とか隠し通す。
……そう言えば、あいつはどうしてあの場にやってきたのか?
それもまた思い出したように気になりもしたが、今はどうでもいい。というより、そこに思考を回すだけの余力が無かった。
ただ今は……香純にだけはこの異常を知られてはならない。
それだけが藤井蓮の遵守せねばならぬ誓いだ。
もはや胃液すら出なくなった状態で、そんな決意も新たにしながらボロボロの服の袖で汚れた口許を拭い取る。
ふと気付けば、奇妙な事に返り血と思わしき血痕は何処にも付着していなかった。それどころか、一弥もそうだったが、自分の身体もまたあれ程嬲られたはずの負傷が消えてしまっていた。
応急処置……そうマレウスとかいう女は言っていたが、これではむしろ完治だ。
「……まったく」
これもまた常識外れ、ありえないことだ。
益々訳が分からなくなる。いっそのこと、全部が全部夢であってくれたなら……そう願わずにもいられない。
そんな虫のいい叶うはずも無い願いを考えつつ、服として機能しなくなったそれを脱ぎ捨てててゴミ箱へと放り込んだ。
そして、若干迷いはしたものの蓮は壁の穴から香純の部屋を覗いてみることにした。
香純は――いた。
すやすやとベッドの上で呑気な寝息を立てながら眠っている。
その姿を確認して、よかったと心からの安堵が沸き上がってくる。
そして同時、その安堵へと抱かれるように限界に達した蓮の意識はそこでブラックアウトした。