ぱっ、と蛍光灯の明かりがともる。暗がりの中、目の前で突っ立つふたつの影が照らし出されて。
ブロンドの髪と青い瞳の外国人の女性と、髪も瞳も黒い東洋人の男性の姿がはっきりと見えるようになった。そのふたりを見止めて、ただいま、の言葉のあと。
「よぉ、初めての日本の峠はどうだった?」
という、男の声。
明かりをつけた潮内優(しおうち・ゆう)は、スイッチを押してシャッターを下げる。
長身で、不敵な笑みを浮かべているその男は。いくらかふてぶてしい印象も受けるが、鋭い目つきはただものならぬものがあった。
「何を馬鹿な事を言ってるの。もしカスミに万が一のことがあったらどうするつもりだったの!」
その鋭い目つきを見て、マリー・ヘンゲルスが優を叱りつける。なかなか流暢な日本語だ。声の張り具合からもその意志の強さがうかがい知れる。が、その中にあたたかみも感じられて。
マリーが香澄を心配していたこともうかがえた。
この二人、一緒に棲んではいるが夫婦と言う訳ではなく。見た目は二人とも二十代後半から三十少し過ぎとまだ若い。言うまでもなく、香澄の両親でもない。
「それより、早く中に入ってもうおやすみなさい」
「ありがとう、マリー」
心配そうなマリーに応えたあと、香澄はふと何かに気が付いた様子を見せ。
「srechen Sie auf Deutsch」(ドイツ語で話しましょうよ)
と、マリーの母国語であるドイツ語で話し、可笑しそうにくすっと笑う。峠で龍と貴志と対峙した時には、決して見せなかった表情だ。
「そうよね、ドイツ語でもいいのよね。私ったら……」
香澄のツッコミに、少しはにかんだ笑顔でマリーは応える。
もちろんドイツ語でだ。
「車はオレが見とくから、ゆっくり休んでこい」
そういうと優はコズミック-7の方に歩み寄り。
「日本の峠は狭かったろう」
と、つぶやきながらボンネットを撫でながら不敵な笑みを浮かべている。
「そうね。狭すぎてパワーを生かしきれなかったわ」
「なにか楽しいことはあったか」
「別に。でも、走り屋ってドライバーからバトルを挑まれたわ」
「なに、それはホントか?」
優は可笑しそうに笑った。
「車が二台走っていたから、それを抜いたらそうなってしまったのよ」
「なんだよ、楽しいことあったんじゃねーか。ならオレも行けばよかったな」
香澄の話しを聞き優はなんだか楽しそうだ。
「まぁオレが造ったこのコズミック-7にお前が乗れば無敵さ。誰にも負けやしない」
「ユウ!」
マリーの叱りつける声に、優は気にする様子も無い。毎度の事だ、と言う感じだ。
このコズミック-7、優の車でもあり、優がチューニングを手がけていたのだ。
峠で見せたあの速さ、優はチューニングに関して天才的な才能を持っていると言っても過言ではないだろう。
香澄は優の車で走っていたのだ、それは今に始まったことではなく。
香澄が車で走り始めた時からそれは続いていた。
しかしマリーは香澄が車で走ることを快く思っていないようだ。
特に公道である峠道を走ることを。
「それでどうするの、カスミ」
「明日また靡木峠に行く事になったわ」
「本気なの?」
マリーは心配そうだったが、優はそうでもない。
むしろ香澄が走り屋と走るのを喜んでいた。
「私なら大丈夫よマリー。だから心配しないで」
「でも……」
「マリー、香澄を信用してやれ。大丈夫、香澄は事故ったりしないさ」
優はマリーを気遣って優しい言葉をかけた。
「香澄のことはお前もよく知っているだろ。オレとお前、ドイツに残ってる仲間たちが長い時間と手間をかけて創り上げた香澄のことを」
その言葉を聞き、マリーは表情を固くする。
「それよりも早く中に入ったらどうだ。いつまでもここにいてもしょうがないだろ」
「そうね、あなたの言う通りだわ。行きましょう」
優の言葉にマリーは促され、香澄を連れて家の中に入ろうとする。
努めて冷静を装いながら。
「優」
マリーに連れられ、香澄は振り返りながら言った。
「ありがとう。また貸してくれるよね、FDを」
「当たり前じゃねーか、お前が乗るならいつでもオッケーだぜ。それと、ちゃんとコズミック-7って呼べって前から言ってるだろ」
「それは、ちょっとできないわ」
「はぁ、つれねぇなぁ~」
優は手で頭をかきながら。
「いい名前だと思うけどな」
と、マシンを見ながら言った。
コズミック-7という名前は優が考えたのだが、妙に不評のようで。
なんとも残念そうにしている。
「Papperlapapp」(ばかばかしい)
というドイツ語のつぶやきのあと。マリーは香澄の手を引っ張って、奥のドアから出ていった。
香澄は無抵抗に、奥へと引かれてゆく。
「さてと、オレは可愛いコズミック-7の点検でもしようかね」
一人ガレージに残された優は、服の胸ポケットから煙草を取り出し。
「その前に一服するか」
と煙草に火をつけ煙りを燻らせれば。ガレージの中で、白い煙りがゆっくりと立ち昇っていった。
マリーは香澄をしたがえて、三階にある部屋へとゆく。
何の変哲も無い普通の部屋だが、広く居心地は良さそうだ。
ベッド、机、机の上にパソコン、テレビに本棚、着替えの入ったタンスなど。必要な物は取り揃えられている。
「さぁ、はじめましょうか」
マリーがそう言うと、香澄はベッドに座る。
その様子を見て、椅子に座り、マリーは机の上のパソコンを起動させた。
パソコンからはコードが引かれていていて、マリーはそれを手に取って香澄に手渡せば。
香澄は、片手でうしろ髪をかきあげて。うなじにあるコネクタにコードを接続させた。
そうすれば、パソコンの画面には様々なデータが映し出されている。
膨大な量のデータだ。マリーのためにドイツ語に統一された言語や映像が画面狭しとぎっしりとつめこまれながらも、整然と並んでいて。
青い瞳にその画面を写し出す。
「今日もなにもトラブルやエラーはなかったようね」
「何も無かったわ。あなたたちがきちんと創ってくれたおかげで」
香澄は少し微笑んだ。
画面を見ながらマリーも微笑んだ。
「何事も無くて当然よね。あなたは、私たちの持ち得る全ての力を注ぎ込んで創り上げたのだらか」
創り上げた、マリーは確かにそう言った。
ガレージで優も言った。
オレとお前、ドイツに残っている仲間たちが創った、と。
香澄を創った……。
香澄は当然のように、それを受け入れていた。それは香澄自身が創られたものだからだ。
香澄もそれをわかっている。
自身がアンドロイドである、ということを。
AIの頭脳、機械の体でできている。アンドロイドであるということを。
ここよりはるか遠い(マリーにとっては生まれ故郷の)ドイツで、長い年月と膨大な金額と、多くの天才達と多くの資産家によって創られた香澄。
香澄はみんなの手によって創られたのだ。
人間に出来ない事をするために、どんなことでもこなせるように。
「あなたを創ることができて、ほんとによかったわ。あなたは私たちの最高傑作よ」
と、マリーは優しく言う。
マリーは香澄を創ったスタッフの一人なのだが、香澄をアンドロイドと認識しながらも実の妹のようにも接していて。
それは香澄を創った責任感でもあり、完成させたという満足感でもあり。
彼女の優しさでもあり。
それだけ香澄の完成度は高かった。
そして香澄にも感情はある。
創られた感情でもだ。
だが一度その感情に異変が生じたら?
今も名作と言われ続ける、とある映画の中のAIのように。
いや、今はそんなことはまだ起きていない。
今の香澄は何もないのだから。
作業は順調に進んでいる。
一つの事を除けば。
「マリー、ドイツに残っているみんなは元気にしてるかな?」
「ええ、元気にしてるわ。このあいだ電話で話したばかりじゃない」
「そうだよね。元気だよね」
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないの。少し気になっただけだから」
そう言うと香澄はうつむいて何も言わなくなった。
「まさかホームシックなの?」
マリーは心配そうに言った。
「まさか」
香澄はとんでもないと言いたげに笑った。
だがマリーは内心心配だった、AIがホームシックになんかなるのだろうかと。
「峠でなにかいやなことでもあったの?」
「いやなこと、といえばいやなことだけど…」
それを聞き、マリーは穏やかではなかった。走り屋と呼ばれる者に、何かされたのではないかと。
走り屋がどんなものかは知らないが。まさか平和で知られる極東の地に、公道で暴走するような者がいようとは思いもせず。マリーは慌てて聞き返した。
「いやなことってどんな?」
「FDの性能を存分に発揮できなかったのよ。やっぱり峠は狭いわ」
それを聞いて、マリーは言葉を詰まらせる。
「カスミ。あなた……」
「あのFDには峠は狭すぎるわ」
ただ黙っているしかなかった。車の事を知らないというのもあるが、香澄が優の造ったあの車が好きだという事が、なによりもマリーを黙らせた。
何故香澄は優の創ったあの車が好きなのか、いまだに理解に苦しむところだ。
その時、香澄はポツリと呟いた。
「また、アウトバーンを走りたいな……」
それを聞き、マリーは香澄がホームシック気味なのを少し確信したが。敢えてそれは言わなかった。
だがAIでもホームシックになりうるのだろうか。
しかもその理由があの車で存分に走りたいからだ。
アウトバーンを走りたいと来たものだ。
何故香澄は車で走るのが好きなのか?
それがマリーの最大の疑問だった。
優はそんなことを考えず単純に喜んでいるようだが。
「ドイツに帰りたいの?」
マリーはおずおずと聞いた。
「そうね、できる事ならドイツに帰りたいわ。ドイツに帰ればアウトバーンを走れるし。でも、そういうわけにはいかないんでしょ」
「わかってるでしょ。あなたは日本人女性という設定で創られてるわけだし。日本人として日本で一般生活が送れるかどうか、あなたも私達もそれを知らなければいけないし」
「ごめんなさい、マリー。私ったらわがままなんか言って」
マリーの困った顔を見て香澄はあわてて謝罪した。困らせるつもりはなかったのだが、つい愚痴が出てしまった。
「いいのよ、気にしないで」
マリーは優しく香澄をなだめながら、香澄でも(AIでも)悩む事があるのかとも思った。
生活環境が変わり生活のリズムが変わり、それに戸惑いをみせるのは人間でもAIでも同じなのだろうか。
自分達で創っておきながら、香澄の事を知らないというか、わからなさすぎる。
これからももっとデータを集める必要がありそうだ。
完全なAIという未知の領域に踏み込んだ以上、しかたないことなのだと、マリーは自分に言い聞かせた。
「終わったわ、今日もトラブル及びエラーなし。人間的に言うならあなたは健康そのものよ、なにも問題はないわ」
はたしてそうだろうか、そう思いつつもマリーはパソコンを終了させ。椅子から立ち上がると、香澄に接続されているコードを優しく引き抜いてやった。
「ありがとう」
「Keine Ursache」(どういたしまして)
応えながらもいまだ様々な憶測や疑問が、頭にびっしりとつまっている。
優は香澄を信用してやれとは言うものの、AIプログラミングの担当はマリーなのだ。
担当者としては、そのまま信用するわけにはいかない。別に香澄に疑いをかけているわけではないが。
香澄は疑いたくない、だけどAIともなるとそうはいかない。
だけどAIは香澄そのものなのだ。
考えればキリが無い。
果てしない問いに、マリーは考えるのをやめた。
「マリー、あなたも少し変よ。いつもの明るいあなたじゃないわ。やっぱり、私のせいなの? 私が余計な事を言ってしまったから」
マリーの様子を見て香澄が心配そうにマリーを見つめている。
そんな香澄を見てマリーは笑いながら言った。
「ふふふ、そんなことないわよ。まだ時差ぼけが残っているのかもね」
香澄の顔を見て、なんだかほんとに可笑しくなってきた。自分の心配をしてくれているのだ、可愛いところもあるじゃない。と、そう思った。
それを見て、香澄は少し安堵の表情を見せた。
「さぁ、それじゃあ私はもう寝るわね」
「ええ、おやすみなさい」
「あなたも休むのよ。いくらあなたでも永遠に動けるわけじゃないんだから」
「言われなくとも、自己管理はしているわ」
「わかってるじゃない。それじゃあおやすみなさい」
マリーは手を振って香澄の部屋を出て、隣の自分の部屋に戻った。
部屋に戻った時マリーはふと思った。
そうだ、香澄は普通の女の子なのだ。
AIプログラミングの性格の設定上は、普通の女の子なのだ、と。
どこまでも広がる、突き抜けそうな青い空。
その青い空を泳ぐ白い雲、その白い雲を突き抜ける光。
その光を発する、太陽。
その下にある、どこまでもどこまでも続く、アスファルト。地平線の彼方まで、それは続いていて。
その向こうに、向かって。
追いかけている。
アクセルを踏んで、太陽を追いかけている。いや、地平線の彼方にあるもの全てを、追いかけている。
タコメーターの針が8000rpm(8000回転)を指そうとしている、コズミック-7のエンジン、トリプルローター20Bが叫んでいる。
その叫び声は空(くう)を揺るがし、青空にも白い雲にも太陽にもぶつけ。
パワーの全てをアスファルトにぶつけ。
景色が全て吹き飛ばされていって。
鼓動を感じて、マシンとリンクする。
コードで繋がっているわけでもない、モバイル回線でもない、なのに。繋がっている感触を確かに感じて。
向こう側に、何かがあるような期待。
やがて陽は沈み、かわりに月が夜空を引き連れて。
闇が世界を覆いつくしても、ヘッドライトで闇を切り開き。
闇の向こうにあるものを追いかけて。
アクセルを開ける。
ネイティブアメリカンの言い伝えにある、伝説の銀馬を追って、やがて自分自身がその伝説の銀馬になるような……。
心―香澄でいえばAI―の奥底に仕舞いこまれたものが、瞳を閉じた時に、万華鏡で見るようにして、閉じられたまぶたの中に浮かび上がる。
ベッドから這い出すコードに繋がれて充電をしているとき、Tシャツにショーツの薄着でシーツにくるまっているときの、香澄の見る夢。
夢で見ているようなことは、AIユニットが紡ぎ出す『残像』は、日本のワインディングロードには、あるのだろうか。
「よし、チェック終わり。これでバトルはバッチリだ」
優はコズミック-7のボンネットを閉めると、一人感慨深げにつぶやく。
服や手がオイルなどで汚れているが気にしない。
ふと気が付けば、草木も眠る丑光時。
香澄もマリーも眠りについている。
優は香澄の見る夢に、ふと思いを馳せ。ひとり納得するようににやりとして、頷いて。またぽつりとつぶやく。
「まぁしかし、使えば使うほど劣化して行くのは可哀想っちゃあ可哀想だな。機械の体だしな」
機械はなんだってそうだ、人間みたいに破損個所が自然に治るという事は無い。
どこか壊れれば修理が必要になるし、酷ければ取り換えなければならない。
放っておけば益々酷くなるだけだ。
かと言って使わなければ調子を崩す。
「だからこそオレ達がいつも傍にいてやらないとな」
しばらく優はコズミック-7を眺めていた。
この車は香澄に次いで自分の最高傑作だと思っている。
マックスパワー460馬力を叩き出す20Bペリチューンエンジンを搭載したFD3S=RX-7こと、コズミック-7。
かつては自分が走らせていたが、今は香澄が走らせている。
その方がより速く走れるから。
ドライバーがよければ、車も性能を存分に発揮できる。ことクセの多い、じゃじゃ馬なこの車では尚更だ。
おそらくコズミック-7も喜んでいるだろう、自分の性能を存分に発揮させてくれるドライバーにめぐり合えた事を。
―車もドライバーも最高傑作か。―
ふとその言葉が頭に浮かんだ。
そうだ、車もドライバーも最高傑作なんだ。
これで負ける訳が無い。
と、思いたいところだが。
「しかし、人間ってのはなにするかわかんねーからなぁ。香澄もそれ見てビビんなきゃいいけどな」
優は胸ポケットからタバコを取り出し、口にくわえ火をつけ。
ふーっと煙を吹かしながら、ふとふと考えた。
「ま、そこまで出来るヤツがいればのことだけどな」
煙草を吸い終わると。作業の合間に買ってきた缶コーヒーの空き缶に吸殻を入れる。
「さて、風呂入って寝るか」
腕を伸ばし背伸びをすると、ガレージの明かりを消して家の中に入っていった。
scene2 香澄 了
scene3 ツインローターVS.トリプルローター に続く
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