(着の身着のままで社会から、世界から放り出されるなんて思いもしなかった)
ダマンが視線を足元に落とすと、いかにも未踏の地にふさわしく、革靴が土汚れていた。たわむれにコインを一枚はじいてみるが、そこにはもちろん投入口も肌色のお碗もない。
(そもそもこの百円玉は食事に換えられるのか? 俺は昼飯を抜くつもりはなかったんだ。もう一時間したら食べに行くつもりだった。この百円玉と一緒にな)
厚手のスーツがいかにも不適切で、いつのまにかべったりと汗をかいている。
(ワイシャツは下着のようなもので、他人に見せるものじゃないのだとか、何のコミックだ。スーツの話ならナポリの仕立て屋のやつか? とりあえず脱ごう。肩にでもかけよう)
ダマンが立っているのは、ジャングルはジャングルでも本物のそれだった。暑いとしか言いようがなかった。また、彼の思考の大半もそのことで占められていた。
靴が汚れても気にならなかった。確かにこんなに足場の悪い土地に突然放り込まれ、何の危惧もなく踏み出した一歩の迂闊さはどうともしがたいが、そこには誰の助けもあてに出来そうもない状況で、案山子のように立つことを避ける賢明さもあった。
(木、葉っぱ、葉っぱ、なんていうんだ? シダ? バナナとかありそうだ、暑い、暑い、イチゴ)
ダマンは足を止めた。ぽつりとイチゴがあった。
手がひとりでに伸びる。
(黒いぞ、めちゃくちゃ怪しい! なんだよ黒って、毒でもあるのか。しかも模様まである! ぐるぐるした、うずまきの、そうだ、唐草模様)
「くそまじい」
ヘタとか、果肉とか、あるようなないような皮とか種とか、ダマンは全部一気に吐き出した。
中身だけは吐き出せなかった。
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ダマンは自分が溶けているのを感じていた。時になめらかに、あるいはそうでなく。それはじっくりと土に浸透していく。自分は汚くて、濁っているという認識が彼の中に絶えずあった。靴の汚れなど既に昔のことだ。
(足りない、足りない。足りない)
(俺は何が欲しいんだ?)
(足りない、足りない。足りない)
(何が欲しいんだ)
(足りない。欲しいんじゃない、足りないんだ)
(だから、何が)
(俺が――)
(俺か?)
(そうだ! 俺が足りないんだ! 俺が足りないんだよ! 俺は水たまりなんかじゃなくて)
(――)
(――沼なのに!)
本能的なダマンが理性的なダマンを侵食し、土に浸透したダマンは、次いで周囲を侵食した。
しばらくしてジャングルはダマンになった。勿論、姿を変えて。
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沼、つまりダマンが本物の川をひきこめないことは、彼が理性を取り戻してから割とすぐに解った。
(さっきから、カンナの声が耳の奥でリピートしている。レニはかわいい)
いかにも窮屈な姿勢で、それでも精一杯体を伸ばしたように、湖岸が川に沿って出来ていた。自然な水をいとうように広がっていた。両手は川と川まで、足は海岸、頭は山の裾。広さは相当良い、湖岸がいびつ。
(イチゴは結局イチゴとしてはどうだったんだ? 俺は吐き出したが。カロリーはいくつだった。念能力は使用者の想像力次第だ)
(砂で人から水分を奪える、溶岩が火を燃やす。想像力ってなんだ。頭の出来か。じゃあ沼。沼って何?)
「黒1マナ」
(ばかか、俺は)
水たまりではなく、沼である。自然の水の流れから独立して、一人で完結し、一人で増水する。どろどろして、もっと黒い物。そう、黒いのだ。
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すでに体は足りていた。確固たる自我が欲しくなった。ちっぽけな人間の体を満遍なく満たしていたはずのそれは、ダマン自身の肥大化、広域化にともなって、薄れてきていた。
(俺はダマン。確かにサラリーマンだ。これから郵便局に内容証明を出しに行くところだ。靴の汚れはそれが済んで、昼飯も済んでからでいい)
(郵便局は駅の向こうだ。間に川があるから、行けない)
川の向こうには、ダマンに食われなかったジャングルがある。
(悪魔の実のせいで郵便局に行けない)
(それはコミックだ。現実をみろ! 早くもどらないとハゲの上司がうるさいぞ!)
(俺は沼だ。サラリーマンじゃない)
(革靴の汚れが)
(泥と水こそが俺)
(汚い靴はサラリーマンにふさわしくないって、事務のおばさんが)
(それこそが)
「俺は……なんだ……」
言葉を発する際、舌がもつれて唾液がぴちゃぴちゃと音を立てた。
舌も頬も、歯すら泥でできていたから、存外に大きな音だった。