エリック・ホッファーを読む


1  波止場の哲人
2  書くことの始まり
3  現代という時代の気質 
4  市民社会の底力 
5  人生に必要なもの
6  楽しき放浪生活
7  自由への旅
8  自尊心とプライド
9  生きること死ぬこと
10  自由への勇気
11  自由に適さない人々
 「エリック・ホッファー」をめぐる対話 

1.波止場の哲人

 今から50年ほど前、サンフランシスコの波止場に、風変わりな日雇いの港湾労働者がいた。彼の名前はエリック・ホッファー(1902〜1983)で、仕事の合間にじっと思索にふけったり、本を読んだり、書き物をしていた。仲間達は彼を親しみと敬意をこめて、「プロフェッサー」と呼んだ。

 彼は1902年にドイツ系移民の子供としてニューヨークに生まれている。7歳で母親と死別し、その年に視力を失った。盲目生活は15歳まで8年間も続いたという。当然、彼は正規の教育を受けずに育った。

 18歳の時父親が死に、彼はひとりぼっちになった。彼はバスでロサンジェルスに行き、そこの貧民窟に棲みついた。そして職業紹介所でいろいろな職業を見つけ、そのその日暮らしの生活をしていたが、28歳の時そこを去った。きっかけは自殺に失敗したからだという。

 その後、農業従事者としてカルフォルニアの農園を渡り歩いた。炭坑夫として働いたり、失業者を収容するキャンプで過ごしたこともあった。恐慌と戦争の時代でもあり、その暮らしは人間として最低の水準だった。

 彼がモンテーニュの「エセー」を手にしたのは、1936年の冬だった。彼は砂金堀をしていて、冬の間は雪に閉ざされた生活を余儀なくされた。そこで、偶然書店で買い求めたこの本を三度読み返し、ほとんど暗記してしまったのだという。

 モンテーニュとの出合いが彼の運命を変えた。彼は行く先々で図書館に出入りして本を読み、気に入った言葉があるとノートに写すようになった。そして自分の思索の結果をノートに書き写した。やがて1941年、彼が見つけたついの仕事がサンフランシスコの港湾荷役の仕事である。彼に言わせれば、自由と運動と閑暇と収入とがこれほど適度に調和した職業を他に見出すのは困難だった。

 彼が1958年6月から翌年の5月にかけて書いた日記が、1963年に「波止場日記」と題して出版された。港湾労働者の日々の記録というにはあまりに高度な思索がそこには書き留められてあった。翌年、彼は認められてカルフォルニア大学バークレー校の政治学研究教授になった。1967年には彼の対談がCBCテレビで全米に流され、大きな反響を巻き起こした。

 しかし、彼は大学へは週に一度顔を出すだけで、普段は港湾の日雇い労働者として生き続けた。「波止場日記」に<私がくつろげるのは波止場にいるときだけだ>と書いている。そして彼はその言葉の通り、65歳まで現役の波止場労働者として働き続けた。彼の言葉をいくつか「波止場日記」から拾ってみよう。

<たびたび感銘を受けるのだが、すぐれた人々、性格がやさしく内面的にも優雅さをもった人々が、波止場にたくさんいる。この前の仕事でアーニーとマックとしばらく一緒になったが、ふと気付くと、この二人はなんと立派な、寛大で、有能で、聡明な人間だろうと考えていた。じっと見ていると、彼らは賢明なばかりではなく驚くほど独創的なやり方で仕事にとりくんでいた。しかも、いつもまるで遊んでいるように仕事をするのである>

<労働者としても、また人間としても比類ないニグロがいく人か波止場にいるのを知っている。この人たちは柔和で、誠実で、非常に有能である>

<知識人は自己の有用性と価値とに自信がもてないために、とてもプライドなしには立っていけないのであり、普通は国家とか教会とか党とかいったある緊密なグループと自己を一体化してプライドの根拠としているのである>

<私の言う知識人とは、自分は教育のある少数派の一員であり世の中のできごとに方向と形を与える神授の権利を持っていると思っている人たちである。知識人であるためには、良い教育を受けているとか特に知的であるとかの必要はない。教育のあるエリートの一員だという感情こそが問題なのである>

<自分自身の幸福とか、将来にとって不可欠なものとかがまったく念頭にないことに気付くと、うれしくなる。いつも感じているのだが、自己にとらわれるのは不健全である>

<全般的に見て、教育のある人間より大衆の方が、人類についてよい見解をもっている。・・・教育はやさしい心を育みはしない>

<人は、充実した2,3分のあいだに、数ケ月にわたる努力以上のことをなしとげられるものだ>

<世間は私に対して何ら尽くす義務はない、という確信からかすかな喜びを得ている。私が満足するのに必要なものはごくわずかである。1日2回のおいしい食事、タバコ、私の関心をひく本、少々の著述を毎日。これが私にとっては生活のすべてである>

<湾の空はすばらしい才能を持ち感受性に富む抽象画家によって毎日描かれている>

<私は欠点や欠陥にみちた社会に生きている。しかし、この社会はすべての人に好きなことをさせる十分のゆとりをもった社会である。・・・干渉されることなく自己の能力と才能を発揮したい人にとっては、この国(アメリカ)は理想的な国である>

<必要なものにあくせくしているあいだは、人間はまだ動物なのである。不必要なものや途方もないものを求めるときに、人間は、人間という独自な存在になる>

<私の知るかぎりでは、人生は偶然の十字路であるゆえにすばらしい>

<人間のつくり出した実用的な諸道具は大部分非実用的なものの追求のなかから得た洞察や技術を応用したものである>

<二十世紀最大の犯罪は、金銭欲にかられた資本家たちによってではなく、献身的な理想主義者たちによって犯された。レーニン、スターリン、ヒトラーは、金銭を軽蔑した。十九世紀から二十世紀への移行は、金銭尊重から権力尊重への移行であった、金は諸悪の根源だというきまり文句のなんという単純さ>

<仕事に行く気がしなかった。ほとんど一日中買い物をしてすごした。エリックに大きなトラを、そしてリリーにはお盆。25ドルばかりかかった。昼、株価のひどい暴落を告げる新聞の見出しに気づいた。大変愉快になった。ずいぶん意地の悪い見方だが、私がほくそえむにはそれなりの理由があった。株価の上昇はしばしば物価一般の上昇を意味してきた。賃金や預金の実質価格の低下は数千人のギャンブラーたちの破産よりも影響が大きく、不幸な災難となるのである>

<自由に適さない人々、自由であってもたいしたことのできぬ人々、そうした人々が権力を渇望するということが重要な点である。・・・もしもヒトラーが才能と真の芸術家の気質を持っていたなら、もしもスターリンが一流の理論家になる能力を持っていたなら、もしもナポレオンが偉大な詩人あるいは哲学者の資質をもっていたなら、彼らは絶対的な権力にすべてを焼きつくすような欲望をいだかなかっただろう。・・・自由という大気の中にあって多くを達成する能力の欠けている人々は権力を渇望する>

 彼は<隣人を愛するよりも人類全体を愛する方がいかにやさしいか>について語り、<教育があって自分の考えを表現できる人々、議論が達者な人々と過ごしていたとしても、どれだけ考えを発展させるのに役立っていたかわからない>と書いている。彼はあくまで社会の底辺から人生の真実を見続けた。人生は上から眺めていては分からないことがたくさんある。そして何よりも、彼の思想の何と自由で、その生き方の何と身軽なことだろう。

 最後に、彼が愛読したモンテーニュの「エセー」の言葉を、彼の「波止場日記」から引いておこう。私も「エセー」を愛読した時期があった。エリック・ホッファーが引用する次の部分は、とくに私の心の琴線に触れてくる。

「ベッドで死ぬよりも馬の背で死ぬべきだと思う。自分の家を去り、縁者たちから遠く離れて死ぬべきだと思う。友人たちと愉快に生きよう。しかし、死ぬときは見知らぬ人々の中で死のう」


2.書くことの始まり

 エリック・ホッファーは「現代という時代の気質」のなかで、「考えることと書く行為の間には千里の隔たりがある」と書いている。たしかに読んだり考えたりすることに比べて、書くという行為、もう少し正確に言えば、「書き続ける」ということのためには、主体的な精神の持続的な活動が必要になる。それはそれほど一般的な行為とはいえないかも知れない。

 それではホッファーはいかにしてこの「千里の隔たり」を越えたのだろうか。盲目の少年時代を送り、学校へはほとんど行かず、成人してからの人生の半分は移動労働者として、あとの半分は沖仲仕として過ごしたホッファーに、こうした主体的な精神の目覚めはいかにして訪れたのだろう。それは彼によると、34歳の時たまたま手にしたモンテーニュの「エセー」との出合いから始まったのだという。「現代という時代の気質」から引用してみよう。

<1936年の終わり頃、私はネバダ・シティの近くに鉱床発掘をしに行くところだったが、その時雪に降りこめられるような予感がした。何か読むもの、何か長くかかりそうなものを手に入れる必要があった>

 彼はサンフランシスコに立ち寄って、「分厚くて活字が小さく、絵の入っていない千ページくらいの本」を買った。値段は1ドルだった。表紙に「ミシェル・ド・モンテーニュ随想録」とあったが、モンテーニュが何者かは知らなかったという。

<思ったとおり私は雪に閉じこめられた。私は例の本を三回読み、しまいにはほとんど暗記してしまった。サン・ホアキン・ヴァレーに帰ってからは、口を開けばきまってモンテーニュを引用するようになり、仲間はそれを気に入ってくれた。彼らは「モンテーニュはどう言っているのか」とたずねたものだ。私はやおら本を取りだし、ぴったりの文章を見つけるのだった。今でもサン・ホアキン・ヴァレーのあちこちに、モンテーニュを引用している移動労働者が大勢いるにちがいない、と私は確信している>

 モンテーニュの「エセー」には人生で誰もが体験する茶飯事が語られていて、とても読みやすい。生活の場所から人生を語ること、高みからではなく、むしろひとりの平凡な生活者として、ありのままに飾らず平明に自らを語ること、この平静な語りのなかに、モンテーニュその人の快活で自由な精神のぬくもりが感じられて、しみじみと心に響いてくるものがある。

 ホッファーはモンテーニュの文章を読み、「子供がキャンディをしゃぶるようにそれを味わう」ことで、「よい文章への鑑識眼を獲得」した。しかしホッファーがモンテーニュから学んだのは平明な文章術だけではなかった。文体と一体となったモンテーニュの生活者としての現実的で自由な精神だった。そしてその実践的な精神の核にあるのは、「汝自身を知れ」という明るく透徹した理性の言葉である。

 ホッファーがモンテーニュに発見したのは、つまるところ「己とは何か、人間とは何か」という問だった。この問をモンテーニュと共有することで、ホッファーもまた市井の哲人となった。そして彼に現代文明をするどく照射する哲学的香気にあふれた文章を生涯にわたって書かせたのだった。


3.現代という時代の気質

 エリック・ホッファーによれば、われわれの時代の気質を特徴づける特性は何かというと、それは「気短さ」だという。そうして変化を求め先走りする風潮のなかで、個人の成長や社会の成熟がなおざりにされている。

<いたるところで、国々が一挙に躍進しているのが見られる。順を追って成熟する暇はない。新興国は芽を出すか出さぬうちに花を咲かせ実を結びたがり、多くは人工的な実や花でみずからを飾りたがる>(「現代という時代の気質」以下の引用も同じ)

 すべてが変化し、うつろいゆき、情報が氾濫している。現代的な性急さや気短さで「新しさ」を追い求めているうちに私たちは流れにもてあそばれ、自らを失うことになる。何が真実であるかを見極めることは容易ではなく、人々は喧噪の中に生き、喧噪を活力だと誤解したまま、疲れ果てて死んで行く。

 創造や発展、あるいは「変化すること」それ自身がこれほど尊重される時代はいまだかってなかった。しかし、ホッファーは気短な進歩や発展というものは一時的なものに過ぎないという。その多くは見かけ倒しにすぎない。これに対して、「維持するという平凡な仕事にはなにかしら荘厳な気が漂っているように思われる」という。

<維持するよりは築く方が容易なのだ。活気のない、衰弱した国民でさえ、なにか感動的なことを達成するためにしばらくのあいだ活気を帯びることがありうる。だが、二六時中物事を良好な状態にたもつために費やされるエネルギーは、真の活力をもったエネルギーである>

<外国生まれの沖仲仕や船乗りと話してみて、私は維持能力が西ヨーロッパ、スカンジナビア諸国、アングロ・サクソン世界、および日本の特異性である、という印象を得た>

 植物は一年中花を咲かせ、実を結んでいる訳ではない。それは全体から言うと、ほんの一部の時期である。ときには葉さえ落として、あたかも枯れ木のような淋しい姿で生きているときもある。しかし、彼らはそうして生命を維持している。成長・発展を支えているのは、こうした日ごろの地味な活動である。

 社会もまたこうした地道な活動によって支えられている。知識人や政治家、英雄などが華々しくもてはやされるなかで、「維持するという平凡な仕事」を続けている堅実な一般大衆の存在こそほんとうに偉大だといえるのだろう。そうした堅実な人々によって支えられた社会こそがほんとうにまともで、創造性を秘めた活力のある社会である。アメリカの新興都市サンフランシスコの沖仲仕として社会の下積みで長年働いていたホッファーの目は、さすがにこの真実を見のがさない。

4.市民社会の底力

 日本国憲法の草案はマッカーサーの指示の下、民政局の24人の委員たちによって、たった1週間でつくられた。職業軍人はひとりもおらず、委員の職歴は、弁護士、ウオール街の投資家、中国専門の歴史家、ジャーナリストなど、まちまちだった。女性も3人いた。

 私が不思議だったのは、専門家がひとりもいないのに、よくもまあ寄せ集めのアメリカの市民たちが、それまでまったく未知の国であった他国にやってきて、憲法などという大それたものを、それも信じられないような短期間に見事につくりあげたことだった。

 その謎が、「エリック・ホッファー自伝」(作品社)を読んでいて解けたような気がした。たとえば、ホッファーが貧民窟で暮らしていた頃のこんなエピソードを読むと、そのころのアメリカの市民社会の力がどれほど卓越していたかがはっきりわかる。

<その町に着いたのは夕方だった。翌朝、貧民街で目を覚ますと、大きなトラックが二台入ってきた。山の中に道路を造ろうとしていた建設会社が、職業紹介所で日雇い人夫を確保するかわりに貧民街にトラックを送り込んだのだった。トラックに乗れる者は誰でも、たとえ片足であっても雇われた>

 山麓で下ろされてみると、会社の人間は一人しかいなかった。そこにある食料と装備品を使って、自分たちだけで道路をつくらなければならないという。ところがホッファーはここで途方もない奇跡が起こるのを目撃した。

<鉛筆とノートを持っていた一人の男が、集められた者たちの名前を書き留め、仕事を割り当て始める。すると、我々の中には大工も鍛冶屋もブルドーザー運転手もハンマー打ちも大勢いたし、コックや救急療法士、職工長までいることがわかった>

 まず、テントと料理小屋、トイレとシャワー付きの浴槽を作り、次の日から道路建設にとりかかった。こうして仕事は順調に進み、出来上がった道路は「芸術品」なみで、州の検査官も何の欠陥も見つけられなかったという。これだけのことを、貧民街に住んでいた最底辺の人々が整然と、自分たちだけの力量で当たり前のようにやり遂げた。

<もし憲法を作れと言われれば、われわれの中には「〜の事実に徴して」とか「〜なるが故に」とかいう表現をすべて知っている者がいただろう。われわれは、貧民街の舗道からすくい上げられたシャベル一杯の土くれだったが、にもかかわらず、その気になりさえすれば山のふもとにアメリカ合衆国を建国することだってできたのだ>

 民主主義社会においては一人一人の民衆が主役である。そうした自由な社会では、すべての人々の能力を個人的に高め、それぞれが自主的な判断でもの事を行う能力が養われる。すべての人がそれぞれの力を出し切ることができるわけだから、人的資源の活用という視点から考えても、もっとも無駄のない合理的で強力な体制だということができる。

 かってのアメリカでは、社会の最底辺にいた「土くれ」のような人々でさえ、自主的に道路を造れるほどの多種多様な才能と技量をもちあわせていた。こんな進んだ国と戦争をして、日本には勝ち目はなかった。戦後、たまたま日本にやってきたシャベル一杯の「石ころ」たちが、マッカーサーの号令のもとでたちまち有能な憲法制定委員に変身し、日本の社会を根底から変えるようなすばらしい憲法草案を作ったのも、あながち奇跡とばかりは言えないのだろう。


5.人生に必要なもの

「エリック・ホッファー自伝」を読んでいて、ゲーテにこんな詩があるのを教えられた。詩の題は「温順なクセーニエン」である。高橋健二さんの訳で紹介しよう。

  財産を失ったのは、いくらか失ったことだ
  すぐ気をとりなおして、新しいものを手に入れよ
  名誉を失ったのは、多くを失ったことだ
  名声を獲得せよ。そうすれば人々は考えなおすだろう
  勇気を失ったのは、すべてを失ったことだ
  そのくらいなら、生まれなかったほうがいいだろう

 ホッファーはこの詩をたまたまヒッチハイクしたトラックの運転手から教えられた。ただ、そのとき、「希望を失ったのは、すべてを失ったことだ」と教えられて、もしそのようにゲーテが書いているとすれば、ゲーテは「小物だ」と思ったという。しかし、行った先の町の図書館で調べてみると、ゲーテの詩に書かれていた言葉は、「希望Hoffnung」ではなくて「勇気Mut」だった。

 ホッファーにとってこの違いは決定的だった。そこでこの詩を教えてくれた運転手を酒場まで行って探し出すと、この場合は言葉を間違って引用するのは「犯罪的」だと忠告したという。ホッファーは酒場でその男に、「人生で必要なのは希望ではなく勇気だ」と熱心に説いたが、相手には通じなかったらしい。

<自己欺瞞なくして希望はないが、勇気は理性的で、あるがままにものを見る。希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は長い。希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかるのはたやすいが、それをやりとげるには勇気がいる。闘いを勝ち、大陸を耕し、国を建設するには、勇気が必要だ。絶望的な状況を勇気によって克服するとき、人間は最高の存在になるのである>

 希望をもつことは誰にでもできる。しかし、その希望を実現することはそう容易ではない。希望は絵に描いた餅にすぎない。ほんとうの餅を手に入れるには努力がいる。そしてその努力はおおむね平凡で地道なものだ。しかしこの平凡な労働の苦役に耐える「勇気」がなければ、どんな些細なことも成就しない。ホッファーが「人生で必要なのは希望ではなく勇気だ」というのは、彼の実践的な人生哲学から得られた結論だったのだろう。

6.楽しき放浪生活

 エリック・ホッファーは二十八歳のとき、死のうと思って多量のシュウ酸を飲んだ。ロサンジェルスの貧民街でのことだ。都市労働者の死んだような日常生活に耐えられなくなったからだという。

 しかし、ホッファーは自殺に失敗し、あらたな人間として甦った。彼は、<労働者は死に、放浪者が誕生した>と書く。さらに、都会を離れて放浪へと旅立つ門立ちの様子を、「エリック・ホッファー自伝」ではこんな風に書いている。とても気持のよい、さわやかな文章である。

<1931年から第二次世界大戦が起こるまでの十年間、私は放浪者として過ごした。自殺に失敗し、小さな袋を肩にかけてロサンジェルスを離れたとき、気持は軽やかだったし、広々とした田舎に出たときには、故郷に戻ったような気がした。恐れるものもなければ、新たな生活を始めるための準備期間も必要ではなかった。ヒッチハイクもせず貨物列車にも乗らず、南に向かって歩き始めた。

 ・・・気持よく歩いていると、詩が浮かんできた。言葉を探す作業は、体を揺らしながら歩く動作とうまくかみ合った。最初の一節はこうだ。

  一人で歩くとぞくぞくする
  野原が広がり空に出会う
  そして山は夢のような青の中に浮かぶ
  先を急ぐ風がささやいていく>

 ホッファーは農場で働き、お金が出来ると図書館の近くに部屋を借りて、好きな本を読んだりしながら気儘に過ごした。そしてまた金がなくなると、仕事を見つけて働く。ひとつの場所に落ち着くことはなく、カルフォルニア州のあちこちの町や農場を渡り歩いた。そこでさまざまな人々と知り合い、ときには一生の思い出となる恋にもであった。

 町の停車場で知り合ったヘレンはカルフォルニア大学の美しい女学生だった。彼女はホッファーの勤めていたレストランへやってきて、彼の話に耳を傾け、やがて二人は恋人になった。彼女はホッファーが独学で大学の物理や数学の教科書をマスターしているのを知って、大学の講義を受けるように促した。カルフォルニア大学にはノーベル物理学賞を受けた有名な学者もいた。彼女はホッファーのなかに天才の素質を見出した。

 しかし、ホッファーは放浪生活をやめようとは思わなかった。そしてある日、彼女に別れも告げずに町を出た。ホッファーは勉強は好きだったが、大学に残り研究者になろうとは思わなかった。しかし、彼女との別れはつらかった。ホッファーは彼女の面影が忘れられず、彼女はとの恋はついに彼の一生の思い出になった。

 農場主や経営者の中には彼の才能や気性を気に入り、友人のように話しかけてきた者もいた。グンゼという裕福な農場主は彼を家に招き、酒やタバコを勧めながら、彼にこんな忠告をした。

「なぜ君のような知性のある人間が人生を浪費しているのだ。知らぬ間に、不自由な一文無しになってしまうぞ。安定した生活なしに、どうやって生きて行くんだ。将来のことを考えたことはないのかい」

「信じられないでしょうが、私の将来はあなたの将来より、ずっと安全です。あなたは農場が安全な生活を保障してくれると考えています。でも、革命が起こったら農場はなくなりますよ。一方、私は季節労働者ですから、何も心配することはありません。通貨と社会体制に何が起ころうが、種まきと取り入れは続くでしょうから、私は必要とされます。絶対的な安全が欲しいなら道楽者となって、季節労働者となって生計を立てる方法を学ぶべきでしょうね」

 二人はこうして笑いながら語り合った。ホッファーは十年後に新聞でグンゼの死亡記事を見た。グンゼは遺書を残し、奨学金として50万ドルの寄付を申し出ていた。グンゼは公に発表された遺書の中でこう語っていた。

<現在の経済体制の下では、人は安定した収入源を確保するために半生を費やさねばならない。そして、上部構造を作り上げる時間は後半生に残される。しかし、それに手をつける者は百万人に一人もいない。

・・・それゆえ、フレズノ郡の中高年者に絵筆と絵の具を持たせよう。フレズノの初夏の丘を彩る灰色がかったピンクや淡い金色の組み合わせをキャンパスに描いた者は、まだだれもいない。・・・音楽について。フレズノ郡の住民の心には、何千という新しいメロディが眠っているに違いない。そのメロディを陽光のもとに誘い出し、歌い演奏しよう。もし命に触れるものがあれば、それは賞を獲得すべきだ>(「エリック・ホッファー自伝」より引用)

 グンゼは他にも浮浪者用の宿泊施設の建設・維持のために4万ドルの寄付を申し出ていた。ホッファーが出会った頃のグンゼは将来について病的な恐れを抱いていた。しかし、遺書の内容は立派だった。

7.自由への旅

 エリック・ホッファーは7歳のとき視力を失った。盲目生活は8年間続き、15歳のとき急に視力が回復した。しかし、いつまた視力を失うことになるかわからない。そうした不安に駆られて、ホッファーは手当たり次第に本を読んだ。盲目になる前に、できるだけ本を読み、知識を蓄え、この世界について理解しておきたかったからだという。

 読書の習慣は放浪生活者になってからも続き、彼は肉体労働の合間に図書館に通い、独力で大学の物理や数学の教科書をマスターした。彼にとって本を読むことは精神の眼を開くことだった。読書は心を無知の闇から解放し、魂を自由にしてくれる。彼はなによりも心の明るさと自由を求めた。そのための放浪生活であり、港湾労働者としての生活だった。

 ホッファーが植物学に目覚めたのは、トマト農場で働いていた頃だという。トマトの苗木を移植しながら、ホッファーは「なぜ苗木の根は下に向かって伸び、茎は上に向かって伸びるのか」という疑問に捉えられた。そうすると、その理由が知りたくなり、すぐさま事務所に行きその日までの給料を精算してもらい、貨物列車に乗って町の図書館に行った。

 こうして彼の植物学との格闘の日々がはじまった。物理学と数学をマスターしていた彼にとっても、植物学はさらにむつかしい専門用語に満ちた難物だった。しかし、彼は持ち前の闘志で植物学をマスターした。彼は図書館の近くの古本屋で見つけたドイツ語の植物辞典をナップザックに入れて持ち歩くようになったという。

 そんな彼に植物学の実力を試す機会が訪れた。バークレーのレストランで給仕のアルバイトをしているとき、カルフォルニア大学柑橘類研究所所長のスティルトン教授と出会ったのである。スティルトン教授はテーブルの上にドイツ語の文献をひろげ、何やらぶつぶつ言っていた。

 給仕の合間にホッファーが声をかけると、彼は当時カルフォルニア州で流行していたレモンが白くなる病気を調査中だという。この病気のためにレモンの収穫量が激減していた。研究所所長として、彼は精力的に研究していたが、そのためには膨大なドイツ語の文献に目を通さなければならない。

「ドイツ語は、悪魔が発明した言葉ですよ。ページの頭から始まってページの最後に終わるたった一つの文章の意味が分からなくて、何時間も考えているのです。運が悪いことに、この怪物のような文章には重要不可欠な情報が含まれていて、正確な意味を理解しなければならないのです。辞書はあまり役にたちません」

 途方に暮れている教授に、ホッファーは紙と鉛筆を要求し、その難解なドイツ語で書かれた文献を翻訳し始めた。教授は信じられないという顔でホッファーを見つめ、目の前の青年がドイツ語にも植物学にも通じていることを知ると、「研究所で働いてほしい」と持ちかけてきた。

 こうして、ホッファーは大学の研究所の一員になり、レモンの白化現象の研究に取り組んだ。ホッファーはドイツ語の知識を利用して、白化現象についての膨大な文献を読みあさり、ついに原因を突き止めた。

<大喜びで教授の所に走り、自分の仮説を説明して、最後に冗談半分にこう付け加えた。「大農場のレモン生産者に硝酸カルシウムを使ってみて結果を報告するように電報を打ってください」と。・・・結果が出るまで数日かかった。そして、ある日、スティトル教授が満面の笑みをたたえながら抱きついてきた。「成功だ!」彼は叫んだ。「白化に勝ったぞ」。教授は研究所の仕事を用意してくれていた。しかし、私は本能的にまだ落ち着くべきときではないと感じ、放浪生活にもどった>(エリック・ホッファー自伝)

 後にホッファーは社会哲学の教授としてカルフォルニア大学で政治学を講義することになる。しかしその時も大学へ顔を出すのは週に一日だけで、サンフランシスコの波止場で暮らし、65歳まで港湾労働の仕事をやめなかった。大学の教授になることがホッファーの目的ではなく、あくまでも自由に生きることが彼の望みだったからだ。

 ジョンソン大統領は彼をホワイトハウスのローズ・ガーデンに招いて歓談した。そして1983年にホッファーが80歳で死んだとき、ロナルド・レーガン大統領は「アメリカ大統領自由勲章」を送って彼の自由と勇気に満ちた人生を祝福した。

<世の中に神がいるわけでもなく、道徳や倫理や論理でさえも絶対的なものではないとすると、人生に意味はないことになる。こうした認識は人々をニヒリズムに導く。しかし、この問題を別の角度から眺めてみよう。そうすれば人生の意味や意義はそれぞれの人が自らの内部で作り上げるものだということに気づくはずである。人間だけがこの自由を手にしていて、創造的に生きることができるのである。人生に意味を与えるのは自分自身であり、大切なのは自分自身の決断や、生き方なのである。人間は自分を変える自由を持っている。自分で自分を自由にする勇気を持ちたいものである>(橋本裕「人生についての21章」より)


8.自尊心とプライド

 エリック・ホッファーはプライドや信仰心は恥辱や弱さから生まれるものだという。また、絶対的権力や服従といったものも、人間の卑小さや弱さから生まれる。情熱や熱狂の根底に潜んでいるのは、「自己からの逃避」だという。

<人間とは、まったく魅力的な被造物である。そして、恥辱や弱さをプライドや信仰に転化する。打ちひしがれた魂の錬金術ほど魅力的なものはない>(「魂の錬金術」以下の引用も同じ)

 人はしばしば自己への軽蔑をプライドに、自身の欠如を信仰心に、そして罪悪感を独善にかえる。ホッファーはこれを「信念の錬金術」だと言っている。価値のない忌むべきものから、黄金がうまれる。しかし、この黄金はじつのところ、まがいものである。うわべだけ金に似ているが、それは中身まで純金というわけではない。

<自尊心に支えられているときだけ、個人は精神の均衡をたもちうる。・・・何かの理由で自尊心が得られないとき、自律的な人間は爆発性の高い存在となる。彼は将来性のない自分に背を向け、プライド、つまり自尊心の爆発性代替物の追求に乗り出す>

<自尊心が自身の潜在能力と業績から引き出されるのに対して、プライドはもともと彼らの一部でないものから引き出される。架空の自己、指導者、聖なる大義、集団的な組織や財産に自分自身を一体化させるとき、われわれはプライドを感じる。プライドは不安と不寛容によって特徴づけられ、敏感で妥協を許さない>

<ナショナリストがもつプライドは、他のさまざまなプライドと同様、自尊心の代用品になりうる。ファシズムや共産主義体制下にある民衆が盲目的愛国心を示すのは、彼らが個々の人間として自尊心を得ることができないからである>

<信仰と恐怖はともに、人間の自尊心を一掃するための手段である。恐怖は自尊心の自立性を破壊し、信仰は多かれ少なかれ自発的な幸福を勝ち取る。両者がもたらす結果は、人間の自律性の除去、すなわち自動機械化である。信仰と恐怖は、人間の実存を意のままに操作できるひとつの定式にしてしまう>

<実りある成果をあげたければ、情熱を薬味として限定的に使うことだ。自分の母国や人種に対するプライド、正義や自由、そして人類などへの献身を、人生の主要部分にしてはならない。せいぜい伴奏か、付属品にとどめるべきである>

<真に「持てる者」とは自由や自信、そして富さえも、他人から奪わずに獲得できる人たちのことである。彼らは自らの潜在能力を開発し適用することで、これらすべてを獲得する。これに対して、真の「持たざる者」とは、他人から奪わなければ何も得ることができない人たちである。彼らは他人から自由を奪うことによって自由を感じ、他人に恐怖心と依存心を植えつけることによって自信を深め、他人を貧しくすることによって裕福になる>

<ある国の政府や生活様式を判断する唯一の指標は、そうした活動の基盤をなす国民の質である。政府の掲げる目標がいかに高貴であろうと、それが国民の品位や親切心をくもらせ、人間生活を安っぽいものにし、悪意や猜疑心を育むなら、その政府は悪である>

 ホッファーが思索を始めたきっかけは、彼の両親の出身地であるドイツがナチスを受け入れたことへの疑問からだという。さらに彼の関心は共産主義の全体主義に向けられる。何がナチスを生み出し、共産主義の恐怖政治を生み出すのか。この問題を人間の魂の次元から解明しようとしたところに、彼の政治哲学の独創性がある。哲学者バートランド・ラッセルをうならせ、社会学者ハンナ・アレントをホッファーに走らせたのはこのためだった。

 ホッファーが達した結論は、人間に必要なのは服従やプライドではなく、自由と自尊心であるということだった。そして高貴な美徳ではなく、より身近な「おもいやり」こそが「魂の唯一の解毒剤」であり、「高邁な理想に身を捧げた無慈悲な人よりも、玩具に夢中になっているが、同情心をもちうる人に世界をまかせたほうがよい」と、彼は「魂の錬金術」の中に書いている。


9.生きること死ぬこと

 ホッファーを読んでいて、またモンテーニュ(1533〜1592)の「エセー」が読みたくなった。彼が生きた時代はカトリックとプロテスタント(ユグノー)が殺戮を繰り返す宗教戦争の時代だった。モンテーニュはカトリックだったが、彼の弟と妹は共にユグノー教徒だ。しかし、彼においては宗教上の違いが個人的な対立にいたるようなことはなかった。

 彼の友人にはカトリックの正統主義者の他に、プロテスタント教徒、カトリックの過激主義者もいた。しかし、宗派やイデオロギーの違いによって彼は友情に差を付けることはなかった。かれにとって大切なのは「人間がしあわせに生きること」であって、そのために人がどのような宗教を選ぼうとそれは本人の自由だと思われたからだ。

<要するに、神の諸性質を打ち立てるのも、取り壊すのも、すべて人間が自分との関係に基づいてでっちあげることである。何というひな型、何というお手本であろう>

<世間の規則や教訓の大半は、社会全体の奉仕のために、我々を我々から外に押し出し、公共の場に追いやるのである。我々は生れつき我々自身に執着しすぎるものときめてかかるから、我々を我々自身からそらすことは立派な行為と考えたのである。そしてそのために有らん限りのことを言ってきた。実際、賢者にとって、物事をありのままにではなく、役に立つように説くことは珍しいことではない>

<人間は必然的に間違うように自らに命じている。自分の義務を自分以外の人の寸法に合わせて裁断することはあまり賢いことではない。誰にもできないと思うことを、いったい誰のために規定するのか。不可能なことをしないのは、その人にとって不正と言えるだろうか。われわれを不可能に縛る法律自身が、われわれを不能なるが故に告発するのである>

<結局、我々の経験から、人間の社会は、どんな犠牲を払っても、互いに結び合い、縫い合わされるものであることを知った。人間はどんな状態に積まれても、揺すぶり合いと押し合いを続けているうちに、きちんと並んで積み重なる。ちょうど袋の中にごちゃごちゃに入れた不均な物体が、ひとりでにくっつき合い組み合わさる方法を見いだし、時には人為でできるよりもうまくできるのに似ている>

<理論からではなく、実際から言って、各国民にとって最も優れた良い政体とは、国家を維持してきた政体である>

<人一倍能力があると公言し、学問の仕事や書物に関係のある職務にたずさわる人々には、他のいかなる種類の人々にも劣らず、判断の空虚さと無力さが見られる。これは彼らが人一倍期待をかけられて、普通の過失を許されないからか、それとも、学識があるという自負からかいっそう大胆になり、人前に自己を誇示するあまり、自滅して馬脚を現すからであろうか>

 彼がこうした現実的で醒めた思想をもっていたのは、彼がラテン語の達人で、ギリシャ・ローマの歴史や古典文学に造詣が深い第一級の教養人だったからだが、それ以上に大切なのは、彼は同時に地方や中央の政界に人脈を持つ実務家であり、世俗的な実践の人だったということがあげられよう。

 彼はボルドーの高等法院の参議(治安判事)の職を13年間務め、さらにはボルドーの市長も2期つとめている。しかも、ボルドーの属していたギエンヌ州はフランスにおけるプロテスタンティズムの拠点だった。

 モンテーニュはその経験や立場上、イデオロギーというものの厄介な性格をだれよりもよく熟知していた。そしてその毒を抜くために彼が注目したのが、人生をその本質において考えること、すなわち「死を通して生を考えること」だった。彼の人生哲学の中心テーマがまさにこれである。「エセー」から引き続き文章をいくつか引用しよう。

<我々は事情が許すかぎり、いつでも靴をはいて出かける用意をしていなければならない。特にその時には、自分のこと以外には何も用事がないようにしておかねばならない。なぜなら、死ぬときになれば余計なことを考えなくても、なすべきことが充分にあるだろうから。ある者は死によって輝かしい勝利が途中で中断されることを嘆き、ある者は娘を嫁がせないうちに、あるいは子供の教育を見てやれないうちに死ぬことを嘆く。

  私はありがたいことに、いつでも何も哀惜せずに、死ねるような気持になっている。もっとも命だけは別で、それを失うことが私の心を重くするのはなんとも仕方がない。私は全ての絆から解放されている。私自身を除いて、皆に半はお別れしている>

<ローマの貴族ユリウスは、カリグラ帝に死刑の宣告を受け、いよいよ獄卒の手にかかろうという時、友人に心の状態を尋ねられ、「私は今、気持ちを整え、全力を緊張させてあっという間に過ぎる死の瞬間に、果して精神の引越しをいくらかでも少しでも認めることが出来るかどうか、見届けようとしている。そしてそれについて何かを知ったら、出来れば戻ってきて、知らせてやりたいと考えているところだ」と答えた。この人は死ぬときまで哲学したばかりではなく、死そのもののなかで哲学している>

<もしも、生まれた土地以外の場所で死ぬことを恐れるなら、また、家族の者から離れては安心して死ねないと考えるなら、フランス国外へは出ていかれないだろう。だが、私は人と違っている。死はどこにおいても、私には同じである。だが、もし選べるものなら、床の中よりも馬の上で、家の外で、家族の者たちから離れたところで死にたい>

<神様から少しずつ生命を取り上げられてもらえる人々は、恩恵に浴している人々である。これこそ老齢の唯一の恩恵である。この最後に来る死はそれだけ無害なものであろう。この死は、その人間の半分か4分の1しか殺さないからである。今も私の歯が1本、痛みも苦労もなく抜け落ちたところである。これがその歯の自然の寿命だったのだ。私の存在のこの部分もその他の多くの部分もすでに死んでいる。また、私の盛りの頃に技も活発で第1位を占めていたあの部分も半分死にかけている。私はこうして溶けて、私から抜け出て行くのである>

 モンテーニュの「エセー」は宗教をかなり便宜的に捉えている。彼は宗教は人間が幸福に生きるための一つの手段でしかないと考えているからだ。現代におけるモンテーニュ研究の第一人者であるG.C.ホーマンズは「モンテーニュと現代社会」という講演の中で、「エセーが出てから1676年まで、なぜカトリック教会の禁書に挙げられなかったか分かりません。生存中モンテーニュが無事であった原因は、彼がその外面において信仰を順守し告白して誠実にカトリック教会に連なっていたことにあるのかもしれません」と述べている。

 20世紀はまさにイデオロギー対立の時代だった。共産主義陣営が崩壊し、冷戦が終了したが、まだざまざまな対立の中で私たちは生きている。こうした時代の中で、モンテーニュの叡智から私たちはまだまだ多くを学ぶことができる。


10.自由への勇気

 エリック・ホッファー「魂の錬金術」の中に、次のような言葉があることを、北さんが指摘してくれた。北さんが立ち止まり、しばし考え込んだ個所だという。

<やりたいことを自由にできるとき、人々はたいてい互いに模倣しあう。独創性は意識され、強制されて生まれるものであり、いくらか反抗的な性質を帯びる。個人に無限の自由を与える社会は、往々にして薄気味悪いほどの類似性を示す。・・・模倣が社会全体に普及するとき、穏健な専制政治のような画一性がもたらされる。だから、完全に標準化された社会は、おそらく独創性に挑戦する十分な脅迫性をもっている>

 自由が画一性をもたらし、専制支配に終わるという逆説は、すでにプラトンが「国家」のなかで展開しているので目新しいことではない。そう考えて、私は読み流していたのだが、私も又、しばし立ち止まって考えることにしよう。

 ここでホッファーは「無限の自由を与える社会」と書いている。私がここで考えてみたいことは、「自由とは与えられるものか」ということである。たしかに「与えられた自由」もあるだろうが、それは本物の自由ではないのではないかという疑問である。

 本物の自由は与えられるものではない、「自由は自ら作り出すもの」というのが私の基本的な考えである。たとえば私が「自由に英語を話す」ためには、英語の勉強をしなければならない。人間は生まれながらにして自由であるというのはあたらない。自由は努力して獲得するものであり、それは創造され、達成されるべきものなのだ。

<自由な人間とは、何かをするとき梃子を据えるべき足場を自己の中に持っている人間のことである。権威やイデオロギーに頼るのは自分に自信がないからである。人間の尊厳は彼が精神的に自由であることの中にある。

 自由は与えられるものではない。それは人が心の中に作り出すものである。
 はじめから自由など存在しない。服従のなかに自由への道が開かれる。より忍耐強い完璧な服従が、より広大で深い自由を可能にする>(「人生についての21章」 題10章 自由について)

 これが「自由」に関する私の基本的立場なのだが、ホッファーが書いている自由は、こうした創造されるべき自由のことではない。それは「与えられた自由」のことである。与えられた自由とは、「自由を創造する前提」に過ぎないばかりではなく、その過剰はしばしば「自由」の敵でさえある。

 この意味で、<独創性は意識され、強制されて生まれるものであり、いくらか反抗的な性質を帯びる>というホッファーの言葉は正しいと言える。自由が模倣に終わるのは多く見られることだ。ただいささかの反抗的精神と、忍耐と勇気があれば、これを本物の自由へと変えることができる。

11.自由に適さない人々

 東京都教育委員会は卒業式や入学式のとき、君が代斉唱時に起立しなかったり歌わなかった教員300名余りの処分を発表した。そして、その中の137名に「再発防止研修」を受けさせるのだという。

 東京地裁の須藤典明裁判長は「繰り返し同一の研修を受けさせ、非を認めさせるなど公務員個人の内心の自由に踏み込めば、研修として許容範囲を超える。違憲の問題を生じる可能性が皆無とはいえない」としながらも、「現段階では具体的内容が明らかでなく研修後に賠償請求などもできる」として再発防止研修停止申し立てを却下した。「再発防止研修」は8月2日から始まる予定だという。

 かってこうした思想改造施設がソ連や中国にあったが、石原知事のひそかな願望は自分も毛沢東やスターリンのような絶対権力者になることらしい。こういう人が都知事をつとめ、しかも都民の支持や人気を得ているというのが日本の現状である。戦前とどれほど違うのだろう。 

 インド人のビジネスマンであるシャルマさんは、戦前の日本の学校に忠魂碑や国旗掲揚塔があったと聞かされて驚いている。しかし、国旗掲揚塔は現在もあるし、その前で行われた儀式も息を吹き返しつつある。卒業式で一斉に起立し国家を斉唱し、起立しなかったりうたわない教員が「再発防止研修」に送られると聞いたら、シャルマさんはもっと驚くだろう。「喪失の国、日本」から引用しよう。

<インドの学校にはそのようなものは一切ない。国旗などわざわざ掲げずとも、そこがインドという国であることを疑う者は誰一人いない。日本ではつい20年ほど前まで、公の祝日のたびごとにすべての家が、門戸に国旗を掲げたという。そういう風景を私ならずとも外国人が見たら、震え上がってしまいそうである。

 国を祝っているつもりでも、外国人の目には日本人以外の人間を拒絶しているように映るからである。何も知らない外国人がその日、日本にやってきたら、クーデターが起きて新しい国が誕生したと勘違いするかもしれない>

 エリック・フォッファーは「自由に適さない人々」が他人の自由をも圧殺し、結局息苦しい全体主義国家をつくり、戦争や粛正をもたらしたと書いている。1963年に出版された彼の処女作「波止場日記」から引用しよう。

<自由に適さない人々、自由であってもたいしたことのできぬ人々、そうした人々が権力を渇望するということが重要な点である。・・・もしもヒトラーが才能と真の芸術家の気質を持っていたなら、もしもスターリンが一流の理論家になる能力を持っていたなら、もしもナポレオンが偉大な詩人あるいは哲学者の資質をもっていたなら、彼らは絶対的な権力にすべてを焼きつくすような欲望をいだかなかっただろう。・・・自由という大気の中にあって多くを達成する能力の欠けている人々は権力を渇望する>

 自由に適さない人々は、権力者になるか、あるいは権力者の側について権力を行使する人間になろうとする。しかし、彼らの多くを待ち受けているのは、皮肉なことに権力に蹂躙される多くの犠牲者のひとりになる運命である。フォッファーの別の著作「魂の錬金術」からも引用しよう。

<自尊心に支えられているときだけ、個人は精神の均衡をたもちうる。・・・何かの理由で自尊心が得られないとき、自律的な人間は爆発性の高い存在となる。彼は将来性のない自分に背を向け、プライド、つまり自尊心の爆発性代替物の追求に乗り出す>

<自尊心が自身の潜在能力と業績から引き出されるのに対して、プライドはもともと彼らの一部でないものから引き出される。架空の自己、指導者、聖なる大義、集団的な組織や財産に自分自身を一体化させるとき、われわれはプライドを感じる。プライドは不安と不寛容によって特徴づけられ、敏感で妥協を許さない>

<ナショナリストがもつプライドは、他のさまざまなプライドと同様、自尊心の代用品になりうる。ファシズムや共産主義体制下にある民衆が盲目的愛国心を示すのは、彼らが個々の人間として自尊心を得ることができないからである>

 彼らはいずれ自分たちも抑圧され、収容所に入れられるとは考えない。そうした可能性を考えるだけの思考力もなく、また肝心の想像力も持たない。自由に適さない人間の多くはそうした人たちである。

 自由に適する人間を作り出すことこそ、民主主義教育の目標であり、使命であろう。しかし、日本には自由に適さない人々がまだ大勢いる。そういう人々が、石原知事を支持し、「再発防止研修」を歓迎するのだろう。(2004,7,27)

(参考文献)
「喪失の国、日本」 M・K・シャルマ 文芸春秋社

(参考文献) 「波止場日記」 エリック・ホッファー みすず書房
        「現代という時代の気質」 エリック・ホッファー 晶文社
        「エリック・ホッファー自伝」 エリック・ホッファー 作品社
        「魂の錬金術」 エリック・ホッファー 作品社
        「エセ−」 原二郎訳  岩波文庫(全6巻)

「エリック・ホッファー」をめぐる対話

2003年6月17日〜 2003年7月6日


頭脳が浄化された (北さん)

なかなかすごい言葉が詰まっている本ですね。
今朝は頭脳が浄化されたような感じがします。

<自由に適さない人々、自由であってもたいしたことのできぬ人々、そうした人々が権力を渇望するということが重要な点である。・・・もしもヒトラーが才能と真の芸術家の気質を持っていたなら、もしもスターリンが一流の理論家になる能力を持っていたなら、もしもナポレオンが偉大な詩人あるいは哲学者の資質をもっていたなら、彼らは絶対的な権力にすべてを焼きつくすような欲望をいだかなかっただろう。・・・自由という大気の中にあって多くを達成する能力の欠けている人々は権力を渇望する>

面白いですねえ。
私は「自由に適する人」になりたいです。

自由に適する人を育てよう (橋本裕)

政治の問題を考えていて、結局これは「自由と権力」の問題だと考えるようになりました。そうしたとき、フッファ−に出会って、ずいぶん教えられました。
教育とは結局「自由に適する人間」を育てることではないかなと考えています。現在の教育はその反対ですが・・・
世の中には「自由」よりも、お金や権力を欲しがる人が多すぎます。そしてそうした人たちは、お金や権力をどうやったら手に入れられるか、それを教えるところが学校だと思っているのです。

「知識人」と「プライド」 (北さん)

エリック・ホッファーの言葉は実に味がありますね。
深い人生観がこめられていてそのくせ語り口が平易で常識的なのは、バートランド・ラッセルの言葉と似ているように思いました。

<知識人は自己の有用性と価値とに自信がもてないために、とてもプライドなしには立っていけないのであり、普通は国家とか教会とか党とかいったある緊密なグループと自己を一体化してプライドの根拠としているのである>
<私の言う知識人とは、自分は教育のある少数派の一員であり世の中のできごとに方向と形を与える神授の権利を持っていると思っている人たちである。知識人であるためには、良い教育を受けているとか特に知的であるとかの必要はない。教育のあるエリートの一員だという感情こそが問題なのである>

この二つは連続して書かれているものだと読めますから、分割しないで引用したほうがいいと思いました。この二つの言葉で、見事に「知識人」と「プライド」の意味が検証されています。
ここで使われている「プライド」は、「所属することによる優越感」ということですね。
こいつが一番タチの悪い人間の感情だと思っています。



「知識人」補足 (橋本裕)

<知識人は自己の有用性と価値とに自信がもてないために、とてもプライドなしには立っていけないのであり、普通は国家とか教会とか党とかいったある緊密なグループと自己を一体化してプライドの根拠としているのである>
これは8月24日の日記に出てくる文章です。

<私の言う知識人とは、自分は教育のある少数派の一員であり世の中のできごとに方向と形を与える神授の権利を持っていると思っている人たちである。知識人であるためには、良い教育を受けているとか特に知的であるとかの必要はない。教育のあるエリートの一員だという感情こそが問題なのである>
これは一番手前、つまり「序」の中に書かれた言葉です。
ひとつながりの文章ではなく、私が順序をいれかえて編集しました。

エリック・ホッファーは「知識人」についての考察を、この他、日記の至る所に分散させて書いています。また、他の著作「現代という時代の気質」の中にはこう書かれています。

<知識人を形づくるのは実際の知的優越性ではなく、知的エリート層に属しているという感情である。事実、知識人の主張する知的優越性が無効になればなるほど、彼は典型的な知識人となるのである>

「維持すること」は「単調さに耐えること」 (北さん)

ホッファーの言うことはとてもよく分かります。

<維持するよりは築く方が容易なのだ。活気のない、衰弱した国民でさえ、なにか感動的なことを達成するためにしばらくのあいだ活気を帯びることがありうる。だが、二六時中物事を良好な状態にたもつために費やされるエネルギーは、真の活力をもったエネルギーである>
植物は一年中花を咲かせ、実を結んでいる訳ではない。それは全体から言うと、ほんの一部の時期である。ときには葉さえ落として、あたかも枯れ木のような淋しい姿で生きているときもある。しかし、彼らはそうして生命を維持している。成長・発展を支えているのは、こうした日ごろの地味な活動である。

ホッファーは世界の動きの本質を観ていると思います。
これを読んで、ラッセルの「幸福論」の中の私が一番気に入っている「退屈と興奮」の章を連想しました。

「偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいるし、古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた」
「子供が最もよく育つのは、若木の場合と同様に、いじりまわされないで同じ土壌の中に置かれているときである。多すぎる旅行やあまりにも多彩な印象は、幼いものたちにとってよくないし、大きくなるにつれて、実りある単調さに耐えることができなくなってしまう」
この「実りある単調さ」は後で「実りある退屈」という、私の大好きな素晴らしい言葉になります。

「維持すること」は「単調さ」に耐えることでしょう。
その「退屈さ」を「実りあるもの」とできるかどうか・・・
ホッファーの言葉は、ラッセルの言葉と質的にとても似ていると思います。


フランクリンの父親 (北さん)

今日の日記を読み、ホッファーのことを考えていて、ベンジャミン・フランクリンの父親のことを思い出しました。
英語の勉強として読んでいたホーソンの「伝記物語」の中に書いてあったことです。
一番印象に残っているのが、少年フランクリンの悪戯に対する父親のすばらしい説教でした。その時の父親の言葉をフランクリンは生涯忘れずにいたというエピソード。
その父親というのは、学識があり清廉潔白の士で、町会議員や名士たちが州の行政について頻繁に相談に来るようなすごい人格者なのです。
しかし、その父親の仕事は、石鹸や蝋燭を製造している「賎しい職業」だったというのです。
1716年の話ですから、大昔ですが、読んだとき、そんな「賎しい職業」の男のところにどうして政治家たちが相談にくるのかと不思議な感じがしました。
日本ではちょっと考えられないようなことですが、アメリカという国では、そういう人がいるのですね。
ホッファーのような人もまだまだいるのかもしれません。
実に興味深いことです。
「波止場日記」しっかり読ませてもらいます。


フランクリン自伝(橋本裕)

 私も読みましたよ。「フランクリン自伝」(旺文社文庫)夏休みの課題図書の一冊でした。今も大事に持っています。

 ホッファーは独学で物理、化学、生物学なども勉強しています。生物学の知識を利用して、当時流行していたレモンの伝染病の原因をつきとめ、カルフォルニア大学の研究所の教授から研究員のポストを用意されたこともありました。しかし、彼はこの問題を解決するとすぐに放浪生活に戻ったということです。科学者であったフランクリンと共通する一面がありますね。

 ホッファーが「大衆運動」という最初の本を出したとき、これを独創的な研究だとして激賞した人がいました。それがバートランド・ラッセルでした。他には「人間の条件」の著者のハンナ・アレントがこれを礼賛しています。彼女はわざわざサンフランシスコに来て、ホッファーと語り合ったということでした。

勇気 (北さん)

<「人生で必要なのは希望ではなく勇気だ」と熱心に説いたが、相手には通じなかったらしい。>
<自己欺瞞なくして希望はないが、勇気は理性的で、あるがままにものを見る。希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は長い。希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかるのはたやすいが、それをやりとげるには勇気がいる。闘いを勝ち、大陸を耕し、国を建設するには、勇気が必要だ。絶望的な状況を勇気によって克服するとき、人間は最高の存在になるのである>
実に深い言葉だ。
村上龍が「希望の国のエクソダス」で、
「この国には何でもある。ただ希望だけがない」
なんていう気の利いたコピーみたいな言葉を流行らせたけれど、
ホッファーに言わせれば、村上龍はダメということだ。
「この国には何でもある。ただ勇気だけがない」
こうでなければならない。

チャプリンも言ってましたよね。
「人生で大切なもの3つ。
勇気と想像力とちょっぴりのお金。」と。

希望でなく勇気(北さん)

ゲーテの詩に対するホッファーの態度を描いた一節を、是非読みたいと思います。
ホッファーの自伝、貸してください。
希望と勇気の関係について描かれたホッファーの言葉は、私としては久しぶりに出会った素晴らしい言葉でした。

エリック・ホッファーのこと (渚の王子様)

このところ橋本さんが紹介されている、エリック・ホッファーについて、僕は全く知りませんでした。僕が2年半暮らしたサン・フランシスコの波止場で、彼のような素晴らしい人が、肉体労働者として働いていたとは、本当に驚きです。

<人生の意味や意義はそれぞれの人が自らの内部で作り上げるものだということに気づくはずである。人間だけがこの自由を手にしていて、創造的に生きることができるのである。人生に意味を与えるのは自分自身であり、大切なのは自分自身の決断や、生き方なのである。人間は自分を変える自由を持っている>

これは橋本さんの言葉のようですが、これを全く地で言ったのがホッファーだろうと思います。彼個人が凄い人なのは"needless to say"ですが、こういう個人が人知れず存在する米国という国の、底知れぬ力を感じずにはいられません。日本人は、まだまだ「個」において弱いですね。イチローや松井の活躍は見事ですが、あれは特異な例だと思います。

エリック・ホッファーを紹介して下さり感謝します。僕も時間を見付けて、「波止場日記」等読んでみたいです。今のところは「仏蘭西」で頭が一杯ですが。

「仏蘭西旅日記」がたのしみ (橋本裕)

アメリカは魅力的な国ですね。自伝をよむと、ホッファーのような個性的な人がたくさんいたようです。アメリカ社会の底力を感じます。

<私は欠点や欠陥にみちた社会に生きている。しかし、この社会はすべての人に好きなことをさせる十分のゆとりをもった社会である。・・・干渉されることなく自己の能力と才能を発揮したい人にとっては、この国(アメリカ)は理想的な国である>(波止場日記)

そんなアメリカに留学された渚の王子様も随分個性的だと思います。
「仏蘭西旅日記」がたのしみです。

「教養人」とは「自由に適する人」 (北さん)

「自由に適する人」・・・本当にいい言葉ですね。
娘は中学校の先生方の忙しさにあきれていましたが、生徒との関係はとてもよかったらしく、可愛い、可愛いと言いながら、楽しそうに実習を終えました。
担当教官から、あなたは教員に適していると言われたらしく、喜んでいました。4週間よくがんばって帰っていきました。
「自由に適する」ことも、学ぶ必要があると思います。
それを学んだ人が、真の「教養人」ではないでしょうか。

自由と勇気、対話の大切さ(橋本裕)

ホッファーを読んでいて、「自由」や「勇気」ということの大切さを教えられました。それから、「自分との対話」の大切さです。ホッファーはこう書いています。

<自分自身との対話をやめるとき、終わりが訪れる。それは純粋な思考の終わりであり、最終的な孤独の始まりである。注目すべきは、自己内対話の放棄がまわりの世界への関心にも終止符をうつということだ。われわれは、自分自身に報告しなければならないときだけ、世界を観察し考察するようである>(魂の錬金術)

 プラトンは「考えること自分自身との対話だ」と言っています。自分と実りのある対話ができる人間だけが、他者ともまた実りある対話ができる。教養とはなにか。それは「対話すること」だとも言えそうです。


人間味のあるホッファー(北さん)

「波止場日記」を読むと、ホッファーという人にとても親しみ、人間味を感じます。
すごい言葉を書く人、仰ぎ見るだけの人、と思っていたけれど、例えば、論文が「ニューヨーク・タイムズ」に採用されて喜ぶ自分を抑えているような個所
「・・・今読み直してみると、その長所がわかる。そして、懸念していたよりもよかったという事実によって、今後私は自信過剰になりそうである。当然不安に思わなければならないことをも無視してしまうかもしれない」(1月30日)
などを読むと、ほほえましいような面を感じます。
「謎がある。自分自身に十分満足できる場合には、人々が私を温かくむかえ重んじている、と感じる。自分でも納得できる理由があるので、それに影響されて、他人への態度も寛大になり、したがって他人の反応もそうなるのかもしれない。また、他人がわれわれの内心を感じ取るとか、かぎつけるとかいうこともありうる」
(2月4日)
こういう個所を読むと、ホッファーという人は本当に「他者」と接して思索している人だなあと思いました。並みのインテリではないですね。

何かをしない自由(橋本裕)

<自由の主要な目的のひとつは、人はまず一人の人間であるという実感を抱かせることである。人びとが自分を労働者、実業家、知識人、あるいは教会、国家、人種、政党の一員であることを第一とするような社会秩序には、純粋な自由が欠如している>
(ホッファー「魂の錬金術」)

ホッファーは自分で考える事の出来る人、しかも自分や他者の経験から多くを学ぶことができる人ですね、いわゆる「知識人」とはこの点でちがっています。

彼は「大学という言語工場から吐き出される空虚な言葉の霞」が大気汚染のように社会を汚染し、若者たちを堕落させていると書いていますが、彼自身の言葉には空虚なひびきが全くありません。人生がつまっているという感じです。

ホッファーは「何かをする自由」よりも「何かをしない自由」があるかどうかが社会の試金石になると書いていますが、なるほどと思いました。「何かをしない自由」というのはたしかに大切ですね。

「何かをしない自由」を守るために「何かをしよう」と発想するアメリカ (北さん)

「何かをしない自由」というのは「傍観の自由」であり、本質的にはアナーキズムでしょうね。私もそういう「自由」が大切だと思います。ひょっとすると、アメリカという国は、そういう「自由」を包含しながら「国家」という人間集団を作ろうとした初めての国かもしれない、と思いました。
 アメリカ人が何よりも大切にするのが「自由」。しかし、「何かをしない自由」を土台にしては「国家」はできない。
そこで「自由な国」アメリカを建設するために、「自由を守るためにまとまろう」という思想が生まれた。
自由を守るために、個人の自由を犠牲にして国家を建設しよう。
「何かをしない自由」を守るために、何かをしよう。
アメリカ人は、そういう発想で、彼らの「誇り」というものを作り上げた。
「戦場にかける橋」を観ると、そういうアメリカ人の「誇り」が、イギリス人の「誇り」と対比されていました。
「自由」を守るために、「何かをしない自由」主義者であるアメリカ人ウイルアム・ホールデンは、最後には戦場に戻るわけです。

自由いいですね。(eichan)

私はできるだけ自由に生きてきました。
逆に言うと束縛されるのが大きらい、人に言われてやるのが大きらい。
ただのわがままといわれればそれでいい。
そんな自由人が会社で生きて来れたのだから、これがまた不思議。
上司にへつらうことはまったく嫌いで、そういう輩には毛嫌悪感をもよおす。
自分より目上の人と、部下とに言葉の差をつけない。
人間は自由でなければいけない、平等でなければいけないと思うから。
自由大好き!!

学校は嫌いだった。
自由を束縛されるから。
だから、高校の頃、よく学校を休んだ。
「もっと真面目にしなさい。」という人がいた。
でも、学校にきちんと行くことが真面目とは思わなかった。
学校の授業はつまらなかった。
今でも思い出すが、高校2年の時、月曜日1時間目の現代国語の授業は最悪だった。
だから、授業には出なかった。
「授業に出ない自由がある。」と思った。
「高校は義務教育じゃないから、いやな授業には出る必要はない。」とみんなの前で公言した。
大学に入ったら、みんなも余り授業にでなかった。
だから、逆に私は普通になった。

「学ぶ喜び」の共有 (橋本裕)

<教育の主要な役割は、学習意欲と学習能力を身につけさせることにある。学んだ人間ではなく、学びつづける人間を育てることにあるのだ。真に人間的な社会とは、学習する社会である。そこでは、祖父母も父母も、子供たちもみな学生である>(魂の錬金術)

 先生も学生だという認識が必要ですね。ともに学ぶ者として、生徒に向かい合うことで、教師は生徒に学びの喜びを伝染できるのだと思います。
今日学校で行われているのは「共感教育」ではなく、「反感教育」ではないかと恐れています。

<若者が教えるのに忙しく、自ら学ぶ時間をもっていないということ、これこそ現代の病癖である>

ホッファーは「魂の錬金術」にこう書いていますが、私は「教師が教えるのに忙しく、自ら学ぶ時間をもっていない」ということ、これこそ現代の病癖ではないかと思っています。

(追伸)

<若者が教えるのに忙しく、自ら学ぶ時間をもっていないということ、これこそ現代の病癖である>

 これは若者は<教えられるのに忙しい>の方が文意が通ると思うのだが、中本義彦氏の訳文は<教えるのに>となっている。いつか原文にあたってみたいと思っている。いずれにせよ、現代の教育のもっとも大きな弊害は、「教えられ過ぎること」であり、「自ら学ぶことが少ない」ということである。ホッファーに真意もそうだと思う。

日本人の「誇り」は、ホッファーの「プライド」に近い (北さん)

ホッファーは「プライド」と「自尊心」をはっきり対比させて使っています。
普通は同一の意味で使うけれど、ホッファーの文章を読むと、その使い分けが納得できます。
<何かの理由で自尊心が得られないとき、自律的な人間は爆発性の高い存在となる。彼は将来性のない自分に背を向け、プライド、つまり自尊心の爆発性代替物の追求に乗り出す。
自尊心が自身の潜在能力と業績から引き出されるのに対して、プライドはもともと彼らの一部でないものから引き出される。架空の自己、指導者、聖なる大義、集団的な組織や財産に自分自身を一体化させるとき、われわれはプライドを感じる。 >
実に見事な指摘です。
ここで言う「自尊心」を、日本人で最初に、最も重視したのは福沢諭吉だと思います。
「独立自尊」という言葉を使い、「一片の独立は生命よりも重し。これを妨げんとするものあれば、満天下の人も敵に取るべし。親友の交わりも絶つべし」という激烈な言葉を残している。
あの時代に、彼ほど鋭く「架空の自己、指導者、聖なる大義、集団的な組織や財産に自分自身を一体化させ」て、それを「誇り」としていた日本人を批評した人物はいないのではないでしょうか。
日本人の「誇り」は、ほとんどホッファーの言う「プライド」に近い。
日本人の誰かがいい記録を出したりすると、「日本人として誇りを感じます」なんて言葉をよく聞きました。
私もこれから、「プライド」と「自尊心」と「誇り」という言葉を、ホッファーに倣って使い分けたいと思いました。

独立自尊の人、ホッファー (橋本裕)

 ホッファーのいう「プライド」は北さんのいうように「誇り」という日本語に置き換えてもいいですね。つまり、プライドの訳が「誇り」ですね。自尊心は「セルフ・エスティーム」だと思いますが、これはホッファーの原文を知りたいところ。

 いずれにせよ、自尊心は自己に根拠を持ち、誇りは自己の外に存在する者との一体化のなかで生まれる、つまり自己自身以外にに根拠を置くというのがホッファーの考えです。

 これは以前に北さんと議論して、私たちが到達した結論と同じですね。ホッファーを読んでいると、こうした体験をよくします。

 福沢諭吉は「独立自尊」を言いましたが、まさにホッファーこそ「独立自尊」の人だということができます。以前のアメリカにはこうした逞しい精神が漲っていたのでしょうね。