ソウル大学奎章閣韓国学研究院は25日に記者会見を開き、韓国併合条約の韓国・日本側文書だけでなく、李完用(イ・ワンヨン)を条約の全権委員に任命する勅諭、併合条約締結を両国が同時に発表するようにした覚書も、すべて同じ書体で作成されていたことが明らかになったと説明した。特に、併合条約と両国皇帝詔勅公布覚書については、版本中央部分(版心)に「統監府」と印刷されており、これら文書をすべて統監府関係者が作成していたことが分かると指摘した。
併合条約の両国文書が書体など物理的・外形的に同じ特徴を複数持っているという事実は、昨年、ソウル大学国史学科のイ・サンチャン教授の研究結果を通じて明らかにされていたが、併合条約に関係する別の文書まで書体が同じだということは、今回初めて公にされた。
日本が李完用を全権委員に任命するよう大韓帝国皇帝・純宗に圧力をかけ、韓日両国がそれぞれ作成すべき条約文をねつ造し、条約を両国が同時に公布するよう強制した、という3つの事実が、今回の資料分析で明白になったことになる。
また研究院は、併合条約が締結された1910年8月22日、内閣総理大臣・李完用を全権委員に任命する任命状が至急文書として扱われていたことから、純宗は最後まで日帝の圧力を拒否しようとしていたと解釈できると説明した。
今回公開された資料は、奎章閣と国立古宮博物館が29日から奎章閣で開催する「100年前の記憶、大韓帝国」で一般にも公開される。
同時に展示される「閣議提出案目録」からは、寺内正毅朝鮮総督が内閣総理大臣の桂太郎に宛てた「秘朝鮮総督報告韓国併合始末」とは異なり、大韓帝国内閣会議では関連案件がまったく扱われていなかったことも確認できる。このほか、日本公使館が高圧的に要請した荒地開墾権の委任を2度にわたり拒否した、当時の外務大臣・李夏栄(イ・ハヨン)の回答も公開される。当時の大韓帝国の自主意識がうかがえる資料だ。
公開された資料。一番下の覚書には、版心に「統監府」と印刷されている=25日、ソウル(聯合ニュース) |